椀倉(わんぐら・わぐら・わくら)のある町 2011・7・19 「暮らしを支えた五人組」の文章を追加 2011・9.25 旧城山町小倉・原地区を追加 撮影2005・5・29 津久井町三井古井部地区の椀倉(わぐら) 津久井町 根小屋 上稲生 時折、集落の中心部であったり、あるいは人影のないない場所であったり、小さな小屋を見かけることがある。 偶然にその小屋の中に机や臼などを仕舞い込む人を見かけた。「今日は何かあったんですか?」「親睦会かな・・・・・」人は生まれやがて死ぬ。人生儀礼。冠婚葬祭。そこには多くの人たちが集います。裕福な家は別にして。人が集まれば、「座布団」や「茶碗」や「お膳」などがどうしても必要となります。普段は家族の分だけあれば十分に足りる品々です。こうしは品々を一括して保管して置く場所が「椀倉(わんぐら・わぐら)」と呼んでいる小さな小屋です。 椀倉には古き良き伝統が息づいています。かってと云うよりも、ついこの間まで田植えをみんなと一緒にやっていました。椀倉は連帯意識の薄れる中、お互いに協力し合い、助け合ってきた当事を物語る貴重な文化遺産です。祭礼、道普請、川の草刈や秋の芝焼き、田植え、水番、共同井戸や用水の泥さらい、夜警、屋根葺替え作業、葬式や墓堀番まで「村」や「組」はかって強い絆で結ばれていました。日常の生活の中には「組」「衆」「講」「結(ゆい)」「座」などの組織がありこれらは「寄合(よりあい)」によって話し合い運営されていました。 こうしたムラの共同体は自治会や町内会に受け継がれています。人々の生活が多様化している中で椀倉が果たしてきた役割を考えることは決して将来にとっても無駄ではないように思えます。 城山町久保沢地区 雪の椀倉 撮影2005.10.8 城山町中沢ハケ東講中 八木家の椀倉 相模原市相原華蔵院入口の椀倉 相模原市相原 相模原市相原 撮影2008・11・6・ 相模原市相原 当麻田 城山町小倉地区 城山町中沢 堂面地区 農具置場を兼ねた椀倉、現在は空家になっています。 撮影 2005・9・23 葉山島 下河原地区の椀小屋(わんごや) 葉山島 中平地区の椀小屋 撮影2005.10.8
平入(南側)部分の庇が長くなって、雨の日でも物の出し入れがラクにできるようになっています。内部は引戸で仕切られた部分と棚もあり椀や座布団などがコンパクトに置けるようになっています。床や天井、壁は土壁などででき急激な湿気や温度などから収蔵品などが守られるよう工夫が施されています。現在は個人の物置となっていますが、椀倉としての機能を後世に伝えるため保存をされていくとのことでした。 原宿上宿講中 椀倉は道路の拡幅工事によって取り壊されました。中に保管されていたお膳などが町に寄贈されました。椀倉の中には、かって「井戸さらい」に使われていたシロ縄もありました。地域の深い絆によって支え会ってきた伝統がまたひとつと失われて行きます。 所蔵 城山町民俗資料室 撮影2007・5・26 当麻地区 上宿 当麻地区 中宿 暮らしを支えた五人組 相模原市当麻地区 柿澤 高一 (当時77歳) 私の住む地域は、あまだに江戸時代の名残りをとどめる五人組制度が「組合」という名で行き続けている。五人組制度というのは、江戸時代初期に制度化された隣保組織で、五戸を一組として異教徒や犯罪者を相互監視によって防止、告発させたものである。構成員に連帯責任を負わせ、貢租の確保や法令伝達にも利用された。 現在では、その本質的な意義は失われたけれども、住民の相互扶助には大いに役立っている。組合の役割は冠婚葬祭に際して、当事者の方針や意見に従いながら、行事の一切を執り行うことである。 組合の中から組頭を選び、組頭が采配を振うことになっている。組頭は、葬式ででいえば葬儀委員長の役割を果たすことになるので、親戚や地類なども組頭の言に従わなければならない。組頭の権威はそれだけ強いのである。 また組合の主婦は、台所の主導権をもっているので、手伝いの女達を使って料理などの計画や実施をスムーズに果たさなければならない。これらは地域の風習に従ってするから、組合の主婦のうち老練な物を頭にして、一切が進められる。当事者は組合に任せてあるから、いささかも心労する必要はないのである。まして葬儀のなどの際は、当事者は気が動転した胸中で接客どころの騒ぎではないのである。 各家庭で結婚式が行われた頃は、この組織が大いに利用された。田舎の婚礼の際には、お客を幾重にも招待するので二、三日続いた。 その都度、組合員の中から二名ずつ交代で、お相伴と称して一座の司会役を引き受けなければならなかった。 昔の地域社会は組合ばかりではなく、互いに思いやりの心を持って交わっていた。例えば近所に重病人が出た場合など、隣近所に呼びかけて鎮守様に呼びかけてお百度参りをし、病人の平癒祈願をした。お百度参りとは、お宮の拝殿の前二十メートルの間を百回往復し、一回一回手を合わせて祈願したのである。 向こう三軒両隣の間には「貰い風呂」という風習があり、風呂を交代して立て、互いに風呂を貰い合った。こうして、隣近所に心のふれあいの場が出来、自然に連帯感も育ち、温かい雰囲気がかもしだされた。 相互扶助の精神は、農作業の中にもあった。例えば、田植の頃になると、苗取り、苗運び、田植え作業など猫の手を借りたいほど忙しく「今日は○○さんの田植え」と言って手伝いに行った。これを「結(ゆい)」といって、田植えばかりでなく、屋根葺き井戸替えなど人手を必要とする時、互いに手伝い合ったのである。井戸替えは渇水期に井戸の水を汲み尽くして掃除することである。 また、養蚕の上簇期になると多忙になるので、この時も手伝い合った。養蚕や田植えが終わると「かいこ祝い」、「田植え仕舞い」といって酒宴をする楽しさもあった。 社会情勢は変化したが、昔の風習が次第に希薄になって行くことに寂しさを覚えるのは私ばかりではないであろう。 上簇:蚕は繭を作るころになると白から黄色に変わり「蚕がひきた」と云います、一斉にひきるため、この時期は特に忙しく人手を必要としました。 秋葉講や雹除けに榛名講の「お札」が建つ華蔵院前 田植えなど 資料 ふるさとのおしえ 神奈川県立老人福祉センター 印刷 神奈川新聞社発行 昭和62年3月 (上記の文章は「ふるさとのおしえ」P135より引用させて戴きました。) 戻る |