資料 「三澤日記」より普門寺 室伏高信著

 
津久井郡は相模の北海道といはれる。西北隅に位して山と谷と川と畑と太陽と空気としかない。面積が二百三十八平方粁もあって人口が三万千二百二十人しか過ぎないところから見ても、時代に残された地方の一つであることが分かるであろう。だが、ここは歴史の国である。
 三澤村は三井・名手・中沢の三部落から成ってゐる。三井は毛利庄に属したところで峰の薬師が残り、中沢は渋谷荘の後で舊刹普門寺がある。
 普門寺は高尾山の姉妹寺で、朱印十二石二斗余、この地方切っての名刹、参詣者が今に絶えない。
 三月七日、相川荘を訪れ、またその二三日前からここに滞在したものは、YMCAの中村正一・アナキスト川口奎助・大森の三正屋主人・早大教授板橋倫行の諸君。
 夕方になってちらほらと降り出した雪は、次の朝には地表の表面に薄化粧をほどこし、そしてまだ降りつづいてゐたが、八時になり九時になると、降るよりは溶ける方が早く、十時過ぎになってばったりと止むだ頃には、雪は跡方もなくこの地上から消え去ってゐた。
 倫行君は早稲田で東洋史を受持ち、傍ら仏教美術を中心として、関東地方仏教の史跡の研究をつづけてゐる。
 八日の午後、私は倫行・奎助の両君とともに中沢を訪ひ、ここの篤農青年笹本家富君に案内されて、普門寺へと行って見た。
 上中沢の大杉の二本並んでゐる、南向きの高台、中沢山の中腹に近いところに、普門寺が立ってゐる。裏は孟宗藪を隔てて飯縄神社に連なり、ここからは相模の平原が遠く霞み、城山も庭先に突っ立ち、眺望もよく、行を修めるによい。
 今は無住で留守を預かってゐる七十の老農が時々掃除や見まはりにくるだけで、古びたお堂と苔むした庭木とがよく調和し、「扉を閉じて物の音聞こえず」、閑寂がさびを加へ、寺の古い歴史を語ってゐる。
 田舎寺には珍らしく仁王門が立ち、庭の紅梅は時雨のやうに枝を降らし、筧のところでは馬鹿ッ鳥が人なつこく挨拶して迎へてゐる。私たちは老留守番案内で庫裏から本堂に入り、お厨子を開いてお像を拝した。
 普門寺は天平年中行基大士草創の地で、本尊また行基の刻むところだと記るされてゐる。私はその事実であるか否かを知らない。木像は長さ三尺三寸、白亳も刻みつけたもの、玉眼の跡もなく、一見して古色がただよひ、見るからに威厳をもって立ってゐる。一個の芸術品としても得易からざるものである。
 私たちは芸術品として、また歴史的な記録として眺めた。板橋の鑑定するところでは、これは鎌倉以前、平安朝にまでも遡ることができるであろうと。
 老留守番は終始私たちの傍らにあって、絶えず何ものかを感んじまた何ものかを恐れてゐるやうに見えてゐた。私たちがお厨子の扉を閉めようとする途端に、老留守番は遽に十字を切り、大渇すること三四囘にして畳のうえにひれ伏した。凄惨な、また荘厳な気が堂内に漲る。仏教は衰へたといふも、尚ほこの種の信仰と敬虔の感情とを残してゐるのは意を強くするに足るものがある。
 私たちは国宝の価値は十分だと話しながら門を出て、途中家富君と分かれ、横引きをとほって相川荘に帰った。
 寺の門近くに高麗姓を名乗る十数戸の家がある。朝鮮屋敷といはれるものもこの付近にある。朝鮮からの移住民が関東地方に早く仏教を輸入したのは東京近郊の深大寺にもその例がある。普門寺も或はその一つの場合であるかも知れない。
 相川荘に帰ると、弟の秀平が待ってゐた。彼は教育者であるが、また歌をよくし、歌人としての生活もはじめてゐる。
 秀平はこの夜遅く帰った。

    資料 澤村日記」 著者 室伏高信 第一書房 昭和8年7月発行 
    「反省サルとボクの夢」のロケ地・金剛山普門寺
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