日本民俗学の古里
  旧内郷村水田地帯を行く
                田んぼも働く人もみんな元気だった頃の話(相模原市相模湖町若柳・寸澤嵐地区)
撮影2009・7・21 
追加 2016・5・23 「史蹟名勝天然記念物」の記述を追加

追加 2018・7・31 相州内郷村方面見學旅行記事を追加

 大正7年の夏、柳田国男ら11名の研究者が旧内郷村を訪れ、日本で最初の村落調査が行われました。
 日程は8月15日から10日間をかけ集中的に調査が行われました、地元では押田村長を始め長谷川一郎や鈴木重光らが出迎えました。宿泊地は山口の正覚寺で柳田国男は「山寺や葱と南瓜の十日間」と句を詠みました。
 研究の成果は「都市及農村 第4巻11号 創刊第三周年号」や「土俗と伝説 第1巻二号9月号」の中の「津久井の山村から」と云う項で調査の報告がなされました。後に調査者全員による「内郷村村落調査報告書」と云うようなまとまった形の本にはなりませんでしたが、調査に立ちあった鈴木重光は、大正12年9月、「郷土研究社」から母親からの聞き書きとして「相州内郷村話」を出版しました。
 「各専門分野の人たちが一同に集まり、村落全体の調査研究(フィールドワーク)を行う」と云う、日本で最初のこうした研究法は、ここ内郷村から始まったのです。
 こうした研究者たちを目前に、地元、鈴木重光と長谷川一郎は研究を更に深め、膨大な研究資料を残す今日の津久井(郡)郷土資料室(館)や寸澤嵐の石器時代遺跡のような保存運動にも繋げて行きました。
 また、昭和9年には、村長となった長谷川一郎らが中心となり、内郷村は県から「経済厚生村」の指定を受けました。そして、その翌年の7月、画期的とも云える経済厚生計画を打ち出したのです。
 ダムに沈んだ沼本や道志の水田に、その当時の面影を垣間見ることが出来ます。

  内郷村村落調査と内郷青年会の主な年譜
西暦 和年号 事項
1900 明治33
1901 34
1902 35 10月、三ヶ木村に津久井郡立蚕業学校が開校される。
1903 36 1月、内郷村村長小川貞幹が柳沢小学校に農業補習学校を付設するための許可申請を提出。
1904 37
1905 38 5月26日、柳沢小学校を村名と同じ尋常高等内郷小学校と改称する。
1906 39 春、日露戦捷(せんしょう)記念林として内郷村学校林を設置する。
   場所:通称鼠坂山の柊沢の村有地で20余年で6万本を植樹する。
       →昭和25年4月、文部大臣表彰

1907 40 江藤幸作の呼びかけにより、道志地区に「道志青年会」が設置される。
   会長(会計兼務) 江藤幸作
    副会長     宮崎昇次

1908 41
1909 42
1910 43 3月、内郷村青年会(会員163名)が成立。
    総裁   山田芳太郎(内郷村村長)
    会長   長谷川一郎(内郷小学校々長)
    副会長  鈴木重光

    社会活動 廃兵および軍人遺族の慰安会開催、戦死者慰霊祭、道路修繕工事
         小学校の土堤・校地整理、樹木植付、老年者慰問、幻灯衛生会、夜警
    産業活動 植林、桑園設置、苗園設置、水田の共同試作、桃梨園の設置、農産物品評会
    文化活動 機関紙「内郷青年」の刊行。小学生生徒の復習会

1911 44 5月、柳田國男、牧口常三郎を誘って甲州谷村から道志谷を下り津久井郡に出る。
5月21日、「内郷村青年会」が県地方改良者表彰を受賞する。
5月27日、「内郷村青年会」が文部省から表彰を受ける。 農業補習教育
11月20日、内郷村青年会が八王子ヘ徒歩で見学旅行。
    共進会・展覧会・菊人形、府立織染学校を見学帰路は汽車、会費22銭5厘
11月23日、内郷小学校で青年会が開催される。
    講話会
    尾崎行雄(東京市長)、坂本龍之輔(東京万年小学校校長:西多摩郡出身の教育者)
     小林房太郎(東京地学協会:青根村出身)

1912 45
7・30改元
11月、講話会
     志賀重昴(地理学者)、田中阿居(子爵)、小林房太郎
1913 大正2 12月、講話会
    根本正(衆議院議員)、桜井忠温(ただよし)(陸軍歩兵大尉、作家)、「肉弾」
     高橋清七(上田蚕糸専門学校講師)

1914 11月、第1次世界大戦に参加した日本軍がドイツの要塞青島を占拠する。
    内郷村青年会は「内郷青年」の号外を発刊。
11月21日、内郷村青年会が猿橋・岩殿山・駒橋発電所の見学会を開催する。
11月30日、内郷村青年会が「青島陥落祝捷会」を開催する。
1915
1916
1917 8月、太子講中によって、御堂沢の太子塔が再建される。
1918 4月27日〜28日、柳田国男、貴族院の事務局員を率いて大垂水峠の層雲閣から相模川の舟下りを楽しむ慰安旅行、案内役を長谷川一郎が行う。
5月11・12日、柳田国男、甲州旅行を行う。
5月19日、柳田国男、津久井郡教育会(会長長谷川一郎)第三部会主催の三国山登山会に参加。(総勢29名)
5月22日付、柳田国男、長谷川一郎宛てに三国登山の礼状を送る。
 村落調査のこと、他村にては我々の趣旨を村有志に徹底し得るや否やおぼつかなく存じ候。もし貴下に斯る機会に周密なる内郷村誌を無費用にて作成せしめんとのお考えありて、村内御知友の賛成を得られ候見込あらば、来月十二日の郷土会に於いて、第一回の調査を内郷に選定することを改めて提議可仕候が如何。項目莫大にて一見人を脅かすものあれども、我が会員五六人もかかるならば、さして大さわぎを要せずして要領を得可申、其為村に及ぼす迷惑は、案外少なかるべしと信じをり候
6月12日、郷土会会合6月13日付、柳田国男、長谷川一郎に内郷調査についての手紙を送る。
     調査の時期(8月15日〜25日)他14項目を記載する。 
7月18日、新渡戸博士邸で郷土研究会の会合が開かれる。。内郷村での顔ぶれや研究法(全村の生活状態から家屋の構造、地勢河水、交通、教育、宗教など)について論議を行う。
7月23日付、柳田国男、長谷川一郎に手紙を送る。
 「前信申落し候一事ハ内郷村地図、出来るなら準備して参り度に付、先日学校ニで一寸拝見せし仮版の村図一部至急御貸与被下候やうねかひ上候」と、長谷川一郎、一万分の一の地図を持参する。
7月28日、柳田国男と小野武夫氏が来村、内郷小学校で押田未知太郎村長・長谷川一郎・鈴木重光等と懇談、内郷村調査が決定される。
8月10日、「東京日々新聞」に「一個の村を隅々まで」と題し内郷村村落調査が紹介される。
8月15日〜25日、日本で最初の村落調査を内郷村で行う。
沿革
天然と土地

農業その他の生業


衣食住
社会生活
教化及衛生
俗伝
交通
建築
柳田国男
草野俊介  植物学の見地から楠やアラカシなどの調査
正木助次郎 十集落の境界と地形との関係など
(石黒忠篤:米騒動の関係で二日間の参加) 炭焼きや牧畜のことなど
中村留治(3・4日で帰京) 耕地と食料自給の関係や、養蚕等
(小平権一米騒動が起きて不参加
小田内通敏 養蚕による家屋や食物の変化のことなど
(小野武夫母の病気で帰京
牧口常三郎・中桐確太郎 古道と現在の道路など
(中山太郎不参加理由不明
田中信良
佐藤功一・今和次郎 農家の屋敷取りや間取りの比較研究など
  主な合同調査地:奥畑の鈴木重光家・沼本の旧名主家・増原の長谷川一郎家・南畑の旧家
8月27日、「東京日々新聞」に村落調査の様子が掲載される。
十余名の学者に試みられし
内郷村の村落調査
◇日本では最初の試み 柳田貴族院書記官長の談
柳田貴族院書記官長の一行は既記の如く本日十五日より本県津久井郡内郷村に出張して村落調査を始め十日間研究し去る二十五日帰京したり一行は柳田氏及び
小田内通敏、第三中学校教諭正木助次郎、下谷東盛小学校長牧口常三郎、早稲田大学文科教授中桐確太郎、同工科教授 佐藤功一、同講師今和次郎、農科大学教授理学博士草野俊介、農商務省書記官石黒忠篤、同省技師中村留治、鉄道院参事田中信良
の諸氏にして

◇研究題目は 確定せざれども主として柳田氏は住民に就いて、佐藤、今の両氏は建築方面より、草野、正木両氏は地形上より、小田内氏は食物及び衣類に就いて、石黒、中村両氏は産業方面の事項に就いて、其の他の諸氏は夫々専門的方面に就いて要するに同村に関する一切の事項を研究したるものにて是等の研究の結果は取り纏めて
◇一報告書を して追って世に公にせらるる筈なり尚柳田氏は語る「村落調査は外国には往々あるが日本では全く新しい試みであるから最初は気遺はれたが同村の押田村長と長谷川校長とが吾々の仕事を理解して大に歓迎された為に多大の便宜を得、村民から隔意なく調査の材料を提供して貰う事ができた。これは同村に対して
深く感謝す る資材である。内郷村は三百七十戸の小村で相模川と道志川とで三方を囲まれ一方は高い山に境されて明瞭に一区画をなし総てが一村で○って居るから研究には頗る都合がよいこれが此の村を選択した一理由であるそして同村は若柳、寸澤嵐の両大字から成立って居るが
成立の違う部落は 部落は大凡此の中で
十余を算へる事が出来る。住民の血統は主なるものが凡そ十位あるが古い処は永禄の小田原役帳に記録されてある位のものでズット古くなると石器時代の遺物が頗る多い、其の中間の事○全く分からぬ。一行は何れも頗る熱心なもので正覚寺と云ふ寺に宿って朝早くから各自目的の方面に出掛け夕方へトヘトになって帰るから
研究の打合 なども向ふでは出来なかった、最初の試みの事であるから標準なども全然立てて居らぬ、唯村全体を研究したと云ふ丈けの事である。元より十日間では不足であるから東京で出来る様な研究は成るべく避けた、来年の夏まで今一回別の処をやって見たいと思ふ」云々

                          8月27日付の東京日々新聞より

9月、柳田国男、「土俗と伝説 第1巻二号9月号」に「津久井の山村から」を報告する。
10月13日、柳田國男、二人の娘を連れて内郷村を訪ね栗拾いを行う。
11月、「都市及農村 第4巻11号 創刊第三周年号」に内郷村調査の結果が報告される。
  研究
村を観んとする人の為に
内郷村踏査記
内郷村の二日
内郷村にて見たる居住状態
貴族院書記官長
早稲田大学講師
農務局書記官
早稲田大学助教授
 柳田国男
 小田内通敏
 石黒 忠篤
 今 和次郎
12月、「都市及農村 第4巻12号」に内郷村調査の結果が報告される。
  研究
村を観んとする人の為に
内郷村にて見たる居住状態(二
貴族院書記官長
早稲田大学助教授
 柳田国男
 今 和次郎
1919
1920
1921 10
1922 11
1923 12 鈴木重光、母親からの聞き書きを中心とした「相州内郷村話」を出版。
1924 13 9月、県連合青年会が「武相の若草」を創刊する。
1925 14
1926 15 12・25改元
1927 昭和2年 5月、鈴木重光が「武蔵野9(5)」に「北相小佛峠附近の話」を発表する。
京都付近に縁りありさうな地名 身禄茶屋とジョーチョー天皇(?)の碑
小佛峠の浅間社 照手姫の出生地
佐藤才兵衛の開いた新道 根岸肥前守信仰の辯財天
7月1日、天野佐一郎が「史跡名勝天然記念物 第二集第七号」に「北相津久井の名跡」を寄稿する。
    同号に掲載された会告(予定表)
出発帰京 午前8時30分新宿駅発与瀬駅下車(之より相模川上流を船にて下る。)
夕刻横浜線橋本駅乗車帰京
見学場所 相模川上流沿岸の奇勝石老山其他石器時代遺跡、
津久井城址等附近の史跡名勝(鵜飼見物)
指導者と参加者 柴田常惠
7月17日、史跡名勝天然記念物保存協会が「第17回見学旅行」で石老山を訪れる。
9月1日、長谷川一郎が「史跡名勝天然記念物 第二集第九号」に「相模川上流に遊ぶ記」を寄稿する。

   同号に、鈴木重光が「横浜水道取水口附近」を寄稿する。
   
 同号に、矢吹葉人が「北相行雑筆」を「雑報」欄に記述する。(17回見学会の概略)
7月17日の「相模川下りの感想  五 在小田原 皎堂生」
(略・石老山)此処まで登ったがために武相平野の一部を眺め涼風を浴びつゝ地方撰り抜きの美娘軍に取巻かれ其至れる周旋に依りて地方青年団の好意に因る赤飯を喰べたことの愉快さは容易に他所で索むることの出来ぬ賜のであった。/山を下りて津久井橋畔に帰り船に乗ったのは午後二時過であったが、お気の毒であったのは自動車の都合上二十名に近き会員はこの橋畔の茶屋に待ちぼうけを喰はされ遂に石老山に登らなかったことである之は三十名参会の予定であるのに殆んど六十名に近き多数に達したゝめ既定の自動車では運びきれぬためであったとのことである。乗船してから上陸するまで所謂相模川下りの記事は他より名文を寄せらるゝことゝ思ふてゲンに省略する(略

1928 6月、「武蔵野 六月号」と「同 七月号」に「相州内郷村方面見学旅行予告」と題した宣伝文が掲載される。
一、 時  七月二十二日(第四日曜)雨天の際は次回の日曜日
 一、 集合 新宿駅
  一、 発車 午前八時三十五分(横浜方面より参加の方は午前七時十二分東神奈川駅
       発に乗り、八王寺にて中央線に乗換へらるるを便とす)

 
一、 順路 与瀬駅下車、与瀬神社参拝、同町字矢部石棒、同字橋澤道祖神を見、引返
       して築井橋を渡り、相模川の風光を賞して、内郷村阿津、関口、増原の道
       祖神を見て、石老山に登り、此処にて談話会を開き、与瀬駅に引返し帰京。
 一、 指導者 逸見敏刀氏、長谷川一郎氏、鈴木重光氏
       なほ、指導者の都合により或いは道順の変更あることあるべし
 一、 旅費 汽車賃新宿与瀬間往復金壹圓八拾六銭、其他会費金卅銭
 一、 弁当 御持参の事
     (略)
    昭和三年六月  武蔵野会

7月、鈴木重光が「武蔵野 七月号」に「蟹に関する土俗談」を発表する。
7月29日、武蔵野会が相州内郷村方面見学旅行を行う。
  
   内郷村を訪れた武蔵野會一行
相州内郷村方面見學旅行記事(全文)
 七月廿二日に行はるべき筈が、雨天の爲めに廿九日に延期さるゝことになって、炎天の遠足は少々閉口と思はれたが、反て當日雨天で好都合であった。新宿を發車したのは、朝の八時卅五分途中の中野八王子等から参加者があって二十餘人與瀬に下車停車場に長谷川一郎氏と鈴木重光氏が出迎へられ、其の案内で發足した。當日逸見敏刀氏が差支あって案内役にお出でがなかったのは
甚だ遺憾であった。甲州街道の古驛にふさはしい懐しさのある與瀬の町を通って、石の多い山道を橋澤に向ふ道すがら、長谷川一郎氏から、沿道の佳景小嵐山(間の山)と桂川(相模川の上流)等を指摘し、或は此津久井郡の地名が大和と山城のそれと直似たるもの多きを説明された。明治十三年六月明治天皇が甲州御巡幸の砌畏(みぎりかしこ)くも山間の細道を通御し給うたことを承って、御難苦の程を忍び奉った。路すがら遠近の水村山郭が畫の如く展開されて、其景色の變りゆくのを眺め飽かぬのであった。
 橋澤の道祖神石碑の前に、リンガーとヨーニの寫實的なのが一對あったが、是れは四十年程以前に作られたものなる由。此所から再び與瀬に戻って、相模川に架する津久井橋を渡り内郷村に入った。此邊は翠崖碧流に臨み頗る景色がよい。鼠坂から山口部落の道祖神像を訪ひ、石器土器の散布地を過ぎて、増原の道祖神を一見し、長谷川一郎氏邸で中食の辯當を開いた。一行は同家所蔵の多數の土器石器を拝見して、津久井地方の石器時代遺物に關する一般を知ることを得た。それから山道傳ひに今回新發見の敷石を有する石穴を視察に赴いたが、其途中細雨霏々として石老山は霧にかくれ、山村の夏景は一幅の好南畫の観を呈した。新發見の遺跡なるものは、津久井郡内郷村寸澤嵐(すあらし)宮崎家の前庭にあって、七月十七日長谷川一郎氏が發見されたものである。位置は山の裾で、東西十七釋、南北十五尺、深四尺斗りの楕圓形の立穴の様なものである。そして其床には徑一尺位の丸石が敷きつめられ、中央に爐の跡らしいものがある。其年代に就ては石器時代と説く者もあり、又極めて近代のものと稱する人もあって、此種の遺跡に就て未だ學界の定説が出来て居らぬが、兎に角珍らしい發見物として長谷川氏の功績に對し敬意を表さねばならなぬ。
 石老山に登る筈が雨のために見合せとなった故宮崎氏方で談話會を開いた。先づ長谷川氏は津久井郡の地勢に就て有益なるお話があり、次に鈴木重光氏の津久井地方の道祖神に関する説明があった。同氏の道祖神研究には既に多年の調査によって独特の見解を有せられ、其説は何れも傾聴すべきものであった。續いて榊原幸雄氏が石器時代の石棒の一般を説かれ、簡にして要を得T甚有益であった。最後に中島利一郎氏が日本古典と性神との關係に就て、注意すべき學術的の卓見を述べられた。それより歸途の道すがら、孝女平井初子の墓を過ぎ内郷村字阿津の谷間で發掘中の埋木、所謂神代杉を一見して、與瀬驛から乗車歸京した。
 本日の見學に就て案内の労をとられ、或は茶菓の接待に預った長谷川一郎氏、鈴木重光氏、宮崎律氏并に其他の各位に對し、深厚なる謝意を表して置く。
(三輪生)以下出席者26名を記す。(省略)
                      「武蔵野 第十二巻第三號」より
9月、長谷川一郎が「武蔵野 九月号」に「神奈川県津久井郡内郷村石老山麓に於ける石器時代民族住居址の遺跡発掘」を発表する。 
11月1日、長谷川一郎が「史跡名勝天然記念物 第三集第十一号」に「相州石老山麓石器時代民族住居趾発掘笑話」を寄稿する。
1929 12月1日、鳥居龍蔵が中島利一郎(「武蔵野」幹事)と共に内郷村を訪れる。
12月、鳥居龍蔵、「武蔵野 12月号」に「内郷村の一日」を寄稿する。
1930 3月、長谷川一郎が「武蔵野 3月号」に「内郷村其後の発掘報告二三」を発表する。
11月、内務省が寸沢嵐の敷石住居址を「国指定史跡」として保存する。
1931 8月4日〜7日、柳田国男が神宮皇学館で「欧州諸国における民俗学の歴史」、「郷土史の研究法」など4回にわたり講義。
1932 4月25日、柳田国男が「郷土生活の研究法」の会をひらく。
8月19日、20日、柳田国男が小金井の青年団で「郷土研究の話」を講演。
8月29日、柳田国男がJOAKの第1回関東郷土講座で「最近における郷土研究の趨勢」を放送。

1933 1月、鈴木重光が「郷土研究 第7巻第1号」に「「相州内郷村話」補遺(五)」を寄稿する。
1934 この年、内郷村が経済厚生計画の樹立村に指定される。
1935 10 7月、内郷村が経済厚生計画書を作成実行することを宣誓する。
9月18日、雑誌「民間伝承」発刊。これを契機として民俗学研究者の組織が全国的になる。
1936 11
1937 12
1938 13
1939 14
1940 15
1941 16
1942 17
1943 18
1944 19
1945 20
1946 21
1947 22
1948 23
1949 24
1950 25
1951 26
1952 27
1953 28
1954 29
1955 30
1956 31
1957 32
1958 33
1959 34
1960 35
1961 36
1962 37
1963 38
1967 昭和42年 1月、鈴木重光(満80歳)没



道志地区
  
道志川に架かる弁天橋                道志隧道

  
道志川の水はこの水門を通り田んぼに送られる。 道志地区の水田



関口地区
 
五枚あった田んぼの跡(右岸の金属板の周辺)  左岸の水神さま
4本の旗の辺りに水車小屋があった。      背後の草原は元は水田で川水を樋で通した。

 
水源の池跡  養蚕小屋・桑の木・モミジ    「ひぐらし」の石とお稲荷様

近所のおばさんから聞いた話    採話 2009・7・21

関口橋の池
昭和50年に、この川の河川工事が行われました。
そうしたら池が干上がって池の水が涸れてしまいました。
それまでは、この池の水で5枚の田んぼが潤っていました。
池の水で水車も動いていました。
池の畔にはお稲荷様が祀られています。
また「ひぐらし」と呼んでいた大きな石もあります。
今は池が埋められ小さく見えますが、その石に隠れながら、日をよけて暮らすこともできました。
また池の畔にはモミジや桑の大木が残っています。
桑の木1本で10グラム(卵の重さ)の蚕が飼えました。
牛も飼っていたので搾った牛乳は、池の水で冷やし翌朝、集乳缶を背負って、正覚寺の前の集乳所まで運びました。
田んぼは東京オリンピックの年に埋められました。
埋めた土は道路の整備をした時の残土で、田んぼが土の捨場になりました。
川沿いの道は2メートルも高くなりました。
反対側(左岸)にある石祠は水神さまで、あの周りも田んぼでしたが、河川工事の時に埋められました。
田んぼの水は川から竹の樋を使って引きました。
 今は、田んぼの面影がすっかりなくなってしまいました。










 



阿津地区
 
除草機を転がしながら田草を取る。      用水路の上を利用した稲を干す丸太置き場


 
阿津川の水を利用した水田地帯       後方の竹やぶやケヤキは旧阿津川の河川跡

                              撮影2009・7・28
  
阿津川の河川工事は「昭和46年度通常砂防工事」として行われました。増原から阿津へ下りる途中の休耕田と水田


  
増原下の水田跡 現在は休耕田になっているが「ヤブッタ」の面影が今も残る。




鼠坂地区
  
源流部は畑になって管理されているが、下流部の水田跡地にはオオブタクサが茂る。



寸澤嵐地区

オカボ(陸稲)の田んぼが広がる水田跡地


  
ポンプの取水口跡(危険立入禁止)           水神祭祀跡

 寸澤嵐地区では昭和23年に、第2堰堤(沼本ダム)からポンプで水を汲み揚げ畑地を水田にした。水田は30年頃まで続いていたがポンプが故障したり電気代が高くなって止めた。相模川の取水口にはコンクリートで出来た大きな枡が今も残っている。今は取り壊してなくなっているが、汲み揚げた水を一旦溜める枡があった。、そこからコンクリートの用水路を伝わって田んぼに水を引いた。枡の隣には水神様を祀った。水田の広さは五町歩もあった。(地元のおじさんから聞いた話)


沼本地区   詳細を別の項に記します(現在作成中)。

  
道志川左岸の取水口跡


  
  開田碑        かつて湖面の下に水田が広がっていた。後方の島は丸山と寺山
               開田によって五町二反もの水田が誕生した。


 水没した沼本  (昭和30年代)   写真 「相模湖町史 民俗編」から転載
                      2009・8・8(転載許可済)



資料1) 「津久井郡勢誌復刻・増補版」より (三) 産業と集落
10、内郷村 内郷村は津久井郡のほぼ中央に位し、相模川及び道志川に北部と東部を囲まれ、北西部は相模湖に臨み、相模川の第一段丘・第二段丘が明らかに形成され、鼠坂及び寸沢嵐の集落がそこに発達している。
 耕地面積180町歩で農家一戸平均五段二畝に当り、津久井の平均面積より高く、上津久井第一の農村で、水田も十九町歩を持ち、川尻村とならんで水稲収穫の多い地域である。昭和の初期までは水田約四町歩で、泉や沼水を利用した水田が阿津・若柳。鼠坂に少しづつ散在したに過ぎなかったが、道志川の水を使って昭和十年に沼本に五町歩、昭和21年に道志に10町歩の開田を行い、昭和23年には、相模湖水面から70メートル程高い畑地に電力で水を上げ、寸澤嵐に五町歩の開田を行い水田の拡張が次々と実行された。養蚕及び酪農も盛んで、繭及び牛乳の主要生産地帯で、昭和二十五年からは煙草もとり入れ、昭和二十六年には耕地面積十六町歩に及んでいる。
             昭和十年に沼本に五町歩→昭和17年に沼本に五町五反
             相模湖→沼本ダム湖

資料2) 内郷村が経済厚生村に指定された時の宣言文
宣言  現下の農村は思想上経済上頗(すこぶ)る難局に直面に疲弊困憊(ひろうこんぱい)其極に達し今や生活上の脅威を感ずるに至る寔(まこと)に痛嘆に堪えず。此時に當り本村は昭和九年度に於て経済厚生村に指定せらる。
 吾人は政府並に縣の指導精神に則り「経済厚生委員会」を設け実行要目を定め更生計劃樹立に基き村民一同和衷協力し共存共栄の下に農民精神の作興に努め経済厚生をなし勇往邁進以て所期の目的を達成せんことを誓約す。 昭和九年十月六日    内郷村民一同      所蔵 津久井郷土資料室

取材を終えて
 日本民俗学の古里、旧内郷村の水田地帯を訪ねました。昭和9年、内郷村は村長長谷川一郎を先頭に「経済厚生村」として先駆的な役割を果たしました。「経済厚生村」の指定の背景には慢性化している経済不況にありました。内務省は昭和9年9月、国民厚生運動を開始しました。それは、農民の自力厚生力を高めようとした運動でもありました。
 内郷村は綿密な経済厚生計画を基に養蚕・酪農・畑作や水稲栽培など増産に向けた取り組を始めました。開田計画も勿論、その一翼を担い戦後も引き継がれて行きました。
 そうした田んぼが今どのようになっているのかを訪ねてみました。
 旧内郷村は今日の日本農業の縮図を見ているような、そんな気がしてなりませんでした。かつて柳田国男が日本で最初の村落調査を行ったように、今またその時期がどこかで来たようなそんな気配を感じています。また、そうすることで、何か日本の未来の、ありようがひょっとして見えて来るのではと・・・、そんなふうに思いました。
           
資料
相模湖町史 民俗編 相模湖町史編さん委員会 相模原市 発行 平成19年2月
相模湖町史 歴史編 相模湖町史編さん委員会 相模原市 発行 平成13年3月
相模川歴史ウオーク 著者 前川清治 東京新聞出版局 発行 2005年5月
津久井郡勢誌復刻・増補版 編集・発行 津久井郡勢誌復刻・増補版刊行委員会 発行 昭和53年12月
ふるさとの民話と伝承 中野地域振興協議会・中野まちづくり委員会 平成12年12月 発行

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