加熱しないカワラノギクの保護活動について 〜カワラノギクを過保護にしないで〜
はじめに 私はこれまで自然環境復元学の立場からホタルの保護活動を実施してきた。その目的を達成して行くために、「ホタルの生態を知らなくて何で人に話せるか。」また「絶滅からホタルの種(しゅ)をつなげて行くにはどのようにしたらよいか」と云う自分自身への問いかけもあった。 そうして。夏のホタルの飛ぶ時期には「ほたるの案内所」を設け見学に来て下さるみなさま方に対しては自然保護の大切さを訴えて来た。そうして平成17年の夏、この年を境にほたるの保護活動から手を引いた。その理由は、ホタルの生息場所があまりにも有名になり過ぎ様々な弊害が生じてきたからであった。ここでは記さないが加熱のあまり「どこかで無理をしていなかったか」。そう云った言い訳めいたことだけが募って来たのである。 これまでホタルと平行しながら哺乳小動物の生態系調査なども行ってきた。特にムササビは深刻で人口の増加による宅地開発によって森が分断されムササビが移動困難の状況となってきた弊害である。ムササビは木によじ登りそこから滑空をしながら移動するが、その移動の途中に木がなくなったことから移動が困難な状況に陥ったのである。そうしたことから生活が狭い空間内だけとなり、やがてそれは絶滅への構図へと結びつくのである。 この移動困難による絶滅の図式はホタルも同じでありカワラノギクもまた同じではないかと考えたからである。特に幼虫時代を川で過ごすゲンジボタルは深刻で、河川の汚染や護岸工事によってホタルの生息空間が極端に分断され生息環境が狭められたことによる弊害は深刻であった。ホタルは残された僅かな源流部の空間地だけが生息地となり、こちらもやがて絶滅への道を辿って行くのである。 こうした現実の中でホタルの増殖に向けた取り組みをしてきたが最終的にはホタルが自然に生息できる環境を作ろうと活動方針を変換し保護活動を続けてきた。 さてカワラノギクは如何なものか。河川の分断はないだろうか、また過保護にしすぎてはいないだろうか、これは私が最初に取り組んだ最大のテーマでもあった。 カワラノギクの生活史と 2・3の気になることを記す。 絵で見るカワラノギクの生活史 「城山町もみじまつり」の出典資料より 河川の植物 相模川は都市部に近いこともあり、防災、電源や水資源開発などが早くから行われ各所にダムが建設されてきことは承知の通りである。そのためダムの放流以外では洪水が起こらなくなり、上流からの石や砂の運搬がなくなりダムを水源地として新たな侵食が始まっているのである。洪水は時として多大な被害を与えることもあるが生物にとっては恩恵を与えることも事実である。つまり砂がヤスリのような働きをして石の苔を削り、絶えず苔の再生産が行われることで苔を餌にしている鮎にとっては重要な働きをしている。またよく知られているところではダムができたことによってウナギが海に戻れなくなり限られた数のウナギしか産卵ができなくなっているのが現状である。
外来植物では田畑の荒廃でオオブタクサ・セイタカアワダチソウなどが繁殖し、雨や台風のときには排水路を伝わり一気に川に種子が流れ込み繁殖の範囲を広めている。一方、高速道路では護岸に植栽されているシナダレスズメガヤなどの種子も流れ込みこれもまた各所に繁殖の範囲を広めている。またそれ以外にも人間の靴底や動物の体に付着して移動する植物もあり河原の植物相は大きく様変わりしようとしているのが現情である。 外来植物ではアメリカネナシカズラ、アメリカセンダングサ、コセンダングサ、セイタカアワダチソウ、オオブタクサやシナダレスズメガヤなどが元々あった在来の植物を追いやり今や最大の適地としているのである。 また相模川は過去、砂利の採取場でもあったことも河川環境を変えた大きな一因であった。河川の半分が民地であるという驚くべき現状ではあるが河川法により、また地主の皆様のご協力によって河川はかろうじて現状を維持しているのも事実である。そうしたことから絶滅に瀕しているカワラノギク、カワラハハコ、カワラニガナ、カワラナデシコ、カワラヨモギ、カワラサイコなど在来からの河川生物が絶滅しないような恒久的な保全活動をどのようにして推し進めることができるか検討と実践の段階が来ているのである。 河川の分断について 明治15年参謀本部陸軍部の測量図 平成17年11月撮影 人口が増加し、人々の生活が変化していく中で、川に寄せる人々の思いも様々である。川で魚釣りをする人、キャンプをする人、サッカーをしている人など数限りない、こうした様々な願いや思いを可能にすべく、河川の有効利用計画ができ、その目的に向かって様々な施策が行われている。 さて撹乱を必要にしながら生きてきたカワラノギクにとってはどうであろう。河川の中流域はこれまで大きく蛇行しながら石や砂を運搬してきたが、大正、昭和の前半期に大規模な護岸工事が行われ堤防外では水田が形成されて食料増産が行われてきた。こうして残された堤防内は新たな利用計画の中でより高機能的な側面を保ちながら小規模にして川は蛇行しながら流れているのである。 こうして河原は極端に狭められることになった。改修工事前の広い河原時代また外来植物の影響をほとんど受けない時代ではカワラノギクにとってまるで天国のような時代であった。現在ではたとえ生息はできたとしても生息空間が極度に狭められていることから延命をはかるにはある程度の人為的な対応も必要であろう。現状では一時的なダム放流によって撹乱が行われたとしても、種の定着まで至らないのが現状であろう。尚且つ、現在では連続的な河原の途中に運動場、キャンプ場などができ丸石河原を適地としているカワラノギクの生息区域を分断している。そうした自然発生的な、また人為的な環境の変化の中でカワラノギクは生き延びようとしているのである カワラノギクの変異について こうした中で、時には実験的であったりしながらもカワラノギクを保存するために新たな圃場が建設されるようになって来た。カワラノギクは本来貧栄養化土壌である丸石と砂地が混在する河原にのみ生息し、丸石直下の蒸発を免れた水分のある場所に1メートル以上もの根を伸ばし水分を補給しながら成長に必要な養分を循環させているである。 こうした貧栄養化土壌の中でカワラノギクは種を保ち続けて来たが、近年の河川環境の変化の中で生息区域が固定化したため新たな衰退の現象が出始めている。しかもカワラノギクの生息区域が一定の区域内と限定したため高密度な状態で育てられ(栽培)続けカワラノギクにストレス障害を与えているのではないかと思われる。
過密な状態の中でのカワラノギクの保護活動は危険である。私たちはカワラノギクの花が沢山咲くことを最良だと思い込んではいないか。私たちは無意識の中で人為的にカワラノギクにストレスを与えてはいないか。後世に種を保全していくために過保護になりすぎてはいないか、不完全なカワラノギクの花形はカワラノギクが精一杯の所作をしているのだと考えても不思議ではなかろう。 撮影2006・12・29 撮影場所 相模原市湘南小学校東側の中洲 強(したた)かなカワラノギクの生存機能 私たちが今できることは種(しゅ)を絶やさないための努力である。カワラノギクは非常に強く逞しい植物である。強く(つよく)は「強(したた)かな」と云う意味もある。カワラノギクが本来持っている、そのしたたかさを理解するための作業を私たちがやればよいのである。つまり生息できる環境づくりのための作業である。 A:アリも運んだカワラノギクの種 撮影2008・12・9 2008年12月9日、この日は束の間の小春日和か午前中柔らかな日差しが差した。暫くして小雨が降り始めて来た。ふと地面を見るとアリが巣穴から出て群がっている。アリの動きは夏に見る活動的な動きなではないがまるで日向ぼっこをしているかのようにも見えた。そうした群れの動きから少し離なれてアリがカワラノギクの種を運んでいた。1匹・2匹・3匹、私は実験地の圃場を見回した。12匹もアリがカワラノギクの種を運んでいるのではないか。 アリが種を運ぶことは知ってはいたがまさかカワラノギクの種まで運ぶとは思ってもいなかった。春はカタクリやムラサキケマンなどアリの好物であるエライオゾーム付きの種を運ぶことは知ってはいた。その種が運ぶ途中でこぼれたり、巣の中から発芽することがある。そうやって種は各所に散布されていくのである。 カワラノギクにエライオゾームが付いてあるか眺めて見たても分からない。種は綿毛があることから風に乗って移動するものばかと思い込んでいた。いやまてよ、カワラノギクは元々他のシオン属のように土のあるところで生息していたのではないか、それが長い年月をかけて、生活環境を変えながら丸石河原のある場所に辿りついたのではないかと考えた。そうして他の植物が生息できない劣悪な河原を最良の住み家として進出して来たのではないかと、そう考えたのである。そうしてカワラノギクは逞しく川の撹乱を住処として流浪の旅を重ねているのである。 束の間の陽だまり、アリが種を運ぶ光景は遥か遠いカワラノギクの先祖達の名残の原風景ではなかったか。生物は絶えず進化していることをまだまだと知らされた一日でもあった。 B:カワラノギクの再生機能 事例1 台風の中に生きたカワラノギク 2007年9月、台風9号で1本だけ残ったカワラノギクがどのように変化して行くか追ってみた。台風による濁流で枝が折れ発見当時の茎の長さは13センチ程だった。台風の直後は恐らく葉もなくなっていたと思うので再生能力の強さに驚いた。開花はさすがに遅れ満開の時期は11月18日前後となった。だが良く見ると花の数は25個もあり驚きであった。その後、足に踏まれ枝が折れてしまった個所もあったが種がどのように拡散するかそのままにしておいたところ翌年の6月17日コンクリート石の周りを取り囲むようにカワラノギクの発芽を確認した。その後も経過を観察していたがこれも何者かによって抜かれてしまい観察ができなくなった。 → 1本だけ残ったカワラノギク 2007年9月24日 咲いたカワラノギク 撮影2007年11月18日 → 撮影2008年6月17日 撮影2008年7月26日 事例2 抜き取られたカワラノギクの回復力 2008年10月11日、大島河原で広範囲にわたってカワラノギクが抜き取られた、私は残念に思いそのカワラノギクを実験地に移送して植え替えを行った。枝は思い切って切り落とし茎だけを10〜15cm残して切断した。そうして花の再生を待った。22日後、新しい茎が出てきたことを確認する。その数は9個もあった。植えた日が遅かったので発芽時は良かったがその後の気温の低下で茎の上層部から枯れ初めてきた。@番号札をつけたカワラノギクは越年し12月28日頃から開花を始めようとしたがやはり数度の霜で上部は枯れてしまった。根は生きていると思われたのでそのままにしておくと2月26日、元茎の下層から新しい茎立芽が出てきた。 → 撮影2008年10月11日 2008年12月23日 →現在観察中 撮影2009年2月26日 事例3 カワラノギクは2回折られても育った 大島河原の面積は2007年の台風9号以降極端に狭くなった。そのため狭い空間に車が入り込み多くの植物を踏みつける結果となった。9月16日に撮影したカワラノギクは枝が途中で折れたが残された茎から8本の新しい茎が出ていた。その後も車に踏まれ茎は地上7cmのところで止まっていた。そのため大量に抜き取った何者かには分からず仕舞いだった。その後そのカワラノギクは26本の新しい茎を出した。12月16日の撮影時に越冬中のハエが花に訪れていた。種子の採取とどこまで成長できるか経過を観察していたがまた何者かに抜かれてしまった。 → @撮影2008年9月16日 A 2008年12月16日 B 2009年1月15日 抜かれたのを確認
カワラノギクは1本の茎で1個の花をつけることもあるがキク科植物全体では枝わかれして複数の花をつけながら世代交代を行っている。事例1〜3で見た枝分かれの機能は猛暑の夏を過ぎ秋に花をつける植物全体の特性なのかも知れない。 春に花咲くカタクリは未だ他の植物が生い茂る前に花をつけ、他の植物が出始めたときに枯死する。そうして根に大量の澱粉を蓄え次の春を待つのである。待ちわびる植物も昆虫たちと同じように順応し種に適した住み分けを行っている。私たちはそのへんのところを忘れていないか。
カワラノギクに連作障害はあるか → 高田橋下流右岸の再生地 撮影2007年8月18日 2008年10月23日
始めに書いたようにカワラノギクは氾濫によって土壌に変化を与え連作障害を回避してきたのではないか、そんな気配を感じてきたのである。 撮影2011年6月7日 撮影2011年6月7日 カワラノギクの保全地(神沢河原)2010年の造成地 2008年の造成地 これから先の保護活動 圃場の様な管理をすれば一時的には良いのかも知れないが継続は難しい。河川では外来植物の繁殖やカワラノギクの生育に適した玉石河原の細粒化現象など、それは時間との戦いだ。また、ダムを撤廃して自然の状態にすることは高度に発達した社会の中では不可能に近い。河川生物を回復させるためにこんなことが出来ないかあえて提案する。 @除草は年3回、外来植物が結実する前に手作業で抜き取る。 A矢原四原則の遵守のために、種は堤防近くで保険の意味を込めて循環用圃場を 作り種を確保しておく。(5坪程度) B圃場はあくまでも緊急用として、植物が自然界で回復したとき閉鎖する。 C流域に住む市民がお互いに協力し合いながら参画できるような保護活動を行う。 Dカワラノギクの広域的な保護区域を設ける。 E河川の共同利用の立場から市民に理解を求める。 私は、一定の場所に何千本、何万本もカワラノギクが咲いたと秋の風物詩のように新聞紙上でもてはやされるがそれにはいささか閉口している。自然界では凡そありえない世界だからである。ヨモギやツルヨシ、イタドリなどの間からカワラノギクの花が咲くことが喜びでなのである。高密度な環境で育てばそれだけ花の減衰の速度は早まる。それがカワラノギクの宿命なのである。 言葉を知らないカワラノギクは絶えず流浪の旅をしようとしているのである。 共に生きる植物たち 撮影2008・4・22 2007年9月中旬、関東地方に台風9号が襲来した。対岸のカワラノギクの圃場では2メートル以上もの濁流で荒れ狂った。左岸でも(これまでの植物相については別項で報告した)大群をなしていたカワラニガナは2群を残し流失してしまった。写真でも分かるように今も広い河原に水が流れ込んでいる。 レクレーションの場として親しまれてきた河原は休日ともなると狭い空間に車も人もあふれている。そうした中であっても植物たちは強かに生きている。たった1本のカワラノギクが残った場所(太赤)から下流の河原、それも緩やかな段丘面にツルヨシやヨモギなどが点在しながら残ったのである。もう一つ(小赤)は大量の砂や礫石が流れ込んだ末端の場所である。ここではカワラニガナとカワラハハコの1群のみが残った。手前のやや広い緑はシナダレスズメガヤで将来は河原を被いつくすであろう。 カワラノギクを圃場の中で管理することはたやすいことかも知れないが人も車も自由に入り込む場所で無用心に保護することも寛容と思われる。そうした中で人々は自然保護を学びまた嘆くのである。 私たちは太赤点から下流の植物相を自然な形で保護しその変化を長期にわたり観察していくことが必要と思われる。 望ましいカワラノギクの再生地(大島河原左岸)を目指しての実験 大島河原の緩やかな段丘面 撮影 2008年8月24日 上写真は2008年8月24日に撮影した大島河原である。それから4日後、未曾有の豪雨が関東地方を襲った。この日、前年の9月のような相模川の氾濫はなかったが、草は川の水でおおわれ再生しつつあったカワラノギクは水の中に揺れていた。 そして、間もなく現況を取り戻しつつあったカワラノギクは、10月6日から10日の日にかけ何者かにより12本を残し抜き取られてしまった。非常に残念としかいいようがない。 今後に続く研究者のためにもまた花を愛する人々のためにも、私がこれまで体験したことをあえて公表することで真の自然保護とはどのようなものかを問いたかったからである。 自然環境は日々刻々と変化している。その中で私達は絶滅危惧種として云われて久しいカラノギクをどのように保全していったらよいか改めて問い直したのである。 コセンダングサに囲まれて残ったカワラノギク
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