資料 詩情高瀬船は行く

 平成17年8月7日、相模原市磯部民俗資料保存会のみなさんが、20回目の帆かけ舟実演行事を行いました。その時の貴重な写真とビデオを戴きました。舟運は昭和の初めの頃まで行われていたとか。扇を広げたような珍しい形をした帆、一見のどかとも思える裏側に船頭さんの苦労を見ました。山梨県河内地方に伝わる富士川音頭の一節には「上り船見りゃ 愛想が尽きる (ヤッコラセー ヤッコラセー)下り船見りゃ また惚れる (ヤッコラセー ヤッコラセー)」と、辛い船頭さんの思いを歌い継いでいます。
 今回は特に津久井郷土資料館、市立平塚博物館のご協力を得て掲載をさせて戴きました。

 
          八木蔦雨氏撮影           2005・8・7 大河原伸介さん撮影

 
「相模川辞典」より「高瀬船の項P209」平塚博物館 1994    山梨の算数ものがたり 山梨県数学教育連合会編

参考 富士川の舟運
(中略)慶長12年(1607)、富士川にも、水路をつくろうとして、角倉了以たちの一団が、富士川を舟でさかのぼっていったんだよ。
 1そうの舟を、4人の船頭が1組になってあやつるのだよ。鰍沢を出た舟は、川しもの岩渕まで、約72kmを半日で下ることができたそうだ。とちゅうにたいへんきけんなところもあって、ずいぶんくろうしたようだよ。
 ところが、上りに舟を引き上げるのが、また、たいへんだった。アシナカという、つまさきだけのわらじをはき、舟を川の流れにさからって引き上げるのだよ。
 3人は岸を歩きながらつなを引き、おやかたは舟の先のところに、さおを通してかじをとりながら、おし上げたそうだ。岩渕から鰍沢まで、3日から4日かかり、アシナカは5足もふみつぶしてしまったそうだ。
 下りは速いけれども、上りは流れにさからって引くのだから、たいへんだったろうな。
               山梨の算数ものがたり 山梨県数学教育連合会編 P143


        帆の部分 津久井郷土資料館所蔵  津久井湖観光センター2階に特別展示中
一枚の帆の幅は約80cm、長さは6・5メートルありました。それが5枚、扇型に開きます。帆の補修は船頭さんが自ら行ったそうでその痕跡が右下にも見えます。帆かけ船は不安定なため細心の工夫が施されてありました。突風対策です。80cm幅の布を合わせる部分にその工夫が施されてあります。布と布とを合わせる部分に寄りをれた3本の綱を通し、その綱の1本にしっかりと布が結んでありました。遠くから見ると帆は一枚のように見えますが突風がその隙間から逃げられるようになっていたのです。
 相模川独特とも思える上部が扇型に開いた帆型は多分、舟の安定性を保つように考えだされたと思われますがよく分りません、どなたか教えて下さいませんか(やじろべいの原理・偶力か? )舟の水もれでは槙皮(まきはだ)を打ち込みました。桧(ヒノキやアスナロ)の皮を蒸したもので、水もれ箇所に打ち込むことによってマキハダが膨張、水もれを防ぎました。(マキハダは津久井郡資料館の民具室に展示されてあります。)

 マキハダ
 
津久井郷土資料館所蔵 

参考 たかせぶね 高瀬船
 おおよそ大正時代末まで相模川に就航していた荷物の運搬船。鉄道、自動車以前の物資の輸送に大きな役割を果たし、上流から薪・木炭・ソダ・杭木などを積んで厚木や須賀(平塚市)まで運び、川口の須賀で弁才船(ベザイセン)に積み替えられて江戸などにも運搬された。逆に須賀からは干鰯(ホシカ)などの肥料・塩・砂糖・米・麦といった、食料や日用雑貨が上流に運ばれた。この船を所有して物資運搬にあたっていたのは、相模原市の北西部から上流の地域の人々で、最上流部は上野原町まで及んだ。都留郡新田村(現上野原町)の天保13年(1842)の村明細帳によれば、「高瀬船四艘、但し当時四艘、船頭九人、右は先年秋元但馬守様御知行所之節江戸表御屋敷に郡中より納候薪添、須賀浦積送申候」とあって、高瀬船が四艘、船頭九人がいて、これで須賀まで薪を下ろし、江戸の領主の元に送っている。
 元禄2年(1689)4月の「愛甲郡津久井領太井村川船書上帳」によれば、同村には船長6間(約11m)・幅5尺(約1・5m)の「高瀬船」や7艘、船長3間半(約6.4m)・幅2尺1寸(約0・6m)の「広網船」が10艘、渡船が2艘あると記されている。
 天保年間に編さんされた「新編相模国風土記稿」の小倉村(現城山町)の条には、「河岸場相模川の南にあり、通船十二艘を繋ぐ、大住郡須賀浦まで運ぶ、水路八里」とあって、高瀬船12艘があったことがうかがえる。高瀬船と呼ばれる運搬船は、森鴎外の小説「高瀬舟」からわかるように、全国的にあって、利根川や荒川のものは大型船だが、相模川のは小型の船で長さが6間半(約12m)が標準的だった。シキと呼ぶ船底は、幅広の板を使うと川底の石に当たって割れる恐れがあったので、幅6寸(約18cm)・長さ1寸2分(約3・6cm)の板をつなぎ合わせて造っているのが特色である。荷物の運搬は請負制で、初めに船主が運賃の2割をフナゾコ(船底)といって取り残りの8割が船頭に渡され、これで途中の宿泊費などの必要経費も賄われた。高瀬舟の就航はほぼ通年行われ、下りは竿で船を操り、先の小倉から須賀までは1日の行程だった。上りは、南風が吹く春から夏にかけては帆を張って風をうけて上っていったが、北風が多くなる秋から冬は帆を使えず、船首の穴に背張り棒を通して一人が押し、さらに1〜2人でロープで船を引きながら上っていった。帆を張って上れば小倉までは半日から1日であったが、背張り棒とロープで引き上げるのでは3〜4日かかったといわれている。そのため相模川筋の田村(平塚市)、厚木、下依知(厚木市)、上依知(厚木市)、田名(相模原市)などには、船頭が泊まる船宿もあった。(神奈川県1974・小川1993)
              相模川辞典 1994 平塚博物館  P209

参考 サンパ 
 投網を打ったり、釣りをするなど、相模川で漁を行われるのに使われる船で、現在も見ることができる。長さが3間半(約6・4m)から4間(約7・3m)、底板の幅が3尺(約0・9m)の大きさである。相模川の漁といえばアユ漁が代表的だったので、アイブネ(鮎船)とも呼ばれている。通常は竿一本で船を操るが、「竿は3年、櫓は3月」という言い方があるように、一人前になるには熟練が必要である。竿で船を漕いで漁場に向うほか、南風の吹く夏には帆を張ることもあった。船は杉が材料に使われ、底板がシキ、船側がシハカキ(シタダナ)、ウワカキ(ウワダ

 2005・8・13 撮影
 小倉 サンパ舟  寔水館
リナ)、船首がミヨシ、船尾がトダテと呼ばれ、これにカンヌキ、ナカバ、トモバリ、トコとコベリが付けられ、さらに中央部に生簀(イケス)が設置されている。
 元禄2年(1689)4月の「愛甲郡津久井領太井村川船書上帳」には、高瀬船、渡船とともに船長3間半(約6.4m)・幅2尺1寸(約0・6m)の「広網船」が10艘あって、「殺生仕候」とある。殺生というのは川漁の意味で、広網船は漁船であることがわかる。船の構造については不明だが、漁に使われる船ということでは、広網船はサンパと同じに考えるのがもっとも妥当である。(神奈川県1974・小川1993)    相模川辞典 1994 平塚博物館  P183

  
 アユ漁舟(三八舟) 城山町史4 資料編 民俗 P307      サンパ舟 明治44年6月1日撮影

  今後の掲載予定  高瀬 舟の安定性について

  参考 利根川の高瀬船
 拡大します
 利根川や江戸川の高瀬船  明治の頃    高瀬船(ボウチョウ)各部の呼名

 
      利根川図志 安政4年(1857)

利根川図志 大船津の図(部分)
右側に鹿嶋神宮の一の鳥居が見える構図になっています。そして町並みの奥に「鹿嶋故城」と記された山が見えます。
  利根川下流、息栖(いきす)明神の沖を行く高瀬船、東風に帆を上げ、
  荷物と数人の旅人が見えます。空には雁の列、そして後方に筑波山が見えます。

 
22 富嶽三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見    30 富嶽三十六景 上総ノ海路

うたせ船 かっては潟魚の宝庫、なかでもうたせ船は八郎潟
風物詩となっていました。
 伊藤永之助は八郎潟を舞台に「湖畔の村」と云う小説を執筆しました。

 けんここ どっこい 高瀬舟

 兵庫教育大学学校教育学部附属中学校の2年生が、2001年、総合学習の中で『加古川流域』を調査されました。
  貴重なお話が満載です。是非、ごらん下さい。
 御協力 兵庫教育大学学校教育学部附属中学校


小鵜飼船模型(こうがいぶね) 山形大学附属博物館所蔵
 全長88cm 幅21cm 帆柱50cm S57年製作
 帆は茣蓙でできていて、最上川を行き交った。
 最上川舟唄に唄われている独特のかけ声は、船頭さんが綱で舟を引くかけ声といいます。

参考 富士川音頭  〜山梨県河内地方〜

   船は帆あげて 川瀬を上るョ (ヤッコラセー ヤッコラセー)  
     可愛い妻子が ヤレコノサ 出て招く (ヤッコラセー ヤッコラセー)

   富士川下れば 岩淵泊まりョ  (ヤッコラセー ヤッコラセー)
       明けりゃ身延へ 引き小船 (ヤッコラセー ヤッコラセー)

   波は船べり どどどんと叩くョ (ヤッコラセー ヤッコラセー)
       濡れて棹さす 屏風岩 (ヤッコラセー ヤッコラセー)

   波高島から 下部へ一里ョ (ヤッコラセー ヤッコラセー)
       泊まりゃ湯の宿 雨となる (ヤッコラセー ヤッコラセー)

   国で名高い 身延山まいり (ヤッコラセー ヤッコラセー)
       上り下りは 船でくる (ヤッコラセー ヤッコラセー)

   万沢十島 船場へ六里ョ (ヤッコラセー ヤッコラセー)
       駿河堺へ ただ一里 (ヤッコラセー ヤッコラセー)

   上り船見りゃ 愛想が尽きる (ヤッコラセー ヤッコラセー)
       下り船見りゃ また惚れる (ヤッコラセー ヤッコラセー)
    
 資料  ー甲州道中記ー 富士川下り
  
 身延より東海道の富士川へいづる舟路あり、作者一九、一年身延山へ参詣し、かの舟にてくだらんとて、身延をたちいで、一里ばかりきたりて、大津といふ所より乗合の舟出るよしをききて、大津にいたりしに、はや乗合の舟は出はらひたりといふに、ぜひなく川端にいでて、川上より煙草をつみたる舟きたるに便船をこひて、供の者と二人、船賃、一人前百廿四文づつ出して打のりたるに、
 舟は逆おとしにて、こぐといふことなく、ながるるにしたがひて舵(かじ)をとり、一人の船頭、棹(さお)をもちて舟の舳先(へさき)にたち、川中へさし出たる岩どもに棹をあてて舟のあたらざるやうに岩をよけて、舟を自由にまはすこと、まことに見るにあやうく、左右の岸は屏風をたてたるごとき岩山の間をながるる川にて、水勢矢をゐるがごとく、又おもしろき形の岩ぶりよき松など、岩の上にたちてめづらしくもまたおそろしく、今や舟くつがへるかとおもひしことたびたびありて、衣類、荷物などをぬらし、一心に神仏をねんじゆくうちに舟をあらたむる御番所ありて、旅人の国、所、姓名をかきしるす。
 これは、この川にて水死する者、おりふしあるゆへ、さやうのことあるときのためにしるしておくといへり。いかさま乗合一人もたすからざるときは、何処の者ともしれず。
 さあるときのために、国、所をとめおけば、この川にてあいはてし人、無縁にはならずと、船頭打わらひつつかたりたり。かくて、富士橋の下、釜が淵といふ所は、まことに目をあきて見られず、おそろしき難所なり。そこをすぎて、ほどなく東海道富士川にいでたり。大津をいでたるは、今朝五ツ時なりしに、富士川につきたるは、昼時なり。
 五つより九つまでふた時の間に、十三里の舟路をはしりしなれば、いたっての早川にて、なかなか食事などはすることならず。この舟、甲州へかへる時は、日数五日かかりてひきのぼるといへり。まことにめずらしき舟なればと、ありしままをここにしるしおきぬ。    十返舎一九の「甲州道中記」より


 相模川水運跡を訪ねて 旧小倉村周辺


相州津久井領絵図(部分) 慶安三年(1651) 津久井町指定重要文化財(平成4年4月指定)
                      津久井町青山 平本家所蔵
                      「津久井の古地図」津久井町史編集委員会より転写

  
城山町原宿 大山不動尊  2005.8・21撮影 1999・2・26撮影

 
 水天宮  原宿の大山不動尊のある辻を南へ、大山道を下る。相模川の崖の途中には馬頭観音が祀れている。相模川と谷津川が合流する地点に渡しがあった。対岸は「船渡河原」と呼んで、人々の往来があった。現在では、その広い河原でバーベキューを楽しむ人が多い。

 
 川端(カワバタ) 内田家の大ケヤキ、船着場に降りられるように道ができていた。

 
 船着場にふさわしい、舟をつなぐための岩か、大ケヤキの根の向こうには石段が続いている。
 
 
串川と相模川の合流地点、「店の河岸(ミセノカシ)」   荷物の積み下ろしをした場所。六地蔵

 
 河岸から積下ろした荷物は「尾崎坂」を上がって津久井の集落に運ばれた。


 
坂の途中には荒れ果てた稲荷社があった。境内は荒れ果ててはいるが、祠が覆屋の中に安置されているので建物の保存状態は良好。原宿の市神社、中沢の蚕影社、東林寺の浅間神社等と共に文化財的価値が高い。相模川水運が盛んだった頃を彷彿とさせる貴重な文化遺産と云えましょう。
 
 
坂を上りきったところを「尾崎(オサキ)」と云う。馬頭観音、地蔵様等の石仏が集中する。火の見櫓や西南の役に出兵戦死した「落合平次郎」の碑や徳本上人念仏塔もある。

    
 
小倉八幡神社の遠景            二本松八幡神社水神塔 
    

いかだ流し「私たちの相模原」P159
左の「水神塔」は天明7年に「筏乗」をしていた人たちが奉納しました。
 尾崎から北北西の方向に八幡神社が見える。その背後には雌龍籠山がひかえる。旧大嶋村の諏訪神社、橋本「神明社」、そして川尻八幡神社など、どの神社も龍籠山の方向を向いています。
    鳥居の前の道、右に曲がれば「小倉の渡」へ、左に曲がれば根小屋村経由して津久井の村々、愛川や半原につながって行きます。
 相模川水運の歴史は昭和の初めに終わったと云われています。私は城山ダム建設によって水没した、荒川集落にもしかしてあるのではと思いながらその名残を見に行きました。場所は相模原市二本松八幡神社境内です。移された数々の石造物の中に「水神塔」を見つけました。作られたのは天明七年4月とあり、その年の一年前の七月、関東から奥州にかけて未曾有の大洪水があり多くの犠牲者がでました。水神塔はもしかしてその時亡くなられた方の供養塔かも知れません。更に、「當村 筏乗講中」と読めました。やがてその石塔も風化で判読ができなくなってしまうかも知れません。荒れ果ててしまった尾崎坂の稲荷社、ここで消えてはならぬと踏ん張った。
 厳しい環境の中で、名の知れぬ文化遺産が消え去ろうとしています。みなさんの協力で何とか後世に語り継いで行きたい。あらためて博物館活動の重要性を問うた取材でもありました。(2005・8・22 記)

参考資料
相模川辞典 1994 平塚博物館
町制施行40周年記念  1995年 城山町要覧
湘南寺のあゆみ 平成11年11月 湘南禅寺
山梨の算数ものがたり 昭和58年12月 山梨県数学教育連合会編
TRAIN VERT august 1996 特集 川を旅する 水の道・利根川
利根川治水史 昭和18年6月 栗原良輔著
城山風土記 第3号 九十歳の雑記帳 平成7・3 城山町史編さん委員会
相模川歴史ウオーク 前川清治著 2005・5
埼玉東部今昔物語 本間清利著 平成5年10月 望月印刷
新農村建設の歩み 八郎潟新農村建設事業団 昭和51年9月   
高瀬船 渡辺貢二著 崙書房 1978・4
利根川高瀬船 渡辺貢二著 崙書房 1990・4
葛飾北斎 富嶽三十六景 昭和57年6月 MOA美術館
十返舎一九の甲州道中記  鶴岡節雄校注 昭和56年6月 千秋社 
みどり樹 vol.28 summer 2006 山形大学 
  
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