相模原大開発を考えた人々 〜幻の相模野用水取水口はどこ〜 作成 2013・1・21
◎はじめに 日本の近代水道の歩みは、明治16年(1883)たまたま日本に来ていたと云うイギリス工兵中佐パーマー(Henry Spencer Palmer)によって初められました。それ以前は、士族や横浜の商人らが中心となって多摩川から水を引く工事を進めていましたがうまくゆきませんでした。 パーマーはこの年、水道建設のための調査を行い、その翌年からは本格的に水道敷設工事を開始しました。旧城山町中沢地区の木上家には、当時パーマーさんが自家の横井戸を見て「これは良い水だ。」と云った話が伝わっています。 ◎寛政3年、遠大な相模野用水取水計画
寛政三年の計画から、相模野台地を潤すための用水の取水口はどこかと云うことになりますが、パーマーがポンプで旧津久井町の三井から取水しいたのに対し、更に上流の旧藤野町吉野宿にある、沢井川と相模川が合流する小猿橋と云うところから取水する計画を建てました。この小猿橋から相模川の左岸(川下を見て左側)沿いに用水路を掘り最終的には相模野台地全体を潤そうとした計画であったようす。 この幕府(相州津久井県)からの回答文書には、用水が完成した場合、相模川の水位が今より五歩一寸下がるのではないかとか、春先や日照りが続いた時などは筏や通船に支障が出てしまうのではないか、そのことによって百姓たちが農作業の合間に生産した炭、板、小割、材木などの運搬ができなくなるのではないか等と述べながら新田取水計画を取り下げました。 この計画は、上申だけで結局中止となりましたが、明治13年から15年にかけ再び相模野台地開墾の請願が東京の士族である山田照信からも出されました。その「水路掘割図」には旧相模湖町与瀬地区にある「樫ノ木渕」から取水し、相模野台地を潤しながら東海道を越えた鵠沼まで」と用水の流路は遠大でした。 二つの計画は、どちらも達成はされませんでしたが、取水口を「小猿橋」や「樫ノ木渕」にしたことは、高度な数学的な計算があったからだと思います。二つの計画された取水口から中沢地区までの地形は急峻でしかも軟弱なため、現在でも千木良の赤馬(あこうま)から三井までの区間は崖崩れが起こりやすく、しばしば交通が遮断されるほどです。こうしたことから、明治期には大雨により地滑りが発生し導水管の破損事故等が発生したこともありました。 ◎近代水道の始まり パーマーが建設した横浜水道は当初から給水ポンプを使用していたことから故障が度々起こり、また石炭による燃料費の高騰や自然災害による導道管の破損など、不安定な水の供給を行っていたため、明治30年取水口を三井から青山に付け替え「自然流下法」に切り替えました。 その後、相模原の住民を初め神奈川県民や軍需工場等への水の供給をより安定的にできるよう昭和15年には、新たな「河水統制事業」を始めました。 河水統制事業は当時、軍需工場が集中していた横浜や川崎に向け、水や電力を安定的に供給すると云う大役を担っていたのです。 相模川河水統制事業計画図 神奈川県企業庁史より ◎幻の相模野用水が本当に敷設されたとしたら 現在、私たちが水道水として使用している水は沼本ダム(上図では津久井ダム)から導水トンネルを通って谷ヶ原浄水場を経由しながら各家庭に供給されています。沼本ダムからは自然流下法によって川の流れのように谷ヶ原浄水場へ流れ込んでいます。 沼本ダムの高さは34・5メートル、取水口がどの高さに設計されているか分かりませんが、その水平面を国交省京浜河川事務所が発行 した「スカイウオーク相模川」集などで辿って見ると相模ダムの直下まで行きつくことが分かります。つまり、ダムがない時代に用水路をつくり相模野まで水を流す場合は、最低でも取水口を現在の相模ダムの直下まで延ばさなければなりません。しかし、現状では導水トンネルを通って流れているので地表を用水として通す場合は、更に水位を上げることが必要になります。そのことは「更に上流に取水口をつくらなければならない」と云うことになります。 「神奈川県営相模原開発畑地灌漑事業計画」より ※津久井堰堤は沼本ダム、相模堰堤は相模ダムを表わします。 ※津久井堰堤に取入口とあるのは現在の県営水道取入口と同じです 県営水道の取水口がある沼本ダム 相模ダムの直下に見える沼本ダムの水平面 つまり、寛政三年当時では吉野地区の「小猿橋」、また明治十三年当時では与瀬地区の「樫ノ木渕」を推定し工事を進めようとしました。 仮に、このような用水路の工事が実際あったとするとかなりの難工事が予想されたと思います。これは地形が複雑なために川の流れは蛇行を繰り返し、またそこには無数の小河川が入り込んでいること、窪んだ地形では水道橋のように樋を懸け、また地形によっては湾曲させ、盛り上がったところでは開削という具合にして工事を進めたと思います。そうして軟弱な地形は山崩れをも起こす危険をはらんでいました。 用水路で比較的長いとされている信州小諸藩内にある五郎兵衛新田でも総延長が20キロであり、その途中には何ヶ所かのトンネルも掘られています。幻の相模野用水路がもし建設された場合<参考資料ー3>、仮に谷ヶ原までとするとその長さは凡そ20キロにもなり、そこから更に相模原市役所あたりとすると8キロがプラスされ、取水口からの総延長は28キロメートルにもなります。また仮に用水路の終端を、東海道を越えた鵠沼(くげぬま)までとすると、60キロメートルにもなり他を寄せつけません。 こうしたことから建設費用は莫大なものになったと思います。玉川上水は江戸市民の飲料水として生活を潤わせましたが、その玉川上水の途中には枝のように分かれた小用水(分水)もつくられていました。そうして畑作も盛んに行われました。 相模原では、「相模川河水統制事業」の中で畑地灌漑事業が着工されましたが、始まったのは昭和23年からで、かなりの歳月を要しました。 寛政3年、幻の相模野用水取水口 | 沢井川が相模川に合流するあたり/小猿橋 | | |明治13年、幻の相模野用水取水口 ↓ ↓勝瀬から与瀬に通じる道のちょっと上流/樫ノ木渕 「日本交通分縣地図 其三十九 神奈川県 発行 大阪毎日新聞 昭和5年7月5日」より ◎まとめ 相模原市は戦時中、軍都として多くの陸軍の施設がつくられました。また戦後の工場誘致時代には大量の水を必要としました。そして現在では73万人の相模原市民を始め神奈川県民の命を支えています。人は生きていくためにはどうしても水が必要となります。かけがいのない命の水です。名もない当時の人々が駆けめぐった仮称相模野用水の行方は、後に畑地灌漑事業として一部で蘇生しましたが、それもまた高度経済成長の波の中でいつしか消滅しました。私たちはその当時の人々が考え出した情熱を思いおこし、後の世に伝承し顕彰して行きたいと考えています。 小猿橋も樫ヶ渕も、今は相模湖の湖底に沈んでいます。寛政三年の設計図はありません。只こうして考えられることを書き並べ当時の人々の願いを記して見ました。 緑区役所の落成を祈念してこうして先人たちが延々として築いてきた証を振り返ることは、多分、明るい未来を予感させてくれると思います。このことが呼び水となれば、このうえなく幸せである。 参考資料1 津久井町史 相模原市(博物館)平成23年3月 発行 藤野町の地名 藤野町教育委員会 昭和54年3月 神奈川県営相模原開発畑地灌漑事業計画図 神奈川県企業庁史 神奈川県企業庁 昭和38年3月発行 スカイウオーク相模川 空から見た写真集 京浜河川事務所 平成18年3月 発行 相模原市制50周年記念展 相模原 ―その開発と変貌― 相模原市立博物館 平成16年10月 発行 屋根のない博物館HP 日本交通分縣地図 其三十九 神奈川県 発行 大阪毎日新聞 昭和5年7月5日 参考資料ー2 寛政3年 相模川より相模原開発用取水船運影響回答書 所蔵 緑区二本松 角田家 参考資料ー3 東京山田照信出願図 明治13年〜15年 所蔵 市立相模原博物館
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