西暦 |
和年号 |
事項 |
1900 |
明治33 |
・ |
1901 |
34 |
・ |
1902 |
35 |
10月、三ヶ木村に津久井郡立蚕業学校が開校される。
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1903 |
36 |
1月、内郷村村長小川貞幹が柳沢小学校に農業補習学校を付設するための許可申請を提出。
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1904 |
37 |
・ |
1905 |
38 |
5月26日、柳沢小学校を村名と同じ尋常高等内郷小学校と改称する。
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1906 |
39 |
春、日露戦捷(せんしょう)記念林として内郷村学校林を設置する。
場所:通称鼠坂山の柊沢の村有地で20余年で6万本を植樹する。
→昭和25年4月、文部大臣表彰
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1907 |
40 |
江藤幸作の呼びかけにより、道志地区に「道志青年会」が設置される。
会長(会計兼務) 江藤幸作
副会長 宮崎昇次
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1908 |
41 |
・ |
1909 |
42 |
・ |
1910 |
43 |
3月、内郷村青年会(会員163名)が成立。
総裁 山田芳太郎(内郷村村長)
会長 長谷川一郎(内郷小学校々長)
副会長 鈴木重光
社会活動 廃兵および軍人遺族の慰安会開催、戦死者慰霊祭、道路修繕工事
小学校の土堤・校地整理、樹木植付、老年者慰問、幻灯衛生会、夜警
産業活動 植林、桑園設置、苗園設置、水田の共同試作、桃梨園の設置、農産物品評会
文化活動 機関紙「内郷青年」の刊行。小学生生徒の復習会
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1911 |
44 |
5月、柳田國男、牧口常三郎を誘って甲州谷村から道志谷を下り津久井郡に出る。
5月21日、「内郷村青年会」が県地方改良者表彰を受賞する。
5月27日、「内郷村青年会」が文部省から表彰を受ける。 農業補習教育
11月20日、内郷村青年会が八王子ヘ徒歩で見学旅行。
共進会・展覧会・菊人形、府立織染学校を見学帰路は汽車、会費22銭5厘
11月23日、内郷小学校で青年会が開催される。
講話会
尾崎行雄(東京市長)、坂本龍之輔(東京万年小学校校長:西多摩郡出身の教育者)
小林房太郎(東京地学協会:青根村出身)
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1912 |
45
7・30改元 |
11月、講話会
志賀重昴(地理学者)、田中阿居(子爵)、小林房太郎
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1913 |
大正2 |
12月、講話会
根本正(衆議院議員)、桜井忠温(ただよし)(陸軍歩兵大尉、作家)、「肉弾」
高橋清七(上田蚕糸専門学校講師)
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1914 |
3 |
11月、第1次世界大戦に参加した日本軍がドイツの要塞青島を占拠する。
内郷村青年会は「内郷青年」の号外を発刊。
11月21日、内郷村青年会が猿橋・岩殿山・駒橋発電所の見学会を開催する。
11月30日、内郷村青年会が「青島陥落祝捷会」を開催する。
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1915 |
4 |
・ |
1916 |
5 |
・ |
1917 |
6 |
8月、太子講中によって、御堂沢の太子塔が再建される。
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1918 |
7 |
4月27日〜28日、柳田国男、貴族院の事務局員を率いて大垂水峠の層雲閣から相模川の舟下りを楽しむ慰安旅行、案内役を長谷川一郎が行う。
5月11・12日、柳田国男、甲州旅行を行う。
5月19日、柳田国男、津久井郡教育会(会長長谷川一郎)第三部会主催の三国山登山会に参加。(総勢29名)
5月22日付、柳田国男、長谷川一郎宛てに三国登山の礼状を送る。
「村落調査のこと、他村にては我々の趣旨を村有志に徹底し得るや否やおぼつかなく存じ候。もし貴下に斯る機会に周密なる内郷村誌を無費用にて作成せしめんとのお考えありて、村内御知友の賛成を得られ候見込あらば、来月十二日の郷土会に於いて、第一回の調査を内郷に選定することを改めて提議可仕候が如何。項目莫大にて一見人を脅かすものあれども、我が会員五六人もかかるならば、さして大さわぎを要せずして要領を得可申、其為村に及ぼす迷惑は、案外少なかるべしと信じをり候」 6月12日、郷土会会合6月13日付、柳田国男、長谷川一郎に内郷調査についての手紙を送る。
調査の時期(8月15日〜25日)他14項目を記載する。
7月18日、新渡戸博士邸で郷土研究会の会合が開かれる。。内郷村での顔ぶれや研究法(全村の生活状態から家屋の構造、地勢河水、交通、教育、宗教など)について論議を行う。
7月23日付、柳田国男、長谷川一郎に手紙を送る。
「前信申落し候一事ハ内郷村地図、出来るなら準備して参り度に付、先日学校ニで一寸拝見せし仮版の村図一部至急御貸与被下候やうねかひ上候」と、長谷川一郎、一万分の一の地図を持参する。
7月28日、柳田国男と小野武夫氏が来村、内郷小学校で押田未知太郎村長・長谷川一郎・鈴木重光等と懇談、内郷村調査が決定される。
8月10日、「東京日々新聞」に「一個の村を隅々まで」と題し内郷村村落調査が紹介される。
8月15日〜25日、日本で最初の村落調査を内郷村で行う。
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沿革 天然と土地
農業その他の生業
衣食住 社会生活
教化及衛生 俗伝 交通 建築
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柳田国男
草野俊介 植物学の見地から楠やアラカシなどの調査
正木助次郎 十集落の境界と地形との関係など
(石黒忠篤:米騒動の関係で二日間の参加) 炭焼きや牧畜のことなど
中村留治(3・4日で帰京) 耕地と食料自給の関係や、養蚕等
(小平権一:米騒動が起きて不参加)
小田内通敏 養蚕による家屋や食物の変化のことなど
(小野武夫:母の病気で帰京)
牧口常三郎・中桐確太郎 古道と現在の道路など
(中山太郎:不参加理由不明)
田中信良
佐藤功一・今和次郎 農家の屋敷取りや間取りの比較研究など
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主な合同調査地:奥畑の鈴木重光家・沼本の旧名主家・増原の長谷川一郎家・南畑の旧家 8月27日、「東京日々新聞」に村落調査の様子が掲載される。
十余名の学者に試みられし
内郷村の村落調査
◇日本では最初の試み 柳田貴族院書記官長の談
柳田貴族院書記官長の一行は既記の如く本日十五日より本県津久井郡内郷村に出張して村落調査を始め十日間研究し去る二十五日帰京したり一行は柳田氏及び
小田内通敏、第三中学校教諭正木助次郎、下谷東盛小学校長牧口常三郎、早稲田大学文科教授中桐確太郎、同工科教授
佐藤功一、同講師今和次郎、農科大学教授理学博士草野俊介、農商務省書記官石黒忠篤、同省技師中村留治、鉄道院参事田中信良
の諸氏にして
◇研究題目は 確定せざれども主として柳田氏は住民に就いて、佐藤、今の両氏は建築方面より、草野、正木両氏は地形上より、小田内氏は食物及び衣類に就いて、石黒、中村両氏は産業方面の事項に就いて、其の他の諸氏は夫々専門的方面に就いて要するに同村に関する一切の事項を研究したるものにて是等の研究の結果は取り纏めて
◇一報告書を して追って世に公にせらるる筈なり尚柳田氏は語る「村落調査は外国には往々あるが日本では全く新しい試みであるから最初は気遺はれたが同村の押田村長と長谷川校長とが吾々の仕事を理解して大に歓迎された為に多大の便宜を得、村民から隔意なく調査の材料を提供して貰う事ができた。これは同村に対して
◇深く感謝す る資材である。内郷村は三百七十戸の小村で相模川と道志川とで三方を囲まれ一方は高い山に境されて明瞭に一区画をなし総てが一村で○って居るから研究には頗る都合がよいこれが此の村を選択した一理由であるそして同村は若柳、寸澤嵐の両大字から成立って居るが
◇成立の違う部落は 部落は大凡此の中で 十余を算へる事が出来る。住民の血統は主なるものが凡そ十位あるが古い処は永禄の小田原役帳に記録されてある位のものでズット古くなると石器時代の遺物が頗る多い、其の中間の事○全く分からぬ。一行は何れも頗る熱心なもので正覚寺と云ふ寺に宿って朝早くから各自目的の方面に出掛け夕方へトヘトになって帰るから
◇研究の打合 なども向ふでは出来なかった、最初の試みの事であるから標準なども全然立てて居らぬ、唯村全体を研究したと云ふ丈けの事である。元より十日間では不足であるから東京で出来る様な研究は成るべく避けた、来年の夏まで今一回別の処をやって見たいと思ふ」云々
8月27日付の東京日々新聞より
9月、柳田国男、「土俗と伝説 第1巻二号9月号」に「津久井の山村から」を報告する。
10月13日、柳田國男、二人の娘を連れて内郷村を訪ね栗拾いを行う。
11月、「都市及農村 第4巻11号 創刊第三周年号」に内郷村調査の結果が報告される。
研究
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村を観んとする人の為に
内郷村踏査記
内郷村の二日
内郷村にて見たる居住状態 |
貴族院書記官長
早稲田大学講師
農務局書記官
早稲田大学助教授 |
柳田国男
小田内通敏
石黒 忠篤
今 和次郎 |
12月、「都市及農村 第4巻12号」に内郷村調査の結果が報告される。
研究
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村を観んとする人の為に
内郷村にて見たる居住状態(二) |
貴族院書記官長
早稲田大学助教授 |
柳田国男
今 和次郎 |
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1919 |
8 |
・ |
1920 |
9 |
・ |
1921 |
10 |
・ |
1922 |
11 |
・ |
1923 |
12 |
鈴木重光、母親からの聞き書きを中心とした「相州内郷村話」を出版。
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1924 |
13 |
9月、県連合青年会が「武相の若草」を創刊する。
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1925 |
14 |
・ |
1926 |
15 12・25改元 |
・ |
1927 |
昭和2年 |
5月、鈴木重光が「武蔵野9(5)」に「北相小佛峠附近の話」を発表する。
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一 |
京都付近に縁りありさうな地名 |
四 |
身禄茶屋とジョーチョー天皇(?)の碑 |
二 |
小佛峠の浅間社 |
五 |
照手姫の出生地 |
三 |
佐藤才兵衛の開いた新道 |
六 |
根岸肥前守信仰の辯財天 |
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7月1日、天野佐一郎が「史跡名勝天然記念物 第二集第七号」に「北相津久井の名跡」を寄稿する。
同号に掲載された会告(予定表)
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出発帰京 |
午前8時30分新宿駅発与瀬駅下車(之より相模川上流を船にて下る。)
夕刻横浜線橋本駅乗車帰京 |
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見学場所 |
相模川上流沿岸の奇勝石老山其他石器時代遺跡、
津久井城址等附近の史跡名勝(鵜飼見物) |
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指導者と参加者 |
柴田常惠 |
7月17日、史跡名勝天然記念物保存協会が「第17回見学旅行」で石老山を訪れる。
9月1日、長谷川一郎が「史跡名勝天然記念物 第二集第九号」に「相模川上流に遊ぶ記」を寄稿する。
同号に、鈴木重光が「横浜水道取水口附近」を寄稿する。
同号に、矢吹葉人が「北相行雑筆」を「雑報」欄に記述する。(17回見学会の概略)
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7月17日の「相模川下りの感想 五 在小田原 皎堂生」
(略・石老山)此処まで登ったがために武相平野の一部を眺め涼風を浴びつゝ地方撰り抜きの美娘軍に取巻かれ其至れる周旋に依りて地方青年団の好意に因る赤飯を喰べたことの愉快さは容易に他所で索むることの出来ぬ賜のであった。/山を下りて津久井橋畔に帰り船に乗ったのは午後二時過であったが、お気の毒であったのは自動車の都合上二十名に近き会員はこの橋畔の茶屋に待ちぼうけを喰はされ遂に石老山に登らなかったことである之は三十名参会の予定であるのに殆んど六十名に近き多数に達したゝめ既定の自動車では運びきれぬためであったとのことである。乗船してから上陸するまで所謂相模川下りの記事は他より名文を寄せらるゝことゝ思ふてゲンに省略する(略)
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1928 |
3 |
6月、「武蔵野 六月号」と「同 七月号」に「相州内郷村方面見学旅行予告」と題した宣伝文が掲載される。
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一、 時 七月二十二日(第四日曜)雨天の際は次回の日曜日
一、 集合 新宿駅
一、 発車 午前八時三十五分(横浜方面より参加の方は午前七時十二分東神奈川駅
発に乗り、八王寺にて中央線に乗換へらるるを便とす)
一、 順路 与瀬駅下車、与瀬神社参拝、同町字矢部石棒、同字橋澤道祖神を見、引返
して築井橋を渡り、相模川の風光を賞して、内郷村阿津、関口、増原の道
祖神を見て、石老山に登り、此処にて談話会を開き、与瀬駅に引返し帰京。
一、 指導者 逸見敏刀氏、長谷川一郎氏、鈴木重光氏
なほ、指導者の都合により或いは道順の変更あることあるべし
一、 旅費 汽車賃新宿与瀬間往復金壹圓八拾六銭、其他会費金卅銭
一、 弁当 御持参の事
(略)
昭和三年六月 武蔵野会
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7月、鈴木重光が「武蔵野 七月号」に「蟹に関する土俗談」を発表する。
7月29日、武蔵野会が相州内郷村方面見学旅行を行う。
内郷村を訪れた武蔵野會一行 |
相州内郷村方面見學旅行記事(全文)
七月廿二日に行はるべき筈が、雨天の爲めに廿九日に延期さるゝことになって、炎天の遠足は少々閉口と思はれたが、反て當日雨天で好都合であった。新宿を發車したのは、朝の八時卅五分途中の中野八王子等から参加者があって二十餘人與瀬に下車停車場に長谷川一郎氏と鈴木重光氏が出迎へられ、其の案内で發足した。當日逸見敏刀氏が差支あって案内役にお出でがなかったのは
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甚だ遺憾であった。甲州街道の古驛にふさはしい懐しさのある與瀬の町を通って、石の多い山道を橋澤に向ふ道すがら、長谷川一郎氏から、沿道の佳景小嵐山(間の山)と桂川(相模川の上流)等を指摘し、或は此津久井郡の地名が大和と山城のそれと直似たるもの多きを説明された。明治十三年六月明治天皇が甲州御巡幸の砌畏(みぎりかしこ)くも山間の細道を通御し給うたことを承って、御難苦の程を忍び奉った。路すがら遠近の水村山郭が畫の如く展開されて、其景色の變りゆくのを眺め飽かぬのであった。
橋澤の道祖神石碑の前に、リンガーとヨーニの寫實的なのが一對あったが、是れは四十年程以前に作られたものなる由。此所から再び與瀬に戻って、相模川に架する津久井橋を渡り内郷村に入った。此邊は翠崖碧流に臨み頗る景色がよい。鼠坂から山口部落の道祖神像を訪ひ、石器土器の散布地を過ぎて、増原の道祖神を一見し、長谷川一郎氏邸で中食の辯當を開いた。一行は同家所蔵の多數の土器石器を拝見して、津久井地方の石器時代遺物に關する一般を知ることを得た。それから山道傳ひに今回新發見の敷石を有する石穴を視察に赴いたが、其途中細雨霏々として石老山は霧にかくれ、山村の夏景は一幅の好南畫の観を呈した。新發見の遺跡なるものは、津久井郡内郷村寸澤嵐(すあらし)宮崎家の前庭にあって、七月十七日長谷川一郎氏が發見されたものである。位置は山の裾で、東西十七釋、南北十五尺、深四尺斗りの楕圓形の立穴の様なものである。そして其床には徑一尺位の丸石が敷きつめられ、中央に爐の跡らしいものがある。其年代に就ては石器時代と説く者もあり、又極めて近代のものと稱する人もあって、此種の遺跡に就て未だ學界の定説が出来て居らぬが、兎に角珍らしい發見物として長谷川氏の功績に對し敬意を表さねばならなぬ。
石老山に登る筈が雨のために見合せとなった故宮崎氏方で談話會を開いた。先づ長谷川氏は津久井郡の地勢に就て有益なるお話があり、次に鈴木重光氏の津久井地方の道祖神に関する説明があった。同氏の道祖神研究には既に多年の調査によって独特の見解を有せられ、其説は何れも傾聴すべきものであった。續いて榊原幸雄氏が石器時代の石棒の一般を説かれ、簡にして要を得T甚有益であった。最後に中島利一郎氏が日本古典と性神との關係に就て、注意すべき學術的の卓見を述べられた。それより歸途の道すがら、孝女平井初子の墓を過ぎ内郷村字阿津の谷間で發掘中の埋木、所謂神代杉を一見して、與瀬驛から乗車歸京した。
本日の見學に就て案内の労をとられ、或は茶菓の接待に預った長谷川一郎氏、鈴木重光氏、宮崎律氏并に其他の各位に對し、深厚なる謝意を表して置く。(三輪生)以下出席者26名を記す。(省略)
「武蔵野 第十二巻第三號」より
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9月、長谷川一郎が「武蔵野 九月号」に「神奈川県津久井郡内郷村石老山麓に於ける石器時代民族住居址の遺跡発掘」を発表する。
11月1日、長谷川一郎が「史跡名勝天然記念物 第三集第十一号」に「相州石老山麓石器時代民族住居趾発掘笑話」を寄稿する。
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1929 |
4 |
12月1日、鳥居龍蔵が中島利一郎(「武蔵野」幹事)と共に内郷村を訪れる。
12月、鳥居龍蔵、「武蔵野 12月号」に「内郷村の一日」を寄稿する。
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1930 |
5 |
3月、長谷川一郎が「武蔵野 3月号」に「内郷村其後の発掘報告二三」を発表する。
11月、内務省が寸沢嵐の敷石住居址を「国指定史跡」として保存する。
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1931 |
6 |
8月4日〜7日、柳田国男が神宮皇学館で「欧州諸国における民俗学の歴史」、「郷土史の研究法」など4回にわたり講義。
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1932 |
7 |
4月25日、柳田国男が「郷土生活の研究法」の会をひらく。
8月19日、20日、柳田国男が小金井の青年団で「郷土研究の話」を講演。
8月29日、柳田国男がJOAKの第1回関東郷土講座で「最近における郷土研究の趨勢」を放送。
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1933 |
8 |
1月、鈴木重光が「郷土研究 第7巻第1号」に「「相州内郷村話」補遺(五)」を寄稿する。
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1934 |
9 |
この年、内郷村が経済厚生計画の樹立村に指定される。
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1935 |
10 |
7月、内郷村が経済厚生計画書を作成実行することを宣誓する。
9月18日、雑誌「民間伝承」発刊。これを契機として民俗学研究者の組織が全国的になる。
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1936 |
11 |
・ |
1937 |
12 |
・ |
1938 |
13 |
・ |
1939 |
14 |
・ |
1940 |
15 |
・ |
1941 |
16 |
・ |
1942 |
17 |
・ |
1943 |
18 |
・ |
1944 |
19 |
・ |
1945 |
20 |
・ |
1946 |
21 |
・ |
1947 |
22 |
・ |
1948 |
23 |
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1949 |
24 |
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1950 |
25 |
・ |