富岡鉄斎・謙蔵父子の歩み(年譜) kenzou
作成開始 2019・2・12

はじめに
 國學院大学博物館の展示ケースの中に鐡齋(以後鉄斎)筆による「半円方形ダ(トカゲ)龍鏡」が展示されていたことから、「どうして、それが國學院大学まで持ち運ばれたものか」と、そこに至る迄の経路が知りたくなり、少しまとめようと思いました。
 その手懸りとして、先ず富岡父子の歩みを載せ、次に邪馬台国論争北九州、近畿説発生までを少しまとめようと思っています。
 國學院大学には、尊敬してやまない大場磐雄先生や樋口清之先生のおられた時代があり、何か関連のありそうな、そんな淡い気持ちも抱いています。私が先ず驚いてしまったのは、鉄斎は水墨画家だけではなかったこと、次にその子謙蔵が古鏡についての本格的な研究家であったことです。先ずはそんなところからのスタートになりますが、夢は伝来した文化の道というか、うねりのようなものを感じています。
           下記の年譜は小高根太郎編「富岡鉄斎年譜」を基調とし、富岡謙蔵・蓮月尼の関連について加筆しました。 保坂
西暦 和年号 鐡齋 謙蔵  出 来 事
1836 天保7年 12月19日、京都法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として生まれる。
1837 8 1
1838 9 2 〇この頃の蓮月、香川景樹に入門し、和歌を学ぶ。
1839 10 3
1840 11 4
1841 12 5 〇この頃、山本園に句読を学ぶ  :クサカンムリ+味 変換不能
1842 13 6
1843 14 7
1844 弘化元年 8
1845 2 9
1846 3 10
1847 4 11
1848 嘉永元年 12
1849 2 13
1850 3 14 〇この頃、大国隆正に国学を、岩垣月洲に漢学を学ぶ。また、この頃、大田垣蓮月尼の学僕となる。
1851 4 15
1852 5 16
1853 6 17
1854 安政元年 18 〇この年、窪田雪鷹に絵の手ほどきを受ける。大角南耕にも学び、また小田海仙に南画を、宇喜田一宸ノ大和絵の画法を問う。
1855 2 19
1856 3 20 〇この頃、蓮月と共に北白川の雲居山心性寺に住む。また、春日潜庵に陽明学を学び、梅田雲浜にも学ぶ。
5月25日、鉄斎の父、維叙死去(53歳)
1857 4 21
1858 5 22
2月15日、分家。安政大獄起り。梅田雲浜、頼三樹三郎(らい みきさぶろう)、宇喜田一宦A春日潜庵ら、先輩友人の多くが捕らえられる。
1859 6 23 〇この年、天台の学僧羅溪慈本に詩文を学ぶ。この頃、裕軒と号す。越前、若狭、丹後を約半年間周遊する。
1860 万延元年 24
1861 文久元年 25
〇この年、長崎に旅行し、数カ月滞在する。小曽根乾堂、木下逸雲、祖門鉄翁らと交わる。また清人とも接触する。蓮月、この時の遊学に際し、和歌と学資を与える。
1862 2 26 〇この年、聖護院村の蓮月旧居に私塾を開く。山中静逸、板倉槐堂、江馬天江、藤本鉄石、松本奎堂、平野国臣らと交わる。
1863 3 27
1864 元治元年 28 〇この年、「叡山雪景図 絹本淡彩 清荒神清澄寺蔵・烟霞幽情図 紙本淡彩 清荒神清澄寺蔵・」を描く。
1865 慶応元年 29 〇この年、蓮月、神光院茶所に移る。
1866 2 30 〇この年、鉄斎「煎茶図 大田垣蓮月歌賛」、「藤娘図 大田垣蓮月歌賛」、「狸図 大田垣蓮月歌賛」を描く。
1867 3 31
2月3日、画家中島華陽の女、タツ(19)と結婚。
〇この頃、岩谷迂堂、小野湖山やまた薩摩藩士の岩下左次衛門(方平)、八田知紀らとの往来が繁くなる。
7月、野川へ移居する。
10月、大政奉還に際し、板倉槐堂、小野湖山、神山鳳陽、江馬天江、頼支峰、岩谷迂堂らと会して国事を議す。
〇この年、鉄斎が「奴図 大田垣蓮月歌賛」、「花卉図 (二曲一隻)」、「大津絵図」、「松雪図 大田垣蓮月歌賛」、「菖蒲図 大田垣蓮月歌賛」を描く。 
1868 明治元年
(9・8改元)
32 〇この年(慶応年)、「人勝図 大田垣蓮月歌賛」を描く。
8月、長女秋生まれる。
11月〜12月、大坂より紀州に遊び、那智滝を見て、紀州奥地を経て帰る。
1869 2 33
2月、御幸町姉小路上るに転居する。
3月、明治天皇の東京行幸に供奉するがその東京滞在中に妻タツが急死し、急いで帰る。
8月、河内金剛山に楠公旧跡を捜査する。『称呼私弁』を出版する。
(〇この年)、西園寺公望の開いた立命館(現在の立命館大学)に板倉槐堂、江馬天江、神山鳳陽、山本章夫、松本龍らろ共に教員となる。
〇この年、鉄斎が「花瓶図 大田垣蓮月歌賛」、「松図 大田垣蓮月歌賛」を描く。
〇この年、「越渓観楓図 紙本着色 清荒神清澄寺蔵・花卉図 紙本墨画 清荒神清澄寺蔵・」を描く。 
1870 3 34 〇この年、蓮月、鉄斎合作扇面画帖を描く。
〇この年、蓮月、歌集「海人の刈藻」(鉄斎上梓・近藤芳樹序)を刊行する。また、鉄斎が「蓮月庵集」の出版を計る。
1871 4 35 〇この年、「桜花図 大田垣蓮月歌賛」を描く。
4月、大和畝山の神武天皇陵を参拝する。
5月、大坂より紀州王台山に赴き、十津川庄に天誅組の墓を弔う。
10月、大坂、奈良に遊ぶ。
11月、法隆寺、志貴山、河内天野山に楠公遺物を探る。
1872 5 36 1月、敦賀に武田耕雲斎の墓を弔う。
2月、美作庄に児島高徳の遺跡を探る。
3月、愛媛県浮穴郡豊田村佐々木禎三の三女ハル(26)と結婚。
5月、大阪より汽船で鹿児島に行き、高千穂峰、霧島山に登山。
7月、汽船で帰る。
10月、東三本木南町の頼山陽旧居山紫水明処に移居。
1873 6 37 2月17日、謙蔵、京都市上京区東三本木、頼山陽「山紫水明処」、春子との間に生まれる。
3月、所蔵していた『日本国地図地誌』数百冊を太政官に献納する。
5月、東京在任中に官命があり帰京する。
6月15日、湊川神社権禰宜に任ぜられるがその地位に不満のため就任の意志なく辞表を提出する。
7月25日、本官兼職を依願免職となる。
〇この年、「野遊賞月面 大田垣蓮月歌賛 (扇面)」を描く。
1874 7 38 1
1月、先年の『日本国地図地誌』献納に対し太政官より褒賞を受ける。
1月、美濃に、3月、徳島に遊ぶ。
6月20日より10月6日までの間、大阪より海路を東京へ、らに航路により北上、松島を訪れた後、箱根に着き室蘭、札幌、小樽の各地を巡遊し、帰路は青森より陸路を南下、中尊寺を見、仙台の林子平の墓を弔い、会津より日光へ入り東照宮、中禅寺湖、華厳滝を訪れ、古河の熊沢蕃山(ばんざん・陽明学)の墓を弔った後東京に戻り、そこから海路で神戸に着き帰京する。 
                        
「北遊日記」本田成之著「富岡鉄斎と南画」に日記の全文が掲載
11月、江州長浜に遊ぶ。
12月、上京区亀屋町に移転する。
1875 8 39 2
2月、岡山県に遊ぶ。  閑谷学校に立ち寄ったか検討要。
4月、奈良博覧会を見学し、吉野に遊ぶ。
6月26日より1ヶ月間信州浪合村尹良(ただよし)親王旧跡を弔い、飯田より甲府に行き吉田口から富士登山する。須走口に下山し山麓周遊後、甲府に戻り大井川(富士川か)を下って吉原より鎌倉にはいり護良親王旧跡を弔い東京に出て海路帰京。
12月10日夕刻、大田垣蓮月尼で亡くなる。(85才)
    
遺言に、『無用の者が消えゆくのみ、他を煩わすな、富岡だけに知らせてほしい』と 墓所 西加茂鎮守庵町小谷墓地。鉄斎の文字で「大田垣蓮月墓」とある。
〇この年、「菊花図 大田垣蓮月歌賛」を描く。
参考 時期不明 「秋草図大田垣蓮月歌賛」描く。 注 慶応元年〜明治7年頃 鉄斎生誕180年記念 鉄斎と蓮月ー歌をよみ、土をひねるー」展より
1876 9 40 3 1月末〜3月初め
5月3日、大和石上神社少宮司に任命される。
5月、讃岐白峰崇徳天皇陵を拝する。
6月、石上神社に単身赴任し布留村に住む。
7月、大和の歴代天皇陵を巡拝する。
10月、堺県の命により大和諸陵を調査する。
11月、吉野紀州奥地を探る。
12月27日、泉州大鳥神社大宮司を任命される。
〇この年、「漁楽図」を描く。 紙本淡彩 清荒神清澄寺蔵
1877 10 41 4 1月、大鳥神社に赴任、はじめ堺の祥雲寺に独居したが、しばらくして春子と謙蔵を呼ぶ。
3月、鉄斎が「大田垣蓮月像」を描く。 





5月、和歌山県下の蟻通、日前(ひのくま)、竈山諸社参拝し、高野山より丹生川村に至り長慶天皇稜を拝する。
7月17日、正七位に叙せられる。
7月、淡路岩屋大神宮、大和多神社を参拝する。
12月、神官制度改正により大鳥神社宮司に任命される。
1878 11 42 5 1月5日、河内雁屋村小楠公(しょうなんこう・楠正行)墓落成式に祭主をつとめる。
5月14日、河内水分神社楠公五百五十年祭に出席し、楠公誕生の碑を揮毫する。
1879 12 43 6 6月、親友板倉槐堂が死ぬ。(58歳 江馬天江は弟) 
8月、大和気吹雷響雷社、吉野大国栖御魂神社再建を計る。
9月20日、兼補権少教正。
1880 13 44 7 〇13年〜17年にかけ楊守敬が日本に滞在する。
1881 14 45 8 10月16日、伯父の伝兵衛が敬憲(たかのり)が逝去したため。
11月7日、大鳥神社に辞表を提出帰京、一時、三条白川橋北加賀邸西に仮寓する。
12月25日、上京区室町通一条下ル薬屋にあった小川為美所有の家屋及び地所を購入する。
1882 15 46 9 3月5日、薬屋町へ転居し、以後40年住み続ける。
5月16日、大和加奈留美命神社の落成に際し、正遷宮祭式をつとめる。
1883 16 47 10
1884 17 48 11 謙蔵、「平安義黌(ぎこう)」に入学するが、翌年に終業、平安義黌の教授であった伊藤介夫(かいふ)から漢学を学ぶ。
介夫は蔵書家としても知られ、かつ幕末に特使派遣の通訳として清へ渡航経験を持つ介夫に学んだことが、謙蔵の中国趣味形成の一因となったことは確かであろう。 「富岡謙蔵生誕140年記念 鉄斎と謙蔵」資料より 
〇この年、「群盲評古図」を描く。 紙本着色 足立美術館蔵
1885 18 49 12
1886 19 50 13 7月、笠置山に遊ぶ。詩仙堂住尼石川房尾の後見人となる。
8月、幸野楳嶺主催の京都青年会画研究会展覧会品評員となる。
1887 20 51 14 4月、但馬城崎郡の玄武洞を探る。
8月、越前坂井郡称念寺に新田義貞の墓を弔う。
10月12日、大湊広隆寺の牛祭を復活させる。
1888 21 52 15 2月、車折神社の祠掌(しゃしょう)となる。
1889 22 53 16
2月、土佐に遊び、国府跡を探る。
4月初めまで松山三津浜の近藤家に滞在する。
8月初め〜11月初めまでの間、江州筑摩神社に参拝、三河大浜村石川家に滞在、新波佗神社参拝、石川丈山邸跡を訪れた後、遠州井伊谷宮に宗良親王を弔し、鎌倉、金沢文庫を巡遊して東京に出、宇都宮に蒲生君平の子孫を訪れ、日光から足利学校をまわる。
1890 23 54 17
4月〜7月、富岡父子が東京甲府方面を巡る旅を行なう。謙蔵「甲州旅行記」を著す。(24・6×16・5・紙本墨書・鉄斎校閲)
参考 明治23年の旅では同年4月に京を経つと6月まで東京へ滞在し、八王子駅まで鉄道を利用し、八王子から甲府まで馬車・徒歩で旅し、天目山や景徳院など武田家ゆかりの地を訪れた[3]。さらに再び酒折宮を参拝すると、6月14日に甲府柳町の野口家に到着している。山梨県滞在中は恵林寺や昇仙峡など史跡・名勝を訪れている[3]。
 山梨県立美術館編 『大木コレクションの名品』、1992年、110-111頁  
『ウィキペディア(Wikipedia)』より転写
〇この時、鉄斎「古うつの蔦の細道図」を描く。31.0×324.4 紙本淡彩)
〇この年、「白衣観音図」を描く。 紙本淡彩
1891 24 55 18 5月、摂津多田村の紺青山を探り『絵画叢誌』第51巻に「紺青山」を発表する。
6月、京都私立日本青年絵画共進会審査顧問となる。
10月28日、名古屋古絵画展観会開設のため名古屋滞在中に大地震に遭い、伊勢路より帰京する。
    濃尾地震(のうびじしん)は、1891年(明治24年)10月28日に濃尾地方で発生した、日本史上最大の内陸地殻内地震 『ウィキペディア(Wikipedia)』より転写
1892 25 56 19
3月、京都市美術工芸品展審査顧問となる。京都美術協会評議員となる。『京都美術協会雑誌』第1号に「シュウ之話」、第2号に「古牛祭図解」、第5号に「吉野草紙ノ一節」、第6号に「陶工木米画像并逸事」を発表する。
〇この年、謙蔵、英語を不敬事件の後一時期京都に住んでいた内村鑑三に学ぶ。
〇この年、「寵居士図」を描く。 紙本淡彩
1893 26 57 20 2月、京都市美術学校商議員となる。
4月、京都市新古工芸品出品鑑別員となる。
5月、名古屋長福寺の古書を見て、陳元の墓を弔う。
6月、富岡謙校訂「夏野の露・上田秋成室遺草」 を刊行する。pid/888925 注 校訂者名に謙三とあり  閲覧可能
9月、車折神社祠掌を辞す。
10月、『京都美術協会雑誌』第14号に「印金堂」を発表する。
1894 27 58 21
4月、京都市工芸品展審査員、絵画部審査部長となる。
5月、名古屋に遊び、遠州可睡斎を訪れ、興津清見寺より富士山を遠望する。
5月、京都美術協会評議員に再選される。
7月、泉州浜寺に避暑。
9月、東大寺尊勝院経庫の古写経を調査する。『京都美術協会雑誌』第20号に「菱形絵表装話」、第25号に「掛軸表装之事」を発表する。
〇この年、「天窟神楽図」を描く。 絹本着色
1895 28 59 22 2月、月ヶ瀬に遊ぶ。(現奈良市・梅の名所近くに笠置山)
4月、第四回内国勧業博覧会審査官となり第二部に勤務する。
4月24日、母絹死ぬ(85歳)。
6月、伊賀上野に遊び兼好塚を弔う。
10月、日本青年絵画共進会協議員となる。
1896 29 60 23 3月、新古美術品展絵画部審査員となる。
12月、京都の南画家たちと日本南画協会が設立される。
1897 30 61 24 10月末まで、謙蔵東京に遊学する。帰京後、直ちに同志社尋常中学校国語科教員となる。
11月、日本南画協会商議員となり、第一回大会に《役小角像》、《帝釈天像》を出品する。
12月7日、京都府八幡町東車塚古墳から「半円方形ダ龍鏡」が出土する。

國學院大学蔵 半円方形ダ龍鏡 面径21.5p 富岡鐡齋書






































































1898 31 62 25 4月、日本南画協会第二回大会に《老狸鼓腹図》を出品する。
4月、伊賀上野に遊ぶ。
5月、江州筑摩神祭を見て後、奈良に遊ぶ。
6月、吉野に遊ぶ。
9月、天橋立、大江山、生野銀山を訪れる。
10月、後素青年会第二総会審査長代となる。
11月、日本南画協会第三回大会に《万壑松風図》《太秦牛祭図》を出品する。
〇この年、謙蔵、同志社女学校専門科教員となり、この頃、生涯の伴侶となる中野とし子と出会う。
1899 32 63 26 4月、日本南画協会第四回大会に《武稜桃源図》を出品する。久邇宮のため、《瀛州僊境図》《群僊祝寿図》を製作する。
10月、日本南画協会第五回大会に《鄭所南施餌図》《芭蕉行脚図》を出品する。
10月、鉄斎、『骨董協会雑誌』第3号に「支那に於ける文身」を発表する。
12月、京都帝国大学附属図書館が開設される。
1900 33 64 27
4月、日本南画協会第六回大会に《芝仙竹寿図 》を出品する。
7月、謙蔵、中野とし子と足かけ3年のすえ結婚する。
   
父鉄斎は結婚を祝し「双寿搗餅図」を描き、父の友人谷鉄臣(たにてつおみ)が賛を寄せる。
10月、山中、山代、福井、金沢に遊ぶ。
10月、日本南画協会第七回大会に《春江魚楽図 》、《空谷伝芳図 》を出品する。
1901 34 65 28
4月、日本南画協会第八回大会に《十六羅漢図 》を出品する。
9月、清水、瀬戸に遊ぶ。
10月、日本南画協会第九回大会に《茂林幽栖図 》を出品する。妙覚寺の狩野家代々の墓を修理する。
  『南宋画志』第二号に「人物画十八描法説」を発表する。
1902 35 66 29
4月、日本南画協会第十回大会に《朱画鍾馗図 》を出品する。
10月、日本南画協会第十一回大会に《高士観瀑図》を出品する。
  『南宋画志』第四号に「牧渓の事」、第五号に「如拙画瓢鮎図の事」を発表する。
1903 36 67 30
1月、後素如雲社展に《蓬莱山図 》を出品する。
10月初めより11月末にかけ、鉄斎、信州浪合村での尹良親王殉職記念碑建碑式に出席、諏訪、長野に遊び姨捨山の月を賞し、妙義山に登ったのち、東京へ出、成田、香取、大洗磯、勿来、仙台、松島、日光を巡遊して帰途、三河赤坂長楽寺に大江定基(円通大師)の旧跡を訪れる。
10月、日本南画協会第十三回大会に《福禄寿図》を出品する。
〇この年、謙蔵、京都帝国大学附属図書館和漢目録の編纂を嘱託される。
1904 37 68 31
1月、後素如雲社展に《雲龍図 》を出品する。
2月、謙蔵、京都帝国大学附属図書館の任を解かれる。
3月、鉄斎、京都市美術工芸学校教員を辞職する。
4月、日本南画協会第十四回大会に《日蔵収道図》を出品する。
5月、謙蔵、浄土宗第五教区宋学教授国語科教員となり39年3月まで務める。
6月、鉄斎、賀陽宮のため、六仙一双屏風《蓬莱僊境図》《武稜桃源図》を製作する。
11月、鉄斎、小豆島寒霞渓に遊ぶ。
    『南宋画志』第8号に「十六羅漢談」、第9号に「画史登岳」を発表する。
1905 38 69 32 1月、後素如雲社展に《福禄寿図》を出品する。
8月、謙三、「禅宗. (125) 」に「研鑽餘筆」を発表する。
p40〜42 pid/11006113 注 目次欄が謙三とあり
   『画林』第10号に「画論」を発表する。
〇この年、「富士遠望図・寒霞渓図」を描く。 
紙本着色 六曲
1906 39 70 33 4月、和歌山県下に遊ぶ。
6月、養楽会主催で個展を開く。
11月、鉄斎、洛北北白川村に「白幽子(はくゆうし)巌居之蹟」の石碑を建立する。
1907 40 71 34 6月、鉄斎、丹波瑠璃渓に遊ぶ。
9月、明治天皇より揮毫を命じられる。
9月17日、富岡益太郎(鉄斎の孫・謙蔵の子)が、京都市上京区に生まれる。
  後、益太郎も健康上の理由から中学校を中退し、源豊宗、梅原末治に美術史を、本田陰軒に漢文を学ぶ。
1908 41 72 35 6月、《神僊高会図》《安倍仲麻呂於明州與諸名士留別会図》を明治天皇に献上する。
9月1日、謙蔵、京都帝国大学文科大学講師を嘱託、中国金石学と宋代史の講義を受け持つ。
内藤湖南(こなん)・狩野君山(かのくんざん)らとともに東洋史学分野における京都学派の発展の一翼を担う。
10月、妙覚寺で狩野元信追善供養を行う。
〇この年の前後、「夏景山水図」を描く。 紙本淡彩
1909 42 73 36 2月〜4月、鉄斎、胃潰瘍で療養。
1910 43 74 37
〇この年、発見まもない敦煌文書の調査のため京都帝大より狩野直喜・内藤湖南・小川琢治・富岡謙蔵・濱田耕作らと北京へ赴く。
       第1回目の中国調査  出典「遊清日記」No64
5月、「芸文  1(2 )」に「院画の源流 」を発表する。 pid/3547506  注 目次欄が謙三。本文では「宋畫の源流」とあり
   また同号に内藤虎次カ(湖南)が「卑彌呼考」を発表する。 p59〜73   
未確認 月、「芸文1()」内藤虎次カ(湖南)が「卑彌呼考」を発表する。 
未確認 〇月、「芸文1()」
内藤虎次カ(湖南)が「卑彌呼考」を発表する。
12月、「芸文  1(9 )」に「院画の源流 」を発表する。 pid/3547513 No未確認 
1911 44 75 38 2月、「考古学雑誌1(6)」に「彙報 富岡謙藏氏の北京みやげ」が掲載される。pid/3548152
4月〜5月、南清に派遣され、蘇州、杭州、金陵、京口各地で学術調査を行う。
       第2回目の中国調査 注 京都大学文学部五十年史では調査内容確認できず 「富岡謙蔵生誕140年記念 鉄斎と謙蔵」資料より
5月、「芸文 2(5) 」に「C朝第一の美人画家改七□(しちきょう)に就いて」を発表する。 pid/3547518
6月、「禅宗18(6)(195)」に「富岡謙藏氏の歸朝 p48〜48」が掲載される。pid/11006168 調査要 2019・2・23 保坂
  
   また、同号の附録欄に「向嶽寺派幹事」の名称を記す。   
10月15日、玄奘訳「大唐西域記」が大日本図書から刊行される。京都帝国大学文科大学叢書第壹 pid/767226 閲覧可能
参考 P17より/此書ノ校訂ハ明治四十二年ニ始マリシモ、異本ノ新タニ発見セラレシニヨリ(シバシバ)稿ヲ易ヘ、其ノ印刷中又活版處ノ火災ニ罹リシ為メ遷延ヲ來シ、今年ニ至リテ纔カニ印行ヲ完フスルコトヲ得タリ、終始一切ノ役ニ従事セシハ本學講師文学士羽田亨氏ニシテ、講師富岡謙蔵氏ハ其ノ覆校ニ任ジタリ。明治四十四年七月  京都帝国大學文科大學
11月、ドイツの美術学者クルト・グラーゼルが鉄斎宅に来訪する。
〇この年、「葛僊移居図」を描く。絹本着色 
1912 大正元年 76 39
〇この年、史学研究会編「史学研究会講演集. 第3冊」に「古姜里城出土亀骨の説明」を発表する。pid/768325
〇この年、内藤湖南、羽田亨(とおる)と奉天(瀋陽)へ派遣され宮城内の古文書の撮影にあたる。
        第3回目の中国調査  出典「富岡謙蔵生誕140年記念 鉄斎と謙蔵」資料より  
〇この年、清朝の亡命者羅振玉と交際する。
〇この年、「会稽清趣」を描く。 
絹本着色 足立美術館蔵
1913 2 77 40 1月、「芸文 4(1) 」に「宣コ□(い)噐圖譜」を発表する。 p138〜141 pid/3547537
4月、岡崎図書館で蘭亭会を開く。大阪の中村梧一、所蔵の鉄斎作品を展観、画集『鉄斎画□』を出版する。
11月、東久邇宮家のため《十六羅漢図》を製作し、堀川瑞光院襖絵《大石山科閑居図》を製作する。
〇この年、「蘭亭修禊図 紙本墨画・」を描く。
1914 3 78 41 5月、西宮の辰馬家滞在中、六曲一双屏風(安倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図)(重文・絹本着色)製作する。
9月、信州飯田の矢高氏のため《五福・蓬莱僊境図》を製作する。
9月、「芸文 5(9) 」に「日本一鑑解題 」を発表する。 pid/3547557 
〇この年、「安楽窩図」を描く。 絹本着色
1915 4 79 42
1月、寿蘇会に《趙子固本蘇東坡像模写》を出品する。
1月9日、楊守敬が77歳をもって没する。
1月、謙蔵、「芸文 6(1)」に「大行皇后並に大行皇太后の稱謂」を発表する。 p118〜121 pid/3547561
  また同号に「喜田貞吉」が「中天皇考」、厨川白村が「歐洲の戰亂と文學」を発表する。
2月6、7日、山本竟山の主唱により楊守敬の追悼会が京都岡崎の府立図書館で行われ、富岡謙蔵が「校勘家トシテノ楊氏ノ功業」について講演を行う。 「書論 26号 特集楊守敬」に杉村邦彦著「楊守敬の来日と日本人書家との交流」より

   ※ 楊守敬追悼会趣意書(草稿)  「書論 26号 特集楊守敬」に杉村邦彦著 「楊守敬の来日と日本人書家との交流」より転写 所蔵 磯野秋渚
4月、謙蔵、「芸文 6(4)」に「新撰姓氏録上表の校語」を発表する。  pid/3547564
5月、久邇宮より八十歳の祝に紋章付羽織を下賜される
8月、伏見宮のため《帝舜耕歴陶河浜図》を製作。
9月、富岡謙藏「典籍. 3号古書保存会」に「倭寇史料督撫經略―附日本一鑑」を発表する。pid/1486690
10月、謙蔵、「芸文 6(10)」に「五行大義」を発表する。 p79〜82 pid/3547570
11月、謙蔵、「芸文6(11)」に「眞本貞觀政要考」を発表する。 pid/3547571
11月、鉄斎、養老杯を下賜される。
1916 5 80 43
1月、丸山の左阿彌楼で寿蘇会を開く。
1月、富岡謙藏「書苑 6巻1号法書会」に「晉陸機書平復帖(原寸)・薩迎阿臨書平復帖及跋文(原寸)」が「京都富岡謙藏君藏」と云う名称で発表される。  pid/2732733
6月、篆刻家桑名鉄城が所蔵の鉄斎作品の画集、『無価宝』を出版する。
10月、「史林 1(4)(4)」に「日本出土の支那古鏡」が発表される。p109〜128
    同号に「口繪 日本出土の支那古鏡」の写真も掲載される。 pid/11005172
10月、鉄斎、翰文斎古書画展で西園寺公望と再会し、旧交をあたためる。
〇この年、如蘭社事務所編「如蘭社話. 後編 巻9」に「大行皇后辨 富岡謙藏」を発表する。  pid/1185082
〇この年、「京都帝国大学夏期講演会科外講演」に於いて「日本出土の支那古鏡」と題し講演する。
〇この年、「支那学会公会講演」に於いて蓄音機を使用した「支那現代第一名怜譚きん培(たんきんばい)」につて講演する。      譚きん培(たんきんばい):中国、清(しん)末の京劇俳優。本名は金福、湖北省江夏の人。1847-1917  
〇この年、「碧桃寿鳥図絹本着色・大江捕魚図絹本淡彩・東京国立博物館蔵」を描く。 
1917 6 81 44
1月、寿蘇会を開く。
1月、「考古学雑誌7(5)(208)」に「論説漢代より六朝に至る年號銘ある古鏡に就いて」を発表する。
                        p243〜252 pid/3548223
2月、「考古学雑誌7(6)(209)」に「論説漢代より六朝に至る年號銘ある古鏡に就いて(第二囘)」を発表する。
                        p333〜344 pid/3548224
   また同号に「彙報 天壽曼陀羅の破片發見 / 奈良電話 / p371〜372 」の記事が掲載される。
3月、考古学雑誌 7(7)(210)「論説 漢代より六朝に至る年號銘ある古鏡に就いて」を発表する。
                       p395〜407 pid/3548225
3月、謙蔵、私的に華中に赴く。
上海では辛亥革命で羅振玉(らしんぎょく)と日本に逃れ京都に仮寓していた王国維(おうこくい)(5年に帰国)と会し、呉昌碩(ごしょうせき)に依頼した鉄斎の印二顆「富岡百錬」「鉄斎外史」と「丁巳春仲 桃花先生属」の識語がある。 《桃花図・聯》(京都国立博物館・富岡コレクション)  「富岡謙蔵生誕140年記念 鉄斎と謙蔵」資料より 
    第4回目の中国調査  出典「 「富岡謙蔵生誕140年記念 鉄斎と謙蔵」
資料より 
6月11日、鉄斎、帝室技芸員に任命される。
12月2日、支那学会第四回公開講演会で所蔵の「景教一神論」(現武田科学新公財団杏雨書屋所蔵)巻三の残巻を披露する。
〇この年、「王元之竹楼記図絹本着色 清荒神清澄寺蔵・掃蕩俗塵図 絹本着色・寄情丘壑図 絹本着色 足立美術館蔵 ・東坡帰院図 紙本着色 清荒神清澄寺蔵・猛虎図 紙本着色 清荒神清澄寺蔵」を描く。 
1918 7 82 45
1月、寿蘇会に《東坡像》を出品する。
1月、「考古学雑誌8(5)(220)」に「論説 王莽時代の鏡鑑と後漢の年號銘ある古鏡に就て」が掲載される。
              p243〜257  pid/3548235
3月、佐藤虎雄が『京都府史蹟名勝天然記念物調査報告13』に「東車塚庭園」を掲載する。pid/1118773 閲覧可能
5月、「考古学雑誌8(9)(224)」に「論説 九州北部に於ける銅劍銅鉾及び彌生式土器と伴出する古鏡の年代に就いて」が掲載される。
             p501〜524 pid/3548239
5月3日、鉄斎83歳、妻春子72歳の祝を左阿彌楼で行う。
9月24日、鉄斎、家学である石門心学(せきもんしんがく)の祖、「石田梅岩百七十五年祭」を行う。
9月末、謙蔵、癌のため病床に着く。
10月、富岡謙藏「絵画清談 .6巻10号 東京美術館」に「王時敏と王□(おうき)」を発表する。  pid/1500148
10月12日、呉歴(ごれき)没後二百年を記念して四王呉ツ(しおうごうん)展の計画あったが、謙蔵の病のため中止される。
〇この年、謙蔵、平安同好会で「金石文字ハ書道ノ基礎ナルコトヲ論ズ」と題して講演する。
〇この年、富岡謙蔵・長尾甲編 長尾槙太郎出版者による「丙辰寿蘇録」が刊行される。 pid/1182406
〇この年「京都帝国大学夏期講演会科外講演」に於いて幻灯機を使用して「清初ノ画家ヲ論ズ」と題し講演する。
12月23日、謙蔵が永眠する。
  鉄斎、とし子に「謙蔵が居らんようになって見ると、わしもまだなかなかもうろくするわけには行かんわい」と語る。
〇この年、「古仏龕図 紙本着色・三老吸酢図 紙本着色・群僊高会図 絹本着色」を描く。 
1919 8 83
2月、「考古学雑誌9(6)(233)」に「彙報 富岡謙藏氏の訃」が掲載される。 pid/3548248
2月、「芸文. 10(2)」に 那波利貞・桑原隲藏・岡崎文夫 が「彙報 京都文科大學講師富岡謙藏氏訃 」を掲載する。pid/3547610
4月、京都文学会編「芸文. 10(4)」に内田銀藏が「富岡謙藏君の學問及性行」を寄稿する。pid/3547612
4月、史学研究会編「史林 4(2)(14)」に「富岡謙藏氏の逝去」のことが掲載される。
    また、同号に小松穀「韓國併合事情(中)」が掲載される。p 107〜122  /pid/11005182
6月、「芸文. 10(6)」に「彙報 故富岡謙藏氏追悼會」のことが掲載される。  pid/3547614
6月21日、丸山公園左阿彌楼に於いて羅振玉氏の送別会が行われる。
 
  大正8年6月21日 丸山公園左阿彌楼庭園にて 記念撮影


7月、「史林 4(3)(15)」に「故富岡謙藏氏追悼會」のことが掲載される。p165〜167  pid/11005183
    また、同号に「大正五年度朝鮮總督府古蹟調査報告」も掲載される。
9月、「考古学雑誌10(1)(240)」に「論説 年號銘ある支那古鏡に就て(補遺) p47〜52」が掲載される。pid/3548255
9月8日、鉄斎、帝国美術院会員に任命される。
〇この年、富岡謙蔵編「四王呉ツ(しおうごうん)」が「博文堂」から刊行される。pid/1014699
題字 羅叔言先生 / 桃華庵圖 富岡鐵齋先生 / 序文 内藤湖南先生 /序文 長尾雨山先生 /四王呉ツ /
山水畫の起源と由來 / 四王呉ツと其時代 / 王時敏と其繪畫 / 王鑑と其繪畫 /王□
(おうき)と其繪畫/王原祁(おうげんき)と其繪畫 /ツ壽平(うんじゅへい)と其繪畫 /結語 四王呉ツ以後の繪畫 /圖版 / 跋 梅原末治君
11月、鉄斎、大徳寺真珠庵にて藤原惺窩三百年祭を行う。
〇この年、富岡謙蔵編、「四王呉ツ」を刊行する。 38.3×26.8 紙本印刷 1冊 博文堂発行  pid/1014699
標題 /目次 /題字 羅叔言先生 /桃華庵圖 富岡鐵齋先生 /
序文 内藤湖南先生 /
序文 長尾雨山先生 /
 四王呉ツ /山水畫の起源と由來 / 王時敏と其繪畫 / 王鑑と其繪畫 /王□(キ)と其繪畫 /王原祁と其繪畫 / 
 呉歴と其繪畫 /ツ壽平と其繪畫 /結語 四王呉ツ以後の繪畫 /
跋 梅原末治君
〇この年、「釈尊出山図 紙本着色・僊縁奇遇図 紙本着色・雲壑霊院図 紙本墨画」を描く。
1920 9 84
〇この年、富岡謙蔵著「古鏡の研究」(出版者富岡益太郎)が刊行される。 pid/980690
一 鑑鏡の起源「藝文」第七年第十一號、大正五年十一月 /
二 日本出土の支那古鏡「史林」第一卷第四號、大正五年十月 /
三 支那古鏡圖説「國華」第廿七編第七册第八冊第十一冊第十二冊、大正六年 /
四 漢代より六朝に至る年號銘ある古鏡に就いて「考古學雜誌」第七卷第五號第六號第七號、大正六年一月三月 /
五 王莽時代の鏡鑑と後漢の年號銘ある古鏡に就いて「考古學雜誌」第八卷第五號、大正六年一月 /
六 年號銘ある支那古鏡に就いて未定稿、「考古學雜誌」第十卷第一號、大正八年九月 /
七 九州北部に於ける銅劍銅鏡及び彌生式土器と伴出する古鏡の年代に就いて「考古學雜誌」第八卷第九號、大正七年五月 /
八 畫象鏡考 未定稿 /
九 蟠ち鏡考 未定稿 /
一〇 九州北部出土の古鏡に就いて 未定稿 /
一一 古鏡の話 「新京都」第八卷第七號第九號、大正七年七月及九月
一二 支那古鏡圖説(補遺) 〓 梗概 /
一三 再び日本出土の支那古鏡に就いて 梗概 /
一四 本邦ぼう製古鏡に就いて 梗概 /
〔附録〕  富岡先生の古鏡研究に就いて・梅原末治 /
4月、聖徳太子御忌千三百年記念美術展に《蘇東坡図》を賛助出品する。
4月、日本歴史地理学会編「歴史地理. 35(4)(247)」に「彙報 【新刊紹介】古鏡の研究(富岡謙藏氏著)」が紹介される。 p376
   また、同号に「彙報 【時事雜爼】大和中宮寺へ國寳天壽國曼茶羅斷片の下賜 /大正日々」も紹介される。 pid/3566496
9月、高野山に《弘法大師像》を奉納する。
〇この年、梅原末治が「久津川古墳研究 」を刊行「山城國八幡町の東車塚古墳」について発表する。 /pid/967528
〇この年、「東坡謁仏印図 紙本淡彩 清荒神清澄寺蔵・富士避俗図 紙本着色・渓居至楽図 紙本淡彩・渓居清適図紙本着色・福禄寿図 紙本着色 清荒神清澄寺蔵・」を描く。
1921 10 85
6月、大阪高島屋呉服店美術部主催で個展を開く。画集『帰心図画』を出版する。親友であった前田正名死ぬ。(78歳)
〇この年、「群僊祝寿図 紙本着色・思バク山居紙本着色・教祖渡海図 紙本淡彩・菖蒲献上図 紙本着色・雲闕石門図 紙本墨画」を描く。  バク:とおい、はるか
1922 11 86 7月、書庫魁星閣落成。
7月31日、正五位に叙す。
9月7日、長尾雨山主催の宇治川で開かれた赤壁雅会に出席する。
10月、画室無量寿仏堂落成。
10月、「内田銀蔵遺稿全集. 第5輯 (内田銀蔵講論集) 同文館」に「富岡謙蔵君の學問及性行」が掲載される。
           末尾に「大正八年三月十六日記」とあり   pid/965921 閲覧可能
11月、大阪高島屋呉服店美術部主催で個展を開く。画集『百東坡』を出版する。 
〇この年、「前赤壁図 紙本淡彩・羅漢図 袱沙絹本着色 清荒神清澄寺蔵・」を描く。
      
1923 12 87
2月、米寿内祝いとして京都市の寄金、貧困者を救う。
8月、摂政宮御成婚を祝って京都市より久邇宮家へ献上の《武稜桃源図》《瀛洲僊境図》の双幅を製作する。
    米寿記念に画帖『貽咲墨戯』を製作する。
    大阪高島屋呉服店美術部主催で個展を開く。画集『米寿墨戯』を出版する。
〇この年、「青龍起雲図 紙本淡彩・貽咲墨戯 紙本着色 画帖・東坡笠屐図 紙本淡彩 扇子・一瓢千金図 紙本淡彩・朱梅図 紙本淡彩・水郷清趣図 紙本淡彩 清荒神清澄寺蔵・扶桑神境図 紙本着色・杏花村荘図 紙本淡彩 清荒神清澄寺蔵・」を描く。
1924 13 88
3月、知恩院に《山輝水媚図》を奉納する。前田正名記念碑画像を製作する。
〇この年の夏頃より九十歳の落款を用いる。
10月、西加茂神光院に蓮月五十回忌を営む。
10月、名古屋いとう呉服店美術部主催の小品展を開く。『紙労墨瘁』を出版する。
12月31日、午後1時頃、鉄斎が死去。
〇この年、富岡謙蔵編「桃華□(とうかあん)古鏡図録」が刊行され、狩野直喜が序文を寄せる。 pid/1014368 閲覧可能
〇この年、「補陀落山観世音菩薩像図 紙本淡彩 清荒神清澄寺蔵・陸羽茶癖図 紙本淡彩・弘法大師在唐遊歴図 紙本淡彩 清荒神清澄寺蔵・富而不騎図 紙本着色 清荒神清澄寺蔵・瀛洲(えいしゅう)僊境図 紙本着色 清荒神清澄寺蔵・」を描く。
1925 14
1926 昭和元年
1927 2 1月、柳亭種彦/富岡謙三が「書物礼讃. (5) 杉田大学堂書店」に「搨好色本目録 」を記述する。 p44〜52 pid/1509703 注 内容の確認要
〇益太郎、この年から同8年まで源豊宗らと共に仏教美術の雑誌『佛教美術』を刊行する。
1928 3
1929 4
1930 5 ・                                                                             
1931 6
1932 7
1933 8
1934 9
1935 10
1936 11
1937 12
1938 13
1939 14 1939 富岡文庫御蔵書入札略目録. 第1回 ヨハネ堂 (印刷者) pid/1870741    第1回昭和13年6月
1939 富岡文庫御蔵書入札略目録. 第2回 ヨハネ堂 (印刷者) pid/1870743    第2回昭和14年3月
1940 15
1941 16
1942 17
1943 18 5月、本田成之著「富岡鉄斎と南画」が「湯川弘文社」から刊行される。  pid/1068918 閲覧可能
11月、吉井勇が「戯曲蓮月」を「大雅堂」から刊行する。初版3000部
1944 19
1945 20
1946 21
1947 22
1948 23
1949 昭和24
1950 25
1951 26
1952 27
1953 28
1954 29
1955 30
1956 31
1957 32
1958 33
1959 34
1960 35
1961 36
1962 37
1963 38
1964 39
1965 40
1966 41
1967 42
1968 43
1969 44
1970 45 〇この年、「東京国立博物館紀要 第六号」に西田守夫著「三角縁神獣鏡の形式系譜諸説」が掲載される。
参考 6月、「日本美術工芸 通巻381号 特集勧進の美術」に難波田徹が「竹生島信仰と絵画」を執筆する。Pid/2281850
1971 46
1972 47
1973 昭和48
1974 昭和49
1975 昭和50 〇この年、富岡益太郎、兵庫県宝塚市に設立された鉄斎美術館の初代館長として、同61年まで在職する。
1976 51
1977 52 9月、網干善教が「國學院雜誌 78(9)(845) (大場磐雄博士追悼考古学特集号)」に「国学院大学蔵「瓦経」片の復原研究 p106〜132」を発表する。 pid/3365491
1978 53
1979 昭和54 4月、網干善教が「國學院雜誌 80(4)(864)」に「国学院大学蔵「瓦経」の復原研究補記 p51〜54」を発表する。 /pid/3365510
1980 昭和55 12月、富岡謙蔵氏が蒐集された十七片の瓦経を益太郎氏より京都博物館に寄贈する。
1981 56
1982 昭和57 1月、安本美典編「季刊 邪馬台国 第十一号」が刊行され張明澄訳「王仲殊論文の全訳 日本の三角縁神獣鏡の問題について」が発表される。
3月、難波田徹が「富岡謙蔵氏蒐集富岡益太郎氏寄贈瓦経十七片(本館蔵)について ー小町恁o恷送ソー」を発表する。 注 (本館蔵)とは「京都国立博物館」
(冒頭の部分)/昭和五十五年十二月に富岡仙蔵氏が蒐集された十七片の瓦経をご子息の益太郎氏より本館に寄贈を受けた。その時点ではこれら十七片の瓦経については出土地が明確でなかったが、瓦経の規格や書風などを比較検討したところ、いわゆる小町塚瓦経の可能性が強く、ここにその経緯を報告して大方の御教示を仰ぐこととしたい。 
1983 58
1984 59
1985 60
1986 61
1987 62
1988 63
1989 昭和64
1990 平成2 9月、「書論 26号 特集楊守敬」に杉村邦彦が「楊守敬の来日と日本人書家との交流」を発表する。
1991 3 5月20日、富岡益太郎、肺炎のため京都市北区の自宅で死去。享年83歳。
1992 4
1993 5
1994 6 3月、「国立歴史民俗博物館研究報告 第56集 共同研究「日本出土鏡データ集成」 2」に東車塚古墳出土の4枚の古鏡が掲載されるが、No155 ダ龍鏡について、備考欄に「現物なし」と表記される。
1995 7
1996 8
1997 9 3月5日付、読売新聞夕刊に、新保祐司が「富岡鉄斎 ー墓を尋ねて 忘れ去られた「義」の画風」を寄稿する。
1998 10
1999 11 11月、「月刊しにか 10(12)(117)」に成家徹郎が「日本人の甲骨研究-先駆者・富岡謙蔵と林泰輔」を寄稿する。pid/4426031
2000 12
2001 13
2002 14
2003 15 3月、「國學院大學考古学資料館紀要 / 國學院大學考古学資料館研究室 編 19号」に村松 洋介が「八幡東車塚古墳出土 三角縁〔ダ〕龍鏡 P195〜204」を寄稿する。  請求記号Z8-2452  国立国会図書館書誌ID6593004
2004 16
2005 17
2006 18
2007 19
2008 20
2009 21
2010 22
2011 23
2012 24
2013 25
2014 26
2015 27
2016 28
2017 29
2018 30

確認要
梅原末治『桃陰廬和漢古鑑圖録』(1925)。
後藤守一『漢式鏡』(1926)。
佐藤虎雄「東車塚庭園」(『京都府史蹟名勝天然記念物調査報告』13、1932)3月30日。
後藤守一『古鏡聚英』上篇(1935)。
京大文学部『京都大学文学部考古学資料目録』2(1968)。
文学部考古学資料室『南山城の前方後円墳』(1972)
田中琢ほか「鐸剣鏡」(『日本原始美術大系』4、1977)。
樋口隆康『古鏡』(1979)
『日本考古学年報』30(1979)
京都府立山城郷土資料館・京都府立丹後郷土資料館『鏡と古墳-景初四年鏡と芝ヶ原古墳』(1987)
中塚良「山城盆地における古墳立地の検討」(『向日市埋蔵文化財調査報告書』23、1988)。
龍谷大学『前方後円墳集成』(和田晴吾、1992)。
歴博報56(1994)。



城山考古学探訪
さがみ縦貫道建設に伴う発掘調査 

八幡市誌 第一巻 発行 八幡市 昭和61年1月
「書論 26号 特集楊守敬」、杉村邦彦著「楊守敬の来日と日本人書家との交流」 発行者 書論研究会 1990・9・18
現代日本美術全集1 富岡鉄斎 集英社 発行1973年11月20日 初版第2刷
小林秀雄全集 第10巻 ゴッホ 新潮社 発行 所収 鐡齋T・鐡齋U・鐡齋V・鐡齋W
  全集10巻に挟まれた「月報第2号」から武者小路実篤著「小林君と鉄斎」
資料 富岡謙蔵生誕一四〇年記念鉄斎と謙蔵 鉄斎美術館 平成25年3月
   梅溪昇著「羅振玉と日本との関係序説 −羅継祖輯述『永豊郷人行年録』を読む−

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