小松水田の起源
             〜「津久井の昔話 第二集」より、清水公済翁の記録

                          写真の撮影日 2009・11・24
 2009・12・7、川尻八幡宮の境内で「大しめ縄」づくりが行われました。当初は横浜市内の農家で作られていたそうですが、時代の変化でしょうか昭和49年からは城山町内の小松や葉山島地区を始め、今年は城北地区の農家で生産された稲藁を使って「大しめ縄」づくりが行われました。
 都市化が進む中での水田、また山間部での水田はそれぞれに条件の違いはあるものの、環境の変化は著しく、収益や後継者の問題をも含め問題は山積しています。最近の傾向としてはこうした現実とは別に田んぼの持つダムの要素や景観、結い社会の再発見など旧来からの伝統が今見直されようとしています。
 こうした中で、昭和40年代に将来を見据えた記録に触れることができました。当時、城山町の郷土史を研究しておられた清水公済翁の記録です。御遺族の皆様の御了承を得て再び公表させて戴くことができました。改めて感謝申し上げます。尚、翁の記録と共に当時の城山町の記録などもそのまま引用させて戴きました。翁の記述は特に紺色で著わし原文をそのままを引用させて戴きました。

城山町の広報誌から「農業の整備と体質改善」について
 昭和44年12月10日、旧津久井郡城山町は広報「しろやま」に都市計画特集号を号外として発行しました。内容は「調和のある住みよい住宅都市の建設へ」と題し裏面には城山町市街化区域と市街化調整区域県確定素案を表示しました。そこには素案に対する公聴会開催の日時も記載されていました。また1頁からの続きで副題として「農業の整備と体質改善」と云う大変興味深い記事が組み込まれていました。
 原文をそのまま記載「本町(現相模原市城山町)の農業は、あらゆる面から厳しい転換に立たされている。今後の農業は反収いくらということから年収いくらという企業ベースで経営され農業が完全に企業として成り立つことが必要です。労働投資、生産投資、償却、税金等あらゆる生産費用をカバーする収益率をもつ農業でなければならないわけです。その点本町の今後の農業は返ってその諸条件が可能であるということである。四五万都市多摩ニュータウン等大消費地が隣接し、しかも交通の便がよいので十分成り立つものであります。
 それには営農内容の質の改善をはかることが必要で都市近効農業としてのそ菜、園芸、ハウス栽培等公害の少ないまた単位生産額の高い作目に移行する必要があります。また山地部での観光を目的とした菜園造成も一つの手段あるのでこれからの整備改善をはかる。」
とありました。
 そして昭和45年には、町の事業として小松地区ではほ場の整備事業が行われ、更に47年からは城山町農業の振興を図るために農業振興地域の指定を国から受けました。そしてその翌年からは5ヶ年計画で小松から城山湖までの農道舗装工事が行われました。
 その目的は(広報しろやま昭和53年3月号)「水田の区画整理により施設園芸や露地野菜栽培を盛んにし、小松地域から川尻財産区有地にいたる果樹(栗や梅)の生産物を農業用自動車で出荷する時の荷傷防止のためにアスファルトおよびコンクリート舗装により路面の安定を図る」とあります

  
   明治40年頃の境川上流部(黄色の部分が小松・広田地区の水田)

   
  小松谷戸の田んぼ跡、土地改良工事が行われる前は右側から湧き出る湧水に樋をかけ田んぼに給水していました。

   
  小松・小野地区の集落                 養蚕地帯の面影を残す桑の巨木。

小松水田の起源
 小松水田の開拓は何年ごろか不明であるが1146年久安2丙寅年頃小松城に永井大膳太夫義徳が居住していたと云う。城の防備に周囲外郭を水路沼地を作り城の防禦にした。八幡宮から倶楽部、現薬師堂まで丘陵続き、堀の内と云う地名が有るが、ここが境だったかも知れない。薬師の大杉と云う事は古老から聞いている。
 何年頃まで残っていたか一の堰として武蔵丘の亀井戸まで、大木を横倒しに何本も何本もで堰止めたものらしい。武蔵丘の亀井戸と云えば有名で、軍国時代軍用地図五万分の一に出ていた。現在の道路から50メートル程上がった処、、地形は残っている。城への出入りに大扉と云ったそうだが、(現在は大戸と書く)ここから大手門現在の広田平八氏の場所、途中に下馬と云う地名があるが、引馬でなければ這入れなかったと云う。
 第二の堰が小野谷戸出口から和田前まで大木を根こぎ、又、切り倒し堰止めたものらしい。現在の樋口養魚場の前、細谷さんが井戸を堀った50年程前の話。6尺ばかり掘った処、神代杉が出たと大騒ぎしたことがある。和田前にも田面から2.3尺掘っている処もあるが、別に耕作上差支えないのでそのままの様だがまだまだ他にも埋まっている。
 第三の堰止めが、久保根入と云う地名下がその様で、田も非常に深い処もあり、小林松太郎さんの下城跡の西裏になる。大社(むろ)の沢下が堰で関本源十さんと云う方がいったが、今関本の子孫は存在していない。
 当時、今の小松川はなく今より水量も多かったと思うが、堰から堰へ一面にかけ流され、道路も水路もなく、立ち入りが出来ないように堀や土嚢によって防禦され、城への侵入不可能な防備地帯で、一の堰薬師大戸へかけての沼地として大きな防備の役割も、城の歴史が不明なりため、其の後川、道路、水田開拓がいつの時代か明らかにされていない

 
 若葉台団地を下りた3枚の田んぼ        イノシシ除けの柵のある畑地。元水田跡
                    その南側が自害谷戸(ジゲエヤト)と呼んでいる水田の跡地
小松水田土地改良に思う
 昭和四十五年1970年、全国的に米の過剰を期に全国的に休耕し、土地改良申請設置ブルドーザの音高らかに、昔ながらの形状様々大小不同なる旧田百九十六筆の枝数も、中央に道路南側に耕作堂設置区画整理によって、新田101筆、換地により、文化農地に生まれ変わらんとしております。
 昔農神二宮尊徳先生曰く「生活の根元は田、畑、山林在り、衣食住の根元は人民の勤耕に在り」と。云われた事を思い出す。農業者として田あり、畑あり、山あり三原則の完備に依り、天恵の地として衣食住も全う出来た事を我々祖先の勤耕に充分感謝したい。
 土地改良の喜びを胸に昔話として、自分の働いて来た田圃の仕事の一端を故郷の思い出話として残して置きたい。

   
  土地改良事業で新設された小松の道路。郡内でも有数の穀倉地帯であった小松の田んぼは現在、土が搬入され
   畑作地となっています。水田は若葉台団地を下りた3枚の田んぼだけです。


灌漑用水源小松川
 水源管理の根源は水源である。小松。谷戸には川尻村共有地が約五十町歩程あった。八幡林外は自由に刈り草のできる馬草場あり、開墾のできるところは個人で借用し桑園にし鬼沢、金久保、舟ヶ沢、大刈沢、石原久保、背負出、以上地名六ヶ所には山の中腹まで杉を植林し部落共有管理にて、村より借用し水源保持、治山治水に万全を期したのであるが、大正十二年関東大震災により木材が値上がりしたので、以上の立木を売却し借用地全部を村に返還した。
 水源の源泉は龍籠山、ぼんてん山であった。海抜375米の山上に金毘羅社の池の水が、昔から如何なる旱魃の年でも、水涸れしたことがなく雨乞いして清掃すれば、一両日中に必ず雨が降った。池の上の碑文に曰く
  多津ご山清き泉の小松川
      深き利益を授く金毘羅
と昔ながら自然をそのままに名文である。この龍籠山下大刈沢から石原久保迄は山道にて、木製での荷車にて一台一人引、長さ六尺巾三尺木輪の車使用、これから奥は龍籠山下からは車の這入込ない深い沢、岩と水とを飛び飛びに背負って出入りしたので、一名しょい出しといった。今の事務所文学碑入口下が広場になった沢があって一名「ぬた打」と云った。このぬた打と云う言葉はなあまり語で、猪どもが親子連れ、又アベックで避暑に集まった。豚の一種だけに暑さに弱かった。泉が出て大だまりでドロンコになって遊んだものらしい。猪どもの遊園地だったのでぬた打ちと今日まあで土地名で残されていた。地下開発によって岩石、土砂にて埋立てられ地形等は旧人が知るだけで忘れ去られ行く。
   多津ご山地下発電の開発に
        国の礎築く金毘羅
水源の大自然も時代の文化である将来観光地として大いなる進展を期待するものであります。


   
  現在の小松川の源流部、左岸は「舟ヶ沢」      小松川の旧源流部。近くに加藤武雄文学碑があります。
                      発電所の出来る前は湿地帯でイノシシのヌタバになっていました。


   
  鬼沢谷戸入口(小松川左岸側)               金久保(かなくぼ)谷戸 (小松川左岸側) 
  
  
  小松川右岸に広がる水田に水を供給する堰と取水口と少し下流の旧堰跡
   旧堰の直下は深い淵のようになっていましたが昨年の出水で埋まってしまいました。


   
   昔、ここ(左岸)に水車小屋があったそうです。段差はかっての堰跡で、右写真のところにも堰があり、古老に
   伺うと昔はここで水遊びをして楽しんだそうです。左岸の農家の庭先には小松川の水を利用した洗い場が作っ
   てありました。

   
  右写真のところも段差があり堰がありました。

明治三十年頃の水田状況
 五穀豊饒を祈念して一月十四日
ああぼへえぼと云って、大きな穂が出て豊作である様勝棒(カツンボ)と云う名前の木を長さ七、八寸位径一寸二、三分位の先一尺位を五本に割り、その先に差して下に垂れる様に差して、田を起して平束と一緒に立てる。畑も同様に立てる。

広報「しろやま」 昭和56年1月号 アーボ・ヘーボ  耕い初め(うないはじめ)  昭和62年頃
        
城山町谷ヶ原地区                    城山町小松地区
                                 城山町史民俗編より
 五月二日は八十八夜と云う。八十八夜の別れ霜などと云われたが、気候が順調な場合は霜とも御別れ出来たからだ。農作関所とも云えよう。この八十八夜に年中行事として三ヶ所の堰普請があった。前以て杭に手頃の栗丸太を用意しておき、今ではセメントで固めてあるから判らないが、大引きと云って松の大きなのが段々に積み上げてある。押えの間々に毎年すき間に打込む。大きなかけやで掛声勇ましくトンテントンテン打込む、それから取入口の手入、水路の掃除が終われば三ヶ所の堰から灌漑が始まる。
 三十年当時は積田の事だから冷たい四月の内から素足で這入り、四本歯のある田うない万鍬
(マンガア)と云うのでチョキンチョキン両手の平を豆だらけにして起こす大変な重労働であった・大体当時は四月中に耕起が終わった。
 水田が涸れれば土をこねてくろ付けと云って水がもれないようにこねた土を付けて、平鍬で塗り牛や馬で代かきが出来る手頃な水を貯めて置く。牛や馬は毎日鼻の先に竹棒を付けられ、人間に案内されながらぐるぐる廻ってかきあげる。当時は積田だから全耕地五月中旬に蒔付けなければならないからとても忙しい。牛馬の這入らない深田は手ごねと云って万鍬でこねその上を
大足(オオアシ)と云って大きな枠の真中に鼻緒の付いているのをはいてくるくる廻って歩く。牛馬の代掻きが終われば上づりと云う道具で田面を水平にする。相手が水だからごまかしは出来ない。代が終わればカッチキふんごみと云って、前の年に取れた甘藷から大豆、小豆のから、畑の雑草を乾燥して置く。あわがら麦から等、丹精して物置に積み込んで置いたのを皆んな田圃に運んで踏み込む。これが又痛い。足がふやけているので豆から等は泣きっつらをしながら作業に精出す。我一人でないから我慢が出来た。
                             
撮影2009.12.8

 大足(オオアシ・田下駄)      田舟(タブネ)  相模原市城山町民俗資料収蔵庫蔵
                              
 協力 相模原市立博物館

 踏み込みが終わると右左りになぜながら後ろへ四つん這いになってさがる。二、三人でやれば早いが一人では腰ばかり痛んで容易ではない。辛抱と我慢でやったものだ。なぜ終わると丸太で尺の条五条の道具で後ろに引下がり、条を次から次に付ける。
 次は細かい堆肥に種籾をまぜたのを
肥ざるに入れこれを首に掛け、作間一尺、株間七、八寸の間隔に、五条の中央一と作跨(また)いで左右二タ作、都合五条積みながら後びっさりにさがる。腰と身体の調子で上手の者は本当に早く器用に身体を動かした。畑と似がって膝位這入ってねばるのだから仲々大変だった。
                                 撮影2009・12・1
  
肥ざる(直径46p・高さ29p)
を使った種蒔きの方法 旧城山町向原地区 八木薫さん  
 八木さんの家は陸稲栽培をしていたので種は条蒔きにして植えたそうです。腰に縄を巻き終端にコブを付けておくと滑らなくて良い。種の入ったザルをそのまま手に持つと重く感じるが腰にザルを巻き付けた状態で手にすると長時間の農作業にも耐えられる先人の知恵と云えそう。腰に巻いた縄のことを「コシナワ」と呼んでいます。また埼玉県
所沢地区では「ツミナワ」とも呼んでいます。
      肥ザルのかかえ方 @肥ザルを腰縄を使い首からかける。
                    A肥ザルを腰縄を使い肩からかける。
                    B肥ザルを腰縄で腰に直接かける。

 一反歩に種籾一斗を堆肥にまぜて積むので一反を一斗蒔きと云った。だから一斗蒔が四枚の田もあれば五枚六枚のもあるからむづかしい。全耕地五月十五日には蒔付完了積田上りを祝い農休みをした。昔の農業は節度もあった。又秋の収穫も大小麦の蒔付けが終わって稲刈りが始まる。田圃の畔に大たばにまるいて積んで置き自分の田が全部終われば田圃で稲こきが始まる。昔の千束ごきと云う。また金ごきとも云う。手頃につかんでピリンピリンとこき落とす。藁はセエタと云って小さくまるいて田圃へ立て干す。暮れには取入れが出来る穂の籾は昼に来る時、夕方仕事を済まして帰る時運び天気でさえあれば毎日ムシロを広げて庭に干す。五十枚も七十枚も朝夕始末する。干した籾は毎晩唐臼と云う臼で竹の棒を中心にして二人で向こう前で左右に廻す。夜仕事だから提灯つけて夜も毎晩十時頃迄行った。一人では仲々骨が折れたので家の者が都合が悪い時は近所の友を頼んでヨイ(夜)引と云うのをやる。明晩君の家に行くから今晩手伝って呉れんかと云ったように。今のようにテレビがあるじゃあなし、暮れの中に玄米にして俵にして家じゃ今年しゃ何俵取れたよと自慢話と、いま幾日で御正月迎えるのを楽しみに辛抱と努力そのもので頑張るのだった。
大正三年当時の水田状況
 昔の積田も改良されて、田植方式に変わって来た。それでも一部は昔からの積田の方が取れるからと云って切り替えの出来ない者もあった。
 植田は苗代田だけ5月の節句を中心に十日頃迄に種おろしをして置けば良いので以外の田は植付けまでに代かきを終わればよい。
 一方生糸の方も八王子織業の好景気によって蚕種の掃立ても増加してきたため、家屋内に養蚕室を作り掃立ての準備があるので養蚕の掃立てがあ十日から十二、三日一緒に成るので都合して種下ろしを済ませる。種籾は桶にふやかして置いて、発芽の用意があるので圃場に蒔いておけば、大体四十日で田植えが出来るので、適期だから六月十日頃から六月末までが田植の最盛期でもあった。畑と違って見透しのつく水田の事だからどこの家の誰々君が終わった一番最後は誰々だんべえなんて云って一時間が本当に貴重であった。大正七年頃から秋の収穫期に足踏み脱穀機が登場して来た。
 其の頃から稲を刈り取りながら小さい束にまるいて掛干しをするように成って来た。藁まで片付くので始末が出来るので都合もよい。 
昭和8年灌漑用小用排水路第一の関を通して山の手に県の補助を受け工事をした。
 昭和23年頃から耕耘機が登場牛馬耕のj時代は一変していよいよ文化的に機械農業時代になった。
 特に記録に残しておきたい事は永い大東亜戦中の米の供出であった。当時川尻村水田総面積表示されていたのが21町歩。津久井郡は山間であるだけに水田又農耕地が少ないために供出割当と云えば川尻、川尻と云えば小松であった。部落挙げて供出には一致協力。招集されて男手のない家には共同作業で家庭援助は怠らなかった。川尻耕作水田の約3割供出完納いつもトップであり村からも郡からも感謝されていた。
 水田状況が横道にはいるが、ついでに以上のような実績により共同作業は県下三ヶ所のモデル部落に挙げられ農繁期共同作業及び、同炊事の指定にされ部落共同作業場即ち現在の倶楽部も県の補助金で建設出来たのだった。
 昭和十五、六年にわたらり作業には部落全員が勤労奉仕し落成する。その後にも石油発動機脱穀機、米穀調整機、製粉機等、購入の補助金の受けられた事も協力の御陰であった事を嚆矢とする。
 昭和四十五年米は過剰となる、政府の方針により休耕して土地改良組合設立、開田以来、昔ながらの三角あり四角あり、一枚一枚形状の違った水田も換地によって形状も同一な機械農業に、最も理想的な水田になり、道路水路の新設、ブルドーザの音も高らかに水田耕作過去をあますところに生まれ変わらんとしていますので過去の思い出を書き綴った次第です。

   
  小松自治会館、元は小松倶楽部と呼んでいました。戦争中は横浜から浦島国民学校の子供たちが疎開で来ました。
   空襲警報が出ると西井戸(ニシド)の中島さんの奥の庭に造られた防空濠の中に避難したそうです。
   倶楽部の脇には薬師堂があり、隣接している遊技場の一帯は水田が広がっていました。


谷ヶ原に嫁いだ小池さんから聞いた話
 田んぼは万鍬(まんがあ)を使って耕したよ。
 田植の前は水を張って
 肥料になるから、レンゲやクズッパや野菜クズなんかを混ぜて田んぼに埋め込んだよ。
 「大足(オオアシ)」をはいて田んぼの中に入ったよ。
 おおあしは田下駄とも呼んだよ。 
 クズッパは1月に、まき山へ行って下草刈りをしたり
 落ち葉を掻き集めたものだよ。
 いろいろな葉が混ざった落ち葉のこと。
 それを、背丈より大きい「大カゴ」の中に
 いっぱい入れて田んぼまで運ぶんだよ。
 「大カゴ」は草刈りカゴより大きくてね、
 たくさんクズッパを詰め込んで山を下りるんだよ。
 クズッパって云うのはクズの葉のことじゃないよ。
 
                               撮影 2009.12.5
   
  小松川源流部の堰跡@と用水路から流れ出た旧水田跡、奥には梅が植栽され一部が畑に変わっています。
   柵の手前は二三日前にも来たのだろうイノシシの足跡が無数にありました。

   
   小松川源流部の堰跡Aと右側写真はどこからか運ばれた大量の土砂で埋められた水田跡
   堰から旧水田を結ぶ用水路は既に凹凸がなくなり分からなくなっています。

                               撮影2009・12・13
   
  西井戸(にしど)の谷戸                   不法投棄で埋まった小野谷戸の源流部と池

 取材を終えて
  私たちは田んぼを連想する時、広い青々とした田んぼを連想します。小松地区の中央部は、かつてはそうでした。その大きな小松谷戸の側面には無数の小さな沢があります。そこを先人たちは長い時間をかけ開墾しお米を作ってきました。いわゆる谷戸田です。その谷戸田には大型機械が搬入できないような小さな田んぼがあります。こうした所が真っ先に休耕田となっていったのです。それは仕方のないことなのでしょうか。何かどこかに、希望の明かりのようのものが見えないのだろうか。そればかりが気になりました。

    資料資料
      津久井の昔話 第二集 津久井福祉事務所  発行 昭和46年7月 
          「城山町にまつわる事柄(二篇) 清水公済」より原文をそのまま引用させて戴きました。(濃紺の部分)
      城山町史 4 資料編 民俗 編集発行  城山町 発行 昭和63年3月
      「広報しろやま」縮刷版 発行神奈川県城山町 昭和60年11月
      田畑と雑木林の民俗  大舘勝治  慶友社  発行 1995・1
      湿田農耕 木下忠 岩崎美術社 発行1988・8
      協力 相模原市立博物館
 
                   小松川のほたると谷戸
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