赤い鳥と川尻小の子供たち

  朝  (推奨) 川尻小学校高二   田中光

  つめたい朝、
  雨戸をあけると、
  もずの聲がした。
  弟が、
  日の出に向かって、
  綿をとばしてる。
  朝焼けの空、
  弟がなつかしさうに見てる。


  選評 北原白秋  
田中君の「朝」は冷たい中に愛情の温かみが出てゐる。弟が日の出に向かって綿を飛ばしてゐるのがさうだ。朝焼けもいい。 




   
にほひ   (佳作) 川尻小学校高二   田中光
 
   
 昭和3年4月号 (20巻第4号)に掲載された作品より

知らない虫のそばで、
お父さんが、
なわをなってゐる。
あたらしいわらのにほひ、
しばのにほひ、
枯草のにほひよ。


ふくろ花  (佳作) 川尻小学校高二   小林しん

ふくろ花さいた。
からすが一羽こちらへあるく。
そのたびごとに、
ふくろ花がゆれる。

                                                 
 上記の作品は、川尻小の子供たちが「赤い鳥」に投稿していた最後の作品です。「赤い鳥」は大正7年7月1日、鈴木三重吉らによって創刊された児童文芸雑誌で、第2次「赤い鳥」を含めると昭和11年まで続きました。詩は北原白秋が担当、全国からの参加校は320校を超え、毎月2000名以上の詩を通覧したと云います。また白秋自身も328編もの創作童謡を「赤い鳥」に発表しました。
 さて、平成6年6月21日付、神奈川新聞に「「童謡の日」「赤い鳥」運動と神奈川の子供たち」と見出しの付いた記事が掲載されました。記載i者は故野上飛雲先生(元三浦市長・三崎白秋会長)で活躍した神奈川の子供たちを紹介されました。

 (上略)神奈川の初登場は、大正8年4月号、中郡旭村真壁勝治「ねんね草」と早かった。学校の先生の指導による活動は、大正10年6月号から横浜市青木小学校。大正12年からは三浦郡三崎小学校の台頭があり、津久井郡川尻小学校が進出。大正15年は両校を中心に神奈川黄金時代を築いている。
 「赤い鳥」童謡応募運動15年の歴史に、神奈川からの参加校は40校を超え、児童の入選者延べ600人に達する光輝ある実績は、神奈川のこの種の運動としては特筆事項であろう。
 ちなみに、彼らの樹立した金字塔は、
上位入選校 入選数 参考  担当された先生方   
三崎小学校    188篇 木村直治・内海延吉先生  
川尻小学校 146篇 村松八郎先生
下野谷小学校  46篇 村松八郎先生
青木小学校  28篇 小野等先生
協心小学校  24篇 村松八郎先生

入選個人別上位者別 学校名 入選数        
山下 あさ 川尻小 23篇
田中 光(みつ) 川尻小 21篇  昭和7年5月19日 享年20才
岩野 喜代子 三崎小 20篇
八木 やす 川尻小 12篇
鈴木 ふみ      三崎小 11篇       

となり、最年少は村岡小学校尋一、林一三であった。
 「赤い鳥」童謡運動の特色は、この運動を地域で支えた先生の名前が一行もないこと。
 80歳を超した当時の学童詩人たちによると、三崎小学校の木村直治、内海延吉。川尻小学校の村松八郎。青木小学校の小野等々の先生方の名が回顧されてくる。
 ことに、村松八郎先生は津久井郡協心小学校から川尻小へ。さらに横浜市の潮田小、下野谷小と転じ、各勤務校の子供たちを「赤い鳥」の花園で活躍させている。神奈川の童謡運動史に遺
(のこ)る一人で、川尻小学校時代の山下あさ、八木やすの二人は「良寛さんのような先生ー」と追憶している。
 大正の童謡勃興期に、神奈川の子供たちと先生方が「赤い鳥」の誌上に築き上げた金字塔の輝きを「童謡の日」に称えたい。新しい童謡おこしのためにも。 (三崎白秋会長
 野上飛雲)
 沢山の詩を投稿、黄金時代を築いた神奈川の子供たち、とりわけ三崎小学校、川尻小学校の子供たちに、あらためて敬意を表したいと思います。
 平成4年2月、「赤い鳥」に応募した川尻小の子供たちを追って、樋口先生は詳細な調査を続けられ町の広報誌「町史の窓」欄に子供たちを紹介しました。また、それと同時に投稿された子供たち全員の詩もまとめられ冊子を刊行されました。
 「「赤い鳥」旋風が吹く」、育て次代の詩人たちへ。

              詩人川尻小学校の子供たち詩の全文へ
              川尻小学校の詩人たちと先生方(最前列右から5人目が村松先生)
                               写真 故小池(旧姓八木)よしさん所蔵
  
大正14年10月号 (15巻第4号)

櫻ん坊 (佳作) 川尻小学校尋六 山崎勤

櫻ん坊もぎに
櫻の木にのぼった。
見ると新道を
自動車が通ってる
下では、
早くもいでくんろよう
といってゐる。


  凡例

○詩はすべて縦書きになっていましたが横書きにしました。
○漢字にはルビがふられていましたが削除、読みにくい字には
  (○○)としてルビに似せました。
○文字の大きさは推奨詩が4mm、他はすべて3mm方眼で表
  わされていました。HPでは4mm方眼にしました。
○方言については「くんろよう」のように赤字にしました。
○「つ」についての標記法は「のぼつた」を「のぼった」にかえました。
○「静か→しづか」は、そのままにしました。
○「いってゐる」→「いってる」、両方の表記がありますがそのままにしました。
○他も原文のままにしました。
              「赤い鳥」に投稿した詩の全文へ 
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    参考 鈴木三重吉と北原白秋の年譜
西暦 年号 鈴木三重吉 北原白秋
1882 明治15年 9月29日、広島県猿楽町に生まれる。 1
1883 明治16年 1 1 1
1884 明治17年 2 1 1
1885 明治18年 3 1 1月25日、福岡県山門郡沖端村に生まれる。
1886 明治19年 4 1 1 1
1887 明治20年 5 1 2 1
1888 明治21年 6 1 3 1
1889 明治22年 7 1 4 1
1890 明治23年 8 1 5 1
1891 明治24年 9 1 6 1
1892 明治25年 10 1 7 1
1893 明治26年 11 1 8 1
1894 明治27年 12 1 9 1
1895 明治28年 13 1 10 1
1896 明治29年 14 1 11 1
1897 明治30年 15 1 12 1
1898 明治31年 16 1 13 1
1899 明治32年 17 1 14 1
1900 明治33年 18 1 15 1
1901 明治34年 19 1 16 1
1902 明治35年 20 1 17 1
1903 明治36年 21 1 18 1
1904 明治37年 22 9月、東京帝国大学文科大学英文科に入学。夏目漱石の講義を聞き敬慕。 19 四月、早稲田大学英文科予科に入学。同級に若山牧水、土岐善磨、佐藤緑葉らがいた。
1905 明治38年 23 9月、神経衰弱のため一年間休学を決心、広島の家や瀬戸内で静養。10月頃より漱石の励ましの手紙を受ける。 20 1
1906 明治39年 24 1 21 1
1907 明治40年 25 1 22 1
1908 明治41年 26 1 23 12月、杢太郎の凱旋により白秋、勇、秀雄らの詩人と、美術雑誌「方寸」を出していた石井柏亭、森田桓友、山本鼎、倉田白羊らの画家とが募り、文学と美術との交流を目的とする芸術懇談会「パンの会」を興す。
1909 明治42年 27 1 24 1
1910 明治43年 28 1 25 春、初めて三浦三崎に遊ぶ。9月、青山原宿に転居、隣家の人妻松下俊子と運命的な出会いが生じた。
1911 明治44年 29 5月、ふじと結婚。 26 1
1912 大正元年 30 1 27 7月、俊子の夫より姦通罪で告訴同月6日、市谷の未決監に拘置された。
1913 大正2年 31 1 28 5月、俊子と正式に結婚。三崎町向ヶ崎に移住する。10月、三崎町二町谷(ふたまちや)の見桃寺に仮寓。ここで島村抱月の芸術座からの舟唄、「城ヶ島の雨」を作る。
1914 大正3年 32 1 29 7月、妻俊子と性格的に折り合わず、遂に離別。
1915 大正4年 33 1 30 4月、弟鉄雄と阿蘭陀書房を創立。
1916 大正5年 34 6月、長女すず誕生。12月、第一童話集「湖水の女」を春陽堂より刊行。 31 5月、平塚雷鳥のもとに身を寄せていた大分出身の江口章子(あやこ)と結婚。千葉県東葛飾郡真間の亀井院に寄寓。6月末、南葛飾郡小岩村三谷に移る。
1917 大正6年 35 1 32 6月、上京して京橋区築地に仮寓。7月、弟鉄雄、阿蘭陀書房を他に譲り、新たにアルスを創立。9月、妹イヱ親友の山本鼎に嫁す。
1918 大正7年 36 7月、「赤い鳥」を創刊。童話と童謡を創作する最初の文学運動。 33 3月5日、小田原町御幸ヶ浜の養生館で借寓。7月、「赤い鳥」の創刊に協力、童謡欄を担当する。10月、聖十字教会の牧師宮澤萬歳の紹介により、同地天神山の浄土宗伝肇寺の庫裏の別棟に寄寓。
1919 大正8年 37 1 34 この年ようやく窮乏の生活から脱した。夏、伝肇寺東側の竹林に「木兎(みみずく)の家」名づけた菅屋根藁壁の住居と書斎を建て移る。
1920 大正9年 38 1 35 9月、「木兎の家」の隣接地に三階建洋館の新築に着手、地鎮祭の夜、妻章子に叛かれて離別。
1921 大正10年 39 1 36 1月、山本鼎、片山伸、岸辺福雄と教育雑誌「芸術・自由教育」を創刊(全9冊。4月28日、大分県出身の佐藤菊子と結婚。8月、軽井沢の星野温泉で開かれた「自由教育」夏季講習会に出講、その時の印象に基ずく「落葉松」を「明星」11月号に発表。
1922 大正11年 40 1 37 三月、長男隆太郎誕生。9月、山田耕作と芸術雑誌「詩と音楽」を創刊。
1923 大正12年 41 1 38 9月関東大震災で山荘が半壊し、しばらく竹林で生活送る。10月、「詩と音楽」は震災記念号を出して廃刊。
1924 大正13年 42 1 39 1
1925 大正14年 43 1 40 6月、長女篁子(こうこ)誕生。
1926 大正15年 44 1 41 5月、小田原(8年2ヶ月)の生活を終え東京谷中に転居。同年、小田原時代の童謡「からたちの花」や「像の子」などを刊行。
1927 昭和2年 45 1 42 3月、大森郊外馬込緑ヶ丘に転居。
1928 昭和3年 46 1 43 4月、世田谷若林に転居。
1929 昭和4年 47 2月、「赤い鳥」廃刊。 44 1
1930 昭和5年 48 2月、「赤い鳥」復刊準備に着手。同月、肺炎にかかり重体となった。4月上旬まで就床。 45 1
1931 昭和6年 49 1月、「赤い鳥」復刻。第2次「赤い鳥」には白秋、山田耕作、久保田万太郎、宇野浩二らに加えて坪田譲治、豊島与志雄、井伏鱒二、平塚武二、森三郎らも新しく寄稿。挿絵は清水良雄、深沢省三ら。 46 5月、「赤い鳥童謡集」を編んでロゴス書院より刊行。
1932 昭和7年 50 1 47
1933 昭和8年 51 1 48 4月、16年間提携してきた三重吉と絶交し、「赤い鳥」との関係を絶った。
1934 昭和9年 52 1 49 1
1935 昭和10年 53 10月、喘息のため臥床。 50 1
1936 昭和11年 54 6.27永眠。8月、「赤い鳥」終刊。10月、「赤い鳥鈴木三重吉追悼号」を刊行。 51 1月、砧村喜多見成城に転居。
1937 昭和12年 1 52 11月10日、糖尿病、腎臓病による眼底出血を起こし入院。
1938 昭和13年 1 53 1
1939 昭和14年 1 54 1
1940 昭和15年 1 55 4月、杉並区阿佐ヶ谷に転居。
1941 昭和16年 1 56 1
1942 昭和17年 1 57 11・2 永眠 
1943 昭和18年 1 1
1944 昭和19年 1 1
1945 昭和20年 1 1
1946 昭和21年 1 12月、狂った章子は座敷牢の中で59才の生涯を閉じる。
1947 昭和22年 1 1
1948 昭和23年 1 1
1949 昭和24年 1 1
1950 昭和25年 1 1

参考 『ごんぎつね』の作者、新美南吉(にいみなんきち)の略年譜
1931 昭和6 18 3月、南吉、(愛知県)半田中学校卒業。岡崎師範学校を受験するが体格検査で不合格。4月から8月まで母校の半田第二尋常小学校に代用教員として勤務する。
『赤い鳥』に、「正坊とクロ」(8月号)、「張紅倫」(11月号)が掲載される。
1932 昭和7 19 4月、南吉、東京外国語学校(現・東京外国語大学)英語部文科に入学する。
『赤い鳥』に「ごん狐」(1月号)、「のら犬」(5月号)が掲載される。
12月、南吉が「赤い鳥4(6)」に「島(童謠) 」を投稿する。pid/1742152
きのこ(表紙) / C水良雄
草堤(曲譜) / 草川信 ; 北原白秋 / p2
月夜にも(童謠) / 北原白秋 / p4
ルミイ(童話) / 鈴木三重吉 / p6
わるもの(童話) / 平塚武二 / p20
タニシ太カ(童話) / 八潟豐 / p28
堺騷動(實話) / 中村吉麿 / p36
お月さん(自由詩) / 藤曲武子 / p46
すべりしよ花(自由詩) / 南浪子 / p46
五老峯山(自由詩) / 佐野敬臣 / p47
朝日(自由詩) / 井本良太カ / p47
晝(自由詩) / 三ッ國きさ子 / p48
稻(自由詩) / 森田きぬ / p48
海(自由詩) / 白岩多喜男 / p49
おわかれ(幼年童話) / 大谷猛 / p50
おじぎ(幼年童話) / 名取喜三 / p53
僕の體(童謠) / 高麗彌助 / p56
島(童謠) / 新美南吉 / p57
お染(童話) / 森三カ / p58
牝ヤギ(童話) / 岡崎文雄 / p68
自動車のてんぷく(綴方) / 新海良祐 / p76
おもり(綴方) / 杉本美代子 / p79
どじようとり(綴方) / 稻村惠治 / p82
綱のあんこ(綴方) / 佐々木初枝 / p88
南天の實(自由詩) / 北原白秋 / p94
おしろい花(童詩・童謠) / 北原白秋 / p102
講話・通信 / p106


島(童謡)  新美南吉

島で、或あるあさ、
鯨がとれた。

どこの家
(うち)でも、
鯨を食べた。

(ひげ)は、呻(うな)りに、
売られていつた。

りらら、鯨油
(あぶら)は、
ランプで燃えた。

鯨の話が、
どこでもされた。

島は、小さな、
まづしい村だ。

      註(ちゅう)。鯨の鬚は、凧(たこ)の呻りに用ゐられます。
1933 昭和8 20 南吉、師の北原白秋が鈴木三重吉と訣別したため、この年の4月号を最後に『赤い鳥』への投稿を止める。
1934 昭和9 21 2月、南吉、初めての喀血する。
         資料
          「赤い鳥」 復刻版 発行 日本近代文学館  葉山島・恵泉伝道所所蔵
          神奈川新聞 平成6年6月21日付 記事 
          日本文学全集 鈴木三重吉・森田草平集18 昭和44年9月 集英社
          文芸読本 北原白秋   昭和55年5月 発行 河出書房新社 
          城山町広報「町史の窓」  「赤い鳥」旋風が吹く 平成4年2月
          白秋と「木兎の家」 湯浅浩 小田原ー歴史と文化ー第6号 平成5年1月発行  
                      小田原市役所企画調整部市史編さん室 

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