尾崎行雄(咢堂)、「先賢彰徳碑」の碑文裏
                                                         
2017・12・29 作成
  
  小仏関所址 尾崎行雄書 「先賢彰徳碑」
 現在、相模原市南区相武台公民館において、2018年1月11日まで、涌田佑先生による尾崎行正・咢堂親子展 が開催されました。
 企画展では、主に咢堂のお父さんにあたる行正について研究発表がなされています。その中でも特に目をひいたのが、大きな「先賢彰徳碑」の拓本です。
 先生に、その「先賢彰徳碑」裏側の碑文について、お尋ねしたところ、「ここ」と云って、ボ−ドの裏側を案内して下さいました。私は「ワーッ」と驚いて絶句してしまいました。何とユーモアにたけた先生なのでしょう。表のボードに「先賢彰徳碑」の拓本を貼り、そのボードの裏側に碑文の解説文をつけ加えたのです。ボードを石碑そのものに見立てたのでした。
      只今工事中、(ちょっとだけの)ご報告です。
 主な展示の内容(部分)
    
 「先賢彰徳碑」の拓本 先生による裏面金石文の解説  伊勢湾の大湊  藤森弘庵

   すがすがし 関所の跡の松風に とこしへ聞くハ 大人(うし)たちのこゑ  (与謝野 寛)
小仏之関拠山河景勝
古来為固甲武要枢之区

而関吏有落合直亮・直澄兄弟及川村光豁等之名士
其学徳志業
可伝後世者也
直亮通称源一郎
天資剛健慷慨好義
少壮修経史 又受国学於古河藩士堀秀成
小野崎・佐藤等子弟亦受其教訓云 
文久三年幕府募浪士也
直亮応之上京
清川八郎等謀時事
冒危険奔走国事 
小仏の関、山河景勝に拠(よ)
古来甲武要枢(ようすう)の区の固めとす。  
而して関吏落合直亮(なおあき)直澄兄弟及び川村光豁(みつひろ)等の名士有り。
其の学徳志業共に後世に伝ふるべきものなり。
直亮通称源一郎
天資剛健慷慨にして義を好む。
少壮にして経史を修め、又国学も古河藩士堀秀成に受く
小野崎、佐藤ら子弟、亦その教訓を受くると云う
文久三年幕府、浪士を募るなり。
直亮これに応じて上京し清川八郎ら時事を謀る。
しばしば)危険を冒(おか)し国事に奔走す。
小仏の関
矣 い
落合直亮(なおあき)
直澄兄弟
川村光豁
志業(しぎょう):学業・事業にこころざすこと
慷慨(こうがい):1 世間の悪しき風潮や社会の不正などを、怒り嘆くこと。
2 意気が盛んなこと。また、そのさま。
堀秀成

小野崎、佐藤ら子弟
清川八郎
明治元年正月再上京 見西郷隆盛告関東之事情
二月蒙岩倉公之内命有所視察形勢
後任伊奈県判事又為大判事 六年辞職 

陸前志波彦塩釜神社等宮司
廿七年十二月十二日卒年六十七

昭和三年十一月特贈従五位
国文家落合直文其養嗣子也  
直澄通称一平

性温厚 幼好学 亦師事秀成
明治元年官軍参謀河田佐久馬等経甲州過比地

明治元年正月再上京し西郷隆盛にまみえて関東の事情を告ぐ。
二月岩倉公の内命を蒙(こうむ)るところにありて形勢を視察す。
後伊奈県判事に任し、又大判事となり六年辞職。
陸前の志波彦塩釜神社等の宮司、
廿七年十二月十二日卒す。年六十七

昭和三年十一月特に従五位を贈らる。
国文家落合直文は其の養嗣(ようし)なり。
直澄は通称一平

性温厚、幼にして学を好み、亦秀成に師事す。
明治元年官軍参謀河田佐久馬等甲州を経て比の地を過ぐる。
岩倉公の内命
形勢(けいせい):なりゆき
伊奈県判事
志波彦(しわひこ)


落合直文

秀成
河田佐久馬

従之属大監軍有功於野州之軍
二年補神祇官宣教師権少博士昇大教正尽力於布教
余暇考究 有著書数十種
廿四年一月六日病没五十二
川村光豁通称正平幼名恵十郎
少嗜武技尚
気侠
為人豁達好赴人急
従秀成及赤松光映受学
元慶之際幕府下令戒武備乃上書言事
従総裁前橋候赴京
後任一橋候為小十人頭食二百石

これに従ひ大監に属し野州の軍(いくさ)に功有り
二年神祇官に補せられ宣教師権少博士大教正に昇り
力を布教に尽くす
余暇考究し、著書数十種有り
廿四年一月六日病没、五十二
川村光豁(みつひろ) 通称正平、幼名恵十郎。
少にして武技をたしなみ、気侠尚。
人となり豁達にして人の急に赴くを好む。
秀成及び
赤松光映従い、受学す。
元慶の際、幕府下令して武備を戒む。すなわち言事を上書す。
総裁前橋候に従ひ京に赴く。
後、一橋候に任じ小十人頭となり二百石を食む。

大監
野州の軍(いくさ)
神祇官
宣教師権少博士大教正
嗜 たしなむ
気侠( ):
豁達(かったつ):心が大きく,小さな物事にこだわらないさま。度量の大きいさま。
赤松光映
元慶の際  
調査要
総裁前橋候・一橋候
至明治維新仕大蔵内務両省
髄大久保公航清国
遇甚厚
後又宦宮内省内閣記録局
辞職後補東照宮禰宜赴日光
卅年六月十三日病没年六十三
如此英髪之傑出者雖素因師之薫陶
或山水霊秀之気発於其人
亦不可知也
於戯偉
茲浅川好史会員相謀将建碑闡揚諸賢之潜徳
請余属文得義
以辞乃叙其梗概云
明治維新に至り、大蔵内務両省に仕え、
大久保公に髄ひ、清国に航し眷として遇さること甚だ厚し。
後、又 宮内省・内閣記録局に
(つか)える
辞職後は東照宮禰宜に補され日光に赴く。
卅年六月十三日病没、年六十三。

かくの如く英髪の傑出するはもとより師の薫陶(くんとう)(いえども)
或は山水霊秀の気 其人に発せしむる
また、知るべからざるなり。
戯吟
ここに)浅川好史会相謀りてまさに碑を建て諸賢の潜徳を闡揚せんとし
余に属文を請ひ義を得せしめんとす。
もってすなはち梗概を叙
(の)ぶるという。 
眷(ケン):かえりみる
遇(ぐう)さる:人をもてなす。待遇する。
宦:役人。官吏。つかえる。
禰宜(ねぎ):神職の位の一つ。

英髪
傑出
薫陶(くんとう):徳の力で人を感化し、教育すること。
諸賢の潜徳
闡揚(せんよう):はっきりとあらわすこと。
属文
:文章を書く
梗概(こうがい):物語などのあらすじ。
あらまし。大略。
昭和五年歳在庚午五月  浅川好史会建之  
後学天野佐一郎撰
書   石工佐野藤二郎
昭和五年歳在庚午五月  浅川好史会これを建つ
後学天野佐一郎撰あわせて書   石工佐野藤二郎
後学
天野佐一郎


落合直亮(なおあき)/1827年(文政10)8月26日?1894年(明治27)12月11日.小仏関吏,国学者.落合貞蔵の長男として駒木野に生まれ,関吏を継ぐ.源一郎と称し,鷹山と号す.前期は直秋と書いた.遠山雲如に漢詩を,堀秀成に国学を学び,天然理心流の剣術を習う.53年(嘉永6)米国使節来航入津に奮激し国事に奔走.67年(慶応3)小島将満(相楽総三)らと薩摩藩邸に籠り,水原二郎と名乗って倒幕運動を展開.12月25日幕府軍に襲撃され船で脱出,翌1月4日京都の鹿児島藩邸に西郷を訪ね,関東の事情を報告.のち権田直助と関東探索.その間相楽らは赤報隊と称し東山道を進軍したが,のち赤報隊解隊後も官軍先鋒嚮導隊と唱えて東山道を進み,「偽官軍」とされ処刑された.これを憤り岩倉暗殺を試みるが逆に説得される.同5月刑法官監察試補,8月伊奈県判事.70年(明治3)伊奈県大参事(知事).71年4月濫造貨幣取扱方不始末及び国事犯連累の嫌疑を受けて免官.73年3月志波彦神社初代宮司兼大講義,同7月宮城県内教導取締.この間に旧伊達藩士鮎貝家の亀次郎(のち直文と改称)を養子に迎える.塩釜神社宮司,神宮称宜,神宮教院育材課長,同講究課長,宮城本部長,鹿児島本部監督,補大教正などを歴任した.東京青山墓地に墓がある.幕末の駒木野時代には直亮が中心となり一つの文化圏を**成,のちの直文の作歌には直亮ら落合家の教養と精神が色濃く反映しているといわれる.直亮の無念の草莽時代の活躍については直文が「しら雪物語」に記している.(館報15,20,23.『相楽総三とその同志』長谷川伸.{落合直文とその周辺}落合秀男.「草莽落合源一郎覚書」高木俊輔.『落合直文』前田透ほか)  Web八王子事典
落合直澄国学者。武蔵多摩郡生。国学者直亮の弟。通称一平、号は小慎舎。御巫清直・堀秀成・富樫広蔭に師事し、国学・詩文を学び、兄直亮と共に国事に奔走した。神祇官宣教師・伊勢神宮祠官等を経て大教正に至る。著書に『古事記後伝』『上古物語』等がある。明治24年(1891)歿、52才。  コトバンク
川村光豁(みつひろ)/1835年(天保6)7月7日、1897年(明治30)6月13日.関吏,のち官吏.小仏関吏川村文助正朝の長男として生まれる.恵十郎と称し,松所(しょうしょ)と号す.維新後名を正平と改める.東叡山寛永寺で,竹林坊赤松光映の薫陶をうけ,国学を堀秀成に,剣を天然理心流松崎和多五郎に学ぶ.55年(安政2)2月小仏関所番見習.62年(文久2)10月武具類修復方歎願で出府,一橋家御用人平岡圓四郎と親しくなり,12月一橋家に仕える.上京.65年(慶応1)御目付支配書役.73年(明治6)大蔵省に出仕,74年内務省,78年地方官会議御用掛,のち宮内省,日光東照宮に務める.(多摩文化24号)   Web八王子事典

堀秀成幕末から明治期の国学者、神職。下総国古河藩士。別名は茂足。通称は内記、八左衛門。号は琴舎、足穂家。1840年代に、駿河国など全国各地に赴き、執筆、講演した。また、皇大神宮の禰宜となった。明治期には伊勢神宮や金刀比羅宮で教師を務めた。
天保13(1842)年頃から嘉永元(1848)年にかけて駿河・甲斐をはじめ諸国に赴いて執筆・講義した。甲斐では、市川・甲府・韮崎などに出講した。
           神武崇神両朝着目簽 ,堀秀成 著 温故堂 1875  国会図書館デジタルコレクション
           神名考   神道同志会出版部 明42.5         
  Pid/815676

小野崎、佐藤
(問い合わせ中  2017・1・18)

清川八郎/清河八郎(きよかわ はちろう、文政13年10月10日(1830年11月24日) - 文久3年4月13日(1863年5月30日))は、江戸時代末期(幕末)の庄内藩出身の志士。田中河内介とともに九州遊説をして尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ、一方で浪士組を結成し新選組・新徴組への流れを作り、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。/幼名は元司、諱は正明、号は旦起、木鶏。本名は齋藤正明で、清川八郎と改名したのち、清河八郎を名乗った。山形県庄内町の清河神社に祭神として祀られている。位階は贈正四位。  ウィキペディア

落合直文/1861年12月16日(文久元年11月15日) - 1903年(明治36年)12月16日)国文学者・歌人。陸前生。幼名は亀次郎、のち盛光、号に桜舎・萩之舎等。直亮養子。国語・国文学の泰斗として知られる。また短歌革新を目ざして浅香社を結成し、与謝野寛ら多くの歌人がここから生まれた。流麗な調べの歌を残した。明治36年(1903)歿、43才。   コトバンク
       落合直文他 明治文学全集  44  筑摩書房 1969  Pid/1674199
              奈良朝の文学  P7〜11
              学弟与謝野鉄幹ニ与ふる文 P32〜33
              しら雪物語 P54〜60

 
河田佐久馬(のちの景與)
慶応3年(1867年)、王政復古の大号令により朝敵であった長州藩が宥免され、倒幕のために長州藩兵が上京したのに伴い、河田らも鳥取に帰藩。翌慶応4年(1868年)の戊辰戦争勃発後は、東山道先鋒軍(総督は岩倉具定、参謀は板垣退助)に加わり、鳥取藩兵参謀となり、そして志願農兵山国隊の隊長も兼ねた。3月の江戸開城後は北関東に転戦し、4月下旬に
宇都宮城の戦いで活躍。自ら抜刀して敵陣へ向かい、大声で配下の将兵を鼓舞したという。閏4月には政府軍下参謀に就任、会津戦争に従軍する。これらの活躍が認められ、賞典禄450石(鳥取藩士としては最高額)を与えられた。ウィキペディア
赤松光映 江戸後期-明治時代の僧。文政2年12月19日生まれ。江戸寛永寺の見明院光千について出家。比叡(ひえい)山で修行し,弘化(こうか)2年大阿闍梨(あじゃり)となり,比叡山の金台院や大和(奈良県)竹林坊の住持をつとめる。明治8年延暦寺(えんりゃくじ)座主(天台宗管長),12年大教正。明治28年8月15日死去。77歳。豊後(ぶんご)(大分県)出身。字(あざな)は曇覚。号は如如院,棘樹,一如庵。著作に「初心暗誦要文」「武峰論話」など。 コトバンク

総裁前橋候松平直克)/前橋への復帰と明治維新/直基系越前松平家は18世紀半ばの松平朝矩の代に前橋城を本拠とする前橋藩に転封してきたが、度重なる利根川による浸食被害を受けて崩壊の危機に晒された前橋城を放棄し、幕府の許可を得て武蔵川越城に本拠を移転(川越藩)、前橋は分領として派遣の代官支配とした。前橋城は明和6年(1769年)に廃城・破却されていたが、旧来の藩都である前橋領では前橋城再建と藩主の前橋復帰の要望が強かった。天保年間に郡代奉行の安井政章(安井与左衛門)の指揮の下で利根川の改修が進められたことに加え、横浜開港後に前橋領の生糸の外国輸出によって財を成した前橋商人の間に、前橋城再建・藩主「帰城」のため藩に献金する経済力と気運が高まった[5]。直克は文久3年(1863年)、幕府に願い出て前橋城の再築城を開始(工事の開始は5月であるが[6]、幕府から正式な許可が下りたのは年末である)。慶応3年(1867年)3月、直克は前橋に本拠を移し、再び前橋藩となった。
慶応4年(1868年)3月、新政府に帰順して上野全土の鎮撫を務め、続いて会津藩と戦った。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により前橋藩知事に任じられるが、8月17日に、長男・恒之丞(後の直之)が幼少であったため、家督を養子の直方に譲って隠居した。  ウィキペディア
一橋候大久保公(省略)
天野佐一郎/?〜1960年(昭和35)2月26日.明治初年に忠生村(現・町田市)図師に生まれる.教師・郷土史家.青梅の御嶽小学校教諭を務めたのち,1920年(大正9)4月から46年(昭和21)3月まで府立第二商業高校漢文の教師を務める.28年多摩勤労中学教師を兼任.22年8月30日八王子史談会を清水庫之祐と結成,機関誌「多摩史談」創刊.25年『明治天皇駐??記』『碧血余話』,27年『横山史蹟』『多摩陵付近の地誌』『多摩の史蹟』などを発表.32年『横山根元記』を中村成文と復刻.八王子知新会を創設し,42年11月八王子千人隊展覧会を開催.46年以降,故郷の忠生村に帰り,村長を務めた.59年漢詩集『况堂詩鈔』刊. Web八王子事典

参考 明治以降の塩釜神社/1871年(明治4年)に志波彦神社が国幣中社に列格、1874年(明治7年)12月に志波彦神社が別宮本殿に遷宮されると同時に鹽竈神社が国幣中社に列格した。その後、1934年(昭和9年)から1938年(昭和13年)に志波彦神社が国費をもって社殿新築、1938年(昭和13年)から1942年(昭和17年)には鹽竈神社が国費による修築を行った。 ウィキペディア

 注 碑文は旧字とおもわれるので再調査が必要 2017・12・29 保坂
  
まとめの前段
 「先賢彰徳碑」の裏面に記された碑文を、荒削りのままに、記述を行いました。碑文はどこの書籍からの引用か、出典元が分かりませんし旧字でないため、私自身の気持ちとしては漠然としています。「先賢彰徳碑」に出会った時は、もう10年以上も前のことで、碑文の写真撮影はしておきましたが、仕上がりが逆光のため真っ黒となり、碑文の判読は困難のままとなりあきらめていました。それが知人からのご縁もあり、涌田佑先生の長年のご研究の一端を知ることとなったのです。
 上溝公民館で行われた「伊東方成展」もそうでしたが、記された原稿は台紙のダンボールに模造紙が貼
られ、テープで縁取りがされてありました。すべてが手づくりでできていました。その量は、果てしなくあり本当に圧巻で、圧倒されてしまいました。
 私は、ほんの入り口をかじらせて戴きましたが、すべてはこれからな状態です。先生に追いつこうなどと、大それたことは、考えておりませんが、もう一回は碑文に対面し、自分に納得したいと考えています。(2018・1・19 保坂記
 碑文が漢文のため、私の頭では、とても時間がかかり難しいです。

多摩文化  特集 多摩の群像 第十八号 多摩文化研究会
   天野佐一郎先生の遺影   佐藤孝太郎著
   資料紹介 千人同心関係史料 沢田栄昌具申書・組々同心組頭家筋書 村上直・神崎彰利著

多摩文化  特集 元八王子の研究 一四号 多摩文化研究会
  特別付録 蝦夷地『八王子千人同心』史序説
蝦夷地『八王子千人同心』史序説
勇払
(ゆうふつ)の『八王子千人隊』慰霊祭(菊池侑子)
祭詞(高野文夫)
勇払開拓者慰霊祭の沿革(近江謙三)
八王子千人同心・勇払屯田の歴史を語る座談会

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