与瀬神社絵馬堂天井俳句
                                
撮影 2005・12・20
 いつの時代も旅は楽しいものです。「東海道中膝栗毛」書いた十返舎一九は「甲州道中記」も書きました。内の女房は阿多福だとか甘鯛のような面つきなんて、怒られそうなこと云いながら与瀬を通ります。茶店では鮎の寿司を食べながら「・やわらかでよい・・」と云い、こんなことも書いた。「舟渡しあり、渡し守に、川の名をとへば、さくら川といへり、比の川二度渡りて、程なく吉野の宿なり。比川、不二の雪とけて、比川に水ます。雪花に似たるもの故桜川の名ありと。」
 与瀬は甲州街道一宿の一つで弘化元年(1844)には、宿高390石、町並み6町50間、人口566人、戸数114戸、本陣1、旅籠6、問屋場1ヶ所があった宿場町です。
 
与瀬の宿にも多くの人々が行き交った、芭蕉や素堂も歩いた。与瀬神社絵馬堂は明治19年に建立された。そこに俳句を奉納した人々は愛川、田名、川尻、溝村など広範囲に渡っている。天井格子に描かれた赤い色はベンガラか、当時の人々の暮らしが見えてくるようです。

       
                             
十返舎一九 「甲州道中記」より

  
   
新編相模国風土起稿の中の蔵王社       与瀬神社拝殿

蔵王権現の図

戦前の与瀬神社祭礼 

与瀬神社
 創建の時代は不詳ですが、古くは相模川の北岸に祀られていたものを、天和2年(1682)に現在地に奉遷、元禄年間に境内を整えたと云います。明治37年、惜しくも社殿を焼失しましたが、大正3年に再建されました。
 例祭は4月13日に行われ、神輿渡御の折には、御供岩の前で特殊な神事が行われています。通称、「与瀬の権現様」と云い、平塚など各地に「権現講」と称する参拝講が結成されています。
 御供岩由来 伝承によると、その昔、ヤオとキヨと呼ぶ二人の若者が相模川の岩場で漁をしていたところ、御神体が網にかかりました。二人はそこに祠(ほこら)を建てその御神体を祀ったところ、村里に疫病や火災が流行始めました。困った村人は「不浄な場所に祀った祟りだ。」と、お宮を今の地に遷しました。
 祭りの掛け声に「ヤオー」「キオー」と呼ぶのはその時の二人の名前だと云います。以来、御神体が網にかかった場所を「御供岩(ごくいわ)」と呼ぶようになり、桜咲く4月13日には、その岩の前で盛大に「御供岩祭」が行われるようになりました。
 戦前はその日が来ると、男性は川に入り禊(みそぎ)をしたと云います。また女性は前の晩に白装束姿となり「はだしまいり」をしたと云われています。
  現在その場所は湖底に沈んでいますが、 その岩の一部を湖畔に移し祭場としています。昭和29年、その御供岩に最初のソメイヨシノが植栽され、現在、湖畔には凡そ2000本の桜が咲く名所となっています。
 与瀬学校 相模湖町立桂北小学校の前身、与瀬学校は、明治6年6月28日に設立されました。場所は、現在と違って、慈眼寺にありました。その後、明治8年2月に与瀬神社の社務所に移転しました。明治7年1月の報告書によると、生徒は男子40人、女子24人の64人がいたと云います。教師は諸星一作、石井芳圃、坂本荘太郎の三人で、中でも諸星一作は秦野村渋沢の生まれて、官軍に従い「蛤御門の変」や「函館戦争」に従軍した経歴の持ち主です。
 与瀬小唄歌碑 境内の中ほどに「ハー 陣場夕焼け 小仏日暮れ あの灯恋しい与瀬の町 与瀬の町 」と書かれた歌碑があります。昭和6年春、白鳥省吾、加藤武雄、諸星一三、山下一平の連作によって「与瀬小唄」が誕生しました。そして昭和46年、村田英雄の「相模湖音頭」と共にレコード化、島倉千代子さんが歌われました。


     
          明和三年(1766)               宝永三年(1706)

  
「新編相模国風土起稿」ではここを仁王門と表記していますが、仁王様が見当たりませんでした。更に風土起稿によれば「仁王門アリ金峯山ノ額ヲ掲ク」とありますが、額もどこにあるか分かりません。これも明治の始めに吹き荒れた排仏毀釈の影響なのでしょうか、東隣に「別当金峰山慈眼寺」とあることからも神仏習合の歴史を垣間見ることができます。
  
稲荷社  貞享元年(1684)  

     
                         絵馬堂 明治19年建立 この天井に俳画を奉納

  


  


  


  


  


  


  


  
               境内にある「与瀬小唄」の歌碑

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