穀倉の知恵
                        追加 2011・5・3 町田市上大戸地区の穀倉
                       追加 2012・5・22 相模原市相原・森下地区の穀倉
                       追加 2014・1・20 旧城山町谷ヶ原地区の穀倉
 一年間大切に育てた、穀物をネズミ、火災等から守るため母屋から離れた場所に穀倉を作りました。
火災や品質の低下を防ぐために倉の周りには木も植えられました。そして倉には「大口真神」の御札も張られかっての穀霊信仰を垣間見ることもできます。穀倉は時代と共に使われなく何時しか数も少なくなりましたが、長い間培われてきた農家の「知恵の結晶」というべき文化遺産です。

   珍しい倉の出し入れ方法
   倉の構造はネズミが入らないよう密封型になっていて平常時は鍵がかけられています。
   @穀物の出し入れは平入(ひらいり)部分の梁(はり)を鍵で開け外します。
   A横状に敷き詰められている羽目板(はめいた)を上から順々に外します。
   B中に入り穀物の出入れを行い、また元に戻します。
       穀倉の開閉はドアとか引戸のようではありません。

                              平成16年8月17日撮影
     
小松中島家の穀倉
母屋から離れた場所にあり、周囲を樹木で覆われ、大切な穀物を保存するには最適な立地条件となっています。

    

     
    風間 T家の穀倉

                                               
撮影2014・1・20
     
    旧城山町谷ヶ原地区の穀倉  南面         372×100 二間

     
南面にせり出した肘木と外から運ばれた穀類を一旦置くための縁があり、屋根には応急的なビニールシートが被せられていた。また、傷んでいるが木皮の葺かれた痕跡が認められた

     
津久井町根古屋 中野 菊池原家の穀倉、夏の暑さや火災から守るためアラカシが周囲に植えられてあります。

                            撮影 2011・4・30
     
町田市上大戸地区  裏側に竹竿などの農具が保管できるように棚が施されている。

     
町田市上大戸地区 前方が外便所で後方が穀倉、外便所は他に旧町田街道沿いの農家の家に一棟残っていた。便所が外にあることでわざわざ地下足袋を脱がなくても用が足せた。郵便屋さんなどが「トイレ貸してくれ」等と云って利用されていたと云う。

     
穀倉の床は一段高くなっていて乾燥しているためアリジゴクが生息していた。穀倉の周りには庇を利用して農具類が置かれていた。屋根は杉皮で葺いてあり後年トタンで補強している。六代も前から使用されているそうだ。

     
穀倉から道路をへだて水飲み場があった。パイプの先は神奈川県で旧城山町である。農具の鍬や鋤はどこよりも長めにできているようだ。取り壊さないようお婆さんと楽しくお話させていただいた。



    相模原市相原・森下地区
     
元同じ敷地内の西側にあったが、家の改築時に移動した。西側の板壁は作り変えられ石の土台の上には水平が保たれるようセメントで補強がなされていた。南側の軒下には竹が横たわっていた。

     
北面の庇は広く取ってあり穀物の出し入れがし易い状態にあった。その軒下には竹籠やカネでできていたセイロが置いてあった。高いところにはネズミ取りのカゴもあった。



  参考

中仙町の文化財

【 水 板 倉 】

H1.4.1/中仙町文化財指定
文=藤田秀司

水板倉 池をつくって、その中に板倉を建てるという珍しい建造物のあるのは、大神成字フカウジの高貝三二氏宅のものである。この水板倉(俗にミズイタゲという)は明治42年(1909)建造といわれている。
 高貝家は戦前広い農地や山林をもつ地主であった。現在も4ヘクタール余りを耕す稲作農家で、耕耘が機械化される以前は、常時農耕馬3頭以上を飼育していたといい、現在も角馬屋造りの住居は茅葺き屋根である。水板倉はこの母屋の東南15メートル位のところにあり、池は矩形で深さ約1メートルである。板倉の規模は本倉が間口3間、奥行き4間で2階建て内部は一部吹き抜けとなっつている。出入口には4間に4尺(1.2m)のひさしを張り出し、これが袖倉になっつている。窓は入り口と反対の妻側の高いところに一つだけしかない。柱は5寸(15cm)角で2尺(60cm)間隔に設けており、屋根は比較的大きく重みがある建物となっている。
 この板倉は水の中に立っているので土台が水の中と水の上と二重になっており、下の土台は水に強い松材、水の上は栗材で上下の土台は楢材の束(短い柱)で連結している。この束のほぼ半分から下が水に浸かっている。この水板倉に入るには、保存してある一枚の長い橋板を渡して入ることになるほか、ひさし戸、内戸とも厳重に鍵がかけられている。


「米保存」
 この倉の袖倉には、3年分の味噌桶と漬け物が保存され、倉の中は籾貯蔵、2階は衣類箪笥や膳椀類から家具、重要書類などが保管されている。戦前は米が自由市場であったので収穫期は安く、翌年の端境期が近づくと高値になったが、それまで保管できるゆとりのある農家はごく限られていた。
 籾保存の乾燥しすぎの過乾米から守るため、特に夏の土用40日間位に注意を払い、下敷板を何枚かはずして、水の上の涼しい空気と湿気が入るようにできている。
 水の中で橋もないため、米泥棒を防ぐとともに、もし火災にあうようなことがあっても、米と味噌、衣類などは残ることにもなると考えらていた。
 水と大気と、木材の機能をたくみに生かした水板倉は、決して豪華ではないけれども、農家の長い生活の中から生まれ、米の貯蔵に工夫しつくされた建造物であった。高貝家は夏米約70俵分の籾を、籾俵や、セイロという木箱に入れこの水板倉に保存していたようである。
 その他、この池には鯉がかわれており、建物の下は冬も氷ははらず、板を上げると冬でも「えさ」をあたえられ、鯉の成長にも役立っていた。貴重な生活経験の結晶である。


     秋田県中仙町ホームページより

     
     山梨県秋山村安寺沢 郷倉
     
     参考
     羽村町郷土博物館紀要 創刊号 羽村市教育委員会 発行 昭和61年3月
     小作寿郎  西多摩地方の穀箱

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