伊奈石のふるさとを訪ねて 撮影2005.4.16(土) 屋根のない博物館では石仏の崩壊が少しでも食い止められるよう、石仏調査を実施しながら、原宿石造物群や向原笠付地蔵塔などの修復作業を行っています。また中沢の山王様には簡易な屋根を架け酸性雨から守る作業を続けてきました。 今回の調査は東京都あきる野市五日市の山中に産する通称「伊奈石」でできた石仏が多数町内にも見られることから、五日市で巾広くご活躍されている樽先生にお来し戴き原石調査をして戴きました。 (調査の内容は後日公表の予定しています) ![]() ![]() ![]() 化地蔵 地蔵像部分は伊奈石、台座は七沢石 中沢三王様は伊奈石 ![]() ![]() 向原山王神社石仏群の調査 ![]() 伊奈石のふるさと 東京都あきる野市五日市横沢入の山中 ![]() ![]() 伊奈石の石切場跡が残る横沢入 ![]() ![]() ![]() ![]() 石の破片を捨てたズリ場 ![]() ![]() 箭(や)跡が残る石切り場跡 ![]() ![]() ![]() ![]() 大悲願寺への道 ![]() ![]() 大悲願寺の山門 豊富な伊奈石を利用して五輪塔、宝筐印塔、石橋や石垣等が盛んに作られました。寺の裏側に広がる山が石切場跡になっています。境内は現代版伊奈石の博物館のようでした。やがて白萩の花が咲き、夕暮れにはムササビが活動を始めるとか・・・・・ ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 天保十三年壬寅七月吉日 石工 當村 田倉藤兵衛 ![]() ![]() 元禄8年(1695)建立、修復工事 平成4年(1992)完了 ![]() ![]() 五輪塔 ![]() ![]() ![]() 修復中の観音堂:寛政六年(1794)再建 ![]() ![]() 過去帳に「宝永二年(1705)二月の庫裡裏に掘り四月完成」と記載 ![]() ![]() 表庭の井戸枠 裏庭の井戸枠 ![]() ![]() 寒念仏碑 文政5年(1822) 石灰岩 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 岩走神社 ![]() ![]() ![]() 常夜燈 天明二年(1782)壬寅 水鉢 年代不明 伊奈石 ![]() ![]() あきる野市 五日市三内 山王権現社 ![]() ![]() 左 法印栄覚 享保2年(1717) 右 寛文8年(1668) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 永命地蔵 旧市倉家住宅 ![]() ![]() 旧市倉家住宅 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() あきる野市五日市 樽 お地蔵さん 石工の技と伊奈石工 樽 良平 伊奈石 伊奈石は、新生代新三期の新しい地質時代に海底に堆積した地層で、固化があまり進んでいない疑灰質の粗流粒砂岩である。川石より硬度が低く適度な硬さをしているので加工には最適である。だが、それは風化しやすいという伊奈石の決定的な弱点である。 伊奈石の地層は厚さ10メートルほどで、あきる野市高尾山西側から秋川を北へ越え、横沢入の尾根部(標高300メートル)に沿ってほぼ直角に東に折れ、日の出町の日の出団地北側に延びている。同じ厚さ10メートル弱の砂岩層が高尾山東斜面から、伊奈石の約100メートル東(上部層になる)に伊奈石に平行して分布している。これを「高尾石」と名付けることにする。 高尾石は伊奈石より粒子が細かな砂岩でややもろいが、石切り場周辺に石臼の未完成が数多く残されていることから、主に石臼が造られていたと思われる。 伊奈石の石切り場は伊奈石の層に沿って、秋川に架かる五日市橋際の放光院跡から秋川に横切って北へ、横沢入からは東へ日の出団地まで延びている。ここから切り出された伊奈石の量は莫大なもので、伊奈石石造物が東京、神奈川、埼玉、千葉、山梨の一都四県一円に分布していることと合わせて、その量の多さが想像されるであろう。 「多摩のあゆみ」 第112号 特集 中世の技術 職人より引用 戻る |