資料 小島烏水 「相模野」から 相模野台地を横断した人 作成 2011・1・3 追加 2011・1・15 「山岳文学」の 「註」と「過ぎにし旅のことども(後敍)」を追加 追加 2011.1.30 文化期の当麻道考 明治39年、日本山岳会初代会長に就任したばかり(前年)の小島烏水は横浜からやって来て広大な相模野台地を横断しました。33歳の時でした。最初は道を間違えたりしましたが淵野辺の竜像寺から当麻山無量光寺までの相模野台地を横断しました。横浜線は明治41年9月23日の開通ですから自宅の横浜からは歩いて来たことになります。 下図(明治15年)を参考にしますと、当時の相模野台地には当然のことながら、今の16号線のような広い道路は出来ていません、広漠とした上段の台地の中央部には未開発の楢林が広がっていました。台地の北側や南側からは、中央部に向け作場と呼ばれる畑が広がり碁盤の目のような畝が切ってありました。 小島烏水はこの台地を横断するために、この「作場」の畝を通って当麻山無量光寺に行きました。ちゃんとした道が出来ていなかったのです。作場を作るために今までの道がなくなってしまったかは今となっては分りませんが、相当、道に迷った人たちがいたのでしょう、文久元年(1861)には10本もの石柱を建立した人たちもいました。現在石柱の4本迄を確認していますが残り6本の所在が未だ不明です。 「相模野」はこの時の旅行記で、昭和19年、太陽出版社から出版された「山岳文学」の中に収められています。本稿では、その中の後半部を紺字で表記し、原文をそのまま掲載しました。 撮影 2007・6・2 木曽一里塚 撮影 2007・6・2 撮影 2009・2・23 淵野辺・竜像寺の坂 竜像寺 (上略) 寺に沿って、左の竹下道の坂を上る。上り切ると、そこがさがみ野中での高原。 六 自分は、この相模野を淵野辺から、当麻へ横断するつもりであった。当麻というのは、東海道平塚から、八王子へ行く街道の間の宿ともいうべき、かなりの村で、古は当麻の宿と唱え、料亭櫛比した繁富した地で、小田原北条時代には、月六次の市を立てる。一六の日には、時用物品の売買が盛んで、問屋や止宿人の監督として、奉行が出張するというほどであったそうなが、今は衰微して火の消えたようだ。当麻がいくらか賑やかでも、背後に相模野高原という、冷庫を控えているから、活気も吸収され滅入ってしまうのであろう。昔も冷たく、今も冷たい高原のみ、ひとり不滅の象がある。 しかし、当麻には、無量光寺という名刹がある。当麻道場の称あるこの御寺は、今でも緇素の信仰があつい。界隈では金光院無量光寺など厳かめしい名を呼ぶより「一遍さま」と尋ねる方が解りが早い−無量光寺の開山は一遍上人である−その一遍さまを目懸けて、相模野を突き切るのである。淵野辺よりこの間近い二里は高原である。楢林があり、芋畑があり、坂があり、人家も、と言い添えたいが、人家は淵野辺近くと、当麻近くと、両極に斑(まだ)らにあるばかりで、、間の原には無い。稀にあっても、、昼間は人が「作場」に出ているから、空虚が多い。「作場」とは高原を、今開拓しているから、土地でそう言っているのである。この辺で路をきいても、茫々とした原で、方角を教えられたくらいでは、解りにくい。解りにくいから人も教えてくれない。皆言い合わしたように、躊躇して、作場に人がいるずろうからお聞きやれという。親切な農夫は二三丁も踉いて来て、かんで哺めるように教えてくれるが、その人に離れると、はてな、一寸立ち止まることになる。 撮影 2009・2・23 相模原市淵野辺 河本ファーム内 残されていた当麻山道の石柱 自分は桑畑の間の道を行く。十字の路に出る。左へ折れる。遊行道場一遍上人当麻道の石碑がある。この石碑に向かって右は津久井、左は鶴間の追分になっている。左へ折れると、一本松があって、右上溝と又石碑が立っている。そこで今度は右へ折れる。上溝は当麻の隣村である。路を聞くと左へ曲がれ、右へ折れろ、左へ行けなどと教えられるので、愚弄されるように、危ぶまれたが、成るほど来て見ると、路が凡て、角形に截(き)り開かれてある。人は言う、武蔵野の路は相逢わむとして往くとも、逢いそこね、逢避けむとて歩むも、周り角で突然遇うことがあると。武蔵野は今街道や、幹部線を除いての径路が、人の踏むままに曲線を引いている、蹄鉄形の路が、幾つも喰み合っている、殊にその角々や、中央に、林や、人家や、小流などが介待っているから、路がこんぐらかって解らなくなることがある。相模野にもそういうところがある。淵野辺や鵜の森でも、村に近いところは、人道りが多いから、自然そうなる。しかし純粋の相模野になると、もう人が通ったり、荷車を挽いたりしないから、反対に路が直線を引いている。直線を引いているのは、土木課あたりの御役人が、熨斗餅に包丁を入れる気で、幾何学的に割り拓いたままであるからだ。縦も横も直線だから、碁盤の目のようだ。故に逢おうと思って行けば、必ず逢われる。避けるのも同じだ。人が稀だから、傍道へ踏み入られない。枝も無い幹が、画かれたまま保存されてある。もしこの保存に多少の変形ありとすれば、それは件の路の中央から女郎花や、桔梗などが咲いていることだけだ。楢林は大山の方に偏って、塊っているから、原の中央に目を遮るものとて無い。あるといえば、至って稀な耕作小屋だ。それも畑の中から、屋根だけ浮いて見える。北海道辺の植民地へ行ったら、こんなだろうと思われる。 自分はこの長方形の、田楽型とも言いそうな道をぼつねんと一人で歩いた。一人で歩いたとは正面の大山を除いて、何でもいいから、動くものに遇いたいとおもう。畑は刈り取られて、風に動くものはない。空には雲が無いから、飛ぶものも見えない。ただ動くものは、煤の塊のようになって飛ぶ鳥が幾羽かいた。鴉の動くのは、寂寞に塊を入れるばかりだ、一層の寂寞を加える。 そうおもうところえ、商人風の尻ツ端折の若い男が、一人来た。手には一二茎の女郎花を持っている無頓着そうな面構えで、女郎花は身分不相応な持ち物だと、不平を起しながらも路を聞いた。お話しても解りにくい路ですからな、と気の毒そうに分疏して、それでも叮嚀に教えてくれた。別れて、あの男が何で女郎花を持っているのだろうと考えた。花を愛でるというような、生温い考えではなかろう。あまり寂しいから、無意識に女郎花を手折って見たが、捨てるとなると、話相手に別れるような気がして、捨てにくくなって、それで持っているのであろう。寂寥が持たせてくれた友は植物では無い、その女郎花なり、桔梗なりのいずれは、友たる資格に欠いてない限り、彼の問うところではなかろう。一旦巷へ出れば、寂寥の友は捨てられて、馬蹄の塵となるに決まっている。 こんなことを思いながら、長方形の路が尽きると丁字に遮った路がある。もう解らない・真直ぐな路を駆けて、耕作小屋へ躍り込む。幸いに人がいた。単衣一枚の破れから、赤銅作りの肩の肉が喰み出している。強いて頼んで、迷路の無いところまで、道案内をしてもらう。 左図 上溝村 明治15年測量 参謀本部陸軍部測量局 右図 原町田村 明治14年測量 陸地測量部 この原で路を迷う人が、幾人あるか知れない。一度迷うと山路(楢林つづきをいう)へ行くものである。夕方になって、一ツ家へ頼みこんで、夜霧だけをしのぐのもある。あの楢林の頭が、両方から低くなって切れ目になったところがありましょう。あすこへ行くと当麻さまへ出るのだが、こんな晴れた日はいい、雨が降ったり、霧が下りて御覧じろ、土地の人でも、方角が知れなくなります、大山の皺(しわ)の出方と、切れ目とが、当麻さまへ行く巡礼方への路しるべだという。山を目標にして、方角を決めるとは高原的でおもしろいとおもった。(写真下の「直線な・・」へ続きます。) 撮影 2010・11・17 遊行元祖 一遍上人 當麻山道 文久元年 直線な、方形な路は、作場が尽きると、共に尽きて、楢林に入った。楢林はもう落葉が多くなっている。林の無いところは芝原道で濶(ひろ)い路や小さい路がある。山稼ぎの人が入るのだから、濶(ひろ)い路も先に行くと尖ってしまい、小さい路がまた幾筋にも分かれたりして、人の迷うのも、この林の中が多いという。畑があった。畝道らしいところへ出ると、不意にゴッと音がして風が起こった。柿の落葉は絲目をつけたように、ずいと空へあがる。足許の蟷螂の屍骸が、けろりと起ち上がって居住いを直す。物皆は、行くところへ行けや行け、止まらんとするところに止まれかし。 道を伝ふる婆羅門の 西に東に散るごとく 吹き漂はす秋風に 飄(つむじ)へり行く葉かな(藤村) 秋風に向かって悠場と、この詩を謡い得る自分は、生涯の中、最も幸福なる自分であると思う。 小山坂というのを下ると、水車があり、小舎があり、始めて村落らしくおもわれた。小舎があったからでは無い、水音がしたからである。相模野は水に渇している。 桑畑の間を辿って、大山の前に蜿ねっている道志山脈を見た。その眼を下へ移すと、黒くこんもりとした杉の森が見える。金光院無量光寺の六百年は、この黒い輪の中に包まれている。 (明治三十九年)
私は、東海道は、横浜から大井川・天竜川・・・(後略) 参考 「註」と「過ぎにし旅のことども(後敍)」は昭和19年に刊行された「山岳文学」の中に新たに書き添えられた文章です。相模野の明治三十九年の頃と昭和19年の頃の状況がほんの少し読み取れるのではないかとおもい掲載しました。
気がついたこと 座間美都治先生は著書「相模原民話伝説集」の中で、こんな事を書いておられます。「淵野辺の呼ばわり山」の項から、「現にかくいう私も昭和の初期に横浜からの帰途、夕方淵野辺駅へ下車した。バスも相模線もないころである。広い道路を上溝に出て、それから県道を通って下溝の自宅へ帰ればよいのを、それでは遠廻りになるので、山林の中を斜めに横切って古山の上へ出ようとした。ところがすっかり道に迷ってしまい、気がついて見ると、まったく反対の方向の清兵衛新田の比丘口にいた。それでふたたび淵野辺駅から出直したので、家へ帰り着いたのは夜中であった。」そうです。昭和の初め、しかも地元の先生が道に迷われてしまったのです。今の環境からはとても考えにくいことですが、実際に起きた話なのです。 当麻山無量光寺には江戸講中の人々が奉納した一対の灯籠が本堂の内陣に安置されてあります。またその脇には恐らく出開帳の時に使用されたと思われるお厨子も残されてありました。この灯籠やお厨子をどのように運ばれたのでしょう。一口に当麻道と云いますが、現在の道とかなり違うように思われます。気になるところです。 旧城山町から相模川面の、相模野台地の崖沿いに古道が延びています。途中には谷壺(ヤツボ)と呼ばれている湧水が残されています。旅人は台地の崖沿いからこぼれ出す湧水を飲みながら、平地を見降ろすようなかたちで目的地に向かったことでしょう。こうした景観は僅かですが境川沿いでも確認することが出来ます。高燥な相模原台地の内陸部ではとても考えられないことです。道を迷わないで進む。これは優しいようで、とても難しいことなのです。 昭和5年 5万分一地形図 文化期の当麻道考 文化15年寅3月16日、最上徳内は再び、淵野辺村を訪れ、漆櫨栽培のための検分を行いました。 徳内は漆櫨栽培のため適地を求めていたのです。「文化元子年より 秣野新開実録 同十五寅年迄」の中にこんなことが記されてありました。 (前略文化15年)寅ノ三月十六日 十七日 上矢部村・矢部新田村・木曽村・根岸村立会被仰渡候は、秣野境縁り通り御廻リ被遊候、木曽村・根岸村両村役人一同頭取木曽村忠兵衛・根岸村又左衛門ニ而新開故障申立、御出役人中様右之者ヘ被仰聞候は、此度淵野辺村請之分、文化元年子年中之場所新開小割青山下野守様より被仰付、其村々請之分一同新開致、可然旨御申渡シ被遊候 十八日 秣野縁り杭打ち少し残り 十九日 右杭残り相済、夫より地窪捨地場所杭打 廿日 上矢部村境大松之所より新田之方ヘ廻り、当麻道迄間棹相済候、同日八王子ヘ御用状継立候 廿一日 当麻道より竜像寺北角迄間さおを相済候 廿二日 右角より上矢部境松迄御分間秣野縁相済、鹿沼廻り漆・櫨場所御検分被遊候 廿三日 菖蒲沼・菅刈窪・丸久保三ヶ所御検分之上、又々菖蒲沼御検分見有之候 廿四日 御休ミ八王子ヘ漆・櫨苗実附ニ人場指遺(まわ)し候、同日村方新開請人数相調、帳面差出し可申旨被仰付候 廿五日 御絵図面御認被遊候、同日漆・櫨種蒔附候 廿六日 右同断 廿七日 道筋御改并木曽村柄御検分被遊候 廿八日 御絵図面 廿九日 右御用并最上徳内様五日市ヘ御用御出被遊候 (以下下略) 間棹 間さお:間数を測るための竹竿。検地などに用いられた。
かって、時衆徒や後北条氏が信仰の道として、またある時は軍用の道として栄えたこの道も、時間と共に衰退の一途を辿りました。明治の後半、小島烏水はこの当麻道を横断する時、「この長方形の、田楽型とも言いそうな道」と形容したのは、開墾によって、土地が区画整理され道が移動していることを云いあてています。 当麻道は竜像寺から当麻に向けた道ですが、時代により表記されたり、されなかったりその存在を分りにくくしています。また昭和に入ってからは道の途中が陸軍の用地となったり、軍都としての開発が相模原都市建設区画整理事業として県の事業で行われました。そうして、現在では道の途中と思われる個所に広域水道企業団相模原浄水場やゴルフ場などがあり、元々あった当麻道の存在を非常に分りにくいものにしています。 時代の変遷を経た道は、決して角ばった道ばかりではなく弧を描くような滑らかな道です。ずっと歩きやすかったのです。相模野台地を横断する道、当たり前のような話ですが実は遭難者も出たと云う、命がけの道でもあったのです。 軍都に関しての記述は後日、項を新たに設け掲載する予定です。 参考 「相模野」 小島烏水 日本山岳風土記3 富士とその周辺 編集代表 長尾宏也 宝文館 発行 昭和35年5月 (収録文の掲載書名 「山岳文学」 昭和19年8月 太陽出版社より) 「相模野」 小島烏水 発行 昭和19年8月 太陽出版社 装丁:中村清太郎 扉絵(裏富士) 和田英作 「小島烏水の「相模野」について」 柿沢高一 「郷土相模原 復刻第三号」 発行 相模原郷土懇話会 昭和47年7月 一遍上人と当麻道 奥村 冊子 相模原民話伝説集 座間美都治 発行 昭和53年12月 多摩の古道と伝説 羽根田正明 有峰書店 発行 昭和52年5月 相模原市・当麻の風土 津久井を走る霊随上人 霊随上人に関する研究と今後の課題 武田久吉博士からの写真 行動の人・最上徳内、城山来る 戻る(屋根のない博物館) |