問答式 板碑に仏教を見る〜三宅宗議〜 mondousikibutu html




板碑は率都婆
板碑は、中世日本の各地で造立された石製の率都婆(そとば)である。板碑は人々が佛(ほとけ)に祈り、佛の力で死者や生者の幸福を願う標識の一つである。
率都婆は仏法(仏教)の世界観を踏まえて作られ、建てられている。少なくとも武蔵(むさし)型板碑は須弥山(しゅみせん)と呼ばれる想像上の山と三つの精神世界を内容とする(第1図右)。

第1図 須弥山とその遺跡

須弥山は超巨大な山。実在しない山なので、想像された山形は多数作られたであろう。
須弥山に刻まれた「三界」の文字  須弥座 須弥壇

須弥山図(須弥山図譜)

どこだろう(寺院名)?







武蔵型板碑の形は頭部が二等辺三角形の山型である。その下の二条の横溝は須弥山麓を流れる海の抽象的表現である。では板碑の二等辺三角形の山形は壺形の山容とどんな関係があるのか。それを考える前に、須弥山の三界の構図と板碑体部の主尊や銘文群の配置との関係をみてみよう。

須弥山図(坂詰秀一編、『考古学辞典』ほか)
 須弥山のさまざまな山容のなかで壷形(つぼがた)の須弥山には山麓から山頂にかけて、三つの世界が示されている。欲界(よくかい)、色界(しきかい)、無色界(むしきかい)である。この三界は板碑の体部を区画する密かな精神世界の原形ではないかと考えられる。板碑に刻まれた佛や銘文の配置や内容がそのことを感じさせるのである。
板碑の三界とは何か
ここで、仏教の経論に説く三界と板碑の面構成の関係を述べておきたい。
三界とは人間などが輪廻転生(りんねてんしよう)する三つの世界の事で、欲界、色界、無色界をいう。欲界とは欲に囚われた衆生(しゅじょう)の界域、色界とは欲が消えて、ものが清浄に見える界域、無色界とは、それを越えて空(くう)、無の心になった界域をいう。
 ひるがえって武蔵型板碑を見ると、体部の正面は下から仏教式の供養を発願(ほつがん)した衆生の世界、その上は経文や偈頌(げじゅ)などの法の世界、その上は供養対象である如来の座する空、無の世界である。仏教式の上昇志向の内容だが、根底では三界の段階区分と内容とを踏まえている。
ただし、この三界思想は輪廻転生の通過場面を示したものであるが、その思想を絡めた三界説にはまだ接していない。

真言密教に見る三角印
板碑の主尊と銘文の配置は須弥山の三界の区分に対応する。
では、板碑の頭部三角形は須弥山の壺形の山容とどう関係するのか。
三角形でまず考えたのは、仏教の発祥地であるヒマラヤ山脈の最高峰エベレスト山である。この秀麗な三角形の山容が、非現実的な壺形観に代わって仏教的象徴とされたのではないか(第1図)。
しかし、それだけではまだ根拠のない憶測になってしまう。類例はないだろうか。
 板碑と同時期に盛行した仏教的石造物に五輪塔がある。これは真言密教でいう方形(地輪)、円形(水輪)、三角形(火輪)、半月形(風)、団形(空輪)の石がセットになったものである。その中で三角形は火輪にあたる。しかし、これは板碑との直接的な関係はないようである。

第2図 真言密教に見られる三角印 




板碑の二条線か


















































所在地名
 次に仏画の坐像に見える三角形の構図との関係を考えてみた(第2図)。この三角形は他の例と違って特別な意味を持つような図形である。しかし、それが板碑の頭部三角形とどう関係するのか。
 ただし、真言密教では幾何学的な図形が仏法の象徴とされる例が多いようである。そこで三角形に関する用語を密教辞典から拾うと、一切遍知院という項目に一切遍知印という挿図があった。三角形である。それは仏像のように蓮座に乗っている。三角形の中央位置と直上には卍(字形は逆まんじ)印がしるされている。その背は円形の火炎光背で飾られている。
 また、この三角印は現図(図像)の胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)の遍知院の中にもそのまま出ている(第2図)。もしかして、この三角印の形がそのまま板碑の頭部に取り入れられたのではないか。誠に意外な想定ではあるが。では、この三角形は曼荼羅図ではどんな意味を持っているのか。
 三角形(三角印)は法(梵字)曼荼羅ではamと読まれる梵字に相当する。大日如来のことである。その三昧耶形(さんまやけい)は三角印。大日経秘密曼荼羅品によれば、その梵字の読みは大空を示すという。この大空とは何か。
 大空とは、須弥山の山頂を指している。後に実在するエベレスト山の山頂をさすか。となれば、それは三界の上域である無色界の空、無の思想空間に通じる。それはもちろん真言密教の主尊大日如来の世界である。
板碑という率都婆の頭頂に大日如来が表現されているとは意外である。しかし、あり得ないことではないだろうと思う。先に見た五輪塔が全体として大日如来の三昧耶形とされているケースもある。現在のところ、板碑の頭部三角形の由来を否定する材料は見当たらない。

第2図 真言密教に見られる三角印
 

  










五輪塔

特別展 国宝 東寺―空海と仏教 
曼荼羅 東京国立博物館編より

時間帯が色界・欲界の中央に

しかし、板碑の体部に三界を見ることにはためらいもある。そこには縦文字で供養日と「光明真言」が刻まれているからである。共に色界と欲界にまたがり、無色界にはみ出すことはない。特に紀年銘は色界と欲界の中心部を貫いていることで注目される。
 その位置は、板碑の頭頂から垂下する中軸線上にある。この中軸線は三界の上位に当たる無色界の中央
を貫く。それはまた主尊の梵字種子や図像の中央を貫く中軸線である。
供養日銘がその線上にあることは、それだけ重要な意味がある。それで仮に須弥山と三界は空間の区分であるとすれば、供養日銘は意図的に時間帯の線上に置かれ、欲界と色界をまたいで設置されたのではないか。そのことは主尊供養日などの重要な仏事を記憶するために後代に付加されたのではないか。その時間帯が、欲界と色界をまたいで配置されたことは、三界の概念内容を広げることになったかも知れない。それはまた、無色界は時間を超えた世界、色界と欲界は時間を有する世界を表現することになる。無色界はその意味では時間を超えた無・空の世界であり、色界と欲界の紀年銘はその中に時間を含み持つ有の世界であると解することになる。ただし、その時間的前後関係は逆である可能性もある。
いずれにせよ、こうした考えは仏教で言う空・無・有の思想と合致するものかどうか。一方「光明真言」はどうであろう。「光明真言」は今すぐに成仏したい、させたいと願う呪文である。これは元々真言密教の大日如来呪文であるが、法然の推奨で浄土宗でも使われ、板碑にも多用された。その背景には殺戮の世に苦しむ武蔵武士層の悲願があったと考える。
第4図  板碑の面構成(小川町の板碑から)



第5図 板碑の面構成


熊谷市妻沼(文永8年 1271)
 銘文配置



上福岡市
川崎共同墓地 阿弥陀三尊種子板碑

無色界の荘厳
 無色界に現れた梵字種子や図像は円鏡に似た光背を背負っている。この光背は元々金剛界曼陀羅の梵字種子や図像についていたものだが、次第に胎蔵界の諸尊にも用いられ、やがて板碑の梵字種子図像にも用いられるようになった。
 また、諸尊は蓮華を模した台座に乗るようになった。もともとは共に無色界の如来と一部の脇侍だけのものだったようだ。一部とは阿弥陀如来の脇侍である観音菩薩や勢至菩薩がその例である。 
 また、無色界には天蓋(てんがい)とよばれる傘が吊るされている。吊り金の表示がないのでそれは虚空から吊るされていることを意味する。虚空とは無色界の天の無か空の世界である。天蓋には瓔珞(ようらく)と呼ばれる飾りが吊るされている、
その中には幡(ばん)の形を模した瓔珞もある。なお板碑には三具足(みつぐそく)を供えた前机が描かれている。この前机は寺院で言われる須弥壇(しゅみだん)のことである。

第3図 寺院の本堂と荘厳具
仏教寺院の間取り  上座(須弥座)と須弥壇がある。(▼印)
    宮城県女川町曹洞宗照源寺本堂見取り図(禅宗寺院の須弥座、須弥壇と三界の間取り)

図の中央の奥に「板の間」がある。その中央6本の丸柱に囲まれた空間の奥は階段となり、その最上段の「上座」に本尊を安置する。「上座」は須弥座の意味か。上座の手前に須弥壇と呼ばれる大机が置かれ、香炉、華瓶、燭台の三具足が供えられる。」その手前の柱で仕切られた15畳の広間は僧侶が法要をする区域である。この区域は発願者も一般の人も原則として入れない。下の柱列の下は参列者の場である。


幡(ばん)

仏と往生者を結ぶ幡

北本市 東光寺板碑(磯野)
内陣の装飾や儀式などに用いた幡

  参考
  
1 最も古い板碑
市域で最も古い板碑は東光寺(石戸宿)の15−01である。高さが一六〇センチ、上幅六五センチ、下幅六三センチ、厚さは上部で一三センチ、下部で一八センチ、(いずれも地上露出部測定値)威風堂々とした量感あふれる板碑である。頂部は平らである。円形と半円形をくみあわせた帯をめぐらし、碑面を三つに区画している。上段の区画にはキリーク、中段の区画にはサ・サクを配している。三尊ともに月輪を伴っている。下段には「光明遍照(こうみょうへんじょう)十方世界(じっぽうせかい)念仏衆生(ねんぶつしゅじょう)摂取不捨(せっしゅふしゃ)」という『観無量寿経』の「第九真身観」からとった偈と、「貞永二年(一二三三)大才癸巳正月七日」の紀年号が入っている。 
                    
北本デジタルアーカイブスより転写

板碑の大きな結界線
 武蔵型板碑には体部全体に方形の線を引いたものが多い。この方形線は板碑に示された三界の諸々が尊い仏法の世界であることを意味する。それは、もちろん板碑全体の形も須弥山の形であるから、それも崇拝の対象となる。

三界説を越える板碑
 本稿では、これまで板碑の形は須弥山の抽象的象徴的表現であり、体部に配置された銘文群や絵画はその世界観(三界説)に基づいて配置されているとした。
 この考えは武蔵型板碑については大方の承認が得られそうに思う。しかし、板碑の中心は、頭形、体部の銘文配置が三界に対応しないケースも見られる。その例をあげれば、欲界にあるべき願文が色界にかかるケースである(第4図)。また、阿弥陀三尊の脇侍が色界に下降するケースもある。
 しかし板碑の面構成については三界説を否定するケースが存在する。それは、題目板碑と名号板碑である。題目板碑は法華経名を面一杯に大書きし、名号板碑は阿弥陀仏の名を大書きしている。 共に無色界、色界、欲界のスペースを貫いている(第7図)。これは背後に三界の構図があってもなくても無関係な構図である。新しい仏教観の表現であるか。
第7図  三界の界域を越えた観音と勢至
無色界と色界の境が無くなる
この板碑の阿弥陀三尊来迎図は、複雑な構成である。仏菩薩の占める無色界は大きな面積を占めている。しかし、良く見ると、阿弥陀の足下に一線が引かれ、無色界と色界が区別されている。
観音、勢至は 三具足の先端まで下降し、供養を受け取っている。前机の脚下の欲界には、発願した衆生がいる。
 この来迎板碑はそんな物語の構図を示しているようである。

埼玉県上福岡市の板碑


第7図 三界を貫く主尊
板碑は仏教に基づく卒塔婆である。では、板碑のどこにどんな仏教思想がかわているのか。
ここでは、それを初期仏教の世界観を基に検討してみた。そして板碑には真言密教が深く関わっている事が
分かった。ただし、すべての板碑が同じではない。例えば名号板碑題目板碑である。
       
霊随(れいずい)上人(じょうにん)による
賦算
(ふさん)  当麻山無量光寺
阿弥陀如来を主尊とする名号板 法華経を主尊とする題目板
 阿弥陀如来を主尊とする名号板碑は、共に三界の区別がなく、それを超越したもの。

 また、それに関連して時間帯の位置が中軸線上から外れ願文の末尾に変更されている。新たに中軸上に置かれるのは供養対象の人物の法名である。ここにも板碑を造立する者の意識の変化がみられる。
このように武蔵型板碑には興味深い内容があり、また未知の問題がありそうである。例えば梵字の作字法とその仏教的意義、図像の阿弥陀三尊の動態と脇侍の迎摂(ぎょうしょう)の動態など。


補遺 武蔵型板碑の「額」について
 武蔵型板碑の頭部は三角形を呈し、その下端には二条の横線を刻むものとされている。この横線は須弥山の山容と麓下の溝状の海か、風輪(第2図)を象徴化したものかまだ分からない。これも日本列島の板碑の中では武蔵型板碑にだけに見られる特殊な形態である。
 特殊と言えば、武蔵型板碑にはもう一つの頭部の横二条の下に額と言われる横長の方形板を付すものがある。これは何の抽象化であり、何を意味するものか(第6図)。

第6図   板碑の銘文配置のパターン
 
無色界には阿弥陀一尊が顕現
 偈頌スペース(色界)が大きく、発願者域(欲界)は僅か。
 貞治五年板碑  欲界の発願文のみ      中央は光明真言のみ       右端は偈頌(げじゅ)のみ




図の縦線は中軸線(筆者加筆。偈頌の上の点線は板碑の製作者が入れた割り付け線か。)
熊谷市常安寺(正中元年 1324)

主尊域(無色界)が大きく、脇侍の二菩薩は供養域にかかる。供養域(色界)は三具足を供えた前机(須弥壇)のみ。
三具足の脚は欲界を踏まえている。
紀年銘を挟んで、発願者名と逆修の発願趣旨を刻む(上福岡市応仁元年 1467)

大日如来が顕現する無色界と、発願文と紀年銘を刻む欲界とが接している。造塔発願の趣旨は中軸線上に見える北陸使君の遠忌供養である。
この板碑では、造塔供養の対象が主尊でなく、死者に直接向けられている。
(小川町康永3年令1334 小川町の歴史資料編)




  因みに、この額付き板碑の造立基数を調べてみた。埼玉県比企郡小川町には有紀年板碑が488基ある(注)。その中で額付き板碑は次の4基であった。
元応2年(1320)  阿弥陀如来三尊種子板碑
正中2年(1342)  胎蔵界大日如来一尊種子板碑
康永3年(1344)  阿弥陀如来一尊種子板碑
長享2年(1488)  勢至菩薩図像板碑 
 予想をはるかに下回る基数である。造立年代も14世紀中葉が3基、1基が15世紀末と下がるが、いずれも小川町の板碑としては建長年間(1249〜1256)以来100年以上遅い時期の建立である。これは何か特別な事情によるものなのか。
 そこでまず、これらの板碑の特徴をあげると、高さが大きく、文字の報告も含めて全体に精緻(せいち)に制作されていることが挙げられる。
まず高さは次の通りである。
元応2年の板碑   地上高 82cm   幅27cm 
正中2年の板碑   地上高 190cm  幅45cm
康永3年の板碑   地上高183cm   幅47.5cm
長享2年の板碑   地上高141cm   幅53.5cm
 いずれも地上高は小川町の板碑としては大型に属する。横幅は一定しないが、全体として端正な印象を与える。面の整形と文字の彫刻は丁寧であるとの印象を強くする。あえて言えば精製板碑である。造塔者は1基を除いておそらく武士層と想定される。ただ例外とした1基は長享2年の勢至図像板碑で、月待ち供養に結衆した平民層の造立である。これは主尊像の線刻図が不鮮明で、古い原図を模刻したもののようである。
 そこで3基の精製板碑の額の問題を考えると、額は頭部の二条線の真下、体部の直上に配置されている。この横長の無地の長方形は、空・無を表示しているのではないかと思われる。と同時に額は板碑体部を占める三界の構造を、空・無の顕現する根本的な仏法世界と表示していたのではないか。しかし、その空・無のいわば絶対的な空・無の世界仏法(教)的世界観はすでに三界の無色界に示されている。この重複に気付いた識者の指摘によって、額は空・無を表示する意義を失い、板碑の荘厳として刻まれるだけになったのではないか。
 

謝辞
本稿の発表にあたって、たつご教室の保坂健次氏から有益な助言を頂いた。また、執筆と図版作成にあたっては「鵲(かささぎ)の会」の瀧柳みち代氏より多大な協力をいただいた。
ここに記し、感謝の意と表します。

<追記> 
 本稿は講演のための手びかえの文章のため、参考文献、引用図面の出典を省略している

編集を終えて
私が最初に緑泥片岩に出会ったのは、高校3年生の夏休みだった。日本海が見たくて、郷里の甲府から自転車に乗って明科から木崎・中綱・青木湖を過ぎそこからまた峠を越えて、姫川沿いをしばらくすると、河原が光って見えた。なんだろうと思いながら、自転車を止めて河原を歩いた。私は、いつの間にか輝く光の中にいた。その頃は、未だ石の名前を知らないでいたが、サイクリングの宝物として大事に仕舞っておいた。緑泥片岩と分かったのは後のことだった。
 それから、40年が過ぎ「たつご教室」を開催することになり、瀧柳さんから「鵲の会」の三宅先生を紹介され板碑の講演をお願いした。先生は埼玉県にお住まいになられ講師としてお願いするには遠慮があったが快くお引受け下さった。
 それから、先生との本格的な交流が始まり、旧城山町民俗収蔵庫に保管されている15基の板碑の検分調査を相模原市立博物館の長澤学芸員と共にしていただいた。私の暮らす津久井地方にも、村ごとに光明真言塔や六字の名号塔、それに二十三塔が造立されている。人々の願いがこちらからも聞こえて来そうです。
 小川町には「先見の明」がある。令和元年4月、文化庁は文化財保護法を改正し、文化財保護のための利用計画を発表した。小川町はそれよりも前の平成29年3月に全国に先駆けて「遺跡保存活用計画を発表されています。
 私は、こうした環境に一時的にしても置かれたことをありがたく大変に喜んでおります。
これも一重に三宅先生のお陰です。これからも宜しくお願い申し上げます。どうも、ありがとうございました。
 そして、編集に際し、「鵲の会」の瀧柳みち代さんにも感謝申し上げます。
  また、三宅先生の「板碑に仏教を見る」は、病院と云う特殊な環境の中で著されました。言わば魂の書」で有ることを最後に付き加えておきます。
                                                令和7年12月16日   保坂健次



始まりの始まり(むすびにかえて)
 旧城山町(現相模原市緑区)の川尻小学校に「城山町民俗収蔵庫」と云う看板が取り外されて20年になった。相模原市の恥部と云うべきか荒れ果てたままだ。「津久井郡郷土資料館」も取り壊され住宅地となっている。その川尻小学校の敷地内にある「旧民俗収蔵庫」内には15基もの板碑が置かれているままで一般公開がされなくなってしまった。そこで、私は見かねて「板碑」だけでも公開できないか考えてきたがやはり思うようにはなっていない。そこで2年前に、素敵な御縁で知り合った三宅先生にお願いし「たつご教室」でお話がして戴けるよう真夏のド暑い日にお越し戴いて見ていただくことにした。汗が見る見るうちに流れ板碑に染まった。たつご教室での発表を御承諾して下さり発表の日を待ちましたが体調を崩され実現が可能とならなかった。元気になって戴かないと、私も祈るような気持ちで今年の5月に再発表の日を設定させて戴いた。その後も入院通院の日々が続きお医者様からは外出の許可が得られなかった。期待と不安の日々が続いた。6日前のお電話では「たつご教室」での講師を諦めて私に代役を依頼され、その内容について1時間以上も教えて戴いた。勿体なくで勿体なくてその夜は中々眠れなかった。そして「たつご教室」の開かれる前日、私は悪魔となって来られることをお断りし大変な事態を招いてしまった。先生は埼玉県にお住まいになり電車を乗り継いで来られる。(略)生命に保証はなかった。私が問答形式を選んだ背景はそんなところにあります。「板碑に仏教を見る」と云う論文は病室で執筆されたものです。多くの可能性を秘めております。問答形式にしてこの論文を御紹介させて戴くのは先生の泉のように溢れ出る知識を記録(HP)に留めておきたいと考えたからです。古くて新しい板碑学、特に仏教との関連を探って行きます。終わりはありません。先生にはいつも青年のような眼差で私達を導いて欲しいのです。
板碑とその研究史 〜三宅宗議さんの歩み〜  itahi.html
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