資料・天保御用金事件 2006.2.4 宝篋印塔と普門寺観音堂 弘化二年(1845)建立 資料 八木蔦雨著 「城山夜話」より 第四話 塔の由来 より原文を掲載 仁王門をくぐると左側に、大きな宝篋印塔が二基立っている。一基は不明だが、向かって右のは、天保年間に川尻村名主横領事件という、全村をゆり動かした騒動であり、そのときの犠牲者を弔った記念塔だ。 叔父八木七之助が、この事件の古文書を整理浄書したのが、私の家に残っている。それを土台に、文章を私流儀に改め、あらすじだけを記してみよう。 幕末ごろの旗本は、うち続く泰平に馴れて生活がゆるみ、あいつぐ物入りにお勝手もとはいつも火の車、というのが実情だった。わが上川尻村の地頭藤沢繁太郎もその一人で、知行所村方への貢租の繰上げ先納や、御用金を仰せつけるやらで、やりくりをつけていた。一方村方の百姓たちは、これまたそれ以上に苦しんでいた。おりもおり、名主加藤熊蔵は地頭用人平山左次右衛門と共謀して、御用金を種にだいそれた仕事に取りかかる。それは御用金をかってに水増しして、これを横領しようとたくらんだのだ。これが死闘の導火線になった。
これまでも貢租の先納やたびたびの御用金で責められ、倒産者や逃亡者も出るといった矢先、今また莫大な御用金ときたから、不平不満はついに爆発した。かくて名主らの不正を摘発すべく、小前百姓たちのために立ち上がったのが、八木武兵衛、兵助父子、八木庄次郎などを先頭とする人々である。 次の話は言い伝えでである。 名主側の役人ども何を取り調べるつもりか、数名で庄次郎方へ押しかけて来て、門をどんどんたたく。 「早く開けろ、お役人様の御出張だぞ」 「いま開けるから待っていろ」 門の内には若者が五、六人いた。 「みんな竹槍を用意しろ。いいか、おれが合図したらときの声をあげろ」 庄次郎は命令を下して、いつでも来いと体勢を整えていた。 「早く開けろ」 外ではますます激しくたたいている。 「よし、開けてやるぞ」 かんぬきをはずしてさっと開いた。 「それ踏み込め」 と、一歩中へはいろうとした瞬間、竹槍をかまえていた若者たち、 「ワーッ」 とばかりにときの声をあげた。 不意をくらった役人ども、おったまげてあとをも見ずに逃げてしまった。血気盛りの庄次郎、こんな茶目なこともやったものとみえる。 さていよいよ戦闘開始。だが敵もさるもの、権力の末端ながら、名主熊蔵は上役と通じているので、いくら訴えてもお取り上げにならない。それのみか役権をもって、武兵衛方の醤油蔵その他の土蔵に封印をして、営業停止という反撃に出た。かくて攻防戦は今まさにたけなわ、村は殺気におおわれてしまった。 もはや、猶予はならない。最後の切札、天保3年12月、第一陣は駆込み願書を携え、勘定奉行曾我豊後守へ駕籠訴(かごそ)を決行した。あいついで第二陣は老中水野出和守、第三陣は目付大久保讃岐守へ、いずれも決死の駕籠訴となった。 決死の駕籠訴(かごそ)
その結果は、佐倉宗吾のように将軍家への直訴ではないから、はりつけの極刑ではなかったが、お上を恐れぬ不届者とあって一網打尽、双方とも首脳者は、理非曲直にかかわらず喧嘩両成敗の意味で、そのまま日本橋伝馬町の牢へ送られてしまった。 これから苦しい牢舎生活が始まる。首脳部の一人である庄次郎はまだ二十歳と云う若さ。彼には恋人があった。何という運命のいたずらだろう、その恋人の父親甚五左衛門は、敵の名主側へ回っていたのだ。 板ばさみになった彼女の悩みはあまりにも深く、ついに病に倒れ、十九歳を一期としてはかなく散ってしまった。その悲しい知らせを受け取った庄次郎は、今は亡き恋人に香典を送り届けたという。この異例のことが許されたのは、せめてもの慰めだったにちがいない。しかし彼もやがてその後を追うことになるのだ。 月日は過ぎた。牢舎の衛生状態は悪く、おりから特有の牢疫が流行し、連累者14名のうち9名が感染、手当てもできぬまま出牢を許されたが、その直後いずれも死亡した。 武兵衛、庄次郎も、出牢後江戸の客舎において、事件の結末も見ず、恨みをのんでなくなってしまった。相手側でも、地頭用人左次右衛門や名主熊蔵らが死んだ。庄次郎は四代目の相続人であった。 後に、小前百姓たちの悲願は達せられ、故武兵衛のせがれ兵助が新しく名主となることによって報われた。 だがこれだけの大事件だ。村内は容易にしずまらない。両党が和睦するまでには、実に13年という歳月が流れた。 ようやくにして和睦の成立した弘化二年、犠牲者の十三回忌に、「施主 上川尻村中」として、大きな宝篋印塔が建てられ、さしもの騒動も幕を閉じた。これが事件の概略である。 その後は、「小前のために最も尽瘁したる故武兵衛(66歳)、故庄次郎(23歳)の忌日3月28日(武兵衛は3月20日没)を平和回復の記念日と定め、明治維新前までは、上川尻村内一同業を休みその功を追賞せり」というが、明治維新の改革のときこの行事は打ち切られた。しかし武兵衛・庄次郎の犠牲者を出した上の八木屋と私の家とでは、毎年お施餓鬼を怠らず、「子孫もその志を継承して大正の今日に至れり」と、七之助叔父の手記はここで終わっている。 天保御用金事件一周忌に寄進した釣鐘 普門寺の釣鐘 釣鐘の銘文
慈眼寺 奥から2番目に「先祖代々両親菩薩」 先祖代々両親菩薩 □政三辛亥歳四月十九日 施主 加藤熊蔵 平和な旧川尻村の近世は久保沢宿と原宿とが相互に競い合いながら発展して来たように思えます。そうした中、二つの大きな事件が影を落としました。ひとつは天明7年12月の「土平治騒動(どへいじ)」と云われる打ちこわし事件です。もうひとつが天保3年に起きた「天保御用金事件」で、同じ村の人々が敵見方に別れ激しく争い、駕籠訴にまで発展してしました。事件終了後、関係の修復まで13年もかかりました。 その修復の記念が大きな普門寺の宝篋印塔なのです。宝篋印塔は風化が激しく事件の犠牲となった人々の名前も判読が難しくなりました。歴史学は将来において、二度と同じ間違いを起こさないようにするものだと云われています。 □政三辛亥歳四月十九日と刻まれた石塔は、□部分が破損して判読できませんが干支から換算しますと寛政三年となります。西暦は1791年で、天保3年が1832年ですから「天保御用金事件」より41年も前の石塔という事になります。石塔の右側面には「先祖代々両親菩薩」とありました。ご両親を菩薩に例えたのか穏やかなお顔をしておりました。 武兵衛(66歳 3月29日没)ー兵助 庄次郎(23歳 3月28日没・太郎左衛門) 参考資料 城山町史2 資料編 近世 山町史6 通史 近世 城山夜話 八木蔦雨著 城山町郷土研究会発行 城山風土記 第5号 町の歩みをふりかえる 戻る |