咢堂の木の下で
追加  2012・8・2 串川公園咢堂桜樹周調査 
追加  2016・5・21 青根小学校の現状を追加
平成4年3月27日、里帰りしたサクラの苗32本が尾崎咢堂の故郷津久井に植えられました。サクラはあのワシントン市からの贈呈でした。
 1912年3月27日タフト大統領夫人が最初の苗木を植樹し、2本目は駐米日本大使珍田子爵夫人が植樹をされました。今から93年前の出来事でした。今やサクラはワシントンの名所となって多くの皆様に親しまれています。
 「みんなで守る 自然と文化  第9号 特集さくら 昭和47年4月発行」の中で加藤書久さん(当時 国際観光振興会ニューヨーク観光宣伝事務所)は「ワシントンの桜 −その現状と保護対策ー」と題して興味深いレポートを発しておられました。おわりにと云う項でこんなふうに云っておられます。
(前文省略)
 ワシントンの桜が日本の桜よりどうしてよく保存されているのか、その理由について、ナショナル・パーク・サービスの担当者と意見交換してみた。その結論は、常識的ではあるが、次のとおりである。
(一)管理責任の明確性。1912年の桜の日本からの輸入以来、首都ワシントンの桜ということもあって、一貫して、連邦政府がその維持管理をおこなってきたこと。
(二)戦争の影響。第2次大戦中、日本国内の桜の受けた被害は大きく、管理も充分行なわれなかった。しかし、戦後20年もすれば、やる気さえあれば、復旧は充分に行なわれた筈である。いずれにしても、ワシントンでは、一貫して保護が行なわれ、戦争中でも中断することがなかったこと。
(三)観光資源として重要視。ワシントンの桜まつりは、同市最大の年中行事の一つであり、多くの観光客を集め、市民が桜を観光資源として重要視していること。
(四)大気汚染の影響。政治、観光都市であり大工場を市内、近い周辺にもたないワシントンに比べ、東京は大気汚染の度合いが大きい。大気汚染の桜等の樹木に与える影響は研究中であるが、その影響があることは確かであろう。
                今、咢堂桜32本の行方をさがしています。
                     ご存知の方は教えて下さい。


 城山町広報誌「プリニーズ」 平成4年5月号より
津久井に広がれ 咢堂桜
 平成4年3月27日、保健福祉センターで「咢堂桜」の記念植樹式が、北島町長、菊地原会長(尾崎行雄を全国に発信する会)や20人が出席して行なわれました。この桜は、津久井町出身で約60年間にわたり衆議院議員として活躍した尾崎行雄(咢堂)が、東京市長も務めていた1912年に日米友好のあかしとしてワシントン市に贈り、里帰りして津久井町にわたった32本の桜の苗木の1本。菊地原会長ら同会では「郷土の偉人の功績を広めよう」と、郡内の相模湖町や藤野町にも寄贈する予定
                                                        撮影2005.3.5
        
    
津久井町 又野 尾崎記念館前の咢堂桜                 城山町健康福祉センタ前の咢堂桜

                    
             
満開の咢堂桜 撮影2005.4.10            津久井町串川運動公園の咢堂桜
                
                                
満開の桜を撮影しようと尾崎記念館と串川運動公園の桜を訪ねましたが
                     未だ咲いていませんでした。品種は「普賢象」と記載がありました。

                                                   撮影2005.4.23日
                   
                 
尾崎記念館前の咢堂桜             町串川運動公園の咢堂桜

   咢堂桜の現状                     
確認日  2006・4・7
    
番号 植樹場所の名称 品  種 本数 樹周(地上1・3m) 植樹場所の住所 備 考
中野小学校 御衣黄 1 93cm 相模原市津久井町中野 1
中野中学校 御衣黄 1 119cm 相模原市津久井町中野 1
尾崎咢堂記念館 普賢象 1 64cm 相模原市津久井町又野 1
津久井又野公園 染井吉野 1 91cm 相模原市津久井町又野 1
中央小学校 普賢象 1 124cm 相模原市津久井町三ヶ木 地上20cmで測定
6・7 青野原小学校 関山 2 68cm・68cm 相模原市津久井町青野原 1
相模原市青野原出張所 御衣黄 1 20cm 相模原市津久井町青野原 1
青野原中学校 御衣黄 1 68cm・68cm 相模原市津久井町青野原 1
10 青根中学校 普賢象 1 61cm 相模原市津久井町青根 1
11 青根小学校 関山 1 75cm 相模原市津久井町青根 追加 2016・5・21
12 鳥屋中学校 御衣黄 1 41cm 相模原市津久井町鳥屋 1
13 鳥屋小学校 御衣黄 1 46cm 相模原市津久井町鳥屋 1
14 青山神社境内 関山 1 31cm 相模原市津久井町串川 1
15 串川運動公園 普賢象 1 96cm 相模原市津久井町串川 経過調査 2012・7・29樹周 119cm
16 串川小学校 御衣黄 1 83cm 相模原市津久井町串川 1
17 串川中学校 御衣黄 1 11cm 相模原市津久井町串川 1
18 根小屋小学校 染井吉野 1 68cm 相模原市津久井町根小屋 1
19 伏馬田城跡 1 1 1 津久井郡藤野町 1
20 相模原市青根出張所 1 1 1 相模原市津久井町青根 1
21 相模原市鳥屋出張所 関山 1 62cm 相模原市津久井町鳥屋 撮影2006・7・22追加
22 県立城山高校 1 1 1 津久井郡城山町城山 1
23 県立津久井高校 1 1 1 相模原市津久井町三ヶ木 1
24 1 1 1 1 千葉県銚子市 1
25 1 1 1 1 1 1
26 1 1 1 1 1 1
27 1 1 1 1 1 1
28 保健福祉センタ 染井吉野 1 122cm 津久井郡城山町久保沢 1
29 1 1 1 1 旧津久井郡藤野町 1
30 1 1 1 1 旧津久井郡相模湖町 1
31 1 1 1 1 1 1
32 1 1 1 1 1 1

                                                                                     撮影2006・4・7
    
城山町保健福祉センタ   根小屋小学校        中央小学校     鳥屋中学校       鳥屋小学校


    
 
中野中学校          中野小学校     津久井又野公園    串川中学校       串川小学校

    
 尾崎咢堂記念館      青山神社境内(奥の石段右側) 青野原中学校    青野原小学校   相模原市青野原出張所殉国碑

    
青根中学校          青根小学校       鳥屋支所           青根小学校  撮影 2016・5・21

  
三熊露香(江戸時代後期の女流画家)の「桜花藪」より 三十六品種の桜花 
      
  とらのおざくら   じぬしざくら    やえあさぎざくら  べにこざくら   ろうかんざくら  やまざくら

 
      
   こざくら     いとざくら    かさねこざくら  えぞざくら     きりがやざくら   においざくら

      
  あけぼのざくら   しおがまざくら  みよしのざくら  ひとええぞざくら  いりあいざくら  ふげんどうざくら

      
  だいぜんざくら   ようきひざくら   しぐれざくら    においざくら   やえざくら     ひとえあさざくら 

      
   かばざくら    ありあけざくら   ときわざくら             よしのざくら   あおばやまざくら

      
 ほうりんじざくら   いせざくら    かさねいとざくら  うばざくら    ひとえいせざくら   あかばやまざくら

          みんなで守る 自然と文化  第9号 特集さくら P26〜39 昭和47年4月 財団法人 観光資源保護財団
          伊丹市国際交流協会(ワシントン桜物語)
                                    


         尾崎咢堂と石川啄木
               
           啄木(右)と金田一京助(左) 明治41年10月撮影     「あこがれ」  明治38年発行
              巻頭
              「此 書 を  尾崎行雄氏 に献じ併せて遥かに 故郷の山河  に 捧 ぐ」
                                     昭和3年発行 改造社 「石川啄木全集」より引用

            石川啄木の存命中では最初で最後の詩集「あこがれ」が世に出たのは、1905年(明治38年)5月、
           啄木19歳の春である。その巻頭に、「此書を尾崎行雄氏に献じ・・・」とある。」◆当時の東京市長だっ
           た尾崎に啄木は出版の助力を請い、尾崎は名刺に出版社への紹介文を記して、面識のない無名の
           青年に与えた。詩集の献辞には感謝の気持ちがこめられている◆のちに「憲政の父」と呼ばれた尾
           崎が、好んで色紙に書いた言葉がある。「人生の本舞台は常に将来にあり」。詩集の夢に奔走する青
           年に、将来の本舞台へひたむきに歩む人の情熱を見たのかも知れない。
                              平成15年8月22日 読売新聞 コラム「編集手帳」より引用


                
                                 相模原市大島
               大嶋坂 憲法記念 金森徳次郎書 裏面 昭和二十二年六月一日 竣功
                                        大嶋部落一同
                                  
                尾崎咢堂と憲法
                 ・・・私も多年の平和論者であるが、正直に言って、かくまでに徹底してはいなかった。
                私はこの原案の作成者と、この原案の冒頭に「日本国民は正義と秩序を基調とする国
                際平和を希求し」という文句を加えて、これを可決した議会に心から敬意を表する。

                                尾崎行雄『民主政治読本』(昭和21年)
                                『尾崎咢堂全集第十巻』38頁より。


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