串川ぞいの聖徳太子信仰を中心に
                                作成2011・7・29
                                追加2011・11・26 馬石地区
                                追加2011・12・11 町田市上相原地区

 震災後、これから先どうなるだろう。「ガンバレ日本、がんばろう日本」と云うけれど、本当に頑張って来た日本の人々、その人々の名前は分らない、無名な人々。連綿として受け継がれてきた確かな技術 ・・・・。
 今、ここで終われない。工人たちの心のふるさとを辿る灯台の明かりのように、あたりを照らしている。それは小さな明かりのようにも思えるが何千年と云う重みを携えた明りなのだ。けっして過去形ではない。伝統と云う重みを兼ねそなえた明りなのだ。
 その職人たちの逞しい姿を津久井に尋ねました。
 旧中沢村金剛山普門寺の高台にあるお堂の奉納額に、ノコギリやチョウナを使う人々の額があります。また、その隣には、その大工さん達が使うカンナ、物差しやノコギリ等の模型も奉納されてありました。
 山また山、森林資源に恵まれた津久井の相模川の支流、串川沿いの集落を中心として数多くの太子塔が建立れています。かつて大工さんたちによって盛んに信仰されてきた、聖徳太子の信仰、他の地域とは比べ物にならないほどの太子塔です。

大工道具や仕事の様子を描いた奉納額                
  
 明治十三年辰 四月吉日           年号なし  所蔵  旧中沢村金剛山普門寺
 當村 願主 山本彦兵エ



旧津久井町地域の太子塔

  
旧青山村・青山交差点北 寛政六甲寅月天 基壇右 半原 田代 荻野 角田 三増 美和(ミノワ) 熊坂村 津久井縣
                    中央 聖徳太子塔  職人 講中
                     石工 信州高遠 田原村 酒井磯七 (庚申塔が横にあり世話人等の判読困難)


旧中野村諏訪大明神境内(現中野神社 )





 太子塔についての研究課題

 @太子塔を広域的な単位で建立する。
   旧青山村青山交差点北・旧内郷村御堂沢太子堂

 A太子講中が村内の神社に神名塔を建立する
   旧中野村(現中野神社)

 B各集落単位に太子塔を建立する。
   串川沿いの太子塔

  
旧根古屋村・諏訪神社拝殿脇       安永七戌天(1778)  右基壇 職人  中央基壇 供養塔
                      十一月吉日     左基壇 講中

  
旧長竹村稲生・春日神社境内脇


   
破損個所が多く判読が困難  太子講供養  梵字?奉造立○ 宝暦十 庚辰(1760)


    
旧青山村来迎寺入口・串川交番脇       政三辛亥 ○月吉祥日(1791) (は干支から寛政と判読しました。)
                      ○講中


関 青山神社境内の脇


  
文化十五戊寅年(1818)    奉造立聖徳太子講中       奉建立御寶前
正月二十有一日          元文二丁巳天十月 日(1737)  宝暦十一辛巳九月吉○(1761)
              

旧鳥屋村馬石地区
  
太子供養塔  右側  寛政十一年巳未七月十七日建之
       左側  馬石村  講中 世話人 ○右衛門  外 廿二人


旧鳥屋村渡戸地区                           撮影2011・8・6
  
   ↑太子塔 ツツジの大株と木祠    弘化四七月(1847)
1月14日の小正月の日に、渡戸地区では太子塔のある前の川に集まり、ダンゴ焼をするそうです。
近くには近年まで屋根葺職人をされてきた家もあり、こうした太子信仰が連綿として続いてきたことを物語っています。
    
旧鳥屋村中下地区                明和六巳天八月 日(1769)
                        講中三十一人

旧鳥屋村中上地区
    
文政十三年寅 七月吉日(1830)  年号不詳     子育孝養太子座像? 年号不詳 (下に首の部分を拡大)

 左の石造物には年号も名も記されてありません。長い年月にお顔が剥がれ、苔類も着いて原型を解りにくいものにしています。
 耳元には美豆良(みずら)と呼ばれる結い方の形跡や首に袍衣を纏った結び目を確認することができます。また、膝から手にかけて膨らみも感じさせます。これはひょっとして聖徳太子が子供を抱か
れている姿のようにも見えてきます。
 蓮座からの高さが26p程の石造物ですが、もし、これが事実としたら非常に珍しく貴重な存在となります。


旧相模湖町地域の太子塔
  
旧千木良村・善勝寺            年号なし    太子堂 御神燈

 天保十四 願主講中
 明治三拾三年 講中

  
御堂沢太子堂           大正六丁巳八月建之  基壇 講中 寄附連名 (略) 太子講祠寄贈者名板


  
   


旧相模原市域地域の太子塔

    
当麻山無量光寺境内    奉建立聖徳太子
                  享和三癸亥二月施主當邑
                      春山武左エ門 
                      同 嫁 磯女
     撮影2011・6・28     撮影2011・8・2
   
市場 年号判読困難       麻溝 天応院  明治三十四年



東京都町田市上相原地区
                                撮影2011・12・11
  
正面 (中央上) 禮 順 奉  右側側面 于時 寛政八丙辰歳三月吉日  旧町田街道 右は境川を越え川尻村へ
    右側 西国四国     左側側面 武州多摩郡上相原村
    左側 秩父坂東          花形喜左衛門

基壇正面 塔B供



孝養太子の基本形
  
 重文  大阪 道明寺      重文 京都仁和寺   御一代記 京都 竜谷大学
 太子像の主な形は、伝記に基づいて、2歳の南無太子像、16歳の孝徳太子像、馬上太子像、講讃太子像や摂政太子像などがあります。
 津久井地方の石造物に刻まれている姿は、聖徳太子が16歳のとき、父用名天皇の病気平癒を祈った姿をあらわしていると云う、いわゆる孝養太子像で構成されています。
 頭は、耳もとで丸く結った美豆良(みずら)と云われている結び方をし、両手に柄香炉を持っています。袍衣の上に袈裟をかけ、三宝に帰依している姿をあらわしています。 
  

   参考資料 (表紙)                  相州津久井領絵図
・   ・ ・  ・  ・  ・ 
調
                             
@農間A附木突職
一農間大工職
一農間B木挽職
一農家C黒鍬職
一農間黒鍬職
落合 ○蔵
奈良 ○○
宮城 ○○○○
奈良 ○○○
奈良 ○○○
一農間大工職
一農間木挽職
一同職
一農間大工職
一農間木挽職
小室 ○○○○
同  ○○
同  ○○○
同  ○○○
歌田 ○○○
一農間D屋根板批職
一農間E杣職
一農間大工職
一同職
一農間附木突職
斉藤 ○○○○
同  ○○○○
斉藤 ○○○
同  ○○
同  ○○○
一農家黒鍬職
一同職
一同職
一農間F鍛治職
一農家黒鍬職
同  ○○○
矢部 ○○
奈良 ○○○○
小室 ○○
矢部 ○○
一農間大工職
一同職
一農家黒鍬職
一農間大工職
一同職
矢部 初○○
同 ○○○○
同 ○○○○○
同 ○助
同 留○
一農間木挽職
一農間大工職
一同職
一農間大工職
一同職
同 ○○○衛門
同 ○○
同 ○○
山本 ○○
同  ○○○
一農間木挽職
一同職
一農間附木突職
一農間下駄屋職
一農間木挽職
落合 ○○○
同  ○○○○
宮城 ○○
同  ○○○
松石 ○○
一農間大工職
一農間屋根板批職
一農間木挽職
一農間大工職
一同職
同  ○○○
市川 ○○○○
同  ○○○
小室 ○○○
同  ○○
一農間G鞍結職
一農間H桶屋職
一農間I笊屋職
一農間J屋根葺職
斉藤 金○○○
同  ○○○○
落合 由○○○
哥田 ○○八
  附木突職
  大工職
  木挽職
  黒鍬職
  屋根板批職
三人
拾六人
八人
七人
弐人
人数四拾三人内


  杣職
  鍛治職
  下駄屋職
  鞍結職
壱人
壱人
壱人
壱人
  桶屋職
  笊屋職
  屋根葺職
壱人
壱人
壱人
 右之通取調奉書上候処、相違無御座候、以上
    明治四未年  右村
    七月 K百姓代 宮城治兵衛  印
       L与頭  斉藤佐五兵衛  印
       M名主  宮城治郎左衛門 印
       N民政
     御役所

                  

@農間(のうかん)/農作業のあいま

A附木突
(つけぎつき)/薄いヒノキの端に硫黄を付けた点火道具、マッチ

B木挽
(こびき)/きこり。木材をのこぎりでひいて用材に仕立てること。また、それを職業とする人。

C黒鍬
(くろくわ)/土木作業などを行う人。

D屋根板批
(やねいたひ)/

E杣
(そま)/林木の茂る山、木材採取の山の意から転じて、伐木作業、さらには伐採、造材に働く「杣人(そまびと)」の名称ともなった。

F鍛治
(かじ)/鎌や鍬等の金属製品を製作する。

G鞍結
()/和馬具師か、(検討要)

H桶屋
(おけや)

I笊
(ざる)/竹で製品を作り販売する。

J屋根葺
(やねふき)
































 木挽職と杣職との棲分が不明(検討要

K百姓代(ひゃくしょうだい)地方(じかた)三役の一。中期以降に登場し、村民代表として名主(なぬし)・組頭による村政運営を監視する立場にあった。
L与頭
(くみがしら)江戸時代、百姓代とともに名主(なぬし)を補佐して村の事務を取り扱った役。長(おさ)百姓。
M名主(なぬし)/関西で庄屋
N民政御役所
(みんせいおやくしょ)/神奈川県におかれた役所
※ 名前の部分の掲載を省略し、縦書から横書に変更しました。
 まとめの途中
 まだ、講中行事についての聞き取りは総てを行っていませんが、御堂沢の太子堂では毎年1月17の「山の神」の日に集まって米や酒を捧げ祀を行います。今年は取りやめたことも聞きました。串川沿いには○○バンジョウと呼ばれている大工さんの集団があるようです。
 今回、その伝統の重みを今に伝える、技術者たちの信仰の軌跡と云うべき、石造物を通し並べてみました。私自身が未勉強なためにタイトル負けしていますが、内容を掘り下げ高めて行きたいと思います。


参考資料  
   「飛鳥文化と聖徳太子展」 出典解説書 主催 聖徳太子奉讃会・東京新聞・東京中日新聞
          会場 新宿小田急百貨店 会期 昭和44年4月〜5月
   つくい町の古道 津久井町教育委員会 発行 二刷 平成4年9月
   聖徳太子への鎮魂  大橋一章  グラフ社 発行 昭和62年11月
   聖徳太子 斑鳩宮の争い 田村圓澄 中公新書43 中央公論社 発行 昭和46年2月8版
   聖徳太子傳暦摘解 小島叡成述  東本願寺出版部 発行 昭和40年7月
   聖徳太子信仰への旅 NHK「聖徳太子プロジェクト」  NHK放送出版協会 2001・11・30
   甲斐史学 甲斐地方史の諸問題  ー甲州大工仲間の成立ー 伊藤好一  甲斐史学会 発行 昭和40年10月
   法隆寺献納宝物の由来 石田茂作 発行 (財)聖徳太子奉讃会 昭和44年4月 非売品
   信州の職人 荒川久治 第一法規出版 発行 昭和49年6月
   津久井町史 資料編 近世2 編集 津久井町史編集委員会 相模原市(博物館) 平成23年3月
   

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