池をつくって、その中に板倉を建てるという珍しい建造物のあるのは、大神成字フカウジの高貝三二氏宅のものである。この水板倉(俗にミズイタゲという)は明治42年(1909)建造といわれている。
高貝家は戦前広い農地や山林をもつ地主であった。現在も4ヘクタール余りを耕す稲作農家で、耕耘が機械化される以前は、常時農耕馬3頭以上を飼育していたといい、現在も角馬屋造りの住居は茅葺き屋根である。水板倉はこの母屋の東南15メートル位のところにあり、池は矩形で深さ約1メートルである。板倉の規模は本倉が間口3間、奥行き4間で2階建て内部は一部吹き抜けとなっつている。出入口には4間に4尺(1.2m)のひさしを張り出し、これが袖倉になっつている。窓は入り口と反対の妻側の高いところに一つだけしかない。柱は5寸(15cm)角で2尺(60cm)間隔に設けており、屋根は比較的大きく重みがある建物となっている。
この板倉は水の中に立っているので土台が水の中と水の上と二重になっており、下の土台は水に強い松材、水の上は栗材で上下の土台は楢材の束(短い柱)で連結している。この束のほぼ半分から下が水に浸かっている。この水板倉に入るには、保存してある一枚の長い橋板を渡して入ることになるほか、ひさし戸、内戸とも厳重に鍵がかけられている。
「米保存」
この倉の袖倉には、3年分の味噌桶と漬け物が保存され、倉の中は籾貯蔵、2階は衣類箪笥や膳椀類から家具、重要書類などが保管されている。戦前は米が自由市場であったので収穫期は安く、翌年の端境期が近づくと高値になったが、それまで保管できるゆとりのある農家はごく限られていた。
籾保存の乾燥しすぎの過乾米から守るため、特に夏の土用40日間位に注意を払い、下敷板を何枚かはずして、水の上の涼しい空気と湿気が入るようにできている。
水の中で橋もないため、米泥棒を防ぐとともに、もし火災にあうようなことがあっても、米と味噌、衣類などは残ることにもなると考えらていた。
水と大気と、木材の機能をたくみに生かした水板倉は、決して豪華ではないけれども、農家の長い生活の中から生まれ、米の貯蔵に工夫しつくされた建造物であった。高貝家は夏米約70俵分の籾を、籾俵や、セイロという木箱に入れこの水板倉に保存していたようである。
その他、この池には鯉がかわれており、建物の下は冬も氷ははらず、板を上げると冬でも「えさ」をあたえられ、鯉の成長にも役立っていた。貴重な生活経験の結晶である。