2008・1・6/下記の2題を「川尻村絵図で見る城山町の様子」から移送

屋根のない博物館HP開設にあたって
 2年前、自転車で津久井中を走り回り写真に収めたと云う一人の高校生に出会いました。その場所は「津久井郡郷土資料館」で、確か完成したばかりのアルバムを持って来られた日だと記憶しています。アルバムのタイトルには「お帰りなさい津久井」と書かれてありました。その時、私は「お帰りなさい津久井」と云う言葉の響きに何とも言いようのない懐かしさを覚えました。
 私が勤務する会社が、ある時期、民営化の嵐の中で世の批判を一斉に浴びたことがありました。その時、会社は新たな経営方針として「町の○○局づくり」を打ち出しました。そこには、「地域を知り、お客様のニーズに応えよう」そんな願いが込められていました。私は微力ながらその一翼を担うことになりました。そして地域に何があるか、また人々がどんな暮らしをしているか取材を続けたのです。土日の休日は子供を乳母車に乗せ、また妻とも一緒になって見知らぬ土地に出かけました。そして人々の人情にふれました。今思うとそれが私の一番の財産どなっています。
 いつしかそうした時代も終わり、家でブラブラしていると妻はたまりかねて城山町の広報誌を持って来ました。「「城山ホタル研究会」の募集をしているよ」と云うのです。

平成16年6月
保全が決まったウラジロガシ
平成元年5月のことでした。それからホタルと共にひたすらの17年間が始まりました。取材では「相模原市の下水道の話」の中で、偶然か、道保川のホタルのことを書いていましが、まさか自分がやるとは思ってもいませんでした。川の草刈、ゴミ拾い、ホタルの案内等々多岐にわたりました。
 そうしたことをやっていると、不思議なもので今度はいろいろな情報が寄せられるようになってきました。平成15年秋のことです。「圏央道の建設計画道に大きな木がある。」という情報です。ブヨに刺されながら道路からほんの少し入り込んだ森の中にもの凄い大きな木を見たのです。私は霊気のようなモノを感じ「伐るとこれは大変なことに
なりそう」と直感しました。そして、この木を残すためにあらゆる手立てを考え始めたのです。多くの皆さんに知って戴くにはどうしたらよいか、そして保存していくにはどのようにしたらよいか真剣に悩みました。
 私は幸い通信に関わる仕事をしていましたので、いつかはインターネットを始めて見ようとも思っていました。今までの経緯から材料はありましたがHPの作り方が如何せん分りません。乳母車に乗っていた息子もいつしか大きくなり、今度は息子に頭を下げて教わることにしました。年のセイカ直ぐに忘れてしまい、何度も教わりながら、何度も怒られながらHPを立ち上げました。
 そして同僚や城山ホタル研究会のメンバー、屋根のない博物館の支援者など多くの皆様のお世話になりながら、どうにかここまで辿りつけたのです。これから先いろんなことがまた起きるかも知れません、とにかく、HPを楽しみながら、母なる大地、母なる城山を紹介してゆきたいと考えています。
 このHPは「ふるさとのホームページ」そんなふうに感じて戴けるととてもうれしいです。
 「お帰りなさい城山」と・・・・・・    
                   平成17年9月17日 屋根のない博物館 

屋根のない博物館の語源について
 昭和の末、バブルの時代が到来し、各地に建設ラッシュが続いたがバブルの時代はそう長くは続かなかった。博物館、文学館、リゾート地、音楽ホールなど経営に行きづまり一部で閑古鳥が鳴くと云うような新聞報道も出た。平成5年秋、神奈川県は山なみ五湖補助事業と云う名目で町に補助金が下りることになった。以前から町では「ほたるの里」づくりをすすめていたため、その中核となる研究施設の建設も視野に入れていた。県と町の考え方が合致していたことから計画は更に前進して行った。施設の名称や運営方式について検討委員会が設けられも施設建設の請願をしていた関係上、検討委員に選ばれた。私は、バブルが崩壊後、各地で弊害が発生していることから、その運用方法は当時創生期でもあっ

平成16年6月  ほたる案内所の館内
たエコミュージアム方式が良いのではと山形県朝日町を例に出しながら検討委員会に問いかけた。言葉がまだ新しかったのか理解されなくその後の進展はまったく見られなかった。私は早速そのことを友人に説明したところ先進地の朝日町へ直行、空気神社、ミツバチローソクや浮島などを訪ね、また役場からは貴重な資料までも取り寄せてくれた。その後も会合は行われたがエコミュージアム構想は最後まで実現しなかった。私は、こうした博物館運営は無理かなと感じ、エコミ
ュージアムの名前そのものの定着性をも考え別の名称「屋根のない博物館」を考え新たな行動を開始することにしたのである。母体となった「城山ホタル研究会」の活動そのものが元々野外であったことと、会の目的が「自然と人間が会話できる自然コミニオンエリアの構築」という大きな目標とも連動、当初は会員を中心にしながら急速に進展していった。また運営面では、行事に参加するひとり一人が学芸員であると云う認識にたち、自らが主体的に行動参画できるよう学芸員制度を取り入れたのである。
 その後、エコミュージアムは町長選の選挙公約にもなり、町でも本格的に取り組みを始めたのである。城山町の将来について現在いろいろなかたちで検討がなされているが、「屋根のない博物館」では今後も豊富な自然遺産や文化遺産を観(み)、ご紹介して行きたいと考えている。
 楽しみながらみんなで行動しましょう。   (研究施設とは現在の「城山自然の家」) 
                              
平成17年10月5日 追加

 平成20年に想う  〜屋根のない博物館運動のススメ〜

 昨年暮れから正月にかけて、ちょっと気になる新聞記事を見つけました。ひとつは読売新聞12月28日付の夕刊です。第二次世界大戦中、日本で収容所生活を強いられたイタリア人一家の記録です。
 父フォスコさんは戦前の1938年、北海道でアイヌ文化を研究するために、妻と2人の娘を伴って日本に来られました。その後一家は京都に移り、やがて1942年12月太平洋戦争を迎えます。その後イタリアは南北に分断され、フォスコさんはファシストを嫌ったことから「収容所送り」となってしまいました。軟禁生活が1年を過ぎたころ、事件が起こります。空腹の続いていたフォスコさんが、食料を要求すると看守から「おまえらイタリア人は臆病者ばかりだ。戦争が終わったら殺してやる」とののしられました。これを聞いたフォスコさんは、意を決したかのように近くにあった手おのをつかみ、勢いよく振り下ろして左手の小指を切り落としました。
  同じ1938年、江馬三枝子さんは「飛騨の女たち」と云う本を出版しました。はしがきには、こんなことが書いてありました。「(前略)このやうに飛騨は信濃や甲斐と同じく、山村の国、農村の国なのである。決して他国と異なった特殊な民族が住んでゐるのでもなければ、特殊異様な生活をしてゐるわけでも無い。この事は女にしたっても同様である。この貼を読者はまづしっかりと頭に留めて頂きたい。(後略)」こう彼女は宣言し飛騨の文化を紹介しました。
 上記、二つの文章は雑駁で分かりにくいかと思いますが、国や地域を外側からまたは内側から見た場合に起こり得る現象(内容)かと思います。どこかふたつは非常に良く似ています。
 地域に根ざした活動は、恐らく今後も続くことでしょう。自重自戒の意味を込めて、あえてご掲載をさせて戴きました。
 同じく読売新聞元旦以降「思い出のちから」と云う非常に興味深い企画が始まりました。私はかつて「一人暮らしをされているお年寄りの皆さんに地域のお話をして欲しい」との要請があり講演の依頼を受けたことがありました。当日はいろいろなことを考えて会場に行きました。少しは知っている人もいましたが、ほとんどが知らない人でした。この日は地域の歴史をスライドを使ってお話をさせて戴きました。最初はみんな行儀良く静かに聞いて下さいましたが、その内に一人のおばあさんが突然、隣の人と話を始めたのです。私は最初「ちょっと静かにしてもらえないかな」と思いましたが、その内に「ああ、これでいいんだ」と思うようになりました。おばあさんはとても嬉しかったのです。今思うとそれが「思い出のちから」だったかも知れません。 
 私にもちゃんと古里があります。きまって浮んで来るのは母や父、それに裏の林です。その林は昔の堤防の跡でクヌギが生えてありました。毎年夏になると町から大勢の人たちがカブトムシやクワガタやブンブンを取りにやって来ました。「水ーっ」とか「便所かしてーっ」とか兎に角、大勢の人が家に来ました。

  お父さんが描いた我が家の裏  昭和33年頃
井戸水なので何回も汲み上げてから飲みました。みんなうれしそうだった。母は余った野菜を人にあげたりもしていました。うでたトウモロコシもあれば一緒に食べました。それが我が家の定番の夏です。堤防跡の脇の小川にもホタルが飛んでいました。そう沢山はいませんがホワーホワーと飛んでいました。その川にはイモリもいました。冬にはその小川の窪みに木や落葉を集めてバラック小屋も建てて遊びました。秋になるとドングリで人形を作り近所のオバサンにあげたり自分も飾りました。そ
う云えばそのオバサンの結婚式の時には道子ちゃんと雌蝶、雄蝶になって祝いのお酒を注ぎまわりました。学校から帰ると田んぼにいる父や母にお茶を持って行きました。うどん粉にふくらまし粉を入れてウスヤキも作りました。納屋から百目柿のジュクシも出して持って行きました。収穫を終えた田んぼにはところどころに穴の開いているところがあります。そこを棒で掘るとツボが出てきました。泥を出してから味噌汁に入れて食べました。「西山ホーベッタ、トンデッチモー」なんて云いながら食べました。7人兄弟だったのでそれは賑やかでした。葬式饅頭や結婚式の饅頭も人数分ちゃんと包丁で切って食べました。・・・・何だか次から次に出てきます。これも「思い出のちから」でしょうか。
 屋根のない博物館を始めさせて戴く本当の力はこうした身近な「思い出のちから」なのかも知れません。屋根のない博物館はエコミュージアムの思想を普及させるための名前に違いありませんが、別に肩肘はらず「思い出のちから」とすれば良いのかも知れません。これから先、屋根のない博物館ではそんな「思い出話」がたくさん出来るよう、ささやかでもいい楽しいことが続けられたらと思います。
 どうか2008年が平穏でありますように・・・・・・
                      平成20年1月6日
    
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