錫杖頭関連資料集
   ○○製双龍十字文付八角錐型手錫杖頭

      正式名称  (○○せい そうりゅう じゅうじもんつき はっかくすいがた て しゃくじょう かしら)
      略式名称  手錫杖頭

                  撮影 2023・12・5 小池久男







十字文の右側上の部分に銀色に光るところがありました。





双龍部分の交差する下側は大きく腐食していました。
そこの下側に微細の緑青が付着していました。



遊環(ゆかん)の中央部に露出した(青)銅の部分が見られました





外側の金属部分が剥がれ青銅色をした金属が見えました。





(仮称)基礎の部分の黄銅と思われる黄色のした金属が見られました。






全体的には、黒ずんで見えますか、LEDの照明を当てますと、二次的な光を放ち、手で揺らしますと小さくシャワシャワと音を発します。
 尚、製作年に付きましては、明治元年に神仏分離令が太政官から発せられていますので、その明治の直前か、少なくとも江戸時代を想定しています。

       
       発見地:相模原市緑区:川尻八幡宮境内 常設展示:相模原市立広田小学校
       
       玉虫厨子 宮殿部背面

       
       玉虫厨子 宮殿部正面


        
      玉虫厨子 須弥座部背面



          
     玉虫厨子 須弥座部背面                      須弥座部右面

「雪国の春」角川文庫、角川学芸出版 1956(昭和31)年7月30日初版発行
『真澄遊覧記』を読む /四
徳岡は自分の地図には見えぬが、前沢の町に近い小部落の名であった。こういう村々の百四十年前の正月が、目に見るように詳しく伝わったのは、珍重すべきことだと思う。二日の朝は子供たちが年礼にくるのに、痩馬と称して松の小枝に銭をさして与えることは、出羽の雄勝の村も同様であって、この辺ではこれを戯れて馬に乗せるといっていた。明きの方ということは雷さまの年を越した方角のことで、それによって村老はまた田作りの豊凶を卜うらした。年を越すとは昨冬の雷鳴が、その方面に聞こえたということと思うが、近世の暦の八将神はっしょうじんのものものしい名前なども、やはりこういう民間の古い習わしから、出ていたことが考えられるのである。三日は申さるの日であったので、家々の馬を引き出して遊ばせた。駒形山信仰の支配する土地だけに、馬の神の祭はおろそかでなかった。六日が節分で豆焼きの灰占はいうらは炉端に行われた。豆をまくことも他の地方と同じであったが、この辺の唱え詞は、
天に花さけ地にみのれ
福は内へ鬼は外へ
というのであった。今でもそういう老人などがあるかどうか。尋ねてみたならばおもしろいであろう。七日の朝はこの土地では白粥しらがゆに豆を入れたもので、七草をはやすというのはいろいろの食器を俎板まないたに置いて、それをマワシ木(擂木)でたたくことであった。若菜を得る途は雪の村にはなかったのである。十一日はハダテと称して、仕事初めの日であった。雪の上に畝を立てて、薄すすきの穂や藁わらなどを早苗さなえに挿し、ああくたびれたと冗談をいう者もあれば、小苗打ちどうしたなどと小児らに戯れて、歌をうたいまた酒を飲んだ。
 いわゆるカセギドリのやってくるのは、この村などでは十二日の午前からであった。ケンダイと称する藁製の蓑笠を着た様子から、鶏のことだと考えていた者が多く、逃げて帰るときにケケロと鳴いてみたり、他村の群れと途中で逢った時は、雌鳥か雄鳥かとまず尋ねて、雄鳥といえば蹴合いをしようといって掴み合い、雌鳥と答えば卵を取ろうといってもらった餅を奪い合った。主人が憎まれている家ばかりはカセギドリの若い者が入ってきてあばれ、廏うまやの前にある木櫃を伏せて、杖でその底を突き立ててスワクエスワクエといった。その言葉の意味はもう不明になったが、なお老人たちはこの訪問者の服装が案山子かかしとよく似ており、その身に着けた鳴子、鳴りがね、馬の鈴、木貝と名づくるラッパのような楽器などが、鳥追い、鹿追う秋の田の設備と同じいのを見て、これは田の神の姿であり、スワクエはその呪文のごときものなることを、想像していたらしい様子である。この役はたいてい若い男が、願掛けまじないのために勤めるものであった。例えば重病で死にかかった者などが、幸いに本復しますれば来年はカセギドリに出ますといって、村の鎮守の社に祈るのは普通であって、それゆえにおりおりは三十から四十に近い人が、この群れに加わって餅もらいにくると記してある。十五日は黄金餅と称して、粟の餅をつく習いがあった。家によっては十一日の物ハダテすなわち雪の上の田植を、この朝執り行う例もあった。山畠の雪の中に高い柱を立て、一方には杭を打ってその間に縄を張り、ヒサグワクという麻糸の糸巻、瓢箪ひょうたんなどをつり下げた所もあった。杭の頭には古草履、古藁鞋わらぐつの類を、いくらともなく縛りつけてあったという。

『真澄遊覧記』を読む/五
 こうして端から書き抜くと長くなるが、真澄のように方々の正月を、一人で見てあるいた人はないのだから、ことにその観察には教えられることが多い。仙台の近村で今も行わるる田植踊り、いわゆる弥十郎・藤九郎のエンブリ摺すり一行は、徳岡の村では十八日の朝やってきた。本来はカセギドリの群れから分化したものと、自分らは推測しているのだが、もうこの時代からこの地方でも伎芸となって、これを業とした部曲があったらしい。田植の祝言の中には注意すべき文句が多かった。例えば早乙女には妊娠を喜んだ心持が述べてある。田人の一行の中には瓢箪の片割れに、眼鼻を彫り白粉を塗ったものを、被ってくる者もあったという。ついこの間幸田こうだ先生から朝鮮のヒョットコだといって贈られたのが、やはりこの瓠ひさご製の素朴なものであった。この箇条を読んだのはあたかもその次の日であって、思わず顧みて棚の上の朝鮮の面と、顔を見合わせて笑ったことであった。
 この年の日記にはまだいろいろの話の種があるが、前を急ぐゆえに今は皆省略する。次の寛政元年は陸中の東山、大原の近くなどで正月をしたものであろうか。夏に入って六月の上旬にいよいよこの辺を立って、再び北上の路に就いた。その紀行が「岩手の山」である。野辺地のへじの馬門まかどから狩場沢かりばさわへ、南部領から津軽領へ、入ってきたのが七月六日、それから青森を過ぎ内湾の岩づたいに、三廏みうまやから宇鉄うてつへ出て便船を求め、盆の魂迎えに飢饉で死んだ親姉の名を、しきりに呼んでいる夜半の時刻、松前をさして渡海したことが、「外が浜づたひ」という一巻には述べてある。
 松前滞在の日記は五種ほど今あるが、その間がきれていて踪跡が明らかでない。彼とやや似た境遇の漂泊者が、あるいは信仰を種とし、あるいは文学によって、幽かに生活の便宜を得ていたこと、口蝦夷くちえぞの外部文化に触れているアイヌらが、なお半ばは仙人のごとく取り扱われていたことなど、新しい印象はいくつもあるが、ことに珍しいのは松前城下の正月の記事であった。
 それは寛政四年子ねの春の日記で、標題を「千島の磯」と記している。この時は真澄は大館山おおだてやまの麓の、天神社の脇に借宅をして、寂しい独身生活をしていたが、あまりに雪が深いので外の正月も森閑として、おりおりは城内の士人の歌の会などに往来しても、目につくような街頭の行事はなかったようである。五日には城中に万歳まんざいを舞わしめらるべしとあって、おりふし来合わせて冬籠りをする旅役者沢田の某という者が、臨時に万歳になって召されたと記してある。十四日の宵のみは町家にも儀式があった。子供が手に持って唱え言を述べあるく短い杖を、松前ではゴイハイ棒といった。すなわち羽後飛島とびしまのヨンドリ棒、越後の道祖神などと一つのもので、古くからこの方式ばかりは日本人が、いかなる雪の国にも持って行かずにはいられなかったことが想像せられる。


    
 相模原市中央区上溝 成田山(不動堂)           鰐口
     
  鰐口(表)                       鰐口(裏)

越中劍岳先登記  柴崎芳太郎
 越中の劍岳は、古来全く人跡未到の劍山として信ぜられ、今や足跡殆ほとんど遍あまねかられんとする日本アルプスにも、この山ばかりは、何人なんぴとも手を著つけ得ざるものとして、愛山家の間に功名の目標となれるが如き感ありしに、会員田部隆次氏は、「劍山登攀とうはん冒険談」なる、昨四十年七月末『富山日報』に出いでたる切抜を郵送せられ、かつ「先日山岳会第一大会に列席して諸先輩の講演、殊ことに志村氏の日本アルプスの話など、承うけたまわり、すこぶる面白く感動仕候つかまつりそうろう、その中に、劍山登り不可能の話有之これあり候に就きて、思い出し候間あいだ、御参考までに別紙切抜き送り候、……なお小生のその後、富山県庁の社寺課長より聞く所に拠よれば、芦峅寺あしくらじにては、劍山の道案内を知れる者有之候えども秘伝として、漫みだりに人に伝えず、極めて高価の案内料を貪むさぼりて、稀まれに道案内をなせしことあるのみなりしが、今回の事にて、全くその株を奪われたる事になりしとか申もうし候、この記事が動機となりて、今年より多くの登山者を出すを得ば、幸さいわいこれに過ぎずと存ぞんじ候」と言える書翰を附して編輯者まで送付せられたり、(その後辻本満丸氏も、この記事の謄写とうしゃを、他より獲えて送付せられたり)聞く所によれば、『富山日報』のみならず、同県下の新聞にも大概出でたる由にて、劍岳を劍山と、新聞屋の無法書きは、白峰を白根、八ヶ岳を八ヶ峰などという筆法と同じく、おかしく感ぜらるれど、ともかくも登山史上特筆する価値あれば、左に全文を掲ぐ(K、K、)

 余は三十六年頃より三角点測量に従事して居ますが、去さる四月二十四日東京を発して当県に来る事となりました、劍山に登らんと企くわだてましたのは七月の二日で、先まず芦峅村に赴おもむき人夫を雇やとおうと致しましたが、古来誰あって登ったという事のない危険山ですから、如何いかに高い給料を出して遣やるからといっても、生命いのちあっての物種ものだね、給料には易かえられぬといって応ずる者がありません、しかし是非とも同山に三角測量を設けざるべからざる必要があるというのは、今日既に立山には一等測量標を、大日山と大窓山には二等測量標を建設してありますけれども、これだけでは十分な測量が出来ませんからで、技術上是非ぜひ劍山に二等測量標の建設を必要とするのであります、前年来屡次るじ登攀とうはんを試みましたが毎時登る事が出来ず失敗に帰しましたが、そのために今日では同地方の地図は全く空虚になって居る次第であります、これは我々の職務として遺憾いかんに堪えぬ次第で、国家のため死を賭としても目的を達せねばならぬ訳わけであります、そこで七月十二日私は最も勇気ある
測夫 静岡県榛原はいばら郡上川根村 生田信(二二)
人夫 上新川郡大山村    山口久右衛門(三四)
人夫 同郡同村       宮本金作(三五)
人夫 同郡福沢村      南川吉次郎(二四)
人夫            氏名不詳
の四名を引率して登山の途に就き、同日は室堂むろどうより別山を超こえ、別山の北麓で渓を距へだたる一里半ばかりの劍沢を称する処ところで幕営し、翌十三日午前四時同地を出発しましたが、此処ここは別山と劍山との中間地で黒部の上流へ落合う渓流が幅三米突メートルばかり、深さ六、七尺もありました、なおその地方は落葉松からまつ等の周囲一丈ばかりもある巨樹、鬱蒼として居ますが幸さいわいに雪があったから渡わたれたものの、雪がなかったら危険地でとても渡れないだろうと思います、それより半里ばかり東南の谷間を下り、それから登山しましたが、積雪の消えない非常な急坂がありまして一里ばかりの雪道を約五時間も費やしました、その雪を通過すると劍山の支脈で黒部川の方向に走れる母指との間のような処に出ました、もっともこの積雪の上を徒渉としょうするのにどうしても滑りますから鉄製の爪あるカンジキを穿はいて登るのであります。
 この積雪地よりは草木を見ず、立山の権現堂ごんげんどうより峰伝えに別山に赴く山路の如く一面に花崗片麻岩かこうへんまがんにてガサガサ岩の断崖絶壁削るが如く一歩も進む能あたわず、引率せる人夫四名の中氏名不詳とせし男は此処より進む能わずとて落伍しました、残りの一行は更に勇を鼓し一層身軽にし双眼鏡、旗、鍋の外ほかは一切携帯せずに進むこととなりましたが、その苦しい事は口にも述べられぬほどです。上の方に攀登よじのぼるのに綱を頭上の巌にヒョイと投げかけ、それを足代に登りかけると上の巌が壊れて崩れかかるという仕末しまつで、その危険も一通りや二通りではありません、こんな処が六十間もありましたが、其処そこを登りますと人間のやや休息するに足る場所がありましたからホッと一休みしました、また其処よりは立山の権現堂からフジという処を経て別山に赴くほどの嶮路で花崗片麻岩のガサ岩ばかりであります。かくて漸ようやく絶頂に達しましたのは、午前十一時頃でありました、この絶頂は円形のダラダラ坂で約四、五坪もありましょう。むかし何時いつの時代か四尺五尺位の建物でもありましたものか、丁度その位の平地が三ヶ処ばかりありました、しかし木材の破片などは一切見当りません。一行がこの絶頂に於て非常に驚いたのは古来いまだかつて人間の入りし事のないちょうこの山の巓いただきに多年風雨に曝さらされ何ともいえぬ古色を帯おびた錫杖しゃくじょうの頭と長さ八寸一分、幅六分、厚三分の鏃やじりとを発見したことである。鏃は空気の稀薄なるためか空気の乾燥せる山頂にありしがためかさほど深錆とも見えないが、錫杖の頭は非常に奇麗な緑青色ろくしょういろになっております。この二品は一尺五寸ばかり隔へだててありましたが、何時の時代、如何なる人が遺のこして去りしものか、槍の持主と錫杖の持主とは同一の人かもし違って居るとすれば同時代に登りしものか、別時代に登りしものか、これらはすこぶる趣味ある問題で、もし更に進んで何故なにゆえにこれらの品物を遺留し去りしか、別に遺留し去ったものでなく、風雨の変に逢うて死んだものとすれば遺骸いがい、少くも骨の一片位はなくてはならんはずだが、品物はそのまま其処そこに身体は何処どこか渓間たにまへでも吹飛されたものか、この秘密は恐おそらくは誰だれも解とくものはあるまい、なお不審に堪えざるはその遺留品ばかりではない、この絶頂の西南大山の方面に当り二、三間下に奥行六尺、幅四尺位で人の一、二人は露宿し得るような岩窟がある、この窟の中で何年いつか焚火した事があるものと見え蘚苔せんたいに封ぜられた木炭の破片を発見した事である、この外には這松はいまつの枯れて石のようになりたる物二、三本と兎うさぎの糞二、三塊ありしのみである、この劍山の七合目までは常願寺じょうがんじ川等にあるような滑沢かったくの大きな一枚岩であるが、上部は立山の噴火せし際降ふり積りしと思わるる岩石のみである、東南の早月はやつき川方面の方は赤褐色を帯べる岩で、北方は非常の絶壁でその支峰もいずれも剣を立てたるがごとく到底攀ずる事が出来ない、かくて一行は当日午後一時に下山し始め同四時に前夜の宿営地に無事引上げここに第一回の登山を終った。第二回には三角点測量標を建設せんものをと
測夫 鳥取県東白郡市勢村 木山竹吉(三六)
人夫 中新川郡大岩村   岩木鶴次郎(二四)
その他を率いたが、二等三角点を設けんとせしも、名にし負おう嶮山とて機械及材料を運上はこびあぐる事能わず、止やむを得ず四等三角点を建設する事とした。それも四本を接合せて漸く六尺位になる柱一本を樹たてたに過ぎない、この接合せるようにしたのは無論運搬が困難であるからであります、立山の高さは不明であります、立山に居りて見れば劍山の方が高く見えますけれど劍山では立山の方が高く見えます、大抵同様の高さかと思わる、立山の高さですか、それは二千五百米突以上という事になっています 云々うんぬん

底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年9月17日第1刷発行
   2004(平成16)年2月14日第3刷発行

九条錫杖経 和訳
手執錫杖 しゅじしゃくじょう
當願衆生 とうがんしゅじょう
設大施会 せつだいせえ
示如実道 じにょうじつどう
供養三宝 くようさんぼう
設大施会 せつだいせえ
示如実道 じにょうじつどう
供養三宝 くようさんぼう

以清浄心 いしょうじょうしん
供養三宝 くようさんぼう
発清浄心 ほっしょうじょうしん
供養三宝 くようさんぼう
願清浄心 がんしょうじょうしん
供養三宝 くようさんぼう

當願衆生 とうがんしゅじょう
作天人師 さてんにんしん
虚空満願 こうくまんがん
度苦衆生 どくしゅじょう
法界圍繞 ほうかいいにょう
供養三宝 くようさんぼう
値遇諸仏 ちぐしょうぶつ
速證菩提 そくしょうぼだい

當願衆生 とうがんしゅじょう
真諦修習 しんたいしゅうじゅう
大慈大悲 だいじだいひ
一切衆生 いっさいしゅじょう
俗諦修習 ぞくたいしゅうじゅう
大慈大悲 だいじだいひ
一切衆生 いっさいしゅじょう
一乗修習 いちじょうしゅうじゅう
大慈大悲 だいじだいひ
一切衆生 いっさいしゅじょう
手に錫杖を持って
まさに願わくば衆生と共に
大きな施しの集りを設け
ありのままの真実の道を示して
仏・法・僧を供養しよう
大きな施しの集りを設け
ありのままの真実の道を示して
仏・法・僧を供養しよう

清らかな心を持って
仏・法・僧に供養しよう
清らかな心を起して
仏・法・僧に供養しよう
清らかな心を願って
仏・法・僧に供養しよう

まさに願わくば衆生と共に
天人と人間との師になって
無間の願いを満たし
沢山の苦しむ人々を救う
法の世界をとり囲んで
仏・法・僧を供養しよう
諸仏に出会って
速やかに悟りを得なさい

まさに願わくば衆生と共に
真理の道を修行し体得したなら
仏の広大無辺の慈しみと哀れみを得て
全ての衆生を導こう
世間の道を修行し体得したなら
仏の広大無辺の慈しみと哀れみを得て
全ての衆生を導こう
唯一の真実の道を修行し体得したなら
仏の広大無辺の慈しみと哀れみを得て
全ての衆生を導こう
恭敬供養 くぎょうくよう
佛寶法寶 ぶっぽうほうぼう
僧宝一體三寶 そうぼういったいさんぼう
當願衆生 とうがんしゅじょう
檀波羅蜜 だんばらみつ
大慈大悲 だいじだいひ
一切衆生 いっさいしゅじょう
尸羅波羅蜜 しりやはらみつ
大慈大悲 だいじだいひ
一切衆生 いっさいしゅじょう
セン提波羅蜜 せんだいはらみつ
大慈大悲 だいじだいひ
一切衆生 いっさいしゅじょう
毘梨耶波羅蜜 びりやはらみつ
大慈大悲 だいじだいひ
一切衆生 いっさいしゅじょう
禅那波羅蜜 ぜんなはらみつ
大慈大悲 だいじだいひ
一切衆生 いっさいしゅじょう
般若波羅蜜 はんにゃはらみつ
大慈大悲 だいじだいひ
一切衆生 いっさいしゅじょう

當願衆生 とうがんしゅじょう
十方一切 じっぽういっせい
無量衆生 むりょうしゅじょう
聞錫杖聲 もうしゃくじょうしょう
懈怠者精進 けだいしゃしょうじん
破戒者持戒 はかいしゃじかい
不信者令信 ふしんじゃりょうしん
慳貪者布施 けんどんしゃふせ
瞋恚者慈悲 しんにんしゃじひ
愚痴者智慧 ぐちしゃちえ
驕慢者恭敬 きょうまんしゃくぎょう
放逸者攝心 ほういつっしゃしょうしん
具修万行 ぐしゅまんぎょう
速證菩提 そくしょうぼだい
謹み敬って供養をしなさい
佛宝・法宝
僧宝が一帯となって三つの宝となる
まさに願わくば衆生と共に
布施の修行をしなさい
仏の広大無辺の慈しみと哀れみを得て
全ての衆生を導きなさい
戒律を守る修行をし
仏の広大無辺の慈しみと哀れみを得て
全ての衆生を導きなさい
苦を耐え忍ぶ修行をし
仏の広大無辺の慈しみと哀れみを得て
全ての衆生を導きなさい
努力をすることの修行をし
仏の広大無辺の慈しみを哀れみを得て
全ての衆生を導きなさい
心を集中し安定させる修行をし
仏の広大無辺の慈しみと哀れみを得て
全ての衆生を導きなさい
智慧を磨く修行をし
仏の広大無辺の慈しみと哀れみを得て
全ての衆生を導きなさい

まさに願わくば衆生を共に
ありとあらゆる
無数の人々が
錫杖の声(音)を聞いて
怠け者は精進をしなさい
戒律を破った者は戒律を守りなさい
不信心の者は信仰をしなさい
欲張りな者は布施をしなさい
起こりっぽい者は慈悲を持ちなさい
愚か者は智慧を磨きなさい
おごり高ぶっている者は敬いなさい
身勝手な者は心を改めなさい
沢山の行を修めて 
速やかに悟りを得なさい
當願衆生 とうがんしゅじょう
十方一切 じっぽういっせい
邪魔外道 じゃまげどう
魍魎鬼神 もうりょうきしん
毒獣毒龍 どくじゅうどくりゅう
毒蟲之類 どくちゅうしるい
聞錫杖聲 もんしゃくじょうしょう
催伏毒害 さいぶくどくがい
発菩提心 ほつぼだいしん
具修万行 ぐしゅまんぎょう
速證菩提 そくしょうぼだい

當願衆生 とうがんしゅじょう
十方一切 じっぽういっさい
地獄餓鬼畜生 じごくがきちくしょう
八難之處 はつなんししょ
受苦衆生 じゅくしゅじょう
聞錫杖聲 もんしゃくじょうしょう
速得解脱 そくとくげだつ
或癖ニ障 さくちにしょう
百八煩悩 ひゃくはちぼんのう
発菩提心 ほつぼだいしん
具修万行 ぐしゅまんぎょう
速證菩提 そくしょうぼだい

過去諸佛 かこしょぶつ
執持錫杖 しゅうじしゃくじょう
己成仏 いじょうぶつ
現在諸佛 げんざいしょぶつ
執持錫杖 しゅうじしゃくじょう
現成仏 げんじょうぶつ
未来諸佛 みらいしょぶつ
執持錫杖 しゅうじしゃくじょう
當成仏 とうじょうぶつ
故我稽首 こがけいしゅ
執持錫杖 しつじしゃくじょう
供養三宝 くようさんぼう
まさに願わくば衆生と共に
ありとあらゆる
悪魔や外道
ばけものや鬼神
毒のある獣や毒気のある龍
毒虫の類も
錫杖の声(音)を聞いて
毒の害から伏せ
菩提心を起して
沢山の行を修め
速やかに悟りを得なさい

まさに願わくば衆生と共に
ありとあらゆる
地獄・餓鬼・畜生といった
八つの難所で
苦しみを受けている衆生が
錫杖の声(音)を聞いて
速やかに悟りを得て
迷いと愚かさの2つの災いや
108の煩悩に悩む者も
菩提心を起して
沢山の行を修め
速やかに悟りを得なさい

過去の仏様達も
錫杖を持って修行し
すでに仏になられた
現在の仏様達の
錫杖を持って修行し
現に仏となられた
未来の仏様達も
錫杖を持って修行をしたら
まさに仏に成れることでしょう
それ故にわたしは、敬礼しよう
錫杖をもって
三宝にご供養しよう
故我稽首 こがけいしゅ
執持錫杖 しつじしゃくじょう
供養三宝 くようさんぼう

南無恭敬供養 なむくぎょうくよう
三尊界会 さんぞんかいえ
恭敬供養 くぎょうくよう
顕蜜聖教 けんみつしょうぎょう
哀愍摂受 あいみんしょうじゅ
護持弟子 ごじでし
それ故にわたしは、敬礼しよう
錫杖をもって
三宝にご供養しよう

つつしみうやまって
仏法僧三尊にご供養し
帰依しよう
顕教と密教との聖なる教えに供養しよう
あわれみお救いたまわらんことを
どうぞ、この教えを護持する弟子を

観音経(部分) 和訳
呪詛諸毒薬 しゅーそーしょーどくやく   
所欲害身者 しょーよくがいしんしゃー 
念彼観音力 ねんぴーかんのんりき
還著於本人 げんじゃくおーほんにん

或遇悪羅刹 わくぐーあくらーせつ
毒龍諸鬼等 どくりゅうしょーきーとう  
念彼観音力 ねんぴーかんのんりき  
時悉不敢害 じーしつぷーかんがい 

若悪獣圍繞 にゃくあくじゅういーにょう    
利牙爪可怖 りーげーそうかーふー
念彼観音力 ねんぴーかんのんりき
疾走無邊方 しっそうむーへんぼう 

〔ガン〕蛇及蝮蠍 がんじゃーぎゅうぶっかつ 
気毒煙火燃 けーどくえんかーねん
念彼観音力 ねんぴーかんのんりき
尋聲自回去 じんしょーじーえーこー

雲雷鼓掣電 うんらいくーせいでん
降雹〔ジュ〕大雨 ごうばくじゅーだいうー
念彼観音力 ねんぴーかんのんりき
応時得消散 おうじーとくしょうさん
呪詛や諸の毒薬に、
身を害せんと欲(せ)られん者、
彼の観音の力を念ぜば、
還って、本の人に著きなん

或は、悪羅刹(らせつ)、
毒龍、諸の鬼等に遇わんに、
彼の観音の力を念ぜば、
時に悉く敢えて害せざらん。

若しは、悪獣に囲繞(いにょう)せられて、
利(と)き牙爪(きばつめ)の怖るべきに、
彼の観音の力を念ぜば、
疾く無辺の方に走りなん。

〔虫+元〕(とかげ)蛇及び蝮(まむし)蠍(さそり)、
気毒の煙火の燃ゆるごとくあらんに、
彼の観音の力を念ぜば、
声に尋(つ)いで自ら回(かえ)り去らん。

雲りて雷(いかづち)鼓(な)り、掣(いなずま)電(ひらめ)き、
雹(あられ)降り、大雨〔ジュ〕(そそ)がんに、
彼の観音の力を念ぜば、
時に応じて消散することを得ん。

   
あきる野し 普門寺塔頭 新開院薬師堂                薬師堂内 


  
昭和47年、二宮神社本殿裏より出土した「薬師如来立像」
参考資料
大和久震平著論文「古式錫枚の形状」PDF
山梨県埋蔵文化財センタ調査報告集第260集 2009・3 山梨県教育委員会 
 山梨県内中世寺院分布調査報告書  常説寺出土錫杖頭を所収
西尾歩著 玉虫厨子絵とその典拠としての『法華経』 PDF
上原和著 玉虫厨子の様式年代論として(一)〜最終未確認
蓑輪顕量著 日本撰述の偽経についてPDF
長谷川智治著 玉虫厨子絵の山岳表現について : 霊鷲山図を中心に
長谷川智治著  法隆寺 玉虫厨子考--舎利供養図を中心に
長谷川智治著 山岳表現考 : 古代中国から法隆寺の玉虫厨子ヘ
週間朝日百科 日本の国宝 No26 香川/善通寺他 発行 1997・8・17
米原寛著 剣岳信仰」をめぐる若干の考察
神仏の習合と分離の研究史 〜川尻八幡宮の境内から発見された手錫杖〜
川尻八幡宮
故郷の甲府

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