北相模の芭蕉句碑
                                  撮影2006.8.12
 「カワラノギクを守るの会」の活動が新たに始まった。相模川に自生するカワラノギクを保存するためだ。相模原市とのご協力を得ようと河又会長とお願いに歩いた。私は25年ほど前に「ミシマサイコを育てよう」と記されたパンフレットを持って受付の方を尋ねた。
 直ぐに担当の方が来られ、文化財保護課を案内して下さった。担当の方からご説明をお受けしたところミシマサイコを今でも育てていること、またその花が今咲いている、隣ではカワラノギクも育てているとのことだった。うれしくてたまらなくなった。ありがたい。環境情報センタの入口で見たカワラノギクを河又会長は「孫に会ったようだ」といった。
 
   
  相模原市下九沢・作の口 小泉家の芭蕉句碑・利角が建立   大島古民家園に咲いたミシマサイコ

  利角はは下九沢の名主で小泉茂兵衛幸隆と云い、天然理心流の達人で作の口に道場を開きました。
 市指定文化財に登録されている神文血判状は幅18cm、長さは560cmにも及び、181名が名を連
 ねています。戒名を「利劍道輝居士」と云います。(嘉永7年6月19日没)
  陽炎や柴胡の原の薄曇   芭蕉 この碑は元、南橋本駅付近の相模野にあった。その地点を「芭
 蕉塚」と称していたが、明治2年相模野入会野を各農家が開墾した際、心なき人がこの句碑を路傍に
 放り出してしまった。後、小泉家の方が見つけ自宅に持ち帰り庭の築山に建てた。碑裏には「利角建
 之」とある。利角は自在庵派の俳人である。


古民家園
 旧青柳寺の庫裡(くり)」で、江戸時代中期に建てられたと推定されています。建物の東側には柴胡(ミシマサイコ)とカワラノギクが植栽されてます。


  ミシマサイコとカワラノギク





 
   芭蕉句碑 拡大部分 「陽炎や柴胡の原の薄曇   芭蕉」

参考資料  「筑井紀行」 小山田与清著
    三保道記 巻第四より
(上略)相模の原は、橋本、九澤などいふ里より、藤澤の駅のわたりまで、たてに七里ぬきにも一里に余れる荒野なり。ここかしこにうち群れつゝ、をとめらが金串もて掘りとるは柴胡なりけり。和漢三才図会六十七に「相模国土産柴胡鎌倉より出づ、最も上品」といふはこの原より出せるなり。(下略) 安西勝 校訂

         
  秋布可起 隣ハ何乎 寸流人そ  ものうきも 是におさまれ 虫の秋 西弧(さいこ) 文化七年 西弧建立
  秋ふかき 隣は何を する人ぞ (表面)               (裏面) 相模原市下九沢 八坂神社境内

    
   芭蕉句碑  ものいえば くちびるさむし 秋の風  相模原市大島 諏訪神社境内

    
  相模原市大島 神沢不動尊境内      芭蕉句碑  
                     しばらくは 花の上なる 月夜哉

 俳句の倉子峠
 茶畑を過ぎると、道は途端に急坂となる。セミの鳴く山中を行くと、やがて切り通しのある倉子峠にさしかかる。最初は句 碑だけかと思っていたらその周りには様々な石塔群が現れる。私はいつか歩いた信州鳥居峠を思い出した。あの峠にも 確か沢山の石塔と芭蕉の句碑があった。
 案内板には更に甲州街道裏街道とあった。峠を降りて来ると木陰で休んでいるオバサンたちに出会った。「あの・・・」私は峠のことを聞いてみた。やはりここは、裏街道だと。芭蕉が来たかはまるで分からないが、私には本当に来たような気がしてならなかった。    撮影2006・8・19

 
 藤野町下倉・倉子峠入口

 
   倉子峠(くらごとうげ)

 
   峠の馬頭観音

 
  峠の神
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     芭蕉句碑 各務支考(かがみしこう)句碑 馬頭観音石塔群

     春なれや名もなき山の朝霞      はせを
     牛呵(しか)る声に鴫立つ夕べかな  東花訪

    
    馬頭観音石塔                       二十三夜塔 文化六年(1809) 裏面

    「佐野川村誌概要並ニ陣馬山の展望」  郷土研究会発刊  昭和6年11月再版

                    相模原市立津久井郷土資料室所蔵

佐野川村誌概要並ニ陣馬山の展望
表紙  昭和6年11月再版

 相模原市立津久井郷土資料室には貴重な資料が満載されている。倉子峠にどうしてあんなに石碑が集中しているか取材の当時はただ漠然として不思議に思えていた。何故かと考えながら津久井郷土資料室を訪ね、昭和7年「生土」佐野川村青年団男女連合会発行の資料の中に上図を見つけたとき、何だか謎が解けたような気がしました。
 「・・・以前は往来の継場等もありしと見えて今に傳馬屋敷と呼ぶ遺名有り里人の口傳にも傳馬屋敷ありて・・・」と人々が行き交った形跡を窺わせます。現在の交通の流れは相模川沿いから大垂水峠を越え八王子に抜けますが、かつては甲州街道の裏街道として倉子峠から和田峠を越え恩方に出て八王子に抜けるルートであったことが分かります。
 こうしたことから、ひょっとして芭蕉もこの道を通ったのではないかと思えてくるのです。何の証拠もありませんが江戸大火のおりには、門弟が住む谷村を何回も往復したり、勝沼では「勝沼や馬子も葡萄を喰いながら」などの名句を残していることから、一度ぐらいはこの峠を越えたのではと思えて来るのです。皆様方の更なる論議を呼びたいところです。   所蔵 相模原市立博物館

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