善寧児(ジェンナー)先生碑と 文化財建造物群を歩こう (町田市相原地区) 横浜線相原駅周辺約2キロメートルの区間には、6棟もの市指定文化財が集中しています。東側から清水寺3棟、青木家屋敷に1棟、線路を越えて西側長福寺に2棟の文化財が指定されています。どの建造物にも贅をつくした彫刻が施され周囲を圧倒しています。駅の西口を降り、地元ボランテアの皆さんが作った「朱雀道」を歩けば、相原窯跡群や鎌倉古道にも辿り着けます。 2005.1.30作成 ![]() ![]() 清水寺の境内 清水寺境内(カシの群落 シラカシ・アラカシ・ツクバネガシ・アカガシ) ![]() ![]() ツクバネガシ ![]() ![]() 町田市「重宝」 清水寺観音堂 観音堂は相武第27番の札所 嘉永3年(1850) 再建 ![]() ![]() 町田市 「重宝」 ![]() ![]() 水鉢に「天保□酉」とあることから天保8年(1837) 六地蔵 明和3年(1766) 頃の建立と思われます。 「當村 秋葉講中」 ![]() ![]() 町田市「重宝」 鐘楼 崩壊が続く観音堂前の宝匡印塔 天保13年(1842)の建立 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 善寧児先生碑 善寧児先生碑の裏面 青木得庵(1814〜1866) 江戸時代、天然痘は最も恐ろしい伝染病の一つで、多くの人命が奪われていました。 嘉永二年(1849)大阪では適々斎塾を開いていた緒方洪庵が、江戸では伊東玄朴が種痘の実験に成功しました。玄朴は幕府の許可を得て神田お玉ヶ池に種痘所を開設しました。後にここが幕府の西洋医学所となり、緒方洪庵が呼ばれて頭取となりました。 東大医学部の前身です。 青木得庵は漢方医太田覚庵に医学を学び長子、玄礼(げんさつ)は蘭医伊藤玄朴(げんぼく)の私塾「象先堂」に入門しました。得庵は牛痘接種による天然痘予防術を学び痘苗を持ち帰えりました。そして痘苗を末子桃吉に接種したのでした。人々は「疱瘡の膿を植えるのだ、牛になる」などと流言が飛び交いその苦心は一通りではありませんでした。得庵は多摩、津久井。高座、愛甲郡などの農民に対し、天然痘の予防には種痘がどんなに必要かを、ねばり強く説いてまわり広めてゆきました。 清水寺の境内、観音堂の隣にはジェンナーの功績を讃え、また得庵の霊を慰めるため明治25年4月「善寧児先生碑」が建立されまいた。 明治3年 種痘が施行された頃の様子 明治大正昭和大絵巻の一部 昭和6年1月1日発行 キング 第7巻 第1号付録 定価キング新年号と共に 金七十銭 所蔵 津久井郡郷土資料館 ![]() ![]() 青木家屋敷入り口の石橋 青木家屋敷 諏訪神社の水屋 ![]() ![]() 諏訪神社 水屋 水鉢 ![]() ![]() 町田市 相原 長福寺の参道 ![]() ![]() ![]() 庚申塔 明和3年7月吉日 地蔵塔 天明3年1月 (1766) (1783) ![]() ![]() ![]() 町田市「重宝」 文殊堂 文久2年(1862) 下り竜 上り竜 ![]() ![]() 町田市「重宝」 山門 文久2年(1862) 山門 丹沢の七沢石でできている礎盤(そばん) ![]() ![]() 本堂に向かって左側の扉 右側の扉 竹林の中、酒肴を持つ童子と楽しそうに楽器を奏でる七賢人 ![]() 横井戸から池に流れ込む飲料水 町田市指定 「重宝」(絵画) 格天井(ごう天井) 長福寺本堂の天井に色鮮やかな35枚の天井画があります。天保13年(1842)の秋に長谷川雪提が描いたものである。雪提は文政、天保年間に著名な「江戸名所図会」や「東京歳時記」を描いた長谷川雪旦の子で、父の没後を受けて「江戸名所図会」の挿絵を描いたほか画家としてもひろく知られている。 杉の柾板(まさいた)にこれらの花丹図を描くにあたって、雪提は中相原の青木家に逗留して完成したという。当時、青木易直は長福寺や清水寺の諸堂の建築監督にあたったといわれており、それはまた青木家の戸棚に雪提の絵が2枚現存していることからもうなずける。 町田市史 下巻 1636Pより ![]() ![]() 諏訪神社境内の水屋 清水寺の水屋 天保8年(1837)の建立 町田市指定 「重宝」 戻る |