資料 水彩画家・大下藤次郎の久保沢印象記
八王子の停車場から、新道なら三里、七國峠を越えて徃けば二里半、横濱鐡道の相原驛から一里、久保澤町の町の下に小倉の渡しといふ處がある。新道には乗合馬車があるが、舊道も難儀な道ではなく、途中スケッチするによい處もある。 久保澤の町はダラ(く)下りで、町の中央に蓋のしてある大きな澤があり、建物も一寸面白く、道路山水の好畫題である。 町の上は見通しのつかぬ程な廣い平原で、一面の桑畑、處々に林や森があって、単調を破ってゐる。 朝夕の雲を研究するには最もよい處である。 町から下ると二三の水車があり、川尻とよばるゝ可なりな瀧がある。やがて廣々とした小倉川の岸に出ると、爰には渡船があって、對岸に渡し守の小屋が一つ、清き水は緩(ゆる)く流れ、遙かに荷船の帆掛けたものも見える。両岸の山は高く嶮しく峻しく、凡(ぼん)ならさる風致を具えてゐる。 上流には大井、川和、中野などといふ處があって、何れも多少の畫材がある。殊に中野あたりは、川幅狭く流れ急に、一層變化に富んでゐる、上流は桂川と呼ばれて、甲州より來るのである。
私は数年前十一月中旬に、二年も續けて此邊の寫生に出掛けた。小倉川両岸の紅葉、其色の美しさは云ふ迄もなく、尤(もっと)も妙なる平原の桑の葉の眞黄色になるので、頗る壮大な感がある。 暑いころに久保澤附近の有志に招かれて、木曜會の人々と共に此邊の寫生に出掛けたが、夏の景色も中々悪くはなかった。鮎狩にとて、上流城山の麓、寶の峰といふ邊まで遡ったが、見上るやうな紫の巨巌には、折から杜鵑花(ほととぎす)が盛りに咲いて深碧の水に映じ、實に何ともいへぬ美しさであった。 久保澤の宿屋は、車屋といふのがたゞ一軒あるのみ。宿料は洋服と和服とで相違があるさうだ。 ※峙(そばだ)ちて:他のものに比べ、ひときわ険しく高くそびえ立つ。 注 ※上乗(うばのり):船や車で運ぶ荷物とともに乗っていくこと。また、その人。 (うばのり)とるびあり→うわのり ※一興(いっきょう):1 ちょっとしたおもしろみ。それなりの楽しみ。/2 (近世、反語的に用いて)意外なこと。奇怪なこと。
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