武蔵国一宮成立の前夜  思案中
              
 2011・6・26 高松山古墳の現地説明会を追加 

 国の中心を府中と呼んでいます。例えば甲府は甲斐の府中、駿府は駿河の府中となります。武蔵国は府中です。
でも、府中がどうして南側にあるのでしょう。もう少し北側、大宮、現在のさいたま市あたりにあっても良さそうなものです。
 毛呂山町鎌北地区にある根深岩は小高い丘の上にあります。周りを見渡しても岩山はどこにもありません。この岩がどうやって誕生したが不思議です。この不思議な岩を解き明かすことによって武蔵国がどんな広さで、また何時ごろ誕生したか分かるような気がいたします。ご一緒に考えて見ませんか。



   武蔵一ノ宮氷川神社の真西にある根深岩
 根深岩の周辺には柚子が植えられていました。根深岩のとな
りに妹背神社が祀られていましたが、現在は同地区の神社に移
されれました。周辺にはこのような岩はないため、どのようにして
誕生したか謎めいています。

不思議なライン
@根深岩の真東の延長上に武蔵国一ノ宮、氷川神社がある。
A丹沢山塊の中で一番高い蛭ヶ岳から城山町、雄龍籠山の山頂を経由、その延長上に大宮氷川神社がある。
B雄龍籠山から相模灘までの距離を2倍すると根深岩、3倍すると利根川旧河川敷までの距離となります。

   
  広田の田んぼから見た龍籠山の景観    昔は腰まで浸かった田んぼだった。

 丹沢山塊から関東山地をほぼ南北に集落が発達しています。山口集落と呼んでいます。川は関東山地から平野部に向かって流れています。相模川は川尻、多摩川は青梅、入間川は飯能、高麗川は高麗などです。
 この集落を結ぶ道はまた高麗王若光が辿った南北に伸びる道でもあります。この道を「高麗王若光の道」と名付け南北の基線として武蔵国の広さを考えて見ましょう。
 武蔵国は全部で21郡あります。郡はどういうわけか北部と南部に小郡が密集し、大きな面積を持つ郡は西側の秩父、多摩です。こうしたことから武蔵国は南北に二つの勢力があったと考えても良いと思います。古墳の分布では野川流域、行田市稲荷山古墳群、東松山市吉見百穴周辺が上げられます。また利根川をはさんで太田市周辺の天神山古墳群も武蔵国に何らかの影響をあたえています。
 国が成立して行く中で激しい争いがありました。安閑元年(534)の武蔵国造職争いで、勝った北武蔵の「笠原直使主(かさはらのあたいおみ)」は朝廷に横渟(よこね)・橘花(たちばな)・多氷(たひ)・倉樔(くらす)の4郡を献上しました。
 こうした歴史的な経緯の中で政治の中心となる国府は府中に置かれ、また一宮、二宮、三宮とそれぞれに祀られていた神を一箇所に集め六社明神として祀ったのが府中、大国魂神社です。
 一宮は多摩市小野神社もあげられていますがここでは、武蔵国の地理的な中心地、大宮氷川神社を考えてみました。

   城山町雄龍籠山と国境の古利根川と武蔵一ノ宮は巨大な二等辺三角形で結ばれています。

 安閑天皇時代の屯倉がどこにあったか、まだまだ多くの謎に包まれていますが、近年の研究でだんだんと境川上流域が見直されて来ました。安閑天皇の皇后は春日山田皇女【かすがのやまだ】です。川尻村絵図(貞享元年)には広大な敷地を有した春日神社も描かれ、左岸側には「春日谷」の地名も残されています。また八雲神社、荏柄八幡社、蔵王権現社、御嶽社や山王社、諏訪神社等、安閑天皇を祭神とする神社が上流域に集中しています。

  
安閑天皇を祭神とする境川源流域の主な神社
   
  町田市大戸 蔵王権現社    町田市大戸  山王社

   
  町田市中相原  三社神社         町田市相原町中村  諏訪神社

  根深岩は武蔵国のおへそかな???
   
 武蔵一ノ宮氷川神社の真西  毛呂山町鎌北地区 根深岩

   
 出雲伊波比神社                   高麗神社

利根川国境に関する資料 

栗原良輔著「利根川治水史
   官界公論社刊  昭和18年7月発行
   106Pより(右側に記載 )


東海道五十三次 平塚


    丹沢・蛭ヶ岳     
八町川原・仁手間 上野国史によると、武州杉山、新井、都島、山王堂、沼和田、仁手等の数村は、古へ上野国那波郡に属していたが、寛永中の洪水で流路が変わり、武蔵国に編入したと記してあるし、又武蔵風土記によると横瀬村華蔵寺大日堂天正十一年の棟札に、上野国新田庄勢多郡横瀬郷とあるし、又和名抄賀美郡郷名に載せてある小島は、今の小島村と考えられるから、烏川の流路は寛永年中(2284−2303)に忍保から八町河原に移ったものと考えられる。
 埼玉県深谷市横瀬の横瀬神社別当寺であった華蔵寺大日堂建立時に記録された棟札は、横瀬がかって上野国(現在の群馬県)であったことを証明する貴重な資料となっています。
 当時の国境は、豊里中学校裏手あたりと思われます。


武蔵国と上野国との国境付近の地図
 横瀬、中瀬は寛永年間まで上野国だった。
 平塚より、花水川を過ぎるとこんもりとしたした高麗山が見えてくる。高麗山は667年、天智天皇治世の時に唐、新羅連合軍に滅ぼされた高句麗の王族が祖国を追われ、この地に住み着いたと云われています。
 高麗若王が北上する道沿いには何故か高麗山、鷹鳥山、高取山、高尾山、大高取山と云った山名がつきます。この山沿いのコースは、毎年9月下旬から10月上旬にかけサシバの大群が上昇気流に乗りながら南下、更に知多半島の先端伊良子岬に終結して沖縄、台湾やフィリピン方面で越冬する。鷹の渡り道でもあります。
 正確には相模国、国府本郷を基点に北上する南北線を延長し、当時の上野国との国境までの距離を三分割してみます。そうすると、不思議な図式が出てまいります。
 更に、丹沢山塊の主峰、蛭ヶ岳(海抜1673メートル)を基点に、雄龍籠山を通過する斜めの延長線上に一宮氷川神社決定ラインが確立できます。そして鎌北湖の西にそびえる「根深岩」の延長真東ラインが交差する箇所が氷川神社となります。
 地図を開いて、不思議な大三角形作ってみませんか。誰も知らなかった一宮成立の前夜を辿ることができると思います。
 南北に二つの勢力があった時代に、だれが考えても公平に、武蔵国大宮氷川神社を選定した設計者の気持ちがわかるのではないか、そんな気がいたします。また一宮氷川神社の境内に祀られているアラハバキ神についても解決ができるのではないかと考えています。
  古代のロマンをみんなで語りあいましょう

  高松山山頂に前方後円古墳発見される   現地説明会   撮影2011・6・25
   
  前方部の試掘 A             前方部から小高い後円部

 
 後円部の試掘 @ 下層に炭化物(木棺)
     

        ↑@   ↑A
高松山試掘調査箇所と測量図  厚木市教育委員会配布資料
川尻八幡宮の真南に位置しています。古墳は高松山の山頂部に
築造され、眺望がとてもよく明治天皇も行幸されています。


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