中世法灯派・抜隊得勝と峻翁令山の主な年譜
         −長井一族の動向なども−
追加2012・2・29 埼玉県深谷市國済寺関連の写真を追加
追加2013・4・23 藤沢清浄光寺供養塔

西暦 和年号 和年号 主な出来事 抜隊年齢
1201 建仁1
1202 2
1203 3
1204 元久1
1205 2
1206 建永1
1207 承元1 この年、信州筑摩郡神林庄に無本覚心生まれる
1208 2
1209 3
1210 4
1211 建暦1
1212 2
1213 建保1 横山党、和田合戦に連座、武相の所領を奪われ滅亡する。横山庄は大江広元の子孫の長井氏が伝領。
5月2日、和田義盛三男義秀、若宮大路で武田信光と会い相戦わんとしたところ、信光の子信忠が父に代わって戦おうとしたのを見て、そのまま通り過ぎて行った<吾妻鏡>
5月4日、義盛側の古郡左衛門尉保忠兄弟、甲斐国坂東山波加利(大月市)の東競石郷二木において自殺
<吾妻鏡>
5月7日、和田合戦の勲功で波加利荘・同新荘・
古郡・岩間・福地・井上などを武田信光以下に与える。また、遠光の女大式局に陸奥由利郡を与える。<吾妻鏡>
1214 2
1215 3
1216 4
1217 5
1218 6
1219 承久1
1220 2
1221 3 この年、無本覚心神宮寺に入る。
1222 貞応
1223 2
1224 元仁1
1225 嘉禄1
1226 2
1227 安貞1 この年、法灯派大本山興国寺の前身である西方寺が紀伊由良庄に草創される。
1228 2
1229 寛喜1
1230 2
1231 3
1232 貞永
1233 天福
1234 文暦
1235 嘉禎1
1236 2
1237 3
1238 暦仁 3月、浄光、鎌倉に大仏を建立を発願する。
1239 延応
1240 仁治1
1241 2
1242 3 〇この年、無本(心地)覚心が深草の極楽寺に道元禅師をたずね、菩薩戒を受ける(『円明国師行実年譜』)
1243 寛元1
1244 2
1245 3
1246 4
1247 宝治1 この年、相州毛利庄を所領していた大江親広の四男季光が宝治合戦で破れ自害する。
1248 2 この年、無本覚心(42)、甲州に行き心行(経?)寺住持生蓮禅師を訪ね、再び鎌倉寿福寺へ
1249 建長1 この年、無本覚心、聖一国師のすすめによって覚儀・観明らを伴って宋に渡る。
1250 2
1251 3
1252 4
1253 5 8月、道元没
1254 6 この年、無本覚心、宋より帰国。無本覚心の要請に応じ無門慧開が杭州の護国寺で賛を書く。(京都・妙光寺蔵)
1255 7
1256 康元
1257 正嘉1
1258 2 この年、無本覚心(52)が和歌山県由良の西方寺に移り、禅寺に改め開山となる。
1259 正元
1260 文応 7月、日蓮、「立正安国論」を時頼に進める。
9月1日、無本覚心(54)が無門慧開から嗣法の証として法衣と東山七葉図が贈られる。
・・
1261 弘長1 5 日蓮、伊豆伊東に流される。
1262 2
1263 3
1264 文永1
1265 2
1266 3
1267 4 この年、無本、亀山上皇に召され草河の勝林寺に住し宮中に禅をとく。
1268 5
1269 6
1270 7
1271 8 9月、 幕府、日蓮を竜口に斬ろうとし、さらに佐渡に流す。
1272 9
1273 10 この年、無本覚心、広島県福山市靹の浦にある安国寺を創建する。
1274 11
1275 建治1 12月18日、安国寺の無本覚心座像の胎内から偈文奥書があり年紀と覚心の名が記される。
1276 2
1277 3
1278 弘安1
1279 2
1280 3
1281 4 この年、無本覚心が亀山法皇の命を受け上洛、禅要を説いて帰依を受ける。
1282 5
1283 6
1284 7
1285 8 この年、無本、内大臣花山院師継が北山の別邸を禅院に改め創建した妙光寺の開山に招請される。自賛像(和歌山県・円満寺)
1286 9 9 無学祖元没(61)
1287 10
1288 正応1
1289 2 8 一遍(智真)没(51)
1290 3 この年、寂室元光(じゃくしつげんこう)が美作で生まれる。
1291 4
1292 5
1293 永仁1
1294 2
1295 3
1296 4
1297 5
1298 6 10月13日、無本覚心没(92)、亀山上皇から法燈禅師、後醍醐天皇から円朝国師の号を受ける。自賛像(京都・妙光寺)
1299 正安1
1300 2
1301 3
1302 乾元 この年、幕府、一向宗徒の活動を禁圧する。
1303 嘉元1
1304 2 この年、寂室元光が得度する。
時宗二祖真教上人が法蓮寺(八王子市川口町)を開創する
1305 3
1306 徳治1
1307 2
1308 延慶1
1309 2
1310 3
1311 応長 孤峰和尚、40歳で中国の元に渡り兀庵普寧(ごつたんふねい)を始め高僧を歴参して法を究める。
1312 正和1
1313 2
1314 3
1315 4 和歌山県報国寺に無本覚心の頂相、覚慧(かくえ)筆、一山一寧讃(重要文化財) 
報国寺において「無門関
(むもんかん)」の出版が行われる。
1316 5
1317 文保1
1318 2 この年、業海本浄(34)・明叟斉哲・古先印元らと元に渡り、中峰明本(浙江省西天目)に暦参す。
1319 元応1 5月、夢想疎石鎌倉に行く。
1320 2 この年、寂室元光(31)、元に渡り中峰明本(ちゅうほんみょうぼん)や古林清茂(くりんせいも)などの高僧に歴参する。
1321 元享1
1322 2 この年、孤峰覚明(三光国師)が雲樹寺を創建する。
1323 3 8月14日、中峰明本(61)示寂。
1324 正中1
1325 2 8月、夢想疎石、南禅寺住持となる。
この年、業海本浄、復菴宗巳らとともに帰国。
1326 嘉暦1 この年、寂室元光・清拙正澄・古先印元・無隠元晦らが元から帰国する。
1327 2 2月、夢想疎石、鎌倉浄智寺に住み、瑞泉寺を創建する。
10月6日、相州足柄上郡中村で、抜隊得勝が生まれる。(津久井郡中野の説有)
1
1328 3 2
1329 元徳1 8月、北条高時、夢想疎石を円覚寺住持とする。
3
1330 2 4
1331 元弘1
(南朝)
元徳3
(北朝)
8月、天皇、神器をもち京都より奈良笠置寺に逃れる。  
9月、笠置陥り、後醍醐天皇捕らわれる。
10月、後醍醐天皇神器を光厳天皇に渡す。
5
1332 2 正慶1 6
1333 3 2 5月、六波羅陥る。新田義貞、上野で挙兵し鎌倉を陥す。北条高時以下自殺し北条氏滅ぶ。
5月、後醍醐天皇、光厳天皇を廃し正慶の年号を元弘に戻す。

7
1334 建武1 1月、南禅寺を五山第1とする。
8
1335 2 12月、新田義貞、尊氏と箱根竹下に戦い、敗れて西走、尊氏これを追う。
9
1336 延元1 建武3 5月25日、尊氏、楠木正成・新田義貞が湊川で戦死する。
11月、後醍醐天皇、神器を光明天皇に渡す。尊氏、幕府を開き建武式目を定める。
12月、後醍醐天皇ひそかに吉野に移る。(南朝の始まり)
10
1337 2 4 12月、宗峰妙超没(56)
11
1338 3 暦応1 8月、 尊氏征夷大将軍となり、京都から天皇政府を追い出し足利幕府を樹立する。
12
1339 4 2 8月、後醍醐天皇没(52)
10月、尊氏、暦応寺(天竜)を創建する。
13
1340 興国1 3 14
1341 2 4 12月、足利直義、疎石らと天竜寺船の元派遣を計画。
15
1342 3 康永1 4月、幕府、五山十刹の制を定める。
16
1343 4 2 12月25日、高山慈照寂(77)  
17
1344 5 3 7月17日、峻翁令山、秩父郡に生まれる。
18
1345 6 貞和1 2 光厳上皇、安国寺利生塔の通号を定める。
19
1346 正平1 2 7 虎関師錬没(69)
20
1347 2 3 21
1348 3 4 11月、花園法皇没(52)
この年、業海本浄、天目山棲雲寺を建立。裏手に広がる地蔵磨崖仏が彫られる。
     銘「貞和四年戊子開
ゲン山建清舎」
22
1349 4 5 23
1350 5 観応1 12月25日 高師冬、鎌倉の足利基氏と不和になり甲州須沢城に没落、上杉憲将ら兵を率いて師冬をせめる。(太平記)
24
1351 6 2 1月17日、高師冬、甲州中巨摩郡須沢城において自害する。
9月、夢想疎石没(77)
25
1352 7 文和1 3月17日、足利尊氏、鎌倉より武蔵に逃れ武田信武・信成これに従う。
3月20日、武田信武・信成、尊氏の軍に従い、武蔵人見原に新田軍と戦う。
3月25日、足利尊氏武蔵府中に着く、甲斐源氏信武以下3千余騎これに従う。
7月27日、棲雲寺の業海本浄寂(69) 天目山棲雲寺の開山業海本浄禅師宝篋印塔が建つ
    銘「開山業海浄禅師塔  観応壬辰七月日誌」
9月、足利尊氏、「大般若経」を開板する。

26
1353 8 2 4月9日、天目山棲雲寺蔵普応国師像を造顕、銘「作者 法橋院遵 法眼院広 (略)」
11月 天目山棲雲寺開山業海本浄和尚座像を造顕、銘「将軍家大仏師伯老耆法眼慶□(略)」
     天目山棲雲寺宝匡印塔建立。 銘「普同塔  文和癸巳歳自恣日建之」

12月27日、二祖他阿上人追善供養のため百六人の時衆徒が八王子市宇津木竜光寺に「南無阿弥陀仏」供養塔を建立する。
この年、足利基氏、武州入間川に布陣する。
27
1354 9 3 1月、足利尊氏、後醍醐天皇及び元弘以来の戦死者の冥福を祈り、一切経を書写して供養する。
〇この年、逸見豊前守信有が一蓮寺に飯田郷内五段を寄進する。 「一蓮寺領目録事/新編甲州古文書第一巻 23頁」
飯田郷は本拠地の荒川に面した飯田の地であった。この本拠地の志麻荘附近の地理的環境を見ると、後に信虎が甲斐統一のために進出していった国中(くになか)のほぼ中心地から西にあたり、各地に分拠する逸見一族をおさえて、その惣領が威勢をふるい、信満亡きあとに持氏の強力な後援のもとに甲斐守護をねらうのは当然の姿であったろう。 上野晴朗著「甲斐武田氏」31頁より

28
1355 10 4 1月17日、抜隊得勝、「衆生を度し尽くして後に正覚を成ずべし。」と落髪す。
29
1356 11 延文1 30
1357 12 2 この年、抜隊得勝、各地を遍歴し再び得瓊侍者(けいとくじしゃ)の下に帰る。
この年、峻翁令山(14)、了機道人と邂逅し、山居修行、毎日般若心経一巻を書き写す。
31
1358 13 3 4 足利尊氏没(54) 4月17日〜6月17日、得瓊の勧めで抜隊得勝は出雲・雲樹寺に孤峯覚明(こほうかくみょう)を訪ね修行を始め、僅かに60日、その悟りの境地が認められ、ついにその印可を得る。孤峯は千挙を群といい万挙を隊というとして禅師に「抜隊」の道号を授ける。
7 城山町小松・宝泉寺の宝篋印塔の銘文に
    「
伏値 孤峰和尚一 廻忌辰造之  延文三戊戌 七月十八日」とある。
10 新田義興、足利基氏に謀られ、武蔵矢口渡に自殺する。
 抜隊得勝、この年の秋、因幡から相模の得瓊侍者(けいとくじしゃ)の下に帰り、その後七沢(厚木市七沢)に菴居する。
32
1359 14 4 この年、峻翁令山(16)、了機道人に随って延暦寺に行き具足戒を受く、秩父郡大滝村大陽寺二世洞翁に相見す。
33
1360 15 5 この年、寂室元光、近江守護佐々木氏頼に請われて滋賀県東近江市永源寺を開創。 
  参考 時期不明 真覚寺縁起
「延文年中之頃片倉城主○  永井大膳太夫廣乗○ 長井氏大江健長廣資○
御兄弟御子息数多有之  府中ニ而安古城廣資  柚木永林寺ニ大江建○
相州小松ニ廣乗○ (後略)」
34
1361 16 康安 4月14日、抜隊得勝、日輪の突然消え失せ光が裂け散って大宇宙一面に広がる夢を見る。そのため弥勒寺(足柄上郡松田村字寄)の菴から孤峰覚明がいる和泉大雄寺へ向かい拝謁す。
5月24日、孤峰覚明寂(91) (孤峰和尚行実) 
参考 城山町史5 P208 「前南禅瑞岩禅師行道記」によると、孤峰和尚の示寂の地である泉国大雄寺では、開山三光国師の百年遠忌を「戊寅歳つちのえとら」、つまり長禄二年(1460)に行っている。この「前南禅瑞岩禅師行道記」の記述からすると、孤峰和尚の没年は延文四年(1359)だったことになる。」
6月末、抜隊得勝、孤峰覚明入滅の知らせを美濃国桐山の菴居で聞く。
この年の夏、寂室元光、天目山棲雲寺を訪ね、中峰国師と業海本浄の尊像に開眼入塔の供養を行う。
この年、寂室元光、滋賀県東近江市永源寺を創建。峻翁令山(18)、上野国長楽寺に掛錫(かしゃく)す。
この年、抜隊得勝、桐山から紀州須田山に往く途中近江の永源寺の開山寂室元光に拝謁する。

この年、立川普済寺六面石幢造立。
35
1362 17 貞治1 春、抜隊得勝、加賀に往って総持寺開山峨山紹硯に相見、この頃から山居禅の激しい修業で体長をくずす。
この冬を近江で過ごす。

36
1363 18 2 この春、抜隊得勝、藤枝に留まって夏を過ごし、7月遠江の天方(森町天方)へ往って、
三年間を菴居、山居禅の正道を究める。

11月、春屋妙葩、天竜寺住持となる。
37
1364 19 3 38
1365 20 4 この年、抜隊得勝、伊豆から相模の須々萱(相州愛甲郡清川村煤ヶ谷)に往き三年間の樹菴を行なう。端龍菴と名づける。
39
1366 21 5 40
1367 22 6 5月、足利氏満が関東管領になる。
9月1日、寂室元光(77)没
この年、抜隊得勝、津久井町青山中蔵山に樹菴して三年間の山居生活を送る。青雲菴と名づける。
この年、長井元彰、相州浄禅寺を開基。
41
1368 23 応安1 2 絶海中津ら明に行く。
この年、峻翁令山、上野国赤城山乾坤和尚に相見す。
この年、峻翁令山(25)、相模国須々萱山にて抜隊得勝和尚に相見す。(注意:相見の時期検討を要す)この年か?
6月、足利氏満、武蔵の土一揆を討つ。
42
1369 24 2 10月末、峻翁令山、抜隊得勝和尚に一頌を呈するも許されず。
 この年、抜隊得勝、駿河鷹打山往き に二ヶ月間菴居するが水の便が悪く非常に風が強かったため駿河の世那(静岡市瀬名)に往って冬を過ごす。
43
1370 建徳1 3 1月17日、峻翁令山(27)、上野大拙和尚に参じる。
この春、抜隊得勝、駿河の世那から伊豆に往って鍋沢山(田方郡大仁町)に菴を樹す。如是菴とよんだ。

2月、上杉朝房・畠山基国ら、新田氏の残党を破る。
この年、抜隊得勝、丹沢山塊の西側蓑毛山に樹菴。雲留菴とよんだ。

この年、立川普済寺物外可什禅師像(朝宗作)が出来る。
44
1371 2 4 春、峻翁令山(28)、相州にて抜隊得勝和尚に参謁す。
この年、毛利師親(もろちか)が九州に出陣。
45
1372 文中1 5 4月、幕府、禅宗法則条々を定める。
7月16日、片倉城主備中守師親が長門一宮住吉霊神社より住吉大明神を勧請する。
この年、毛利備中守師親(もろちか)(後元春)、将軍義満より武蔵国三万貫の知を受ける。
この年、 抜隊得勝、相模の内山(南足柄郡内山)から、湯治のために一夏を過ごし、伊豆三戸野山に往って雷生菴に樹菴する。

 片倉城の始まり。(片倉物語 川幡一郎 1981 )
46
1373 2 6 47
1374 3 7 48
1375 天授1 永和1 49
1376 2 2 この年、絶海中津ら明から帰る。 
抜隊得勝、伊豆三戸野山、雷生菴から武蔵横山(現八王子市)に移り、端雲菴を樹菴する。
この年、八王子柚子地蔵堂五輪塔できる。/高尾山飯縄権現を峻源が勧請する。
50
1377 3 3 この年、性均(しょうきん)が永源寂室和尚語録(二冊・東京国立博物館蔵)を刊行する。
この年、毛利師親(もろちか)が九州より帰る。
51
1378 4 4 この年、抜隊得勝が武蔵から甲斐に入国、高森(塩山市竹森)に庵居。禅師を慕って800人にも及ぶ僧俗が参集したといいう。
この年、長井掃部頭道廣が鎌倉府引付頭人に補す。
52
1379 5 康暦1 53
1380 6 2 1月20日 武田信成(のぶしげ)は抜隊得勝を開山として草庵を建立、向岳庵と称した。
8月27日 北朝。絶海中津を恵林寺住持とする。
この年、伊達郡の領主伊達宗遠が長井庄を侵略、足利氏満は諸将をして廣房を助けようとしたが間に合わず、廣房はその領を失い追放される。
この頃、長井掃部頭道廣書を遺して抜隊和尚に法を問う。/この頃、毛利師親(もろちか)入道して「元阿」を称す。
54
1381 弘和1 永徳1 この年、相州浄禅寺を開基長井元彰没。
55
1382 2 2 11月、相国寺上棟。
56
1383 3 3 9月、義満、安聖院を鹿苑院と名づける。
この年、伊達宗遠が成島八幡宮拝殿を建立する。
57
1384 元中1 至徳1 向岳寺が後醍醐天皇の第六皇子(満良親王)聖鑑国師無文元選禅師によって開創される。
この年、大石氏柚子より案下の館に移る。
58
1385 2 2 3月、後亀山天皇より年号である「元中」を寺号として下賜され、元中禅寺と称して南朝唯一の勅願道場となる。
この年、峻翁令山(42向岳寺庵に招かれ掛錫、のち武州成木山の旧居に帰る。
この年、毛利廣房芸州東西条において戦死する。/伊達宗遠(62)没。
59
1386 3 3 1月、峻翁令山(43)、抜隊得勝の病を知り、向岳寺庵の病床に見舞う。
8月30日、抜隊得勝、向岳寺蔵三光国師の頂相に師の偈を書写。

この年、抜隊得勝、上梓された『塩山和泥合水』は衆生を教化救済するためには、泥まみれ、びしょぬれになることをいとわないことを書名とし版木をつくる。峻翁令山、向岳寺にて抜隊得勝に謁し知蔵寮を勤む。
60
1387 4 嘉慶1 2月20日、抜隊得勝は端座して周りの弟子たちに向かって、「端的(たんてき)是(こ)れ什麼(なん)ぞと看(み)よ、什麼(いんも)に看ば必ず相い錯(あやま)らざらん」と2回にわたって声高に告げ、灯火が消えていくかのごとく寂す。(61歳)峻翁令山、臨終に参謁して嗣法相伝す。峻翁令山、同月、武州香積庵に帰り三年庵す。
61
1388 5 2 4 義堂周信没(64)
9 足利義満、東国遊覧、富士山を見る。
1389 6 康応1 7月31日、峻翁令山、初めて向岳寺に普住す。
3 足利義満、安芸厳島に遊ぶ、細川頼之ら随行する。
1390 7 康応2 この年、片倉城主長井道広が廣園寺を創建、峻翁令山(47)開山となる。(峻翁令山和尚行録)
明徳1(3・26改元) 7月19日、峻翁令山、武州香積庵に赴く。
8月念2(22)日、峻翁令山、武州國済寺開山となる。

木造峻翁令山像
(埼玉県指定文化財)
       撮影2012・2・8
 
國済寺山門      日吉大神社境内の水屋(隣接地)
 (深谷市指定文化財)
 ※原図の複写 2012・2・29   
9月11日、峻翁令山、広園寺に帰る。
1391 2 2月21日、峻翁令山(48)、國済寺に赴く。
この年、峻翁令山、武州(埼玉県児玉郡美里村)光厳寺の開山となる。
8月4日、峻翁令山、広園寺に帰る。
この年、長井道広室、塔頭雲津院を創建。
1392 9
(南朝)
3
(北朝)
2月21日、峻翁令山、光厳寺に帰る。
3月27日、峻翁令山(49)、國済寺に至る。
5月1日、峻翁令山、上野国(桐生市)西方寺を開基す。

この年の夏了、峻翁令山、武州東皎寺の開山となる。
(日時不明)元中禅寺と向岳庵が併合、向岳元中禅寺と称される。
9月23日、峻翁令山、向岳寺に再任す。
1393 明徳4 3月19日、峻翁令山、雲州雲樹寺より招請を辞す。
5月14日、塩山市下粟生野の東光山松泉寺に「絹本著色大円禅師頂相
(ちんぞう)」の讃
 「非凡非聖 一法不修  本有妙用 天真風流  塩山開山自題 憑
(たのむ)花林昌書記
  乞請奉拝写 明徳癸酉仲夏十四日 向岳住持傑叟
(おきな)自玄 
  
花林昌:華林恵昌で大円禅師の直出子十三人の一人 
6月1日、向岳寺開山恵光大円禅師の頂相に嗣法の向岳寺住寺傑叟(おきな)自玄が著賛。
12月27日、長井道廣室没
1394 応永1 2月22日、峻翁令山、武州瑞厳寺を開山す。
6月、峻翁令山、下野国(栃木県安蘇郡田沼町)報恩寺を開山す。
月10日、峻翁令山、武州長契寺を開山す。
1395 2
1396 3
1397 4 3月2日、峻翁令山、大圭庵を開山す。
この年、広園寺梵鐘鋳造と伝える。(銘文に「大江朝臣沙弥心廣」とあり)
1398 5 この年、長井掃部助入道道供が鎌倉府引付頭人となる。
1399 6 この年、長井道廣、広園寺塔頭法界庵を創建。
1400 7
1401 8 5月、伊達政宗が関東管領の命に服しないため、上杉氏憲(後の禅秀)を大将にして政宗の居城、伊達郡赤館を攻めたが大敗して退却する。
1402 9 5月、上杉氏憲(後の禅秀)、再度大軍を率いて赤館に攻め9月5日に降参させる。
  参考 
  相州文書 「奥州凶徒対治事、今月廿日、所差遺 右衛門佐氏憲也、殊可被致祈祷之精誠之状、如件
     応永九年五月三日  判(足利満兼)」 

7月29日、片倉城主、大江備中守師親(新編武蔵風土記稿説)が逝去。(片倉物語 川幡一郎 1981 )
      長井道廣(広園寺史料集 開基「長井道廣」説)が逝去。
      法名 広園寺殿大海道広大禅定門、  
追加 「長井広秀か?多磨史談第8巻 第2号菊池山哉」 検討要
この年、足利満兼が伊達政宗を討つ。
1403 10
1404 11
1405 12 廣園寺、禅宗の法祖無門慧海著「無門関」を開板する。
この年、伊達政宗(53)没。
1406 13
1407 14 廣園寺、「無門関」を再版木する。(再版木:広園寺と日野田中家に保存されている。)
1408 15 3月6日 塩山向岳庵二世峻翁令山入寂。(65)
5月6日、相州津久井郡浄禅寺に足利義満の位牌が奉安される。
1409 16 9月、足利持氏、関東管領となる。
1410 17 この年、武田信満、山梨市窪八幡神社本殿を再建。
 (神社本紀・『重要文化財窪八幡神社修理工事報告書(昭和32年)』
1411 18
1412 19
1413 20 4月、伊達持宗、陸奥大仏城で挙兵、足利持氏、畠山国詮に攻撃させる。
8月、幕府、鎌倉府に陸奥・出羽2国の直轄を命ずる。
1414 21
1415 22 4月、関東執事上杉氏憲、持氏の怒りのために隠退する。
1416 23 10月2日 足利義嗣・足利満隆・上杉氏憲(禅秀)ら叛き、鎌倉を襲う。
持氏、駿河に逃げ今川氏をたよる。武田信満、氏憲の舅(しゅうと)として、子息信長を率いてこれを助ける。

12月、幕府、山名時熙らに持氏援助を命ずる。(上杉禅秀の乱)
1417 24 1月10日、足利満隆・上杉氏憲ら敗れ、鎌倉雪ノ下に自殺する。
2月6日 武田信満、木賊山で自殺。子信長は跡をくらまし子信重・信満の弟穴山満春は高野山に逃げる。

  
  武田信満墓 甲府市池田(旧長松寺町) 長松寺境内
5月25日、穴山満春、高野山に於て、逆修し空山と号す。
  のち将軍義持の保護を受け、還浴して武田信元と名乗る。
 <南葵文庫本武田系図裏書>
1418 25   
10月、足利持氏、藤沢清浄光寺に禅秀の乱の敵見方供養塔を建てる。

1419 26 8月、持氏、武蔵南一揆に上杉禅秀の残党の討伐を命令する。
1420 27 7月、持氏、禅秀の遺児・残党を捕らえる。
1421 28
1422 29
1423 30
1424 31
1425 32 8月、足利持氏、上杉房実に甲斐の武田信長を討たせる。
9月16日 武田信直、甲斐布施庄(田富町)30貫を武蔵広園寺に寄進。(向岳寺文書)
・.
1426 33 6月26日 持氏、武田信長を親征するため武蔵横山口より甲斐都留郡に攻め入る。
8月25日 武田信長防戦して敗れ、鎌倉府に出征。(鎌倉大草紙)
1427 34
1428 正長1 この年、広園寺塔頭慶泉院が創建される。
1429 永享1 9月、陸奥足利満貞、持氏追討を幕府に請う。
1430 2 2月、足利義教、持氏追討を諸将に諌められる。
この年、広園寺塔頭慶泉院の開基となった永井右衛門尉時廣が没。(広園寺史料集)
1431 3
1432 4 4月、武田信長、相模大山寺造営にさいし馬1疋を奉加する。(大山寺造営奉加帳)
1433 5 1月、武田信長、鎌倉府より逐電して甲斐に帰る。
1434 6
1435 7 1月、持氏、東国の諸将に陸奥の足利満貞を討たせる。 
1436 8 この年、小笠原政康、村上頼清と戦う。持氏、頼清を援けようとして上杉憲実に諌止される。
1437 9 6月、管領持氏、執事上杉憲実を征すると噂あり、憲実藤沢に退く。
  管領派:一色宮内直兼・上杉憲直
    執事派:大石憲儀・長尾景仲
8 持氏、上杉憲実を慰撫、村上頼清、幕府に降る。
1438 10 6月足利持氏、先例を無視し子義久に加冠、上杉憲実、諌める。
8月上杉憲実、上野白井城に赴く。持氏、憲実討伐に発向する。幕府、持氏討伐の軍を発す。
  
上野に扇谷上杉持朝・庁鼻和(こばなわ)上杉憲信に続いて長井三郎入道が同行する。<鎌倉大草紙>
10月19日 上杉憲実、上野白井城から数万の軍を率い府中分倍河原に集結する。
1439 11 2月、上杉憲実、持氏を攻めて自殺させる(永享の乱)
1440 12 3月、持氏の子、常陸に挙兵、結城氏朝これを授ける。(この頃の上州守護代は大石石見守憲儀)
1441 嘉吉1
1442 2
1443 3
1444 文安1
1445 2
1446 3
1447 4
1448 5 9月27日 河窪(上野原)、蔵王権現鰐口なる。
     銘「甲州都留郡之内西原河窪之蔵王権現之御宝前之金一面大檀那沙門自得」

1449 宝徳1
1450 2 月19日、穴山信介沒する。 下山天輪寺の牌子による
11月24日、武田信重(穴山信介の父)、敵に前後から攻められ自殺する。
宝徳年間穴山伊豆守という者が八代の小山城により、武田の本宗の信重を襲撃したという伝承があることである。またさらに小山城は、永正年間にも穴山伊予守信永の居城でもあったという。穴山氏が信介の代に南部に入ったのは確実ではあるが、ところが菊隠録には信介の子信懸が、山梨郡川田に住したとも見えている。        上野晴朗著「甲斐武田氏」34頁より
1451 3
1452 享徳1
1453 2
1454 3 8月28日、甲斐源氏若狭武田氏の一族、武田信広、陸奥大畑より蝦夷松前に渡航し松前武田氏を起こす。
12月、突如として鎌倉御所内で管領(成氏)自ら執事を殺害、同時に上杉持朝、大石房重らの実力者を追放する。

1455 康正1 1月21日、武田信長、鎌倉府足利成氏に属して、長尾景仲・上杉持朝らを武蔵分倍河原に破る。<鎌倉大草紙>
 「(足利)成氏は上州の敵、(上杉)退治のため正月五日鎌倉を立ち、武州府中へ一千余騎にて発向して高安寺に陣を取る。
  是を聞て上杉家二千余騎にて上州を打立ち享徳四年正月廿一日武州分倍河原へ功来る」
 
 大石系図 房重の項に
   享徳
四年乙亥正月廿二日於同国分倍河原討死
1456 2 この年、武田信長、足利成氏により上総守護代を命ぜられ嫡男信高(幼名伊豆千代)らを率いて上総に入部、上総武田氏の祖となる。
1457 長禄1
1458 2
1459 3
1460 寛正1
1461 2 8月、幕府、足利成氏追討を関東の諸将に命ずる。
1462 3
1463 4
1464 5
1465 6
1466 文正1 月、幕府、東国諸将に足利成氏を討たせる。
この年、上杉憲実没(57)
1467 応仁1
1468 2 11月16日、大江朝臣広房、広園寺に銅鏡を寄進する。<新編武蔵国風土記>
1469 文明1
1470 2
1471 3 3月、足利成氏、伊豆三島に足利政知と戦う。
6月、長尾景信、足利成氏を古河に破る。 
1472 4 2月、足利成氏、結城氏広の援けを得て古河を回復する。
1473 5 11月、上杉政真、足利成氏と武蔵五十子に戦い敗れる。
1474 6
1475 7
1476 8 6月、長尾景春、武蔵鉢岡城で上杉顕定に叛く。
1477 9 月、長尾景春、上杉顕定・定正らを武蔵五十子に襲う。顕定ら上野に走る。
月、景春方の実相寺と景春被官の吉里宮内左衛門尉が小沢城(愛川町)、支援のために、「横山より打ち出でて、当国(武蔵)府中に陣取り、小山田の城を攻撃して」<太田道潅状>」とあり、景春方の軍勢が小山田城を攻撃する。
 「上杉定正(政)は河越に籠り、長尾景春は、吉里宮内左衛門尉以下相い、伴い、大石駿河守が二宮の城へ着陣して、小机の城の後詰せんとする同三月十日河越より、二宮へ押寄ければ打負、景春は成氏の御陣成田へ参て千葉新助孝胤相催し羽生峯に陣取大石駿河守楯籠二宮の城も降参す、相州磯辺の城も、小沢の城も同落とす、敵の残党奥三保と云所に楯籠候。太田道潅村山に陣を取、舎弟図書助同六郎大将として奥三保へ馳向ふ。敵本間近江守、海老名左ヱ門、甲斐国鶴瀬の住人加藤某外、外国境の兵ども相催し、同十日逆寄に責来、太田図書助資忠先に進み防戦、海老名左ヱ門初めとして敵勢多討取ける。道潅も村山の陣より押寄候処に敵は敗軍す、追懸甲州の境を越、加藤が要害へ押寄、鶴河と云所に放火して帰陣」<鎌倉大草紙>       二宮の城」とは:高月城
1478 10 1月、古河公方足利成氏、上杉顕定らと和す。
7月、太田道潅、武蔵鉢岡城を陥
(おとしいれる)す。足利成氏、古河に帰る。
1479 11 1月、太田道潅、下総臼井城を陥す
1480 12 6月、景春、拠点としていた秩父郡日野城(荒川村)から没落。
1481 13
1482 14 11月、室町幕府足利義政と古河公方足利成氏の和睦が成立する。
1483 15
1484 16
1485 17
1486 18 7月、上杉定正、太田持資(道潅)を相模に殺す。
1487 長享1 11月、上杉(山内)顕定・上杉(扇谷)定正敵対する。
1488 2
1489 延徳1
1490 2
1491 3
1492 明応1
1493 明応2
1494 10月、上杉(山内)顕定、上杉(扇谷)定正と武蔵高見に対陣し、定正没す。
1495 9月、北条早雲、小田原城を襲い、城主大森藤頼を追う
1496
1497
1498
1499 ・・
1500
1501 文亀1
1502
1503
1504 永正1 この年、山内上杉家と扇谷上杉家と両派の対立が本格化する
  山内上杉家:上州白井城・武州鉢形城     →
上杉顕定
  扇谷上杉家:武州河越城・江戸城・椚田城・相州糟屋城→上杉朝良

9・27 立川原合戦:上杉朝良、今川氏親・北条早雲の援けによって、上杉顕定を破る。
11月、越後山内上杉民部大輔顕定が関東へ出馬する。<妙法寺記>

   長井一族が滅亡する。

「各十月越後兵米会顕定事競攻城再立河原朝良敗走河越十二月己未、顕定攻椚田塁とりこ長井八郎発未顕定遺兵宝田塁上田朝道戦死」<本朝通鑑>
都指定有形文化財 立河原合戦戦死者供養鉦鼓 立川市HP
1505
1506
1507
1508
1509 7月、上杉顕定、長尾為景を越中に逐(お)う。
1510 6月20日、長森原の合戦(新潟県六日町) 上杉顕定、長尾為景と戦い敗死する。
7月、神奈河権現山の攻略(上杉憲房書状)で早雲大敗する。
  北条早雲と山内上杉の重臣・長尾景春、長尾帯刀・扇谷上杉の重臣・上田政盛×
   
管領家扇谷上杉朝良・朝興、山内上杉は顕定→憲房、古河公方足利政氏の連合軍
1511 3月、八王子川口町 法蓮寺来迎阿弥陀如来像を修理
 (胎内腹部銘)
 武рスさひの郡川口之かうにおいてしゅうり 奉、大旦那ほり口はやと、さうして此堂ゑんしやうの事
 永徳二年六月晦日、両家わかさり
つきて、かこへのともよしこ乃くちへはたらきの時申也
 宿坊康全 現世安穏 後生善所 南無阿弥陀仏  師旦繁昌  寺家安全
  
(胎内背部銘)
 しゆうり奉、仏所甲州都留之郡住人掃部卿同宿順■ 
 永正八年三月半 
仏とハなにをいわまのこけむしろ ただちひしんニしくものぞなし 
1512 6月、足利政氏、古河から逃れ、下野小山政長をたよる。
1513 10
1514 11
1515 12
1516 13
1517 14
1518 15
1519 16
1520 17
1521 大永1 月、越後守護代長尾為景、一向宗を禁じる。
1522
1523
1524
1525
1526
1527
1528 享禄1
1529
1530
1531
1532 天文1
1533 天文2
1534
1535
1536
1537
1538
1539
1540
1541 10
1542 11
1543 12
1544 13
1545 14
1546 15
1547 16

参考資料
山梨郷土史年表 編者 山梨郷土研究会  発行所 山梨日日新聞社 昭和56年10月発行
日本史年表    歴史学研究会編 岩波書店 1966年7月発行  
妙法寺記の研究 著者 菅沼英雄 発行所 蓮華山妙法寺 昭和37年8月発行
中世禅思想の研究(一)、(二) 星 清著 八千代出版 昭和63年3月発行 
抜隊得勝の禅思想 −星清先生遺稿集− 発行者 星壽美子 アポロ印刷 1992年10月発行
抜隊得勝の伝記研究 小島岱山著 発売所 山喜房仏書林 1997年10月発行
八王子地方の歴史   村下要助著 有峰書店新社 昭和59年5月発行
城山町史1 資料編 考古・古代・中世 編集発行 城山町 平成4年3月発行
甲斐国志 下 復刊責任者 日原興忠 発行所天下堂書店 昭和42年4月発行
八王子物語 上巻 佐藤孝太郎著 発行所多摩文化研究会 昭和40年4月発行 
多麻史談 第8巻 第弐号 多麻考古行脚
其の3 菊池山哉 昭和14年12月10日、第33回見学会
多麻史談 第11巻 第1・3号 峻翁令山和尚行録 三輪善之助・前島康彦著 
片倉物語 川幡一郎著 日野史談会 1981年9月発行
八王子の歴史と民俗 住宅都市整備公団 昭和57年9月発行
廣園寺
 むかしと今これから 発行 兜率山廣園寺 平成12年10月発行
峻翁令山 
やまた本坊廣園寺の開山さま 発行 
兜率山伝法院廣園寺史料集 開基「長井道廣」 大義寺 眞上隆俊老師著 
発行日の記述なし
禅宗の歴史 今枝愛真 至文堂 昭和41年11月発行
甲斐源氏と武田氏 執筆者 野沢公次郎 東都山梨新聞社 昭和42年8月発行
「多摩のあゆみ Vol 25号 特集・武蔵武士」 多摩中央信用金庫 発行 平成4年2月
「多摩のあゆみ Vol 66号 特集・多摩の中世を探る」 多摩中央信用金庫 発行 昭和56年11月
「多摩のあゆみ Vol 90号 特集・室町・戦国期の多摩 −城館・生活・文化−」 多摩中央信用金庫 発行 平成10年5月
「多摩のあゆみ Vol 118号 特集・中世の立川を考える」 多摩中央信用金庫 発行 平成17年5月
「多摩のあゆみ Vol 139号 特集・戦国大名北条氏」 多摩中央信用金庫 発行 平成22年8月

「多摩のあゆみ Vol 143号 特集・中世多摩の荘園と武士 多摩中央信用金庫 発行 平成23年8月
 鎌倉佐保 多摩郡の武士と所領形成 −横山氏を中心として−
  清水 亮   鎌倉幕府の成立と多摩の武士団
  徳永裕之 鎌倉・室町期の長井氏と横山庄
  黒田 基樹  戦国時代の椚田長井氏


木造峻翁令山像の複写元  さきたま文庫35 国済寺<深谷> P21より 発行所 株式会社さきたま出版会

              戻る