赤い鳥と川尻小の子供たち
知らない虫のそばで、 お父さんが、 なわをなってゐる。 あたらしいわらのにほひ、 しばのにほひ、 枯草のにほひよ。 ふくろ花 (佳作) 川尻小学校高二 小林しん ふくろ花さいた。 からすが一羽こちらへあるく。 そのたびごとに、 ふくろ花がゆれる。 上記の作品は、川尻小の子供たちが「赤い鳥」に投稿していた最後の作品です。「赤い鳥」は大正7年7月1日、鈴木三重吉らによって創刊された児童文芸雑誌で、第2次「赤い鳥」を含めると昭和11年まで続きました。詩は北原白秋が担当、全国からの参加校は320校を超え、毎月2000名以上の詩を通覧したと云います。また白秋自身も328編もの創作童謡を「赤い鳥」に発表しました。 さて、平成6年6月21日付、神奈川新聞に「「童謡の日」「赤い鳥」運動と神奈川の子供たち」と見出しの付いた記事が掲載されました。記載i者は故野上飛雲先生(元三浦市長・三崎白秋会長)で活躍した神奈川の子供たちを紹介されました。 (上略)神奈川の初登場は、大正8年4月号、中郡旭村真壁勝治「ねんね草」と早かった。学校の先生の指導による活動は、大正10年6月号から横浜市青木小学校。大正12年からは三浦郡三崎小学校の台頭があり、津久井郡川尻小学校が進出。大正15年は両校を中心に神奈川黄金時代を築いている。 「赤い鳥」童謡応募運動15年の歴史に、神奈川からの参加校は40校を超え、児童の入選者延べ600人に達する光輝ある実績は、神奈川のこの種の運動としては特筆事項であろう。 ちなみに、彼らの樹立した金字塔は、
となり、最年少は村岡小学校尋一、林一三であった。 「赤い鳥」童謡運動の特色は、この運動を地域で支えた先生の名前が一行もないこと。 80歳を超した当時の学童詩人たちによると、三崎小学校の木村直治、内海延吉。川尻小学校の村松八郎。青木小学校の小野等々の先生方の名が回顧されてくる。 ことに、村松八郎先生は津久井郡協心小学校から川尻小へ。さらに横浜市の潮田小、下野谷小と転じ、各勤務校の子供たちを「赤い鳥」の花園で活躍させている。神奈川の童謡運動史に遺(のこ)る一人で、川尻小学校時代の山下あさ、八木やすの二人は「良寛さんのような先生ー」と追憶している。 大正の童謡勃興期に、神奈川の子供たちと先生方が「赤い鳥」の誌上に築き上げた金字塔の輝きを「童謡の日」に称えたい。新しい童謡おこしのためにも。 (三崎白秋会長 野上飛雲) 沢山の詩を投稿、黄金時代を築いた神奈川の子供たち、とりわけ三崎小学校、川尻小学校の子供たちに、あらためて敬意を表したいと思います。 平成4年2月、「赤い鳥」に応募した川尻小の子供たちを追って、樋口先生は詳細な調査を続けられ町の広報誌「町史の窓」欄に子供たちを紹介しました。また、それと同時に投稿された子供たち全員の詩もまとめられ冊子を刊行されました。 「「赤い鳥」旋風が吹く」、育て次代の詩人たちへ。 川尻小学校の詩人たちと先生方(最前列右から5人目が村松先生) 写真 故小池(旧姓八木)よしさん所蔵
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参考 『ごんぎつね』の作者、新美南吉(にいみなんきち)の略年譜
「赤い鳥」 復刻版 発行 日本近代文学館 葉山島・恵泉伝道所所蔵 神奈川新聞 平成6年6月21日付 記事 日本文学全集 鈴木三重吉・森田草平集18 昭和44年9月 集英社 文芸読本 北原白秋 昭和55年5月 発行 河出書房新社 城山町広報「町史の窓」 「赤い鳥」旋風が吹く 平成4年2月 白秋と「木兎の家」 湯浅浩 小田原ー歴史と文化ー第6号 平成5年1月発行 小田原市役所企画調整部市史編さん室 戻る |