西暦 |
和年号 |
ゴボウにまつわる主な出来事 |
1945 |
昭和20年 |
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1946 |
21年 |
・ |
1947 |
22年 |
9月 相模川の洪水で磯部頭首工大破、取水不能となる(キャスリン台風) |
1948 |
23年 |
5月 麻溝・上溝農協設立
6月 大野・田名種豚(後に田名畜産)農協設立
10月 田名農協、澱粉工場操業開始。
この頃、座間博が中心となり「麻溝ゴボウ生産販売組合」を組織、その後田名、勝坂や上依知方面迄、組合員を広める。(最盛期は70ヘクタール、400戸の栽培農家を数える)
〇この年、食料増産のため相模原畑地灌漑期成同盟(会長相模原町々長小林与次右衛門))が成立。 |
1949 |
24年 |
2月 相模原開発畑地灌漑事務所開設
3月 畑地灌漑事業着工
12月 麻溝小学校・子供麻溝農協を設置し、児童の貯金奨励 |
1950 |
25年 |
・ |
1951 |
26年 |
5月、石井漠が「婦人倶楽部32(5)」に「わが郷土 秋田縣の巻 しょっつる 貝焼(かやき) 切りたんぽ」を寄稿する。

舞踏家:石井 漠 |
秋田は、山と海とに恵まれているばかりでなく、米や酒の産地であるだけに、食べものだけは実に豊富である。その中でも特に旅行者を喜ばせるものに、しょっつる貝焼(かやき)と切りたんぽがある。/しょっつるというのは、塩汁という言葉なまりで、鰯の塩辛の汁だと思えば間違いはない。勿論、鰯に限らず、この地方特産の雷魚(はたはた)からも上等のしょっつるをとることができる。/鰯や雷魚のとれる時分に、とりたての魚を、海岸に並べべられてある大きな桶の中に入れては塩を振りかける。そして、半年位、庫の中に入れて、押しをかけておくと、魚肉は自然に塩にとけ合って、なんとみい |
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えない奇麗な汁が、うわずみとなって上ってくる。/それを瓶詰にまでされて、最近は東京あたりまで送り出されるようになったのである。/その用途は醤油と同じく、わけても鶏肉や、各種の魚肉によく、秋田では、帆立貝を鍋がわりに小さな七輪で、一人一個というぜいたくな食べ方をする。それに色々なその季節の野菜をつけ合わせることは勿論である。(中略)また、もっと簡単なやり方は、山餅といってやはり御飯をちょっとつぶし、そのまま小さな丸いだんごをつくり、その鍋の中に入れて食べる。子供などの多い家は大喜び。然し米の充分でない今日、余程考えながらやらないと、あまり食べ過ぎて、とんでもないことにならないよう注意が肝要なのである。/以上の場合ばかりでなく、しょっつるといえば醤油の代用品であるから、あたりまえの鍋料理の時と同じように使用することも確かに風味のあるものです。/また、しゃけのあらに大根、人参等を入れていわゆる粕汁式のものを作る場合でも是非このしゅっつるも使ってみてほしいものです。/最後にご注意までに申し上げますが、しょっつるは醤油よりも強い味をもっているから、できるだけ加減して用いることです。尚、汁がなくなったら、昆布煮出しの汁を作って置き、さしかえることです。しゅっつるの中に味の素を少量落すとその味は一層よくなることは請合です。 |
〇この年の文集に、麻溝小5年生の内田洋子さんが「牛蒡まつり」の事を書き綴る。
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佐藤千代江さんから聞いた話
踊りが全国一等賞
昭和26年
・小山に年ごろのはたちの踊り手が9人いたので、それで何とか都合が良いのでまとまったのでしょう。
・踊りを教えてくれた人は麻溝小学校の山口英男先生でした。
・地域の青年団の運動会にもあちらこちらで踊り、県にも行きました。
・中でも東京の読売ホールで行われた「はたち祭り(20歳の集い)」に行き、全国一になったことをよくおぼえています。ほかの参加者は出来合いの“また旅もの”などで、創作の踊りは人目をひいたのでしょう。終わりのあいさつで、徳川夢声さんが激賞、「(実現しませんでしたが、)この踊りをアメリカにもっていっておどりましょう。」と言ってくれました。
・そろいの衣装の絣は、上溝の藤田屋で買ったのでしよう。
・振付は三番の終わりまでが異り、(石井)漠さんの斬新なものでした。 「當麻通信 No 90」より
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1952 |
27年 |
6月、「神奈川県立相原農蚕高校(現相原高校)同窓会」が「相模原町の名産麻溝ごぼう」を発行する。
(表紙掲載予定)
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表紙画・さし画 |
麻溝小学校麻溝台主任 |
荒川俊法教諭 |
・ |
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序文
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相原農蚕同窓会長
神奈川県議会議員 |
篠崎 隆 |
7 |
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序文
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相原農蚕同窓会理事
相模原町産業課長 |
小川通幸 |
9 |
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ごぼう音頭 |
相模原高等学校 |
植村栄輔教諭 |
4 |
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本文
一、麻溝ごぼうの話 |
相原農蚕同窓会前副会長
農蚕高校教諭 |
内田芳次 |
15 |
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なぜ麻溝ごぼうは成功したか |
柴胡庵 |
19 |
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二、麻溝ごぼうの実際
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相原農蚕同窓会員
麻溝園芸農業協同組合長
相模原町前町会議員 |
座間 博 |
27 |
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あとがき |
相原農蚕同窓会 |
柴胡庵 |
36 |
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参考 ※柴胡庵とは、金井茂さんのことで、旧津久井郷土資料館の初代館長としても御活躍されました。
2018・11・5 保坂 |
〇この年、安西克己さんが、「第五回全國農林産物品評会」牛蒡の部で一等となり、記念の自転車を授かる。 |
1953 |
28年 |
10月、 「(財)国土計画協会・国土」に、神奈川県 企画審議課が「神奈川県相模原における畑地灌漑の概況」を報告する。 参考 灌漑地区内の営農状況については古山地区が選ばれ報告が行なわれました。

畑地灌漑用水路と古山地区 |
三、灌漑地区内一部落における営農の実態
調査地である相模原町古山部落は、昭和二四年の陸稲作から灌水が始められた所で部落の耕地は相模原沖積地(下地)と相模原台地(上の原)とにまたがって居り、総戸数一〇九戸のうち農家が九二戸である。一戸当たりの経営耕地は七・四反(内水田〇・七反、畑六・七反)である。/農業生産の中核は畑作で、陸稲、甘藷、麦、養蚕が加わった典型的な畑作地域の特徴を示している。最近商品作物として、ごぼうの適地として、関西市場にその声価を獲得するに至るようになった。/この地区の農業経営は最近十数年間にかなり著しい条件変動にさらされた。それを代別すると(一)耕地の変動と(二)兼業機会の増加と(三)畑地灌漑の導入である。/耕地の変動は軍用地の買収ー解放を通じて一種の階層平準化が行われた、これに耕作面積の小さな階層に対して優先的
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に解放地の割当がなされ、従ってこの過程においては下層階級の相対的上昇が行われたのであった。/第二の兼業機会の増加は軍需産業との結合から戦後の駐留軍労務の提供水道工事々業への労務等農業兼業者の比率が六五%と極めて高いことである。而もこの兼業者はあらゆる階層に分布し、上層農家の兼業率が高いことも著しい特徴をなしている。(略)
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11月23日、安西克己さんが、「第六回全國農林産物品評会」牛蒡の部で優秀賞を受賞する。
〇この年、「麻溝園芸農協」と名称を変えていた「麻溝ゴボウ生産販売組合」は再建された「麻溝農協」と合併する。
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1954 |
29年 |
・ |
1955 |
30年 |
30年代に入り組合運動が不振に陥り、以後衰退の道を歩む。
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1956 |
31年 |
・ |
1957 |
32年 |
・ |
1958 |
33年 |
8月 首都圏整備法による市街地開発区域(第1号)に指定され工場誘致が始まる。
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1959 |
34年 |
〇この年、現在の「麻溝園芸組合」が設立。30歳代の働き盛りの農家20名が参加。組合長に中島豊さん選ばれる。
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1960 |
35年 |
1月 麻溝農協、有線放送事業開始
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1961 |
36年 |
・ |
1962 |
37年 |
・ |
1963 |
38年 |
・ |
1964 |
39年 |
3月 相模原畑地灌漑事業完了
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1965 |
40年 |
11月 第1回・相模原市農業まつり開催
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1966 |
41年 |
9月 台風26号襲来
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1967 |
42年 |
7月 鶏にニューカッスル病が発生、養鶏農家が大打撃を受ける。
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1968 |
43年 |
〇この年から足柄農協への凱旋販売も始まる。
販売については当初より麻溝地区のみ共選共販で横須賀青果等へ市場出荷していた。
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1969 |
44年 |
〇この年、麻溝地区に集団的技術導入資金県下第1号でポートレンチャーが導入され大幅に省力化が図られ品質も著しく向上する。
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それ以前は耕運機の導入がやっとで、ゴボウのように深耕を必要とされる野菜の栽培は多労を要した。春から秋の間は養蚕を始め他の農作業があるため、冬の打ちにスコップと鍬だけで畑を60〜75センチの深さまで掘り天地返しを行った。10アールの畑をなし終えるまでに二十日間もかかったそうだ。種子の蒔き方も播種機が導入されるまでは古自転車の車輪を改造しリムの部分で畑に播種位置の印をして丁寧に種子を落としたそうだ。収穫作業は最も重労働を極め、鍬や鉄の棒も利用してスコップで掘り上げるというものだった。
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1970 |
45年 |
・ |
1971 |
46年 |
・ |
1972 |
47年 |
小田原農協へも販路を拡大させる。
販売の方法は年末に注文をとって販売するもので「土つき四キロ袋入りゴボウ」として出荷していた。
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1973 |
48年 |
・ |
1974 |
49年 |
・ |
1975 |
50年 |
・ |
1976 |
51年 |
・ |
1977 |
52年 |
〇この年から、加工業者とも取引を行う。
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量的には少ないものの、規格荷送にそう気をつかうこともなく手間がかからないことから徐々に増えて行った。また県内各市場は四キロ入りビニール袋で出荷される。
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1978 |
53年 |
・ |
1979 |
54年 |
・ |
1980 |
55年 |
・ |
1981 |
56年 |
・ |
1982 |
57年 |
・ |
1983 |
58年 |
〇この頃から、間引き労働の省力化を目的としたシーダーテープ播種の利用が増加。
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1984 |
59年 |
・ |
1985 |
60年 |
・ |
1986 |
61年 |
・ |
1987 |
62年 |
・ |
1988 |
63年 |
・ |
1989 |
平成元年 |
・ |
1990 |
2年 |
・ |
1991 |
3年 |
・ |
1992 |
4年 |
・ |
1993 |
5年 |
・ |
1994 |
6年 |
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1995 |
7年 |
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1996 |
8年 |
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1997 |
9年 |
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1998 |
10年 |
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1999 |
11年 |
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2000 |
12年 |
・ |
2001 |
13年 |
・ |
2002 |
14年 |
・ |
2003 |
15年 |
〇この年、「さがみはら農産物ブランド協議会」が設立される。「さがみはらのめぐみ」の名称やマークの表示等を行いながら積極的な「さがみはら農産物ブランド」のPR活動が開始される。
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2004 |
16年 |
・ |
2005 |
17年 |
・ |
2006 |
18年 |
4月2日、「相模原市民桜まつり」において、「さがみはら農産物ブランド協議会」が「さがみはらのめぐみ消費拡大キャンペーン」を行い、地元の料理・おふくろの味として「さがみはらのめぐみ」に認定されている野菜等を使った「ごぼうと豚肉のうどん」の販売、パネル展示等を行う。
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2007 |
19年 |
・ |
2008 |
20年 |
〇この年、農家女性のグループ「相模原市アグリレデイース(旧相模原市女性農業者連絡協議会)が中心となって行うゴボウを使った料理の活用を提案。昔ながらの家庭の味だけではなく、若い世代にも受け入れられる料理を提案しようと、豚肉とゴボウの梅味噌(みそ)」や「ゴボウのビビンバ風」など新しい料理法の研究が始まる。
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2009 |
21年 |
11月8日、「第45回相模原市農業まつり」が淵野辺公園中央広場で行われ、相模女子大学健康栄養学科
食育・調理学研究室のゼミ生と寺嶋先生等によって、「さがみはら農産物ブランド協議会」に協力、地場野菜を使った「ごぼうの菓子や洋風ごぼうの煮込み」等、ごぼう料理の紹介や試食会が開かれる。
12月15日、「さがみはら農産物ブランド協議会(会長・中里敏明市農協組合長)」が市役所本庁舎正面市場広場に於いて市内の農家が育てた「ごぼうの共進会」を行う。
農家の20人から出品された20点(1点あたり5本)を県農業技術センター北相地区事務局の職員が形や重さ、色などを審査、
優秀賞2点、優良賞4点を選んだ。
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2010 |
22年 |
12月、「さがみはら農産物ブランド協議会(山口研一会長)」が相模原産「ごぼう」のブランド化に向け、市内で初めてごぼう料理のレシピ集の募集を行う。 タウンニュースNo234号12月16日号より
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2011 |
23年 |
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2012 |
24年 |
・ |
2013 |
25年 |
〇この年、寺嶋則子・米澤加代・小暮更紗・小林雅・関友恵が「相模女子大学紀要 第77号」に「相模原産麻溝牛蒡の研究」報告を行う。 |