天野貞祐と三木清の道徳律

作成2012・1・2
追加2012・2・7 年譜の追加
追加2012・10・15 「すきな人」を追加

追加 2013・1・6 「わが人生」の一部分を追加

          撮影2011・11・26

天野貞祐の生家   相模原市旧津久井町鳥屋

はじめに
 2011年3月11日、東日本大震災が起きました。恐らくこれから先も語りつがれることでしょう。これから先どうなるだろう、だれもが考えたことだと思います。
 大正12年9月1日、関東大震災が発生しました。この時期、ドイツに留学していた天野貞祐や三木清らがいました。二人は哲学者カントを始めとするドイツ哲学を学んでいました。
 天野貞祐はその後「道理の人」として教鞭を取りながら教育者の道を歩みました。三木清は激しく揺れる社会の中で、時に検挙されながらも意思を貫き、戦後も釈放されることなく獄死と云う最悪なケースの中でこの世を去りました。
 私は、唐木順三の著書の中から三木清のことを知り、若いころは彼の「人生論ノート」などを読みあさりました。天野貞祐は相模原市旧津久井町鳥屋に生まれたことから地元と云う意識もあり、また哲学者と云う名を聞いただけで何故か敬遠していました。しかし、東日本震災以後、「これから先は、どうなるか」と考えた時、二人の哲学者のことが思い出されてならなかったのです。
 二人は年齢こそ違い同じ京都帝国大学を卒業、同じドイツにも、しかも同じ時期にドイツに留学していました。二人に相互の交流があったのか知りたくなってきたのです。そして、かたや文部大臣までのぼりつめ、また、獄死してしまった二人が目指したものは一体何だったか、そんな運命の軌跡を辿りその生きようを訪ねて見たいと思います。
 
「道理の感覚」が絶版となる
 昭和12年、浜田耕作が京大の総長に就任しました。この年、天野貞祐は、「道理の感覚」を出版しました。この時、天野貞祐は浜田耕作総長の懇請により学生課長を兼任していました。
 昭和13年2月28日、「道理の感覚」が突然の絶版となりました。その経緯を資料ー@の手紙から読み取ることができます。この手紙には「私は自説を譲りませんが」とか「私はいづれは大学も止めねばならぬ時もくるかと覚悟してをります」との記述があり、天野貞祐の強い信念と覚悟を読み取ることができます。絶版とする処置は当時の思想統制下の中ではギリギリの手段ではなかったかと思います。
資料ーABは絶版になった背景を天野貞祐全集の月報から引用してみました。

資料ー@ 「岩波茂雄への手紙」より  昭和13年2月28日付の手紙
       天野貞祐→岩波茂雄へ

拝啓
 今日京大配属将校より「道理の感覚」における軍事教練に関する点につき話があり(この将校は河村大佐と云ひ非常に立派な人物で私も平生好意をもってをる人ですのでよく懇談しましたが)、私は自説は譲りませんが、然(しか)し大佐が実際問題として学生が私の著書を熱読する結果軍事教練に支障を来す恐れあり、職務が遂行出来ぬといふは大佐の立場としては誠に無理ならぬことと考へられ、之を大学の問題とせず大佐と私と二人の間の話合とし度(た)いと言ひます故(ゆえ)私は大佐に対し適当の処置をすると答へました。私はこの点につき考へてみましたが、私は他より強いられることは欲しませんが、然(しか)し大佐が実際問題として困るといふのは尤(もっと)もに思はれますので自発的に止めに致し度(た)く、そのことを貴兄へ御願ひいたし度いと思ひます。一部削除といふことも考えられますけれども結局絶版など命ぜられるよりは此際(このさい)進んで自ら止め度いと考へるのであります。生憎(あいにく)にも第四刷を出されし所にて御迷惑相すまぬことに思ひますが何とぞ御諒承下され御願申上げます。
 実は大佐も諸方より投書が来たりなどして困るといふ話で、どうか大学に事を起し度くないといふ大佐の考に同感されますので右の如き態度に出たいと思ひます。出来るだけ早く御返事をいただき度く、もし電報にても頂ければ仕合せに存じます。私はいづれは大学も止めねばならぬ時もくるかと覚悟してをりますが、さし当っては右の処置に出たいと考へるので御座います。御願用まで。
                     匆々
                      貞祐
         岩波大兄

   御座右
   二伸 なほこのことは大佐と私の他は落合〔太郎〕君に話せしだけにて出来るだけ内部のことにしてをき度く、いづれ総長、西田〔幾太郎〕、田辺〔元〕氏には話しますが其他の誰にも話しません。大兄におかれても其点御願慮願上げます。其他に対しては私は都合あって止めたと答へてをき度い考で御座います。

資料ーA
天野貞祐全集 第1巻 月報  1971年3月  「道理の感覚」について  日高第四郎
(前略)
 一九三八年(昭和13年)三月、京都大学の配属将校河村大佐を通じて、軍事教練に対する批判について問題を堤起された。天野教授は浜田耕作総長への 答申書という形式でこれを返答された。浜田総長も小島祐馬文学部長も、天野教授の学問の自由を擁護する立場を堅持しつつ、先年(昭和8年)の滝川事件の如きものに発展して大なる被害を大学に与えることを予防する意図を以て、最小限度の譲歩の意味に於いて増版せざることを一応の解決策となし、いわゆる筆禍事件に発展しないですまされた。 (後略) (学習院女子短期大学学長)
    筆禍:発表した著書・記事などが原因で官憲や社会から受ける制裁または処罰。
資料ーB
天野貞祐全集 第7巻 月報  1971年7月  京大文学部教授時代  「京都大学文学部五十年史」より
 (前略)さらに昭和十三年には「道理の感覚」中の軍事教練に対する批判が、反軍思想であると軍当局を刺激し、大学と軍部との間に紛争を惹起するに至った。当時は浜田耕作教授の総長時代で、天野教授は総長の懇請により学生課長に就任していた。浜田総長は教授を深く信頼支持するとともに、教授も自説の正しさについて強く信じるところがあったが、結局右著作の自発的絶版という処置は、総長の毅然たる態度と、当時の本学配属将校川村大佐の理解ある処理と相まって、事件を円満解決させた。しかし教授のヒューマニズム的人格主義的信念は、その独自の祖国愛とともに、戦前戦後変転極まりない世相の中にあって、終始一貫してついに変わるところがなかった。

資料ーC
昭和51年、貞祐92歳の時の「わが人生」より 神奈川新聞「日曜連載」記事より 日時不明
 わたしが京大教授時代、陸軍の某若無人の横暴に我慢しかね「道理の感覚」という一書を著して「このままでは日本は亡(ほろ)びることにならざるをえない」と痛論したところ、軍部におもねる人たちの総攻撃をこうむり、京都市内も大学も大騒ぎになりました。
 天下を支配している陸軍に反旗を翻したのだから、それは当然でもありますが「師団」まで立ち上がっても警察が騒いでも、どこが脅してもわたしは平然としていた。関東人という自覚がそうさせたのです。「サガミ人」に近来、この自覚が無くなりつつあることはとても惜しいと思います。
 「箱根の山は天下の険」という歌をわたしたちは忘れてはなりません。神奈川に住むことを誇りに思わなければいけないと思います。

 
皇紀二千六百年記念の「改造

昭和15年1月
改造 新年号 皇紀二千六百年記念号
 昭和15年1月号の「改造」は「皇紀二千六百年記念」を特集しました。同号の「編輯後記」にはこんなことが記されてあります。
○謹んで皇紀二千六百年の新春を迎へる。聖戦正に四ヶ年、かの欧州大戦が四ヶ年を以って終結したことを思へば、犠牲に於いてその比に非ずと雖(いえど)も、今次支那事変が如何に重大難事たるかを更めて痛感する。厳寒の征野に我等の生命線を維持する将兵諸士の艱難労苦に対して衷心の感謝を捧げる。
○世界は益々紛糾する。拡大する欧州動乱は中立国の単なる不介入を許さない。事変処理は如何に実行すべきか。未曾有の難局に堪
(た)へる国民生活はどうなる。百三億の 尨大なる事変予算を前にして、皇紀二千六百年の大祝典は徒らな饗宴であってはならぬ。纏綿たる歴史と伝統を顧みるとき、我らはかかる難局に直面して新たなる決意と勇気を強ひられるのみ。
○聡明なる政治が要望される。物資と武力が動員される。今日は政治と実行の時代だ。だが東亜永遠の平和を建設するものは単なる武力でもなければ政治でもない。彼らを後衛し前導する文化力が更めて検討評価さるべき必要はないか。二千六百年の伝統を誇る日本文化を検討し、文化の力を強調し、科学大衆

化の意義を以って巻頭を飾る所以である。 ○<中略>/○文壇の耆宿露伴氏に歌壇の至宝茂吉を配し、飄逸と滋味横溢の新春放語、また本紙十年振りの大ヒット、斎藤氏の堂々二百十首の力詠、二千六百年を祭る飾る白秋氏の才気縦横の長唄「元寇」、天野貞祐氏の学問と人生等々、正に新春絶好の読物ばかりだ。
<後略>

天野貞祐が「学問と人生」を、三木清が「文化の力」をそれぞれ発表した昭和15年1月号の「改造」の内容。

                                  ↑天野貞祐     ↑三木清
学問と人生 (一)(二)は省略 (三)と(四)の部分の全文
(三)
 上に私は誠実のない処に真の創造のないことを言った。誠は人間の道、人間の実在性のなかであるから誠なくして勝れた創造のあるわけがない。外面からは如何に見えやうとも誠のない活動は空虚である。それは運動であり生成であっても真の創造とはいはれない、否しがし真の創造を阻害する。随って創造の確信には
道徳性がなければならぬのであるが、さうなると学問と道徳との関係が重要な問題となってくる。民族の創造的生命を高揚せしめ、その実体を養ふべき学問は道徳性に反しないばかりでなく、却ってそれを強化する力を有たねばならぬ。然らざれば民族の実態を養ふといふ学問の使命は達成されるわけにゆかぬ。民族の実態は単なる運動、単なる生成でなくして創造的生命であり、道徳的生命だからである。然らば学問は道徳と如何なる関係を有つものであるか。
 学問はもと知識であるが個人の任意な知識ではなくして何人も承認せねばならぬ知識の体系である。例へば林檎が落ちるといふ一つは観察は知識をへても、その知識は直ちに学問的知識とはいへない。この落下の現象を機縁として落下の現象一般を説明しうる原則が発見され、重力の法則といふ原理によって一切の落下現象がその原則の例證として体系づけられるならば初めて学問的知識が成立する。この知識は一定の学問的約束のもとにおいて何人も承認せねばならぬ知識である。個人的、私的な知識ではなくして一般的な公の知識である。公といふこと即ち客観的といふことが学問の本質的性格である。例えば平面幾何学の一問題でも個人が任意に解くわけにはゆかぬ。学問の領域では我儘やごまかしは絶対に通用しない。幾何学に約束に絶対に服従し絶対に誠実に考へなければ平面幾何学の一問題といへども解くことはできぬ。言はば学問のうちに死ななければ真理性は自己を示さないのである。この
私を殺して公のうちに死ぬ、といふ客観性の会得において学問は端的に道徳と交流する、ここに学問が人生と交渉する核心がある。我々は学問によって人間の個人的な利害とか我儘とか私情とかいふ類のものを越した絶対的な領域、客観的なもの、公なものを学び会得する。理論的であれ何であれ、とにかくに人間の私情や我儘を絶対に拒斥し絶対の真理性の支配する客観的領域の実在を認識し確信することは我々の世界の人生観の根柢を築くことである。さうしてこの領域に与り真理性を学ぶ為には学問の約束に絶対に服従し言はばそのうちに死なねばならぬ。学問のうちに死ぬことに山つてのみ学問のうちに生きうるのである。一言にして盡(つく)せば学問精神は私を殺し私を越えて公に仕える精神である。学問精神は即ち奉公の精神である。真理性に身を捧げて労苦を厭はざる純真な心情は硝烟弾雨をものともしない奉公のまごころと一でなければならぬ。真理性への勇気はやがてまた「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ、顧みはせじ」といふ精神でなければならぬ。この精神を背景とする真理性への勇気に対してのみ宇宙の隠された本質は自己を開きその富と深さとを露出するのである。
 かかる学問精神はいふまでもなく
道徳的性格を擔(にな)ふ。道徳といふのは元来人が自己を越す処に成立する。自己を越すことなくして道徳はありえない。自己を越す自己否定が道徳の根本であって、しかもそれは真に自己を生かし真に自己を肯定する所以である。しかるに自己を越え自己を否定するといふことが実にむづかしいことである。如何にエゴイズムが強力なものであり、その克服が如何にむづかしいものであるかは誠実な人の誰でも体験することであらう。また我々の社会においてエゴイズムが生活原理として強く働いてゐる場合も少なくないと思ふ。然(しか)しエゴイズムを克服せざる限り忠君も愛國も成立しない。人が断えず自己の利害のみを考へ自己の利害のみを考へ自己の利益を追求することにのみ汲々としてゐては口にどれほど立派なことを言ってみても空言に過ぎない。道徳は言説でなくして実践だからである。学問はその客観的知識をもって人間の創造性を高めると共に客観性の会得によって自己の超越、公への献身没入を教へる働きを有つのである。それ故に学問を営み知識を開発するといふことは道徳性と無関係どころではなくしてそれによって利己心を克服し奉公の誠を会得する筈である。そのことは専門学の研究においても普通教育における知識の開発についても一様にあてはまることであって真の知育は徳育であると考へられるのである。もちろん私は学問のみが人の道徳性を養ふなどと主張するわけではない。ただ学問的研究や知識の開発に述べた如き関係において深く人間の道徳性と交渉するもののあることを考へたいのである。

(四)
 思ふに国家の隆昌は民族の
道徳力と創造力において成立するのであるが、この根源力を高揚せしめ民族の実体を養ふ働において学問は国家生活に参興し、それによって人生に意味と価値とを有つわけである。この事情を考へるならばドイツの卓抜な政治家が国家危急存亡の秋にあたり、財産の窮乏に拘(こだわ)らず 非実利的な総合大学を創設するといふ非日常的な雄大な構想を理会することができるし、また現在戦争のさなかにあって純粋な学問研究がしこしも歪められず、誠実な徹底性において続けられてゐるといふ意味の理会できるのである。それと共に私は民族の将来に対する教育の重要性を思はざるを得ない。わが国現在の教育については幾多の革新を要するものがある一問題が中等学校入学の問題であることは識者の略ぼ一致する所であらう。入学試験は他の場合にも問題点であるが殊に中等学校への場合において我々の真剣な考慮を促すものがある。わが国の高等学校、大学程度の学生は欧米の学生よりも支那の学生よりも体格において健康において遥かに劣ってゐるやうに観察せられる。さうしてその原因は医科の人達の話を聞くに専ら中等学校への入学試験準備にあるといふことである。一国の前途は青少年の精神と身体との健康と否とにかっかてゐる。それ故にわが国の為政者もかってドイツの政治家がベルリン大学を創設したやうな構想を廻らして先づこの問題を根本的に解決すべきだと思ふ。それには現在のやうに筆答試験を廃して内申と口頭試験によるといふのでは到底問題は解決せられない。私の考では学校の不足する土地には学校を増設し、都会では私立学校を補助監督し、中等学校までは小学校と同じく地域制度を採用し、教師の交流を行って中学校の間に在する差等の観念を除去することが必要である。入学試験は及第者を慢心せしめると同時に落第者を失望せしめ自尊心を失はせてしまふことにおいて実に憂ふべき事情を有する。少年にはいふまでもなく早熟の者と然らざる者とあり、巨材となる者はむしろ怜悧なる早熟者には少ないに拘(かかわ)らず、現今の試験制度は巨材の資格者をむしろ逸(そら)してしまふ傾向がある。それはなほ忍ぶべしとする少年を肉体的に精神的に不健康にすることは国家の前途の為寒心に堪へない。我々の問題はいづれかの中学の生徒の成績がよくなるとか悪くなるとかいふやうなことではなく、日本の将来がどうなるかといふことである。私は皇紀二千六百年の記念事業として中等学校入学試験問題解決の如き適当な事業は他にないと考へる者である。ローマは一日にして成らず、将来日本の興隆を望むならば今にして其の根源力を養はねばならない。ドイツの学校体系には入学試験が全然有しない。それならば学問は発達しないかといふに入学試験などない方が却(かえ)つて学問は純粋に研究され真の成果を結ぶ。この点など大にドイツに学ぶべきである。我々は勢に乗ったり力を恃(たの)みすぎたりするドイツ人の缺点ではなくして、その雄大な構想を学ばねばならぬ。なほわが国の教育制度に関して小学、中学、大学の教師の待遇の差別を現在の如く甚だしくしないことが必要である。小学校の校長は勅任者はもちろん貴族院議員にでも枢密院顧問官にでも文部大臣にでもなりうるやうな途が開けてゐなくてはならぬ。さういふ人は容易に出ないであらうが然しとにかくにさういふ途が開けてゐることが必要である。如何に小学校とか小学生とかいふこの親しみのある美しい名を捨ててドイツ語の訳語である国民学校といふ名を採ってみても待遇を現在のままにしておいては人が小学教育者を尊重するわけがない。名さへ換へれば実が改まるものならば世にこれほど容易な話はない。何人も小学生を軽蔑する者はない。小学教育者を軽んずる者も無いであらう。人の軽んずるのは小学校教育者の待遇である。もし小といふ字の故に小学教育小学教育者を侮(あなど)るといふならば小児科の教授をば侮って然るべきだが、さういふことは考へられない。この多年親しみ来れる小学校小学生といふが如きこの上なく美しい、それを聞いただけ可愛くなるやうな名を惜しげもなく捨てるといふ人々の考が私などには全くわからない。小学生! 何と可愛く美しく尊い名であらうか。それには無限な歴史的が含蓄が在してゐる。実に惜しくてならない。国民学校などといふドイツの名をまねることを止めて入学試験を全然しないドイツの学制をまね度いと思ふ。皇紀二千六百年の最上の記念事業は日本教育の革新にあることを私は信じて疑はない。私と意見を同じくする教育の熱愛者は無いものであらうか。教育の重要性を強く認識し、日本教育の革新を企てる政治家は無いものであらうか。

カントからの影響を受けた天野貞祐と三木清の略年譜
西暦 和年号 主な出来事 天野貞祐 三木清
1884 明治17年 9月30日、天野貞祐(以下、貞祐)、神奈川県津久井郡鳥屋村に生まれる。
1885 明治18年 1
1886 明治19年 2
1887 明治20年 3
1888 明治21年 4
1889 明治22年 5
1890 明治23年 ○ 貞祐、鳥屋小学校に入学 6
1891 明治24年 7
1892 明治25年 8
1893 明治26年 9
1894 明治27年 10
1895 明治28年 11
1896 明治29年 ○ 貞祐、独逸学協会中学に入学 12
1897 明治30年 1月5日、三木清(以下、清)、兵庫県揖保郡平井村(竜野市)に生まれる。 13
1898 明治31年 14 1
1899 明治32年 15 2
1900 明治33年 16 3
1901 明治34年 8月、貞祐、母タネがチフスで死去。 17 4
1902 明治35年 18 5
1903 明治36年 19 6
1904 明治37年 2月13日、唐木順三、長野県上伊那郡宮田村に生まれる。 20 7
1905 明治38年 ○ 貞祐、健康がほぼ回復、独逸学協会中学五年級に再入学する。 21 8
1906 明治39年 4月、貞祐、独逸学協会中学を卒業
8月、貞祐、旧制第1高等学校入学
22 9
1907 明治40年 23 10
1908 明治41年 24 11
1909 明治42年 貞祐、旧制第一高等学校卒業、京都大学文科大学入学。
25 12
1910 明治43年 26 13
1911 明治44年 27 14
1912 明治45年 貞祐、「物自体の問題」という卒業論文を提出して大学を卒業する。
   大学院入学。哲学研究室副手。カント「プロレゴーメナ」の翻訳を始める。
28 15
1913 大正2年 29 16
1914 大正3年 貞祐、第七高等学校ドイツ語講師として鹿児島に赴任する。 30 17
1915 大正4年 貞祐、青木タマと結婚。第七高等学校教授に任ぜられる。
    カント「純粋理性批判」の翻訳に従事。
31 18
1916 大正5年 32 19
1917 大正6年 33 20
1918 大正7年 34 21
1919 大正8年 貞祐、西田幾太郎の推薦で学習院教授と転任なる。 35 22
1920 大正9年 貞祐、岩波書店より「純粋理性批判」上巻を出版する 36 23
1921 大正10年 7月、清、京都帝国大学を卒業する。
9月、清、大谷大学、龍谷大学の講師となり、哲学を講じる。
37 24
1922 大正11年 5月、清、すぐれた学才を認められ、波多野精一の推輓によって岩波茂雄の出資を受けて、ドイツ留学に旅立つ。
6月24日、清、ドイツに着く。

38 25
1923 大正12年 ドイツでの二人の交流は調査中です。

 三木清が、ハイデルベルグで知り合った人々
  大内兵衛・羽仁五郎・北ヤ(れい)吉・糸井靖之・石原謙・久留間鮫造・小尾範治
  鈴木宗忠・阿部次郎・成瀬無極・天野貞祐・九鬼周造・藤田敬三・黒正厳
  大峡秀栄等(ら)        三木清全集 第19巻 年譜より
39 26
1924 大正13年 40 27
1925 大正14年 10月。清、ドイツおよびフランスの留学を終え帰朝、京都市左京区に下宿を定める。
○治安維持法が制定される。
41 28
1926 大正15年 7月、青年訓練所(軍部が青年に対し軍事教練を施す機関)が開設される。
○貞祐、京都帝国大学文学部助教授として赴任する。
42 29
1927 昭和2年 清、法政大学教授を委嘱され、京都第三高等学校の教職を辞して上京、同大学文学部哲学科主任教授となり、日本大学および大正大学の講師も兼任する。 43 30
1928 昭和3年 10月、文部省、学生の左翼思想の取締りや社会思想の調査・研究を行う専門学務局から独立した学生課を設ける。 44 31
1929 昭和4年 4月、清、東畑喜美子(25才)と結婚。杉並区高円寺に新居を定める。
7月、文部省、学生課から学生部となり左翼思想学生の取締りが強化される。
○秋田市に「北方教育社」が創設され翌年に「北方教育」が発行される。
45 32
1930 昭和5年 5月、清、日本共産党に資金を提供したという嫌疑によって検挙せられ、一旦釈放されたが、7月に起訴されて11月初旬まで豊多摩刑務所に拘留される。この事件のため、教職であることが困難となり、法政大学の教職を退くが学監野上豊一郎や谷川徹三の計らいで、谷川の代講という形式で、二三の講義を続ける。
10月8日 ・・・・・・
○ 貞祐、岩波書店より「純粋理性批判」下巻を出版する
46 33
1931 昭和6年 7月、文部省に「学生思想問題調査委員会」が設けられる。
9月、満州事変勃発

○貞祐、教授に任ぜられ文学博士を授与される。
47 34
1932 昭和7年 8月23日、「国民精神文化研究所」が設立される。 48 35
1933 昭和8年 2月20日、小林多喜二、築地署に検挙され虐殺。
3月3日、三陸地方大地震大津波が発生1535人が亡くなる。
5月10日、鳩山文相、京大法学部教授滝川幸振の休職を要求する。
5月26日、滝川教授休職発令、宮本法学部長や38人辞表提出。(滝川事件)
7月10日、三木清、豊島与志雄・美濃部達吉・長谷川如是閑・大佛次郎らと、「学芸自由同盟(会長徳田秋声)」を結成する。
○文部省と国民精神文化研究所が中心となり、思想問題講習会がさかんに開かれる。
49 36
1934 昭和9年 10月、陸軍省が「国防の本義と其強化の提唱」を発行、軍の教育への干渉を示す。 50 37
1935 昭和10年 3月19日、清、「読売新聞」毎週火曜日の夕刊「一日一題」欄に「時代と道徳」連載始める。(翌年11月24日まで) 51 38
1936 昭和11年 2月26日、2・26事件
8月6日、清、妻喜美子が亡くなる。
12月1日、清、「読売新聞」毎週火曜日の夕刊「一日一題」欄に「現代の記録」連載始める。(翌々年11月29日まで)
12月、清、「作品社」から「時代と道徳」を刊行する。
52 39
1937 昭和12年 ○浜田耕作が京大の総長に就任する。
○貞祐、「道理の感覚」を出版。浜田耕作総長の懇請により学生課長を兼任する。
7月、文部省、思想局を廃止し、新たに外局として「教学局」を設置する
53 40
1938 昭和13年 2月28日、貞祐、「道理の感覚」が物議に。浜田総長の断然たる態度と河村大佐の理解ある処理により自発的絶版に。(軍事教練にたいする批判の点について憲兵隊からの干渉)
                       参考 「岩波茂雄への手紙
6月、清、人生論に関する随想を「文学界」に連載を始める。
6月、「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」が通牒される。
12月14日、清、「読売新聞」毎週火曜日の夕刊「一日一題」欄に「続現代の記録」連載始める。(翌々年9月25日まで)
54 41
1939 昭和14年 3月20日、文部省、大学の軍事教練を必須とする通達を出す。
4月26日、青年学校義務制となる。
8月、貞祐、「学生に与ふる書」を「岩波書店」から刊行する。
 「学生諸君!私たちは明日に希望をかける。私たちが個人として明日を見る如く、民族としても明日を夢みる。民族の場合において明日への希望といえば、次の世代への希望である。日本の将来は若い人達の将来である。若き人達が如何なる思想と心術とに生きるかということが、即ち日本の将来がどうなるかということである。明日の日本を待望するものは、若い人達に対して強く関心せざるをえない。・・・」
11月2日、清、小林いと子と再婚する。
55 42
1940 昭和15年 1月、「改造 皇紀二千六百年記念」号に貞祐が「学問と人生」、清が「文化の力」を発表する。
3月8日、津田左右吉著「神代史の研究」が発禁となる。
3月、清、「岩波書店」より「哲学入門」を刊行する。
      第二章 行為の問題
           一 道徳的行為
           二 徳
           三 行為の問

7月、文部省教学局が「日本精神叢書 祝詞と国民精神」を編纂、刊行する。
10月12日、大政翼賛会発会式が行われる。
10月24日、貞祐、「道理への意志」を「岩波書店」から刊行する。
友情・同情・愛 昭和十五年二月 新愛知  新学生に際して学生諸君に與ふ 昭和十五年四月 読売新聞
学問と人生 十五年一月 改造  自覚と自負 十二年八月 日本評論
東洋的学問と西洋的学問 十四年十月 理想  大学の理念 十五年七月 中央公論
社会生活の反省 十五年三月 日本評論  幸福について 十五年六月 婦人公論
生形式と個人性 十四年九月 文芸春秋  人生の道 十五年六月 公論
現代学生論 十五年三月 読売新聞  人間の苦悩と創造 十四年十一月 改造
11月10日、紀元二千六百年記念式典が皇居前で行われる。
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1941 昭和16年 4月1日、国民学校令が施行される。
      第1条 國民學校ハ皇國ノ道ニ則リテ初等普通ヘ育ヲ施シ國民ノ基礎的錬成ヲ為ス
7月13日〜16日、清、「都新聞」に「道徳の再建」を寄稿する。
2月8日、真珠湾攻撃
12月、「国民勤労報国協力令」が出される。
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1942 昭和17年 11月3日、岩波茂雄が創業30年を記念して「回顧三十年感謝晩餐会」を開催する。
来賓あいさつ:三宅雪嶺・牧野伸顕・小泉信三・幸田露伴・赤石照男・高村光太郎(詩朗読)・天野貞祐・安井てつ・西田幾太郎(メッセイジ朗読)・藤原咲平の順で行われ最後に安倍能成が友人としてあいさつを述べる。
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1943 昭和18年 6月、閣議で「学徒戦時動員体制確立要領」が決定される。 59 46
1944 昭和19年 3月、閣議で「決戦非常処置要領ニ基ク学徒動員実施要領」が決定される。
3月22日、清、いと子夫人が死去。
9月、清、一子洋子をつれて埼玉県鷲宮町に疎開する。
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1945 昭和20年 2月、岩波茂雄が貴族院多額納税議員東京都の欠員補充選挙に立候補する。
    選挙事務長:小林勇、三木清は選挙期間中1日おきに来て選挙の応援活動を行う。
3月27日、選挙の結果、岩波茂雄が有権者150名弱のうちの120余を得て圧勝する。
3月28日、清、警視庁に検挙される。
5月9日、小林勇、鎌倉の自宅に中谷宇吉郎といるところに特高6人に踏みこまれ治安維持法違反の嫌疑で検挙。
6月7日、西田幾太郎没。(76才)
6月12日、清、治安維持法の容疑者(高倉輝(テル))を仮保釈中にかくまい、保護逃亡させたという嫌疑により検事拘置処分をうけて巣鴨の東京拘置所に送られ、ついで20日、中野の豊多摩刑務所に移される。
8月15日、終戦
8月29日、小林勇が釈放される。
9月26日、清、豊多摩刑務所で当局の苛酷な取り扱いのため獄死する。
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1946 昭和21年 1月、清、遺稿「親鸞」の一部が「展望」創刊号に発表される。
貞祐、旧制第一高等学校校長就任、日本育英会会長、日本学生野球協会会長、中央教育審議会会長などを務める。
6月、金森徳次郎、第一次吉田内閣で国務(憲法担当)大臣に就任する。(1946・6〜1947・1)
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1947 昭和22年 63
1948 昭和23年 1月、谷川徹三・東畑精一編、「回想の三木清」が「文化書院」から刊行される。
T 三木清君について 羽多野精一 U 三木清君への回想 坂田徳男 V 先生の印象 中村哲
その頃の三木君 落合太郎 三木清氏の想ひ出 佐藤信衛 寂しかった三木さん 山崎謙
三木清君について 寺田喜治郎 巴里の三木清君 芹澤光治良 W 少青年時代の兄 三木克己
U 兄貴のやうな人 火野葦平 三木清 清水幾太郎 兄を語る 三木繁
くさぐさ 唐木順三 今まで見えなかった一生態 高桑純夫 思ひ出を語る 三木眞三
不遇の人 河盛好蔵 哲学者としての三木清 谷川徹三 父の思ひ出から 三木洋子
経済学と三木 岸本誠二郎 わたくしの追憶 田中美知太郎 三木君と私 高井篤
三木清君の隠れた一面 松井了隠 V 三木清先生を偲びて 大道安次郎 思ひ出の糸 高井春江
三木さんの「氣をつけろ」 松本愼一 その人 藤原定 日常の三木さん 東畑精一
最後の話題 中島健藏 三木清の想出 樺俊雄
三木さんの想ひ出 中山伊知郎 師の恩 桝田啓三郎
                  装幀 芹澤_介
5月、貞祐、「細川書店」から「細川新書1 生きゆく道」を刊行する。
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1949 昭和24年 7月 「教育文化研究会編 國語 高等学校第一学年用 」の教科書に「自由について」が掲載される。                                「生きゆく道」による。
   
    樋口と名前が記入されていた当時の教科書      所蔵 津久井郷土資料室
       参考 教育文化研究会 会長 国立国会図書館館長 金森徳次郎
                     主幹 東京教育大学教授   石山脩平 
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1950 昭和25年 5月6日、貞祐、第3次吉田内閣の文部大臣を務める。 66
1951 昭和26年 1月4日、教育課程審議会(石三次郎会長)が「道徳教育振興に関する答申」を出される。
1月26日、吉田茂、第10回国会施政方針演説を行う。
 「講和条約後わが国が、真の独立国家として立ち上がるためには、経済の自立をはかるはもちろんでありますが、強く国民道義を高揚し、国民の自立精神を振起することが、根本であります。これがため文教の振興に、一段と努力をいたしたいと考えるの・・であります」
1月29日、吉田茂、本会議での答弁
 「日本国民は、従来愛国心に富むと常に言われている国民である。われ々々も日本国民に愛国心が欠如したという事実は毛頭認めない。この愛国的精神に乗じてこれを悪用、逆用して侵略戦争、あるいは軍国主義の政治に至った過去の事実を考え、濫用悪用することの行き過ぎを戒むべきであると考える。また、その行き過ぎの結果、逆に愛国心を否定し、国家のために有害であるかのごとき説を昨今聞くのであるがこれもよくない。この行き過ぎを正して愛国心の点に正しい観念を養うことが大切であると思う」
2月8日、文部省が「道徳教育振興方策について」
4月26日、文部省が「道徳教育の手引要綱」を公表する
7月10日、「学習指導要領一般編(試案)」
8月、貞祐、「家の光 8月号」に「(巻頭言)働く者のよろこび」を寄稿する。
働く者のよろこび 天野貞祐 (全文)
 戦争中無理に引きしめていたたがが、終戦によって一時にはずされたせいか、この頃は国とか家などは眼中になく、自分だけの安楽を得ることのみが、人生の目的と考える者が多いようである。戦争中は「人的資源」などといって「個人」を踏みつけにして国ばかりを大事にしたが、これはどちらも間違いだ。国家というものは、けっして銀行や会者のように、自分のつごうで取りかえるわけにはいかない。国はわれわれの生きる基胎であって、国の繁栄なくして、われわれの幸福はあり得ないからである。
 戦争は、このようにさまざまの害悪をわが国にもたらした。しかし、次の二つの点で日本は進歩していることを、けっして忘れてはならない。
 一つは多くの人が勤労を尊ぶことになったことである。これまでは何もせずに遊んでいても、貴族とよんで尊んでいたが、いまは働かずに食おうということは、ちょっと不可能で、たとえできても、そういう人を社会は尊ばないだろう。汗を流して物を生産することは人間の本質で、勤労の喜びなくして真の幸福はあり得ないからだ。
 もう、一つの点は、女性が解放ということである。
 われわれは、まずよき個人となるために、よきl国民とならなければならぬ。勤勉に正直に、正しく働き、正しく生きる、よき日本人になることが、国家を繁栄にみちびき、自分自身をも幸福にすることであると思う。
(文部大臣)
9月22日、「富山県下の講演旅行に赴く車中で行った記者会見」
「講和条約が国会で批准される機会に文部大臣名で『国民実践要領』なるものを出し、独立回復後の日本国民が真に自主独立の精神をもって道徳的に生きていく目標を示したい。これは決して教育勅語の復活の如きものではなく、何の拘束もせず、この際はっきりした人生観を持ちたいと思う人々の参考に供するだけである」と語る
10月15日、参議院本会議における天野文相の答弁。
質疑:「将来わが国の宗教・法律・道徳・教育の中心点をどこに求めるか」
 文相、「一方において学校で道徳教育改善し、他方では一般の道徳的基準となるようなもの、個人・社会・国家というような、天皇の象徴性というようなことを国民に理解していただく参考になるようなものを近く提示したいと考えている」との所信を表明」

11月14日、朝日新聞が「国民実践要領」の大綱を報ず。
11月17日、読売新聞が「国民実践要領」「文相草案」の全文をスクープ。
11月26日、天野文相が、「国民実践要領」を撤回する。
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1952 昭和27年 4月17日、クリックすると拡大します。 「名勝 猿橋架替記念碑」が建立される
8月12日、貞祐、文部大臣を辞職する。
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1953 昭和28年 4月、「婦人之友 第四十七巻 第四号」に「建業五十年に寄す」から「道義的影響」を寄稿する。 69
1954 昭和29年 70
1955 昭和30年 71
1956 昭和31年 72
1957 昭和32年 73
1958 昭和33年 74
1959 昭和34年 75
1960 昭和35年 76
1961 昭和36年 77
1962 昭和37年 78
1963 昭和38年 79
1964 昭和39年 貞祐、独協大学を創設、初代学長となる。 80
1965 昭和40年 81
1966 昭和41年 82
1967 昭和42年 83
1968 昭和43年 84
1969 昭和44年 85
1970 昭和45年 86
1971 昭和46年 87
1972 昭和47年 88
1973 昭和48年 89
1974 昭和49年 90
1975 昭和50年 91
1976 昭和51年 92
1977 昭和52年 93
1978 昭和53年 94
1979 昭和54年 95
1980 昭和55年 3月6日、貞祐、武蔵野市吉祥寺の自邸で亡くなる。(享年96歳)
5月27日、唐木順三亡くなる。(76歳)
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1981 昭和56年
1982 昭和57年
1983 昭和58年
1984 昭和59年
1985 昭和60年
1986 昭和61年
1987 昭和62年
1988 昭和63年
1989 昭和64年
1990 平成2年
1991 平成3年
1992 平成4年
1993 平成5年
1994 平成6年
1995 平成7年
1996 平成8年
1997 平成9年
1998 平成10年
1999 平成11年
2000 平成12年
2001 平成13年
2002 平成14年
2003 平成15年
2004 平成16年
2005 平成17年
2006 平成18年
2007 平成19年
2008 平成20年
2009 平成21年
2010 平成22年
2011 平成23年
2012 平成24年
2013 平成25年
2014 平成26年

 まとめ
 三木清は、行動の人ではなかったか。その行動の原点は「人生論ノート」のなかに集約されていると云っても過言ではない。彼の人生は短かったが、彼の残した歩は決して忘れ去ることはないだろう。それに比べ天野貞祐の行動は慎重であった。彼の生まれ育った津久井郡には「敵知行半所務」と云う記載の残る「小田原所領役帳」の存在がある。永禄年間、後北条氏の所領地を表した検地帳で、「敵知行」とは、後北条氏の領地内に敵の領地が入り込んでいることを示している。このような風土の中で人々が生き抜くためには相当な知恵が必要となろう。このことと天野貞祐との生き方が同じとは言いがたいが、最後まで己の信念を貫いていることを考えると決して一概にも云い切れない気がしてくる。また、皇紀二千六百年と云う、大きな節目の中で二人の哲学者がそれぞれに警告を発した論評はどこかで類似している。

 全くと云っていい程に、二人が紙面の中で雙んでいたのである。激しく揺らいだ年月が過ぎ、「道理とは何か、幸福とは何か」と、問うてみるのも決して無駄なことではないようだ。
 昭和42年6月、富士五湖史友会から「北富士すそのものがたり」が発行された。著者は岩佐忠雄で巻頭の言葉として、天野貞祐の言葉を引用しながら、「すきな人」と題し執筆者を讃えた。天野貞祐が育った津久井にはそうした「すきな人」が多い。津久井気質のそのものと思う。 
すきな人  
 前の文部大臣天野貞祐先生がその随筆に史上のすきな人で、徹頭徹尾正直、飽くまでも純正真実実直、少しも見せかけがない。すべて自然、素直、人情に厚く親切、人間性に対する深い理念と同情を有つ天才でありながら自分を天才と考えない謙遜な心をもって終生勤勉努力質素倹約な庶民生活をなされたお方としてカント先生をたとえられたのを回想して私文吉は郷土の庶民にかくれた知人を発見した。その仁は岩佐忠雄さんで私のすきな人である。

 堀内文吉先生と天野貞祐との関係は分からないが偶然に「北富士
すそのものがたり」の巻頭に触れ、偉大な天野貞祐先生への想いを強くした。自然で素直、そして謙遜、たとえ世の中が厳しい時代に変わろうとも「すきな人」の津久井は永遠の輝きを放ちながら不滅である。
 「すきな人」の生まれた背景、貞祐の生まれ育った風土にもその影響があろう。津久井郡とは呼ばない津久井縣と呼ばれていた江戸時代。厳しい幾多の戦乱も見とどけて来た津久井の人々、「すきな人」の生まれた背景は真に絶対肯定の世界感そのものなのである。
 (道徳律や道理そのものについての記述は後日に・・・・)
 私の仮想に過ぎませんが、もし天野貞祐先生と三木清先生が生きておられたとして、「国連事務総長をどなたに」と云う事になった時、その適任は天野貞祐先生ではないかと考ました。どちらも巨匠ゆえ、とりあえずこんなことでまとめました。人生は何とおくぶかいことか。

参考
   改造 昭和15年新年号 発行社 改造社
    三木清:「文化の力」、天野貞祐:「学問と人生」 座残会(長谷川如是閑・和辻哲郎・大西克禮・柳田國男・今井登志喜)「日本文化の検討」
   池田高明 「道理の人ー天野貞 2011・11・20 「津久井の歴史こぼれ話を語る会」での資料集
   日本の歴史 24 ファシズムへの道 大内力 中央公論社 発行 昭和52年7月 5版
   新版現代史への試み 唐木順三 筑摩書房 発行 昭和38年10月
   天野貞祐全集 月報1巻〜9巻  1971年3月〜1972年1月 栗田出版会
   岩波茂雄への手紙 監修 飯田泰三  編集 岩波書店編集部 発行 2003年11月
   人生論ノート 三木清 新潮社 発行 昭和41年10月 34刷
   カント実践理性批判 波多野精一・宮本和吉 岩波書店 発行 昭和18年10月第17刷
   教職専門シリーズ2 日本教育史 編著 寄田啓夫/山中芳和 ミネルヴァ書房 発行1993・1
     石井 均 第7章 国家主義体制下の教育 P108〜P124
   日本精神叢書 祝詞と国民精神 武田祐吉 編纂・発行 文部省教学局 昭和19年1月6刷
   天野貞祐全集 第1巻 道理の感覚 天野貞祐 栗田出版会 発行 昭和46年3月
      ハイデルベルグの思い出 P11〜17
   教育五十年 天野貞祐 南窓社 昭和49年2月 六 学習院教授時代 P57〜72
    
わが人生 天野貞祐 神奈川新聞 昭和51年(掲載月日不明) 所蔵 津久井郷土資料室
   道理への意志 天野貞祐 岩波書店 発行 昭和15年10月
   ご協力 独協大学


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