六根清浄 お山は晴天
    
〜高尾山と相模原を中心とした富士信仰の地を歩く〜

作成 2012・12・1
撮影 2012・10・9 八王子市・津久井方面
    祝 2013・5・1 国際記念物遺跡会議(イコモス)が富士山を世界文化遺産に登録するよう勧告をされました。
       撮影2012・11・10

町田市相原町大戸 大六天社先の高台から

はじめに
 左の写真の中央に大室山が立ちはだかっているのがお分かりでしょうか。夕焼けに浮き上がって見える富士山の姿をご覧下さい。
 相原から見る「夕焼け」がとてもきれいなところから中村雨紅は「夕焼小焼」の歌を作詞したと云われています。
 富士山がこうして夕焼けの中に見えたのは町田市相原町大戸地区にある大六天社の高台です。地理的には中村雨紅さんの家と八木重吉さんの家の中間です。
 旧城山町や町田市それと八王子方面からの富士の姿にはどうしても、前に大室山が立ちはだかって陰になってしまうことから大室山のことを昔から「富士隠し」と呼んでい
ました。大室山については別に項を持つ予定でいますが、高畑棟材は昭和5年6月に発行した「山を行く」と云う書物のなかで、富士隠しのことを「武田博士の説に従ふ」と論を述べています。
  ビルの屋上や途中のエレベータ、そして山などに登った時など、「富士山が見えるかな」と思うのは私ばかりか、富士山にまつわる自然のことなども書き綴ろうと思います。奥がとても深いので・・・、只今工事中。

「岩波写真文庫 15 富士山」から
    
 
 岩波写真文庫は1950年6月から1958年12月まで286冊が刊行されました。戦後間もない当時の人々の様子を様々な形で見ることができます。15富士山のシリーズでは武田久吉博士と地質学者の津屋弘達博士が監修っを行いました。武田博士は山岳家であると共に、高名な植物や民俗学者であることから「富士山の植物と動物・富士山に登る人たち」を担当したと思われます。
 文中では二合目の祈祷所の前で、御夫婦でしょうか並んでいる道者の姿やフジヤマに登るアメリカ人が映し出しています。また同じ二合目の茶屋のところでは「ジープでむりして、五合目まで登るアメリカ人がいる」と記しながら、お頂上に向かう道者の姿も映し出しています。下記に「富士山に登る人たち」の項を原文のまま掲載しました。
四、富士山に登る人たち
 六根清浄
(ろっこんしょうじょう)白い着物に白い帯、頭に白い布をまき、手甲脚絆も白木綿といういでたちで、手には白木八角の金剛杖をもって何人か組になって富士登山する連中がある。この連中がまずゆくところは頂上で、それから噴火口を一周する御鉢(おはち)まわり、さらに中道を一周する御中道(おちゅうどう)まわり、そして途中にはいくつかの拝所があり、そこで金剛杖には焼判、行衣(ぎょうい)には朱の判をペタペタ押してもらうのがことのほかだいじなようだ。これは富士講の道者といって、神道とも仏教ともつかぬ信仰と、家内安全家業繁昌の願いと、登山の楽しみと、団体旅行の妙味とで加入した一種の登山会の会員である。今では服装もだいぶ略され白シャツに白ズボンというのもあるが、江戸時代にはじまったもので、一時は吉田登山口に道者だけの宿があったという。今は誰でも登れるようになったが、昔はふつうの人はあまり登らなっかったし、女人禁制というおきてがあって庚申の年以外には女は登れなかった。交通も不便で設備もそまつだったから、富士登山は一つの修行であった。(中略)
 山で死ねば人界の罪が清められるという、富士講の連中にとっては富士山は霊山だ、講社の開祖は書行
(かくぎょう)、六代目の食行身禄(じきぎょうみろく)は六合目烏帽子岩に自ら断食して骨を埋めた。御鉢まわり、御中道まわりは今でこそ楽しい登山道だが昔は必死行だったろう。今でも中道は富士講の聖地である。雲切不動で心身を落ちつけ大沢をわたると「大沢大行」、小御岳神社で「大願成就」の極印を杖にうける。聖地にふれた杖の下端を白紙に包み、水引をかけ上端をついてかえる行者の顔は喜びに輝いている。(次頁へ)
 ずっとさかのぼって大昔、日本人は高い山が「祖先の神が天から降りてくる通路だ」とか、「神のすみか」とか考えた。また山そのものを神としてあがめるものもあった。富士山も神であった。やがてコノハナサクヤヒメが富士の山神となり、浅間神社にまつられた。道者たちの信仰もやはりそこから生まれているのだろう。今はずっと便利になった。頂上にも山腹にも、室
(むろ)とか小屋とかよばれる宿泊所が数十軒もあり、そこらのハイキングコースより楽なくらいである。しかし登る人の気持ちはどうであろうか。人がゆくなら俺もゆくという人たち、何度登った、何時間で登ったということをじまんの種にするレコード作り専門の人たち、途中の樹木や山草に目をむけるでもなく山上からの眺望をたのしむのでもなく、ただとにかく登るということが目的である人たちが多いように思われる。しかし山腹の一本の草、一本の樹でも、その名をしり、すこしでもその性質をしってみたら富士山にはえる植物のひたむきな生活力に心をうたれるだろう。一塊の岩にも、富士山を作っていった自然のたくましい歴史を読みとるだろう。      「富士山」 P52〜58より。
甲斐国誌や妙法寺記に現われた富士信仰のことなど
近世の富士塚信仰など
高尾山の山頂から富士を拝む



天拝式教伝之図(明治15年  1882)
絵札で見る歴代富士講の行者たち

元祖

二世日旺師
      
三世

四世

五世

六世

七世

八世




相模原市(旧津久井郡城山町)
菊川日記に見る丸玉講について

          撮影2012・11・22
 
葉山島地区 浅間山、圏央道の建設で元宮の一部が削れ取られました。浅間神社は元、浅間山に鎮座されていましたが戦時中に今の東林寺に遷されました。祭神はお蚕の神様で、お祀りは4月16日の日に行われていました。
 また、平成5年3月に発行された「城山町講中調査報告書」には、こんなことも記されてありました。

丸玉講が奉納した水鉢 相州 奉納 丸玉講中
     文化六己巳年  七月吉日
     (1809)
センゲンサマがカイコノカミになった話
 蚕影さま講  話者 斎藤三代子
 藤木の「蚕影さま」は青銅の人形で、又別に掛軸もある。現今は東林寺に存置してある、4月16日前後の日にお祭りをする。主に女衆の集まりで、当日お赤飯をふかして東林寺に集まり蚕影さまを飾って、和尚さんにお経をあげてもらい、お念仏を皆で唱える。その後、お酒、お茶を酌み懇談する。仲間は9人くらいである。
 東林寺に在置されるようになったのは、少し前のことでそれまでは、各戸回り番で宿をしてお祭りしたものである。
 他の地区にも蚕影さまがあり、東林寺にも在るようだが、お祭りを行っているのは藤木だけである。
 この頃は養蚕はほとんど行われていない。
平成元年11
月に発行された「津久井のくらしから」 では、昔から六夜待といって六の日に蚕影様を祝い、春と秋に各戸を持ち回りでおまつりがおこなわれたこと、蚕影様の御神体は銅でできた真っ黒い女神で桑の小枝を持っていた、御神体は4部落に一体づつあり、藤木には掛軸2巻と鉦があった。軸には大津比売神とあり養蚕の祖神として崇められてきた。」と、同町原宿にも蚕影社がありますが、「城山町講中調査報告書」では浅間神社と記述されていました。二本の掛軸の御本尊サマは金色姫ではなさそう、やっぱりコノハナサクヤヒメのようにも見えます。「センゲンサマがいつしかカイコノカミになった。」と云うことです。  

参考 「大願成就 大黒天」碑

東林寺の境内には「大願成就 大黒天」碑が建立されています。左手には小槌、右手で大きな袋を背負い、お顔は福よか、どっしりとされています。参考までですが、富士山の山頂までにがいろいろな神様が祀られ、上記の大黒天サマは四合目の大黒茶屋に祀られていたと推測(未確認のため調査要)されます。
各合目単位の神仏については調査中です。 

            撮影2012・7・23

旧城山町葉山嶋下倉地区の石塔群庚申塔



山印が彫られてある庚申塔


この庚申塔は上部向かって左側に月、右側に太陽が彫られその下中央部には富士山の形をした笠印があります。そして大きく「庚申塔」とあり、三猿が彫られています。従来の庚申塔に比べ、かなりの簡素化が見られますが富士信仰と庚申信仰が融合した形態を見せています。
  (右側) 明治七戌年三月吉辰
     庚申塔 
  (左側) 願主 斎藤直右エ門
        同 孫七


旧城山町穴川・風間地区 センゲンサマ




近くのオバサンから聞いた話
 「お正月になると、お供えをあげたよ。
竹の筒にお酒を持って来てあげた。
 今は、息子さんの代になったから分からない。」と、云った。
おばさんからセンゲンサマの場所を聞くと、屈んだ腰を伸ばしながら、山の方を指してくれた。
最近まで篠竹で覆われていたのか、刈り取った跡が見られた。山は明るくなって見えた。祠は朽ちていたが、中に五輪塔の笠の部分が見えた。祠の周りは平らになっていてヒサカキ、スダジイ、アラカシなどの常緑樹が目についた。
上がって来た方を見ると篠竹の合間から橋本の高層ビルが見えた。
 ここにセンゲンサマを祀った人々はどんな暮らしをしていたか。
静かな時間だけが流れた。

             採話2012・11・24
             

相模原市(旧津久井郡相模湖町)
          安房国長?郡天津村
           先達
             白井重四郎
包  大道長安信士
        俗名 日方半次郎


裏面         明治六年
            七月廿一日
         
旧相模湖町 松木堂前 97×54×24         寸沢嵐地区反畑の浅間森
山包講は千葉県南部を中心とした富士講の組織。明治6年7月、富士山の参詣を済ませたかは不明であるが、甲州道中小原宿の近くで亡くなった。日方半次郎さんのお墓は松木堂の高台にあり、頂から富士の姿が見えそうです。(未確認)

相模原市(旧津久井郡藤野町)
  
  旧藤野町日連 青蓮寺 金亀岩 

相模原市(旧津久井郡津久井町)

旧津久井町韮尾根(ニロウネ)地区自治会館脇
        元祖食行身禄くう
         二十七世 行者
                宣行眞通
登山三十三度
    明治四十四年亥年十月建之
               通称
               菊地原芳右エ門
     
 


 イ杓=くう

韮尾根(ニロウネ)地区自治会館脇

 
旧津久井町青根地区       旧津久井町青根地区          旧津久井町青根地区
御中道御内八海修行  
  登山三十三度大願成就
  御人穴御白糸瀧修行
      ○○講社
      先達 明行長山
  (裏面) 大正四年十二月廿三日
      長山   加藤長左エ門

(御)西浄土 
富士浅間大神供養塔 
御八海
   青根村先達
   
加藤七良左衛門

左側面 明治十五年五□□十一□
三十三度大願成就
先達 ○○○○ 







旧津久井町根小屋 富士塚
  浅間大神
  明治二十二年九月建之
  越後国 浜島勝

相模原市(旧市域)

相模原市中央区上溝地区
 
上溝地区   國分山安楽寺  ↑富士阿弥陀来迎像


 國分山安楽寺   富士阿弥陀来迎像

 庚申牛玉(部分) 寛政12年(1800)

        従人王六代孝安天皇ノ
御宇ヨリ當寛政十二年






御縁年卅六度年歴
二千二百年余 
 
 庚申牛王の絵図(部分)は60年に一度にめぐり来る御縁年時の絵札です。全体では62匹のお猿さんの上に富士山が、そし
て、その頂上の部分には御光を放つ阿弥陀三尊が雲に乗って描かれています。さらに天には太陽と月が雲間に見えています。下方にはひとまわり大きい2匹の猿が60匹の猿とは別に「庚申牛王」と記された文字を支え崇めているようにも見えます。
 さて、左の石造物は相模原市中央区上溝の、國分山安楽寺の寺門入口に安置されています。台座部分の文字は風化で分からなくなってしまいましたが、向かって右側面部に「安楽寺 照如代」と刻まれていることから、この時代に造立されたと思われます。照如は第十八世の僧侶で寺の再建に尽力されました。
 この石造物は「庚申牛玉」絵札と非常に良く似ています。下層の三角形は頂点部分がやや平らになり全体が富士山を模っています、頂上部には二匹の猿がいて阿弥陀如来の方向に手をさし伸ばしています。中央の阿弥陀如来様からは御光が放たれ富士山が極楽浄土の世界を想起させています。右側には観音菩薩、左側には勢至菩薩様もおられます。さらに、勢至菩薩様の後方にはもう一つの神秘な勢至菩薩様が現われています。今風に云えばブロッケン現象で起きたお姿のようにも考えられます。

菊川日記に見る山臣講について


 
仙元神社


 誓行徳山顕彰之碑

イ杓をコウと読み、富士講(角行系)内で伝わる特殊文字。(合字に検討中)
裏面   昭和七年十月十五日建之
    山   開
抑誓行大仙徳山ハ當所ノ人 姓ハ門倉夙ニ富士仙元ヲ信ジ歳十五

始メテ登山ヲナシ爾後六十六度ノ登山 十五度ノ中道ヲ重ネ文政

十年正月廿日ヨリ山麓 青木ケ原ノ窟ニテ二千日餘ノ苦行ヲ積ミ

天保三年九月三日 行年五十九歳ニシテ他界セラレタリ

                                  
                      杓
誓 行 大 仙 徳 山 イ

今回部落ノ者 相謀リ仙元神社再建 側碑を建テ其霊ヲ慰ムルモ

ノナリ
 碑文の内容

  
   誓行徳山之碑





     
山元神社 水鉢   


相模原市南区新戸 富士山供養塔跡

   
上溝久保地区の浅間神社 向かって右側に大きなタブノキが目につきます。鳥居から本殿に向かう途中は石が組まれ、だんだん高くなって行きます。本殿の背後は子供広場になっていて、真後ろにはコンクリートの壁が仕切られてありました。こうしたことから、当初は塚が築かれ、その上にお社がを築いたように思えます。富士塚の石組には富士山麓に産出する溶岩が使用されている例が数多くありますがここでは一般的な庭石が組まれていました。
 原当麻地区の浅間神社の社の左側には一抱えもある富士溶岩が奉納されてありました。
  
原当麻 浅間神社              奉納された富士溶岩の塊

上矢部のフジモリサマ
 「民俗」第50号は柳田国男の追悼の意味を込め、安西勝は「先生、柳田先生、境川の源流は、その後こんな様子でございました。」と結びながら「随筆 境川水源挽歌」と題してフジモリサマの話を記した。
(淵野辺の大塔宮伝説が矢柄八幡神社の話の次に)
 さらにかみての上矢部橋、ここにも婚礼の禁忌がある。その西方は、フジモリサマと呼ぶ小丘、すそを境川がめぐっている。これは浅間信仰の富士塚だろうとおもうのだが、むかしむかしのこと、京より高貴の姫君が、従者十二人を伴い、カイライ師に身をやつして落ちて来られ、フジモリサマのそばのオヒメバタケでお果てなされ、従者はそのまま土着して、上矢部村の草分けとなり、ここを古くは十二軒村と呼んだ。従者の長をばタイラサマといったそうだから、これも一種の平家伝説ではなかったか。付近の一地区にゴショノイリがある。
 座間美都治先生の著書「相模原の民話伝説」では「カイライ師」のことを「くぐつ師」と書き記し、「上矢部村の草分けとなった。」は外来者のため・・・今はだんだん絶家してほとんど残っていないことである。十二の墓もあったそうだが、現在は不明のようである。」と記している。安西先生も座間先生も既にこの世の人ではないので再確認が必要か富士塚があったようです。

大和市
  
遷された公所浅間神社

 
浅間神社跡地に残る富士塚と鳥居の礎石  富士塚上の五角柱神名地神塔
 地神塔は剥離が激しく判続出来たのは「少名」、「保食」,「貴命」だけでした。下溝地区の道保川と鳩川が合流する地点や大和市下鶴間諏訪神社境内にも同系の地神塔が建立されていることから、「天照大神」を起点として右周りで配列してみると、何れも「天照大神」→「倉稲魂神」→「埴安姫神」→「小彦名神」→「大己貴神」の順で並んでありました。こうしたことから、富士塚上
の五角柱は「地神塔」と判断しました。尚、「保食」は「保食命」のことなので倉稲魂神としました。(地神塔については後日特集する予定です。)

 

 昭和43年当時の景観

旧地に残されていた水鉢(コンクリート製)
公所(ぐぞ)浅間神社
 「昭和四十八年国道十六号線大和バイパス新設のため境内地の大幅な削減により諸般の情勢をかんがみ神社百年の大計を確立のため移転造営を発願する。
 昭和五十年九月十四日つきみ野八丁目十四番(元下鶴間一四三七番)より現在地に遷宮となる。」




座間市
          撮影2012・10・10

新戸村絵図(部分) 所蔵 相模原市立博物館

新戸村絵図(部分)について
 新戸村絵図は文政9年に描かれていますが、その中に飛地と考えて良いかわかりませんが「座間村地内字富士山」と云う字名がつけられてありました。実際の場所は眺望もよく、下から見ると山のように見えますが位置的には相模野台地の段丘面の際です。そのため「字富士山」の両脇からは相模野台地から流れ出る僅かな湧水を利用して「む志な谷田」や「明王やと田」などと呼ばれる谷戸田がありました。相模川の左岸では、こうした段丘面から流れ出る湧水を利用しての人々の暮らしがありました。
 飛地か否かと云う問題は他に譲るとして、字「富士山」の地内には浅間社が祀られてありました。

 昭和12年(1937)東京からこの地に移転開校した陸軍士官学校の生徒は、毎朝、点呼後に雄健(おたけび)神社に参拝し、続いて遥拝所に赴き宮城(皇居)・明治神宮・伊勢神宮及び各自の原隊や故郷に向かって遥拝するのが日課となっていた。
この方位盤は、その遥拝するための方位と、国内外・朝鮮半島・中国東北部の主要都市の方位を矢印によって表示したもので校内では最も重要なところとされていた。
位置 旧浅間神社跡(浅間神社は明治42年〈1909)、座間神社に合祀された)

明王地区にあった明王山の明王社  富士山公園内の浅間社  キャンプ座間内にあった天神社・山王社・道祖神

    
字「富士山」の浅間社跡地と同所の史跡「旧陸軍士官学校揺拝所方位盤」地

  
座間神社に遷された浅間社 

東京都八王子市
  
八王子市富士森 浅間神社
                         撮影2012・10・09
 
八王子市富士森 浅間神社の境内       富士塚上の石祠 延享二乙丑年 正月吉日 

 
富士塚上に続く石段                天明六丙午歳


八王子市裏高尾町 宝珠寺隣り 浅川神社

町田市相原町中村地区 諏訪神社境内に奉納された富士溶岩上の狛犬
   
慶應四戊辰年七月吉日

町田市相原町大戸地区 浅間神社


東京都青梅市で聞いたこと  採話 2012・12・15 原島さんより青梅市郷土博物館で
 飯能からの帰り道、青梅の博物館を見学しました。新町誕生をお聞きしながら、風切り鎌の事もお聞きしました。戦争中まで竿の先に鎌を立ててやった。北から吹く風を「秩父おろし」と云い南から吹く風を「富士おろし」と云う事もお聞きしました。南には瑞穂町に「駒形富士山」や「富士山栗原新田」の地名もあることから、そう呼んでいるのかと思いました。「富士おろし」とは珍しい呼名だったので記載しました。狭山池の近くには浅間神社が鎮座されています。


山梨県
              撮影2012・11・13

山梨県大月市上和田 □政五戌午年四月 日 
 
となりのお婆さんたちから聞いた話
オセンゲンサンのお祭りは8月26日だよ。今はね、役員さんが仙元塔の前に菓子やジュースをアゲて火を燃やすよ。
 昔は、どこの家でも養蚕をやっていたから、桑の束を持ってきて、それを高く積んで燃やした。板を並べ、その上にヤマノモノなどのご馳走を並べて、みんなで食べたよ。ヤマノモノはワラビやフキのことだよ。
           採話 2012・11・13
             

まとめの途中で
 とても、まとめられる段階ではありませんが「撮影した写真を並べただけ」と考えていただけると、ほっとします。まとめるとなると、かなりの時間が必要となります。分からないことだらけですので、ご容赦を・・・・

テーマ選定の理由
 この春から、ずっと武田久吉博士の民俗資料や著書等を縁あって調べさせて戴いております。日ごろお世話になっている山岸先生からの助言もあり博士がイギリスで調査されていた藻類についても興味を持ちました。その繊細なスケッチと云っても良いのでしょうか、顕微鏡から見たそのままを図に表現されています。博士は山岳家としてもあまりにも有名であり、生き方に対しても問に対しても常に真摯であり厳格でありました。どこか霊峰富士にも似ている気がしています。そして富士山は子供のころから真南に見て育った思い入れの深い土地でもあります。6月には世界文化遺産に指定される見込みです。富士信仰を広めた富士講の人々、そして各地に残る富士塚や浅間神社の多さ、これは富士山だけの限られた空間だけではない広い広い文化圏なのですね。

参考資料
北ふじすそのものがたり 第一巻 岩佐忠雄 発行所 富士五湖史友会 昭和51年6月再販
北相模・津久井古文書資料集 第三集 民衆信仰関係資料(一) 発行 城山地域史研究会
    村田公男 富士山北口御師と津久井県檀家 〜北口御師外川兵庫家「檀家帳」を中心に〜 
高尾山薬王院文書を紐とく 編集者 村上直 発行 高尾山薬王院 平成17年6月
    外山徹 第一五講 高尾山と富士参詣 享保元年〜宝暦十三年、年々諸用記
高尾山誌・復刻版 発行者 大本山高尾山薬王院 昭和58年12月
高尾山薬王院文書 第1巻 発行 法政大学多摩図書地方資料室 平成6年10月
心のふるさと祈りのお山  大山隆玄 発行 高尾山薬王院 平成14年12月(非売品)
民俗 第44号ー第45号 相模民俗学会 芝生浅間と富士講集団(一)・(二) 富士講の成立とその崩壊過程 大谷忠雄
河口湖畔・船津今昔物語 著者 伊藤竪吉 非売品 発行所 井出公済 昭和27年5月
朝日新聞 2012・10・8付 22面 如来浮かぶ「魔鏡」 南山大博物館収蔵品
石仏調査レポート 富士講碑その他  相模原市立博物館所蔵 発行時期不明
続群書類従 第二十一輯上 合戦部 編纂者 塙己一 続群書類従完成会発行昭和33年5月訂正3版
   合戦部三十五 天正十八年 富士山之事
武蔵野 通巻第9号 第5号 北相小仏峠付近の話 鈴木重光 発行所 雄山閣 昭和2年5月
武蔵野 通巻第35号 第1号 武蔵野の民間信仰特集 武蔵野文化協会 発行昭和31年1月
   別所光一 富士浅間信仰と富士塚
富士山の絵札 −牛玉と御影を中心に− 富士吉田市歴史民俗博物館 企画展図録 平成8年6月
多摩のあゆみ 特集 高尾山 たましん地域文化財団 平成18年8月
富士山 岩波文庫15 編集 岩波書店編集部 監修 武田久吉・津屋弘達 発行 1950・9
相模原の民話伝説 座間美都治 発行 昭和43年1月 
山梨県郷土史研究入門 山梨郷土研究会編 発行所 山梨日日新聞社 平成4年2月
  舟久保兵部右衛門 富士北麓 吉田御師と富士講
日本「聖地・巡礼」総覧 別冊歴史続本辞典シリーズ 新人物往来社 平成8年9月
  平野榮次 富士山 
「民俗」第50号 「神奈川県境川特集」 随筆 境川水源挽歌  安西勝 相模民俗学会
霊山と日本人 宮家準 NHKブックス 日本放送出版協会 2004・2
甲斐路 季刊No1・2 山梨郷土研究会 昭和36年6月・9月
  大森義憲 富士山頂問題と山の信仰 (一)・(二)
秋山村誌 秋山村誌編集委員会 発行 平成4年5月
  第1章 11編宗教 第2説 村内の神社 ・第4章文化財 第8編 教育と文化 4 浅間神社懸仏 

   オシャリサマの鉦の音
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