滝の渡船と三増に続く山道は

田名の初夏
滝の渡船 取材日 2005・9・23 秋分
 明治3年6月、イギリス人のマクレガーさんが田名にやって来て、日本で最初のカヌーが行われました。コースは田名から横浜までのコースであるが、初日は小倉まで行われ、美しい田名の風景や人々の暮らしを「カヌー巡行記」の中で紹介しています。
 私はこの「カヌー巡行記」を何年か前、原語と訳文を左右に並べ「さがみ野よもやま話」別冊として紹介したことがありました。資料は「相模原市史」を引用させて戴きました。その頃は淵野辺図書館内に「古文書室」があり、座間美都治先生、長田かな子先生、金井利平先生がおられ何かと御指導
をして戴きました。そうしたご縁もあり、いつかまた相模川のことをご紹介できたらとズッと思っておりました。
 私は、取材中、偶然自転車で通り過ぎようとした中
里操さんにお会いし、のどかでどこか懐かしい「滝の渡船」について、お話をお聞きすることができました。
 また、座間先生や長田先生のこともとてもよく存じておられ、次から次と貴重なお話をお伺いすることができました。
 「彼岸花 切り捨ててあり 踏まずゆく」、彼岸花が丁度咲くその庭に句碑もありました。
 忘れられそうな渡船、忘れられそうな山道。この日、三増の上宿から、田名の四谷に嫁がれた原婆さん97才が他界されました。きっと この山道を爺さんと通ったに違いない。 

 昭和29年か30年頃の滝の渡船 

 ↑        ↑  ↑  ↑               下河原から対岸は滝
 @        A  B   C
@後方の木は桜、嫁いだ時に植えたそうだ。A中里家の人々、中央は明治22年生まれの春吉さん、右側は船頭さん後方の木は柳、トラックは砂利の運搬用。B後方、三角形に見えるのは「船渡の番小屋」で、更にその後方は船頭さんの家。C三脚のように見えるのは両岸に張ったワイヤロープの支え。

滝の渡船
 津久井の最南端、葉山島下河原と相模原市のかけ橋だった滝の渡船は、戦前戦中いろいろな形で続けられましたが、昭和二十六年に大きくさま変わりしました。
 専属の船頭伊井国太郎さんが葉山側に住み、両岸にワイヤーロープを張って滑車をつけ、船をつないで櫓で漕ぐ方法を取り入れました。
 意地と人情の人伊井さんは、どんなに寒い朝でも7時には河原の小屋に来て、京浜方面になどへ通勤通学する人たちのために船を出します。彼らを水郷田名始発のバスに送りとどけ、夜は朝送った人々が帰るまで待ちました。
 「本当に助かります。」というのが利用者の心からの声でした。
 相模原市内の子供たちにとっては珍しい渡しで、三栗山登りや河原遊びの遠足に、大勢が楽しみました。
 下河原部落の人々は、渡し場までの道路の整備を奉仕し、農繁期中に水出があった時には、夜業までしたこともあったようです。町村合併後、中学は七キロも離れた川尻に定まりました。しかし、下河原、中平の子供たちは、時間的にも負担の少ない、対岸の田名中学校に通うことが暫時みとめられ、この渡船のお世話になったのでした。
 幾星霜の滝の渡船を見守り続けてきた、葉山の土手の古い大きな柳の木、もはや梢の裂けたその姿が、語りつくせない昔を物語っているような想いがいたします。 
         中里操  「津久井のくらしから」 
平成元年11月 津久井郡農協協同組合
    
中里さんから聞いた話 滝の渡船:昭和12年頃までは土橋があった。1往復10円で昭和42・3年頃まで続いた。
船は相模原市から補助が出て、下河原、中平地区の半分の子供たちが田名中学に通った。昭和17年から30年生まれの子供たちで約70人いた。船頭は伊井国太郎さんで、山梨県市川大門町生まれ。
  
              庚申塔   天保十二年十二月  講中   ここから三栗山や三増へ

   
急な「かち坂」をはうように登りきると、「切り通し」になった山道が出現します。途中にゴルフ場ができ今は道が閉ざされているため道は荒れ果て、所々に倒木が道を塞いでいます。
中里さんから聞いた話:昔、尋常小学校1年から4年までは今の葉山島センターのところに学校があり、蓮葉寺の井上要門先生が教えた。5・6年生は高等科がなかったので山道を通り三増の尋常高等小学校に通った。
 また、相模川が増水し田名に買い物に行けないときは山を越え「まんじゅう屋」まで日用品を買いに行った。

 
屋号が「まんじゅう屋」の三増のファミリーマート  葉山島センター
参考
「三栗橋の竣工」
田名湘南連絡の三栗橋二十六日開通  田名村字滝から相模川を隔てて対岸津久井郡湘南村葉山島には渡船によって交通しつつあったが、比不便を除くべく両村有志の発起で仮橋架橋中の所、愈々竣工二十六日渡り初め式を行ひ「三栗橋」と命名し諒闇中とて祝賀等は一切省略したが、参列者は篠崎田名村長・金井田名村議・中里湘南村議其他であった。 
       「横浜貿易新報」 昭和元年12月29日付  城山町史3 資料編 近現代
 
中里さんから聞いた話造の小倉橋の建設が始まった頃、下河原に三栗橋が完成。増水で何回も流されたりしたが、昭和12年頃まであった。義姉が昭和14年、対岸の番田に嫁いだ時は、既に橋はなく船で渡った。家が材木屋をやっていたので橋の修理もした。平塚から、船大工さんが来て泊りがけで船を修理したり新しい船を作ったりした。田名に行くときは、途中の銀次さんの家までは草履で行きそこから先は下駄に履き替えて行った。ソウセイの滝の近くに大きな梨の木があって食べに行った。
 三増には天狗松、旗立松、牛松と云う名の松がある。牛松の松は牛の形をした大きな松でそばに祠があった。祭りは八十八夜の夜に行われ、葉山島の人たちは山を越えて行った。三増の男たちは女装をしたり面白かった。
  
  小沢の渡船場跡近くの地蔵様

 
   六倉渡船場跡

  
                    「三栗山造林成功碑」 相模原市陽原 南光寺境内

 


 


 

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