湖底に沈んだ村
    旧津久井郡太井村荒川地区の人々

 東京都の水ガメ、奥多摩湖を造り始める昭和12年夏、石川達三は小説「日蔭の村」を「新潮」に発表しました。水没する小河内村を舞台にした作品で、村を出た村民の中には満州開拓村に行った人たちもいました。一方、津久井ではその翌年、相模ダムの建設が決定「相模川河水統制事業」が始まりました。
 昭和12年9月には帝国議会が召集され「臨時資金調達法」や「輸出入品等臨時措置法」など軍需産業優先に向けた経済統制立法が制定されました。そして、同月「国民精神総動員法」や10月に入ると朝鮮人に対して「皇国臣民の誓詞」も配布され、全てが聖戦の遂行に向け動き始めました。
 、こうした状況下の中、軍需工場が集中する横浜や川崎に向け水や電力を安定的に供給するために「相模川河水統制事業」が始まりました。相模ダムは昭和15年に着工、多くの日本人労働者に混じって中国や朝鮮の人たちもダム建設に従事しました。そして戦時下の苦難の中を多くの犠牲を払いながら昭和22年に完成しました。水没住民、136戸の人々は住みなれた、ふるさとを離れ高座郡海老名村(海老名市)や東京都下日野村(日野市)等に移住しました。
 戦後も「相模川河水統制事業」は続きました。昭和40年3月、神奈川県と横浜、川崎、横須賀の三市により津久井町荒川と城山町水源地区との間に県下で4番目の城山ダムが完成しました。ダムの高さは75メートル、湖の面積は2.47平方キロメートル(横浜スタジアムの約190倍)、使える水の量は51,200,000立法メートル(東京ドーム約41杯分)、水道用水や発電、洪水調節の機能を備えた多目的ダムとして、県民の暮らしを支えています。同年11月には津久井湖に貯水された水を深夜に汲み上げ、電力消費量の高い時間帯に落下させ発電させる揚水式発電所を完成させました。
 津久井湖にも奥多摩湖や相模湖と同じように先祖伝来の土地を離れた人々がいました。津久井町荒川(116世帯)、不津倉(27世帯)、三井(45世帯)、三ヶ木(8世帯)、川坂(7世帯)、相模湖町沼本(41世帯)、城山町中沢(36世帯)や小倉(5世帯)の人々で水没家屋は全部で285世帯、約1400人の人たちが対象となりました。移転先は津久井町中野、相模原市相原、二本松、磯部、城山町、八王子などで中でも二本松地区には132世帯のみなさんが引っ越されましした。
 平成12年12月に発行された「ふるさとの民話と伝承 −郷土の歴史と湖底に沈んだ村々ー」に綴った手記には、遠く故郷を偲びつつ「(前略)私たちは、ダム建設という大きな事業の犠牲になったわけですが、どんな多額な補償をもらっても、あの土地を離れたくなかったという思いでいっぱいでした。やがて、湖底に沈んでしまう、あのふるさとのことを思うと、今でも涙があふれてきます。」「(前略)「この土地を離れて、新しい土地でどうやって生活を始めたらいいのだろうか。新しい土地で商売を始めて、果たしてうまくいくのだろうか」そんなことを考え始めると、夜もなかなか眠られない毎日が続いています。しかし、今となっては、そうした感傷はすべて振り捨てて、新しい生活の基盤をしっかりと固めていく以外に道はないのです。そのためにも、これからも精一杯頑張って行こうと、自分に言い聞かせています。」など故郷への思い、将来に対する不安を抱えながらも、なお懸命に生きようとする人々の思いが綴られています。
 こうした不安が募る、昭和37年11月16日、市体育館に措いて移住者の歓迎大会が開かれました。相模原市の広報(下記)には、こうした人々の心情をとらえ「私たち市民は移住されて来たみなさんを心から歓迎します。」と結びました。
 電気や水道、普段何気なく使っている、その裏側に、こうした犠牲があったことを私たちは、忘れてはならないと思います。

                    撮影 2005 8.21 
  
相模原市  二本松商店街の朝         歓迎碑  昭和三十四年四月建之
                         城山ダム建設促進協力委員会

 
             市報 相模原 第144号 昭和37年12月15日 相模原市役所発行

 湖底のふるさと荒川
  
   太井村絵図 (部分)             高等地図帳改訂版 (部分) 
   文化元年(1804)〜文政7年(1824) 昭和41年4月発行二宮書店 昭和39年撮影
     「津久井の古地図」津久井町史編集委員会編 転写

  
  荒川の集落から相模原市二本松に遷座された八幡神社
        八幡神社  「水神塔」は本殿に向って右側

  
 八幡神社の北側には稲荷社が祀られ、当時の稲荷講が今も継承されています。

   
  旧荒川集落にあった石造物     水神塔 天明七丁未 四月  荒川 筏乗講中
     
西暦 年 号        津久井湖・城山ダムの歴史
1945 昭和20年 1
1946 昭和21年 1
1947 昭和22年 1
1948 昭和23年 1
1949 昭和24年 1
1950 昭和25年 1
1951 昭和26年 1
1952 昭和27年 県企業庁が発足、相模川にもう一つダムを建設する構想をもとに調査を開始。
1953 昭和28年 3月、内山知事名による「津久井郡下3町11村への立ち入りを告示」。
6月、荒川、小網、不津倉、三井など水没への運命が避けられないと判断した部落の人々が集まり、「城山ダム建設反対期成同盟」を結成し、絶対反対のノロシを上げ、代表者が県に陳情に行く。以降、基本調査が続けられている間、双方のにらみ合いが続く。
1954 昭和29年 1
1955 昭和30年 4月、城山町が誕生。
1956 昭和31年 資料 城山ダム促進軌道にのる  「城山町広報」1月創刊号より
 城山ダム実現の際埋没を予定されている町内中沢第一新道部落民と町理事者との懇談会は、11月16日地元において開催、全部落民出席して両者の意見調整が行われた。尚、促進具体策については近日決定開始の予定。
1957 昭和32年 1
1958 昭和33年 2月、「相模川第2次統制事業」の名称で県議会に提案され、事業計画が公表される。
3月春分の日、反対期成同盟会による「城山ダム建設反対町民大会」が中野小学校三井分校で開かれる。(二百数十人が集まる。)
資料 城山ダム実現か 「城山町広報」5月号より
 2月の県会が33年度予算で城山ダム調査費3千余万円を計上したことから城山ダム実現は最早確定的となって地元の人たちに新しい覚悟をもたしめている。と同時にわが城山町新年度予算でも、城山ダム対策費十万円を計上して之に呼応する態度を決めた。町内中沢新道部落約40戸は湖底となる場所で特に対岸荒川にダム反対同盟が結成されるなどの刺激で過日町長を招き、(一)反対同盟に加入すべきか、(二)今後の運動方針など検討したか、(一)反対同盟加入は慎重を期すること、(二)今後の運動は町当局を中心にするなど話し合って散会した。 尚町当局はダム完成後百年の計画を樹立すため(一)中沢から三井を結び与瀬に通ずる道路計画、(二)ダム築造によって失われる耕地の代替としての開田計画、(三)立退世帯受入計画、(四)遊覧地としての特産物の産出計画等々、万全の策を講ずることとなった。                       
1959 昭和34年 3月、反対期成同盟会「城山ダム築造について」の声明文を出す。
資料 城山ダムの近況 「城山町広報」12月号より
 神奈川県営城山ダムは津久井町荒川、不津倉の反対2部落を除いて左記の様に準備調査が進捗中である。尚企業庁の予定は本年度内に全関係地区の協力を得て、昭和35年新年度から着工の模様である。
(一)津久井町三井、川坂、相模湖町沼本の各地区関係家庭の戸別調査を完了した。
(二)当町内中沢新道水没世帯27戸は戸別調査を完了し、企業庁は湛水位127メートルの土地分筆手続きを進行中である。
(三)川尻字水源及び中沢字仁地内作業用地10町5反については関係地主の会合を開き管理局長、土木課長、調査課長等の出席を求め調査用紙記入の説明があり、関係地主は12月10日調査用紙を企業庁に提出した。
(四)材料運搬道路(ダム完成の折は県道として在置する)予定線は12月27日城山町議会ダム対策委員会等小委員会委員及び町長、地元部落対策委員等立会い現地説明をうけたが、延長約500メートルのうち4ヶ所不備の点を発見、直ちに企業庁へ設計変更方を要望した。
(五)中沢第一新道水没地区の役員は6月26日宮城県花山ダムを視察した。
(六)作業用地地主会役員は8月10日三重県宮川ダム、和歌山県風尾ダム等を視察した。以上最近までの状況である。尚本町内のダム対策のための諸団体は左記の通りである。
(一)城山町議会ダム対策委員会 構成は議会議員全員にて、うちに小委員会(7名)を置く。
(二)城山ダム補償対策委員会(中沢第一新道水没地区27世帯)
(三)城山ダム対策連合地主会 谷原都井沢畑久保中沢地区内作業用地関係地主を以って結成す。
(四)城山ダム中沢部落対策会 中沢部落(水没地区を除く)全般にて結成す。
(五)城山ダム都畑部落対策会 都畑部落全般でにて結成す。
1960 昭和35年 5月、反対同盟会は条件闘争へ方向を切り替え県側との初会見に応ずる。(不津倉地区は絶対反対を貫き、補償交渉は後日。)
1961 昭和36年
   
8月9日、補償交渉調印式が県庁で行われる。
秋から暮れにかけて、妥結した水没世帯に補償金が支払われ、新天地への移住が始まる。
1962 昭和37年
   
2月、15日 ダム建設起工式が行われる。

5月、荒川部落解散式。
資料 町をゆり動かす ダム建設工事は進む 広報「しろやま」6月号より 
 現在の相模川は相模湖の建設によって、渇水の量は減少し、洪水量が増大しつつある状況にあり相模湖を建設してその洪水量をと当初に計画したことに支障をきすようになったその半面神奈川県特に京浜地区は急速に進展し、その人口は戦前の水準をはるかに突破するとともに大規模な京浜埋立事業により臨海工業地帯として飛躍的な発展をもたらし、飲料水は勿論工業用水並びに電力の需要は急速に増加してきた。そこで県では横浜、横須賀、川崎の各市と共同でダムを建設し、水と電気の需要に応うべく相模川総合開発事業に着手したのである。
 昭和28年以来調査した結果城山町中沢三工区鉄橋下にダム建設地が決定し、ダムの高さ75メートル(相模湖50メートル余)長さ260メートルのコンクリートダムを建設し、又中津川を半原石小屋上流より随道にて道志川に導入、串川を根小屋中野付近より城山湖へ取水して城山ダムの増強を計画し、県営及び横浜、横須賀、川崎各市営の給水区域へ送水する。またこの施設は予備放流定率放流を行って洪水調整をもする機能をもっている。また電気の需要に応じるため城山町本沢地点に高さ72メートルのダムを建設して貯水し、ピーク時に25万キロワットの発電をする揚水発電所(地下230メートル)を設け、京浜工業地帯の原動力に給するのである。
 これらの事業は本年2月15日県知事を初め地主及び来賓多数の見守る中に、県知事の押す岩盤爆発と共に起工され、日夜作業が進められている。 城山ダムは熊谷組、揚水発電所及びその隧道は鹿島建設、本沢ダムは西松建設、都井沢骨材運搬道路は日本機械土木、中沢骨材運搬道路は熊谷組、明治建設及び日本機械土木がそれぞれ請負作業を行っている。
  この事業の計画上ダム発電所の出来上がりの時期を決定づけられ、是が非でも昭和39年9月までには出来上がり、10月には水をたたえ、発電しなければならない。以上が城山ダムの概要である。  
12月、城山ダムのコンクリート打ちが開始される。
   
12月27日 最後となった不津倉部落・補償交渉調印式
1963 昭和38年  
   
1月13日、ダムの定礎式が行われる。
3月、三井大橋架設工事着工、39年3月に完成。
3月、三井小学校最後の卒業式(22日)、廃校式(24日)、学校とのお別れ会(31日)が行われる。
   ゛湖底の母校゛さようなら
        
三井小 きのう最後の卒業式     
 
 白い花を胸になつかしい校門を去る学童たち   三井小学校最後の卒業式
 城山ダムの湖底に沈む津久井郡津久井町町立三井小学校の最後の卒業式が閉校式を兼ねて22日午前9時から教室をぶちぬいた同校講堂で、51人の在校生と町役場の人たちはじめ30人の父母が集まって行われ、一人ひとりに記念品を授与、卒業生から学校へ謝恩のツボを贈り、卒業生の「仰げば尊し」在校生が「ホタルの光」を歌った。
 式後、お別れ学芸会を開いたのち卒業生たちは卒業証書を手に`ふるさと`三井小の`希望のニジ`などを歌いながら男の子は白、女の子はピンクの花を胸に「サヨウナラー」と校門をあとに山里の家へ帰って行った。
 同校は明治6年(90年前)に創立現在の建物になってからも392人の卒業生を送り出し、郡から゛普通教育奨励旗゛をもらった歴史がある。なた学区は三井、荒川など5部落130世帯でうち73世帯が水没することになりすでに57世帯は相模原市内へ移っている。
 閉校式の参列者は1年生8、2年生7、3年生6、4年生9、5年生7と卒業生が14人の計51人で、去年4月からすでに69人が減っている。

                   毎日新聞3月23日付の記事より
1964 昭和39年 9月、城山ダムに湛水開始。
10月、ダムのコンクリート打ち完了。東京オリンピックのため、ダム上の新県道を仮開通する。
1965 昭和40年 4月、城山ダム完成式が行われる。「津久井湖」と命名する。
5月、町公民館に300名が出席して合併10年の記念式典が開かれる。
1966 昭和41年 1
1967 昭和42年 1
1968 昭和43年 1
1969 昭和44年 1
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参考資料

ふるさとをあとに
 城山ダム補償 交渉から妥結まで
 角田福徳著
    昭和41年4月発行
 公共事業の礎石となって故郷を泣く泣く立退いた住民の姿を著者が自ら住民の一人として体験した補償交渉から妥結までの記録と移転後の厚生への道程が克明に記されたもので、この書によって城山ダム補償の全貌が明らかにされている。  腰巻文より  




 

 ふるさとの民話と伝承
 ー郷土の歴史と湖底に沈んだ村々ー
    中野地域振興協議会
     中野まちづくり委員会  
     平成12年12月 発行

 発刊にあたって
 この度、地域の方々のご支援、ご協力のお蔭で、この地域に語り伝えられている沢山の民話や伝承、郷土の昔の姿、湖底に沈んだ村々の在りし日の姿などを掘り起こすことができました。楽しい話、悲しい話、信じられないような不思議な話など、沢山のお話が収録できたことは本当にありがたいことだと思います。(後略)




                    
      津久井の古地図    津久井町史編集委員会  2002年3月
      相模川歴史ウオーク 前川清治著 2005・5
      津久井歴史散歩   小川良一著 昭和63年5月
      ふるさとに心注いで  鈴木重彦 平成13年2月
      市報 相模原  第144号  昭和37年12月15日 相模原市役所発行
      高等地図帳改訂版  二宮書店 昭和41年4月発行
      沈みゆく村々−津久井湖誕生まで− 津久井青少年会館  梶野稔
      津久井湖誕生     神奈川新聞社 昭和40年3月発行 

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