オシャリサマの鉦の音

作成 2011.8.18
修正 2011・9・21


相模原市中央区・田名入定穴
はじめに
 相模原市中央区田名の塩田に「入定穴」と云われている地名があります。私はどうしてもその場所を確認したくて相模川の河岸段丘面を探して見ました。
 「入定穴」と云われているところは、ちょうど崖になっていて、とても人を寄せつけるようなところではありませんでした。周辺は鬱蒼と木が生い茂り、藪のようになっていました。対岸から眺めても、穴のようになっている所は見あたりませ
んでした。
 いつか、あの場所に辿り着き、修行のお坊様がどのような境地で、この世を去って行ったか。考えて見たいと思っています。
 上田秋成(享保19年(1734)〜文化6年(1809))の書いた「春雨物語」は、寛政の末年から最晩年にかけ、約10年の歳月を費やした物語集と云われています。その中に「二世の縁(にせのえにし)」と云う、ひときは異才を放つ物語があります。私は「こんな風には・・・・」と、思いましたが、世の中とは得てしてこんな方向に進んでしまうのかといささか閉口しました。
 内容が異色過ぎ、定吉がどのような気持で入定に向かったのか、物語の中では一切の理由が現われて来ないのです。作者はそればかりか、現実の中に、うだつの上がらぬ男を登場させ物語を仕上げて行きます。
 弥勒の世界を念じ修行をされて来た筈なのに、決して文中に現わさないまま、定吉を土中から掘り起こしてしまう。なんとカッコウの悪いブザマナなことか、終いには夫をなくした貧しい女のところの婿にも入れてしまう。本人はつくづくこの世の滑稽さに、また自分の愚かさを弾き出しているに違いない。これはもう仏教批判どころではない。「みんな同じ人間なのだと。」
 即身仏では、あの弘法大師様も入定と云う言葉を使う。箱根の山中をかけめぐった、弾誓上人たちも、円空や木喰上人、徳本上人たちもみな、木喰の僧たちであった。
 命あるものは今にいきるのだ。ただそれだけなのだ。そんな風に考え、また明日に向かう姿が目に浮かぶ。
 この物語は、定吉の入定前が全く分らないまま終わります。「定吉は一体、どなただろう」秋成は、定吉の一切を語らないまま物語を終える。そのことで、読者は定吉入定への想いを募らせるのです。
 日本各地にはこうした入定信仰にまつわる話が各地に伝わっています。

 「鶴間行人塚」と云う話も、その内の一つで、入室中の念仏行者が本当に死んでしまう話です。地面から竹筒が出ていてそこから、鉦の音と念仏の声が聞こえている。通りすがりの馬子は不思議がり、竹筒に泥を詰めてしまう。修業僧も馬子もこんな結末になろうとは、だれも考えていなかったに違いない。入定信仰そのものとは別に、ここでも現実はまったく別の方向に進んでしまう。
 こうした。行為が流行したためか、幕府は寛文年間に「町触れ」を出して行き過ぎを取り締まるようになりました。
諸出家并山伏町中ニ家屋敷を持、其家屋敷之内ニ寺構を仕置、致居住候出家山伏有之候ハ、今明日中ニ相改、其様子を具ニ書付」
(「寛文二年七月町触」)
寛文五年十一月の「町触れ」では
一、町中山伏、行人之かんはん并ほんてん、自今以後、出し置申間敷事 
一、出家、山伏、行人願人宿札ハ不苦候間、宿札はり置可申事
一、出家、山伏、行人願人仏壇構候儀無用之由、最前モ相触候通、違背仕間敷候、
   但、山伏、行人、願人ハ諸旦那より祈念頼候ハ其時計絵像をかけ、祈念可仕候、祈念仕舞候ハゝ、絵像無用可仕事
一、町中ニテ諸出家共法談説候儀、無用ニ可仕事
一、町中ニテ念仏講題目講出家并同行とも寄合仕間敷事

 こうした入定塚の伝説は他に川越市小仙波町の喜多院、同市北田島の真戒坊、江東区北砂の持宝院や練馬区貫井の善海和尚入定塚等があるようです。(武蔵の伝説昭和52年)また、隣県の山梨県では御正体山の麓に草庵を結んだ妙心上人の話が伝わっています。昭和39年5月には上人百五十年忌にあたり地元で盛大な祭事が行われ、中村星湖の作詞による「妙心上人の讃歌」も作られました。

 津久井には金剛山普門寺と旧藤野町篠原の福寿院に入定の話を伝えています。
 前置きが長くなってしまいました。ちょっと尋ねてみましょう。 

オシャリサマ   小松・クボネリ
資料ー1
オシャリ様の話
 今からおよそ250年ほど昔の話です。小松に細谷右馬之丞と云う人が住んでいました。この人は八王子人同心で医者だとも云われている人です。普門寺の境内には、オシャリ様と呼ばれている大きな石仏があります。このオシャリ様はできものを治してくれる神様と云われ、ほうぼうからお参りに来たと云います。
 右馬之丞さんは、寺のオシャミ山に穴を掘って四十九日後に入寂しオシャリ様になりました。そ
の時の様子をこんなふうに伝えています。
 「オシャリ様はなあー、ちっちゃい鉦を持って穴に入り、これが聞こえなくなったらヨ、おれは死んだと思ってくれと言ったよ。穴の中では豆を食ったちゅうよ。竹の筒っぽで息抜き立を立て、中からチャンチャンと鉦の音が幾日か聞こえたちゅう事よ。ちゃんと小松にお墓もあらな」どうしてこの様ななくなり方をしたかと云うと、「オシャリ様はな、みんなの幸せを願いながらなくなったんだ」と。
                         広田の歩み 創立十周年記念誌 平成4年

普門寺境内のオシャリ様
   
南側燈篭  北面 維 寶暦十三年 癸未霜月 日  令終 自開潮音 于此
        東面 奉納御佛前           号及び讃なし
        西面 信州石工 文左衛門 

北側燈篭  北面 維 寶暦十三年 癸未霜月 日
        東面 奉納御佛前
        西面 太左衛門


   普門寺観音堂脇・オシャリサマ前の立看板


小松・クボネリ

細谷右馬丞(自聞)さんが造立した地蔵菩薩像と塔身部の金石文
   撮影2007・5・4

地蔵菩薩像

















         




注 妙→
玄+少(ミョウ)

細谷右馬丞(自聞)さんの墓標とその金石文 

細谷右馬之丞さんの墓石
相模原市緑区若葉台下 
    小松・クボネリ

廿
 
 















        ↑
                                     左側の金石文  中央部分の金石文   右側の金石文
                               ○は 

参考ー5 「筑井文化 三号」



参考ー2  「オシャリマサと断食往生」 八木蔦雨著 「城山漫歩」より
 私の家の菩提寺は中沢(城山町)の普門寺(新義真言宗)で、武州高尾山の隠居寺として一の末寺だと言われている。当時の寝具などは今も押入れに保存されているとのこと。また本堂の廊下の天井にお駕籠が吊るしてある。これか隠居されて御前様が利用されたものらしい。隠居寺であってみれば或はその過去帳には大僧正、権大僧正など素晴らしい方々の芳名があるはずだと非礼をも省ず閲覧を乞うた。この寺は二百年前に炎上したことがあり、その時冥土の登録台帳ともいうべき大切な過去帳を焼失してしまったので、古いものは無いといって一冊の薄いものを渡してくれた。私の期待していた人名は出て来なかったが、実に意外なものが待っていた。それは普門寺で不可解とされていた「オシャリサマ」の記録である。
 普門寺の寺領内にオシャミ山(お紗弥山)というのがあり、その山に通称「オシャリサマ」なる地蔵尊が祀ってあった。現在は山から下ろされ観音堂の横、飯縄権現への登り口石段の左側、人目の付き易い所に安置されている。
 さてこの過去帳には異例ともいうべき「オシャリサマ」の臨終の模様が書き入れてあった。
 「此人
@小松村A細谷氏之家ニ生れ若年よりBれい意(怜悧?)ニ志て衆にぬきんで医道Cじゆ道武道ニ心をよせて出世せんことをのそみD三十四歳の頃E不図Fぼだい志んおこり出家して志やミとなり當山現住G法印快誉と契約しH無帯坊をつくり當I七月四日ヨリJ入室しKだんじき志てL決定往生之願念しつい丹M八月廿一日夜中ニ往生シ願成就し法印快誉後に志てN不動明大咒をじゆすればO立像の弥陀空中に現じ給ふぞ許し給へとつぐ因是咒を屋めてP念佛十五遍同音に誦ずるニ次第ニこゑひくゝ弥むるがごとくけつかふざし右にQ五古 左りにR浄土三部経持しおわりぬ
  寶暦十三癸未天
S梵蓮社自聞潮音律師
  八月廿一日 
命終 
  當山現住伝受 
大阿闍梨法印快誉」
 以上がその全文であるが難解な所が多い。これは、法印快誉自身書いたものか、あるいはその伝承を後の住職が記したものか、表紙は白紙のままで年代その他が明記して無いので判然としない。


@小松村 旧津久井郡川尻村・小松、境川の支流小松川流域を中心とした小集落
A細谷氏之家
Bれい意
Cじゆ道 医道、柔道、武道
D三十四歳
E不図 ふと、はからずも、おもいがけなくも、突然
Fぼだい志ん
G法印快誉
H無帯坊をつくり
I七月四日
J入室
Kだんじき 断食
L決定往生 必ず極楽往生する
M八月廿一日夜中
N不動明大咒 ふどうみょうたいしゅ・
O立像の弥陀空中に
P念仏十五遍
Q五古 密教法具の一種、独鈷、三鈷、五鈷等がある。
R浄土三部経 『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の三経を云う。
S梵蓮社自聞潮音律師
命終 命が尽きること。死ぬこと。
大阿闍梨


金剛山普門寺 宝暦13年 過去帳
當山
現住
傳受
大阿
闍梨
法印
快誉
代
ごとくけつかふざし右にQ五古左にR浄土三部経持しおわりぬ



咒を屋めてP念仏十五遍同音に誦ずるニ次第ニこゑひくゝ弥むるが

じゆずればO立像の弥陀空中に現じ給ふぞ許し給へとつぐ因是



八月廿一日命終   成就し法印快誉後に志てN不動明大咒を
 梵蓮社自聞潮音律師 
つい丹M八月廿一日夜中ニ往生シ願

Kだんじき志てL決定往生之願念し
宝暦十三癸未天  契約しH無帯坊をつくり當I七月四日ヨリJ入室し E不図Fぼだい志んおこり出家して志やミとなり當山現住G法印快誉と C医道Dじゅ道ニ心をよせて出世せんことをのそみ三十四歳の頃



此人@小松村A細谷氏之家ニ生まれ若年よりBれい意ニ志て衆にぬきんで
参考 春月物語  二世の縁
 山城の高槻の樹の葉散りはてて、山里いとさむく、いとさふざふし。古曾部部(こそべ)と云ふ所に、年を久しく住みふりたり農家あり、山田あまたぬしづきて、年の豊凶にもなげかず、家ゆたかにて、常に文をよむ事をつとめ、夜に窓のともし火かかげて遊ぶ。母なる人の「いざ寝よや、鐘はとくに鳴りたり、夜中過ぎてふみ見れば、心(しん)つかれ、つひには病する由、我が父ののたまへりしき聞き知りたり。好みたる事には、みづからは思ひたらぬぞ」と、諌(いさ)められて、いとかたじけなく、亥(午後10時頃)過ぎては枕によるを、大事としけり。
 雨ふりてよひの間も物おとせず。こよひは御いさめあやまちて、丑
(うし午前2時頃)にや成りぬらん。雨止みてかぜふかず。月出でて窓あかし。一(ひと)こともあらでやと、墨すり、筆とりて、こよひのあわれ、やや一、二句思ひよりて、打ちかたぶきをる(首をかしげ思案する)に、虫のねとのみ聞きつるに、時々かねの音、夜毎(よごと)よと、今やうやう思ひなりて、あやし。庭におり、をちこち見めぐるに、ここぞと思ふ所は、常に草も刈りはらはぬ隈(くま・奥まったところ)の、石の下にと聞きさだめたり。
 あした、男ども呼びて、「ここほれ」とて掘らす。三尺ばかり過ぎて、大なる石にあたりて、是をほれば、又石のふたしたる棺
(かん)あり。蓋(ふた)取りやらせて内を見たれば、物有りて、それが手に鉦(かね)を時々打つ也と見る。
人のやうにもあらず、から鮭
(内臓をとり日干しにした鮭)と云ふ魚(うお)のやうに、猶(なほ)痩々(やせやせ)としたり。髪は膝までおひ過ぐるを取出ださするに、「ただかろくてきたなげにも思はず」と、男等云ふ。かくとりあつかふあひだにも、鉦(かね)打つ手ばかりは変らず。「是は、仏の教へに禅定(ぜんじょう:心を集中、安定不動の境に入る修行で、結坐のまま葬られ、生死を超越して、即身仏になることをいう。)と云う事して、後の世たふとからんと思ひ入りたる行ひなり。吾ここにすむ事、凡(およそ)十代、かれより昔にこそあらめ。魂(こん:精神を司る)は願(ねがひ)のままにやどりて、魄(はく:肉体を司る)のかくてあるか。手動きたる。いと執(しふ:執念ぶかい)ねし。とまれかうまれ、よみじ(黄泉路:死者の国に行く道、蘇えるに同じ)がへらせてん」とて、内にかき入れさせ、「物の隅に喰ひ付かすな(執念を持つ者は、物の隅にくいつくと離さぬ)」とて、あたたかに物打ちかづかせ(被く:ここは着せるの意)、唇吻(くちびる)にときどき湯水すはす。やうやう是を吸ふやう也。
 ここにいたりて、女わらべはおそろしがりて立ちよらず。みづから是を大事とすれば、母刀自
(とじ)も水そそぐ度(たび)に、念仏して怠らず。五十日ばかり在りて、ここかしこうるほひ、あたたかにさへ成りたる。「さればよ」とて、いよいよ心とせしに、目を開きたり。されど、物さださだ(定々:はっきりと)とは見えぬなるべし。飯(いひ)の湯、うすき粥(かゆ)などそそぎ入るれば、舌吐きて味はふほどに、何の事もあらぬ人也。肌肉ととのひて、手足はたらき、耳に聞ゆるにや、風さむきにや、赤はだかを患(わづら)ふと見ゆる。古き綿子(ぬのこ:木綿の綿入れ)打きせれられて、手にて戴く。うれしげ也。物にもくひつきたり。法師なりとて、魚はくはせず。かれはかへりてほしげにすと見て、あたへつれば、骨まで喰ひ尽す。さて、よみぢがへりしたれば、事問(ことどひ)すれど、「何事もおぼえず」と云ふ。「此の土の下に入たるばかりはおぼえつらめ。名は何と云ひし法師ぞ」と問へど、「ふつにしらず」といふ。今はかひなげなる者なれば、庭はかせ、水まかせなどさして養ふに、是はおのがわざとして怠らず。
 さても、仏のをしへはあだあだ
(徒々:むだな)しき事のみぞかし。かく土の下に入りて鉦打ならす事、凡(およそ)百余年なるべし。何のしるし(験:霊験、仏徳のあかし)もなくて、骨のみ留まりしは、あさましき有樣也。母刀自はかへりて覺悟(考え方)あらためて、「年月大事と、子の財寶をぬすみて、三施(さんぜ:仏教が教える施(ほどこ)し)おこたらじとつとめしは、きつね狸に道まどはされしよ」とて、子の物しりに問ひて、日がら(日柄)の戸(はか)まうでの外(ほか)は、野山の遊びして、嫁まごに手ひかれ、よろこぶよろこぶ。一族の人々にもよく交はり、めしつかふ者らに心つけて、物をりをりあたへつれば、「貴しと聞し事を忘れて、心しづかに暮らす事のうれしさ」と、時々人にかたり出でて、うれしげ也。
 此のほり出だせし男は、時々腹だたしく、目怒
(いか)らせ物いふ。「定(ぢやう)に入たる者ぞ」とて、入定(にふぢやう)の定助(ぢやうすけ)と名呼びて、五(いつ)とせばかりここに在りしが、此の里の貧しきやもめ住(ずみ)のかたへ、聟(むこ)に入りて行きし也。齡(よはひ)はいくつとて己しらずても、かかる交はりはするにぞありける。さてもさても、仏因(仏果も得るための積む善根)のまのあたりにしるし見ぬは」とて、一里(ひとさと)又隣の里々にもいひさやめく(言い騒ぐ)ほどに、法師はいかりて、「いつはり事也」といひあさみて(あざけり卑しめて)説法すれど、聞く人やうやう少なく成りぬ。
 又この里の長
(をさ)の母の、八十まで生きて、今は重き病にて死なんずるに、くす師にかたりて云ふ。「やうやう思ひ(定助の一件で、仏法の偽りが分るようになったことをさす。)知りたりしかど、いつ死ぬともしられず。御藥に今まで生きしのみ也。そこには、年月たのもしくていきかひたまひしが、猶御齡(おんよはひ)のかぎりは、ねもごろにて来たらせよ。我が子六十に近けれど、猶稚(をさな)き心だちにて、いとおぼつかなく侍る。時々意見して、家衰へさすなと示したまへ」と云ふ。子なる長は、「白髮(しらが)づきてかしこくこそあらね、我をさなしとて御心に煩(わづら)はせたまへる、いとかたじけなく、よくよく家のわざつとめたらん。念仏してしづかに臨終したまはん事をこそ、ねがひ侍る」といへば、「あれ聞きたまへ。あの如くに愚(おろ)か也。仏いのりて、よき所に生れたらんとも願はず。又、畜生道とかに落ちて、苦しむとも、いかにせん。思ふに、牛も馬もくるしきのみにはあらで、又たのしうれしと思ふ事も、打ち見るにありげ也。人とても楽地にのみはあらで、世をわたるありさま、牛馬よりもあわただし。年くるるとて衣そめ洗ひ、年の貢(みつぎ)大事とするに、我に納むべき者の来たりてなげき云ふ事、いとうたてし(嘆かわしい。いやなものだ)。又目を閉ぢて物いはじ」とて、臨終を告げて死にたりとぞ。
 かの入定の定吉は、竹輿
(かご)かき、荷かつぎて、牛むま(馬の古い言い方)におとらず立ち走りつつ、猶(なほ)からき世をわたる。「あさまし。仏ねがひて浄土に到らん事、かたくぞ(難し:ぬずかしい)思ゆ。命の中(うち)よくつとめたらんは、家のわたらひ(生業、家業)なり」と、是等を見聞きし人はかたり合ひて、子にもをしへ聞(きこ)ゆ。「かの入定の定吉も、かくて世にとどまるは、さだまりし二世の縁(えにし)をむすびしは」とて、人云ふ。其の妻(め)となりし人は「何に此のかひがひしからぬ男を、又もたる(もちたるの約、後夫に選ぶ)。落穂(おちぼ:後家は落穂を拾って生活の助けとすることが許されていた。)ひろひて、独すめりにて有りし時恋し。又さきの男(前夫)、今一たび出でかへりこよ。米麦、肌かくす物も乏(とぼ)しからじ」とて、人みればうらみなきしてをるとなん。いといぶかしき世のさまにこそあれ。

  完訳 日本の古典 第五十七巻 雨月物語 春月物語 発行所 小学館 昭和58年9月
  二世の縁  凡例 上本の原文に読みと新たに語意を付け加え括弧で表示ました。

鶴間行人塚
  むかし、上鶴間の谷口にひとりの男が住んでいました。男は日がな一日考え事をしていました。そしてすっくと立ち上がるとぽんと手を打ちました。「よし、俺 は修行をする!そして国持ちの大名になってみせる」と叫ぶと、何を思ったか、傍らにあった鍬を振りあげ穴を掘り始めました。
  穴は人間が一人座っていられるぐらいの大きさになりました。そして蓋を作りそこに節を抜いた竹筒をさし、息ができるようにしました。男は用意していた鉦 を持って穴の中に入り、上から器用に土をかけ、そこに座ってて鉦をたたいて念仏を唱え始めました。男の言った修行とはこれだったのです。男は一心不乱に鉦 をたたいて念仏を唱えていました。
  そこへ馬を引いた馬子が通りかかりました。どこからともなく鉦の音と念仏の声が聞こえてきます。あたりに誰いないので変に思い、たどっていくと地面から 竹筒が突き出ていて、そこから聞こえてきます。馬子はまさか中に人間が入っていると思いませんから、竹筒に泥を詰め込んで行ってしまいました。穴の中の男 は、かわいそうに息が出来なくなって死んでしまいました。


資料ー3             昭和48年7月1日発行

オシャリサマの伝承
 旧城山町に伝わるオシャリサマの話は、「筑井文化 第三号」、安西勝さんによって初めて紹介されました。城山町のお寺に伝わる話をまとめられ、普門寺の項の中で紹介されています。
 昭和四十五年になると、今度は八木蔦雨さんによって「城山夜話」と云う本が刊行されました。その第四十七話に「オシャリサマと断食往生」と云う表題がつけられオシャリサマを紹介しています。
 その後、城山町の広報誌にも掲載されるようになり広く知られるところとなりました。
 加藤哲雄さんが執筆した「おしゃり様」では、新たに「デキモノノ神」になったことが書き添えられました。その後、清水公斉さんの手で、研究は更に進み墓石や普門寺過去帳との比較研究や地名と
の考察等が加わり、伝承の精度を高めました。
 オシャリサマの話は今も語りつがれ毎年8月21日の右馬之丞さんのご命日には、末裔である細谷家が中心となりお花がたむけられています。

資料ー4                     昭和50年2月1日号


 細谷右馬之丞さんの年譜
西暦 和年号 年齢 細谷玄道こと、右馬之丞さんの主なできごと
1719 享保4年 1 父、細谷兵衛の長子として小松邑に生まれる。
1749 寛延2年 31
1750 寛延3年 32
1751 宝暦元年 33
1752 2年 34 中沢村金剛山普門寺、住職法印快誉の元で剃髪、出家、艸菴に入る
1753 3年 35
1754 4年 36
1755 5年 37
1756 6年 38
1757 7年 39
1758 8年 40
1759 9年 41
1760 10年 42 2月、江戸大火、神田出火、日本橋から深川に及ぶ
1761 11年 43 4月18日、栄幢と自聞がツボネイリの墓所に地蔵菩薩像を建立する。
       右側塔身部に女人二名、童女五名、童子二名の名を刻
1762 12年 44
1763 宝暦13年 45 7月4日、入室
8月21日、命終。
11月、即身成仏されたオシャミヤマに「自開潮音」と記されたオシャリサマ石像を祀る。
 (現在のオシャリサマ石像は元テニス場のところににあったが、テニス場が出来たため現在地に遷る。)

参考 藤野町牧野・福寿院・入定塚

キリーク 阿弥陀如来  正保二年(1645)?(再調査要)
 旧牧野村篠原地区に即身成仏(生きた体のまま仏になる)した僧がいた。場所は福寿院北の方といわれる。鈴(れい)と数珠を持って自ら土中に埋まり竹筒を通して鈴の音が外に聞こえるようにした。鈴の音が次第に小さくなりやがてその音は止まり、外部からも成仏されたことを知ることができたという。今、福寿院入口のかたわらに自然石の碑が造立されているが、この僧の供養碑と伝えられている。
                 
「藤野町史 藤野町の民俗 11口頭伝承」より
参考

旧津久井町長竹地区・来迎寺の地蔵菩薩像

まとめ
 二・三の資料を基にしながら、旧城山町に伝わるオシャリサマの伝承についての検討を見て来ました。
 人々の幸せを念じ、また遥かかなたの未来のことなどを念じながらこの世を去った、細谷玄道こと、右馬之丞さんを通し、信仰とはこのようなことかと頭の下がる思いがしました。
 左の地蔵像は入定により亡くなった行者の墓ではありませんが、旧長竹村来迎寺の墓地の中にありました。
 この寺にはおびただしい数の童女、童子の墓石が造立され祀られています。自聞さんが生前中に造立した地蔵菩薩の塔身部にも七名の子供と二人の女性の戒名が刻まれてありました。地蔵像の塔身部には「どうか一日も早い功徳が施こされ、速やかな悟りが得られますように」と、深い祈りの意味が込められていました。
 来迎寺の地蔵菩薩像はその子供たちを遠くから見守るような位置にありました。入定の行者の造立かは分りませんが、穏やかな良いお顔をしていました。
 入定によって未来が確かなものになるか私には分りません。ただ残されたいくつかをつなぎあわせて見ると、当時の人々の精神的な深さを垣間見ているようです。
 「乃至法界平等利益」の語意から、予期せぬことがあったのでしょう。自聞さんは一心に祈り、安らかな世界へと導かれました。 オシャリサマは人生の道しるべのようにも思えます。どうか、明日も良い一日でありますようにと・・・

参考 城山町広報 城山散歩 その1 おしゃり様 加藤哲雄 昭和48年7月発行
    城山町広報 中沢のオシャリサマと小松のクボネリ 清水公斉 昭和50年2月1日号
    城山町史4 資料編 民俗 城山町 昭和63年3月発行
    藤野町史資料編3 藤野町 発行 平成6年3月 11 口頭伝承
    江戸のはやり神 宮田登  筑摩書房 発行1993年7月
    江戸の想像力 田中優子 筑摩書房 発行1986年10月
    道志七里物語 前川清治 山梨日日新聞 発行平成18年12月
    仏につながる人間像 −妙心ミイラ法師の生涯− 大山澄太 大法輪閣 発行 昭和59年12月
    田名の史跡めぐり 三栗山財産管理組合 発行 1991.4
    手焼き煎餅の風林堂様のHPより 「相模原の民話 第25話 行人塚」
    広田のあゆみ 創立十周年記念誌 城山町立広田小学校 発行平成4年2月
    「反省サルとボクの夢」のロケ地・金剛山普門寺
    村田公男 謎解き不動明王 〜武蔵国保谷氏と久保沢町〜  2010・5・16

         撮影2011・8・13
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