幕府最後の閣僚・藤沢志摩守次謙(つぐよし)

作成中 2009・6・3 
年表を加筆 2011・9・10
 郷土史家安西勝先生は著書「勝海舟の参謀 藤沢志摩守」の中でこんな事を書きました。勝海舟が陸軍総裁に、副総裁に藤沢志摩守が就任した夜の項です。「藤沢は講武所にいたころから知っている。年は十余り下だよ。桂川出身で毛並みはいいし、ずっと千五百石の旗本だから、おれが布衣百俵の軍艦奉行並のとき、職名は一枚上の軍艦奉行だったが、なあに海軍のことはまるで盲さ。しかし陸のことならすみからすみまで事情通だ。それが陸軍士官を代表しておれを立ててくれるという。この際は陸軍も海軍もねえ。徳川家という大船を操縦するんだ。嵐にかけちゃあ自信がある。沈没させずにどこか安全な港に入れるんだ。陸軍のわからずどもは、藤沢が例の調子で何とかするであろう。志摩殿、頼みますぜ・・・・・勝の心情はこうもあったろうか」
 歴史が大きく揺れ動く中、海舟を支え奔走した藤沢志摩守次謙とはどのような人物か、また水戸天狗党事件の結末と鳥羽伏見の戦いに慶喜をどんな風に見つめてきたか? 次謙は幕府最後の官僚として精一杯働き抜きました。
 やがて明治と云う新しい時代を向かえた時、次謙は既に燃焼し尽くしていました。明治11年の春、彼は熊谷や前橋方面に書画行脚の旅をしていました。
 知行地、相模原市相原、彼が晩年を過ごしたという家に彼の描いた絵も残されています。

   (両家の系図作成思案中)

西 暦 和年号 出 来 事 年齢
1820 文政3年
1821 4
1822 5
1823 6
1824 7
1825 8
1826 9
1827 10
1828 11
1829 12
1830 天保元年
1831 2
1832 3
1833 4
1834 5
1835 天保6年 4月11日 築地中道りの桂川邸に生まれる。名は国謙(くによし)、通称は甫悦、主税。父は幕府奥医師外科桂川甫賢、母さと。
1
1836 7 2
1837 8 3
1838 9 4
1839 10 5
1840 11 6
1841 12 7
1842 13 8
1843 14 9
1844 弘化元年 5月10日、江戸城炎上、大奥女中姉て「やは」老女花町の後を追って火中に消える。その悲しみから父甫賢は病臥、年末に没する。
10
1845 2 11
1846 3 12
1847 4 13
1848 嘉永元年 14
1849 2 15
1850 3 16
1851 4 17
1852 5 18
1853 6 19
1854 安政元年 20
1855 2 21
1856 3 10月1日、講武所の砲術教授方出役<桂川主税>となる。
12月26日、10人扶持を与えられる。)
22
1857 4 23
1858 5 24
1859 6 6月、横浜開港。「フランス軍人出征図」を模写。この前後、成島柳北、福沢諭吉、柳河春三、宇都宮三郎、神田孝平らと親交を結ぶ。
25
1860 安政7年
(3・18改元)
万延元年
1月13日、軍艦奉行木村摂津守喜毅(よしだけ)ら、館長勝安芳の咸臨丸でアメリカへ向かう。友人福沢諭吉も木村の随員となる。(木村摂津守は兄嫁「くに」の弟)、
3月3日、桜田門外の変
5月 咸臨丸帰国。
26
1861 文久元年 27
1862 2 1月15日 老中安藤信行、浪士に襲われ負傷(坂下門外の変)
2月11日 和宮と将軍家茂との婚儀が行われる。お目付藤沢九太夫次懐が、外国立会貿易筋御用取扱を兼ねる。
4月26日、講武所勤務の桂川主税が、海陸御備向軍制取調御用を命じられ、幕府軍の一部を西洋式に編成。
 藤沢九太夫は重病危篤につき、桂川主税を急養子に迎える内談が成立。
7月6日、一橋慶喜将軍後見職となる。
8月21日、生麦事件
8月27日、 藤沢九太夫が南本所六間堀の屋敷で病没。
10月27日、主税は浅野愛と結納を交わす。
11月7日、主税が藤沢氏の跡式千五百石を相続、次謙と改名、これまでどおり、講部所砲術教授方を勤める。
11月23日、お愛はお鏡と改め、引き移りを済ませる。
12月1日、藤沢次謙は講武所頭取に進められ、横浜表御用のため9日から神奈川に出張する。
12月2日、幕府、旗本などに歩兵組編成のため人員差出を命令する。
12月28日、講武所頭取から歩兵頭(役高二千石)に進み、諸太夫(従五位下)申し渡され、備前守となる。
28
1863 3 1月5日、一橋慶喜入洛。
1月13日、八王子千人同心の上洛御供決定される。
2月2日、八王子千人同心講武所奉行の支配下となる。
2月8日、浪士組江戸を出立(中仙道)
2月13日、将軍家茂上洛のため江戸を出立、八王子千人同心御供方同行。
2月23日、浪士組入洛壬生に入る。
3月4日、将軍入洛二条城に入る。
3月13日、浪士組清川八郎ら江戸に返される。
       (近藤勇らは京都に残り8月18日、組名を新撰組と改称する。)
4月11日、孝明天皇石清水八幡宮に行き攘夷祈願、井上松五郎ら道中警護を行う。
4月13日、清川八郎(38)が江戸で暗殺される。
5月1日〜6月、藤沢次謙、大阪表(京都)御警備御用を命じられる。
5月7日、大阪城にて井上松五郎ら銃隊訓練を将軍上覧に供す。
5月9日、幕府、東禅寺事件・生麦事件の賠償金を英に支払う。
5月25日、大阪表(京都)御警備御用のため出立する(〜6月晦日帰府)
5月10日、長州藩、下関で米艦を砲撃、次いで仏・蘭艦も砲撃し攘夷を決行する。
6月13日、将軍家茂大阪より海路江戸へ
6月15日、井上松五郎、京都を出立、7月4日に日野帰着する。

12月1日、御上洛御供を命じられる。
29
1864 元治元年(2・20改元) 1月2日、木村摂津守宅へ年賀、一酌する。
1月13日、再び海路を上京する将軍の護衛として、兵を率い、陸路を出発する。
       <肥後守→志摩守> 
2月3日、入京 「藤沢肥後守 七本松出水下ル町 大雄寺 「羈窓日録」よりに入る。
2月15日、松平慶永を京都守護職・松平容保を軍事総裁とする。3月7日、将軍参内、衣冠姿でお供。軍事総裁就任の松平肥後守容保に遠慮して肥後守を志摩守と改める。
3月10日、江戸築地の軍艦操練所消失。
3月27日、筑波天狗党の乱。
5月16日、 徳川家茂 天保山より乗船 新選組も、安治川河口を警備
「今朝五ツ半時、御供揃ニて 御発駕、天保山より御軍艦へ御乗換 還御、川筋両岸御警護被仰付、寅後小出播磨と同じく、第二列獅綿多を率ひ安治川に趣く、辰後雨甚し、巳牌御通御、御解覧後、三隊を併合して申後小長谷ニ帰る」
                 
「羈窓日録」より
6月5日、池田屋騒動。
6月6日、天狗党の一隊田中愿蔵ら栃木町に至り、足利藩の陣屋に火を放つ。
6月14日、将軍家茂帰府のあと志摩守江戸に帰着。
6月21日、歩兵奉行並となり、天狗党討伐のため派遣される三兵の取締として出張を命じられる。
6月22日、水戸浪士(天狗党)鎮定に幕府出動。志摩守、歩兵奉行並・三兵取締として江戸出発する。
6月27日、元水戸藩執政武田耕雲斎が筑波勢に加わる。幕軍および水戸藩諸生党市川三左衛門を中心に各所において筑波勢と戦う。
7月21日、志摩守、天狗勢のゲリラ戦法に幕府が動揺したため、挽回策進言に激越の語あり御役御免逼塞に処せられ、歩兵奉行並を解かれる。
11月1日、天狗党、心情を朝廷に歎訴しようと七隊に分け太子を出発する。
11月1日、藤沢志摩守、逼塞を解かれる。
12月17日、武田耕雲斎ら加賀藩に降伏する。
30
1865 慶応元年 2月4日、武田耕雲斎・藤田小四郎ら、敦賀に於いて処刑される。(処刑されたもの352人、遠島追放・其の他400人に及んだ。)
6月、知行所上川尻村清水道りの開拓が完了。「佐原木町」が誕生する。
7月8日、寄合(表高千五百石だが三千石待遇)から軍艦奉行並となる。
31
1866 2 夏、将軍家茂大阪で歿し、慶喜が徳川宗家を相続、第2次長州征伐を停止する。
10月15日、お鏡の兄浅野美作守が外国奉行から勘定奉行に、志摩守は軍艦奉行となる。
  ○福沢諭吉に批判される。<調査要>
この頃、しばしば軍艦奉行木村摂津守を訪問。
12月、孝明天皇崩御。
32
1867 3 1月19日、藤沢志摩守、軍艦奉行から歩兵奉行に転役。
5月6日、陸軍奉行並となる。
10月3日、土佐藩士後藤象二郎が薩摩藩家老小松帯刀(たてわき)と京都二条城に老中板倉勝静(かつきよ)を訪れ建白書を提出。
10月14日、将軍慶喜は二条城で大政奉還。
10月22日(「維新」には19日検討要)、陸軍奉行並藤沢志摩守、京都警固のため上京を命じられる。
10月28日、京都警固のため出立する。(〜12月28日に帰府)
10月24日、慶喜将軍職辞表を提出。
12月9日、王政復古宣言。留守中、荻野山中藩陣屋を焼き討ちの浪士団が12月16日、上川尻村久保沢の八木兵輔に、海野次郎の名をもって軍用金を五千両調達の脅迫状を送り、三百五十両を受け取って通過。
12月12日、慶喜、二条城を出、翌日大阪城に入る。松平容保(かたもり)、松平定敬ら従う。
12月16日、慶喜、大阪城で英・米・仏・蘭・伊・普の六国代表引見。
12月25日、江戸三田の薩摩藩邸焼き討ち
12月28日、上京中の志摩守ら陸軍幹部が富士山艦で江戸に帰る。
 同  日  慶喜、上洛を決意す。
12月29日、上川尻村は来年度年貢百五十両を地頭所へ前納。
参考
一 金百五拾両也
  右は御地頭所京都に於いて
御病気にて御帰府、多分の御物入り、当暮甚だ御差支えに付き、
  書面の金子来辰御収納の内繰越し上納、たしかに受取り候ところ相違これなく、然る上は、
  年貢皆済の節伺いに及ばず勘定引取り申すべく候。
  其の証の為め相下し候ところ仍って件の如し
      (十二月十九日地頭役所受取覚)

33
1868 明治元年
(9・9改元)
1月2日、幕府軍、大阪を発し京都に向かう。
1月3日、鳥羽伏見の戦い。
1月5日、薩長軍、淀城に入る。
1月8日未明、慶喜(松平容保・定敬も同乗か検討要す。桑名藩兵も置き去り )は軍艦開陽丸で大阪から脱出、江戸に向かう。(この時、艦長榎本和泉守と軍艦奉行並矢田掘讃岐守は上陸中で不在であった。)
1月10日、慶喜以下27名の官位を奪い、旧幕領を直轄とする。
第一等 徳川慶喜
第二等 会津松平容保・桑名松平定敬
第三等 予州松山松平定昭・姫路酒井忠惇・備中松山板倉勝静
第四等 宮津本荘宗武
第五等 大垣戸田氏共・高松松平頼聰

1月11日、夕方海開陽丸が品川沖に辿り着く。
1月12日、矢田堀・榎本は18万両を富士山艦に詰め込み残存艦船を率いて出航する。重傷の近藤勇も富士山艦上にいた。大阪城は狼藉を極め、9日ついに炎上する。 
1月12日の早暁、使いを受けて軍艦奉行勝安房守がお浜の海軍所へ行くと、慶喜が帰って来ていた。洋服の肩から刀を掛けて焚火にあたっている。「その詳説を聞かんとすれども、諸官ただ青色、互いに目を以ってし、敢えて口を開くものなし」(海舟日記)というありさま。勝は「あなか方、何という事だ。これだから言わないことじゃあない。もうこうなってからどうなさるつもりだ」と、人々の注意もきかぬふうで直言する。(海舟座談)
1月15日、新政府、王政復古を各国に通告、外国との和親を国内に布告。
1月16日、朝廷、秋田藩に奥羽諸藩を糾合し、東征軍応援を内命す。
1月17日、新政府、7科を太政官に置く。仙台藩に会津藩討伐を命ず。1月23日夜、志摩守は慶喜から直接陸軍副総裁に指名される。
   徳川幕府最後の閣僚の顔ぶれ  
陸軍総裁 勝安房守義邦(海舟) 副総裁 藤沢志摩守次謙
海軍総裁 矢田掘讃岐守鴻    副総裁 榎本和泉守武傭
会計総裁 大久保一翁長寛    副総裁 成島大隈守弘(柳北)
外国総裁 山口駿河守直毅    副総裁 河津伊豆守祐邦
   (旧幕府の職制を改め、徳川家の家職の組織とする) 
   参考 此の頃の老中または老中各の任期と顔ぶれ
板倉伊賀守勝静(かつきよ)(備中・松山)
松平周防守泰直(陸奥・棚倉)
井上河内守正直(遠江・浜松)
稲葉美濃守正邦(山城・淀)
(各)大給縫殿頭乗謨(信濃・田野口)
水野出羽守忠誠(駿河・沼津) 
(各)小笠原壱岐守長行(肥前・唐津)
(各)稲葉兵部大輔正巳(安房・館山)
久松隠岐守定昭(伊予・松山)
大河内豊前守正質(上総・大多喜)
酒井雅楽頭忠惇(播磨・姫路)
(各)立花出羽守種恭(筑後・三池)
慶応1・10.22ー慶応4・1・29
慶応1・11・10−慶応4・2・3
慶応1・11・26−慶応3・6・17
慶応2・4.13ー慶応4.2.21
慶応2・6・19ー慶応4・2・5
慶応2・7.13ー慶応2・10・28
慶応2・11・9ー慶応4・2.10
慶応2・12・16ー慶応4・2・3
慶応3・9・23ー慶応3・10・19
慶応3・12・15ー慶応4・2・9
慶応3・12・30ー慶応4・2・5
慶応4・1・10ー慶応4・2・5
       角川日本史辞典 編者高柳光寿 発行角川書店 昭和41年12月
1月28日、政府軍、桑名城を接収す。
2月10日、貢士(こうし)の制を制定
2月12日、慶喜は上野山内大慈院に入り、恭順謝罪書を呈する。
2月16日、勝海舟が参政並(若年寄格)藤沢次謙に手紙を送る。(海舟日記)
2月中、八木兵輔は藤沢屋敷立ち退き疎開費用として八十両を届ける。
2月22日、松平容保帰藩。
2月23日、彰義隊結成。
2月25日、勝安房守は陸軍総裁を辞退し軍事取扱を命じられる。
3月1日、近藤勇ら、甲陽鎮撫隊を率いて江戸を出る。
3月3日、相楽総三、偽官軍とされ信州下諏訪で処刑される。
3月5日、東山道総督参謀板垣退助ら甲府城に入る。
3月6日、幕府、近藤勇らおよそ170人が官軍と柏尾に戦い敗走する。
3月11日、巨摩軍小尾修理之進ら同志の神主浪人をもって断金隊を組織する。
3月13日、勝海舟・西郷隆盛会談、江戸城開城の約成る。
       次謙は陸軍過激派の暴発抑止に市中を奔走する。
3月16日、松平定敬(さだあき)ら桑名藩の分領、柏崎へ雇い入れたプロシア船「コスタリカ」号で横浜を出航する。
3月23日、甲府城代に沼津藩水野出羽守がなる。
3月28日、神仏混淆を禁止(以後全国に廃仏毀釈運動起こる)
4月11日、江戸城接収、慶喜は水戸へ退去。
   同日夜、品川沖から榎本武揚に率いられた幕府軍艦7艦を館山に脱走。
4月16日、勝が軍艦引き戻しを榎本と交渉するため館山に出張。
4月28日、軍艦4艦を引き渡す。
政府側に引き渡した軍艦    :観光・朝陽・翔鶴・富士
榎本側が引き渡さなかった軍艦:開陽・回天・蟠竜
閏4月、用役佐々周輔退職。
閏4月12日、松平定敬が柏崎に箱館を経由して到着する。
5月3日、奥羽列藩同盟成立。(全25藩)
5月6日、北越6藩が同盟に加入、奥羽越列藩同盟となる。
5月15日、彰義隊が上野の山で潰滅する
5月16日、市川八幡の小戦闘で負傷の江原素六が、ひそかに藤沢屋敷で手当てを受ける。
5月17日、江戸を東京と称す。
5月24日、徳川家達(田安亀之助6才)が駿河70万石に封ぜられ、旧幕臣も従って移住。
6月1日、甲府城代水野出羽守が免職。
7月末、江戸が東京に替わる。次謙は沼津城接収役を果たす。
7月7日、秋田藩主ら仙台藩使者を殺害し、同盟脱退。
8月8日、盛岡藩、秋田進攻のため出兵。
8月10日、松平定敬が会津に退却する。
8月19日、榎本武揚、幕府の軍艦8隻を率い総勢約2000名が江戸湾を脱走。
輸送船美賀保丸に乗船していた八王子千人同心組頭新藤左右助が房総沖で遭難する。
(明治15年、銚子黒生
(くろはえ)海岸に遭難碑が建立される。)
8月22日、秋田・大館城が南部軍に攻められ炎上。
8月23日、政府軍、会津若松城下に攻め入る。会津藩篭城態勢に入る。
       この頃、松平定敬が米沢に逃れる。(時期検討を要す)
8月26日、榎本艦隊仙台領に着く。
9月20日、藤沢長太郎は、上川尻・上相原村の名主らに戸塚宿まで見送られ、東海道を下る。妻お鏡32歳、長男玄吉5歳、次男次郎4歳、長女お運10ヶ月、お信(先代九太夫の姉)39歳の一行は、徒歩で24日駿府に到着する。勝海舟と折衝、江尻在吉川村に仮寓する。
9月22日、会津落城。松平容保、城を出る。
10月12日、榎本、艦隊を率いて石巻湾を発し、蝦夷地に向かう。
この頃、松平定敬、寒風沢から榎本の艦船に乗り榎本軍に合流
         (時期場所検討を要す)

仙台に集結した主な将兵たち 人数は2500人以上に及ぶ
旧幕歩兵奉行 松平太郎→副総裁
陸軍奉行    竹中重固→海陸軍総裁・判役頭取
歩兵奉行並  大鳥圭介→陸軍奉行
衝鋒隊長    古屋作左衛門 
新撰組副隊長 土方歳三→陸軍奉行並
遊撃隊長    
人見勝太郎→松前奉行
桑名藩主    
松平定敬
備中松山藩主 板倉勝静(かつきよ)
唐津藩主世子
 小笠原長行(ながみち
本多幸七郎・・星恂太郎もか?
10月26日、榎本軍、函館を占拠。
11月2日、松平容保、因幡国鳥取藩に幽閉。
11月4日、静岡藩幹部(陸軍重立御用取扱)を命じられ(10月21日か検討要)沼津に移る。
       八木兵輔らに近況を報じ、援助金50両を懇請する。
11月15日、江刺湾で軍艦開陽丸座礁。12月7日、松平容保、鳥取藩に永預り処分となる。
12月、家族と沼津城内の三番長屋に住む。
12月15日、榎本武揚ら蝦夷地平定、五稜郭を本営とする。
34
1869 2 1月、三男静象誕生。
2月、東京本所に残る兄桂川甫周に二円を添えて通信。
5月20日、松平定敬(弟)、横浜に護送される。
12月7日、松平容保(兄)、紀州和歌山に遷される。
35
1870 3 8月、浅野次郎八(お鏡の兄)が静岡藩権大参事となる。
閏10月、静岡藩少参事藤沢次謙は準九等出仕・沼津学校掛を受諾する。
年末、沼津商社利益金のうち、三百両を徳川会計所に納入。
36
1871 4 春、書画を楽しむゆとりを得る。雅号を梅南、字は致恭。
3月14日、松平容保、陸奥国斗南藩に預替となる。
5月、沼津商社利益金のうち、六百五十両を徳川会計所に納入
8月、 松平容保、東京に移住。
12月、4男嘉九児が生まれる。
37
1872 5 ○3月、静岡を出て東京へ移住する。
3月27日、太政官出仕、中義生となる。
4月15日、正七位に叙せられる。
5月2日、大義生となる。
6月7日、従六位に叙せられ、民撰議院規則取調を命じられる。
10月8日、左院四等議官となる。
38
1873 6 2月1日、沼津兵学校教授渡部温(一郎)翻訳の「通俗伊蘇普(イソップ)物語」の序文、扉絵・挿画6枚を描く。
39
1874 7 2月、佐賀の乱。梅南は土井光華訳「母の導き」の挿画を描く。
6月24日、地方官会議御用掛となる。
11月28日、地方官会議御用掛を解かれる。
40
1875 8 4月14日、補六等出仕となる。
6月18日、地方官会議書記官となる。
8月8日、地方官会議書記官を解かれ、地方官会議事務局御用掛兼務となる。
8月20日、元老院権大書記官となる。
12月18日、正六位に叙せられる。
41
1876 9 42
1877 10 1月19日、元老院少書記官(六等官・月俸百円)
2月、西郷隆盛挙兵、熊本城包囲、官軍と西郷軍各所で交戦。
10月25日、元老院少書記官を依願免官、宇都宮三郎と提携して(ガラス板?)の製造を企てたが不成功。
43
1878 11 3月、熊谷・前橋方面に書画行脚、留守宅に近況を報じ労苦を詫びる。
44
1879 12 年末、沼津にあり、菊花霜蟹図など書画制作に励む、窮迫
45
1880 13 1月、静岡に滞留、函嶺新道開拓を計画、神奈川・静岡知事に請願するが実現ならず。(免許は明治16年)
2月2日、松平容保、日光東照宮の宮司となる。
年末、妻と長女お運を同伴、もと知行所村巡りを志す。八王子に松井万五郎(下恩方村元名主)が馬を曳いて迎えたが、南下して小川成道(もと忠右衛門)方に寄寓、越年する。
46
1881 14 元旦から、小川氏礼讃の七言古詩や「渉園九友」などに筆を揮い、万五郎には「愛馬の賦」を届ける。ついで川尻村久保沢の八木兵輔宅に滞在、さらには高座郡小山村原清兵衛方へ移り、やがて帰京。
4月、腸チフスにかかり、近火を見物に出て病状が悪化する
5月2日、下谷御徒町の家で逝く。
47
1882 15
1883 16
1884 17
1885 18
1886 19
1887 20
1888 21
1889 22
1890 23
1891 24
1892 25
1893 26
1894 27
1895 28
1896 29
1897 30
1898 31
1899 32
1900 33
1901 34
1902 35
1903 36
1904 37
1905 38
1906 39
1907 40
1908 41
1909 42
1910 43
1911 44
1912 大正元年
1913 2
1914 3
1915 4
1916 5
1917 6
1918 7
1919 8
1920 9
1921 10
1922 11
1923 12
1924 13

参考資料
日本史年表    歴史学研究会編 岩波書店 1966年7月発行 
桂川家の世界 戸川行夫 築地書館 1994年4月発行  
幕末・維新の相模原 〜村の殿様 旗本藤沢次謙〜 相模原市立博物館 平成12年10月発行
茨城県の歴史 瀬谷義彦・豊崎卓  山川出版社 昭和48年7月発行
覚書幕末の水戸藩 山川菊栄 岩波書店 1974年8月発行
八王子千人同心井上松五郎文久三年御上洛旅記録 日野の古文書を読む会研究部会 発行1998年10月
勝海舟の参謀 藤沢志摩守 新人物往来社 安西勝 発行 昭和49・7
戊辰戦争 敗者の明治維新 佐々木克 中公新書455 発行 昭和52年1月
信濃路に埋もれた人々  降幡利治 社団法人 信濃路 発行 昭和44年1月
仙台藩の歴史1 伊達政宗・戊辰戦争 平重道 宝文堂 発行 昭和44年7月
郷土史資料3号 大館城の歴史 大館市教育委員会 石井博夫 昭和46年6月3日 
相模原市立博物館研究報告 第10集  編集・発行 相模原市立博物館 平成13年3月
草薙 由美 秋季特別展「幕末・維新の相模原」を終えて 〜旗本藤沢志摩守に関する資料調査の成果と課題〜


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