天野貞祐と三木清の道徳律
二人は年齢こそ違い同じ京都帝国大学を卒業、同じドイツにも、しかも同じ時期にドイツに留学していました。二人に相互の交流があったのか知りたくなってきたのです。そして、かたや文部大臣までのぼりつめ、また、獄死してしまった二人が目指したものは一体何だったか、そんな運命の軌跡を辿りその生きようを訪ねて見たいと思います。 「道理の感覚」が絶版となる 昭和12年、浜田耕作が京大の総長に就任しました。この年、天野貞祐は、「道理の感覚」を出版しました。この時、天野貞祐は浜田耕作総長の懇請により学生課長を兼任していました。 昭和13年2月28日、「道理の感覚」が突然の絶版となりました。その経緯を資料ー@の手紙から読み取ることができます。この手紙には「私は自説を譲りませんが」とか「私はいづれは大学も止めねばならぬ時もくるかと覚悟してをります」との記述があり、天野貞祐の強い信念と覚悟を読み取ることができます。絶版とする処置は当時の思想統制下の中ではギリギリの手段ではなかったかと思います。 資料ーABは絶版になった背景を天野貞祐全集の月報から引用してみました。 資料ー@ 「岩波茂雄への手紙」より 昭和13年2月28日付の手紙 天野貞祐→岩波茂雄へ
天野貞祐全集 第1巻 月報 1971年3月 「道理の感覚」について 日高第四郎 (前略) 一九三八年(昭和13年)三月、京都大学の配属将校河村大佐を通じて、軍事教練に対する批判について問題を堤起された。天野教授は浜田耕作総長への 答申書という形式でこれを返答された。浜田総長も小島祐馬文学部長も、天野教授の学問の自由を擁護する立場を堅持しつつ、先年(昭和8年)の滝川事件の如きものに発展して大なる被害を大学に与えることを予防する意図を以て、最小限度の譲歩の意味に於いて増版せざることを一応の解決策となし、いわゆる筆禍事件に発展しないですまされた。 (後略) (学習院女子短期大学学長) 筆禍:発表した著書・記事などが原因で官憲や社会から受ける制裁または処罰。 資料ーB 天野貞祐全集 第7巻 月報 1971年7月 京大文学部教授時代 「京都大学文学部五十年史」より (前略)さらに昭和十三年には「道理の感覚」中の軍事教練に対する批判が、反軍思想であると軍当局を刺激し、大学と軍部との間に紛争を惹起するに至った。当時は浜田耕作教授の総長時代で、天野教授は総長の懇請により学生課長に就任していた。浜田総長は教授を深く信頼支持するとともに、教授も自説の正しさについて強く信じるところがあったが、結局右著作の自発的絶版という処置は、総長の毅然たる態度と、当時の本学配属将校川村大佐の理解ある処理と相まって、事件を円満解決させた。しかし教授のヒューマニズム的人格主義的信念は、その独自の祖国愛とともに、戦前戦後変転極まりない世相の中にあって、終始一貫してついに変わるところがなかった。 資料ーC 昭和51年、貞祐92歳の時の「わが人生」より 神奈川新聞「日曜連載」記事より 日時不明 わたしが京大教授時代、陸軍の某若無人の横暴に我慢しかね「道理の感覚」という一書を著して「このままでは日本は亡(ほろ)びることにならざるをえない」と痛論したところ、軍部におもねる人たちの総攻撃をこうむり、京都市内も大学も大騒ぎになりました。 天下を支配している陸軍に反旗を翻したのだから、それは当然でもありますが「師団」まで立ち上がっても警察が騒いでも、どこが脅してもわたしは平然としていた。関東人という自覚がそうさせたのです。「サガミ人」に近来、この自覚が無くなりつつあることはとても惜しいと思います。 「箱根の山は天下の険」という歌をわたしたちは忘れてはなりません。神奈川に住むことを誇りに思わなければいけないと思います。 皇紀二千六百年記念の「改造」
天野貞祐が「学問と人生」を、三木清が「文化の力」をそれぞれ発表した昭和15年1月号の「改造」の内容。 ↑天野貞祐 ↑三木清 学問と人生 (一)(二)は省略 (三)と(四)の部分の全文 (三) 上に私は誠実のない処に真の創造のないことを言った。誠は人間の道、人間の実在性のなかであるから誠なくして勝れた創造のあるわけがない。外面からは如何に見えやうとも誠のない活動は空虚である。それは運動であり生成であっても真の創造とはいはれない、否しがし真の創造を阻害する。随って創造の確信には道徳性がなければならぬのであるが、さうなると学問と道徳との関係が重要な問題となってくる。民族の創造的生命を高揚せしめ、その実体を養ふべき学問は道徳性に反しないばかりでなく、却ってそれを強化する力を有たねばならぬ。然らざれば民族の実態を養ふといふ学問の使命は達成されるわけにゆかぬ。民族の実態は単なる運動、単なる生成でなくして創造的生命であり、道徳的生命だからである。然らば学問は道徳と如何なる関係を有つものであるか。 学問はもと知識であるが個人の任意な知識ではなくして何人も承認せねばならぬ知識の体系である。例へば林檎が落ちるといふ一つは観察は知識をへても、その知識は直ちに学問的知識とはいへない。この落下の現象を機縁として落下の現象一般を説明しうる原則が発見され、重力の法則といふ原理によって一切の落下現象がその原則の例證として体系づけられるならば初めて学問的知識が成立する。この知識は一定の学問的約束のもとにおいて何人も承認せねばならぬ知識である。個人的、私的な知識ではなくして一般的な公の知識である。公といふこと即ち客観的といふことが学問の本質的性格である。例えば平面幾何学の一問題でも個人が任意に解くわけにはゆかぬ。学問の領域では我儘やごまかしは絶対に通用しない。幾何学に約束に絶対に服従し絶対に誠実に考へなければ平面幾何学の一問題といへども解くことはできぬ。言はば学問のうちに死ななければ真理性は自己を示さないのである。この私を殺して公のうちに死ぬ、といふ客観性の会得において学問は端的に道徳と交流する、ここに学問が人生と交渉する核心がある。我々は学問によって人間の個人的な利害とか我儘とか私情とかいふ類のものを越した絶対的な領域、客観的なもの、公なものを学び会得する。理論的であれ何であれ、とにかくに人間の私情や我儘を絶対に拒斥し絶対の真理性の支配する客観的領域の実在を認識し確信することは我々の世界の人生観の根柢を築くことである。さうしてこの領域に与り真理性を学ぶ為には学問の約束に絶対に服従し言はばそのうちに死なねばならぬ。学問のうちに死ぬことに山つてのみ学問のうちに生きうるのである。一言にして盡(つく)せば学問精神は私を殺し私を越えて公に仕える精神である。学問精神は即ち奉公の精神である。真理性に身を捧げて労苦を厭はざる純真な心情は硝烟弾雨をものともしない奉公のまごころと一でなければならぬ。真理性への勇気はやがてまた「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ、顧みはせじ」といふ精神でなければならぬ。この精神を背景とする真理性への勇気に対してのみ宇宙の隠された本質は自己を開きその富と深さとを露出するのである。 かかる学問精神はいふまでもなく道徳的性格を擔(にな)ふ。道徳といふのは元来人が自己を越す処に成立する。自己を越すことなくして道徳はありえない。自己を越す自己否定が道徳の根本であって、しかもそれは真に自己を生かし真に自己を肯定する所以である。しかるに自己を越え自己を否定するといふことが実にむづかしいことである。如何にエゴイズムが強力なものであり、その克服が如何にむづかしいものであるかは誠実な人の誰でも体験することであらう。また我々の社会においてエゴイズムが生活原理として強く働いてゐる場合も少なくないと思ふ。然(しか)しエゴイズムを克服せざる限り忠君も愛國も成立しない。人が断えず自己の利害のみを考へ自己の利害のみを考へ自己の利益を追求することにのみ汲々としてゐては口にどれほど立派なことを言ってみても空言に過ぎない。道徳は言説でなくして実践だからである。学問はその客観的知識をもって人間の創造性を高めると共に客観性の会得によって自己の超越、公への献身没入を教へる働きを有つのである。それ故に学問を営み知識を開発するといふことは道徳性と無関係どころではなくしてそれによって利己心を克服し奉公の誠を会得する筈である。そのことは専門学の研究においても普通教育における知識の開発についても一様にあてはまることであって真の知育は徳育であると考へられるのである。もちろん私は学問のみが人の道徳性を養ふなどと主張するわけではない。ただ学問的研究や知識の開発に述べた如き関係において深く人間の道徳性と交渉するもののあることを考へたいのである。 (四) 思ふに国家の隆昌は民族の道徳力と創造力において成立するのであるが、この根源力を高揚せしめ民族の実体を養ふ働において学問は国家生活に参興し、それによって人生に意味と価値とを有つわけである。この事情を考へるならばドイツの卓抜な政治家が国家危急存亡の秋にあたり、財産の窮乏に拘(こだわ)らず 非実利的な総合大学を創設するといふ非日常的な雄大な構想を理会することができるし、また現在戦争のさなかにあって純粋な学問研究がしこしも歪められず、誠実な徹底性において続けられてゐるといふ意味の理会できるのである。それと共に私は民族の将来に対する教育の重要性を思はざるを得ない。わが国現在の教育については幾多の革新を要するものがある一問題が中等学校入学の問題であることは識者の略ぼ一致する所であらう。入学試験は他の場合にも問題点であるが殊に中等学校への場合において我々の真剣な考慮を促すものがある。わが国の高等学校、大学程度の学生は欧米の学生よりも支那の学生よりも体格において健康において遥かに劣ってゐるやうに観察せられる。さうしてその原因は医科の人達の話を聞くに専ら中等学校への入学試験準備にあるといふことである。一国の前途は青少年の精神と身体との健康と否とにかっかてゐる。それ故にわが国の為政者もかってドイツの政治家がベルリン大学を創設したやうな構想を廻らして先づこの問題を根本的に解決すべきだと思ふ。それには現在のやうに筆答試験を廃して内申と口頭試験によるといふのでは到底問題は解決せられない。私の考では学校の不足する土地には学校を増設し、都会では私立学校を補助監督し、中等学校までは小学校と同じく地域制度を採用し、教師の交流を行って中学校の間に在する差等の観念を除去することが必要である。入学試験は及第者を慢心せしめると同時に落第者を失望せしめ自尊心を失はせてしまふことにおいて実に憂ふべき事情を有する。少年にはいふまでもなく早熟の者と然らざる者とあり、巨材となる者はむしろ怜悧なる早熟者には少ないに拘(かかわ)らず、現今の試験制度は巨材の資格者をむしろ逸(そら)してしまふ傾向がある。それはなほ忍ぶべしとする少年を肉体的に精神的に不健康にすることは国家の前途の為寒心に堪へない。我々の問題はいづれかの中学の生徒の成績がよくなるとか悪くなるとかいふやうなことではなく、日本の将来がどうなるかといふことである。私は皇紀二千六百年の記念事業として中等学校入学試験問題解決の如き適当な事業は他にないと考へる者である。ローマは一日にして成らず、将来日本の興隆を望むならば今にして其の根源力を養はねばならない。ドイツの学校体系には入学試験が全然有しない。それならば学問は発達しないかといふに入学試験などない方が却(かえ)つて学問は純粋に研究され真の成果を結ぶ。この点など大にドイツに学ぶべきである。我々は勢に乗ったり力を恃(たの)みすぎたりするドイツ人の缺点ではなくして、その雄大な構想を学ばねばならぬ。なほわが国の教育制度に関して小学、中学、大学の教師の待遇の差別を現在の如く甚だしくしないことが必要である。小学校の校長は勅任者はもちろん貴族院議員にでも枢密院顧問官にでも文部大臣にでもなりうるやうな途が開けてゐなくてはならぬ。さういふ人は容易に出ないであらうが然しとにかくにさういふ途が開けてゐることが必要である。如何に小学校とか小学生とかいふこの親しみのある美しい名を捨ててドイツ語の訳語である国民学校といふ名を採ってみても待遇を現在のままにしておいては人が小学教育者を尊重するわけがない。名さへ換へれば実が改まるものならば世にこれほど容易な話はない。何人も小学生を軽蔑する者はない。小学教育者を軽んずる者も無いであらう。人の軽んずるのは小学校教育者の待遇である。もし小といふ字の故に小学教育小学教育者を侮(あなど)るといふならば小児科の教授をば侮って然るべきだが、さういふことは考へられない。この多年親しみ来れる小学校小学生といふが如きこの上なく美しい、それを聞いただけ可愛くなるやうな名を惜しげもなく捨てるといふ人々の考が私などには全くわからない。小学生! 何と可愛く美しく尊い名であらうか。それには無限な歴史的が含蓄が在してゐる。実に惜しくてならない。国民学校などといふドイツの名をまねることを止めて入学試験を全然しないドイツの学制をまね度いと思ふ。皇紀二千六百年の最上の記念事業は日本教育の革新にあることを私は信じて疑はない。私と意見を同じくする教育の熱愛者は無いものであらうか。教育の重要性を強く認識し、日本教育の革新を企てる政治家は無いものであらうか。 カントからの影響を受けた天野貞祐と三木清の略年譜
まとめ 三木清は、行動の人ではなかったか。その行動の原点は「人生論ノート」のなかに集約されていると云っても過言ではない。彼の人生は短かったが、彼の残した歩は決して忘れ去ることはないだろう。それに比べ天野貞祐の行動は慎重であった。彼の生まれ育った津久井郡には「敵知行半所務」と云う記載の残る「小田原所領役帳」の存在がある。永禄年間、後北条氏の所領地を表した検地帳で、「敵知行」とは、後北条氏の領地内に敵の領地が入り込んでいることを示している。このような風土の中で人々が生き抜くためには相当な知恵が必要となろう。このことと天野貞祐との生き方が同じとは言いがたいが、最後まで己の信念を貫いていることを考えると決して一概にも云い切れない気がしてくる。また、皇紀二千六百年と云う、大きな節目の中で二人の哲学者がそれぞれに警告を発した論評はどこかで類似している。
「すきな人」の生まれた背景、貞祐の生まれ育った風土にもその影響があろう。津久井郡とは呼ばない津久井縣と呼ばれていた江戸時代。厳しい幾多の戦乱も見とどけて来た津久井の人々、「すきな人」の生まれた背景は真に絶対肯定の世界感そのものなのである。 (道徳律や道理そのものについての記述は後日に・・・・) 私の仮想に過ぎませんが、もし天野貞祐先生と三木清先生が生きておられたとして、「国連事務総長をどなたに」と云う事になった時、その適任は天野貞祐先生ではないかと考えた。どちらも巨匠ゆえ、とりあえず乱暴に、こんなことでまとめました。人生は何とおくぶかいことか。 参考 改造 昭和15年新年号 発行社 改造社 三木清:「文化の力」、天野貞祐:「学問と人生」 座残会(長谷川如是閑・和辻哲郎・大西克禮・柳田國男・今井登志喜)「日本文化の検討」 池田高明 「道理の人ー天野貞祐」 2011・11・20 「津久井の歴史こぼれ話を語る会」での資料集 日本の歴史 24 ファシズムへの道 大内力 中央公論社 発行 昭和52年7月 5版 新版現代史への試み 唐木順三 筑摩書房 発行 昭和38年10月 天野貞祐全集 月報1巻〜9巻 1971年3月〜1972年1月 栗田出版会 岩波茂雄への手紙 監修 飯田泰三 編集 岩波書店編集部 発行 2003年11月 人生論ノート 三木清 新潮社 発行 昭和41年10月 34刷 カント実践理性批判 波多野精一・宮本和吉 岩波書店 発行 昭和18年10月第17刷 教職専門シリーズ2 日本教育史 編著 寄田啓夫/山中芳和 ミネルヴァ書房 発行1993・1 石井 均 第7章 国家主義体制下の教育 P108〜P124 日本精神叢書 祝詞と国民精神 武田祐吉 編纂・発行 文部省教学局 昭和19年1月6刷 天野貞祐全集 第1巻 道理の感覚 天野貞祐 栗田出版会 発行 昭和46年3月 ハイデルベルグの思い出 P11〜17 教育五十年 天野貞祐 南窓社 昭和49年2月 六 学習院教授時代 P57〜72 わが人生 天野貞祐 神奈川新聞 昭和51年(掲載月日不明) 所蔵 津久井郷土資料室 道理への意志 天野貞祐 岩波書店 発行 昭和15年10月 ご協力 独協大学 戻る |