しろやまの民話

ナスの葉になったネズミ   2023・10・25
 お爺さんの住んでいる庭には、沢山の小鳥たちが遊びに来ます。スズメ・イソヒヨドリ・ヒヨドリにムクドリ・それにメジロたちです。なかでもメジロはミカンが大好きで、2羽でいつもやって来ます。ある時、ネズミがやって来ました。お爺さんはビックリして戸を開けると、ネズミもびっくりしたのかそのままどこかに行ってしまいました。
 それから、夏が過ぎて、秋風が吹く頃となって来ました。ある日、お爺さんは畑から帰って、いつものように縁側でくつろいでいると道端の方でで、一匹のネズミが楽しそうに遊んでいました。東を向いたり、北の方を向いたり、長い尻尾もユラユラと一緒に揺れていました。あまりにも楽しそうだったので、「もしかして、あの時の、ネズミさんかな」と、思いお爺さんも楽しくなりました。
 近寄って、ようく見ると、それは、大きなナスの葉っぱが風に吹かれてゆれていたのでした。尻尾に見えたのはナスの葉っぱの茎の方でした。
 でも、お爺さんは「きっと、あの時のネズミさんが遊びに来てくれたのだ」と、思いました。
おとなしの屁の話  2020・1・15
 「武蔵野 第14巻第4号 昭和4年10月号」に、こんなことが書いてあった。書いたのは郷土史家の鈴木重光さんで「べろべろの神の鉤の話」の続きにあった。「序に、相州津久井郡では、「屁と火事や、もとから騒ぎ出す、おすすいのすい屁」と唱へて、其處に居る人を、片端から順に数へ、唱へ終わった時當ったものが、放屁者になる方法もある。最も簡単なのは。舌を出して黄色であったら、その者と極めることである。昭和四・七・九 稿と、それで、「屁の色は黄色なんだ。」と思った。ひょうきんなこととして載せた。
向原のアキラさんから聞いた話 採話2014・10・13
 満州へ行った青根や青野原の人たちは二・三里の離れてたところにいた。アキラさんはボタンコウショウのムウリンケンと云う所にいて、昭和21年10月に引き揚げて来た。げて麻溝台の開拓地に入植した。既に入植している人たちがいた。隣は米軍の射撃場だった。与えられた土地は八反歩なかったが、夜遅くまで開墾した。開墾は草地よりも木を切った所の方が開墾しやすかった。井戸も掘ったが近くに陸軍病院があったので少したったら水道が使えるようになった。サツマイモや陸稲も作った。サツマイモはアルコールを作るので出荷した。(戦前か? 再確認要)
 あまりの辛さに、向原の実家に帰ると、牧野新和田(あらわだ)から嫁いで来た、お祖母さんは、みかねてか、実家に(歩いて)帰って10キロのアワをもらって来た。向原から新和田までは5里の道程だった。アキラさんもそのアワを背負って麻溝台まで(歩いて)帰った。この頃は歩くのが当たり前の世の中だった。
満州のこと
 水田の事を聞いたところアキオ川がありそこから水を引いた水田があった。水はヒエが出ないよう40pも水量(かさ)があった。土地は肥えていてダイズやトウモロコシを作った。
 粉は大きな石臼があって牛や小さい満馬(マンバ)がそこを回転しながら挽いた、原料はコーリャン・トウモロコシ・アワ・春まき小麦で、水につけながら挽いた。その粉を底の厚い鍋で焼いて、チャーシューや野菜をのせて食べた。肉はたまにだった。
 冬はー30度からー40度にもなったが、家の中はオンドルがあり暖かだった。燃料になる木は、遠くへ牛や馬で行き山にある木を切った。山へ行くのは9月の稲刈りが済んだ頃から春先まで続いた。春先の川の氷の解け始める頃だった、川を渡るとソリが氷の割れ目にはまって燃料や牛が落ちてしまったことがあった。牛は助け、燃料の薪もちゃんと拾い集めた。夏の湿地は、所々に底なし沼もあり注意しながら渡った。
稲刈りは8月に行った。
 満州には2年いた。途中、召集があったが、また満州に戻った。やがて戦争が終わり、 引き揚げの時、中国人やソ連兵も何もなかったのか机や色々な物を持ち去った。無法者もいてゴウカンやゴウトウもあった。悲しくなるような話も聞いた。
峠道に、みんなで石を敷いた話  
採話2014・10・5
 七国峠の手前に馬込から入り込んだ小さな峠道があります。昔は多勢の旅人が行き交った賑やかな道でしたが、今は人も通らなくなり淋しい道となってしまいました。その峠道に、境川の川底にしか見られない、硬砂岩と云う石が敷いてあるのを見つけました。昔のことをよく知っている杉崎さんに聞いたところ、「明治41年まで、みんなで、川の石を拾ってバケツで運んだんだよ。」と教えてくれました。その後、大正12年までは馬込川の右岸を通って八王子に抜けたんだよと教えてくれました。そうして、いつの間にか、人も通らない淋しい道になってしまいました。
夜中の2時半から並んだ大運動会 採話2014・5・31
 周りに家が立ち並んで、祭の声も、運動会の歓声も最近は聞こえなくなってしまいました。
 そうした、ある日の朝、疲れきったお父さんがどこからか帰って来ました。声をかけるのも気の毒なくらいドタドタと歩いていました。そうしてしばらくしていると、今度は隣りの奥さんが、車で帰って来ました。「どこ、行ってたの」と、聞いてみると、「運動会の場所取で並んでいたんだよ。」と教えてくれました。少学校は六時からが開門なのだそうです。行ってみると既に20〜30人の人が並んでいたと云うことです。
 私は、この日の夕方、別の用があって、大河原さんの家に行きました。ついでに運動会の場所取りのことを話したところ、大河原さんも「六時半ごろ行った。」と、教えてくれました。そうです。そうしたら「ごったがえしていたよ。」と云いました。
 熱い大運動会は暗いうちから、もう始まっていました。
ケーン・ケーンと泣いたキジ
     採話2014・4・29
 八木薫さんちの桜の花をもらって、さくらパンを作った。塩漬にした花びらをアンパンの表面に、ただのせたものです。あったかいのをで持って八木さんちに行きました。
 「八木さーん」返事がなかったので、隣りの畑に行って見ると、茶畑や畑がなくなって更地になっていました。遠くの方ではブルドーザが動いていました。いつものキジは行き場がなくなってうろうろとしていした。
 夕方、そのパンを持って八木さんちに行きました。
 八木さんと話をしていると、大きな声でキジのなく声がしました。「なんて、ないているのかねぇ。」と聞いたところ「ケーン・ケーンだよ。」と教えてくれました。「何だか、怒っているようだね。」
 もう少しすると、ここに大きなお店が誕生します。
八木さんは、「これから、あのキジはどこに行くんだろうね。」と淋しそうに云いました。
「なんだか、大きな泣声のようだね。」

ベンチになった桜の木      採話2013・1・23

 川尻小学校のまわりには沢山の桜の木が植えられていました。桜の花の季節になると沢山の花が咲いて新入生を迎えたり、町の人たちもその花を楽しんで見ていました。
 ある年、東側の道を広げる工事が始まりました。桜は、隣りの小学校や公園に移されたり切られたりしました。その思い出の木をいつまでも忘れないよう、みんなでオアシスの公園を作ったり、小さな幹を切ってコースターも作りました。
 そうして、また歳月がたちました。でも、校舎の片隅にはいつまでも取り残されている桜の木が横たわっていました。何だかとても悲しそうです。
 川尻小の5年生は毎年、お米づくりをしています。夏になるとその田んぼからはトンボが飛び交い、セミも裏の山から聞こえてきます。田んぼにそよぐ風もとても気持ちがいいです。こんなにステキな田んぼでみんなで何か出来ないか考えました。
 「先生、ベンチがあると良いね」と子供たちから提案がありました。でも材料になる木がなかなか見つかりませんでした。それでも、どこかにないかみんなで必死にさがしました。
 「あった」学校の片隅の奥の方に、あの桜の木を見つけたのです。「これなら、できそうだね」「ベンチのまわりにはお花もあるといいね」次ぎから次から意見が出されました。そうして、先生のお父さんにも手伝ってもらいピカピカのベンチが仕上がりました。
 ベンチの取り付けた場所は最初と変わりましたが、田んぼにそよぐ風がいつでも伝わってくる田んぼの脇と「城山自然の家」の庭に取りつけました。
 ベンチにはリハビリをしているオバさんが腰かけたり、近所の人や山歩きに来た人たちも休んで、どの人もみんな楽しそうです。それと、ベンチはとてもどっしりしているので、たよりがいがあります。ベンチは何にも言葉で云わないけれど、ちゃんとみんなのお話を聞いてくれます。そうして最後に「また、来てね」と云ってくれました。
 これから小松には大勢の人たちがカタクリや春の野山を見に来ます。そして、ベンチ君は「また、みんなと会えることを楽しみにしているよ」と云ってくれました。 「5年生のみなさん、ありがとう」
 付記 平成6年「城山自然の家」建設に当たって3名の子供たちからベンチが欲しいと云う要望がありました。 

富士隠し               採話 2012・10・31

大戸「大六天社」先から見た富士山
 山に登った時や遠くに行った時など、「富士山が見えるかなー」と、気になる時がある。旧城山町からは中沢や谷が原の山沿いや相模が丘中学校、境川の本郷地区の一部も僅かに見ることができます。富士山の全体が見えるわけではなく、いつも富士山の右側に聳える大室山にさえぎられて、ひっそりと隠れているよう
にも見えました。町田市大戸「大六天社」の隣に住むお爺さんは、「お婆さんが「富士隠し」って云ってたよ。」と云いました。
 どうもこの辺だけの言葉のような気がしてきました。
                          
隠れた石碑            撮影2012・10・19

原宿用水取水口の石碑
 旧城山町には、「お茶の水」や「原宿」と云う地名があります。「お茶の水」は、「昔から、お茶に利用したから。」と云い、今でも水汲みができるようになっています。
 原宿と云う地名の起こりは、江戸時代の初め久保沢の宿で一騒動が起こりその解決法として代官所から、「東の原っぱに宿を作りなさい」と、裁定が下されたことに始まり
ます。
 宿を作るにはどうしても水が必要となりました。困った宿の人々は境川から水を引くことを考えました。今に残る「原宿用水取水口」の跡です。後年、その事を後世に伝えようと旧城山町では記念の石碑を建て当時を忍べるようにしました。
 それから、また、しばらくして境川の河川改修工事が始まりました。改修工事の検討の段階では、そんなこともあり原宿用水のこともお話ししておきました。そして、いつしか河川改修工事も終わりました。元からあった記念の石碑は道路の隠れたところに出来てしまいました。
 夕焼けのきれいな田んぼの脇で、石碑はひっそりとたたずみながら犬の足音や靴音を聞いています。

バクチが流行った頃の話     聞き取り 2012・8・18
 昔はお寺のお堂でバクチが流行った。火の始末が悪かったのか、皆が帰った後火事になった。それから、バクチは家で行うようになった。警察に見つからないよう部落の入口に見張りが立った。その人たちを「提灯持ち」と呼んだ。ハンかチョウ以外にも「ホッピキ」と云うのがあった。「屏風」や「カラカミ」を横にしてカツイトの紐の先に番号札を結んで、それを引っ張った。その時、「ホー」と云って引いた。こうした賭けごとは終戦まで続いた。
 昔は、賭けごとで田圃だとか家をなくした人たちが随分といた。
                       (町田市の西部で採話)
小池さんから聞いた話   聞き取り 2009・2・
@昭和の始めごろ、伊勢屋の三ちゃんは小学校に行くのに酒をいっぱいひっかけてから行った。三ちゃんは酒が好きだった。大人になってからはひよといになった。                       とい:日雇い人夫
A昔は伊勢屋に川根や相原あたりから籠に乗って買い物に来た人がいた。そのことを油屋のおばあさんが今でも知っている。昔は裕福な人がいた。
B山から木を下ろすのにソリミチがあった。たば木の重さは1輪で8貫目あった。それを3分の1の長さに切って使った。木を下ろしたところをリンバと云った。
C山仕事をするときはヤセウマを担いで上がり、帰りはほだ木を積んで下りた。
D山の木は14年周期で切った。
E昔の川尻小学校はコの字型になっていて、6尺の廊下があった。そこでお手玉をして遊んだ。東側の出っ張りのところを新校舎とよんで教室が3つあった。壁が外せるようになっていた。高等科があって荒川・三井・中沢・元橋本や大戸からも来た。

河童橋(かっぱばし)井戸ン堀
 境川沿いには昔から堰(せぎ)が築かれ田んぼや水車に利用されていました。堰は5・600メートル位の間隔で築かれ、堰の高さは5.6メートルもありました。そうしたところを昔から井戸ん堀とよんでいました。二国橋の下流には井戸のように深くなった渕がありそこには河童が住んでいたといいます。
 こんな話が伝わっています。
 今はなくなりましたが相模原市相原の八幡神社の裏手から町田街道に抜けるところに木の板を二枚ならべた橋がかけてありました。この橋は狭く渡るときにはグラグラとゆれていました。
 ある夏の八幡神社の祭りの夜、河童たちがこの橋のまわりに集まってきました。町田市相原の人たちも祭りを見ようとこの橋を渡ろうとしました。橋から落ちないよういつものように静かに静に歩きはじめました。そして橋の中ほどまで来たときのことです。突然「ああ・・」と云う大きな声がしました。と同時に「ジャブーン」という音もしました。
河童に足をとられ川の中に引きづりこまれてしまったのです。その見物人は死んでしまいました。
 村人達は河童の仕業(しわざ)に違いないと神主にたのんで河童の心を静めるための供養を盛大に行いました。
 それ以来、境川の河童はおとなしくなり何処かへ引き込んでしまったと云うことです。そしてこの橋をだれともなく河童橋と呼ぶようになったといいます。今はその橋も朽ちてなくなり言い伝えだけになってしまいました。
     資料 迎祖遺後 二本松のむかしといま  井上正路 発行平成元年9月

真米の杉崎さんから聞いた追加の話  聞き取り 2012・8・18
 昔、八幡様の対岸に吉川ギスケさんの酒屋があった。イッパイ飲んでふらふらしながら一本橋を渡って帰ったが落ちた人はいなかったそうだ。河童の話は知らなかった。

町屋に不思議なカーブミラーがあった
 カーブミラーがあった場所は、昔、原宿用水が流れていた角地で、ここから用水は東側(右側)に向きを変えて原宿方面に流れていました。このあたりは凹地になっていて雨が降ると水が溜まり堀のようになりました。また、このあたりを馬場と呼んで、小松城があったころは、「ここから馬を下り、歩いてお城に行った」と伝えられています。
 そこに不思議なカーブミラーがありました。右の景色が左に見え、左の景色が右に見えたのです。「危ないな」と思いながら通っていました。その内、空き地に家が建ち私道もできて不思議なカーブミラーはなくなりました。
 こんな話も、もう民話と云ってもいいのかも知れませんね。
      
      2004.9.5         撮影2005.12.6

小松の富久松さんから聞いた話
@小松や穴川の天気予報
 昔、穴川や小松の人は風向きで天気を占っていました。
 とばっ口(谷戸の入り口)の方から吹きつけてくる雨の時は「こりゃあ明日も雨だー」と云った。また、龍籠山の方から吹きつけてくる雨の時は「明日は、いい天気だんべえー」と云った。それから底冷えのする冬の日などは「この分じゃ、山は雪だんべえよ」とも云った。
 それから大山の方で雲がたてば雨が降るそうだ。この辺では昔から「春海秋山」と云って春は海、秋は山の方が明るければ、雨は降らないと云います。また、雷が西八王子のジゴジの方で鳴り出せば夕立ちが来ると云います。 
 富久松さんの奥さんが笑いながら「みけねこのオスが、耳まで手をかけてこすれば雨になるんだよ」と云った。あんまりおかしいんで大笑いした。

もちあげ地蔵
 お地蔵様は亡くなった人の供養のために建てられるものですが、このお地蔵様はちょっとかわっていました。
 大きさは5・60センチ位の小さなお地蔵様ですが、願い事がかなうかどうかはお地蔵様を持ち上げて見ると分かるのだそうです。願い事がかなう時は軽く持ち上がり、そうでない時は、どんな力持ちでも持ち上がらなかったと云います。
 昔は「牛のひてえ」と云う所にありましたが、開発や盗難をおそれ、地域のたちが原宿のクラブに移しました。今ではコンクリートでしっかり固められ、持ち上げられなくなりました。

オシャリ様
 今から250年ほど昔の話です。小松に細谷右馬之丞と云う人が住んでいました。この人は八王子千人同心で医者だとも云われた人でした。
 今、普門寺の境内に、オシャリ様と呼ばれている大きな石仏があります。このオシャリ様はできものを治してくれる神様といわれ、ほうぼうからお参りに来たといいます。 ある時、右馬之丞さんは、寺のオシャミ山に穴を掘って四十九日後に入寂し、オシャリ様になったと云います。その頃の様子をこんなふうに伝えています。
 「オシャリ様はなあー、ちっちゃい鉦を持って穴へ入り、これが聞こえなくなったらおれは死んだと思ってくれと言ったよ。穴の中では豆を食ったちゅうよ竹の筒っぽで息抜きを立て、中からチャンチャンと鉦の音が幾日か聞こえたちゅうよ。オシャリ様はな小松の細谷右馬之丞と云う人よ。ちゃんと小松にお墓もあらな」
 どうしてこの様な、なくなり方をしたかと云うと「オシャリ様はな、みんなの幸せを願いながらなくなったんだ」と。

ヨシにからまったヒキガエル
 ある日、おじいさんが小松川で草刈をしていると、目の前にヒキガエルが動けなくなっていました。よく見ると後足の長い指のところにヨシがからまっていました。そのヨシは縄のようになってよれていました。ヒキガエルはそうとうに動いたのでしょう、力つきてじっとしていました。
 おじいさんは「かわいそうに」そういって、縄のようになったヨシを外してあげました。そして、おじいさんはそのヒキガエルを優しく抱いてあげました。
 おじいさんは「さあ、早くお山にお帰り」そういってヒキガエルをはなしてあげました。ヒキガエルは一度だけあたりを見まわしましたがなかなか動こうとはしませんでした。
 おじいさんは、「さあ、早くお山にお帰り」といいました。
 ヒキガエルはしばらくして「ありがとう」、そういって山の方にはって行きました。
 そして、おじいさんは、またいつものように草刈を始めました。
 おじいさんはしあわせな気持ちになりました。
 こんなことがあった三日後、小松の里に初霜が降りました。
                       H12・11・26 採録

八木薫さんちに来た生き物
 平成18年、今年の話です。八木さんちの庭には、柿の木が3本と大きなイチョウの木が1本ある。今年はどうゆうわけか1本も柿がならなかった。イチョウも木を切ったので沢山はならなかった。八木さんは毎年この頃になると、落ちた銀杏を拾い集め洗濯機の様な形をした手づくり皮剥き選別機にかけるのを楽しみにしていた。
 どういうわけか今年は異変が起きた。木になっているイチョウの実が落ちてこないのだ。だが実の数は確かに減っている。不思議に思い庭の周りを見わたすと種だけが5〜6個づつかたまって落ちている。次の日も次の日も、種がかたまって落ちている。あんな臭い実を食べる生き物がいたのだ。今年は、皮剥き機を1回も使わなかった。あの生き物のウンコはどんな匂いがするのだろうね。嗅いだら、きっと気絶するかも知れないよ。

鎮西八郎為朝の宿
 明治40年に、横町の源さんが、渡り病気の天然痘にかかったという騒ぎが持ち上がった。種痘のおかげで、この土地にはいまだかって一度のも発生したことはなかったが、天から降ってきたのか、地から湧いて出たのか、突然に現れたので村中をあわてさせた。
 伝染経路を調べてみたら、二、三日前に横須賀へ行ってきたことがわかった。源さんとんだお土産をしょって来たものだ。すぐに避病者へ送られたが、近所ではどこの家でも赤い紙に「鎮西八郎為朝の宿」と書いて、それを天狗っ葉(八つ手の葉)に結び付けて軒につるした。私の家でも店の入り口につるした。買い物に来たお客が「ホー、ここでもつるしてあるなナ」と言って笑った。中には妙に感心した顔つきをする人もいた。
 鎮西八郎為朝といえば、そのむかし強弓で名高いいくさにんだが、そんな豪傑が泊まっていたのでは、ホウソウ神も寄りつけまい。おまけに天狗っ葉は、天狗様が持っているうちわだ。おれであおられては、ひとたまりもなく吹き飛ばされてしまうわけだ。私は子供心にも、こうしておけばうつりっこない、と安心したことを覚えている。
 さいわい源さんは全快したので、このオマジナイを笑いながら川へ流した。そのとき天狗っ葉はからからに乾いていた。 
                       八木蔦雨さんの話

小松の「百拾わず」
 百文銭があれば米ぬかが一俵も買えた頃の話です。今は廃道になってしまいましたが、カタクリの花が咲く小野というところから自害谷戸に向け一本の山道がありました。そこはとても淋しいところでした。冬の夜など、龍籠山から吹きつける風でとても冷たく、ふるえ上がるほどの寒さでした。
 そこを、肩を狭めながら足早に歩いていく人がいました。ふと気がつくと目の前に百文銭が落ちていました。拾いたいのは山々でしたが、とても拾うだけの気持ちにはなれませんでした。それよりもこの淋しい場所から一刻も早く離れたかったのです。
 以来この場所を「百拾わず」と呼ぶようになりました。隣の相原にも同じような話があり「百取らず」と呼んでいます。

犬目の兵助さん
 天保のころの話です。この頃は天候が不順で作物が取れず、餓死者が続出していました。となりの山梨県の郡内地方では代官所に救済を求めましたが、聞き入れてもらえませんでした。犬目村の兵助と下和田村の武七、それに医者をしている黒野田村の泰順らが中心となって天保7年(1836)ついに一揆を起こしました。結集した大勢の農民たちは笹子峠を越え熊野堂の小川奥右衛門や八日町の竹原藤兵衛の家を襲いました。一揆側にははならず者も加わり暴徒化したため郡内の農民は引き上げました。諏訪藩では国境を警備、甲府城代からは暴徒を捕らえるため大勢繰り出されました。首謀者の下和田村の武七は代官所に自首、兵助は妻に罪がおよばないよう離縁状を出し、長い逃亡の生活を始めました。逃亡の旅は、犬目から山中を潜り抜け三峰、高崎、善光寺、京都、岩国、四国、木更津など苦難の旅を続けました。旅先ではお礼に文字やそろばん、平方根や立方根を教えたといいます。
 逃亡の旅を綴った日記は木更津以降が書かれていません。そのため兵助さんが何時頃、どこで亡くなったかは今でも分らないようです

             
                大戸 権現堂谷ツ 

 後年、久保沢に住む八木七之助の父、太郎左衛門は明治25年11月24日、「末期の談話」の話として郡内騒動をこんな風に語りました。
 「久保沢こぼれ話」によると 「・・・・犬目村の兵助は逃げのびて坊主になり、あちこちに隠れていたが、老年になって大戸(今の町田市大戸)の権現堂谷ツで死んだということだ。」ここまで話すと父太郎左衛門は気分が悪くなり、これ以上話し続けることができなくなりました。そして26日、眠るようにあの世へ旅立ちました。
 権現堂谷ツのどこだか、いつ頃だったか、今となっては分らなくなってしまいましたが「久保沢こぼれ話」の最後は「郡内騒動」の話で終わっています。この話はとても民話とは云えませんが、苦しさに喘いだ農民たちの深い悲しみを絞り出すかのようにして語ったのです。

オオカミの恩返し
 昔、雨降(あめふらし)の木屋の家にオオカミが来た。オオカミは「ウーウー」うなってとても苦しそうにしていた。真っ赤な口をあんぐりと開け、こっちをじーっと見て何かをたのんでいるように見えた。バア様は腰を抜かすほどびっくりしたが、やがておそるおそるオオカミの口を開けて見た。のどの奥に白いものが刺さっているのが見えた。しっかりもののバアさまは「喰うでねえぞ、とびつくでねえぞ」と言いながら口の中に手を入れ刺さっている白いものを抜いた。オオカミは「ありがとう、ありがとう」と、何べんも何べんも頭をさげながら山に帰って行った。
 翌朝、バア様が雨戸を開けると、柿ノ木の下に昨日のオオカミが座っていた。足元には二羽のキジが並べてあった。オオカミはバア様の顔を見ると、だまって山の方へ帰って行った。
 この話を聞いた雨降の人たちは「オオカミが恩返しをしたんだべ」とうわさしあった。


下馬の梅
       
 
 昔、八王子城が豊臣秀吉の軍勢に攻められ落城した時の話です。どうやってここまで辿り着いたか分かりませんが、伝令の任務を帯びたひとりの騎馬武者がやって来ました。
 騎馬武者は着くなり土地のお百姓さんに筑井城が今どんなふうになっているか訪ねました。お百姓さんは「筑井城は落ちてしまいましたよ」と言いました。騎馬武者はがっくりとして馬から下りました。そしてムチのかわりに持っていた梅の枝を道端に突きさしました。
 やがて、その梅が根付き春ともなると沢山の梅の花が咲くようになりました。いつしか人々は下馬梅と呼ぶようになりました。また、逆さに咲くので逆さ梅とも呼んで大切にしてきましたが、大正の終わり頃、つきてとうとう枯れてしまいました。

小松の金子さんから聞いた話
 昭和17年に、すぐとなりの県道の工事をやった。川尻八幡さんの所は高かったので土を削って小松の低いところまでトロッコで運んだ。工事が終わってだれもいなくなると、そのトロッコに乗って遊んだ。
 その頃、シンジュの木を5本植えた。4本は杉の木のところに植えたので枯れた。1本は最近まで県道の脇にあった。2枚のエガにシンジュの葉をしいてシンジュサンという蚕を育てた。これで糸を作って丈夫なパラシュートをこしらえた。
                       聞き取り 2005.4・30

谷が原に運ばれた塔王様の話

              
               谷が原の塔王さま 
 昔、川尻八幡宮の長い参道には松の並木が植えられていたため別名を並木八幡とも呼んでいました。その参道から町屋に通じるところに「塔ノ越(とうのこし)」と呼ばれているところがありました。そこには立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、昔からこの石塔を拝めば、はやり病にはかからないと云われていました。
 江戸時代の終わり頃、長崎から始まったコレラが日本中にあっという間に広がりました。この町屋でも何人もの人が死んでしまいました。村人は一生懸命この石塔を拝みましたが、ご利益はありませんでした。
 ちょうどその頃、並木に乞食坊主が住んでいて「あの塔は大変な厄病神だ」と云った話が村中に広がりました。正直者の町屋の人たちはすっかり信用し「大川へ持って行ってツン流してしもうベエ」という事になりました。
 運ぶのはかねてからの働き者、提灯屋の四郎さんとまま下の角さんです。さすが昼間、運ぶのは気がひけたのか夜中に運ぶことになりました。石塔をコモで包み荒縄でしばって、丸太ん棒に結んで運び出しました。真っ暗な夜道をどんどん進み、やがて谷が原の山中まで来ました。どちらが言い出したのか「こんなことをやってると夜が明ける、どうよここらへ打っちゃってしもうべぇ」「そうすんべぇ」そう云って二人は、谷間に転がり落とすと、逃げるようにして帰ってしまいました。
 何日かたって、田んぼの見回りに来た八木金兵衛さんは、あやしげな物体があるのに気がつきました。おそるおそる近寄ってコモを開けてみると中から石塔が出てきました。「とんでもねえことをするもんだ」信心深い金兵衛さんは、さっそく部落の人の手をかりて、この石塔を谷が原の山の上にまつりました。
 そんなことがあってしばらくした明治35・6年ごろ再び疫病が流行り始めました。町屋では何人もの人がなくなりましたが、谷が原の人は大丈夫だったそうです。
 現在、塔王様は若葉台団地建設で別の場所に移されましたが、今でも毎年9月10日になると谷が原の人たちによって塔王様のお祭りが行われているそうです。

きつねがいたころの話
 終戦の頃、八幡様の南側の「ふかっぽり」と云うところにきつねが住んでいました。
 冬の夜の物音ひとつしないしんしんとした八幡神社の森にさしかかったとき、突然ザーザーと風が吹き始める音にまじって「オギャーオギャー」と赤ん坊の泣く声が聞こえてきました。「私のそら耳かな」と思いまた歩き始めるとまた、ザーザーと風が吹き始め赤ん坊の泣く声が聞こえてきました。ゾーッとして駆け出してしまいました。あとでお婆さんに話したら「そりゃあ、きつねのお産があったんだろうよォ」と、あっさり云われてしまいました。
 こんなこともありました。「夜、ふかっぽりを自転車で通ったら、急に後ろの荷台が重くなったんでペタルが踏むのがやっとだったよ。どうしたのかと思っていると、急に軽くなったんでよく見たら、苦久保のお稲荷様のめーん(前)とこだったよ」と。
 
 城山工業の前の小松川には昔、堰がありそこから広田の田んぼに水を流していた頃の話です。町屋の人が穴川の酒屋さんに酒を買いに行った帰り道、堰のところまで来ると今までに見たこともない道がありました。「こっちを通って見んベぇ」と足を踏み込みました。「ああっ」川の中にジャブーンと落ちてしまいました。帰ってからわけを話すと「どうせ、きつねがだましたんべぇ」と云われてしまいました。
 
          参考資料
          広田のあゆみ 平成4年2月発行
            (広田小学校創立十周年記念誌)
          他

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