ヤマブキソウが咲く春の中沢
                      平成16年4月18日撮影
    
  ヤマブキソウ

    
  中沢のニリンソウ群落地

    
  イチリンソウ               イカリソウ 

  
  朝のウラジロガシ
  4月中旬より樹木保全を目的に支柱の取り付け工事が始まります。
  樹周8.42メートル日本一番の巨木です。


   発掘された灯篭坂
   

 平成14年2月、中沢山王道の道普請を行いました。「小松、飯綱道」の延長で普門寺から中沢を経由、三井に延びる甲州裏?街道とも呼ばれた古道です。特に山王林からの眺めは素晴らしく、その昔、湖底に沈んだ荒川方面の景色を眺め「山王林から荒川見れば何故か荒川ふくべなり」と唄われて来た景勝地です。     
 また途中にある坂道を灯篭坂と呼び、平成14年2月24日に行われた中沢山王道の道普請では埋もれた石造物の発掘も行いました。灯篭坂の名にふさわしく「秋葉大権現」と刻まれた立派な石灯篭です。
この道は旧三沢村、三井と中沢を結ぶ絆の道でもあります。三井には「五入」という珍しい地名や大きな岩石に南無阿弥陀仏と刻まれた徳本上人の名号石、「おおひき石」など歴史ロマンがいっぱいです。

          
           中沢の沢に架かる死人橋とナラカシワ

      右側に湧水がある。
      「あの世の水飲みて、この世に生きる 因って長寿の水なり」と表札あり
      昔、死人を墓場に運ぶためにこの橋を渡った。

 近くには清流中沢にかかる「死人橋」(通行不可)、津久井湖、峰の薬師、城山湖、津久井城跡などもあり豊かな自然環境に恵まれています。往時を偲びながら健康ウオーキングコースとして、また出会い交流の場所として蘇るよう希望します。

     「なかざわ自治会」新聞に掲載された灯籠坂の秋葉灯籠。
                     平成16年1月1日付 発行より


秋葉灯籠の修繕完成
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〜安西石材店が火袋を寄贈〜
堂面上平地区の灯籠坂にある秋葉灯籠は一昨年「屋根のない博物館」を中心とする有志が掘り起こし整備したものでが、石をくりぬいて灯りをともす「火袋」と呼ばれる部分が破損して無いままでした。そのことを知った安西社長が自分の修行時代に製作した火袋を寄贈し復元するとともに、傷んでいる部分の補修をしてくれました。
 昭和30年代の中ごろまでは丸形の火袋がありましたが、長い歳月を風雨にさらされたのでヒビ割れを起こし屋根もろとも崩れ落ちてしまったものと思われます。割れて危険だった屋根の部分も特殊セメントで接着し、石灯籠としての体裁が整いました。
 秋葉灯籠は、これからもずっとこの地域を火災から護ってくれることでしょう。散歩のついでにでも、ちょっと寄ってみてはいかがでしょうか。 

  

    中沢.山王道を歩きましょう

    
       金剛山普門寺権現堂から見た津久井湖の景観

中沢は文化のゴールデンクロス
 数年前、健康ウオークで町屋の人達と中沢を歩いた。私は三嶋神社で蚕影社の話をし、みんなで津久井湖園地に向かう準備を始めた。そして境内の階段を降りながら、「三嶋神社の設計者になったつもりで胸を張って真っすぐ歩いて下さいと云った。「おお」参道真南に城山の主峰が見えたのだ。
 三嶋神社の裏手の高台から見る津久井の景色は最高だ。遠く相模野台地、蛇行する相模川、眼前の城山、そして津久井の山々、こんなにも素晴らしい眺め、何だかもったいない気持ちになる。縄文人も好んで住んだのだろう土器の破片も散在数を増す。
 城山町と云うよりも中沢と云った方が正解かもしれない、道の研究者は私にこんな事を言った。「城山町はゴールデンクロスだ。」と。東西の道と南北の道が交差する所だというのだ。そう思うといろいろなことが連想されてくる。
 東西の道は、信州方面から相模川沿いに千木良から三井を抜けて中沢、そして関東平野に抜ける道だ。最後の難所、大崩(おおくどれ)を抜け、相模川が大きく曲がる所を目印にすればいい、また城山の三角山が山のような字に見える所と覚えておけばちゃんと中沢に到着できるのである。
 津久井広域道路建設に伴う事前の発掘調査で向原の中村遺跡からターバンを巻いた珍しい目隠し土偶が掘り出された。左足の先端が欠けてはいるが他は完全な形を残している。縄文時代中期の土偶で数は少ないが山梨や相模原.多摩地方で出土している。縄文時代中期を代表する勝坂式土器は相模原市勝坂から命名された土器で中沢は勿論の事、中部や関東地方で最も多く見られる。ヤジリの材料となる黒曜石も信州の和田峠から中沢を経由して運ばれたに違いない。これら文化伝播の道は相模川沿いを行き交った。広い台地が急に狭まる中沢の道、急峻な山河を通り抜け急に開ける中沢の道、中沢は交易の地だ。
 南北の道は高麗若光王が辿った道だ。平塚、唐ヶ浜を基点に関東山地の縁を南北に行き交う渡来の道。高麗一族の先祖は養蚕、機織、窯業、水利、牧の経営など当時の最高の文化や技術を伝えた。
 埼玉県日高市に高麗川が流れる。そこには高麗一族を祀る高麗神社や聖天院があり、山地から平野部に抜ける所には巾着田と云う大きく蛇行した個所がある。渡来人の心の古里と云われている所で中沢の近くにもそんな所がある。津久井湖の湖底に沈んだ荒川だ。古い絵葉書や津久井町の古地図展で見た太井村絵図からも伺う事ができる。
 中沢の山王様から荒川を眺めて古人は言った。「山王林から荒川見れば何故か荒川ふくべなり」と。ふくべとはひょうたんの事である。巾着田とふくべの地形はそっくりだ。奈良時代、高麗一族は都や東大寺の建設にも深く関与した。正倉院御物の中に「沙金請文」の文書がある。歴史の本によく登場してくる文書で孝謙天皇が大きな字で宣と署名、その真下に巨萬朝臣福信とある。偉大な偉大な人物だ。
 東西と南北の道が交差する中沢、そして開花する中沢、中沢をゴールデンクロスを呼ぶ所以である。

   
   自然が豊かな中沢  平成15年12月23日 中沢巨樹探訪会より
          日本一のウラジロガシを探訪する人々

  水の里、中沢
「水と緑に町民の健やかさがこだまする…」は城山町新総合計画の一文である。ほとんどの方が津久井湖や相模川を連想されそうだが、私は真っ先に中沢をあげたい。
 人々が暮らすには水がなければ生きて行けない。江戸時代の初め、久保沢宿に太兵衛さんと理兵衛さんと云う二人の名主がいた。意見の対立から代官の裁定で理兵衛さん側が折れ東の原に出た。原宿の始まりだ。原宿は高燥な台地のため井戸を相当深く掘らなければならなかった。水は境川から引いた。玉川上水より前の話だ。水路の途中には小松川が流れているため、そこに木の樋をかけた。原宿用水と云い宿内を流れて山野へ、そして鳩川に合流した。川尻八幡宮の参道付近は高くなっていたため深く掘り下げた。参道には橋を架けた。用水は昭和30年代まで利用され一部は水田として潤いホタルも飛び交った。
 中沢はどうだろう。中沢の流域面積はそうあるわけではないが深い森に包まれているため水量が抱負だ。死人橋の付近ではせせらぎの音が気持ちよく聞こえる。橋の辺には湧水もあり、時折ポリタンクに水を汲む人を見かける。ちょっと大げさな言い方かも知れないが、こんなに美味しい水は他にないと思っている。その昔、この美味しい水を酒にしたお店があった。松永屋酒店だ。大胆なことに中沢からお店まで直接水を引いた。途中には、山王林の山があるのでトンネルも掘った。今でも樋道の奥にトンネルの取水口の跡が残っている。お店は上中沢のバス停を上りきった奥で道が「横引き」と「燈篭坂」に分かれるあたりだ。ここに松永屋酒店があった。信じられないような話だが本当の話だ。道の位置が当時と比べ変わってしまったが今でも坂を上がりきった所に往時を物語る「馬頭観音」が祀られている。そこに小さく「松永屋酒店」とある。
 中沢の水は酒ばかりではない、人々の心を命をも潤した。今の広陵小の六年生が四年生の頃、津久井音楽祭で「中沢竹水道」と題したオペレッタを上演、町の広報誌にも掲載され多くの皆さんに好評を博した。中沢には湧水や横井戸も一部にあるが、人々が暮らすにはどうしても用水が必要となる。村人は中沢から水を引く事を考えた。その方法は村の豊富な竹を利用して樋を作る事から始めた。竹に錘を入れ上下にドンドンと叩きながらその重みで穴を開け、いくつもつなげて樋(竹水道)にした。土地の人は今でもその道を樋道(とよみち)と呼んでいる。竹水道は東京オリンピックが開催される頃まで利用された。
 死人橋の下流40メートルの地点には中沢の水を利用した水車小屋もあった。ニリンソウやヤマブキソウが群生する場所だ。今でも水を引いて水車が回ったと思われる溝跡を見る事ができる。水車小屋は朽ちて今はないが森家に当時の石臼がひとつ残こされている。そこから、もうちょっと下流には製糸工場もあった。水車の力で糸を紡いでいたという

 ほんの小さな中沢ではあるが、そこに人々の生きた証を垣間見る事ができる。行政の境界は川や峰を常としてきたが中沢の人々は昔から流域全体をひとつの世界として考えてきた。物事を流域全体で考える事ができれば流れ出るゴミの問題、利水や治水の事など問題は一気に解決できるのである。中沢自治会、堂面会の存在はそんな所にあるように思う。水は人々の心を癒す。

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