商業の町・久保沢宿    2005・2・11
久保沢市の開発
   戦国の争乱がおさまると人々はより豊な生活を求めて生産に励み、物資の交流を盛んにさせました。山地と平地の間にある川尻村は山地の林産物と平地の生産物の交換の場所に適していました。
 津久井領出身の代官守屋佐太夫行広は、津久井全体の利益と川尻村の人々のためになると久保沢に市を開くよう命じました。
 そこで太兵衛と利兵衛の二人の名主は、資金を出し合い、近隣の村から300人、自分たちの村から延べ2000人、合わせて2300人を集め、力を合わせて久保沢に市を造りました。狭い谷間を切り開き、谷津川をせきとめて用水を通し、道の両側に二列の家並みが並び寛永3年(1626)には31軒がありました。市の中央の西側には太兵衛が東側には利兵衛がそれぞれ間口9間(約16.38メートル)の家を構えました。
 市が盛んになると市神を祭り、月六日の市を開き、津久井の山間地で生産された木炭や織物が、また平地からは米、塩、酒などの物資が集まり、取引されて大変繁盛しました。 
                  城山風土記 第5号 −町の歴史をふりかえるー より
                             2006.3.28 八木薫さんの作図

    
津久井町三井      橋本宿方面からから横浜線  橋本高校裏を通る久保沢道と記念碑
大山不動尊 明治32年  (久保沢道が分断されている箇所)
 「此方久保沢道」

  
相模原市二本松交差点           田名 たんぽぽ家前の久保沢道と記念碑

 
相模原市   六地蔵

 橋本方面からはけ坂を下る道と塚場から久保沢に延びる県道508号線沿いの旧道側の辻に道標をかねた石塔があります。風化が激しく既に刻字を判読することはできませんが残された文字の内容から「 供養  左ハ くぼさわ 」と読めます。石材から江戸時代中期以前と考えられます。
 
       撮影2005.5.3
 
  
往時が偲ばれる久保沢武蔵屋の土蔵    川尻八幡宮に奉納された灯篭

   
   久保沢宿             温泉坂を下った角に市守神社と久保沢観音堂       庚申塔


  
  久保沢市守神社の祭礼                          境内にある徳本上人六字名号塔


         久保沢観音堂内の高札(五ぼうの掲示)

  
 高札場のあった観音堂        慶応四年三月

  
 慶応4年三月、五ヶ条の御誓文と同日に太政官が出した五枚の制札で「五ぼうの掲示」と呼んでいます。庶民が守るべきことがらを示してあります。旧幕府の高札を撤去し新たに建てたもので、第1札から第3札までは幕府の政策を継承するもので五倫をすすめること、おおぜいで集まり村から逃げ出したり一揆をしないこと、キリスト教を禁止することなどが示されています。4。5枚目は一時的な掲示として外国人にたいして奉行をなすを禁ず」「他国へ逃げる」などの禁止事項が示されています。5枚もの制札が今も観音堂の壁に掲げられています。堂内には坂東、秩父、西国三十三観音が祀られています。

荻野陣屋襲撃事件と久保沢宿
慶応3(1867)年 10月13日朝廷が薩州藩に倒幕の密勅
     10月14日早朝、朝廷が長州藩に倒幕の密勅/慶喜、大政奉還を奏上
     10月15日坂本竜馬暗殺
     12月9日朝廷、王政復古を宣言
     12月15日坂本竜馬暗殺/夜半 荻野山中藩陣屋が襲撃炎上する。
     12月16日薩摩藩邸浪士海野次郎より上川尻村名主八木兵輔へ軍用金申付

 海野次郎が八木兵輔に送った書状

 (読み下し文)
 此度 攘夷の儀に付、多
 人数繰り出し候、これに依り、
 其許儀蔵金の内、軍用金として
 金五千両調達、
 明暁八つ時迄に早々持参
 致し候様、若し留守などと申し唱え、
 片時も遅刻に相成り候わば、
 其方宅へ早速他人数  
 さし向け、厳罰放火
 致すべき者也
            海野次郎
  十二月十六日

 久保沢
 八木や兵助方



  近世史略薩州屋敷焼撃之図
       薩摩藩邸焼き討ち事件 明治24年 豊州国輝筆
 10月14日、慶喜がいち早く、大政奉還したことで、討幕の口実がなくなった。
  大久保と西郷は岩倉に書面で訴えた。「このままでは徳川の勢力を温存させる・・・」と、西郷は、死中に活を求めるべく、慶喜側から戦いを起こさせるよう図った。
  西郷の密名をおびた薩摩藩士の益満休之助たちが江戸に向かった。江戸到着後、益満らは、浪人、無頼の徒を集め、江戸市中で暴れさせた。彼らの強奪や放
 火は関東一円に及んだ。怒った幕府側は、薩摩屋敷とその枝藩佐土原藩邸を焼討ちさせ、藩士、浪士らの一斉検挙を断行した。
      
幕末・維新おもしろ辞典 奈良本辰也監修 三笠書房 1989.10発行 より
  
       海野次郎は陣屋襲撃の隊長鯉淵四郎の変名

慶応3(1867)年12月18日地頭用人佐々周輔より上川尻村名主八木兵輔へ、浪士から軍用金の徴発
      12月25日 幕府の命令で行なわれた薩摩藩邸焼き討ち事件
慶応4年(1868)1月 3日鳥羽・伏見の戦(戊辰戦争起こる)   参考 幕末最後の閣僚・藤沢志摩守次謙
      1月 6日慶喜、海路江戸へ帰る
      3月13日西郷、勝と会見
      3月14日五ヶ条の御誓文、五ぼうの掲示
      9月 8日 明治元年改元

 慶応3年(1867)12月16日、上川尻村名主八木兵輔のもとへ一通の書状が届けられました。内容は八木家の蔵金から5000両を調達し明暁八ツ(午前2時)までに持参せよ、もし留守などといって遅くなれば多数人を向わせ、放火するという脅迫状でした。差出人は海野次郎という津久井県根小屋の豪商久保田家に押し入った浪人者です。
  慶応3年秋、薩摩藩の西郷隆盛は倒幕の時期到来を察し、関東に事を起こして幕府を挑発し武力によって幕府を倒そうと企てたといわれています。10月中旬薩摩藩邸に国学者、漢学者、武芸者などを募り浪士隊をつくりました。組織ができると下野国出流山(いずる)、甲斐甲府城、相州荻野山中藩陣屋の3か所を襲撃、関東をかく乱させようと決めました。このうち相州襲撃隊長が長州藩氏の鯉淵四郎すなわち変名海野次郎でした。
  12月12日、江戸藩邸を出発、原町田、下鶴間を経て厚木に向かいました。長脇差し姿の一行31名、鉄砲20艇、馬15匹と駕籠一艇という一隊です。幕府側から見れば賊徒ですが、白昼堂々と荻野に至り15日夜半陣屋を襲いました。 この陣屋は小田原藩大久保氏の分家で13000石の小さな大名の陣屋です。この陣屋に鉄砲を 打ちかけ、門を破り、土蔵にある武器、食料を奪い火を放ちました。翌16日には、近隣の村々に軍資金と称して金を強要しました。妻田村永野家から285両、川入村佐野家から5000両を要求して570両を手にし、根小屋村の久保田家に押し入りました。
 久保沢の八木家では、その夜のうちに350両を何とか集め浪士に届け事なきを得たという書状があります。翌早朝、近くの祖師堂の勤行の大太鼓の音に驚いた浪士隊は2,3隊に分かれて江戸に向かいました。久保沢を通って行った浪人はわずか11人でした。閉め切った戸の隙間から見たみすぼらしい浪人たちの姿を「スッポロケのへっぽこ侍だった」「こんなやつらに大金をせしめられ口惜しい思いだった」と当時の久保沢の語ったと伝えられています。
 相州荻野陣屋襲撃事件が薩摩藩の画策した倒幕計画の一つであるならば、その第一段階はこのようにして開始されました。
 大きく動こうとしている歴史の舞台の端役の通行人を久保沢の人達は、戸の隙間から見ていた事になります。
 浪士隊の久保沢通過から8日後、幕府は江戸薩摩藩邸を焼き討ち、翌慶応4年正月鳥羽伏見の戦いとなり、近代への変革の幕が開かれて行きました。
                    城山風土記 第5号 −町の歴史をふりかえるー より

  
揚げ戸のある商家                      揚げ戸の内側  城山町史 資料編 民俗 316P
商家や職人の家の店先には、「揚げ戸」と云う扉がありました。戸を左右に開けるのではなく、鴨居の上に押し上げる方法です。
 戸袋を横から上に付けた格好となり、外からも店内が見やすくなるような工夫が施されていました。

    

       
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