謎の津久井城主内藤氏は何処に 
            〜内藤景定・景豊親子の結末〜    作成 2009・10・17
 津久井の歴史を知る上でどうしても潜らなければならない壁がありました。私たちは相模川から山間部へ、また山間部から平野部に向かうとき、一つの小高い山を見ます。その山こそ謎の津久井城址のある城山です。間もなくその全容が解放されることでしょう。現在も発掘調査が行われています。
 長い間、信じられて来た、また、誰一人疑うことをしなかった津久井城主はだれかと云う問題です。私は辺見嘉一さんからずっと前に話をお聞きしていましたが、新たに年表を作るにあたって、あらためて、その研究の立証性に敬服しています。
 辺見さんは天正8年壬3月28日付、内藤綱秀花押(光明寺文書)と「新編相模国風土記稿」巻百二十四、津久井縣巻之十、芸文部、旧青野原村里正源之丞所蔵文書に掲載されている天正18年4月17日、内藤大和守が井上源三郎に宛てた文書の花押を比較研究され同一人物であることを立証しました。
 筑井古城碑が建立されてから既に163年という歳月が過ぎています。その間、辺見さん以外に、だれもが何の疑いもなく信じて来たのです。平塚市蓮乗寺にも内藤景豊と称する墓があります。果たして内藤大和守は実在の人物か、まだまだ波紋を呼びそうです。
 この項では、新たな断言を避け、どうしてそうなってしまったか、その過程を振り帰りながら津久井内藤氏の結末を振り返って見たいと思います。

これまでの津久井史が揺らいだ綱秀と大和守の花押
「新編相模国風土紀稿 巻之百二十五 津久井縣御朱印并藝文部巻之十」

 
天正18年 4月17日、井上源三郎宛 内藤綱秀感状写 大和守花押  天正8年壬3月28日、判物 内藤綱秀花押


 相州筑井古城図    津久井町郷土誌・串川編より引用
  

 津久井城址(功雲寺からの景観)






    
津久井城主内藤景定墓   撮影2009・10・6  昭和56年頃の内藤景定墓 

   
内藤景定の墓がある太井山功雲寺


   
 旧津久井郡中野村 熊野神社
新編相模国風土記稿(明治21年発行)より熊野社古棟札についての記述(全文は城山町史1 資料編に記載)
 「境内の鎮守ナリ 古棟札写五枚アリ其一曰。熊野権現宮。永正十年癸酉十二月五日。地頭荻野甘利椿主。本願禅江。其一ニ曰。享禄三庚寅年。地頭藤原朝臣朝行。代官大野三郎左衛門。其一ニ曰。天文十七年戊申霜月十五日。相模国大貫中村。熊野堂祥泉庵。地頭藤原朝臣康行。代官大野弥三郎。其一ニ曰。天文二十二癸丑年(稔)地頭藤原朝臣康行。代官大野内膳助行道。其一ニ曰天正庚辰年霜月十六日領主藤原綱秀。當所代官嶋崎勵之者也」

十折の折紙
T例 大永4年12月9日、内藤大和入道花押 、寄進状  U例 天正8年壬3月28日、内藤綱秀花押、判物
  
「伊勢原市史通史編 中世 P394」より。後北条氏の古文書には十折に折られた折紙が多いと、再現の模様を図示してありました。光明寺文書の中にも見受けられました。どんなふうに折られていたか挑戦して見ましょう。
T@最初は内側へ横に二つ折する。(文章が見えないように折る)
  A左側が山なるにして縦を半分にして折る。
  B折り目が3対2の割合になるよう左側を山にして縦折り。
  C表側になった紙を左側を山にしてもう1度、縦に折る。
  D今まで折っていなかった右側の紙を左側に縦折りする。
  E出来上がり。右上の反対側に見えた「光明寺」の文字が正面を向きます。
      ↓
U@文章が上になるように横折りする。
  A〜D同じ
  E出来上がり。

  
伝佐藤家の裏門を移築したと云う乗蓮寺の山門  山門前の仁王さん(後ろ姿)


平塚市乗蓮寺・内藤景豊墓   撮影2009・10・7  
 
  昭和56年頃の内藤景豊墓  
          かながわ風土記 第四十六号より
  大日如来の蓮弁に彫られた金石文
    向かって右側   寛文十三年
    中央        大法師  伸隆  
    向かって左側   癸丑 三月十四日
資料 内藤景豊墓前にある2枚の碑文より
 「伊瀬屋市良右衛門を略して伊勢市と言いました。市良右衛門の父は佐藤伝左衛門豊成といい相州津久井城主内藤大和守景豊の臣で主従も北条氏に属していました。
 天正18年(1590)の春、白根の戦いに豊臣勢を破って、軍功があったため、伝左衛門は大和守から感状を受けていましたが、その後の混乱で主従は別れ別れとなり結局大和守は行方不明、伝左衛門は相模川を下って須賀湊の市井の人となりました。
 佐藤伝左衛門豊成の主人大和守景豊は小田原北条氏滅亡とともに運命をともにしました。
 乗蓮寺本堂前の古塔を内藤大和守の墓といっていますが、たぶんこれは伝左衛門が主人大和守のために建立した供養塔であろう。山門は佐藤家の裏門の移築という伝承もあり伝左衛門豊成の法名を智海院妙○華翁居士と云い山門の額「花翁山」に一致する。
」と記されてます。
                               (○印は口全の合字で漢字変換ができませんでした)
小田原城櫓建造用材確保の書状

  勢樓(高い矢倉)道具

 貳百拾三丁     五六
 三百九枚      幡板
    以上、津久井より出、

 百廿五丁      五六、
    以上、七澤より出、

 右、材木少も不到紛失様ニ
 可罷
(まかり預るべし)預、舟來次第厳密ニ
 相渡、委細以書立安藤
 豊前ニ可申断者也、仍如件、

 甲戌
(天正二年)    (良整) 奉
  正月廿四日
 (虎朱印) 安藤豊前

      須賀
      田中
      清田


相模川交易と内藤氏
 津久井は昔から森林資源の豊富なところでした。津久井地方が初めて表れる所見は元享三年十月の円覚寺所蔵文書からです。北条貞時の十三年忌に、執権北条高時が円覚寺内に法堂を新造する記録で、建築用材を奥三保の屋形山や鳥屋山から運んでいます。
 当時の運搬方法は用材を筏に組んで相模川を下るようにしました。後北条の時代になると當麻に市が置かれ盛んに交易が行われるようになりました。左の文書は小田原に櫓を築くことになり、その用材を津久井と七澤に求めています。五六とは五寸・六寸の角材のことで213本を命じています。須賀(平塚市)とは相模川右岸にある河岸場で、田中・清田氏は須賀の在地の責任者で後北条氏の家臣です。
 相模川から運ばれた用材は、この須賀湊に集積されそこから船に乗せ海路を小田原向け運びました。内藤景豊の墓はこの湊の近くにあります。こうしたことから須賀湊は津久井との関係も深く景豊との、主従関係にあった佐藤伝衛門は以前は津久井に住んでいた人物と思われます。このことは、白根の戦いで同じく主従の関係にあった井上源三郎も同日に感状が出されていることからも伺うことができます。
 また、永禄2年(1559)の「北条氏所領役帳」に記された津久井衆の中には、磯部内に*野遠江守、小沢に金子新
五郎、久松村に矢部修理亮がいて全体で百五貫文を領していました。こうしたことからして左文書にも記されているように用材の運搬や交易始め、軍事面や治水管理に至るまで何らかの形で関与していたと考えられます。
 *津久井石井本→呂 狭山藩今井家本→口 検討要す

   
平塚市須賀湊の入り口(相模川右岸)       撮影2009・10・7

   
相州須賀湊 小田原北条時代の高札場跡で「札の辻」と呼ばれていました。


小山田与清(おやまだ ともきよ)
内藤景豊は実在していたか   〜小山田与清の考証力〜
文化11年9月26日、小山田与清故郷小山田村から筑井県の紅葉を訪ね城山に登りました。この時の道中記を「三保道記巻第三」に著わしました。
 与清は武蔵多摩郡上小山田村に生まれ号を松屋(まつのや)と云いました。近世後期を代表する和学考証家で平田篤胤・伴信友と共に幕末の国学三大家と称され蔵書二万巻余り、門人も数百名がいたと云います。
 また晩年は徳川斉昭に招かれ水戸家の編纂注釈事業に参与、後期水戸学に影響を与えました。
 津久井古城記完成まで上記の小山田与清の功績は大きく当代一流の人々
が関わりました。ここでは記しませんがその信憑性について、同じ「三保道記巻第三」を引用しながら考えて見たいと思います。 
 与清が津久井城址を訪れた頃は甲陽軍艦・武田三代記や小田原北条氏分限帳(「役帳」)を基にしていることから「内藤左近将監・内藤大和守・内藤周防守・内藤兵部少輔」などの人物を列記し功雲寺の位牌についても述べています。しかしこの時点ではまだ景豊や景定の名前は出ていませんでした。その後の調査がどのようにして名前が浮びあがって来たか、そして「筑井古城記」がどのような資料を基に出来上がったか、それが分かれば後年これほどまでに問題を残さなかったと思います。
 「三保道記巻第三」にはこんなことも書いてありました。「小倉の滝はあづまの都近きわたりにかばかりの大きやかなるはなし。五丈ばかりもあるらん、いかめしき巌より音もとどろきたぎり落つるは、なかなかにあはれさえ過ぎておそろしくすごきさま也。
 ふたたび川をわたりて西の岸をとばかり下れば、くし川の川じりに出づ。ここの川原にかはら菊といふ花、所せきまで白う咲きたり。こはいにしへ
かわらよもぎと呼べり。」と記されています。カワラキクとカワラヨモギは同じキク科植物ですが違いがあります。
  
 キク科シオン属 カワラノギク        キク科ヨモギ属 カワラヨモギ 撮影2009・10・18
 また、「下河尻村の宝泉寺の観音堂の前なる石燈篭は、建久二年の年号彫りたりといへば、尋とめて見ましと思はへるに、道いとおぼつかなし。」とも記しました。夕闇が迫って来たため、宝泉寺の観音堂へは時間の都合上行けませんでした。そのため観音堂の前にある石燈篭を見ることができませんでした。もし本当に行っていたら建立年代を間違えてることはなかったと思います。実際は応永十七年す。民俗学者南方熊楠も岩田準一宛書簡141号の中で間違いを述べていました。 同じく民俗学者の柳田国男も「火の音」の中の「何を着ていたか」の中で、「小山田与清は近代の博学であるが、その著松屋筆記の中には、武蔵南多摩郡の由木村の地名を解釈して、弓削氏の植民地であったかといっているのは、なお西国の山村に柚木・油谷・油園等の地名が無数にあることを気づかなかった誤りである。」とも記しています。
 小山田与清が考証学者と云われる所以ですでが、そうまで云い切れるものでもありません。
 また、天保6年2月に行われた「新編相模国風土記稿」の調査では、中野村熊野社を訪ね棟札調査を行っていますが、当時としては、それが津久井城主代々に結びつく棟札であることまで考えていませんでした。
 上記のような考証だからと云って小山田与清の学問が総て、信憑性に欠けるとまでは云い切れるものではありません。現在知りたいのはどうしてそうなったかと云う根拠です。
 辺見さんの発見はこれまで信じられて来たことを一変させました。今後私たちはその完結に向け更なる研究を進めなければと思いを深めています。そして、先人たちの労苦に答えて行こうと戒めています。

津久井内藤氏と文化期以降の研究史
西暦 和年号 出 来 事
1513 永正10年 熊野社の棟札に「熊野権現宮、永正十年癸酉十二月五日、地頭 荻野甘利椿蔵主 本願禅江」
1524 大永4年 12月9日、内藤大和入道花押 、寄進状(光明寺文書)
1530 享禄3年 熊野社の棟札に「享禄三庚寅年 地頭 藤原朝臣朝行 代官 大野三郎左衛門」
1534 天文3年 3月20日、内藤左近将監景定卒去。(功雲寺の位牌と過去帳による)
  隴山院殿功雲道勲大居士  天文三甲午年三月二十日没
  曹渓岳院殿利元寿貞大姉  天文元壬辰十月二十日没    同夫人
1536 天文5年 8月5日、康行朱印、証文(光明寺文書)
1541 天文10年 11月27日、遠山綱景、八菅社大権現堂を再建、
       棟札に「當地地頭内藤九郎五郎藤原朝臣康行」
1548 天文17年 熊野社の棟札に「天文十七年戊申霜月十五日 相模国 大貫中村 熊野堂祥泉庵
         地頭 藤原朝臣康行  代官 大野弥三郎」
1553 天文22年 熊野社の棟札に「天文二十二癸丑稔閏正月十一日 
        地頭 藤原朝臣康行  代官 大野内膳助行道」
1554 天文23年 12月、武田信玄の長女(黄梅院)が氏政に嫁ぐ。
1559 永禄2年 「小田原衆所領役帳」が作られる。
津久井衆の筆頭に内藤左近将監の記載、また千木良之村・吉野村・沢井村・小渕之村・那倉之村・牧野之村・若柳之村・三加木之村の項には大和守所務、太井村は内藤所務と記載。
1567 永禄10年 5月11日、常楽寺文殊菩薩修飾之誌
相州小坂郡栗船山常楽寺文殊尊、於天下五躰之内名佛、然所大破際、同國住人
津久井城主内藤孫四郎藤原綱秀 并(ならびに)玉縄住木村紀伊守平正直両入奉談、御彩飾、
同入佛致之者也、 (略)

1568 永禄11年 末、甲相同盟の破棄にともない黄梅院、離別。(翌12年6月17日27歳で死去)
1579 天正7年 12月23日、内藤法纉(康行か綱秀 検討要)、証文(光明寺文書)
1580 天正8年 壬3月28日、内藤綱秀花押、判物(光明寺文書)
 
 辺見さんは、「津久井文化 第6号」の「津久井衆内藤氏の問題点と私見」の中で、大和守とある「新編相模国風土記稿」、青野原村里正源之丞所持の花押と天正18年4月17日、内藤綱秀から出されて花押が一致していることを発見され、内藤大和守と内藤綱秀は同じ人物であることを証明しました。
11月16日 熊野社の棟札銘写に「(略) 領主藤原綱秀 當所代官嶋崎勵之者也 
        天正八年庚辰霜月十六日 人皇百七代正親町帝 将軍織田信長公 
        文政十一戊子年迄二百四十九年ニ成、」
1585 天正13年 3月11日、沢井の年貢・夫銭などを定める。内藤綱秀朱印状 (石井元三郎氏所蔵文書)
       (略)百姓者此書立以外、年貢不可出之、(略) 朱印  
       役帳にある「敵知行半所務」から内藤氏が津久井全域を支配したことを物語る文書
1586 天正14年 正月28日、内藤左近将監直行花押、寄進状(光明寺文書)
1588 天正16年 12月晦、内藤直行朱印、半物(光明寺文書)
1590 天正18年 3月19日、秀吉、小田原退治のために都を出立する。軍勢は26万にも及び3月1日より出立、
        先陣は由比・蒲原あたりにあふれ、後陣は尾張・美濃に控えていたという。
3月27日、秀吉、沼津浮島原に着陣。
3月29日、山中城の合戦。
4月3日、秀吉、小田原城を包囲。
4月10日、松井田城に立て籠もっていた大道寺新四郎(政繁)が北国勢に取り囲まれ降参。
4月16日、皆川山城守が百騎ほどで降伏。

4月17日、白根の合戦、井上源三郎宛 内藤綱秀感状写 大和守花押
 
                  「新編相模国風土記稿」巻百二十四、津久井縣巻之十、芸文部、
                   旧青野原村里正源之丞所蔵文書

4月17日、佐藤傳左衛門宛 源三郎感状写 大和守花押
 
    中郡白根表ニ京勢・地衆集居所内敗、敵一人討捕、
   走廻之致、忠信感悦ニ候、彌(いよいよ)
   可抽(ぬきんずべき)粉骨候、小田原へ申立、
   可遺(つかわすべく)御感状候、
   當時往行就不自由ニ、先自判(じはん)を出之者也
    仍如件
   天正十八庚□寅の略字    大和守(花押)
      四月十七日
               御検使 
               大藤長門守
   佐藤傳衛門殿
                  
           「相州文書」大住郡旧須賀村、彦七所蔵文書
4月19日、前田利家が武蔵の国の鉢形城を攻める。
4月21日、玉縄城主、北条氏勝は出家入道の姿となり、黒衣に袈裟をかけて秀吉のもとに出仕する。
          秀吉は御教書を与えもとの所領を安堵する。 
4月中、秀吉、後北条氏の分国中の各地に禁制を出す。
   禁制(郷村)の内訳  寺社は省略
   高田郷24ヶ村・大伴・国津・曽我他・金子・森の庄・田村・豊田三郷・今泉・おんな及河・あつき・讃多・
   荻野・すゝかや小屋入之郷・23ヶ村・くまさか・大ひらたい・そこくら・梅沢・今田他・おんま郷4ヶ村・
   こそね・茅崎他・つゝミ・村岡・鎌倉・しぼや庄葛原之郷他

  掟(郷村)の内訳  寺社は省略
   飯田・加山・さかわ・赤田他・松田・狩野庄・かねこ・こう山・河村他・のふさわ金井嶋・ひなたこや・
   ふところ嶋3ヶ村・こうの郷

5月24日、内藤綱秀朱印状写 

       津久井城普請人足積り
    
拾人  ミまし     十人 はんはら
    十五人 すミた 川入   以上卅五人 
     右、てんき次第、明日より三日、道具ハくわ・まさかり、
     四ツいセン
(午前10時以前)にまいるへし、
     はん
(晩)ハ七ツ(午後4時)ほうしあかあるへし、
     我々自分之様ニハ無之候、
     御大
(北條氏直)とのため城ふしんの儀、倒分別可走廻候、
     若不参者有之ハ、強儀を以、可押立候者也、仍如件、
           □
寅の略字
         五月廿四日        大和守 朱印
            三ヶ村  百姓中   

             「相州文書」愛甲郡旧三増村、小野沢彦衛門所蔵文書 
5月中、秀吉、みまし、当麻之郷に禁制を出す。
    禁制          相模国東郡
                    當麻之郷
   一、 軍勢甲乙人等、乱暴狼藉の事
   一、 放火の事
   一、 地下人、百姓らに対し非分の儀申し懸ける事

     右の条々、堅く停止せしめおわんぬ。もし違犯の輩に
     於いては、すみやかに厳料に処せらるべきものなり。

       天正十八年5月  日  秀吉朱印

                    
       「田所文書」相模原市磯部 田所新兵衛旧蔵
6月2日、今和泉之村 名主中宛、内藤綱秀朱印状 内藤朱印 清水望弘氏所蔵文書(秦野市今泉)
6月4日、廣川之村  名主中宛、内藤綱秀朱印状   内藤朱印
                「相州文書」大住郡旧広川村名主新左衛門所蔵文書   
6月14日、鉢形城、浅野ら5万の軍勢に包囲され開城。氏邦は城下の正龍寺に蟄居。
6月15日、松田尾張守入道憲秀が豊臣方に寝返って「当方の持ち場から豊臣方の軍兵を引き入れたらどうであろう」と相談する。その前日の晩、同志の笠原新六郎・二男松田左馬助・三男弾三郎・内藤左近・大田肥後守らと酒食をもてなす。
6月20日、成田下総守が秀吉に送った返信状を北条殿に逆送、城内に疑心暗鬼が生じる。
6月23日、前田利家・上杉景勝の軍勢が八王子城を攻める。
城の本丸に横地監物、中丸に中山勘解由・狩野一庵、下の曲輪に近藤出羽守が立て籠もる。豊臣方に下った大道寺政繁・上田・難波憲次・木呂子友則・金子家基・山田伊賀守・小幡上総守一万五千騎がいた。
6月25日、秀吉軍、葦子(あしこ)川の河原側にある捨曲輪から堀を埋め橋を渡して攻め込み火花を散らす。
7月6日、韮山城主であった美濃守氏規、徳川家康と和平交渉をすすめ成立。
7月7日〜9日、数万にも及ぶ小田原籠城の者たちを外にだす。
7月9日、北条氏政・氏照も城を出て医者の田村安清の宿所に入る。
7月11日晩、「石川貞清・蒔田広定・佐々行政・堀田一継・榊原康政を検視役として切腹するようにと」の
          命令が下る。氏政(53歳)・氏照(51歳)、介錯は弟の美濃守氏規。

7月13日、秀吉小田原城に入城。
7月17日、秀吉、小田原を出発し、鎌倉・江戸・宇都宮を経て8月9日、会津に到着する。
7月21日、北条氏直ら総勢300名が蟄居先の高野山に向かう。
9月1日、秀吉、八ヶ月ぶりで京都に凱旋。
       
1624 寛永元年 7月7日、景定の子、大和守景豊卒去。(功雲寺の位牌と過去帳による)
   長岳院殿俊山良英居士    寛永元甲子年七月七日
   保久院殿鎭南貞松大姉    寛永元甲子年三月十六日 
1644 寛永21年 7月7日、内藤景豊卒去。(山口家過去帳では守屋佐太夫行昌と戒名・没年月日が同じ) 再確認要
1647 正保4年 5月3日、「相州津久井領青山村光明寺領改帳」
     (略)其後津久井
     
城主内藤大和守入道法讃同綱秀
     
同左近将監直行代々之証文有之候而比被付
     置候ニ付当御代伊奈備前守殿御縄入
     (略)

1812 文化9年 間宮士信(まみやことのぶ)、「小田原編年碌」に筑井城主の名前を「未考」と記す。
1814 文化11年 9月26日、小山田与清故郷小山田村から筑井県の紅葉を訪ね城山に登る。
 「三保道記  巻第三」
大井山功雲寺は大寺にて、かどに松のむら立ちたる中に、「守護使不入」といふ石ぶみ立てたり。この寺に檀越だんをち内藤左近将監、同大和守の位牌あり。また内藤氏の陣太鼓もありしが、秋山村の金光寺にもちてゆき今はなしといへり。
 
1816 文化13年 冬、十一月、島崎律直(ただなお)が依頼した城山々頂の「筑井古城記」の撰文ができる。
   題字 白河少将朝臣松平定信
   撰者 大学頭林衛(述斎)
   書   源弘賢
   刻字 広瀬群鶴
1835 天保6 2月30日、津久井縣地誌捜索、原胤禄を隊長として津久井郡第1次廻村捜索、八王子千人町を出発→十々里→駒木野→小仏→景信→千木良村→若柳村→寸嵐村→小原宿→与瀬駅→吉野宿→沢井村→佐野川村→関野宿→名倉村→日連村→勝瀬村→青根村→青野原村→鳥屋村→青山村→長竹村→根小屋村→太井村→川和→三ヶ木村→又野村→三井村→中沢村→上川尻村→下川尻村→小倉村→葉山島村→神沢を渡り大島、橋本を経由して千人町に帰宅。(3月20日まで総勢4・5名) 詳細は八木甚右衛門(64才)、「津久井縣地誌捜索御用筆記」に詳し。
1836 天保7 3月、遺漏調査のため第2次廻村。
1837 天保8 塩野適斎、「津久井縣紀行詩集」を刊行。
1841 天保12 「新編相模国風土記稿」全126巻が完成する。
 
 新編相模国風土記稿に描かれた津久井城址

 村里部 津久井縣巻之一
(略)是頃。内藤左近将監景定。筑井太郎次郎義胤カ古城ニ據テ。再ヒ一城ヲ経営シテ居リ。縣内ヲ所領セリ。古城記ハ。既ニ前ニ載ス。役帳ニ曰。津久井縣衆。内藤左近将監。二百十四貫四百三十五文。中郡岡田郷百十九貫八百十七文。中郡河尻村。三十貫文。本郡中澤村。三十五貫文。同三井村三十貫文。同八菅。熊坂村。三百廿十五貫七百六文。中郡愛甲。按ズルニ。愛甲己下。恐ラクハ闕文ナランカ。其子大和守景豊傅領セリ。
明治21年 10月、兵庫県士族谷野遠が「新編相摸國風土記稿・津久井編」を刊行する。
1928 昭和3年 1月、串川尋常高等小学校が「串川村誌」を編さんする。
「筑井太郎次郎義胤は後北條家の代官として城を築いたがその後奥州へ落ちたり・・・・、左近将監景定や大和守景豊・・・・・、景豊の弟、各右衛門景次は流浪の後福山藩に奇食した・・・・」
1951 昭和26年 6月、長谷川一郎、「相州津久井古城記並びに津久井の史蹟」と云う冊子を発行する。
古城記の解題と阿部、植村両家に関連する六通の文書の内、三通を大和守景豊としている。
1957 昭和32年 愛川町半原の住人「瀧の家主人」が「三増合戦の研究」を続編を含めて刊行する。
    城主である内藤景豊が数千の城兵を抱えながら参戦しなかったことは罪・・・
1969 昭和44年 津久井町教育委員会、「津久井町郷土誌・串川編上下」を編さんする。
  光明寺文書31通を収録する。
1977 昭和52年 2月、山本書店の店主が「津久井を知る会」の例会で平塚市須賀の乗蓮寺に内藤大和守の墓のあることを報告する。
5月、辺見さんが平塚市須賀の乗蓮寺を訪ねる。
1978 昭和53年 12月、小川良一さんが「幻の城主の墓、遂に発見」と題し内藤大和守について「かながわ風土記 第17号」に発表する。
1979 昭和54年 辺見さんが「津久井文化 第6号」に「津久井衆内藤氏の問題点と私見」を発表する。
 大和守の花押と天正八年三月二十八日付光明寺文書の比較研究をし、花押が内藤綱秀と一致したことにより、
 従来からの説である津久井城主内藤景定・景豊の存在を否定、新たに内藤大和守・朝行・康行・綱秀・直行を
 登場させた。

1980 昭和55年 佐々木秀明、「神奈川県史研究」に「津久井城主内藤氏について」を発表する。
1981 昭和56年 神奈川県史が刊行される。
   大和守を文書の中で(内藤景豊)と表記する
平成元年 3月、津久井町教育委員会が、「つくい町の古道」を発行する。
    「(略)開基内藤景定の墓は境内裏にある(略)」と記す。
1997 平成9年 「城山町史 5 通史編」が刊行される。 
 下山治久氏が中心となり「第二編中世第四章 内藤氏の津久井領支配」を記す。
1998 平成10年 12月、佐脇栄智、「小田原所領役帳 戦国遺文後北條編 別巻」を刊行する。
 黒田基樹「津久井内藤氏の考察」「戦国大名領国の支配構造」から
 「内藤左近将監を内藤康行・大和守を康行の父内藤朝行であろう」と記す。
2007 平成19年 3月、津久井町史編集委員会が「津久井町史 資料編 考古・古代・中世」を刊行する。
   天正十八年四月の白根合戦、佐藤伝左衛門に与えた感状にある大和守を「内藤綱秀」とし佐藤伝左衛
    門については「実名不詳、内藤綱秀に属した北条氏直の家臣、相模国中郡須賀村(平塚市須賀)の地侍。
    」と記す。

2008 平成20年 8月、高橋信之、「筑井文化 第七号」に「光明寺文書と俊叟乂(しゅんそうがい)周辺」を発表する。
 七 功雲寺と内藤氏から(略)功雲寺には現在でも津久井城主内藤景定、景豊父子の墓があり、歴史的には菩提寺としての格式を保っているが、現在では内藤景定、景豊父子の存在そのものが完全に否定されている状況である。それでは、現在功雲寺墓域にある内藤氏の墓石は一体だれの墓なのだろうか。(略)
2009 平成21年 7月27日、光明寺文書70通が相模原市指定有形文化財(古文書)となる。
               天正18年の年譜は主に小田原北条記(原本現代訳)を参考にしました。


参考 「北条家人数覚書」からみた北条方の兵力 天正17.8年頃 「小田原市史 通史編・中世」に動向部分を加筆
武将名等 本拠地 兵力(騎) 小田原合戦後の主な動向
北条氏直馬廻 小田原 700 家康娘を妻とした氏直を高野山高室院に追放→和泉興応寺→大阪→下野那須配流中の織田信雄の屋敷に居住→天正19年8月19日大阪出仕→秀吉旗本家臣→疱瘡になりそのまま死去30歳
北条氏房 武蔵岩付 1500 氏直の高野山行きに随行→後に赦免され秀吉旗本家臣→肥前名護屋城の陣地で死去
北条氏政馬廻 小田原 500 切腹→首級を聚楽第の橋にさらす。
北条氏照 武蔵八王子等 4500 切腹→首級を聚楽第の橋にさらす。
北条氏邦 武蔵鉢形等 5000 氏政の六男直定は氏邦の養子→氏直の高野山行きに随行紀伊徳川家の家臣(没不明)
    氏邦→開城後前田利家に預けられる→後に赦免され利家に仕え、知行10000石を与えられる→氏邦死去したため大徳寺で喝食となっていた末子を召し出し還俗させ北条庄三郎と名乗らせ遺領を継承のち妥女と称す→主殿介→?
北条氏規 伊豆韮山等 500 氏直の高野山行きに随行→秀吉から河内国丹南郡檗(きはだ)村2000石を与えられる。
 氏規の嫡子・氏盛が下野足利領において旧領4000石を継承
 →
河内狭山北条氏の始祖(1万石)→氏信→・・・→明治維新ま
 
北条氏忠 下野佐野 300 氏直の高野山行きに随行→氏直死去後伊豆河津に隠棲(文禄2年4月8日死去)
北条氏光 武蔵小机 150 氏直の高野山行きに随行
北条氏勝 相模玉縄 700 山中城の合戦では久野を経由しながら玉縄城へ籠城。→・・・
 →家康に仕え下総岩富(いわとみ)1万石を与えられる。→氏重下野富田→
 →遠江久能→下総関宿(2万石)→駿河田中(2万5千石)
 →遠江掛川(3万石)→嗣子なく万治元年(1658)絶家 
箱根寄斎
(北条氏隆)
相模久野 300
松田憲秀ら 1500 切腹。憲秀の嫡子、直秀・直憲は氏直の高野山行きに随行
大道寺政繁ら 上野松井田等 1500 切腹。政繁の嫡子、直繁は氏直の高野山行きに随行→子孫は越前松平氏の家臣
         直英→子孫は陸奥津軽氏の家臣
   政繁の二男直昌→能登前田利政に仕える→尾張松平忠吉→徳川義直に仕える
           
直次→安芸福島正則→筑前黒田長政→若狭京極忠高→江戸旗本  
遠山(犬千代カ) 武蔵江戸 1000
酒井政辰 下総東金 150
山角康定ら 150 直繁は氏直の高野山行きに随
酒井左衛門尉
(康治カ)
下総士気 300
依田大膳亮 300 康信は氏直の高野山行きに随行
清水康英ら 伊豆下田 200
国分五郎 下総矢作 500
大藤直昌 相模田原 50
武田豊信 上総長南等 1500
成田氏長 武蔵忍 1000
内藤綱秀 相模津久井 150 直行は氏直の高野山行きに随行→(検討要)→備後福山藩の家老
松田邦義様(2013・2・5)からの報告によると/前田家に召抱えられる。名は慶長10年の加賀藩侍帳に記載されている。内藤助右衛門(直行)200石。内藤氏の菩提寺は金沢市寺町高岸寺にある。
千葉介
(直重カ)
下総佐倉 3000 直重は氏政の五男(千葉邦胤の婿養子)→氏直の高野山行きに随行→阿波蜂須賀家家臣知行500石→
原邦房 下総臼井 2000
土岐義成 上総万喜等 1500
高城胤則 下総 700
豊島(貞継カ) 常陸府川 150
相馬小次郎 下総守谷 100
井田刑部大夫 下総大台 150
皆川広照 下野皆川等 1000
鏑木駿河守 下総鏑木 300
壬生義雄 下野壬生等 1500
土岐美作守
(治綱カ)
常陸江戸崎等 1500
山上久忠 氏直の高野山行きに随行→天正19年8月25日、氏直が350石を知行(V−2088)
合  計 34350

取材を終えて
 小田原開城から16日後の天正18年7月21日、主君北条氏直は蟄居先の高野山に向かいました。側近の家臣が30人、従卒合わせて300人ほどであったと云います。上記に主な武将を「北条家人数覚書」から列記し合戦後の動向を記してみました。
 多くの武将が帰農、若しくは他藩に仕官し日本全国の各地に根を下ろして行った様子が伺えます。
 武将の動向を探りながら主君氏直の直を付け改名している武将が多くいました。高野山に向かった300名(「北条五代記」「関八州古戦録」)の全てを調べた訳ではありませんが恐らく相当な数にのぼっていると思われます。(検討要)
 内藤氏の動向はどうだろう。謎が多く結論は出ませんでしたが、「相州津久井領青山村光明寺領改帳」から見た直行の名は主君である北条氏直から頂戴した名前ではないかと考えています。そう思って、再び、平塚須賀湊の近くの内藤大和守景豊の墓に・・・、どこか深い意味が込められているような気がしてなりません。私は長い間、津久井の中の内藤氏ばかりを考えていました。主従の関係にあった佐藤伝左衛門豊成の豊は主君内藤景豊の豊に違いないと思います。そうすると内藤大和守景豊は実在の人物ではないかと、新たにそう思えてくるのです。
 そして、次に佐藤伝左衛門の生まれ故郷はどこだろうと云うことになります。相模川の支流、道志川沿いには佐藤姓が多く、上流の山梨県道志村にも佐藤姓が多くあります。白根の戦いでは津久井青野原村井上源三郎とともに主君内藤綱秀からの感状を受けています。
 内藤景定、景豊は本当に実在していた人物だろうか、私にはそうした結論を出すには未だ早いような気がしてならないのです。
 戦国時代を強く、強(したた)かに生きた津久井の人々、「敵知行半所務」そうした中でも人々は暮らして来ました。名前を変えることくらいは容易いことだと不謹慎にもそう思えて来るからです。
 何故なら、小田原城で徳川家康と真正面に対峙したのは内藤豊宗(検討要)とあります。そして北条氏直とともに高野山に向かったのは内藤直行なのです。あれだけの文書を残した内藤綱秀は一体どこへ行ってしまったのでしょう。
 小田原北条記には関東数万の軍勢の籠城するなかに内藤左近太夫と内藤大和守の名が記されているのです。

 参考資料
佐脇栄智、「小田原所領役帳 戦国遺文後北條編 別巻」
城山町史 1 資料編 考古・古代・中世 城山町史編さん委員会 発行 平成4年3月
城山町史 5 通史編 原始・古代・中世 城山町史編さん委員会 発行 平成7年3月
つくい町の古道 編集 津久井町文化財保護委員会 発行 津久井町教育委員会 平成元年3月
ふるさとの民話と伝承 -郷土の歴史と湖底に沈んだ村々- 発行 中野地域振興協議会・中野まちづくり委員会 平成12年12月
津久井町の歴史今昔  津久井町教育委員会  編集 津久井町文化財保護委員会 平成12年3月
かながわ風土記 第四十六号 備後福山藩叢記 (五) 小川良一 昭和56年5月
津久井歴史散歩 小川良一 搖藍社 平成元年3月増刷
筑井文化 第七号 高城治平先生追悼記念号 津久井歴史研究会 発行 平成20年8月
春林文化 第3号 津久井の歴史と風土 城山地域史研究会・歴史こぼれ話を語る会編 発行 平成20年2月
神奈川県史研究 神奈川県史編集委員会編 津久井城主内藤氏について 佐々木秀明 発行 昭和55年7月 1980−42
日本史年表 歴史学研究会編 発行 岩波書店 1966・7
伊勢原市史 通史編 先史・古代・中世 編集伊勢原市史編集委員会 発行伊勢原市 平成7年3月
平塚市史9  通史編 古代・中世・近世 編集発行 平塚市 平成2年3月
平塚市史1  資料編 古代・中世 編集発行 平塚市 昭和64年4月
小田原市史 通史編 原始・古代・中世 編集発行 小田原市 平成10年3月
戦國遺文 後北條編第一巻〜六巻・補遺編 編者 下山治久・杉山博・黒田基樹 東京堂出版 発行1989・9〜 
津久井町史 資料編 考古・古代・中世 編集 津久井町史編集委員会 発行 平成19年3月
小田原北条記(下)  江西逸志子原著 岸正尚訳 原本現代訳24) 教育社 発行 1982・7(第2刷)
翻刻 筑井紀行 小山田与清著  校訂 安西勝 町田市立図書館 発行 2002年3月
城山風土記 第4号 −歴史・民俗編−  執筆担当 小川良一 城山町史編さん委員会 発行平成8年8月
     「北条氏所領役帳」にみる津久井衆記載の比較研究
相模原市史 第1巻 相模原市史編さん委員会 発行 昭和39年11月1
相模原市史 第5巻 相模原市史編さん委員会 発行 昭和40年11月
南方熊楠全集 第9巻 書簡V 南方熊楠 平凡社 発行 1984年5月初版第7刷 
火の音 柳田国男 新学社文庫 昭和43年5月 発行
                  
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