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@後方の木は桜、嫁いだ時に植えたそうだ。A中里家の人々、中央は明治22年生まれの春吉さん、右側は船頭さん後方の木は柳、トラックは砂利の運搬用。B後方、三角形に見えるのは「船渡の番小屋」で、更にその後方は船頭さんの家。C三脚のように見えるのは両岸に張ったワイヤロープの支え。
滝の渡船
津久井の最南端、葉山島下河原と相模原市のかけ橋だった滝の渡船は、戦前戦中いろいろな形で続けられましたが、昭和二十六年に大きくさま変わりしました。
専属の船頭伊井国太郎さんが葉山側に住み、両岸にワイヤーロープを張って滑車をつけ、船をつないで櫓で漕ぐ方法を取り入れました。
意地と人情の人伊井さんは、どんなに寒い朝でも7時には河原の小屋に来て、京浜方面になどへ通勤通学する人たちのために船を出します。彼らを水郷田名始発のバスに送りとどけ、夜は朝送った人々が帰るまで待ちました。
「本当に助かります。」というのが利用者の心からの声でした。
相模原市内の子供たちにとっては珍しい渡しで、三栗山登りや河原遊びの遠足に、大勢が楽しみました。
下河原部落の人々は、渡し場までの道路の整備を奉仕し、農繁期中に水出があった時には、夜業までしたこともあったようです。町村合併後、中学は七キロも離れた川尻に定まりました。しかし、下河原、中平の子供たちは、時間的にも負担の少ない、対岸の田名中学校に通うことが暫時みとめられ、この渡船のお世話になったのでした。
幾星霜の滝の渡船を見守り続けてきた、葉山の土手の古い大きな柳の木、もはや梢の裂けたその姿が、語りつくせない昔を物語っているような想いがいたします。
中里操 「津久井のくらしから」 平成元年11月 津久井郡農協協同組合
中里さんから聞いた話 滝の渡船:昭和12年頃までは土橋があった。1往復10円で昭和42・3年頃まで続いた。
船は相模原市から補助が出て、下河原、中平地区の半分の子供たちが田名中学に通った。昭和17年から30年生まれの子供たちで約70人いた。船頭は伊井国太郎さんで、山梨県市川大門町生まれ。
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