新しい町・佐原木町
佐原木町の開発
 嘉永7年(1854)神奈川で結ばれた日米和親条約で日本は開国し、続いて調印された安政5年(1858)の日米修好通商条約により外国との交易が開始されることになりました。横浜はこの時貿易の窓口の一つに選ばれ、幕府はこの地で営業する商人たちを募りました。上川尻村久保沢町で酒造・醤油造・その外諸物を商っていた名主の兵助は、久保沢が横浜との交通に便利であったことから、同6年2月神奈川奉行に出店を希望し許可されました。横浜での貿易は飛躍的な発展をみせ、国内の流通に支障をきたすほどのものでした。このように経済が新たな変化を迎えた中で、上・下川尻村の人々は村の発展を願い、かって栄えた市の再建を計画しました。
     
      国内の流通に支障をきたす
      万延元(1860)年3月19日、幕府は雑穀、水油、蝋、呉服、生糸の神奈川直送を禁じ、
       江戸問屋経由を命じる。(五品江戸回し令)


 元治2年(1865)4/7改元 4月上川尻村の村役人たちは領主の旗本藤沢氏に市の再建を願い出ました。それは上川尻村久保沢は3の日、下川尻村は7の日の市を復興し、慶応6月7日より再開することといしています。久保沢の市再開は以前の場所での復興にとどまらず、新たな町を開発することになり、久保沢に隣接した字清水通り(現在この地は新地と呼ばれている)に決定されました。佐原木町の誕生です
     資料 城山風土記 第2号 「近世文書を読むために」 発行 城山町史編纂委員会 平成6年3月 より引用

 「佐原木町記」の始めの部分には「・・・町並みに御開巷佐原木町と称えべき旨、並びに市再建に付き惣百姓どもへ箇条申し渡す・・・・」とまた、最後に「志摩守藤原次謙君仰せ渡され候也、証拠のため認(したた)め置く」と付け加えました。佐原木町の復興と地域の発展を願った人々の願いが目に浮かんできます。


                   八木薫さんの作図
  撮影2006・4・29

 川尻バイパスから見た旧佐原木町


 佐原木町の面影  昭和30年頃 


 囲炉裏端(いろりばた)
商家の内部(右上写真) 入口には囲炉裏があった。手を温めながらどんな話をしただろう、何か聞こえてきそうな気がしてきます。囲炉裏の縁を囲む木は、大正9年頃、勝瀬(相模湖の湖底に埋没)の親戚から筏を組んで運んで来た柿の木だそうです。商家の名は「下の中西」、「新地の中西」とも呼ばれ主に「瀬戸物」などを販売、賑わったと云います。



かつての佐原木町は真ん中に谷津川が流れていました。昭和3年頃、川を暗渠にして埋めました。上記の写真はオリンピックを前に昭和39年頃、再度地面を掘り起こし舗装にするための工事をしているところの貴重な写真です。特に三人の子供が写っている写真の道路の脇には水路も作られていました。また、この写真ではよく分かりませんが両岸の石垣の底部には松の木が使用されていた跡がみられます。
 こうした工法はぺりー来航によって急遽築かれた品川沖「お台場」の築堤法にも似ています。松材は水に強く腐らないため護岸工事等に利用されてきました。現在では、ほとんど護岸がコンクリートになっているため、こうした松材の使用箇所を見ることができませんが、僅かにその一部を境川の原宿用水取水口や小松川の護岸に確認することができます。


 「佐原木町記」の一部
                        資料  佐原木町の名称について

三人の苗字から表された「佐原木町」の町名
             「佐原木町記」より


 
佐原木町記 全 (表紙)







 右の条々申し渡す趣、請書申し付ける
   丑六月
         御請け
  右仰せ渡され候箇条の趣、役人ども
 始め小前
(こまえ)末々、地借(じかり)、店借(たながり)
            
 →者ども一同
 承知畏
(かしこ)まり奉り候、これに依り連印御請書
 差し上げ申すところ、仍って件の如し
               
御知行所
               相州津久井県
               上川尻村
               谷ヶ原組
              
  百姓   
                 市兵衛
                 
(以下210名省略)
    慶応元乙丑年六月
                
年寄 源兵衛
                   喜右衛門
 
御出役 佐々 周輔殿
 
小山村 原 清兵衛殿
 
村方  八木 兵輔殿

  比の請書宛て三人の苗字を以って
    佐原木町と称うべき旨
      藤沢家御七代目
 志摩守藤原次謙君仰せ渡され候也、証拠のため認め置く
                  佐々 周平
                 
 源懐義 花押 
                   

   

大正7年(1918)の
    久保沢宿

     
撮影 八木蔦雨
←久保沢町





←佐原木町
  (新地)



      

   作図 八木薫さん        慶応元年ノ図  大正3年作図               大正10年測図 

「御開巷」佐原木町の誕生
 
 「佐原木町記 全」より最初の部分
 
御開港横浜大絵図二編 外国人住宅図

        文久2年(1862)頃 部分  横浜県立博物館蔵
 安政6年正月16日、「神奈川・長崎・函館の三港が開かれることになったので、右の場所へ出稼ぎ、また移住して自由に商売をしたいと思う者は、その港の奉行所に届け出て許可を受けること」という命令が出されました。開港されるといっても田畑をつぶして沼地を埋め立てたばかりの場所で一面の野原となっていました。幕府は、急いで多数の商人を集め、横浜開港場を町として体裁を整える必要にかられました。この中には一攫千金を夢見る人たちもいましたが、後に横浜きっての生糸商人となる原善三郎、茂木惣兵衛、篠
原忠右衛門、若尾逸平らもいました。津久井からは佐野川村・佐藤才兵衛、上川尻村久保沢から八木兵助、畑久保から鶴屋八郎右衛門の三名がその年の内に願い出、店を構えました。

朝日百科日本の歴史93 
「開国」より引用
 八木兵助が出店した八木屋は明治初年まで続きました。また、鶴屋八郎右衛門の店は関東大震災まで隆盛を保ちました。現在、その店はなくなりましたが横浜駅西口に「鶴屋町」の地名を残し往時を偲ぶことができます。
 左図は幕末の全国貿易額と横浜とを比較したグラフです。横浜の貿易量の発展はめざましく、それに呼応するかのように横浜開港場は発展して行
きました。こうした状況を目のあたりにした上川尻村名主、八木兵助は横浜と山間部を結ぶ久保沢を復活させようと再開発に取り組ます。
 佐原木町記に書かれた最初の部分「・・・御開巷佐原木町・・・」の文字、そしてその意味は何故か「御開港横浜」を連想させます。目まぐるしく変わる幕末の世相の中で、八木兵助に呼応した多くの村の人々、時代もまた大きく変わって行きました。

         参考資料
         城山町史 6 通史編 近世
         城山町史   資料編 近世
         週刊朝日百科 日本の歴史93 近世から近代へ 開国 昭和63年1月発行
         横浜の歴史 平成7年度版・中学生用 横浜市教育委員会 
         城山風土記第2号 近世文書を読むために 平成6.3 城山町史編さん委員会
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