1586 |
天正14 |
正月28日、内藤左近将監直行花押、寄進状(光明寺文書) |
1588 |
天正16 |
12月晦、内藤直行朱印、半物(光明寺文書) |
1590 |
天正18 |
3月19日、秀吉、小田原退治のために都を出立する。軍勢は26万にも及び3月1日より出立、
先陣は由比・蒲原あたりにあふれ、後陣は尾張・美濃に控えていたという。
3月27日、秀吉、沼津浮島原に着陣。
3月29日、山中城の合戦。
4月3日、秀吉、小田原城を包囲。
4月10日、松井田城に立て籠もっていた大道寺新四郎(政繁)が北国勢に取り囲まれ降参。
4月16日、皆川山城守が百騎ほどで降伏。
4月17日、白根の合戦、井上源三郎宛 内藤綱秀感状写 大和守花押
「新編相模国風土記稿」巻百二十四、津久井縣巻之十、芸文部、
旧青野原村里正源之丞所蔵文書
4月17日、佐藤傳左衛門宛 源三郎感状写 大和守花押
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中郡白根表ニ京勢・地衆集居所内敗、敵一人討捕、
走廻之致、忠信感悦ニ候、彌(いよいよ)、
可抽(ぬきんずべき)粉骨候、小田原へ申立、
可遺(つかわすべく)御感状候、
當時往行就不自由ニ、先自判(じはん)を出之者也
仍如件
天正十八庚□寅の略字 大和守(花押)
四月十七日
御検使
大藤長門守
佐藤傳衛門殿
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「相州文書」大住郡旧須賀村、彦七所蔵文書
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4月19日、前田利家が武蔵の国の鉢形城を攻める。
4月21日、玉縄城主、北条氏勝は出家入道の姿となり、黒衣に袈裟をかけて秀吉のもとに出仕する。
秀吉は御教書を与えもとの所領を安堵する。
4月中、秀吉、後北条氏の分国中の各地に禁制を出す。
禁制(郷村)の内訳 寺社は省略
高田郷24ヶ村・大伴・国津・曽我他・金子・森の庄・田村・豊田三郷・今泉・おんな及河・あつき
讃多・荻野・すゝかや小屋入之郷・23ヶ村・くまさか・大ひらたい・そこくら・梅沢・今田他
おんま郷4ヶ村・こそね・茅崎他・つゝミ・村岡・鎌倉・しぼや庄葛原之郷他
掟(郷村)の内訳 寺社は省略
飯田・加山・さかわ・赤田他・松田・狩野庄・かねこ・こう山・河村他・のふさわ金井嶋・ひなたこや
ふところ嶋3ヶ村・こうの郷
5月24日、内藤綱秀朱印状写
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津久井城普請人足積り
拾人 ミまし 十人 はんはら
十五人 すミた 川入 以上卅五人
右、てんき次第、明日より三日、道具ハくわ・まさかり、
四ツいセン(午前10時以前)にまいるへし、
はん(晩)ハ七ツ(午後4時)ほうしあかあるへし、
我々自分之様ニハ無之候、
御大(北條氏直)とのため城ふしんの儀、倒分別可走廻候、
若不参者有之ハ、強儀を以、可押立候者也、仍如件、
□寅の略字
五月廿四日 大和守 朱印
三ヶ村 百姓中
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「相州文書」愛甲郡旧三増村、小野沢彦衛門所蔵文書
5月中、秀吉、みまし、当麻之郷に禁制を出す。
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禁制 相模国東郡
當麻之郷
一、 軍勢甲乙人等、乱暴狼藉の事
一、 放火の事
一、 地下人、百姓らに対し非分の儀申し懸ける事
右の条々、堅く停止せしめおわんぬ。もし違犯の輩に
於いては、すみやかに厳料に処せらるべきものなり。
天正十八年5月 日 秀吉朱印
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「田所文書」相模原市磯部 田所新兵衛旧蔵
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6月2日、今和泉之村 名主中宛、内藤綱秀朱印状 内藤朱印 清水望弘氏所蔵文書(秦野市今泉)
6月4日、廣川之村 名主中宛、内藤綱秀朱印状 内藤朱印
「相州文書」大住郡旧広川村名主新左衛門所蔵文書
6月14日、鉢形城、浅野ら5万の軍勢に包囲され開城。氏邦は城下の正龍寺に蟄居。
6月15日、松田尾張守入道憲秀が豊臣方に寝返って「当方の持ち場から豊臣方の軍兵を引き入れたらどうであろう」と相談する。その前日の晩、同志の笠原新六郎・二男松田左馬助・三男弾三郎・内藤左近・大田肥後守らと酒食をもてなす。
6月20日、成田下総守が秀吉に送った返信状を北条殿に逆送、城内に疑心暗鬼が生じる。
6月23日、前田利家・上杉景勝の軍勢が八王子城を攻める。
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城の本丸に横地監物、中丸に中山勘解由・狩野一庵、下の曲輪に近藤出羽守が立て籠もる。豊臣方に下った大道寺政繁・上田・難波憲次・木呂子友則・金子家基・山田伊賀守・小幡上総守一万五千騎がいた。
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6月25日、秀吉軍、葦子(あしこ)川の河原側にある捨曲輪から堀を埋め橋を渡して攻め込み火花を散らす。
7月6日、韮山城主であった美濃守氏規、徳川家康と和平交渉をすすめ成立。
7月7日〜9日、数万にも及ぶ小田原籠城の者たちを外にだす。
7月9日、北条氏政・氏照も城を出て医者の田村安清の宿所に入る。
7月11日晩、「石川貞清・蒔田広定・佐々行政・堀田一継・榊原康政を検視役として切腹するようにと」の
命令が下る。氏政(53歳)・氏照(51歳)、介錯は弟の美濃守氏規。
7月13日、秀吉小田原城に入城。
7月17日、秀吉、小田原を出発し、鎌倉・江戸・宇都宮を経て8月9日、会津に到着する。
7月21日、北条氏直ら総勢300名が蟄居先の高野山に向かう。
9月1日、秀吉、八ヶ月ぶりで京都に凱旋。
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1624 |
寛永元 |
7月7日、景定の子、大和守景豊卒去。(功雲寺の位牌と過去帳による)
長岳院殿俊山良英居士 寛永元甲子年七月七日
保久院殿鎭南貞松大姉 寛永元甲子年三月十六日
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1644 |
寛永21 |
7月7日、内藤景豊卒去。(山口家過去帳では守屋佐太夫行昌と戒名・没年月日が同じ) 再確認要
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1647 |
正保4 |
5月3日、「相州津久井領青山村光明寺領改帳」
(略)其後津久井
城主内藤大和守入道法讃同綱秀
同左近将監直行代々之証文有之候而比被付
置候ニ付当御代伊奈備前守殿御縄入
(略)
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1812 |
文化9 |
間宮士信(まみやことのぶ)、「小田原編年碌」に筑井城主の名前を「未考」と記す。
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1814 |
文化11 |
9月26日、小山田与清、故郷小山田村から筑井県の紅葉を訪ね城山に登る。
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「三保道記 巻第三」
大井山功雲寺は大寺にて、かどに松のむら立ちたる中に、「守護使不入」といふ石ぶみ立てたり。この寺に檀越だんをち内藤左近将監、同大和守の位牌あり。また内藤氏の陣太鼓もありしが、秋山村の金光寺にもちてゆき今はなしといへり。
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1816 |
文化13 |
冬、十一月、島崎律直(ただなお)が依頼した城山々頂の「筑井古城記」の撰文ができる。
題字 白河少将朝臣松平定信
撰者 大学頭林衛(述斎)
書 源弘賢
刻字 広瀬群鶴
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1835 |
天保6 |
2月30日、津久井縣地誌捜索、原胤禄を隊長として津久井郡第1次廻村捜索、八王子千人町を出発→十々里→駒木野→小仏→景信→千木良村→若柳村→寸嵐村→小原宿→与瀬駅→吉野宿→沢井村→佐野川村→関野宿→名倉村→日連村→勝瀬村→青根村→青野原村→鳥屋村→青山村→長竹村→根小屋村→太井村→川和→三ヶ木村→又野村→三井村→中沢村→上川尻村→下川尻村→小倉村→葉山島村→神沢を渡り大島、橋本を経由して千人町に帰宅。(3月20日まで総勢4・5名) 詳細は八木甚右衛門(64才)、「津久井縣地誌捜索御用筆記」に詳し。
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1836 |
天保7 |
3月、遺漏調査のため第2次廻村。
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1837 |
天保8 |
塩野適斎、「津久井縣紀行詩集」を刊行。
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1841 |
天保12 |
「新編相模国風土記稿」全126巻が完成する。
新編相模国風土記稿に描かれた津久井城址
村里部 津久井縣巻之一
(略)是頃。内藤左近将監景定。筑井太郎次郎義胤カ古城ニ據テ。再ヒ一城ヲ経営シテ居リ。縣内ヲ所領セリ。古城記ハ。既ニ前ニ載ス。役帳ニ曰。津久井縣衆。内藤左近将監。二百十四貫四百三十五文。中郡岡田郷百十九貫八百十七文。中郡河尻村。三十貫文。本郡中澤村。三十五貫文。同三井村三十貫文。同八菅。熊坂村。三百廿十五貫七百六文。中郡愛甲。按ズルニ。愛甲己下。恐ラクハ闕文ナランカ。其子大和守景豊傅領セリ。
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