利根川国境に関する資料
 栗原良輔著「利根川治水史」
官界公論社刊 昭和18年7月発行
106Pより(右側に記載 )

東海道五十三次 平塚

丹沢・蛭ヶ岳 
|
八町川原・仁手間 上野国史によると、武州杉山、新井、都島、山王堂、沼和田、仁手等の数村は、古へ上野国那波郡に属していたが、寛永中の洪水で流路が変わり、武蔵国に編入したと記してあるし、又武蔵風土記によると横瀬村華蔵寺大日堂天正十一年の棟札に、上野国新田庄勢多郡横瀬郷とあるし、又和名抄賀美郡郷名に載せてある小島は、今の小島村と考えられるから、烏川の流路は寛永年中(2284−2303)に忍保から八町河原に移ったものと考えられる。
埼玉県深谷市横瀬の横瀬神社別当寺であった華蔵寺大日堂建立時に記録された棟札は、横瀬がかって上野国(現在の群馬県)であったことを証明する貴重な資料となっています。
当時の国境は、現在の豊里中学校裏手あたりと思われます。

武蔵国と上野国との国境付近の地図
横瀬、中瀬は寛永年間まで上野国だった。
平塚より、花水川を過ぎるとこんもりとしたした秀麗な高麗山が見えてくる。高麗山は667年、天智天皇治世の時に唐、新羅連合軍に滅ぼされた高句麗の王族が祖国を追われ、この地に住み着いたと云われています。
高麗若王が北上する道沿いには何故か高麗山、鷹鳥山、高取山、高尾山、大高取山と云った山名がつきます。この山沿いのコースは、毎年9月下旬から10月上旬にかけサシバの大群が上昇気流に乗りながら南下、更に知多半島の先端伊良子岬に終結して沖縄、台湾やフィリピン方面で越冬する。鷹の渡り道でもあります。
正確には相模国、国府本郷を基点に北上する南北線を延長し、当時の上野国との国境までの距離を三分割してみます。そうすると、不思議な図式が出てまいります。
更に、丹沢山塊の主峰、蛭ヶ岳(海抜1673メートル)を基点に、雄龍籠山を通過する斜めの延長線上に一宮氷川神社決定ラインが確立できます。そして鎌北湖の西にそびえる「根深岩」の延長真東ラインが交差する箇所が氷
|