夕やけの金剛山普門寺
     
 「反省サルとボクの夢」のロケ地 
                   
作成 2007・3・16 
  
    
 
普門寺の権現堂から           撮影 2006・1・末 撮影は若葉台・太田さん 
正面三角に見える山は大室山で別名、富士隠(かくし)山と呼んでいます。近くの「峰の薬師奥の院」から大室山を見ますと富士山が見えなくなります。大室山の麓には大室権現を祀る社があり昔からの信仰の山です。台形に見えるのは霊峰、富士。観音様のお姿に似た山脈に今、陽が沈もうとしているところ・・・。

水の里・中沢を歩こう 
資料・天保御用金事件 
資料・三澤日記より普門寺・室伏高信著

                           
撮影2007・3・14

 新編相模国風土記稿の中に描かれた普門寺
         天保6年頃(1835)の景観

 普門寺の全景 武相三十三観音霊場

   みねつづき 谷の中沢 観世音
         普門寺 ほんに 二十五ばんめ


      
  普門寺に続く道 飯縄道(いづなみち)小松ではゆづな道  仁王門

 
普門寺 仁王像、吽形(左側)   阿形(右側)
  
  鰐口   神奈川県指定文化財
  暦応2年4月(1339)
  新編相模国風土記稿の中の図より

    
  
    
    本堂                      観音堂 旧城山町有形文化財

   
    聖観音菩薩立像 非公開
観世音菩薩は三十三に化身して、人それぞれに応じて姿を変え済度されると云われています。聖観音は阿弥陀如来の脇士として勢至菩薩と一対をなし一般的に聖観音と呼ばれています。宝冠の正面には阿弥陀の化生した化仏(けぶつ)をいただいています。
普門寺の観音像は宝髷を結っています。
    
  
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絹本著色釈迦涅槃図 非公開

釈迦涅槃図の猫
お釈迦様がなくなられたのは、今から2500年ほど前の旧暦は2月15日、その夜は満月に輝やいでいました。場所は沙羅の木が生い茂る静かなインド・クシナガラ、熙連河(きれんが)のほとりでした。お釈迦様は多くの弟子や信者、それにたくさんの動物や昆虫たちに見守られながらこの世を去りました。お釈迦様がなくなった、この日を涅槃会(ねはんえ)と呼び各地のお寺ではお釈迦様のご法要を行なっています。この日、お寺では大きな涅槃図を掲げます。
 普門寺の涅槃図はちょっと変わ

っていて 猫が描かれています。
 こんな言い伝えがあります。猫もお釈迦様の死を悲しんで集まりました。天上にいるお母様の摩耶夫人も悲しみ助かるよう天上から薬袋を投げました。ところが木にひっかかり取れなくなってしまったのです。それを見ていたネズミはとっさに木によじ登りその薬袋を取ろうとしましたが、猫に気づかれネズミは食べられてしまいました。以来、このようなことがあってか、十二支に猫が登場しなくなったとか、それで猫はいつまでもネズミを追いかけるようになったとか云われています
普門寺の猫は下の左側に小さく、そして遠慮がちに描かれています。

   
 
    
    寛政十一年(1799) 奉納            オシャリ様

オシャリ様の話
今からおよそ250年ほど昔の話です。小松に細谷右馬之丞と云う人が住んでいました。この人は八王子人同心で医者だとも云われている人です。普門寺の境内には、オシャリ様と呼ばれている大きな石仏があります。このオシャリ様はできものを治してくれる神様と云われ、ほうぼうからお参りに来たと云います。
 右馬之丞さんは、寺のオシャミ山に穴を掘って四十九日後に入寂しオシャリ様になりました。その時の様子をこんなふうに伝えています。
 「オシャリ様はなー、ちっちゃい鉦を持って穴に入り、これが聞こえなくなったらおれは死んだと思ってくれと言ったよ。穴の中では豆を食ったちゅうよ。竹の筒っぽで息抜き立を立て、中からチャンチャンと鉦の音が幾日か聞こえたちゅう事よ。ちゃんと小松にお墓もあらな」どうしてこの様ななくなり方をしたかと云うと、「オシャリ様はな、みんなの幸せを願いながらなくなったんだ」と。
              広田の歩み 創立十周年記念誌 平成4年

       
      権現堂に続く長い階段   権現堂とスダシイやアラカシの社叢林

       
      金銅地蔵菩薩立像      飯縄権現堂 本殿

普門寺の沿革
 普門寺は真言宗智山派に所属し、天平年間(729〜748)に行基により、創建されたと伝えられています。その後、江戸時代に至るまでの歴史は明らかではありませんが、近年に発掘された板碑などの年代からも、霊域として常に重要な場所ではなかったかと思われます。
 背後の山上に祀られている飯縄大権現は御本尊、不動明王の本地仏で宝冠には武田菱があり、武田家とも密接な関係にあります。周辺の山々には無数の飯縄権現が祀られ高尾山もそのひとつです。
 慶安元年(1648)徳川幕府より十七石七斗余りの御朱印地を賜り、元禄十一年(1698)頼真(宝永4年(1707)示寂)によって中興されました。
 往時の構えは、末寺に東福寺、大悲山慈眼寺、智恩寺の三ヶ寺を従え、背後の山上には飯縄権現社、更に三島社と中沢の別当寺院として豪壮な堂社を構え真言宗の祈願道場として栄えて来ました。
 以来脈々として法灯絶えることなく「中沢の普門寺」として近隣の人々にも親しまれ、現在に至っています。

     
                              撮影2007・3・14

権現堂からの景観
 太陽が津久井湖を背景に西の山脈に日が沈む頃、辺りの景色は夕陽に染まる。じっと見ていると観音様が寝ているように見える石老山、あれはまぎれもない浄土の世界。遠い遠い頃、ここに寺を建てた人たちも、あの空をきっと見たに違いない。そう思って見ていると何だかありがたいような、今こうして生きていることに感謝したくなる。

参考
真言宗 金剛山普門寺 発行 普門寺 京王出版 平成2年12月発行
週刊朝日百科 仏教を歩く NO21 覚ばんと真言密教 2004・3 朝日新聞社
興教大師 覚ばん上人入門  福田亮成 1990年3月 ノンプル社
仏像心とかたち  望月新成・佐和隆研・梅原猛 NHKブックス 昭和40年 
仏像   入江泰吉・青山茂 保育社  昭和41年
美の観音  望月信成  創元社  昭和41年6版 

 
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