六根清浄 お山は晴天 〜高尾山と相模原を中心とした富士信仰の地を歩く〜
ビルの屋上や途中のエレベータ、そして山などに登った時など、「富士山が見えるかなあ」と思うのは私ばかりか、富士山にまつわる自然のことなども書き綴ろうと思います。奥がとても深いので・・・、只今工事中。 「岩波写真文庫 15 富士山」から 岩波写真文庫は1950年6月から1958年12月まで286冊が刊行されました。戦後間もない当時の人々の様子を様々な形で見ることができます。15富士山のシリーズでは武田久吉博士と地質学者の津屋弘達博士が監修っを行いました。武田博士は山岳家であると共に、高名な植物や民俗学者であることから「富士山の植物と動物・富士山に登る人たち」を担当したと思われます。 文中では二合目の祈祷所の前で、御夫婦でしょうか並んでいる道者の姿やフジヤマに登るアメリカ人が映し出しています。また同じ二合目の茶屋のところでは「ジープでむりして、五合目まで登るアメリカ人がいる」と記しながら、お頂上に向かう道者の姿も映し出しています。下記に「富士山に登る人たち」の項を原文のまま掲載しました。 四、富士山に登る人たち 六根清浄(ろっこんしょうじょう)白い着物に白い帯、頭に白い布をまき、手甲脚絆も白木綿といういでたちで、手には白木八角の金剛杖をもって何人か組になって富士登山する連中がある。この連中がまずゆくところは頂上で、それから噴火口を一周する御鉢(おはち)まわり、さらに中道を一周する御中道(おちゅうどう)まわり、そして途中にはいくつかの拝所があり、そこで金剛杖には焼判、行衣(ぎょうい)には朱の判をペタペタ押してもらうのがことのほかだいじなようだ。これは富士講の道者といって、神道とも仏教ともつかぬ信仰と、家内安全家業繁昌の願いと、登山の楽しみと、団体旅行の妙味とで加入した一種の登山会の会員である。今では服装もだいぶ略され白シャツに白ズボンというのもあるが、江戸時代にはじまったもので、一時は吉田登山口に道者だけの宿があったという。今は誰でも登れるようになったが、昔はふつうの人はあまり登らなっかったし、女人禁制というおきてがあって庚申の年以外には女は登れなかった。交通も不便で設備もそまつだったから、富士登山は一つの修行であった。(中略) 山で死ねば人界の罪が清められるという、富士講の連中にとっては富士山は霊山だ、講社の開祖は書行(かくぎょう)、六代目の食行身禄(じきぎょうみろく)は六合目烏帽子岩に自ら断食して骨を埋めた。御鉢まわり、御中道まわりは今でこそ楽しい登山道だが昔は必死行だったろう。今でも中道は富士講の聖地である。雲切不動で心身を落ちつけ大沢をわたると「大沢大行」、小御岳神社で「大願成就」の極印を杖にうける。聖地にふれた杖の下端を白紙に包み、水引をかけ上端をついてかえる行者の顔は喜びに輝いている。(次頁へ) ずっとさかのぼって大昔、日本人は高い山が「祖先の神が天から降りてくる通路だ」とか、「神のすみか」とか考えた。また山そのものを神としてあがめるものもあった。富士山も神であった。やがてコノハナサクヤヒメが富士の山神となり、浅間神社にまつられた。道者たちの信仰もやはりそこから生まれているのだろう。今はずっと便利になった。頂上にも山腹にも、室(むろ)とか小屋とかよばれる宿泊所が数十軒もあり、そこらのハイキングコースより楽なくらいである。しかし登る人の気持ちはどうであろうか。人がゆくなら俺もゆくという人たち、何度登った、何時間で登ったということをじまんの種にするレコード作り専門の人たち、途中の樹木や山草に目をむけるでもなく山上からの眺望をたのしむのでもなく、ただとにかく登るということが目的である人たちが多いように思われる。しかし山腹の一本の草、一本の樹でも、その名をしり、すこしでもその性質をしってみたら富士山にはえる植物のひたむきな生活力に心をうたれるだろう。一塊の岩にも、富士山を作っていった自然のたくましい歴史を読みとるだろう。 「富士山」 P52〜58より。 甲斐国誌や妙法寺記に現われた富士信仰のことなど 近世の富士塚信仰など 高尾山の山頂から富士を拝む
相模原市(旧津久井郡城山町) 菊川日記に見る丸玉講について 撮影2012・11・22 葉山島地区 浅間山、圏央道の建設で元宮の一部が削れ取られました。浅間神社は元、浅間山に鎮座されていましたが戦時中に今の東林寺に遷されました。祭神はお蚕の神様で、お祀りは4月16日の日に行われていました。 また、平成5年3月に発行された「城山町講中調査報告書」には、こんなことも記されてありました。
参考 「大願成就 大黒天」碑 東林寺の境内には「大願成就 大黒天」碑が建立されています。左手には小槌、右手で大きな袋を背負い、お顔は福よか、どっしりとされています。参考までですが、富士山の山頂までにがいろいろな神様が祀られ、上記の大黒天サマは四合目の大黒茶屋に祀られていたと推測(未確認のため調査要)されます。 各合目単位の神仏については調査中です。
相模原市(旧津久井郡相模湖町) 旧相模湖町 松木堂前 97×54×24 寸沢嵐地区反畑の浅間森 山包講は千葉県南部を中心とした富士講の組織。明治6年7月、富士山の参詣を済ませたかは不明であるが、甲州道中小原宿の近くで亡くなった。日方半次郎さんのお墓は松木堂の高台にあり、頂から富士の姿が見えそうです。(未確認) 相模原市(旧津久井郡藤野町) 旧藤野町日連 青蓮寺 金亀岩 相模原市(旧津久井郡津久井町)
旧津久井町青根地区 旧津久井町青根地区 旧津久井町青根地区
旧津久井町根小屋 富士塚 浅間大神 明治二十二年九月建之 越後国 浜島勝 相模原市(旧市域) 相模原市中央区上溝地区 上溝地区 國分山安楽寺 ↑富士阿弥陀来迎像
さて、左の石造物は相模原市中央区上溝の、國分山安楽寺の寺門入口に安置されています。台座部分の文字は風化で分からなくなってしまいましたが、向かって右側面部に「安楽寺 照如代」と刻まれていることから、この時代に造立されたと思われます。照如は第十八世の僧侶で寺の再建に尽力されました。 この石造物は「庚申牛玉」絵札と非常に良く似ています。下層の三角形は頂点部分がやや平らになり全体が富士山を模っています、頂上部には二匹の猿がいて阿弥陀如来の方向に手をさし伸ばしています。中央の阿弥陀如来様からは御光が放たれ富士山が極楽浄土の世界を想起させています。右側には観音菩薩、左側には勢至菩薩様もおられます。さらに、勢至菩薩様の後方にはもう一つの神秘な勢至菩薩様が現われています。今風に云えばブロッケン現象で起きたお姿のようにも考えられます。 菊川日記に見る山臣講について 仙元神社
山元神社 水鉢 相模原市南区新戸 富士山供養塔跡 上溝久保地区の浅間神社 向かって右側に大きなタブノキが目につきます。鳥居から本殿に向かう途中は石が組まれ、だんだん高くなって行きます。本殿の背後は子供広場になっていて、真後ろにはコンクリートの壁が仕切られてありました。こうしたことから、当初は塚が築かれ、その上にお社がを築いたように思えます。富士塚の石組には富士山麓に産出する溶岩が使用されている例が数多くありますがここでは一般的な庭石が組まれていました。 原当麻地区の浅間神社の社の左側には一抱えもある富士溶岩が奉納されてありました。 原当麻 浅間神社 奉納された富士溶岩の塊 上矢部のフジモリサマ 「民俗」第50号は柳田国男の追悼の意味を込め、安西勝は「先生、柳田先生、境川の源流は、その後こんな様子でございました。」と結びながら「随筆 境川水源挽歌」と題してフジモリサマの話を記した。 (淵野辺の大塔宮伝説が矢柄八幡神社の話の次に) さらにかみての上矢部橋、ここにも婚礼の禁忌がある。その西方は、フジモリサマと呼ぶ小丘、すそを境川がめぐっている。これは浅間信仰の富士塚だろうとおもうのだが、むかしむかしのこと、京より高貴の姫君が、従者十二人を伴い、カイライ師に身をやつして落ちて来られ、フジモリサマのそばのオヒメバタケでお果てなされ、従者はそのまま土着して、上矢部村の草分けとなり、ここを古くは十二軒村と呼んだ。従者の長をばタイラサマといったそうだから、これも一種の平家伝説ではなかったか。付近の一地区にゴショノイリがある。 座間美都治先生の著書「相模原の民話伝説」では「カイライ師」のことを「くぐつ師」と書き記し、「上矢部村の草分けとなった。」は外来者のため・・・今はだんだん絶家してほとんど残っていないことである。十二の墓もあったそうだが、現在は不明のようである。」と記している。安西先生も座間先生も既にこの世の人ではないので再確認が必要か富士塚があったようです。 大和市 遷された公所浅間神社
座間市
昭和12年(1937)東京からこの地に移転開校した陸軍士官学校の生徒は、毎朝、点呼後に雄健(おたけび)神社に参拝し、続いて遥拝所に赴き宮城(皇居)・明治神宮・伊勢神宮及び各自の原隊や故郷に向かって遥拝するのが日課となっていた。 この方位盤は、その遥拝するための方位と、国内外・朝鮮半島・中国東北部の主要都市の方位を矢印によって表示したもので校内では最も重要なところとされていた。 位置 旧浅間神社跡(浅間神社は明治42年〈1909)、座間神社に合祀された) 明王地区にあった明王山の明王社 富士山公園内の浅間社 キャンプ座間内にあった天神社・山王社・道祖神 字「富士山」の浅間社跡地と同所の史跡「旧陸軍士官学校揺拝所方位盤」地 座間神社に遷された浅間社 東京都八王子市 撮影 2016・冬至 撮影 伊藤雄一 高尾山頂から見たダイアモンド富士 八王子市富士森 浅間神社 撮影2012・10・09 八王子市富士森 浅間神社の境内 富士塚上の石祠 延享二乙丑年 正月吉日 富士塚上に続く石段 天明六丙午歳 八王子市裏高尾町 宝珠寺隣り 浅川神社 町田市相原町中村地区 諏訪神社境内に奉納された富士溶岩上の狛犬 慶應四戊辰年七月吉日 町田市相原町大戸地区 浅間神社 「北相小佛峠附近の話」より 昭和2年5月発行の「武蔵野9(5)」の中に、鈴木重光著「北相小佛峠附近の話」が掲載されてありました。その中に、富士信仰に纏わる話が二篇ありました。 二、小佛峠の浅間社
飯能からの帰り道、青梅の博物館を見学しました。新町誕生をお聞きしながら、風切り鎌の事もお聞きしました。戦争中まで竿の先に鎌を立ててやった。北から吹く風を「秩父おろし」と云い南から吹く風を「富士おろし」と云う事もお聞きしました。南には瑞穂町に「駒形富士山」や「富士山栗原新田」の地名もあることから、そう呼んでいるのかと思いました。「富士おろし」とは珍しい呼名だったので記載しました。狭山池の近くには浅間神社が鎮座されています。 山梨県
まとめの途中で とても、まとめられる段階ではありませんが「撮影した写真を並べただけ」と考えていただけると、ほっとします。まとめるとなると、かなりの時間が必要となります。分からないことだらけですので、ご容赦を・・・・ テーマ選定の理由 この春から、ずっと武田久吉博士の民俗資料や著書等を縁あって調べさせて戴いております。日ごろお世話になっている山岸先生からの助言もあり博士がイギリスで調査されていた藻類についても興味を持ちました。その繊細なスケッチと云っても良いのでしょうか、顕微鏡から見たそのままを図に表現されています。博士は山岳家としてもあまりにも有名であり、生き方に対しても問に対しても常に真摯であり厳格でありました。どこか霊峰富士にも似ている気がしています。そして富士山は子供のころから真南に見て育った思い入れの深い土地でもあります。6月には世界文化遺産に指定される見込みです。富士信仰を広めた富士講の人々、そして各地に残る富士塚や浅間神社の多さ、これは富士山だけの限られた空間だけではない広い広い文化圏なのですね。
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