武田久吉博士からの写真
                       
     
 ー尾瀬の父、武田久吉博士の生涯ー 武田久吉博士の年譜(作成中)

  
    武田久吉像












2011.8.22 年譜に「山岳」「博物の友」等の関係記事を追加
2012・5・4 林家よりご提供された論文や資料を掲載
2012・8・16 年譜に「民俗と植物」「登山と植物」等の関係記事を追加
2013・4・9 「庚申 庚申懇話会」に寄稿した関連記事を追加
2013・7・17 昭和12年の項に拱手について」を追加する。
2013・7・24 「科学知識」(国会図書館所蔵)に寄稿した論文を追加
2013・8・29 「日本の自然美」についての資料を追加
2013・9・28 「日本地理大系 山岳篇」の記述を追加
2013・12・20 「櫻草のふるさと」と、関連する未公開原稿を追加
2014・1・13 私家本「植物及動物/日本の高山植物」から関連記事を追加
2014・2・21 「大法輪 農村の行事と俗信」を追加 
2014・4・5 「丹澤 秦野山岳会」(秦野市立図書館所蔵)に寄稿した関連記事を追加
2014・9・5 「アルプ 88〜93号 木暮君と私(一)〜(五)」の関連内容を追加
2014・9・20 明治38年尾瀬旅行スケッチ3枚を追加
2014・10・29 「日本高山植物写真図聚 壹・弐」から関連記事を追加
2014・11・7 「大雪山 北海道文化財シリーズ第七集」から関連事項を追加
2015・3・4 「吾妻火山群の植物景観」からの関連事項を追加 
2015・4・7 「国立公園・戦前編」内容を確認し資料を追加  
1
2015・5・28 妻・直子に宛てた「郵便はがき」の内容等を追加
2015.8.7 「月刊 文化財 第十号」の内容等を追加
2015・9・7 「路傍の石仏」の目次と「あとがき」の部分を追加
2015・9.18 明治31年、早田文蔵が尾瀬にて「ながばのもうせんごけ」発見を追加
2016・5・11 昭和45年3月の項に「山の神」信仰関連の内容を追加
2016・5・13 サブタイトル名を「尾瀬の父、武田久吉博士の生涯」に一部変更する。
2016・6・15 服部植物研究所より送られた「イトミズゴケ」に関する資料を追加
2017・3・26 「昭和九年十一月陸軍特別大演習竝地方行幸群馬縣記録」と関係記事を追加

2018・11・10 武田家所蔵本等に関する記述を追加(開始)、また武田家所蔵本と表記
2019・6・10 歌集「香蘭」に挟まれていた「曼珠沙華」の願い文を追加
2019・8・28 大正3年4月の項に中井猛之進著「済州島植物研究ノ略史」の部分を追加
2019・8・30 国立科学博物館に収蔵されているタカネソモソモ・オオヤマザクラの標本を追加
2019・9・17 川田黙著「植物採集」の中にに記された「武田君が植物研究の栞」の記述を追加
2021・9・28 朝日新聞1994・7・22付、「尾瀬沼の取水やめて」と題した新聞記事を追加
2022・4・18 肖像写真と大正9年の項に、武田家所蔵のパンフレットを追加する。

 
 「道祖神」 昭和16年発行
ー津久井の道祖神と鈴木重光ー  
 昭和16年12月、武田久吉博士はアルス社から「道祖神」を出版しました。武田久吉博士といえば高山植物学者や山岳家でもあり、また「尾瀬」を電源開発から守ったと云う自然保護者であることもあまりにも有名です。
 だが、意外と知られていないところでは、藻類学者としても名を馳せていたことです。イギリス留学中は高名な藻類学者G・S・WestやF・E・Fritschの指導を受け、帰国後は一早く長野県の霧が峰とその周辺の湿地に足を運んで淡水藻の研究を始めました。そして、その研究の成果を「山岳 11の3号」に「霧が峰と鎌ヶ池・八島ヶ池」と題して発表しました。またイギリスでは既に「Scourfieldia cordiformis,a new Chlamydomonad,Ann,Bot.30 」、
「Dysmorphococcus variabilis,gen,et sp.nov.ibid.30」
「On cartoria fritschii n.sp.ibid.30」の3 篇を報告していました。
 昭和2年、3回目に訪れた「尾瀬の春」では、残雪に赤く染まる藻類「虹雪(こうせつ)」のこともさりげなく紹介しました。
 博士は、日本各地の山々を登り高山植物学者として昭和34年には「原色日本高山植物図鑑」を刊行しました。また植物調査の傍ら、その土地々に伝わる民俗や習俗のことなどについても調査を続け民俗学者としても名を馳せていました。
 今回、取りあげた「道祖神」はそうした研究の中で(※合間に)生まれた記録集で何時ごろかは分かりませんが津久井にも2回調査に訪れました。
 武田久吉博士は「道祖神」の構成法を先ず「形式別」に分類し次に検分した「場所」を明示し、それらにまつわる説明を加えました。その構成法はまるで植物図鑑を見ているかのように、例えば山梨県の道祖神は丸石系が圧倒的に多くなっていますが、ここでは10例だけを取り上げ、丸石の形、石祠内か外か、丸石の数など、それらを丹念に分類しその違いを明らかにしました。
 現在、津久井郷土資料室の中に保管されている「鈴木重光綴」のなかにはその当時、鈴木重光が武田久吉博士から譲り受けた貴重な写真が収められています。
 譲り受けた、下図の写真は一部がなくなっているところもありますが、どれもが貴重な写真ばかりです。当時は今と違って内務省の検閲がありました。検閲は厳しく、男根、女根石など土俗的色彩の強い、写 真の掲載は例え学問的な調査であったとしてもかなりの厳しさがありました。
 鈴木重光は相模民俗学会が昭和34年3月発行した「民俗 第34号 神奈川県道祖神特集号」の中で博士と共に津久井を訪ねた思い出を「津久井郡の道祖神雑感」として書き記しました。

合間に
 当初、私は合間と云う感覚で考えてしまいましたが目録や年譜の補正を行う段階で、私の大きな間違いだ ったことが分かりました。また、この時期は博士が大変なご苦労をされた時期でもあり、大変な失礼をしてしまいました。博士のご労苦を忍び少しでも多くの皆様に知っていただきたくあえて記述を残させて戴きました。
        謹んでお詫び申し上げます。 (2012・5・30/保坂記)

資料@ 津久井郡の道祖神雑観   鈴木重光
 津久井郡の道祖神で、私の調べたものについては、これ迄に度々各誌に発表して、既に品切れの観がある。それを今更事新しく繰り返すということは、何と考えても気がひけるし、又全部整理して纏めるとなると、この中には変化のあったものもあるから、尚一応調べなおす必要もあるので、ここには思いついたことを少し綴って見たい。
 何故か神奈川県の中でも、津久井郡にだけは変わった道祖神が、少数ではあるが存在している。お隣の山梨県には、特に目立つたもののあることを聞かないが、その次の長野県になると、特殊なものが実に沢山ある。
 武田久吉博士とは先年津久井郡の道祖神巡りを二回もやり、この節長野県のものの写真を沢山頂戴したが、これ等は何 れも同博士の著「道祖神」に載せることをはばかったというものばかりであった。
 現今ではそうでもないが、その当時は内務省の検閲がきびしく、仮令学術的の出版物であっても、極端なものは直ちに発売禁止になったもの
で、本県下でも鶴田栄太郎・永江維章両氏の手になった「神奈川県郷土資料写真」に、私と長谷川一郎先生とで解説を書いた「津久井の道祖神写真集」を入れた時にも、相模湖町与瀬橋沢部落の道祖神の女根は、原版をボカして石コロのようにして頒布した位であった。

 而して津久井郡にはこんな道祖神があるのはどういうわけであろうか。昔津久井郡は甲信地方から江戸への交通の要路に当っていて、人馬の往来がはげしく、信州馬といって一人の馬子が三疋位の牝馬(牝馬のほうがおとなしいから)を曳いて江戸へ往来したという位で、信州との交渉は深かったもので、信州のものの影響を多分に受けたものか、それとも津久井郡内の石工に、巧者なものがあって、その独創的な作品が残ったのか、今の処どちらとも判明しないが、相模湖町与瀬橋沢部落の石製の男女両根などは、数十年前に津久井町中野の石工が刻んだのだということも、言い伝えられているし、又津久井町鳥屋にも石工があって、昔は大抵ここで石碑類をこしらえたものであるから、矢張り道祖神碑の多くは、この地方の石工の手で造られたものと思っても差支えないであろう。
 それにしても甲信地方の影響を受けているらしい点は、津久井郡では一般に道祖神と呼んでいるが、山梨県では道禄神というのが普通で、主に丸石が祀られている。そして甲州街道筋の藤野町吉野の矢部(ヤベ)・椚戸(クグト)・長沢部落では観福寺境内から、炭団位の丸石三個を持って来て焼き、相模湖町与瀬の西部では、丸 いのと石棒のようなのと二個の石を、道禄神と称して居り、同中野部落では、小穴のある焼け石の長いのと丸くて穴の貫通しているのがあり、長いのを道禄爺、丸いのを道録婆といっているのも興味深いことである。
 道祖神碑の前で、門松やしめ飾り、古い神札などを燃やし、梅の枝の三叉のものに団子をさしたのを此火で焼く行事を、「お松やき」とか「セイの神の団子焼き」といい、大抵正月十四日の夕刻に行われるので、その時刻になると各所で火の手があがり、壮観を極めたのが、今では左程でもなくなったようである。相模湖町若柳阿津部落では、何故か朝早く焼くことになっているのは異例である。
 相模湖町小原底沢部落及び藤野町佐野川上河原部落では、この行事の火で火災を起こしたため、その後は焼かないで、お宮などへ納めることになっている。また藤野町名倉葛原辺りでは、菩提寺の正念寺が門徒宗(真宗)であるため、同様に焼かないというが、その理由は判らない。
 特殊なものとしては、前記橋沢の石製男女両根、同町寸沢嵐道志部落北、同町若柳阿津部落、津久井町青山鮑子(あびこ)の男女二神並立手に瓶子と盃を持つもの、相模湖町寸沢嵐関口部落の弓と払子を持つもの、同町寸沢嵐増原部落の二神が互いに袖の中に手を入れ合ったもの、津久井町青山新宿部落並びに青山部落のは祖の字の字旁の且が象形文字になっているものなどであろう。
 尚、津久井町根小屋中野部落のものは、男女二神並立で、上部に御幣があり、側にも「猿田彦大神宮」の碑がある。そこには石製の女根の上部の缺(か)けたものがあったというが今は無い。猿田彦命は道路嚮導の意義から、道祖神との関係も勿論であろうが、この特異な鼻の形から性器を想わせるものがあるであろう天狗の面 に配するオカメの面を以てするのでもわかることである。津久井町中野の鎮守中野神社境内には、道祖猿田彦命 天宇受売命と刻んだ碑が建っている。
 相模湖町千木良宿部落の道祖神碑の文字は、同地出身の有名な漢学者溝口桂厳翁(落合直文、大沼枕山等と親交あり)筆のものである。
 道祖神碑はどこでも露天にさらされたままのが普通であるのに、相模湖町寸沢嵐道志部落のものだけは、三箇所とも杉葉で簡単な小屋を造ってあり、団子焼きの際焼き払うが、そのあと直ぐに青杉葉で小屋掛けをすることになっている。かく鄭重に扱うけれど、毎年毎年神像も男根石も一緒に焼かれるので、見るも哀れに砕けているのは惜しいものである。
 団子焼きの行事の際子供たちが唱える文句は、久しい前から聞かれないが、昔はこの文句で噺ながら通行人に金銭をねだてたり、それで菓子や蜜柑を買って食べたものであるという。
 藤野町沢井日野部落では
サイドーゲサイトーゲ お祝いなされ
あれば百 なけりゃー五十
スツキなけりゃー十六文でもいい。

これを相模湖町千木良宿部落では、初めの句を訛って
セートーギセートーギー
といい、、その次に「あれば百・・・・・」が続きあとは前者と同じであった。

相模湖町寸沢嵐増原部落では
セイの神ア馬鹿だー     他人(ヒト)の
カカー盗んで
坂ア下りー追ツかけた
と囃子し婦人が通りかかると、あとからお尻をまくったりした。同関口部落では
セイのオンマラボー
と唱えた。
 津久井町中野不津倉部落では、矢張り正月14日に、友林寺という禅寺に保管してある、長さ三尺の細長い見事な石棒に、住職が造って呉れる御幣をつけて麻縄でしばり、子供たちが担ぎながら、「オンマラオンマラ」と唱えて部落内の家々を廻り、金銭をもらい集めて、終わりに分配するそうだが、私がその住職に会った時、「このオンマラオンマラということはなんとかあらためたいが・・・・・」といわれたので、
「とんでもない。是非その通り言わせて下さい」とあわてて止めた事があった。
 道祖神信仰がお松を焼く事ばかりでなく、今尚続いているのは、津久井町青山辺で、児童が生まれるとはじめての正月十四日の早朝、これを背負って七個処の道祖神へ参拝すると、風邪にかからないといわれて居り、又下の病にも効験があるとてお詣りする者があると見えて鮑子の道祖神などには、いつもお洗米が供えてあるのを見受けた。

相模民俗学会が昭和31年5月発行した「民俗 第17号」 
資料A 鈴木重光翁の古希を祝して    中村亮雄
 (前略)昭和16年に翁の存在を知った私は、翌年仙台に学び3年を経て軍籍に入り終戦を迎えて直接ダムの工事に従事することになった。仕事以外に希望を持って為す事もないので考古学を主として郷土史を調べようと翁のお宅へ訪れたのは翌二十一年一月十五日の事で初対面にもかかわらず、数時間に互ってお話を承った事は忘れ得ぬ思い出である。その時にアルスの武田久吉博士による写真集「道祖神」を贈られたが、其の書にある津久井の道祖神の写真は、鈴木翁の案内で武田博士が撮影されたものであると云うことである。此の武田博士を始め郷土津久井の民俗や他の調査や研究に来られた方は必ずと云って良いほど翁を訪れ翁の援助を得て居られる。(下略)
  

   掲載をはばかった11枚の写真
    
   「水郷牛堀」 茨城県潮来市牛堀
 写真の説明は今となっては分かりませんが、「流し」の上に無造作に置かれた桶、右側の写真は相輪の部分を「男根」に見立てています。「相輪」とは五重塔とか宝筺印塔の上部の部分を云い九輪・請花・宝珠の順に並び請花は丸い宝珠を包み込むような形をしています。相輪部を上図のような形に変形させ「セイノカミ」になりました。
    
   双体道祖神                中山道 和田峠 唐沢 向かって左側背面に穴あり

    
   信州富士見村御射山  セイノカミ     信州富士見村青柳 双体道祖神 

     
   背景の石垣、建物や石仏から同一箇所のように見えます。山梨県の国中地方に多い六道地蔵と岩船地蔵(右写真)

    
   甲府市積翠寺 九、一〇、二 同一場所に在り     甲府市 

     
   写真なし 南多摩郡鶴川村小野路 小堂祠中に在り 不動尊なり  武蔵野 第51巻3号 昭和47年10月発行
                               万葉 (七)  こうぞ 武田久吉
   「道祖神」の中の掲載箇所
国名 郡名 町村名 字名
武蔵 東京市 浅草区 浅草公園 77
西多摩郡 小河内村 川野・青木 52
留浦 77
下総 東葛飾郡 松戸町 小根本 25
相模 足柄上郡 寄 村 大寺 24
清水村 神縄・日向 24
上秦野村 矢沢・清戸 26
菖浦・中庭 33
中井村 鴨沢・馬場 36
岡本村 駒形 63
塚原 74
松田町 庶子・池田 63
南足柄町 刈野・御霊 64
刈野・本村 65
福泉・下 65
桜井村 曾比・西ノ庭 65
上中村 篠窪・入形 68
篠窪・神ノ平 74
福沢村 堀之内 71
足柄下郡 下府中村 鴨之宮 8
下曽我村 曽我谷津・向ノ窪 31
湯本町 須雲川 59
小田原市 小台・上 62
荻窪・中市座 64
中郡 北秦野村 管提・新田 7
管提・政ヶ谷戸 20
管提・四山・霞ヶ谷戸 21
戸川・三屋 72
高部屋村 西渋田村 17
洗水 17
伊勢原町 池端・寺窪 35
池端・池ノ上 55
池端・西池田 65
南秦野町 今泉・明星 30
今泉・中里 58
東秦野村 東田原・猪之代 57
秦野町 山谷 19
乳牛 57
大根村 南矢名・平内久保 40
比々多村 下栗原 58
愛甲郡 煤ヶ谷村 谷太郎 18
玉川村 七沢・馬場 22
岡津古久・後津古久 23
三田村 上三田 38
荻野村 下荻野・子合 53
妻田村 三家 54
子鮎村 飯山・尾台 54
棚沢村 下谷 59
高座郡 相模原町 田名・陽原・観音前 28
大野村 上鶴間・谷口 76
津久井郡 内郷村 道志・南 30
関口 74
中野町 三ヶ木・新宿 53
上野 吾妻郡 高山村 中山 46
利根郡 川場村 谷地・上界戸 78
高崎市 石原 中組 79
勢多郡 荒砥村 西大室・北宿 33
伊豆 田方郡 函南村 丹那・名賀 4
丹那・瀧沢 29
丹那・畑 29
田代 76
韮山村 北奈古屋・小野沢 73
国名 郡名 町村名 字名  頁
駿河 駿東郡 足柄村 竹之下・宿 5
70
竹之下・市場 67
竹之下・中之台 69
深良村 町田・東組 5
富士岡村 萩蕪 9
甲斐 南都留郡 秋山村 古福志 7
島田村 鶴島・駒門 28
北都留郡 丹波山村 保之瀬 10
東山梨郡 大藤村 下粟生野・清水 11
下粟生野・糀屋 13
塩山町 東村 14
上手組 34
北巨摩郡 更級村 大山 12
穴山村 伊藤窪 15
旭村 山口 16
中巨摩郡 竜王村 竜王新町 16
信濃 東筑摩郡 中山村 神田・上手 1
里山辺村 新井 2
上金井・矢崎 80
錦部村 赤怒田 32
本郷村 39
横田 41
洞・山城 43
大村 44
松本市 三才 27
筑摩・大門 37
筑摩・町村 42
沢村 38
49
波多村 中波多 47
岡田村 岡田町 48
松岡 56
70
塩尻町 柿沢 62
大門 80
島立村 荒井 69
麻積村 麻積・上町 66
南安曇郡 豊科町 新田 43
梓村 上立田 46
下立田 45
上野・寺家 56
南北城 60
小倉村 小室・南村 61
北安曇郡 北城村 塩島 50
細野・大麻生 79
神城村 沢度 2
50
51
表紙
飯森・大中 52
小県郡 長久保新町 新道 6
長窪古町 北古屋 75
県村 加沢・原 75
根津村 根津・東町 78
北佐久郡 大里村 73
協和村 天神林 72
越後 南魚沼郡 藪神村 九日町・猫道  4
山城 京都市 上京区 塔之段・幸神町 8








         武田久吉博士の主な年譜
凡例のようなこと
 博士の年譜づくりをはじめさせて戴いて、五年近くなりますが終わりがまったく見えてまいりません。いろいろな方々からご指導をお受けしているところですが正直なところアップアップな状態です。それでも行実の一つ一つが解決するなかで喜びの生まれていることも事実です。
 植物学者でもなく山岳家でもなく、写真家でもなく、まして民俗学者でもない私が、こうも取組み続けられるのは何か、まだまだ答えが出てまいりません。年譜では分からないところには日付を入れ、○印も添えました。誤字もあり、自分自身まだまだ満足できるものではありませんが、その辺のところをご理解して戴きながら眺めていただけると、とても助かります。皆さま方の御教示をお待ちしております。
    ご連絡先 kenjihotaru@hotmail.com 保坂  2014・9・18
西暦 和年号 年齢  主な武田久吉博士と津久井民俗(一部)の歴史
1883 明治16年 0
3月2日生まれ。父は駐日英国外交官でサー・アーネスト・サトウ、母は兼と云い、二男一女の次男(東京市飯田町6丁目16番地で出生する
1884 明治17年 1
7月、故矢田部良吉博士がこの山(戸隠山)で一新植物を発見し、それに戸隠草とか戸隠弁麻の名を与えられたし、多分その折りであろう、山中でムシトリスミレも発見されて、日本におけるこの草の第三の産地(第一は浅間山、第二は八ヶ岳)が明らかになったのであった。 「明治の山旅・戸隠山」より
10月〜11月、父サトウ、バンコク駐在から休暇を過ごすために日本に帰る。
10月6日、父サトウが横浜に到着、午前11時の汽車で東京に向かう。同日、兼の待つ飯田町の家に帰る。
 「ヒルゴ(午後)、コドモヲミニイッタラ、フタリトモソウケンデ、オトナシクテ、メズラシイ。エイタロウ(栄太郎)ハ、イッサクネンヨリ、カクベツセイガノビナイ。チエガツイタ。ヒサキチ(久吉)、イロシロク、ワガオトウト、セオドーア(Theodore) ニヨクニタリ。」 サトウ日記より 
資料 遠い崖14-P340
11月、東京市麹町区冨士見町に家を購入する。
1885 明治18年 2
1886 明治19年 3
1887 明治20年 4
1888 明治21年 5
1889 明治22年 6 9月、区立富士見小学校に入学。
11月22日、麹町富士見町富士見軒に於いて「ダーウィン Origin of Species 種ノ起源 30年祭」が開かれる。
参考 植物学雑誌第卅四号 雑録 P449より
(略)同日ノ模様並ビニ同日ニ有リシ演説ハ学術雑誌ニ明細ニ出ツベケレバ此ニ略ス而シテ此事ヲ思ヒ立シハ急速ノ事ナルヲ以テ地方会員諸君ニ報ズル能ハザリシハ吾輩ノ遺憾ニ思フ処ナリ。但シダーウイン氏ノ著書ハ動物ニ関スルモノ多ケレバ動物学会ヨリ出品スベキモノハ実ニ多カルベケレ○植物学会ニテ出品スベキモノナ割合ニ少ナキ○ナリ併シ植物学会ニテモ出品スベキモノ随分多くシテ富士見軒ノ一室ノ如キ狭キ処ニハ到底陳列シ盡シ得ベキモノニアラザレバ今回ノ出品ハ僅カニ自然ノ変化並ニ人工上ノ変化ノ一部分ヲ示スニ止マルノミ是レ迚モ誠ニ不充分ナルハ遺憾ノ至ナリ顕微鏡的ノモノ及ビ下等動物等ニ至リテハ一品ヲモ出品セザルモ亦遺憾トスベシ/同日本会ヨリ出品セシハ左ノ如シ
食蟲植物
其葉ヲ以テ小蟲ヲ捕獲シテ之ヲ消化シ食用ト為ス、ダーウイン氏ノ特ニ研究セラレタルモノナリ
もうせんごけ Drosera rotundifolia,L. 茅膏菜(ぼうこうさい)科
こもうせんごけ D.burmanni,vahl. (同上)
いしもちさう D.Lunata,Buchan. (同上)・石龍牙草
ながはいしもちさう L.Indica,L. (同上)
たぬきも Utricularia vulgaris,L. 狸藻科
むしとりすみれ Pinguicula vulgaris,L. (同上)
みづさしさう Sarracenia purpurea,L. 瓶子草(へいしそう)科
枝ガ変形シテ葉状ヲ為シ眞ノ葉ハ僅ニ鱗片トナリテ存シ或ハ全ク消滅シタルモノヲ示ス(以下略)
1890 明治23年 7
5月11日、牧野富太郎が江戸川伊田村(南葛飾郡小岩村伊予田)でムジナモを発見する。
  「牧野氏ガ武州伊豫田村ニ於ケル発見ヲ以テ嚆矢トナシ」
    資料  明治35年2月 発行「植物学雑誌」 180号 鈴木靖著「むじなもノ分布ト利根川」より
     
注  嚆矢(こうし) 物事のはじめ。
    
  M22・5 町村制の施行に伴い五村が合併小岩村となる。伊豫田村は旧村名 20016・8・3 保坂
8月9日、三好学が、下野國庚申山で「こうしんさう」を発見する。
 
       明治23年9月 発行「植物学雑誌」 43号  三好学著「Pinguicula raosa,sp.nov.第十一版図 ニ就テ」より 
1891 明治24年 8
1892 明治25年 9
1893 明治26年 10 ○この年、碓氷峠にアプト式鉄道が完成する。
○この年の夏、伊香保に旅行する。 「明治の山旅・箱根と伊香保」より
1894 明治27年 11 7月、佐藤渾が「賣捌所・小西六右衛門」から「寫眞自在」を刊行する。武田家所蔵本(同書内に45種の資料を挟む)
9月、群馬県師範学校教諭渡辺千吉郎の利根川水源探検隊が、帰路尾瀬ヶ原と尾瀬沼を経由して戸倉に出る。
               
出典『太陽』1895創刊号から記述 「遺伝1961・7 「尾瀬発見記」」より
1895 明治28年 12
7月、父サトウが駐日の公使として再び来日する。
8月、兄と母、幼なじみの小山内薫を加えた4名で、妙義山や旧碓氷峠に登り、善光寺へ参詣。(登山のはじまり)  「妙義山」より
資料@ 「文芸春秋 昭和41年7月号 ごまのはい」より
(略)
松井田駅に下車、町で中食を済ませてから、妙義町の菱屋に落着いた翌日、形の如く案内者を、三人の子供は、三山の最高峰である金洞山に向かった。四つの石門を通過してから、やや急な山路に、最高点への途中の朝日岳の頂上で、私は野生のカノコユリを発見したのは、特筆大書してもよかろう。(略) 
資料A「創文1969ー5 72号」に「登山の発祥と山岳会」より
(略)
平地とは別天地である山中の景色はどんなであろうか、山頂からの眺望は何と何が見えるかという、いわば好奇心に駆られたためではないであろうか。私が明治二十八年八月に、始めて妙義山に登ったのも、探究心からであったことは事実である。それが偶然にも、朝日岳の頂上で、一株の満開のカノコユリを発見しかことが、小児の頃からの無性に花を愛した私の心を捉え、更に翌年の夏、一ヶ月を栃木県の日光町に滞在して、山野に生ずる天然生の花ーその或るものは初見の品ーに遭遇して自然界に対する目を開き、山の魅力に取りつかれたのも、元を質せば、好奇心が原因といえると考える。
(略)          
11月25日、牧野富太郎が「日本園芸会雑誌 第六十七号」に「日本産食蟲草 (其一)」を寄稿する。
1896 明治29年 13 ○この年の夏を振出しに、日光山とは深い縁が結ばれて、・・ 「明治の山旅・初夏の日光山」より
資料@「岳人・昔の登山 −好奇心という本能の発露−」より
(略)
その翌年(本年のこと)の夏を日光に送り、見なれぬ草や蝶に、目をみはる毎日。山と植物との関係がますます面白くなったのは当然である。中善寺から先は、山駕籠のほか乗物のなかった当時、糸のような細径が一筋、戦場ヶ原に通じていたその景は、『日光山志』巻の四に描かれたものと、いくばくも差異はなかった。湯元はまったくの湯治場で、旅宿には自炊客のために、幾つかの竃が、ずらりと並んでいた。屋外の共同湯では、農閑期の湯治客が、曲物で、入浴前に、頭に何十杯かの湯をかけていた。その当時として、登山らしい登山はできないで、ただ外山とか、大谷川の右岸にある銭沢不動から、路のない沢を向山の稜線に登って、泣虫山の麓に下り、どうやら道らしいものに出会って、鉢石町に戻って来たこともあった。
7月25日、牧野富太郎が「日本園芸会雑誌 第七十四号」に「日本産食蟲草 (其二)」を寄稿する。
我帝國版図内ニ産スル食蟲草ニ十有五種アリテ今之レヲ綜ブルトキハいしもちさう科ニ属スルモノ二属スルモノ二属ニシテ五種、又たにきも科ニ属スルモノ二属ニシテ十シュヲ得ベシ、是レ吾人ガ今日ニ知得シタル全数ナリ、然レドモ琉球ノ如キ又新領台湾ノ如キ未ダ検討洽ネカラズ新品ノ湮沒セルモノ想フニ應サニ少ナカラザルベシ、此ノ如キハ之レヲ後日ノ検出ニ徴スル外ナシ(略)
其一
いしもちさう科 いしもちさう属 (一)いしもちさう
(二)ながばのいしもちさう
(三)もうせんごけ
(四)こもうせんごけ
むじなも属 (五)むじなも
其二 たぬきも科 たぬきも属 (六)たぬきも
(七)のたぬきも
(八)こたぬきも
(九)ひめたぬきも(新称)
(十)みゝかきぐさ
(十一)まるばみゝかきぐさ
(十二)むらさきみゝかきぐさ
(十三)ほざきのみゝかきぐさ
むしとりすみれ属 (十四)むしとりすみれ
(十五)かうしんさう
 



1897 明治30年 14 3月、麹町区富士見尋常高等小学校卒業。
4月、東京府立尋常中学校(現日比谷高校)二年級入学。
資料@ 「植物の世界 昭和36年10月」の中の年譜より
 幼時から花を愛し草木を植えることを好んだ私は、東京府尋常中学校(今の日比谷高校の卵)の二年級に入学し、帰山信順先生の熱心な薫陶をうけ、植物の研究に心魂を傾け、爾来この学問の研究に心血をそそいで来た。
 中学5年のころであったか、その当時では清澄山と榛名山以外に知られなかったキヨスミコケシノブを日光山に発見したのが動機となって、牧野富太郎先生に親灸するの機会を得、野外において親しく草木を観察し、その性情を悉知せんと努力をつづけている。

資料A “無言の博物館”山で学ぼう <秩父宮記念学術賞を受ける植物学者>と紹介された新聞記事より
 私は登るためではなく、植物があるから山に行くのですよ。中学生のとき、妙義山の頂上で一本のカノコユリを見つけましてね。庭に栽培するものとばかり思っていた花が野生しているのです。そのときの驚きと感動。それから山行きが病みつきになりました
資料B「創文1969ー5 72号」に「登山の発祥と山岳会」より
(略)それがその翌三十年に、中学に入り、博物学の時間には、折から教育に特別に熱心な帰山信順先生の植物分類学の実験と講義に拍車を掛けられ、年一年とその道に深入りしてしまったので、なんとしても今更義理にも後へは引かれぬ仕儀となった。従って山に登るとしても、植物の影を追っての登山であり、アクロバットの演技を真似する気は毛頭ない。
5月、15〜16日、三好学教授に従い理科大学植物学科の学生(十名)が武州御嶽山へ採集旅行を行う。
7月、同行坊が「植物学雑誌 第百廿五号」に「御嶽山紀行」を寄稿する。

○この年の夏休みの出来ごと
(略)中学では一ヶ月に余る夏休みがあるので、遠出が出来るわけ、それで家中で京都に出かけ、麩屋町の柊屋に陣取って京都見物、さらに足を大阪に伸ばし、堺まで出掛けて妙国寺の蘇鉄を見たり、名物の刃物を求めたり、かれこれ一ヶ月を遊び暮らしたので、山行の機会を失ってしまった。(略) 「明治の山旅・日光ー第二回目の訪問」 P35より
8月、大渡忠太郎が「植物学雑誌 第百廿六号」に「御嶽ノ「フロヲ」ニ就テ」を寄稿する。
本年五月理科大学植物学科ニアルモノ挙テ三好教授ニ従ヒ武州御嶽ニ至る、余亦其列ニ加ハル、記事ハ前号雑録欄内ニアリ(略)今前二者ノ分布ヲ考フルニいはなんてんハ南方ニ割拠シ秩父ヲ以テ北限トシるゐやふぼたんハ北部ニ陣シテ其南域御嶽ニ及ベリ、故ニ御嶽以北秩父ノ間ハ正ニ両者共有ノ地ニテ北方即チ、北方即チ寒地ノ産タルるゐやうぼたんガ御嶽ニ於テハ南方即チ寧ロ暖地ノモノナルいはなんてんヨリモ下方ニアリテ其位地ヲ倒ニセルノ観アルハ是レ其御嶽ニ於テハ相混生セルヲ證スルモノニテ採集者ガ尚ホ綿密ニ捜索セバ必ラズ実際ニ両者ガ混生シテ孰レガ下方ニ生ジ居ルモノカ相辨ズル能ハザラン 余ハ豫メ之ヲ明言スルニ憚(はばか)ラザルナリ此理由ニヨリ考フレバ暖寒両者ノ共有区域ノ南限ハ未ダ御嶽ヲ以テ終リトセズ其南方尚ホ多少ノ地アラン、・・・(略)
9月、大渡忠太郎が「植物学雑誌 第百廿七号」に「るゐやうぼたん九州ニ産ス」を寄稿する。
○、この年の冬期休暇の出来ごと
(略)中学の二年級に編入されたその年の暮であったと思うが、多田、井上の両上級生が、冬期休暇を利用して、日原に鍾乳洞を見学し、その足で雨の降る中を仙元峠に登り、上は雪となっていたので、道を失い、ついに凍死という気の毒な運命に追い込まれたので、全校生徒の衝撃はもちろん、世間を騒がせたことは少なからず、どこの家庭でも、若い子弟の登山は禁物ということになった。  「山への足跡・山歩き七十年」より
1898 明治31年 15 7月、「東京府尋常中学校学友会」が「学友会雑誌 第26号」を発行する。 
○この年の頃
 
少年のころから草花を植えるのがすきであった私が、小学校の上級から中学の下級に学ぶころには、江戸時代にはやったサクラソウの話、わけても戸田ノ原のサクラソウのことが、時折かたり聞かされた。そのうちに、中学(東京府立尋常中学校、後の府立一中、いまの日比谷高校)の校友会雑誌に、先輩である西郷斉員、塩野季彦、朝比奈泰彦氏達が、博物の帰山信順先生の指導によって行った、戸田ノ原のサクラソウ研究の記事が掲載されるや、私の興味は依然サクラソウに向けられるに至った。  「遺伝 S32・3 桜草雑稾」より
      注 上記雑誌はメモリアルホール D2−58に展示 内容未確認 2016・5・20 保坂記
7月、早田文蔵が尾瀬にて「ながばのもうせんごけ」を発見する。燧ヶ岳ノ直グ下ニ至ル「みずごけ」アリテ・・」
参考 尾瀬までのコースと「ながばのもうせんごけ」の発見まで(部分)
(略)
余ノ此ノ地方ニ採集セシハ三十一年七月ナリ七月一日先ヅ汽車ニテ上野ヲ発シテ前橋ニ到リ歩ムコト四里渋川ニ泊ス二日渋川ヲ出デ利根川ニ沿ヒテ北方ニ上ルコト五里計リニシテ利根川ヲ超ヘテ沼田町ニ達ス之レヨリ利根川ヲ辞シ其支流片品川ニ沿ヒ東ノ方ニ上ルコト三里計リニシテ老神ノ温泉ニ到ル之レヨリ北ノ方ニ此ノ川ニ沿フテ上リ上リテ水ノ窮マルノトコロ是レヲ沼山峙トナス山下ニ村アリ戸倉ト云フ村ト云フニ足ラズ旅店ナシ木賃泊アリ夜ヲ凌(しの)グニ足ル之レ沼田ヨリ会津ニ入ルノ縣道ナリ尚他ノ道アリ沼田ヨリ川場湯原ノ温泉ヲ経テ花咲峠ヲ越ヘテ戸倉ニ達ス余此ノ道ヲ取レリ沼田ヨリ戸倉マデノ里程明カナラズ恐クハ七八里ナラン翌早朝沼山峙ニカヽル此峠上リ四里下リ四里ニテ岩代桧岐ニ到ルベシ戸倉ヨリ道細ク且ツ悪シ上ルコト四里尾瀬沼ニ達ス實ニ深山幽谷ニシテ人ノ行クコト稀ナリ沼ニ沿フテ行ク沼ヲ隔テヽ燧ヶ岳ヲ見ル水辺ヲ行クコト漸クニシテかや、もみノ林ニ入ル残雪ヲ踏ミテ行クコト数町ニシテ尾瀬ノ平ニ出ヅ沼地ニテ路ノ跡ナシ進ムニ行カレズ亦聞クベキ人モナシ偶マ材木ノ音ヲ聞ク行キテ途ヲ問ヘバ曰ク此所人行稀ニ且ツ沼地ナレバ人行アルモ途ノ跡ナシ只此原ヲ東北ニ切リテ彼ノ山ニ登レ路アリト余教ヘラルヽガ如クス果シテ路アリ下ルコト四里桧枝岐ニ着ス駒ヶ嶽ニ採集シ更ニ燧ヶ岳ニ採集セント欲シテ再ビ尾瀬ノ平ニ登ル沼ニ東北ニ沿フテ燧ヶ岳ノ直グ下ニ到ル「みずごけ」アリテ(ぬか)ル様ノトコロニ葉ノ長ク直立セル「もうせんごけ」ノ如キモノアリ之レ嘗(かつ)テ千島ニ発見セラレタル Drosera longifohia L, ナリ往年根本莞爾氏モ之レヲ尾瀬ノ平ヨリ得、牧野氏之ヲ「ながばのもうせんごけ」ト命名シテ一昨年ノ本誌上ニ公ニセラレタリ其外「えぞせきしやう」Schenchzeria palustris L,ハ未タ北海道以外ニ知ラレザルモノナリ又「やなぎとらのを」Lysimachia thyrsiflora L, アリ「こみやまりんどう」Gentiana thunbergii Sriseb,var minor Maxim アリ余ノ粗漏ナル採集ヲ以テスラ尚之等ノ珍種ヲ得タリ此辺ノ「フロラ」ヲ充分ニ採集研究セバ中々面白キモノアラン同山脈ナル駒ヶ嶽ノモ「つまとりさう」ノ一種ニテ Trientalis europea L,var arctica I※□edeb,アレバ南会津ハ一体ニ採集ノ価値アルベシ依リテ広ク採集家ニ紹介ス
明治35年12月「植物学雑誌 20巻191号  南会津竝ニ其ノ附近ノ植物」より
(ぬか) 雨や雪解けなどで、地面の土がどろどろになる。ぬかるむ
※□ 判読困難
7月27日、日光山に於いて寄生植物のヤマウツボを採集、水彩画に記録を残す。
                         資料 横浜開港資料館 久吉(文書類) No615−2より 
8月11日、川上瀧彌が北海道千島國擇捉島アトイヤ山で、ながばのまうせんごけを発見する。
   (博物学雑誌第十五号参照)
  明治33・2 植物学雑誌 156号 牧野富太郎 日本植物調査報知第二十三回 ○百ながばのまうせんごけ岩代國ニ産ス」より
8月11日、日光山に於いて寄生植物のナンバンギセルを採集、水彩画に記録を残す。
                         資料 横浜開港資料館 久吉(文書類) No615−2より 
8月24日、日光山に於いてカラスビシャクを採集、水彩画に記録を残す。
                         資料 横浜開港資料館 久吉(文書類) No615−2より 
8月30日〜31日、兄と日光三山がけ。「日光山志」を相手に山野を跋歩
 私は翌31年の8月には、ハイマツを見たさに、日光の女貌山に登ることを許され、これを、荒沢から登って栗山へ越す富士見峠に下り、さらに小真名子を上下してから大真名子を越え、男体山の北裏の志津に下り、そこにあり7月の禅定の時の無人小屋に、高寒の一夜をしのぎ、翌日男体山に上って中禅寺に下ったのが、高山らしい高山に登った最初であった。   「「山歩き七十年」より
参考@ −当日の日光登山のコースー
山内→荒沢→栗山道に沿って出面峠→畚平
(もっこだいら)(オオガギボウシ・オヤリンドウ・コメツガ)→無住の唐沢ノ宿(休憩)→薊(あざみ)平→頂上田心姫(たごりひめ)小社(ハイマツ)・剣が峰→専女山→帝釈山→富士見峠→小真子山→鷹ノ巣→大真子・御岳→千鳥返しの険→志津の行屋(泊)→男体山(コメツガ・シラビソ)→中禅寺→山内  「明治の山旅・日光 第二回目訪問」より
参考A「岳人・昔の登山 −好奇心という本能の発露−」より
(略)高山植物の幾種かに見参したのは、この時が最初であったが、その当時には、名を教えてくれる人もなし、せっかく採ったオヤマリンドウを、案内者が毒草だといって捨てさせたのは、今思えば笑止な話である。(略)
参考B 「山岳第1年1號 創刊號 日光三山がけ」から

 志津より見たる大眞子
(略)我等は信神の為にあらねど、三山がけは僅か二日にして四山に登り、山彙の大部分を見得るのは便あれば、それこそよけれとて、三山がけするに決す。案内の者には、先の日我等を慈観に導きし、荒澤の茶店主なる大貫乙助(字は正しきや否や知らず)とか云へる男をやとふ事とし、出發は八月三十日と定めたり。二十九日は需要品を求め、登山の準備を整ふ、夜となれば、洋服、脚胖など枕邊に置きて臥床に入りしも、初山の嬉しさに、たやすくは得眠られず、八千餘尺の高山の景、
如何あらんなど想ひつゝまどろむ。三十日午前零時三十分起床し、身支度して門を出しは正に一時十五分なり、兄は和装に洋傘を携へコダックを肩にして、我は洋装にて、一枚の茣蓙(ござ)を風にひるがへしたり、荷物は若干の下着に麭麺數片、ジャム一鑵等なり。残月末だ落ちず、星は煌々と輝く。(略)前記の文は、予が初めて日光の霊岳に接せし時の紀行にて、當時の手控を基として記し、山の高度の外は総べて後來の観察を加へず、只我が會遊の紀念となすに過ぎざれば、山中の景に至りては頗る矇朧(もうろう)として霧中に彷徨(ほうこう)するが如く、到底、後來遊子の参考とするに足らざるは深く慚愧(ざんき)に堪えざるなり。兢懽、謹みて之を附言す。
11月、「食蟲植物ノ概略」を手書・墨書により写描を行う。
   資料 横浜開港資料館 久吉(文書類) No617より 書写の原本名不明のため 確認要 2016・7・11 保坂
  丸      
    はへとりぐさ        むじなも    もうせんぐさ 又 もうせんこけ  いしもちさう

      
   むしとりすみれ          たぬきも        へいしさう     うつぼかづら

○この年、「Natural History(博物ノート)」を書きしるす。
   
  
   巻末に「明治三十一年/歸山信順先生 口授/武田久吉筆記」 横浜開港資料館久吉(文書類) No618より
1899 明治32年 16
1月以降、「新撰日本植物図説 (全20冊)」が「敬業社」から刊行され、牧野先生は顕花植物とシダを担当、7月30日発行の第4集と11月20日発行の第5集に苔忍科の歯朶、十種を執筆する。
                       
「明治の山旅・牧野先生と「清澄苔忍」」より
4月25日、武田兼子が、「国風音楽講習所小松景和代理川口鈴代」より「生田流筝曲古今令伝授状」を受ける。
5月、日光旅行を行う。 「横浜開港資料館所蔵 山日記」より
8月、日光旅行を行う。 「横浜開港資料館所蔵 山日記」より
8月、根本莞爾氏ノ一門下生が岩代國南会津郡駒ヶ岳山中ノ尾瀬平でながばのもうせんごけを採集する。
   「植物学雑誌 M33・2 156号 牧野富太郎 日本植物調査報知第二十三回 ○百ながばのまうせんごけ岩代國ニ産ス」より 
11月18日、八王子産 苦竹の花の写生を行う。  「横浜開港資料館 No 615−3」より
○この年、父サトウが、片山直人著「日本竹譜」の要点を翻訳、彩色図版二十一葉を添えて出版する。

資料 (略)明治二十九年(28年?)に、特命全権公使として、日本に赴任してからは、日本植物、わけても竹類の研究に没頭した。そして其等の生品を蒐集して栽培する為に、其の当時は東京の郊外であった源兵衛村に土地と家屋を借りて別墅(べつしょ)とし、週末を其処に過し、竹類の観察に興じた。それは故人の旧友フリーマンミットフォード氏(後の「リーズデイル卿」)の著書『バンブーガーデン』に刺激されてであった。(略)
                  
昭和42年5月発行 歴史読本 エルネスト・サトウの片影」より
1900 明治33年 17
2月、牧野富太郎が 「植物学雑誌 百五十六号」に「日本植物調査報知第二十三回 ○百 ながばのまうせんごけ岩代國ニ産ス」を寄稿する。 
5月25日、手書きによる、村松操,・市河三喜編「博物之友 第一巻第一号 日本博物学会文芸部」が創刊される。
   
本誌発刊ノ趣旨 博物の友発刊を喜ぶ / 市河三喜   戸田ヶ原採取紀行
○この年、武田久吉ら、東京府立第一中学校在学中の生徒で、植物や昆虫に興味を持つ仲間が集まり回覧雑誌を発行する。   注「武田久吉ら」と書いたが、武田の名前が、なかったので注意要 2020・3・21 保坂
この年の春、木下川(きねがわ)薬師堂に向け遠足が行なわれる。
 10時5分(亀戸天満宮出発)→12時15分(木下川薬師堂着)→(休憩1時間)午後1時出発2時(吾妻橋)解散→3時15分(帰宅)
                      資料「 横浜開港資料館 No615−23」より
6月、牧野富太郎が「植物学雑誌第百六十号」に「日本植物調査報知第二十六回 ○百九 日本産食蟲草ノ稀数」を寄稿する。
  図表
科名 属名 学名 和名






いしもちさう属
Drosera,
D.Iunata Ham.
(=D.peltata Sm.var.lunata Clarke)
いしもちさう
indica Linn. ながばいしもちさう
rotundifolia Linn. まうせんごけ
Byumanni Vahi こまうせんごけ
Longifolia Linn. ながばのまうせんごけ
むじなも属
Aldrovanda.
vesiculosa Linn. むじなも




たぬきも属
Utricularia.
.vulgaris Linn. たぬきも
pilosa Makino. のたぬきも
intermedia Hayne. こたぬきも
sp. しまたぬきも(台湾産)
sp みかはたぬきも(新称)
名倉ァ一郎氏ノ発見採集セシ一品
U.bifida Linn. みヽみかきぐさ
affinis Wight. むらさきみヽみかきぐさ
U.racemosa Wall. ほざきみヽみかきぐさ
orbiculata Wall. まるばのみヽみかきぐさ(台湾産)
むしとりすみれ属
Pinguicula.
P.vulgaris Linn.var.macroceras Herd. むしとりすみれ
.ramosa miyoshi. かうしんさう
7月、兄栄太郎がイギリスに到着する。 「アーネストサトウ図説年譜」より
  渡英時期の検討要、「明治の山旅・箱根山を越える」では明治34年4月に兄の外遊離別に先立って箱根に記念旅行をされています。
               2013・12・19 保坂記

8月、小島烏水が甲斐の白峰山に登る。
8月27日、日光山内の行者堂の傍らで「清澄苔忍(きよすみこけしのぶ)」を発見する。
           「明治の山旅・牧野先生と「清澄苔忍」」より
参考 (略)ところで、明治二、三十年頃に神田神保町に敬業社という本屋があって、その本屋から植物学の雑誌や書物が発行されていました。ところが三十二年の四月に発行された「新撰日本植物図説」に「きよすみこけしのぶ」というシダの一種で、房州の清澄山と上州妙義山の外には産地が知られていない珍しいものが掲載されていました。その年の夏を下野の日光で暮らしている間に、その「きよすみこけしのぶ」と思われるものを日光で発見したわけです。まあ、鬼の首でもとったように子供心に思っておったが、何分それが「きよすみこけしのぶ」かどうか、妙義山と房州にしかないというものが日光にあったということは、新しいことでありまたそれがもし違った別のものであるかもしれないというので、その植物を記載された理学博士の牧野先生に恐る恐る手紙に同封してお伺いをたてたところが、これは「きよすみこけしのぶ」に間違いないというような鑑定をしていただいた。それがきっかけで牧野先生の所にたびたび伺うようになって、他の植物の専門家とも接触するような状態になった。(略) 「日本山岳会の創立と小島烏水君」より
参考 北海道大学農学部演習林研究報告 第24巻第2号 P296 舘脇操著「奥日光の森林植生」に「博物之友2−13 8〜9」に「キヨスミコケシノブ日光行者堂に産す」の記述あったが
「武田久吉著作展」目録に記載がないため確認要 2015・9・25 保坂記
8月、大野直枝がチリモの一種「コウガイチリモ(新称)」を発見、『新撰日本植物圖説』に図説する。
10月中旬、修学旅行で伊豆を旅したおり、別働隊として熱海から岩戸山を経由、軽井沢峠を越える。
   この時、コゴメグサの一種を採取する。  「明治の山旅・岩戸山に登る」P235 より
1901 明治34年 18
1月25日、手書きの市河三喜編「博物之友 第二巻第七号 日本博物学会雑誌部」が刊行される。
       嗚呼伊藤圭介翁 / 市河三喜   故伊藤圭介翁の伝 / 市河三喜   「輪見方法」
3月、尋常中学校を卒業。
5月25日、手書きの市河三喜編博物之友 第二巻第八号 日本博物学同志会事務所」が刊行される。
参考:巻ヲ閉ズルニ臨ミテ
茲ニ過去ハ朝霧ノ如ク消エ 新ナル旭日ハ今ヤ雲ヲワケテ顕
レントス 一夜、夙 青葉ニ語り 星 蒼空ニ飛ブ 極リナ
天ヲ望
メバ筆、紙上に奔舞スルナリ
初メ吾人ガ壇ニ登ルノ時ハ多クノ希望ハ雲ノ如ク 繁カリシモ尚以
易々(おり・やめる)トハセルナリ 然レドモ 今ニシテ顧レバ亊實ハ欺クベカラザル
カナ
、 既刊八冊ノ本誌ハ僅ニ寄書ヲ集メテ製本タリニ過ギズ 
今ハ只任ノ重カリシヲ叫バンノミ
然リト雖
(いえども) 今一度巻ヲ閉ヅルニ望ンデハ其ノ經過ニツイテ一言ノ
ナキ 能ハザルナリ  最初失望ノ聲ヲアゲタルハ第一巻編輯ノ時
ナリキ 見ヨ其ノ内容ハ タヾ 紀行文ノミ 満載シタルモノナリト
二巻、三巻漸ク博物記事ヲ増加シタルハ稍
(やや)喜ブベキ傾向ナリシモ
(なお)満足スル能ハザルハ會員多分ノ姓名ガ誌上ニ見ルベカラズ
事ナリキ 此ノ現象 果シテ 如何ナル亊實ヲ意味スルカ乞フ

先ヅコレヲ問ハン
嗚呼、諸君ハ玉篇ヲ秘密ニ埋メ佳什ヲ暗黒ニ送ルカ
何ゾ
半ヲ誌上ニ授スルヲ ナサヾル
今本誌一旦閉ヂ更ニ新装シテ諸君ニ見
ントス
其ノ改良後ノ本誌ノ躰裁ノ如何ナルベキカ豫
告ゲ難シ
タヾ、コレヲ秘メ置キシノミ
     所蔵;東大柏図書館公開HPより 2020・3・22 保坂
7月、日本博物学同志会と改め再発足、機関誌「博物之友」が創刊される。
8月1日、中央線の「八王子 - 上野原間」が開通する。
8月10日頃、日光山内→行者堂裏→檜ヶ田和→殺生禁断の境石(さかいのいし) →八風山の石室跡(ユキワリソウ・オヤマリンドウ・イワノガリヤス・コメツガ)→唐沢の宿→薊平(トウヤクリンドウ・ミヤマダイコンソウ・ホソバノイワベンケイ)→道に迷う→下山
                                   「明治の山旅・女貎山の再探」」より
8月、日光に於いて、牧野先生と植物採集を行う。  「日本山岳会の創立と小島烏水君」より
    日光→殺生石→七瀑→唐沢ノ宿(庚申草)→女貎山→赤薙山→日光 「明治の山旅・女貎山の再探」」より  
参考 (略)それから数日後、牧野先生からの来信によると、近頃女貎山山中で見出された庚申草を写生のために、日光に行く、宿は萩垣面の五百城文哉氏方とある。さっそく伺候に及ぶと、明早朝登山との御話。そのお供をすれば、誰に遠慮なく登れるわけ。
 東道を承るのは、山草家の城数馬(じょうかずま)氏、同行には、日本赤十字社長佐野常民伯の令息、それに城氏の友人スイス人ファーデル氏、人夫の三五郎を加えて総勢六名。型の如く。殺生石、稚児ヶ墓、白樺金剛童子と、朝霞を踏んで行けば、前方遥かに大勢の登山者の一団が見える。たちまちその一行に追いついて尋ねると、今日は東宮殿下(後の大正天皇)の七漠観漠の御催しだとのこと。
(略)      「明治の山旅・女貎山の再探」」より
9月、東京外国語学校入学。
○春、日光や筑波を訪ねる。 「 わが山々の思ひ出」より  再検討要 2018・6・18 訂正 保坂
○秋、高尾から景信山や陣馬を訪ねる。 「わが山々の思ひ出」より  再検討要 2018・6・18 訂正 保坂
〇この年の末、日本博物学同志会の会員となる。
1902 明治35年 19 1月、「博物之友 二巻七号」に「雑録 博物雑爼」を寄稿する。
2月、鈴木靖が「植物学雑誌180号」に「〇むじなもノ分布ト利根川」を寄稿する。
    又、同号に矢部吉禎が「〇対馬採集雑記」を寄稿する。
3月、「博物之友 二巻九号」に「雑録 植物雑話(一)・魚虎について」を寄稿する
4月、「博物之友 二巻十号」に「雑録 植物雑話(二)」を寄稿する
4月、日光旅行を行う。 「横浜開港資料館所蔵 山日記」より
5月、「博物之友 二巻十一号」に「雑録 早春の日光」、「植物雑話(三)」を寄稿する。
5月4〜5日、本郷駒込団子坂下の花戸薫風園において山草の展覧会が開かれる。
   
去年8月、日光八風山で採取したユキワリソウが出品される。
    
注  「明治の山旅・女貎山の再探」では、展覧会の日程が5月5日〜6日になっている 
学会にも貢献した山草会
(略)
前にも述べた様に此れを刺激したのが山草会であるから日本の高山植物研究に際しては本会の存在せし事を歴史的にも忘れられないものである。今日此の会は存続しては居ないが、その後 引き続いて東京にも其処此処(そこここ)に山草を作り楽しんで居る人はあるやうだ。山草会の創立は、明治三十四、五年頃で同四十二、三年頃迄続いたと思ふ。/ 此れは、段々会員が死去したので自然会は立行かなくなった為である。今日死去された人達は、松平子爵、加藤子爵、久留島子爵、城氏、小川氏、五百城氏の中堅人物である。昭和4年7月発行 牧野富太郎著 「高山植物の歴史」より
山草陳列者名 陳列山草名
松平康民(やすたみ)子爵 作州津山藩主の令嗣 ハリガネカヅラ・コイチョウラン・ムカデラン・ガンコウラン・ウメガサソウ・マンネンスギ・ヒメケイラン・ゴゼンタチバナ・トウヤクリンドウ・コバノイチヤクソウ・キバナノコマノツメ・チャボゼキショウ・ヲノエラン
加藤康秋子爵 伊予大洲の藩主 ツルコケモモ・ハクサンチドリ
久留島通簡(みちひろ)子爵 豊後森の藩主 エンレイソウ・ヲンジ・モジズリ・コケモモ・コアツモリソウ・ガンコウラン・チングルマ・モウセンゴケ
青木信光子爵 久留島子爵の姻戚 コアツロリソウ・ズダヤクシュ
武田久吉 学生 ユキワリソウ
                   1969/4 「創文 武田久吉著 山草陳列会」より
 (仮称)高山植物研究史(メモ書き)
1902 明治35年春 団子坂薫風園で第一回山草展覧会が開から その記事が植物学雑誌XVI No183に矢部吉禎氏執筆「城氏の高山植物を見る」の標題を掲げ、記事中には「アルパイン植物」の詞を用ひてゐる
          横浜開港資料館 久吉(原稿(著作)) NO601より
○この年の春、初めて高尾山の登山を行う。 「明治の山旅・高尾山」より
参考 年譜から(初めての高尾山)についての時期の検討。
1901(明治34)年説 略)山に登るといへば、夏に定まってゐるやうな時代にも、中級以下の低山丘陵的なものとなると、往々にして春とか秋とかに、足を向けたものである。明治三十四年頃から、日光や筑波の春を訪ひ、高尾から景信や陣馬の秋をたづねなどしつゝ、徐々に足跡を伸していったが、三十八年の四月には日原から雪に埋もれた仙元峠を越え、翌年の四月から五月にかけての山旅には、御嶽、大嶽から、大菩薩峠を越して鹽山に達した記憶がある。(略)  昭和十二年十月 「登山と植物 わが山々の思出」より
1902(明治35)年説 考察@ (略)それが明治三十五年であったか、小仏峠の隧道が完通して、八王子で中央線に乗り換えれば、始発駅の飯田橋を、四時五十分に発すると、七時には浅川(現高尾)駅に着けるのは、大きな発展であった。それに加えて、(略・実測地図/)私がこの便宜を享受することによって、初めて高尾山に赴いたのは、明治三十五年の春頃かと朧気(おぼろげ)ながら記憶するが、同年の秋九月下旬には、絶頂から西南指して甲州街道に下り、与瀬駅(今の相模湖駅)から帰京した。(略) 「明治の山旅・高尾山 P49」より
考察A
数ヘテ見レバ已ニ一昨年ノ秋ノ九月二十一日ト云ヘバ今ハ恐ロシイアノ大嵐ノ一週間ゼンゴハ東京府第一中學校ノ博物學教諭浦部虎松先生ト其ニ武州ノ高尾ヘ一日ノ樂シイ採集ヲシテ其ノ時ノ記事ハ詳シク浦部先生ガ書ヲ雑誌ニ出サレル筈デアッタガ先生ハ今日ニ至ル迄筆執ル暇モナキ御多用ノコトデ投書ノ話モ沙汰ヤミデアッタガ昨年五月河田君ト再ビ同山ヘ行タ時ノ紀行ヲ面白ク同君ガ綴ラレテ前號ニ載セラレタノヲ見テ古臭イ事ナガラ秋ノ採集ノ折ノ手帳ヲ取出シ此ニ聊(いささ)カ紙面ヲフサゲルコトトシタ(略)
   「博物之友 明治三十七年五月號  秋ノ高尾山 P127」より
     参考 1901(明治34)年8月1日、中央線の「八王子 - 上野原間」が開通する。
6月、「博物之友 二巻十二号」に「雑録 早春の日光(二)」を寄稿する。
7月、「博物之友 二巻十三号」に「雑録 早春の日光(完結)」、「植物雑話(第四回)」を寄稿する。
    同号に武田博士が日光で発見した「きよすみこけしのぶ」についても所収する。
                             
内容未確認(校友会雑誌 第39号に記述) 2019・9・3 保坂
7月8日から日光に出かけ、太郎山への採集登山を試みたが連日の雨天のため中止する。
                             「明治の山旅・箱根山を越える」より
7月26日、トラキチランの発見者である神山寅吉を案内者として、日光太郎山に登る。
 荒沢→丹青山(タンゼイ)の裾のウリュー坂→薬研掘・挺棒河原・弥兵衛ヶ平・弁天河原→(ゴゼンタチバナ・シロバナノヘビイチゴ)志津(泊)→太郎山の姥→砂払(スナハライ)→太郎山(シラビソ・カラマツ)→→火口址のお花畑(キバナノコマノツメ・シラネニンジン・タカネヒカゲノカズラ・ハクサンチドリミヤマヌカボ)→奥の院(ウサギギク・クルマユリ・キバナノコマノツメ・イワカガミ・ウスユキソウ・カイズルソウ・ハクサンフウロ・ハクサンチドリ・コケモモ・ミヤマダイコンソウ・ヒメコゴメグサ・ホソバノイワベンケイ・カラマツソウ・ギョウジャニンニク・コメススキ・コタヌキラン・ミヤマスズメノヒエ・ツマトリソウ・ゴゼンタチバナ・ヒメシャジン・シラネニンジン・オヤマリンドウ・ウメバチソウ・シオガマギク・ミツバオウレン・クロマメノキ・ハクサンシャクナゲ・マルバシモツケ・ミネヤナギ・クロゴケ)→お花畑→新薙(ツガザクラ・イワヒゲ・ホツツジ・キンレイカ)→治左衛門助けの水(休憩)(コケシノブ・エビゴケ)→砂払→志津の行者小屋→日光の神橋
 志津附近で、アオジクスノキ、一名ヒメウスノキも採集する。「明治の山旅・初夏の日光山」より
    
参考 ヒメウスノキ
 
本種は明治10年7月故矢田部良吉博士が日光に採集せられたもので、後故松村任三博士之を検して Vaccinium Myrtillus に充てられ、アヲヂクスノキの名を命ぜられたが、明治34年に至り、牧野博士によって新種として記念名を与へて発表せられたのである。翌年7月筆者はこれを日光太郎山麓に得、牧野博士に致して検定を乞ひ、新たにヒメウスノキの称呼を与へられたのである。蓋しその漿果の色素がウスノキに類せるの故で、ヒメスノキではないのである。
                     
「植物及動物 第4巻第8号 日本の高山植物 121)ヒメウスノキ」の項より 
8月26日、箱根山を越え、沼津の牛臥(うしぶせ)に訪う。
  
   早雲寺所蔵のセリ椀と、そのスケッチ図 1       2                    3 
 湯本・福住楼→早雲寺(マメヅタ・イヌワラビ・ヘビノネゴザ・ミツデウラボシ・ハカタシダ・カナムグラ・オニドコロ・ヤイトバナ・セリ・ミツバ・ツユクサ・キンミズヒキ・ヒメムカシヨモギ・キツネノマゴ・キンエノコロ・キツネノボタン・オヒシバ・メヒシバ・オオバコ・ヤブラン・モミジガサ・ミズヒキ・イノコズチ・イヌビュ・ダイコンソウ)→旧道を西へ(人家にミヤギノハギ・エノキグサ・イヌタデ・ミズタマソウ・ヨツバムグラ・カタバミ・イヌガラシ・マツカデソウ・ノキシノブ・リョウメンシダ・タマアジサイ)→玉簾の瀑(キハギ・ハコネグサ・シュモクシダ・イノデ・リョウメンシダ・コモチシダ・ヤブミョウガ・ノブキ・ミズタマソウ・ウマノミツバ・ムカゴイラクサ・ヒヨドリバナ・カンアオイ)→福住楼→湯本発電所→箱根本街道へ(ヌスビトハギ・ダイコンソウ・マツカゼソウ・アキノタムラソウ・ツルシノブ・シシウド・フユイチゴ・オオバノイノモトソウ・ハコネグサ)→須雲川(コアカソ・キツネノボタン)→畑宿(ジャゴケ・イワガネゼンマイ・コトンボソウ・ムカゴソウ)→朝日瀑(飛竜瀑)(ギボウシ・ミシマサイコ・ニガナ・オミナエシ・ホタルブクロ・フシグロ・チタケサシ・アリノトウグサ・タマアジサイ・シモツケソウ・タチコゴメグサ・コガンピ)→恩人碑→(ノリウツギ・コウリンカ・ヒメヨモギ・ヤマハハコ・チタケサシ・コウゾリナ・イタドリ・コマツナギ・ウツボグサ・オトギリソウ・ホタルブクロ・オオバコ・ミズギボウシ・シシウド・シモツケソウ・クルマバナニガナ・アキノキリンソウ・トダシバ・ヒメシロネ・アカネ・ヤマトラノオ)湯ノ花沢・花ノ湯(泊)→芦の湯(ツリフネソウ・シシウド・ホシダ・キツネガヤ)→二十五菩薩(キンレイカ・イワナンテン)→二子山の北麓をよぎる道(シオガマギク・バライチゴ)(ヤマムグラ・マルバカンアオイ・ヤマイヌワラビ・イヌヤマハッカ)元箱根・箱根神社(コケシノブ・コウヤコケシノブ・ミヤマシケシダ・カブトゴケ・ミツデウラボシ・ウチワゴケ)(コトシボソウ・ムカゴソウ・コケシノブ)箱根宿→箱根峠→芝刈地蔵→三島→(列車)→沼津  「明治の山旅・箱根山を越える」より
研究資料:横浜解雇資料館所蔵 久吉(原稿(著作))No566−18 「『山』高原特輯号原稿「高原と高山 ひとつの?」」の原稿用紙の裏面に、沼津三津浜で四種のシダ類を採取した記録がありました。牛臥山に登られた後、三津浜を訪れたと思われます。今後の研究資料として掲載しました。       2017・6・2 保坂
考察の根拠 「明治の山旅・箱根山を越える」 P66より

「「『山』高原特輯号原稿「高原と高山 ひとつの?」の原稿用紙裏面」より
(略)東海道本線の三島駅だといえば、それは薄原(すすきはら)だと、雲助根性を発揮して、割増賃金を要求して動こうとしない。それでも、地獄の沙汰ですら、左右出来る金の力で、荷は東海道線の三島駅に事なく運ばれて、三時十二分の列車に塔(とう)じて、沼津に向かった。で終わったまま、目的地の牛臥や、その後の状況の記述がなかったため、もしかしてと「三津浜」行のことも想定して見ました。
雑誌『山』の創刊は昭和9年1月なので、昭和12年以降、京都帝大農学部時代の執筆(講義ノート)か 検討要 2017・8・16 保坂
9月21日、高尾山から西南を指して甲州街道を下り、与瀬駅同年小仏トンネルが開通)までを歩く。
                              「明治の山旅・高尾山」より
「秋ノ高尾山」
東京府第一中学校博物学教諭浦部虎松先生ト共ニ武州ノ高尾ヘ一日ノ楽シイ採集ヲシテ
朝五時少シ前・市ヶ谷→
(甲武線)→新宿→(とだしば・てうせんぎく・ひめむかしよもぎ・すゝき・はぎ等)→国分寺の雑木林(をみなへし・おとこへしガはぎ・すゝき等・きゝやう)(あざみ・かうぞりな・ひよどりばな・まつむしさう等)→立川・多摩川堤防(なでしこ・まつむしさう)→日野(つりふねさう・しらやまぎく・なんてんはぎ・かはらけつめい・をみなへし・すゝきおとこへしひよどりばな・はぎ・つりがねにんじん・まつよひさう・ひめじよをん)→豊田(ひめしをん)→八王子駅デ、中央線ニ換ヘ→7時30分浅川着、停車場附近(くさぎ・つりふねさう・きんゑのころ・むらさきゑのころ等)(やまぜり・くさぼたん・からすのごま等を採取)→8時半・高尾橋着・琵琶瀧道へ→(めなもみ・からすのごま・あぶらすき・よめな・いぬたで・とぼしがら・やくしさう・ひよどりばな・つゆくさ・くはくさ・てうせんぎく・ゑのきぐさ・●えひしわ・●・くさのわう)(たまあぢさい・ぢしばり・しらねせんきう・いぬがんそく・みぞそば・おとこへし等・やまのいも・こぶなぐさ・ふうろさう・きつねのまご・きんみづひき・だいこんさう・ちからしば・いたどり・つるぼ(果)・あきのたむらさう・かたばみ・やぶまめ・くるまばな・はこべ・すめのひゑ・よもぎ・つるあづき・まんじゅしゃけ・みづひき・いぬつげ・ひめはぎ・あうね・くず・さるとりいばら・しほで等・はみづごけ)→二軒茶屋附近(てうせんがりやす)(げじげじいだ・おほばのゐのもとさう・くまわらび・すゝき・りうなうぎく)→一大松樹ノ下ニ(せんぼんやり)→琵琶瀧の岸壁ニハ(いはなはこ・ねぐさ・ほらごけ)・其ノ附近ニ(あまちゃづる・みやまねこのめさう・しうぶんさう・うはゞみさう)→本道へ戻る道で(ちゞみざさ・はぎ・こあかう・いぬわらび・あきのはたこぐさ・やぶそてつ・あをまを・さじはぐま・しうぶんさう・あきのきりんさう・みつば・ひめがんくびさう・きじょらん・よつばむぐら・やまむぐら・ゑびね・うまのみつば・なきりすげ)→本道に出てから「左右ニ杉苗寄進ノ札ヲ樹テ」→(うしはゝぐま・つるりんだう・しらやまぎく・やぶらん・おほばこ・ぬすびとはぎ・さいどがや・もみぢはぐま・とうひれん・ふくわうさう・きくあざみ・あきのきりんさう等)→11時半・薬王院本坊ノ側ナル一小茶屋・「此処デ弁当ヲ開キ、茶ヲ飲ミ、又採品ヲ假ニ油紙ニ移シテ、僕ガ背負フコトニナッタ、ソコデドノ路ヲ取ッテ帰ロウカト云フノデ、本道ヲ下ロウカ、小仏ヘ出ヤロウカ、或ハ与瀬ニ向ハウカト云フ議ガ出タガ、終ニヨセバヨイノニ与瀬行キト定マッタ、与瀬ハ此処カラ三里アルト云フ」・「茶亭ヲ出タノガ十二時十分」(つるりんだう・をけら・はぎ等)→高尾山頂(かしはこがんび・めがるかや・おがるうや・まつばなでしこ・おきなぐさ・おとこよもぎ・をみなへし・すゝき・くるまばな・あぶらすゝき・しらやまぎく・はぎ・まるばはぎ・あきのたむらさう等)→「・・ソコデ大奮発デすゝきノ中ヲカキワケテ、ヤウヤク其ノ路ヘ下リタ時ニハ手モ顔モ大分傷ヲ蒙ッタコレカラサキハ下リ路デ大分楽デアル(もみ?ノ林)(もみぢがさ・をとこへし・やまあざみ)(あきてうじ・あかばな・ことぢさう)甲州街道→(かはらはゝこ)木良→与瀬→6時25分市ヶ谷着 明治三十七年五月発行「博物之友 四巻二十二号 秋ノ高尾山」より
9月、「博物之友 二巻十四号」に「雑録 植物雑話 第五回」を寄稿する。
10月、日光旅行を行う。     「横浜開港資料館所蔵 山日記」より 
0月、「博物之友 二巻十五号」に「雑録 植物雑話 第五回ノ続」を寄稿する。
12月、早田文蔵が、「植物学雑誌 第191号」に「南会津竝に其の附近の植物」を寄稿する。

  「尾瀬回想 尾瀬≠ニの出会いと関わりあい”」 冒頭の部分より
 僕と尾瀬との関わりは、初めて尾瀬と言う地名と出会ったのは、明治36年西紀1903年でね。1月20日発行、植物学雑誌、第191号。当時、東大植物学科の学生で、早田文蔵と言う植物の非常に好きな人が居て、その人が、「南会津並びにその付近の植物」と題する一文を掲載して、明治31年7月にこの地方に植物を採集した時の記憶を筆にした中に現れる。早田君の足跡を辿れば、群馬県の渋川から沼田町に達し、川場を経て、花咲峠を越えて戸倉迄足を伸ばし一泊(戸倉には、木賃宿式の農家が在ったんだね)。翌朝、沼山峠を越えて桧枝岐に下り、その翌日(多分)会津駒ヶ岳に採集して歩き、又尾瀬に戻り、燧ヶ岳の麓(多分沼尻辺りと思うが)で、ナガバノモウセンゴケを発見して、更に何処かで、ヤナギトラノオ、タテヤマリンドウ、エゾセキショウ等の珍品を採ったと言う記事が出ていたので、尾瀬と言う所の名前を初めて僕は知った訳だ。 
   注:「南会津竝に其の附近の植物」論文の発行年については 再確認済(12月) 2015・12・17 保坂記  
12月24日、河田が「學友会雑誌 39号 東京府立第一中學校學友會」に「榛名産きよすみこけしのぶニ就テ」を寄稿する。 武田家所蔵本
文中に、如蘭會員武田久吉が明治33年8月27日、日光で「きよすみこけしのぶ」を採集、「博物之友」第二巻十三號に、その記載があることを記述する。 参考:記載者河田とは川田黙のこと
1903 明治36年 20
1月、第3回日本博物学同志会の談話会が永田町山王社境内の茶屋「楠本」で開かれ、標本の展覧会や講演会等が行われる。出席者の中に高野鷹蔵がいて、初めて知る。
1月25日、「一年志願兵服役願」を第一師団長 伏見宮貞愛(さだなる)親王宛に提出す。
2月、「博物之友 三巻十六号」に論説 ロウバイに就きて・雑録 北米の春草等を寄稿する。
3月、「博物之友 三巻十七号」に雑録 北米の春草・暑中休暇を寄稿する。
4月、千葉県安房郡清澄山に訪う。  「明治の山旅・清澄山」より
  
発見した六弁のタチスボスミレのスケッチ
三十六年四月七日、上総興津隧道附近ニテ株
本所→(総武線)→千葉→大原→(ガタ馬車)→小池→勝浦(泊)→(翌朝は勝浦を発して十六キロを距てた天津に向かったが、道路は狭くて、その上悪路とあっては、馬車を通じ難いので、人力車にたよるの外なかった。勝浦から松部までは、海に沿い、ここから鵜原までは、ちょっと凸出した小半島を横断するので、景は大したこともない。次の守谷は、狭小な地ではあるが、海を眺める景はなかなか壮快である。次の興津は随分と殷盛な町と見た。再び海を離れ、浜行川を経て隧道を越すと大沢だが、ここの海岸はなかなか豪壮で、なかんづくお千転がしと俗称する部分は、烈風の日に
は、通行ほとんど不可能だと耳にした。)→大沢→→小湊→鯛ノ浦→天津・油屋(泊)→清澄山(マキノゴケ・シロバナノショウジョウバカマ・ウラジロ)→帰京    「明治の山旅・清澄山」より
4月、牧野富太郎、「植物学雑誌 第17巻第194号」に「はないかだ芽鱗上ノ花」を寄稿する。
(略)芽鱗ハ長楕円形ニシテ緑毛ヲ具ヘ其質厚カラズ而シテ此ノ如キ状態ハ予ハタゞ之レヲ雄本ノ上ニ認メシノミ雌本モ亦(また)此ノ状ヲ呈スルヤ否ヤハ尚未ダ検スルニ及バズ、予ハ武田久吉君ノ恵贈セラレタル標品トニヨリテ此事実ヲ知リ後ノ我標品ヲ検シテ亦此ノ如キ状態アルモノ若干ヲ得タリ即チ一ハ明治廿二年五月廿二日土佐國高岡郡鳥形山ニ採リタルモノ一ハ明治三十二年四月廿七日武州小豆澤ニ採リタルモノナリ由エ是観之此現象ハ普通ニ此樹上ニ行ハルゝモノト見ユ、芽鱗花ヲ載ス極メテ異例ニ属ス記シテ同好ノ士ニ報ズト云ウ、
                     
 植物学雑誌 第17巻第194号」に「○はないかだ芽鱗上ノ花 P67」より
4月25日、「第四回講演会戯曲梗概」が「東京外国語学校校友会」から刊行される。
    資料 横浜開港資料館 久吉(文書類)No615−7 講演会に本人名の掲載はありませんでした。 2016・7・20 保坂
5月、河田黙と高尾山に登る。 明治三十七年五月発行「博物之友 四巻二十二号 ○秋ノ高尾山」より
6月12日、「東京府北豊島郡巣鴨町役場」より「徴兵身体検査執行通知」が送られる。
6月26〜27日、武州御嶽山に植物採集を行う。
    御岳神社の傍らでも、「清澄苔忍(きよすみこけしのぶ)」を発見する。
            「明治の山旅・牧野先生と「清澄苔忍」」より
    この時、「はこねぐさ」も発見する。
資料@ 「○寡聞管見録(其二) ●八、はこねぐさ支那ニ産ス」から
 (略)
予モ昨年武州御岳山麓ニ見タリ、武甲ノ境盖シ其ノ産地ノ北限タルベキカ。
資料A ○寡聞管見録(其二) ●十 再ビきよすみこけしのぶノ産地ニ就テ」から
房州 清澄山頂
上州 榛名山榛名神社近傍
野州 日光瀧ノ尾神社附近
武州 御嶽山御嶽神社近傍(卅六年六月予此ニ得)
信州 浅間山麓(田中貢一氏ニ據ル)
信州 赤石山麓(同右)
土州 安芸郡(牧野富太郎氏ニ據ル)
由是観之其ノ産品比較的広大ナルモノニシテ、本邦中部以西ノ各地ニ産スルコトヲ知ルベシ、然レモ未ダ日光以北ノ地ニ得ズ、切ニ同好諸士ノ探求ヲ待ツ。
                        明治三十七年五月発行「博物之友 四巻二十二号」より
7月、「博物之友 三巻十八号」に論説 左まきと右まきとに就いて・雑録 北米の春草を寄稿する。
7月、友人と共に太郎山に登る。帰り湯元に一泊して翌朝、白根山に登る予定を風雨に阻まれ金精峠で残念する。 「明治の山旅・白根登山」より
   この採集登山で、「みやまちどり Platanthera Takedana Makino.」を発見する。
                                   
牧野標本館所蔵 MAK026178
7月24日〜28日、河田黙夏沢峠から赤岳へ。八ケ岳でヒナリンドウやタカネシダを発見する。
高崎→御代田→岩村田→馬流(泊)→猪名湖・長湖→猪子ノ原(アヤメ・ノハナショウブ・ヤマオダマキ・カラマツソウ・オミナエシ・マツムシソウ・シラヤマギク・ヤマハハコ・ヤマノコギリソウ・クカイソウ・シシウド)賽ノ河原→馬返し(ヤナギラン・キンバイソウ・ウマノアシガタ・クカイソウ・ホッスガヤ)(コメツガ・カラマツ・ゴゼンタチバナ・コバノイチヤクソウ・キソチドリ・マイズルソウ・ツバメオモト・ツルツゲ・ハクサンシャクナゲ・レンゲツツジ・オサバグサ・キバナノモマツメ・クリンソウ)本沢温泉(泊)(ハクサンシャクナゲ・ゴゼンタチバナ・サンゴゴケ・カラマツ・コメツガ・アオジクスノキ・シラタマノキ・フタバラン・コガネイチゴ・ゴヨウイチゴ・ツマトリソウ・マイズルソウ・ミヤマゼンコ・ガンコウラン)→ 夏沢峠→(シラビソ・イワセントウソウ・ハイマツ・ミヤマハンノキ・ダケカンバ・ミヤマシオガマ・ミヤマダイコンソウ・ツガザクラ・イワヒゲ・イワウメ・ムシトリスミレ→硫黄岳(ハイマツ・チシマギキョウ)天候不順のため下山→本沢(泊)→硫黄岳→横岳「二十三夜の石碑」ムシトリスミレ・ミヤマアケボノソウ)「大聖不動明王の石碑」→赤岳→本沢(泊)→渋ノ湯→稲子(コメツガ・シラビソ)臼田(泊)
   @この時の採集品は、一と揃えて研究用として、牧野先生に呈上したが、それ等は六十五年余を過ぎた
     今日でも、牧野標本館に保存されていることであろう。
 「明治の山旅・八ヶ岳」」より
   A本沢温泉付近で、アオジクスノキ、一名ヒメウスノキも採集する。 「明治の山旅・初夏の日光山」 P261より
   B第四巻五十六頁ニ於テ予ハ日光ニ創見セラレタルひめうすのきヲ信州南佐久郡本澤の地に得テ・・(略)
                  「明治38年1月 博物之友第弐拾四号 再ビひめうすのきノ新産地ニ就テ P53」より
この頃の、八ヶ岳登山について
(略)
だがその頃の交通や旅館のことを思い出して見ると、遺憾乍ら実に不便極まりないものであった。八ケ嶽旅行の古い記録を捜し出して見ると、午前六時上野発、八時四十分高崎着で、現今よりは二十分は余計にかかっている。それはとに角として、此処で一旦下車し、托送の荷物を受取ってから、新規に切符を求め、更めて荷を托送して、連絡の列車で九時出発、軽井沢迄三時間を要したものである。小海線など思ひもよらぬ当時の事とて、御代田からガタ馬車で一時間を費して岩村田に着き、車をかえて更に二時間もして臼田着。今度は新規に仕立てた馬車で、晩の七時五十分に馬流(マナガシ)に到着して一泊。翌日は人夫を傭い、八時間もかかって本沢鉱泉の、いぶせき宿に到着して、ここを根拠地としたのであった。(略)
                         
   S15・9 「山と渓谷 再燃の尾瀬ヶ原貯水池問題」より
8月11日〜14日、続けて台ケ原から甲斐駒へ。(人夫の鈴木太十はウエストンと鳳凰山に登山する
市ヶ谷→甲府→台ヶ原(竹屋・泊)
(サルマメ・キキョウ・オミナエシ・カワラナデシコ・イタチササゲーレンリソウ属・サワギキョウ・ボタンズル)→駒ヶ岳神社前宮・白須→(タニソバ・ジンジソウ・ヤマハハコ・ヤハズハハアコ・ムカシヨモギ・ママコナの1種後に新種と認められタカネママコナ)→笹ノ平(タマガワホトトギス・ヤナギラン・クカイソウ・ヤマトリカブト・ガカヨウオウレン)→黒戸山の稜線→(シラビソ・コメツガ・ジンバイソウ・ゴゼンタチバナ・シュスラン・シロバナノヘビイチゴ・クロウスゴ・ミヤマシブレ・ヒメイワカガミ・タカネママコナは密生・クルマユリ)→屏風岩の小屋(シラネワラビ・ナヨシダ・ホソバコケシノブ・オオバショリバ・ヤマイヌワラビ・シノブカグマ・タカネコウボウ・ミヤマアカラマツ・モミジカラマツ・ハクサンサイコ・タカネナデシコ・シナノオトギリ・ミヤマエンレイソウ・コオニユリ・クルマユリ・ツバメオモト・クロクモソウ・コセリバオウレン・ゴカヨウオウレン・ハンゴンソウ・ミヤマオトコヨモギ・ニョホウチドリ(?)・シナノコザクラ(?)・コメツガ・シラビソ・ヤハズハンノキ・ミヤマハンノキ・ナナカマド・ソウシカンバ・ツリガネツツジ)屏風岩の小屋(泊)→(セリバシオガマ・ツバメオモト・タカネママコナ・マイズルソウ・キバナノコマノツメ・コミヤマカタバミ・ゴカヨウオウレン・ヒメイワカガミ・ゴザンタチバナ・フタバラン・コモイコザクラ・コメツガ・チョウセンゴヨウ)→剣の刃渡り→(ベニバナツクバネウツギ・ミヤマホツツジ・ヒメイチゲ・コメススキ)→七丈ノ瀑→駒ヶ岳頂上→摩利支天岳→地獄谷→屏風岩の小屋→白須
                              「明治の山旅・甲斐駒」」より
参考/明治40年12月「植物学雑誌21巻251号P332 中井猛之進著 ○邦産まゝこなニ就テ」より
Melampyrum laxum Miq(ミヤママゝコナ) ミヤマ・タカネかの呼称は検討要
Prov.Kai:駒ヶ嶽 Aug.12.1903.(H.Takeda.) fl.specim.2.
 
 
8月、ウエストンが芦安、奈良田、さらに台ケ原から黒戸尾根を経て甲斐駒に登山し、鋸岳も目指すが途中で引き返す。
8月、甲斐駒登山を終え、新発田の知人宅(泊)より→五十公野(いじみの)→赤谷→滝谷温泉(泊)→飯豊山登山を途中で残念し下山→滝谷温泉(泊)→新発田
参考ー「飯豊山に登る」より 一部
 (略)
この行、私の最も愉快に思ったのは、滝谷新田附近で、コゴメグサの一種を得たことで、一両年後それは邦産中の稀品であることがわかり、新たにホソバコゴメグサなる和名を命ずることにした。(略)
                               
「山への足跡・飯豊山に登る」より
 
植物学雑誌19巻222号・ほそばこごめぐさ(新称)ニ就キテ」より
(「ほそばこごめぐさ(新称)ニ就キテの冒頭の部分から)一昨三十六年八月予越後ニ遊ビシ時一日新発田ヨリ瀧谷温泉ニ赴ク、途ニ瀧谷新田ヲ経テ少時ニシテこごめぐさノ一種ヲ得タリ。繊細ナル茎枝上ニ白色優雅ナル花ヲツケ、葉モ亦狭小ニシテ稍(やや)異彩ヲ呈セリ。帰リテ牧野氏ノ検定ヲ請ヒシニ氏ハひろはのこゞメグサノ狭葉品ナラント言ハレシガ其ノ学名ヲ得ザリキ、頃日Wettstein氏ノMonograph-ie der Gatt
ung Euphrasiaヲ見テ其ノ学名 E.Japonica Wettst.ヲ知ルヲ得タリ。仍テ其ノ葉ノ狭長ナルニ因テ新ニほそばこごめぐさナル和名ヲ命ジタレバ次ニ此ノ植物ヲ形貌ヲ記シテ同好ノ士ニ報ゼントス。(略)また、ひかげのかづらに就いては、瀧谷新田辺デ見タモノハ二乃至四個(の子嚢穂)ヲ着ケテ居タガ、昨年信州北安曇郡佐野坂デ得タモノニハ五個ヲ有セシモノガアル。   「博物之友」明治39年1月号 「○ひかげのかづら」より 
9月26日、河田黙(しずか)が「學友会雑誌 41号 東京府立第一中學校學友會」に「植物採集」を寄稿する。武田家所蔵本
(略)今や五旬の休暇は諸君の眼前に横って、誠に好時期に際して居るのであります、斯くの如き時に當って、何で黙して居られませうか、それ故、私は先に武田君が植物研究の栞と云ふものを記載せられたにもかゝはらず、又私の淺學寡聞をも顧ず、本誌の餘白を汚して、少し植物採集に便利かと思ふことを揚げて、諸君に勧めるものであります、殊に二年級諸君の如きは、現に、学校で植物を研究せられて居るのであるから、是非此休暇には採集をして、教授せられたことを實験せられんことを願ふのであります。(略)
10月、「博物之友 三巻十九号」に雑録 北米の春草・中臥の浜辺・アドニス花・山草陳列会を寄稿する。
10月、日光旅行を行う。 「横浜開港資料館所蔵 山日記」より
12月20日、田口静が牧野富太郎に紹介され東京植物学会に入会する。 植物学雑誌 同月号より
1904 明治37年 21
2月、小島烏水が「太陽 第10巻第3号」に「甲斐の白峰」を寄稿する。
3月、「博物之友 四巻二十一号」に「寡聞管見録(其一)・水仙と風信子・清澄山道中案内記・花信一束」を寄稿する。
4月、同校独語学、英語学、国語学及び言語学終了。
4月21日付、M.Oguma(小熊捍)が〔絵はがき〕(植物学雑誌借用を希望)についてを記載して投函する。
          「植物学雑誌第二十一巻百二十四号」 横浜開港資料館 久吉(書簡)No 867より
4月30日、筑波山を訪う。
土浦→臼井(ジャニンジン)→筑波の町・「結束」→夫婦餅・気象観測所→女体山(筑波神社附近:ニシキゴロモ・タチスボスミレ・ウグイスカズラ・サルトリイバラ・アオキ・ツクバネウツギ・ヤマツツジ・コバノトネリコ・ミツバアケビ・ツクバネ・ヤブツバキ・ミヤマシキミ・ウチダシミヤマシキミ・ヤマブキ・マムシグサ・テンナンショウ・ミヤマウズラ・オオヤマカタバミ・ヒトツボクロ・コアツモリソウ・チゴユリ・ヒサカキ・ニガイチゴ・ホクロ・モミジイチゴ・センボンヤリ・コケリンドウ)(両峯の間:ヤマブキソウ・カタクリ)・(男体の頂上:ウスバサイシン・ワチガイソウ)・(女体への道:ヤマブキソウ・カタクリ・ニリンソウ・キクザキイチリンソウ・ナガバノスミレサイシン・オオヤマカタバミ・ミヤマハコベ・ヒメノキシノブ)・(女体から下る道:ツクバネソウ・ナガバノスミレサイシン・カンスゲ・トウゴクサバノオ・マルバコンロンソウ・ニシキゴロモアズマイチゲ筑波の町
5月1日(翌日)、再度、 筑波山を訪う
筑波の町→弁慶の力餅→女体の頂上→夫婦餅(小憩)→10:25分筑波の町→臼井→土浦
5月「博物之友 四巻二十二号」に「秋の高尾山・寡聞管見録(其二)」を寄稿する。
5月26日から28日、氷川・日原方面を訪う。
注意  旧仮名遣のままで表記しました。(以下原文のまま)
(略 英字による行程を省略)丹三郎ヨリ二十町許にして多摩川ヲ渡リ其ノ左岸ニ沿ヒテ上ル棚沢ヲ過ギテ道路ノ右側一大かしノ路ヲ蔽(おお)ヒテ枝ヲ出スアリ梢上かやらん多ク 果実ヲ着ク路漸ク上リ左右ノ植物稍(やや)変ズ、くりノ花盛ニシテまたたびノ白葉、谷ヲ蔽(おお)フ いはたばこハ岩ニ着キ蕾ヲ生ズいぬしだ・いぬわらび・くまわらび・いはとらのを・げじげじしだ・くじゃくしだ・はこねさう・ほいぬわらび(丹三郎)・のきしのぶ・ひろうどしだ・しのぶ・みつでうらぼし(dwarpo)・いのもとさう・ほばのゐのもとさう・しゅもくしだ・いはでんた・ゐのでぜんまい・わらび・くさそつく・いぬがんそく・ゆうれんしだ・ふくろしだ・まめづた・はりがねわらび 花アリシモノ、くり・またゝび・やまぐわ・ていかかづら・さつき(残・花)さはあぢさゐ・なはしろいちご・てりはのゐばら・ 果実 あぶらちゃん・にがいちご・すぎ・ひのき・くは 草本ニテ花アリシモノ たけにぐさ・おほばこ・こまつなぎ・こうぞりな・ほたるぶくろ・どくだみ・とりあししゃうま・くさのわう  丹三郎ノ附近ニ ほがへりがや(ホガエリガヤ)アリ
五時十五分氷川村三河屋幸右衛門ニ入ル、此ノ日風西南ニシテ微リ、概シテ晴天ナリ

(略 英字による行程を省略)
氷川日原間ニ見タル圭ナル羊歯類
いぬわらび・げじげじしだ・きよたけしだ・みやまくまわらび・わらび・くまわらび・わうれんしだ・ししらん・いてうしだ・えびらしだ・ひらうどしだ・しのぶ・こばのひのきしだ・いたちしだ・のきしのぶ・ほていしだ・みつでうらぼし・つるでんだ・くものすしだ・ふくろしだ・はこねしだ・くじゃくしだ・やまいぬわらび・ゐのもとさう・おほばのゐのもとさう・うちはこけ・ほそばのこけしのぶ・かたひば・いはひば・たうげ
ひば
           「山手帳」より  
 たうげひば←→たうげしば 検討要 2015・7・10 保坂記
   博物之友 二十七号 「秩父採集ノ記」では「たうげしば」と記述がありました。 2015・11・10  保坂記
    
参考 尚、 「秩父採集ノ記」では採集月を六月としていましたが、年譜では山手帳の日付にしました。       
5月、「かんしのぶ東京市中ニ自生ス」を発見する。 「博物之友 第弐拾四号 明治三十八年一月」より
    市内牛込市谷間ノ甲武鉄道沿道ニテ之(かんしのぶ)ヲ見タリ。
5月27日、河田黙(しずか)が「學友会雑誌 43号」に「植物學の必要を述ぶ」を寄稿する。 武田家所蔵本
6月3日、独語による、茶に関する説明を記述(手書き)する。
      横浜開港資料館 久吉(文書類)No615−9 手書き 発表の有無に就いては検討要 2017・6・22 保坂
月6日、高尾山に訪う。
   
浅川→蛇瀧入口→琴比羅道→本道十九町目→高尾山頂→琵琶瀧→小仏頂上(4・50)→高尾(5・35)
7月16日、師範学校の教諭、矢沢米三郎を訪ね、戸隠山、黒姫山や妙高山の模様を訊ねる。
7月17日〜23日、戸隠の表山と裏山を探り、足を伸ばして越後の妙高山に登る。「山歩き七十年」より
長野・城山館(泊)→塩沢(アカマツ・ウツボグサ・オオバコ・クサフジ・チチコグサ・チクマハッカ・ヤマハギ・ノリウツギ・ニガナ・トリアシショウマ・ヤマブキショウマ・クサノオウ・コアカソ・イタチササゲ・イブキジャコウソウ)→七曲(オカトラノオ・カワラナデシコ・カワラマツバ・クサフジ・ヒルガオ・クララ・コマツナギ・ノアザミ・ヒレアザミ・シシガシラ)→荒安(コバノガマズミ・カラマツ・クララ・クロズル・イブキジャコウソウ)→飯縄原(シラカバ・マツブサ・クマヤナギ・ヒョウタンボク・カンボク・ヤマブキショウマ・クララ・ノアザミ・コウリンカ・ヒヨドリバナ・ヨツバヒヨドリ・シモツケ・マツムシソウ・シシウド・イブキジャコウソウ)→最初の沼(カキラン・クガイソウ・ミソハギ・ノハナショウブ・ミズゴケ)→浮島沼(ミズゴケ・ヒルムシロ・ミカズキグサ・アゼスゲ・サギスゲ・ミツガシワ・エンコウソウ・モウセンゴケ・サワギキョウ・ミズバショウ)→戸隠入口の大鳥居(シラカバ・ウメバチソウ・カナビチソウ・ヤマハハコ・ヤマブキショウマ・メタカラコウ・アリノトウグサ・ノギラン・ミヤコグサ・ウツボグサ・クサボケ・カンボク)→宝光社 →中社・久山家(中食)(シラタマノキ・トリアシショウマ・オニシモツケ・ヤマオダマキ・オウレンシダ・コイヌワラビ)久山家(泊)(ヒメシャガ・ダイコンソウ・コウリンカ・ウツボグサ・ヤマブキショウマ・ホタルブクロ)→戸隠原(ヒカゲノカズラ・モウセンゴケ・バイケイソウ・ショウジョウバカマミカズキグサ・ハイイヌツゲ・ヤチスギラン→戸隠原を北へ(シラタマノキ・ミズナラ・キンコウカ・ショウジョウバカマ・イワショウブ・ナツグミ・モウセンゴケ・ヤマサギソウ・ミズチドリ・メシダ)→念仏池(ホソバノヨツバムグラ・メタカラコウ)(ブナ・イタヤカエデ・トチノキ・ツノハシバミ・キクバドコロ・ルイヨウショウマ・ルイヨウボタン・リョウメンシダ・オオメシダ)→大洞沢(サワグルマ・ミヤマカラマツ・カメバヒキオコシ・資料ー1、アカネの一品→オオアカネ・サンカヨウ・トガクシショウマ)→不動沢(カツラ・テツカエデ・タカネミズキ・サワホウズキ・ミヤママンネンギク・イワインチン・ネマガリダケ)→不動の帯岩→ミヤマシダ・ヤマソテツ)→十三仏の地名がある所(一不動〜五地蔵の迄)(クルマユリ・ギョウジャニンニク)・(シラネアオイ・キバナノアツモリソウ・グンナイフウロ・オオカメノキ・ミネカエデ・サラサドウダン・アカツゲ・ハクサンシャクナゲ・コメツガ・グンナイフウロ・イブキジャコウソウ・ヨツバシオガマ・ミヤマクワガタ・ハクサンシャクナゲ・サラサドウダン・イワカガミ・ハクサンサイコ・ヒメシャジン・ミツバオウレン)・(ミヤママンネングサ)注1:守田宝丹翁が出資して建てた小屋(泊) 守田宝丹翁が出資して建てた小屋(五地蔵の峯〜)(ネマガリダケ・ネコシデ・サワラ・コメツガ・イワハゼ・ミツバオウレン・マンネンスギ・イチョウラン・キソチドリ・イワナシ・シュスラン・ゴゼンタチバナ)→八観音あたり資料ー2、ヒメウスユキ(ハナヒリノ
   
   明治15年、東京の守田宝丹が五地蔵岳の山頂に建てた小屋と
   石祠のスケッチ図
 武田博士山手帳より
キ・ミヤマホツツジ・ツリガネツツジ・オガラバナ・サワホウズキ)→山頂の一角(ハイマツ・ハクサンシャクナゲ・ネマガリダケ・ヤマサギソウ・コゴメグサ)→十阿弥陀→摩利支天の小祠(ダケカンバ・ナナカマド・タカネナナカマド・チシマギキョウ・イワベンケイ・ミヤマダイコンソウ・ミヤマハタザオ・コタヌキラン・ミヤマヌカボ・ミヤマナズナ)→測量台(ミヤマハンノキ・ダケカンバ・ネマガアリダケ・コメバツガザクラ・コイヌワラビ・ミヤマホツツジ・ミヤマコウゾリナ・ギンリョウソウ)小池(ミヤマキンバイ・ミノボロスゲ・アオジツガザクラ・サンカヨウ・ショウジョウバカマ・コミヤマカタバミ・イワカガミ)→茶池(ミヤマメシダ・ベニバナイチゴ・ムラサキツリバナ) →乙妻山(ミヤマヤナギ・ミヤマウラジロイチゴ・クルマユリ)→阿シュクノ峯→地獄谷(チシマアマナ・タカネニガナ・ヒメカラマツ・ヒメクモマグサ・ヤマウイキョウ・イワベンケイ・チシマギキョウ・ウラジロキンバイ・イワオウギ・タカネツメグサ・トウヤマリンドウ・チシマゼキショウ・
ミヤマムラサキ・キバナノコマノツゲ・(トガクシナズナ・ミヤマナズナ「同一種であることがわかった」と記す))→五地蔵の小屋(泊)(ネガマリダケ・クロソヨゴ・クロズル・ハナヒリノキ・アリドウシラン・ツクバネソウ・マンネンスギ・ミヤマフタバラン)→弘法の護摩所→(ミヤママンネングサ・ミヤマオトコヨモギ)・(ヒメクモマグサ・キバナノコマノツメ・ユキワリソウ・チシマゼキショウ・ミヤママンネングサ・ヒメスミレサイシン・コメバツガザクラムカゴトラノオ・ミヤマナズナ・イワベンケイ・イワオトギリ)→(キバナノコマノツメ・キバナノカワラマツバ)剣の刃渡→蟻ノ門渡(イブキジャコウソウ・ヒモカズラ・ヒメクモマグサ・イワインチン)→百間長屋ムシトリスミレ・ブナノキ)→奥社(ヒモカズラ・ヒメシャガ・ミヤママンネングサ・ノシュンギク・キチジソウ・アキカラマツ・クルマムグラ・オニシモツケ・シラヒゲソウは(オオシラヒゲソウ)であろう→中社(泊)→柏原→田口→赤倉温泉・香嶽楼(泊)→妙高山→赤倉温泉・香嶽楼(泊)→帰京(八日間の山旅)
                               「明治の山旅・戸隠山」」より
資料ー1
(略)
この辺(不動沢)でアカネの一品を得たが、花はちょうど満開で普通のアカネではまだ蕾も出ない時期なのは注意に値する。そのうえ各節に六枚の葉をつけていたのは珍しい。その翌月、牧野先生はここにこれの果実をつけたものを得られたので、それと私の標示とによって新変種としてオオアカネの名を命じ、「植物学雑誌」第二一四号一四四頁に発表された。普通のアカネが花を着ける八月に果実が熟するという早熟性のものである。これは後には別種に引き上げられ、九州や朝鮮にも産することが判ったし、尾瀬の鳩待峠や白馬山麓にもある。(略)
資料ー2
(略)
八観音あたりで、ヒメウスノキを得たがこれはウスノキに似た実をつけるもので、従来あまり能(よ)く知られなかった種類であり、この和名は牧野先生の命名であるが、すでに松村博士のアオジクスノキの命名があり、諸方の亜高山帯に通有ともいうべき小灌木で、夏月登山すればたいていその赤い漿果(しょうか)を見るのであるが、花は六月に咲くもので、初めてこの花を採集したのは明治三十九年六月、私が日光の金精峠に見出した時であった。(略)             「明治の山旅・戸隠山」より
注1:「守田宝丹翁が出資して建てた小屋」について
 博士が泊まった戸隠中社の久山家(旧勧修院)の玄関に掲げられている扁額の15番目に「大富邊の雨宿り 行暮れてたつきもしらぬ山人に雨宿めぐむ大富邊の神」と云う歌がある。明治15年、守田宝丹が妻女と共に登山して難儀、後人のために三百余円を投じて木造小屋を建てたという。久山家からこのことを聞いた博士は石祠とともに山頂の小屋をスケッチし記録に残しました。
  
   「あしなか 第138輯 武田久吉先生追悼号」より
7月20日、「植物学雑誌第18巻210号雑録」に「甲州駒ヶ嶽採集記」を寄稿する。(続き10月号へ)
(冒頭・番号ナシ)  東京ヨリ甲府ニ至ル
 駒ヶ嶽  甲府ヨリ台ヶ原ニ至ル
 登山ノ路  注(二は失番)  台ヶ原屏風岩間帰京 
 發程     注(三は重複)  屏風岩ノ小屋并ニ其ノ附近ノ植物
  また同号に、田口勝が「ひめいずゐ銚子ニ産ス」を寄稿する。
8月16日、日光浄土院より、華厳の滝・歌ヶ浜方面を歩く。
  
        武田博士山手帳より
8月22日、荷を神山寅吉に託し、白根登山を行う。
日光町→中禅寺→戦場ヶ原→湯元・山田屋(泊)→白根沢→前白根(天狗の角力(すもう)取場)(ミヤマハイビャクシン・ミヤマハンノキ・オヤマリンドウ・トウヤクリンドウ)→白根山頂上(荒山権現の小祠)(コケモモ・コメススキ・クロミノウグイスカズラ・イワヒゲ・ミヤマヤナギ・ガンコウラン・コメバツガザクラ・クロマメノキ・マイズルソウ・バイケイソウ・ヒメシャジン)→五色沼→湯元(泊)→金精峠→菅沼附近の小池→(モウセンゴケ・※オクヤマトンボ(カオジロトンボ「博物の友」第三十二号一六七頁)→東小川   「明治の山旅・白根登山」より
資料@ ※オクヤマトンボ  「明治の山旅・白根登山 P119」から
(略)東小川に通じる林内の寂しい小径を辿ることこと時余。小池を発見した。池畔には、よく生長したモウセンゴケが水蘚に生じ、それに捕らえられた見馴れぬ蜻蛉の一種を幾疋(ひき)か持ち帰ったが、翌々年、松村松年博士によって、その学名が分明したので、私はこれに、オクヤマトンボの名を与えた。(「博物の友」第三十二号一六七頁が、その後この種は諸方の高山(ことに湿地のある)に見られることが知られるに至ったが、見聞の狭い昆虫学者は『博物之友』を見る機会が無いと見えて、私の命名の事実を知らずして、今ではこれをカオジロトンボと呼んでいるとは、むしろ気の毒な気がしてならない。
資料A 「○まうせんごけ蜻蛉ヲ捕フ」
(略)
一昨年八月二十四日予ハ植物採集ノ為メ上野国利根郡ノ深山ニ入リシ時山中ニ無名ノ小沼アリ其ノ畔みずごけアリテ※1沮洳ノ地ヲナシ此ニまうせんごけ非常ニ繁茂シ何レモ壮大ニシテ中ニハ※2ノ長サ一尺二三寸ニ達セルモノサヘアリ紅色ニ腺毛ヲ具ヘタル葉ニ密ニ地ニ敷キ實ニまうせんぐさノ名ニ背カズ此ニ此ノ池ヨリ発生スルとんばう三種アリテ一ハやんまノ類一ハいとゝんぼノ一種不明ナルモノ一ハあかとんぼうノ類ナリ而シテ(そ)いとゝんぼハ常ニ沼畔ニ生ゼルくろばならうげやまどりぜんまい又ハすげ類ニトマレドモ此ノLibellulidaeノ一種ハ既ネ密生セルまうせんごけノ上ニ翅ヲノバシトマルガ故ニ時ヲ経ル間ニ其ノ尾端ハイツシカ該(その)草ノ腺毛ニ粘着シヤガテ飛ビ去ラントスル頃ニハ全ク捕捉サレテ脱スルコト能ハズ空シク翅ノミヲ動カシ得ルノ窮状ニ陷リ終ニハ消化サレテまうせんごけノ餌食トナルヲ見タリ此ノ如ク働作緩漫ナルガ故ニ予ハ捕蟲器ヲ用ヰルコトナクシテ其ノ数頭ヲ捕フルコトヲ得今ヤ松村博士ノ考査ヲ経テ其ノ学名 Leucorhinia rnbicunda Sel. ヲ明ニスルヲ得予ハ之ニおくやまとんぼナル和名ヲ命ジテ称呼ニ便ニセントス此ノとんぼハ北欧ヨリ西比利ニ亞互リテ分布スルモノニシテ今我国中部ニモ産スルヲ以テ見レバ本邦北部ノ山中ニハ盍シ稀少ナルモノニ非ザルベク又種々ノ点ヨリ彼ノ月山又ハ岩手山ニテまうせんごけニ捕ヘラレタリト云フモノモ是ニ非ズヤノ疑ハ直ニ吾人ノ脳裏ニ湧出スベシト雖モ今其標本ヲクノ故ニ断定スベラザルハ遺憾ナリ今後斯カル場合ニ遭遇サレタル諸君ハ充分ノ留意アランコトヲ切望ス(武田)
     ※1沮洳(しょじょ):土地が低くて水はけが悪く、いつもじめじめしていること。
   ※2● (いぬなずな):芹に似た水草で食用になる 草カンムリ+亭の合字
            「博物之友 第三十二号 明治三十九年五月」 より
8月中旬、牧野富太郎が「庚申草研究ノ為日光ヘ向ケ出発セラルヽ」 「植物学雑誌第18巻210号雑録」より
9月「博物之友 四巻二十三号」に「北米の春草・雑録 やどりきの寄生主」を寄稿する。
9月20日、田口勝が「植物学雑誌 第18巻第212号雑録」に「上総成東附近の植物」を寄稿する
 
     「明治・山日記」より
参考 成東附近の植物と時刻表
 「山日記」の記入法は、大きくは二つに分かれ、その殆んどが山岳関係とそこで検分した植物名が記されています。後半の数ページは折り々の出来ごと、例えば、打合せやその時の人物名などが記してありました。左図は田口勝の「上総成東附近の植物」を要約して書き出したもので、田口勝が検分した植物名をそのままの配列で記してありました。そして、いつでもその場所に行けるよう時刻表までも書き添えてありました。田口勝が調査した銚子や成東地区での探査は、時を経た大正14年8月となりましたが、博士は決して忘れてはいませんでした。博士の几帳面な処の一端を知る貴重な資料として掲載を致しました。2015・8・30 保坂記
 また、「成東中学附近 こもうせんぐさ」とあるのは、現在の呼名、コモウセンゴケのことで、明治二十九年七月に発刊された「植物学雑誌第百十三号 ○上杉幸吉ノ質問ニ答フ」では冒頭「氏ハ丹後国与謝郡上宮津村字小田ニ於テ農務の余暇もうせんぐさヲ採集シ其産地ノ模様並ニ此植物が葉上ノ腺毛ニテ小虫エオ捕フル有様ヲ精細ニ観察シテ一書ヲ寄セラリタリ・・・」とあり、当時はモウセングサとも呼ばれていたようです。  2015・9・12 追記
10月20日、「植物学雑誌 第18巻第213号雑録に「甲州駒ヶ岳採集記」を寄稿する。 
                     「日本山岳会の創立と小島烏水君」より 
 屏風岩ヨリ頂上ニ向フ 十二  屏風岩ニ帰ル
 頂上並ビニ其ノ附近ノ植物 十三  下山
 南坊主 十四  帰京
十一  地獄谷 十五  梗概
11月12日「日本博物学同好会 第六回例会」に於いて「日光山のランに就て」を講演する。
    来席者:梅澤・小熊・原・内田・武田・小川・河田・東條
下野日光山及ヒ其ノ附近ニ産スらん科植物ハ松村博士ノ日光植物目録ニ出ヅルモノ二十七種アリ、此ノ目録出版以来十年間ニ於テ新ニ発見サレタルモノ三十余種ニ上レリトテ右全数ヲ列挙シ一々其ノ産スル所ヲ述ベ且ツ標本ヲ示シ又同山目録ニ載レルモノ、二三ニ就テ批評ヲ試マレタリ、而シテ更ニ新発見ノモノ数種ニ就テ詳説シ殊ニとらきちらん及ひあをきらんノ二種ニ就テ其ノ花部ヲ解剖比較シテ終レリ、其ノ委細ハ追テ誌上ニ掲載セラルベシ 
                   「博物之友 二拾四号 明治三十八年一月」より
12月、長谷川泰治が富山師範学校に転居する。(明治41年10月没) 植物学雑誌同年12月号・41年12月号より
1905 明治38年 22
1月、「博物之友 五巻二十四号」に「※1八ヶ岳の高山植物に就て・日本産スミレ科植物目録・熱帯の植物界・雑録 再びヒメウスユキの新産地に就て・日光山におけるイワオウギ・※2ムシトリスミレ日光に発見される」外二篇(ふくじゅさう・支那ニ於ケルはこねぐさノ産地・かんしのぶ東京市中ニ自生ス)を寄稿する。
 また、交詢の項に伊藤圭介著、和装本「日本植物図説 草部初編イ」を照介する。
 資料
(日本植物図説の概説後)
本文五十枚最後ニ学名索引二葉ヲ附シテ終レリ収ムル所ノ植物五十品種往々高山産ノ小灌木ヲモ交ヘタリ今左ニ其ノ名称ヲ抄出セシイイハゼ。イハチドリ。(略)イブキノジカウサウ。タチジヤカウサウ(船来品)此ノ書初稿編ヲ出シタル後不幸ニシテ続刊セズ僅ニ一冊ニ終ルハ甚惜ムベシ。(武田)」
※1八ヶ嶽ノ高山植物ニ就テ(導入部分の全文)
一昨三十六年七月下旬河田君ト共ニ八ヶ岳ニ採集ヲ試ミ山上及ビ途上ニテ得タルモノ約二百種ニ達セリ其ノ紀行並ニ羊歯類以上ノ採集品目録ハ河田君巳ニ本誌二十一号以来ニ連載サレタレバ此ノ旅行ノ路線及ビ山上ノ光景等ハ会員諸君ノ巳ニ詳シク知ラルヽ所ナルベシ只山上ノ植物ニ至リテハ其ノ主ナルモノヽ名称ヲ記セルニ止マリテ盡ク挙ゲス目録ニハ羊歯類以上ノモノハ全体ヲ掲ゲタレドモ一々産地ヲ附記セザレバ何地ニ産スルモノナルヤ明ヲ※1ケリ且又予等ノ新発見ニ係ルモノアリテ新称ヲ附セシモノアレバ名称ノミ知リテ其ノ植物ノ如何ナル者ナルヤヲ知ラザル諸君モ盖シ鮮カラザルベシ殊ニ方今我国ニ於テモ高山植物ノ研究漸ク盛ナラントスルニ当リ未ダ其ノ成書ヲモ※1ケルナレバ予ガ拙(つたな)キ筆ヲ以テ記スル断片的ノモノト雖(いえど)モ多少ノ参考ニモナランカト茲ニ其ノ各種ニ就テ評記スルコトトセリ昨年七月下旬会君早川隆助氏モ亦同山ニ登リ所謂横岳辺迄至リ得ル所鮮少ナラザレシガ如シ其ノ大部分ハ予等ノ採集セルモノト異ラザレドモ予等ノ見ザリシモノ十数種アリタレバ此ニハ之ヲモ収録セリ採集品ヲ検定スルニ際シ誤診アランコトヲ恐レ其ノ大半ハ専門大家牧野富太郎氏ノ考定ヲ乞ヘリ即チ此ニ記シテ其ノ好意ヲ謝ス
左ニ録スルモノノ中新品或ハ此ノ山ニ生ズルモノニシテ他ニ産スルモノト大ニ其ノ形ヲ異ニスルモノ等ノ他一々記相セズ然リト雖(いえど)モ各種ノ産区ハ其ノ分布ヲ知ル上ニ必要ナレバ努メテ蒐録セリサレバ本篇ハ一ノ産地目録ト見エルモ可ナランカ只予ノ浅見ナル其ノ遺漏多キヲ信ズ博識ノ士幸ニ叱正セラレンコトヲ/産地ニ関シテハ多クノ書籍目録等ヲ参考セリサレド煩ヲ避ケテ一々其ノ名ヲ記サズ又洽子ク(あまねく)信州ノ諸高山ヲ跋渉セラレタル田中貢一君ノ教示ヲ俟チシコト大ナリ此ニ記シテ其ノ好意ヲ謝ス本篇ヲ見ラル丶ニ際シ願ハクハ本誌第二十二号ニ於ケル河田君ノ紀行ヲ参照セラレンコトヲ但シ時ニ或ハ重複ノ恐レナシトセズ請ヲ之ヲ諒セヨ
       ※○ ケツ かける 缶+欠の合字か、ここではとしました。 
※1八ヶ岳の高山植物に就て 概略
5巻24号 明治38年1月 導入部(はしがき)・総論・各論・しだ類 ●のきしのぶ科(一、たかねしだ) ●はなやすり科(二、ひめはなわらび)・ひかげのかづら類 ●ひかげのかづら科(三、すぎかづら)
5巻25号 明治38年3月 裸子類 ●まつ科四、はひまつ 五、しらびそ 単子葉類 ●禾本科六、みやまかうばう  以下未確認
5巻26号 明治38年5月   未確認 2015・11・18 保坂記
6巻30号 明治39年1月 ●なでしこ科二十九、いはつめぐさ  三十、たかねつめくさ 三十一、みやまつめくさ 三十二、みやまみみなぐさ ●うまのあしがた科三十三、はくさんいちげ 三十四、つくもぐさ  三十五、みやまはんしゃうづる 三十六、みやまきんぱうげ  三十七、ひめからまつ 三十八、しなのきんばいさう ●けし科三十九、こまくさ  ●十字花科四十、みやまたねつけばな 四十一、ふじはたざほ  四十二、くもまなづな
6巻31号 明治39年3月   未確認 2015・11・18 保坂記
6巻32号 明治39年5月  未確認 2015・11・18 保坂記
※2 「ムシトリスミレ日光に発見される」は「ムシトリスミレ日光白根山に発見される」か 再確認要 2015・9・25 保坂記
  表題は「○むしとりすみれ日光ニ発見サル」であったが、本文は白根山であった。 2015・11・4 保坂 確認済
資料 ○むしとりすみれ日光ニ発見サル(より全文) 
此ノ属ノ植物ハかうしんそうノ外日光ニ産スルヲ知ラレザシガ昨年七月教員養成所生徒同地ニ採集旅行ヲナセシ際日光植物分園ノ望月ト云ヘル人白根山中ニ得タリト云ウ此ノ草ハ其前年田中勝彌氏ノ同山ニ見出セシヲ以テ
※1嚆矢トスト云フ (武田生)      ※1嚆矢(こうし):物事のはじめ
 
 たかねしだ
 原図は、横浜開港資料館 久吉(文書類)) No615−32に収録
 「明治の山旅」 平凡社 P83より



  写真の掲載を検討中
  2014・9・16 保坂






参考 ながばのまうせんごけ、こつまとりさう
原図は、横浜開港資料館 久吉(文書類)) No615−33に収録




1月14日、「日本博物学同好会 第7回例会」に於いて「戸隠及ビ妙高に於ける珍稀なる植物に就て」を講演する。
  来会者:梅澤・小熊・市河・東條・河田・武田・小谷・内田
(略)氏は又トガクシナヅナとミヤマナヅナとの二者を比較し種々相類せる点を挙げて之ヲ全然別種となすは非なることを説き畢竟ミヤマナヅナはトガクシナヅナの一品に過ぎさればその学名を左の如く訂正したき旨を述べられたり
 トガクシナヅナ Draba Sakuraii,Makino.
 ミヤマナヅナ  Dr.Sakuraii,forma sinanesis,(Makino),

3月11日、「日本博物学同好会 第9回例会」に於いて「ゆりわさび及ビわうれんニ就テ」を講演する。     来会者 :鳥山・小川・小谷・小熊・田中五・武田・内田・梅澤・岸田・東
月、「博物之友 五巻二十五号」に「八ヶ岳の高山植物に就て(承前)・日光山のラン植物に就て※1戸隠山及び妙高山植物採集記(河田黙と共筆)・すみれ雑記・熱帯の植物界・雑録 花と虫(三)・アオキ」を寄稿する。
※1戸隠山及び妙高山植物採集記(河田黙と共筆) 概略
5巻25号 明治38年3月  未確認 2015・11・18 保坂記
5巻26号 明治38年5月  未確認 2015・11・18 保坂記
5巻27号 明治38年7月  未確認 2015・11・18 保坂記
5巻28号 明治38年9月  未確認 2015・11・18 保坂記
5巻29号 明治38年11月  未確認 2015・11・18 保坂記
3月25日、ウォルター・ウェストンは二度目の日本滞在を終え、故国へ向けて立することになったが、その四日前、横浜で知り合った四人(小島烏水、岡野金次郎、武田久吉、高野鷹蔵)の山友達をオリエンタル・パレス・ホテルの昼餐に招いて山岳会の設立をすすめる。
資料/明治三十八年、ウエストンは、日本から英国に帰った。その帰航の数日前に、私は岡野、武田、高野の三君と共に、ウエストンを横浜のオリエンタル、パレース、ホテルに訪れた。ウエストンは、繰り返へして、日本に山岳会建設を、諸氏の力に待ってといふやうな意味のことを言はれたが、果して英国に帰国してから英国の山岳会のマム氏、プリストル、ビショップ氏連暑の日本山岳会設立に関する激励の手紙を、寄与せられた。その手紙の全文及びそれに依って山岳設立の決意を固くして、組織に急いだことは、我が「山岳」の創刊号に、書いて置いたから、参照せられたい。  山岳第二十五年第三号 昭和五年十一月 小島烏水 日本山岳会成立まで」より
4月、日本博物学同志会の主催・第一回採集旅行で、日原(原嶋政吉方泊)から雪に埋もれた仙元峠の山越え登山を行う。   「わが山々の思ひ出」・「明治の山旅・日光から尾瀬へ」よりより
    秩父・大宮(関根屋)→別行動(河田・山中・小泉・武田)で妻坂峠(セツブンソウ・キバナノアマナ)
4月1日
(雨天)
飯田町→立川→(ひめかんすげ)→日和田駅下車→(徒歩、多摩川の左岸沿いに)(うぐひすかぐら・たちすぼすみれ・つぼすみれ・あふひすみれ・きけまん・むらさきけまん・たねつけばな・ひめかんすけ・たびらこ・えぞすみれ・のきしのぶ)→澤井(めやぶそてつ・ほそばのかなわらび・やうめんしだ・こすみれ・あかねすみれ・まるばすみれ・あふひすみれ・たちつぼすみれ・きふぢ・あまな・みやまきけまん・かてんさう)→白丸(かららん・いぬしだ・かうやこけしのぶ・かたひば・あぶらちゃん・いはでんだ・ゆきやなぎ・えぞすみれ)→氷川(昼食)→日原川の右岸を北へ(だんかうばい・あぶらちゃん・かたくり・くさのわう・しゅんらん・つのはしばみ・くまわらび・こばのひのきしだ・のきしのぶ・みやまのきしのぶ・びろうどしだ・みつでうらぼし・ほていしだ・つるでんだ・くものすしだ・かたひば・いはひば・たうげしば・ひめとらをしだ・ひめのきしのぶ・ほそばこけしのぶ・うちはごけ・はこねさう・あづまいちげ・あせび)・(山中君発見ときょしだ・ししらん)→日原(原嶋政吉方泊)
4月2日 日原(原嶋政吉方泊)→(しはいすみれ・のびる・かてんさう・こばのひのきしだ・ふでりんだう・むらさきたんぼ・つのはしばみ・だんかうばい・地くり・やどりぎ・あかみやどりぎ・すすき・みづなら・やましゃくやく・くりニやどりぎ)→仙元峠(昼食)(つが・みづなら・ししがしら・だんかうばい・くろもじ・クリニやどりぎ・あかみやどりぎ)→浦山(のきしのぶ・みやまのきしのぶ・きけまん・かうやこけしのぶ)→荒川支流沿いに下る→(はこべ・たんぽゝ・きけまん・たちつぼすみれ・かんすげ・かたくり・あづまいちげ・とうだいぐさ・ひとりしずか・えぞすみれ・いはたがらし・ゆりわさび・片平君の発見、せつぶんさう・きけまん・たねつけばな)影森→大宮(関根屋・泊)
4月3日 大宮(関根屋・泊)→(せつぶんさう・あづまいちげ・やまねこやなぎ・しろばなのえんれいさう・えぞすみれ・つぼすみれ・のびる・せつぶんさう益々多ク・きばなのあまな)→妻坂峠→大宮(昼食)→波久禮→(汽車)→帰京
           武田久吉著「○秩父植物採集ノ記」より行程表を作成する。2015・11・10 保坂記
    同行者:市河三喜・和泉友太郎・石川丈助・鳥山悌成・小川弘太郎・岡見慎二・小谷國次郎・河田黙
          片平重次・田中健太郎・田中五一・武田久吉・内藤堯資・梅澤観光・柳澤秀雄・山中太三郎
          福岡礒次郎・小泉和雄・岸田松若・藤戸信次の20名
  「博物之友第二十六号 会報」より
4月9日、日本博物学同好会第五回総集会が武田氏邸で行われる。
資料 明治三十八年五月号 博物之友 第貳拾六号 会報 第五回総集会記事(の全文)
四月九日午前九時より武田氏邸ニ於テ開会セリ。来会者ハ市河三喜、石川光春、石上定海、原
正三、鳥山悌成、東條操、小川弘太郎、小谷國次郎、小熊捍、河田春男、河田杰、河田黙、帰山信順、高野鷹蔵、田中健太郎、田中五一、武田久吉、竹崎嘉徳、内田清之介、梅澤観光、山田好三郎、山中太三郎、松村巌、牧野富太郎、福田卓、小泉和雄、岸田松若ノ二十七氏ニシテソノ次第左ノ如シ
開会之辞 庶務 小川弘太郎君
会務報告 会計 梅澤 観光君
秩父地方植物採集談        武田 久吉君 本会ノ第一回採集旅行ニ於テ得ラレシ植物ト前年日原ニ遊バレシ当時ノ植物トニ就テ報告セラレタリ。
胡蝶類ニ於ケル擬躰 高野鷹蔵君 (省略)
鉱物採集談 石上定海君 (省略)
昼食
植物学ニ関スル訳語ノ変遷ニ就キテ
牧野先生
訳語ノ必要ヨリ説キ起ノ植物学上ノ訳語ノ起原及ビ変遷ニ就キ種々ノ参考書ヲ示シ説明セラレ更ニソノ可否、誤用等ニツキテ注意セラル丶所アリ次ニ趣味アル古書及ビ貴重ナル古標品ヲ示サレコレコレニツキテ説明セラル丶所アリキ詳細ハ追テ誌上ニ掲載セラルベシ。
植物ノ灰ノ分量ノ割合ニ就テ 帰山先生 省略)
 写真撮影/茶果/図書標品類展覧/右終リテ午後五時散会セル。
 当日ノ出品者及ヒ出品物次ノ如シ。
●牧野富太郎君出品目録
伊藤圭介  泰西本草名疏 三冊 小石川植物園草木目録 三冊
救荒本草 一冊 教育博物館列品目録植物之部 一冊
松本駒次郎 植物啓蒙 三冊 伊藤圭介  植物乾せき法 一枚
松村任三、伊藤圭介 植物小学 二冊 植物学 一冊
天野皎 博物小学植物篇 二冊 植物訳筌 一冊
植物畧解 一冊 宇田川榕庵 植啓原 三冊
百科全書植物生理学 二冊 嶋次郎  文部省新刊小学懸図博物教授法 三冊
百科全書植物綱目 一冊 山口松次郎 文部省博物図教授法 二冊
安木徳寛 植物書 一冊 能勢玄栄 中学植物学 二冊
植物通解 一冊 博物館列品目録 一冊
三橋惇 初学十科全書第八集植物学教授本 二冊 理学入門植啓原訳文(牧野氏訳並ニ自書) 一冊
飜刻植物学 三冊 E.Kaempfer,Amoenitatum Exoticarum.
永田方正  由氏植物学 三冊 (英文・略)
薬圃図纂(写本) 一冊 (英文・略)
植物淺解 一冊 (英文・略)
林娜斯氏植物綱目表 一枚 (英文・略)
垤甘度爾列(ドカンドルレシ)氏植物自然文科表 一枚 (英文・略)
松原新之助 植物綱目撮要 一冊 (英文・略)
松原新之助 植物名称 一班 C.P.Thunberg,Flora Japonica.
丹羽敬三、高橋秀松、柴田承桂、普通植物学 二冊 ノルデンショルト北極探検採集植物標本 二帖
訓蒙図彙 一冊 ツクシスミレ
(Viola diffusa,Ging.)
博物小集(牧野氏手記) 一冊 ハウチハスミレ
(V.dactyloides,Roem.et Sch.)
博物局 博物雑誌 五冊 フイリゲンジスミレ
(V.variegata,Fisch.)
三好学 中等教育植物学教科書 二冊 ミギハガラシ
(Nasturtium amphileium,R,Br.)
岡村金太郎 植物学教科書 一冊
              注 「学」榕庵著の植学啓原の誤植か 検討要 2015・11・7 保坂記
●武田久吉出品目録
G.Kunze,Pteridigraphia Japonica. ハクサンイチゲ類
「コロラド」の写真帖 一冊 カタクリ  一鉢
「コロラド」「ホワイトホーン」鉱、金類採掘ノ写真 三葉 エゾスミレ 一鉢
日本産ナヽカマド類標品 ヤハズマン子(ね)ングサ  一鉢
 次に、河田黙・高野鷹蔵・小熊捍・河田杰・山田好三郎・梅澤観光の順で出品目録の記述がありましたが、ここでは掲載を省略しました。 保坂記
4月10日、「小熊、河田ノ両君ト共ニ牧野氏ニ従テ大塚辺ニ採集セシ時山手線ノ堤ニにほひたちつぼすみれヲ」発見する。  「博物之友 五巻二十六号 植物隨見小録」より
4月16日、神奈川小学校に於いて、日本博物学同好会横浜支部第二回談話会が開かれ、「食蟲植物の話」を講演する。
「食蟲植物の話」、講演の状況(全文)
氏は例の快舌を振って食蟲植物に就て述べられたり塗板上の略図と十数葉の掛図と珍稀なる標本とは一般公衆をして多大の愉快を持ってよく了解せしめたり而も亦普通ありふれたる書物に記載しあらざるの事実多くして此道に経験あるものにも大に利益となると多かりき、先づ食蟲植物なる名称より説き起して『食』なる字の意義に及ぼし遂に此等の植物をが『肉を消化する植物』と称する方適切なりと云はれたり而して本論に入るに際し現今世界に生存する約五百の者を捕蟲の方法によりて三類に分ち
一、瓶嚢を有するもの(外部の運動なし)
二、蟲類の接触によりて運動を起すもの
三、瓶嚢を有せず又運動を起すことなく葉に生ぜる粘体を以て蟲を捕ふるもの
其各類に就て順次に二三十種の植物に就て捕蟲の方法及び消化の状況を詳細に説明し一々demonstrateし又猪籠草瓶子草等の如き者は捕蟲器官のみならず一々の全形を描ける図を掲げて説明の●を捕ひ懇切を極め前後一時間半余聴衆をして少しも倦怠な●らしめしは氏の談の如何に歓迎せられしかを知るに足るべし氏の示されたる標本の内にはナガバノマウセンゴケ、カウシンサウ、ミメコタヌキモ等の珍品ありて殆んど邦産の食蟲草を網羅せしものなり。
氏の講演終りて後来会者一同撮影し再び左の講演あり。

参考 当日の講演者:梅澤観光・高野鷹蔵・小泉和雄・武田久吉・小嶋久太(発表順)
         出品者:小嶋久太・荒川一郎・高野鷹蔵・武田久吉・山中太三郎・左羽麟太郎・小泉和雄
         片平重次・松野重太郎・石井直(記述順)   
  「博物之友第二十六号 会報」より
4月20付、五百城文哉が「採集草の図およびその説明」についての「はがき」を送る。
             横浜開港資料館久吉(書簡) 804 より 内容未確認のため調査要 2015・9・11 保坂記
4月23日、日本博物学同好会の12名が、志村・戸田橋方面に遠足を行う。
上野→赤羽→小豆澤→志村(コノ間、わださう・にほひたちつぼすみれ・しんすみれ等アリ、赤羽附近ノ畑ニつちはんめう、つまきてふノ飛ブ)→荒川沿い→(さくらさう・のうるし・ひきのかさ・しろばなすみれ・やぶえんごぐさ・あまな・ちゃうじさう・はなやすり)昼食・戸田橋→左岸を下る→浮間(みちおしえ・やなぎはむし・きあげは・さくらさう・のうるし・ひきのかさ・みつばつちぐり)→赤羽鉄橋→渡船→赤羽→上野
当日の参加者名:市河三喜・小谷國次郎・河田黙・田中五一・田中美津男・武田久吉
           中野治房・梅澤観光・柳澤秀雄・山中太三郎・増田吾助・岸田松若

       「博物之友第二十六号 会報」より   ※会報の記述者は不明なので注意願います。(保坂記)
5月6日〜7日、巣鴨加藤子爵別邸に於いて山草陳列会が開かれる。
 
    牧野富太郎著「実際園芸増刊号
    高山植物研究の歴史」より
参考 山草陳列会出品目録陳列目録
 カミメサウ、チシマキンバイ、ヒメクモマグサ、イハユキノシタ、ナツノハナワラビ、カッコサウ、ミヤママンネングサ、オホヤマフスマ、エビネ、ヒメクモマグサ、アケボノスミレ、ヒトツバショウマ、キバナシャクナゲ、ユキワリザクラ(白花)、クマガヘサウ、イハヒゲ、アカモノヒメシャクナゲイチエフラン、ハコネサウ、ナンキンコザクラ、リシリシノブ、ハヒズルサウ、タチカネバサウ、ヤマハナサウ、ミヤマミミナグサ、イハカガミ、キバナノコマノツメ、ルリサウ、ヒナザクラ、スズムシサウ、キクバクハガタ、ヲノヘラン、サルメンエビネ、ウルップサウ、ソノエビネ、モイハナヅナ、ムギラン、ゴカエフワウレン(ごかようおうれん)、ヒメスギラン、シリバヤマブキサウ、イチヤクサウ、キングルマ、イハチドリ、クロユリ、チシマフウロ、タニギキョウ、エゾマツ、ヒメイハカガミ、ユキワリザクラ(紅花)、ミヤマクハガタ、タカネツメグサ、ヤマシャクヤク、コケモモ、ツガザクラ、スノキ、シコタンサウ、ハゴロモグサ、キエビネ、コバノツメクサ、ミヅイテフ、ゾタヤクシュ(ずたやくしゅ)、カウシンサウ(こうしんそう)、キミカゲサウ・イハハタザホ、ホソバヤマブキサウ、イカリサウ、アヅマギク(紅、紫、白)、サンリンサウ、ホテイアツモリ、チングルマ、ヒメウラジロ、ヤマガラン、ウチャウラン、ミヤマダイコンサウ、ガンカウラン、イハナシ、イハゼキショウ、フデリンダウ、ハリガネカヅラ、ハナセキシャウ、チャルメルサウ、タカネヒカゲカヅラ、タチクラマゴケ、タイトゴメ、エゾアヅマギク、オホサクラサウ、マンネンスギ、コアツモリ、サンセウヅル、ユキザサ、シラネアフヒ、テンナンシャウ、ミヤマキンポウゲ、ヒモラン、ヒモカヅラ、ヒカゲカズラ、クモマナヅナ、ヒメレンゲ、モミヂカラマツ、ヒキノカサ、ムサシアブミ、キクザキイチリンサウ、コメバツガザクラ、ヒメカラマツ、イハベンケイ、ヒメイズイ、アヲノツガザクラ、イハザクラ、ハマハタザホ、ベニバナイチヤクサウ、ミヤマタネツケバナ、コイハザクラ(紅、淡紅)、ミヤマカタバミ、オホバキスミレ、タカネスミレ、フヂスミレ、サクラスミレ、ニッカウスミレ、シンスミレ、フモトスミレ、マルバスミレ、イシモチサウ、ハルリンダウ、コケリンダウ、コマウセンゴケ、イハウメ、ヘビノシタ、バイクワイカリサウ(ばいかいかりそう)、ハヒマツ、オサバグサ、オキナグサ、カヤラン、クモノスシダ、ウンラン、ゴゼンタチバナ、エンレイサウ、シロバナエンレイサウ、イソツツジ、チゴユリ、
ワチガヒサウ、サンカエフ、ミツバコンロンサウ、スミレサイシン、エゾスミレ、シハイスミレ、エヅイヌナズナ 
  
           考察 武田博士が今会の山草陳列会に出展されたかは不明なため 検討要 2015・3・24 保坂
           「こうしんそう」は特に注意 5月13日に関連あるか検討要 2015・11・10 保坂記
5月13日、日本博物学同好会第十回例会に於いて「かうしんさうに就て」を講演する。
 来会者:市河三喜・石川光春・原正三・東條操・小川弘太郎・小谷國次郎・川上瀧彌・河田黙・片平重次・高野鷹蔵・武田久吉・竹崎嘉徳
       内田清之介・梅澤観光・山田好三郎・福田卓・小泉和雄・岸田松若ノ十八名

参考資料 、「博物之友 五巻二十六号 会報 P230」より
(略・上記の続き)岸田松若ノ十八名ニシテ午後六時過散会セリ尚当日ハ河田、武田両君ノ出品ニ係ルこみやますみれ、さんりんさう、きみかげさう、みやまくはがた、
かうしんさうノ生品ヲ陳列シタリ。当日左ノ四席ノ講演アリ。(略)
  かうしんさうに就て  武田久吉君
氏ハ此草ノ花ヲ有スル生本ヲ示シ此ガ産地、種子散布ノ法、捕蟲ノ法等ヲ簡単ニ述ベラレタリ、散布ニ関シテハ本誌第二巻第十四号ニ同氏其ノ大要ヲ述ベラレタレバ略シテ捕蟲ノ法ニ関シテ略記スベシ此ノ草ハ葉面並ニ花梗上ニ腺毛アリテ盛ニ粘液ヲ分泌スルヲ以テ小昆蟲ノ触ルヽアレバ直ニ粘着サレテ又逃レ去ル能ハズ而シテ蟲ノ附着セル部分ハ粘液ノ分泌更ニ盛ニシテ終ニ蟲体ヲ消化吸収スルナリト。氏ハ尚むしとりすみれノ捕蟲法ニ説キ及ボシテ曰ハク、むしとりすみれガ葉ヲ以テ虫ヲ捕フルヤ腺毛ハ盛ニ液ヲ分泌シ而シテ其ノ溢ルヽヲ防ガン為メ葉緑特ニ反巻ストハ諸大家ノ説ク所ナレ
欧州ニテハイザ知ラズ日本産ノ者ニハ此ノ現象ハ顕著ナラズ葉ハ蟲ヲ捕ヘザル時ヨリ其ノ縁反巻スルモノニシテ捕蟲後モ特ニ巻キ上ルヲ見ズ若シ又葉縁ヲ超エテ溢出スル程液汁ヲ出スハ葉端並ニ葉脚モ葉心ヨリ高マラザレバ両端ノ何レカヨリ流出スベク殊ニ岸壁ニ生ゼル者ニオアリテかうしんさうノ如ク葉ハ水平ニ展開サルヽコトナク傾斜シテ生ズルヲ以テ如何ニ葉縁ヲ反巻スルモ液汁ハ流出スベキナリト。
5月18日、小熊捍、「スミレの種類につき問合せと、札幌周辺の植生につき報告」の「絵はがき」を送る。
検討要/高野洋子著「ヒナスミレを発見した小熊捍(まもる)先生」に同年4月1日、日原採集旅行の記述あり、上記「絵はがき」にヒナスミレの発見に関する事項が、もしかして含まれているかと思うので「横浜開港資料館久吉(書簡) 868 」の内容確認が特に必要            2015・9・13 保坂記
5月、「博物之友 五巻二十六号」に「シロバナノヤハズエンドウ・八ヶ岳の高山植物に就て(承前)・戸隠山及び妙高山植物採集記(承前)(河田黙と共筆)・北米の春草(完)・熱帯の植物界・雑録 クモマグサ果たして八ヶ岳に産するか」他十三編(武州御嶽山ニ於ケルいはなんてんトるゐえふぼたんノ所在地ノ位置ニ就テ・植物似而非類聚(一)・再ビ日光山ノいはわうぎニ就テ・対馬植物誌ニ追加スベキ植物・日本産えんれいさう属ノ三種・Artemisia sinanensisノ新産地・桜草色・Lilac colour・ねもとしゃくなげ・ひめうめばちさうノ新産地・いちげノ意義・ひんじノ名義・むらさきかたばみ・日光山ノらん科植物追報・植物隨見小録)」を寄稿する。
 また、同号「交詢」の項にガルケ著「独逸植物誌(Garcke,A.−Illustrierte Flora von Deutschland.19.Auflage,Berlin 1903.kl.8 Lwbd.M.770 Fig.)」を紹介する。
ガルケ著「独逸植物誌」紹介文の一部
(略)一年草ノ越冬スル者ト然ラザル者トノ記号ニ就テ厳密ニ其ノ区分ヲ説キタリ次に林娜リンネ氏二十四綱ヲ述ベ属ニ迄及ビテ各其ノ特徴ヲ記シ(一乃至七十二頁)更ニ十四頁ヲ費シテ自然分類ニヨリ独逸ニ産スル各科ノ性質ヲ略記シ之ヲ検索的ニ掲ゲタリ此ヨリ彌々本文ニ入ルモノニシテ頁ヲ更メ索引ト合シテ七百九十五頁うまのあしがた科ヨリのきしのぶ科マデ一百二十科七百十七属二千六百十二種ノ植物ヲ記述シ挿ムニ(略)
  参考 「福島県植物誌(1987) 福島県植物誌編さん委員会)」の文献目録に、「博物之友 五巻二十六号 5:149〜150」に「Artemisia sinanensisの新産地・ひめうめばちさうの新産地」の記述あり
5月、高尾山採集遠足会に参加、コアツモリソウを目にする。 「明治の山旅・日光から尾瀬へ」より
6月、武州久良岐郡森村海浜の荒地に於いて「あれちぎしぎし(新称)」を発見する。
              明治39年5月、「植物学雑誌20巻232号 あれちぎしぎし(新称)」より
6月29日、梅沢親光(ちかみつ)と日光・丹青(たんぜい)(オオバギボウシ(方言ウルイ))へ登山を行う。
6月30日、帝大植物分園の望月直義を誘い7回目の女貌山を行う予定であったが天候不順のため不参加となり、二人で登山を続ける。 「明治の山旅・日光から尾瀬へ」より
  行者堂→檜ヶ田和→殺生石→稚児ヶ墓→寂光石→白樺金剛童子の小石祠(ソウシカンバ)→七瀑の拝所→筥石(はこいし)金剛(コメツガ・ミツバオウレン・コセリバオウレン)→唐沢の破れ小屋→下山
7月、「博物之友 五巻二十七号」に「戸隠山及び妙高山植物採集記(承前)(河田黙と共筆)・ホバコゴメグサ(新称)に就て・ホツツジの二品・熱帯の植物界・雑録 秩父植物採集ノ記」を寄稿する。
         バコゴメグサ(新称)→ソ ではないか検討要 出典元:武田久吉著作展 S47 2017・3・29 保坂
        参考 また 国会図書館は「博物之友 五巻二十七号」を所蔵せず
7月6日から5日間、日光〜湯本〜金精峠〜戸倉〜尾瀬へ植物採取旅行を行う。
日光〜湯本(泊)〜金精峠(コメツガ・カモメラン・ラセウモンカズラ)〜菅沼〜一ノ瀬(バイクヮウツギ)〜東小川・東翠館(泊)〜蛇倉峠〜閑野〜戸倉・たまき屋(泊)〜アテ坂〜鳩待峠〜山ノ鼻〜尾瀬ヶ原に吐き出された時(コツマトリサウ・タテヤマリンダウ・キンカウクヮ)〜尾瀬平を走るように〜(ヒツジグサ・ネムロカハホネ・ハッチャウトンボ・イトトンボの珍種)桧枝岐小屋(泊)〜白砂の湿原(イハカガミ・キヌガササウ・白砂川にイメバチモ・ヒアフギアヤメ)〜沼尻平(ナガハヤナギ)〜清水俣〜三平の上り(エゾムラサキ・シラタマノキ・アカモノ・アスヒカズラ)〜三平坂を南に下る〜船河原鉱山事務所〜中ノ岐澤〜片品川(トチ・ブナ・ミズナラ・カヘデ)〜野営(泊)(トチノキ・アスナロ・オホレイジンサウ)〜四郎嶽の東肩らしい(ネマガリダケ)〜丸沼の奥の湯澤〜大尻沼〜一ノ瀬〜金精峠〜湯本(泊)〜日光 「初めて尾瀬を訪(おとな)う 」より
 尾瀬でのスケッチ  横浜開港資料館所蔵武田博士山手帳より
    
尾瀬ニコユル峠ノ堺ヨリ西ニ笠科山ヲ望ム     ・・・至仏山ヲ望ム        尾瀬湖畔ヨリ北々西ニヶ岳ヲ見ル  
初めての尾瀬の印象(一部)
(前略)再び沼尻平の湿原、次に樹林、復も押出しの湿原。それから大入洲迄は湖畔に沿って、ナガハヤナギの根に足を托し、波に漂ふ鮒の死屍を踏み越え(踏み越え)、幾度泥棒に足を奪はれたことか。そして又も密林に入り、浅湖の湿原を横切り、更に森林を横断して清水俣に出て、間もなく縣道に合してホット息を吐いた。
 何といふ変化に富む植物景! そしてまた何といふ美しい風景!! 単に「珍品を蔵するに止まらないこの宝庫!!!」 私は唯々驚嘆してしまった。拙
(つたな)い筆では到底写すことは出来ない。(後略)
            機関紙「山岳」 の創刊号に尾瀬紀行、「初めて尾瀬を訪(おとな)う (「尾瀬と鬼怒沼」昭和5年)」より。
金精越え記述の一部分より  P128
金精越えはいつも二時間、上がり一時間半で下りが半時間であるが、重荷のため手間がかかった。金精沢沿いの径は、コメツガの巨木に交じって、ウラジロノキやオオカメノキがあり、それらの根元にはゴザンタチバナやマイズルソウがある。一時間ほどで、峠の名の起りである金精神社に来た。往年の暴風雨に破れた小祠は近頃修理されて新しく、神体は男茎形に刻まれた石像で霊験いやちことか。
 ここから更に二キロほどで頂上。時に十時四十分。東方の眺望極めて佳。今では頂上に金精神社を建て、かって見たところによると、三位一体の神体を祀ってあったが、これは古来のものではなく、最初のは金剛童子の祠に金精大明神を祀ったものだと聞く。ここで高山甲虫の一種であるミヤマハンミョウを見た。西面もまたコメツガの密林で眺望はないが、下り切れば右に菅沼が展開し、湖畔を清水と呼ぶのは、小流木の在るに由るか。

               「明治の山旅・日光から尾瀬へ」より
この頃の、尾瀬旅行について
(略
三十八年七月六日、日光の湯元を発し、金精峠を越して先づ上州に足を入れたのであった。今のやうに、バスが有るので無くとも、完全な地図があり、道程が判然としてゐるなら、その日に戸倉迄脚を伸ばせたのを、輯製二十萬といふ怪し気な地図しかなかった為め、案内兼人夫に傭った宮川の勝といふ狡猾な男の言に乗せられて、上小川の穢苦しい宿に投じ、翌日は馬に荷をつけて戸倉に達し、此処で人夫雇傭の為めに一日費してしまった。戸倉は片品村最奥の部落で、戊辰戦争の時焼き払はれた上に。生産物も碌に無いといふ気の毒な寒村。折悪しく養蚕で血眼になっている時とて、人夫に出ようといふ者は一人も無い。玉城屋の先代萩原甫作が奔走の結果、職業が猟師といふ処から、養蚕をやらない萩原喜一と、越後から出稼に来てゐた欲張爺の何とかいふルンペンを、五六十銭が相場であったその当時、二円づゝの日当と湯元の宿泊料とを支払ふならといふ、虫の良い要求を容れて引連れることゝし、笠科川に沿うて溯り、その日は原を横断し、東端丈堀の傍で、桧枝岐の釣師の掛けた掘立小屋に雨露を凌ぎ、翌日は燧ヶ岳の裾を廻って尾瀬沼に達し、更に湖岸に沿うて県道に出た。その間は道路らしいものは全く無くて、釣師の踏跡を拾って辿るのであるから、或時は股迄浸って渓流を徒渉し、或時は笹藪に阻まれ、又或時は泥濘に足を奪はれたり、隠れた倒木に向脛を払はれて(てん)倒するなど、名状す可からざる困苦に遭遇したのであった。(略)  S15・9 「山と渓谷 再燃の尾瀬ヶ原貯水池問題」より
7月、上記、尾瀬への植物採集旅行に於いてシロバナヒメシャクナゲ(Forma leucanta Takeda)を発見する。
7月7日、小島烏水が、「日本山水論」を「隆文館」から刊行する。
参考/「日本山水論」といふ本を書いたときに、序文に「友人武田久吉氏が、植物標本を、高野鷹蔵氏が、胡蝶標本、及び右に関する材料を貸与せられたるを徳とす、二氏年齢少うして、きはめて篤学の士、居常、余の二氏に負ふところ多し」と書いたが、今となっては、高山植物の権威なる武田博士や、小鳥の会の創立者、鳥類の恩人、高野君などを、少年扱ひにしたやうに取れるのは、全く済まない気がする。武田君等は、当時中学生であったかと思ふが、「博物之友」なる雑誌を発行し、種々科学上の新見を発表せられてゐた。
                 「山岳第二十五年第三号 昭和五年十一月 小島烏水 日本山岳会成立まで」より
7月7日、山岳会設立の件で、高野鷹蔵、梅沢観光、河田黙の三名が小島烏水の紹介状を携え、本郷西片町の高頭仁兵衛家を訪ねる。(注意:武田博士は尾瀬探険旅行の最中のため、この時は不参加)
7月中旬、梅沢観光からの連絡が入り高野鷹蔵、市河三喜と一緒に、高頭家を訪ねる
7月20日、「植物学雑誌19巻222号」に「ほそばこごめぐさ(新称)ニ就キテ」を寄稿する。
8月、「博物学雑誌 6巻61号 動物標本社」に「ホソバココメグサ(新稱)に就て」を寄稿する。
                       内容未確認のため調査要 2017・4・9 保坂
8月1日〜4日、大宮口から吉田口に下る富士登山を行う。 「甲斐の権現岳」より
1日 「東京から大宮まで」
川→御殿場→鈴川→(鉄道馬車)→大宮→(池中にウメバチモ)浅間神社・桜屋(泊)
2日 一合目まで」
(オカメザサ・ハグロソウ・コマツナギ)→粟倉(カセンソウ・チタケサシ・オヌガヤ・タチフウロ・オミナエシ・オニドコロ・ホタルソウ・コウゾリナ・ナルコビエ・クルマバナ・キツネノカミソリ・ホタルブクロ・タカトウダイ)→村山・浅間神社境内(イチョウ・ゴンズイ・エノキ・ホウノキ・カキ・ニシキギ・ミズキ・アブラチャン・タママジサイ・モウソウチク・ハコネダケ・ソクズ・ダイコンソウ・チタケサシ・ハグロソウ・アカソ・キツネガヤ・エイザンスミレ・バライチゴ・タチコゴメグサ)札打(ふだうち)→細紺野(ほそこんの(ウスユキムグラ・ホソバノヨツバムグラ)八幡堂(タテヤマギク・キンレイカ・ヤマトウバナ・オオカメノキ・ノリウツギ・ゴンズイ・ヒロハツリバナ・コイチョウラン・ヤマトウバナ・ツルシロカネソウ・コバノイチヤクソウ大樅(おおもみ)(グンナイフウロ・トンボソウ・ホソバノキソチドリ・フジハタザオ・コケモモ・モメンズル・ムラサキモメンズルミヤマオトコヨモギ・グンナイフウロ・シモツケ・イワシモツケ・ハナヒリノキ)一合目小屋(泊)
参考 採集を終えた日の夜なべ作業
 (略)一合目は海抜約2000メートル、亜高山帯の中部以上に位し、小屋は木造で広く、床も高く、飲用水や薪炭もやや豊富だし、宿泊者も少なく、採集品の圧搾には好都合である。怪し気な夜食を済ませてから、この日の採品を処理し終わって、毛布に身を包み、穢げな布団に横たわったのは、十時頃であった。小屋番らと剛力は、客に販ぐべき菓子を食いながら何やら勝負事に余念ない様子であった。
 
頂上に向かう
 三日、衾(ふすま)を蹴って起き出たのは午前二時二十分であった。炉の火を盛んにして体を温めながら、出発の準備に音を立てると、小屋番も目をこすりながら起きて来て、朝食を調え始めた。圧搾板を締め直して毛布に包んで行李に収め(た。略)
                  「明治の山旅・富士山を跨ぐ」P166 より
3日 「頂上に向かう」
一合目小屋(トウヒ・カラマツ・クルマユリ・グンナイフウロ・ハナヒリノキ・タカネバラ・コケモモ・オンタデ)→三合目(イワオウギ・オンタデ・フジハタザオ・ミヤマオトコヨモギ)→五合目(葡匐形のカラマツ)→六合目→(オンタデ)八合目→(オランダタデ)九合目
表口頂上
「お鉢回り

浅間神社奥宮参拝→コノシロノ池→剣ヶ峰→野中氏の旧跡→(時間調整)→銀明水→東賽ノ河原→勢至ヶ窪→阿弥陀ヶ岳(俗:伊豆ヶ岳)→初穂打場(俗:大日ヶ岳)→薬師ヶ岳(俗:久須志ヶ岳)→金明水→西賽ノ河原→剣ヶ峰の下コノシロノ池→本社奥宮→(時間調整)剣ヶ峰→大沢の頭→雷岩→釈迦ノ割石→薬師ヶ岳の茶店北口頂上
「下山
北口頂上
七合目(イワツメクサ・オンタデ・イワシモツケ)→砂払いの茶屋→五合目(ミヤマハンノキ・ダケカンバ・タカネバラ・ナナカマド・シロバナノヘビイチゴ・イワスゲ・コタヌキラン・ミヤマオトコヨモギ・フジハタザオ・コメツガ・トウヒ・カラマツ・シラビソ)→三合目→二合目→馬返し(泊)
4日 馬返し(ナデシコ・イヌゴマ・タチコゴメグサ・イブキボウフウ・ハナハタザオ・オミナエシ・タチフウロ・ウツボグサ・コマツナギ・ワレモコウ・カワラマツバ・カセンソウ)→中ノ茶屋→上吉田→(鉄道馬車)→大月
  この植物調査登山の詳細は「博物之友」の「富士山を越ゆるの記 上・中・下にも記述されていました。 2015・7・9 保坂記
8月5日、武田博士→小島烏水宛てに、富士登山での様子をハガキで伝える。
資料 小島烏水著「すたれ行く富士の古道 村山口のために」より
(略)武田久吉博士が、未だ一介の学生たりし青年時代に、私のところへ寄せられた冨士便りのハガキをたまたま見つけ出したから、左に援用する。村山口経由の登山である。日付は明治三十八年八月五日で、日本山岳会成立以前のことである。/「去る一日、東京発。大宮町に一泊。二日、曇天、強て登り候処、札打辺より霧に遭ひ天照教より雨にぬれ候、同夜は一合目に宿泊。三日、一合目を発して頂上に登り内輪、外輪を周り、雲と風とを経験し、吉田口に下りて馬返に一泊。翌早朝、吉田に至りて馬車に乗じ、大月より汽車にて、午後三時半無事帰京仕り候。路の安易なると、剛力の弱きときは、洵(まこと)に予想外にて候、昆虫は殆ど零、植物は丁度好機にて、種々採集することを得候。」(略)  参考 同内容、深田久弥編「富士」の中にも所収してあり 2017・4・22 保坂
8月8日、片平重次と八ヶ岳の一峰、権現岳に植物採集登山を行う。 
  飯田町→日野春→大八田(ミヤコグサ・カワラザイコ・コウゾリナ・イヌゴマ・ナンテンハギ・オカトラノオ) →大泉村谷戸(泊)→西井出→鬼窪口(イブキジャコウソウ)→材木尾根(キキョウ・カワラナデシコ・コウリンカ・ウツボグサ・コウゾリナ)→(シモツケソウ・ツリガネニンジン・キキョウ・カワラナデシコ)イゲー水(ヤマオダマキ・マツムシソウ・ウスユキソウ・ヒメシャジン・キバナノカワラマツバ・コメツガ)→前ノ三ツ頭→中ノ三ツ頭→奥ノ三ツ頭(権現岳頂上・オオビランジ・セリバシオガマ)→谷戸(泊)そのまま信州へ
                          「甲斐の権現岳」より
8月10日、第一回目、白馬ヶ岳登山を上諏訪牡丹屋で河田黙と合流、そのまま登山を続行する。                「明治の山旅・白馬ヶ岳」より
大泉村谷戸→富士見円太郎馬車上諏訪・牡丹屋(泊)→塩尻峠→明科・池田(泊)→四ツ屋・山木屋(泊)→白馬山(12泊)→帰京8月30日。  信州白馬山麓において「ムラサキボタンヅル」を、また佐野坂で5個の「子嚢穂」を持つ「ひかげのかづら」を発見する。  「博物之友」明治39年1月号 「○ひかげのかづら」より 
10日 大泉村谷戸→富士見円太郎馬車上諏訪牡丹屋(泊)
11日 牡丹屋→(徒歩)→塩尻峠→赤科駅下車→池田町・吉野屋(泊) 
12日 池田町→(徒歩)→大町→中綱湖→簗場(西田要蔵宅で中食)→青木湖→飯森(雨がまたはらはらと降りかかる。・サワギキョウ)→北城村字四ツ屋・山木屋松沢貞逸方(泊)(細野の丸山常吉に連絡し白馬登山準備)  
13日 山木屋→降雨のため出発延期(泊)
14日 山木屋→降雨のため出発延期(泊)
15日 山木屋→細野(キキョウ・オミナエシ・オトコエシ・マツムシソウ・ミヤコグサ・コマツナギ)→二股(エゾユヅリハ・アスヒカズラ)→沼池(ミズバショウ・ザゼンソウ)→中山ノ沢→(ブナ・ネマガリダケ)→猿ー(さるくら)(ハイイヌガヤ・エゾユズリハ・ネマガリダケ・タマガワホトトギス・ナライシダ・タケシマラン・トチバニンジン・サンカヨウ・オオレイジンソウ・オニシモツケ)→長走沢(オオイタドリ・オニシモツケ・ジャコウソウ・ヤグルマソウ・エンレイソウ・キヌガサソウの大群落・カツラ)追上沢(おいあがさわ)小川草魚先生に出会う→中食→白馬尻→葱平(ねぶかびら)(シロウマアサツキ)→破れ小屋(泊)
16日 破れ小屋(ムカゴユキノシタ・イワブスマ)→頂上附近(シコタンソウ・ツクモグサ・ヨツバシオガマ・タカネシオガマ・ハクサンコザクラ・チシマアマナ・コマクサ・ハイマツ)→改築後の小屋(泊)
17日 改築後の小屋・風雨止まず、出られず(泊)
18日 改築後の小屋・風雨止まず、夕方頂上附近→改築後の小屋(泊)
19日 改築後の小屋杓子裏(ハイマツ・アオノツガザクラ・ハクサンコザクラ)→槍ヶ岳の西北麓の細流の傍(ジンヨウスイバ・ミヤマハタザオ・ミヤマオダマキ・ミヤマアズマギク・ウメハタザオ)→槍ヶ岳と杓子ヶ岳の小さな盆地・中食※クモマベニヒカゲ(蝶)→槍ヶ岳の頂上近くから北西にかかる細長い残雪(ウルップソウ・イワベンケイ・タカネシオガマ)→槍ヶ岳→改築後の小屋(泊)
参考 クモマベニヒカゲ発見の時  ※クモマベニヒカゲ(蝶)
クモマベニヒカゲ?何といふ呼びにくい名だ? と。去る人から抗議を申込まれたことのあるこの可憐な高山蝶。この名は明治三十八年(西暦1905年)の九月に、実のところ私が考へて提案し、高野鷹蔵君が採用して発表したのであるが、何も発音の練習の為めに、故らに言ひにくい名を選んだ訳では、毛頭ないのである。(略)/その(八月)十九日のことである。鑓裏に着いたのが午前十一時。一とわらり植物を見まはしてから、乱石の上に腰を下して中食を始めた頃、フト、花の間を飛び廻る小さい蝶を認め、例の捕蟲網を張って追ひまはし、捉へたのが、見なれぬこの蝴蝶。その後、二十七日下山の当日にも、大雪渓の中途でも捕獲し、慥(たし)か東京迄持帰ったのは総てゞ三四種はあったと記憶する。(略)
           「山 第一巻第八号 雲間紅日影の追憶」より
20日 改築後の小屋風雨止まず、出られず(泊)
21日 改築後の小屋風雨止まず、出られず(泊)
午後1時半頃、二名の人夫が村の使者として登り来る。
  (白馬岳騒動:詳細は1966年11月 日本山岳会々報 257号 白馬岳初期登山者・その外V)
22日 改築後の小屋風雨止まず、出られず(泊)
23日 改築後の小屋曇天で霧が飛んでいる広太郎と葱平へ改築後の小屋(泊)
24日 改築後の小屋旭岳との鞍部に下る(イワイチョウ・ハクサンコザクラ・ヨツバシオガマ)→旭岳・塩頭(ショウズ)頂上→改築後の小屋(泊)夕方からまたも雨
25日 改築後の小屋・雨と風のため、出られず(泊)
26日 改築後の小屋・雨と風のため、出られず(泊)
27日 改築後の小屋・下山の準備→氷河の遺跡の巨岩(タテヤマウツボグサ・カライトソウ・(チシマセンブリ→タカネセンブリ))→白馬尻→猿ーの岩屋→中山(トガクシショウマ)→二俣ムラサキボタンヅル→四ツ屋・山木屋(泊)
28日 四ツ屋・帰京準備・山木屋(泊)
29日 山木屋(マツムシソウ・オグルマ・ツユクサ・サワギキョウ)佐野坂ヒカゲノカズラ・ミズゴケ・モウセンゴケ・コゴメグサの一品・キンコウカ)大町・対山館(中食)→池田町→明科・明科館(泊)
30日 明科・明科館(篠ノ井線)→軽井沢→上野

山上の破れ小屋と六名の人夫 「明治の山旅・白馬ヶ岳」より
参考 山岳荷物の内訳
 ここで人夫達は荷を整理し、山中での食として、白米一斗を加えた。その他の食料として、固形味噌、醤油エキス、梅干、千瓢、椎茸、白子干、焼麩、味付海苔、お多福、鰹節、桜鰕、葱、馬鈴薯、砂糖、スターチ、ビスケット、果物缶詰のごとき物で、従来の経験から、肉類の缶詰は特に省いた。そのほか、薬品数種、ナイフ、フォーク、匙、缶切り、針金、西洋ローソク、アセチレン灯、火縄、捕虫網、宝丹万福、万年筆、糸、紙、マッチ、鉛筆、金かんじき、手拭、小刀、楊子、小楊子、歯磨、石鹸、鏡のごときは申すまでもない。(略)
            
「明治の山旅・白馬ヶ岳」 P200より

「植物学談義 野菜と山菜 発行S53・9 P44 」より
 (略)始めて白馬ガ嶽に登った時ー明治三十八年の夏ー 味噌汁の身にとて人夫が歯朶(しだ)の若葉を採って来た。俗称を「たけわらび」と呼ぶという。それには黒光りのする鱗片が着いていたので、みやまめしだだろうとすぐに推定できた。
 歯朶の類で昔から食用になるのは、わらびとぜんまいであるが、そのほか、くさそてつの若葉のまだ開かぬものもなかなかに味がよい。そしてその姿からこれをこごみまたはこごめと呼ぶのも面白い。近年やまどりぜんまいも諸方で食用に供するようだが、それを葉形からひのきぜんまいと呼んだり、かくまと称したりして、俗称は一定していないらしい。またかくまとよばれる歯朶もこれのみに限らないで、土地によってはりゃうめんしだをかく唱える。そしてこの方は食べる代わりに、成熟した葉を干して尻拭いに用いるのである。
(略)
   この年頃の、登山については、「原色日本高山植物図鑑 私の経験 8・尾瀬と白馬(附り 富士山と権現岳)に詳し 2014・7・22 保坂記
8月18日、白馬槍ヶ岳でタカネソモソモ(イネ科)を発見、採取する。国立科学博物館蔵(TNS−01005687)
学名;Poa? nuda Hack.ex Takeda
ウシノケグサ属として取り扱う場合の学名 Festuca nuda(Hack.ex Takeda) Koba,H..Ikeda & Yonek.
The Joumal of japanese Botany Vol 93 No 5 池田博・木場英久・米倉浩司「タカネソモソモ(イネ科)の学名とタイプ選定」より
注 大井次三郎著「東亜植物資料(W)」の摘要欄にタカネソモソモを「東京植物學雑誌二十四巻百十二頁に発表せられたのが初めである。」とあったが 内容未確認 2019.8.30 保坂
9月、「博物之友 五巻二十八号」に「戸隠山及び妙高山植物採集記(承前)(河田黙と共筆)・熱帯の植物界・雑録 サクラソウの新産地」他三篇を寄稿する。
9月10日、高野貞助が、上野国館林附近の沼池で、むじなもを採集する。
9月23日〜25日、日本博物学同志会の12名が相州塔ノ岳に登山を行う。山頂には午後5時55分に到着したため、下山は案内人と共に小田原提灯一つを持って翌朝午前2時松田駅前の宿舎・富士見屋に到着する。  「日本山岳会の創立と小島烏水君」より  (参考 10月14日の項と一部重複しています)
  (塔ノ岳の山頂には)、ウメバチソウとことにウスユキソウの大群落は瞠目に値する光景であった。
                          「明治の山旅・塔ノ岳」より
高さ三丈の黒尊仏
(略、明治38年9月24日に、)汗を拭き拭き無茶苦茶に、登って行く内に破れた小屋跡と不動尊の石像のある水場に出た。それから僅でハッキリした小径に出遭い、それを少し左に行くと、目の前に高さ三丈もあろうかと思われる黒尊仏が立って居た。諸士平を出てから四時間近くを費した沢である。
 黒尊仏は高さ五丈八尺ばかりといわれ「其形座像の仏体に似たり、故に此称あり」と古記録にある。此の石に雷穴という穴があって、それは雷神が棲んで居たといわれる。旱魃の時には山麓の村人は、竜の形物を造り、幾本かの長旒を押し立て、鐘や太鼓を鳴らし、懺悔懺悔六根清浄を唱えながら、三里の難路を塔の嶽に押し上り、彼の雷穴に石や木を投込んで、雷神を怒らせると、忽
(たちま)ち豪雨が降ると信じられて居た。又この「岩上に生ずる苔を上人お衣と称し、虐疾を煩う者あれば、是を取って煎じ用うれば必ず効験あり」などとも謂われて居る。
 一行は石の高さを測ったり、お衣なる苔を採集してその何なるかを確かめたり、写真を撮影したりなど、いろいろな欲深い計画を持って居たが、時刻の遅い為皆それを後日に延す他なかった。その後幾年かを経過しても、それを実行する機会を持ち得ない内に、大正十二年の震災に、尊仏石は金沢
(かねざわ)の谷深く埋もれてしまい、あたら名物が永久に失われたことは、返す返すも遺憾である。
                     
 雑誌「山と渓谷」昭和26年4月号「四十年前の丹沢を語る」より
塔ノ岳登山に於ける参考資料
 1905年には学生時代の武田久吉が、玄倉川を経て塔ノ岳に登り、イワシャジン(MAK086424)を採集(9月24日)し、牧野富太郎が新種として武田氏に献名、記載している(Makino、1906)。丹沢をタイプロカリテイとする最初の植物である。武田はこのときの山行が丹沢の学術的登山の嚆矢であると記している。
                                   
イワシャジン
       
「丹沢大山自然環境総合調査報告書(神奈川県・環境部) 第7章 植物相とその特色 P544」より 
            参考 赤字は牧野標本館に保管されている標本番号です。
   ※嚆矢(こうし):ものごとの始まり。
10月12日、コゴメグサ採集のため伊豆・岩戸山に登る。




新橋駅→(ノコンギク・アキノキリンソウ・マツムシソウ・)国府津→小田原(徒歩で海岸→ハマヒルガオ・オニヤブマオ・ホラシノブ・カンシノブ・オニヤブソテツ・コモチシダ・ホシダ・コブナグサ・ツボクサ・アキノノゲシ・ヤクシソウ)→石橋村(人家にナギ・モチノキ・ツバキの巨樹・オニヤブソテツ)→米神村(マダケ・イタチシダ・フモトシダ・コモチシダ・カンシノブ・ホラシノブ・イノデ・カニクサ・イタビカズラ・アリドウシ)→根府川(シロダモ・キブシ)→江ノ浦・吉浜・千歳川を渡って泉村(ホトトギス・キブネギク・タマアジサイ・センブリ・ウメバチソウ・シラヤマギク・ヤマラッキョウ・シオガマギク・コシオガマ・コゴメグサ)→岩戸山頂上→日金道三十五丁目→日金山・地蔵堂→湯河原(泊)→十国峠→箱根→小田原→帰京   明治の山旅・岩戸山に登る」より
     
     明治38年、伊豆の岩戸山で、著者によって発見されたコゴメグサ属の一種で生品から描いたスケッチ、
        後、イズコゴメグサ(Wuphrasia idzuensis)と命名して明治43年7月に発表した。

     
「明治の山旅・岩戸山に登る」の説明文(P238)より 「横浜開港資料館所蔵 山日記」より
10月14日、日本博物学同志会の第十三回例会が開かれ市河三喜、小谷国次郎、河田黙、高野鷹蔵、田中健太郎、田中五一、武田久吉、内田清之助、梅沢親光、福田卓、北沢基幸、岸田松若の十二名が集まる。その席上、高野は9月24日に玄倉川を遡った塔ヶ岳採集登山(12名・先達は南多摩郡由木村の竹内富造)の報告を行い、散会後、高野と武田、梅沢、河田の四人が、飯田河岸の富士見楼で、小島、城、高頭と合流、「山岳会」の設立について話し合う。運営の実務、財政、会員獲得と宣伝や『山岳』刊行のことなど、最終的な打ち合わせを行う。  
市河三喜著「私の博物誌・「博物之友」」より
(略)
最後に序ながら記しておくが、今日隆々たる勢力をもっている日本山岳會も實は日本博物學同志會の支會として明治三十八年出發したもので、英人「日本アルプス」の著者ウェストンの慫慂により武田久吉、高野鷹蔵氏等同志會の幹部と先輩小島烏水、高頭式、城数馬氏等とが協議して創立したものである。(昭和三十年) 
10月20日、「植物学雑誌 19巻 225号」に「日光山らん科植物小目録」を寄稿する。
    注意 博士は、明治27年松村博士が「日光植物目録」に著してあるものは、学名の前に※印を附して区別してありましたが、
           下図では学名の記載を省略したので和名の前に表記をすることにしました。 保坂記
No 和名 採集場所 No 和名 採集場所
さはらん あさひらん 赤沼ヶ原(稀) 35 たかねふたばらん 金精峠
まめらん まめづたらん 古賀志山(文狭附近) 36 やちらん 赤沼ヶ原
きそえびね 栗山(川俣辺) 37 ありどほしらん 白根山(目録) 志津辺
えびね 日光(低地ニ生ズ) 38 ひめむえふらん 太郎山麓 湯本附近
さるめんえびね 丸山辺 39 さかねらん 栗山 御堂山
ぎんらん はくさんらん 所野(望月直義氏ニ據ル) 40 やうらくらん 山内
きんらん きさんらん 日光(目録) 所野 41 はくさんちどり しらねちどり 白根山 太郎山 八風山 女貌山 金精峠
ささばぎんらん 志津道弥平茶屋附近・所野 日光? 42 をのへらん 金精峠(目録) 女貌山 八風山 太郎山
さいはいらん 御堂山 所野辺 43 かもめさう かもめらん いちえふちどり 日光((目録) 女貌山 丸下山 金精峠 
10 しゅんらん ほくろ 所野辺(低地ニ多シ) 44 にょはうちどり 女貌山 赤薙山
11 こあつもり 日光(目録) 萩垣面 45 みめけいらん にっかうらん 湯坂(目録) 金山道 湯本 七瀧
12 くまがいさう 霧降 小百道 46 いちえふらん ひとつばらん ろくていらん ひとつぶくろ同名あり 志津辺 唐澤 金精峠 富士見
13 あつもりそう 丹青山 慈観 出面峠 瓜生坂 赤沼ヶ原 八風山 六方 47 あをちどり このびねちどり 白根山(目録) 赤薙山
14 せきこく 日光 今市 48 みやまさぎさう 中禅寺(目録) 湯本(同上)
15 こいちえふらん 湯本(目録) 志津辺 唐澤 富士見峠 49 じんばいさう みづもらん 裏見
16 えぞすゞらん あをすゞらん 湯本 中禅寺(共ニ目録) 菖蒲ヶ浜 女貌山 金精峠 50 のびねちどり 湯本(目録) 栗山 霧降辺
17 ※かきらん 日光(目録) 所野 赤沼ヶ原 51 みづちどり じゃかうちどり 赤沼ヶ原 所野
18 とらきちらん とらきちてんま 太郎山麓 52 いひぬまむかご 日光
19 あをきらん 瀧ノ尾河原 53 つれさぎさう 外山 萩垣面
20 おにのやがら てんま 湯坂 萩垣面 銭澤 54 やまさぎさう 所野 赤沼ヶ原
21 あけぼのしゅすらん 湯本川俣間 55 たかねとんぼ 白根山
22 ひめみやまうづら 志津辺 富士見峠 女貌山 56 きそちどり 志津辺 富士見 女貌山頂
23 みやまうづら かもめらん 萩垣面 57 おほやまさぎさう 湯本 裏見 萩垣面
24 ちどりさう てがたちどり 白根山 志津 女貌山 八風山 富士見峠 58 みやまちどり
Platanthera Takesai Makino.
女貌山 白根山
25 うちゃうらん 馬返シ 天狗澤 倉下 霧降 59 とんぼさう ことんぼさう 日光 所野 久次郎原赤沼ヶ原
26 さぎさう 猪ノ倉(古賀志山麓) 60 ほそばのきそちどり 赤沼ヶ原(目録)
27 みづとんぼ あをさぎさう 猪ノ倉(古賀志山麓) 61 ときさう 猪ノ倉(文狹附近))
28 むかごさう 裏見(目録) 所野 外山 62 やまときさう 赤沼ヶ原 久次郎原 所野 霧降 猪ノ倉
29 くもきりさう 日光山内 萩垣面 63 まつらん べにかやらん 日光
30 ぢがばちさう 湯本(目録) 山内 御堂山 八風山 64 かやらん 日光 上野辺
31 すヾむしさう 山内 赤沼ヶ原 内ノ外山 65 ねぢばな ひだりまき 日光 所野等
32 こふたばらん 日光(目録) 深澤 女貌山 白根山 66 ひとつぼくろ 萩垣面 兒ヶ墓附近
33 みやまふたばらん 女貌山 67 しゃうきらん 白根山 中禅寺 山内
34 あをふたばらん 金精峠 中禅寺(共に目録) 大師堂山 萩垣面 瀧ノ尾河原
10月26日、日向和田から日原川の谷に入り採集旅行を行う。 「明治の山旅・岩戸山に登る」より
        日向和田→日原・原島政吉宅(泊・往復)(オウレンシダ・コバノヒノキシダ・クモノスシダ)→牛込停車場
11月、「博物之友 五巻二十九号」に「戸隠山及び妙高山植物採集記(承前)(河田黙と共筆)・秋の日原・熱帯の植物界・雑録 日光のラン科植物追報第二」他七篇を寄稿する。
12月20日、「植物学雑誌 19巻227号」に「をのへりんだう(新称)ニ就テ・牧野氏ノ「閉鎖花ヲ生ズル本邦植物」ニ加フベキ者・おほばへうたんぼくノ一産地・おほあかねノ第二産地・きつりふねノ花・めやぶそてつ最北ノ産地及ビ葉形ノ変化・羊齒ト石灰岩トノ関係」等七篇を寄稿する。
多忙な明治38年の主な出来ごと
 (この年)、日光の丹青山と白根山に足を向け、それから尾瀬を文字通り跋渉し、富士山を南面から登って北面に下り、白馬に行く途上に甲斐の権現岳に登り、最後に白馬山巓(さんてん)の破れ小屋を改装してそこに十二泊して風雨や濃霧とたたかい、いよいよ病膏肓にはいって、医もまた手を施すべき術を知らないという状態となってしまったのである。  「山歩き七十年」より
1906 明治39年 23

1月、「博物之友 六巻三十号」に「尾瀬採集の植物を記す・八ヶ岳の高山植物に就きて(承前)・ひかげのかづら・熱帯の植物界・雑録 動植物和名の仮字遺いに就いて」他二篇を寄稿する。
  また、市河三喜が同号に「濟州島紀行」を寄稿する。
○尾瀬採集ノ植物ヲ記ス (7月5日〜10日)
尾瀬ノ植物ハ早田理学士及ギ中原源治ノ両君精シタ探険サレ、早田氏ハ之ヲ東京植物学雑誌第十七号第百九十一号ニテ紹介サレ、同氏ノ採集サレシ植物ハ其ノ次号ニ掲載サレタル『会津植物目録』中ニ記サレタリキ。昨年七月初旬予ハ日光ニ在リシ際
早川隆助君ノ同行ヲ得テ同地湯本ヨリ金精峠ヲ越エ上州ニ入リ、更ニ間道ニヨリテ片品川ヲ遡リ尾瀬ヶ原ニ出デ、尾瀬ヶ原及尾瀬沼畔ニ採集ヲ試ミ上州ヨリ会津ニ通ズル県道ノ頂上ナル沼山峠ニ出デ、更ニ此ノ道ヲ南下スルコト二三里ニシテ片品川ノ左岸ニ渉リ、ネバ澤ト称スル小渓ニ沿ヒテ遡リ、重疊セル山岳ヲ越エテ丸沼畔ニ下リ、再ビ金精峠ヲ越エテ日光ニ帰来シタリ。日ヲ閲スルコト僅カニ五日、或ハ谿流ヲ徒渉シ、或ハ百花爛まんタル沼地ヲ跋渉シ、或ハ巨巌頭ヲ壓セントスル急坂ヲ攀ヂ、或ハ、ねまがりだけノ密林ヲ分ケ、時ニ辛酸具ニ至リ、又ハ壮絶快絶ヲ極ム。其ノ紀行ハ他日『山岳』第一号に記スベキ以テ、此ニハ只途上瞥見セシ所ノ植物ニ就テ記サントス、元ヨリ脱漏誤謬アルベキハ論ヲ俟タズ、是ハ豫メ諸君ニ謝スル所ナリ。(下へ@↓ 以下・採集径路を図表内に示す 保坂記)
日 時 行  程 参考 「初めて尾瀬を訪(おとな)う」に記載されたコースと植物名 (明治38年7月の項を複写) 
7月5日 日光→湯本(泊 日光→湯本(泊
7月6日  東小川(泊 〜金精峠(コメツガ・カモメラン・ラセウモンカズラ)〜菅沼〜一ノ瀬(バイクヮウツギ)〜東小川・東翠館(泊)
7月7日  戸倉(泊) 〜蛇倉峠〜閑野〜戸倉・たまき屋(泊)
7月8日 桧枝岐小屋(泊) 〜アテ坂〜鳩待峠〜山ノ鼻〜尾瀬ヶ原に吐き出された時(コツマトリサウ・タテヤマリンダウ・キンカウクヮ)〜尾瀬平を走るように〜(ヒツジグサ・ネムロカハホネ・ハッチャウトンボ・イトトンボの珍種)桧枝岐小屋(泊)
7月9日   →野営(泊) 〜白砂の湿原(イハカガミ・キヌガササウ・白砂川にイメバチモ・ヒアフギアヤメ)〜沼尻平(ナガハヤナギ)〜清水俣〜三平の上り(エゾムラサキ・シラタマノキ・アカモノ・アスヒカズラ)〜三平坂を南に下る〜船河原鉱山事務所〜中ノ岐澤〜片品川(トチ・ブナ・ミズナラ・カヘデ)〜野営(泊)
7月10日   →湯本(泊) (トチノキ・アスナロ・オホレイジサウ)〜四郎嶽の東肩らしい(ネマガリダケ)〜丸沼の奥の湯澤〜大尻沼〜一ノ瀬〜金精峠〜湯本(泊)
(@より続き) 金精峠ハ白根山及ビ温泉ヶ岳ノ中間ニ位シ、連脈中ノ一凹所ニシテ、其ノ頂上ハ湯本ヲ距ル一里半許、道ハ白根山ノ麓ヲ行クコト少時ニシテ金精澤ニ沿ヒテ上リ右ニ森林ヲ穿ツテ頂ニ達ス、此ハ上下両毛ノ堺界ナリ。湯本ヲ発シテ先ヅねまがりだけノ間ヲ行ク、やなぎさう、ごまな未ダ開カズ、脚下おほばのよつばむぐら、おほばみぞほゝづきアリまゆみハ花ヲ着ケひろはのへびのぼらず、おほかめのき、うらじろのき等ハ実ヲ結ベリ、岩石磊々タル所ひごくさアリ、密林ニ入レバごぜんたちばな、まひづるさう、しらねわらび、ならゐしだ、たけしまらんアリ、うこんうつぎノ花又盛ナリ、しゃうじゃうばかま、むらさきやしほつゝじヲ得テ後渓ヲ渡ル、坂路漸ク急ナラントス、いはなし、ひめうすのき孤ハ果実未ダ熟サズ、おほばすのきハナアリ、頂ニ近クうすばすみれヲ得、花已ニ謝シテ実ヲ結ベリ、頂上ニねまがりだけアリ、其ノ間ヲ捜レバしなのきんばいさう、しらねあふひ、はくさんちどり等ヲ得ベシ、しらねあふひハ近頃濫獲者ノ数ヲ増セルガ故カ一両年前ニ比シテ著シク減少シタリト云フ、此ノ辺みちおしへノ一種ヲ産ス、白根産ノ者ト同一ナリ、予ハ其何種ニ属スベキカヲ知ラズ、一昨年八月白根ニ得タルモノ数頭ハ之ヲ小熊君ニ送リ、又昨年同地ニ得タルモノハ近頃此ノ類ヲ研究中ナリト云フ平野藤吉君ニ呈シタレバ、遠カラズシテ其ノ名ヲ知ルコトヲ得ンカ。頂ヲ辞シテ上州ニ下ル一里余ニシテ一湖アリ笈沼ト呼ブ、四面密林ヲ以テ圍マレ極メテ※1幽邃ナリ、其ノ間ノ見タルモノ一二ヲ採録スレバ、まひづるさう、くるまばつくばねさう、おほばのたけしまらん、いちえふらん、みつばわうれん、ゆきざさ、つるつげ、みやまかたばみ、うまのあしがた、さんりんさう等ナリ、池畔沮洳ノ地アリ、しなのきんばいさう、さぎすげ、つるこけもゝ、くろみのうぐひすかづら等アリ。一清流ノ流レシテ湖ニ注グモノアリ、掬シテ※2行厨ヲ開カントセシモ※3へい軍ノ来襲ニ辟易シテ逃走スルコト一二町、初メテ一休ス。
                ※1 幽邃(ゆうすい)けしきなどが奥深くて物静かなこと行厨(こうちゅう):弁当
                ※3へい軍(へいぐん): へいは虫+丙の合字 蚊とかブヨのような虫の大群のことか 

(略)
山ノ鼻ハ尾瀬ヶ原ノ一端ニシテ落葉樹亭立シテ後ニ至仏山ヲ負ヒテ前ハ直ニ※4渺茫際涯ナキ尾瀬ヶ原ニ接ス、茂生セルさんりんさう等ヲ踏ミテ行クコト一二町ニシテ直ニ尾瀬ヶ原出ヅ、みづごけノ※5沮洳タル所こみやまりんだう、一面ニ開花シ又こつまとりさうヲ交ユ、此処ヨリ尾瀬沼尻迄盡クみづごけヲ以テ満サレタル湿地ニシテ時ニ池アリ時ニ川アリ※6徒渉スベキ処一再ニ止マラズ、時ニ林ヲ穿チ時ニ水蘚ノ中ニ陥落シ、少シク歩ヲ止メテ草ヲ抜カントスレバ膝ヲ没セントスルコトナキニアラズ、四面ハ山ヲ以テ包マレ、其ノ広大ナルコト日光赤沼ヶ原ノ如キ遠ク及ブベキモノニアラズ。山ノ鼻ヨリ沼尻ニ至ルノ間即チ尾瀬ヶ原ヲ横断セルニ際シテ目撃セシ植物ヲ挙レバ即チ左ノ如キモノアリ、こみやまりんだう、◎おほばのたちつぼすみれ、◎つぼすみれ、◎こつまとりさう、◎おほばのたけしまちどり、たちつぼすみれ、こばいけいさう、みつがしは、いはいてふ、みやまきんぱうげ、◎ずみ、◎ときさう、◎やちやなぎ、りうきんくわ、◎さぎすげ、◎わたすげ、◎まうせんごけ、ながばまうせんごけ、つるこけもゝ、ひめしゃくなげ、◎うらじろえうらく◎さはらん、えぞせきしやう、みづどくさ、あぜすげ、◎こたぬきも、◎くろばならうげ、やなぎとらのを、◎ななかまど等ナリ。
             
※4渺茫(びょうぼう)際涯(さいがい) 果てしなく広いさま 物事や土地の限界。かぎり。はて
              ※5沮洳(しょじょ):土地が低くて水はけが悪く、いつもじめじめしていること。また、その土地。
          ※6徒渉(としょう):川を歩いてわたること。かち渡り
 沼尻ヨリ沼山峠迄ノ間ハ概ネつが等ヨリ成ル所ノ針葉樹ノ密林ニシテ、時ニねまがりだけ道ヲ阻ム所アリ、沼畔又みづごけノ平地アリ、或ハ急坂ヲ上下シ、或ハ湖ニ入リテ行クベシ、觸目セル植物ヲ録スレバ、◎とりがたはんしゃうづる、◎ごぜんたちばな、◎ひろはのどじゃうつなぎ、みくりぜきしやう、◎こまがたけすぐり、◎ひめけいらん、◎をがらばな、◎きぬがささう、ひめしゃくなげ、◎しろばなのひめしゃくなげ、◎ちんぐるま、んがばまうせんごけ、◎やちすぎらん ◎もうせんごけ、こみやまりんだう、◎いはかゞみ、◎むらさきやしほつゝじ、◎ひめうすのき、◎いはなし、◎ひめしらすげ、◎みづばせを、◎くろばならうげ等ナリ。
尾瀬産ノ植物ニシテ早田理学士ノ会津植物目録ニ載レルモノ約三十、予等ハ其ノ半ヲ見、尚ホ他ニ該目録ニ載録サレザルモノ十余種ヲ得タリ、即チ前記中 ◎印ヲ頭ニ附シタルモノ是ナリ。
沼山峠ヨリ縣道ヲ南下スルコト二里許ニシテ船河原鉱山ニ至ル、途ニ急坂アリ三平坂ト称ス、峠ノ頂上ヨリ此ノ辺迄ノ植物亦凡ナラズ、即チみづばせを・いはなし・さんりんさう・おほばみぞほゝづき・もみぢしょうま・のびねちどり・づだやくしゅ・えんれいさう・のまがりだけ(略)
 
予ハ此ニ此ノ稿ヲ終ルニ当りハトマチ峠下尾瀬山ノ鼻辺ヨリ沼山峠辺ニ至る間ニ見タル植物中注意スベキ数種ニ就テ筆ヲ重ネテ簡単ナル卑説ヲ述ベント欲ス。
和 名 学 名 特記事項
みやました/Athyrium crenatum Rupy. (略)
みづどくさ/Equisetum limosum Linn. (略)
やちすぎらん/Lycopodium inundatum Linn. (略)
えぞせきしやう/Scheuchzeria palustris Linn. 欧州ノ中部並ニ北部、亜細亜ノ北部及ビロッキー山脈ニ分布スル小草ニシテ我国ニテハ従来北海道ノミニ産スルコトヲ知ラレシモノナリ尾瀬ニ産スルハ早田氏ニヨリテ発見サレタルモノ、同地ニハ甚ダ饒多ナリ。
ひろはのどじやうつなぎ/Glyceria aquatica Linn. (略)
みくりぜきしゃう/
Juncus xiphioides E.Mey.var montanus Engelw.
札幌及ビ白山ハ已知る産地ナリ。
きぬがささう/Paris Japonica Franch. 本邦北部ノ高山ニ見ル、白山、乗鞍ヶ岳、白馬ヶ岳、鹽頭ヶ岳等ハ其ノ産地ナリ、予ガ尾瀬ニ得タル者ハ叢生葉ノ径一尺二寸余、花径二寸余ニスギズ、城数馬氏ハ白馬ヶ岳ニテ非常ニ大ナルモノヲ見ラレシト聞ク。
さはらん/Arethusa japonica A.Gr. 希品ト称セラル、赤沼ヶ原、戸隠原、函館等ニ産ス、おくらん・あさひらん等ノ異名アリ、貌(かたち)ハときさうニ似テ花色鮮紅、単花茎ニ着キテ下向又ハ斜向ス。
やちやなぎ/Myrica Gale L var.tomentosa C.DC. 本州ノ島北部及ビ北海道各地ニ生ズ牧野氏ガ三河高師原ニ得ラレシハ最南ノ産地トシテ特記スルノ値アリ。
おほれいじんさう/Aconitum pallidum Reichenb. (略)
とりがたはんしゃうづる/Clematis tosaensis Makino. 初メ土佐鳥形山ニ発見サル、(以下略)
みやまきんぱうげ/
Ranunculus acris Linn.var Steveni Regel.
(略)
しなのきんばいさう/Trollius patulus Salisb. (略)
なかばまうせんごけ/Drosera longifolia Linn. 歐羅ノ極地、亜細亜ノ西部、亜米利加東部ニ分布セルモノニシテ本邦ニテハ極メテ希品ト称スベシ、其ノ創見者ハ即チ早田理学士ニシテ実ニ明治三十一年七月三日此ノ尾瀬沼畔ニ得ラレタリシナリ翌月十一日ニ至ッテ川上農学士同種ヲ千島択捉アトイヤ山ニ探ラレ今ニ至ル迄他ニ産地得ズ。尾瀬ニ於テハ尾瀬ケ原並ビニ尾瀬畔ニ多生シ常ノまうせんごけト共ニ繁生セリ、欧州ニ於テモ亦然リ林娜斯氏ハ此故ニ全然別種ナリヤ否ヤヲ疑ヘリシ程ナリ、而シテ尾瀬ケ原ノモノハ同地ニ産スルいととんぼノ一種ヲ捕食ス、此ノとんぼハ専門家内田君ニ呈シタルニ未見ノ種ナリト言ハレタリ図版ニ示スモノハ二匹ノいととんぼヲ捕ヘ居ルモノナリ(第六年第一版)。
のうがういちご/Fragaria vesca Linn.
※その後の植物名について 確認要 2015・10・15保坂記
美濃能郷ノ名ヲ冠スしろばなのへびいちごト同属ノモノナレドモ種名未ダ明ナラズ、葉状一見みやまきんばいニ似、苗ハしろばなのへびいちごヨリ小ニシテ匐枝(ふくし)ヲ出スモ彼ノ如ク長大ナラズ、亭上分岐スルコトヲ見ズ、単花ヲ載ケリ花弁ハシロバナノヘビイチゴト異リテ七八片ヲ有シ楕円形ニシテ細シ。
ちんくるま/Geum dryadoides S.et Z. (略)
おほばのたちつぼすみれ/Viola Langsdorffii Fisch. (略)
ひめしゃくなげ/Andromeda Polifolia Linn. (略)
しろばなのひめしゃくなげ/Var.leucantha Takeda. 予ノ管見ナル未ダひめしゃくなげニ白花アルヲ知ラズ或ハ変種トナスノ価値ナキヤモ知ラレザレドモ姑ク右ノ新名ヲ下スベシ、原種ト異ルハ花冠及ビ花極ノ純白ナルニアリテ他ニ異点アルヲ見ズ。希少ナリ。
やなぎとらのを/Lysimachia thyrsiflora Linn. (略)
おほさくらさう/Primula jesoana Miq. (略)
こつまとりさう/
Trientalis europaea Linn.var.arctica Ledeb.
原種ナル常ノつまとりさうハ本邦各地ノ山中ニ生ズルモノナルガ此ジョ変種ハ早田博士ガ南会津ノ駒ヶ岳ニ発見サレシ外ニ未ダ採集セシ人ナキガ如シ、予等ハ尾瀬ケ原ニテ多クヲ見タリ、原種ニ比シテ稍小ニシテ茎ハ下部ニ至ル迄葉ヲ有スル事原種ト異レル主点ナリ、尤モ中ニハ茎ノ下部ノ葉大ニ縮小シテ鱗片状トナリ原種ノ如キ形貌ヲ呈スルモアリ(第六年第一版)。
こみやまりんだう/
Gentiana thunbergii Griseb.var.minor Maxim.
えぞむらさき/Myosotis intermedia Link.
(挿図解、1 花冠ノ剖展図、2 蕚(がく)、3 雄蕊(しべ)、4 同上側面図、5 果実ノ縦截、6 小果ノ一、皆廓大)。
予ハ始メ此ノ種いはむらさきト誤認して其産地タルコトヲ報ジキ(左下段へ↓
↓右上段より)第五年二二八頁)而シテ今其ノ非ナルヲ知リ此ニ之ヲ訂正ス、又早田理学士ノ目録中ニ前掲ノ学名ニいはむらさきノ和名ヲ附シテ記サレタルモノアリ従来いはむらさきニ誤リテ此ノ学名ヲ用ヰ来レルコトアレバ該(その)目録中ノモノニハ学名、和名何レガ正シキモノナルヤ今其ノ標本ヲ親賭スル能ハザルガ故ニ確言シ難シ。此ノ植物ハ欧州大陸及ビ西比利亞等ニ分布スルモノニシテ本邦ニテハ初メテ北海道日高静内(シヅナイ)ニ採集サレ未ダ之ヲ内地ニ得ザリシモノナリ、若シ早田氏ノ該種ニシテ学名ヲ正シキモノトスレバ同氏ガ尾瀬ニ発見サレシモノト云フベク若シ和名ヲ正シトスレバいはむらさき亦同地ニ産スルコトヲ知ルベク戸隠以外ノ一産地トシテ記スルノ値アリ。(以下略)

○八ヶ嶽ノ高山植物ニ就テ (博物之友 六巻三拾号では二十九から四十二を収録)
四十二 くもまなづな 
Draba Sakuraii,Makino.var.nipponica,(Makino)Takeda.
横岳辺ニ多ク生ゼリ。/矢澤氏始メテ之ヲ此ノ山ニ取レウモノニシテ実ニさい爾タル小草ナリ、牧野氏之ヲ一新種ト考ヘ是レニ Draba nipponica ナル新名ヲ下サレタリ、予ハ其ノ後同山ニ花、実ヲ有スル良標本ヲ得テ以テ精査スルニ終ニ之ヲ特立ナル一種ト考フル能ハズシテ、とがくしなづなノ一変種ニ収ムルヲ以テ当ヲ得タルモノナラント思フガ故ニ、敢テ其ノ学名ヲ前記ノ如ク変更シタリ、とがくしなづなト異ル点ハ苗一般ニ小ニシテ茎ハ繊細ニシテ概シテ毛ヲ有セズ、葉ハ彼ヨリ細クシテ深ク櫛歯状ニ刻マレ一般ニ毛ヲ蒙ルコト薄シ茎ハ小ナルモノハ花時
四「センチメートル」ニスギザルモノアレドモ大ナルモノニ至れば果実ヲ着ケタル時十三半「センチメートル」ニ達スルモノアリ。本品ハ未ダ八ヶ岳ノ外ニ産地ヲ得ズ、此山ノ特産トシテ知ラルヽ者ナリ。(嗣出)
2月、高頭仁兵衛が「日本山嶽志」を「博文館」から刊行する。
 始めて牧之翁の名を知ったのは、何でも明治三十二三年の頃、たしか「帝國文學」の二三號に亙って掲載された、翁と馬琴との交友に関する記文(瀧澤又市氏執筆)であるが、今その内容をよく記憶してゐないのは遺憾である。三十九年に至って、友人高頭式君の『日本山嶽志』の出づるに及び、苗場山の條下に、翁の苗場遊記が轉載されてゐるのを見て、百年以上も前にこの山に登り、且つ詳細な紀行文を残した翁の敬服に値することを知ったが、幾許もなく『北越雪譜』を手にして、益々翁を欽慕するに至った。雪譜とはいふものゝ、雪に関する記事のみでなくて、越後諸地方の人情風俗歳事祭祀風景傳説その他諸般の事柄に亙って記述してあるので、中には根據の希弱な臆説等も混じってはゐるものゝ、それもその當時の知識人が、どのやうに態度を以て自分の周圍を眺めたかといふことも、知る便ともなるのである。    欽慕(きんぼ):敬いしたうこと。敬慕。 
        S16・5 「牧之翁祭記念集 牧之翁と著作」より
月、「山岳」創刊号に伴なう編集会議が行われる。日時については不明のため再調査要 2015・8・14 保坂記
 
       「山日記」より
考察
「山岳」の当初の発行予定日は三月二十五日であったが実際の発行日は翌月の四月五日となった。また、原稿を依頼する中に「野中」の名前が記されているが創刊号には間に合わなかった為か、次号にも記されていませんでした。。「野中」とは野中至のことで、極寒の富士山頂において気象観測を続けました。武田博士は、昭和6年に刊行された「日本地理大系 別巻5 富士山(編者)」の中で、野中至のことを紹介されています。 
     2015・8・14 保坂記

 注:創刊号の原稿依頼に関し「山日記」に、「山崎直方
    神保小虎博士・志賀重昴・小川琢治・野中至」の名あり

   記述の有無の確認要 「日本山岳会の創立と小島烏水君」より






(会誌「山岳」、第一のなやみ)、明治三十八年夏以来、私達は山岳会の結成のために、幾度となく会合したり、書面の往復をしたりして、日本で始めてのこの種の会の創立に、万全の策をねっていた。そしていよいよ十月十四日に、最後の会合を、飯田海岸(いいだがし)の富士見楼で行ったが、その頃の第一のなやみは、会員が全国でどの位集まるだろうかということであった。山に登る人達は、自分達の仲間三−四十名以外にどの位あるだろうかということが、頭痛のたねであった。たといこの会の経常費を、会費に仰がないだけの準備があるにせよ、一千部刷った会誌『山岳』が、毎回九百部ずつも残るのでは、忽ちにして置場さえなくなってしまう。蓋をあけて見たら、幸いにして百名を突破したし、日に月に増加しては行ったが、それでも中々五百名には達しなかった。
                                           S35・7 「他人の迷惑を考えよう」より
3月、「博物之友 六巻三十一号」に「八ヶ岳の高山帯植物に就きて(承前)・熱帯の植物界・雑録 イワベンケイ日光に産す・チシマギキョウ及びイワギキョウ共に白馬ヶ岳に産す」他七篇を寄稿する。
3月10日、日本博物学同志会第十七回例会が開かれ「富士山植物採集談」を講演する。
昨年八月一日ヨリ四日ニ亘リ富士山ヲ表口ヨリ北口ニ両断シテ食物ヲ採集サレタル模様ヲ述ベ採集品数十点ヲ示シ大宮口ト吉田口トノ植物景ノ同異、富士山採集ノ注意等ニ就テ談ラレタリ。
来会者:高野鷹蔵・田中健太郎・田中五一・武田久吉・中野与右衛門・梅澤観光・岸田松若ノ七名
3月31日〜4日、日本博物学同志会主催による天城山採集旅行が行われる。(総勢18名)
新橋→三島→大仁→湯ヶ島・落合楼(泊)→(アブラチャン・ヒサカキ)八丁ノ池(ミズゴケ・ツツジの類・イワナンテン・ブナ・クロモジ)→三本榎→大幡峠→提灯の火をたよりに柏峠→伊東・東京館(泊)→宇佐美(ダンチク)→宇佐美峠→熱海峠→伊豆山神社→江原竹二と共に山越え泉村へ→湯河原・桜屋(泊)→日金山→十国峠→一本杉→箱根宿→湯本→小田原→国府津→帰京  「明治の山旅・天城山と箱根」より
同行者:市河三喜・早川隆助・保坂彦蔵・鳥山悌成・小谷國次郎・片平重次・高野鷹蔵・田中健太郎・田中五一・武田久吉・梅澤観光・山中太三郎・増田吾助・江原竹二・佐羽麟太郎・岸田松若・守田豊蔵・角倉邦彦
4月8日、日本博物学同志会第六回総集会が開かれる。
開会ノ辞及ビ会務報告 庶務 武田久吉 白馬岳植物採集談 河田黙
豆相地方採集旅行談 梅沢観光 マクカリヌプリ山(蝦夷富士)ニ就テ 河合篤叙
甲州八ヶ岳植物採集談 武田久吉
来賓河合君ハマクカリヌプリ即チ蝦夷富士登山会長ニシテ当時在京サレシヲ以テ高頭君ノ紹介ニテ来場同山ニ就テ一場ノ講話ヲナシ又宮部博士採集同会ヘ寄贈サレシ植物標本等ヲ示サレタリ(講話の内容説明・略)河合氏ノ講話済ムヤ一同階下に降リテ撮影シ後茶菓ヲ供シテ会員並ニ本会ヨリ出品セル図書標本等ヲ観覧シツヽ雑談に移リシガ同夜ハ山岳会ノ役員会アル可カリシ為メ市河君ノ講演ハ次回ニ延シテ午後四時頃散会セル
来会者:石上定海・市河三喜・原正三・新帯國太郎・鳥山悌成・小川弘太郎・小谷國次郎・片平重次・河田黙・川出隆太郎・川崎義令・河合篤叙・横山惣五郎・高頭仁兵衛・高野鷹蔵・田中健太郎・田中五一・武田久吉・梅澤観光・山内鏡太郎・松村巌・増田吾助・小泉和雄・小島久太・江原竹二・佐羽麟太郎・岸田松若・北澤基幸・宮内安之・城数馬ノ三十名
4月、「山岳 第一年第一号 尾瀬紀行 付録 日光三山がけ他」を創刊、寄稿する。
   同号に高野鷹蔵が「塔ヶ岳」を寄稿、38年秋に行われた塔ヶ岳登山を記す。 
  本 号 目 次
○附図
○白馬山腹の大雪渓  ○赤沼ヶ原より太郎山を望む  ○本澤より箕冠山の爆裂口を望む ○乗鞍山嶺の神祠 
○乗鞍山頂凍死者の追悼の標本 ○戦場ヶ原にて見たる男体山  ○男体山頂の一点 ○男体山絶嶺 
             ○山岳會設立主旨書
凡そ山岳が、一國の地文及び人文に、影響することの大なるは、今俄に説くを要せず、之を歴史に攷ふるに、日本の文化は先づ近畿中國の山脈間に、印度の文明は、早く雪嶺山下に発達し、支那の美術は、北嶺山脈の秦嶺間に、希臘(ギリシャ)の藝術は、ピンドス山脈の狭間に起り、伊太利、佛蘭西、日耳曼諸邦(ゲルマンしょこく)は、皆アルプス山下に強を成しぬ。(略)自然が刷ける色彩、自然が放てる光澤の、純粋なるものは、最も山に饒多にして、自然が意匠し、彫刻せる形態體劃線、又山を以て最も變化萬千となす、故に山角に立つは、絶対ノ秘奥を覗ふが如し、人生何物の高快か之に如かんや、惟みるに、山は實に不朽の壽を有する理想的巨人なり、天火を以て鑄られたる儀表的銅像なり、全國民の重鎭として立てられたる天然的柱石なり、之を謠ひ、之を究むるは、永世の大業にして、且つ何ぞ今日不急の事は謂はむ、本會ここに見るところあり、微力自ら測らずして、先づ欧州のThe Alpine Journalの例に傚ひ、山岳専門の機関雑誌「山岳」を發刊し、山岳に関する考察記事、一切を網羅し、山岳趣味と知識の啓發に任せんと浴す、然れども本會の事業たる、単に雑誌發刊の事に止むべきにあらず、山中に登山者宿泊の小舎を立つるも可なるべく、登山新路を拓くも可なるべく、全國に亘りて山岳案内記を出版するも可なるべく、各登山者間に連絡を通ずる方法を講ずるも亦可なるべし、為すべきこと極めて多くして、未だ一も其の緒に就きたるはあらず、之を大成するは、一に趣味嗜好を同じうする、諸君子の援護に待つの他はある可らず、蓋し是れ實に國民的事業にして、決して少数人士の能く為し得るところにあらざればなり、即ち本會成立の主旨を略記して、偏に大方の賛助を懇請するものなり。
    明治三十九年四月五日 山岳會 
                   発起人
(イロハ順)
                         
河田黙高頭式高野鷹蔵武田久吉
                   梅澤観光
小島烏水城数馬
○本欄
山嶽の成因に就て 理学士  小川啄治   塔ヶ嶽 高野鷹蔵
高根の雪 理学士  山崎直方   女子霧ヶ峰登山記 久保田柿村舎
北海道ノ火山 理学博士 神保小虎   野州丹青山 梅澤観光
湖沼研究の趣味    田中阿歌麻呂   乗鞍嶽採集記 川崎義令
赤石山の記       小島烏水   妙高紀行 大平晟
飯豊山行      石川光春   赤薙の一角 五百城文哉
女貌山と太郎山 法学士  城数馬   尾瀬紀行 武田久吉
信州八ヶ岳      河田默
○雑録
 (省略)
○雑報
 ○蝦夷富士登山会彙報 ○浅間山の鳴動 ○駒ヶ岳噴火原因調査 ○駒ヶ岳鳴動
○会報
 ○本会の成立 ○本誌の表紙 ○お願ひ ○会費に就て ○会員氏名
○附録
 加賀の鞍ヶ嶽  高頭式/ 飛信界の乗鞍ヶ嶽  同/日光三山がけ  武田久吉
4月、柳田國男、「山岳会」に67番目の会員として入会する。
4月15日、神奈川小学校に於いて「通俗博物学講演会」が開かれる。
「ダーウイン」ノ一生 市河三喜 羊歯ノ話 武田久吉
山岳地ノ名称ニ就テ 小島久太
武田久吉・出品標本図書目録から      「博物之友」 六巻三十二号 会報欄より
らん科せき葉標本百二十一枚
(名称略
かもめさう・やうらくらん・えぞすゞらん・さはらん・みやまふたばらん・むらさきふたばらん・みやまちどり・こふたばらん・にょはうちどり・こばのとんぼさう・ひめむえふらん・しゃうきらん・うてふらん・ちどりさう・はくさんちどり・だいさぎさう・をのへらん・なつえびね・ひめけいらん・のびねちどり・あをきらん・たかねとんぼ・しろうまちどり・いちえふらん・たかねさぎさう・ほそばきそちどり・きばなのあつもりさう・さゝばらん・ありどほしらん等
すみれ類せき葉標本 六十二枚(名称略)
すみれさいしん・うはばすみれ・ひめすみれさいしん・ひかげすみれ・きばなのこまのつゆ・おほばきすみれ・たかねすみれ・おほばのたちつぼすみれ・あけぼのすみれ・しこくすみれ・にほひたちつぼすみれ・ながはのたちつぼすみれ・ながはしすみれ・ほそばのえぞすみれ・おほみやますみれ・しはいすみれ等
図書  飯沼慾斎著 新訂草木図説  草部  二十巻
4月22日、日本博物学同志会による遠足が行われる。
本郷田中氏邸集合→向陵→巣鴨→上板橋→練馬→白子→下新倉・休憩中食→「荒川畔ニ出デ其ノ右岸ニ沿ヒテ下り志村ニ至りテさくらさうヲ採集シ小豆澤、袋ヲ経テ」→赤羽→上野駅・解散
参加者保坂彦蔵・武田久吉・岸田松若・平山成一郎・田中五一・石川光春・竹崎嘉徳・中野治房・梅澤観光、合流出来ずは市河三喜・河田黙の両氏
4月29日〜5月2日、御嶽、大嶽から大菩薩峠を越して塩山へ。 「明治の山旅・大菩薩峠の魅惑 」より
拝島→秋川の右岸に引田の屏風岩→養沢→御岳・御師林正樹(博士は遅れたため八王子から五日市を経由合流する(フモトスミレ)(泊)→大岳神社→大楢峠→氷川の本村→水根沢→小河内・鶴屋(泊)→与沢→小菅→小金沢山→古木場(ふるこんば)→大菩薩峠→裂石→七里村塩山・広友館(泊)→塩ノ山(赤松にマツグミが寄生・ヤマツツジ)→塩山→帰京
資料 再ビ武州御嶽山ニ於ケルいはなんてんトるゐえふぼたんトノ所在地ノ位置ニ就テ(全文)
本誌第五年第二十六号ニ於テ予ハ標記両植物ノ御嶽山ニ於ケル所在地ノ位置ニ於テ予ガ観察測定ノ結果ヲ記シタリキ当時ハ両日共雨ニ逢ヒタル為メ充分ノ観察ヲナスヲ得ザリシカバ再遊ヲ欲シテ俟マザリシガ本年四月二十九、三十日其ノ機ヲ得テ前ノ観察ノ遺漏ヲ補フコトヲ得タレバ此ニ再述シテ同好者ニ報ゼントス。前回ニ於テハ予ハるゐえふぼたんガいはなんてんヨリモ凡ソ二百三十五米突ノ高所ニ生ゼルヲ見テ大渡氏ガるゐえふぼたんガいはなんてんヨリモ下方ニアリト云ハレシニ反対ノ結果ヲ得タリシガ今回ハ御嶽奥ノ院即チ征夷高祖御社ノ所在地ノ附近ニいはなんてんが繁生セルヲ発見シタルガ此処ハ予ノ推測ニヨレバ予ガ前回(今回モ)るゐえふぼたんヲ得タル最低所ヨリモ高キコト約九十米突ニ位スルコトヲ知リテ更ニ御嶽ヨリ隣峯大嶽ニ登ルヤ大嶽ノ中腹ニ於テ復タいはなんてんガ茂生セルヲ見タルガ此処ハ御嶽奥ノ院附近ノ地点ヨリモ尚ホ高キコト約八十米突ナラント思惟ス然ルニ大嶽神社ニ達スルヤ前記るゐえふぼたんガ生ズル地点ヨリモ正ニ二百米突ノ高所ニアル社側ニ於テ再ビるゐえふぼたんヲ見タリ因是観之御御嶽辺ニ於テハ両者ハ全ク混生シテ大渡氏ノ予言ハ正ニ確実トナレルヲ知ルベキナリ。 
                         
「博物之友 六巻三十二号」 P165より
5月、「博物之友 六巻三十二号」に「八ヶ岳甲州方面の植物に就て・すみれ雑記(承前)・熱帯の植物界・雑録 コマクサ尚お御岳に産す・恵那山のタマクボシダ」他六篇(再ビ武州御嶽山ニ於ケルいはなんてんトるゐえふぼたん(るいようぼたん)トノ所在地ノ位置ニ就テ・まうせんごけ蜻蛉ヲ捕フ・じんじさうノ異品)を寄稿する。
5月20日、「植物学雑誌20巻232号」に「さゝばらん最北ノ産地・だいさぎさうノ新産地・しこたんはこべ最南ノ産地・いちげノ意義・えぞむらさきヲ本州ニ得タリ・あれちぎしぎし(新称)」を寄稿する。
   また同号に、大上宇一が「中國ノ植物ニ就テ」を寄稿する。
資料 大上宇一著「中國ノ植物ニ就テ」の中の「ゆにぐちさう」項より
四国(名鑑)作州リヲサンギ山(雪吹氏)余ノ蔵スル標本ハ武田久吉氏武州多摩郡塚村産トアリ野生カ栽品カ未詳と、博士の記述あり、尚「塚村」についての所在は不明なため調査要 2015・9・25 保坂記
資料
 ○ えぞむらさきヲ本州ニ得タリ 武田久吉
えぞむらさき(Myosotis inte rmedia Link) ハ、歐洲大陸及ビ西比利亞等ニ分布スルむらさき科ノ宿根草ニシテ、本邦ニテハ初メテ日高國靜内ニ發見サレシモノナリ、昨年七月予ハ尾瀬ニ採集ヲ試ミシ時、上州沼山峠ニ此ノ植物ヲ得タリキ、是ヨリ先キ、早田文藏氏ハ、植物學雜誌第十七巻第百九十一號ニ、會津植物目録ヲ掲載サレシザ、其ノ中ニ前掲ノ學名ニいはむらさきナル和名ヲ附シテ記サレタル植物アリ、從來、いはむらさきニ、誤ツテ此ノ學名ヲ用ヰ家リシコトアレバ、此ノ場合、和名、學名ノ何レガ正當ナルカハ、其ノ標本ヲ檢セザレバ知ルコトヲ得ズ、從テ學名ヲ正トスレバ、予ノ以前ニ早田氏ハ之ヲ本土ニ得ラレタリト云フ可ク、若シ和名正シキモノナラバ、同地ハいはむらさきノ新産地ト云フヲ得ベシ。えそむらさきノ形貌ハ、博物之友第六年第三十號ニ圖説シタレバ、此處ニ贅セズ、詳細ハ同誌ニ就テ見ルベシ。
参考:博士はこの号に6篇を寄稿しましたが、その項の前に編集者からか、こんな記述が載せてありました。 2015・3・2 保坂記
植物学雑誌二月分モ今四月中旬ニ至ルモ原稿ノ集マラザルタメカ發兌トナラズ聊
(いささ)カ其埋草ニモ成ルヤ否ヤハ知ラズクダラヌ事ヲ二三言記スルノミ、
5月、宮部金吾、三宅勉、宮城鐡夫が「樺太民政暑事務嘱託」を復命、樺太植物調査の嘱託を受ける。
参考 復命
本年五月植物調査ノ委嘱ヲ受クルヤ三宅先ツ中央以南ノ南部ヲ調査シ次テ海馬島北方ボロナイ河畔国境付近ナイオロ以南ロレーニニ至ル沿岸及ビススヤルータカ流域ノ植物ヲ調査採集シ宮部ハ七月嘱託農学士宮城鐡夫ヲ伴ヒ東シンノシレトコ半島ニ至リ西ピレオニ至ル迄沿岸各地ノ海藻及陸上植物ヲ調査シ以テ樺太植物ノ概略ヲ知ルヲ得タリシンノシレトコ以北ノ沿岸及内部各地特ニ
山岳ノ植物ニ関シテハ未ダ調査ヲ行ハサルヲ以テ其詳細ニ至リテハ之ヲ記スルヲ得スト雖十一月以降専ヲ各自観察シタル所ト其採集シタル標本トニ就キ調査ヲ行ヒ且ツ札幌農学校所蔵標本ト書籍トヲ参考シげんニ本年度ニ於ケル調査ノ概要ヲ記シ報告トシテ閣下ニ呈ス其詳細ニ至リテハ採集品ヲ精査シ更ニ之ヲ提出スルコトヲ期ス(略) 調査の期日 宮部・宮城班  明治39年7月11日〜8月23日
            三宅班
      同年 6月12日〜10月20日  明治40年3月 「樺太植物調査概報」より
5月〜6月、父サトウ、外交官生活から隠退することになったため、北京から帰国の途上、日本に約1ケ月滞在。兼との最後の出会いとなる。父サトウの出国が約十日間延期されたため、サトウは久吉を連れて、日光から中禅寺湖周辺を約一週間かけての旅行を行う。
  この時、金精峠において、アオジクスノキ、一名ヒメウスノキの花を初めて採取する。
「明治の山旅・戸隠山」より
               「植物及動物 第4巻第8号 日本の高山植物 121)ヒメウスノキ P1477」の項より 
  同じくこの時、日光でワダソウ属の一種を新種と認め後年、ヒゲネワチガイとして発表する。
                             
「明治の山旅・初夏の日光山へ」より
6月5日、日光鉢石(はついし)で土産物の日光下駄を購入、午後四時八分、東京に入る。

    山日記 日光ニ旅行シタル年月」の項より 所蔵 横浜開港資料館
6月9日、父サトウ、シベリア号で横浜を出港、アメリカに向かう。
6月12日〜7月3日札幌に向け、午前十一時四十五分の常磐線の急行に乗車する。
    
札幌農学校に在学の友人、小熊捍(まもる)・学生の竹田君・松尾梯治郎らとモイワ山や手稲山に登る。
尻内
(ハマナシ)→室蘭→幌内の泥炭地→モイワ山(モイワナズナ・ヤマハナソウ)→手稲山(エゾイワベンケイ・ミヤマオダマキ・コケモモ・イワウメ)→札幌→函館→上野「明治の山旅・札幌と手稲山」より
十四日、朝三時に室蘭に入港。(略)旧友小熊捍(まもる)としげしげ往復するうちに、新しい友人も出来るし、そとことに案内されれば、見馴れぬ草木が目に触れ、私を少なからず喜ばせた。名士宮部博士は思いもよらず歓迎して下さり、その前年から採集されたマクカリヌプリ産植物の標本を、沢山頒け与えて下さった。東京では五月に咲く牡丹が、六月中旬花盛りというのであるから、その涼しさが窺われよう。それでついに風邪を引いてしまった。/宮部先生は、学校の完備した標本庫に案内して下さったり、助手の近藤金吾氏に近郊に案内するように手配して下さったので、二十一日には手稲(本名テイネイ)に、また二十六日には中ノ島へ、翌二十七日には幌内(本名ポロモイ)の泥炭地に案内して貰った。その夜、旧友は、松尾梯治郎という植物好きの学生を連れて来てくれて、手稲山登山の相談がはずんだ。(7月1日、札幌駅を出発、3日午前7時40分に上野駅に到着。雨は止む気配を見せ、やがて晴天となり、寒暖計は華氏八〇度以上を昇り、涼しい北海道に馴れた体には、なかなかこたえるのは当然である。八時十分、我が家に帰って、この旅行は終わりを告げることとなった。「明治の山旅・札幌と手稲山」より
6月12日、三宅勉一行が、先発樺太コルサコフに上陸、植物調査を行う。10月1日、コルサコフに帰着、同月20日迄
6月、「山岳 第一年第二号 甲州八ヶ岳・白馬岳籠城記
(河田黙と共筆)・雑録 再び落機山中の高峰に就て・ヒマラヤの意義・
山岳を名称を冒せる植物」を寄稿する。
  注 雑録の三篇はH・Tで表記
  また、同号に小島烏水が「高山に於ける植物の保護」を寄稿する。
      注 烏水論文の名前には「K・J」の表記あり 「植物学雑誌241号 三好博士」論文には烏水の表記あり確認要 2016・7・16 保坂
7月11日、宮部金吾・宮城鐡夫一行が、樺太コルサコフに上陸、植物調査を行う。8月23日、コルサコフに帰着
7月、「博物之友 六巻三十三号」に「パナマ帽の原料植物・すみれ雑記(承前)・富士山を越ゆるの記(上)・札幌見聞記(第一稿)・熱帯の植物界・雑録 チョウノスケソウの産地訂正」他六篇を寄稿する。
7月27日付、矢野宗幹が、博士宛てに〔書簡〕(周防宮野村で採集のすみれについて、(略)、すみれ標本同封)を送る。
 
                        横浜開港資料館 久吉(書簡) No1249 より
8月3日〜7日、母と富士登山を行う。   「明治の山旅・再び富士山に登る。」 P268〜270より
 新橋→御殿場→須走・米山館(泊)→古御岳→六合目小屋(泊)→薬師ヶ岳に到着。駒下駄に、北口頂上の朱印→逆方向にお鉢回り→2時20分、表口頂上の浅間神社→勢ヶ岳→東賽ノ河原の噴気孔→銚子口から下山→二合二勺小屋(泊)→太郎防→滝河原→御殿場11時15分→帰京
 
  久吉と富士山に登った母の兼 
   (明治初期頃) 
参考 母、兼(かね)が纏った当時の出立ち
 
(母は)、単衣一枚に袴をはき、草履の代わりに新調の駒下駄を穿くことにして出発。(略)これより上にはナメと称する溶岩地帯を通るのだが、駒下駄はその威力を発揮した。前後して登って行く人達は、私を行者だと思っているのを小耳に挟むと、微苦笑を禁じ得ない。(略)駒下駄は草履と違い、往復四日に、ただ一足で十分に事足りた。  「明治の山旅・再び富士山に登る。」 P268〜270より


8月12日〜8月14日、辻本滿丸が甲州鳳凰山と地蔵岳に登る。 「山岳第一年第三號」より
 薬師岳より一時間を費し、地蔵岳に着せるは、(13日)十一時三十分なり、花崗岩塊の集まれる隆起にして、山頂狭く方二間に足らず、参謀本部陸地測量部の二等三角標を建てたり、祭祀せる神佛は見當らず。案内者は之を鳳凰山なりと云ひしが其濛雲益々多くして、近き鳳凰山頂の巨岩さへ全く見えず、案内者は之より先きには、來りしこと稀なりとて、天候を望み難色あり、余は鳳凰山に達せずんば勿論止まざる決心故、促して前進を續けしめ、頂上より少しく東北に下るに一凸處に石像の小さき地蔵佛を多く安置せり、之れ鳳凰山遥拝者の持ち來りしものと覺ゆ、鳳凰山に至る路は其手前より左方の岩を傳ふて下り行くなりしに、雲の爲め知らずして行き過ぎ、此處に至りて路の消失せるに因却せり。之を進む、樹下にはトリカブト、モミヂショウマ花あり、又たホタルブクロを見、ヒメシャジンの一種を探る、山背の右側に沿ひ、少しづゝ登り行き、午後一時鳳凰山頂なる大岩下に達したり。(略)
 本山の直物に就ては、余の如き初心者の容喙すべき限に非らざれども、豊富ならざるは疑なし、然れども従来採集を行へる専門家無き故精査せば珍種を發見し得る見込無しと云ふ可らず、余の採集植物に就き、教示せられし武田久吉君の言に依れば、リンネサウ、タカネウスユキサウの如きは、未だ甲州の他山に産せざるものなりと云ふ。同君は余に遅るゝこと僅に旬餘にして、特に鳳凰山植物研究の爲め出發せられたれば、本山植物は君に依り、初めて世上に紹介さるゝに至るべし。
            
容喙(ようかい):横から差し出ぐちをすること。
(附記)武田君歸來、余に語られたる處に依れば、君は余と全く同行路を探り、青木湯より登山せられたり、當日は快晴にて鳳凰山頂なる巨岩にも登攀することを得たる山、余は風雨の爲め功を一簣に缺(か)きたる憾無き能はず、其他砂拂、薬師、観音、賽ノ河原等の位置に就き所見を語られたり、又た其後御室の小蟲に就き、同君より報告あり、右は松村博士の検定に依れば、メスアカケバヘ(Biobie japonica Motsch.)なるものなりと云ふ。余は君が詳細なる観察を發表せられて、本山に関する余の誤謬と脱漏とを、指摘せられんことを切望す。
         
一簣(いっき):一つのもっこ。また、もっこに1杯の分量。わずかな量のたとえ。
8月23日〜28日、甲州鳳凰山に登る。 「明治の山旅・鳳凰山と鳳凰沙参」より
 明治三十六年八月に甲斐駒に登って以来、どういう因縁か、毎年のように甲斐駒を訪れるようになって、台ヶ原の旅舎竹屋でも、私の来るのを待っている状態であった。この山が山としての善(よ)さを、辻本工学博士に話したのがもとで、辻本君も、部下の人達を必ず甲斐駒に登らせ、自身もたびたびこの山に登られた。
 そのうちに、近くにある鳳凰山登山を遂行されたのが明治三十九年の八月中旬の事である。帰来その折の採集品を検定のために持参されたのを見ると、リンネソウを初め、見たことのない沙参
(しゃじん)の類があるので、これは原産地に往ってみる必要があるということになり、鳳凰山に登る好(よ)い機会となった。  「明治の山旅・鳳凰山と鳳凰沙参」より
飯田町→日野春→台ヶ原・竹屋(泊)→新富→大武川を徒渉(カワラニガナ)→実相寺の大桜→小武川(ススキ・キキョウ・カワラハハコ・タチフウロ)→空掘(かんぼり)(カラハナソウ・コオニユリ・サワヒヨドリ・タチフウロ・ミヤコグサ・ハコネグサ)→青木湯(泊)(コメツガ・カツラ・ミネカエデ・ナナカマド・ネコシデ・オガラバナ・ミヤマハンノキ・フジアザミオオビランジ)→泊(コメツガ)→南御室(トウヤクリンドウ・コメススキ・ミヤマゼンコマイズルソウ・コガネイチゴ・ミヤマメシダ・キバナノコマノツメ・シロバナノヘビイチゴ・ミヤマワラビ・オヤマリンドウ・ゴゼンタチバナ・キオン・ミヤマウラジロイチゴ・トウヒ・ソウシカンバ・リンネソウ)→砂払い(2700m)→薬師ヶ岳→観音ヶ岳の西肩に無数の地蔵尊→賽ノ河原(ハイマツ・ダケカンバ)→地蔵仏と呼ばれる巨岩(ダケカンバ・タカネビランジ・タカネニガナ・ミヤマヒゴタイ・キバナノコマノツメ・ウシノケグサ・ホウオウシャジン→賽ノ河原(ダケカンバ・ミヤマシャジン→ 観音ヶ岳三角点→薬師ヶ岳下の水溜り→砂払い→南御室→青木湯(泊)→御座石→牧の原→日野春→台ヶ原・竹屋(泊・8月28日)
参考 鳳凰沙参についての記述
 鳳凰沙参は間もなく一新種として詳しく記載して発表したが、今では私がこの前年、玄ー(くろくら)川の上流で発見したイワシャジンの高山性亜種と考えている。   「明治の山旅・鳳凰山と鳳凰沙参」P278 より
8月28日〜30日、鳳凰山の登山を終え、そのまま案内者の山岸喜作を伴ない駒ヶ岳へ
台ヶ原・竹屋から駒ヶ岳に向かい、翌二十九日、頂上に達してから下山台ヶ原(泊)→帰京
                                            「明治の山旅・鳳凰山と鳳凰沙参」より

9月8日、博士・河田黙(しずか)・梅沢観光・市河三喜の四名が、丹沢蛭ヶ岳の登頂を目指したが雨のため中止する。 与瀬→渡し舟で勝瀬へ→篠原→川上→小舟→菅井→長俣→上青根(助役井上喜助)→雨の日が続き登山と久保沢経由の帰京を中止し→田野入→上野原  
参考ー@ 「明治の山旅・蛭ヶ岳を志す」の一部より
 これ(地図)で見ると、蛭ヶ岳へは、北麓の青根村から登るのが捷径であるように思われる。しかし青根村に旅館の有無が判らないので、役場宛てに書面で問い合わせたところ、助役の井上喜之助氏から返事があって、宿屋は無いが、私の家に泊めて上げようということになり、いよいよ明治三十九年九月八日の朝、市河三喜(さんき)、梅沢親光(ちかみつ)、河田黙(しずか)の三君と、私と同勢四人、中央線の牛込駅を発九時四十分の列車で出発した。(略)ここで道志川を渡り、青根村に入り、上青根の井上喜助氏方に、やっと辿り着いたのは、夕の六時五十五分であった。/その夜、井上氏の計らいで、猟師の杉本斧吉(当時五十歳)という者を呼んで、蛭ヶ岳の登山について協議した。彼の考えでは、蛭ヶ岳から北へ引く尾根に登りつき、それを伝って、頂上の北の小突起のボッチという所に小屋があるので、それに泊まって頂上を極める案を提出した。(略)九日、午前五時起床。斧吉も来たが、天気が思わしくないので、出発を見合せようかと相談中、降雨となったので、登山を中止し、滞在ということになった。昼頃であったが、井上氏の妻女が、いい天気になったと干物を外に出したので、やれ嬉しやと、外を見ると、糠雨がしとしと降っている。このくらいな霧雨が、好天気の類とは、恐れ入らざるを得ない。森林の深いあの時代では、あの辺では、こんな天気は普通であったのだろう。そのうち、風呂が沸いたという知らせに、浴室は何処かと縁に出てみれば、雨の降る庭先に据風呂を出して、湯を沸かしたのである。市河君が、下駄を履いてその風呂に入りに行った。家の女の子が、唐傘をさし掛けているのは、はなはだ奇妙な図であった。この時代には、この辺の村では、粟か稗(ひえ)が常食であったらしい。私達はこの地の食物がどうも口に入り兼ねる。気の毒に思った家の人は、折からの玉蜀黍(とうもろこし)を焼いて出してくれた。これならおいしく食べられる。結局これによって、命を繋いだようなものであった。
   据風呂(すえふろ):茶の湯の道具である「水風炉(すいふろ)」に構造が似るところからという。
          桶(おけ)の下にかまどを取りつけ浴槽の水を沸かして入る風呂。塩風呂・蒸し風呂などに対していう。すえふろ。

参考ーA 「雁ヶ腹摺考」の一部より
 (略)同年9月初旬、(三人で)、相州蛭ヶ岳へ志した折、山麓の上青根で傭(やと)った猟師の杉本斧吉(当時五十歳)の山談の中に、また雁ヶ腹摺に関するものがあった。同人の言を帰京後所持の山嶽志に記入しておいたのを抄出すると「大藤近傍ヨリ雁ヶ腹摺山ヲ越エテ小菅及ビ西原ニ通ズベシ山路夷ナラザレドモ馬ヲ通ズト云フ(杉本斧吉)」というのである。しかしこれは本当の雁ヶ腹摺山ではなくて、大菩薩峠にあたること疑うの余地はないのである。(略)
参考ーB 「丹澤の昔を語る」の一部より
 
それ以来(明治38年)丹澤への興味はますます深くなって、翌年は蛭ヶ岳に登ることに定め北の青根村から登る案を立てました。先づ登路や旅館の所在を役場に照会したところ、もとより旅館などある筈もなかったが、幸ひ青根村の助役さんが好意を寄せて自分の家へ泊っても差支へないと言ふ返事がありましたので、九月下旬中央線を寄瀬で下車して青根村へ参りました。翌日は、焼山の尾根続きから蛭ヶ岳へ登る事に予定して居りましたが雨で延期、次の朝はどうかと案じながら目覚めると、奥さんが言はれるには大分良い天気だと言ふ話に、喜んで外へ出ると矢張り霧の様な雨が降って居るので其の日も中止です。一体雨が降って良い天気とは不思議とたづねた所、此の辺は此の位の天候ではまづ良い方だとの事に丹澤山塊に雨の多い事を泌々と感じました。そう言えば雨の降って居るのに干物なぞ出してありましたが、尚困った事は此の村の人々は稗を常食として米を食べて居ないので、都会育ちの吾々にはこれが食べられない。詮方なくたうもろこしばかりで過ごして居りましたが天候は容易に回復せず、結局三日間太陽を殆ん仰がず、山へも登ることが出来ず引返して来ました。これが明治三十九年の事です。(以下略)
9月、「博物之友 六巻三十四号」に「雑録 シナノナデシコ甲州に産す・追悼一篇」を寄稿する。
9月20日。「植物学雑誌 第20巻236号 雑録」に「○りんねさうノ一新産地・○東駒ヶ嶽ノおほさくらそう」を寄稿する。
「○りんねさうノ一新産地」より、一部
(略)
本年八月、友人辻本満丸氏ハ、之ヲ甲州鳳凰山ニ得タリ、同草ノ新産地トシテ、又我国最南ノ産地トシテ、此ニ記スルノ値アルベシ。
○東駒ヶ嶽ノおほさくらそう」(全文)
 
本誌第十八巻第二百十号一三五頁ニ於テおほさくらさうヲ甲州駒ヶ嶽ニ得タル事ヲ記セリ、其ノ後之ヲ精検シテ、其ノ全クおほさくらさうニ非ズシテ、こいはざくらニ他ナラザルコトヲ確認スルヲ得タリ、此ニ之ヲ記シテ予ノ粗漏ヲ謝ス、同草ハ甲州ノ他ノ山ニモ亦之アリ。
                    
粗漏(そろう):大ざっぱで、手落ちがあること
 
また、同号に牧野富太郎が「植物新産地三報」の中で、「むじなも(Aldrovanda vesiculosa L.)上野国館林附近ノ沼池ニ産ス明治三十八年九月十日高野貞助君ノ見出採集スル所ナリ」と報告する。また「所謂(いわゆる)金線草トハ何乎(か)」と、問いかける。
所謂(いわゆる)金線草トハ何乎(か)(全文)
 金線草丁幾(チンキ)ト稱シテ坊間薬舗ニ鬻グモノアリ此金線草ハ其正名ニアラズシテ商人ノ妄ニ命ゼシ私名ナリ以テ世人ヲシテ其實物ヲ模索スルニ苦シマシム然カモ是レ地衣類ノさるおがせナリ
10月13日、日本博物学同志会第二十七回例会が開かれ「しらねにんじんニツキテ」を講演する。
10月20日、「植物雑誌20巻237号」に「○日本産はなわらびノ種類」を寄稿する。
はなわらび属即チ Botrychium ノ種類ハ、従来本邦産トシテ知ラレタルモノ、其ノ数僅ニ四五ニ過ギザリシガ、過般所蔵標本ヲ整理セントセシノ際、理科大学ノ標品ニ就テ調査シタリシニ、本邦産ノモノ、左の九種ヲ明ニスルヲ得タリ、即チ
和 名 学 名 備 考(要約)
ひめはなわらび
又へびのしだ
Botrychium lunaria 此ノ種ニ三品アリ高山ニ見ル処ノ種類
みやまはなわらび Botrychium lanceolatum 稀品
こはなわらび (新称) Botrychium simplex
ふゆのはなわらび Botrychium ternatum 最モ普通ノモノ
しまおほはなわらび(矢部氏) Botrychium daucifolium 台湾ニ産スルモノニシテ、矢部氏ノ検定セル所ニ係ル
おほはなわらび Botrychium japonicum 亦稀ナラズ
やまはなわらび
 (新称、牧野氏並ニ予)
Botrychium robustum 従来ふゆのはなわらび中ニ混雑シタルモノ、
なつのはなわらび Botrychium virginianum なつのはなわらびトながほのなつはなわらびモ亦相混ジテ共なつのはなわらびノ名ノ下ニ呼バレ居タリシガ、今之ヲ分チテBotr.strictum Underw.ニながほのなつはなわらびノ新称ヲ与ヘタリ、此ノ両種亦広ク本邦各地ニ分布セリ。
ながほのなつはなわらび
 (新称、牧野氏並ニ予)
Botrychium strictum
 右ノ外予ガ見ザル品種無之ヲ保セズ、斯学ニ忠実ナル諸君ガ本属植物ノ標品ヲ寄贈シテ、予ノ研究ニ資セラレンコトヲ希フ。(宛処ー東京市麹町区富士見町四丁目六番地 武田久吉)
11月の晴れ上った日曜日、友人と二人で高尾山→城山→小仏峠→景信山→陣馬ヶ峯→沢井村栃谷→与瀬→帰京    「あしなか110輯 相州栃谷の山ノ神」より
11月16日、帰山信順が没す。(39才・染井墓地)
11月、中井猛之進が日本博物学同志会に入会する。
11月、「山岳 第一年第三号 白馬岳籠城記(承前)(河田黙と共筆)」を寄稿する。
    同号に辻本満丸が「甲州鳳凰山と地蔵岳」を寄稿する。
11月、「博物之友 六巻三十五号」に「シラネニンジン等に就きて・熱帯の植物界・雑録 他一篇」を寄稿する。
11月20日植物雑誌 20巻238号」に「しらねにんじん並ニやまうゐきゃうノ學名ニ就イテ述ブ」を寄稿する。
(末尾の部分より)(略)即チ、此ノ種ハ、しらねにんじんが、本邦中部以北ニ産スルニ反シテ、専ラ、中部以南ニ居ヲ占メ、而シテ、其ノ額モ、彼ノ如ク多カラザルガ如シ、今予ガ知レル産地ヲ、挙グレバ、戸隠山・白馬ヶ岳ヲ最北トシ、八ヶ岳・浅間山・木曽駒ヶ岳・甲州地蔵ヶ岳等ニシテ、四国阿波ノ、剣山頂ノモ、亦其ノ産スルヲ知レリ、而シテ、此ニ特記スベキハ、此ノ種ガ、朝鮮ニモ産スルコトニシテ、同国済州島ノ羅漢山頂ニ、生ズルヲ知ル、即チ昨年、予ノ学友、市河三喜氏ノ、此所に採ル所ニ係ルモノニシテ、此地ノハ、我ハ剣山ト、略、同緯度ニアリ、若シ夫レ、更ニ、南方、台湾ノ新高山ニ、之ヲ見バ、愉快ノ事ナルベシ。
 予ハ、此ノ卑説ヲ終ルニ臨ミ、予ノ考査ニ、多クノ序言ヲ、与ヘラレタル、牧野富太郎先生ノ、好意ヲ深謝ス。
12月20日、「植物学雑誌20巻239号」に「ひよどりじゃうごトまるばのほろしノ漢名ニ就イテ・てんなんしゃう属植物ノ雌雄ニ就イテ・所謂金線草ニ就イテ」を寄稿する。
所謂(いわゆる)金線草ニ就イテ」(全文)
 金線草丁幾(チンキ)ト号シテ薬舗ニ販グモノノ原料ナル、所謂金線草ニ就キテ本誌第二百三十六号ニ牧野氏ハ其ノさるをがせニ外ナラザルコトヲ記サレタリ。此ノ草ヲ発見シタルハ三田幸蔵トカ云フ人ナリトノコトナルガ、古来甲州身延ニテハ、之ヲ「七面様のお草」ト称シテ販売シ、迷信者ハ購ヒ来リテ、風邪ニハ煎ジテ飲ミ、火傷ニハ其煎汁ヲ塗リ、以テ効アリトナセリ。此ノ植物ノ含有物ハ主トシテ単寧(タンニン)ナリト云フ。  注 関連論文 大正7年「山岳第12年第1号」に「甲州七面山の「御神木」と「萬歳草」」があり
参考:同号・雑報欄に樺太植物調査、「〇樺太植物ノ調査」が掲載される。
日露戦役ノ結果トシテ樺太ノ南半我帝国ノ販図ニ帰スルヤ我政府ハ直ニ人ヲ派シテ諸種ノ調査ヲ開始シタルガ我植物学界ニテハ札幌農学校教授宮部博士命ヲ奉ジテ本年ノ夏期休暇中彼ノ地ヘ渡航シ門下生農学士三宅勉氏等ト共ニ直ニ採集調査ニ着手シ夥多ノ採集品ヲ得テ帰ラレ引(略)
○この年、母を奉じて信州の諏訪湖や甲州和田峠を越えて御岳昇仙峡や差出の磯を見物する。
    この月七日から十日と記述あり。何月かは不明なため検討要 「明治の山旅・諏訪湖と昇仙峡付近、差出ノ磯」より
1907 明治40年 24
1月、「博物之友 七巻三十六号」に「マツの説(一)・雑録 ヤマウイキョウの最北の産地」他二篇を寄稿する。
2月9日、「日本博物学同志会 第二十四回例会に於いて「クルマユリの学名」を講演する。
   参集者:鳥山悌成・片平重次・高野鷹蔵・田中五一・武田久吉・南部洋・梅澤観光・大橋良一・矢野宗幹
         福田卓・江原竹二・寺尾新、岸田松若・守田豊蔵
2月、「博物之友 七巻三十七号」に「かきつばたの学名如何・札幌見聞記(第二報)・雑録 ミヤマハタザオの花の紅変」他三篇(韓国産ほそばゆりノ学名・『対生変ジテ輪生トナル』ニツキテ・)を寄稿する。同号に、南部生と記して「磐城角田(カクタ)附近ノニ匂ヲすみれ」が寄稿される。
参考資料 余昨春ヨリすみれヲ採集シテ十数種ヲ得、武田氏ニ送附して検定ヲ乞ヘリ、尚他ニ採集ノ見込充分ニアリ、其中ニテ香気ヲ放ツモノ左ノ如シ。 (一)えぞすみれ・・・(略)
2月、三好学が「植物学雑誌 第二百四十一号」に「名木ノ伐滅并ニ其保存ノ必要」を寄稿する。
      注 上記論文は「東洋学術雑誌23巻301号」からの転載であることを論文の冒頭に記載してありました。 2016・7・16 保坂
一 名木保存ノ必要
二 樹木死滅ノ原因
三 世界各国ニ固有ナル樹木并ニ絶滅ノ危険
四 外国ニ於ケル名木保存ノ計画
五 我邦固有ノ樹木并ニ古来ノ保存及ビ伐採
六 保存スベキ樹木ノ部類
一 土地ノ風致上密接ナル関係アルモノ、例、松島ノ於ケル松及ビ他樹
二 郷土ノ歴史ニ関係アルモノ又ハ記録的、口碑的ニ由緒アルモノ
三 紀念トシテ種植セルモノ
四 学術上珍奇ナルモノ、又ハ完全ナル標本ト認メラル丶モノ、例、江北村荒川土手ノ櫻

    拙著「日本植物景観」第四集第二十八図番
龍華寺ノ蘇鉄同上第三十一図番
五 美観上卓絶セルモノ、例、唐崎ノ松「日本植物景観」第四集第二十九及三十図番
(略)其保存スベキ価値ト必要ノ十分ニ知ラレザルモノ少カラズ、(げん)ニ一例を挙グレバ、札幌附近ノ藻岩山ノ如キ、(さいじ)タル一小嶺ニ過ギザレドモ、固有ノ樹木極メテ多ク、植物分布上頗ル注目スベキ勝区ナルハ、嘗テザルジェント氏ノ嘆賞シタル所ニシテ、氏ノ前記ノ書中ニ詳記セラレタルガ、予モ亦嘗テ札幌農学校ノ宮部教授ト此山ニ登リ、同教授ノ説明ニヨリテ其実況ヲ目撃シタリ(略) 
七 名木保存ノ方法
八 灌木、草本、水草等ノ保存
一 土地ノ開拓、道路ノ布設、田畠ノ新開等ハ何レモ其土地ニ固有ナル灌木、草木ノ減滅ヲ(以下略)
二 烟突ヨリ吐出スル有害瓦斯(亜硫酸及ビ其他ノ無機酸(ならび)ニ鉱物性毒分)又は(以下略))
三 種々ノ工場ヨリ流出スル下水中ニハ(しばしば)、有毒物質ヲ混ゼルガ為メニ、(以下略)




採集の劇甚ラルニヨリ草木、灌木等ノ種類ノ著ルシク減少シ、遂ニハ全ク其跡ヲ絶ツニ至ルコト多シ、是レ主トシテ園芸其他ニ用ヒラルヽ(略)アルプス山旅客ハ紀念トシテ山上ニ自生スルエーデルワイス(Leontopodium alpinum.)ヲ持チ帰ル他為メ、今ハ甚ダ其数ヲ減ジ、之ガ採集ヲ禁ズルニモ至レリ、我邦ニテモ御嶽登山者ガ争テこまくさヲ採リ去ルニヨリ、今ハ殆ド該山中ニ見ル能ハザルコトヽナレリ、(略)
九 結論
月12日、宮部金吾・三宅勉が「樺太民政署」から「樺太植物調査概報」を刊行する。
3月、札幌農学校講師に赴任する。 植物学雑誌21巻243号P110 転居の欄にも記載あり 2015・3・2 保坂
3月、「山岳 第二年第一号」に「東駒ヶ岳と白崩山とは同物か将又異物か・日光大地震大洪水大火日記」を寄稿する
   また、同号に梅澤観光が「武州御岳山及び大嶽山より大菩薩嶺を越えて甲州塩山に至るの記」を寄稿する。
大菩薩連嶺のスケッチと小金沢山のことなど/(略)東京から望岳の歴史が加えられていることは、甚だ興味がある。但し残念なことに、一、二是正すべき点があって、それを木暮君に知らせようと思い乍ら、遂にその機を逸したことである。即ち同書一一一頁に引用されている『山岳』第二年第一号に揚げられた、東京市中から遠望した御前山塊と大菩薩連嶺のスケッチなるものは、実は私が自宅の屋根の棟から跨って描いたものなのであって、たとい梅沢君の記文に挿入されたとしても、三角の中に人字を描いたようなサインは、久の字をもじったものなのである。ついでに申して置くが、私の大菩薩連嶺のスケッチに、大菩薩岳、大菩薩峠としたものは誤りないが、「初鹿野山」と考定したものは、実は熊沢山と天狗棚山とであり、その左に続く無名のものは、小金沢山なのである。そしてその妙見山から東に引く尾根と、前三頭と繋がるように描かれているのも、光線の工合でそう見えたためにそうなった誤りである。更に訂正を要することは、『登山講座』一一六頁のスケッチ中、オアキド(1048)メートルとあるのは、アマキドの誤りで、多分筆が滑ってマがアとなったものであろうが、この山名は私が大正時代に道志流域を歩いた時に、聞き出して来て、木暮君に報告したのが基であった。(略)  「アルプ89号 木暮君と私(二) P59より
3月、「博物之友 七巻三十八号」に「テンナンショウとマムシグサと区別あること・札幌見聞記(第三稿)・雑録 オオカニカワホリの新産地」他一篇を寄稿する。
3月20日、「植物学雑誌21巻242号」に「やまひめわらび(新称)」を寄稿する。
(冒頭の部分から)予ノ一友山中太三郎君、昨年八月信州夏澤峠(なるさわたうげ)ニ得タル処ノ一羊齒ヲ送リテ名ヲ質サル、就イテ見ルニ、予ガ未知ノ一種ナリシヲ以テ、其ノ名ヲ諸書ニ求メテ、遂ニ其ノCystopteris sudetica A, Braun et Milde.ニ該当スルコトヲ知ルヲ得タリ。(以下略)
4月、「博物之友 七巻三十九号」に「雑録 札幌通信」を寄稿する。 
5月、「博物之友 七巻四十号」に「雑録 札幌通信」他二篇を寄稿する。
7月22日〜27日、武田久吉、河田黙・梅沢親光・鳥山悌成と人夫を含めた9人が高遠を出発―戸台―赤河原―北沢峠―甲斐駒ケ岳―台ケ原に登山、白崩(しろくずれ)山と甲斐駒ケ岳の同一性を実地検証する。

 「山岳」第三年第一号 「白崩山に登り駒岳を降る 鳥山梯成・梅澤観光」より
      踏査のルートを赤線を加筆
「白崩山に登り駒岳を降る 
         鳥山梯成・梅澤観光」より

 一  白崩山
(略)此絶頂の此観に「十五夜前にこんな快晴は長の年月かかさず御参りしたわし等も、とても七八度しかありませなんだ」と大先達の言に、我等は深く天の殊籠を感謝した。早くついた二人の青年は摩利支天へと御参りをすませて戻って来た、大先達始め油屋さんと順蔵とは携へ來った白米を供物に捧げて観世音に礼拝に余念がない、我等は写真をとる、スケッチを作る。カメノコテントウムシ、カミキリの三種ばかりを瓶に収める。
 やがて、一行九人集まって胡瓜を齧
(かじ)った。一万尺に垂たる霊峰の頂巓(ちょうてん)、人は相親しんで自然の荘厳を語る、此時、我等は雇主ではなく人夫は雇人でない、一切の假名を脱した赤裸々の同胞で、携へ來った数箇の瓜の主は油屋さんで僕等はその御馳走にあづかった次第「旦那召上りませんか」と云はれた時には悦しかった、瓜より水がいゝ等と栄誉を云っては仕方がない。自然の美に人情の美が加って登山の興味は増して行く思ひがする。
 いつまでも眺めてもはてしがないので十二時三十分降りに。信州よりの白崩山登りはこれに終る。
二 駒岳
 甲斐の黒駒の名は白崩よりも世に知られておらう、これよりの道は武田君も
曾遊にかゝる熟路である。末と政は参拝ずみ故本道の順路を水雨天の方へと降り、残る七人は摩利支天へ降る、大先達は「どうぞ御先へ」と大貴已命を祀った、岩に一大鐡劔が立った三丁許あなたの祠に向ふ、「摩利支天で待たう」武田君が先に立ってトットッと花崗岩のばい爛した雪より白い砂の上を駈け下る一歩は一歩より急で速力は大きくなる。(略)
 ※曾遊:前に訪れたことがあること
踏査コース
飯田町→甲府→辰野→(乗合馬車)→高遠→東高遠・星野家(泊・
星野家は昔高遠の城主内藤大和守の家老)→(準備・人夫・篠田先達・伊沢金治・志賀順蔵・森末松・篠田政雄)(泊)→7月24日/黒河内→前宮→御鷹岩→乞食岩→戸台→三ツ石(ヒメバラモミ)→赤河原・大岩の小屋(泊)→7人が北沢峠へ、瀑発見できず大岩に戻る→大岩の小屋(泊)→7月26日/藪沢の瀑→刀利(とうり)天狗と刻んだ碑石(ハクサンシャクナゲ)→六合目刀利権現(約2550m)(ハイマツ・ゴゼンタチバナ・ミヤマキンバイ)→屏風岩の難場→(ハイマツ・ベニヒカゲ・クジャクチョウ・ヒメヒオドシが舞い・ハクサンイチゲ・アオノツガザクラ)頂上の三角櫓(白崩山=駒ヶ岳頂上)→麻利志天→ハゲの岩屋→阿留摩耶天狗の石碑→尾白川の岸→前宮→台ヶ原・竹屋(泊)→日野春  「明治の山旅・「白崩山・甲斐駒・異同の実地検証」」より
参考(部分)
(略)
山岳会が結成されて後、甲斐駒ケ岳と、信州でいう白崩山と同一か異物かという議論が起こり、その当時、山岳通として自他ともに許した小島烏水君は、異物説を固執して譲らない。何せ実測の地図の皆無な時代のこととて、地図によって決することは、不可能なのであったから、実地について検証する外ないので、明治四十年(1907)数名の友人と、長野県高遠から白崩講の先達を案内者として、戸台を経て登山し、その同一であることを確認して、台ヶ原に下山したことがある。(略) 「明治の山旅・甲斐駒」」より
7月、「博物之友 七巻四十二号」に「雑録 札幌通信」を寄稿する。
7月、北海道石狩國上川中学の安藤秋三郎が生徒を引率し、ヌタカムウシュペ山「大雪山」の植物採集を行う。 「博物之友 八巻四十八号ヌタクカムウシュペ山の植物に就きて」より
8月18日、日光女貌山嶺から帝釈山ニ至ル途中にて、キチョウ・スジグロシロチョウを発見する。博物之友47号P371
8月、「博物之友 七巻四十三号」に「雑録 南部日本アルプスの植物」を寄稿する。
9月東北帝大予科講師。(至明治42年11月)
10月20日、松田定久が「植物学雑誌21巻249号」に「金線草ト支那ニ産スルあかね属」を寄稿する。
11月、「博物之友 七巻四十六号」に「雑録 トキワマンサクの漢名」他一篇を寄稿する。
11月、辻本満丸が、「山岳 第2年第3号」に「鳳凰山第2回登山記」を寄稿する。
   また、同号に、城幹事宛で武田千代三郎山梨縣知事が瑞牆山や富士山についてを記した書翰(7月15日付)が掲載される。
12月、「博物之友 七巻 四十七号」に「林娜斯氏と林氏二十四綱・高山にて得たる二、三の蝶に就いて」を寄稿する。 注意 林娜斯は植物分類学の父リンネのことで期は誤植のため修正した。「武田久吉著作展 日本山岳会」より  2015・9・23 保坂記 
林娜斯氏と林氏二十四綱の冒頭部分
凡ソ自然界ニ趣味ヲ有シ博物ノ学ニ親ム者ニシテ誰カ林娜斯リネース)ノ名ヲ耳ニセザル者アランヤ、動植物ノ学名ノ終ニ L. ノ一字ヲ記セルモノ、是レ林娜斯ノ略符ニシテ、其学名ガ林氏ニヨリ命ゼラレタルヲ示スモノニ外ナラズ、世界各国ノ動植物、殊ニ欧州ニ産スル動植物ノ大部分ハ、概ネ林氏ノ命名スル処ニ係リ、一百数十年来世界ノ博物学者間ニ用ヰラレ、其学名ト共ニ命名者ノ名ヲ萬世ニ伝ヘツヽアルナリ。博物学ノ大改革者トシテ、将又近世博物学ノ開祖トシテ仰ガルヽ、此偉大ナル林娜斯(Carolus Linnaeus)ハ今ヲ去ルコト二百年即チ西暦一千七百〇七年五月二十三日スウヰーデン(下表へ)
西 暦 年齢  出 来 事
1707 5月23日、スウエーデン南部Smaland州 Rashut に生まれる。
1727 20 Lnnd(ルンド)ノ大学ニ入リ薬学ヲ学ビシガ、傍ラ熱心ニ植物学ヲ研究スルヲ怠ラズ、Vaillantノ論説 De sexu Plantarum (植物ノ性ニ就イテ)ニヨリテ始メテ植物ノ性ニ関シテ注意ヲ惹起シタリシハ実ニ此時ナリシト云フ。
1728 21 Upsala(ウプサラ)ノ大学ニ移リ、勉学ノ傍ラ神学者 Olaf Celsius ガ聖書ノ植物ヲ研究スルニ力ヲ借シタリシガ、越エテ
1730 23 Rudbekノ下ニテ植物園ノ管理者トナリス。此頃彼ハBibliotheca botanica ;Classes plantarum;Genera plantarum.ノ著    述ニ着手シ傍ラルートベック図書館ニ於テ動物学ノ研究ヲ始ムルニ至レリ。彼ガ大学ニ至ルノ間ハ多大ノ困苦ト缺乏ニ苦シミ、時ニハ破靴ノ修繕サヘ為シテ以テ資金ヲ得タルコト稀ナラズ、後Celsius 及ビ Rudbeckノ補助wp得タルコト鮮ナカラザリシト云フ。
1732 25 彼ハウプサラノ科学会ノ委嘱ニヨリテLapplandニ探険旅行ヲ行ヒ、Falunニ赴キテ鉱物学及ビ試験術ヲ教ヘタリシガ、次デ山岳地方ナルDalekarlienニ旅行シタリキ、彼ガラプランドノ探険ヨリ帰ル時後年彼ノ妻女トナリシ州医 Morausノ娘ヲ携ヘ来リシガ、此者ヨリ和蘭ヘ旅行スベキ費用ヲ得テHaderwijkニ於テ学位ヲ得タリ、後、Leiden及ビ Hartekan ニ留ルコト三年ニシテ Systema natulae;Fundamenta botanica(自然の体系)等ノ書籍ヲ印行セシメタリヤ。其頃 Baer have ハ彼ヲCliffort ニ推薦シタリシガクリフォートハ彼ニ自レノ植物園並ニせき葉庫ノ使用ヲ許シ、又
1735 28 彼ハストックホルムニテ初メテsystema naturae ヲ印行セシメシガ、本書ノミニテ十二回其版ヲ更メヌ、翌年→@
1736 29 暫時英国ニ旅行セシメタリ、翌年彼ハパリーニ遊ビ、帰リテ後 Stockholm ニテ医家トナリシガ、
→@アムステルダムニ於テ Bibliotheca botanica 及ビ Fundamenta botanica ノ両書ヲ公ニシ、其翌年ニハ→A
1737 30 Flora lapponicaヲ刊行シタリ、而シテ其採品ハ新品奇種ヲ含ムコト鮮ナカラザリシガ、之ヲ研究スルニ際シテ彼ノ Sexual system ハ初メテ企圖サレタルモノナリシナリ。(1732年のラプランド探険旅行で採集した大約537種を独特な分類法によって記述した。)→AGenera plantarum ヲ出版シタリシガ、続イテ、 Hortus Cliffortianus ヲ梓ニ上セタリ、此書中ニハ希少ナル外国産ノ植物ヲ記載シ、又其図ヲモ載セタリ
1738 31 Classes plantarum seu syst‘ma plantarum a fructificatione desumta ヲライデンニテ印行シタリシガ、其後ハ屡々諸種ノ論文ヲ草シ、其ノ大部分ハAmonitates Academica ニ集積サレタリ。
1741 34 ウプサラニ於テ薬学ノ教授トナリ翌年ルートベックノ死後其後ヲ襲ヒテ植物学並ニ博物学教授ノ職ニ就キヌ。此位置ニアリテ彼ハ植物園ヲ改革シテ世界ニ有名ナルモノトナシ。又博物館ヲ設立シタリキ、
1746 39 其著Schwedicshe Fauna ヲ刊行シタリシガ、其翌年侍医ニ任ゼラレ、ヤガテ彼ノ学生ヲ世界各地ニ送リテ天然物ノ探険ニ従事セシメ、自ハ益々其研鑚ノ歩武ヲ進メ、又其著書ニハ絶エズ増訂ヲ加ヘ、新版ハ毎ニ面目ヲ新ニシタリキ。(略)
1747 40 Flora zeylanicaヲ出版する
1748 41 Hertus upsaliensis 並ビニ Fioraceconomicaヲ出版シ、
1749 42 Materia medica 及ビ Pansuecicus ヲ公ニシ、
1751 44 重要ナルモノノ一ナル Philosophia botanica ヲ著シ、
1753 46 Species plantarum ヲ出版シタリシガ、此書ノミニテモ実ニ彼ノ名ヲ不屈ナラシムルモノナリ、
1754 47 Genera plantayum 第五版が出版される。
1764 57 彼ハ教職ヲ其子Karlニ譲リテ退隠シタリシガ、越エテ六十二年国王ハ彼ヲ北星騎士団ノ騎士ニ任ジテ貴族ニ列シス、彼ガKarl von Linne ノ名をヲ称シタルハ実ニ此時ニシテ、以前ハ Linnaens ノ名ヲ用ヒ居タルナリ。
1778 71 1月十日、ウプサラニ於テ、古稀ノ齢ヲコエテ逝ク。
1905 去ル一千九百〇五年ウヰーン府ニ開設サレシ万国植物学会ニ於テ議定サレタル植物命名法ニ就テハ、本書ニ記載サレタル植物ノ名目ヲ以テ、吾人ガ学問上用ユベキ最古ノモノト定メ、又属の性質ハ一千七百五十四年ニ出版セラレタル Genera plantayum 第五版ニ記載サレタルモノヲ用ユベシト決定シタリルヲ以テ見ルモ、是等ノ書籍ガ如何ニ重要ナルカヲ知ルニ足ラン、
                  
            同書論文より構成を変え作成し、二十四綱についての掲載は省略しました。 2015・10・4 保坂記
 ※「高山にて得たる二、三の蝶に就いて」の一覧
冒頭の部分から
(かつ)テハ熱心ナル昆虫採集者ナリシ予ハ一度之ヲ中止シテヨリ網ヲ揮ハザルコト数年ナリシガ両三年前ヨリ植物採集ノ傍高山ノ昆虫ヲ採集スルコトヲ初メタルガ元ヨリ片手間ノコトナレバ思ふ様ニハ行カズ只九牛ノ一毛ヲ獲テ帰ル次第ナルガ其ノ内蝶類ニテ予ノ捕獲セルモノニハ次ノ六種アリ同好者ノ参考ニモナランカト考ヘテ今左ニ記スコトトセリ。
くもまべにひかげ M38・8・19→信越境上ノ鑓ヶ岳字鑓裏ニテ初メテ採取、
M38・8・22→白馬ヶ岳頂上
M38・8・27→白馬ヶ岳字白馬尻附近ニテ多数花間ニ飛翔、 
くじゃくてふ M38・8・27→白馬ヶ岳頂上
M39・8・29→甲斐駒ケ岳ノ地獄谷ニテ採取
いちもんっじせせり M38→白馬ヶ岳上ニ籠居中
M38・8・24→越中下新川郡シューブ(塩頭)ヶ岳ノ連脈跋渉セル際
べにひかげ M39・8・29/M40・7・26→甲斐駒ケ嶽
M39・8・26→甲州鳳凰山中ニテ目撃シタリ。
ひめひおどし M39・8・29→甲斐駒ケ岳ノ地獄谷ニテ採取
M40・7・26→甲斐駒ケ嶽頂上
きてふ並ニすぢぐろしろてふ M40・8・18→日光女貌山嶺ヨリ山背ヲ伝ヒテ帝釈山ニ至ル途中ニテ此ノ両種ガたびたび灌木帯ノ間ニ飛翔スルヲ認メタリ元来下房ヨリ吹キ上ゲラレテ此ニ到リシモノナルヤモ知レザレド飛翔ノ状態ハ此ヲ棲息地トセルガ如キ観アリ。
1908 明治41年 25
1月、「博物之友 八巻四十八号」に「ヌタカムウシュペ山の植物に就きて」を寄稿する。
略)此の学術的登山者殆んど絶無なるヌタカムウシュペは。昨夏七月、当時石狩國上川中学校教諭たりし、安藤秋三郎氏に引率せられたる同校生徒等によりて登攀(とうはん)を試みられ、其際採集せられたる植物標品は、安藤氏より我が札幌農科大学助教授半澤農学士の元に送致せられ、予は幸いにして同学士より其標品を検することを委嘱されなるを以て、当大学のセキ葉庫に於いて、豊富なる所蔵標品と比較し、又書籍に考へて、此頃其の名称を明にするを得たり採品は全数五十種許りにして、同山植物の総てを網羅するにあらざるは勿論なりと雖(いえど)も、此山の植物に関する最初の智識なるを以て 特に本誌の余白を借りて報告することとしたり。(略) ※セキ: 月+昔の合字
参考 ヌタカムウシュペ山で採取した「はくさんばうふう」関連の資料
一昨年予ハ半澤農学士ノ依頼ヲ受ケテヌタカムウシュペ山産ノ標本を検定セルノ際、はくさんばうふうノ標本アルヲ見、直ニ農科大学せき葉室ニ就イテ其他ノ産地ヲ知ラントセシモ、はくさんばうふうノ屬包中只一個ノ白馬岳産標品ヲ蔵スルニ過ギザルヲ見ルニ止マリシガ、終ニ其ノ数個ヲやまぜり即チ Augelica Miquciana ノ属包中ニ発見シ得タリ、(略) 「博物之友 第五十九号 北海植物瑣談(其二) P17」より
植物採集の区間 科名 和名(No) 科名 和名(No)
チュフペツ川上流〜
ヌタクカムウシュペ山
 入口
禾木科 ミヤマイチゴツナギ(14) 十字花科 ミヤマガラシ(2・11)
かやつりぐさ科 ヒゴクサ(10) エゾワサビ(16)
イハキンスゲ(3・9) いばら科 アヅキナシ(8)
ショタイサウ(5) あかばな科 此種ならんかと思はるゝ僅少の標品あり、不完全と不充分なるの為に断定する能はず (9)
マシケスゲ(14) ヒメアカバナ(7)
なでしこ科 ミミナグサ(6) 繖形科 オホカサモチ(4)
ノミノフスマ(17)
船来植物の野生せるものにして本島往々之を見る
唇形科 ミソガハサウ(1)
うまのあしがた科 モミジショウマ(15) あかね科 カハラマツバ(13)
十字花科 ミヤマハタダホ(12)
菊池小 のきしのぶ科 ヤマソテツ(13) めぎ科 ウメバチサウ(21)
ひかげのかづら科 lycopodium complanatum.L.(9)
アスヒカツラ(9)
いばら科 コガイチゴ(4) 子
らん科 コウチエフラン(3) かへで科 ヲガラバナ(14)
ミヤマフタバラン(2) あかばな科 ミヤマタニタデ(10)
イチエフラン(5) 繖形科 ハクサンバウフウ(16)
ホソバノキソチドリ(20) しゃくなげ科 エゾツツジ(12)
なでしこ科 ナデシコ(19) さくらそう科 ツマトリサラ(1)
うまのあしがた科 ウメバチモ(6) すひかづら科 ウコンウツギ(15)
めぎ科 ナンブサウ(8) きく科 ミミカハホリ(11)
サンカエフ(7) アキノキリンサウ(18)
アラシグサ(17)
山腹より頂上に至る間 かやつりぐさ科 アゼスゲ(30) しゃくなげ科 イソツツジ(29)
ゐ科 ミヤマヰ(30) ズワウ(34)  子
なでしこ科 イハツメクサ(24) キバナシャクナゲ(25)
うまのあしがた科 キンバイサウ(27) いはうめ科 フキツメサウ(23)
ゆきのした科 クモマグサ(26) さくらさう科 エゾコザクラ(29)
いばら科 チンクルマ(28) りんだう科 ミヤマリンダウ(33)
しゃくなげ科 イハヒゲ(31) ミツガシハ(22)
ヂムカデ(32)
以上五十四種の植物は安藤氏より送られたる標品の全数にして、これを以てヌタカムウシュペ山お植物の如何を談するは早計の誹(そしり)を免れざるべけれど、其大部分は他の高山に通用なるものにして、特に珍と謂ひ奇と言ふに足るべきものなしと雖(いえど)、亦其或者は北海道の他の高山にも稀なるものなきに非ず、亦或者な内地に稀ならずして、北海道として珍なるものも之れ、有るなり。尚此山の植物の詳細は他日自ら踏査し而して之を記さん。
  注意 この表では学名を省略、実際の報文では、学名の後に番号が付与されていましたが、ここでは和名の後に付与しました。
        この
「番号は安藤氏より附して送られたる標品の番号なり」との記述があったため 保坂記
2月、
「博物之友 八巻四十九号」に「雑録 オランダミツバとオランダセリ」を寄稿する。
2月、「植物学雑誌第二百五十三号」の「邦文新著紹介」欄に「●武田氏「林娜斯氏ト林氏二十四綱」博物之友第七巻第四十七号」が紹介される。
昨年ハ林娜斯氏ノ々ノ聲ヲアゲシヨリ二百年目ニ該当スルニヨリ端典國ニテハ紀念ノ著述二冊ヲ作リ過日本会ヘモ寄附シ来リシコトアリシガ武田氏ハ恰(あたか)モ良シ此紀念ノ歳ニ際シ筆ヲ採テ林娜斯氏ノ履歴ヲ延ベ終ニ所謂林氏二十四綱ヲ説明セリ。(川村)   こ: 月+瓜 漢字変換不能
5月、「博物之友 八巻五十二号」に「植物界に於ける巨漢」を寄稿する。
5月17日、山岳会第一回大会が東京地学協会会館に於いて開催される。
会則第五条により、去五月役員を改選したるに、左も八氏当選したり、皆重任なり。(イロハ順)
河田 默 高頭  式 高野 鷹蔵 武田 久吉
辻本 満丸 梅澤 観光 小島 久太 城 数馬
    陳列室出品目録(イロハ順)  
今村 巳之助(寄贈) 金精嶺写真                         一
地学協会(出品)
伊能忠敬自測日本全図 一折 伊豆群島図 一折
日本全国海道折図 一折 小笠原之図 一折
エゾ古図 一折 朝鮮金剛山屏風
日光山志 五冊 欧洲亞西亞模形図
大下藤次郎(出品) 水彩画八点
日野春より見たる甲州駒ヶ岳 梓川及焼岳
赤城小沼より黒檜山を望む 野尻湖より黒姫山を望み
雨の上高地 妙高山腹より苗場山を望む
上高地の穂高山 磐梯山火孔
高頭仁兵衛(出品)
日本与地全図 長久保赤作(初版)
   
天明三年刊行(凡百二十五年前)
一折
一折
佐渡全図(写)文政五年作(凡八十六年前)
能州名所図絵(写本)
一折
十冊
日本山海図道大全 石川流宣画
    元禄十六年刊行(凡二百五年前)
一折 近江国大絵図 山下重政作
    寛保二年刊行(凡百六十六年前)
一折
扶桑国之図
    寛文二年刊行(凡二百四十六年前)
五巻

雷鳥夏毛雌雄



東海道分間之図 菱川師宣画/正徳元年刊行
田中阿歌麿(出品) (省略)
武田久吉(出品)
増訂大日本輿地全図 一折 官版実測日本図地 北蝦夷 一折
官版実測日本図地 蝦夷諸島 一折
辻本 満丸(出品)
五海道中細見記 安政五年刊行 木曽御岳山全図 明治二十六年
和州大峯山之略図 明治二十七年 ヒマラヤ山写真
同西の覗き写真 御守札 一束
同登山用釋杖
梅澤 観光(出品) 一 伊豆七島全図 附無人島八十与図/相武房総海岸図 不詳市売 同版五百部        一
一 関東路程図 弘化丁未 長山貫作 須原屋伊八/若林喜兵衛 求校            一
一 日光之部                                      六
日光御山之絵図 御絵図所植山弥平 日光内眞図 鬼平金四郎 明治十九年
日光山全図 小林治郎 明治二十年 日光山中禅寺温泉記 林田丞太郎 明治卅四年
日光両者名所図絵 高塚東太郎 明治二十九年 日光名所獨案内 小林次郎 明治十四年
一 諸国温泉一覧        明治二十二年
一 案内記図
妙高山赤倉温泉之図 武田常吉/明治卅六年 大和国多武峯 談山神社之図 記述なし
会津東山温泉浴場全図 山内糺/明治卅年非売品 改正身延山全図 (省略)
野州塩原温泉之図 池田善太郎/明治廿五年 天台宗総本山比叡山延暦寺略図 (省略)
下野国塩谷郡塩原温泉之図 君島弥平/? 天台宗総本山比叡山延暦寺伽藍絵図 (省略)
下野国塩谷郡塩原温泉独案内 池田六兵衛/明治廿年 上野国金洞山中之岳眞景 (省略)
上野国四方温泉全図 加納政吉/明治卅七年 茨城縣常陸国筑波郡小影筑波神社全図 (省略)
皇国第一等之温泉
豆州熱海全図
重田吉兵衛/記述なし 上野国榛名山眞図
武蔵国御岳山全図
(省略)
(省略)
伊香保鉱泉明細全図 加藤六郎/明治廿五年 写真版捜画笠置山及月瀬名勝記一冊 (省略)
那須諸温泉之景 川名伊五郎/明治卅年
一 三峯山誌  全 石倉重継著/明治卅九年
理学士山崎直方(出品) (省略)
小島 烏水(出品)
富士山写真帖 植物景観
富士山十二景 一組 ヒマラヤ山
日本群島火山形成 アルプス案内記
箱根外輪山写真 マッキンレイー山探検記
木曽御岳舊図 アルバム
高山植物叢書
山岳会(出品) (省略)
理学士白井光太郎 出品 (省略)
理学博士神保小虎 出品 (省略)
神東惇(出品) (省略)
城 数馬(出品) (省略)
尚、この陳列に関し目録を記述した著者は、「謝辞一束」のなかで特に「○地学協会幹事小林房次郎氏は種々斡旋の労を執られ多大の便宜を与えられたるを深謝す。」と、その労をねぎらいました。  小林房次郎は津久井郡青根村出身で「火山」や教科書として使われた日本や世界の地図帳等を発刊しました。          「山岳第三年第二号 会報」より  2014・11・24 保坂記
5月20日、「植物学雑誌第二百五十六号」の「邦文新著紹介」欄に「●武田氏『ヌタカムウシュペ山ノ植物ニ就キテ』(博物之友第四十八号)」が紹介される。また、同号に「○メンデル紀念資金」のことについても掲載される。
 安藤氏採所ノ植物ニ就キテ鑑定シ其五十四種ノ学名、和名、ヲ挙ゲヌタカムウシュペ山ハ海抜七千余尺北海道ノ最高峯然モ採集登山者絶無ナリシモノナレバ本邦高山植物ニ興味ヲ有スルモノヽ一読ヲ要ス、  (川村)
6月30日、東京へ帰京する。
7月12日〜21日、大下藤次郎が弟子三名を連れて、尾瀬の写生旅行を行う。
(略)私の尾瀬旅行は、その翌年4月発行の『山岳』第1年第1号に掲載された。これに目をとめた風景画家の大下藤次郎氏は、弟子の森島直蔵、八木貞裕、赤城泰舒の3氏を伴い、明治41年(1908)7月12日東京を出発して沼田泊り、翌日は追貝へ、14日に戸倉に到着、玉城屋で用意万端を調え、翌15日荷物は馬背によって尾瀬沼まで運ばせ、身軽になって尾瀬に向かった。三平峠についたのは12時すぎ、予定では槍の突出しにあたる大林区暑とかの小屋を根城にするはずであったが、破損はなはだしく使用にたえないというので、最後には桧枝岐の漁夫に教えられて、奥沢右岸あたりらしい所にあった数軒の小屋の右端のものに陣取って、写生に数日を送った。(略)20日晴・下山予定の日なので荷をまとめ、涙をのんで戸倉まで下った。21日 半晴・朝6時半銘々で荷を背にして戸倉を出発・土出から蛇ー峠を越して東小川へ、それから一ノ瀬をへて金精峠を越え、日光湯本まで歩いて全行程を歩き、湯本に着いてもなお余裕があって、湖畔に散歩したという。足弱のこの人達、しかも登り道を戸倉から1日で来られるのに、私の雇った「勝」は遠くて1日には行かれぬと欺いたのであった。大下氏の記事はその年の11月18日臨時発行の『みづゑ』44号の「尾瀬沼」に載った。これまた尾瀬を文化人の間に紹介する点においてひと役買ったわけであるが、これとてすでに半世紀以上も前の事になる。  ー日本山岳協会会長 理博ー 昭和36年7月 「遺伝 VoL15 No7 尾瀬発見記」より
8月、北海道利尻島に於いてエゾコザクラを採取する。 1913・「日本産のサクラソウ類(属)についての標本」より
9月、「博物之友 八巻五十四号」に「ネジバナの花序のねじれ方に就いて」を寄稿する。
11月「博物之友 八巻五十七号」に「富士山を越ゆるの記(中)」を寄稿する。
11月、風景画家、大下藤次郎が『みづゑ 第四十四号』に尾瀬の風景を記した「尾瀬沼」を発表する。
(略)尾瀬ヶ原に達した時の時の感想を、尾瀬ヶ原へ出た時は、暫時口もきけなかった。活きて甲斐ある事をつくづく感じた、風景画家として、かかる天然に接する事の出来た身の幸福を心から感謝した、ア丶此の大景、この美観、吾輩はこの刹那の感を忘れぬであろうと筆にしている。(略)  武田久吉「懐古の尾瀬」より
1909 明治42年 26
1月、「博物之友 九巻五十八号」に「北海植物瑣談(一) ハシガキ・ふくじゅさう」を寄稿する。
ハシガキ(全文)
北海ノ客トナリテ既ニ二星霜ヲ経、所産ノ植物ニ親灸シテ、ヤ丶其ノ一部ニ通ズルヲ得タリ。従来世ニ知ラル丶コト多カラザル、北海ノ植物ヲ、日本内地ノ同好諸君ニ紹介スルハ、本会員タル予ノ義務ナリト信ジ、敢テ特有ノ者ニ限ラズ、其ノ奇ナルト凡ナルトヲ問ハズ、苟モ北海ニ生育スル植物ニシテ、予ノ凡眼ニ映ジタル者ニ関シテ、雑駁ナル記述ヲ試ミ、之ヲ蒐メ録シテ、北海植物瑣談トイフ。/げんニ本篇ヲ記スニ当リ、予ノ植物探求ニ就キテ、多クノ便宜、補助ヲ与ヘラレタル、植物学教室ノ諸氏、殊ニ常ニ予ヲ教導サレ、加之、せき葉庫ニ蔵スル豊富貴重ナル標本ヲ検シ、又、充棟ノ図書ヲ関スルノ自由ヲ与ヘラレタル、宮部(金吾)博士ノ好意ニ対シテ、特ニ深厚ナル感謝ノ意ヲ表ス。
2月、「博物之友 九巻五十九号」に「北海植物瑣談(二)」を寄稿する。
3月、「博物之友 九巻六十号」に「北海植物瑣談(三)」を寄稿する。
3月、中井猛之進(共著)と「植物学雑誌23巻第266号 p46〜84」に「済州島の植物(Plantae ex insula Tschedschu)」の研究報告を行う。 pid/2360940
   また、同号に中井猛之進が「日本産しほがま屬 p98〜101」を発表する。
3月、志村寛(鳥嶺)が、「成美堂書店」より「高山植物採集培養法」を刊行する。
参考 「第一章 總説 第四節 高山植物の研究」より(P10〜13)
高山植物の研究は、植物分布學上缺(か)くべからざるのみならず、植物生態學及植物形態學研究上、一日も忽諸(こつしょ)に附すべきものにあらず。特に其の培養法に至りては、深く研究するの必要ある事、余が言を俟(ま)たずして明なり。然るに本邦には、未だ高山植物と専攻せる學者なく、其の培養法の如きは、實に幼稚の域を脱すること能はざるは、頗る遺憾とするところなり。海外に於ける高山植物の研究は、(略)/本邦にありては、他の科學に比して、植物の研究夙く開けたり。小野蘭山(本草綱目啓蒙著者)、水谷豊文ほうぶん(物品識名著者)、山本亡羊(ぼうやう)(百品考著者)、伊藤圭介、飯沼慾齋(よくさい)(草木圖説著者)、等皆人の知れるところなり、特に飯沼氏の圖説の如きは、實に一世の大暑なり、その着眼非凡にして、従來の本草學者が、爲せしところに倣(なら)はず、全く學術的に記述分類したれば、今日にありても學者に裨益(ひえき)を與かること尠(すくな)からず。/外人にして、本邦の植物を研究せし人々には、ケンフェル氏(獨人外國新聞記者)、ツンベルク氏(日本植物誌著者)、シーボルト氏、ミケル氏、サパチェー氏、マキシモヴェチ、グレー氏等あり。以上本邦植物研究の泰斗(たいと)、小野蘭山以下の人々も、特に「高山植物」に就きて研究せしにはあらざれとも、高山は實に植物の種類に富めるが故に、皆高山植物を採集研究(さいしふけんきゅう)を爲さざるものなし。近代に至りては、矢田部博士、松村博士、三好博士、牧野氏等、高山植物の研究に、多大の裨益(ひえき)を與へられし大家なり。(略)
     裨益(ひえき):ある事の助け・補いとなり、利益となること。役に立つこと。
        泰斗(たいと):(泰山や北斗のように)世間から重んぜられる権威者。その道の大家。
参考 第四章 日本高山植物産地及植物目録
第一節 白馬嶽植物目録 第十二節 月山及植物目録(安田氏による)
第二節 針木峠及越中立山植物目録 第十三節 早池峰山植物目録
第三節 有明山、燕嶽、大天上、常念嶽及槍ヶ嶽植物目録 第十四節 岩手山植物目録
第四節 戸隠山、飯綱山、黒姫山及妙高山植物目録 第十五節 八甲田山植物目録
第五節 八ヶ岳植物目録 第十六節 岩木山植物目録
第六節 加賀白山植物目録 第十七節 マカリヌプリ山植物目録   
第七節 富士山植物目録 補遺 木曾御嶽植物目録
第八節 日光山、白根山植物目録  〃 木曾駒ヶ嶽植物目録
第九節 尾瀬沼付近(早田氏による)  〃 江州伊吹山植物目録
第十節 飯豊山植物目録  〃 勢州菰野山植物目録
第十一節 鳥海山植物目録
     マカリヌプリ山→羊蹄山
   
注 目次と本文の表記が一部違っていましたので本文の内容に合わせ訂正しました。2017・6.7 保坂
3月、辻本満丸が「山岳 第4年第1号」に「鳳凰山に採取する植物の目録」を寄稿する。
3月30日、北海道樽前山が大噴火、溶岩を噴出する。 母・兼に宛てた「絵はがき」より
4月、「博物之友 九巻六十一号」に「富士山を越ゆるの記(下)」を寄稿する。
参考 会告 博物之友 九巻六十一号の記述より
従来本会会員にして山岳会会員たる人は同会会費減額の規定に有之候処右は爾(その)後廃止致す事に相成候に就き同会とは全然関係なきものと御承知相成り度候明治四十二年三月日本博物学同志会
5月、「博物之友 九巻六十二号」に「北海植物瑣談(四)」を寄稿する。
    ○エゾキンパウゲ ○ノウガウイチゴ ○ヤチカヅラ ○クモノスシダ 
5月9日、樽前山大噴火の絵はがきを母・兼(かね)宛てに投函する。
    
   「日本にて稀なる大噴火をなし/溶岩を噴出したるタルマイ山噴火の景」と記す。(書面右上)
5月11日、札幌郊外、藻岩山でオオヤマザクラを採集する。国立科学博物館蔵(TNS−29170) 
5月16日、柳田國男、山岳会第2回大会で「山民の生活」を講演する。

5月30日、札幌郊外、丸山でオオヤマザクラを採集する。国立科学博物館蔵(TNS−29169) 
6月28日から8月19日まで、色丹島をはじめとする北海道内の植物採集旅行を行う。
6月28日 札幌→岩見沢→沼ノ端・広瀬(泊)(ハマナシ・ウラジロタデ)
6月29日 沼ノ端・広瀬→勇払の泥炭地(スゲ類・ヒメワタスゲ・ミズゴケ・ネバリノギラン・ミズドクサ・ウラジロタデ)→ユープトゥ(センダイハギ・ハマエンドウ・ハマフウロ・コウボウムギ・コウボウシバ・ハマニガナ)→旭川・越前屋(泊)
6月30日 旭川・越前屋→(オニシモツケ・カシワ)辺別→狩勝→十勝原野(カシワ・アカネムグラ(後、宮部博士によって新種として記載))→帯広→釧路(泊)
7月1日 釧路、午前中、今まで採集した植物を圧搾整理したり書面の発送などを行う。(ウマノアシガタ・オオダイコンソウフウロソウ属の一種・タンポポ・オランダゲンゲ・オオサカモチ・キショウブ・オダマキ・ヒナギク・ワサビダイコン)→真砂町通りを東して旅館(泊)
7月2日 旅館→ハルトゥロ沼(エゾノクサイチゴ・キミカゲソウ・コウボウシバ・ハマニガナ・ハマニンニク・アヤメ・バイケイソウ・ハマハタザオエゾツルキンバイ・クロバナロウゲ)→宿に帰り沼ノ端での採集品を手返しし、今日の採集品を圧搾する→汽船に乗る→根室(船内泊)
7月3日 根室へ6時入港→弥生町の斉藤元吉宅へ、降雨のため荷物を整理、午後は圧搾紙を換え、雨が止まないので、火熱を用いて吸湿紙を乾かしたが、夜になっても止む気配だにない。(泊)
7月4日 斉藤元吉宅(海岸でスガモ)→花咲→斉藤元吉宅(泊)
7月5日 斉藤元吉宅→ピンネトゥケモイ(エゾノクサイチゴ・ウマノアシガタ・ヒオウギアヤメ・ハクサンチドリ・チシマフウロ)→シュナパウシ(スゲの類・アヤメ・ウマノアシガタ・カシワ・ヤマハンノキ・シラカンバ)→コタンケシ(ハマベンケイ・ハマハコベ・海にスガモ)→斉藤元吉宅(泊)
7月6日 斉藤元吉宅→根室半島の南岸、山県牧場の湿地(コツマトリソウ・サギスゲ・アヤメ・クロユリ・池中にミズドクサ・ミズニラには出遭わなかった・ミツガシワ・コウホネ・)→ナンブトウの沼畔(コツマトリソウ・水中にミズドクサ・ヒンジモ(品字藻))→斉藤元吉宅(泊)
7月7日 採集品が多いため、吸湿紙が不足となったので、この日は外出を中止して、吸湿紙の乾燥と採集品の手返しに終始した
7月8日 斉藤元吉宅→穂香(ほにおい)(ウシオツメクサ・ハマフウロ・フタマタイチゲ・アヤメ・エゾゼンテイカ・)斉藤元吉宅(泊)
7月9日 斉藤元吉宅山田池(ヤマブキショウマ・ヤナギトラノオ・エゾツルキンバイ)→弁天島(エゾツルキンバイ・ハマニンニク・ハマハコベ・ヒャマエンドウ・エゾヒナノウスツボ)斉藤元吉宅(泊)
7月10日 斉藤元吉宅ノトゥカマップ岬(ハマフウロ)→コタンケシ(サギスゲ・ワタスゲ・ツルコケモモ・スゲの類)(ユキワリコザクラ・カムイヨモギらしいもの)→ノトゥカマップ岬(ベンケイソウの類・イヌナズナ・キタミソウと思われるもの・ハマエンドウ・ユキワリコザクラ・シロイヌナズナ・チシマキンバイ)斉藤元吉宅(泊)
7月11日 斉藤元吉宅→花咲丸の見送り→ハッタラ→斉藤元吉宅(泊)
7月12日 斉藤元吉宅ナンブトウ(ハマナシ・ヘビノシタ)→トゥモシリ(シロイヌナズナ・イゾイワベンケイ・ホソバノキリンソウ・ネムロシオガマ・ユキワリコザクラ・スゲの種類)→トゥモシリ岬(アヤメ・チシマフウロ・ハマフウロ・ナガバツメクサ・ネムロシオガマ・ミミナグサの類・チシマキンバイ)→海岸(エゾイワベンケイ・シロイヌナズナ)→友知村斉藤元吉宅(泊)
7月13日 斉藤元吉宅→(雨天)→斉藤元吉宅(泊)
7月14日 斉藤元吉宅→雨天、色丹島、渡島準備
7月15日、根室から西久丸に乗船、色丹島に向け採集旅行を行う。
7月15日 根室→(西久丸で出航)シイショウ(訛って水晶島)→ウリリ島→志発島→タラウク島→シコタン島・シャコタン港(午前3:30
7月16日 シャコタン入港(PM3:30)→戸長遠藤次郎に面会→シャコタン湾東岸→シャコタン湾西岸(ハマニンニク・コウボウシバ・シロヨモギ・シロツメクサ・ヒメスイバ・スズメノカタビラ・オオバコ・スギナ・ヤマヨモギ・コウゾリナ・チシマフウロ・チシマセンブリ(白馬山に生ずるものを別種と考えタカネセンブリと命名)→(泊)
7月17日 島の東端(ネマガリダケ・チシマヤマブキショウマ・スゲの類・ヨモギ・キオン・ヒオウギアヤメ・ヤマハハコ・ミヤマアキカラマツ・アカネムグラ・エゾカンゾウ・ナガホシシロワレモコウ・チシマアザミ・ミネヤナギ)(ミネヤナギ・オニシモツケ・ケヤマハンノキ・tゾツツジ・ヤマブドウ・ミヤマハイビャクシン・ハイマツ・ゴゼンタチバナ・イワツツジ・ヒカゲノカズラ・イワウメ・ミヤマダイコンソウ)→シャコタン山頂上(ヨツバシオガマ・ムカゴトラノオ・チシマルリソウ・コツマトリソウ・チシマフウロ・ミヤマダイコンソウ・エゾツツジ・キバナシャクナゲ)→三等三角点(413m)(コダマソウ(ミヤマエンドウ)・ムカゴトラノオ・カタオカソウ・ウラシマツツジ・チシマヒメイワタデ)→西北に向かって頂上の草原を横断(キバナシャクナゲ・ガンコウラン・コケモモ・チシマイチゲ・ムカゴトラノオ・リシリシノブ・ミヤマハイビャクシン)→山頂の北端を東へ(ミヤマハンノキ)→墓(タカネトンボ(昆虫)・センダイハギ)→海浜近く(エゾツルキンバイ)→戸長役場(に戻り泊)
7月18日 戸長役場近傍を採集(ハマナシ・エゾボウフウ・ウンラン・オオダイコンソウ・キバナノカワラマツバ・ハマニガナ・コブノキ・コウゾリナ・コウボウ・エゾイラクサ)(ヨモギ・クサヨシ・トドマツ・シラネワラビ)→峠の頂上、東南岸のチポイを眺め帰路へ(湿原にバイケイソウ・サギスゲ・モウセンゴケ・コケモモ・ツルコケモモ・マルバンモツケ?(マルバシモツケか)・イソツツジ・エゾオタカラコウ・キンロバイ・イブキヌカボ・エゾカラマツ・ケヤマハンノキ・オオブキ・ヒロハノドジョウツナギ・ミミコウモリ・ホザキシモツケ)→役場
7月19日 役場→マタコタン川を渡る→マタコタン湾の東岸(チシマセンブリ・ナデシコ・チシマフウロ・キバナノカワラマツバ・シロヨモギ・ハマフウロ・ノコギリソウ・キリンソウの一種・ハマナシ・ハマニンニク・エゾツルキンバイ)→対岸に海岸を歩く(シコタンハコベ・エゾイワベンケイ・エゾツツジ)→アナマ荒井氏の漁場
7月20日 →西方の崖に登り採集→
7月21日 →海浜に採集を試みる(チシマゲンゲ・アカバナの類・カラフトニンジン)
7月22日 →付近を散策(ハマニンニク・エゾヒナノウスツボ)
7月23日 →漁舟に便乗、西の方ポロペツの河口(キンロバイ・チシマルリソウ・ウサギギク・キリンソウの一種・ハマニンニク・ハマニガナ・シロヨモギ・ウラゲヨブスマソウ・チシマセンブリ・ハマハコベ・シオマツバ・ハマイ・ヒオウギアヤメ)
7月24日 →採集品の整理→
7月25日 →追分→ポロペツ湿原北沿→ノトロ川を下る(水中にスガモ・アマモ・地上にタイセイ・シオマツバ)→ノトロの漁家→トッカリマスバの漁家(泊)
7月26日 トッカリマスバの漁家→ノトロ→江湾を渡り桃木漁場(シオガマギク・チシマフウロ・ノコギリソウ・湿地にガンコウラン・コケモモ・)→出張(ではる)の任田半次郎宅(アサギリソウ・シコタンハコベ・マルバトウキ・エゾイワベンケイ・キリンソウの一種)→  
7月27日 任田半次郎宅・出張の附近(キンロバイ・タカネナナカマド・ガンコウラン・コケモモ・キバナノカワラマツバ・チシマフウロ)→仙台湾〜切通しの間(オオヤマサギソウ・ホソバノキソチドリ・タカネトンボ)→松ヶ浜(エゾリンドウ・ゴマナ)ポロペツ湿原(オオメシダ・イワガネゼンマイ)→追分→アナマ湾奥の番屋→→アナマの荒井氏宅(泊)
7月28日 アナマの荒井氏宅→コマイという帆船→トッカリマスバ上陸し採集→帆船(泊かは不明検討要
7月29日 小舞船は荷役のため終日ここに碇泊するため上陸して採集(ハコベやノボロギクの外来種)→夜10時根室に向け出帆(汽船と衝突しそうになる)
7月30日 →夜11時30分に根室港に投錨(泊)
7月31日 朝6時根室上陸、斉藤元吉宅に戻り、根室を中心に採集の日々を送る。
(国後島に行くという広告を見て待っていたが船はついに入港しなかったため計画を取り止め)
8月17日 準備→夜10時十勝丸に乗船(泊)
8月18日 午前4時出帆→釧路→ハルトル沼(エゾノミズタデ)
8月19日 釧路→落合(泊)→8月20日午後4時50分・札幌に帰着
                    「明治の山旅・北海道内の採集旅行ーシコタン島とシャコタン山ー」より
                    参考 武田博士学位論文 「色丹島植物誌」の中の色丹島地図
                                    
11月、「博物之友 九巻六十八号」に「北海植物瑣談(五)」を寄稿する。
11月3日、柳田国男が「山岳 第4年第3号」に「山民の生活」を寄稿する。
「柳田先生と私」より
(略)明治四十二年五月十六日に催された山岳会第二回大会の折の柳田先生の講演「山民の生活」は拝聴の機なく、ただその筆記を、その年の夏に発刊の『山岳』第四年第三号の誌上で一読したのであったが、まことに示唆に富む一文で、その前から諸方でいろいろな地名に出あって、それに多少の関心を持ち始めた私にとって、この講演筆記には、啓発されること鮮少でなかった。(略)
11月20日、「植物学雑誌23巻274号」に「○転居 麹町区富士見町4丁目6番地」の知らせを行う。
12月、「博物之友 九巻六十九号」に「北海植物瑣談(六)」を寄稿する。
12月、「植物学雑誌23巻第274・275(Botanical Magazinc.Tokyo Vol.]]TTT.No 274 und 275)」に「日本ーサハリンのヒカゲノカズラ類について(Lycopodialen Hokkaidou.nebst denen von Japanisch−Sachalin)」の研究報告を行う。
1910 明治43年 27
1月20日、「植物学雑誌24巻第276号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)」を寄稿する。
    
Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido(1)〜(6)
2月20日、「植物学雑誌24巻第277号」に「nouvelles calamagrostis du japon日本産のがりやす属(Calamagrostis)ノ新品種ニ就テ」を発表する。 

みやまのがりやす
たかねのがりやす(新称)
ひめみやまのがりやす(新称)
Calamagrostis.urelytra HACKEL.
α macrantha TAKEDA.
β parvigluma TAKEDA.
γ pumila TAKEDA.
ひながりやす(新称) C.nana TAKEDA.
みねのがりやす(新称) C.levis TAKEDA.
おほひげがりやす(新称)
ながひげがりやす(新変種)
C.grandiseta TAKEDA.
※1 var
longe−aristata TAKEDA.
おくやまがや(新称) C.subbiflora TAKEDA.
あをのがりやす(新称) C.viridula TAKEDA.
おにのがりやす(新称) C.gigas TAKEDA.
をのへがりやす(新称) C.incequiglumis HACK.forma nipponica TAKEDA. 
やまのがりやす(新称) C.variiglumis TAKEDA.
 ※1  赤字 longe−aristata 「ろんぐ毛ーあり多々」の語呂合わせか(ユーモア)? 検討要 2015・3・7 原本確認済 保坂
 原種ト異ル点ハ主トシテ芒ガ flowering glume ノ基部ニ近ク生ジ且ク原理ノヨリ長シ、稈ハ平滑、
3月、「山岳 第五年第一号 高山に産するイヌナヅナの種類に就いて」を寄稿する。
 本邦の諸高山に登らるゝ諸君が、山頂に近き岩石の間に於て、可憐の白花を綴れる十字花科の小草に逢着せらるゝとあるべし、其の花謝落すれば長楕圓形の短角を結ぶもの、之れをイヌナヅナの属(Draba)に収むべし。本属に隷する本邦産の種類には、黄花を開くものと白花を開くものと白花を着くるものとあり黄花のもには平地に生ずるイヌナヅナと奥州の高山に産するナンブイヌナヅナの二種があり、白花の種類には北海道に産するシロイヌナヅナ、モイワナズナ等と、内地の高山に数種あるを知らる、白馬にはシロウマナズナあり。戸隠にはトガクシナズナとミヤマナヅナあり、八ヶ岳にはクモマナヅナを生じ、御岳にはオンタケナヅナとも呼ぶべきDraba ondakencis を産す、其の他槍ヶ岳の絶頂、木曾駒ヶ岳、東駒ヶ岳、鳳凰山、仙丈ヶ岳等には又やゝ形貌を異にする種類があり。今此の如き多数の種類を比較する時は、トガクシナヅナとミヤマナヅナとは全く同一物にして、殆んど区別すること難く、八ヶ岳のクモマナヅナは其の一変種に収むべきものにして、別種となすに躊躇せざるを得ず、(略)(ここ)に於て会員同志諸君の仁心と同情とに訴へて、諸君が高山攀躋の際、僅小の時間を割き、一挙手一投足の労をなして、予の為めに標本を採取せられんことを切望して竭ます。惠送せられべき標本は可成根際より採集し、茎頭のみを摘取せられざらんことを希望す、而して無花無果のものは避けられ度く、花のものと、(なるべく成熟したる)果実を着けたるものを望む、又各標品は、これに産地と採集年月日と採集者の姓名を記したる小紙片を添へ、新聞紙の間に入るれば足るものにして、敢て一々台紙に貼付するに及ばず、斯して之れを「ぼーる」紙に挟みて、「博物学標本」として本会事務所にあて郵送せられんことを希望す。(略)此の如くして寄贈されたる標本は永く予の標本彙中に保存致すべきに付き、可成完全なるものを豊富に送附せられんことを望む。(武田久吉)
               攀躋(セイハン):高い所によじのぼる。
3月2日、日本郵船の熱田丸で横浜を出港、大正5年2月までの6年間、イギリスに留学する。

3月、「植物学雑誌24巻第278号p. 61-70 (圖入)」に「数種の日本産の新種植物と稀産種について」の研究報告を行う。
  
 (Notulae ad plantas novas vel minus cognitas Japoniae)
   
ユキノシタの他、多くの種が扱われている
4月28日、久吉、長い船旅を終えロンドンに到着、父サトウを尋ねる。
5月3日、ロンドンに帰りリッチモンド・ヒルでの下宿生活を行いながら、歩いて40分ほどのキュー植物園(Kew・Gardens)で研究生活を始める。
5月、「植物学雑誌24巻第280号p. 107-114」に「数種の日本産の新種植物と稀産種について」の研究報告を行う。
  
 (Notulae ad plantas novas vel minus cognitas Japoniae)
   
No278.280号に記載された論文には、ユキノシタ、ホウオウシャジン等、多くの種が扱われている。
5月、「博物之友 十巻七十一号」に「ヒメエンゴグサ・エゾエンゴグサ(北海植物雑記七)」を寄稿する。
北海植物瑣談(其一〜七)迄の一覧
9巻58号 明治42年1月  北海植物瑣談
  (其一)
ハシガキ・一、ふくじゅさう
9巻59号 明治42年2月  北海植物瑣談
  (其二)
二、巨草 三、はくさんばうふう北海道ニ産ス
9巻60号 明治42年3月  北海植物瑣談
  (其三)
四、 Acer Fauriei トハ何ゾヤ
五、 ひめいはしゃうぶ千島ニ産ス
六、 みやまふたばらんノ産地
七、 おほばのよつばむぐら
9巻62号 明治42年5月  北海植物瑣談
  (其四)
九、 えぞきんぱうげ(新称) (番号ダブリ)
九、 のうがういちご 
十、 やちかづら  一名 やちすぎらん

十一、 くものすしだ
9巻68号 明治42年11月  北海植物瑣談
  (五)
(未確認)
10巻69号 明治42年12月  北海植物瑣談
  (六)
(未確認)
10巻71号 明治43年5月  北海植物雑記
  (七)
えぞえんごぐさ
Corydalis ambigua Cham.et Schltd.
α.glabra Takeda.
えぞえんごぐさ Lusus genuina Takeda. 
ほそばえんごぐさ Lusus lineariloba Takeda.
まるばえんごぐさ Lusus rotundiloba Takeda.
Lusus pectinata Takeda.
β.Papillo Takeda.
しらげえんごぐさ Lusus Vulgaris Takeda
ほそばのしらげえんごぐさ Lusus lineariloda Takeda
まるばのしらげえんごぐさ Lusus rotundiloba Takeda
5月20日、柳田国男が、山中笑(共古)と交わした問答を「石神問答」として「聚精堂」から刊行する。
6月、ロンドン大学に於いて、植物学特別講義を聴講。
6月20日、「植物学雑誌24巻第281号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)」を寄稿する。
      
Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido(7)〜(19)
7月、ノーフォーク海岸植物探検隊に参加。

7月、「山岳 第五年第二号」に「雑録 丹沢山の登路に就て」を寄稿する。
資料 三境ノ峰を狙う/次には丹澤山即ち三境ノ峯をねらい、秦野の人に頼んで資料を蒐集した。だがオイソレとは登攀の機がなさそうなので、『山岳』第五年第二号に掲げて、誰でも一度山中の様子を見て来て呉れればと期待して居たが、誰も彼も高山許り覘って、丹澤山など見向きもしない状態であった。 
                      「四十年前の丹澤を語る 山と渓谷 No143号  昭和26年4月」より
7月、明治38年に伊豆の岩戸山で発見したコゴメグサの一種をイズコゴメグサと命名、キュウ植物園広報に発表する。
7月20日、「植物学雑誌24巻第282号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)」を寄稿する。
   
 Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido(20)〜(23)
8月、「博物之友 十巻七十四号」に「通信 編者に宛てた手紙の一部、スコットランドより」を寄稿する。
月20日、「植物学雑誌24巻第283号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)」を寄稿する。
    
Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido(24)〜(40)
8月20日、中井猛之進が「植物学雑誌24巻283号」に「Lactuca albiflora (A.GRAY)MAXIM.ハ独立スベキ一種ナリ」を寄稿する。論文中に博士に関する記述あり 2015・3・2保坂
参考/(略)又、L.Thunbergii ニ近似ノモノニテ武田久吉氏ガたかねにがなト命ゼルモノアリ氏ハ L.Thunbergii lnsus,alpicola トセシガ牧野氏ハ直チニ改メテ subvar alpicola トセリ、余ハ其可否ヲ知ラズ、余ハ数年前日光女峰ノ頂上ニテ其ヲ採収シ形状ノ著シタ相違セルヲ注意シタレドモ未ダ之ヲ精検スルノ機ヲ得ザリシガ武田氏ノ記載ニ依リテ明カニ L.Thunbergii ト相違スルヲ認メ得ベク之レ亦、L.alpicola トシテ独立セシムベキモノナラント想定セラル、(略)
10月、王立理工科大学入学。
10月、「博物之友 十巻七十六号」に「シラオイハコベ一名エゾフスマについて・雑録 ヒメシャジン三品」他三篇を寄稿する。
10月20日、「植物学雑誌24巻第285号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)」を寄稿する。
    
Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido
(41)〜(44)
11月、「博物之友 十巻七十七号」に「雑録 シロウマチドリ千島に産す」他八篇を寄稿する。
11月20日、「植物学雑誌24巻第286号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)」を寄稿する。
    
Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido
(45)〜(60) 参考 No48 イヌナズナ属も記す
   また、同号に「にがな、しろばなにがな等ニ関スル予ノ卑考」を寄稿する。
             
末尾に「(四十三年十月初旬、英国リッチモンドニテ)」と記述日を掲載
11月、辻本満丸が「山岳 第五年 第3号」に「鳳凰山所産ホウワウシャジン・鳳凰山及地蔵岳に就いて」を寄稿する。
鳳凰山所産ホウワウシャジン(全文)
 明治三十九年八月十三日、余が始めて甲州鳳凰山にて採集せるAdenophoraの一種(本誌第四年第一號一一三頁参照)は、其後武田久吉氏の研究に依り、全く新種植物なること確定せられ、學名Adenophora howozana TAKEDA.和名ホウワウシャジンと云ふことに定まりたり、産地は目下の處、鳳凰山のみに限られたる如くなれども、附近なる甲斐駒、仙丈、白峰等に産するやも知れず、登山家は注意ありたきものなり。武田氏が植物學雑誌第二百八十號(四十三年五月)に發表されたる本植物の記載を、左に轉録す。(辻本)
14. Adenophora howozana TAKEDA.
Perennis, 4-15 cm vulgo circa 10 cm. aita, toto glaberrima,rhizom ate crasso elongato multicepti eaules multos paucifloros emittenti.    Caules ca spitosi graciles simplices subflexuosi fuscopurpurei. Folia sparsa petiolata fusco-viridia, inferiora lanceolata interdum late lanceolata in petiolum brevem attenuata acuminata dentato-serrata, dentis apice callosis incurvis, supra glabra vel rarius leviter puberula subtus glaberrima pallidiora,
media et superiora elongato-lineares sensim acuminata 5-7 cm longa callose dentata. Flores 1-5 in spicy simplici alternatim dlsposltl nutantes, bracteis filiformibus parce denticulatis integrisve, pedunculis ca.pillaribus florem fere equantibus, s epe bracteolatis, bracteolis minutis. Calicis lacinia filiforma reflexopatulae callose pauci-denticulate vel integrae circa 10 mm longae. Corolla tubuloso-campanulata vix 18 mm longa fere 10 mm lata violaceo-ca rulea quinqueloba, lobis angusti-deltoideis. Stamina 5, filamentis inferne dilatatis ovato-lanceolatis dense ciliates. Stylus inclusus sed corolla tubem paulo superans apice haul multos incrassatus. Nectarium brevissimum vix 1 mm longum
era ssum.  Nom. Japon.: Hawo-shajin.  Hab. Nippon : in regione alpina m utis Hovrozan, prov. hai (M.Tsujino'ro ! 13. VIII. 1906; H. TAKEDA.! 26. VIII. 1906). Ad Adenophoram Takedai MAKINO proxima est, qua~ statura  multo majore, caule solitario plus minus ascendenti, foliis basilaribus longius petiolatis orbiculatis late-lanceolatisve grosse
serratis, floribus majoribus etc. diversa est.
資料@「時の人 高山植物の研究で第六回秩父宮記念学術賞を受賞した 武田久吉」と題した新聞記事より
<前略>明治四十三年、イギリスに留学、王立ロンドン理科大学、バーミンガム大学で植物学を学んだ。このとき高山植物とともに異常なほどに興味をおぼえたのが顕微鏡的植物≠ナある。
 「ぼくのやっているのは淡水産の藻類(そうるい)だが、この中には植物か動物か区別のつかないようなものがある。数ミクロンから数十ミクロン(ミクロンは千分の一ミリ)という小さなもので顕微鏡での観察に苦労するんだが、この新種の発見はとにかくおもしろい」
 だが今はその藻類の研究も前の通りをつっぱしる自動車が原因である。わずかな振動も顕微鏡の観察を妨げる。そのため武田さんは一時藻類をあきらめているが、高山植物の方はいぜん続けている。
<後略>
12月20日、「植物学雑誌24巻第287号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)を寄稿する。
    Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido
(61)〜(79)
1911 明治44年 28
1月20日、「植物学雑誌25巻第288号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)を寄稿する。
     
Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido(80)〜(96)
注 「北海道の植物の知識への貢献(独語)」は全体で七編に分かれ構成されていますが、標題に区別がなかったため、博士が紹介している、植物に付与していた番号を仮番号として付与しました。今後の、研究に誤解を招かないよう事前に記載しておきます。 2017・4・1 保坂
4月20日、中井猛之進が「植物学雑誌25号291号」に「朝鮮桔梗科植物ノ新属ニ就テ(予報)」を寄稿する。
(参考:末尾の部分より)(略)本植物調査ニ際シ松村教授ノ懇篤ナル指導ヲ謝スルト共ニ比較スベキ Sup hyandra ノ標本ヲ付与シタル英国  Kewノ皇立植物園長 Dr.STAFF氏、 露国聖ピーターブルグノ植物園長 FISGHHER VON WALDHEIM氏、之レガ紹介ノ労ヲ執リシ、早田博士、露ノ PALIBIN氏竝ニ特ニ予(誤植か、実際は余)ノ為メニKewノセキ葉庫ニ蔵スル全世界ノ Campanula,symyhyandra,Adenophora ノ諸品と比較シテ全ク世界的珍種ナルコトヲ確メラレシ滞英中の畏友武田久吉氏ニ其好意ト労トヲ深ク感謝ス
5月12日〜15日、柳田国男と牧口常三郎が甲州谷村から道志を歩く
5月、「博物之友 最終号 十一巻八十二号」に「日本に産するオダマキの種類・雑録 アオチドリ及びチシマアオチドリ」他一篇を寄稿する。
6月20日、牧野富太郎が「植物学雑誌25巻293号」に「羽状葉ヲ有スルしろばなのへびいちご」を寄稿する。
資料(略)更ニ1対ノ小葉ヲ具ヘ以テ二対五小葉ヨリ成レル羽状葉ヲ呈セリ武田久吉君 BISSET 氏ノ同ジク日光ニテ採集シタル標品ニ就テ之ヲ記載シ以テ F.vesca L.monstr.pinnata TAKEDA. ノ新品名ヲ与へ之ヲ明治四十三年十二月發行ノ植物学雑誌第廿四巻第三百四十一頁ニ之ヲ載セラレタリ(略)
7月、大下藤次郎が「水彩写生旅行 嵩山房」を刊行、「尾瀬沼」を所収する。
9月、「植物学雑誌第25巻第296号」に「日本アルプス産イヌナズナ属数種の新分類系についての試論An Attempt at a New Arrangement of Some Japanese Alpine Species of Draba.の研究報告を行う。
Draba Sakuraii MAKINO,emend.
α. genuina TAKEDA.
Hab.in monte Togakushi
(S.KAWADA et H.TAKEDA !19.Z.1904)
β.nipponica TAKEDA.  
  Forma a. typica TAKEDA. Hab.in montyibus Yatsugatake
(S.KAWADA et H.TAKEDA!27.Z.1903;(略))
  Forma b. intermedia TAKEDA. Hab.in monte Komagatake,tractus Kiso
(S.KAWADA!4.[.1906) 
  Forma c. angustifolia TAKEDA. Hab.in montyibus Howozan
(M.Tsujimoto!13.[.1906;
 H.Takeda!26.[.1906;(略))
 
γ.rigidula TAKEDA Hab.in monte Komagatake,prov.Kai
(H.TAKEDA!29.[.1906)
σ.ondakensis(MAKINO) TAKEDA Hab.in monte Ontake,tractus Kiso
sec.MAKINO)
           Herbarium.Royal Botanic Gardens,Kew.   july 1911.
11月26日、南方熊楠が「山岳第6年第3号」に「祖国山川森林の荒廃」を寄稿する。
12月、信濃博物学会が「信濃博物学雑誌36号」に「本縣に於ける主要高山植物発見年表」を発表する。
○王立理工科大学特待生となる。
1912 大正元年
7月30日改元
29 7月、龍動皇立理工科大学植物学科卒業、学位D.I.Cを授与される。
    参考 龍動皇立理工科大学 昭和18年12月発行「農村の年中行事 著者略歴」より
9月20日、「植物学雑誌26巻309号◎雑報」に「武田久吉氏ノ任命」と題した事柄が掲載される。
本会々員武田久吉氏ハ久シク英国ニ留学中ナリシガ今回英京ロンドン理工科大学植物学講師(Demonstrator in Botany,at the Imperial College of Sciennce and Technology,London)ニ任命セラレタリ 
10月、同校に於いて、学生の指導と講義を受け持つ。(至大正3年8月)
講師の仕事
 明治の最後である四十五年の夏、ロンドンの理工科大学を卒業した私は、直ちにそこの理学部植物学教室に就職することとなった。仕事は、日本の大学で言えば、助手と講師とを兼ねるようなもので、学生の実験を指導するのが主な仕事であるから、その材料の整備から、関係の文献をのぞいて置くことも必要であるし、女の学生には切片用の剃刀を研いでやることもある。暇な時には、有志の者をキュウの植物園に案内して、生きた植物について説明することもある。とにかく忙しいが、楽しい仕事であった。
                  「アルプ88号 木暮君と私(一) P60下段」より
11月、「植物学雑誌第26巻第311号」に「日本産わださう属ノ植物ニ就イテ」を発表する。
  上記論文の末尾に「英国キュー植物園ニテ記ス」と記す。 
   松田定久も「同号(植物学雑誌第26巻第311号)」に「くろづる学名ノ変更ニ就テ」を寄稿する。
資料:本誌二十四巻二八四−二八六頁ニ昆明山海棠属即くろづるノ属ニ関シ卑見ヲ述ベタルコトアリシニ今度武田久吉君ハ英国キユウ植物園所蔵ノ材料ニ基キテ此ノ属ヲ研究セラレタル結果ノ報告アリ(Bull. Miscel. Inform.,Kew,1912,pp.221−223)氏ニ従ヘバ本属ハ二種一変種ヲ有シ従来ノくろづるノ学名ニ変更アリ即(以下略)
(略)而モ其ノ標品ニ至リテハ全然相違レル者ニシテ、且ツ一新種ナレバ、予ハ之ニ命ズルハ K.Palibiniana ノ名ヲ以テセントス、此品朝鮮ニ産スルノミナラズ、又本邦中部ニ生ゼリ、予嘗テ是ガ標本ヲ日光ニ採レリシガビセットモ亦之ヲ同地ニ採リ、其ノ標本ハキューニ保存セラル。以上述ベタルガ如ク、本属ノ品種ニシテ我ガ國ニ産スルモノ実ニ五種あり、今是等ノ者ニ異名及ビ和名等ヲ配シテ羅列スレバ実ニ左ノ如シ
和名 産地(分布) 学名
ほそばわちがひさう
くしろわちがひ
釧路、十勝 K.sylvatica.MAXIM.Prim.FI.Amur.p.87.
わだそう 日光、南部、東京附近
妙義山・武州和田村
K.heterophylla MIQ.Prolus.FI.Japon.P.351.(略)
支那 K.Davidi FRANCH.
西比利亞 K.Rupestris TURCZ.
ひめわださう(新称) 富士、箱根 K.Maximowicziana FR.et.SAV.Enum.PI.Japon.II,p.297.(略)
わちがひさう 日光、秩父、筑波、九州
彦山・劔山・武州御岳・南会津・
K.heterantha MAXIM.in.Bull.Imp.Sc. St_Petersb.XVIII,p.376 (略)
ひげねわちがひ(新称) 日光・武州三ツ峯・信州 K.Palibiniana TAKEDA,sp.nov.(略)
ひなわちがい 筑波山 K.heterantha MAXIM.var.linearifolia TAKEDA,in Notes,Roy.Bot.Gard,(略)
   同号に記述した、射索表の順に表記しました。植物学雑誌第26巻第311号 P343」より
 注意 :植物学雑誌第29巻第341号「再ビ日本産わださう属ノ植物ニ就テ」より加筆の部分を紫色で表示しました。 2016・6・28 保坂記 
1913 大正2年 30
○この年の夏、一度だけ帰国する。栄太郎をデンバーに尋ねるため、アメリカを経由して帰国。
5月下旬、ロンドンを発った私は、リヴープールからキュナード線の汽船に塔じる。
6月1日、ニューヨークに到着。
(米国での様子)/一ヶ月を北米合衆国に留まって、訪問や観光などに寧日なく、またその後国立公園となったコロラード州のエステスパークに遊び、ロッキュー山脈の一峯ロングスピークに登りなどをした後、(略)
7月1日、スィアートルから郵船静岡丸に乗って太平洋を横断する。
7月14日、横浜に入港、日本山岳会の幹事高野鷹蔵(同夜泊)、梅沢観光君等に迎えられる。
7月15日、東京の実家に帰る。
    資料 「アルプ88号 小暮君と私(一)」より
7月24日、雑司ヶ谷の料亭、「あやめ」に於いて「秩父会」が開かれる。
(略)日本山岳会員中、特に秩父の山に深い関心を持つ者数名が、秩父会という小規模の会を結成したという事もあった。その会は発起人だけが会員であり、しかも私も知らぬ間にその会員であるという話であった。そしてその月の二十四日に、雑司ヶ谷の鬼子母神の境内にあるあやめという料亭で、焼鳥を食べ乍ら、秩父会をやるから、是非出席するようにということであった。(略)当日は梅沢、辻本満丸、南日(今の田部)重治、中村清太郎の諸氏や山川黙君も姿を見せたと思うが、小島君は多分不参したようであった。(略)その日、木暮君は五六斤の牛肉持参で出席、梅沢君と健啖力の競争をやったのには、並居る者皆驚嘆の目を眸ったものである。梅沢君に至っては、遂に残余の肉を悉く平らげてしまい、弁々たる腹を撫でて、誰かこの上に登って見ろなどと、甚しい茶目振りを発揮したものであった。         「アルプ88号 木暮君と私(一) P62」より
7月、「Annals of Botany Voi27 No CVII」に「ウエルウイチアの苞の形態 (Morphology of the Bracts in Welwitschia mirabilis.)」を発表する。
8月8日、農学士柳澤秀雄が夕張山上に、後(翌3年1月)のユウバリリンドウを検出する。
                      
武田博士著  「日本の高山植物 P2213 80.ユウバリリンダウ」の項より
8月8日、農学士柳澤秀雄が夕張山中に、後(○年○月)のユウバリコザクラを検出する。
                      武田博士著  「日本の高山植物 P186.ユウバリコザクラ」の項より 

8月3日〜10日、仙丈ヶ岳西肩、約2700mに於いてハイマツの生態調査を行う。

                            
「続原色日本高山植物図鑑」より
   仙丈ヶ岳)へは梅沢君と三峯川を遡り、その支流の荒川を遡行して荒川(塩見)岳に登ってから、
    更に本流に沿うて上り、念願のこの
仙丈ヶ岳岳に登ってから、市ノ瀬に下った。 
                       「明治の山旅・「白崩山・甲斐駒・異同の実地検証」」より
 「民俗と植物」の中の「草木の方言と名義・デンダ」から(部分)
(略)
大正の初期に信州三峯川(みぶがわ)を溯った時、同行した人夫の中に杣(そま)を渡世にする者が居て、木や草の事に大分興味を持つ様子であったが、それが矢張りレンダの名を口にするを耳にした記憶がある。今それが如何なる齒朶(シダ)を指してレンダと称したか判然としないが、この名が伊那郡に残ってゐる證據とするには充分である。この杣は已に故人となったので、今それを尋ねる由もないが、市之瀬又はその北の中尾あたりで探求したら、この名を知る者があるかと思はれる。
8月31日山中太三郎に誘われ、秦野の大川楼(泊)→諸戸(もろと)の切通し→札掛→金林ノ澤を渡り金林(きんばやし)から尾根伝ひに→塔ノ岳に登山、尊仏岩を訪ねる「丹沢山」より
資料@ 「丹沢山」より一部
 (略)
いよいよ(塔ノ岳の)頂上に達する前に、平坦な美しい草野がある。それから少しだらだらと上ると、塔ノ岳の絶頂だ、ツリガネニンジン、シラゲシャジンなどをふみわけて、頂上についたのが十一時に五分前、例のウメバチソウもそろそろほころびはじめていた。
 途中から吹き出した風は、ますます暴威を逞しくして、霧を横なぐりに吹きつける、もちろん帽子など冠っていられるものでない、楽しみにしていた眺望は絶無だ、とにかく孫仏様へお参りしたら、天候が恢復するか、少なくとも雨天になることはあるまいと、咲き乱れたるミヤマギクをふんで、北方に少し降りた。木立に入ると午前中だというに、いやに暗い、下草は露にしとしととしめっている。孫仏の石は山かげの妙なところへただ一つ生えぬけたように立っている。高さは一丈ばかりもあろうか、頂に小さな地蔵仏を安置してある、恐る恐るはい上って、生えているトウヒレン、イワキンバイ等を採集し、しかもちょうど手頃のかけ石一つ謹んで頂載することに申し上げた、岩質はおそらく凝灰岩ででもあろうか。
略)
資料A 「四十年前の丹沢を語る」より一部
(略)
大正二年八月、一人の同志、山岳会員の山中太三郎君を誘い、秦野の大川楼に一迫し、翌昧爽一人の案内を連れて出発、諸戸(もろと)の切通しを越えて丹沢の部落即ち札掛に達し、此処の人達に路を教えられて、金林(きんばやし)を上り、近頃の登路とほぼ同一の路を、先ず塔の嶽に上りついた。その頃には、未だ木ノ俣大日があった筈だが、案内者もこれを知らないので、それも見ずに通ってしまい、札掛から三時間近くを費して頂上に着いた。
 幾年 振りかで尊仏岩をも訪ね、竜ガ馬場を経て三境
(さんさかい)の頂上を極めたが、尾根筋は物凄い藪で、当今のように楽楽と歩けるものではなかった。当時この辺に来る者は山麓から駒鳥を捕りに来る少数の者位で、何れも大倉から塔の嶽を経て上下し、時には山中に仮小屋を結んで野宿する位であったから、刈払など勿論やらず、霧の多い山の事とて、樹下は甚しく陰湿で、明治時代と大差はなかった。(以下略)
                   雑誌「山と渓谷」昭和26年4月号「四十年前の丹沢を語る」より
資料B 「丹澤山附近ノ植物ニ就イテ」より一部
(略)
本年八月末再ビ塔ヶ岳ニ登リ、山稜ヲ北ニ傳ヒテ丹澤山頂ニ到リ、ヤ丶此ノ辺ノ植物景ヲ見タレバ、左ニ略記シテ参考ニ資ス。/山稜ハ主トシテぶなノ巨木ヲ以テ蔽ハレ、うりはだかへで、ぐみ、まめざくら、ひめしゃら、りやうぶ、いぼた、等之ニ交ハリすゞたけ甚深シ。樹幹ニハ蘚苔密生シ、いはぎばうし、まつのはまんねんぐさ、みやまのきしのぶ之ニ著イテ生ゼリ、又稀ニつりしゅすらんアリ、コレ此植物ノ最北ノ産地ナリ。樹下ニハみづもらん、ししらん、てんにんさう等アリ。(略)
8月、小島烏水が、「山岳 第8年第2号」に「甲州山村の三升桝」を寄稿する。
   
また、同号雑録欄に「一高山岳会の成立」が掲載される。 経過未確認のため本文調査要 2016・7・8 保坂
       
参考 桧枝岐東雲館資料の中に「一高旅行部五十年 ・一高旅行部の歩み 発行 S43・12」を保管する。 
    
会報欄には「三高山岳会に本会幹事の派遣・一高山岳会団体旅行概況・東京地質学会に於ける飛騨山脈の地質及び氷河作用に
             就ての講演 k」等の記述もあり。 
Kは小林房太郎か確認要 016・7・8 保坂
9月21日夜9時、多数の友人達に見送られて新橋駅を出発、敦賀に向かう。
9月22日夜7時、汽船ペンザ号に搭乗、ウラデォオストークへ向かう。
9月24日朝10時到着→同日の夕刻、シベリア鉄道でモスクワ→ウァルシャワ→ベルリーン→フォークストン→
10月6日朝8時、ロンドン・ヴィクトリア駅に到着。
 資料 「アルプ88号 小暮君と私(一)」より
10月、「植物学雑誌27巻第322号P464〜469」に「三峯川上流地ノ植物・塔ヶ岳、丹澤山附近ノ植物ニ就イテ」を寄稿する。
11月、「Notes of Royal Botanic Garden,Edinburgh.No. ]]]XU(37)」と云う学会誌に「日本産のサクラソウ類(属)について(Notes on the Japanese Primulas)」研究報告を行う。
   報告文は12頁に及び後部に図版を(Plate14〜25)12枚収める。11種3変種2品種を掲載している。
   参考 日本では、植物学雑誌29巻337号の新著欄「日本ノさつらさう属ニ就イテ」で照会されました。 2017・1・30 保坂 
12月、「山岳 第八年第三号」に「丹澤山」を寄稿する。
    同号に、大村忠一が「甲州山村の三升桝の記事に就て」を寄稿する。 同年8月号参照のこと。 保坂
○ この年、柳澤秀雄が、夕張岳でクモマユキノシタを検出する。
参考 野坂志郎著 北方山草1(1980) 「北海道のユキノシタ属植物」より
7)クモマユキノシタ(Saxifraga laciniata NAKAI et TAKEDA ヒメヤマハナソウ)
(略)中井猛之進博士はソウルの学校教員であった森氏が白頭山で採取した標本(1913年)により、一方、武田久吉博士は、柳澤秀雄氏が夕張岳で採取した標本と小泉秀雄氏が大雪山で採取した(ともに1913年)標本により、ともに stellarisとは別種であることを認め、james の標本もクモマユキノシタであることを確認し、両博士連名で、中井博士は植物学雑誌28巻(1914年)に、武田博士はエジンバラの王立植物園紀要第39号(1915年)に、それぞれ記載発表した。(略)
注):エジンバラ王立植物園紀要のNo は再確認要 ;Takeda,Not RBGEdinb.8:235(1915);の記載もあり
                                                 2015・3・12 保坂記
○ この年、柳澤秀雄が、芦別岳でウスユキトウヒレン検出する。
○この年、「○  」に「The Vegetation of Japan(日本の植生)」を発表する。 雑誌名検討要
資料 館脇操「植物学者としての武田先生」より
 
(略)そのひとつは、日本にとり注目すべきは「日本の植生」(Vegetation of Japan)(大正二年)がある。当時は欧文により日本全体の植生が世界に紹介されなかった時代で、これはパイオニア的な性格を持っている。そして先生の論文中の傑作の一つと信ずるが、あまり世の人は知らない。(略)
1914 大正3年 31
1月、前年、農学士柳澤秀雄氏が夕張山頂に検出されたリンドウを新種として考定、ユウバリリンドウ(G.yupayensis,TAKEDA)と名付け発表を行う。
                          「動物及植物 第3巻第12号 P2213」より
1月20日、「植物学雑誌28巻325号 東京植物学会録事 転居」に転居先を報告する。
Botany Depatment,Imperial Callege of Science and Technology,Prince Consort Road,South Kensington,Londom,S.W.England 武田久吉
   
 バーミンガム大学研究科在学当時 中央右から4人目が武田博士
3月20日、「植物学雑誌 28巻327号」に「田麻科ト(び)猴桃科・所謂あらかはわうぎノ学名」を寄稿する。
  
また同号に小泉源一が「木曽御嶽火山植物分布論(予報)(承前)」を寄稿、学名に「TAKEDA」と記された、
   ちしまにんじん(Cnidium Tilingia,TAKEDA)を紹介する。

4月、中井猛之進が「植物学雑誌 28(328) p65〜104」に「濟州島ノ羊齒類」を発表する。 pid/2361002
4月27日、中井猛之進が「朝鮮総督府」に「済州島竝莞島
(ワンド)植物調査報告」を行なう(刊行)。
  
扉に「朝鮮総督 伯爵寺内正毅殿←朝鮮総督府野生植物調査嘱託東京帝国大學理科大學助手  理学博士中井猛之進」
pid/942541
同書P142、「済州島植物研究ノ略史」冒頭の部分
 済州島ノ植物ヲ始メテ世ニ紹介セシハ現英國ロンドン大学講師武田久吉氏竝ニ余ナリ明治三十八年(西暦一九〇五年)文學士市河三喜氏未タ東京帝國大学文科大學學生タリシ時米人 Anderson 氏ガロンドン動物學會ノ委託ヲ受ケテ採収ニ赴ケル折昆蟲採収ヲ志シテ行ヲ共ニシ折ニフレテ摘ミ取リタル枝葉ノ片片タルモノ積ンデ六二種トナル之レヲ當時東京ニ組織シテアリシ博物同志會ニ土産トシテ携ヘ歸シ、當時ノ同志會理事武田久吉氏其一年半ヲ檢定シ更ニ明治四十二年他ノ一半ヲ余ノ研究ニ委シタリ則チ其結果ハ武田氏ト余ト合名ニテ東京植物學雑誌二六六號ニ Plantae ex insula Tschedschu ナル題下に發表セル。(略)
5月20日、「植物学雑誌 28巻329号」に「あっけしさうニ就テ」を寄稿する。
   
同日、牧駿次が「嵩山房」から「日光の栞〔日光の案内記〕」を再刊する。
6月15日付、辻村伊助が博士宛に葉書を送る。
  2−1、2−2 横浜開港資料館所蔵
月18日付、20日付、22日付、25日付、辻村伊助が博士宛に葉書を送る。 
                                      2−3.2−4.2−5、2−6 横浜開港資料館所蔵

7月、「植物学雑誌 28巻331号 雑報」欄に、「英國「リンニアン」学会ニ於ケルロッチー氏ノ講演」内容を照会する。
英國「リンニアン」學會ニ於ケルロッチー氏ノ講演
(英國倫敦「ローヤルカレヂ」講師本會々員武田久吉氏ヨリ教室某氏ヘノ通信中ヨリ抄録ス)
(前略)
多分御聞キ及ビノ事ト存ジ候ガ去ルニ月十九日當地「リニアンソサイティ」ニテ「ドクトル」ロッチーノ講演有之題ハOn the Origin of Species by Crossingト云フ頗ル興味アルモノナルバ平素ハ兎角振ハザル同會ノ例會ト異ナリ會場ハ定刻前二立錐ノ餘地ナキ盛況空前ノ事ト注サレ候小生等間ギハニ到セル者ハ席ヲ得ズシテ三時間直立ト云フ目ニアヒ申シ候、同日午後八時會長ボウルトン教授席會務報告終ルヤ「ドクトル」ロッチーハ幻燈畫、標本、圖畫等ヲ示シテ次ノ如キ新説ヲ述ベラル候其ノ要鮎ヲ申上グルバ左ノ如クニ候/
吾人ハ進化ノ問題ニ關シヲ事實ヲ個體ヨリ蒐聚セザル可
カラズ、何トナルバ種并二變種ハ抽象的ノモノニシプ實在ニアラズ。誰人ト雖モ種或ハ變種ヲ示スコトハ不可能ニシテ、只彼ガナシ得ルハ或ル種又ハ變種ニ屬スルト考ヘラル丶個體ヲ示スニ過ギズ。
(省略)
                
注  著→着の誤植 
7月29日付、辻村伊助が博士宛に絵はがきを送る。 横浜開港資料館所蔵 久吉書簡No1068
8月20日、「植物学雑誌 28巻332号」に「日本産のきしのぶ属ノ二三ニ就テ」を寄稿する。
資料 のきしのぶ Polypodinm lineare THUNB.
P.lineare THUNB.
α.Thunberbianum (KAULF.) TAKEDA 和名 のきしのぶ 分布 日本・台湾・支那・朝鮮・布蛙
 =Pleopeltis Thunbergiana KAULF.
 =Pl.   elongata KAULF.
 =P.    atropunctatum.GAUD.
 forma caudato−attenuatum TAKEDA 端ノ特ニ長ク延長セルモノ 分布 日本・支那
 forma contortum (CHRIST) TAKEDA
 (以下省略)
和名 つくしのきしのぶ
 
分布 日本・支那
 β.subspathulatum (HOOK.) TAK 
 (以下省略) 
和名 ひめのきしのぶ

分布 日本・支那

 γ.ussuriense (BGL et MAACK) C.CHR 
 (以下省略)
和名 みやまのきしのぶ
分布 日本・満州

 δ.Ioriforme (WALL) TAK.
 (以下省略) 
和名 無 

分布 主トシテ印度・支那ニモ産ス、

 ε.elongatum (SCHRAD.) TAK. 
 (以下省略)

分布 マダガスカー、南亞及熱帯亞非利加

 (略、末尾の部分から)羊齒殊ニ亜細亜産ノモノニ就キテハクリスト、ベイカーノ両氏最多ク貢献アリ、サレドクリスト氏ハ多ク記述セリト云フダケニシテ羊齒ヲ識(し)レル人ニ非ズ、昨今ニレハ同氏ハ世界屈指ノ羊齒専門家ト崇メラルル様ナレド之レハ同氏モ至ツテ迷惑ノコトナルベシ。ベイカー氏は羊齒ニツイテ多大ノ興味ヲ有ス、然レドモ同氏晩年ノ仕事ハ記憶力ノ減退ト視力ノ衰弱トノ為メ誤診頻々タルハ頗(すこぶ)ル惜ムベシ、予ハ友人及先輩ノ誤ヲ指摘スルヲ忌メドモ日本ニテ欧州学者ノ事情ニ通ゼズシテ一図ニ信用スル人ノ為メニ一言ス。近来世ノ中ガ多忙トナルニ伴ヒ羊齒ヲ真面目ニ研究スル羊齒学者ナキハ遺憾ニ極ナリ、トマス、モーア、ジョン、スミス、近クハベッドームノ如キ真摯ノ人少シ、尤(もっと)モ是等ノ学者ノ或者ハ大陸ニテノフェ、プレスル。メッテニユスノ如ク、羊齒葉脈ノ研究ヲ過重視シタル結果要点ヲ逸(そら)して細末ニ走リシハ惜ムベキモ、其態度ハ稀ニ見ル所ナリ、予ハ羊齒学者トシテハリューアセン氏ヲ第一ニ推サントスレド同氏ノ東洋ノ羊齒ニ関シテ多クヲ記セザルハ憾トスル所ニシテ、又エングラーノ『自然科属誌』ニ羊齒ヲ擔任セザレシハ頗ル遺憾ナリ。殊ニ吾人ガ最モ迷惑ニ感ズルハ東亞ノ羊齒ガ真摯ナル羊齒学者ニ研究セラレズシテ、唯無暗ニ多クノ種類ノミ新設セラレシコトナリ。来年ノ万国植物学者大会ニテ素人ハ植物ヲ記載スベカラズヲウナ決議ニテモナシ呉ルレバ幾分カ此ノ厄難ヲ減ズルヲ得ベキカト思ハル、之レハ欧米学者ノ真相ヲ知レル人ハ頗ル同感ノ事ナラント信ズ、コレハ唯混雑ヲ惹起スルニ過ギザルベシ。
9月、リンネ学会雑誌植物部第42巻に「色丹島の植物」と題し324種の植物を発表する。
   
   
論文の最終項に記された「色丹島植物分布表」の中の「takeda」名の一覧
 ・ Anemone Taraoi,Takeda
10  ウマノアシガタ科 シコタントリカブト Aconitnm kurilense,Takeda
30  ナデシコ科 シコタンミミナグサ Cerastium rigidulnm,Takeda
31  ナデシコ科 キタミミナグサ Cerastium boreale,Takeda
35  ・ Stellaria sachalinensis,Takeda
76  バラ科 チシマキンバイ Potentilla megalantha,Takeda
98  ※マツヨヒグサ科 シコタンアカバナ Epilobium shikotanense、Takeda
99  アカバナ科 マルバアカバナ Epilobium ovale,Takeda
136  キク科 チシマウスユキサウ Leontopodium kurilense,Takeda
299  イネ科 チシマドゼウツナギ Atropis kurilensis,Takeda
                  ※マツヨヒグサ科 科名は 昭和15年 大野笑三編「色丹島の植物」より引用
               No6・35 全論文が英文のため和名が判らず 後日調査予定 2017・1・22 保坂
9月20日、松田定久が「
植物学雑誌 28巻333号」に「ふぢばかまノ学名ニ就テ」を寄稿する。
(略)先般東京栽培ノふぢばかまノ標本ヲ英国留学ノ武田久吉君ニ送リ、学名ノ當否ヲ確メラレンコトヲ求メタルニ、君ハ、Kew 并ニ大英博物館所蔵ノ原本Whampoa産(一八六二年十一月ハンス氏採 )及広東産(一八七六年十月ナ―ヴン氏採)ノモノニ比較シ、其能ク吻合スルコトヲ報ゼラレタリ。因テふぢばかまノ学名ハ東西ニ通ジ、相違ナキコトト信ズ、此事ヲ報ズルト共ニ同君ノ労ヲ取ラレタルヲ深謝ス。
10月、バーミンガム大学研究科に在学。主に淡水藻の研究に従事。(至大正4年7月)
11月20日、植物学雑誌 28巻335号」に「再ビ日本産のきしのぶ属ノ二三種ニ就テ」を寄稿する。
12月、英国の「リンネ学会年報8巻(Trans.Linn.Soc.Ser.2.Bot.Vol.[)」に「日本産のミズニラについて(On Isoetes Japonica)」をCyril West(ウエスト)博士との共著で研究発表を行う。
   
資料 ミズニラとの関わり 「辻村伊助遺稿 スウイス日記」の中の「追憶」より
 (辻村伊助君は)
スウイス開国記念日に当たる八月一日に、遂にその絶頂に達したのであったが、帰路にアヴァランシュに遭遇し、三時間もかかて登った四百米の急斜面を、僅々二分位に頽雪(たいせつ)に乗って降ったのである。危険なクレヴァス二つ三つ飛び越したので、命には別条はなかったが、二人のガイド諸共負傷してしまったので、一ヶ月余を山麓の病院に送らねばならないのであった。
 本来私も此の行に加わる心算であったのを、一友と水韮(みずにら)の研究に没頭し、何百枚かのプレパラートを作って、染めたり覗いたり、或はスケッチに又は写真に日を暮らし、イースター迄に出来る予定が夏休みとなっても終わらなかったので、千載一遇の好機を逸して残念ではあったが、一方から見ればアヴァランシュで大切な向脛でも折ってしまったら尚更取り返しがつかないのだから勿怪(もっけ)の幸いとあきらめて、遭難の話が出る度によく辻村君にそう云った。「然し君が一緒に行けばキットいきなりあんな峻嶮な山に取りつきはしなかったに違いないから怪我はなかったろう」といっても辻村君はそう答えるのであった。
1915 大正4年 32
1月、「植物学雑誌29巻337号 ◎新著」欄に「〇武田久吉氏『日本ノさくらさう属ニ就イテ』」が照会される。
TAKEDA,H.:−Notes on the Japanese Primulas( Notes of Royal Botanic Garden,Edinburgh.No. ]]]XU.Nov.1913.) 
武田氏ハ日本産櫻草トシテ

Primula Sieboldii,E.MORREN.
  f.a.hortensis,TAKEDA
  f.b.spontanea,TAKEDA
さくらさう
〃  jesoana,MIQ. おほさくらさう
〃  kisoana,MIQ. かつこさう
〃  tosaensis,YATABE いはざくら
〃  Reinii,FRAN.et SAV. こうはざくら
〃  modesta,BISSET et MOORE. ゆきわりさう
3月、中井猛之進が朝鮮総督府の嘱託で行なった「智異山植物調査報告」を発表する。
   参考 TAKEDAと学名のあった植物名 武田家所蔵本より
179  ひげねわちがいさう Krascheninikovia Palibiniana,TAKEDA
299  くろづる Tyipterygium Regelii,Sprague.et TAKEDA
308  をがらばなノ一種 Acer ukurunduense,Trautv.et Mey.var.pilosum,NAKAI.
P79  うすげをがらばな Acer ukurunduense,Trautv.et Mey.var.glabratum,NAKAI.
P60・P85   うすげをがらばな Acer ukurunduense,Trautv.et Mey.var.pilosum,NAKAI.
  参考 「うすげをがらばな」について鉛筆でチェックがしてあったので特記しました。他にP26にも記載有 2017.1.16 保坂
3月、「植物学雑誌29巻339号」に「ひらぎなんてん、ほそばひらぎなんてん等ニ就テ」を寄稿する。
 一両年前ヨリ余暇アルゴトニ、舊世界各地ニ産スルひらぎなんてん属即チMahonia ノ種類ヲ研究シ、此頃一ト通リ終了シタレバ、日本ノ庭園ニ普通ナル種類二三ニ就テ卑考ヲ述ベンカ。(略)台湾産ノ種類トシテ早田博士ハ只一種 B.nepalensis ヲ挙ゲラル、予ハ同博士ノ好意ニヨリテ同地産標品ノ或者ヲ親睹スルヲ得タレドモ、遺憾ニモ標品不完全ニシテ断定ニ苦シム。然レドモ其ノ何レモ M.Napaulensis DC. ニアラザルハ前ニ言ヘルガ如シ。予ノ考フル所ニヨレバ台湾ニハ少クモ三種類以上産ス、其ノ一は M.lomariifolia TAKEDA ニシテ、阿里山及ビ岩山ニ産ス、其二ハ M.morrisonensis TAKEDA ニシテ、新高山七千五百尺ノ地ニテ川上、森両氏ノ採集スル所ニ係ル、第三ハ同ジク新高山産ノモノナレド、花ヲ缺クガ故ニ今姑ク命名記載スルヲ扣ウ。此他キールンノモ産スル報告アレドモ、予其標品ヲ見ズ、蓋シイジョウ挙ゲタル三種以外ノモノナルベシ。(略)
 また、同号
(339号のこと)に中井猛之進が「日鮮新植物(其三)」を寄稿、本誌第23号266号に記載した博士との共著「済州島の植物」の中の112.Elscholtzia minima,NAKAIについて所見を述べる。
5月、「植物学雑誌29巻341号」に「再ビ日本産わださう属ノ植物ニ就テ・みづにらノ解剖」を寄稿する。
9月、「植物学雑誌第29巻第345号」に「○日本産ひかげのかづら属植物ノ数種ニ就イテ・朝鮮かさゆりノ学名ニ就イテ・えぞうすゆきさうに関シテノ質疑」を寄稿する。

「日本ーサハリンのヒカゲノカズラ類について(Lycopodialen Hokkaidou.nebst denen von Japanisch−Sachalin)」と「日本産ひかげのかづら属植物ノ数種ニ就イテ」の論文の比較から
203 チシマスギラン
.Selago L.
 Forma appressum DESV.

コスギラン
204 ヒメスギラン L.Chinense CHRIST. L.Selago L.ニ近似
206 ホソバタウゲシバ
207 ヒロハタウゲシバ
208 スギラン
210 ヤチスギラン・ヤチカヅラ
211 ミズスギ・サハスギ
211 マンネンスギ L.obscurum L.  
212 ウチハマンネンスギ  forma flabellata TAKEDA
213 タチマンネンスギ  forma juniperoideum TAKEDA
214 スギカヅラ
L.annotinum L.
Var,α,angustatum TAKEDA,nov

狭葉
215 ヒロハスギカヅラ Var.β.latifolium TAKEDA,var. nov 廣葉
217 タカネスギカヅラ Var,γ.pungens
218 ヒカゲノカヅラ L.japonicum THUNB. まんねんすぎの一異名を・・・予ハ寧ロ之ヲひかげのかづらナリト思考ス。
221 タカネヒカゲノカヅラ L.sitchense RUPR.var.nikoense TAKEDA.
L.sitchense RUPR.var.Veitchii(CHR.)m.
225 スヒカズラ 田内捨吉のスケッチを挟む
227 チシマヒカゲノカヅラ
229 ミヤマヒカゲノカヅラ
235 コケスギラン
235 ヒモカヅラ・ヒメヒカゲノスズラ
       参考 和名については1909年の著「日本ーサハリンのヒカゲノカズラ類について」の論文の中で
               博士が鉛筆で直接添字したのをそのまま図表にし表記し、細部に関しては省略した。 2017・1・29 保坂記
「えぞうすゆきさうに関シテノ質疑」の冒頭部分
本植物ハ予ガBulletin de la Sociele Botanique de Geneve,2me seri―vol. iii(1911), p. 152二於テLeontopodiumjaponicum MIQ. subsp. sachalinenseトシテ發表セシモノナリ、其ノ原種ト異ル點ハ、予ガ其ノ當時研究二供セシ樺太及トドモシリ島産ノ標品二於テハ花序ガうすゆきさう二於ケルガ如ク分枝セズ、両全花ガ梢小形ニシテソノ冠毛ヨリモ微二短ク、雌花ノ痩果ガ平滑ナルニァリ。然ルニ近頃宮部理學博士及工藤理學士ハ札幌博物學會々報第五巻第三號一四八頁二於テ、本植物ヲ一新種ト認メラレ(樺太植物誌ニテ初メテ發表セラレシ由ナソ、予ハ未ダ其刊行物ヲ手ニセズ)L. sachalinense MIYABE.et. KUDOト改称セラル、其理由トスル所ハ、「痩果ハ頗ル平滑ニシテ、冠毛ノ先端多少明カニ畫筆状ヲ呈スルヲ以テ」ナリト云フ。同博士等ハ十餘ヶ所ヨリノ標品ヲ検査セラレシ上此決断ヲ下サレシモノナレバ、其ノ見解ハ予ガ僅々数箇ノ標本ヲ基トシテ立論スルモノヨリモ遙二精確ナルハ論ヲ侯タズ、然シナガラ予ガ理解シ兼ヌルハ、一、同博士等ガ単二痩果ト云ハルヽハ雌花ノ痩果ナルヤ、或ハ両全花ノ痩果ナルヤニアリ、(略)因ニ記ス、うすゆきさう属ノ植物ニシテ我国ニ産スルトシテ一九一二年迄ニ知ラレタルハ左(本年譜では下)ノ数種ナリ。
L.microphyllum HAYATA. 台湾産
L.japonicunm MIQ. a.typicum BEAUV..
L.japonicunm subsp.sachalinense TAKEDA.
内地産
北海道及樺太産
L.discolor BEAUV.
L.discolor var.hayachinense TAK.et.BEAUV 
礼文島産
早池峰産
L.kurilense TAKEDA. 千島産
L.alpinum CASS.var.Fauriei REAUV. 内地高山産
L.leontopodioides BEAUV 朝鮮産
             「〇えぞうすゆきさうに関シテノ質疑 P299」より
10月、「植物学雑誌29巻346号」に「achlys属について形態学的・系統的研究」を寄稿する。
   On the Genus Achlys. A Morphological and 
      Systematic Study.(ナンブソウ)

11月、「植物学雑誌29巻347号」に「みづとんぼノ辨」を寄稿する。
12月、「山岳 第10年2号 「各地の山岳會彙報(二)」欄に京都組合銀行徒弟講習所や山梨山岳講演會等が開かれ幻燈機が使用されたことが掲載される。
 同所では生徒、卒業生並に組合銀行員有志が毎月一回必ず遠足會を催し、近郊の山てふ山は皆踏破に踏破を重ねつゝある、處へ昨秋當地の日本山岳會関西大會開催と、此程の大坂の同大會とで、山岳熱が益々高くなって、堪へきれない。其處へ日頃同所の生徒や卒業生が、登山家として遠足家として運動家として敬慕して、ゐる同所理事今村幸男氏の盡力で、大坂の大會で態々来れて呉れた幹事高野鷹蔵氏及大坂の大會の主催者加賀正太郎氏を煩はして同所で一夕の幻燈講演をやって貰ふ事となった。(略)(大正四年六月、東生報)
○京都に「大典記念植物園」の設置が決定される。
○この年、エジンバラ植物園彙報に、明治37年に筑波山で採取したワチガイソウの狭葉を一変種として 発表する。 「明治の山旅 筑波山に訪う」より
1916 大正5年 33 ○この年、藻類についての論文3篇を発表する。

 「Scourfieldia cordiformis,a new chlamydomonad,Ann,Bot.30 」
 「Dysmorphococcus variabilis,gen,et sp.nov.ibid.30」
 「On cartoria fritschii n.sp.ibid.30」 

  Scourfieldia cordiformis,a new chlamydomonad,Ann,Bot.30
  
淡水産線藻類の新種 クラミドモナス類の新種 スコウルフィルジア・コルジフォルミスについて(冒頭部分)
    

   Dysmorphococcus variabilis,gen,et sp.nov.ibid.30
   
淡水産線藻類の新属新種 新属・新種 ジスモルフィコックス・バリアビリスについて(冒頭部分)
       
  
      On cartoria fritschii n.sp.ibid.30
      
淡水産線藻類の新種 新種カルラリア・フリッチについて(冒頭部分)
         
                          
上記三論文の所蔵 山岸高旺
1月26日付、父サトウ(72才)の日記より

 午後3時40分の汽車で久吉は去って行った。われわれはふたたび会うことがあるだろうか。できることなら、私は久吉をイギリスに引きとめておきたい。しかし、カナダへの投資で損をしたことと、所得税が三シリング・六ペンス(つまり、税率17・5パーセント)に倍額されたために、わたしの収入がかなり減ってしまい、もはやかれを助けるために毎年二百ポンドをわたしてやる余裕がなくなってしまった。それに久吉の母が非常にさびしがっていて、かれのかえりを待ちこがれている。
2月下旬、帰国。
久シク英國ニ滞在セラレタル武田久吉氏ハ去ル二月下旬無事歸朝セラレタリ
                参考 植物学雑誌 30巻 351号 雑報欄に帰朝の記述有り
3月、「植物學雑誌第30巻第351号」に「雜報 武田久吉氏歸朝」のことが掲載される。
   また、同号に大野直枝(遺稿)の「K姫山産『天狗ノ麥飯』ニ關スル研究」が掲載される。
参考 附記第三曇日 故 畏友大野博士未亡人坂村農学士ヲ介シ予ニ寄スルニ故博士ノ遺墨手記一対ヲ以てセラレ且ツ事ノ學界ニ資益スルモノアラバ採リテ之ヲ世ニ公センコトヲ託セラル、中ニ所謂天狗ノ麦飯ニ関スル研究記事若干アリ、抑モ天狗ノ麦飯ナルモノハ本邦自然界ノ一奇象ニシテ故博士ガ其研究ニ先鞭ヲ著ケラレタルノ功ハ學界ノ忘ルベカラズ所ナリ、會々京都醫科大學講師理學士川村多實二君亦年来(諸)問題ノ研究ニ従事セラレツツアルヲ傳聞シ乃チ君ニ謀ルニ大野氏遺稿編述ノ事ヲ以テシタルニ君之ヲ快諾シ〇簡零篇ヲ収拾補綴スルノ勞ヲ敢テセラレここニ本篇ヲ公ニスルヲ得ルニ至レリ、又長野高等女學校教諭八木貞助君ハ當時大野博士ト産地探検ノ行ヲ共ニシ其状況ニセラルルヲ以テ特ニ本篇ノ閲覧ヲ煩ハシ事實ノ正確ナランコトヲ期セリ、吾人ハ川村、八木両君ノ厚意ニ對し深ク感謝ノ意ヲ表ス、唯本研究ハ其業固ヨリ未完ニ属シ故博士ノ深ク筺底ニ蔵セラレタルモノニシテ後来猶ホ追補訂正ヲ要スルノ點一二ニ止マラザルベク敢テ之ヲ世ニ公ニシ故人ノ志ニ背クノ告ハ獨リ予ノ甘受スル所ナリ、本篇挿ム所ノ寫眞圖第一ハ飯綱山麓ニ於テ著者ガ一行ト共ニ撮影セル所ニ係リ以テ個人ノ温容ヲ髣髴スルニ足レリ(柴田桂太)
       ※會々(たまたま)/先鞭ヲ著ケラレタル:他人に先駆けて物事に当たること。いち早くそれを行うこと。
       ※類似熟語 断簡零墨:一部分が失われたりきれぎれになったりして残っている書きもの。
        ※大野直枝(遺稿)論文の中には博士のことに関する直接的な記述は何もありませんでしたが、藻類学者であること
         川村多實二や後年、関りを持つ八木貞助の記述が含まれていたので、参考として記載しました。 2017・5・7 保坂

3月18日午後2時より、小石川植物園内植物学教室に於いて東京植物学会例会を開き、「やへむぐら族(Stellatae)ノ托葉ニ就イテ」を講演、午後4時に散会する。来会者約30余名
                     参考 植物学雑誌Vol30 No352 東京植物学会録事より
4月、「植物学雑誌第30巻第352号」に「やへむぐら族ノ托葉ニ就イテ」を発表する。
資料 (附記)右ハ本年三月十八日本会例会ニ於ケル講演ノ大要ニ加筆シテ稍趣ヲ変更セシモノニシテ、其ノ主要部分ハ本年七月発行ノ Annals of Botany ニ於テ発表スル予定ナリ、従テ挿図一切ハ該誌上ニ掲載スルコトトセリ。やへむぐら、あかね等ノ植物ハ輪生等ノ例トシテ、往々教科書等ニ引用サル、コトアリ、其ノ不穏當ナルコトハ今ココニ贅(むだ)スル迄モナケレド、眞正の輪生葉ヲ有スル植物ノ例ヲ擧グルモ亦無用ノコトニアルマジケレバ、思ヒツキタルママ左ニ二三記スコトトセリ。
すぎなも、ふさも、ほざきのふさも、たちも、くろも、みずすぎな、むじなも、きんぎょも(以上水生生物)びゃくぶ、つるびゃくぶ、おのまんねんぐさ、みつばのべんけいさう、つるまんねんぐさ、つくばねさう、くるまばつくばねさう、くぬがささう、えんれいさう、しろばなのゑんれいさう、おほばなのゑんれいさう、けふちくたう、つりがねにんじん、くかいさう(以上陸生植物)
4月、京都帝大医科大学講師。(至大正6年1月)
5月、「山岳 第10年 第3号」の雑録欄に「京大陸上運動部主催山岳幻燈講演会の記・一高旅行部近況」が掲載される。 
              
注 内容未確認のため調査要 2016・7・9 保坂 2018・2・11 確認済
(スライド使用の始めについては、)大正時代になって、英国から幻灯機械や大きなスクリーン等一式を求めて、それを中京から関西方面にまでかつぎまわって、登山趣味の鼓吹に東奔西走したものであった、その時代には、三五ミリのキャメラなどなかったから、幻灯(スライド)の画面は、八二ミリ四方のガラス二枚をはり合わせた大きなもので、映写機もそれ相当に大きく且つ重いものであった。それに比べれば、当今は何事によらず軽便簡略になったものである。                  S35・7 「他人の迷惑を考えよう」より
7月16日と9月29日、二度にわたって霧が峰を訪れる。
8月5日、理学博士の学位を受ける。
    
    申請した学位論文名 色丹島植物誌
     滋賀県大津市 京都帝国大学医科大学附属大津臨湖実験所 武田久吉 

9月初旬、日光から中宮祠・金精峠を越え上州利根郡の丸沼迄の遠足を行う。
                             「山岳 第十一年第二号・日光遊行雑記」より
9月、18日、「官報 第一二四一號」に「理学博士の学位」の授けられたことが掲載される。
學位記                                東京府平民武田久吉
右論文ヲ提出シテ學位ヲ請求シ東京帝国大學理科大學教授會ニ於テ其大學院ニ入リ定規ノ試験ヲ経タル者ト同等以上ノ學力アリト認メタリ仍テ明治三十一年勅令第三百四十四號學位令第二條ニ依リ
(ここ)ニ理學博士ノ學位ヲ授ク/論文審査ノ要旨・参考論文(略)
10月、「山岳 秩父号 第十一年第一号 ハヒマツの生長の割合」を寄稿する。
甲斐國志との出会い/(略)『山岳』第十一年第一号は「秩父号」と銘打って、秩父会の人達の紀行四篇の外に、河田羆氏の「武蔵通志」の山岳篇が登載されている。私はこれに刺激された一方、同じ秩父会の辻本工学博士と往来することも繁くなり、同君所蔵の「甲斐國志」を借覧して、武蔵から甲斐へかけての山の研究に没頭することとなった。
 この両書で解決がつかぬ場合には、木暮君を煩わして、『郡村誌』の一部を複写して貰ったことも一再に止まらない。
(略)   「アルプ89号 木暮君と私(二) P60〜61」より
10月、植物学雑誌第30巻第358号」に「○みづにらノ説」を発表する。
11月、植物学雑誌第30巻第359号」に「○みづにらノ説」を発表する。
12月「山岳 第十一年第二号」に「日光遊行雑記・【図書紹介】「日光の栞」(牧駿次著)」を寄稿する。
12月、植物学雑誌第30巻第360号」に「○みづにらノ説」を発表する。      
 ●みづにらノ説         武田久吉(H.TAKEDA
水生植物ハ採集ガ多少億劫ナリト云フ点ニヨルニヤ陸生植物ニ比シテ兎角其研究遅ルヽ傾アリ。水中ニ生ズルモノハ其生理的状態陸生ニ生ズル植物ト大ニ異ナルタメ、種々ノ点ニ於テ特殊ノ面白キ事アリ。顕微鏡的ノモノハ暫ク措き、肉眼的ノ者ノ中ニモ興味アル者少ナカラネド、中ニモ、にずにらハ羊歯門、石松門ニ対シテ、特立スル一門ノ代表者ニシテ、高等顕花植物中殊ニ奇ナルモノナリ。みづにらガ属スルみづにら科(Isoetaceae)ハ只一属みずにら属(Isoetes)ヲ含ムノミニシテ、コレヲ属スル種類ハベイカー氏ニヨレバ(Baker,Handbook of hte Fern−Allies.1887)世界ヲ通ジテ四十九種ニ上リ、ザーデベック氏ニヨレバ(Sadebeck,in Engler and Prantl,Pflanzenfamilien,i,Abt.iv.1902)六十二ヲ算スト云フ。本属ノモノニシテ日本ニ産スルハ Isoetes lacustris,I.echinospora,I.asiatica(ひめみづにら)及ビ I.japonica(みづにら)ノ四種ニシテ就中みづにらハ本島及四国ノ池沼水澤ニ比較的広ク分布スルヲ以テ材料ヲ得ルニ難カラザルト同時ニ、世界最大ノ種類ニシテ、形態解剖等ノ研究ニハ最良ノモノナリ。

                  導入の部分(サブタイトル名なし・全文)
外形
Caudexノ内景
茎ノ生長点及初生組織ノ発育
茎ノ初生組織ノ構造 イ、本質部・ロ、篩管部・ハ、初生皮層
茎ノ後生組織ノ構造 イ、形成層・ロ、形成層ノ生産物
Rhizoqhoreノ生長点及初生組織ノ発育
Rhizoqhoreノ後生組織
根ノ発生、構造、及配列 イ、発生・ロ、構造・ハ、配列
葉ノ配列
10 葉ノ発生
11 葉ノ組織構造 イ、表皮・ロ、気孔・ハ、葉肉・ニ、維管束・ホ、小舌
12 幼芽ノ保護
13 分類
14 系統
(附記)以上3号に互リテ略説セシトコロノモノハ予等ガ最近ノ研究ノ結果ニヨリシモノニシテ、従来諸学者ノ研究ト異ナレル點少ナカラダレドモ、此処ニハ議論ヲ避ケテ只事実ヲ説述セシニ止メタリ。みづにらノ類ヲ専門に研究セントセラルル士ハ幸ニシテC・West and H・Takeda・−On Isoetes Japonica A・Br・(Trans・Linn・Soc・Bot・ser・2,vol・[,pp・333−376,pl・33−40・Dec・1915)ニ就イテ見ラレ度シ。みづにらノ配属體ニ関シテハ理学士高嶺昇氏目下研究中アルヲ以テ、遠カラズ氏ノ筆ニヨリテ記述サルルコトナルベシト信ズ。(了)
1917 大正6年 34 ○大正5年5月〜6年1月の間、京都帝大医科大学で「植物と其研究」と題し講演する。
                  注意:講演の時期については、講演収録集「植物と其研究」から推測しました。(保坂附記)
  
    「植物と其研究」より
「植物と其研究」より
(前略)ー、其運動する植物を初めて見た時分には、皆動物だと思った。動物だと思ったのはまだ宜しいが、中には元来こんなものが地球上にあり得るだらうか、どうも是は事実でない、見て吃驚気が狂った人がある。それは全くの事実で、和蘭のシュワンメルダムと云ふ哲学者は、顕微鏡の下で色々な小さな微生物即ち微細な動植物が運動するのを見て気が狂った。それから英吉利では昔からロイヤル ソサイエティと云って、科学を研究する最高の学舎がある、其学舎で殆ど毎月のやうに会があって、名論卓説は出来ますが、千六百六十七年、此のロイヤル ソサイエティの会合で碩学徒達が集った所へ、例の細胞を見付けたロバート フックと云ふ人が顕微鏡下に微生物を見せた。其時分には動くもの皆動物として居りましたが、微生物が水中を盛に泳ぎ廻るので見せたところが、是は不思議だ、吾々はこんな物を見たと言っても、世界中の人が承知しない、何か證據物件を遺さなければならんと云ふので、大勢の学者が集まって大きな紙に證文を書いた。確かに我々は斯う云ふ物を見たと云って銘々判を捺した。それ位でありますが、兎に角さう云ふ微生物は初は動物視されて居た。それが段々研究が進むにつれて、其或者は植物であることがわかあって来た。動物も其中にあるが、中には何方とも云へないものがある、鞭毛藻と云ふ仲間のものは、非常に簡単と云ふよりも、始原的と申す可きでありましょうが、動物とも植物とも付かない、その
二つの性質を具へたやうなものでありますが、是が矢張り盛に水中を泳ぎ廻って居るのである。鞭毛藻と云ふのは単細胞の生物で、鞭のやうな髭が生へて居る。例へば、挿図2及3図に示した様なもので一本、或時は二本又はそれ以上の鞭毛を有し、之を動かして水中を泳ぎ廻るのでありますが、是には細胞膜がない、当分眞正の植物には入れて置けないが、しかし葉緑素を含んで居るものが沢山ある。(後略)
1月、京都帝大医科大学講師を辞す。
2月、「教育画法 4 同文館」に「高山植物 p180〜185」を寄稿する。
  
タカネシダ(郭小)      高山産単細胞淡水藻  (郭大原圖)
 晩春の象徴とも云ふ可きシャクヤクは散り、アヤメの紫はあせてハナシャウブの紫白色あざやかに、木々の新緑は黒味を帯び、クリの花の白きが一トきは目に立つ頃となれば、碧
(あを)い 碧(あを)い大空に、眞綿をちぎった様な白雲が、風のまに まに高く低く翔(かけ)るのを見る、夏が来たといふ感じが一入(ひとしお)深くなる。山好の人々は地圖を擴げたり、登山具を點儉して、登山の準備に餘念もない。毎年数千の人が山に登るが、其目的は必しも一でない。或は動植物や鑛物岩石の採集を主とし、或は地理の研究を眼目とし或は描畫寫眞撮影を主眼とし、或は単に海抜一萬尺の峰頭に足跡を印するを以て快とする。併し其何れに拘はらず高山に登って吾人と最交渉の多いのは、山岳を麓(ふもと)より絶巓に至る迄蔽ふ處の植物である。高山とは海抜幾米突以上のものを指す可きかは一寸定め難いが、假に二千米突以上のものとすると本邦に二百餘りもあるが、其内二千五百米突以上のものは約一百座もある。(略)
高山植物と言ふと、直に顕花植物や羊歯類以上の、主として肉眼的な者を指す様に考へる人もあるが、高山特有の隠花植物も種々ある。蘚類、苔類、菌類、地衣類、藻類、細菌類中で夫々高山植物と呼ぶ可きものが少ない。然るに肉眼に触れ易くない爲めに、従来日本では餘り多く研究されて居ないのは甚遺憾である。蘚類中でもクロゴケ科と云ふのは、一科一屬といふ小族ではあるが世界中に一百餘種を産し其の大多数は高山に限って生ずる。本邦にはクロゴケといふ一種があるが、硅石質の炭(岩)石を好む爲め、各地の火山の岩上に稀でない。奥州では高山の黴(かび)や、池沼中又は濕岩上に産する淡水藻類を研究した人もあるが、日本では此方面は暗黒と言ってもよい。殊に淡水藻の種類は形態の美麗なのや、学問上極めて興味の深い種類があるが、平地産のものすら研究する人は實に曉天の星と云ふ程である。高山と言ふ程でもないが、北海道及日本中部で、海抜三千乃至六千尺の山地にある池沼から得た淡水藻類中、形の美しい者数種を選んで示すことにしたが、是等の植物に関して詳細な説明はあまりくだくだしくなるから他日筆を更めて述べる事にしよう。日本の高山は、毎年幾千といふ多数の人が登り、其中には植物採集を試みる人も少ない様であるのは誠に結構ではあるが、其の爲めに稀有の種類は兎角絶滅する虞(おそれ)がある。されば登山者は各自注意してこれを濫獲濫採せぬ様に、日本の学術の爲めに特に御願ひして置く次第である。 
     注 下線は保坂が特に書き入れ自然にたいする博士の思いをくみ取って戴きたいと記しました。 2017・5・22 保坂
2月、SH.OKAMURA.が中井猛之進氏の新著 『濟州島植物調査報告書』、『莞島植物調査報告書』、『智異山植物調査報告書』、『鷺峯ノ植物調査』を「植物学雑誌 31(362) p35〜40」に紹介する。 pid/2361196
3月、小泉源一が「植物学雑誌 No363」に「はくさんさいこノ学名」を寄稿、博士の一文を記述する。

(略)武田博士に據レバ此他千島色丹島ニハ Bupleurum longifolium L.Wolf.subvar.involucratum H.Wolf.ヲ産スト云フ。
4月、日本山岳会第十回大会に於いて、「高山植物の研究」を講演する。
           参考 当日の講演記録は「山岳第十二年第一号」に掲載されてあります。 2016.12.8 保坂記
4月、岡村周諦が「植物学雑誌 第364号 雑録」に「蘚苔類雑録(二一) 六三、珍ラシキみづごけノ一新種」と題した論文を発表する。

茎の横新面ノ一部  茎ノ表皮細胞ノ外壁 いとみづごけノ全形
論文の冒頭部分より
 大正五年夏七月理学博士武田久吉君信州ニ遊ビ、諏訪郡八島ヶ池附近ニテ採集セル二種ノみずごけあり。余之ヲ検スルニ其一種ハ本邦各地ニ広ク産スルはりばみづごけSphagnum cuspidatum (EHRH.) Russ et WARNST. ナレドモ他ノ一種ハ一見他ノみづごけト外貌ヲ異ニシ、全体細クシテ枝ヲ分タザルカ或ハ僅少ノ枝アレドモ枝叢ヲナサズシテ一個ヅ丶独生シ、其簡単ナル茎枝ノ有様ハ直ニ欧米ニ産スル S.guwassanense WARNST.等ヲ想起セシム、然レドモ其茎甚ダ長ク葉ノ疎ナル所一瞥
別種タルヲ認メ得ベシ。余ハ其後本品ヲ精検シテ之ヲ新種ト認メ、 武田氏最初ノ発見ヲ記念セシガ為メ、其学名ヲ其姓ニトリテSphagnum Takedae SH.OKAMURA. トシ、其和名ヲ茎ノ簡単ニシテ絲状ヲナセル所ニトリテ いとみづごけ ト命ジタリ。本品ハ実ニ他ノ本邦産みづごけト一見区別シ得ラルベキ一珍品ニシテ、みづごけ属中ゆがみば類(Subsecunda)ニ属ス。ゆがみば類ニハ邦産既知ノモノ十種アリテ其七種ハ本邦特産ノモノナリ。(略)  資料提供 服部植物研究所 2016・6・16 保坂記
4月26日付、辻村伊助が博士宛に葉書を送る。  2−8 横浜開港資料館所蔵
6月初旬、石川光春が秩父十文字峠に於いて「ほていらん」を採取する。
 
   ほていらん
   撮影 高野鷹蔵
(略)本植物は一属一種のもので、ヒメホテイランといふ種の変種として認められて居る。ヒメホテイランは甞(かつ)て岸上鎌吉氏が樺太マウカの地に採取し、後三宅勉氏同島オチョポカの地に得たる標品によって命名したもので、此の方は欧、亞、米北部の針葉樹林中に生じて居る。自分は甞て之をロッキー山中に見たが、其の美は到底我がホテイランには及ばない。本號に掲げたものは、大正六年六月初旬、本會員にして秩父通を以て鳴る石川光春君が、十文字峠で採集して生きながら恵まれたものを、高野幹事が殆んぢ實物大に寫眞されたものである。(武田)   「山岳第12号 雑録 T7・2」より


6月、「高山植物」を「同文館」より刊行する。
(上略)この本が出版される大正六年以前には、高山植物の入門書がなかったため、飛ぶような売れ行きを示し、僅か二カ月たらずで二版が出版された。第二章では、木曽御岳、日光、白馬岳、南アルプスの植物景観を述べながら登山案内も兼ねているが、南アルプスの項では現今と違ったコースで当時の辛苦がしのばれる。巻末の二一頁は、付録となっていて、日本特有高山植物目録として一五四種の植物名があげられ、また日本山岳冒称の植物として、タテヤマーとか、ハクサンーという山の名を冠した植物名が示されている。この項には高山植物以外の一般植物も含まれている。シラネニンジン、シラネアオイなどのシラネは日光白根山、アサマリンドウは浅間山ではなくて、朝熊山(三重県鳥羽の近く)であるなど、重要なことが書かれている。
                   「昭和47年度 武田久吉著作展」の資料より
タカネイチゴツナギ・ムカゴユキノシタ・ムカゴトラノオなどの子持ち植物等も掲載する。
 
  高山植物 (表紙)
  
発行 T6・6・28
 
  高山植物 (扉)

 圖版六−高野鷹蔵氏寫眞




【資料構成】
・図版
 (16枚)
はしがき
 
頃者我が邦が邦青年の間に登山の氣風が漸く勃興し。近年は婦女子さへも高山に登り深谷にわけ入る様になったのは、國民嗜好の上に於て寔に慶賀すべき事と思ふ。凡そ大自然が赤裸々に露はれたるは、山岳を措いて他になく、山岳に攀ぢて無垢の自然と一致相応するは、寔にこれ人生の最大慰樂である。山岳に登って吾人と終始交渉の深甚なのは、岩石を以て骨と肉とをなす山岳の膚を蔽ふ植物である。故に植物と相識るは則ち山中に知已を得ることで、遠く人寰を距つる山嶽に獨り坐するも、尚寂寥を感ぜぬ所以である。我が邦に於て草木を記し、其の美観を説くところの書籍實に棟宇に充ち牛馬を汗する程であるが、而も未だ山岳を粧ふ植物の全汎に亙って、殊に通俗を旨として記述したものを見ないのは、予の甚だ憾とするところである。乃ち自ら揣らぬではないが、多年内外山岳の間を彷徨して、自然より學び得たる賜物を經とし、先進諸家の學説を參酌して之を緯とし、以て此の小冊子を編むに至った。幸にして登山者の伴侶となり、究學者の僚友ともならば、予の望はこれに過ぎないのである。
    大正六年六月    東都、坐して富岳を望む所にて 著者
しるす
  寂寥(せきりょう):心が満ち足りず、もの寂しいこと。  棟宇(とうう):家のむねと、のき
・目次/・図版解説
・一 登山
pp.1〜5
   
登山の目的と植物・高山・富士
二 高山に於ける植物帯
    植物帯・木曽の御岳・日光の山彙と其の植物景・白馬ケ岳の植物景・欧亜六名山の植物帯・植物帯の境界線
    高山植物と極地植物・高山帯の気象と極地の気象・高山植物区系の成立

三 高山植物の分布 
    山頂の低地性植物・地理的分布・生態的分布・草木帯の生態的細別・アルプス植物の地理的分布
    日本高山植物の要素・内地の高山植物と千島の植物

・四 高山植物の生態 

   
花と色・芳香と花蜜・紅葉・フラヴォーン・葉の保護・茎と葉・樹幹の短縮蟠屈する原因・葉の組織
    蒸散と葉の構造・気孔・根・地質との関係・種子の油脂・多年生草本の常緑木本

・五 高山植物の種類 

   
顕花植物・隠花植物・池沼中の植物・淡水藻の生態と分布・高山の徴とバクテリア
・六 高山植物の採集と培養

   
採集・乾燥の秘訣・保存の方法・藻類の採集・培養・生品の採集・実蒔・盆養と地栽・ロックガーデン
    灌水と噴霧・冬の手当

・附録 日本特有高山植物目録 

                   「国立国会図書館・レファレンス事例詳細」より
   参考 圖版の解説文
圖版番号
日本山岳會 高山のいたゞき(立山、富士の折立附近、白き花はハクサンイチゲ)
日本山岳會 御花畠(立山の室堂附近、ハクサンイチゲ、ウラジロタデ、コバイケイサウの群落)
日本山岳會 はひまつ(立山五色ヶ原)
日本山岳會 黒木立(赤石山中針葉喬木帯)
日本山岳會 春の穂高山(上部は針葉喬木帯、下部は闊葉喬木帯、圖の中央を名がるゝは梓川)
日本山岳會 1、ミヤマウスユキサウ(きく科) 2、チシマウスユキサウ(同上) 3、タカネウスユキサウ(同上)
高野鷹蔵 1、ミヤマヲトコヨモギ(きく科)
高野鷹蔵  1、イハイテフ(りんだう科) 2、ムカゴトラノヲ(たで科)
高野鷹蔵 1、キバナシャクナゲ(しゃくなげ科) 2、イハベンケイ(べんけいさう科) 3、ヒメスギラン(ひかげのかづら科)
10 高野鷹蔵 1、ハクサンコザクラ(さくらさう科) 2、はくさんいちげ(うまのあしがた科)
11 高野鷹蔵 1、ミヤマミ丶ナグサ(せきちく科) 2、コメス丶キ(禾木科) 3、ツマトリサウ(さくらさう科)
12 高野鷹蔵 1、チシマギキャウ(ききゃう科) 2、タウヤクリンダウ(りんだう科) 3、ミヤマクロスゲ(すげ科) 4、ゴザンタチバナ(みづき科)
13 高野鷹蔵 1、ツガザクラ(しゃくなげ科) 2、タカネヒカゲノカヅラ(ひかげのかづら科) 3、ウラシマツツジ(しゃくなげ科) 4、ミネズワウ(同上)
14 高野鷹蔵 1、クモマグサ(ゆきのした科) 2、イハワウギ(まめ科) 3、シナノキンバイ(うまのあしがた科) 4、ウサギギク(きく科)
15 高野鷹蔵  1、コケモ丶(しゃくなげ科) 2、ミヤマキンバイ(いばら科) 3、クロマメノキ(しゃくなげ科) 4、チングルマ(いばら科) 5、ガンカウラン(がんかうらん科)
16 高野鷹蔵 1、イハツメグサ(せきちく科) 2、シコタンハコベ(同上) 3、チングルマ(いばら科、果實) 4、ミヤマシホガマ(ごまのはぐさ科) 5、リンネサウ(すひかづら科) 6、ミヤマキンパウゲ(うまのあしがた科) 7、クモマナヅナ(十字花科)
 以上列記する山岳寫眞と、特に撮影した植物標本の圖版とは、一に日本山岳會幹事高野鷹蔵君に負ふところのもので、尚其他巨細の注意を賜はったことに對して、謝辭を見出すに苦しむのである。

 附録 日本特有高山植物目録の内訳
科  名  植物名 
きく科 タカネウスユキサウ・ミヤマヲトコヨモギ・タカネヨモギ・ミヤマカウゾリナ・ハヤチネウスユキサウ・ユキバヒゴタイ・タカネヒゴタイ・ミヤマウスユキサウ・ミヤマヲグルマ・ウスユキサウ・シラネアザミ・タカネアヅマギク
ききゃう科 ホウワウシャジン・ヒメシャジン
まつむしそう科
おみなえし科
すいかずら科 オホバヘウタンボク・コゴメヘウタンボク
あかね科
おほばこ科 ハクサンオホバコ
たぬきも科
はまうつぼ科
ごまのはぐさ科 ミヤマコゴメグサ・ミヤマシホガマ・タカネシオガマ・イハブクロ(タルマイサウ)・ダイセンクハガタ・ミヤマトラノヲ
しそ科
むらさき科 ミヤマムラサキ・チシマルリサウ
はなしのぶ科
りんだう科 オヤマリンダウ・ミヤマリンダウ・シマイケアケボノサウ(ミヤマアケボノサウ)・ヒナリンダウ・リシリリンダウ・ユーバリリンダウ・コミヤマリンダウ
さくらそう科 ヒナザクラ・ユーバリコザクラ・ナンキンコザクラ(ハクサンコザクラ)・ヒメコザクラ・ミチノクコザクラ
いはうめ科 イハカヾミ・コイハカヾミ(ヒメカヾミ)
しゃくなげ科→つつじ科 アカモモ・シラタマノキ・ツガザクラ・ハコツツジ(ミヤマホツツジ)
がんこうらん科
いちやくそう科
みずき科
繖形科→せり科 ミヤマセンキウ・ハクサンバウフウ・ヤマウヰキャウ(ミヤマウヰキャウ)・ナンブタウキ(イハテタウキ)
うこぎ科
あかばな科 ミヤマアカバナ
すみれ科 タカネスミレ
おとぎりそう科 シナノオトギリ
かえで科
にしきぎ科
もちのき科
かたばみ科
ふうろそう科 シロウマフウロ
まめ科 オヤマノエンドウ・アラカハワウギ・シロウマワウギ・タヒツリワウギ・モメンヅル
いばら科ばら科 ミヤマキンバイタカネバラ・カライトソウ・・ミヤマナナカマド・メアカンキンバイ・ハクロバイ・シナノキイチゴ・タウチサウ・ギンロバイ(ンロバイ? 検討要
ゆきのした科 ヒメウメバチサウ・アラシグサ・クロクモサウ・クモマグサ・エゾクモマグサ・チシマクモマグサ・ダイモンジサウ
まんねんぐさ科→べんけいそう科 ミヤママンネングサ・タカネマンネングサ・イハベンケイ
十字花→あぶらな科 フジハタザホ・ミヤマタネツケバナ・ナンブイヌナヅナ・クモマナヅナ・シロウマナヅナ・ミヤマナヅナ・タカネナヅナ・トガクシナヅナ
けし科 コマクサ
めぎ科
うまのあしがた科→きんぽうげ科 ミヤマオダマキ・ヒメカラマツ・ツクモグサ(カタオカサウの変種)・ユーバリウヅ
すいれん科
せきちく科→なでしこ科 メアカンフスマ(テウカイフスマ)・ミヤマミミナグサ・オホビランジ・イハツメクサ・カトウハコベ
たで科 ナンブトラノヲ・オヤマソバ・ウラジロタデ・オンタデ
かんば科→かばのき科 ミヤマハンノキ・タケカンバ
やなぎ科 ミヤマヤナギ・マルバヤナギ・レンゲイハヤナギ
らん科 シロウマチドリ・タカネサギサウ・タカネトンボ
あやめ科
ゆり科 ネバリノギラン・クルマユリ・ヒメイハシャウブ・コバイケイサウ・イハシャウブ・リシリサウ・イハゼキシャウ
いぐさ科
イトヰ・ミヤマヌカボシサウ・エゾホソヰ
さといも科
すげ科→かやつりぐさ科 シャウジャウスゲ・イトキンスゲ・イハスゲ・タカネクロスゲ・シロウマスゲ・キンチャクスゲ・コタヌキラン・ミヤマクロスゲ
禾木科→いね科 カニツリノガリヤスタカネソモソモ・ヲノヘガリヤス・ミヤマノガリヤス・ヒゲガリヤス・ミネノガリヤス・ヒナガリヤス・タカネノガリヤス・タカネカウバウ。オホヒゲガリヤス。アヲノガリヤス。
いちい科
びゃくしん科
まつ科 ミヤマネヅ・カラマツ
もみ科
うらぼし科
ちゃせんしだ科
ししがしら科
のきしのぶ科→おしだ科・いわでんだ科 オオバショリマ(注 のきしのぶ科→おしだ科)  トガクシデンダ(注 のきしのぶ科→いわでんだ科) 
きじのおしだ科
わらび科
はなわらび科
いわひば科
ひかげのかずら科 ミヤマヒカゲノカズラタカネヒカゲノカズラ
※印は武田の名のついた植物の学名  例 ※ユーバリソウ lagotis Takedana Mirabe et Tatewaki
注 この科名の順列は、昭和42年の「増訂版(続)原色日本高山植物図鑑」を基調としました。目録の実際の配列は植物名をアイウエオ順で表記されています。また、植物名は旧字をそのままに表示しました。 2017・5・26 保坂
8月、「日本農業雑誌13巻9号」に「高山植物の研究」を寄稿する。
8月15日〜21日、利根川支流宝川・水源間の登山を行う。
 〔宝川・水源間の登山記〕の手記 横浜開港資料館 久吉(文書類)No640に収録 内容未確認 2014・9・7 保坂記
参考 「民俗と植物 地名と植物 P99」より
◇利根川上流の藤原に宝川温泉といふのがあり、笠ヶ岳から流出する宝川がその傍を流れて利根に注ぐのであるが、その上流にヘネコ澤といふのがある。これはその澤筋にヒメコマツが多いことから出た名であって、ヒがヘに、そしてヘメコがヘネコと訛ったに相違いない推定する。そして爰にいふヒメコマツは、植物学者や林学者のいふゴエフマツであることを附記して置く。(註二)。(略)
。(註二)木暮理太郎氏の『山の憶ひ出』上巻一八〇頁によると、この澤は郡村誌に惠根子と當字されてゐるらしい。謂はゞヘネコのフランス讀といった形である。
8月26日・27日、秋田縣小坂町に於いて山岳講演会が開かれる。
 会員加藤榮氏の慫慂に由り秋田縣小坂町教育會及び小坂鑛山スキ倶楽部の招聘に従ひ、去る八月廿六日及び廿七日夜山岳講演會を開きたり。本會幹事近藤茂吉、武田久吉、梅澤観光、高野鷹蔵夫々幻燈講演をなせり。/本講演會開催に際し小坂町長小笠原勇太郎氏、小坂鑛山所長斎藤精一氏及び其他鑛山関係諸氏の多大の厚意に感謝の意を表す。
    招聘 (しょうへい):人を丁重(ていちょう)な態度で招くこと
                                   「山岳第12号 雑録 T7・2」より

9月、「山岳 11巻3号」に「「霧が峰と鎌ヶ池及八島ヶ池」 高山植物検索便覧(一)
    「雑録 しらたまのき・「菅沼」なる名称について・日本の山地に見るオダマキの種類」
    「図書紹介 高山植物の研究 日本アルプス縦断記 鹿沢温泉と夏山植物」」を寄稿する。 
    「霧が峰と鎌ヶ池及八島ヶ池」の文中に
    「
鎌ケ池の北端と八島ケ池との見通しの所にある小池をば本会員理学士川村多實二氏と共に
    
瓢箪池と命名したが、尚是等の外に底無し又は鬼ケ泉水と呼ぶ小水界があるといふ話であるが、
    其位置は明らかに知り難い。」
と記載、川村多實二氏と共に小池を瓢箪(ひょうたん)池と命名する。
     
      「霧が峰と鎌ヶ池及八島ヶ池」で観察した藻類図
    
(中略)鎌ヶ池、八島ヶ池の周囲及此湿原は植物の採集地として面白い、わけても久保田氏も書いて居るが一種珍しいタヌキモの産するのは目下の所信州では霧ヶ峰山彙以外は知られて居ない、此タヌキモはコタヌキモ(U.intermedia)に近縁の種類で、Utricnlaria ochroleucaと呼ばれるものに相当すると考へられる。鎌ヶ池の縁の浅い所では、此タニキモが甚しく萎小なものとなって、一見異種に属するかの観があるが、生産地の状況に適応して浅水的の形を呈するに過ぎないのである。此種は珍奇の種類であるのだから、何卒乱採して絶滅させたくないものである。

  八島ヶ池 スケッチ図(故茨木猪之吉のスケッチ)
 隠花植物、殊に顕微鏡的のものでは、実に珍奇の品がある、殊に八島ヶ池や瓢箪池の水中及池畔のミズゴケ等の間にはチリモの類が夥(おびただ)しく生じて、而も稀種に富んで居る。目の細かい絹で作った袋形の網を水面に近く引くと、時にはこれ等の植物が一杯入って、水が淡緑色を呈する位のことがある、其の一滴を検すると到底形容も出来ぬ様な奇妙な形をして居るチリモの類が無数に見える。図版はそれ等の中の或者を示したのであるが、これは実に九中の一毛にも過ぎないのである。チリモの類は世界に三四千も種類があるが、何れも美しい形をして居るもので、実に顕微鏡下の美観である。チリモは八島ヶ池のみに限らず、諸方の池中、湿原等に産するもので、中には常に浮遊生
活を営むものあり、又は水草の葉間に生棲するものありて、殊に石灰質の少ない又有機物に乏しい池を選ぶのである。日本では此類の研究は殆んど行はれて居ない、それで序ながら登山家諸君中自分に同情して下さる方があらば、材料を供給して頂きたい。採取法は甚簡単で、隠花植物の様に壓搾する必要もない、只水中の水草ー葉の細かいものなら尚宜しーなり或はミズゴケー沈水性のもの殊に、そして手ざわりがヌラヌラすれば尚更有望ーを手で掬い上げ、少し水の切れたる所で之を徐に搾って其滴る水を小壜の中へ受ければよいのである。これで一週間や十日は充分生活をつづけるから、このままを郵便なり何なりで送って戴けば結構である、但し各壜に産地と採集年月日とを明記されたい。萬一長時日に亘って発送の機がない時には少量の希薄なー十パーセント位ーの工業用フーマリンを少し加へて置いて下されば永く保存が出来るのである。尤も旅行や登山の折其用意なしで、偶然に池に出会ったり、ミズゴケの原にさしかかることがないでもない、其の時には水草なり水草なりミズゴケなりを其まま採って、紙にでも包んで送って頂いてもよい。立山の弥陀ヶ原、五色ヶ原、会津の駒ヶ岳や越後の平ヶ岳等の上の小池畔には面白い種類があることと思ふ(下略)
同号に梅沢観光が「相州蛭ヶ岳」を寄稿する。   昭和13年 丹澤山岳会発行「丹澤」より
10月24日夜、高野氏邸に於いて「外人会員交歓会」が開かれる。
(略)在京浜外国人会員の来集を乞ひ、スウイス及び日本の幻燈を映写し、相共に山を談じ、雪を語りて復なき面白き会合を開きたり、会するもの。(外国人名略)、幹事武田久吉、梅澤観光、近藤藤吉、辻村伊助、高野鷹蔵諸氏及び来り会したる会員茂木猪之吉氏、並に近藤茂吉氏令夫人。辻村伊助氏は瑞西グロッスシュレックホルン登山談を、武田久吉氏は高山植物の話しを幻燈を以て説明せられたり、本会は斯く私的(プライベート)会合なれど、本会として内外人の交歓に益すること極めて大なりき。(岳雄) 「山岳 第十二年第一号 会報」より
10月26日、上條嘉門が黄疸病のため島々の家で没する。(享年73歳) 「山岳 第十二年第一号 会報」より
11月、「植物学雑誌31関371号」に「欧米植物学者ノ苗字ノ読ミ方」を寄稿する。
11月7日、探険隊を組織し、日光山の瀑布調査を行う。
                  大正7年12月発行 山岳 第13年第1号「日光山の瀑布」より
12月、中村組植物研究所に於いて、有用植物の研究に従事。(至大正8年3月)
12月16日付、辻村伊助が博士宛に葉書を送る。  2−8 横浜開港資料館所蔵
○この年から京都府立植物園の工事が始められ、大正12年11月に開園する。
○大正6・7年頃より「甲斐國志」を相手に、登山家たちから、ほとんど顧みられる事のなかった、甲州郡内地方の山々を、机上と実地とによって研究を始める。 「回想の冬山」より
1918 大正7年 35
2月、「山岳 第十二年第一号」に「高山植物の研究」・「あかもの」・「ほていらん」・「甲州七面山の「御神木」と「萬歳草」・図書紹介「大正五年登晃旅客一覧」(日光警察署長編纂)」・山岳彙報「神山寅吉の訃」を寄稿する。
高山植物の研究(大正6年4月東京で行われた日本山岳会第十回大会での講演記録)
山麓帯
亜高山帯 濶葉喬木帯
針葉喬木帯
高山帯 灌木帯
草本帯
地衣帯
 山地植物帯の分類
  (2017・8・24 保坂作成)
(略)それが従来多少異なった意味に用ひられる様になって、高山の喬木生ずる所よりも上部を指す様になったので、此處に生ずる植物を Alpins plants 即ち高山植物といひ、高山上で高山植物を生ずる部分を高山植物帯又は略して高山帯といふのである。此高山帯の下部にはミヤマハンノキ、タケカンバ等の灌木が多いので、之を灌木帯として區別し、其以上に上って、主として草木や矮小な木本より成る所を草本帯と名づけ、更に上って顕花植物は著しく減じて、只岩上に生ずる地衣類のみを見る所を地衣帯と區別することが出来る。然し此の區別は従来學者によって銘々異るので。或人は此處に云ふ草本帯以上の植物を眞正の高山植物と呼ぶ傾があるかと思ふと、中には、ブナ帯の上の針葉喬木帯をも込めてそれ以上を高山帯と見做すのが最自然であると主張する人もある。
高山帯の直下が亞高山帯と呼ばるゝが、これは高山帯の定義次第で變化があるのは論をまたあない。前記の如く灌木帯以上を高山帯とすれば、その直下の喬木帯ー針葉喬木帯及濶葉喬木帯ーが亞高山帯に属するのである。そしてそれ以下は便宜上、山麓帯又は草原帯と稱するのである。予は山地植物帯を分って、一、山麓帯、二、亞高山帯、三、高山帯として、二を細別して濶葉喬木帯及、針葉喬木帯とし、三を細別して、灌木帯、草本帯、地衣帯としたい、そして夫以上は雪線以内に入る譯である。(略)以上述べた如く、高山植物の研究は範囲は甚廣いか、それに反して本邦では只僅に緒に就いた許りで、今後の研究に俟つべきものが甚多いのであるし、又其の研究たるや必しも専門家といって、植物學を専攻する人達に限るといふ譯ではなく、只綿密精緻を旨として、慎重な態度をとりさへすれば、どれもこれもとは言へないが大抵は普通教育さへあれば出来る仕事なのであるから、之を自然の愛好者に御薦めすると共に、斯の如く高山植物の研究がいくらも進んで居ない日本に於て、登山者が苟にも其の研究材料である高山植物を無意識に濫採絶滅して後来取りかへしのつかない様にしてしまふのは、日本の學術の發達を阻害するのであるから、決して大日本帝國の忠良なる臣民とは申し難い譯である故、斯様な不心得な人達に遭遇された場合には、よくこれを諭して、一には學門の爲め、二には帝國の爲め、三には山霊の爲めに、一本一草も心なく折り取り踏みにぢらない様に勧告されんことを御願ひして擱筆することゝする。(了)

   あかもの(自筆)
あかもの
(略)
アカモノの果實はシラタマノキの果實と同じく、誠によい味であるから食用とすることが出来る。そして其の風味は、日本産のシャクナゲ科植物(廣義の)中の白眉とも言ふ可く、コケモ丶だのスノキ等の果實と違って酸味はないし、種子を去ることも容易であるから、是等の植物の繁殖を計って、其の果實を以てジャムでも製したならば、甚面白い事と思ふが、一番奮發して試みる篤志家はなかなうか。但し此の場合単に自然にあるものを濫獲
しないで、充分植物を保護し其の繁殖を計る可きことを第一に念頭に置いて貰はなくてはならない。(武田)
甲州七面山の「御神木」と「萬歳草」
本會幹事の中村清太郎君が去る冬の間三月程も七面山上の寺に籠って油繪の大作に従事されたが、其の土産として予に一對の紙袋を贈られた。紙袋の表には、
  御神木  七面山
  萬歳草  奥 院
 と朱肉で印刷してある。中にはマッチの軸木程の木片一個と、大形の蘚が一個入って居る、そして此の木は七面山上に生ずるイチヰ即ちアララギの材であらうといふことであった。「御神木」なる木片は長さ四十七ミ、メ、約二ミ、メ、角の大きさで、木材を只荒く割った丈のものである、色は赤味を帯びて、一見アララギの材の様に見える。是が軟材即ち松柏科植物の材であることは、小口を一見して直に觀取することが出来るが、それと同時と年輪が対角線の方向に走って
(略)斯の如く御神木として販ぐものは常にカヤを用ゐるか、時にはアラアラギをも用ゐるか、或は通常アララギを用ゐ、時にはカヤを間違って使ふものか、一個や二個の僅少な材料から速断することは不可能だが、兎に角予が檢したものは上記の通りのものであることは事実である。
 
次に萬歳草とは何かといふに、これはカウヤノマンネングサに近似の一品で、コバノカウヤノマンネングサ一名ホウライゴケといふもので、カウヤノマンネングサよりも枝が細くて数も多く、雅致のある品で、深山には稀なものではない。斯様な穿鑿(せんさく)は何等の益がないと言はるゝ方があるかも知れないが、自分の様な物好な人間には何となく面白味がある、殊に斯様な名山の神符等に其の山の特産品とか又は特に多産する植物等を用ゐるのは、植物利用と言ては語弊もあらうが、何となく興味があるので、つまらぬ詮議もして見たくなる。信州戸隠山の神符には表山に多いクロソヨゴ一名アカツゲの葉が一枚入れてある(博物之友第七年第三十七號六一頁)のに反して、日光二荒山神爾には何も書いてない木のヘゲが心(しん)になってそれに紙が巻きつけてあるのは、何やら有難味が少なくなる。勿論神符等といfものは、中味な何でも宜しいのであらうし、又不可開なのであらうが、アダム イーヴ以来人間は何でも知り度いといふ慾(即ち美しく言へば知識慾)があるのだから致方がない。今げんに擱筆するに當って、同好諸君が類似の材料を供給して下さらむことを御願する。其の山の神符は何木何草であるといふ報告なり、又斯様なことをして山霊の罰も恐ろしいと思はれる方は實物を送られてもよい、さうすれば祟りは予一人で引受けて穿鑿や報告の勞を敢て致します。(武田)
  穿鑿(せんさく):(穴のない所に穴をあけるように)手を尽くして、たずね求めること。細かい点まで根ほり葉ほり知ろうとすること。
神山寅吉の訃(全文)
山案内として、神山寅吉の名を知る人は少ない事と思ふ。今から一四五年も前迄、日本山岳会が未だ存在して居なかった頃、日光の山々に登るのに自分は、常に此の男を使用した。小柄な男で、其の名に似合はず温和で、山が好き植物が好きといふ點に於ては、賃金を第一の目的として山へ行く案内者とは、大分選を異にして居た。客がなければ自分一人で山へ行く、そして、何か珍しい草でも見付けると大喜びで採って帰って、其の名を教はっては楽しみとして居た。明治三十五年の秋九月、志津から太郎山の方面へ一人草木を探しに入って、針葉樹林の中で一種の奇植物を発見した。此の標本は直様故五百城文哉が写生した上、牧野富太郎氏の検査を乞ふ事となって、間もなくこれが日本に於いて未発見の一蘭品であるとわかり、発見者の名誉を彰表するが為にトラキチランと命名されることゝなった。此の写生図は今春の大会に小石川植物園から出品された高山植物写生帖に綴込まれて保存されてある。トラキチランは其の後秩父の雲取山に於いて会員の石川光春氏が発見され、又信州本澤附近に於ても発見されたが、兎に角邦産稀品中の一であることは確である。神山寅吉は十二三年來馬返しのつた屋で雑用をつとめて居つたが、本年六月某日気分が勝れないといふて、郷里上野(ウハノ・日光の稍下)に帰り、間もなく死去したとのことである。年は六十五か六であったと思ふ。天命を完うしての死ではあるが、山と植物とに関係の浅くない、そして自分とよく山中に苦楽を共にした事のある寅吉を失ふて、甚痛惜の情を禁ずることが出来ない。(武田)
3月15日、木暮理太郎と大菩薩峠から黄金沢へ山の縦走予定だったが降雪のため柳沢峠ー丹波山(野村屋泊)ー大田和峠ー鶴峠ー鶴川に沿って→長作ー上野原へ、
                 「回想の冬山・わが山々の思ひ出・「アルプ88号 小暮君と私(二)」より
(略)大正七年の三月中旬になって、漸く気運は熟した。私などに増して、この連嶺に注意を向けていた武田君は、既に御坂、道志、丹沢等の山塊を縦横に探られ、転じて大菩薩の連脈に足跡を印しようというのである。私は一も二もなく賛成してお伴することになった。生憎東京を出る時は雨であったが、裂石(さけいし)の門あたりから雪に変わり、ゴロタの一軒屋に休んで、朝食をとっている間に一尺近くも積もった。その時の雪片は、この冬東京に降ったような大きな牡丹雪で、見る間に二寸三寸と積ってゆくのに驚いた。これでは縦走など思いも寄らぬ、登山も暫く見込がない、それで丹波山へ踰えることにした。いつも午前九時を過ぎてついたことのない落合へ、十一時に着いたような仕末であった。
 雪の中を丹波川沿岸の絶景を賞しながら、ぶらぶら歩いて丹波山に一泊し、翌日大田和峠、鶴峠を踰えて、上野原から鉄路帰京した。
(以下略)       木暮理太郎著「大菩薩連嶺瞥見」より
4月、「植物学雑誌32巻376号」に「植物和名雑記(一)」を寄稿する。(二)は大正8年3月の項を参照
○しらねあふひ、○わたすげ、○かっこさう、○しんこまつ、○えにしだ
参考資料
:(略)因ニ記ス、日光山志ノ著者上田孟縉ナル人ハ、慈観僧正ト同一ナリト云フ。慈観僧正ハ日光華蔵院住職(現代ヨリ四代前)ニテ、当時ノ高徳トシテ知ラレ、後日光一山ノ学頭タリシ修学院ニ轉ジ、慶応二年八月(1866年)七十余ノ高齢ヲ以テ入寂ス。(略) 「○しらねあふひ」の項より
5月5日、赤坂溜池三会堂に於いて幻燈講演会が開かれる。
雷鳥と鳥類の保護 
高山植物保護の必要
インドカシミヤ山地の旅
獣医学士
理学博士

 内田清之助
 武田久吉
 石崎光瑤(原稿代読:幹事梅澤親光)
5月中旬、木暮理太郎と柳沢峠ー鶏冠山ー丹波山ー二俣尾へ「わが山々の思ひ出」より
5月、「ツーリスト 第六年第三号」に「丹澤山と塔ヶ岳」を寄稿する。
5月、「副業之研究 3巻5号」に「高山植物の研究」を寄稿する。p27〜31 pid/1522103
5月20日、名古屋市会議事堂に於いて第三回山岳講演会が開かれる。
名古屋に於ける第三回山岳講演会在名山岳会員の慫憊に由りて在名山岳会員主催第三回山岳講演会を同市市会議事堂に開く、今回は特に第二日を婦人のみ公開して、婦人の山岳趣味を涵養せんと計れり。
第一日 5月19日午後7時より開会
開会の辞
登山の注意
一週間の山の旅(幻燈)
石崎光瑤氏インドカシミヤ山地の旅 
会員 八木道三氏
幹事 高野鷹蔵氏
会員 福澤桃介氏
幹事 近藤茂吉氏
第二日 5月20日午後7時半より開会
開会の辞
日本アルプス
(幻燈講演) 
山岳と植物
(幻燈講演)   
会員 八木道三氏
日本山岳会幹事 高野鷹蔵氏
日本山岳会幹事・理学博士 武田久吉氏
                             「山岳 第12年第2・3号  会報」欄より
    
参考 「横浜開港資料館 久吉(文書類)No
641」に、 山岳講習会(名古屋市会議事堂に於いて、女性用入場券付案内)が記述されていました。
5月、「植物学雑誌32巻377号」に「ひひらぎなんてんノ原産地判明ス・舊世界産ノひひらぎなんてん属植物」を寄稿する。
  ひいらぎなんてん属(Mahonia) 注 学名の中のTAK表記TAKEDAのことです。
一、印度産ノ種類
M.napaulensis DC. ネパール
M.griffithii TAK. ブータン
M.qycnophylla (FEDDE) TAK.キャジア

M.Roxburghii(DC.)TAK. マニプール
M.acanthifolia G.DON.ネパール、クマオン、ダーヂリン

M.sikkimensis TAK. シッキム
M.borealis TAK.印度西北部ニ広ク分布ス
M.manipurensis TAK. マニプール
M.simonsii TAK. キョジア
M.Leschenaultii(WALL.) TAK.ニールギリ

二、支那産ノ種類
M.Beaulei CARR. 湖北省、四川省、広東省
M.Flavida SCHN. 雲南省
M.Forgii SCHN.   広東省
M.longibracteata TAK.雲南省
M.polyodonta FEDDE. 四川省
M.Scheridaniana SCHN. 湖北省
M.Gracilipes(OLIV.) FEDDE. 四川省
M.nitens SCHN.四川省
M.decipiens SCHN. 湖北省
M.hypoleuca SCHN.(=M.nivea SCHN.)雲南省

M.Mairei TAK. 雲南省
M.bracteolata TAK.(=M.caesia SCHN.)雲南省
M.dolichostylis TAK. 雲南省
M.conferta TAK.  雲南省

M.Hancockiana TAK.  雲南省
M.lomariifolia TAK.(=M.Alexandri SCHN.) 雲南省
M.Veitchiorum(HEMSL. et WILS.)SCHN. 四川省、雲南省
M.Fortunei(LINDL.) FEDDE. (ほそばひいらぎなんてん) 四川省
M.confusa SPRAGUE(=M.Zemanii SCHN.)湖北省、四川省
M.Fargesii TAK.四川省
M.Bodinieri GOGNEP. 貴州
M. Duclouxiana GOGNEP. 雲南省
M.eurybracleata FEDDE. 四川省
M.ganpiensis LEV. 貴州
M.setosa GOGNEP. 雲南省
三、台湾産ノ種類
M.japonica DC.(=M. tikushiensis HAYATA.)
M.lomariifolia TAK.(M.oiwakensis HAYATA.)

M.morrisonensis TAK.
四、シャム産ノ種類 M.siamensis TAK.
五、マラッカ産ノ種類 M.siamensis TAK.?
六、ビルマ産ノ種類 M.siamensis  TAK.
七、アナム産ノ種類 M.annamica GOGNEP.
八、ジャワ産ノ種類 M.sp. 標品未見ニテ種名判然セズ
九、フィリパイン産ノ種類 M.philippinensis TAK.(=M.philippinensis SCHN.)
                      「舊世界産ノひひらぎなんてん属植物」より
7月、武侠世界臨時増刊「登山探検画報」に「山岳を愛護せよ」を寄稿する。
7月26日〜8月6日、木暮理太郎と日野春→柳沢・雑貨店小池浅吉方(泊)→大武川を上流に→シラハリ平(ソウシカンバ)→早川尾根、無人小屋(泊)→ミヨシ沢→三階淵→広河原小屋(泊)→大樺沢―大樺ノ池→ハイマツ)北岳―小鞍部に野営(泊)クロウスゴ・ダケカンバ→間ノ岳―野営(泊)→(クロユリ)農鳥岳―広河内岳(ウラジロキンバイ)―大井川河原(泊)―西天狗→アイダレ沢→(ハイマツ)蝙蝠岳―塩見岳→タケ沢の源頭(泊)→北荒川岳―阿倍荒ー→三つ棟(むね)岳(泊)→横川岳→荒ー岳(伊那 荒倉岳)(ハイマツ・エゾムラサキ)→仙丈ケ岳→北沢峠(地ノ平)→北沢小屋(泊)→仙水峠(ハイマツ・地衣類)→小松峯(駒津峰)→甲斐駒ケ岳→七丈の小屋(泊)→屏風岩―柳沢→日野春(キスゲ)の大縦走。
     (東駒ケ岳でチョウセンゴヨウを採取自生していることを裏付ける) 「アルプ 90号 木暮君と私(一〜五)」より
     白峯北岳東南腹、約2800mに於いてハイマツの生態調査を行う。   
           
「続原色日本高山植物図鑑」より  
木暮理太郎との縦走中にハイマツの生態調査 
8月15日から10日間 柳田国男ら10名で内郷村調査を行う。(日本で最初のフィールドワーク)
    
柳田国男、草野俊介、正木助次郎、牧口常三郎、中桐確太郎、佐藤功一、今和次郎
      田中信良、小田内通敏、中村留治、石黒忠篤
 
地元側:鈴木重光、長谷川一郎 

8月、「山岳 第12年第2・3号」の会報欄に「名古屋における第3回山岳講習会」の開かれたことが記載される。
9月、「日本植物学雑誌32巻第381号」に「数種の極東産の植物について極東植物雑記」の研究報告を行う。 Notes on Far Eastern Plants1ー4
 注:欧文→雑誌では和文 2015.2.28 保坂
  
  「極東植物雑記(英文)」
「極東植物雑記」を記された冒頭部分
 別項欧文欄中ニ「極東植物雑記」ト題シテ掲ゲタルモノハ主トシテ顕花植物及羊歯植物ノ分類ニ関セル事項ニシテマヽ形態学上ノ問題ヲモ取扱フコトアルベシ。議論ハ英文ヲ以テ記シショクブツノ記相文ハ羅典文ヲ以テ掲グルコトヽシタレバ、和文ヲ以テ要点ヲ記シ、之ヲ雑録欄ニ載セテ一目シテ要領ヲ捕捉セン人ノ便ニ供スルコトヽセリ。番号ハ主文ノモノト同一トシ、挿図ハ主文ノモノヲ利用スルコトヽシテ、此処ニ再出セズ。
 一、しらたまのき。従来本植物ニ Gaultheria pyroloides Hook.f.et THOMS. ナル学名ヲ充テ来リシハ、ミクル氏ガ我ガ日本ノモノヲ印度産ノ植物ト同一ナリト考ヘテ、此ノ学名wp充テ用セシニ始マリ、マクスィモー
ッチ氏亦之ヲ襲用シタリシガ、印度ノモノハ雄蘂(オシベ)ニ二本ノ刺ヲ有シ、果実ハ藍黒色ナリト云フヲ以テ、予ハしらたまのきヲ新種ト認メ、之ニ Gaultheria Miqueliana ナル学名ヲ与へタリ。本種ハ北海道及ビ内地中部以北高山ノ亞高山帯ニ産ス。雪白ノ果実ナ初秋成熟シ、枝頭ニ累々タルハ甚美ナリ。  (以下、5品目の説明に入る)
しらたまのき (上記に記述)



たけしまやまぶだう


本誌第三七七号ニ中井博士ハ欝陵(ウルルン)島ノやまぶだうノ一新変種ヲ発表シテ、之ヲたけしまやまぶだうト呼バル。本変種又北海道本島ニ産シ、宮部博士及予ハ之ヲ札幌附近ニ得タリ、北海道ニハナホ他所ニモ産スルナルベシ。


ひめうめばちさう及ビひめみやまうめばちさう

Parnassia alpicola MAK.
 α.enoluta TAK.       ひめうめばちさう
 β.simplex HAY.et TAK
ひめみやまうめばちさう
こうめばちさう (省略)



しらねにんじんノ三品


Cnidium ajanense DRUDE
 forma a. nirmale TAK. しらねにんじん
 forma b. nirmale TAK. ほそばしらねにんじん
 forma c. nirmale TAK. ひろはしらねにんじん 
ひめいぬなづな (省略)
11月21日〜26、(27)日、木暮理太郎・浅井東一(東大植物学教室)・黒田正夫と四谷駅を夜に出発→初狩で下車月夜道を歩く→眞木→赤岩(あかや)ノ沢→雨のため桑西に戻り、小林仁兵衛宅(泊、霜に赤るんだ百目柿を炉で温めたり、干した舞茸の煮付けに舌鼓を打ったりして、満腹した上に安眠を得て、疲労を回復した)→茶臼沢→白岩(しらや)ノ丸→黒岳山→川胡桃沢ノ頭→(時間不足)→嵯峨塩鉱泉宿(泊)→小金(黄金 )沢山→大菩薩峠の縦走に成功ータケノカヤ川右岸→池之尻・亀井屋(泊、名物のワサビに舌鼓を打った。)→佐野峠ー猿橋・桂川館(泊)→上野原
     「わが山々の思ひ出・回想の冬山・「アルプ89号 小暮君と私(二)」より   宿泊数検討要 2014・8・31 保坂
12月、
「山岳 第十三年第一号 日光山の瀑布・高山植物雑記(一)」を寄稿する。
    また、同号に「【会報】神奈川県庁、横浜市役所主催山岳後援会」が掲載される。 
1919 大正8年 36
1月16日、浅川→小仏ー石老山ー吉野(泊)→生藤山ー三國山ー軍茶利山ー熊倉山ー栗坂峠ー南秋川の谷ー本宿(橋本屋:泊)ー沸澤の瀑→神ノ戸岩ー御前山ー北秋川に沿って→今熊山大権現→八王子→帰京。「わが山々の思ひ出・北相の一角・神戸岩と御前山」より
資料@ 推定 鈴木重光との出会い登山と植物 北相の一角」より (P170〜171の部分)
 
(前略)川原まで七十米許りある絶壁とも称す可き崖を、細い径を伝うて下って行くと、眼下には渡守の小舎が見える。此処は千木良村の字原村の下に当るので、渡しを俗に原下の渡しと呼ぶさうな。渡守の親爺は眼も口も引鈞た、見るからに恐ろしい人間で、夕暮などに一人きりで渡して貰ふのはちと薄気味がわるい位。著いたのは二時間四十五分で、まだ日暮には間もあるが、少時躊躇して居る中に、幸ひ一人の同船者が出来た。
 
石老山
 原下の渡しで同船した人は此の界隈に住むものと見えて、地理に精しい上に甚だ親切で、その御蔭で奥畑から間(あひ)ノ山を越えることに決める。桂川の右岸の土も石も皆凍ってカチカチした急な路を、自分が先になって登って行く。足駄履きの連れはこんな路に馴れて居るのか、いやに曲がりくねった路をスタスタ上るので、兎角靴の滑り勝な自分は後ろから追はれる様になって、息もつかずに直上七十米許りの崖を駈る様にして上がると、間ノ山の北麓の寒さうな斜面に、奥畑の人家が現はれる。部落の西端に近い人家の間から、間ノ山から流れ出る細い谷間の左岸を、眞上に見えるモミソを目当てにして上がれと教へられて、此の若い嚮導者と右左に袂を別つたのは、丁度三時であった。筧で引いた山の清水が農家の前の桶に溢れるのを一掬(ひとすくい)して、一と息入れ乍ら立留る。奥畑の主部は此の谷の右岸にあるらしく、その方から蓄音器の響きが聞こえて来る。今浪花節が終わったところで、引き続いて越後獅子が始まる。曲こそ違へ、こんな麗かな午後にグラモフォンを聞くと、何やら日曜日に英国の田舎へでも行った様な気がする。しかし今日は木曜だ、さうさう日本の田舎は毎日日曜なんだっけ(後略)
    
 嚮導先に立って案内すること。また、その人。
                         撮影2012・8・19
  
 千木良と奥畑を結ぶ渡しのあったところ  渡しからの道 右奥が重光の家、左は間ノ山への
 生藤山
(略)吉野から二十分許で澤井川を渡って日野の部落に入る。旭は平和な部落に暖かい光を投げかけて、如何にも新春らしい気持になる。此の辺では大人も子供も今日は破魔矢を作るに忙しい。雄竹を割って弓を造り、藪などに生えて居る箱根竹を四本そろへて矢を造り、之を恭(うやうや)しく山ノ神に上げるので、二十一日の未明には四方に向かって射るのだといふ。今しも向の農家から一組の万歳が出て来ると、四五人集まって日向ぼつこをして居た若者達が、万歳サンは初めてだから何か御目出度い物を安くやって貰はうと言ひながら銭をやると、二人は真面目で何か謳(うた)ひ出す。日野の鎮守御岳神社は左手の山腹にあって、数十階の石磴の上に立派な鳥居が立って居る。(略)
資料A「相州栃谷の山ノ神 P3」より
(略)
も一つ序でに記しておくべきは、津久井郡は、同じ神奈川県の中でも、他郡とは趣きを異にすることが多く、また、かつては津久井県と呼ばれたことがあるので、上記の古い棟札にはそのように書いてある。殊に山ノ神に関しては、一月十七日に弓矢を作って献じることは、大正八年一月中旬、沢井村で見聞した処であるが、それを二十一日の未明に四方に向って射る。そしてこの日には山ノ神は馬に跨って山中を駈け廻り猟に夢中になって、冠の落ちるのにも気がつかぬ程であるから、山に入るとその馬に蹴られて怪我をするから、入山はつつしむようにと戒める。それでこの日を山ノ神のお冠落しと呼ぶのだとは、戦争中吉野町で耳にした処である。この詞は今日では殆んど忘れられているが昔は津久井郡に接する高尾山の南麓の梅ノ木平でもそう曰われたと見えて、祠だけはそこに残っているが、意味はすっかり忘却されてしまっている。些細なことながら、記録して置くに値するかと思われるので斯くは
       昭和43年9月、「あしなか 山村民俗の会第110輯」に「相州栃谷の山ノ神」より
資料B「農村の行事と俗信 第十回  (三十)佛の年越しと山の神」より
(略)山の神の爲めに造る弓矢について、大正の中年に見聞した処であるが、相州津久井郡佐野川村日野では、一月十七日朝雄竹を裂いて弓を造り、篠竹で四本の矢を調ととのへ、之を山の神に献じ、二十一日の未明に、四方に向って之を射るのだといふ。
 注 この「生藤山」旅行は10月に発行された「山岳第十三年第三号」の中の「北相の一角」から時期を大正8年1月と考察しました。清水長明「武田先生と庚申塔」では(大正七年一月の旅)と記述されていますが、「北相の一角」冒頭の部分に「昨年の冬は暮のうちから飛出して、年賀と虚禮を避けると同時に、憧れていた山々谷々の景色に、都会の空気に疲れ切た頭脳を一新しやうと豫てから地図を相手に大計画をたてて居たが、旅行者を左右する一大威力である天候は、出発を一日々々と遅らせてしまった。それも元旦の午後から暴風雨が起るといった天候で、毛頭新春らしい気分にもなれず、病上りとでも行た調子で一両日を過もうちに、俗用といふ奴は遠慮なく襲ってくる。・・・(略)」と、あることから、この旅行は大正8年1月としました。   2014・9・19 保坂記
2月2日、第三回小集会に於いて「雁ノ腹すり」についての講演を行う。 
参考ー1 「牛奥山の雁ノ腹摺について」(導入の部分)
 
雁ヶ腹摺といふ山峯については、私は可なり前から興味を持って居たので、先年甲斐に旅行の際山民に聞糺し等して、大体の位置を突き止め、又文献上に○索して、その結果を大正八年二月二日の本会第三回小集会席上に於て発表し、後本誌第十三年第三号に掲載することゝした。(略)  大正15年8月号 「山岳第二十年第二号」より
参考ー2 「牛奥山の雁ノ腹摺について」 追加 P63下段
 (こ)の席上で、腹摺の話をした後、列席された會員の中澤眞二君は、御坂山地に於て現に雁が腹摺をやって、網を以て飛雁を捉へ得る時點を精しく通知されたことがある。
                      
民俗学的に貴重な文献として追加しました。 2017・6・8 保坂 
3月、「植物学雑誌33巻387号」に「植物和名雑記(二)」を寄稿する。(一)は大正7年4月の項を参照
○をきん、○びゃくなげ、○にうめんらん、○はまなす、○ぶだう、○ころは、○しょりま
○かぐま、○でんだ、○なんきんこざくら
 また、同号にハマナスは浜梨子(ハマナシ)が本名であることを発表する。 
                                
「明治の山旅・札幌と手稲山」 P263より
3月下旬、武相境の低い山々山々を歩いてー上野原(泊)ー芦垣ー権現山ー扇山ー鳥澤ー小篠峠ー秋山ー上野原へ「わが山々の思ひ出」より
4月、「山岳 第十三年第二号 甲斐柳澤・高山植物雑記(二)」を寄稿する。pid/6064912
    また、西園寺萇公が「「だうだん」の惠那山」を寄稿する。 /
4月下旬、大山→水小屋→煤ヶ谷村(泊)→半原峠→佛果山→宮ヶ瀬→鳥屋、宮の前(泊)→早戸川上流→滑り瀧ノ澤の山師の小屋(泊)→天候不順のため下山→  「わが山々の思ひ出」より
5月1日、編輯兼発行者高野豊三郎が、「日光町・國粹堂支店」から「日光山寫眞帖」を刊行する。(参考)
  
  
  日光山寫眞帖(参考)

 日光東照宮眠猫(参考)
 日本語(絵葉書の上段に表示)/眠猫。奥社入口なる坂下門前の廻廊の潜門にあり。名匠左甚五郎の作と傳へ三尺の童子も知れる名高き彫刻
 英語(絵葉書の下段に表示)/ 「
THE SLEEPING CAT(FAMOUS CARING) AT−IYEYASU TEMPLE,NIKKO.
日光杉並木 13 日光國幣中社二荒山神社 25 日光磐若の瀧
日光神橋 14 日光大猷廟仁王門 26 日光方等の瀧
日光相輪〇(とう) 15 日光大猷廟二天門 26 日光白雲の瀧
別格官幣社東照宮石鳥居及表門 16 日光大猷廟夜叉門 28 日光華厳の瀧
日光東照宮五重ノ塔 17 日光大猷廟唐門 29 日光中禅寺大平ノ霧
日光東照宮御手洗屋及輪蔵 18 日光大猷廟拝殿内部 30 日光中禅寺湖(南岸橋附近)
日光東照宮廻燈籠虫中鐘蓮燈籠 19 日光大猷廟皇嘉門 31 日光中禅寺湖歌ヶ濱ヨリ男體山ヲ望ム
日光東照宮陽明門 20 日光霧降の瀧 32 日光中禅寺湖上野島
日光東照宮唐門 21 日光含滿(がんまん)ヶ淵 33 日光湯の湖及湯元温泉
10 日光東照宮拝殿内部 22 日光田母澤御用邸
11 日光東照宮眠猫 23 日光裏見の瀧
12 日光東照宮奥社鑄抜門及多寶塔 24 日光中禅寺途上深澤渓
    注 1〜34の番号は配列を考察するためのもので、実際には付与されてはおりませんのでご注意願います。 2017・888・12 保坂
5月4日、「日本山岳会第十二回大会」が東京市赤坂区溜池町三会堂に於いて開かれ、地図類を出品する
松浦竹四郎 東西蝦夷山地理取調図 二十七冊 安政六已未、1859
松浦竹四郎 蝦夷闔境山川地理取調大樂?図 一冊 安政七庚申  万延元年、1860 
北海道廰発行 二十萬分一北海道地形図 全三十二図 第六刷明治四十年、1907
林子平 蝦夷国全図 天明五年、1785
藤田温卿 蝦夷闔境與地全図 嘉永六發丑、1853
小野寺謙 蝦夷海陸路程全図 安政二年、1855
開拓使 北海道國郡図 明治己巳二年、1869
著者不明 大日本全国之内出羽全図 明治元年? 1868
橋本謙 陸奥出羽国郡行程全図 明治以前
宮田彦弼 御寶播磨州郡邑與地全図 弘化三年、1846
著者不明 大日本九州之図 文化十年、1813
著者不明 新刻九州之図 文化十年、1813
著者不明 信州浅間大燒並上州吾妻郡大變之図絵(写本) 天明三年 1783?
林子平 無人島大小八十餘山之図 天明五年、1785
関口備正 府縣改正大日本全図 明治九年、1876
地理局地誌課 大日本國全図 明治十三年、1880
著色補記五萬分一地形図 四葉
Bartholomew:ーNew Reduced Survey:
     1. New Forest and Isle of Wight、
     2. Bedford、Hertford、etc 
     3. Surey
     4. Berks and Wilts

(書籍) Satow and Hawes:−Handbook for Central and Northern Japan.ed 1(1881)
                                       
 ;       :ed. 2(1884)
               
 Chamberlain and MasonーHandbook for Japan,ed 8(1907)
5月、東海道線の山北→玄倉村→山神峠→玄倉川上流→御本平(みもとだいら)→蛭ヶ岳→犬越路→上野田(泊)→上野原 「わが山々の思ひ出」より
参考@(略)明治卅八年の秋初めて訪ねた玄倉村に入り、山神峠を越して玄倉川の上流に入った。一と昔の静寂とは全く変って、この谷にも伐採は盛んに行はれ、製板、炭焼、刳物細工の工場や小屋が、ここかしこと並んでゐるには少なからず驚いてしまった。然しその爲め宿泊には便利で、殊にその頃には珍らしい登山姿の者は、大に歓待されたものであった。御陰で御本(みもと)の平から蛭ヶ岳あたりを歩きまはることは、實に易々たるものとなってゐたのは、聊か倦氣ない程である。(略)この山旅に際して、この山中到る所に杉の自生してゐることを確認することが出来たのは、大きな拾ひ物ともいへよう。  「わが山々の思ひ出 P152」より
参考A(略)大正七年八年へかけては機会に恵れて山神峠へ入ったり、蛭ヶ岳へ登ったり致しましたが、すでに此の時の山神峠に昔の俤はなく自然林も大分切取られ炭に焼かれて居ると云ふ有様で、非常に落膽致しました。蛭ヶ岳へは五月に入りましたが新緑が實に見事だったと記憶して居ります。(略) 
                  昭和12年 秦野山岳會編「丹澤」 「丹澤の昔を語る」より 
参考B山へは大正七年に初めてかついでいった。−前号で六年としたのは誤り−この年の五月、かねてねらっていた丹沢登山を決行することになり、辻本満丸氏のところに話に行くと、「君、そんな珍しい山に行くのにカメラを持ってゆかぬ法はない。ぼくのを借すからとってきたまえ。現像も引き受ける」と、しきりにすすめられ、それでは、ということになったのだ。    1963.5 「岳人 日本山岳写真史ノートD P93 編集部」より
        ※参考Bでは修正して大正七年としているが大正8年の5月が有力と考えられるが検討要 2017.3.7 保坂
5月中旬、駿河駅→世附川上流→大棚澤奥の製板小屋(泊)→山中湖畔の平野→籠坂峠→乙女峠→箱根・蔦屋で催された小島烏水の歓迎会へ→  「わが山々の思ひ出」より
5月下旬、駿河駅→世附川→大又澤→城ヶ尾峠→諸窪澤→竹ノ本(泊)→加入道→大群山→犬越路→神ノ川奥の伐採事務所(泊)→伊勢澤→蛭ヶ岳→不動ノ峯→丹沢三山→玄倉川奥の旧知の宿(泊)→鍋割→寄村→松田駅  「わが山々の思ひ出」より
5月、小泉源一が「植物学雑誌33巻389号」に「仙丈ヶ岳ノ針葉樹帯ニ高地要素ノ存在スルコトニ就テ」を寄稿、その中の一つに「しんぱく(Juniperus Sargentii TAKEDA)」を記述する。
8月、
小暮理太郎君と、白峯三山を縦走し、ついに広河内あたりまで行き、大井川の源流に下ってから、蝙蝠岳の尾根にとりつき、そこから塩見岳を経て、三峯川上流左岸の長い尾根を二日がかりで歩き、再度仙丈岳を南から登って北沢峠に下ったことがある。 「明治の山旅・「白崩山・甲斐駒・異同の実地検証」 P291」より
8月、辻本満丸に誘われ岩菅山に登る
第六回小集会、演題「上信国境の山旅」より
(略)
次で氏が大正八年八月中旬以後、豊野より安代温泉に到り、辻本博士の驥尾に附して、地獄谷に遊び、更に波坂を上がり手て澗満瀑、琵琶池、丸沼、蓮池、大沼池を探り、発補より岩菅山に登りて山頂の新石室に二泊し、雨を犯して裏岩菅に達し、其後単身発補より焼額に登りて奥高天原に遊び、琵琶池の西を匝(めぐ)りて草津街道に出て、熊ノ湯より笠ヶ岳に登り、又国境を上州に越ゆるの途次、渋峠より横手山に登り、葭ヶ平に下りて白根に上り、山頂を一周の後万座温泉に下りその附近を探勝の後万座川に沿ひて干俣に下り、上ノ貝を経て田代に出て、鹿澤温泉より湯ノ丸山に登りて新張(ミハリ)に下り、天候不良の為めに浅間以東を放棄して帰京されたる大要を、通路附近の風景約七十枚の写真を示して物語られたり、氏の経験によれば、岩菅山頂の石室は設計の法宣しからざる為め、最も不便不快なる建物なる由、又登山根據地として発補の天狗ノ湯、万座の日進館は推奨に値するものにて、鹿澤温泉は三年前焼亡後全く荒廃して未だ恢復するに至らず、宿泊地としては原始的なることを以て名のある熊ノ湯にも劣ること数等なる由なり。     「山岳 第十四年第一号」 P138より
(略)私の写真術は実に辻本君に負う処が多く、同君の手解きによって始めたものである。辻本君は大中小三四台の写真器を所持され、山岳写真には随分と努力を惜しまれず、時折素晴らしい作品をものされ、日本山岳会発行の『高山深谷』に採択されたのも少くないやうである。(略)岩菅登山は両三回行はれたらしいが、大正八年には私も誘はれて共に山頂の小屋に二三泊したことがある。安代から私は汗みづくになって波坂の急坂を登り、沓打の茶屋から琵琶池を経て発哺の天狗ノ湯へ徒歩したが、辻本君は沓野の馬子で八字髭を生した黒岩角太郎に口を取らせた馬に跨り、単衣にモンペイの涼しさうないで立ちは羨しかった。初めの日は角サンの案内で大沼を探り、沼の北端に立って瓢箪形の湖の一部を望見した。翌日は高天ヶ原を越し、梯子澤を登り、乗切りに達してから山脊を表岩菅に昇り着き、此処に新設された小屋を根據として兩の間を裏岩菅迄注意したのであった。最近の状態は知らないが、その頃の岩菅小屋は設計が甚だ下手で、内部は焚火の烟で呼吸が出来ぬ程であり、戸を明ければ寒気に苦しめられる有様であった。尤も現今は発哺から容易に日帰りが出来るから、こんな小屋は恐らく不用であらう。岩菅の山頂から、苗場山を望むのも辻本君の予定の内にあったらしい。だが私との登山の時には、去来する白雲の間から僅に望見出来たに過ぎなかった。苗場山の登山慾も辻本君は持合わせてゐたらしいが、あの頃は慈恵小屋は勿論、手狭な遊仙閣すら無かったのであるから、実行の機会は無かったのである。(略)
                        昭和16年3月 山岳第35年第2号 追悼 「我が山の友辻本満丸君」より
              登山の日時に就いては不明なため検討要す 2015・4・22 保坂
9月、小泉源一、「植物学雑誌33巻393号」に「日本高山植物区系ノ由来及区系地理」を発表、この中に、「TAKEDA」と名の付いた高山植物21種を記述する。
植物名(和 名) 植物名(学 名) 記 事
たかねひかげのかづら Lycopodium sitchense RUPR.var.nikoense TAKEDA
屋久島の頂上
あかもの Gauliheria Miqueliana TAKEDA
シンパク Jumiperus Sargenlii TAKEDA. ミヤマシャジン
タカネアヲヤギ Veratrum longebraeteatum TAKEDA
ミヤマチドリ Olatanthera Takeda MAX.
ユウバリガニツリ Trisetum laere TAKEDA.
オホヒゲガリヤス Calamagrostis grandiseta TAKEDA.
オクヤマガヤ Calamagrostis subbiflora TAKEDA.
アヲノガリヤス Calamagrostis viridula TAKEDA.
ヤマノガリヤス Calamagrostis variiglumis.TAKEDA.
ユウバリウヅ Aconitum yuparense TAKEDA. ユウバリトリカブト
カタヲカサウ・ツクモグサ Aconitum Taraoi TAKEDA.
シロモノ Gaultheria Miqueliana TAKEDA. シラタマノキ
ユウバリコザクラ Primula yubarensis TAKEDA.
ユウバリリンドウ Gentiana yuparensis TAKEDA.
ホウワウシャジン  Adenophora howozana TAKEDA. ホウオウシャジン
タカネヒゴタイ Saussurea kaimontana TAKEDA. ミヤマヒゴタイ?
タカネカウリンカ Seneeio  flammeus Dc.var alpina TAKEDA.
カラフトアヲヤギ Veratrum anticleoides TAKEDA.et MIYAK. カラフトシュロソウ
カラフトアオヤギソウ
カタヲカサウ Anemone Taraoi TAKEDA.
チシマニンジン Cnidium Tilingia TAKEDA.
9月7日、第五回小集会が清水谷皆香園に於いて開かれ「多摩川相模川の分水山脈」を講演する。
一、黒部川   木暮理太郎氏       二、多摩川相模川の分水山脈  武田久吉氏
9月10日、「日光山寫眞帖」が「下野三樂園販売部」より刊行される。 所蔵 桧枝岐村教育委員会
  

10月15日、日本山岳会の事務所が高野鷹蔵宅から武田博士宅に移行される
 
 『山岳第十三年第三号
この頃の雑誌「山岳」について
大正八年十月十五日、高野君の健康状態の関係で、日本山岳会の事務所が、急遽私の家に移り、それ迄遅刊に遅刊を重ねた『山岳』の発刊を取り戻そうと、全力をそれに傾斜した頃、相談相手は手近かな所に住んでいた梅沢君と、本郷の小暮君とであった。梅沢君は専ら会計の方をやり、小暮君は編集主任ということにし、私は庶務を掌った。然し雑誌の発行がその当時の会の唯一の事業とも言われる程の状態であったから、庶務だからと言っても、その方の仕事にのみ携わって居る訳にも行きかねるので、編集の仕事も半分以上は手伝わなくてはならない。そして原稿も自然に集まるのを待っている訳にも行かないので、自身筆を執る必要に迫られる。そんな事で、『山岳』第十四年第一号の如きは、雑録と雑報と会報五十余頁の原稿は私一人で拵え上げたし、第二号の雑録の半分は私の筆に成ったものである。その結果、第一号が二月、第二号が四月、
第三号が七月、また第十五年の第一号がつづいて八月、第二号が十一月と、それ迄は一年にやっと二号位しか発行できなかったのに比べれば、(略)     資料 「アルプ88号 小暮君と私(一) P66」より
10月22日、「山岳 第十三年第三号 雁ヶ腹摺考・北相の一角・高山植物雑記(三)・甲斐柳澤近況」を寄稿する。pid/6064913
  また、八代準が雜録欄に「日光湯川の小瀑 」を寄稿する。
  また、同号に、辻本満丸が「信州岩菅山梅沢観光が「白崩山の古道に就て、戸澤英一が丹澤山塊」を寄稿する。
同号には、(武田久吉氏撮影)として4枚の写真が掲載されています。
   
左から@岩菅山登路の一部平穏堰沿岸の濶葉樹林  A南面の鞍部ノッキリ(乗切)より仰げる岩菅山嶺   C岩菅山梯子(ハシゴ)澤の二重瀑
                                 B東館北麓清水の小屋場より仰げる岩菅山 

注 同号には辻本満丸の「信州岩菅山」と題する掲載があり、8月中旬に同行する。  2014・7・30→2017・3・7 保坂記
参考 また、辻本満丸撮影による茶屋の写る小仏峠の写真もあり。 高畑棟材著「山を行く」では明治43年6月撮影とある 2014・8・1 保坂記
10月、湯本→奥白根→上州側へ・御釜→遠鳥居→金精峠(金精神社)→湯元→日光
前略)過ぐる大正八年の秋十月、湯本から奥白根に登り、西に上州に降った時、山上で写した高山初冬の景の数多い貴重なフィルムを、鞄ぐるみ、他の登山用具や衣服もろとも、上野駅の小荷物係の御目に留った結果、巧なからくりで手際よく搾取されて以来、幾度か湯本を訪いながら、白根に登る機を得なかった。それが今回は恵まれた晴天の御蔭で、奥日光の巓から水の退いた菅沼を※1(げかん)したり、前々日通過した鬼怒沼を遠望したりすることが出来た。そして両毛の国境を辿って、金精峠の頂上に藪を分け、神様にふさわしくないロッグハウス式の金精神社に詣でたが、誰の悪戯かつまらぬ社殿を建てたものだ。私は何も似而非道学者をまねて、その神体を云々するのではなくて、建築の様式について言うのだが、神社礼拝が問題となる今日の時勢として、社殿の様式も顧慮されねばなるまいと思う。中の祭神は伊弉諾尊の権化でもあり、また猿田彦命とも言われている由緒あるものであれば、そしてまた最も神秘な力の象徴でもあれば、誰人と雖(いえど)もこれに額(ぬかず)くに異議のある可き筈が無い。
 初秋の湯本は静寂其者であった。たとえば現代の諸設備が整ったにせよ、俗人の喚きさえなくば、湯本は依然として仙境と呼ぶにはしかるに、繰返して言うが、しかるにだ、十三夜の月影を踏んで金精峠から降りて来て見ると、昨夜迄静謐であった湯本に、絃歌が湧いているではないか。
(以下略)  「登山と植物 尾瀬と奥日光を訪うて」より
    ※1下瞰(げかん)見おろす。上から下を見おろす。 
注意)尾瀬と奥日光を訪うて」の文中、金精峠から次にどのコースを辿られたを考察して見ましたが、上州行か湯本行か両方に
    読み取れましたので再検討要  2014・12・9 再読 
登山コース確定(下記に記す)する 2015・4・19 保坂記
コース設定の根拠 「山岳 第十四年第二号 大正九年四月号 ○会員通信」欄 P120 より
△昨日単騎食料防寒具等を背負込みて白根山に登る、九月の大洪水にて白根澤大分荒れたると(略)白根山頂より上州に下り、御釜を横ぎり密林を穿ちて遠鳥居に下りる。帰途清水より、日暮れ例の提燈を点して金精峠をこゆ、日光八合目(?)以下の路全く流失し(九月の大雨にて)澤を下り不少大困難を営む。(略)本日中禅寺以下は大霧なり、それを通じて午後日光に着く。(八年十月二十四日日光にて武田久吉)
 
11月9日、「第六回小集会 紀尾井町皆香園」に於いて「上信国境の山旅」を講演する。
演目  高山植物の栽培に就て 農学士 辻村伊助      上信国境の山旅 理学博士 武田久吉
出席者/戸沢英一・黒田孝雄・沼井銕太郎・堀亀雄・宮本璋・中村孝二郎・森喬・村越匡次・山本宣次・青木軍二郎・M名増雄・横山光太郎・高橋トミ太郎・宏直弥・酒井忠一・武井真澄・佐藤文二・山崎武二・三宅驥一・松本善二・木暮理太郎・近藤茂吉・武田久吉・辻村伊助の二十四名及会員以外の来会者五名。
「上信国境の山旅」講演の後半部から
(略)次いで氏が大正八年八月中旬以後、豊野より安代温泉に至り、辻本博士の驥尾に附して、地獄谷に遊び、更に波坂を上がりて澗満瀑、琵琶池、丸沼、蓮池、大沼池を探り、発哺より岩菅山に登りて山頂の新石室に二泊し、雨を犯して裏岩菅に達し、其後単身発哺より焼額に登りて奥高天原に遊び、琵琶池の西を匝りて草津街道に出て、熊ノ湯より笠ヶ岳にに登り、又国境を上州に越ゆるの途次、渋峠より横手山に登り、葭ヶ平に下りて白根に上り、山頂を一周の後万座温泉に下り、その附近を探勝の後万座川に沿ひて干俣に下り、上ノ貝を経て田代に出て、鹿澤温泉より湯ノ丸山に登りて新張(ミハリ)に下り、天候不良の為めに浅間以東を放棄して帰京されたる大要を、通路附近の風景約七十枚の写真を示して物語られたり、氏の経験によれば、岩菅山頂の石室は設計の法宣しからざる為め、最も不便不快なる建物なる由、又登山(略) 大正9年2月号 山岳第十四年第一号 「第六回小集会記事」より
○この年、上青根の井上喜助宅を再訪し思い出話に花を咲かせる。
検討事項 「私は大正8年頃、玄ー川の上流の熊木沢から蛭ヶ岳に登り、帰途中川から犬越路を越え、青根に来て、井上家を訪ねたが、大そう歓迎して下さって、特に白米を炊いてくれられたのには、大いに恐縮したことであった「明治の山旅・蛭ヶ岳を志す」より5月は2回、丹沢に来ているので、井上家には何時頃訪ねられたか 検討要
〇この年、関東水電(株)が、尾瀬ヶ原から利根川に導水して発電する事業計画をたて、そのための水利使用を関係(福島県・新潟県・群馬県)知事に申請を行う。
1920 大正9年 37
1月1日、喜田貞吉主筆「民族と歴史 第三巻 第一號 福神研究號」が刊行される。
1月15日、喜田貞吉主筆「民族と歴史 第三巻 第二號 續福神研究號」が刊行され
    仙台第二中学教諭中西利徳が「笠島道祖神の研究」を発表する。 (武田家所蔵本)
2月8日、木暮理太郎が、「第七回小集会 紀尾井町皆香園」に於いて「皇海山(すかいさん)に就て」を講演する。
皇海山(すかいさん)に就て 木暮理太郎氏 
 氏が昨秋該地方に行はれたる詳細の旅行談にして、此多くの人には名さへ耳遠き山岳を充分に紹介したるものと云ふべく、此山は庚申山の奥院なりし事を断ぜられたり、追て此記文は山岳誌上に掲載せらるべきも、其暴雨中のシノヤガミの一夜の如き、集会出席者以外には受け難き興味ある談なりき。

出席者二十八名辻本満丸・松本善三・小林修明・藤島敏男・黒田孝雄・伊藤新三・横山光太郎・村越匡次・武井真澄松井幹雄・又木周夫・高田達也・鳥山悌成・日高信六郎・谷内重夫・今村巳之助・高頭仁兵衛・木暮理太郎・田部重治・武田久吉・梅澤観光      山岳 第十四年第二号 会報欄より
2月15日付、辻村伊助が博士宛に書簡を送る。 
   「高山植物」改訂に関する意見  横浜開港資料館所蔵 久吉書簡No1075 内容未確認 2017・6・9 保坂
2月15日、「山岳 第十四年第一号」に、「神戸岩と御前山(一)・一二山湖の名称・コンパの意義・四阿山上州方面の登路附旅舎の事・万田山卑考・伊豆の大室山」・甲斐柳澤の旅舎と人夫」を寄稿する。また、同号に辻本満丸が「信州笠ヶ岳と横手山」を寄稿、日高信六郎が写真1枚、武田博士が写真4枚(下写真)、辻本満丸が写真2枚を掲載する。
 
               2                3                4     5
     
  2・笠ヶ岳頂上の神祠    3・渋湯温泉寺附近よりの東南望。左端、坊平山・・・ 4・硯川附近より望める横手山 5・硯川附近より見たる笠ヶ岳 
4月10日、「霧の旅会」幹部の人々と、猿橋駅ー佐野峠ー麻生山ー大室(権現)山ー扇山ー鳥澤(泊)ー小篠峠ー無生野ー雛鶴峠ー盛里ー大月ー帰京
           
「わが山々の思ひ出」・「大正10年1月第6号 「霧の旅」/松井幹雄著「佐野峠から権現山」」より
参考資料 「霧の旅」/松井幹雄著「佐野峠から権現山」」より
 
会員松本善二氏と武田博士のお宅に上がった時に、いろいろのお話をうかがった末にどこぞへお供したいと申し上げたら、快く承諾せられて、佐野峠から権現山へ出てみないかという仰せで、もっともまだ記録に上ってないのでさぞ山岳味に富んでいるだろうと、例の通りの巧みな話に酔ってしまい、足弱な私は少々恐ろしいので、石老へ行くと逃げ出したのですが、とうとう真正な意味において驥尾(きび)に付すわけになった。(略)

 雛鶴姫綴連王神社 山岳 発行 T10・4
 この天狗棚山から右へ即ち東々北へ連なる尾根はこれぞ多摩相模両川の分水嶺のはじまりで、およそ千三百メートル持続して御坊山となり、三頭山を経て漸時低下して、生藤(しょうとう)山、連行峰、小仏の峰々となるもとである。この右に見る渓谷は小金沢と呼ばれ、葛野川の上流を形成する。
 ここを根拠として皆活動する。松本君は博士の三脚を拝借して連峰をカメラに収める。背負袋
(リュックサック)を置いて、皆で西原(さいはら)へ向かう峠路から三頭(みとう)山を見ようといって出かけると、同寺沢の方から炭焼きが上って来たので、いささか物騒と見て、田沢山崎の両君は棄権する。地図の西原村という村の字の左五ミリぐらいでとまる。落葉した木の間から眉間に迫る岳は三頭山で、駆け登りたくなるほどである。左にははるかに名高い雲取山が天に沖してそびえる。柔らかい草原のようである。左に佐野峠の例の長い長い尾根の一部が根張って見える。ここで三脚を拝借して撮ったのには、木々に風が吹いていなかった。小菅(こすげ)から来る峠路といっしょになった所から見た不二山は、陳腐だがよいとあって、またもや三脚を立ててスクリーンをかけて名山を撮る。すでにして根拠地に帰れば、二君は牝鶴が長き日を夢見る心地で寝ている。博士はやア砂風呂だと言いながら、さっそくミヤマヌナブクロの名を授ける。後に至ってこの災いを受けるは知る由もない。(略)鳥沢の町は寂しかった。
 晩飯の食べ所もなく、その上に終列車は満員の通知があったというので、少なからず驚かされた。博士は、町一等のホテルに泊まられたのでお別れして、終列車に乗り、幾つもの空席を見て大笑して即日帰京した。(略)
4月25日、「山岳 第十四年第二号 神戸岩と御前山(承前、完結)・雛鶴峠・塩見岳なる名称に就て・二合半坂」を寄稿する。
   また、圖版 大岳山頂より望める御前山 御前山の神祠 御前山頂より大岳山 も収録する。 
圖版未確認 2017・11・29
資料ー1 二合半坂
 東京市中や近郊から望める主要な山岳については、本誌第八年第二号に中村清太郎氏が一と纏にして揚げられて以来、これが導火線となってか、望岳に熱中する人も大分出て来た様だが、其の前後からして同じ趣味の深い同人間の研究も益々歩武を進めて、第九年第一号には木暮氏の筆になる処の大井川奥の山々のスケッチが揚げられるし、第十年第一号には赤羽台からの大展望図が巻頭を飾り、第十一年の第二号には苗場山の発見といふ驚く可き報告が、鈴木牧之をして地下に驚喜せしむるといふ処迄進んで来たが、是等数年に亘る研究の結果は第十一年第三号に取纏められて『東京市内所望山岳高度表』として発表されてある。此の図の説明には二〇〇〇米以上の山岳六十三座を挙げ、且つ各山峯の眺望地をも併記してあるのは吾々望岳を無上の楽とする輩には寔に有難い次第である。(略)/二号半坂は私には親み深い坂の一つで、明治十九年頃、私が未だ小学校へも通はない頃から、晴天の日にはよく日光山を見やうと言て、此の坂の頂に立ったことの記憶が、其後に学んだ教科書の内容よりも遥に歴然と残って居る。加之此の坂の眺望は、目黒の行人坂の様に、見るもいやな「西洋館」で遮断されることなく、今でも晴天の日には日光山の半を、双眸に入るゝことが出来る。 (武田久吉)
また、同号に竹内亮が会員通信欄に「大正八年三月五日ニセイカウシベ岳の渓谷にて」を寄稿する。
   
注 表題名なかったので、末尾のところから引用しました。同所には大正七年十二月中旬以降公務を帯びて訪れています。 保坂記
   また、同号に古家實三が「天然林保護に就て」を寄稿する。
5月1日より10日まで、フランス山岳会主催による「万国山岳大会」がモナコで開催される。

フランス山岳会副会長にして連合国間の万国山岳会長ガベー男爵からの要請があったが「適当なる代表者を派遣する事不可能なれば、大会に列席することは見合すの止むを得ざるに至れり」と、2月14日付を以て地図を発送、「又同18日、武田幹事本会を代表してガベー男爵に宛てて祝辞を送り「山岳」前号一冊を発送したり。かゝる間にフランス山岳会は、本会名誉会員ウェストン氏を山岳大会に招待し、同氏は我が国山岳会の大要及び本会の成立に関して講演せらるゝこと」  山岳 第十四年第二号より
5月9日、「日本山岳会第十三回大会」が赤坂溜池町三会堂で開かれ下記の地図類や生植物を出品する。
山城名勝志 十五冊 正徳元年(1711) 北越雪譜 初編三冊 天保十三年(1842)
都名所図絵 六冊 安永九年(1780) 北越雪譜 二輯四冊 天保十三年(1842)
拾遺都名所図絵 五冊 天明七年(1787) 日光山志 五冊 天保八年(1837)
再撰花洛名勝図会 八冊 元治元年(1864) 利根川図志 六冊 安政二年(1855)
摂津名所図絵 十二冊 寛政十年(1797) 富士根元記 一冊
和泉名所図絵 四冊 寛政七年(1795) 日本名山図絵 三冊 文化元年(1804)
河内名所図絵 六冊 享和元年(1801) 日本山水名區 二冊
伊勢参宮名所図絵 六冊 寛政九年(1797) 小笠原眞図 一冊(写本) 文久元年(1861)
近江名所図絵 四冊 文化十一年(1814) 養滿徳志
(日本奥地通志畿内部大和図)
二冊 享保二十一年(1736)
紀伊国名所図絵 五冊 文化八年(1811) 肥前豊後風土記 一冊
紀伊国名所図絵 二編五冊 文化九年(1812) 常陸風土記 一冊 天保十年(1839)
紀伊国名所図絵 三編七冊 天保九年(1838) 播磨国風土記 一冊
紀伊国名所図絵 後編六冊 嘉永四年(1851) 伊豆海島風土記 一冊
播州名所巡覧図絵 五冊 享和三年(1803) 武蔵野話 四冊 文化十二年(1815)
芸州厳島図絵 十冊 天保十三年(1842) 寸簸之地理   ※寸簸→吉備 二冊 安政七年(1860)
阿河名所図絵 二冊 文化八年(1811) 厳島道芝記 四冊 元禄十五年(1702)
東海道名所図絵 六冊 寛政九年(1797) 信貴山縁起 三冊 享保六年筆
木曽路名所図絵 七冊 文化二年(1805) 皇国道中早見一覧 一冊
木曽街道図絵 二冊 明治二十七年飜刻 大日本地図道中記 一冊 明治十二年(1879)
国芳木曽街道六十四次 一冊 五海道中細見記 一冊 安政五年(1858)
東国名勝志 五冊 宝暦十二年(1762) 諸国道中袖かゝ見 一冊 天保千年(1839)
銅版袖珍日光名所図絵 二冊 明治十五年(1882) 東海木曽両道中懐宝図鑑 一冊 天保十三年(1842)
唐土名勝図会 六冊 文化二年(1805) 東海道巡覧記 一冊 寛延四年(1751)
松島図絵 一冊 文政三年(1820) 吾嬬路記 一冊 享保六年(1721)
伊香保志 三冊 明治十五年(1882) ※1
甲斐叢書 前輯五冊 嘉永四年(1851) キミカゲサウ(函館産)
下野図誌 十二冊 文久晩年(11861) コメツガの新緑(三峰川上流産)
                          ※2
 ※1 With Camera and Rucksack on the Oberland and Valais by R.A.Malley
 ※2 Sapponaria ocymoides. Aredarin balearica :サポンソウ
また、同会場で講演会が行われる。
高層の気象現象   理学博士  藤原咲平        イエロウストーン ナショナルパーク(幻燈) 理学博士 中村清二
5月、松本善二と大月駅ー金山沢を溯って姥子山へは不成功(奈良子川上流の百間干場迄)ー初狩(泊)ー瀧子山ー大岩ヶ丸ー大蔵高丸ー焼山沢下る(農家泊)ー湯ノ沢峠ー白屋ノ丸ー黒嶽山ー大峠ー雁ヶ腹摺山ー姥子山ー奈良子川の谷に沿って猿橋(夜10時泊)ー百蔵山ーコタラ山ー扇山ー帰京「わが山々の思ひ出」より
6月7日夜11時、新橋駅に集合→松本善二と東海道線駿河駅(午前2時)ー明神峠ー三國峠ー山中湖ー石割神社→石割山ー鹿留山ー明見ー桂川沿いに小沼ー橋本屋(泊)ー前田巌(西桂村青年団長)と共に達磨石→石割権現→八十八体の石仏→岩屋の観音→三峠権現→三ツ峠ー白糸の滝ー上暮地→小沼→谷村(泊)ー栃苗代→佛ヶ澤→奥の院御正体大権現祠→御正体山ーズサ山ー谷村→(馬車鉄道)→大月ー帰京。 
            この登山については「山岳 第十五年第一号」の○会員通信欄にも詳しく掲載されていました。 保坂記
            考 横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))No693−6 「甲斐神鈴峰之圖」を所収
6月13日、紀尾井町清水谷皆香園に於いて午前中、山岳会幹事会が行われ、木暮・高野・高頭・武田・田部・梅澤が出席する。午後から、第九回小集会を開催、下記の講演会が行われる。
    一 武蔵野の逃水に就て  理学士 梅澤親光    二 木曽山脈の地貌発達に就いて 理学士 辻村太郎

当日の出席会員名酒井忠一・別宮貞俊・高畑棟材・黒田孝雄・松本善二・伊藤新三・五十嵐芳雄・村越匡次・高田達也・松宮三郎・六鵜保・青木軍二郎・松井幹雄・又木周夫・沼井銕太郎・茨木猪之吉・郷郁三郎・辻村太郎・田部重治・梅澤観光・高頭仁兵衛・木暮理太郎・武田久吉・会員外四名
7月17日〜24日、木暮理太郎、藤島敏男と、上野発(夜11時30分)高崎行→高崎→渋川→沼田町羽鳥屋(朝食)→小日向→藤原・柳淀(林忠七方(泊))→横山→西ノ橋→上ノ原→須原の麓→十二様の小石祠(イワハゼ)→湯ノ小屋→旅舎大坪友三郎方(泊)→八谷越え(アスヒ・トチノキ・ミズナラ・ブナ)→午後、洞元ノ瀑→楢俣川の左岸に沿って下る→ナツギ沢→大芦→須田貝→一畝田→久保→横山→打上り(泊)→(21日より木暮理太郎、藤島敏男は利根川水源を目指し別行動)→平出(ひらいで)→青木沢→裏見ノ瀑→洞口(どうこう)→(にわか雨に遇い引き返す)(泊)→玉原越から天ヶ禿山へと志すが藪ふかく撃退→→23日午前2時50分打上りを出発→久保の猟師林主税宅→宝川の谷を遡り、笠ケ岳頂上ー清水峠ー湯檜曾・本家旅館(遅い時間のため宿泊を拒否される)→打上(泊) 
                   「寶川を溯って笠ケ岳に登る「回想の冬山」・ 「アルプ 92号 木暮君と私(四)」より 
7月17日、「成東町肉食植物産地(成東・東金食虫植物群落)」が国の天然記念物に指定される。
7月24日、打上→伽葉山の麓の東門→七谷越→滝沢 →天神→塩河原鉱泉→高平(泊)(台風の模様)→武尊神社→南郷との別れ道山師の小屋→大洞(だいどう)→青木→水沼→(汽車)→桐生(泊)→帰京
                   「アルプ92号 小暮君と私(四)」より
8月、「山岳 第十五年第一号 多摩川相模川の分水山脈(上)」を寄稿する。

     
多摩川相模川の分水山脈図(部分                ↑七国峠
 
百蔵山の中腹より扇山の西面を望む 殿山東腹より望める扇山及び百蔵山
  辻本満丸氏撮影      武田久吉博士撮影
(略)百蔵山上にも水は甚だ乏しくて、只、東南面八合目辺で宮谷川の源よりも稍上部に当って少量の水が湧出する所がある。水側には三四株の杉があるし、茶碗も備へてある。また観世音の石像一基此処に立って居るが、これは百蔵山の祭神ではなくて、実際の祭神は下和田に鎮座する百蔵山春日明神である。甲斐國志巻之七〇 百蔵山春日明神下和田井尻ニアリ本村氏神ナリ地蔵立像アラハハキ弐体衣冠形座像背後ニ文明(略)百蔵山は下和田から登るのが本道であらうが、猿橋からでは大神宮の側から北に道を取るのが一番近い。南面から
登る道もあるし、西麓葛野からの路もある。五月中旬にはヤマツツジの花で全山赤変すと云ふも誇張ではない位である。又東面の登り口から長尾山を経て扇山に登ることも易々たるものであるし、兎に角路は縦横に立て居るから、何れの方面からでも上下出来る。          「多摩川相模川の分水山脈(上)」より
 同号、「○会員通信欄」に、道志山塊研究登山報告(同年6月の記述)を行う。
9月、北海道帝大水産専門部講師。(至昭和10年11月)

9月、出口米吉著、「日本生殖器崇拝略説」が刊行される。
10月初旬、苫小牧を経て支笏湖畔に遊ぶ。  「山岳15年3号 雜録 通信欄」より
(略)フープシムプリ(1123米)の側面を仰ぎ足下に・コケモヽ・ガンカウラン・シラタマノキ・タイマイサウ・イタドリ等の浮石の燒野を飾れる天上の美観を擅(ほしいまま)にすることを得候時に十一時。(略)
11月、「山岳 第十五年第二号」に「丹沢山塊に関する資料・コロラド州内の高峰」を寄稿する。 pid/6064918
     
                        武田家所蔵パンフレットより(9枚)
12月、丹沢山塊の仮小屋に泊まり、ウラジロモミの葉に霧の凍るを観察、樹氷となるプロセスを体得する。    「回想の冬山」より
12月下旬、下暮地→三ッ峠、森林植物の越冬状態を観察する。→真木(農家泊)→鳥屋ノ丸→吹切(ふつきり)→雁ガ腹摺山→大樺の頭→七保村和田→猿橋 「回想の冬山」・「山岳 第十五年第一号」大正9年8月発行の会報欄より
連理の枝」の発見
大正九年の暮に、甲斐北都留郡廣里村桑西から鳥屋ノ丸に登る途上で、路傍にある小いブナノキの連理を見たのが、野外で出会った最初であったかと記憶する。   「昭和14年7月発行・ドルメン 7月号 P35」より
1921 大正10年 38
2月6日、麹町区紀尾井町清水谷皆香園にて「第十二回小集会」が開かれ講演を行う。
一、 温泉岳より鬼怒沼に至る話 木暮理太郎
二、 大菩薩山脈       武田久吉

 先づ、大菩薩山脈の主脈より説き起して、北は丹波川南岸の鶏冠山より南は笹子峠附近に至るものとし、此の連嶺を大菩薩山脈と稱するは、最高點大菩薩岳あるが為にあらずして、反て其名は大菩薩峠より導かれたるものなるを明かにし、峠の名の起源に就て述ぶる所あり、夫より連脈の各峰の稱呼及大體の地形を論じ、地圖に表はされたる誤謬を訂正し、足らざるを補ひ、更に支脈の重要なるもの二三に就て説明する所ありたり。何さま同地方を縦横に跋渉されたる氏のことゝて、其所説は聴講者を益すること多大なりき。
 當日の來會者は松本善二・別宮貞俊・濱名増雄・辻本滿丸・沼井鐡太郎・横山光太郎・松井幹雄・黒田孝雄・高畑棟材・高田達也・高橋〇三郎・神谷恭・飯塚篤之助・伊藤新三・鈴木u三・鳥山悌成・村越匡次・今村巳之助・又木周夫・藤島敏男・森喬・近藤茂吉・六鵜保・武田久吉・田部重治・高頭仁兵衛・木暮理太郎の二十七氏にして、會員外來會者九名也。
2月であったか、葛野川の上流から長峯(ながね)に上る途中で、枯れた連理の枝を発見する。
参考ー@「連理の枝」の発見
(略)斯く二株のものが連理となった例として大正十年の二月であったか、甲斐北都留郡を流れる葛野川の上流から長峯(ながね)に上る途中で、ツガの大木の枝と隣に立つリャヤウブの枝と相接して一部癒合したものを見て面白いと思ったが、ツガの枝は残念にも枯死してゐた。(略)  「昭和14年7月発行・ドルメン 7月号 P35」より
    考察 「2月であったか、」と記したように実際は3月4日〜6日の出来事と思われる。2015・6・5 保坂記
3月4日〜6日 霧の旅会の有志と木暮理太郎、最終列車で上野原下車、(博士は津久井郡佐野川村に在って一行と上野原で合流する)→小伏(こぶし)→三二山→栗坂峠(夜もほのぼのと明け始めてから、峠の浅間祠を後にして)→三頭山(頂上だけ少数のソウシカンバ)→長作→小佐野峠→佐野峠→猿橋・桂川館(泊)3月6日、佐野川村に引き返す(泊)→市道山→臼杵山→五日市(泊)→今熊山→刈寄山(かりよせやま)→森久保→底沢→寄瀬→帰京  「アルプ 92号 木暮君と私(四)」より 
3月15日、下野三樂園副園長今井徳順が「下野三樂園販売部」から「日光山寫眞帖」を発行する。
   
  
 日光山寫眞帖              扉 武田理学博士解説
  
  十五 眠猫
 全國に名高き眠猫は、東照宮の奥社に達する石磴登り口なる、坂下門前の廻廊に在る潜門の蟇股に彫刻せるものにして、名匠左甚五郎の作と云ひ傳ふ。此の猫あるが為に、日光の廟社は鼠害を被ることなしといふ。此の彫刻あるの故を以て此の門を猫門と呼べり。










At the bottom of the flights of steps,which give access to the tomb of Iyezasu,there is a smail gate called SAKASHITA MON.Just in front of this gate,and in the red paintel ioggia,there is a small door.(略)

勝道上人御像 十四 東照宮拝殿内部 二十七 霧降之瀑
開山堂 十五 眠猫 二十八 憾〇(かんまん)ヶ淵
杉並木 十六 東照宮多寶塔 二十九 裏見ヶ瀑
神橋 十七 二荒山神社 三十 中禅寺途上大谷の激流
輪王寺庭園 十八 二ツ堂及大猷廟仁王門 三十一 方等之瀑及般若之瀑
相輪〇(とう)及三佛堂 十九 大猷廟二天門 三十二 大平
東照宮石鳥居及表門 二十 大猷廟夜叉門 三十三 華厳之瀑
五重之塔 二十一 大猷廟唐門 三十四 中禅寺橋
東照宮御厩 二十二 大猷廟拝殿内部 三十五 中禅寺立木観音堂
御手水屋及輪蔵 二十三 大猷廟本殿 三十六 歌ヶ濱より男山を望む
十一 皷樓、廻燈籠及薬師堂 二十四 大猷廟皇嘉門 三十七 戦場ヶ原
十二 陽明門 二十五 慈眼堂 三十八 湯瀑
十三 (唐門) 二十六 田母澤御用邸 三十九 湯湖及湯元温泉
4月16日、「山岳 第十五年第三号 雑録 雛鶴峠追記」を寄稿する。
   注 国会図書館 所蔵本 P55〜58Pが欠頁になっていたので注意が必要 2018・5・8 付記 保坂
   欠頁になっていた「雛鶴峠追記」 P56〜58の部分を理科大図書館所蔵本より転写して回復
博士が各村役場に取調方を依頼した返答書のタイトル 
秋山村々役場 雛鶴姫綴連王神社 雛鶴姫神社ノ縁起・社格・例年祭日・祭典ノ次第 T9年7月、役場からの返答あり
盛里村々役場 雛鶴姫神社 祭神・所在地・祭禮月日・縁起・〔雛鶴姫塚〕 役場からの返答あり(返答月の記述なし)
石船明神 祭神・霊主・所在地・祭禮月日・縁起
「石船明神詞の稱葢シ此処ニ肇ル」
道志村々役場 (道坂峠の)雛鶴姫神社  ー 役場からの返答なし
(略)道志村役場にも道坂峠の雛鶴姫神社について照會したが、半年以上を経た今日迄何等の回答に接しないのは遺憾である。
      注 上記の記述は、博士の質問について返答されたもので、担当者からの原文をその儘に掲載されてありました、 2018・5・11 保坂
資料@「武田久吉先生をしのぶ 愛した山岳と高山植物 舘脇操(北大名誉教授)」と題した新聞記事より
<前略>私と先生との出会いは大正十年の春、先生が北大水産専門部で植物学を講じていた時である。日本水産植物学界の第一人者で学界の名物男・遠藤吉三郎教授のあとガマとして先生に白羽の矢が立ったのであった。先生は「高山植物が海にもぐるか」と苦笑されていた。私は先生とともに渡島・駒ガ岳や夕張岳連峰に入って、かなり精密な調査をしたが、そのとき先生はミヤマハンモドキを初発見した。すでにユウバリコザクラをはじめ、夕張岳の珍奇な植物を英国で発表し、本道の名峰夕張岳が日本に占める位置が確立されていた。またユウバリソウは後に宮部金吾先生とともに、先生を記念してラゴティス・タケダナと命名、後年、私自身が発見したテシオコザクラ(プリムラ・タケダナ)は、美しく気品があったので、ひどく先生を喜ばした。<後略>
     昭和47年6月20日付 北海道新聞(夕刊)
  参考 テシオコザクラ Primula takedana Tatew.
また、同号に竹内亮が「樽前山の近況及び支笏湖」を寄稿する。
4月、藻岩山にて「しらねあふひ 萌發」の写真撮影を行う。「高山植物写真図聚2 No290」より
5月1日、「日本山岳會 第十四回大會」が開かれ、木暮理太郎が「利根川水源地の旅(幻燈)」に就いて講演する。
5月、藻岩山にて「しらねあふひ 花」の写真撮影を行う。「高山植物写真図聚2 No292」より
5月上旬、久留島水産得業士と北海道洞爺湖の舟遊と有珠山の登山を行う。「北海の奇勝を探る」より
   同月、渡島駒ヶ岳にて「みやまはんのき」の写真撮影を行う。「高山植物写真図聚 P65」より
5月、舘脇操と大沼駒ヶ岳→駒ヶ岳駅を歩く <舘脇文献No 1 上記と同工程か 検討要 2019・8・4 保坂>
7月、北海道ウトナイ湖(沼ノ端)にて「うらじろたでとはまなし・むらさきたちあふひ」の写真撮影を行う。

 (略)この両種共に砂礫地を好むもので、寒冷な地方では相伍して生じ得るも、温度の更に高い内地に来ると、ハマナシは元来海岸植物であって、唯寒冷な汐流の訪れる沿岸地のみにしか生ぜず、その南限は日本海側では鳥取附近に、太平洋側では鹿島灘沿岸に達するが、ウラジロタデの方は沿岸地を離れて、唯高山上に生ずるのみであるのは、甚だ興味ある事実と称す可きである。 「高山植物写真図聚 P121と2−No338」より
8月、夕張嶽にて「ひあふぎあやめ・えぞつつじ・ふたまたたんぽぽ・たかねをみなへし・ゆうばりりんだう・ゆうばりこざくら・えぞつがざくら・ながはつがざくら・れぶんさいこ・しそばすみれ・ちしまいちご・くもまゆきのした・えぞのくもまぐさ・えぞいはべんけい・たかねぐんばいなずな・ちしまいはつめぐさ・ゆうばりかにつり・りしりびゃくしん・みやまいはでんだ・おおいはぶすま・えぞしほがま・なんぶいぬなずな」の写真撮影を行う。
参考資料 「三九三 ゆうばりかにつり」の項より
(略)
本植物も亦柳沢農学士の発見する処に係り、夕張山脈の特産種である。筆者はその新種なることを認め、カニツリグサ属」の一種として記載発表したが、一九二七年に到り、禾本科専門の本田博士は理由を明示することなくしてこれをコメススキ属に移すに至った。今暇にその説に従ふも、覆審の必要あるものと思考する。 所属ー禾本科。 学名Deschampsia Takedana,HONDA.    「高山植物写真図聚2 No393」より
参考資料 「高山植物雑記 十六 石倉岳の地衣」の項より
(略)
又前記 Umbillicaria のもは、矢張り北米に發見され東亜に分布する。 U,pensylvanica といふ種類があって、私は去る大正十年北海道の夕張山中に採取し、朝比奈博士の檢定を経てこの名が確定し、同博士によってオホイハブスマの名が與へられた。   S12・10 「山岳 二十二年 一号 P142」より
8月、小夕張岳にて「おにく」の写真撮影を行う。。「高山植物写真図聚2 No410」より
8月21日、旧長蔵小屋の前で平野長蔵翁の写真撮影を行う。
  
 舊長蔵小屋に於ける故平野長蔵翁
  (大正十年八月廿一日寫)
  



9月、北海道札幌住、末吉惣左衛門の五女直子と結婚する。
10月中旬、那須・三斗小屋→三本槍岳→大蔵場(テント)→鏡ヶ沼→大峠→那須・三斗小屋
(略)大正十年の秋、那須岳に登ろうと、地図を調べたら、二千メートルにも足りないのにマツの記号がある。多分は間違えただろうなどと、疑いの目をもっていたが、現地に臨んで、それがまごう方なきハイマツであるのに、かつ驚きかつ喜んだことである。(略)    昭和33年3月 東京新聞 日だまり欄 「山とハイマツ」より
※(略)大正十一年の秋十月、日本山岳会の藤島敏男、松本善二、下岡忠二氏等と、之を試みた時、到底短時間に山陵を縦走することの不可能を悟り、鏡沼に下って、大峠の道に出て三斗小屋温泉に戻るの余儀なきに至った。(略)  山と渓谷 No147 昭和26年8月 「那須の追憶」より  大正十一年もあり再検討要 2016・4・12 保坂
※(略)私の家には「はひまつ」が三鉢ある。その一つは大正十一年の秋。その頃は滅多に登山家に見舞はれなかった那須の旭岳から携へ帰ったもので、やっと二三寸程のものであった。(略)
  山 第2巻9号 昭和10年8月「無題」より 日本山岳会所蔵 大正十一年も那須岳登山の可能性あり  2016・6・3 保坂記
11月20日〜21日、八丁峠・黒岳・十二ヶ岳等、御坂山系の登山を行う。
11月20日 →午前3時より歩き出し9時、八丁峠着→藪の中を、御坂峠・(中食)→黒岳→河口湖畔→大石村・盛集館(泊)
21日 盛集館→十二ヶ岳に上り西に下る筈→(芦川渓谷)→(泊)
22日 →夕までに、甲府か石和に出る予定→帰京
             はがきの末尾に 「蜜柑が非常に甘いので大切に半分づゝ食べて居る。
            大正10年11月22日付 妻・直子に宛てた「郵便はがき」より
12月、「山岳 第十六年第二号 高見石と白駒ノ池・甲斐駒ケ岳の新登路」を寄稿する。
○この年、木曽御嶽山でもチョウセンゴヨウの自生していることを裏付ける。
       「続原色日本高山植物図鑑 増訂五刷 ハイマツの生態 P75」より 2016・5・11 保坂
○この年、谷村駅→道志山塊越え→上野田(泊)→姫次→蛭ヶ岳(撮影した山頂の石像は八王子由木村、竹内富蔵が寄進)→ボッチ沢出合小屋(泊)→大滝→鳥屋→与瀬駅
       道志と丹沢の山旅(山行メモ)」秦野山岳会会報No.18(昭和13年11月)掲載」より
       ※原本再検討要 特に薬師像の写真撮影時期また雛鶴峠を通過したか 検討要 2016・4・12 保坂
12月17日〜28日、「東京日々新聞」に「冬の登山」を連載する。 松井幹雄「霧の旅」より
1922 大正11年 39
1月、「東洋学芸雑誌 39巻1号 通巻484号」に「植物の祖先 p28〜34」を寄稿する。
1月13日朝6時、木暮理太郎と飯田町駅発→二股尾(終点)→氷川→日原・水元(みずもと)屋(泊)→仙元峠→蕎麦粒山(十二時五分同所着。撮影などして居る内に、同十五分信州の浅間山が大爆発を起した音を聞いた。)→向沢裏→尾根を棒ノ折レ山→雪が激しく降りそそぐ→有間谷→河俣・丸喜屋(泊)→名栗川に沿うて飯能→帰京。      「アルプ 92号 木暮君と私(四)」より  参考 妻・直子に宛てた郵便はがき 1月14日朝 日原にて
2月4日の夜行、木暮理太郎と、日野春→和田→若神子(ここには味噌なめ地蔵という妙な石地蔵がある。)→二日市場→中穴平→川俣→万年橋→下津金→上津金→樫山→小尾越路(おびくうじ)→御門(みかど)→東小尾→増富鉱泉・津金楼(泊)→木賊峠(ヤエガワカンバ、この木は、八ヶ岳の東側から浅間山の麓にかけて分布するが、西側に見ない。そしてまた甲州の西保(にしぶ))あたりから、乾徳山麓にも分布し、ここではミヤマの名で知られている。それをつい一両年前、埼玉県秩父郡の高篠村の山中、約八〇〇メートルの地に発見したのは意外であった。)→一七五五メートルの峯頭→下黒平(しもくろべら)→猫坂→御岳金桜神社・大黒屋(泊)→帰京。  「アルプ 92号 木暮君と私(四)」より 
2月5日、「東洋学芸雑誌」に「冬の三ッ峠山」を寄稿する。
3月、「東洋学芸雑誌 39巻3号 通巻486号」に「植物の祖先(二)p13〜18」を寄稿する。
特に紅雪についての記述/(略)パルメラ状になったスフェレラは啻に乾燥に耐ゆるのみでなく、氷点下の酷寒に遭ってさへ死滅しない、そして夫にはヘマトクロームの存在が大に于與するものと考へられて居る。而も此植物は元来が寒冷な地方によく棲息するものであるから、其一種は高山や極地の氷雪上にさへ盛に繁殖して、所謂紅雪をなすのである。斯かる地方では、日中太陽熱の為に氷雪が解ける時、紅雪熱植物は膜を破って遊出し、夕刻結氷に先立って再びパルメラ状に戻ることさへある。序に注意迄に言って置くが、紅雪植物は単にスフェレラの一種に限らない。これと縁の近い種々の属の者は、雪上に繁殖する能力を以て居るので、中には黄雪や緑雪さては黒雪さへをなす者もあって、其種類は多数に上るのである。(略)
3月、中井猛之進が「植物学雑誌 第四百二十三号 すみれ雑記(其一) 十二 かうらいたちつぼすみれ」の項の中で、「武田久吉君ガ平稲山デ採取シテ居ル」と記述、「かうらいたちつぼすみれ」の存在を紹介する。 注 平稲山は手稲山のことか検討要 2015・11・16 保坂記
3月5日〜8日、(木暮理太郎と待ち合わせたが、逸れたため一人行)上野発→熊谷→小海線松原湖(泊)→海尻→海ノ口→切荘→板橋・朝日屋(泊)→延山(のべやま)の高原→粘(ねんば)の高原(ヤエガワカンバ)→長坂駅→帰京。   「アルプ 92号 木暮君と私(四)」・大正7年3月3日 妻直子に宛てた「郵便はがき」より 2015・4・6 日時確認済 保坂
○3月〜4月の頃、丹沢山塊への小旅行を行う。「アルプ 92号 木暮君と私(五)」より 日時検討要 2014・9・4 保坂
4月、「學藝 39巻4号 通巻487号」に「植物の祖先(三) p130−131」を寄稿する。 pid/3545391
   また、同号に鳥井龍蔵が「北樺太黒龍江下流の民族に就て(承前、完結)」を寄稿する。
4月、中井猛之進が「植物学雑誌 第四百二十四号 すみれ雑記(其二)を寄稿する。
 末尾に「以上九十六種二十九変種十異名トナル。斯ノ如キ多種ガ一地方ニ生ズル所ハ世界廣シト雖モ日本以外ニハナイ。日本ハ實ニすみれノ都デアル。(Notes on Japanese Violets.IIー T,NAKAI)」 と記述する。
4月29日〜5月6日、木暮理太郎・松本善二と(夜発、信越線高崎行に乗車、高崎から渋川へ→沼田)→勝沢→上牧(かみもく)→阿寺沢→小日向(ヤマブキ・タチツボスミレ・ラショウモンカズラ→アズマシャクナゲ)→谷川温泉(金盛館・泊)→割石沢→阿野川岳(笹・ブナ・アカツゲ)金盛館に戻る。※1

   金盛館をバックに 右から三人目 武田博士
アルプ 92号「木暮君と私(五)」 59P(原文)」より
※1 
折角阿能川岳の登山に成功したにもかかわらず、その晩から木暮君の健康が異状を呈するに及んで、私達は少なからず驚いた。正に鬼の霍乱である。どうも(高崎の)珍々軒のシナソバが原因らしい。そのため、大物の谷川富士は棄権するという。せめて一日静養したらばというので、翌日は三階の室に寝かせて置き、松本君と二人で谷川の上流を探ることにし、大体右岸に沿うて蹈跡を拾って行って見た。木の幹、花、新芽などを写すに多大の時間を費した後、昼頃帰って病人の容態を見ると、どうも一向に思わしくない。蓖麻子油がほしいというが、この部落では求めるに由なくて、湯原まで行かなければならないという。松本君を誘って、一緒に行こうというが、なかなか首を竪に振らない。止むなく午後になって私一人湯原へ買いに行って来た。それでも蓖
麻子油の効果はなかなか現われず、病人はどうも良くならない。天気も折角好くなったのに谷川富士の登山は思いもよらないという。余程気分が悪いものと見える。/二八 /五月三日の朝、本意なくも木暮君を宿に残し、松本君と二人で、谷川富士を登ることにして、浅間神社の傍を通って、ホドノ沢の右岸の怖ろしく急な尾根筋を登って行った。(略)           尚、写真は「アルプ159号 奥上州と上越境上の山を訪う」から引用させて戴きました。
→5月3日朝(上記からの続き)、ホドノ沢→(タカツボ沢の手前より雷鳴が轟き、大粒の雨が落ちて来たため引き返す。)→浅間神社※2→金盛館(泊)に戻る。
※2 今俗にいう谷川岳は、峯頭が二つに分かれていて、南峯には薬師仏を祀り、北峯には浅間を祀ってある。それ故、この山は谷川富士と呼ぶのが正しいことは論ずるに及ばない。若しその称呼が気に入らぬとなら、後閑あたりから遠望した姿に拠る「耳二つ」の名が適切と思われる。 「アルプ 92号 木暮君と私(五) 59P下段」より
→5月4日朝(上記からの続き、回復の徴候を見せない木暮理太郎は帰京→仏岩峠赤岩(あかや)・十二様の前の茶店で駄菓子を食す→永井(泊)→三国峠→法師温泉・長寿館(中食)荷物を取りに永井に戻る→湯宿(泊)→三国山で9枚続きの展望写真を撮影→帰京。
       
 「山への足跡」の中の「野辺山の原と十文字峠」・「回想の冬山」・「アルプ 92号 木暮君と私(五)」より 
 
この時、阿能川嶽・谷川富士(嶽)に於いて、「しゃくなげの蕾と花」の写真撮影を行う。
                                「高山植物写真図聚1 P127」より

 
この時、,三国峠で、「しゃうじゃうばかま」と、天神峠で「いはなし」の写真撮影を行う
                        「高山植物写真図聚2 No214・No340」より

5月、「蛭が嶽の薬師像」と題し写真撮影を行う。 
「山と渓谷 No143号 昭和26年4月号」より
グラビア写真掲載の全文 尚、本年譜での写真は昭和13年2月の項にも掲載しました。

 蛭が嶽の薬師像
  ツァイス ウナール16 ・アンティスクリーン2/1
 蛭が嶽を一口に薬師と呼ぶのは、頂上の南面に薬師仏を祀るからであるが、写真右端の像は「武州大澤住 先達 竹田富造」の立てたもので今は亡われて見るに山ない。翁は南多摩郡由木村大澤の人で、丸東なる講中の先達として、春の峯入りには三十五日間の難行苦行を続けたという。又塔ノ嶽の水場には嘉永元年二月から明治十四年四月迄に、六十三度尊佛に登拝した記念の不動尊を建立した。明治四十五年一月、九十歳の高齢で他界する迄、丹澤三山に信仰を集めたことは、稀に見る篤志の人である。    「山と渓谷 No143号 昭和26年4月号」より



5月、「學藝 39巻5号 通巻488号」「植物の祖先(四)」を寄稿する。
5月20日、東京朝日新聞社 福井晋太郎、武田久吉/山岳を中心に(執筆依頼状及び原稿) 状21 封筒1
研究資料 横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))No 566−1 「主人の原稿」と記された紙製箱に保管されている資料の一部
     内容未確認のため 調査要 2017・6・10 保坂

6月2日の夜行、飯田町駅→木暮理太郎とその義兄野田九浦の3人で日野春→若神子→二日市場→蓑ノ輪→長沢の「月ノ木館」で昼食→川俣川の左岸を渡り弘法水(レンゲツツジ・白いズミ・紫のフジ)→平沢→国界の蓬莱屋(泊)→袖先山→矢出原(ヤエガワカンバ・サクラソウ・サンリンソウ)→丸山(シラカンバ)→二ツ山を通過してミサワ川の右岸のウズミ原(ウマノアシガタの大群落)→御所平→梓山・信陽館(泊)→八丁ヶ原→十文字峠→(チチブシロカネソウ・アツモリソウ)栃本・大村方(泊)→強石(こわいし)→影森へ
                「山への足跡」の中の「野辺山の原と十文字峠」・「アルプ  2号 木暮君と私(五)」より
 
  矢出原から仰いだ八ヶ岳。左側の大木はヤエガワカンバ
(木暮理太郎氏撮影)「アルプ 92号 木暮君と私(五)  P61より

「木暮君と私(五)  三二 」より、冒頭の部分
 
袖先山で散々展望に耽った私達は、東北面に下がってから、矢出原牧場に通じる路に合して、三軒屋に向かった。空は限りなく晴れ、残雪をちりばめた八ヶ岳が眩しい程である。私は早速三脚を立てたが、木暮君はその木と人物を前景として、山を写した。それが同君の『山の憶ひ出』の下巻四六四頁に対して挿まれた写真で、あの日のよい思い出となった訳なので、 に再度掲出する。
 
※1:サクラソウやサンリンソウの繁る木立を通ってから、三人は丸山に登った。頂上にはシラカンバが一株立っていたが、今はどうなったか。ここを北に下ってから、二ツ山の小さな部落を通過して、ミサワ川の右岸に展開するウズミ原を通ったが、ここのウマノアシガタの大群落こそは、未だ他に見たことのない程の見事なものであった。(略)
 この時、,十文字峠で「つばめおもと」と、梓山で「べにばないちやくそう」の写真撮影を行う。 
                      「高山植物写真図聚2 No215・No227」より
 ※1:同じく、この時に撮影されたサクラソウの写真  
    
 高原に自生するサクラソウ    サンリンソウと混在するサクラソウ
  山梨県北巨摩郡平沢附近     長野県南佐久郡矢出原 
 





注 この時の、サクラソウにつきましては「遺伝」 S31・4月の項に記述しておきましたので。ご参照願います。  保坂
    「遺伝」 S31・4より   
6月6日、尾瀬ヶ原からの導水に関し関係知事が水利使用を許可する。
資料 長谷部俊治 「水利権とダム(2) −分水−」より
(略)
許可の際には工事計画は具体化していなかったが、分水量は毎秒6.12m3とされている。だが、後述するようにこの水利権をめぐって強い反対意見があり、工事着手に至らないまま、分水量を含めて尾瀬分水計画の具体的な内容は変更を重ねてきた。(略)
6月、「學藝 39巻6号 通巻489号」に「ナンブサウ」を寄稿する。

  ナンブソウ
  北海道定山渓上流にて
ナンブサウ −退化した奇植物−
(冒頭の部分)六月の初旬、札幌の西郊ハチャム川を遡って、テイテイ山麓を飾る森林に分け入るか、或は豊平川の上流定山渓の岸とかオタルナイ川の岸を彩る樹林に入ると、キミカゲサウの芳香を軽く下様な、奥床しい花香が、そよ吹く風のまに、どこからとなく漂うて来るのを感ずるのであるが、季節から言っても、亦産地から推しても、キミカゲサウである可き筈もないので、遠近を尋ねると果して縁深い樹蔭に、概形が瞥見ツタの葉に似た薄質の葉がモザイクをなす間から、細い金線の様な葉の頭に、碎小の
白花を穂に綴った、やさしい花が目を牽くのである。これこそ標題に掲げたナンブサウ一名ミツバサウと呼ばれる小草で、學問上甚だ興味深い植物である。(略)種々の點を綜合して比較研究すると、ナンブサウ属はイカリサウ属及びルヰエフボタン属と密接な類縁関係のあることがわかる。然し勿論是の両属からは可なりの距離を以て離れて属するので、其の中間に置かれる可き種属は已(すで)に絶滅したものに相違ない、又前記の諸属はメギ属と類縁関係を有するもので、分類学上ではメギ科(Berberidaceae)に改められるものである。
  瞥見(べっけん):ちらりと見ること。  碎小(さいしょう):
  参照 T4  植物学雑誌29巻346号 「achlys属について形態学的・系統的研究」
6月30日付、東京日日新聞発行所枝元長夫から博士宛てに原稿が返却される。
注意:同封された原稿名は「富士越し龍と笠富士 富岳に現れる雲の研究」と記されているが、原稿用紙(「山岳」仕様22×10)は28枚もあり、実際にその封筒に原稿が入るかが疑問、現在のところ、同名の論文の発行所、発行年が不明なため 検討を要す。 2017.6.19 保坂
7月、「科学知識 第2巻7月号」に「高山植物大観」を寄稿する。
7月、再度、八ヶ岳の本沢から硫黄岳に登山を行う。 「明治の山旅・八ヶ岳 P82」より
      
また、夏澤峠で「みやまぜんこ・しゃくなげ」を写真撮影する。「高山植物写真図聚 P106」より
7月、「學藝 39巻7号 通巻490号」に「海洋美と山岳美」を寄稿する。
    口繪 「直径四十三キロの距離にある御坊山巓より撮影した富士山の北面、赤石山上より見たる聖嶽
    注 坊山はJR中央本線笹子トンネルよりやや北上に存在を確認 直径四十三キロが疑問 2018・2・5→2020・7・27 保坂
   
   参考〕赤石山上より見たる聖嶽     御坊山巓より撮影した富士山の北面
    ※博士は光岳のハイマツ調査をなされていたか調査要 2020・7・27 保坂
7月、「山とスキー 17号」に「樽前岳ドームの最高點より望めるフツプシ岳・樽前岳北腹より見たるフツプシヌプリの東面」の写真を掲載する。
また、同号に竹内亮著「私の觀た惠庭岳」に「しらたまのき・惠庭岳頂上・惠庭岳火山略圖」等の写真が掲載される。
8月、「賜皇太子殿下並各宮殿下台覧 學藝 39巻491号」に「天上の花園 p32〜38 」を寄稿する。
   
口繪 アルプスノの名花ヱーデルワイス―三色版       撮影者確認要 2017・4・7 保坂
口繪 
北海道手宮洞窟の古代文字御覽中の皇太子殿下 /武田博士撮影
口繪 
大沼に映じたる駒ヶ岳の峯影 / 武田博士撮影
(略)御花畑の本来人工的に平地に作られたものに命ぜられた名に相違ない。それが高山上の特殊な植物景観に適用されたのは決して近頃の事ではないと思はれる。さはいへ、立山とか白山とか、古来多数の人が、目的は別としても、登山を行った山岳上に、此名が用ひられて居たことは耳にしないが、予が知っている實例は日の御花畑である。日光山のは人も知る通り、今から一千一百五十餘年前、勝道上人が大心願を立てて遂行したもので、徳川氏が霊廟を築いたのはそれよりも遥か後代の天和三年に最初の造営が行はれたのであるから、やっと今から三百餘年以前に當たるのである。處で縁起と其時代は未だ詳にすることが出来ないが、恐らく東照廓建立以前に濫觸し、以後に於て更に大袈裟に行はれたと思はれる強飯(ごうはん)の式といふのがある。これは輪王寺本坊や別所などで行はれたもので(今では只本坊のみで行はれる)、日光三社権現や東照宮から賜はる飯を強ひる儀式である。其時一山の僧が山伏の姿にいでたち、恐ろしい形相で螺(ほら)を吹立てなどし、高貴の方へさへあら(〈)しく飯をすゝめるのである。其詞の一節に「・・・・くも當山の権現並に東照宮より賜はるところの強飯一杯二杯に非ず七十五杯一粒も残さずすると取上げてのめそう殊(こと)、更御馳走として中禅寺の木辛皮きがらかは、寂光の生大根、蓼の湖ノ蓼、瀧ノ尾の青山椒、御花畑の唐辛、霜降のごきのみいろ珍物を取揃へて下さる・・・・・」といふ中に「御花畑」の名が見える。これが抑々高山植物の特殊群落に御花畑の名を配した最初ではあるまいか。(略)
中禅寺の木辛皮きがらかは 現今でも同地で販賣する山椒の皮の醤油煮であるし、
寂光の生大根 寂光で大根を作ったことは略想像出来るし、
蓼の湖ノ蓼 蓼ノ湖に蓼は生じないが、是は地名をかくもじったものと思へば差閊へないし、
瀧ノ尾の青山椒 瀧ノ尾に山椒の野生するも事實であり、
御花畑の唐辛 此の「御花畑」は下界のではなくて、無理に唐辛の山地とされてしまったもの、
霜降のごきの 霜降にごきのみ(即ち、ツクバネ)の産することも誤りではないから、
     開闢(かいびゃく):天地のはじめ。     濫觴(らんしょう):物のはじまり。
8月6日から8月11日、木曽御嶽山に登る。
8月6日 自宅発→(夜行列車)→
7日 朝5時木曽福島着→七合目小屋・午後5時頃着(泊)
妻・直子に宛てた郵便 大正11年8月9日消印 より
昨朝五時木曽福島着黒澤口への道をブラ)/登山者はゾロ白衣が遠くから見えて 一寸見ものだ天気がよくて暑いので大閉口汗をしぼりつくしてから木立に入る五時頃七合目の小屋着大に優待され湯に入り酒を呑むで大に英気を養ふ/(略)
8日 朝6時頃・七合目小屋出発→御嶽頂上・10時40分着→二ノ池小屋(泊)
9日 二ノ池小屋→月ノ権現を祀った一峯に上る→二ノ池小屋(泊) 8日か検討要 2015・5・17 保坂記
10日 二ノ池小屋→二ノ池→三ノ池→四ノ池→五ノ池→継子岳→二ノ池で中食→六合目・田ノ原小屋(泊)
11日 六合目・田ノ原小屋→朝、八合目付近まで登り九時近く六合目に戻り 途中遊び(く)一時王滝口山麓に下りつき→只今 松原と云う旅館で中食→木曽街道の上(アゲ)松(泊)
実際に、駒ヶ岳に登られたかの検討   12日以降は検討要 2015・5・16 保坂記
「(略)駒に上るとすれば不用具は上松より郵送致す可く、左なくば 持返る考、若し小包が着いたら駒に上ったものと思はれ度し 木の枝が小包から出たらおして置くこと、暑くて 汗は出るが躰はピン、安心の事、十一日 王滝にて認(上松で出す)
     参考 消印に御嶽山とあるのは、明治40年以降夏季のみ山頂に開設される郵便局のこと。
12日 明日(予定)は、御料林視察→寝覚ノ床→未定(泊)
13日 (予定)→駒ヶ岳の山上(泊)
                妻・直子に宛てた郵便 大正11年8月9日消印  8月11日(上松で出す) より
この時、御嶽黒澤口行場小屋下の小湿原(海抜2180m)で「しらたまのき」を発見する。
        学名 Gaultheria miqueliana Takeda 「高山植物写真図聚1 P15」より

    また、御嶽で「高山帯のばいけうさう」と題した写真撮影も行う。「高山植物写真図聚2 No267」より
8月、「科学を基礎とした文化生活 1」に「二〇 山岳趣味」を寄稿する。
8月23日、山都→藤沢・相模屋(板橋音松)(泊)→一ノ戸川→飯豊山遥拝所→一ノ木→大岩神社→川入(かわいり)(泊)→8月25日朝、妻・直子に宛てたはがきより
(略)飯豊神社社務所を訪問して登山につき種々便宜を頼み(略)その頃から大分雨がはげしく降り出してはやんだ。神社では 毛布やら着茣蓙(きござ)やら貸してくれたので、それを負うて、十時過ぎ出発 二里余の道を山麓の川入りといふ村に向った。途上度々雨やみしたので時間がかかったが今日はあまり上らない御沢オサハといふ/山のとりつき迄位で泊る考なのでゆる行く其内雨は益々激しく少しもやむ間もなくなった 茣蓙と桐油紙(とうゆがみ)とで防いでも膝から下は可なりぬれた 午后二時すぎにやっと川入りにつき あと半里で御沢であるのだ/そこまで行くのも只ぬれる許りなのと小屋へ泊っては万事不便と思ひ川入りの人家で飯豊山参をとめる家へ厄介になることとしぬれたものを干した。ゆっくり休養したりした。(略)
川入→二ノ鳥居・天の狭霧神社→塩釜神社→御沢(おさわ)神社(ブナ・トチノキ・ホオノキ・センノキ・イタヤカエデ・ヒトツバカエデ・ハウチワカエデ・ウリハダカエデ・クロモジ・ハクウンボク・イヌガキ・オオカメノキ・エゾアオキ?等・ヤブコウジ・オオイワウチワ・シシガシラ・ゼンマイ・イヌガンソク等)→下十五里・宗像神社→中十五里・若木神社→上十五里・戸隠神社(イワハゼ)→横峯・八幡神社(ヤシャブシ・ノリウツギ・イワハゼ・クロソヨゴ)→地蔵山(ブナ・ノリウツギ・ソウシカンバ・ハクサンシャクナゲ・ウラジロナ・カマド・ミネカエデ・クロズル・イタドリ・モミジカラマツオヤマリンドウ・ミツバオウレン・カラマツソウ・オオバショリマ・オオイワカガミ)→血ノ池(ミズバショウ)(コヨウラクツツジ・ツノハシバミ・オオカメノキ・マルバマンサク・コシアブラ等・イワイチョウ)→剣ヶ峯(ホツツジ・ハコツツジ・コメツツジ・マルバマンサク・ブナ・クロソヨゴハナヒリノキ・イワハゼ・リョウブ・クロズル・オオヤマリンドウ・イワショウブ)・三国岳(ガンコウラン・コケモモ・ツガザクラ・スノキ)→箸ノ王子・神明神社(ヤハズハンノキ・マルバマンサク・ハクサンシャクナゲ・クロソヨゴ・クロズル・ミズナラ・ウラジロヨウラク・ウメバチソウ・オヤマリンドウ・アキノキリンソウ・ヒゴオミナエシ・ハクサンコザクラタテヤマウツボグサハクサンチドリミヤマコウゾリナ)→七森・菅原神社(キャラボク・ハイマツ)→種蒔・稲荷神社(ミヤマリンドウ・チングルマ・アオノツガザクラ・ネバリノギラン・ハコツツジ・マルバシモツケ・アラシグサ・ニッコウキスゲ・アラシグサ・クマイノデ・ホソバノシラネニンジン)→切合(きりあわせ)(ハイマツ・ソウシカンバ)→草履塚・剣神社(ハイマツ・イワオウギ・イワウメ・ウラシマツツジ・クロマメノキ・オヤマノエンドウ・ヒナマウスユキソウ・ムカゴトラノオ・タカネマツムシソウ等)→姥小屋・子安神社→御祕所(ごひそ)→御前坂(おまえざか)→頂上本社(泊)→(ハイマツ)大日→本社(泊)→御手洗→(ハイマツ)五王子・籠山神社→三角点(ハイマツ・ハクサンシャクナゲ・ガンコウラン・シラネニンジン)四王子(泊)→草履塚・七森等で写真撮影(オニシオガマ・カリヤスモドキ)・箸ノ王子(泊)ヨツバシオガマ・カニツリノガリヤス・アラシグサ・シナノキンバイ・ヒメウメバチソウ等・ソウシカンバ)→長坂・・・→弥平四郎→極入→宮古→山都→帰京
参考 教えて下さい(保坂)  「極入→宮古」間を結ぶ山道とは何処でしょうか
(略)極入から小一時間かかって、峠の頂まで上る。風はほとんでなくて、むされるように暑い。峠の上に辿りついた時には、荷を投出してひと休み。大日の脈は夕日にクッキリと浮かんで、青黒い山膚が雪多き頃の崇高さを思わせる。
 ひとしきり下ってからまたも小さい峠。それを降って宮古に入った頃にはもう暮色迫り、提灯を要するくらいとなったが、急行にはかえって邪魔とそのまま前進を急ぐ。道は宮古川の左岸に走って、近頃改修されたか幅広い易路である。
(略)   「山岳 二十年三号 飯豊山に登る」より  注意 「山への足跡」では二号と表示があり誤植を確認済 2014・7・26
 この時、飯豊山で「ちちっぱべんけいさう・しなのきんばい・えぞひかげのかずら・おにしほがま・にっくわうきすげ」と、飯豊山系大日岳で「みやまたねつけばな」の写真撮影を行う。
             
「高山植物写真図聚2 No223・231〜233・237とNo246・247」より
9月、「科学知識 第2巻9月号」に「アイヌ部落訪問記(一)」を寄稿する。
10月、「科学知識 第2巻10月号」に「アイヌ部落訪問記(二)」を寄稿する。
 (略)眼を閉じて静に黙想に耽ると、僅か二日の間に見たアイヌの生活から、思ひは飛(と)むで彼等の過去や未来に迄及ぶ。鬱々と茂った森林の中にゆたかに産した鳥獣を追ひ、青波満々たる河海に魚介を得て、原始的なそして地球上に生息した各人種が、何れも進化の一階梯として蹈むだ未開の生活も、時代の経つと共に昔の夢となり終ったのである。彼等は自然に親しみ、自然を考究して、利用厚生の道には努力を惜しまなかったに相違ない。牧畜を営む迄に進歩しなかったとはいへ、犬を馴致して、諸種の用を辨ずるに使用する程度には達したのである。植物を利用することは驚く可き巧さである。(略)漁労の発達につれて漁獲は増加するも、養殖の実が伴はないから実際の率は上って居ない。之が自然を征服しやうと企てた開拓の結果であると見ると、其手段は決して真実の科学的方法であったとは推定出来ない。単に北海道に限らず、十分蕃殖の法を講ずることもなくて乱獲乱採乱伐を行ひ、自然を蕩盡(とうじん)してしまふは決して科学的経営法でない證據である物質文明酔ふ結果として、科学万能を謳歌するも無理もないが、夫等(それら)の人士の考へる科学は眞の科学ではなくて、皮相の見地から履き違へた似而非(にせ)科学である。根本の研究に立脚した科学の応用ではなくて、目前の利益に眩惑した疑似科学である。眞実の科学ならば、自然を征服しやうなどと、空中楼閣を夢みる筈ではない。反(かへ)って自然を根本的に研究し、自然の懐(ふところ)に入って、自然に服従してこそ、其処に初めて自然の恵をよく覚(さと)り得るので、自然を征服し得たなどと皮相の喜びに酔ふ後には、自己滅亡の暗い陰影が、悪魔の如き呪(のろい)の手を伸して居ることを忘れてはならない。
 
物質文明、似而非(にせ)科学、そして是等に必然伴ふ処の、戦慄すべき精神教育の廃頽・・・・アイヌ種族の過去に対照して、熟考す可き我国の現在と未来・・・・熱い温泉に浸って居た体にも悪寒を覚えて、思はず浴槽から飛上った。 (了)  博士は温泉に浸かりながら自らに向け「眞の科学者としての心構え」を意識させました。(保坂付記)
10月、薩哈嗹軍政部の嘱託により、工藤祐舜・館脇操が「北樺太植物調査報告書」を刊行される。
10月、「學藝 39巻493号」に「植物の祖先(五)」を寄稿する。
11月、「學藝 39巻494号」に「果實と種子の散布 」を寄稿する。
12月、「科学知識 第2巻12月号」に「・乾海苔の話(一)」を寄稿する。
12月、「學藝 39巻495号」に「植物の祖先(六)・果實と種子の散布(二)」を寄稿する。
   

 前回に細説したスフェレラ科のものとは梢異った種類に、プラティモナスといふものがある。是は去る千九百十五年の五月に、筆者が英國バーミンガム大學に於て、故ウェスト教授の下に是等の微生物を研究して居る時、同大學の動物學教室で、蟹の一種の發生を実験する為めに海水を盛って放置したタンクの中に無数に發生したもので、恐らく此海水と共にタンクに入れたアヲサの一種に著いて、プリマスから来たものだらうと考へられたのである。此の原始植物は其當時研究の結果、學界未知のもので、而も新属を建つ可きものと決定し、翌年ウェスト教授が、Platymonas tetrathele といふ名で發表したものである。(第十五圖)営養體は自由に運動する微小なもので、長さは千文の十四乃至十六ミリメートルを算し、前述の諸種の如く球形又は圓じゅ形ではなくて、横から壓(お)された様に幾分扁平となり、横断面は略長方形を呈する。正面即ち幅の廣い方から見ると、大略楕圓形其幅千分の七半乃至八ミリメートルを算し、前後両端に向って丸味を以て尖るが先端には小さい凹窩があっ
て、其中央から四本の短い鞭毛が生じて居て、その長さは千分の九半乃至十二ミルメートル程である。(略)
                        
注 圓じゅ→円筒形 じゅ→漢字変換不能

○この年、「理科教育 第5巻第8号」に「高山植物」を寄稿する。
一、 高山植物とは何か 六、 高山植物の地理的分布
二、 高山上の植物帯 七、 高山植物と極地植物
三、 植物帯の高さ 八、 高山植物の生態的分布
四、 植物帯の境界 九、 高山植物の生態
五、 植物帯の特徴
九、 高山植物の生態」より
 高山植物の生態的分布も興味ある問題に相違ないが、各種植物の生態を検査して見れば更に興味の深いものである。生態上の問題で取扱ふ可きものは、例へば高山植物の花の大きさや花色の美醜、芳香と花蜜の多寡、紅葉の美と其原因、茎葉の短小なる特質や、葉面の縮小を補ふ構造上の特點、強烈な日光や劇しい蒸散に対する葉の保護、樹幹の形状と気象上の関係、根や根茎と土砂水濕との関係、更に進むでは地質と植物の種類の関係、種子の含有する油脂の性質、多年生草木と常緑木本の如き種々調査す可き問題がある。之を遺憾なく解決しやうとなると、単に暑中に遊山気分で登山したのでは不足である。出来れば四季を通じて観測を行ふ必要も起る。(高山植物の生活(態)ついての試験・略)について、本邦では此種の実験は平原の植物に於てさへ余り行はれて居るのを聞かないが、早晩此方面のも学者は申すに及ばず、自然に趣味を持つ人士が注意を向けられる様に切望する。そして其実験材料であり又一面に於いては国宝にも勝る貴重な高山植物を濫獲して絶滅させない様に、不断の注意を怠らないことが、国民としての義務であると考へられる、殊に高山植物を只美しいからといふ様な単純な理由で摘み取って、山岳の美観を減じ、他人の失望を買はない様に心懸けることは甚だ緊要である。高山植物に関して書く可きことは未だ山の如くある。然し貴重なる紙面を此上塞くことは不本意であるから、今回はこれで擱筆することゝする。発行月について未確認 尚、メモリアル・ガラスケース内に 同年7月発行の「理科教育」あるので確認要 2016・6・5 保坂
1923 大正12年 40 1月、「學藝 40巻496号」に「果實と種子の散布(三)」を寄稿する。
1月2日、午后三時、日光停車場より、妻・直子に郵便はがきを投函する。
(略)雪に見舞はれ今市では盛に降雪 日光も同様で二寸位積むって居る。これでは中禅寺行きは出来ても外山へは登れまい。幸に晴れてくれたら さぞ素晴しからう。
1月、「科学知識 第3巻1月号」に「乾海苔の話(二)」を寄稿する。
2月、「科学知識 第3巻2月号」に「雨水」を寄稿する。
2月、「學藝 40巻497号」に「果實と種子の散布 」を寄稿する。番号なしのため注意
3月、「科学を基礎とした文化生活 2」に「三八 冬の登山」を寄稿する。
3月、「科学知識 第3巻3月号」に「乾海苔の話(三)・霜と霜柱」を寄稿する。
      「乾海苔の話(一)〜(三)」の項目内容 
本場の浅草海苔 17 海苔抄(す)きの準備
淡水産の食用藻類 海苔ひび 18 海苔の漬け方
あをのり 10 ひびの建て入れ  19 海苔干す
あをさ 11 海苔の発育と肥料 20 干し上げと貯蔵
さくらのり 12 種子の亘りとひびの移植 21 特殊の乾海苔
うしけのり 13 海苔の期節 22 生海苔と佃煮
あまのり 14 あさくさのいの本體 23 其の他の乾海苔
あさくさのり 15 まるばあまのり 24 イヨヌイタサと千島海苔
浅草海苔の本場 16 浅草海苔の摘取
       注意 乾海苔の話(一)(二)(三)を一欄表にまとめたところ五番が重複していました。 保坂記
  
 あさくさのり養殖場         乾場

注意/左2枚の写真は昭和8年、「博物教科書 植物篇 修正再版」から引用しました。
乾海苔の話(一)〜(三)の内容は、国会図書館に収蔵されているマイクロフィルムから読み取りましたが、写真の状態が悪くそのまま掲載しても無用のような状態になっていました。その中でも、右の「乾場」の写真は、教科書の写真と同じ原板を使用したものと思います。また、遠景の「あさくさのり養殖場の写真は「乾海苔の話」の中で使用されていると思いますが黒くて確認が取れませんでした。
再検討要 2014・2・8 保坂記
研究資料
横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))No565−14
[海苔等製造風景写真] 包紙1 保管有 内容未確認
  2017・6・10 追記 保坂
 
  乾場
考察
上写真右は乾場と云われるところですが、下写真は、作業中の光景です。上図では海苔は埋め尽くされていますが下写真は未だ海苔が途中の段階であることが分かります。手前には養殖場を行き交うであろう手漕ぎの船が置かれています。海上に建つ右から三番目の柱にゴミのようなものが絡みついていることから、上写真と同ヶ所であることが推察できます。博士はこの作業が終わるのを待っていたものと思われます。写真の裏側に撮影日など記入されていればよいのですが、民俗学的に見ても大変貴重な写真となっています。

 「横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))No565−14」より
 2017・8・14 保坂
3月、「学藝 40巻498号」に「果實と種子の散布」を寄稿する。番号なしのため注意
4月2日、日光輪王寺にて強飯式に、同夜は輪王寺の客分として本坊に泊る。「翌日は(中里)昌競さんと一緒に中禅寺により、歌ヶ浜に一泊の餘定に変更、」
                 消印判続困難のため再検討要 妻・直子に宛てた4月3日付、「郵便はがき」より 
4月17日、平野長蔵翁が武田博士宛に書簡を送る。 

                         所蔵 横浜開港資料館
   1923年4月17日、反尾瀬貯水池化計画に奮闘し保護財団設立に奔走する長蔵小屋の平野長蔵は
    久吉に手紙を送り、財団の顧問を依頼した
 アーネストサトウ図録集P116 発行 横浜開港資料館 H13・12より引用
参考資料ー@ 明治の頃の尾瀬の状況と当初の電源開発計画
 明治三十八年といえば、日露戦争の終った年で、この頃からそろそろ種々の企業が、戦勝の煽(あお)りを食って盛になり始めた。尾瀬沼の南岸から菖蒲平(あやめだいら)へかけての村有林が、民間人に売られて、伐木を目的の会社となり、それが殆ど失敗に帰してから、発電会社の有となったのもこの頃だと聞かされて居る。然し大正時代になっても、この会社は別段発電事業は行わないで、権利を売る機会を待って居た様子であった。一方尾瀬ヶ原の方も、幾筋かの流れが、原を貫流してから合して、遂に只見川の源流の赤川になるあたりを堰き止めれば、手もなく貯水池にすることが出来ようという素人の見立てがもとで、大正の晩年あたりにか、水電会社が成立した。然るにこれ亦何もせずに数年の歳月が流れ去り、その権利を継続するが為には、設計変更願の提出を餘儀なくされ、その書類が、国有林の関係から、東京営林局に廻附された。私が尾瀬と水電の悶着を始めて耳にしたのは、大正十三年の事であったが、第二回目は昭和二年この設計変更願に関連(続きは→昭和二年六月の項へ)
注 水電の悶着を始めて耳にしたのは、大正十三年」とありますが上記書簡から大正十二年4月とも考えられます。 2016・4・10 保坂
               昭和25・6山と渓谷 No133 「尾瀬ヶ原の回顧と水電問題」より
4月、「科学画報 第1巻 創刊号」に「櫻草のふるさと・プリムローズとその花の色」を寄稿する。
櫻草のふるさと」の項目別内容
三百年の昔から培れた櫻草
野生地はどこか
荒川のほとり
浮間の櫻草摘み
分布しらべ
自生地と生育のありさま
高原の櫻草
櫻草の故郷
海外の産地
プリムローズとその花の色
櫻草の故郷の項の全文
 筆者が實見したところから結論すると、高原に自生する桜草と、荒川沿岸に繁生する桜草とは、その生育の状に純自然と半自然の差が認められる。推測するに、戸田の浮間の桜草は、遠い昔に上流から、河水によって種子や時には根も運ばれて、生育に適した此の地に移住したものであらう。然らばその原産地即ち故郷はといふと、荒川の極の上流、秩父の奥で大約一千米前後の高距を有する地であらねばならない今日迄に得た報告によると、三ツ峰の附近大血川の奥にはその自生地があるといふ。未だ自ら花期に其地に臨む機会はないが、信ずるに足る報告であるから、原産地の一として此処を挙げることが出来よう。
 
此の推測が的中したとすれば、浮間や戸田や田島ヶ原は、桜草の第二次的野生地として、そしてそれが異常な発育を遂げた点と、且つ又斯かる土地の現今に於ける唯一の残存地として、それ丈でも確に保護の価値も十分にある。荒川流域の桜草がかかる有意義なものであると知れば、そしてそれが我が国土に発達した珍宝であることを知れば、浮間に遊ぶ人は只に其の地が一箇の遊山としてのみでなく、一の共同的国宝として、相倶に桜草の保護と繁殖を計らうではないか

荒川のほとりの項の一部
(略)筆者が初めて此の地を訪ねたのは、明治三十一二年の頃で、其の動機の主なものは、其の頃恰度恩師、故帰山信順(かえりやましんじゅん)先生が、志村の原で桜草の花の構造等を研究されたことであった。板橋駅を過ぎ、本蓮沼を経て清水坂を下り、坂下から(略)
 同号に挿んであった補稿  2013・12・20記す。
 

 
  信州の高原に おほしゆろさう かうやわらび等と交って
   樹陰の濕地に群生する桜草  (武田撮影)


5月、「科学画報 第一巻第二号」に「新緑の美」を寄稿する。
みどりの色 青葉薫る時節 面白い開野
驚くべき作用 木の芽草の芽 色彩の美
とりとりの新緑 冬芽さまざま 総括した美
総括した美」より(部分)
 (前略)春の新緑美が、秋の紅葉美と大に異なった点は、後者が固定された。静止的の美であるのに反して、前者は可動的な力強い美であることである。そしてその何れも其々の特長を備へて山野を飾り、それに対して些なりとも関心を持つ吾々に、心の糧を無限に與へて呉れる。そして草木の種類に富むことでは、世界で屈指の我が邦では、新緑にせよ、紅葉にせよ、その美観は、欧米などは較べ物にならない。
5月、「山岳 第十六年第三号 宝川を溯りて笠ヶ岳に登る・利根川上流の方言二三・藤原より武尊山への登路・玉原越」を寄稿する。
   
また、同号に木暮理太郎が「利根川水源地の山」を寄稿する。
5月、「学藝 40巻500号」に「果實と種子の散布」を寄稿する。
6月1日付、フイルム、中板等の写真材料を武田家に収める。
   
      
6月、「東洋学芸雑誌改題 学芸 第40巻第501号」に遺跡紀行 勝頼の終焉 武田」を寄稿する。
    また同号に、金田一京助が「アイヌの神話の話」を寄稿する。
自然界の征服は果たして誇大妄想か 理学博士
農学博士
松村松年 人体に異種蛋白の侵入した時起る変化 医学博士 三田定則
動物の眼 理学博士 石川千代松 家族制限策の変遷 理学士 山本宣治
流氷の諸現象 工学博士 宮城音五郎 アイヌの神話の話 文学士 金田一京助
新発明と新発見(一) .・ X Y Z 日本人の身長に就いて 松村瞭
林産物需給関係と木材防腐保存法 林学博士 三浦伊八郎 童劇レコードの品藻 医学士 高峰博
厭はるる雨、感謝さるる雨 医学博士 佐々木秀一 台湾音楽考 理学士 田辺尚雄
食堂の装ひ 工学博士 佐藤功一 「遺跡旅行」勝頼の終焉 理学博士 武田
電熱式電気冷蔵庫 工学博士 伊藤奎二 独逸の物価 医学博士 佐々木秀一
植物病害防除法 理学博士 白井光太郎 神秘なる生命と科学 薬学士 檳榔子
書画の眞贋を識る最も便利な方法 理学士 竹内時男 海外雑爼 理学博士 彳テ子
           注) 武田文吉となっているのは誤植、本文は久吉の名  2014・8・22 保坂記
6月、純白のアツモリソウの幾株かを携え、辻村伊助の箱根高山園を訪ねる。
(略)この出来事(大震災)から三ヶ月前の六月初旬、富士山の好きな私は、その東麓に遊び。上吉田から先ず富士嶽神社の林内で、コアツモリソウの撮影に苦心し、ついでそこから程近い新屋(あらや)の山ノ神の森に入ってミヤマエンレイソウを始め、数々の天南星属の奇花に目を楽しませてから、徒歩山中の村に向った。(略)帰路を山中湖の東端から小山駅に出るために、越えた三国峠には、アツモリソウが多数に生じ、その中に純白の一と株のあったことを覚えているが、其等の野生品は、当今では、最早見られないことであろう。(略)
             
S46・4「植物春秋 第10巻第4号」の「ビロードウツギに見た異変について」より。
6月、「科学画報 6月号」に「北海の奇勝を探る」を寄稿する。
 寄稿文は「地理・狩太へ・留寿都へ・洞爺に向かう・雨の洞爺湖・泥流と爆裂口・湖上の島嶼・有珠岳登山・大有珠登り・大有珠の頂上・下山・屏風岳と善光寺」で構成されています。下 記の項は「湖上の島嶼から、円空仏の部分を掲載しました。
 「湖上の島嶼より
 (略)神堂島(カムイチセモシリ)は廻り八丁、ここに一つの堂があって、寛文年間濃州竹ヶ鼻の僧円空が鉈彫りの観音を安置している。円空は諸国の高山を廻り、常に一挺の鉈で仏像を刻むのであったが、北海に渡ってからは太田山、シュマコマイ、蟻谷、夕張、恵山、樽前、山越内等で仏像を作り納めたが、後この島に久く住居して種々の奇瑞を蒙り、観音の二体を作って一体をこの島に安置し、他の一体を礼文華(レブンゲ)の窟に納めた。老いて後濃州に帰り江州伊吹山に入って平等岩という窟で入定したという。その頃今釈迦または窟の和尚と尊称されたと伝えられる。手作りの仏像は粗い中に非凡の技巧があるので尊信の念を起こさせるという。  「北海の奇勝を探る」より
7月、「学芸 第40巻502号」に「北海の名勝支笏湖  武田」を寄稿する。
[「学芸」に発表された論文 1922・1〜1925.6 国会図書館デジタルコレクションより
発行年月 雑誌名と巻号 寄稿したタイトルの名称 Inf−No
1922年1月 東洋学芸雑誌339巻1号通巻484号 論説 植物の祖先(P28〜34) 3559442
1922年2月 東洋学芸雑誌39巻2号通巻485号 論説 冬の三ツ峠山(P15〜24) 3559443
1922年3月 東洋学芸雑誌39巻3号通巻486号 論説 植物の祖先(二)(P13〜18) 3559444
1922年4月 学芸 39巻487号   植物の祖先(P150〜151) 3545391
1922年5月 学芸 39巻488号 植物の祖先(P128〜131) 3545392
1922年6月 学芸 39巻489号 ナンブサウ(P35〜45) 3545393
1922年7月 学芸 39巻490号 海洋美と山岳美(P9〜9) 3545394
1922年8月 学芸 39巻491号 口絵:北海道手宮洞窟の古代文字御覧中の皇太子 殿下
口絵:大沼に映じたる駒ヶ岳の峰影

天上の花園
(P32〜38)
3545395
1922年9月 学芸 39巻492号 口絵:カラマツの林ー札幌の附近/武田    3545396
1922年10月 学芸 39巻493号 植物の祖先(P122〜124) 3545397
1922年11月 学芸 39巻494号 果實と種子の散布(P102〜108 3545398
1922年12月 学芸 39巻495号 果實と種子の散布(P62〜69)
植物の祖先
(P120〜125)
3545399
1923年1月 学芸 40巻496号 果實と種子の散布(三)(P112〜117) 3545400
1923年2月 学芸 40巻497号 果實と種子の散布(P107〜111) 3545401
1923年3月 学芸 40巻498号 果實と種子の散布(P67〜71) 3545402
1923年4月 学芸 40巻499号     (記述なし) 3545403
1923年5月 学芸 40巻500号 果實と種子の散布(P90〜92) 3545404
1923年6月 学芸 40巻501号 「遺跡旅行」勝頼の終焉(P95〜107)  武田 3545405
1923年7月 学芸 40巻502号 北海の名勝支笏湖(P120〜126)   ※ 武田 3545406
1925年6月 東洋学芸雑誌41巻506号 「むしかり」の芽の研究(P35〜40) 3559446
    武田  目次欄は「文吉」で、本文では「久吉」とありました。後世のため記述の追加  2017・7・26 保坂

7月、富士・表口一号五勺附近の皆伐地でオオウバユリと植林のカラマツを撮影する。
                                           地理大系別巻5より

7月、富士山にて、「闊葉樹林内のばいけいさう」と題した写真撮影を行う。
                           高山植物写真図聚2 No266」より
7月、大宮口より、富士登山を行う。
7月27日 →大宮口二合目(泊)
28日 大宮口二合目→(植物調査と写真撮影)→大宮口二合目(泊)
29日 大宮口二合目→(植物調査と写真撮影)→表口五合目(泊)
(略)種々の葉花美し、一同元気(さかん)なり、脚の工合も大分宜し、七月二十九日朝大宮口二合目にて
30日 表口五合目→宝永山爆裂口に入る→御殿場口六合目(泊)
(略)今日朝も快晴山中湖、蘆ノ湖伊豆半島 箱根 丹澤山、玉川の御岳大岳等も見ゆ、今日は御中道をやり大澤の険をこえて小御岳泊りの予定 一行無事/七月丗日東表口砂走り六合目にてサイン
31日 御殿場口六合目→(植物調査と写真撮影)→大澤の険→小御岳(泊)
8月1日 小御岳→不明   以後の順路が不明のため調査要 2015・5・18 保坂記
                      妻・直子に宛てた「絵はがき」より 7月29日・7月30日
7月、「科学知識 第3巻7月号」に「木曽御嶽とその植物帯(一)」を寄稿する。
7月、「科学画報 第一巻第四号」に「高山植物の生活から」を寄稿する。

8月、「科学知識 第3巻8月号」に「木曽御嶽とその植物帯(二)」を寄稿する。
8月、小富士、裸地と森林地との間の直線状の劃線を撮影する

8月27日から29日、富士山に登る
27日 吉田口六合目→御中道→須走五合目上→御殿場口六合目(泊)
28日 御殿場口六合目→宝永山・中に入り→大宮口五合目→大宮口を頂上に上り→噴火口の中段迄下がる→吉田口頂上に上る(表面の写真)→吉田立合迄下がり(泊)
29日 吉田立合→須走に下山→直ちに帰京 
  大正12年8月30日付  妻・直子に宛てた「郵便絵はがき」より (表面)大正十二年八月廿八日富士山頂にて認 ○口八合目にて投函 久
             注意 吉田立合の場所が不明 立→五か? 検討要 2015・5・12 保坂記
9月1日、関東大震災。小田原の裏山の貯水池が崩れ辻村伊助とその家族4人が不慮の死をとげる。
(略)私はこの年の夏には、科学知識普及会の企画に従って、富士山の学術探検に出かけ、富士山の各登路を上下し、八月下旬には、北麓吉田町の火祭りを見てから、翌日第二回の登山を行い、月末近く帰京して、未だ採集品の整理も終らぬのに、この大震災に遭い、自宅は僅少な被害で済んだが、採集品を保管してあった会の事務所が焼失したので、大切な標品が鳥有に帰してしまった。(略)
              S46・4「植物春秋 第10巻第4号」に「ビロードウツギに見た異変について」より。
10月、薩哈嗹軍政部の嘱託により、工藤祐舜・石田文三郎・(洲川専三郎)がシュミット半島植物調査報告を行い「シュミット半島植物調査書」を発表する。    武田家蔵書本より 2017・1・16 保坂
11月、「科学画報 第一巻第八号」に「自然の錦」を寄稿する。
11月7日付、正宗厳敬(まさむねげんけい)が博士に絵はがきを送る。
辻村伊助の死去を悼む。湖水植物の調査につきプランクトン鑑定の依頼
                     横浜開港資料館  久吉書簡 No1204 内容未確認 2017・6・9 保坂
11月11日、「日本山岳会 臨時茶話会」が麹町清水谷皆香園で開かれる。
資料 「山岳 T13年5月号 会報  ○臨時茶話会」より
昨年九月に開催す可き筈であった本会小集会は大震災の為に自然延期の止むなきに至ったが、其後市内の混雑も次第に緩和されたので、十一月には恒例の小集会を催し得る迄になった、然し此際小集会よりも寧ろ茶話会を開いて、会員各自の震災当時及其後に於ける安否動静等を相互に知り合ふやうにした方が宜からうといふことで、在京浜及び近郊の会員に通知を発して、十一月十一日午後一時に
麹町清水谷の皆香園に集まって貰ふことにした。(略)
当日の来会者:佐藤文二・郷郁三郎・吉岡八二郎・森喬・山内淳一・中村常雄・岡野徳之助・横山光太郎・本多友司・神宮徳寿・馬場忠三郎・野口末延・木村鉱吉・酒井忠一・別所梅之助・辻荘一・松本善二・青木軍二郎・飯塚篤之助・中條常七・五十嵐芳雄・磯貝藤太郎・丸山晩霞・志賀重昴・冠松次郎・槇有恒・鳥山悌成・武田久吉・田部重治・高頭仁兵衛・木暮理太郎の三十一氏であた。
12月、竹内亮が「植物学雑誌37巻439−444号」に「樽前火山彙ニ於ケル植物景観ノ変遷ニ就キテ」を寄稿する。
○この年、富士山御中道、戸峯の南方にオオシラビソの森林を発見する。
参考 「9 御庭に向う」より、一部分
 (略)ここから路を北にとって、御庭まで約八キロの間はわずかな上下があるにすぎない。そしてその大部分は密林で富士山中これほど幽邃静寂の気分を味わえる所は稀である。森林はシラビソでコメツガにカラマツを混生し、また稀にオオシラビソの姿もみられる。これは従来富士に産するを知られなかった樹木の一つであるが、その存在を予期して探査した結果、大正十二年にそれを見出した時は愉快であった。(略)
1924 大正13年 41
1月5日、沼津より伊豆半島南端に向け旅行を行う。妻・直子に宛てた「郵便はがき」より
 
1月4日 東京→(夜行列車)→
5日 朝3時頃、沼津着→(徒歩)→三島→(徒歩)→大場→(乗車)→6時半、大仁着→(徒歩)→10時、湯ヶ島着→2時半、ネッコ(猫越)峠着→宮ヶ原→7時半、松崎着(泊)
6日 松崎→(徒歩)→7時前、長津呂といふ伊豆南端の小村着(泊)
風強からず雲ありて暑からず一たいに楽な歩行であったし山をこえては海岸に出で渡し舟に乗ったり中々愉快であった。
7日 長津呂→石廊崎といふ伊豆最南の岬に行き長津呂湾の絶景を見てから東に東にと進んで→(予定)下田着→(不明) 
  今夜か、明日下田から第二報を出す、
8日 (不明)
                旅行の目的や帰りの順路が不明なため検討要 2015・5・23 保坂記
1月9日、柳宗悦が、浅川巧に案内され旧池田村小宮山清三宅を訪れ木喰上人の手になる木喰仏を発見する。
1月15日、丹沢山地が震源と云われる大地震が発生、山麓は土石流による甚大な被害に見舞われる。

1月16日、平野長蔵翁が武田博士宅を訪れる。
   資料 訪問の用向 「尾瀬ー山小屋三代記」のP36〜37に記載された記述を引用して
長蔵翁の用向は、両三年前に沼と原を貯水池として、発電に使用することが許可されたので、それを防止するには、尾瀬を国立公園としたならば、あれだけの風景や植物を完全に保護できようかというのであった。(中略)その時代の国立公園なるものは、開発を看板に風景を破壊し、国民一般の利益よりも、むしろ一部事業化の懐を肥すのが、せめてもの結果ではあるまいかとさえ危ぶまれるほど、無鉄砲なものであったから、私は翁の案を実行に移すよりも、まず尾瀬の自然を可及的損傷しないように保護することが、差当っての重要な仕事ではあるまいかという私案を提出したのに対して、翁は直に共鳴して、それ以来その方針を以て邁進したのであった。尾瀬が今日まで、原始的な風光を損傷せられずに来たのは、翁の献身的努力の賜といわなくてはならない」(『尾瀬ヶ原の諸問題』)
1月、「科学画報1月号」に、若干の霜柱についての観察記録を寄稿する。 
参考 藤原咲平著「霜柱に就て」の冒頭部分
文献 英文欄に載せたものの外田村哲君が後藤稲垣両氏の節を紹介したものであると云ふ、日本の霜柱に就いてはProf.Doenitz なる人が何か紹介したとNature Vol.31.p.193にあるが評論は不明である。科学画報大正十三年一月号に武田久吉氏の一寸した観察がある。また多々羅怒平氏の研究もあると云ふ。 藤原咲平著「霜柱について 気象集誌 T13 第43年 第2輯 第2号」より
注 武田久吉博士が「科学画報 2(1);新年號 誠文堂新光社」に「蕗の一代記(路傍の科學)」を寄稿する。 pid/10984475  実際の題と内容未確認 再調査要 2016・4・5 保坂
2月、「科学画報 2(2) 氷雪奇觀號」に「枯木に咲く花―雨氷と霧氷」を寄稿する。 pid/10984476
3月、「科学知識 第4巻3月号」に「丹沢山塊略説(一)・冬芽とその開舒(かいじょ)(一)」を寄稿する。
3月15日〜17日、淵野辺から震災状況を確認するため、東海道線の松田・山北方面に向け旅行する。
3月15日 →淵野辺→相模野横断→麻溝村市場(当地名産の豚肉中々に味宜し・昼食)→相模川・渡しで青島牛の渡航を写す、それと一緒に自分も川を渡り台地をこえて→中津川→夕方・半原村平山、甲州屋(泊)
16日 甲州屋→経ヶ岳・8時半着→煤ヶ谷村・所根(ショネ)これからまた二時間もかゝる峠をこえて炭俵の婆さんの所へでも行って見やう→丹澤山中(泊)
17日 丹澤山中本日快晴、南に向ひ秦野に下る此の辺の山崩れは驚く可きものなり、その為め陸路松田に出るを止め秦野より鉄道によりて二ノ宮に出でこゝで東海道線の列車にて只今山北に向ふ途中なり、山北より酒匂川を溯る事二里位の村に一泊の予定なり(汽車にて)四時五十五分山北着、こゝまでは無事に来た 今夜の宿泊地で山の模様を尋ねた上で、明日 またこゝから乗車して帰宅するか、夫共 山越して甲州に出で一泊明后日帰宅するかに決する筈なり          翌日以降の順路が不明なため検討要 2015・5・20 保坂記
                 大正13年3月17日付 3月18日付 妻・直子に宛てた「郵便絵はがき」より 
4月、「科学知識 第4巻4月号」に「丹沢山塊畧説(二)・冬芽とその開舒(かいじょ)(二)」を寄稿する。
5月、「科学知識 第4巻5月号」に「丹沢山塊畧説(三)・冬芽とその開舒(かいじょ)(三)」を寄稿する。
           注意・丹沢山塊の植物調査報告 神奈川県レッドデータ生物調査報告(1995年)の文献欄には「丹沢山の植物」とあり
               再調査要 「丹沢山塊略説(一)〜(三)」 2014・3・9 保坂記

5月、竹内亮が「山岳 第17年第3号」に「樽前火山彙の地形及び植物景観」を寄稿、同号に写真9枚(樽前山東峰(外輪山最高点 )・樽前山新出山最高点とフップシヌプリ・東方の外輪山頂より新出山を望む・樽前山中腹より見たるフプシヌプリ・東峰最高点より中央火口丘を距てゝ西峯を望む・白果累々たるシラタマノキ・オポツプ空澤の上流・ウチハマンネンスギ・イハヒゲ)を収録する。
注@ 山岳総目録から記述したため、博士との関わり等が不明  再調査要 2015・9・27 保坂記
注A 「山岳」を取り寄せ、博士との関係を検分したが、文中には「大正11年秋に登山した友人の話によると(P11)」とか、「大正11年7月多年の宿望を達して、人夫一人を同行し、(P15)」と云うように具体的な名前がなかったため、同行されたか、また博士との関わりについて は依然不明  再調査要 2015・9・30 保坂記
5月、「霧の旅 第十四号」に「地名の詮鑿せんさく」を寄稿する。
    
西部丹澤大又澤源流の地名と沢名、及び蛭ヶ岳ー桧洞丸間の山名の考証である。 「丹澤」より
○この年の初夏、鬼怒沼林道が完成する。

(略)然るに何たる幸ぞ、四十年の長日月を尾瀬の開発と保護とに盡瘁し、尾瀬の仙人の称を以て知られるに至った平野長蔵翁が、官憲を説いて終に鬼怒沼林道を完成したのが、大正十三年の初夏であった。幾年かの後に希望を満し得る機会に逢着した吾々は、その年の七月、一週間の尾瀬探求の帰途に、この林道を選んだのは、当然すぎる程当然な話ではないか。       「文芸春秋 昭和6年7月号 鬼怒沼」より
月、中井猛之進が、「植物学雑誌38巻450号」に「東亜植物雑集(其一)」を寄稿、「(2)はまべんけいさう」の項に「(略)1911年武田久吉氏ハ其壮大ニ生長スル故ヲ以テ Mertensia maritima 其物ヨリ区別シテ其亜細亜産亞種トシテ発表シタ。之レガ本植物ノ異点ヲ見出セル始デアル。(略)」と、記述する。
6月2日
、甲州山中村にて、「雨は夜中猛烈に降って」と、妻直子に近況を伝える。
   また、「
富士に笠雲が出て見るなり然し下に雲あって写真とならず」と、笠雲についても
   書き記す。                     
妻・直子に宛てた「郵便はがき」より
登山コースの検討;「山2巻8号 無題」より
 「(略)
大正十三年の初夏、山口成一君と山伏峠をこして、世附川上流に入った時、途中で一尺位の「かつら」を持ち帰ったのが、今では高さ一丈三四尺位。(略)」
6月11日、甲斐山岳会が発足する。(会長:若尾金造、副会長:石塚末吉、座長:小宮山清三)
資料 『山』 T14・5 創刊号 会報欄より
△大正十三年六月十一日。午後一時。山梨縣会議事堂に於て本会発会式を兼ねで第一回春季総会を開催す。平賀幹事開会の辞に始まり、小宮山清三氏を座長に推して会則決定、役員選挙、本会前途の事業方針を議し若尾会長の挨拶、梅谷総裁の訓辞あり。後理学士石原初太郎氏の『甲斐の山々』なる講演を以て終る。(略)
月、「科学知識 第4巻7月号 富士山号」に「富士山の植物」を寄稿する。
 富士植物研究の略史  表口の植物景
 富士山上の植物帯  東口の植物景
 高山上の植物帯と富士  北口の植物景
 富士山植物研究の方針  東表口の植物景
 富士山学術研究旅行 10  中道の植物景
7月、「高山植物の話」を「大阪毎日新聞社」より刊行。
   ムカゴユキノシタは「欧州アルプスにも稀であるし、本邦でも稀品中の稀品」と記す。
   本書の冒頭の部分には「我がなき友、農学士辻村伊助君の霊に捧ぐ」と記された、頌があり震災で亡くなら
    れた辻村伊助の死を悼みました。
 
  15p ×11p
はしがき
 登山が旺になるにつれて、高山植物に対する一般の興味が増進するは、怪しむに足らない事実である。しかし、登山を試みても、高山植物に関する適当な指導を得ない為に、正確な知識を求めて得られないことを、不満に思ふ人も少なくないと共に、高山植物を愛好し研究し乍らも、登山を実行する躰力や、余暇や、機会のない人も、必ず多いことと考へる。是等の人々に、高山植物の真相、殊にその生活の状態を伝へ、登山者の伴侶となり、究学者の僚友となるが為に、産まれたのが則ち本書である。されば高山植物生育状態の写真数十葉を挿むで、之を繙けば坐ながらにして高山に登る思ひあらしめると共に、山上に携へて実地と照合すれば、無言の師友を伴にすると等しく、草木生育の有様を自ら会得出来る様に努力した。憾らくは、無盡蔵の大自然を、斯かる小冊子中に説盡すことは不可能であるが為に、読者の胸中に起こる諸

問題に対して、悉く解決を与へることは困難である。とはいへ、本書が自然研究の一助ともならば、著者の労苦は償うて余りある次第である。    大正十三年六月     著者しるす
目 次
登山と人生 十九 乾生植物と濕生植物との雑居
山岳と自然 二十 タカネイチゴツナギ
高山植物の観察 二十一 ムカゴユキノシタ
山麓と裾野 二十二 ムカゴトラノヲ
闊葉喬木帯 二十三 ヒメシャクナゲ
針葉喬木帯 二十四 菌根
灌木帯 二十五 チングルマ
草木帯 二十六 バイケイサウ
地衣帯 二十七 イハタデ
喬木帯と灌木帯の草本 二十八 ウラジロタデ
十一 御花畠 二十九 イハベンケイ
十二 御花畠の細別 三十 根・茎・根と花の大きさ
十三 点在して生ずる植物 三十一 ウメバチサウ
十四 岩上の植物 三十二 葉の構造
十五 ミヤマウスユキサウ 三十三 気孔
十六 ミネズハウ 三十四 木本の年齢
十七 ガンカウラン 三十五 年輪
十八 シラタマノキ 三十六 高山植物の研究と保護
附録 日本山岳冐稱の植物
7月7日〜20日、舘脇操、山口成一の3人で尾瀬へ、沼田経由で初めて入る→長蔵小屋→桧枝岐村→駒ケ岳→鬼怒沼→川俣温泉 
東京〜沼田〜追貝〜須賀川・梅田屋(泊)
須賀川・梅田屋〜鎌田(アカマツ・コゴメヤナギ・オホマツヨヒグサ・シラカンバ・オホイタドリ)〜太田〜越本・武尊神社〜中里〜東澤〜知倉・たまき屋〜山神社(トチノキ・カツラ・シナノキ・オホバダイジュ)〜大清水〜中ノ岐澤〜柳澤〜三平峠(オホシラビソ(ツガ・アヲモリトドマツ・方言でブサ・オモタ・トドマツ・オホリウセン)・アカモノ・シラタマノキ)〜長蔵小屋(泊)
9日 長蔵小屋(ミツガシハ・ミヅドクサ・ミツガスハ)〜檜ノ澤の小流(オホバミゾホホズキ・ミズバセウ・オホカサスゲ・オホバユキザサ・ハリブキ・オホバノヨツバムグラ・マヒヅルサウ・ヒアフギアヤメ・コツマトリサウ・ハクサンチドリ)〜三平峠下(エゾムラサキ・シウリ(ザクラ)・天狗の巣)〜大江川沿岸〜長蔵小屋(泊)
10 長蔵小屋〜浅湖(あざみ)の湿原(タテヤマリンダウ・コバイケイサウ)(オホシラビソ・コメツガ・エゾマツ・サウシカンバ)〜大入洲の奥の小湿原(ミズバセウ・ミツガシワ・ヒアフギアヤメ・ギャウジャニンニク)〜小湿原(コメツガ・エゾマツ・ナナカマド・シロシャクナギ・アシ・クロバナロウゲ・オホフトヰ)〜押出(おんだし)〜沼尻平(ヒメシャクナギ・ナガバノマウセンゴケ・ネズコの枝にアスナロノヒジキが寄生して小天狗の巣)〜沼尻川の水門(アカツゲ・オホシラビソ・ネズコ・ホロムイスゲ・ワタスゲ・カキツバタ)〜雷雲が発生して雨、沼尻へ〜長蔵小屋(泊)
11 長蔵小屋〜沼尻平(サンカエフ・クマノヰデ・オホバショリマ・ミヤマハンノキ)〜燧岳〜沼尻平〜長蔵小屋(泊)
12日 長蔵小屋〜大江川中流の湿原〜焼山澤の右岸(タウヒ・ウラジロヤウラク・ミヤマヤナギ・ゴゼンタチバナ・アカモノ・巨大なブナ・トチノキ・ミヤママタタビ)〜道行澤最終の橋・赤法華(地名)(ススキ・オホバコ)〜七入りの小部落を左に〜桧枝岐・丸屋(泊)
七月十二日 尾瀬長蔵小屋にて サイン
(略
十一日燧に登る この日も小雷雨ありしも雨は少く 雷は遠く困難せずして/○○本日午前中湖上を探る これより桧枝岐に向ふところ 便あるにより一書を出す、一同疲労漸く恢復し元気益々よし靴下に穴あき始め掛がへなきを憾む若し 出来るなら湯本板屋あてにて小包にて送ることを希望す、湯本に到着は十八日になることゝ考ふるにより十五六日頃 東京を出すとすれば間に会ふと考ふ ネズミ色のにて宜しと考ふ火縄は大分有効写真ももう八十枚程写したがまだ)/大にやう考、/(略)           7月12日 妻・直子に宛てた手紙より
13日 桧枝岐・丸屋〜駒登山口〜1900m迄上る(ハクサンコザクラ・チングルマ・イハイテフ・シャウジャウバカマ・タウヒ・オオシラビソ)〜会津駒ヶ岳頂上〜桧枝岐・丸屋(名物の蕎麦を食べ月明かりをたよりに)〜長蔵小屋(泊)
14日 長蔵小屋〜沼尻平〜白砂の湿原・地溏(チマキザサ・ブナ)〜桧枝岐小屋〜三條瀑(サウシカンバ・エゾマツ)〜原ノ小屋・長松オジイ〜尾瀬平の東端を縦横に歩いて湿原観察に熱中〜原ノ小屋(泊)
15日 原ノ小屋〜尾瀬ヶ原〜(ヨッピ川)・猫又川を遡る(イハシモツケ・ネズコの藪)〜山稜を北に伝ふ(ハヒマツ・ガンカウラン・コケモモ・シロシャクナギ)〜至佛山・山頂〜原ノ小屋(泊)
16 原ノ小屋・(朝食が済むと(同行の)尾瀬沼仙人は一と足先に長蔵小屋に帰る。)〜湿原での撮影(シツジグサ・ネムロカハホネ・ニックヮウキスゲ・カキツバタ)〜原ノ小屋に戻って中食〜長蔵小屋〜白砂湿原〜沼尻平(ヒアフギアヤメ)〜沼尻(泊)
沼尻に出た。もう此処も見収めである。細雨に煙る尾瀬沼の姿をレンズに入れる。そして三人は暫く周囲の景を見まもって、黙(しづか)に沼と岳とに別れを告げた。
17 「・・食料や雑品を長松オジイに背負せて、三人は鬼怒沼に向かった。山人は村のはづれ迄送って来て呉れる。さらば尾瀬よ。さらば山人よ。」〜大江川中流から黒木の森(オホシラビソ・サウシカンバ)〜田代の小湿原〜黒岩山(オホシラビソ・コガネイチゴ・セリバワウレンヲサバグサ)〜久恋の鬼怒沼湿原(ヒメシャクナギ・ツルコケモモ・ガンカウラン・米1:コケモモ・アスナロ)〜日向恐し澤〜日光澤温泉跡〜(ヤマハンノキ)八丁ノ湯(泊)
18 八丁ノ湯〜手白澤〜婦夫淵(めおとぶち)〜栗山郷〜前ノ澤(ブナ・コメツガ・ヒメコマツ)〜西澤金山跡〜金田峠(コメツガ・ヤグルマサウ)〜湯本(泊)
19 湯本〜兎島〜小田代の原(アカヌマフウロ・ノハナシャウブ・イブキトラノヲ)(ミズナラ)竜頭ノ滝・地獄の茶屋〜湯本(泊)
20 湯本〜(馬車・天狗の巣)〜中禅寺〜旧見晴茶屋跡(ハクサンヲミナエシ・ビバウシュ)〜日光〜宇都宮
                   (「尾瀬再探記」 (「尾瀬と鬼怒沼」昭和5年)」より。
※1:コケモモ コケモモが乾燥性の裸地に生ずることは上に記したがあ、稀にツルコケモモなどに伍して、水蘚湿原にも生ずることがある。これは大正13年7月、筆者が鬼怒沼湿原に発見した処であって、生態学的に見て興味が多い。                    「 植物及動物第4巻8号 日本の高山植物124)コケモモ」の項より 
      特記 尾瀬再訪記からの日時の設定は、何日目と云った表記のため、分かりませんでしたが、妻直子に宛てた「郵便はがき」の
         消印と博士が記載した日付により、日時を換算し直し表記を行いました。 
2015・4・6 保坂記
資料A「武田久吉先生をしのぶ 愛した山岳と高山植物 舘脇操(北大名誉教授)」と題した新聞記事より
<前略>大正十三年には尾瀬に誘っていただいた。二週間ばかり滞在して尾瀬沼の主・平野長蔵氏の案内でくまなく歩いた。長蔵翁の愛孫、長晴君は京大を出て北海道新聞社に勤めた。尾瀬を熟愛するあまり社を退き、吹雪の日に尾瀬のため命を捧げたことは有名である。尾瀬の自然を心から愛した先生と、先生を尊敬した平野一家の人たち。そこにもかくれた北海道が首を出すのである。 昭和47年6月20日付 北海道新聞(夕刊)
資料B舘脇操著、「尾瀬と鬼怒沼・尾瀬をめぐりて・はしがき」 ※1 巻頭部分
 
一つの影絵が、執拗に私を迫ってゐた。その影絵は、いつの日も、夢の小唄を嘔ひながら、心に解け込む様な韻律を帯びてゐた。ハオパーボラのひろがりの様に、それが時と共に、私の頭には、軟な大きな線にのびて行った。まだ中学生の頃、港の街で『山岳』をひもとき、沼井氏の紀行を読むだ折には、既に札幌への決心も定まり、早田博士の文に、唯胸を躍らしぬいてゐた。尾瀬! 北の国に来てから、山の旅に、島の旅に、思ひつゝも機を得なかった私は、武田博士にその獅得て、こゝに驥尾に附すること二週間、親しく生態学的観察の指導を賜はるを得、自然の中に在て自然を看る自然観に触れて、私の若い日のある夏を、ほんとうんの心の中で埋め得たことを欣ぶと共に、深い感謝の意を武田博士に捧げないわけには行かない。又行を共にし、この旅を意義あり、且つ愉快に印象づけられた山口氏にも、謝意を表する。尾瀬へ!! 私の心はのびのびと展開して行った。そして絶えずものさびた美しい響を耳にしながら、私の旅装は整へられ、又その旅装は解かれた。(略)            1930年8月の項目より 
月、会津駒ヶ岳→「みらさきやしほつつじ・みつばわうれん」、燧岳→「さんかえふ・いはうめ・くまゐので」、 
   
黒岩山→「をさばぐさ・こがねいちご」の写真撮影を行う 
                 
「高山植物写真図聚1/高山植物写真図聚2 No224・279・347」より
7月26日付、「山岳 第十八年第二号 十二月号 会員通信」欄に、尾瀬・丹澤での行動を書き記す。
参考ー1 (全文・見出し無し)
尾瀬を中心として岩城両毛の境を彷徨すること二週日、最後は鬼怒沼、川俣、西澤を経て湯本に出て候。鬼怒沼は予想外のよい所にて、再遊を望むこと切に候。帰来直に丹澤山に向ひ、一昨夜帰宅。塔と丹澤との頂に三角測量櫓復活され、両山間の交通路も数倍の容易を加へ候。八九月に大雨さへなくば、今秋の登山には差支なき迄の山径出来候。尤も前の如く深谷に入り山陵を縦横に歩くことは当分不可能に候。(七月廿六日武田久吉)
参考ー2 「○丹澤山の近況と眺望」より
  
昨秋の関東大震災以後、丹澤山地に脚を入れること数回に及び、渓流は神ノ川を除くの外主なもの全部を跋歩し、峠路は明神峠と犬越路以外、重要なものは悉く越えて見たが、山峯に至っては経ヶ岳と焼山連山を毘盧ヶ岳に傳った外、これぞといふものへ登る機会がなかった。然るに今夏七月下旬、神奈川縣庁の主催によって、縣下の代表青年十数名を引率して、丹澤山塊殊に東西両丹澤を踏査する挙が行はれ、筆者もその一行に尾して丹澤山と塔ノ岳との頂上を極め、その際従前の観察の不足を補ひ得たことは少なくなかった。殊に本誌第十五年第二号に揚げてある拙文中、更に訂正を要する点を発見したので、近況を報ずると共に正誤を試みることにしよう。(略)
 踏査の順路
 札掛→荒樫尾→大洞→繰廻し→本谷の河原→黐小屋→蜘蛛ヶ淵→木裏澤→丹澤山頂・一等三角櫓
(本年6月完成)→塔ヶ岳・三等三角測量櫓→(下山ルートやや不明なため 再調査要 2015・4・25 保坂記
   「山岳 第十八年第二号 丹沢山の近況と眺望」より
 注意 博士の文では「今夏七月下旬、神奈川縣庁の主催によって」とある。「丹沢・やまものがたり」から引用した青年団の丹澤探査では
     8月と記載ありました。7月と8月に連続して探査が行われたかは不明なため 再調査要 2015・4・23 保坂記

参考ー3  妻・直子に宛てた「郵便絵はがき」より 消印 13年7月23日 
昨日無事当地着、 夕食後他の三四の名士に交じって小話を試みた、丹沢の古なじみ丈けに山でも私の来るのを待って居るそうだ、今日は例の炭俵の婆さんの居る札掛泊る、明日山を越して諸子平に泊る筈、一行五十名許り、詳細は「日々」に出ることと思ふ、気分 大に宜し、
                     (表面)二十三日朝  秦野町にて サイン 
7月、八ヶ岳硫黄岳北肩、約2700mに於いてハイマツの生態調査を行う。「続原色日本高山植物図鑑」より
8月1日、「報畫學科 第二巻三号 新光社 特集 山水奇觀號」に「新説 高山植物の分布」を寄稿する。 また同号に、「雲間に艶をきそふ草本帯植物の優姿 ・高山植物学者秘蔵の写真帖」欄に写真11枚を掲載する
 
 報畫學科 八月号
 黒百合には、面白い伝説がある。昔秀吉の臣佐々成政の妾に小百合といふものがあった成政の胤(たね)を宿して、寵愛日々に加はったので、他の妾がこれを妬(ねた)み、小百合が小姓の竹澤熊四郎と通じたと讒言(ざんげん)した。成政はそれを信じて両人を惨殺したのみならず、小百合の一族十八人を死刑に處した。小百合は死に臨(のぞ)み「立山に黒百合が咲いたならば、佐々家は滅亡する」といった。その後天正十六年、秀吉が花の會を催うしたとき、成政が白山千蛇ヶ池に咲く黒百合を献じたところ、それが非常に好評を博したので、北の政所、成政を怨(うら)んで彼を滅ぼしたといふのである。
 北海道では平地に、これがあることは寫眞の説明通りであるが、そこのは、内地の高山で見るやうなけちくさいのではなく、時には三四尺に達するものがある。武田博士などは、三枚つゞきの標本を持って居られる。しかし、これが札幌の大學の牧場の林などにあって、牛馬に踏みあらされて
ゐる。尤(もっと)も、これは、今から五年も前の話。但し内地の高山にあるものゝ方が、何となく、深い感じを與へるのは、右の傳説が頭にあるため知れない。高山植物学者として、先づ指を屈すべき、武田博士は、高山の植物分布について研究多年の結果、その分布帯の分けかたについて新説を立てられました。前號から本號にかけて、その一端の談話を筆記し、博士の閲を経て掲げました。特に本號には、博士秘蔵の珍寫眞を拝借して、読者諸君とゝもに、賞觀することのできたのを喜びます。
 博士は山麓の草原のできた由来と、そこに生ずる草本を説き、次に、従来、高山の植物分布を山麓、落葉喬木、針葉喬木、灌木、草本、地衣の六帯に分けることの誤れるを論じ、針葉樹帯中に、その帯特有の濶葉樹のあることを指摘し、各帯にも上中下があって、固有の植物のあることを述べられたのが、前回の切れ目でありました。
前号分 後日掲載予定 2017・8・3 保坂 
前号分 後日掲載予定 2017・8・3 保坂
前号分 後日掲載予定 2017・8・3 保坂
前号分 後日掲載予定 2017・8・3 保坂
前号分 後日掲載予定 2017・8・3 保坂
前号分 後日掲載予定 2017・8・3 保坂
前号分 後日掲載予定 2017・8・3 保坂
葉喬木帯の上部に到って現れるサウシカンバは(省略)
灌木帯の分子としてはオホヘウタンボク、ウラジロナヽカマド、(省略)
灌木帯の盡きた所は草本帯である。(省略)
十一 草本帯の上部に到ると、顕花植物の華美な姿は漸く減じて(省略)
十二  高山上の植物が、以上の様な諸帯に分れるとした處で、その間に厳然たる境界があるわけではないのであるから、常に中間地帯があって、上下両帯のある種類が混生するのである。加之、是等植物帯の變化推移は、等高線に並行して行はれるものではなくて、温度、水濕、地質、岩石の新舊、積雪量等、種々な事由に左右されるものであるから、二帯間の境界は水平線ではなくて、不規則な鋸歯状を呈するのである。故に、今假にある山岳の中腹を、等高線に沿うて一周するとすれば、或る地點、例へば砂礫地、崩壊地、放射谷の沿岸では、主に草本をそして意外な低所に高山植物を見るが、岩上には樹木を、そして殊に南面に於ては、喬木林が北面に比して高い所に迄、及んで居ることを発見するであらう。それから、新らしい火山では一般に植物帯が低下するため、高山植物が驚く可き低位置に見られるに反し、古い火山では森林の發育が旺盛で、植物帯は向上するのが常である。(をはり)
          内容確認要 所蔵 桧枝岐村教育委員会 2017・6・3 保坂

8月、八ヶ岳彙の硫黄岳
(頂上2740m含)に於いてハイマツの生態調査を行う。「続原色日本高山植物図鑑」より
8月、鳳凰山に於いて「みやましゃじん」の群落地を写真撮影を行う。 
                          高山植物写真図聚2 No209」より 登山記録については検討要
8月中旬、鳥海山の植物調査を行う。
上野→新庄→遊佐AM10時(シロダモ)→上蕨岡・大物忌神社の口の宮→神職の家で中食→社務所→天狗森の南に続く坂路(アカマツ・スギ・コナラ・コブシ・サワフタギ・シナノキ・クズ)→杉沢→嶽ノ越牧場(タニウツギ)→駒止めの茶屋(無人)→弘法水の清水(マンサク・チュウブ・ミズナラ・タムシバ・ムシカリ・クロモジ・オオバスノキ・タニウツギ・ヤマモミジ・ブナ・ナナカマド・ミズキ・ヨソゾメ・ミヤマガマズミ・ズミ等)→月光川・水波の神の拝所(ミズバショウ)→小坂を上る18時(ミヤマヤナギ・マルバキンレイカ・ノリウツギ)→南麓湯ノ台鉱泉からの路に合流→鳳来山の登り(クロズル・クロツバラ・シナノキ・ムシカリ・ヨソヅメ・ノリウツギ)→19時、箸ノ王子着、横堂・社務所(泊)
横堂・社務所(発)→(ブナ・ハウチワカエデ・テツカエデ・ミネカエデ・リュウブ・ノリウツギ・ナナカマド・ムシカリ・オオバスノキ・ムラサキヤシオツツジ・マイズルソウ・ミヤマトウバナ・チゴユリ・ツバメオモト・ユキザサ・タケシマラン・コミヤマカタバミ・オオヤマサギソウ)→溶岩の大塊が累々→(マルバキンレイカ・ミズナラ・イチイ・ダケカンバ・ミネザクラ・ノリノキ)→八丁坂(タカネツリガネニンジン)10時→(ミヤマホツツジ)→河原宿の笹小屋・撮影で道草(チングルマ・ウサギギク・ヒナザクラ・ベニバナイチゴハクサンオオバコ)→御田ヶ原を経て大雪路の雪田→小雪路(ミヤマキンバイ・ナガハキタアザミ・ウメバチソウ)→薊坂(あざみざか)18時(ハイマツ・ミヤマハンノキ)→伏拝岳→行者ヶ岳→大物忌神社本社・籠堂19時、風呂(泊)
籠堂(発)→(キンスゲ・ミヤマヤナギ・ツガザクラ・コメバツガザクラ)新山→千蛇ヶ谷→(チョウカイフスマ・イワギキョウ・イワブクロ・ミヤマキンバイ)→外輪山(御峰)→10時籠堂に戻り、11時、西に向かって千蛇ヶ谷を左にして下る。(ヒメアカバナ・ヒメクワガタ)(アオノツガザクラ・ヨツバシオガマ)→大分下って1500メートルあたり(オオイタドリ・タカネツリガネニンジン・ハクサンボウフウ・ミヤマセンキュウ)(ウラジロナナカマド)→御峰を離れた所に瀦水(ちょすい)、天候悪化、御苗代(ハクサンイチゲ)(ヒナウスユキソウ)御田ヶ原→鳥ノ海遥拝所の籠舎1時半→賽ノ河原→伝石(つたいし)坂→とうとう雨、大粒の雨が横なぐり→大平の茶屋(ススキ・ワラビ・アカマツ・コナラ)→二合目・陣屋の茶屋16時20分→吹浦の口の宮→酒田・今咲旅館(泊・8月14日)
   
 「大正14年 出羽の名山鳥海」より 注意 酒田から、月山へ向ったかは調査要 2014・12・10 保坂記
    湯殿山までは確認済 2014・4・5 保坂記 参考 妻・直子に宛てた「郵便はがき」 8月12日 上蕨岡にて
8月、月山、鳥海山に於いて「ひなざくら・ちんぐるま・べにばないちご・はくさんおおばこ・しろばなたううちさう・みねはりゐ・たかねひかげのかずら・ひめうすゆきさう・きんすげ・うらじろななかまど・ちょうかいふすま・よつばしほがま・てうかいあざみ・きたあざみ・えぞくろうすご・くろづる・ねむろかはほね・つばめおもと・いはぶくろ・ほそばのいはべんけい・はくさんいちげ」の写真撮影を行う。     「高山植物写真図聚1 高山植物写真図聚2 No216・241・244・254」より 月山の登山記録については検討要
8月15日、酒田駅(汽車)狩川駅(自動車)手向→三山神社→羽黒山→峯中堂→大満原→月山境内→皇子石強清水→狩籠(泊)→平清水→今清水→御田ヶ原→頂上鍛冶屋敷(泊)→姥→湯殿山(中食)→仙人澤→(六十里街道)→志津(泊)→弓張平→本道寺→海味(自動車)羽後高松→山形→帰京 
        参考 妻、直子に宛てた「郵便はがき」より、2015・4・5 湯殿山迄を確認 保坂記
        山岳 第十八年第三号 大正14・4 にて、湯殿山以降の行実を確認 2015・4・20 保坂
鳥海山登山の記述から
 
一 イケマ ガガイモ科の蔓草で寒冷地に殊に多い。従来これを生馬の意に採り、馬の薬と認めていた。大正十三年に鳥海山に登った時、麓でこの根を馬の薬草として販(ひさ)いで居たが、これはもとアイヌ語で、馬には有毒だと云う。    「民間伝承No276 第31巻第1号 植物釈明四十六条」より
月、神奈川県青年団体連合会の主催による講演会が秦野町の大川旅館で行われる。
    講師:武田久吉・中村太郎左衛門・本間不二男

    翌日、博士と神奈川県青年団体連合会のリーダー数名が同行して、震災被害の状況を
    調査するため、札掛→新大日→塔ノ岳(尊仏(孫仏))→諸士平→玄倉を巡る。
(略)歩きながら武田久吉は、各地の山を広く歩いてきた経験を踏まえて、丹沢のすばらしさや、山の神などに見られる民間信仰の重要さを青年たちに語ったという。沢を埋めつくした倒木の想像を絶する惨状とともにこの日の武田久吉の話は、青年たちに深い感銘を与えた。武田久吉が賞賛してやまなかった震災前の丹沢へは、同行した青年たちもほとんど足を踏み入れたことななかったのである。(以下略)
         「丹沢・やまものがたり 3秦野ノの青年たちと丹沢登山」より 秦野市編(平成10年9月)掲載)
9月1日付、舘脇操が「高山植物の話」についての感想と近況を原稿用紙10枚にして博士宛てに投函する。
9月、
八ヶ岳に於いて、「たかねなでしこ・しらたまのき・くろくもさう・くろつりばな・みやまはんのき・はりぶき・やゆがたけむぐら・ござんたちばな・みやまうゐきゃう・すぎかづら・いはうめ・たかねしほがま」の写真撮影を行う。
              
「高山植物写真図聚1 高山植物写真図聚2 No226・270」より 登山記録については検討要
9月下旬、八ヶ岳に於いて、コバノクロマメノキを検出する。
(略)筆者は八ヶ岳でコバノクロマメノキの白果を着けたものを検出し、それを管壜に入れて携へ帰った処が、途上で急に紫黒色に変じたのに驚いたことがある、秋期登山される方は斯かるものに逢着されないとも限らないから、十分の注意を拂はれんことを乞ふ。  「日本の高山植物 123)クロマメノキ」の項より 登山記録については検討要
9月、松井幹雄が「山岳第十八年第一号」に「城ヶ尾行」を寄稿する。
   
大月→吉田→山伏峠→神地(泊)→三ヶ背沢を溯行して→城ヶ尾峠 帰路は尾根を下降→地蔵平→大又沢
    →浅瀬→峯坂峠→駿河駅着 
      
武田博士との同行記録 「昭和13年丹澤」より 震災後の何時に溯行したか 再調査要 検討要 2015・1・9 保坂記 
    注 「足柄の文化 第41号 山北町地方史研究会 石井敬士著 山北を訪れた文人たち」には大正13年4月2日と記載あり 
10月、「武相の若草 10月号 神奈川県青年団連合会に「丹沢山塊の地理的概観と植物景(上)」を寄稿する。
 「丹澤山塊の地理的概観と植物景(上)」より 
 (略)丹澤山塊の地理的概観(略)三國山から北に向ふ山脈は、稍(やや)東に曲がり乍ら、平野から道志に通ずる山伏峠附近迄は山中湖に臨み、以東は道志川の右岸に蟠(わだかま)って、丹澤山塊の主部に連なるのである。山脈は最初は東北に走って加入道に至り、ここで東に折れて大群山に達する。大群山の最高点は一千六百米に近く、丹澤山塊中第五位の高度を保つ峯である。その山脊は東西に長く、之を北方から見れば、日光町から仰いだ男体山の様な形に見えるが、東方から望めば金字塔形を呈する。そしてそれを(町田市)相原の稍(やや)北方から仰ぐと、富岳(ふがく)の前に立ちはだかって富士を全く隠してしまふの故に、あの地方では富士隠(フジカクシ)と呼んで本名(ほんみょう)を用ひない。上記山脈中で顕著なものは、大又澤の上流右岸に聳える菰釣(コモツルシ)である。これは七十年程とか前に起こった山論の時に、平野の藤左衛門といふ名主が、此の山嶺に菰(こも)を吊(つる)って山論をやった為めに、有名となって、従来かう呼ぶに至ったのだといふことである。大群山の大尾根は東北に下がって、道志川とその支流の神ノ川との合流点に終わってしまふ。甲相の界も亦この山脈に沿ひ来るが、脈が絶えてから漸次は道志川に沿ひ、月野夜の東から北方に転じて津久井の佐野川村に向ふことになる。(略) 
                    
 「武相の若草 第十一号 丹澤山塊の地理的概観と植物景(上)」より
11月、「週刊朝日 第六巻第二十号」に「「もみぢ」の美と名所」を寄稿する。
    横浜開港資料館 久吉(原稿(著作)) No567−2 所収 内容が欠頁(削除)になっていたため内容が不明 2016・7・10 保坂
11月11日、朝9時、茅野駅より妻・直子に宛て「郵便はがき」を投函する。
11月8日 成功
 午後一時。甲府中学校講堂に於て、秋季総会を開く。若尾会長の辞に始まり、野々垣幹事の会務会計、平賀幹事の会報『山』発行に関する報告あり会員談話。武田久吉氏の講演『甲州山岳と植物』と題し二時間にわたり聴衆に多大の感銘を与ふ。本間総裁中村学務課長と共に臨場す。  T14・5発行 『山』第1年第1号 会報より
9日 快晴 十数名と共御岳新道昇仙峡 両岸の山峯を歩き夜甲府に帰着→夜食后終列車で上諏訪に向ひ→十一時半着、途上富士見あたりで雪にあひ驚く
10日 十日は上諏訪も一日降雪出ることも何も出来ず湯に入って寝て食べ喋って一日を暮す、
11日 本日快晴 予定を変へ茅野に向ひ これより北澤温泉に行く
12日 明日、晴天なら赤岳に登り
13日 明后日帰途につく、  夜よければ九時半、おそければ十一時には帰宅できると考ふ、
     注意  「郵便はがき」から順路を記しましたが、詳細は不明、特に8日の「成功」は更に不明 検討要 2015・5・19 保坂記
11月16日、「第二十六回小集会」を清水谷皆香園に於いて、「鳥海山及月山」と題し講演を行う。
    一、 秋の尾瀬沼  木暮理太郎氏       二、鳥海山及月山 武田久吉氏
当日の出席者/岩瀬勝治・小松喜一・瀬戸強三郎・濱田千三郎・飯塚篤之助・高畑棟材・前川満壽雄・神谷恭・青木軍二郎・松井幹雄・吉田直吉・岩井三郎・鳥谷幡山・酒井忠一・野口未延・磯貝藤太郎・村越匡次・岡野徳之助・本多友司・大熊保夫・辻達治・書上喜太郎・加藤留五郎・山辺仁夫・松本善二・伊藤朝太郎・武田久吉・高頭仁兵衛・植有恒・梅澤観光・鳥山悌成・冠松次郎・木暮理太郎の三十四氏にして、他に数名の会員以外出席者ありたり。
11月25日、中巨摩郡池田村小宮山清三より、記念の写真が送られる。
 
 E−5−5−武田先生アルバムGより  写真撮影 小宮山清三 
 大正13年11月25日 POST CARD   桧枝岐村教育委員会所蔵

左 (不明)        右 武田久吉博士
12月、「武相の若草 12月号 神奈川県青年団連合会「丹沢山塊の地理的概観と植物景(下)」を寄稿する。
 (下)「丹澤山塊植物景の一般」より
 山麓地や低い丘陵殊に此の山塊の東部では、植物は温帯的要素から成る上に少数の暖帯的分子を交へる。暖帯的分子の主なものは、エノキ、ユズリハ、シキミ、アアビ(アセビか検討要)、シラカシ、アラカシ、ヒゝラギ、シラキ、シラカシ、アセビは可なりの山中に迄侵入し、ヨコグラノキは東部の山中には、シキミは東部の山中には、シキミ東部の山麓に近く見られる。
 一千米以上の地にては、モミは漸くウラジロモミに置き換へられ、コナラは減じてミヅナラとなり、最高層はブナの密林で、それに混ずるにツガやバラモミが見られ、樹下にはコウグヒスカグラ、ヒメシャラ、ミヤマイボタ、バイクツツヽジ、トウゴクミツバツヽジ、シロヤシホ、フジザクラ等が生じ、所によってはスヾダケが、密生して通行に困難を感ずる。水温ある辺にはケヤキが多く中腹には、カヘデの種類を初め、シナノキ、カハグルミ、サハシバ、イヌザクラ、ヤマザクラ、ミズキ、シホヂ、ネヂキ、アハブキ、ザイフリボク、センノキ、リヤウブ、フサヾクラ、キフヂ等がある。カヘデの種類は殊に多く、その数十種内外を算するのは珍しい。是等の落葉樹に混じて、スギやヒノキの天然生ものがあるのは、甚だ興味のあることである殊にスギは東京附近では丹澤山塊と天城山彙以外に見られない。
山頂は矢張りブナ帯を出でないから、純正高山植物を見ることは出来ないが、夫
(それ)でもクルマユリやノビネチドリの如き北方種が見られ、これに交じってナツエビネやツリシュスランヒナランの如き南方種が産する。稀品としては箱根及び天城に特産するマツノハマンネングサ、箱根や秩父特産のハコネコメツヽジがある。丹澤山塊の特産種としては、イワツリガネサウといふ草木が一種ある。これは大山あたりから玄倉川上流に亘って生ずるもので、最初英人ビセット氏が大山に探り、英国の植物学者ハンス氏は之を検して、欧州に普通なCampanula rotundifoliaと誤認して報告したものである。予はこれを明治三十八年秋、初めて丹澤山塊に足を入れた時に採集し、其の花を解剖して、Abenophora属中未知の一種と認め、本邦植物分類学の第一人者たる牧野富太郎氏に致した。同氏は更に研究の上、一新種としてAbenophora Tokeqaiなる学名を命じて学界に発表された。爾來二十年、此の附近の山谷を跋渉(ばっこ)すること、十数回に上るが、未だ之を他に得ない、のみならず客年の震災の為め、それが好んで自生する石英閃緑岩の斜面は甚しく崩解した為め、残存するものは幾何(いくだく)もない。
 以上述べた処によって見ても、丹澤山塊の植物景は近くは、道志山塊遠くは、天城山彙と大同小異なることが明である
。(略)     「武相の若草 12月号 P22〜P23」より  注 ・イワツリガネソウはイワシャジンの別名
12月、「山岳 第十八年第二号 丹沢山の近況と眺望」他を寄稿する。
   
また同号に、沼井鐡太郎が「御坂山塊」を寄稿、武田博士が話された「三峠山開山の由来」のことも記述する。
(略)尚、山岳第十六号第一号会員通信欄中にある武田久吉氏の分は重要なる参考資料である。又、日本山岳会小集会第一七回の席上に於て武田氏は三峠山開山の由来を話されたが、未だ印刷された文字に表れないのが遺憾である。(略) 第十七回小集会の日時について未確認のため 調査要 2015・12・4 保坂記
                          大正12・5 第16年3年3号会報欄に 17回小集会記事あり。 内容未確認 
参考 同号の雑報欄から「○南アルプスに小屋建設」の記述より
(略)これまで南アルプスに取りて遺憾であった此点に当事者が眼を着けるやうになって来たのは、登山者に仕合だ。それには今年設立された甲斐山岳会の主唱者であった人々の尽力を認めねばなるまい。昨年あたりから既に建設されたものは、野呂川上流右俣左俣の合流点(陸測五萬市野瀬図幅の北嶽から西に派出した尾根上、二四一二米と測られたる独立標高点の南微西直下に当る)、北澤(北澤峠の下)、早川尾根(韮崎図幅の左端中央より稍下部に二四六三.四と記入されたる三角点ある峯の南側)、広河原(野呂川と大樺澤との合流点)、農鳥山と間岳との鞍部、早川の支流広河内の大門澤合流点附近(鰍澤図幅の大唐松山の西南直下に当る)の六ヶ所であったが、甲斐山岳会では、更に鳳凰山北御室(賽ノ磧の下)、八ヶ岳の三ツ頭(東側の斜面)及破風山(地図に破不山とあるもの)と木賊山との鞍部合計三ヶ所へ小屋を建設する必要ありとし、
県庁に相談したところ、全部県費にて建設することになり、最早工事に着手したとの事であるから、年内に完成したものもあるかも知れない。其中破風山のものは、用材伐採の都合上位置が変更されるやも知れぬとのことである。此上尚ほ三繁平附近にも小屋が出来たならば、奥秩父の甲武信と金峰間を縦走する人には何程助けになるか知れない。孰れにしても適当なる登山路の開拓と小屋の建設とは登山者に取りて何よりの福音である。
 注:、この文章の中に「県庁に相談したところ」とあるのは、博士が11月11日、妻直子に宛てた「はがき」の冒頭部文に「成功」と記述したことに関連があるように思えます。残念ながら雑報欄に報告者の記載が漏れていたことから今後の研究を待たねばなりませんが、博士が小屋の建設に情熱を持たれていたことを予感させています。 2015・12・20 保坂記
○この年、「○」から「高山植物とその生活 」を刊行する。 2015・1・9 内容未確認 保坂記
〇この年、大阪毎日新聞社編「夏の科学」に「高山植物とその栽培」を寄稿する。pid/970803
1925 大正14年 42
1月20日、三木茂が山城の巨椋(おぐら)池でムジナモを発見する。 牧野富太郎 「ムジナモ発見物語」より 
2月、「寫眞雑誌 CAMERA」に「寫眞道樂」を寄稿する。
3月20日付、「東京朝日新聞 五面 サイエンス」欄に「櫻草の新種、珍種(一)」を寄稿する。
(略)〇・・・園内にさき誇るさくら草も、元をたゞせば野草の一草で、本邦では北は北海道から、南は九州に至る山野に分布し、好んで半陰のしめり地に生ずる。中部日本では、概ね海抜二千尺内外の高原に見るが、時にその種子が流水路に運ばれて、低地たりとも適当な場所に達すると、そこに繁殖して、時に本来の産地を凌ぐことさへある。〇・・・かの武州荒川下流に沿ふ戸田、浮間、あるひは田島ヶ原などは、さくら草の本来の生育地と言ふよりも、寧ろ第二次的野生地と見るべきもので、上流から自然に運ばれた種子が、異常な発育を遂げ、さくら草の大々的花畑を現出したものである。(略)
4月、「山岳 第十八年第三号 「多摩川相模川の分水山脈」について」を寄稿する。
4月9日付、妻・直子に宛て、「郵便はがき」を投函する。
   
山口、杉本氏と飯田町駅→二俣尾・着→(自動車)→氷川・大休憩→日原川に沿って上流へ→日原(泊)
杉本君が あはてゝ写真の取枠を一枚も持って来ない写真器と乾板と三脚だけをしょって歩くのは気の毒それでも小い方の器械でパチやる由。
4月11日付(消印12日)、妻・直子に宛て、「郵便はがき」を投函する。 所在不明のため検討要 2015・5・15 保坂記
    「
帰宅不可能 十四五日頃となる (略) 一同無事 但し 杉本氏は先に帰京
4月27日から、山口成一を誘い→法師温泉→三国山→大源太(濺ノー(せんのくら)の上州名)→川古温泉→小出俣岳に登る。 「回想の冬山」より
4月27日 夜上野へ駆けつけたのが彼是十一時山口君が待って居て切符を買って置いて呉れたので世話もなくやがて改札されて乗車する→上野発(泊)
28日 午前二時少し過ぎ高崎着。下車、乗換汽車は五時三十分発(まで(略)時間があるので駅前の)支那そばに入るゴール軒支店珍々軒といふ変な各だが千客万来でせまい店は一ぱい。しかしチャーシューメン一杯にありついて少し暖まる。七時半沼田着→(馬車)→湯宿→(徒歩)(タンポポ・カスミグサ・ヤブスミレ)→相俣・日枝神社(休憩)→(ヒガンザクラの幹にビロウドシダやオシャグジデンダ・スミレサイシン)→猿が京の上り坂(丁字桜)→中食→魚返しの瀑→箱淵の瀑→牛窪の瀑→(フキ・キクザキイチリンサウ・エゾスミレ)→法師温泉(泊)
29日 法師温泉→(シャウジャウバカマ・コガネネユノメ・シャクナギ)→三国峠→(ユキワリソウ)12時頃頂上着・三国山→4時15分着・法師温泉長寿館(泊)
30日 →雨天のため一日湯治→法師温泉長寿館(泊)
5月1日 法師温泉→大源太→法師温泉(泊)
2日 法師温泉猿ヶ京川古温泉(泊)
3日 川古温泉→小出俣岳→谷川温泉(泊)  5/2の郵便はがきでは、「二三泊して帰京の途につく筈」とあり
                            妻・直子に宛てた手紙より 大正14年4月30日 法師温泉長寿館 久 
                          五月二日 猿ヶ京にて
      
    上州猿ヶ京より妻に宛てた郵便はがき  
参考 「道祖神のおわす道」の中の「影踏み遊びの神様」より
 私たちの仲間が、上越国境の山々や利根奥に足を踏み入れたのは、清水トンネル予定地の下調べが行われた翌年の、大正9年である。右を見ても左を見ても、自然はひしひしと私たちに迫り、住民は淳朴そのものであった。(略)
 上越線が開通したのは昭和六年だが、大正の晩年に近い四月の下旬のこと、友人と二人で後閑
(ごかん)から三国街道を法師温泉に向かったことがあった。山は残雪にかがやき、ふもとは大山桜が新緑の間に淡あかい花をつけて、春らしい暖かみをただよわせていた。
 途中、相俣まできた時、右に折れて、赤谷
(あかや)川沿いに川古(かわぶるい)へ寄り道することにした。しばらく行くと、道ばたに一つの石像がある。二体の石像が刻まれているが、石地蔵でもなし、馬頭観音ともちがう。なんであろうと眺めていると、通りすがりの農夫がニヤニヤ笑いながら、それがドウロクジンだと教えてくれた。
 子供のころ、月夜の晩の影踏み遊びの時にその名を口にした神様がこれであったかと、しげしげ見入ったものである。
                    S55・4 曽根原駿吉郎編「信州の石仏」P37〜38より
5月、小出俣嶽に於いて「いはなし」の写真撮影を行う。高山植物写真図聚2 No339」より
5月、上河内(上高地)に於いて「ばいけいさう 萌發」の写真撮影を行う。
                                 高山植物写真図聚2 No265」より 登山記録については尚、検討要

5月16日夜、岐阜県山岳会と岐阜縣高等農林学校山岳部主催による合同講演会が、現岐阜大学大講堂に於いて開かれ、槇有恒の講演の後、「山岳の植物」と題して講演を行う。
5月16日 →岐阜・午後5時7分着→玉井屋旅館→(現岐阜大学)講演開場へ 槇の講演後、武田博士は「山岳の植物」についてを講演する。→玉井屋旅館(泊)   岐阜県山岳会と岐阜縣農林学校山岳部合同講演会 
5月17日 玉井屋旅館→展覧会場→県庁→(昼食)→夕刻まで山岳懇談会→玉井屋旅館(泊) 槇有恒は帰京する
18日 玉井屋旅館→高山鉄道・上麻生(午前8時着)→それより徒歩飛騨川に沿ひ白川街道を川岐に到り→金山町(泊)
19日 →徒歩益田川に沿ひ中山七里谷→下呂・温泉に一浴→萩原(泊)
20日 →上呂より自動車→高山町、10時着→高山(泊)
(略)遠く加賀の白山、近くは日本アルプスの笠ヶ岳、槍ヶ岳、穂高岳、乗鞍岳の白雪に輝けるを仰ぎ焼岳の噴烟を見る。明日は乗鞍の北麓に位する平湯に向ふ予定なり。
21日 高山→旗鉾→(天気大荒れとなり、2時半・久手着)→久手(泊)
略)久手(くて)に来たのは二時をまわっていたがあと二時間程で平湯峠だというのに、この天気ではゆっくり景を賞する訳にも行かないので、時刻は早いが、ここで一泊することとした。それでも三時頃から雨勢も弱まり、気温が低下したが、東の方の山峯を仰げば、新雪と霧氷が白く光っていた。四時頃であったろう、久手から旗鉾へ嫁入りの一行が通る。たった三人の小人数で、皆尻端折りに高足駄、蛇の目の傘をさしている。御嫁サンは荷物を背負い、御嫁サンに付添うのはその姉だということであった。(略)
        S36年 「旅 百花芽吹く飛騨路から上高地へ」より 
22日 久手→平湯峠→平湯・「村山」(泊
23日 平湯→(入浴・散策)→平湯(泊
24日 平湯→安房平→安房峠→中ノ湯温泉→上高地(泊)
化粧柳の芽ぶく上高地/上高地(本当は上河内)へ行くには、初めあった雲はやがて消え去って、終日快晴。五時少し過ぎには起きて一浴。六時半にはカメラを携えて笠や四ツ岳の撮影にでかけた。出発は九時。今ではバスで呆気なく越える安房峠も、そのころには静かな良い山路であった。一時間も上ると、安房の平(たいら)と呼ばれる開けた地にくる。正面には安房山が、それから右には四ツ岳まで、信飛国境の尾根が、黒々と続き、山肌には雪がベットリとついている。山の好きな者なら腰をおろすか、カメラを取り出さずにはいられない。散々遊んでから上りにかかると、残雪が現れた。この時、下駄ばきの青年が下りて来て、信州に越えることは不可能だから、平湯へ戻れとすすめてくれた。下駄ばきではむずかしいに違いない。十一時半、彼にわかれて登ること半時間、峠の頂上だ。中食を済ませて下りにかかると、後から別の男が来た。伊那の者で佃煮を商うという。一緒に下ろうというので、別にさしつかえもないから、中ノ湯まで同行。ここで一と風呂あびてから、梓川の左岸の悪路を上高地まで、遊び遊び四時間もかかった。(略) S36年 「旅 百花芽吹く飛騨路から上高地へ」より
25日 上高地→(検討中)→○(泊)
5月23日付、妻・直子に宛てた「郵便はがき」より 
(略)今廿二日晴天、雲あれど降雨の模様なければこれより三里余の平湯に行く、同地には多分二泊することゝならむ それより上河内か或は白骨の温泉を経て松本にでづることゝなる可焼岳の爆発頻々として起り 噴烟盛にして荘厳なり由て上河内行若し危険ならば白骨其他適当の道をとる筈
                     5月21日付、妻・直子に宛てた「絵はがき」より
         注意 消印年の判読が困難だったが、記念切手が大正14年5月10日だったので、そこから
             大正14年を想定し確定させました。 「大婚貳十五年記念」 2015・5・6 保坂記
          注意 「旅」S36・5 「百花芽吹く飛騨路から上高地へ」にも記述あり 2016・3・14 保坂

5月20日、「甲斐山岳会」が「山 第1年第1号」の創刊号を発行する
 
 「山」創刊号 
  所蔵 山梨県立図書館

資料 創刊号 「新設登山小舎」より
 山梨県山林課に依って、大正十三年七月迄に(南アルプスの六)登山小舎が新設された。それは(略 六小舎の内容説明)十月更らに左の登山小舎は新設された。
、北御室小舎。鳳凰山北御室の小室川に近き地に建てらる。燕頭山道よりは少し下方の針葉樹林の中である。方二間四尺に三間、板屋根の木造。薪、用水共に豊富。韮崎駅或は日野春駅を早朝に立つて此処に假泊すれば、鳳凰山塊は元より、甲斐駒、白峰の縦走に甚だ好都合で、なを亦従来厄介視された鳳凰登山は大いに緩和されたわけである。
八、八ケ岳の小舎。八ケ岳の権現岳、赤岳間の大鞍部大キレツトの低地に建てらる。方二間四尺に三間。板葺屋根丸木造の立派な小舎である。甲斐山岳会泉支部の努力に成る。薪豊富、川俣川谷に下れば直ぐ用水を得らる。八ケ岳表登山口の峻劒に執つては可成有難い山の駅亭でなければならぬ

九、破風山の小舎。(略)
写真 山の輝き 橋本欽四郎
鳳凰山のお花畠(乾性) 武田久吉
月山のお花畠(湿性) 武田久吉
八ヶ嶽と桂月翁 若尾金造
白峰間ノ岳山容 若尾金造
甲斐山岳会に望む 山梨県知事 本間利雄
甲斐山岳会の発祥 会長 若尾金造
本欄 甲斐の山岳と植物
(略)次に甲州特有の植物について御話し致すことにします。これも先刻申した通り、区域を行政的に限られると面白くないのでありませが、適宜な範囲で御話することに致します。特有中最も著しいものは、鳳凰山に限って産するホウワウシャジンであります。これは世界中何処を捜しても他にないといふ珍品で、而も鳳凰山中にも亦希少でありますから適当な保護を加へて※1蕃殖を計り度いものであります。これは桔梗科に属するアデノフヲラの一種でありまして、寔に優雅可憐な草であります。これは駒ヶ岳山塊の愛好者として有名な辻本工学博士が去る明治三十九年八月鳳凰山に最初に登山された時発見されたもので、私はその標本を見て面白い種類と思ひ、直様同上に赴いて自生の状を見て帰りました上、已知の種類を書物や標本の上で検べました処が、学界未知の種類であることが判りましたので、鳳凰山を紀念する為めにホウワウシャジン(鳳凰沙参)と命じ、学名を Adenophora howozana と定めて置きました。此の植物は甚だ珍奇なものでありまして、同じ岩質の駒ヶ岳にも見当りませぬ。此の葉の形態から考へて見ますると、恐らくは絶滅に瀕し僅かに鳳凰山中に余命を保って居るのではないかと考へます。とに角これは甲州の山の誇りでありますから絶滅はさせ度くないものであります。(略)以下タカネヒゴタイ、ミヤマヒゴタイ、ヤスバヒゴタイ、フジアザミ、オホビランジの順でお話が進み(略)隣縣の信州では可なり前から高山上の植物が探究され、殊に近年に至って縣の仕事でありますか或は教育会といった様なものの事業でありますか、夫共山岳会の計画でありますか、高山植物の探究 が旺に行はれて居る様であります。然るに山梨縣では富士山の開発に県庁が力瘤(ちからこぶ)を入れられる以外、殊に山岳の科学的研究には従来冷淡に過ぎた傾があると思はれます。山岳国として、しかも富士や白峯や駒鳳凰を有する甲州として、斯かる問題を等閑に附するのは実に遺憾な事であります。已に基礎の確実な甲斐山岳会が組織されたことでもありますから、会が原動力となり、名義は何でも構ひませぬから、甲州の山岳珠にその植物等を科学的に探究して、斯学の上にも立派な効果を持ち来されんことを切望致します。そしてそれには従来行はれた様な、単に標本丈を数多く集めるとか、採品目録を編纂するに止めるとかいふ様な姑息な方針ではなく、と申して不安全な観察に基く怪し気な結論を濫(みだり)に発表することなく、真摯切実な態度でその事に従って頂き度く、又一般登山者諸君も、山に入るに当って植物的観察を、大小に拘はらず行って、山岳の科学的研究を完成するの助けとなって頂き、甲斐の山岳の植物学的研究が一日も早く完成されむことを希望し演壇を下ることに致し、併せて長時間の御清聴を感謝致します。
※1蕃殖(はんしょく):動物・植物が生まれふえること。生殖により生物の個体がふえること。
理学博士 武田久吉
南アルプスの地形及び地質 都留中学校長 石塚末吉
山岳と人間生活 理学士 石原初太郎
自然に恵まれたる甲州人と其使命 甲府中学教諭 矢島種吉
山嶽の甲州 大月桂月
三月の南アルプス越へ 平賀月兎
白峯三山縦走の記 師範学校教諭 流石英治
北海の盟主旭岳 手塚光廣
奥上州の山旅 平賀月兎
山上雑詠 大月桂月
山岳漫筆 師範学校教諭 流石英治
憧れの白峰から 三井信量
日野春駅頭に於ける周囲の眺望 峡北農学校教諭 福富重之助
南アルプスの小屋 山梨県山林課 新山清
登山口と案内者 平賀月兎
雑録 △白馬登山班(平賀) △駒岳仙丈岳白峰縦走班(泰) △鳳凰山班(柳本) △南アルプスのプロダクション △新設登山小舎 △昨年のエベレスト登攀企劃 △アイゲルの新設小舎 △八ヶ嶽の遭難 △南アルプスの初雪 △焼嶽の噴火 (以上HF生) △風雪の鳳凰山遭難者の手記 △白鳳会の設立(小屋) △谷村支部報告(大江) △山岳記念碑設立に就て(三井)
会報 △会報 △会員名簿 △甲斐山岳会々則 △寄贈山岳図書 △南アルプス登山手引 △編集後記
5月、「山岳 第十九年第一号」に「尾瀬再探記・高山植物雑記(四)」を寄稿する。
5月、「科学を基礎とした文化生活 5」に「征服か服從か」を寄稿する。
5月、中井猛之進が「植物学雑誌 461号」に「「De」ノ附ク植物学者ノ姓ニ就テ」を寄稿、博士のことを記述する。
往年、武田博士ガ外国植物学者ノ名ノ読方ニ就テ、明細ニ本誌ニ記サレタコトガアル。当時ハ其ニ準ジテ誤ル人ガ出テ来タ。之ハ出来得ル限リ正当ノ読方トスルガ望マシイ。(略)
6月、「東洋學藝雜誌 41巻506号」に「「むしかり」の芽の研究」を寄稿する。
7月、大谷派本願寺宣傳課発行「眞宗 7月号」に「文化は征服か服從か」を寄稿する。
7月3日〜7日、日向山〜八ヶ岳登山を行う。
甲州長坂→台ヶ原→日向山→上諏訪11時半着・柳澤旅館(3日泊)→(汽車)→茅野→爼原→赤岳温泉(4日泊)→(八ヶ岳・5日泊)→(八ヶ岳・6日泊)→下山予定 紅茶は非常によかった、
                              妻・直子に宛てた「郵便はがき」より 消印年の判読やや困難 
この時、八ヶ岳に於いて、「みやまめしだ・いはせんとうさう・つるひげ・いはうめ・くろゆりだけかんば」の写真撮影を行う。 「高山植物写真図聚1 高山植物写真図聚2 No213・225・262417」より 
八ヶ岳夏沢峠約2390m)で、ハイマツの生態調査を行う。 「続原色日本高山植物図鑑」より
7月、牧野富太郎が「子供の科學 2巻8号」に「高山植物」を寄稿する 武田家所蔵本
    
  子供の科學 表紙       故辻村伊助撮影か 検討要 2018・11・9 保坂

7月26日〜8月1日、舘脇操、山口成一と八甲田山彙から岩手山を歩きまわる。
                山岳第二十二年第一号 昭和2年10月号 館脇操「植物学者としての武田先生」より
「八甲田山の思い出」から/冒頭の「浅虫にて」より/舘脇操 
略)汽車は海に寄ったいでゆの街に入った。おゝ。帽子を振られしは武田博士。かたへにニコニコ笑ふのは成ちゃん山口氏。旅が始まるのだ。久闊といふより何より自分は無性にうれしくなった。そして貴公子らしく、自ら蒲柳の質と号せられる石館氏に紹介されたのもまもなくであった。浅虫の宿にくつろぐ暇もなく、東北大学の臨海実験場に向かふ。(略)
/「八甲田の山々へ」(略)八甲田大岳をめぐる 八甲田大岳をめぐる。七月二十六日から八月一日迄約一週間をここでおくり、大岳をめぐるの言葉にふさわしい日をおくった。私達は大岳の頂きを三度ふみ、しかも三度とも倦むことしらぬ興味を与へられた。(略)  「山岳 第22巻第1号八甲田山の思い出」 昭和2年」より
  この時、八甲田山に於いて「ちしまざくら・しらたまのき・ひめわたすげ・ちんぐるま・あをのつがざくら・くろうすご・さんかえふ・はくさんちどり」の写真撮影を行う。また、湯沼でチシマミズニラを発見する。     「高山植物写真図聚1 高山植物写真図聚2 No398」より 
○この時、八甲田山でヨタカの写真撮影を行う。
資料:
附 雷鳥に関する雑記/二、八甲田山に雷鳥が一九二四年より来ると一部の人々に喧伝せられたが之は緒方正資氏の写真及一九二五年に撮影せられたる理学博士武田久吉先生の写真に依りてヨタカである事を確認し得た。早池峰山でも雷鳥を見られたと云ふ方があるさうであるが、目下は何とも申されぬ。小生は此山では遭遇したことはない
         雑誌 「鳥」Vol5(1927)No23 講話 雷鳥の語源と之にかんれんしたる俗信に就いての一考察 岡田喜一より
7月、八甲田山に於いて「、ひなざくら・べにばないちご」の写真撮影を行う。
                          
「高山植物写真図聚」より 
登山記録についての考察 
大正14年7月31日付、八甲田酸ヶ湯温泉から投函した郵便には「(人名)猛公は去年よりも ふとり二十一貫目ありとか、わらじを切ることはげし、」とあり、7月の何日かは分かりませんが、八甲田を訪れていたことが確認ができました。             2015・5・16 保坂記
8月4日、蔦温泉より、妻・直子に宛て近況を伝える。
   (略)山口君少し病気にて元気なく休養中、岸浪は今朝一人帰宅、猛は採集に余念なし
8月、岩手山に於いて、「しらねにんじん・たかねすぎかづら・いはぶくろ・えぞつつじ・しゅろさう・いはてたうき・うこんうつぎ・おやまそば」の写真撮影を行う。
   「高山植物写真図聚1 高山植物写真図2 No242 243 355 359 361 362 363」より 登山記録については検討要
 ー(参考) 7月25日から8月10日までの八甲田山から岩手山登山までの主な日程ー
7月25日 汽車中無事、三時浅虫着→青森・浅虫の宿にくつろぐ暇もなく東北大学の臨海実験場に向ふ石館氏宅(泊)
26日 石館氏宅(馬車)→横内・午前9時・着→(徒歩)「青山は國の寳」といふビラのさがってゐるところで昼食→お助け小屋→タモヤチ澤→炭焼窯の前に立った爺と道草→荒川の橋の畔で休憩→八甲田・酸ヶ湯温泉(泊)
27日 酸ヶ湯温泉→(写真撮影と植物調査)→酸ヶ湯温泉(泊)
28日 酸ヶ湯温泉→(写真撮影と植物調査)→酸ヶ湯温泉(泊)
7月31日付・妻直子に宛てた手紙より 二十八日の項
二十八日はヒナザクラ、アヲノツガザクラ、イハイチョウ等の多産する沼地に登り珍品を発見す、種々の花が咲き美しきこと限りなし八甲田は山中甚だ広く峯の間に谷地、池、雪田などあり峯ごとに植物量も異り調査に手間がゝるには一面厄介なれど一面 面白し
29日 酸ヶ湯温泉→(写真撮影と植物調査)→酸ヶ湯温泉(泊)
30日 酸ヶ湯温泉→(写真撮影と植物調査)→酸ヶ湯温泉(泊)
31日 酸ヶ湯温泉→(写真撮影と植物調査)→酸ヶ湯温泉(泊)
8月1日 酸ヶ湯温泉→(写真撮影と植物調査)→酸ヶ湯温泉(泊)
2日 酸ヶ湯温泉→午後、酸ヶ湯を出発→(徒歩)→谷地温泉(泊)
谷地のほとりへ 
(略)「
ヤバチクテ、ヤバチクテ」と人の好き相な爺が、しきりと辭む。私達は、ヒドイ掘立式の谷地(ヤチ)温泉で、爺に対してゐる。蔦へ下る時間はある。でも急ぐにはあまりに惜しい森の魅惑ではないか。「ヤバチクテ、ヤバチクテ、何もなくて」と爺は柔和な笑を浮かべて、くりかへしてゐる。(略)谷地温泉はほんとうにみちのくの山間らしい温泉の風味をもってゐる。そこに入湯の人は皆駄馬に食料を積むで来る。哀調をおびた南部のうたはよく風呂場から洩れてくる。ひぐれがた、夕雲の動きなどに見入って居る折、断続的に来る線太い音調は、いつかはてしないおもひにひきこむでしまふ。(略)谷地の夜は十四日の月であった。石館君の姿のみえないまゝに、先生と山口さんと三人、逍遥に出かける。四十分もだまって下ったらう。そして、倒木に腰を下して尚だまり勝に三十分も休む。(略)(館脇操記)
3日 谷地温泉→午前中、附近を探索→蔦温泉(泊)
4日 蔦温泉→午後、蔦温泉出発→通天橋→焼山→(自動車)→三本木→(十和田鉄道)→古間木・三沢→盛岡、夜12時着、陸奥館(泊)
5日 陸奥館→盛岡、午後3時半発→(汽車)→滝沢→(徒歩)→柳澤・岩手山神社々務所(泊)
6日 岩手山神社→(写真撮影と植物調査)→頂上小屋(泊)
7日 頂上小屋→(写真撮影と植物調査)→頂上小屋(泊)
8日 頂上小屋→(予定、8日か9日の下山かは不明 検討要)→頂上小屋(泊)  →盛岡(発)
9日 →(下山、8日の下山かは不明)→ →盛岡(発)  →上野着
10日 (予定)→上野着
               参考  山岳 第二十二年第一号 館脇操著 「八甲田の思ひ出」より
8月、八ヶ岳に於いて、「いはせんとうさう」の写真撮影を行う。 「高山植物写真図聚P133」より 登山記録については検討要
○この夏、本沢温泉に1泊し八ヶ岳登山を行う。(この時にハイマツ調査実施か 再検討要 保坂)
    武田先生の教え  小坂立夫
 大正十四年の夏林学科の学生であった私は級友数名と語って八ヶ岳の高山植物の巡守を志願し、本沢温泉を根城として本沢峠から硫黄岳、横岳と尾瀬筋を最高峯赤岳に登る時には権現岳めで足をのばして高山植物の保護に当る学生アルバイトの生活をしたことがあった。

 その或日、武田先生が登山されて温泉宿の離れ座敷に一泊されたのである。宿の女中さんが今夜は東京の偉い先生がお泊りになっているという。翌朝聞くと植物学者の武田先生であった。先生は朝早く宿を立たれたのでお姿には接することができなかったが、高名な植物学の泰斗武田先生と高山植物の宝庫八ヶ岳の本沢温泉で同宿したという光栄を皆感じたのであった。 (下略) 「武蔵野 武田久吉先生追悼号」より
   注)八甲田山と岩手山の登山を前後して八ヶ岳登山があり、内容について不明なため再調査要 2014・12・3 保坂
8月、「太陽」に「出羽の名山鳥海」を寄稿する。
山麓と口の宮 雪路を越えて頂上へ
横堂まで 山頂の探勝
木立をわけて河原宿へ 鳥の海へ
河原宿 吹浦を経て坂田へ
                行動記録を大正13年8月の項に記しました。 2014・12・10 保坂記
8月、「弘道 399号」に「◇論纂◇ 山岳と森林美  p61〜66 」を寄稿する。
8月23日〜24日、千葉県長生郡太東村、浜辺の松林でナガバノイシモチサウ・ホザキミミカキグサ等の食虫植物を見つける。
  一の宮(10時18分着)→松林の海岸(ナガバノイシモチサウ・ホザキミミカキグサ)→太東に近い椎木(泊)→太東→
   →(不明・調査要)
  妻・直子に宛てた「郵便はがき」より、尚、消印年が判読困難なため、再調査要 2015・5・8 保坂記
9月17日付 船で(午后0時少し過ぎ)下田着→下田城址公園→須崎→予定では船で熱海→帰京
海上平穏無事(略)船会社では特に優待して一等室に案内して呉れたので二人共大喜び、今日は船上から六七枚撮影した。着後 下田城址の公園に上り町を一と目に見乍ら涼風を浴びて昼食。これから此の附近にぶらぶらしてから小影が出来てから須崎に向う筈、存外暑くないのが何より/(略)
    注意 旅の目的が不明なため再調査要 2015・5・7 保坂記 妻・直子に宛てた「郵便はがき」より
12月、「雷鳥 創刊号」が「岐阜縣高等農林学校山岳部」から発刊される。
   研究資料 
同年、5月16日に行われた講演記録で、当日は数十枚の幻燈写真を使用しながら講演が行われました。又同行した槇有恒も
幻燈写真を使用し先年アイガーの東尾根から登られた情景等も紹介されました。
武田博士の講演記録(終りの部分)/大変時間も経ちましたから之で終わることに致しますが、最後に諸君に申し上げたいことは、高山植物は可憐なもので、殊に美しいものである。山へ登って研究のため之を摘んで見るのも興味はありますが可憐な高山植物の生活を考へてやらなければなりません。彼等の生活は千辛萬苦を積むものであって、雪や  氷や強い風と戦って居るのでありますから、それをいたづらに摘んで、凋なびたからとて棄てゝ丁ふ事は、いかにも可哀想でもあり、又貴重な品を無意識に失ふことゝもなります。されば高山植物を観賞し研究するのは宜しいが、本当に専門に研究する人以外は、成る可く摘まない様にし、十分にそれを保護して戴きたいものであります。
また創刊号の「編輯のをはり」に/「□ 武田博士、槇氏の講演は両氏を招聘して山岳講演会を開催したときの記録である。ご多忙の折も顧みず校閲をお願ひ致しました。」とありました。 資料 岐阜大学図書館所蔵より
1926 昭和元年
12月25日改元
43
1月31日付、妻・直子に宛て「郵便はがき」より、下高井郡安代温泉山口屋着を伝える。
2月1日付、妻・直子に宛て、投宿地の変更を伝える。
今日は朝から雪、予定の撮影はオヂャン、午前中は入浴とコタツ、午后から角間に引越し、来て見ればサハグ猿共は居ず それに越後屋の新別館に只二人だけおさまったので静寂)、(略)
     差出 一月丗一日 信州下高井郡平穏村角間温泉越後屋にて サイン
2月2日午後4時、角間より妻・直子に宛て、大町を経由して6日か7日頃の帰京を伝える。
     参考 「郵便はがき」の末尾の記述 (大町は松本の北、白馬に行く途中のまちなり)
2月、「山岳 第十九年第三号」に「地名の変遷・高山植物雑記(五)」を寄稿する。
  また、同号に「笹魚生」と云う名で「山岳漫言」が所収される。同頁内に博士撮影の「センブリ・タウヤクリンダウ」の写真も掲載される。
         注:「笹魚生」は、何方かは不明なため調査要 2018・7・28 保坂
3月、「科学を基礎とした文化生活 第6編」に「霜柱の新しい観察 P33〜44」を寄稿する。
  
科学を基礎とした文化生活 Y 

  扉 所蔵 静岡大学図書館浜松分館(旧制浜松高等工業学校 )
=冬の自然美の一面=霜柱の出来るまで=枯草に生ずる霜柱の美=擬氷翼を生ずる植物
(略)霜柱の生成には、可成面倒な條件が必要である。氷點以下の気温、氷點以上の地温、過不及なき水の滲出、この三拍子が揃はないとうまく行かない。されば寒気の激し過ぎる西南地方の平地、乃至海岸に近い砂地等には霜柱は出来ない。併し上記の三要件が具備すれば、必ずしも土でなくてもよい。その一例は近ごろ氣象臺の藤原博士が注意されたやうに、瓦片の上にも霜柱は出来る。尤も瓦の破れた小口が、丁度よく多孔質で、それが内部に適度の水分が保有されたのではないといけないから、これは土の場合のやうに比較的普通の出来事ではない。
 ここに今一つ特筆する価値ある霜柱が、冬の山野に人知れず形成される。それは枯草の茎に出来る特異のもので、草の一株を庭前に植えて置けば、たやすくその奇観に接することが出来る。/枯草に生ずる霜柱は、枯莖の下端から横向きに出来るもので、概ね茎の四隅に向かって平板状をなすために、一見翼のやうにも見える。それで、私はこれに「氷翼へうよく」といふ名稱を與へたのである。氷翼の形成を子細に観察すると、これを二種に別ち得る(一)氷翼の出来るにも、前記の三條件が具備しなければならない、所で今氣温が氷點以下に下ったとする、水分を含むものは土や瓦片でなくて、枯莖である。然るにある特殊の植物では、地上にある茎は枯死しても、地下の根は生気にみち、地中から盛んに水分を吸収し、これを根壓(こんあつ)によって茎に押し上げる。水分は導管といふ毛よりも細い管をつたって上ってくるが、枯れ莖に入
(一種)




シモバシラ(ユキヨセサウ)
イヌヤマハクカ・
ヒキオコシ・テンニンサウ
フイリヨメナ・ミカヘリサウ
アキテウジ・
イヌヤマハクカの類似のもの
(二種)




アザミの一種・ヨモギ
オカトラノヲ。ヤマボクチ
ミズヒキグサ
  表 (保坂 仮作成)
ってはその頂に達せずに空しく茎の下部縦一二寸の間に沿うて滲み出す。そして茎の側面に凍りついたものが即ち氷翼なのである。/最初莖側一寸の間に縦に氷の線が出来たとする。然るに水はなほ下からついて滲出する。そこで更に凍る。それが引きつゞいて行はれる間に、初めの線は徐々に側方に茎を直角の位置を取って板のやうに、また翼のやうになって突き出すのである。氷翼は最初は重に莖の四隅に出る。温度の影響や水分の供給の状態によっては、翼(よく)は平板状をなさないで、波状になったり、屈曲して弧状になったりする。その他半圓形を呈することもあって、可なり不規則である。時には氷翼の根元も氷に張りつめられて、茎が何處から出てゐるか、わからないこともある。それに、よく検査しようとすれは、とかく折れやすく、また體温のために溶けるので、観察がしにくいこともある。(略)
(二)第二種のものは、根まで枯死した草の茎で、たゞ割合に水を含み易いために晝間それが
※2簇立(ぞくりつ)する地中から水を吸収して充分の濕氣をたもつものが、夜間寒冷にあって茎の外部に近い部分に小規模の氷翼をつくる。最初は莖の内部や根元の方にふくまれた水分が、繊維を傳ってにじみ出すらしいが、遂に寒気が内部に侵入して、莖の中心までこと(ぐ)く結氷してしまふやうになる。そのために水分が過多であれば、莖は膨張して、恰(あたか)もラッキョウのやうな形にさへなり、莖内の肉は支離滅裂、皮膚は通例縦にさけてしまふ。/尤も前段に記した氷翼植物でも、再三再四氷翼が形成される内、莖はさけて繊維が三四本に分かれることがあり、ために翼の数は三乃至七八個も莖の周囲に形成されることがある。この第二種のものでは、水分は下からつゞいて間断なく供給されることがないから、翼は極はめて短く貧弱である。そして幾重にも内部に重なり合ふやうに出来るのが、第一種のものと著るしく異なる所である。されば若し厳密にいへば、これは「擬氷翼」とでもいふ名で、第一種の眞正のものから分かつがよろしかろう。/擬氷翼を生ずる植物は、私が今まで見たものは(略)五種であるが、冬季山野を跋渉して観察をおこたらなかったら、更に幾つかをこの表に追加することが出来ようと思ふ。本文の初めに、普通の霜柱が二段三段になることを述べた。氷翼もまた霜柱と同様に晝間溶けて消えるが、時に気温の関係で、溶け去らない時は、二段になることも稀ではない。
     ※1 滲出(しんしゅつ):にじみでること。  ※2 簇立(ぞくりつ):群がり集まって立つこと
   
注 編輯の方針か、他編も含め写真や図表が組み込まれていなかったので注意願います。 2017・8・17 保坂
       国会図書館の蔵書(pid/961271)は欠頁になっていたため内容の確認が不能 2017・4・26→ 
         記載確認→2017・7(静岡大学図書館浜松分館所蔵本にて解決)  保坂

3月、天狗山(八ヶ岳の北側)に於いて、「早春のしゃくなげ」と題した写真撮影を行う。
                        
高山植物写真図聚 P130」より 登山記録については検討要
3月、中山太郎が「土俗私考」を「坂本書店出版部」から刊行する。武田家所蔵本
4月6日朝、吾妻山麓の川上温泉より、妻・直子に宛て近況を伝える。
   土湯温泉→川上温泉→男沼(ヲヌマ)→川上温泉(泊)→女沼(メヌマ)→微温湯(ヌルユ)温泉(泊)
4月7日朝、吾妻山麓 微温湯(ヌルユ)より、妻・直子に宛て近況を伝える。
昨六日(略)軟雪になやみしのみ途中撮影し乍ら午后二時半当温泉着、高湯迄行く予定なしもあまり気に入ったので一泊と定め小憩の上 吾妻富士の麓迄登り夕方帰着、ヌル湯は温度低けれどもその量甚だ多く一種の瀧となりて浴槽に流入する有様奇なり、今日は風あれど快晴なれど又も登山を試みよく下山出来れば高湯に向ひ時間遅くなれ一泊するやも知れず、高湯より先の行動未定なれど同地に一二泊の(略)
この時、吾妻山系、一切経山に於いて、「春の訪れ 其一」と題した写真撮影を行う。
                   「高山植物写真図聚2 No250」より 
4月20日、「霧の旅 第17至19号 大菩薩連嶺号」(ガリ版刷)に「大菩薩峠雑筆」を寄稿する。       注 国会図書館所蔵原本と発行年確認済 2014・10・9 保坂
  本文のタイトル名と執筆者名
  
晩秋の大菩薩行 石川孟範  大菩薩峠雑感 小池新二
丹波大菩薩路 岩井三郎  麻生山・権現山 河田
大菩薩峠雑感 加藤清直  大菩薩連嶺の思ひ出 松井幹雄
大菩薩峠雑筆 理学博士 武田久吉  滝子山と長峯 長坂徳男
大菩薩峠に就いて 中里介山  春の大倉高丸 −茅屋根禮讃− 加藤留五郎
黒岳・大峠・雁ヶ腹摺山・姥子山 松本善二  武州御嶽山より大菩薩へ  吉田直吉
黒岳山から大峠 松井幹雄  秋の小金沢山を越えて 加藤留五郎
黒岳行     河田驕@  思出のまゝに 久野政雄
雁ヶ腹摺山と眞木沢   河田驕@  大菩薩嶺誌 松井幹雄
多摩川上流の旅 加藤清直  ・
大菩薩連嶺の印象(一)河田驕E(二)松井幹雄・(三)根岸欣二・(四)田沢昌介・(五)石川孟範・(六)生島春男・(七)石以忠一郎・(八)山崎金次郎・(九)田尻春男・(十)小高秀一・(十一)野口水○・(十二)岩井三郎
5月、「科学を基礎とした文化生活 第5編」に「征服か服従か」を寄稿する。
     枝元長夫編 「科学を基礎とした文化生活」の一覧     発行所 大阪毎日新聞・東京日日新聞社
科学を基礎とした文化生活 第一編 T11・8 山岳趣味
参考 水質を判定する標式植物/三好学
Pid/961266
            第二編 T12・3 冬の登山 Pid/961267
 第三編 Pid/961268
 第四編 Pid/961269
 第五編 T14・5 征服か服従か Pid/961270
 第六編 T15・3 霜柱の新しい観察 Pid/961271
     発行月不明なため再調査要 2017・4・29 保坂→2018・2・2 調査済 保坂
         参考 横浜開港資料館 No596 枝元長夫が返却された原稿「富士越し龍と笠富士−富岳に現れる雲の研究−」報告があり
           武田久吉宛(T11・6・20付)の封筒有 掲載名不明のため調査要 2017・8・18 保坂 

5月20日、中里介山が「大菩薩峠の巻終り」で多摩河原の月見草についての所見を記す。

   (略)介山は、大正十五年六月二十日の「大菩薩峠の巻終り」の項で、武田先生への反駁を次の様に書いているから面白い。「山岳通の某博士の指摘には、あの時代多摩河原には月見草なし(中略)、と指摘して笑われる様子なるが、著者はあの場合、月見草を以て最も情景にふさわしき植物なりと信じて用い訂正を試みず、時としては大胆に、時としては謹慎に科学を超越することは、この種の小説に於ては許さるべきものなり、云々」と、新聞小説欄に五十行にわたって書かれたのを見ましたが、微細な科学者の観点と、情緒的に扱われる小説家の観点の異いが、まことに顕著にあらわれているのに興味を感じました。(略)
                      あしなか 武田久吉先生追悼号 山崎金次郎著「霧の旅の頃」より
5月、「植物研究雑誌3巻4号」に「八重咲ニナツタおほばなのえんれいさう(圏入) 寄稿する。
6月、「庭園 8巻6号通巻70号 日本庭園協会」に「秩父山塊の自然美」を寄稿する。pid/1547230
6月15日、兄栄太郎が結核性の腹膜炎で亡くなる。
(享年46歳・墓地はオクラホマ州ポニー)
6月25日、「山 甲斐山岳会発行 第二年第二号」に「小武川上流のフジアザミとオホビランジの写真を掲載する。」
      また、
同号に石原初太郎が「ブロッケンの怪異」を寄稿する。
6月27日〜28日、日川渓谷の山々を歩く。
     妻・直子への「郵便はがき」では、田野温泉石黒館(泊)、嵯峨塩(予定・泊)を記述する。
     花を写すに大分時間かゝり景徳院の裏の山でキミカゲソウ(和名 スズラン)を見つけ・・・」と 
7月、八ヶ岳に於いて、「森林限界・をさばぐさ・みやまぐるま・ごぜたちばな・きばなのあつもりそう・おほばたけしまらん・くろゆり」の写真撮影を行う。
          「高山植物写真図聚1 高山植物写真図聚2 NO263」より 登山記録については検討要
7月、「植物研究雑誌3巻6号」に「やましゃくやくトベにばなやましゃくやく(圖入) 寄稿する。
    また、同号に 牧野冨太カが「總総無射田ノ食蟲草數年ヲ出ズシテ滅盡セン乎」を寄稿する。
7月5日付、山梨縣内務部宛、日川渓谷濫伐禁止についての書簡を送る。
書簡の概略
(略)
最近になって、この谷両岸の森林を十ヶ年計画で皆伐する案が、山梨縣山林課で計画され、已にそれが、実行されてから本年は三ヶ年目であるといふ。これは普通の施業案以外に更に伐木するもので、全部で三十万石とかに見積られた木材を、年々払下げて、幾町歩づゝかを次から次へと伐って行くのである。
 私はその惨害(森林にとって)の甚しいことを耳にはして居たが、近頃それを目睹するに及んで、この暴挙を黙視するに忍びず、七月五日付を以て山梨縣内務部宛に忠言を発した。その内容は、日川渓谷と大菩薩連嶺主部との価値(単に山林としてヾなく、風景、植物学、史的方面に亘り)から述べ、僅々十五か二十万の金の為めにこれを破壊し去るよりは、その真価を発揮せしめて、一の山林公園として開発し、日本に類例のない施設をなした方が小にしては山梨県の為め、大にしては国家の為めであるといふ意味であった。
(略) 
                 
山岳 第二十年第二号」に「日川渓谷の濫伐と保護運動より
7月13日〜17日付、「山梨日々新聞」に、
   「永遠に失はれんとする日川谷を救へ 大菩薩公園の計画を提唱す 【一】〜【五】」を連載する。
  
    所蔵山梨県立図書館 山梨日々新聞 大正十五年七月十三日付
新聞記事(一)の全文
 過ぐる初夏のある日、笛吹川を下って来ての帰るさ、恵林寺を訪うて、あの広い境内に、小半時も佇むで居たことがある。夕暮れ近い静寂の中に、昔を偲ぶ旅人の心を時折かき乱すは、寺内を過ぎ行く里人の足音である。フト目を挙げてその人を見やれば。彼は敬虔なる態度で、信玄公の墳塋に黙礼を捧げて居るではないか自然美にあこがれて、甲斐の片田舎を旅する時、賤民が伏屋にも、信玄公の一軸を掛けて、古英雄としてのみでなく、懐かしき国主として、欣慕する甲州人の心を思ふ時、誰かその厚い人情美に、深い印象を、心の奥に溶けずに居られようか。/機山公に対する毀誉褒貶は、歴史家に委せて置く。私は唯、州
民が崇敬し得る国主、英雄を、假令過去に於いてでも有する甲州人は、精神的に幸だと思はざるを得ない。/日川の中流、田野村の一角に、主従尽く滅亡した勝頼公の悲壮な最後は如何。敵として且つ恐れ且つ敬した家康は、景徳院を起さしめ加之永代の茶湯料をさへ寄進したではないか。又田野より上ること里余、木賊村にある天目山栖雲寺は、由緒古く又武田家との縁故甚だ深いことは、甲州人として知らぬ者は一人もあるまい。(勝頼の終焉については、大正十二年六月発行の『学芸』第四十巻第五百一号に、拙文が揚げてある、ついて見れない度い)。/然るにこの甲州随一の史跡たる景徳院や栖雲寺の現状果たして如何?殊に栖雲寺の如きは、堂宇傾き庫裏は寒風の吹き荒むに委せ甲州人に愛郷の精神ありや否やをさへ疑はしめるのではないか。又初鹿野の停車場にも附近にかゝる名所のあることさへ指示した立札がない。    山岳 第二十年第二号」に「日川渓谷の濫伐と保護運動」より
7月31日、「山岳 第二十年第一号」に「仙元峠附近・高山植物雑記(六)・川上の天狗山」を寄稿する。
雑報
〇大菩薩連山の伐木/山岳會から反對運動(全文)
 最近登山熱の勃興に伴ひ本縣に於ける大菩薩連嶺が全國の登山家から注目されて來たと、同時に植物學方面から見て大正十二年九月一日の大地震で破壊された丹澤山に代るべきは此の地より外に無しと推賞されてゐる折柄、縣當局は大森林をこのまゝに放置するのは寶の持ち腐れで遺憾として十ヶ年計畫を以て伐木事業を開始せんとしてゐる。これを聞き知った日本山岳會に其人ありと知られた同會評議員理學博士武田久吉氏が五日付縣當局へきつい抗議を申込んで來た武田博士の縣へ送って來た文書に曰く

前略、東京における山岳研究團霧の旅會の如きは今春大菩薩連嶺號を發行して世に紹介せんとした此の歴史的地理的に興味深い地を植物學方面から見ると一層価値あり針葉樹としては富士山から御坂山地を通じ奥秩父まで分布するいらもみは中部日本の特産ともいふべく其の樹種の絶滅を防ぐべき価値あるはいふまでもなく又からまつの野生があることも注目されてゐる闊葉樹ではいぬぶなはしどいひろはあしぼそうりのきふじさくら其他特筆すべきものあり珍稀植物産は大局から見て問題ないとしても景勝地としての大菩薩連嶺は価値頗る大なるものあり殊に老年期の渓谷として日川谷の如き稀有のものである。東には大菩薩の主脈を西には支脈を中部以下は美しい闊葉樹林に、又上部は針葉林におほはれ四季の眺めに適してゐる此の谷の上流には蜘蛛の淵、素麺淵などあり下流には有名な龍門の瀧あり両岸に茂れる密林には時鳥、郭公、慈悲心鳥の聲が響き清流の魚類と河鹿の聲また得難くきみかげさう、あつもり草の珍花は人々の目を慰める更らに栗の大木あることにおいては本邦に珍らしく秋季遊客を喜ばすに充分である殊に初鹿野驛から田野木賊を経て上流に至る間は甲斐の史蹟としてそれこそ忘れられぬ景徳院、片手斬、天目山などあり、嵯峨鹽温泉までは林道も通じ上下八里の大菩薩に昔の旅人を偲びつゝ遺蹟を探るは最も有意義である。山梨は富士山麓の開發に全力を注ぎ、一面御嶽の紹介にも努めてゐる折柄更らに此の地の樹林伐採を為すが如きは以ての外で彼の大震災に丹澤山塊を完全に破壊された今日此の地の残れるは多幸で此の渓谷美を經てし史的背景を緯として天下にあまねく紹介するこそ山梨縣永遠の策である。
といふにある。
〇甲斐山岳會も呼應反對せん(全文)
 別項大菩薩峠における縣の伐木事業に對する日本山岳會の反對については本縣の甲斐山岳會にも反對運動を依頼して來たものゝ如く、同會の野々垣幹事は語る「日本山岳會の武田氏は有名な人で明治卅六七年頃小島烏水氏等と日本山岳會を興した山岳方面で五本の指に折られる人です。殊に植物學においては山岳黨の第一人者で、常に日川上流大菩薩峠の荒廢については憂慮され、今回縣が大に伐り倒す計畫を憤慨されてきのふも博士から手紙を頂きました。」と。
 未だ計畫だけ(全文)
 右につき縣當局は「同方向で伐採せんとして ゐるのは約四百町歩で、日川流域の材積は針葉樹二十二萬石闊葉樹十二萬石であり、計畫は樹てゝゐるが伐採に着手してゐない。」と語った。(大正十五年七月十日時事新報山梨報)

 参考 同号に掲載されている圖版の一覧(頁省略・掲載順)
甲武信嶽より八ヶ岳及小川山を望む 冠岩附近より廣河原谷を距てゝ蕎麦粒山と仙元峠の北面を望む 笠山の肩より見たる白石峠、川木澤ノ頭及び丸山
甲武信嶽より見たる三寶山 蕎麦粒山絶頂 劔ノ峯より川木澤ノ頭、大野峠及び丸山を望む
三寶山の森林 日向澤頭より長尾ノ丸、槇ノ尾山、棒ノ折レ山、・・・・・・ 劔ノ峯より堂平山及笠山を望む
甲武信嶽の森林 惣岳山北背の木立 大野峠ノ頭より高篠峠、川木澤ノ頭及堂平山を望む
金峯山より見たるミズガキ山 横篶尾根北端より仙元峠頂上と蕎麦粒山を望む シラビソ・オホシラビソ
千丈頭より金峯山及朝日嶽を望む 日向澤峯より南に川苔山を望む シラビソの枝
千丈頭より見たる甲武信嶽及び三寶山 横篶尾根北端より鳥屋戸山の脈を距てゝ川苔山を望む オホシラビソの枝
飛龍山より白岩山及雲取山を望む 足毛谷の岩峯 オホシラビソの毬果
タラヒゴヤ附近より川乗山及舟井戸山を望む 桂谷の落ち口 オホシラビソの獨立樹
タラヒゴヤより舟井戸、大田和、高指山及御前山を望む 廣河原谷の平 西御荷鉾山頂の不動尊石像 武田久吉
スダレ東北面の樹林 武田久吉 棚澤附近より仰げる筑摩山、高指山及び焼多忙山 道祖神峠より西に東西御荷鉾山を望む 武田久吉
天目峯より望める西谷山とスダレ 武田久吉 棒ノ折レ 南より見たる乾徳山
仙元峠より三ドッケと天祖山(白戸山)及雲取山の遠望 武田久吉 澤井惣岳山頂より石茸石山、馬佛山、黒山及び棒ノ折レ山を望む 裏より見たる乾徳山
仙元峠頂上と蕎麦粒山の西南面 武田久吉 吊シ橋より下流を見る 浅間峠(仙元峠)頂上
蕎麦粒山絶頂より仙元峠頂上、三ドッケ、瀧谷山、スダレ及太平山を望む 大丹波川吊シ橋の淵 乾徳山頂上
日向澤頭より望める蕎麦粒山、三ドッケと横篶尾根、瀧谷山・・ 側面より見たる獅子口巖 天狗山より望める小倉山
冠岩附近より三ドッケ、スダレ、大平山の北面を望む 獅子口巖の正面 木賊峠より瑞牆山を望む
8月「山岳 第二十年第二号」に「日川渓谷の濫伐と保護運動・牛奥山の雁ヶ腹摺について・登山の効果とその活用・高山植物雑記(七)」を寄稿する。
  また、同号の図版に、レンゲイハヤナビ(武田久吉撮影)・ネモトシャクナギ(岡田喜一)・シラタマノキとゴゼンタチバナ(武田久吉撮影)・シラネアフヒ(武田久吉撮影)が掲載される。
資料ー1 「登山の効果とその活用から末尾の部分
(略)わか国土の大部分を占める山林の開発利用の如きはその一例で、単に伐採、製材、製炭のみが唯一の方法ではない。本邦の風景を構成する根底的な要素は実に森林である、されば土地によってはその方面から開発と保護を講究することを怠ってはならない。
 山岳美の一大要素は森林美である。針葉樹林の壮、落葉樹林の麗は、敢て一々の樹種を知らないでも、登山者が容易に観察し得ることではないか。その山岳美に憧憬を抱いて山に登るといふ人達が、何岳を征服したとか、某山を踏破したとかいふ、子供らしい誇りで何足するだけでは、無意義と評する外ない。登山によって、自然からめぐまれた効果を活用することは、むしろ登山家の責務であって、山岳美の開発保護には特に意を注ぐべきである。殊に官憲や事業家が方針を誤って、山川を荒廃せしむる場合の如きは、愛国の念に燃ゆる登山家は、その反省を促して国土の保安に尽すが至当なことで、他を顧みずしてよいものではあるまい。殊に自らが山地を荒すに至っては言語道断である。

8月、上河内(上高地)に於いて、「おほうばゆり」の写真撮影を行う。
            「高山植物写真図聚P97」より 登山記録については検討要 
                    注 カミコウチについては旧来より、上河内の文字が使用されていたと云うことです。保坂記
8月5日付、「松本市内浅間 西 石川方」より妻・直子に宛て手紙を投函する。
(略)今朝の新聞によると 三日夕東京方面に激震があった由、様子不明なので心配して居ります、然し家は別段被害なかったことゝ思ひますが/如何ですか、植木鉢がころんで三ツ四ツは こはれた位で○めば(おりこう)こちらは一向気がつかなかったが松本の町では感じた由、講義も無事終了、ガッカリしたので/チト休養を欲する位、ところがいよ)/山登りが 始まるといふので 今日種々打合せ会などをやって居る由 天候不/良となったので測候所に問合せて見ると明日は先づ雨の見込の由、それで一日出発を延期、一同却って喜んだ位、小生は 明日午后 書記を従へて一と足先に島々シマシマに向ひ そこに一泊して その翌朝 一向が来るを/待ち受け山にかゝる筈、浅間に帰るは 天候順調でも十一日頃と/なるべし、どうも今年は天候不順/頗る乱調子なので閉口、/(略) 
                     参考 [PDF]大正15年8月3日羽田沖地震の新聞による調査
9月、「文部省検定済中等植物新教科書」を「積善館」より刊行する。
注 発行年の記載のない「理学博士 武田久吉著 中等植物新教科書教授資料」も刊行される。/旧制中学校の一、二年生が使用した植物教科書で、以後数回の改訂が加えられながら昭和十二、三年頃迄使用されていた。
9月、八ヶ岳硫黄岳(頂上・西部含)・赤岩ノ頭の西部林内、約2250〜2700mに於いてハイマツの生態調査を行う。 「続原色日本高山植物図鑑」より
9月、鳳凰山に於いて「ほうわうしゃじん 学名 Adenophora howozana,TAKEDA 」また、田邊和雄が八ヶ嶽に於いて「ひめしゃじん 学名 Adenophora nikoensis,FRANCH.et ASV.forma genuina,TAKEDA 」の写真撮影を行う。「高山植物写真図聚」より 登山記録については検討要
資料@ 一一 ほうわうしゃじん(自然大) 鳳凰山   一九二六年/武田久吉撮影
 甲斐の鳳凰山は古来有名な高山で、また、一時は賽者の登るもの踵を接し、俚人崇敬の的でもあったが、登山家の足跡を印することは比較的少なく、従って山上の荒された程度も亦甚しくないのは幸である。
 山岳会は組織され、登山熱は当時の識者間に漸く勃興しかけた明治二十九年(一九〇六年)八月、最初の鳳凰登山を試みられた述本工学博士は、多数の高山植物と共にシャジンの一種を持ち帰られた。未だ蕾の固いこの植物は遽にその本質を顯
(あらわ)さうとしないので、約二週間を経て私は親しく同山に躋(のぼ)って開花したものを尋ね、後これが学界未知の一種なることを確かめたので、新たに命けて鳳凰沙參と呼ぶことにしたのである。その後両三囘の鳳凰登山や、またこの附近の高山探検の結果、この植物は鳳凰山(廣意の)に特産するもので、目と鼻の間に峙(そばだ)つ甲斐駒にも、假令地質を同くするにせよ、見られないことが判ったのである。(略)
                       
「高山植物写真図聚1 P10〜11」より
資料A 「民俗と植物」から「白井博士と不老長寿の薬」より
(略)
白井先生は元来大層御丈夫のようで、大病をされたことなどを全く耳にしたことがない。大正十五年の九月、甲斐の鳳凰山に登っての帰途、雨に降られて小武川奥の青木鉱泉に泊まったところが、物好きな湯宿の親爺は紙を展べ墨をすって、私に何か記念に書いてくれんとせがんで止まなかった。そして今までの投宿者に頼んで書いて貰ったものなどを出して見せたが、その中には大町桂月の都々逸(どどいつ)めいたものや、白井先生の和歌などもあって、先生のは朝鮮五葉の自生地を探検のために、この年の夏野呂川の奥あたりを跋渉(ばっしょう)されて、青木湯に下られる前後に、鳳凰山中で野営された時の状を、咏ぜられたものであった。それがちょうど御逝去の六年ほど前のことであるから、先生六十四歳の頃で、普通の都会人なら、こんな年齢で高山深谷の跋渉や高寒の地の野臥りのごときは、思いも寄らないことであろう。(以下省略)
9月、精進湖畔より富士山にかかる笠雲や小御嶽神社の神苑を撮影する。
9月、青木ヶ原にある風穴附近の森林を撮影する。
9月、富士・精進口三合目上のコメツガ林やシラビソの稚樹を撮影する。
9月、
富士・精進口三合五勺附近の森林および四合目下の風害跡地に立つシラビソの若木を撮影する。
9月、富士・大平山焼野のサウシカンバ林を撮影する
9月、富士山に於いて「横吹附近の植生・みやまはんのき・みやまをとこよもぎ・こけもも・おんたで・みやまよもぎ・めいげつさう」等、景観的な写真撮影を行う。
                     高山植物写真図聚2 No314 320 322 327 
9月10日、精進湖畔から笠雲の出来る過程を連続写真5枚に現す。
精進湖畔から笠雲 五  写真の説明文(全文)から
 同日同所にて、山頂山腹の雲も濃厚となり笠とマントを併せ着用したやうになったが、山麓に結びつ消えつして居た「山かつら」も遂に濃厚となって、大室山頂をも全く隠してしまった。この後数時間にして雲は消えなんとしてはまた勢を盛り返し、午後三時頃に至るも依然同様なことを繰返したが、全く消滅もせず、また完全な笠にもならなかった。(武田久吉)          「日本地理大系別館5 P271」より
9月19日、「日本山岳会第三十三回小集会」が、麹町区紀尾井町清水谷皆香園で開かれ、山口成一、松井幹雄、山田応水、岡田喜一、松本善三、武田久吉、高頭仁兵衛等、木暮理太郎等三十九名と会員外の来会者十一名が参加する。
        大雪山の近況  岡田喜一     蓬越より三国峠まで  松本善二

9月24日、「最新科学講座 1 国民図書 第一回配本」に「高山植物(植物学)」を寄稿する。
                  
(資料提供 2013・10・25 国立天文台・天文情報センタ・アーカイブ室)
11月5日、「山岳第十三年第一号」に寄稿した、「日光山の瀑布」の謄写(別刷)を行う。
 
 所蔵 宇都宮大学附属図書館
日光山の瀑布/序説
(略)
日光山の案内記中、華厳、裏見を始め五六の名のある瀑布を紹介し、時には其の他の著名ならぬものゝ名を揚ぐるものはあっても、通例は其の位置や順路を示さないで、(略)大正六年秋、ある動機から、日光山中の瀑布の数、位置等を知りたいと思ひ立ったが、さて據所とすべき図書に乏しく、又従前里人から聞き知った名称や位置も、尚ほ研究の余地が大分あり到底参考の資料となるものを編む事の不可能であるのを悟ったが、幸ひ同好諸君から貴重な材料を賜はったのに勇気を得て、基本的調査の結果を一と纏にして、本書の余白を汚すことゝする。(以下略)
参考
 
父、アーネスト・サトウはアダムス、ワーグマンと共に「日光案内」の旅を、明治5年3月13日から3月22日にかけて行い、横浜の極東新聞に紹介しました。 
                
注 内容未確認のため検討要 2015・3・15 保坂
澤・川筋名 瀑布名 澤・川筋名 瀑布名
一、板穴川筋 一、霧降ノ瀑
二、丁子ノ瀑
三、粘澤ノ瀑(又華魁瀑)
四、玉簾ノ瀑(又眞闇瀑)
五、胎内ノ瀑
六、空(カラ)瀑


十、大谷川筋 二十四、素麺ノ瀑
二十五、清瀑
二十六、旭瀑
二十七、阿含ノ瀑
二十八、白雲ノ瀑
二十九、涅槃ノ瀑
三十、華厳ノ瀑
三十一、十二瀑
二、鳴澤筋 細薙ノ瀑 十一、御澤(オサワ)筋 三十二、梵字ノ瀑
三、赤澤筋 大瀑(又不動ノ瀑)


十二、湯川筋 三十三、龍頭ノ瀑
三十四、龍雲ノ瀑
三十五、湯瀑
四、稲荷川筋 九、雲竜ノ瀑
十、初見ノ瀑
十一、七瀑
十三、外山澤(トヤマサワ)筋 三十六、緑ノ瀑
三十七
庵(いほり)ノ瀑

五、天狗澤筋  十二、白絲ノ瀑
(又龍ノ尾ノ瀑、又素麺瀑)
十四、冷澤筋 三十八、美彌来(ミヤコ)ノ瀑

六、根取川筋 十三相生ノ瀑
(又白絲ノ瀑、又素麺瀑)
十五、柳澤筋 三十九、赤岩ノ瀑(又西ノ瀑)
七、田母澤筋 十四、寂光七瀑(又布引瀑)
十五、羽黒ノ瀑(又一ノ瀑)
十六、人工ノ瀑 四十、按摩ノ瀑
四十一、白髪ノ瀑
八、荒澤筋 十六、裏見ノ瀑、附相生、白絲ノ瀑
十七、日月ノ瀑
十八、初音ノ瀑
十九、慈観ノ瀑
二十、唐瀑
二十一、紀伊坂ノ瀑
十七、其他の瀑 四十二、滑川(ナメリガワ)ノ瀑
四十三、瀧頭ノ瀑
四十四、三界ノ瀑



九、深澤筋 二十二、方等ノ瀑
二十三、般若ノ瀑
昭和16年の追加 赤澤筋の小瀑
日光湯川の小瀧
「十七、其他の瀑」の項の終わりの部分
(前中略)尚筆を擱(お)くに当って一言すべきは、本篇執筆中往々疑念を生じた場合には、日光警察暑長外山正彦氏に照会して、或は記録の蒐集成は実査を煩はしたことが少ない。氏の其の都度之を快諾して有力な材料を供給し、殊に霧降瀑の上流を探る為め昨年十一月七日探険隊を組織し、写真師を従へて山中に分け入り、貴重なる結果を得て之を盡く供給された。本篇中同方面の記事が在来の地図や案内記に勝って詳密なるは一に同氏の好意によるのである。尚其の他種々忠言を与へられた好意と労力とに対して深く感謝の意を表する。氏に実査の際、名瀑の道路が荒廃して居ることを慨嘆され、日光町の関係者に謀って之を修理し、観瀑の便を計る考であると言はれるから、後来の遊子は多大の便宜を得ることゝ信ずる。尚日光日揄@住職中里昌競師は、種々有益な材料を供給されたり、或は雲龍ノ瀑の得難き写真を送られた事に対して、深く感謝する処である。
 本編は大正七年十二月発行「山岳」第十三年第一号に登載せられしものより謄写したものなり
                            大正十五年十一月五日    審雨生


  山と渓谷社 昭和十六年八月刊行、「日光と尾瀬」から「日光山の瀑布」の中の追加の部分より
  日光湯川の小瀧(全文)
     
記の拙文に追加す可きものとして、「山岳」第十三年第三号に、八代準氏が湯川の小瀑の
      記事を寄せられたので、爰(ここ)にその全文を転載する。(武田

 『山岳』十三年第一号の武田久吉君の詳細なる日光山の瀑布と云ふ記事に一小瀑布を追加しよう。湯川筋の湯瀑の下流二三丁のところに小瀧と云ふのがあると豫て聞いて居ったが行って見なかった。大正七年の夏外山澤(トヤマサワ)より千手(センジュ)の方に遊びに行って熊窪より龍頭ノ瀧に出て、湯川に沿って遡り湿地の葦原をガサガサやって、泉門より湯元道に向ふ小径が湯川を渡る點に来ると、立派な林道が湯川に沿って切開いてあるのを発見した。この林道は大正六年の秋開いたと云ふ話である。清く静かに流るゝ湯川を左に見て青葉瀘の光線を浴みながら土の軟き林道を踏むのは何とも云へぬよい心地である。此の様な感じのするところは先づ上河内の或部分の他には得られまいかと僕は思ふ。暫く進むと林道が急に右に曲り坂を登る。登るとすぐ左に目の下に木立の間から小瀧を望むことが出来る。湯川が幅一ぱいに瀑になって居るので、落差は七八尺くらいであるが、ホースシューになって瀑の様に水が落ちて居る。瀑の上流川筋の渦紋が青葉濾の光線で緑にゆらぐ態は、此の瀑の美観を増す一つだと思ふ。此の林道を尚二三丁進むと湯瀑下の茶屋のすぐ横手にでる。此の道には紅葉が澤山あるから秋は川筋が錦に燃える事だらうと思ふ。
11月26日〜30日、初冬の富士の裾野を訪う。
→大月(2時52分着)→吉田着いたのは五時ちょっと前着、月があかるく雪の積もった富士を照し美しい、朝食後月明かりを頼りに二里余の道を山中湖に向ふ、六時半富士の頂上に日があたり雪が紅に染って何とも言へぬ光景、それも二十分程で日の光も強くなり雪を白く光る そこで裾野に三脚を立てし二三枚撮影、日が上るにつれて大分温くなったが水槽には氷がはり道路や落葉には霜が白い)→山中湖→内野→忍草→吉田(吉田に戻ったのが三時半、疲労と空腹を癒す為めウドン屋で休憩、四時半の馬車で)→河口湖・船津→勝山→鳴沢村大田和・吉田屋(泊)→青木ヶ原の一部→天神峠(長尾峠)の茶屋(泊)→人穴 →上井(泊)→白糸瀑・頼朝の下馬桜→大宮→帰京                   11月28日付 妻直子に宛てた手紙より
11月、富士・鳴沢村西南方の西ゼツトウから西北方向に向け附近の森林を撮影する。「別巻5 富士山」より
11月、富士・精進口一合目、長尾平のカラマツを撮影する。「別巻5 富士山」より
11月27日、忍野村内野地区に残るハリモミを撮影する。
「別巻5 富士山」より
11月、山中笑、柳田国男の配慮により「
炉辺叢書 甲斐の落葉」が「郷土研究社」から刊行される。
12月、澤田五倍子(四郎)が「性の表徴(1)無花果」を「坂本書店」から刊行する。  武田家所蔵本
   注 鈴木重光、描写の道祖神のスケッチ四枚を所収する。また、付録には3枚の写真版道祖神を所収する。
1927 昭和2年 44
1月、八ヶ岳に於いて、題名「厳冬の森林限界・厳冬の裏山・初冬の硫黄嶽・厳冬のしろしゃくなげ」の写真撮影を行う。「高山植物写真図聚」より登山記録については検討要
1月、「山岳 第二十年第三号」に「飯豊山に登る・飯豊山の開基と変遷・シラブと霧氷」を寄稿する。
樹につく氷の主類と成因
霧氷 霧が凍りついた霧氷。(略)霧氷は風によって吹きつけられた霧が、枝葉や岩石に凍りつくのであるから、風上に向って堆積し、一方のみに發育するから、時には枝の一側に薄く旗の様に附着して、奇観を呈することがある。それに反して、無風又は風向が一定しない場合には霧は霧は幹や枝の四周について、太さが増大する結果となる。(略)
雨氷 雨水が凍りついた雨氷
雪氷 積もった雪がそのまゝりついた雪氷
   同号、図版に8枚の写真を掲載する。 武田久吉氏撮影、グラビア写真のタイトル名 注意:便宜上の頁数です
8頁上 会津口御澤附近に於ける大白布川
136頁上 イハイテフ及びモミヂカラマツと混生せるハクサンイチゲ並びにハクサンコザクラ(御西附近)
8頁下 越後口飯豊川の不動瀑
136頁下 ヨツバシホガマとミヤマキンポウゲ ヒメアカバナ等の群生せる湿性御花圃(切合附近) 
128頁上 チングルマの大群落(草履塚下にて) 144頁上 ウサギギクとミヤマリンダウ(大日岳)
128頁下 果実を著けたチングルマ(切合) 144頁下 ミヤマウスユキサウ
    注意 「山への足跡」では「飯豊山に登る」の寄稿号を第二号として記載がありました。2013・11・15 保坂記→原本と確認済・誤植
1月、穴山→赤岳鉱泉(零下8度)→峯ノ松目へ登る。 「回想の冬山」より
2月、「実際園芸 第3巻第2号」に「高山植物の栽培とロックガーデン」を寄稿する。
                      撮影大正12年6月
      
  英国故ウエスト博士邸内のロックガーデン 箱根の故辻村氏邸内の高山園の一部(玄関前) 同佐 満開のアルサイネ、リニフロア
4月、「婦人之友 21巻4号号」に「醫學と科學 難かしい子供の理科ヘ育」を寄稿する。
   また、同号に尾崎行雄が「或る日の日誌」を寄稿する。
4月13日〜20日、伊豆大島、泉津の「サクラ株」や「行者窟」を見物する。
 岡田村で雨に降り込められること二日、昨日はヤット快晴となったので桜株や行者を見物して泉津といふ村に一泊、今日を半晴半曇、泉津を立って元村といふに来り中食、多分二十日、夜着京にて帰れる思ふ
 
                              4月17日付、妻、直子に宛てた「郵便はがき」より
5月31日付、伊勢・朝熊山に登る。
5月27日 東京→車中(泊)
5月28日 車中→岐阜→(昼食)→学機(大講堂にて3時間の講演)→入浴後、市内で歓迎会→岐阜(泊)
            
※学機 場所と講演内容不明のため再調査要 2015・5・10 保坂記 
5月29日 岐阜・朝7時6分発→草津→石部・美松(ウツクシマツ→鳥羽(泊)
5月30日 鳥羽→(船)→大王崎→(不明・途中から徒歩)→朝熊山・とうふや(泊)
5月31日 とうふや→伊勢神宮→湯ノ山→→(泊)
6月1日 (不明・調査要 )→(泊)
6月2日 (不明・調査要)→(泊)
6月3日 →帰京
            参考 とうふや 1964(昭和39年)2月18日 火災で店舗を焼失・廃業
               5月29日・31日付、妻・直子に宛てた「絵はがき」より
6月6日〜20日、田村剛(途中ケガで下山)、山口成一、小林實営林局員の4名で3回目の尾瀬へ、尾根の残雪に「紅雪(下等の単細胞藻)」を確認する。「春の尾瀬」より
資料@ 春の尾瀬 (紅雪が記されている箇所)
(前略)
倉黄南を指して下り始め、瀑ノ澤と景鶴澤との間に斗出する尾根迄達した頃、天候は再び恢復の微を示した。そうなると例によって気がゆるんで来るから、木蔭に休んで残雪に夏蜜柑と砂糖を入れて最後の享楽を試みた。
 この尾根には残雪の諸所に、暗紅色の斑点を認めた。帰途にはその雪を採集し、東京迄携へ帰って検鏡した結果、推測には違はず、下等の単細胞藻に因る「紅雪」であることが確かめられた。紅雪は欧州アルプスや極地に知られる現象で、本邦でも今迄に伊吹山だの日本アルプスに起ったことがあるが、そうザラに見られるものではない。桧枝岐の老人中紅い雪の降った話をする者があるといふから、同地にも亦絶無といふ訳でないらしい。融雪前の尾瀬附近を詳しく調査したら、意外にも諸所に発見出来るかも知れないと思はれる。
(後略)
              「尾瀬と鬼怒沼 春の尾瀬 P272〜273 発行 昭和5年8月10日」より
この時、トカチヤナギを始めて尾瀬で見る。 1962・May 「植物方言思いつくまま」より
資料A 登山春夏秋冬
(略)今年の初夏には尾瀬に遊び、ブナや落葉松の新緑の下に、咲き乱れる山荷葉(さんかよう)や白根葵の花をめで、燧(ひうち)、至仏(しぶつ)、景鶴の三山もみな残雪を足場としたから、登攀(とうはん)もっとも困難と言われる景鶴すら、意外に簡単な登降を行うことができた。燧のごときも平素人の登らぬ最高点に達し、利根川奥から越後境の連山を、ゆるゆる眺嘱(ちょうしょく)しえたのも雪のおかげであった。同様に登路皆無の至仏山も、大部分は尾根を上下して、しかも短時間に遂行するの僥倖(ぎょうこう)を得た。そしてそこから眺めた四周の山も、みな残雪豊かな膚を碧空に浮ばせて、初夏の強い陽に輝いていたのは嬉しかった。(略)
              昭和2年 「太陽」八月号 登山春夏秋冬」より
注 同行した、営林局員の名前が、「自然保護NGO 半世紀のあゆみ P5」では小林定と記載あり、誤りか? 検討要 2017・2・14 保坂
6月、尾瀬に於いて、「みずばせう・きればさんかえふ・ふいりみづばせう・しらねあふひの蕾」の写真撮影を行う。
                             
「高山植物写真図聚1高山植物写真図聚2 No260 291」より  
 
 みずばせう

 「高山植物写真図聚1 No47−P36」

さんかえふ
「高山植物写真図聚1 No138ーP96」

   資料 6・12日付、妻・直子に宛てた「郵便書簡・平信 裏面 六月十一日朝 長蔵小屋にて認む」とありました。 保坂記
参考資料ーA 第二回目の電源開発計画を耳にしたのは
→大正十二年四月の項より・続き)私が尾瀬と水電の悶着を始めて耳にしたのは、大正十三年の事であったが、第二回目は昭和二年この設計変更願に関連してであって、この時は最初の許可の時の様に、出願以後福島県庁の許可がスラスラとは進まず、一応現地調査の上でという事になり、風景の立場と植物の方面からというので、田村剛博士と私とがそれに当ることを委嘱された。その時の報告書は、そのままを東京営林局から印刷に附されて関係方面に配られ、又同じ版を用いてではあるが『仙境尾瀬の景観』の題をつけて、大日本山林会から発売されたから、世間に之を知る人は少なくはあるまいと考へる。  昭和25・6山と渓谷 No133 「尾瀬ヶ原の回顧と水電問題」より
7月26日から29日、刈田嶽(蔵王山系)で高山植物調査を行う。
東京→(・・席を占拠して可なりよく眠れた。今朝五時半宮城野信夫で有名なシロイシに着)→大河原→(自動車)→遠苅田温泉→峩々温泉(泊)→峩々温泉又は青根温泉(泊)→帰京かは不明のため再調査要 2015・5・2 保坂記)
     天気は半晴 曇 然し 雨の模様なし、サツマは半々美味しかった、 桃も同様、
     忘れ物一つ・・・・・写真の時計、
(茶箪笥のところにあり・・・・
     送って貰ふ 訳にも行かず、 
 只今 七十七度  7月27日 朝八時 遠刈田温泉にて 妻直子に宛てた手紙より
この時(刈田嶽(蔵王山系)、「あをのつがざくら・みやまくろうすご」の写真撮影を行う。「高山植物写真図聚」より 
8月、「登山春夏秋冬」を「太陽」に寄稿する。後年、「植物学談義 昭和53年9月 学生社」にも掲載される。
7月・8月、「科学画報 9巻1・2号」に「富士の御中道と精進口の原始林」を寄稿する。
 富岳礼讃  大沢へ 13  小御岳附近の森林
 大願成就  大沢 14  精進口の新道
 季節と行程  御庭に向う 15  四合目を経て
 中畑六合まで 10  天狗の庭 16  一合目迄
 宝永山 11  小御岳へ 17  長尾峠
 表口五合目附近 12  小御岳 18  精進まで
  注意 昭和6年に刊行された、「日本地理大系 別巻5 富士山」へ博士と共に記した小林義秀は、「富士山科学研究の略史」の中で昭和2年に
   「科学画報」へ掲載していることを述べています。 国会図書館に同号がなかったため最終確認ができませんでした。 保坂

  注意 東雲館保管B21−1 に科学画報 S・2・8 の表記あり8月号か? 確認要 2016・3・25 保坂記
    「山への足跡」では大正12年7・8月と表示あったが巻番号から昭和2年と換算して再表記しました。 2017.4.20 保坂記
8月、乗鞍嶽に於いて、「はひまつ」の写真撮影を行う。      「高山植物写真図聚P5」より登山記録については検討要
8月、御嶽に於いて、「阿波ヶ嶽の御花畑・おほへうたんぼく・くもまぐさ・うらじろなゝかまど」の写真撮影を行う。
                          
「高山植物写真図聚」より 登山記録については検討
8月、西駒ヶ嶽に於いて、「えぞにう」の写真撮影を行う。 「高山植物写真図聚2 No277」より登山記録については検討要
8月、木曽駒ヶ岳に於いて、「ひめいはしょうぶ・せりばしほがまの群落・だけかんば・みやまはなごけ・ひめうすゆきさう・はひまつ・つまとりさう・濃ヶ池附近の斜面・はくさんばうふう・あらしぐさ・駒ヶ池附近の斜面・よつばしほがまとみやまりんどう・はくせんなづな・ちしまぎきゃう・はゝきょもぎ・最高点」の写真撮影を行う。

                                 「高山植物写真図聚」より
 登山記録については検討

8月、八ヶ嶽に於いて、「たかねなでしこ」の写真撮影を行う。   
「高山植物写真図聚P12」より登山記録については検討要
9月、八ヶ嶽に於いて、「くろうすご・ながみくろうすご V,axillare,var.obovoideum,TAKED・こまがたけすぐり・こけもも」の写真撮影を行う。「高山植物写真図聚1 高山植物写真図聚2 No283より登山記録については検討要
8月21日から9月3日まで、信州八ヶ岳赤嶽鉱泉より木曾方面の高山植物調査を行う。
8月21日 八ヶ岳赤嶽鉱泉(発)→→?(不明・泊)
22日 ?(発)→→木曾駒ヶ岳山頂小屋(泊)
23日 木曾駒ヶ岳山頂小屋(発)→→木曾駒ヶ岳山頂小屋(泊)
24日 木曾駒ヶ岳山頂小屋(発)→→木曾駒ヶ岳山頂小屋(泊)
25日 木曾駒ヶ岳山頂小屋(発)→→木曾駒ヶ岳山頂小屋(泊)
26日 木曾駒ヶ岳山頂小屋(発)→上松(泊
27日 上松(発)→→御嶽山中(泊)
28日 御嶽山中(発)→→御嶽山中(泊)
29日 御嶽山中(発)→→(飛騨側に下山)→→嶽ノ湯(濁川温泉)(泊)
30日 嶽ノ湯(濁川温泉)(発)→胡桃島→宮ノ前→鳥居峠→上ヶ洞(泊)
(略)御嶽は不景気の故に登山道者の数少なく山中至って静にて大層落付きたる氣分になり得しも意外に候。濁川温泉は山の湯として正に第一流の極印を押すも苦しからず附近にある(糸+兆)ノ瀑等の瀑布と密林は如何にも見事にて、目道り直徑一米に餘るタウヒの巨木を初めテウセンゴエフ(即ちホンゴエフ)やヒメコマツ(學者の言ふゴエフマツ)の生育状態ヒノキの純林等吾の目を喜ばすもの少なからず、木曾の森林の見事なるに驚き居りしも今は昔の夢となり候様覚え候。(略)(九月四日信州八ヶ岳赤嶽鑛泉にて 武田久吉)
      (糸+兆)漢字変換不能  
S3・10 「山岳 22年1号」雑報より   
31日 上ヶ洞(発)→→乗鞍岳頂上(泊)
9月1日 乗鞍岳頂上(発)→→乗鞍岳八合目(泊)
2日 乗鞍岳八合目(発)→信州側番所原→奈川渡→(自働車)→島々→(自働車)→上諏訪(泊)
3日 上諏訪(発)→→八ヶ岳赤嶽鉱泉(泊)
      注意  文中から想定してコースを記述しましたが2日分が不明なため山日記等で日程の再調査要 2017.6.8 保坂
               尚、大正11年8月の木曽登山では上松に宿泊していたので、参考地として、書き加えて見ました。
               根拠 S3・10 「山岳 22年1号」雑報より作成しました。
9月13日付、妻・直子に宛て、長雨が続く煩悶を書き記す。差出元 信州諏訪郡原村 高橋丑蔵才 久吉サイン
 参考 登山記録はないが、イワウ岳、横岳、御岳、木曽駒ヶ岳の記述があり、縞枯山の登頂については不明 再調査要 2015・5・10 保坂記
9月、「山岳 第二十一年第三号」に「第二回修正版地形図「山中湖」に就て」を寄稿する。
10月2日〜3日付、「東京朝日新聞」に「日本にも自生するテウセンマツ(一)〜(三)」を寄稿する。                 「テウセンマツ(三)」については内容確認要 2017・3・17 保坂記
10月、「山岳 第二十二年第一号 奥羽号 二  」に「岩手山御苗代付近の地形について・八甲田高山植物圓設置に関する卑見・滝谷温泉の復活・高山植物雑記」を寄稿する。
 
  表紙 ミチノクコザクラ 
   武田久吉筆 「山岳 第二十二年第一号」より


「山岳 第二十二年第一号 奥羽号二」 
  表 題  筆 者 写真の掲載枚数
八甲田山の思ひ出 舘脇操  6
八甲田山植物瞥見
 ライントランセクト法による植物調査
舘脇操 17 
岩手山御苗代附近の地形について 武田久吉  2
岩手山 舘脇操 12
早池峰山紀行 岡田喜一  5
朝日連峰の縦走 安齋徹  8
注 掲載された写真は八甲田山と岩手山関連のもので、これ以外の項にも8枚が納められています。  2014・7・31 保坂記 
    同号、図版に48枚の写真を掲載する。 武田久吉氏撮影、グラビア写真のタイトル名 注意:便宜上の頁数です
4頁上 一 酸ヶ湯の南蔦仰げる八甲田大岳 64頁下 三十 長沼に於ける沼沢植物ヨシ・サハギキャウ・ミツガシハ等(背景は高田大岳)
4頁下  荒川の上流より右岸の植物景と東北に八甲田大岳を望む 64頁上 三十一 八甲田山大岳谷地周辺ノ一部 オホシラビソ・ナゝカマドとその下生のサゝ 
8頁上  谷地温泉上手路傍にて積雪の為め斜生せるハウチハカヘデ及びホゝノキ等 68頁上 三十二 八甲田大岳頂上北面にてミヤマハンノキ・ハヒマツ・ガンカウランの混生。少量のチングルマをも見る・
8頁下  谷地温泉上手路傍の乾燥地に群生せるオホバシヨリマ 68頁下 三十三 八甲田大岳頂上北面にて放射谷の源頭に沿ひてナナカマド・オホシラビソ等がハヒマツ帯に突入する状  附近の斜面にはハヒマツに混じてチングルマ多し
12頁上 五 蔦道小柴森附近のブナ林 (前景は林緑に生ぜるサハガク。林内の下生は主にシラネワラビ) 72頁上 三十四 高田谷地にてキンカウクワ・ミヅギク・ミタケスゲ・ナガホノシロワレモカウ等よりなる湿原
12頁下 六 蔦湯沼沿岸の小湿原を囲むケヤマハンノキとサウシカンバの林 前景はヤマドリゼンマイ・アブラガヤ等 72頁下 三十五 高田谷地にて湿原の周縁に於ける乾生植物の侵入
16頁上 七 通天橋附近蔦川右岸の森林の一部 カツラ(左方)、ベニイタヤ(右方の三本)、ヤマモミヂ(横枝)等 76頁上 三十六 高田谷地内の小隆地に生ぜる樹叢。 ミネカヘデ・オホシラビソ・ナゝカマド・シロシャクナギ・イヌツゲ・ウラジロヤウラク・クロウスゴ等草原地にはナガホノシロワレモカウ多く又レンゲツゝジ・ミヅバセウあり池畔水中にはミツガシハ生ず
76頁下 三十七 高田谷地の一部にてミズバセウ・オホバシヨリマ・アカモノに混じてシラタマノキ・ミネカヘデ・エゾヌカボ(?)等の生ぜる特殊地
16頁下 八 通天橋附近蔦川右岸の森林の一部 ブナ(左方)、アサダ(斜幹)、ハウチハカヘデ、トチ、ヤマモミヂ、ミヅナラ(稚樹)、ヲシダ(右方)、ジュウモンジシダ等 80頁上 三十八 睡蓮沼と高田大岳
20頁 九 谷地温泉の西南猿倉の下方沿道約八五〇米の地点にて湿潤地乾燥して植生に変化を及ぼせる状態 80頁下 三十九 睡蓮沼附近の乾燥せる湿原の水路に沿ひてミズバセウ・サハギキャウ残留し、乾燥地にミヤマヤナギの侵入
24頁上  八甲田大岳南面の放射谷に沿ひてオホシラビソ・ナゝカマド・ミヤマハンノキ・サウシカンバ等がハヒマツ帯に突入する状態 遠景は八甲田小岳 84頁上 (以下図番号なし)コバノイスランドゴケと混じて匍匐する短小矮生のミャマヤナギ(東岩手妙高岳北背の火口原にて)
24頁下 十一 八甲田大岳梯子登りの灌木林 樹下の草木はエンレイサウ・サンカエフ・クマヰノデ・ミヤマメシダ等  84頁下 イハスゲとイハギキヤウ(東岩手妙高岳北背の火口原にて)
28頁上 十二 ウラジロヤウロク(大岳谷地にて) 88頁上 東岩手薬師ヶ岳直下の火口原にて裸地に植民せるハヒマツ・イハスゲ・イハブクロ・シモフリゴケ等
28頁下 十三 井戸湯沼に面せる裸地に植民するシラタマノキ・ガンカウラン・コメゝスキとイワウゴケ 88頁下 東岩手薬師ヶ岳直下の火口原に植民するシモフリゴケ・イハブクロ・イハスゲ・タカネスミレ・イハウメ・イハテハタザホ等
32頁上 十四 桜沼附近にてハヒマツに混じて生ぜるチシマザクラ 92頁上 東岩手薬師ヶ岳より下瞰したる西岩手(御釜・御苗代・御花圃・大地獄・黒岩等)
32頁下 十五 桜沼附近の湿生斜面に生ぜるアヲノツガザクラ(左右二・二米前後一米高さ0.3米)) 92頁下 東岩手西腹約1800米より西岩手(御苗代等)を距てゝ黒岩・姥倉及び三ツ石・小畚・源太ヶ岳・大深岳・嶮岨森・諸檜岳南肩の遠望
36頁上 十六 八甲田大岳背面中腹の松島(背景は井戸岳) チングルマ・ヒナザクラ・アヲンツザクラ・ハクサンバウフウ・シロシャクナギ・ハヒマツ・オホシラビソ等を生ず 96頁下 東岩手西腹約1700米より鬼ヶ城(南面の外輪壁)の一部を見る(右手の樹林はサウシカンバ)
36頁下 十七 赤倉岳南面に於ける湿原に生ぜるハヒマツの甲折 周囲にミネズハウ・ミネハリヰ・イハイテフ・チングルマ・ヒナザクラ等あり 96頁上 西岩手第一火口原の東に続く森林の内部(オホシラビソとサウシカンバ、(下生は主としてヲガラバナ)
40頁上 十八 赤倉沼 100頁上 御花圃(西岩手第一火口原)と屏風ヶ岳(西岩手外輪壁)の一部 右手の突起は米倉(?)
40頁下 十九 赤倉沼上方の湿性御花畑 主にイハイテフとヒナザクラ 100頁下 西岩手賽ノ磧附近より大地獄谷の右岸を見る (遠くオホシラビソが、その前にはサウシカンバの林、ネマガリダケの群落と前面にはハヒマツの叢生するに注意)
44頁上 二十 赤倉沼上方火口東南壁に於てハヒマツ・ナゝナカマド・サゝ 近景は草原に侵入せるハヒマツ 104頁下 西岩手第二火口原より東岩手を仰ぐ
44頁下 二十一 赤倉沼上方の湿性御花畑が中性草原に変じ更にハヒマツの侵入を蒙る有様 チングルマ群落内にハクサンバウフウ・ビバウシユ・イハノガリヤス等侵入し更にミヤマヤナギ・サゝ・ハヒマツの侵入となる  104頁上 御釜より仰げる岩手山頂(東岩手)
48頁下 二十二 八甲田大岳谷地に於けるヒメワタスゲ(北海道以外に未だ見ざりしもの) 108頁上 西岩手第二火口原の湿地に於てシモツリゴケ・ハナゴケに混じてキンカウクワ・オヤマノリンダウ・ヒナザクラ・ムシトリスミレ・シロバナタウウチサウ・チングルマ・イハカゞミ・シロバナニガナ・アカモノ・ガンカウラン等の生ぜるもの
48頁上 二十三 八甲田大岳谷地に於けるヤチスゲ 108頁下 西岩手第二火口原の湿地にてシモフリゴケに囲まれたる小区域内にガンカウラン・ミネズハウ・アカモノ・チングルマ・イハカゞミ・ヤチカハヅスゲ・キンカウクワ・オトギリサウ・シロバナニガナ等竝びにオホシラビソの稚樹の生ぜるもの
52頁上 二十四 八甲田山大岳谷地の小水界に生ぜるヌマハリヰ(沼沢植物群落) 112頁上 御苗代の一部(背後は屏風ヶ岳の一部)
52頁下 二十五 甲田山大岳谷地に於て小瀦水滅水して沼沢植物ヒメホタルヰの群落中にイハイテフの侵入せる状態(湿原への先駆)  112頁下 御苗代東岸の小湿原を囲む森林(前に低きはミヤマヤナギ・ナゝナカマド・ミヤマハンノキ 背後はサウシカンバにして中景に二三のオホシラビソを交ふ)
56頁上 二十六 八甲田山大岳谷地に於て水界が湿原への運用を開始し沼沢植物滅退してイハイテフにホソカウガヒゼキシヤウ及びヒナザクラの侵入せるもの 156頁上 岩手山御瀑澤(雫石御神坂)より薄暮駒形山・笊森・乳頭・三角山・高倉山・小高倉山等を望む・
56頁下 二十七 八甲田山大岳谷地に於て水界が湿原への運用を示す 乾燥の為イハイテフ減少しヒナザクラとホソカウガヒゼキシヤウの混生せる状 156頁下 岩手山大地獄より丸森及び下倉を距てゝ畚岳・八幡平・茶臼岳・大黒森の遠望
60頁上 二十八 八甲田大岳谷地に於て小瀦水址に湿原要素の侵入 160頁上 八甲田石倉岳の岩上に地衣殊にUmbillicaria carollinianaの密生せる状  
60頁下 二十九 八甲田大岳谷地に於て湿原に侵入せるハヒマツとそれに続くサゝ 160頁下 上図の一部を更に廓大して示す
 記の記述は、図版に記された内容をそのまま記載しました。本当は、図版と一所に添えたいところですが、今回は省略させて戴きました。 図版の記述から、ライントランセクト法による植物調査、森林生態学のことなぞを、想像していただけると嬉しいです。 2015・4・29 保坂記
また、同号、「高山植物雑記」正誤の項で、前号に寄稿したレンゲイワヤナギ新称のことを、「私はタカネイハヤナギと新称する。」と記述する。
  参考 大正元年 米澤中学教諭の中村正雄が信州大蓮華山(オオレンゲザン)で発見、小泉源一氏に送り新種と考定され
       Salix nakamuranaの学名をつけ「植物學雑誌 27巻137號」に発表されました。

参考 高山植物雑記(一)〜(八)までの一覧表
高山植物雑記No 「山岳」巻号No 「山岳」 発行年月日 掲載の高山植物
(一) 13巻1号 大正7年12月 一、シラタマノキの學名  二、ミヤマウスユキサウ  三、アラカハワウギ
(二) 13巻2号 大正8年4月 四、恵那山のダウダンツ丶ジ  五、サギスゲとワタスゲ 六、シラネアフヒ
(三) 13巻3号 大正8年10月 七、ミネザクラ  八、チシマザクラ
(四) 19巻1号 大正14年5月 、イチヰ  九、シャクナギ  十、ヒメシャクナギ
(五) 19巻3号 大正15年2月 十一、 再度シャクナギ  十二、 タウヤクリンダウ  十三、ウサギギク
(六) 20巻1号 昭和元年7月 十四、シラビソとオホシラビソ
(七) 20巻2号 昭和元年8月 十五、レンゲイハヤナギ   十六、ネモトシャクナギ
(八・通番なし) 22巻1号 昭和2年10月 十六、石倉岳の地衣  十七、重ねてシャクナギに就いて
 また、同号に、大平晟が雑録欄に「シラネアフヒとシャクナギに就て」を寄稿、文中に(武田附記)欄を設け加筆する。  注意 シラネアフヒ(旧仮名つかい)→シラネアオイ
(武田附記)(略)今年初夏尾瀬長蔵小屋に栽培されたものでは、花被の外面にウズラ模様が紫と白とで朧氣乍ら染出され、内面は淡紫色であるのを見た。これはヤッヨ咲きたてであったから、後來更に變化するのか極めることは出来なかった。尾瀬では三平峠の南麓と、猫又川に沿うた小平地ー私が柳平と假稱した上河内の縮圖の様な所ーそれに景鶴山の南麓だとか、鳩待峠の北側に多かった。(略)
参考 「尾瀬地方の生物と移植についての研究」 S26.5 桧枝岐メモリアル D1−No50 内容未確認 2017.6.8 保坂
10月、京都帝大農学部講師。(至昭和14年3月)
11月、京都帝大に於いて植物景観に関する講義を行う。
資料 1927年11月、京都帝大に於いて武田博士の植物景観に関する講義が偶々懐かしの富士に及ぶや、私の心は遽(にわか)に躍動したのである。殊に青木ヶ原や精進口登山道や、小御嶽の景観など、私の見なれた景色が眼前に展開したときには全く夢心地で、斯かる大自然の神秘が、どうして今迄自分にその扉を開いてくれなかったのかと、訝(いぶか)らざるを得なかった。抑々此書を物するに到ったのは全く此時の感激に胚胎するのである。
                 
(「日本地理大系別巻富士山 小林義秀はしがき」より)
12月、富士山に於いて「雪を捉へたからまつ」と題した景観写真を撮影する。「高山植物写真図聚2 No317」より
12月、本栖湖畔から、富士山の上層部を撮影する。 「岳人181号 グラビア写真」より
○この年、本田正次が「植物学雑誌42巻485号」に「日本産禾木科植物考察 第十三報」を寄稿、「TAKEDA」と学名のついた、165)ゆうばりがにつり(Deschampsta Takedana,HONDA)についての所見を記す。
〇この年、国民図書が「最新科学講座 第1巻」を刊行、「海の植物」を寄稿する。
      注 所蔵 岐阜県図書館408/コ/1 8110857250 内容未確認のため 調査要 2017・4・11 保坂
1928 昭和3年 45 1月、山中湖の東北部に広がるハリモミの純林を撮影する。
1月23日、高指山・一本木より、富士山の上層部を撮影する。 「岳人181号 グラビア写真」より
2月、田村剛との共著、「尾瀬地方に於ける保護林と其の景観」を「東京営林局」から刊行する。
    尾瀬地方風景調査書 / 田村剛[著]  尾瀬地方植物調査報告 / 武田久吉[著]
   
尚、上書、「尾瀬地方に於ける保護林と其の景観」は同年4月発行の「仙境尾瀬の景観」と内容同じ 
     注意 昭和5年9月21日付、「東京朝日新聞 福島版」に見出し二段で尾瀬のことが掲載される。この記事の中で「尾瀬地方における保護林と
     その景観」についての論文は、武田博士か記述されたように記されてありました
 
     本論についての著作者については
 2013・10・19→2014・10・21 最終確認済  保坂記
2月25日、東京目黒・行人坂より富士山を撮影する。  「岳人181号 グラビア写真」より 
3月、「大日本山林会報 544号」に「山人の寐言  P 70〜75 」を寄稿する。
                後年、「植物学談義では「山人の言」 昭和53年9月 学生社」に所収される。
(略)仙境というものは、俗人が立ち入らないからさる状態を保存されていた地域なのであろう。それを俗世間に紹介し、宣伝し。俗衆を誘致しておきながら、俗化したとか破壊されたとか言って愁うるのは、一種の矛盾であろう。ことに交通の便、旅宿の贅に意を注いで、千客万来の看板を掲げた以上、俗化はむしろ最初の希望が叶ったと、施設者は大恐悦で、ひそかにほくそえむべきはずだのに、誰に気兼ねしてか、眉に皺する人もあるとか聞く。風景を開発、林道の開設など、登山家、旅行家、探勝家などにとって、有り難いことがそこここで行われる。しかし時には、いや往々にして、その真義を誤解し、方針をあやまるように見受けることが少なくない。近ごろ登山者が大分来るようになったからという理由で、親切にも密林を伐り拓き、山中に道路を付けてくださる営林署が諸方にある。ところがその林道なるものをだどって行くと、(略)
4月3日、田村剛との共著、「仙境尾瀬の景観」を「大日本山林会」から刊行する。
 
 仙境尾瀬の景観(表紙)
    
第二十三図 融雪期に於ける釜掘澤湿原 第二十八図 大江川下流沿岸に於ける 第二十七図 大江川下流とミズバセウ
(白色の花はミズバセウ)        ミズバセウとギヤウジヤニンニクの生育状態  遠景右手の山は皿伏山
  
  尾瀬沼保護林位置図(部分) (全体32.5×39p) 

参考
 左地図は「仙境の尾瀬」、奥付前頁に綴じてあった袋の中に収められてありました。保護林は福島県側の横茶色線に描かれた区域のみの指定で「尾瀬沼保護林」としてありました。
 また、この地図から「尾瀬沼保護林」とその周辺区域の保護ならびに、ダム建設計画がどのようなかたちで進められていたか当時を推察することができます。

 尚、ダム建設計画による変遷史は別に稿をつくり記載する予定です。
        2014・10・13 保坂記
 付: 他に 尾瀬地方地形図(1枚)もあり 未確認


 緒 言







 尾瀬地方は群馬・福島両県に跨る一帯の原始的林野地域にして、其の廣袤拾数萬町歩に亙り、尾瀬沼を中心としての神秘的風光は正に天下に冠たりと称するを得べく、又其の植生は世界的珍として世に誇るに足るべきものあり。
 本書は曩に田村、武田両博士が東京営林局の嘱託を受け、同局管内尾瀬地方に於ける風景美と其の植生とを調査研究せられたる報告書にして近来希覯の良書たり、乃ち本会は東京営林局に請ひて之が出版の許可を受け、弘く江湖に頒たんとするものなり。
 本書載する所の写真百二十五葉は総て田村・武田両博士の久しく撮影せられりものに係り、報文と併せて斯界に対し貴重なる資料たるを信ず。
 若し夫れ一度、本書を繙
(ひもと)かんか、尾瀬地方の眞景、忽然として眼前に彷彿たるものあるべく、之と同時に国宝とも称するべき該地方に於ける風景と植生とを保護愛撫するの念、湧起するあらば本書の出る亦徒爾たらざる可し。
          昭和三年三月   大日本山林会
 田村剛著
 尾瀬の風景
一、緒言
二、地理、地形、地質、気象及森林の概況
三、風景地としての特色
尾瀬沼及尾瀬原に於ける水力電気計画とその風景に及ぼす影響
 武田久吉著
 尾瀬の植物景観
一、緒言
二、地勢一般 (イ)尾瀬沼
         (ロ)小沼及び治右衛門池
         (ハ)尾瀬ヶ原
三、植物景観 (イ)尾瀬沼 A、水生竝に沼沢植物
                 B、湿原T 早稲沢湿原
                      U 釜掘沢湿原
                      V 奥沢湿原
                      W 大江川湿原
                      X 浅湖湿原
                      Y 大入洲湿原
                      Z 押出湿原
                      [ 雪崩湿原
                      \ 沼尻平湿原
                      ] 大清水平湿原
                 C、森林
         (ロ)小沼及び治右衛門池
         (ハ)沼尻尾瀬平間の森林と白砂湿原
         (ニ)尾瀬ヶ原 A、下田代
                  B、中田代
                  C、上田代
                  D、猫又川上流
四、注意すべき植物
一、チャウジギク(キク科)
二、アラゲヘウタンボク(忍冬科)
三、オニシホガマ(玄參科)
四、エゾムラサキ、(紫草科)
五、エゾリンダウ(龍膽科)
六、コミヤマリンダウ(同上)
七、オホサクラサウ(同上)
八、ヤナギトラノヲ(同上)
九、コツマトリサウ(同上)
尾瀬沼周辺の湿原及び尾瀬平に多し。(略)早田博士は、甞てこれを会津駒ヶ嶽に得られしと聞けど、予は同山中にてこの植物に逢着することなかりき。恐らく何等かの誤謬に基くものなるべし。(略)
十、ヒメツルコケモモ(躑躅科)
十一、エゾクロウスゴ(躑躅科)
十二、スギナモ(杉菜藻類)
十三、ヤナギアカバナ(柳葉菜科)
十四、オホタチスボスミレ(菫々菜科)
十五、ヤチスミレ一名ホバタチスボスミレ(同上)
十六、シロバナノスミレサイシン(同上)
十七、ベニバナミヤマカタバミ(酢漿草科)
十八、ノウガウイチゴ(薔薇科)
十九、チシマザクラ(同上)
二十、ナガバノマウセンゴケ(茅膏菜科)
二十一、エゾエンゴサク(罌粟科)
二十二、トガクシショウマ(小蘖科)
二十三、イトキンポウゲ(手莨科)
二十四、ネムロカハホネ(睡蓮科)

二十五、ヤチヤナギ(楊梅科)
二十六、トカチヤナギ(楊梅科)
二十七、キヌヤナギ(同上)
二十八、サハラン(蘭科)
二十九、コアニチドリ(蘭科)
三十、カキツバタ(鳶尾科)
三十一、ヒアフギアヤメ(同上)
三十二、キヌガササウ(百合科)
三十三、ミクリゼキシャウ(燈心草科)
三十四、ヲゼヌマスゲ(莎草科)
三十五、グレーンスゲ(同上)
三十六、オホカサスゲ(同上)
三十七、エゾアゼスゲ又ヒラギシスゲ(同上)
三十八、クロスゲ又 ホロムイスゲ(同上)
三十九、サドスゲ(同上)
四十、ヒロハノドゼウツナギ(禾本科)
四十一、ホロムイサウ又 エゾセキシャウ(芝菜科)
四十二、ヤチスギラン(石松科)
四十三、ミヅトクサ及びミヅスビナ(木賊科)
四十四、エゾフユノハナワラビ(瓶爾小草科)
四十五、ミヤマシダ(瓦葦科)
四十六、天狗ノ巣(菌類)
四十七、紅雪(藻類)
 紅雪は團藻科に属うる単細胞の藻なるchlamydomonas nivalisが雪上に繁殖して、雪に紅色を付与する現象にして、欧州アルプス及び極地方に知らる。本邦にては、稀に日本北アルプス等にて発見せらるることあるも、未だこれにつきての研究なし。尾瀬にては、景鶴山中腹にこれを検出したりしが、桧枝岐の古老中紅雪につきて語る者あると言へば、恐らく此の地方には、往々認めらるるものなるべし。融雪前の尾瀬平の雪も、所によりて紅褐色を呈することありと聞く、或は同一現象か。果たして然らば尾瀬地方は紅雪の研究地として適切なるを思はしむ。(この項は全文掲載)
結尾
 以上は、主として尾瀬沼四周及び尾瀬平の植物につきて記述したるものにして、燧嶽及び至仏山中腹以上の植物に言及することなし。この両山共に多くの高山植物を産し、中には珍奇なるもの少からず。加之その生育の状態等に関しても研究の価値ある問題多々あり。分類分布、生態等の方面より、この両山の精細なる研究を行はば、未知の事実を発見すること多かるべきは、僅に一両囘の登攀によりても、推測し得る処なり。
 本報告は主として肉眼的の植物につきて述べ、無花植物、殊に顕微鏡的の淡水藻類に言及せず。この方面の調査研究は、多くの時日を要すべきも、更に有意義なること論を俟たず。
 
4月20日、山中共古(笑)が「共古随筆」を刊行する。
6月、単身で、尾瀬を訪ねる。
資料 (略)、昭和三年六月、単身尾瀬を訪ねた時、沼田からその時分バスの終点であった鎌田に行って一泊、翌朝徒歩で尾瀬に向う途中、鎌田から一時間余りの土出つちいでの荒井あらひで、その(トカチヤナギ)中年樹一株を見出したのが、三平峠以南で見た最初であった。   1962・May 「植物方言思いつくまま」より
6月、「婦人之友 22巻6号」に「庭さま/武田久吉氏のお庭に咲く野生の花」が掲載される。
   また、同号に加藤武雄著「長篇小説 母の顏」が掲載される。
7月16日〜8月4日、樺太植物探検を行う。 「菅原繁蔵 樺太植物探検小史」より 
  
 指導:武田久吉 植物調査班:幸島春雄・大島卓司・小林義秀・丁野次男
 
  日程や調査の範囲が不明なため検討要→左のことについて、樺太演習林植物調査報告」に詳し、下表に記す 2015・11・24 解決済 保坂記
7月30日、樺太の京大演習林内でケヤマハンノキの連理の枝を発見する。
連理の枝」の発見
(略)次には昭和七月三十日、樺太の京大演習林内で、上蔵之助澤上流で、ケヤマハンノキのを見たし、翌々八月一日之を保存木とする為めに標本を立てることにした。(略)   「昭和14年7月発行・ドルメン 7月号 P35」より
参考:樺太植物調査の行程表
7月3日 京都出発以来旬日ニ亘ル東北及北海道地方ノ見学旅行ヲ終ヘテ
7月15日 泊岸演習林事務所に到着セル学生十二名ノ内我等四名ハ植物調査班ニ編入セラレ武田久吉博士ノ指導ノ下ニ演習林内及其附近ノ植物調査ニ従事シタリ。即チ七月十六日以後楠山作業所ヲ中心トシテ下記ノ如ク調査ヲ行ヒタリ。
7月16日 泊岸ヨリ楠山ニ至ル棧道附近ニ於テ採集
7月17日 楠山ヨリ古丹岸川岸ニ出デ楠橋付近ニテ採集
7月18日 楠澤畔ヲ遡リ別古走山麓針葉樹林内ニテ採集
7月19日 古丹岸川ヲ渡リ上内蔵之助澤下流ヲ経テ藤本川畔ニテ採集。藤本澤、古丹岸川合流点附近ヲ調査ス
7月20日 古丹岸川ニ沿テ焼干山ニ出デ更ニ泊岸海岸ニテ採集
7月21日 古丹岸川ヲ下リ軌道ニ沿ヒぐいまつ林内ニ入ル
7月22日 せき葉整理
7月23日 楠山作業所附近伐採跡地並ニえぞまつ・とどまつ混淆林内ヲ経テてい古丹岸川畔ニ出デ河原ノ植物ヲ採集
7月24日 古丹岸川ヲ下リ熊ノ澤ニ出デぐいまつ林内ヲ経テ弁慶澤附近採集。此日大島卓司ハ生態調査班ニ加入シテ別小走山頂ヲ極ム
7月25日 軌道ニ沿ヒ泊岸海岸ニ出デ古丹岸河口附近ニテ採集
7月26日 見晴台ヲ越ヘテ古丹岸川上流ニ出デとら川、きばらり川合流点附近ニテ採集。不動澤、藤本川ヲ経テ帰ル
7月27日 海岸軍道ヲ畝富内川ニ至リ之ヲ下リとどまつ林内ニテ採集シ内路ヲ経テ敷香泊
7月28日 幌内川ヲ遡リ中途敷香上流四里ノ地点ニテ左岸ツンドラ上ニテ採集。更ニ上流綱場附近ニテ採集
7月29日 敷香附近ニテ採集。夜演習林帰着
7月30日 上内蔵之助澤ニテ採集
7月31日 楠山ぐいまつ林内ヲ経テ電信線路ニ沿ヒ北行シ中途ヨリぐいまつ林内ヲ横断シテ泊岸ニ出デ帰ル
8月1日 上内蔵之助澤上流ニテ採集
8月2日 せき葉整理
8月3日 せき葉整理
8月4日 せき葉整理
掲載された図版写真No1〜No80の内訳   ◎印は武田博士の撮影
No1 楠山作業所ヨリ見タル別小走(Petkopashiri) No41 B◎ A  えぞのくろやなぎ胸高周囲3尺8寸
B◎ とかちやなぎ 胸高周囲4尺4寸
見晴台望楼ヨリ見タル別小走山 42 楠山ニテどろやなぎノ巨樹、胸高周囲14尺8寸
背後ノ二樹モ亦どろやなぎ
見晴台望楼ヨリ見タルとら川きばらり川合流点方面
山腹ノ針葉樹林ト河畔ノ闊葉樹林
43 えぞのくろやなぎノ樹皮
下生ハえぞいらくさ
見晴台ヨリ東望遥カニ楠山ノ台地ヲ望ム 44 古丹岸川河岸ノ沖積土ニ発芽シタルきぬやなぎ(多少ノをのへやなぎヲ混ズ)ノ甲拆(点々相交ハル小白斑ハ絹毛ヲ備ヘタルどろやなぎノ種子)
見晴らし台北肩えぞまつ、とどまつ混淆原生林 45 古丹岸川河畔ノ泥土上ニ立テルながはやなぎノ稚樹(少数ノきぬやなぎヲ混ズ)
とどまつノ間ニえどまつ稚樹ノ成立(×印とどまつノ枯木) 46 古丹岸河畔ノをのへやなぎ、きぬやなぎノ若木(背景ハどろやなぎ等ノ壮年樹)
えぞまつノ老木ノ間ニ立テルとどまつノ稚樹 47 楠山古丹岸川磧ニ生育セル
からふともめんづる、えぞよもぎ
えぞまつノ老木枯レテ生長旺盛トナレルとどまつ
(×えぞまつノ枯れ木)
48 楠山古丹岸川磧ニ生育セル
ぽろないぶき
倒木上ニ立テルえぞまつ(平滑種)ノWurzelsystem 49 河岸ニ迫レル洪積地ノ針葉樹ト沖積地ノ闊葉樹林
10 倒木上ニ立テルえぞまつ(平滑種)ノWurzelsystemト
えぞまつ稚樹ノ根ノ曝露
50 楠山古丹岸河岸ノ草原ト闊葉樹林
(背後の左方ニ立ツ巨樹ハえぞのくろやなぎニシテ胸高周囲8尺5分ヲ算セリ、 草原ニ見ルモノハえぞおほばせんきう、おにをたからかう、はんごんさう、よぶすまさう、よもぎ等)
11 根株ノ上ニ立テルえぞまつ 51 藤本澤畔ノ草原トさうしかんばノ孤立木
12 えぞまつ、とどまつ混淆林(上内蔵之助澤上流産地) 52 藤本澤畔伐採跡地草原
13 B◎ えぞまつノ樹皮ノ比較 A樹皮平滑ナルモノ  B普通ノ樹皮 53 はまはこべノ群落
14 A◎ あかとゞトあをとゞノ樹皮ノ比較 Aあかとゞ Bあをとゞ 54 はまべんけいさう
15 不動澤ニ於ケルえぞまつ、とどまつ混淆林 55 えぞをぐるま(ばれあきな)
16 楠澤上流ノえぞまつ、とどまつ混淆林 56 海岸崖地ニ生育スルみやまはんのき
17 常緑針葉樹林下ノふさすぎな(熊之澤)   57 海岸台地ぐいまつ林伐採跡地ノやなぎらんノ群落
18 常緑針葉樹林下倒木ノ上ニ立ツとがすぐり(楠山) 58 楠山伐採地跡地
19 樺太ニ於テあをとどまつト呼ブモノ
(Abies sachalinensis)ノ毬果(上蔵之助澤産)
59 楠山天然更新状態試験地ニ於ケル伐採跡地ニ立チタルえぞまつノ稚樹(伐採後11年)
20 樹皮平滑ナルえぞまつノ毬果 60 楠山伐採跡地ニ立チタルとどまつノ稚樹成立ノ状況(天然更新状態試験地)
21 とどまつノ毬果(一)  苞鱗ノ先端僅ニ突出シテ反巻セズ、藍黒色ニシテ鍼形ノ部分銀白色ノモノ毬果全体藍黒色ニシテ長サ 8p・径2 1/2p 61 伐採跡地ノりんねさう
22 とどまつノ毬果(二) 
 帯緑色、長サ7 1/2p・径2 1/2p
62 けやまはんのき林トさうしかんばノ巨樹(藤本川左岸)
(左方遠景ハ火災跡地)
23 焼干山ヨリ古丹岸川下流域ノ闊葉樹林ヲ隔テ丶熊之澤、弁慶澤、小野寺川ノ針葉樹林ヲ望ム 63 焼干山山火跡地やなぎらん、えぞいちごノ群落
24 熊之澤ノぐいまつ林相 64 藤本川中流やなぎ林ニえぞまつノ侵入
25 楠山境界附近ノぐいまつ林 65 楠山古丹岸川畔やなぎ林ニえぞまつノ混入
26 楠山伐採跡地ノぐいまつ林 66 六軒家沖積地やなぎノ枯死トえぞノ侵入
27 楠山電線路附近ノぐいまつトえぞまつ、とどまつ混淆林 67 楠山やなぎノ疎林地ニえぞまつノ侵入
28 楠山電線路附近ぐいまつ、えぞまつ、とどまつノ生育状態 68 別古走山麓山地急斜地ノ崩壊跡地ト河畔ノ闊葉樹林
29 楠山ぐいまつ林ノ下生やまどりぜんまいノ群落 69 幌内川流域(敷香ヲ距ル約四里)ノ植物景観)
30 みづごけノ間ニ立テルとなかいさう(熊之澤) 70 幌内川流域ノ植物景観 ぐいまつ、はひまつ
31 楠山伐採跡地ノほそばいそつゝじノ群落 71 敷香ツンドラ上ノ植物景観
 白く見ユルハみやまはなごけ、わらはなごけ
32 楠山ぐいまつ林の下生ほろむいいちご 72 敷香ツンドラ上ノ植物景観 ぐいまつ、はひまつ
33 古丹岸河畔六軒家ニ於ケル沖積地ノ針闊混淆林トえぞまつノ樹形(推定樹齢250年) 73 ぐいまつ、はひまつ及ビやちやなぎ
34 熊之澤附近しらかば林ニえぞまつノ侵入 74 みづごけノ間ヲ綴ル
 ほろむいいちご、こけもゝ、ひめしゃくなげ等
35 古丹岸川上流河畔ノやなぎ林トおほぶきノ群落 75 はひまつノ生ヘ具合(ポロナイ川上流約四里ノ地)
36 古丹岸川下流ノやなぎ林 76 やちやなぎノ群落
37 古丹岸川下流域やなぎ林
(えぞのくろやなぎ、をのへやなぎ等)
77 さぎすげノ群落
38 古丹岸川下流域やなぎ林
右方ノ巨幹ハえぞのくろやなぎ
78 ながばのまうせんごけノ群落
39 古丹岸川下流やなぎ林 下生ハえぞいらくさ 79 敷香郊外 
はひまつ、みやまはなごけ、がんかうらんノ群落
40 上内蔵之助澤流域
けやまはんのき、とかちやなぎ、をのへやなぎノ稚樹
80 敷香郊外ツンドラ上ノひめかんばノ群落
注 「昭和三年度京都帝国大学 樺太演習林植物調査報告 まえがき」部分より作成 調査報告については、昭和五年六月の項を参照願う。
8月5日、槇有恒との共著「山岳趣味」が「大阪毎日新聞社」から刊行される。
昭和三年六月二十二日、東京毎日講堂でおこなわれた講演の筆録(毎日叢書5)   内容未確認 2015・12・7 保坂記
8月、大雪山に於いて、「えぞおやまのゑんどう 果実」の写真撮影を行う。
               高山植物写真図聚2 NO240」より 登山記録については検討要
    注意 昭和26年5月21日付「妻直子に宛てた郵便はがき」に「ソーウン狭温泉に泊り」とありました 2015・4・5 保坂記
9月、富士山に於いて、「だけかんばとみやまはんのき」の写真撮影を行う。
               高山植物写真図聚2 NO315」より 登山記録については検討要
9月14日、大江明正が「昨夕現像の写真送付、尾瀬行きの準備の件」で「絵はがき」を送る。
               横浜開港資料館 久吉(書簡) 844より 内容未確認 2015・9・11
9月、「秋の尾瀬・鬼怒沼」を訪ねる。尾瀬の景観や湿原植物等の生態を詳細に紹介する。
   (同行者 山岳会員の大江君と京大の山本君 「秋の尾瀬」より
   上野→沼田→(自動車)→追貝・淀屋で休憩・吹割瀑→(自動車)→鎌田→土出(つちいで)・三松館(泊)→片品村戸倉→十二平→笠科川→鳩待峠→山ノ鼻小屋(泊)→柳平→尾瀬ヶ原→三條瀑→下田代・桧枝岐小屋(泊)→尾瀬沼→早稻沢→長蔵小屋(泊)→沼尻→燧ヶ嶽→沼尻→長蔵小屋(泊→尾瀬ヶ原再遊→長蔵小屋(泊)→大江湿原→小渕沢田代→鬼怒沼林道→鬼怒沼湿原→日光沢→八丁湯(泊)→夫婦渕→川俣温泉→西川金山跡→山王峠→日光湯ノ平(泊)→上京 「秋の尾瀬」より
「野菜と山菜」より(部分)
 (略)昭和の初めころ、尾瀬山ノ鼻の小屋にまだ番人のいない時分、幾日か滞在していた時、人夫は毎日汁の身(み)にいろいろな草を採ってきたが、「藤吉郎」という草の芽を食べさせたにはちょっと見当をつけかねた。木の下に生える草だからかく呼ぶのだと説明しながら、翌日現品を見せてくれたのを調べたら、もみじがさであった。『分類山村語彙』によると、越中東西礪波郡の山々では、この草をきのしたと呼ぶというし、美濃徳山あたりで藤吉郎といい、その葉を食いまた塩蔵するものがあるというのも、多分はこれであろう。東北地方ではこれをしどけ、しどき、またはすとけと称する。
 菊科の植物中には、無毒でしかも香気があり、したがって食用となるものが大分ある。うとぶきすなわちよぶすまそうのごときも、その尤なるものであろう。「うと」はうつろのことで、ふきの葉柄に比すれば、この草の茎が太い空洞であることからの名であろう。
(略) 植物学談義 「野菜と山菜」 P44〜P45より
9月、加藤東海が「旅と伝説 9月号 三元社」に「猿投山の伝説」を寄稿する。
9月、山中共古が「武蔵野 第十二巻第三號」に「石神の話」を寄稿する。
10月、「高山のもみじ」を「東京朝日」に寄稿する。後年、「植物学談義 昭和53年9月 学生社」にも掲載される。
12月17日付、京大農学部の小林義秀が博士宛てに、〔絵ハガキ〕(御親書・御写真受領の礼・今度の富士山行き同行断念の連絡)を送る。                           横浜開港資料館 久吉(書簡)No 953 より
12月、富士・大平山焼野のサウシカンバ林を撮影する。
12月、富士・奥庭下にてヒメコマツの樹皮を撮影する。
12月、富士山に於いて、「初冬の富士山腹、雪中のだけかんば」の写真撮影を行う。
               
高山植物写真図聚2 No313 316」より 登山記録については検討要
○この年、中井猛之進が、「植物学雑誌42巻494号」に「日鮮植物管見第三十五の解」を寄稿、856) あいぬがらしの項に、学名「TAKEDA」と記された所見を記す。
参考 856)あいぬがらし
 従来学名ニCardamine prorepens FISCHER f.valida TAKEDAヲ用ヰテ居タガCardamine prorepens FISCHER ハ茎モ低ク、茎葉ノ数モ少ク、葉ノ表面ト縁トニ毛ガアリ、(略)、花弁ハ長サ8−14ミリ(あいぬがらしノ花弁ハ4−7ミリ)、(略)同一種トスル事ハ出来ナイカラCardamine valida NAKAI トシテ区別した。武田久吉氏ノ最初ニ記載シタノハ北海道産デアッタガ之ニ先チテ矢部吉禎氏ハ信州白馬山麓デ採リ其レガ東大ノせき葉庫ニアルガ名ヲ附ケテナカッタガ小泉源一氏ハ之ニCardamine amaraeformis NAKAI?ド記シテ居ルガ(略)つけられたの学名の根拠については標本との再検討要  エゾワサビ 2015・3・8 保坂
○この年、本田正次が「植物学雑誌42巻495号」に「日本産禾本科植物考察第十五報」を寄稿、 186) きりしまのがりやす(新称)の項に、「TAKEDA」と学名の付いた、ひながりやす(Calamagrostis deschampsioides var.nana,TAKEDA)、きりしまのがりやすに就いての所見を記す。 
1929 昭和4年 46
1月、「婦人之友 23巻1号」に「進歩したと思ふこと 退歩したと思ふこと 」の回答を記す。
松波仁一カ ; 大内兵衞 ; 犬養毅 ; 與謝野晶子 ; 石川千代松 ; 宮田修 ; 石K忠悳 ; 小池重 ; 新居格 ; 武田久吉 ; 別所梅之助 ; 足立源一カ ; 小川未明 ; 杉村廣太カ ; 佐々城松榮 ; 今井邦子 ; 佐ヶ崎作三カ ; 吉岡彌生 ; 三輪壽壯 ; 守屋東 ; 千葉龜雄 ; 尾崎行雄 ; 小澤恒一 ; 帆足みゆき ; 長尾半平 ; 小林澄兄 ; 鷹野つぎ ; 齋藤勇 ; 中河幹子 ; 上司小劍 ; 沖野岩三カ ; 三輪田元道 ; 内田魯庵 ; 澤村眞 ; 左近義弼 ; 土田杏村 ; 大野隆コ ; 山有策 ; 田中龍夫 ; 中山昌樹 ; 權田保之助 ; 安部磯雄
2月下旬、川桁駅より麻耶鉄道に乗り換え、横向(温泉)でスキーを行う。
          注:S10・2発行の「山・食麺麭の目塗」、冒頭の文章にモウ五六年も前の話である。」と、記述がされていましたので、
            年表では昭和4年として換算しました。
 時期については再検討要 2016・6・3 保坂記
4月、橋浦泰雄が信州東筑摩郡下で石神、石仏調査を行う。
4月、富士・精進湖岸赤池に於ける青木ヶ原溶岩流の末端を撮影する。
5月、十田和湖の某氏から田村剛氏に宛てた書簡が「国立公園 5月号」に「十和田湖と三本木開墾事業」と題して
    掲載される。
また、同号に鈴木信太郎(山梨県知事)が「富士嶽麓風景施設」を寄稿する。
5月、生き物趣味の会編「アミーバ 1巻1号」に「やどりぎの宿主」を寄稿する。pid/1715910
6月、富士・精進口二合目附近のブナ林を撮影する。
6月、富士山に於いて、「かもめさう」を写真撮影する。
「高山植物写真図聚49−P38」より 登山記録については検討要
6月、尾瀬に於いて、「きればさんかえふ」を写真撮影する。
               
「高山植物写真図聚137−P95」より 登山記録については検討要
6月、白井光太郎が「岡書院」から「植物渡來考」を刊行する。
7月、「秋の尾瀬」を「改造 11巻7号」に寄稿する。
7月、「科学画報 第13巻第1号」に「富士の植物帯と高山植物」を寄稿する。
 山麓帯という名称は、山麓の高さや、山の位置によって、異同があって決して一定すべきものではない。又それは草原に限る様に考へるのは本多博士の言はるる通り、全くの僻論と称するの外はない。そして斯かる名称は己に学界から葬り去られたものとしか思へない。
7月、本山桂川が「旅と伝説 第二年七号」に「富士祭と麥藁の蛇」を寄稿する。
7月、
石井勇義が「實際園藝臨時増刊 高山植物 観察と栽培(第七巻第ニ號)」を「誠文堂實際園藝社」から刊行する。
 
 實際園藝臨時増刊 高山植物
資料 高山植物号を編みて 主幹 石井勇義より
(略)誌ではまづ内容を二つに分け、最初には本邦に於ける高山植物に夫々専門の学者にお願いして、高山植物の分類から生態の方面の事を最も通俗的に執筆して頂き、それと共に一方では、高山植物に対する多年の栽培経験家が全国的に執筆して下さった事は本誌としては大きな誇りであり、又多数読者諸君の御期待に添ふ事が出来ると信じて居ります。内容について一例を申しますと学会の方面では高山植物の分類の事に古くから関係して居られた牧野博士が、いろいろの思出話を発表下され、それと共に、当時の古い写真も発表して下さいました。それから京都大学の小泉博士は高山植物の分布区について、又高山植物を多年専攻して居られる武田博士は貴重なる総論上の玉稿を贈られ、それと共に先生独特の得難き写真をも沢山に御貸し願へました。
 その外、八ヶ岳の高山植物の研究家である田邊理学士は専門的研究の立場より詳細なる発表をして下さいました。それに田邊学士も武田博士と共に、高山植物の写真については他人の追従を許さぬものがあるので、本誌をして一層美しいものとした。(略)
高山植物研究の歴史
最初の山草今日は、高山植物の研究が余程進歩し、大体我が国の高山に産する植物の種類は九分通り明かになった。然し、其の一番斯くなるべき動機をなしたものは、東京に山草会と云ふものがあって、此の会が広く高山植物を栽培し、一般公衆に見せたことが、大なる刺激となり、段々に進歩して今日の如くなったものである。略)然るに当時、主として高山植物、野草の珍しき品を陳列して見せることをやったものが余り無ったので、此の催しは珍しかった為大いに世間の注意を引いた。出陳せられた沢山の品中にて、其の人達の採集せるものには、種々、従来日本に無かったものや、命名されて居らぬものあり、名を附けねばならぬから此の命名は此等の会としては何時も私が受持って居た。当時出品せられたものは皆その名称が分かって居たのは、此の様に其方面の専門家が居たからである。此等のものを当時は主として私が学問的に研究して世間に発表し、高山植物の大部分は私の命名にして定まった。
学会も貢献した山草(略)山草会の創立は、明治三十四、五年頃で同四十二、三年頃迄続いたと思ふ。(略)
上野、韻
松亭の陳列会  当時培養の苦心
東京帝国大学理学部講師/理学博士 牧野富太郎
日本高山植物区系の成立 京都帝国大学理学部教授/理学博士 小泉源一
高山植物の分布と生態
一、高山植物  二、垂直分布  三、日光との関係  四、水湿
五、種子の散布  六、高山植物の分布
理学博士 武田久吉 11
高山特有な樹種と樹
◇高山と針葉樹林 ◇山に針葉樹の多いわけ
◇針葉樹林は海岸にも多い ◇高山植物の樹相
◇樹木の生育と障碍
東京帝国大学農学部講師/林学博士 田村 剛 12
冠帽峯と其植物 東京帝国大学理学部教授
朝鮮総督府植物調査嘱託理学博士
中井猛之進 25
八ヶ岳の高山植
八ヶ岳連峰  高山植物といふ言葉  灌木帯の景観  お花畠 
八ヶ岳高山帯の特徴  主なる高山植物の解説
理学士 田邊和雄 32
北海道に於ける高山植物 =特に奥蝦夷の風物を語る=
北海道に於ける高山植物の研究史  喬木林  灌木林 
特にハヒマツに就いて お花畑

 色々と御注意を賜った宮部先生に感謝の意を表すると共にこの拙い一編を旅立つ日にあたり武田博士に捧げます。/末尾の記述より
北海道大学農学部/助教授 農学士 館脇 操 47
樺太産の珍らしい高山植 台北帝国大学教授/理学博士 工藤祐舜 54
信州の高山植物と其培 松本市 河野齢蔵 58
甲田山高山植園と実験 東北帝国大学教授/理学博士 吉井義次 66
本北アルプスの昆蟲観察 千葉高等園芸学校講師/農学博士 丸毛信勝 72
田草とその栽培 帝国愛蘭会々長/文学博士 伯爵 林博太郎 77
高山植物栽培の急所 埼玉県 志村鳥嶺 80
ヒマツの生態と其愛護 長野県伊那高等女学校長 八木貞助 85
高山植物培養 名古屋 村野時哉 91
高山植物の採集と培 東京本草会 岡不崩 99
山植物栽培 生物趣味の会 鈴木吉五郎 108
欧州高山植物の 大阪山草倶楽部 田中秀三郎 120
芸品になる高山植二三 生物趣味の会 岡田喜一 128
山草を作って二十余 北海道山草会 五十嵐成八 135
北海道における高山植物の鉢栽 北海道帝国大学附属植物園 石田文三郎 140
台湾の高山植物 伊藤武夫 146
都会でも出来草の寄植栽 東京 鈴木久太郎 152
高山の 農林省鳥獣調査課  精一 153
北海道山草会とその概
高山植物の愛護途採取
(略)山草の栽培が一般に行はるゝに至れる今日、どの位山野殊に高山に於ける植物が心なき人々によって傷けられたかと言ふ事、又自分等が今日まで此等可憐の植物をどの位まで観賞の為に傷毛て来たかを考へると造物主に対して人間の負ふ可き責の如何に大なるものであるかを思はざるを得ないのである。それであるから山に行ったならばなまじ採取等をせず植物の写真を撮影して四時その麗容に接した方がよいと言はれた武田博士の言の如きは蓋(けだ)し至言と云ふ可きであ(略)
北海道山草会のおこり  山草会に出陳された植物   
第二回以後の状況  本年の陳列会  現在の会員と会の趣意
北海道大学植物園 原 秀雄 157
高山植物号を編みて 主幹 石井勇義 160
8月橋浦泰雄が「民俗学 第壹巻貳號 民俗學會 」に「松本平の道祖神」を寄稿する。 武田家所蔵本
   また、同号に金田一京助が「熊祭の話」、折口信夫が「壹岐の水」を発表する。
  
  民俗學 刊行 S4・8   「松本平の道祖神」の挿絵
                 
上部に博士自筆の北安曇郡平村借馬と鉛筆で修正が施されていました。 2018・11・9 保坂  
8月、眞澄遊覧記刊行會(代表柳田國男)が「来目路の橋眞澄遊覧記(クメヂノハシ・和綴本)」を刊行する。 武田家所蔵本
  また、同日付で「来目路の橋眞澄遊覧記(クメヂノハシ・和綴本)」の解説書も発刊される。 武田家所蔵本
8月、小林義秀が富士・西中道ナメサワ・戸峯南方でオホシラビソの写真撮影を行う。

8月、白山に於いて、「しらたまのき・ひめいはしゃうぶ・きぬがささう」の写真撮影を行う。
                 
「高山植物写真図聚」より 登山記録については検討要
8月26日、父サトウ、心不全と悩血栓により没する。(享年86才)
8月30日付、牧野富太郎→武田久吉宛てに二通の書簡が送られる。
@(新聞にてサトウの死去を知り、哀悼の意を表す)  横浜開港資料館 久吉書簡 No 1186 状1
A(尾瀬沼から尾瀬平の植物観察の報告 )       横浜開港資料館 久吉書簡 No 1187 状3
  参考 手紙の三枚目の四行目からの全文
(略)原が来年は湖になるかと思って居りましたらマダ直ではないやうですから本年も一度行って来たいと思って居ります。長蔵翁も大変に歓迎して呉れまして喜んで居ります。記念に○○の額字を○○たいと思って居りますユックリつて此方面を調査したら面白いと存じます長蔵翁の圃でナンキンコザクラの果穂へ芽の出たのを貰って来ました。
          昭和四年八月三十日  牧野富太郎
/ 武田賢台 玉机下
  賢台(けんだい)<二人称の人代名詞。手紙などで、同等またはそれ以上の相手に対し敬意を込めて用いる語。貴台。
 ナンキンコザクラ(ハクサンコザクラ)
9月、赤城泰舒(あかぎやすのぶ)が、「博文館」から「水繪の手ほどき」を刊行する。
9月、松井幹雄が「大菩薩連嶺 光大社」を刊行、「序、大菩薩峠の初旅 」を寄せる。
 
大菩薩連嶺 光大社
博士宛に記された「見返し」

(全文)自分が大菩薩連嶺に足滋く出入した頃から、十年後の星霜が経過した。この山脈や渓谷の全汎に且つて詳細なそして正確な記事を纏めて、世の同好者の前に披瀝(ひれき)し度いと考へ乍ら、未だその機の熟さないのを憾む外ない。而も逐年(ちくねん)公私の用務は繁忙を加へ、假令(たとい)毎年旅の大部分を山岳地に送るに拘らず、昔日の様に大菩薩連嶺の跋渉(ばっしょう)に多大の時間を費すことが不可能な境遇となって、往年の希望は到底近く實現する見込もない。この時に方つて、霧の旅會の計畫として、會員諸君が研究に又探勝に足をこの地方に向けた時の記録や、又は古来の文書を渉獵(しょう りょう)して得た連嶺志を集めて一冊子とし、公判しやうといふ計畫を耳にして、恰(あたか)も自分の空想が現實化したかの様に欣幸(きんこう)を感ずる。憾むらくは黄金澤渓谷の大部分は探られずして残り、又大菩薩北面の山谷についても詳密な記録を網羅し得ないが、これ等は他日の探検の残されて、會員その他の愛山家を刺戟
(しげき)する料となると思へば、一時の不備は敢て意とするに足るまい。
           
 昭和四年七月上浣/日向霧島温泉に於て/理学博士 武田久吉

※披瀝(ひれき):心の中の考えをつつみかくさず、打ち明けること。
※逐年(ちくねん):物事が年ごとに進行するさま。年々。
※跋渉(ばっしょう):山をふみこえ、水を渡ること。転じて、方々を歩きめぐること。
※渉獵(しょう りょう):広い範囲を捜し求めること。たくさんの書物をあさり読むこと。
※披瀝(ひれき):心の中の考えをつつみかくさず、打ち明けること。
※假令(たとい):もしも。よしや。かりに。
※欣幸(きんこう):しあわせに思って喜ぶこと
          同名でガリ版刷のものもあり内容未確認のため調査要 2017・4・10 →2017・10・16 確認済 保坂
9月、八ヶ岳赤岩ノ頭の西、約2600mに於いてハイマツの生態調査を行う。

                      「続原色日本高山植物図鑑」より

9月、富士・前谷尾根のカラマツ林と青滑澤左岸の闊葉樹林を写真撮影する。
9月、富士山に於いて、「むらさきもめん」の写真撮影を行う。
                      「高山植物写真図聚」より
 登山記録については検討要
9月10日の午後3時半頃と4時半頃、精進湖畔から富士山にかかる笠雲を撮影する。
10月、中井猛之進が「植物学雑誌 No514」に「日本産天南星属植物ノ一瞥」を寄稿、見解の相違を述べる。
12月25日、鳴沢村の富士見平から富士山にかかる笠雲を撮影する

 
富士見平からの笠雲 一
 一九二九年一二月二五日前夜の雪は止んで晴天となったが、富士は中腹以上雲に鎖されて居た。写真は午後三時廿九分、北麓鳴沢の西にある俚称富士見平から見たもので、西南の風に吹かれて刻々形を変へる笠雲は整然たる形にはならないで、幾塊にもなって山頂を蔽って居た。(武田久吉)
富士見平からの笠雲 二
 同日同所で前囘から八分距てゝ写したもので、山頂が微に雲を透して窺はれる。(武田久吉)




12月、「工業之大日本 26巻12号」に「科學と趣味 冬と高山植物」を寄稿する。pid/1894635
1930 昭和5年 47 1月1日(消印)付、小林義秀、小林高秋が精進湖畔より博士宛に年賀状を送る。
          横浜開港資料館 久吉(書簡)No952 発信元住所確認要 2016・6・31 保坂
1月、胡桃澤勘内が「旅と伝説 第三年一号」に「真澄遊覧記菴の春秋發見記」を寄稿する。
4月、「婦人之友 24巻4号」に「寫眞帳より 春の野山に咲くすみれ十種 」を寄稿する。
4月、富士・大室山南麓の丸尾上に生えた天然生のスギ2株を撮影する。
4月、富士・青木ヶ原丸福道の植物景を撮影する。
4月、「科学画報 4月号 植物界の驚異」に「海岸植物の生態」を寄稿する。
4月28日、「雷鳥 第二号 岐阜高等農林学校山岳部」に「御嶽から乗鞍まで」を寄稿する。
御嶽・二の池小屋(泊)→賽ノ磧→魔利支天→五ノ池→継子嶽(御嶽薺の種子を得て、その分類上の位置を確定しやうというのが主なものであったが、先年と同様、此の度も亦失敗に終わったのは遺憾である。)→四ノ池→五ノ池→濁河温泉・嶽ノ湯→小峠→秋神川の左岸の道路に出る→胡桃島→西洞川合流点附近で休憩→鳥屋峠→木曽街道・中ノ宿(泊)→益田川を渡る→上ヶ洞→橋場→高松葉御料林→畳石→乗鞍山頂→飛騨の小屋(泊)→山中を一巡→信州小屋(泊)→番所→奈川渡→(自動車)→島々→下諏訪→上諏訪(泊)
       注 この時点で2回、御嶽に登ったことになりますが、日時については不明のため 検討要 2016・1・7 保坂記
P273 「写真解説」欄より 注 左の名称については、掲載写真欄の表示と若干の違いがありました。 2016・1・7 保坂記
乗鞍上ヶ洞登山路「高松葉」 約一九〇〇米の附近で樹木はシラビソ・タウヒ・サウシカンバ・ナヽカマドである。
乗鞍上ヶ洞登山路約二〇八〇米附近の森林 二〇八三米独立標高点附近の森林で、タウヒ・オホシラビソ・シラビソ・サウシカンバ等の美林である。
乗鞍上ヶ洞登山路森林限界 約二四〇〇米附近で手近に見えるはオホタカネナヽカマド・クロウスゴ・オホシラビソ・ヲガラバナ・ハヒマツ、中景はオホシラビソ・ダケカンバ、遠景はタウヒとオホシラビソである。
乗鞍上ヶ洞登山路の所謂「乗鞍公園」 約二四五〇米、スカイラインは千町ヶ原に続く山陵である。
乗鞍大丹生岳から桔梗ヶ原を距てゝ南に乗鞍の主峯を望む。
乗鞍五ノ池の一部 残雪を横(た)へるのは大岩岳の裾。
乗鞍蚕玉岳からの北望 近景は魔利支天岳。
白山御前峯の東北腹から小白水谷を距てゝ望んだ三方崩山。
5月、岡村周諦が「岩波講座 生物学 第四回配本」に「苔蘚類」を執筆、イトみづごけを記述する。
イトみづごけ〔S.Takedae Okam.〕は本邦特産で、甚だ細かいみづごけで、枝は少なくて枝叢とならず、一本づゝ生ずる。       注) 本書の発行年は月刷で確認したため本書については不明  確認要 2016・6・15 保坂記 
5月、「林友 第百八十三号」に「尾瀬の柳と唐檜」を寄稿する。
(略)何としても尾瀬は森林、風景、植物の宝庫である。あれから鬼怒川源流地方にかけて広大な区域を絶対禁伐採林として、永遠に保護すると共に、究学者の為の歩道や休泊小屋を設けて、便宜を与へるやうにすることは出来ないものであらうか?。
6月、胡桃澤勘内が「旅と伝説 第三年六号」に「眞澄翁の跡を訪ねて」を寄稿する。

「民間伝承論」集中講義の記念写真 清沢芳郎氏蔵
週刊朝日百科日本の歴史115  近代U−5 都市と原郷近代化への問 P139
S62・7・3
 (中央の青印は、柳田國男 その左に胡桃澤勘内)
参考資料
一、長興寺(の項の全文)
 雨のひどくなるのを憂へながら、四月二十五日松本を午下りに立った乗合自動車は、中原で二人ばかりを残して、みんなおりてしまった。さうして奈良井川の段丘を、ぞろ(く)と下って行くのである。自動車の中では對岸の山の櫻を、こんな日には却って鮮やかでいゝなどと見て来たのに、それどころでは無い暴風雨になってしまった。一所に歩いて行く人人を、誰を誰とも見わけも敢へず身づくろひして、太田橋を渡って段丘を又上がれば、本洗馬の村である。長興寺山門の坂にかゝると上から二臺の自動車が下って来るのに逢った。今朝下諏訪の宿を立って鹽尻に着いた柳田先生が、もう此の會場へ来られたのであらう。それにしても氣がかりなのは此の天氣で、折角の眞澄遊覧記刊行記念講演會も、聽講者の集まりが少ないであらうといふことであった。講演は二時から始まった。題目は「民間傳承論大意」で、其要項の八頁に渉る印刷物は参會者に配附され
る。此會が眞澄羽の遺著覆刻發祥記念の為に企てられ、此場所が會て白井先生を迎へた昔を偲ぶ為に撰ばれたにしても、此講演だけは少なくとも過去を追懐するもので無く、明日の學問を説いて将来の興隆を斯邦に豫期せんとするものであった。聴講者はそれでも豫定の席に溢れて、南信濃の各郡は勿論、遠く北信の熱心なる會員を網羅して居る。此の催しの通知状に。この山里の春もやゝふけて行く頃に開かるゝ此講演會は、會て其の生涯の旗を前に、壮齢にして来り留まった眞澄翁と、學生の心血を注いで開かれた斯邦の新しい學問の曠野を望んで、漸く老熟の境に入らんとする柳田先生と、百五十年を隔てゝ同じ花の下に於けるめぐりあひとして、獨り我々の快くも又感慨深い期待であるばかりで無く、恐らくは信州の郷土の民間傳承研究家にとって、又更には日本の學問の上の、美しい記念標となるであらう。とある其講演會は、長興寺山の遲櫻を、今日をPにみんな咲かせてしまふ雨の、時には窓に吹きかけて来る此大寺の、二階の廣間に開かれたのであった。        「眞澄翁の跡を訪ねて P87」より
6月、高畑棟材(むねたか)が「山を行く」を「朋文堂」から刊行する。
道志山塊」の中から「大群山」の項の部分
(略)
大群山の頂上にはもとは大群権現の神祠が祀ってあったさうだが、今は何も残ってゐない。また後者は甲斐國志に、此ノ峰ハ富士ノ東面ヲ蔽フ、故ニ武蔵ニテハ此ヲ富士隠シト謂フ とある通り、八王子市の南に在る七國峠を南に下った眞米(マゴメ)村あたりから望むと、此の山が金字塔形を呈して富士の前に立ちはだかり、それを全く隠して了ふの故を以て、其の地方では之を『富士隠シ』と呼ぶのである。(武田博士の説に従ふ)。(略)
6月、「改造社・日本地理大系 別巻1山岳篇」に「奥羽の山々・白山・高山植物」を執筆する。
山岳篇執筆者の一覧
台湾山岳会幹事 拓務省管理局長 生駒高常 日本山岳会々員 林業試験所技師 矢野宗幹
日本山岳会々員 北海道帝国大学動物学教室 伊藤秀五郎 日本山岳会々員 山崎彦磨
日本山岳会幹事 東京工業大学教授工学博士 別宮貞俊 日本山岳会幹事 槇 有恒
日本山岳会々員  岡田喜一 日本山岳会々員 大阪朝日新聞記者 藤木九三
日本山岳会幹事 冠松次郎 日本山岳会幹事 藤島敏男
日本山岳会評議員 法政大学教授 田部重治 日本山岳会幹事 木暮理太郎
京都帝国大学農学部講師  林学博士 田村剛 日本山岳会評議員 小島烏水
日本山岳会評議員 京都帝国大学講師 理学博士 武田久吉 佐藤惣之助
日本山岳会々員 九周帝国大学植物学教室 竹内亮 大阪毎日新聞記者 北尾鐐之助
日本山岳会々員 角田吉夫 松山高等学校教授 北川淳一郎
文化学院教授 並河亮 日本山岳会々員 北田正三
日本山岳会々員 甲斐山岳会幹事 野々垣邦富 日本山岳会々員 吉野山岳会々員 岸田日出男
日本山岳会々員 信濃山岳会々員 矢澤米三郎
 
 北海道・雄阿寒山と阿寒湖
研究資料 佐藤惣之助が記した一文(P72 写真の説明文・全文)
雄阿寒山と阿寒湖釧路の雄阿寒山と雌阿寒山は、比較的に優美な形態をしてゐます。私は屈斜路湖の硫黄山の裏側から、紫の花房をつけた這松と石楠花の中から望みましたが、六月も猶
(なお)寒い蒼凄いとした感じでした。殊に雄阿寒山は阿寒湖を抱いてゐます。その荒涼とした清冽さは無類です。湖の中心まで覗けます。そこには世界に稀な毬藻が生育してゐます。樹のない釧路も阿寒から釧路岳へかけて鬱な原始林を持ってゐます。従って山容は2000米もないのに、最もよく原生林的な味を深く漲(みなぎ)らしてゐるところが美事です。
 清冽(せいれつ):水などが清らかに澄んで冷たいこと。 沈鬱(ちんうつ):気が晴れないこと。

山岳篇目次 作者   頁   記  事(写真撮影者ー写真の枚数)
(色刷口絵) 裏富士 葛飾北斎画 「富嶽三十六景 身延川裏不二」 所蔵/小島烏水
(別刷口絵) 富嶽八態  武田ー8
日本の山岳 小島烏水 22 扉写真の撮影者記載なし
(グラビア版)  冠ー2、武田ー3、角田(記載無)ー2、山田ー1、法政大学山岳部ー1、穂刈−1、大毎機羽太飛行士・高田写真部員ー2、前川−1、北田ー1、岡田ー2、宮沢ー1
北海道・千島列島・樺太の山岳 伊藤秀五郎 44 三春ー12、古屋ー2、武田ー20、渡邊ー1、坂本ー1、野崎ー1、和辻ー3、徳永ー3、大雪山調査会ー3、伊藤ー1、法政大学山岳部ー1、竹内ー1、山縣ー3、舘脇操ー1、佐藤惣之助ー1、岡田ー6、瀬川ー1、小森−2
奥羽の山々 武田久吉 76 岡田ー6、武田ー57、東京朝日新聞社(航空写真)−1、松井ー4、山口成一ー1、浜田ー4、岩永ー3、別宮ー10
秩父と奥上州

 武田久吉写真撮影
 
木暮理太郎









116









○上鶴吉ー1、木暮ー21、武田(富士上空写真含−1)ー72、大江ー2、岡田ー4、山田ー5、冠ー1、中川ー1、矢作ー1、藤島ー13、山口ー1、松本ー2、法政大学山岳部ー2、藤木(浅間山爆発写真)ー1、野口ー1
 空中から下瞰した富士山頂  P125より
 
北方から下瞰した山頂で、第2高点である釈迦ヶ岳は眼前に低く、その彼方に西安河原が展開する。右は大沢を経て剣ヶ峰となり、左は久須志ヶ岳の「御額」が雲上に濃い影を落す大内院を距てた彼方銚子口の左が東安河原で、右は駒ヶ岳から三島ヶ岳に続き、火口趾内に右から突出する巨巖は昔は中台と呼ばれていたが今は虎岩又は獅子岩の名で知られる。(武田久吉)
日本北アルプス



槇 有恒


170 岡田ー2、山田ー10、冠ー3、長谷川3−1、又木−1、角田ー12、別宮ー3、武田ー5、穂刈ー12、法政大学山岳部ー8、松方ー1、リリー写真館(焼岳爆発写真含−1)ー4、手塚ー2、藤木ー2、松方ー2、矢沢ー1、百瀬ー1
黒部渓谷 冠松次郎 208 大毎機羽太飛行士・高田写真部員−1、別宮ー5、冠ー3
双六谷 冠松次郎 215 冠ー3
御嶽と乗鞍岳 田部重治 210 武田ー15、矢沢ー2
白山 武田久吉 228 田ー11、第四高等学校写真部ー1
木曽山脈(中央アルプス) 木暮理太郎 237 角田ー1、矢沢ー1、山田ー1、法政大学山岳部ー3、武田ー4、藤島ー2
日本南アルプス 野々垣邦富 244 野々垣−6、武田ー25、法政大学山岳部ー2、岡田ー7、山田ー1、手塚ー2、前川ー4、角田ー1、冠ー8、藤島ー2
近畿の山々 藤木丸三 276 大毎機羽太飛行士・高田写真部員−2、武田ー3、藤木ー2、山崎ー1、岸田日出男ー3
中国山脈 藤木丸三 284 藤木ー6、大毎機松下飛行士・半田写真部員ー2
四国山脈概観 北川淳一郎 288 高知営林局ー6、西條営林署ー1、鉄道省ー1、北川ー2
九州及び琉球列島山岳概観 竹内亮 294 竹内ー8、北田ー9、大毎機羽太飛行士・半田写真部員−2、北尾ー1、藤木ー3、大毎機松下飛行士・半田写真部員−1、田村剛ー1、前田ー1
台湾の山岳 生駒高常 308 並河亮−7、杉本良ー5、金平ー2、武見ー2、田村剛ー1
朝鮮の山岳 田村剛 320 田村剛ー12、中井猛之進ー6、編集部ー1、武田ー9
高山植物 武田久吉 337 武田ー41
山地の昆蟲 矢野宗幹 356 岡田ー1、矢野ー15
         注意)写真に撮影者の名前のないものがありましたので便宜上、写真の解説者名で換算し1としました。 保坂記
6月20日、「京都帝国大学 演習林報告第二号 樺太演習林植物調査報告」が「昭和三年度学生植物調査班(指導:武田博士)」によって刊行される。
  
    昭和三年度 
    樺太演習林植物調査報告




参考 樺太演習林植物調査報告の構成
本編ハ京都帝国大学農学部付属樺太演習林古丹岸ふ図及其附近ノ植物ニ就キ昭和三年夏期学生実習ニ際シ学生四名ヨリ成ル植物調査班ガ理学博士武田久吉氏ノ指導ノ下ニ調査シタル報告ニシテ、調査ノ区域及時日ノ関係上未ダ完全ナル能ハズト雖、不取敢茲ニ印刷ニ附スコトトセリ。(全文) 
(はしがき)  この項に行程記録が記載されていたので、昭和三年七月の項に記述しました。
樺太演習林 古丹岸ふ図(変形A4版)
No1〜No80迄の写真を収録、 昭和三年七月の項にタイトルのみを記述しました







調


T概説 (略)
U演習林及其附近ニオケル
   植物ノ分布並ニ其景観
A 演習林内ニ於ケル森林 1 常緑針葉樹林 
  2 落葉針葉樹林 3 針闊混淆林 4 闊葉樹林
B 河岸並ニ草原植物 1 河岸植物 2 草原植物
C 海岸植物
D 伐採及ビ山火跡地 1 伐採跡地 2 山火跡地
E 樹種ノ変遷 1 闊葉樹林ノ変遷 2 ぐいまつ林ノ変遷 
V 演習林及其附近植物目録 (略)
附 敷香附近植物景観ノ管見
    並ニ採集品目録
(略)
   参考 「京都帝国大学泊岸(とまりきし)演習林報告」として同演習林内52科158属167種51変種3品の植物調査報告を行う。 
         「菅原繁蔵 樺太植物探検小史」より 
関連事項として記述しました。 2016.2.15 保坂記 
7月、「山林」に高山植物の魅惑(一)」を寄稿する。
冒頭の部分  
 それが何であるに拘らない。いやしくも魅惑される場合、再三西四沈思熟慮の上でということはまず予測し得ない。百の九十九迄は、第一印象によってということになる。さもなくば、すでに、先入主があって魅惑さるべく予期することすらあり得る。しかしながら一度魅惑され終わった後、そしてその魅惑から脱却し得ない時、徐に魅惑の原因、理由とでもいったものを考察して、何か合理的な理由を算え上げ、それば相当なものであって、人に聞かれても恥ずかしくない程度であれば、おおむね満足するらしい。場合によっては喜悦乃至矜貴をさえ感ずることもある。そしてまた、魅惑は人によって、対象物と程度において、異るものである。(以下略)
8月10日、「尾瀬と鬼怒沼」を「梓書房」より刊行、同書に100枚の写真が掲載される。 
  
   「尾瀬と鬼怒沼」
資料 「序言」より
 尾瀬! その名は山岳地の自然美愛好者に、力強い響を与へるものではないであらうか? あの美しい森林、それに圍まれた尾瀬沼、そしてそれに臨む燧ヶ岳。又萬花の咲き出でる尾瀬平の類罕な湿原と、怪峯至佛。只見の峡谷と、それにたぎり落ちる三條の大瀑布。更にその美と麗と壮に於て、邦内何ものの追従をも許さない平滑の奔湍。
 私は今から四分の一世紀程前に、尾瀬の片鱗を紹介する最初の機会を有したが、今またその眞価を広く世に伝へる好機を得たことを梓書房主人坂口君に感謝する。然し乍ら尾瀬についての私の知識は
未だ到底完全といへないのと、一には記述の方法も宜しきを得ない為め、遺漏は甚だ多く、それに反して止むことを得ずして重複した点も、決して少なくあるまいと深く遺憾に思ふ次第でる。幸にして他日増訂を施す機会が与えられたなら、更に筆を呵して、内容を充実せしめることに努力を吝まない。(後略)
尾瀬と鬼怒沼
高山と深山
風景地としての尾瀬
尾瀬の区域
尾瀬の名称と伝説
鬼怒沼とその伝説
尾瀬沼周圍の地勢
尾瀬ヶ原
交通
初めて尾瀬を訪ふ 「山岳」第一年第一号 明治三十九年四月
尾瀬再探記 「山岳」第十九年第一号 大正十四年五月
尾瀬をめぐりてはしがき  舘脇操著/大正13年夏の学術調査 ※1巻頭部分
戸倉より尾瀬へ
尾瀬沼 小沼及沼畔
燧岳
沼山峠より桧枝岐へ
会津駒
三條瀑より尾瀬ヶ原
尾瀬ヶ原
至佛山
鬼怒沼林道
10 鬼怒沼
11 八丁の湯を経て日光湯本へ
12 小田代ヶ原と日光戦場ヶ原 ※2 附記全文
春の尾瀬
秋の尾瀬

「改造」7月号
最終章 「訣別」を「日光湯本へに改題
昭和4年7月1日

    100枚の写真解説
        昭和9年1月「山」創刊号 梓書房の広告文に初稿の年月を加筆する
尾瀬をめぐりて ※1 巻頭部分1924年7月の項に記載しました。
小田代ヶ原と日光戦場ヶ原※2 附記の全文(P216)
 燧山麓や尾瀬平に生ずるチマキザゝは牧野博士によると稈(わら)に毛のある新しい変種であるから、これにヲゼザゝの名を与へようかとのことである。このものは奥上州から南会津にかけて、又恐らくは野州や越後の深山地にも広く生ずるやうに思ふから、この名は果たして如何なものであらうか。篇中には姑く単にチマキザゝの名を用ひて置いた。又原文にフトヰとあるをオホフトヰと訂正したのは牧野博士に負ふところで、併せて感謝の意を表する。 (武田久吉)
参考 掲載された100枚の写真のタイトル名と「写真解説」の項に記された植物名
尾瀬沼の鳥瞰 51 赤川沿岸の長葉柳/ナガハヤナギ
片品川 52 只見川上流
笠科川 53 平滑ノ瀧
早稲澤湿原からの燧ヶ嶽/ネズコ・オホシラビソ 54 三條瀑
長蔵小屋からの燧ヶ嶽 (大江明正氏撮影)
55 下田代から景鶴山
三槲(ミツガシワ)と水砥草(ミズトクサ)/ミズガシワ(山口成一氏撮影) 56 景鶴山のヌウ岩
押出湿原jから尾瀬沼/レンゲツヽジ・オホツトヰ 57 景鶴山から尾瀬ケ原の腑観    (山口成一氏撮影)
檜の突出/ナガハヤナギ 58 下田代から至仏山の遠望
大入洲の夕照/コメツガ・オホシラビソ・サウシカンバ・ヒメコマツ・ナガハヤナギ   (大江明正氏撮影) 59 中田代から至仏山
10 沼の蓴菜(ジュンサイ)/ジュンサイ 60 鳩待峠からの至仏山
11 出湿原jから檜ノ高山/ヒメコマツ 61 至仏山頂の西面 (浜田和雄氏撮影)
12 頽雪窪の沼野/サウシカンバ 62 至仏山最高点の植物/ハヒマツ・アカツゲ・シャクナゲ・ミヤマネズ・ガンカウラアン・コケモヽ・ヒメイチゲ
13 頽雪窪湿原の半島状浮島/オホフトヰ 63 蟹釣野苅安(カニツリノガリヤス)
14 沼尻附近の大太莞(オオフトイ)/オホフトヰ・ジュンサイ 64 姫薄雪草/
15 長蔵小屋附近の森林/オホシラビソ・サウシカンバ・シウリ(桜) 65 大桜草/
16 森林の下生/ハリブキ・ヤマソテツ・ミヂカラマツ・マヒヅルサウ・ツバメオモト・オホカメノキ・コミヤマカタバミ 66 至仏山北肩から北望
17 檜ノ澤/ミヅバセウ 67 至仏山から尾瀬ケ原
18 白石南花(シロシャクナゲ)と葦/コメツガ・シロシャクナゲ・ヨシ 68 大堀川沿岸の樹叢と唐松草/シラカンバ
19 浅湖から仰いだ燧ヶ嶽 69 尾瀬平の日光黄菅と撫子花/ニツクワウキスゲ・カキツバタ
20 奥沢湿原の立金花/リュウキンクヮ 70 中田代の池溏と細流/ミツガシハ・ミヅドクサ・ミズバセウ
21 清水俣奥の樹林/サウシカンバ・エゾマツ・オオシラビソ 71 尾瀬平の小池に咲く未草/ヒツジグサ・ヤチヤナギ
22 林内に咲く水芭蕉/ミズバセウ・オホシラビソ 72 根室河骨/ネムロカハホネ・カハホネ
23 浅湖奥の樹林/サウシカンバ・オホシラビソ・エゾマツ 73 長葉毛氈苔(ナガバノモウセンゴケ)/本邦でこの草が見出されたのは尾瀬の地が最初で、時は明治三十一年七月三日、早田理学博士の採集する処に係る。そしてその翌月十一日、故川上瀧彌君は期せずしてこれを千島択捉島のアトイヤ山に発見されたのも奇である。(山口成一氏撮影)
24 白樺/シラカバ 74 蝦夷石菖/エゾセキシャウ(ホロムイサウ) (山口成一氏撮影)
25 景鶴山と煤け峯の遠望 75 谷地柳
26 焼山峠の斜面/エゾマツ・タウヒ 76 上田代から見た燧ヶ嶽
27 焼山峠から南望/エゾマツ・タウヒ・サウシマンバ 77 春の上田代/シラカバ・カラマツ・ミヅバセウ
28 焼山峠下の湿原 78 山の鼻から日崎山と燧ヶ嶽/シラカバ・カラマツ
29 大江川の下流と皿伏山 79 猫又川上流の湿原から煤け峯
30 水芭蕉/ミズバセウ 80 上ノ大堀に沿ふ唐松の林/カラマツ・シラカバ
31 湖上から見た浅湖の湿原/オホフトヰ 81 上ノ大堀
32 大清水と燧ヶ嶽/ネズコ・コメツガ・オホシタビソ・ヒメコマツ 82 猫又川沿ひの樹林/ナガハヤナギ・サウシカンバ・カラマツ・アシ
33 治右衛門池 83 白根葵/シラネアフヒ
34 小沼と燧ヶ嶽 84 川上川中流/トカチヤナギ
35 沼尻平の池溏 85 柳平の十勝柳/トカチヤナギ(ヤスモトヤナギ)
36 紫安ー 86 柳平の小米柳と長葉柳/コヾメヤナギ・ナガハヤナギ
37 爼ー 87 満水の猫又川上流
38 燧ヶ嶽の山荷葉(サンカヨウ)/サンカエフ 88 箴葉草/ヲサバグサ
39 岩梅/イハウメ・コケモモ・コバノイスランドゴケ 89 黒岩山南方の原生林/オオシラビソ
40 燧三角天からの西北望 90 鬼怒沼/ウランジロヤウラク・クロスゲ・ヌマガヤ・イハシャウブ・ハナゴケ・ワタスゲ
41 紫安ーから駒ヶ嶽 (山口成一氏撮影) 91 根名草山
42 会津駒ヶ嶽の頂上 92 高薙山
43 駒ヶ嶽の御花畑/チングルマ 93 前ノ澤の椈林
44 会津駒からの西南望/オホシラビソ 94 金精山(笈岩)/コメツガ・ネズコ
45 中門嶽/オホシラビソ 95 男体山/ミヅナラ・ウラジロモミ・カラマツ
46 三ツ岩        (山口成一氏撮影) 96 這摺澤の合流点
47 白砂湿原 97 楢俣川
48 白砂湿原の池溏 98 西ノ濺(せん)
49 沼尻川の源頭 99 夜後橋下の利根川
50 沼尻川の越場 100 栗澤附近の利根川
8月、「婦人之友 25巻8号」に「グラビア写真 高山植物」と「高山植物」を寄稿する。
8月、富士・大沢南方のカラマツ林を撮影す
る。
8月、第二回、文部省主催登山講習会が長野県松本市松本高等学校に於いて開かれる
参考 講習科目の内容と実習コース
  講習科目 8月16日〜18日 時間     講師名
   高山植物 三時間     武田評議員
  山岳論 一時間     武田評議員
   日本の山岳に就て 二時間     木暮 幹事
   南アルプスと北アルプス 二時間     冠   幹事
   山岳写真に就て 一時間     岩永 幹事
   登山の準備と注意 二時間     松方 幹事
   高山の構成 一時間 会員 八木貞助
   高山の動物 一時間 会員 矢澤米三郎
   高山の鉱物 一時間 会員 河野齢蔵
   高山の気象 一時間     宮野寛良 松本測候所々長
   登山の技術 二時間     渡邊 漸
  地図の見方、山岳に関する図書 一時間     渡邊 漸 

  班と日程 実習コース 講師名
 1班 8月19日〜23日 燕岳、槍ヶ岳方面
中房温泉(泊)→燕山荘(泊)→槍肩小屋(泊)→
→上高地清水屋(泊)→前穂高岳或ひは焼ヶ岳往復
武田久吉・渡邊
文部省から河田義英
総数21名
人夫6名
 2班 8月19日〜23日 烏帽子岳、槍ヶ岳方面
(詳細不明のため再調査要)
八木貞助から長野県体育会幹事山口勝に変更
文部省から吉田清
約8名
 3班 8月19日〜21日 上高地方面
(詳細不明のため再調査要)
松本第2中学校井口良一氏外一名
             「山岳 昭和5年11月発行 雑報 文部省主催登山講習会」の記事より 
8月20日、平野長蔵翁急逝、60歳
    
平野長蔵翁 「長蔵翁の思ひ出」より
「山岳」二十五周年回顧録より「長蔵翁の思ひ出」(部分)
 (略)
今年八月、文部省の登山講習会に委嘱を受け、松本での講義を済ませてから講習員と共に山に入り、最後に上河内に下ってから更にあの附近に両三日を送り、二十六日に亡父の一周忌に当るので帰京して見ると、留守中到着した数十通の郵書の中に長蔵翁が月の二十日に突如死去したといふ通知を発見して驚愕すると共に私の悲しみを倍加した。(略)
8月26日、亡父サトウの一周忌法要が行われる
9月、御嶽に於いて、「はなびらたけ・二ノ池・はひまつとみやまはんのき」の写真撮影を行う。
                          「高山植物写真図聚」より
 登山記録については検討
9月21日、「東京朝日新聞 福島版」に見出し二段で尾瀬のことが掲載される。
 平野翁称賛は不都合千万だ/尾瀬沼開発は村民の力と/武田博士に抗議す
『尾瀬沼地方における保護林とその景観』および『尾瀬と鬼怒沼』の著者理学博士武田久吉氏に対し、南合津郡桧枝岐村民が抗議を持ち込んだ。同博士がなんで村民の反感を買ったかというと、尾瀬沼紹介には先頃死んだ尾瀬沼の仙人の平野長蔵翁があずかって力あるものの如く吹聴し居るが、同人は元来村から追放されて沼のほとりに居を構え、尾瀬沼紹介を口実に多額の寄付金を集め(中略)実際に同所の開発に功労あるわが村を度外視したのは怪しからぬというのである。 佐藤允著 岩波新書「尾瀬ー山小屋三代の記 P47」より 
9月、「辻村伊助遺稿 スウイス日記 梓書房」に「追憶」を寄稿する。
    
   昭和9年1月 「山」創刊号に掲載されたスウイス日記のコマーシャル文
10月、富士・精進口三合目にてコメツガを撮影する
11月、「山岳第25年 第号二十五周年記念号」に「長蔵翁の思ひ出」と「今昔の感」を寄稿する。また、同号に岡田喜一が「国後島の採集品目録について」を寄稿する。
「国後島の採集品目録について」の全文の部分から
 一九二九年度のチャチャヌプリ登山を兼ねての採集旅行に於いて、小生の採集品としての主目的はチリモの研究材料の蒐集にあったので之については出来得る限りの力を致したが、此の採集の余暇を利用して海藻、陸草、鳥類、昆蟲、貝類、両生類、石器等の蒐集をも試みた。又、チャチャヌプリに於いては特に頂上附近に産する植物の採集に応分の努力を拂って来た。(略、採集品の鑑定による感謝を述べた後)、武田久吉先生は終始何かと格別な御親切と御注意とを御寄せ下された。殊に顕花植物の目録に就いては御鑑定戴けたものが数点ある。深い感激と大きな喜びを持って厚く御禮申上げる次第である。(略)
   また、同号の雑報欄に八木貞助が、「白馬山と最初の登山者」を寄稿する。
11月20日、槇有恒が、「台湾旅行のための紹介状2通(封筒有)」を送付する。
                 横浜開港資料館 久吉(書簡)目録 1181」より
11月24日、戸澤英一が「北越雪譜」奉借したく、都合伺い」の「絵はがき」を送る
                 「横浜開港資料館 久吉(書簡)目録 1092」より
○この年、中井猛之進が「植物学雑誌44巻526号」に「日鮮植物管見其三十九」を寄稿、学名に「TAKEDA」とある966)ダフリアびゃくしん(新称)と 967)みやまびゃくしんについての所見を記す。
参考
966)
ダフリアびゃくしん(新称)  
 
学名ヲJuniperus davurica PALLAS ト謂フ。PALLAS氏ノ Flora Sibiricaノ図ヲ見レバみやまびゃくしん Juniperus Sargentii TAKEDA ト選ブ所ハナイ様デアルガ大正十四年大英博物館デPALLAS氏ノ原標本ヲ見ルト果実ノ下ニアル鱗状葉ガ大ニ異ナッテ居リ又茎ノ葉モ細イ。甞(かつ)テ武田博士ガ滞英中KewニアルJuniperus davuricaノ標本ノスケッチヲ作ッタノヲ見セラレタコトガアルガ其レト之トハ全ク同型デアル其故ニ本種ハ久シク日本領域内ニハナイモノト思ッテ居タガ昨年ノ夏総督府山林部ノ技師佐藤信一氏ガ之ヲ白頭山登山ノ途次採取シタノデダフリヤカラ北満州ニ迄分布スルコトノ知レテ居タ本種ガ更ニ朝鮮内迄ニモ自生シテ居ルコトヲ知ッタ。
967)みやまびゃくしん Juniperus Sargentii TAKEDA
 本種ヲびゃくしんJuniperus chinensis L. と合スルノハヨクナイ。びゃくしんハ陸前、常陸、安房、上総、伊豆、小豆島、伊予、豊後、朝鮮半島ノ中部以南、欝陵島等ニ自生スル主トシテ海岸ノ植物デ支那ニハモトハ自生ガアッタカモ知レヌガ今デハ自生状ノモノハ判ッテ居ナイ。
(略)
12月14日、(台湾の)未だ薄暗い中を停車場に向う。台湾旅行「帝國の南端を探る」より
「帝國の南端を探るから読み取れる旅行年月の検討
資料@台湾への旅を奨励し、その容易を宣伝する総督府も、都合によりまた気の向き具合によっては、中々蕃地旅行をオイソレと許可しない。今では有力な幹部もあるらしいが、私が旅した昭和四年から五年にかけては、台湾山岳会とやらは登山に関して何等の斡旋をして呉ないー
資料A台南州新栄しんえいにある、鹽水港製糖株式会社では、友人槇君の紹介もあったことゝて、殊更に優遇され、勝又氏の好意で、烏山頭うざんたうの大貯水池迄見学することを得、加之その夜は倶楽部に静な夢を結ぶことが出来た。冬でこそあれ蚊帳を吊り、単衣を着て寝ること、内地の夏と同断。明ければ十二月の十四日、未だ薄暗い中を停車場に向う。

  参考 逆さに押された消印
資料@Aの記述から昭和4年の12月と読み取れますが、同時期には富士山に写真撮影で精富士見平におり、また、昭和6年とすると、1月に母、兼の死があり、例え遠地による連絡不足としても考えられないと思います。1月19日付の直子に宛てた絵はがきの消印の判読に困難もありましたが、今後の研究資料として記載しました。   2015・7・29 保坂記



12月25日、台湾にてムカゴシダの写真撮影を行う。 「岳人181号 グラビア写真」より
1931 昭和6年 48
1月(元旦)、台湾の新年を写真に収める。
 
 第一図 蕃社の新年(台湾高雄州
  屏東郡マガ社、パイワン族下三社蕃)
資料:「農村の年中行事 P15」より
元旦「元旦や一系の天子不二の山」/これこそ吾々にとって、何物にも替へ難い程尊く感ずるものである。新年のうち元旦の気分程爽快なものは、またとあるまい。皇化の及ぶ所、嘗ては蕃社と呼ばれた土地にも、日の丸の旗が飜(ひるがえ)り(第一図)、今や南方の諸民族にさへ吾々は国旗を贈らうとしてゐる。つひ数時間前の債鬼さへ一夜あければ笑顔で年頭の礼に来る位に、暗い心持を転じて、ほがらかにする威力を元旦はもってゐるのである。東京のやうな大きな都会の元旦は、農村とは大分趣を異にしてゐる。それも明治時代には、家毎に国旗や松飾も賑かに、廻礼者の姿も威勢よく、凧を揚げる男児、羽根つく女児の顔も晴やかに見られたが、近年は何もかも、伝統的な美点ま
でも、一概に虚礼と賤(いや)しめられて、全く殺風景で日本らしくないものとなって行く。(略)
(参考資料)1月15日、台北新店渓(写真)  横浜開港資料館 久吉(原稿(著作)) 565−3 より 
タイワン(植物名書上)(手書・ペン・日本語)      横浜開港資料館 久吉(原稿(著作)) 565−7 より 
1月19日、台湾から朝日丸に乗船、門司港に入る。 「妻・直子へのはがき」より 
今朝門司に着、これから宮島に行き二十一日の夕又は夜九時迄に帰宅の予定、鞄二個は配達付で送った。その分マウサウの筍を台湾から送る様頼んで置いたが着いたやら、帰宅の時には自動車で行くから迎は不用、天気はよい。 サイン 
 尚、1933年に槇有恒が、台湾の合う歡山から採集した「カワサキウスユキソウ」の標本が「大切な押葉」と記述されたビニール袋の中に収められてありました。又、時期は判りませんが山日記の中には台湾と中国の中間に存在する小島の記録もあり、今後の総合的な調査が必要と思われます。  消印の判読がやや困難でしたが、この年譜では昭和6年とし作成しました。 2015・7・7 保坂記
3月から4月にかけて、尾瀬沼を訪う。  昭和8年、「旅尾瀬と奥日光を訪うて」より。
4月、本田正次が「植物学雑誌45巻532号」に「日本産禾本科植物後記(一)」を寄稿、17)ちしまどじゃうつなぎ(新称)Puccinellia kurilensis(Takeda)HONDA.についての所見を記す。 
5月、「婦人之友 25巻5号」に「五月の山・五月の花」を寄稿する。
また、同号に「歩談會 野川にそひて (第一回)砧村より武藏野村まで/柳田國男・小野武夫・今和次カ」も掲載される。
5月、富士・愛鷹山の一峯黒嶽において天然生のスギと多数のモミを撮影する。
5月、富士・青木ヶ原林内に見られるツガ・バラモミ・アカマツを主とした景観を撮影する。

5月、橋浦泰雄が「郷土研究社」から「東筑摩郡道神図絵」を発刊する。
6月10日、「高山植物写真図聚 壹 弐 (共編) 208葉」を「梓書房」より刊行。
       
  背表紙 高山植物写真図聚解説 (壹)  高山植物写真図聚 弐   写真図聚の扉) 題簽 白井光太郎博士
  
扉 高山植物写真図聚 (壹)
序言 (全文)
 高山植物に関する知識の慾求の年を逐うて旺になることが寡聞(かぶん)な私達の耳にさあへ傳はって来る。夏は申さず。春となく秋となく、又冬のさ中にすら、高山に分け登って、花を尋ね木を仰ぎ、偉大な天然の美にあこがれる者を、狂人と目し変物として嗤笑(ししょう)した時代は、過ぎ去ったやうである。そして又、真摯な登山家が、大自然の粹(いき)を蒐めた山嶽の本質、蒐う殊にその粧(よそおい)である植物に、多大な関心を持ったに至るのは、当然の歸結(きけつ)であらう。
 
高山植物について、多くの記事が、夏毎に、新聞や雑誌を初め、各種の刊行物を賑して居る。そして、私達も亦(また)、禿筆(とくひつ)を呵(か)して読者に見えたことは 一再に 止まらない。それでも高山植物の眞相、殊
(こと)にその生育の状態や、生育地の状況は、未だ十分世間に知られるに至らない憾みがある。此処に今私達は、同好の友に勧められるに任せ、多年本邦各地の高山を彷徨(ほうこう)する間に、記録の一助にもと、撮影した写真の中から、稍々見るに堪へるものを選出して、簡単な解説を添へ、印刷に附して刊行することゝした、収める処のものは、必しも厳格に見た純正の高山植物に限らないで、亞高山帯に産するものにも及ぼす考である。又高山植物が意外な低地に生じた場合だとか、低地のものが高山上に蕃殖する有様の如き、常規と異なるものをも除外せず、居ながらにして雲表の花苑に逍遥するの思あらしめると共に、高山植物の生活状態を如実に展開せしめたい希望である。幸にして、高山植物愛好家の侶伴(りょはん)となり、究学者の参考ともなることを得れば、編者の努力は空しくないであらう。
                    昭和六年五月下院     武田久吉
                                 田邊和雄

    寡聞(かぶん) 見聞の狭いこと/嗤笑(ししょう) あざけり笑うこと。/歸結(きけつ) 最後にたどりつくこと,またその結論や結果。
    彷徨(ほうこう)さまよい歩くこと。あてもなく歩きまわること/侶伴(りょはん) なかま。つれ。

番号 写真の表題 撮影場所 撮影月日 撮影者 執筆者 特記事項
1 高山の外観 八ヶ嶽 1926・9 田邊和雄 武田久吉
2 森林限界 八ヶ嶽 1926・7 武田久吉 武田久吉
3 ちしまざくら 八甲田山 1925・7 武田久吉 武田久吉
4 はひまつの海 乗鞍嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
5 高山の絶巓 御嶽 1922・8 武田久吉 武田久吉
6 をさばぐさの群落 八ヶ嶽 1926・7 田邊和雄
7 をさばぐさ 黒岩山 1924・7 武田久吉 武田久吉 稀に葉に白斑これを Var.variegatum.TAKEDA
8 やなぎらん 八ヶ嶽 1926・8 田邊和雄 武田久吉
9 ぎょうじゃにんにくの群落 富士山 1930・7 田邊和雄 武田久吉
10 みやまめしだ 八ヶ嶽 1925・7 武田久吉 武田久吉
11 ほうわうしゃじん 鳳凰山 1926・9 武田久吉 武田久吉 キキャウ科 Adenophora howozana,TAKEDA
12 たかねなでしこ  花 八ヶ嶽 1927・8 武田久吉
13 たかねなでしこ 果実 八ヶ嶽 1924・9 武田久吉 武田久吉
14 しらたまのき 花 白山 1929・8 武田久吉
15 しらたまのき 果実 八ヶ嶽 1924・9 武田久吉 武田久吉 ツツジ香 Gaultheria miqueliana Takeda
16 裸地に植民するしらたまのき 八甲田山 1925・7 武田久吉 武田久吉
17 湿地に生えたしらたまのき 御嶽 1922・8 武田久吉 武田久吉
18 ひなざくらの群落 八甲田山 1924・7 武田久吉
19 ひなざくら 花 八甲田山 1924・7 武田久吉
20 ひなざくら 果実 月山 1924・8 武田久吉 武田久吉
21 弥陀ヶ原 月山 1924・8 武田久吉 武田久吉
22 ちんぐるまの群落 月山 1924・8 武田久吉 武田久吉
23 ちんぐるま 花 月山 1924・8 武田久吉
24 ちんぐるま 果実 乗鞍嶽 1927・9 田邊和雄 武田久吉
25 べにばないちご 花 月山 1924・8 武田久吉
26 べにばないちご 果実 八甲田山 1924・7 山口成一 武田久吉
27 はくさんおほばこ 花 小朝日嶽 1929・8 田邊和雄
28 はくさんおほばこ 果実 月山 1924・8 武田久吉 武田久吉
30 しろばなたううちさう 鳥海山 1924・8 武田久吉 武田久吉 本文29項番は欠番
31 みねはりゐ 月山 1924・8 武田久吉 武田久吉 本文31項番はダブリ
31 ひめわたすげ 果実 八甲田山 1925・7 武田久吉 武田久吉
32 いはいてふ 白馬ヶ嶽 1930・8 田邊和雄 武田久吉
33 たかねひかげのかずら 鳥海山 1924・8 武田久吉 武田久吉 ヒカゲノカズラ科
Lycpodium sitchense,YUPR.var.nikoense,TAKEDA 
34 ひめうすゆきさう 花 鳥海山 1925・8 田邊和雄
35 ひめうすゆきさう 果実 月山 1924・8 武田久吉 武田久吉
36 くろくもさう 花 八ヶ嶽 1929・7 田邊和雄
37 くろくもさう 果実 八ヶ嶽 1924・9 武田久吉 武田久吉
38 こめばつがざくらあ 花 御嶽 1922・8 武田久吉
39 こめばつがざくら 果実 御嶽 1922・8 武田久吉 武田久吉
40 はなびらたけ 御嶽 1930・9 武田久吉 武田久吉
41 根元の枯れてゆくはひまつ 八ヶ嶽 1929・7 田邊和雄 武田久吉
42 はひまつの樹形 白山 1929・8 田邊和雄 武田久吉
43 岩隙に生へたちんぐるま 唐沢嶽 1927・7 田邊和雄 武田久吉
44 礫地に生へたちんぐるま 果実 八甲田大嶽 1925・7 武田久吉 武田久吉
45 岸壁のだいもんじさう 八ヶ嶽 1930・8 田邊和雄
46 だいもんじさう 八ヶ嶽 1930・8 田邊和雄 武田久吉
47 みずばせう 花 尾瀬 1927・6 武田久吉
48 みずばせう 果実 尾瀬 1931・6 武田久吉 武田久吉 テンナンシャウ科 変種 フイリミズバセウ
Var.macnlosa,TAKEDA
49 かもめさう 富士山 1929・6 武田久吉 武田久吉 変種 Var,leucantha.TAKEDA
50 むらさきもめんづる 残花と果実 富士山 1928・9 武田久吉 武田久吉
51 たかねばら 花 富士山 1930・7 田邊和雄
52 たかねばら 果実  富士山 1926・9 武田久吉 武田久吉
53 阿波ヶ嶽の御花畑 御嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
54 おほへうたんぼく 花 御嶽 1922・8 武田久吉
55 おほへうたんぼく 果実 御嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
56 二ノ池 御嶽 1930・9 武田久吉 武田久吉
57 くもまぐさ 花 御嶽 1922・8 武田久吉
58 くもまぐさ 残花と果実 御嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
59 くろつりばな 花 木曽駒ヶ嶽 1926・7 田邊和雄
60 くろつりばな 果実 八ヶ嶽 1924・9 武田久吉 武田久吉
61 ひめいはしゃうぶ 花 白山 1929・8 武田久吉
62 ひめいはしゃうぶ 果実 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
63 亞高山帯 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
64 せりばしほがまの群落 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
65 森林限界 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
66 蟠屈しただけかんば 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
67 みやまはなごけ 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
68 ひめうすゆきさう 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
69 尾根のはひまつ 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
70 つまとりさう 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
71 濃ヶ池附近の斜面 其一 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
72 濃ヶ池附近の斜面 其二 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
73 濃ヶ池附近の斜面 其三 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
74 濃ヶ池附近の斜面 其四 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
75 はくさんばうふう 木曽駒ヶ嶽 1927・8 田邊和雄 武田久吉
76 あらしぐさ 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
77 駒飼池附近の斜面 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
78 よつばしほがまとみやまりんだう 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
79 はくせんなづなの群落 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
80 ちしまぎきゃう 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
81 はゝこよもぎ 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
82 最高点 木曽駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
83 立ち上ったはひまつ 八方尾根 1929・5 田邊和雄 武田久吉
84 きんすげ 鳥海新山 1924・8 武田久吉 武田久吉
85 あをのつがざくらの群落 八甲田山 1925・7 武田久吉
86 あをのつがざくら 刈田嶽 1927・7 武田久吉 武田久吉
87 みやまはんのき 花 渡島駒ヶ嶽 1921・5 武田久吉
88 みやまはんのき 果実 八ヶ嶽 1924・9 武田久吉 武田久吉
89 うらじろなゝかまど 花 月山 1924・8 武田久吉 武田久吉
90 うらじろなゝかまど 果実 鳥海山 1924・8 武田久吉 武田久吉
91 てうかいふすま 鳥海山 1924・8 武田久吉 武田久吉
92 よつばしほがま 鳥海山 1924・8 武田久吉 武田久吉
93 てうかいあざみ 花 鳥海山 1924・8 武田久吉 武田久吉
94 きたあざみ 鳥海山 1924・8 武田久吉 武田久吉
95 河原宿 其一 鳥海山 1925・8 田邊和雄
96 河原宿 其二 鳥海山 1924・8 武田久吉 武田久吉
97 はりぶき 花 八ヶ嶽 1929・7 田邊和雄
98 はりぶき 果実 八ヶ嶽 1924・9 武田久吉 武田久吉 変種 Forma subinerme,TAKEDA
99 みやまぐるまの群落 八ヶ嶽 1926・7 田邊和雄
100 みやまぐるま 花 八ヶ嶽 1926・7 武田久吉
101 みやまぐるま 果実 八ヶ嶽 1927・7 田邊和雄 武田久吉
102 もみぢからまつ 八ヶ嶽 1927・8 田邊和雄 武田久吉
103 砂礫に埋もれ行くはひまつ 根石嶽 1929・9 田邊和雄 田邊和雄 裾野から根石嶽を仰いだ写真(副図武田撮影)
104 やつがたけむぐら 果実 八ヶ嶽 1924・9 武田久吉 武田久吉
105 ごぜたちばなの群落 八ヶ嶽 1926・7 武田久吉
106 ごぜんたちばな 花 八ヶ嶽 1929・7 田邊和雄
107 ごぜんたちばな 果実 八ヶ嶽 1924・9 武田久吉 武田久吉
108 しらねにんじん 岩手山 1925・8 武田久吉
109 ほそばのしらねにんじん 飯豊山 1922・8 武田久吉
110 ひろはのしらねにんじん 那須嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
111 みやまにんじん 那須嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
112 みやまうゐきゃう 花 白馬ヶ嶽 1930・8 田邊和雄
113 みやまうゐきゃう 果実 八ヶ嶽 1924・9 武田久吉 武田久吉
114 くろうすご 花 八甲田山 1925・7 武田久吉
115 くろうすご 花 八甲田山 1925・7 武田久吉
116 くろうすご 果実 八ヶ嶽 1927・9 武田久吉 武田久吉
117 みやまくろうすご 花 刈田嶽 1927・7 武田久吉 武田久吉
118 ながみくろうすご 果実 八ヶ嶽 1927・9 武田久吉 武田久吉 変種 V,axillare,var.obovoideum,TAKEDA
119 えぞくろうすご 花 月山 1924・8 武田久吉
120 えぞくろうすご 残花 鳥海山 1924・8 武田久吉
121 えぞくろうすご 果実 月山 1924・8 武田久吉 武田久吉
122 くろづる 花 月山 1924・8 武田久吉
123 くろづる 果実 月山 1924・8 武田久吉 武田久吉 ripterigyum Regelii,Sprague et TAKEDA
124 ねむろかはほね 花 月山 1924・8 武田久吉 武田久吉
125 胎内岩附近の御花畑 月山 1929・7 田邊和雄 田邊和雄
126 はくさんなづな 花 木曽駒ヶ嶽 1927・8 田邊和雄
127 はくさんなづな 果実 木曽駒ヶ嶽 1931・9 武田久吉 武田久吉
128 むらさきやしほつゝじ 会津駒ヶ嶽 1924・7 武田久吉 武田久吉
129 雪消えて 其一 白馬ヶ嶽 1929・8 田邊和雄 武田久吉
130 雪消えて 其二 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
131 雪消えて 其三 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
132 きぬがささうの群落 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉
133 きぬがささう 花 白山 1929・8 武田久吉 武田久吉
134 さんかえふの 上河内 1929・5 田邊和雄 武田久吉
135 さんかえふの 燧ヶ嶽 1924・7 武田久吉 武田久吉
136 さんかえふ  花 八甲田 1925・7 武田久吉 武田久吉 Diphylleja Grayi,Fr.SCHM.α.typica,TAKEDA 
137 きればさんかえふ 花 尾瀬 1929・6 武田久吉 武田久吉
138 きればさんかえふ 花 尾瀬 1927・6 武田久吉
139 きればさんかえふ 果実 白馬ヶ嶽 1931・8 田邊和雄 武田久吉 変種、葉縁が深く裂れ込み、瞥見ハウチカエデの葉をおもわせる。  Diphylleja Grayi,var.incisa,TAKEDA
140 まるばさんかえふ 果実 白馬ヶ嶽 1931・8 田邊和雄 武田久吉
141 おほうばゆりの群落 上河内 1926・8 武田久吉
142 おほうばゆり 花 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉
143 おほうばゆり 果実 上河内 1929・5 田邊和雄 武田久吉
144 ひめうすゆきの群落 尾瀬 1931・6 武田久吉
145 ひめうすゆき 花 尾瀬 1931・6 武田久吉
146 ひめうすゆき 果実 八ヶ嶽 1931・9 武田久吉 武田久吉
147 はひまつとみやまはんのき 御嶽 1930・9 武田久吉 武田久吉
148 風に靡くみやまはんのき 乗鞍嶽
(白馬山彙)
1931・8 武田久吉 武田久吉 靡く:なびく
149 風に靡くはひまつ 小蓮華嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
150 厳冬の森林限界 八ヶ嶽 1927・1 武田久吉 武田久吉
151 厳冬の高山 八ヶ嶽 1927・1 武田久吉 武田久吉
152 厳冬の阿弥陀ヶ嶽 八ヶ嶽 1927・2 田邊和雄 武田久吉
153 うさぎぎくの群落 乗鞍嶽
(信濃界)
1927・9 武田久吉
154 うさぎぎく 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
155 あはもちごけ 八ヶ嶽 1931・8 田邊和雄 武田久吉
156 さんりんさうの群落 八ヶ嶽 1929・6 田邊和雄 武田久吉
157 みやまぜんこの群落 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉
158 みやまぜんこ 夏澤峠 1922・7 武田久吉 武田久吉
159 おほばなのひめしゃじんの群落 八ヶ嶽 1927・8 田邊和雄
160 おほばなのひめしゃじん  八ヶ嶽 1927・8 田邊和雄
161 おほばなのひめしゃじん 八ヶ嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
162 くるまゆり 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
163 みやまゐの群落 木曽駒ヶ嶽 1931・9 武田久吉
164 みやまゐ 花 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
165 たかねよもぎの群落 裏旭 1931・8 武田久吉
166 たかねよもぎ 白馬ヶ嶽 1930・8 田邊和雄 武田久吉
167 きばなのあつもりさう 八ヶ嶽 1926・7 武田久吉 武田久吉
168 おくやまわらび 乗鞍嶽
(白馬山彙)
1931・8 武田久吉 武田久吉
169 初冬の硫黄嶽 八ヶ嶽 1928・11 田邊和雄 田邊和雄
170 初冬の硫黄嶽 八ヶ嶽 1927・1 武田久吉 武田久吉
171 ひめしゃじん 八ヶ嶽 1926・9 田邊和雄 武田久吉 Adenophora nikoensis,FRANCH.et ASV.forma genuina,TAKEDA
172 急斜面に生じたおほばなのひめしゃじん 八ヶ嶽 1930・8 田邊和雄 武田久吉
173 ほそばひめしゃじん 八ヶ嶽 1930・8 田邊和雄 武田久吉
174 かにかはほりの群落 八ヶ嶽 1927・7 田邊和雄
175 かにかはほり 八ヶ嶽 1927・7 田邊和雄 武田久吉
176 こふたばらんの群落 八ヶ嶽 1927・7 田邊和雄
177 こふたばらん 八ヶ嶽 1926・8 田邊和雄 武田久吉
178 みつばわうれん 其一 会津駒ヶ嶽 1924・7 武田久吉
179 みつばわうれん 其二 小旭嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
180 すぎかづら 八ヶ嶽 1924・9 武田久吉 武田久吉 Lycopodium annotinum,LINN.α.angustatum.TAKEDA
181 うらじろたで 果実 那須嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉 Pleuropteropyrum weyrichii,α.genuinum,TAKEDA
182 うらじろたでとはまなし 沼ノ端 1921・7 武田久吉 武田久吉
183 おほばたけしまらん 八ヶ嶽 1926・7 武田久吉 武田久吉
184 おほばたけしまらん 枝 記述なし 1926・7 武田久吉 武田久吉
185 しろばなのへびいちご 富士山 1930・7 田邊和雄 注 記述者名なし
186 たてやまきんばい 小旭嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
187 たかねゐ 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 注 記述者名なし
188 はひまつとこけもゝ 燧ヶ嶽 1931・6 武田久吉 武田久吉
189 えぞほそゐの群落 飯豊山 1922・8 武田久吉 武田久吉
190 うらじろなゝかまど 花 裏旭嶽 1931・8 武田久吉
191 うらじろなゝかまど 果実 御嶽 1927・8 武田久吉 武田久吉
192 しゃくなげ 蕾 阿能川嶽 1922・5 武田久吉 武田久吉
193 しゃくなげ 花 谷川富士 1922・5 武田久吉 武田久吉
194 しゃくなげの群落  富士山 1930・7 田邊和雄
195 しゃくなげ 花 八ヶ嶽 1922・7 武田久吉 武田久吉
196 厳冬のしろしゃくなげ 八ヶ嶽 1927・1 武田久吉 武田久吉
197 早春のしろしゃくなげ 天狗山 1926・3 武田久吉 武田久吉
198 さんりんさう 野辺山ノ原 1922・6 武田久吉 武田久吉
199 のうがういちご 花 白馬ヶ嶽 1931・8 田邊和雄
200 のうがういちご 果実 白馬ヶ嶽 1930・8 田邊和雄 武田久吉
201 きれはのはくさんぼうふう 記述なし 1931・8 田邊和雄 武田久吉 Peucedanum multivittatum,MAXIM.var.dissectum,(MAKINO) TAKEDA
202 たかねすぎかづら 岩手山 1925・8 武田久吉 武田久吉
203 いはせんとうさう 八ヶ嶽 1925・7 武田久吉 武田久吉
204 みやまこげのり 燧ヶ嶽 1931・6 武田久吉 武田久吉
205 こまがたけすぐり 花 八ヶ嶽 1927・5 武田久吉
206 こまがたけすぐり 果実 八ヶ嶽 1927・9 田邊和雄 武田久吉
207 つるつげの群落 八ヶ嶽 1925・8 武田久吉 武田久吉
208 はひまつの芽生 乗鞍嶽
(白馬山彙)
1931・8 武田久吉 武田久吉
参考 高山植物写真図聚 壹  所収「高山植物概説P139」の冒頭部分
 「高山植物」といふ成語が我国に出来てから三〇数年を経た。その間、高山の探険も年に月に進み、高山植物に関する知識も漸を逐(お)うて増加するに至った。尤(もっと)も維新の本草学時代にも、高山植物の或る種類は下界に拉致され、その名称や効用の明にされたものも少なくないが、地理的、分類的、又は生態的に高山植物の研究が行はれ、更にその栽培の技術の進歩したのは、最近三−四〇年末の事である。その間にあって、親しく斯学発達の径路を目指するの光栄に浴した筆者の感慨は寔(まこと)に無量と称するの外ない。
 高山上に於ける植物分布の状態、即ち高山の麓から頂上に至る間に、所生の植物の種類が漸次に変化する有様については、書籍の上からと、実地についてとの両方面から研究が進められた。文献上に見られる学説は、主として欧米の高山に関する研究であるから、その大綱は勿論参考とするに足りるが細目を悉(ことごと)く、我国の山嶽に移し植ゑることは出来ない。従って、この机上の学問の上に、実際の知識を建てたのでなくては、とかく空論に陷(おちい)り易い。假令又実地の経験を得る機会があっても、観察が不充分な場合には、却って「学説」に捉はれ、為めに正鵠を失することが少なくない。要は広く各地の高山について、詳に観察し、深く考究することである。
 それにも拘らず、先輩諸大家の間には、事実に立脚しない一種の説が行はれ、時にはそれが奇しくも学界に横行したことさへある。剩へその僻論空説なるものが、中等教育に迄侵入して文部省検定済の教科書にさへ、姿を顯すに至っては、教育界の痛恨事といはざるを得ない。
(略)
 ※注意(検討要) 「高山植物写真図聚 壹・弐(共編)」、発行日以降の日付で記述されていた撮影月(含6月)
    実際の発行は6月ではなく、もしかして10月以降か、また、次年には高山植物418葉を収める新たな増刊がなされました。
      刊行過程の検討要 2014・11・1 保坂記 
 
6月初旬、尾瀬沼を訪う  昭和8年、「旅尾瀬と奥日光を訪うて」より。
6月、尾瀬に於いて、「みずばせう・ひめうすゆきとむらさきたちあふひ・わたすげ」の写真撮影を行う。                       「高山植物写真図聚  2−No338 334」より
調査の日の検証資料
(略)
ムラサキタチアフヒ(立葵)の花を精査して見ると、第三三八図に示したやうに三枚の弁片と六本の雄蘂(おしべ)を有するのが定規であるが、時には常のエンレイサウの雄蘂の数が定数よりも不足し、而してその減少した丈けが弁片に変形したものもある。筆者は斯かるものを一九三一年六月尾瀬沼畔檜ノ突出附近に発見した。(略)                 高山植物写真図聚  2−No338 むらさきたちあふひ」の項より
6月、燧ヶ嶽に於いて、「はひまつ・こけもも・みやまこげのり」の写真撮影を行う。
          
「高山植物写真図聚」より 登山記録については検討要
8月、那須嶽に於いて、「ひろはのしらねにんじん・みやまにんじん・うらじろたで」の写真撮影を行う。 
          「高山植物写真図聚」より 登山記録については検討要
8月、白馬ヶ嶽に於いて、「雪消えて・きぬがささうの群落・おおうばゆり・うさぎぎく・みやまぜんこ・くるまゆり・みやまゐ・おくやまわらび・たかねゐ・みやまむらさき群落・こばいけいさう・いはべんけい・しなのきんばい・おやまのゑんどう・はくさんいちげ・みやまくはがた・はくさんこざくら・たかねうすゆきさう・みんずはう・葱平の御花園・はなうど・いはぶすま・うるっぷさう・きをん・こまくさ群落・みやまむらさき」の写真撮影を行う。
    「
高山植物写真図聚1 高山植物写真図聚2 No303 217 218 220 222 229 238 252 255 272 274 
      284 285 296 302 305 308 365 403 304」より 
登山記録については検討要
8月、八方尾根に於いて「こばいけいさう」の写真撮影を行う。
        高山植物写真図聚2 No219」より 登山記録については検討要
8月、乗鞍嶽(白馬山彙)に於いて、「みやまはんのき・はひまつ・しなのきんばい・いはいてふ・はひまつの下生・はくさんしゃくなげの餅病・はくさんこざくら」の写真撮影を行う。
    
「高山植物写真図聚1 高山植物写真図聚2 No230 235 248 249 271 273」より 登山記録については検討要
8月、白馬ヶ嶽村営小屋下において「杓子と鑓ヶ嶽」の景観写真を撮影する。
          
「高山植物写真図聚2 No293」より 登山記録については検討要
8月、杓子ヶ嶽に於いて、「おほれいじんさう・裸地に植民するみやまはんのき」の写真撮影を行う。
          
「高山植物写真図聚2 No234 295」より 登山記録については検討要
8月、小蓮華嶽に於いて、「はひまつ」の写真撮影を行う。
        「高山植物写真図聚」より 登山記録については検討要
8月、裏旭岳に於いて、「たかねよもぎ・うらじろななかまど・いはつめくさ・みやまかうぞりな」の写真撮影を行う。
          
「高山植物写真図聚1 高山植物写真図聚2 No309 407」より 登山記録については検討要
8月、鑓ヶ嶽に於いて、「きばなしゃくなげ・きばなしゃくなげの餅病・たかねきんぽうげ」の写真撮影を行う。              高山植物写真図聚2 No350 353 404」より」より 登山記録については検討要
8月、小旭岳に於いて、「みつばわうれん・たてやまきんばい・みやまたねつけばな」の写真撮影を行う。          「高山植物写真図聚1 高山植物写真図聚2 No245」より」より 登山記録については検討要
8月、乗鞍嶽(信越界)に於いて、「つがざくら・はくさんおほばこ」の写真撮影を行う。
          
高山植物写真図聚2 No406 405より」より 登山記録については検討要
8月、小夕張岳に於いて、「えぞるりさう」の写真撮影を行う。
         高山植物写真図聚2 No408より」より 登山記録については検討要
9月、木曽駒ヶ嶽に於いて、「はくさんなづな・みやまゐ」の写真撮影を行う。
           
「高山植物写真図聚」より 登山記録については検討要
9月、八ヶ嶽に於いて、「ひめうすゆきさう・あはもちごけ・へらたけ・・」の写真撮影を行う。
           「
高山植物写真図聚1 高山植物写真図聚2 No259」より 登山記録については検討要
9月、仙水峠に於いて、「はひまつとみやまはなごけ」の写真撮影を行う。
         高山植物写真図聚2」 No289より 登山記録については検討要
6月12日付、牧野富太郎が武田博士宛てに書簡を送る。
返事の遅れた詫び、お尋ねの athyrium melanolepis(ミヤマメシダ)について、高山植物写真帖への賛辞 
         
横浜開港資料館 久吉(書簡) No 1188 
6月22日付、尾崎喜八が、東京日日新聞に「『高山植物寫眞圖聚』武田博士」を紹介する。
(新聞記事の全文)理学博士武田久吉氏が本邦高山植物研究の泰斗である事は言を俟たない。同時に博士がわが国登山界の大先輩の一人であり、学術的価値の最も高い写真撮影の大家である事も既に衆知の事実である。しかも純正科学者としての博士のきびしい潔癖は、従来幾多書肆の懇望に拘らず、その苦心惨憺の実地撮影にかかる高山植物生態写真の出版を営利のほかに心無き出版者の手に遂に許さず、為にあたら至宝も永く吾々の眼に触れる事無く過ぎたのであった。今度書肆梓書房が時運に会し、博士の信任を〇ち得て、採算を度外視してこの出版を敢行した事は、それ故吾々の大いなる歓迎と欣びとでなければならない。 高山植物の眞と美とを実に生々と吾々の眼前に展開するこの比類無い生品実写の写真図譜は、先づ白井光太郎博士の見事な題簽の文字をもって始まる。二十枚の写真は悉く精巧な網目版で、製版印刷共に申しぶん無く、大體縦十六ミリ横二十二ミリといふ十分な寸法で第二倍の堅緻なアートポスト紙に印刷されてゐる。 第一輯開巻劈頭の「高山の外観」こそ素晴らしい。これはわが國高山植物の宝庫八げ嶽の舊火口壁を埋める亞高山帯の密林と、清純なアルペンフロラに彩られた高山帯とを一望の下に収めた大景観で、直に絢爛富贍の極みである。更に乗鞍岳のハヒマツの海、木曾御嶽の峰頭で霧の晴れた間に咲きこぼれるイハツメグサの花、さては白山、八ヶ嶽、八甲田山、御嶽に生を営んでゐるシラタマノキのそれぞれの生態。その他すべて驚くべく愛すべき幾多高嶺の植物の固体や群落の実写で無いものはない。更に別冊の解説が博士自身の筆になる懇切な興味津々たるものである事も付言しなければならない(神田区北甲賀町四梓書房刊行、第一巻第一輯、予約定価各輯金貮圓)
7月22日、朝鮮の名山、智異山頂から降りる京大の演習林内で連理の枝を発見する。
連理の枝」の発見
(略)翌年の夏七月二十二日には朝鮮の名山智異山頂から白武洞に降る途上ーー矢張り京大の演習林内ーー一二八二米独立標高点の梢上方で、モンゴリナラの連理を発見した。(略)  
 
 尚、連理の発見年は「連理の枝」の文章から逆算して決めました。 「昭和14年7月発行・ドルメン 7月号 P35」より
7月、「文芸春秋 7月号」に「鬼怒沼」を寄稿する。pid/3197614
7月25日、山口成一が「山岳 26巻2号」に「雜録 東京から見える山の寫眞」を寄稿する。
8月、「婦人之友 第25巻第8号 「山を愛す」号」に10枚のグラビア写真と「高山植物」を寄稿する。pid/3562558
日本の山岳風景 / 小島烏水
南アルプスと北アルプス / 冠松次カ
上高地附近 / 田部重治
美ヶ原 / 藤島敏男
八ヶ岳 / 石井鶴三
三國山と苗場山 / 木暮理太カ
アルプスところどころ / 松方三カ
山小屋の生活 / 浦松佐美太カ
高山植物 / 武田久吉
婦人の山登りの準備について / K田初子
婦人團體登山 / 足立源一カ

9月、学生の指導旅行で八ヶ岳の本澤温泉に宿泊する。 「山・本澤温泉とマルメロ」より
9月、「日本地理大系 別巻5 富士山(編者)」を「改造社」より刊行。
    富士山を各方面から写した92枚中、88枚を武田博士が撮影する。

 「富嶽八面相」より スケッチ図

富士山概説目次
風景の保護と改造(序言) 武田久吉
はしがき 小林義秀
富嶽八面相 武田久吉
地況概説 小林義秀
富士を廻る三線
 お鉢廻り・中道廻り・麓の一週
武田久吉
富士登山の起りと登山道の改廃 小林義秀
富士山の撮影 武田久吉
富士山科学研究の略史 小林義秀
植物景観
 東北側の植物景・北側ー・西北側ー・西南側ー・南側及東南側の植物景
植物帯
  富士植物帯の諸説・吉田口登山路に於ける植物帯
  精進口登山路に於ける植物帯・大沢右岸の植物帯・表口の植物帯
  東表口の植物帯・東口の植物帯
小林義秀
笠雲 武田久吉

 二十曲峠からの富士
中道巡りの一隊 P114

 石割山の西北約半里、鹿留川の上流から内野に越える二十曲り峠の頂に登りついた瞬間、眼前に現れた神神しい富士の姿に、誰しも襟を正すであらう。山頂の右端には釈迦ヶ嶽が尖り、その左には薬師ヶ岳とその直下の「御額」が力強い一線を割し、更に左に続いて今いふ大日嶽から伊豆ヶ嶽が隆起し、一旦勢至ヶ窪に下ってから、左端に至勢ヶ(成就)嶽が立つ。(一月)(武田久吉)


風景の保護と改造 −序言に代へて−
 
(略) 風景の破壊は、彼の廃仏毀釈の如きと異って、破壊そのものを目的として行はれることは勿論無いが、何かの工事、殊に文化的事業の副産物として、多少の差こそあれ、風致を一時的又は永久的に葬り去る場合が多い。その大立物は何と言っても水電事業で、それに亞いでは鉱山とか、森林の伐採とかであり、小規模のものでは、道路工事、鉄道の布設、電柱の樹立、架橋乃至は家屋の建設の如きである。然しこれ等の事業も、場合によっては、多少の考慮を費しさへすれば、風景の破壊を全然ーと行かなくとも或る程度までー避け得られるに拘らず、それを敢て為ないのは、寔(まこと)に惜しむ可きことである。而も斯ることは、殆ど日常目撃する程普通であるとは、眞に歎ず可きことと言わねばならない。
 然し乍ら、企業家の立場になって見ると、風景を顧慮し、その破壊を避けて居たのでは、仕事はとかく掣肘され勝ちであり、又経済的にも斯る理想論に耳を傾けて居られまい。とは言へ、その間に在って、国家的の見地からして風致と事業との価値の高低を比較研究し、両者の間を巧に調節してー勿論場合によっては風景を犠牲に供することもあらうし、また時には施業を絶対に禁ずることに吝ならずー
(略)
 
名勝の保護とか、国立公園候補地選定とかの議論も久しいものであるが、不思議なことには、風景を根本的に解剖し、その要素を抉剔し、その一つ一つを検討して、風景の構成に就いて論じ、その変化、破壊、改良、助成から綜合に及ぶまで詳しく記述し、以て風景研究家の参考に資す可き種類の図書は、喫緊の要あるにも拘わらず、不幸にして未だその道の大家の手によっても編纂されて居ない。(略)
11月、九州帝大農学部講師。
12月、「信濃教育会北安曇部会編」による、「信州北安曇郡郷土誌稿 第三輯 「年中行事編」」が発兌される。
○この年、中井猛之進が「植物学雑誌45巻539号」に「日鮮産ひごたい属ノ智識ヘ一寄与」を寄稿する。同論文内に、5)白峯ひごたい(新種)Saussurea kai−montana TAKEDAと 14)うすゆきとうひれんノ諸変種 うすゆきとうひれん Saussurea Yanargisauce TAKEDAハ北海道アシベツ山、カムイメトクヌプリ山、大雪山等ニ生ズル高山植物デ葉ハ・・(略)と、学名に「TAKEDA」と名の付いた2種の所見を記す。
1932 昭和7年 49
1月16日、母かねが亡くなる(享年80才)
1月29日、平野長英が、「京大の方々の登山に先立ち雪の状態を報告、人夫賃等改正につき日定賃金表を同封」を博士宛てに送る。   「横浜開港資料館 久吉(書簡)目録 1146」より
3月1日、満州国建国宣言
  
3月、「日本山岳会 会報 13号」に「岩登りの思ひ出」を寄稿する。
4月4日、上野精養軒に於いて「日本植物学会五十年記念懇親会が開かれ、白井光太郎博士の卓上演説を拝聴する。
5月13日から18日、白馬山麓の植生を卒業論文とする京大の学生指導のため、春の白馬山を訪ねる。
5月14日(土)  白馬山麓の細野に先着の学生からは、山麓の春景色を報じて入山を促して来たので、五月十四日の夜10:43分の列車に乗る。土曜のため山行の客で殆ど満員の様子であったが、上野原で20〜30名程下車した。
5月15日(日) 朝7:05分松本着→神城→(徒歩)→四ツ屋→平川の碩→細野の丸山静男方→平川の碩の途中(キバナノイカリソウ・ショウジョウバカマ・ヤブスミレ・カタクリ→川畔へ(ミヤマカワラハンノキ・ヒメヤシャブシ)→細野・丸山静男方(泊)
5月16日(月) 野の丸山静男方→二股→沼池→猿倉→長走沢→追上げ沢を過ぎて中食(ブナ)→葱平(ねぶかびら)→白馬山頂小屋(泊)
5月17日(火) 白馬山頂小屋(ハイマツ)→信州・越中・越後の三国境→白馬山頂小屋で中食→旭(ミヤマクワガタ・オンタデ・ウルップソウ)→白馬山頂小屋(泊)
5月18日(水) 白馬山頂小屋→信越境の丸山→杓子→小鑓→天狗の大下り→烏帽子の南の沢と大下りの沢の合流点→八方の池→細野の丸山静男を訪ねる。
5月19日(木) このまま帰京か、「春の白馬山」の文章からは不明。調査要 2015・1・12 保坂
注意:植生調査が、昭和7年である理由。:出発日が5月14日(土)は昭和2年と7年であったが、昭和2年は、10月から京都帝大農学部講師(至昭和14年3月)に任命されているため、年譜では昭和7年として表示しました。尚、「春の白馬山」の文章は「続原色日本高山植物図鑑P84〜P92 昭和42年5月 増訂5刷」より引用しました。2015・1・9 保坂記
5月、白馬ヶ嶽に於いて、「春の訪れ 其二」と題し写真撮影を行う。高山植物写真図聚2 No251」より 
 
 高山植物写真図聚 弐 No251」より
参考 「高山植物写真図聚 弐」の説明文より
二五一 「春の訪れ 其二(約1/6) 白馬ヶ嶽  一九三二年五月
                               武田久吉撮影
(略)第二五一図は五月の中旬、白馬山頂直下の南斜面で、ハヒマツ等が消えゆく雪を破って現われた有様で、この時期には岩雲雀は岩角に立って瀏亮たる春の音楽を奏し、雷鳥は雌雄相呼び相伴うて睦じ気に無人の山上を闊歩して居る。
   瀏亮(りゅうりょう):楽器・音声がさえてよく響くさま。
     闊歩(かっぽ): 大またで堂々と歩くこと。  

5月、小蓮華嶽に於いて、「積雪に保護されたはひまつ 春」と題した写真撮影を行う。高山植物写真図聚2 No312」より 
5月末、始めての信州松本とその周辺で道祖神や庚申塔の調査を行う。
   岡書院の坂口保治の紹介で松本銀行の胡桃沢勘内に協力を求めた。この調査をご縁に親交を深める。    
勘内は到着の翌日(5月22日)、松本市内西北部の蟻ヶ崎塩釜神社の双体道祖神を最初に案内する。
◎調査のコース 案内人(胡桃沢勘内・当時5才の友男も同行)
(午前)→蟻ヶ崎塩釜神社境内の道祖神→姫宮社境内の陰石→同じ蟻ヶ崎の路傍に立つ青面金剛塔→沢村道祖神(裏面の撮影は失敗、3回目にて漸く成功する。・
友男同伴はここまで)→(信濃鉄道)→北松本・白板の道祖神→(午後)→市内東部・清水道祖神→四ツ谷の十字路脇道祖神→(市内西南部の調査については不明)→帰京
5月25日付、松本市内調査の礼状を胡桃沢勘内宛てに送る。
 先達而が御多用中の折柄にも不拘市内各地の道神へ御案内被下御芳情清謝し奉候早速現像を試み候処大部分は遺憾乍不出来にて甚だ汗顔の至りに候へ共一と通り焼付け候上御座右に呈して御笑覧に供し候。中にも澤村のものは最も拙劣にて何とも残念に候 次回はレンズその他に工夫を試み雪辱致し度く、尚その際には同地の木彫のもの(橋浦氏の書物八八)も撮影致し度くと存じ候 上州及び甲州にて先年撮影候中の二三年代古きものを差加へ候 御参考と相ならば幸甚に候
            同封の写真 甲州:富士山麓中野村山中 道祖神1枚   上州:利根郡水上町藤原 道祖神2枚
                    資料 胡桃沢友男著 「高嶺の花から路傍の石仏へ (一)」より
6月、牧野富太郎が「面白い理科 第一巻第五號」に「日本名物ハナシャウブ」を寄稿する。武田家収蔵本
6月、「改造 6月号」に「〇」を寄稿する。 内容未確認のため再調査要 2017・4・5 保坂記
6月10日、「高山植物写真図聚 壹  (共著)」を「梓書房」より()刊行する。
   
 田辺和雄氏との共同編者、壱巻で95種、弐巻で125種を収録する。
     
高山植物写真図聚 壹輯     高山植物写真図聚 貳輯       高山植物写真図聚解説 壹輯  高山植物写真図聚解説 貳輯 
第二巻の発刊に當って(全文)
 昨春本圖聚の刊行を計画するに方って、それが本邦に於てはこの種のものゝ最初の試であったが為に編輯の苦心は別として製版や印刷の技術に多少の懸念を有すると共に購買者の期待を満たし得るや否やについても少なからず心を労したのであった。然るに、幸にもその成績は不良に終わらずして、月々の発行も大過なく進行し予定の如く前後10輯を完了して、200葉(208圖)の写真は今や堆(うずたか)く積まれ、深さ六糎に餘る※1帙を満たすことが出来たのは、編者の大に※2欣幸とするところである。而も読者の大多数は続いて第二巻の刊行を※3慫慂せられるので、更に同一方針の下に継続することゝなった。
 本圖聚は元来各植物の
※4形貌を示すと共に、生育の状態を可及的多くの場合について収録するに努め、単に植物志たることのみを目標としないから、同一種の植物が再三掲載されることは予期されなければならない。種々の植物の発芽から結実迄の諸相を集め、又生育地の状況を遺漏なく記録する為には、今後更に第三第四と巻を続ける必要も起らうが、幸いにして読者諸氏の真摯な後援によって、終には欧米にも比類のない、高山植物写真の一大集成たらしめんことを冀(こいねが)って止まない。
      昭和七年四月上浣        
武田久吉
                  田邊和雄
  ※1帙(ちつ):書物の損傷を防ぐために包む覆い。厚紙を芯(しん)とし、表に布をはって作る。文巻(ふまき)。文包(ふみづつみ)。
   ※2:欣幸(きんこう)幸せに思って喜ぶこと。「―の至り」   
※3:慫慂(しょうよう):そうするように誘って、しきりに勧めること
   
※4:形貌(けいぼう):すがた。かおかたち。容姿。
写真の表題 撮影場所 撮影月日 撮影者 執筆者 特記事項
209 みやましゃじん 群落 鳳凰山 1924・8 武田久吉 武田久吉
210 はごろもぐさ 白馬ヶ嶽 1930・8 田辺和雄 武田久吉
211 はひまつ  雄花と若い毬果 八ヶ岳 1927・7 田辺和雄
212 はひまつ 成熟した毬果 八ヶ岳 1930・8 田辺和雄 武田久吉
213 つるひげ 果実 八ヶ岳 1925・7 武田久吉 武田久吉
214 しゃうじゃうばかま 三国峠
(上州)
1922・5 武田久吉 武田久吉
215 つばめおもと 花 十文字峠 1922・6 武田久吉 武田久吉
216 つばめおもと 果実 鳥海山 1924・8 武田久吉 武田久吉 クロミノツバメオモト(Forma nigra,TAKEDA)
普通品(Forma azurea,TAKEDA)
217 こばいけいさう 群落 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉
218 こばいけいさう  花 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉
219 こばいけいさう 果実 八方尾根 1931・8 武田久吉 武田久吉
220 いはべんけい 雄本 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉
221 いはべんけい 雌本 白馬ヶ嶽 1931・7 田辺和雄
222 いはべんけい 果実 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉 Sedum roseum,Tachiroei,TAKEDA
223 ちちっぱべんけいさう 飯豊山 1922・8 武田久吉 武田久吉
224 いはうめ 群落 燧ヶ嶽 1924・7 武田久吉
225 いはうめ 花 八ヶ岳 1925・7 武田久吉
226 いはうめ 果実 八ヶ岳 1924・9 武田久吉 武田久吉
227 べにばないちやくさう 群落 梓山 1922・6 武田久吉
228 べにばないちやくさう 梓山 1922・6 武田久吉 武田久吉
229 しなのきんばい 群落 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉
230 しなのきんばい 花 乗鞍嶽
(白馬山彙)
1931・8 武田久吉
231 しなのきんばい 果実と残花 飯豊山 1922・8 武田久吉 武田久吉
232 えぞひかげのかづら 飯豊山 1922・8 武田久吉 武田久吉
233 おにしほがま 飯豊山 1922・8 武田久吉 武田久吉
234 おほれいじんさう 杓子ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
235 いはいてふ 群落 乗鞍嶽
(白馬山彙)
1931・8 武田久吉 武田久吉
236 にっくゎうきすげ 群落 上河内 1927・7 田辺和雄
237 にっくゎうきすげ 飯豊山 1922・8 武田久吉 武田久吉
238 おやまのゑんどう 花 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉
239 おやまのゑんどう 果実 八ヶ岳 1926・9 田辺和雄 武田久吉
240 えぞおやまのゑんどう 果実 大雪山 1928・8 武田久吉 武田久吉
241 いはぶくろ 群落 鳥海山 1924・8 武田久吉
242 いはぶくろ 花 岩手山 1925・8 武田久吉
243 裸地に植民するいはぶくろ 岩手山 1925・8 武田久吉 武田久吉
244 ほそばのいはべんけい 果実 鳥海山 1924・8 武田久吉 武田久吉
245 みやまたねつけばな 群落 小旭岳 1931・8 武田久吉 武田久吉
246 みやまたねつけばな 花 大日嶽
(飯豊山彙)
1922・8 武田久吉
247 みやまたねつけばな 果実 大日嶽
(飯豊山彙)
1922・8 武田久吉 武田久吉
248 はひまつの下生 乗鞍嶽
(白馬山彙)
1931・8 武田久吉 武田久吉
249 はくさんしゃくなげの餅病 乗鞍嶽
(白馬山彙)
1931・8 武田久吉 武田久吉
250 春の訪れ 其一 一切経山 1926・4 武田久吉
251 春の訪れ 其二 白馬ヶ嶽 1932・5 武田久吉 武田久吉
252 はくさんいちげ 群落 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉
253 はくさんいちげ 花 白馬ヶ嶽 1931・7 田辺和雄
254 はくさんいちげ 残花と果実 月山 1924・8 武田久吉 武田久吉
255 みやまくはがた 群落 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉
256 みやまくはがた 白馬ヶ嶽 1929・8 田辺和雄 武田久吉
257 まひづるさう 花 八ヶ岳 1930・7 田辺和雄
258 まひづるさう 果実 富士山 1923・7 岡田喜一 武田久吉
259 へらたけ 八ヶ岳 1931・9 武田久吉 武田久吉
260 ふいりみづばせう 尾瀬 1927・6 武田久吉 武田久吉 Lysichiton camtschatcense,Schott var.Maculosa,TAKEDA
261 くろゆり 群落 白馬ヶ嶽 1931・8 田辺和雄
262 くろゆり  花 八ヶ岳 1925・7 武田久吉
263 くろゆり 花 八ヶ岳 1926・7 武田久吉
264 くろゆり 果実 八ヶ岳 1927・8 田辺和雄 武田久吉
265 ばいけいさう  萌發 上河内 1925・5 武田久吉
266 闊葉樹林内のばいけいさう 富士山 1923・7 武田久吉
267 高山帯のばいけいさう 御嶽 1922・8 武田久吉
268 ばいけいさう  果実 東駒ヶ嶽 1927・9 田辺和雄 武田久吉
269 たかねしほがま  花 八ヶ岳 1927・8 田辺和雄
270 たかねしほがま 残花と果実 八ヶ岳 1924・9 武田久吉 武田久吉
271 はくさんこざくら 群落 乗鞍嶽
(白馬山彙)
1931・8 武田久吉
272 はくさんこざくら 群落 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉
273 はくさんこざくら 花 乗鞍嶽
(白馬山彙)
1931・8 武田久吉 武田久吉 シロバナハクサンコザクラ/Forma albiflora,TAKEDA
274 たかねうすゆきさう 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
275 たかねあおやぎさう 花 八ヶ岳 1926・8 田辺和雄
276 たかねあおやぎさう 果実 八ヶ岳 1927・8 田辺和雄 武田久吉 Veratrum longebracteatum,TAKEDA.
277 えぞにう 群落 西駒ヶ嶽 1927・8 武田久吉
278 えぞにう 花 八ヶ岳 1927・8 田辺和雄 武田久吉
279 こがねいちご 花 黒岩山 1924・7 武田久吉
280 こがねいちご 果実 八ヶ岳 1927・9 田辺和雄 武田久吉
281 こけもゝ 花 富士山 1930・7 田辺和雄
282 こけもゝ 花 富士山 1930・7 田辺和雄
283 こけもゝ 果実 八ヶ岳 1927・9 武田久吉 武田久吉
284 みねずはう 花 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 -
285 みねずはう 果実 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
286 みやまあづまぎく 群落 白馬ヶ嶽 1931・8 田辺和雄
287 みやまあづまぎく 花 白馬ヶ嶽 1931・8 田辺和雄
288 みやまあづまぎく 花 白馬ヶ嶽 1930・8 田辺和雄 武田久吉
289 はひまつとみやまはなごけ 仙水峠 1931・9 武田久吉 武田久吉
290 しらねあふひ 萌發 藻岩山
(北海道)
1921・4 武田久吉
291 しらねあふひ 蕾 尾瀬 1927・6 武田久吉
292 しらねあふひ 花 藻岩山 1921・5 武田久吉 武田久吉
293 杓子と鑓ヶ嶽 白馬ヶ嶽
村営小屋下
1931・8 武田久吉 武田久吉
294 杓子ヶ嶽の崩壊地 杓子ヶ嶽 1931・8 田辺和雄 武田久吉
295 裸地に植民するみやまはんのき 杓子ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
296 葱平の御花圃 其一 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
297 葱平の御花圃 其二 白馬ヶ嶽  1931・8 田辺和雄 武田久吉
298 しろうまあさつき 若い花 白馬ヶ嶽 1931・8 田辺和雄
299 しろうまあさつき 未開の状 白馬ヶ嶽 1931・8 田辺和雄
300 しろうまあさつき 満開の花 白馬ヶ嶽 1931・8 田辺和雄 武田久吉
301 はなうど 群落 白馬ヶ嶽 1929・8 田辺和雄
302 はなうど  白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
303 みやまむらさき 群落 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉
304 みやまむらさき 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
305 いはぶすま 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
306 みやまをだまき 白馬ヶ嶽 1931・8 田辺和雄 武田久吉
307 うるっぷさう 群落 白馬ヶ嶽 1929・8 田辺和雄
308 うるっぷさう 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 たけだ
309 いはつめくさ 裏旭嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
310 みやまりんだう 白馬ヶ嶽 1929・8 田辺和雄 武田久吉
311 積雪に保護されたはひまつ 夏 小蓮華嶽 1929・8 田辺和雄
312 積雪に保護されたはひまつ 春 小蓮華嶽 1932・5 武田久吉 田辺和雄
313 初冬の富士山腹 富士山 1928・12 武田久吉 武田久吉
314 横吹附近の植生 富士山 1926・9 武田久吉 武田久吉
315 だけかんばとみやまはんのき 富士山 1928・9 武田久吉 武田久吉
316 雪中のだけかんば 富士山 1928・12 武田久吉 武田久吉
317 雪を捉へたからまつ 富士山 1927・12 武田久吉 武田久吉
318 風に櫛られたこめつが  一 富士山 1932・8 武田久吉
319 風に櫛られたこめつが  二 富士山 1932・8 武田久吉 武田久吉
320 みやまはんのきと
みやまをとこよもぎ
富士山 1926・9 武田久吉 武田久吉
321 みやまをとこよもぎ 富士山 1932・8 武田久吉 武田久吉
322 こけもゝとおんたで及び
みやまやなぎ
富士山 1926・9 武田久吉 武田久吉
323 おんたで  花 富士山 1930・7 田辺和雄
324 おんたで  果実 富士山 1932・8 武田久吉 武田久吉 Pleuropteropyrum Weyrichii Gross,var.alpinum,TAKEDA
325 めいげつさう 花 富士山 1932・8 武田久吉
326 めいげつさう 果実 富士山 1932・8 武田久吉 武田久吉
327 風に弄ばれためいげつさう 富士山 1926・9 武田久吉 武田久吉
328 むらさきもめんづる 群落 富士山 1932・8 武田久吉
329 むらさきもめんづる  花 富士山 1932・8 武田久吉 武田久吉
330 ふじはたざほ  花 富士山 1930・7 田辺和雄
331 ふじはたざほ 果実 富士山 1932・8 武田久吉 武田久吉
332 たかねすぎごけ 富士山 1932・8 武田久吉 武田久吉
333 わたすげ 乗鞍大池 1931・8 田辺和雄
334 わたすげ 尾瀬 1931・6 武田久吉
335 わたすげ 乗鞍大池 1932・8 武田久吉 武田久吉
336 えんれいさう 八ケ岳 1926・7 田辺和雄
337 えんれいさう 白馬ヶ嶽 1932・8 武田久吉 武田久吉 Trillium smallii,MAXIM.Α.Apetalon,(MAKINO)TAKEDA 
338 むらさきたちあふひ 駒ヶ嶽
(渡島)
1921・5 武田久吉 武田久吉
339 いはなし 花 小出俣嶽 1925・5 武田久吉
340 いはなし 花 天神峠
(谷川)
1922・5 武田久吉
341 いはなし 果実 乗鞍嶽
(信越界)
1932・8 武田久吉 武田久吉
342 みやまだいこんさう 群落 乗鞍嶽
(信越界)
1932・9 武田久吉
343 みやまだいこんさう 八ヶ岳 1930・8 田辺和雄 武田久吉
344 ひあふぎあやめ  群落 夕張嶽 1921・8 武田久吉
345 ひあふぎあやめ 花 乗鞍嶽
(信越界)
1932・8 武田久吉 武田久吉
346 こすぎらん 白馬ヶ嶽 1932・8 武田久吉 武田久吉
347 くまゐので 萌發 燧ヶ嶽 1924・7 武田久吉
348 くまゐので 白馬ヶ嶽 1932・8 武田久吉 武田久吉
349 きばあなしゃくなげ 群落 白馬ヶ嶽 1931・7 田辺和雄
350 きばあなしゃくなげ 花と蕾 鑓ヶ嶽 1931・8 武田久吉
351 きばなしゃくなげ 果実 槍ヶ嶽 1932・9 武田久吉 武田久吉
352 やへきばなあしゃくなげ 穂高嶽 1927・7 田辺和雄 武田久吉 Rhododendron chrysanthum,PALL.Monstr.Senanese,(YABE)TAKEDA
353 きばなしゃくなげの餅病 鑓ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
354 えぞつゝじ 群落 夕張嶽 1921・8 武田久吉
355 えぞつゝじ  岩手山 1925・8 武田久吉 武田久吉
356 みそがさう  群落 白馬ヶ嶽 1932・8 武田久吉 武田久吉
357 ごえふいちご 果実 八ヶ岳 1927・9 田辺和雄 武田久吉
358 おやまりんだう 蛙岩附近 1932・9 武田久吉 武田久吉
359 しゅろさう 岩手山 1925・8 武田久吉 武田久吉
360 ねばりのぎらん 八ケ岳 1930・8 田辺和雄 武田久吉
361 いはてたうき 岩手山 1925・8 武田久吉 武田久吉
362 うこんうつぎ 岩手山 1925・8 武田久吉 武田久吉
363 裸地に生へたおやまそば 岩手山 1925・8 武田久吉
364 草地にあるおやまそば 小蓮華嶽 1930・8 田辺和雄 武田久吉
田辺和雄
365 きをん 群落 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉
366 きをん  富士山 1932・8 武田久吉 武田久吉
367 くるまゆり 群落 白馬ヶ嶽 1932・8 武田久吉 武田久吉
368 しもふりなでしこ 小蓮華嶽 1931・8 田辺和雄 武田久吉
369 たかねにがな 八ヶ岳 1930・7 田辺和雄
370 たかねにがな 白馬ヶ嶽 1930・8 田辺和雄
371 たかねにがな 白馬ヶ嶽 1932・8 武田久吉 武田久吉
372 たかねかうぞりな 白馬ヶ嶽 1932・8 武田久吉 武田久吉
373 ぢむかぜ はな 乗鞍嶽
(信越界)
1932・8 武田久吉
374 ぢむかぜ 果実 鑓ヶ嶽 1932・8 武田久吉 武田久吉
375 ふたまたたんぽぽ 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉
376 たかねをみなへし 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉
377 ゆうばりりんだう 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉 Gentiana yuparensis,TAKEDA. 
378 ゆうばありこざくら 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉 Primula yuparensis,TAKEDA.
379 えぞつがざくら 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉
380 ながはつがざくら 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉
381 れぶんさいこ 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉
382 しそばすみれ 群落 夕張嶽 1921・8 武田久吉
383 しそばすみれ 花 夕張嶽 1921・8 武田久吉
384 しそばすみれ 果実 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉
385 ちしまいちご 果実 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉
386 くもまゆきのした 花 夕張嶽 1921・8 武田久吉
387 くもまゆきのした  残花と果実 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉 Saxifraga laciniata,NAKAI et TAKEDA.
388 えぞのくもまぐさ 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉
389 えぞいはべんけい 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉 Sedum roseum,Scop.Α.Vulgare,(MAXIM.)TAKEDA.
390 たかねぐんばいなずな 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉
391 ちしまいはつめぐさ 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉
392 みやまらっきょう 夕張嶽 1932・8 武田久吉 武田久吉
393 ゆうばりかにつり 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉 Deschampsia Takedana,HONDA.
394 りしりびゃくしん 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉
395 みやまいはでんだ 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉
396 おほいはぶすま 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉
397 えぞしほがま 夕張嶽 1921・8 武田久吉 武田久吉
398 はくさんちどり 八甲田山 1925・8 武田久吉
399 はくさんちどり 刈田岳 1929・7 田辺和雄 武田久吉
400 うづらはくさんちどり 刈田岳 1929・7 田辺和雄 武田久吉
401 てがたちどり 八ヶ岳 1929・7 田辺和雄 武田久吉
402 にょはうちどり 八ヶ岳 1926・8 田辺和雄 武田久吉
403 こまくさ 群落 白馬ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
404 たかねきんぽうげ 鑓ヶ嶽 1931・8 武田久吉 武田久吉
405 はくさんおほばこ 群落 乗鞍嶽
(信越界)
1931・8 武田久吉 武田久吉 α.Purpurascens,TAKEDA 
シロバナノハクサンオホバコ B.Viridescens,TAKEDA
406 つがざくら 乗鞍嶽
(信越界)
1931・8 武田久吉 武田久吉
407 みやまかうぞりな 裏旭 1931・8 武田久吉 武田久吉
408 えぞるりさう 小夕張岳 1931・8 武田久吉 武田久吉
409 なんぶいぬなづな 花 夕張岳 1921・8 武田久吉
410 なんぶいぬなづな 果実 夕張岳 1921・8 武田久吉 武田久吉
411 たかねまつむしさう 鉢ヶ岳 1932・8 武田久吉 武田久吉 Scabiosa Japonica,MIQ.Forma alpina,TAKEDA.
412 ちしまひかげのかづら 甲斐白峯 1923・8 岡田喜一 武田久吉
413 みやまひかげのかづら 白馬ヶ嶽 1932・8 武田久吉 武田久吉 Lycopodium alpinum,LINN.Var.Planiramulosum,TAKEDA
414 みやまねず 乗鞍嶽
(信越界)
1932・8 武田久吉 武田久吉
415 みやまはひびゃくしん 乗鞍嶽
(信越界)
1932・8 武田久吉 武田久吉 Juniperus Sargentii,(A.HENRY) TAKEDA
416 うらあじりなゝかまど 落葉後 白山 1931・10 山崎次男 武田久吉
417 だけかんば 花 八ヶ岳 1925・7 武田久吉 武田久吉
418 おにく 小夕張岳 1921・8 武田久吉 武田久吉
7月13日、茨城県筑波郡高道租村本田神通坪(現下妻市)に於いて、道祖神及び「さやの池片葉ノ葦」についての調査を行う。
  
    「武田久吉博士の記録カード」より  80×145o

 高道祖神社境内の道祖神社
  ご協力 下妻市教育委員会 石原匠

7月、「旅 9巻7号」に「我が郷土の山を讃ふ」を寄稿する。
「我が郷土の山を讃ふ」の寄稿者 / 巖谷小波 ; 木村毅 ; 岡本綺堂 ; 松崎天民 ; 上司小劍 ; 馬場孤蝶 ; 高須芳次カ ; 長谷川伸 ; 石川千代松 ; 小川未明 ; 沖野岩三カ ; 川田芳子 ; 脇水鐵五カ ; 與謝野寛 ; 野口雨情 ; 横井春野 ; 大槻憲二 ; 藤原咲平 ; 平山蘆江 ; 大和資雄 ; 冠松次カ ; 宮尾しげを ; 額田六福 ; 久松潜一 ; 大泉黒石 ; 仲木貞一 ; 田村剛 ; 河本禎助 ; 伊原々園 ; 栗島すみ子 ; 本山荻舟 ; 武田久吉 ; 前田河廣一カ ; 小杉放庵 ; 山田彦一 ; 渡邊萬次カ ; 前川千帆 ; 水野廣コ ; 西村眞次 ; 松村武雄 ; 金田一京助 ; 藤蔭靜江 ; 細田民樹
7月、「婦人之友 26巻7号」に「夏を 私は この夏の山旅」を寄稿する。
8月4ー5日、富士山で彷隍する。 彷隍:あてもなく歩き回ること。さまようこと
8月、富士山に於いて、「こめつが・みやまをとこよもぎ・おんたで・めいげつそう・むらさきもめんづる・ふじはたざほ・たかねすぎごけ・きをん」の写真撮影を行う。
          高山植物写真図聚2 No318 319 321 324〜326 328 329 331 332 366」より 
8月、「ドルメン No5 1巻5号 刺青特輯号」に「白井博士と不老長寿の薬」を寄稿する。
8月〜9月にかけ、二回目の信州松本とその周辺での道祖神や庚申塔の調査を行う。
8月8日、柳田国男が、「芳礼および写真ありがたく頂戴、この秋は是非相州を案内したい旨」の書簡を送る。
          「横浜開港資料館 久吉(書簡)目録 1244」より
8月9日 8月9日、上諏訪に来て・柳澤旅館(一泊)
10日 上諏訪・柳澤旅館→朝5時15分発の列車で出発→9時45分四ツ屋着→10時四ツ屋発→二股(中食)→12時40分、猿ー着→4時、白馬尻→5時、白馬尻小屋、案内人の頭(?)丸山静男に歓待される。(泊)
11日 7時出発、案内人丸山静男→午後2時15分頂上村営小屋着、先発の田辺和雄君と合流。→休養
妻・直子に宛てた、「絵はがき」より 十一日午后 白馬山頂にて 認 サイン
(略)今朝無類の晴天、大雪渓を上って午后二時十五分村営の小屋着、田辺君は昨日登山、今日は風があるので休養中との事、頂上は霧深く風あって撮影には向かず、登山客は大分減じて山中甚だ静なり。(略) 
12日 →一日中、烈風が吹き荒れ模様、
13 →「本日は風の残り少しあれど好天気故 槍ヶ岳方面へ出可ける予定、猶一両日こゝに滞在の上」→白馬頂上小屋(泊)   妻・直子に宛てた郵便  昭和7年8月15日 消印より
14日 白馬頂上小屋(泊)
15日 →「白馬山頂を出発、越中越後の国境の山を探る内 冠松次郎君に山上/出会ひ それより越後の蓮華温泉に下る途中大雨にあい ぬれ鼠の様になって温泉へ 夕の五時頃着」→蓮華温泉(泊) 
            
妻・直子に宛てた郵便  昭和7年8月19日付より 
16日 蓮華温泉→「直ちに山に登って白馬の大池小屋に滞在の予定のところ終日雨降りにてとう湯治といふことになって休養、/」蓮華温泉(泊)  妻・直子に宛てた郵便  昭和7年8月19日付より 
17日 蓮華温泉→十七日も霧深かりしも雨の模様なきにより大池に上りそこの小屋に一泊
            
 妻・直子に宛てた郵便  昭和7年8月19日付より 
18日 大池小屋→神の田圃→山麓の森上(午后5時着)(自動車)→大町、対山館(6時50分着泊)
          「酒ばやし」・ 妻・直子に宛てた郵便  昭和7年8月19日付より 
19日 対山館(発)→池田町、大角屋と云う醸造場にて〆縄で飾られた「酒ばやし」の写真撮影を行う。
  
  長野県北安曇郡池田町の大角屋醸造場

 注)8月4日〜19日までの行動については「民間伝承No289 第34巻第2号 「酒ばやし」」の記述を参考に作成しました。
    8月4−5日は4・5日か、8月4日から6日のことかは漠然としていて不明のため再検討要  保坂記 2014・2・23

松本・杉本旅館(泊)
20日 (行動不明)松本・杉本旅館(泊)
21日 (行動不明)松本・杉本旅館(泊)
22日
松本に滞在中の博士が、ゲストとして招かれ「話を聞く会」が開かれる。
「話を聞く会」の世話人を務めた胡桃沢勘内の記録から
 
白馬岳から乗鞍岳方面の、植物撮影の旅にたって、天候不良のため平地の方に下って来られて、道祖神其他の石像の撮影をされて居る理学博士武田久吉氏迎へて、急に此会を開くことにしたところ、其朝になって突然早川孝太郎氏が、一汽車の間だけを立寄るつもりで訪問されたので、引き留めて出席を乞ふことに定めた。早川君はきのふ美濃から木曽に入って、ここから北信濃の方へ行く旅であったのである。思ひ設けぬ不時の珍客はこればかりではなくて、此の夕方には折口信夫博士が佐久の臼田の講演を了へて、松本に廻はれたので、これも亦(また)此会へ出席して貰ふことになったのである。急の催しではあり、折柄の豪雨の中で、全員の集まりは少なかったけれども、却って話は散漫にならず、武田博士の話し上手な話題は、更くるまで尽きなかった。
    日本石仏協会発行 「日本の石仏」から 胡桃沢友男著 「高嶺の花から路傍の石へ(一) P110 より
  
             ↑
  前列右より2人目胡桃沢勘内、3人目早川孝太郎、4人目武田博士、5人目折口博士
  参考 この会に 岡書院の坂口保治も出席している。 胡桃沢友男著 高嶺の花から路傍の石へP111」より
23日 8月23日、蟻ヶ崎の旧家に赴き「三九郎太夫の木偶」、「オンマラサマ」を、また沢村では再度の道祖神撮影等を行う。
参考 胡桃沢友男著 「高嶺の花から路傍の石へ(一)」から
 
この翌日だったかと思うが、武田は坂口と同行の二人の青年を助手に道祖神の撮影をした。蟻ヶ崎の旧家ではこの家に保管している三九郎太夫の木偶(「農村の年中行事」第百十二図)やオンマラサマを撮影し、沢村では前回失敗した文字碑道祖神裏面の撮り直しに挑んだ。
 このときも私は父のあとについて見に行き、武田博士が助手の青年にいろいろ指示し、スケールで距離を測ったり、露出計を当てて慎重に撮影するのを物珍しく見たことを覚えている。
24日 松本・杉本旅館→大町(泊)
杉本に滞留四五日、天気が回復したので本日大町に立○○お手紙相見、封入物も正に落手度○○/明日は壮々 二十七日は再び松本に出て二十八日より京大の連中を/連れて行くこと予定の通りに○/杉本にては日々 坂口と歩き例のものの写真四五十枚程写し○○ 子供達に宜しく月二十四日 大町にて サイン   妻・直子に宛てた「郵便絵はがき」より  
25日 (予定)→八方尾根→大町(泊)
26日
27日 再び松本に出る  ・
28日 松本→乗鞍岳・冷泉小屋(泊)
予想される登山ルート
二十八日から、京都の学生/達を引き連れて乗鞍、平湯、上河内、槍、燕、大天上、東天上、常念、蝶、大滝山、鍋冠と/晴雨に拘らず歩いて 妻・直子に宛てた郵便  昭和7年8月19日 消印
本月十二日以来山の天気は一般に面白くなく鹿島槍方面は放棄又八方も山麓の細野迄沢山の/荷物を背負って出可けたにも不拘不良な天候の為め登山を見合せて松本へ立帰ったる有様に有は/本日よりはいよ京大の学生が来るので晴雨に不拘十日間入山の予定なれど昨日の「北の風 晴れ」の予報に喜びし甲斐もなく今朝の模様は余り面白くなく(略)/一行は十名余、今日は乗鞍岳の冷泉小屋泊り 明日は山頂に登ってより/(略)子供達に宜しく、山の天気が悪いと下界で例の写真を写しに歩き已(すで)一〇〇枚も写し○○○  
            妻・直子に宛てた郵便  昭和7年8月28日 消印より
29日 冷泉小屋→乗鞍岳頂上→平湯温泉(泊)
30日 平湯温泉→上河内(泊)
31日 上河内→明神池一ノ俣小屋(泊)
9月1日 ノ俣小屋→槍沢→殺生小屋(泊)
2日 殺生小屋→槍ヶ岳→燕岳→燕山荘(泊)
3日 燕山荘→蛙(げえろ)岩→大天井岳→東天井岳→横通岳→常念小屋(泊)
4日 常念小屋→常念岳→蝶ヶ岳→大滝山小屋(泊)
5日 大滝山小屋→鍋冠山→(雨の中を下山)→島々→松本着→諏訪(泊)
6日 諏訪(雨のため計画変更)→塩山途中下車(二猿の庚申塔・熊野権現)→帰京
 
左写真
熊野権現
(塩山市若宮 左右70p・前後80p) 
昭和43年4月 民間伝承
 No280 「丸石の崇拝」より
     参考 妻・直子に宛てた郵便はがき  昭和7年8月19日。8月15日・8月24日・8月28日・8月31日・9月3日 消印 
      注意 縦走コースについては、妻、直子に宛てた「郵便はがき」の内容に基づいて作成しました。2015・4・6 保坂記
      
「郵便はがき」には、燕山荘(スタンプ印)ニテ(久)九月三日と記述あり 

     9月5日以降は、昭和7年10月16日付、勘内宛ての手紙に基づいて作成しました。 2015・5・29 保坂記
8月、乗鞍大池に於いて、「わたすげ」の写真撮影を行う。高山植物写真図聚2 No335」より
8月、白馬ヶ嶽に於いて、「えんれいさう・こすぎらん・くまゐので・みそがさう・くるまゆり・たかねにがな・たかねかうぞりな・みやまひかげのかづら」の写真撮影を行う。
         高山植物写真図聚2 No337 346 348 356 367 371 372 413」より
8月乗鞍嶽(信越界)に於いて、「いはなし・ひあふぎあやめ・ぢむかぜ・みやまねず・みやまはひびゃくしん・みやまだいこんさう」の写真撮影を行う。
      高山植物写真図聚2 No341 345 373 414 415 342」より
8月、鑓ヶ嶽に於いて、「ぢむかぜ」の写真撮影を行う。高山植物写真図聚2 No374」 より
8月、夕張嶽に於いて、「みやまらっきょう」の写真撮影を行う。高山植物写真図聚2 No392」より 登山記録については検討要
8月、鉢ヶ岳に於いて、「たかねまつむしさう」の写真撮影を行う。高山植物写真図聚2 No411」 より
9月、槍ヶ嶽に於いて、「きばなしゃくなげ」の写真撮影を行う。高山植物写真図聚2 No351」 より 
9月、蛙(げえろ)岩附近に於いて、「おやまりんだう」の写真撮影を行う。 
9月、「ドルメン No6 1巻6号」に「白井博士と樹木学」を寄稿する。
9月、鈴木重光が「民俗芸術 第五巻第六号 民俗芸術の会」に「相州津久井郡の道租神と庚申塔」を寄稿する。


                         重光 描画
10月7日 柳田国男→武田久吉宛に書簡を送る。
     武田博士から送られたきた信州の牛頭神の写真にふれ、「今後考えて見るべき問題である」と、
       指摘をしながら秦野への遠足を呼びかける。
   横浜開港資料館 久吉(書簡)No1245 より
 
                     所蔵 横浜開港資料館

参考資料 
最終頁に掲載された二体の牛頭観音像 
  
左:長野県松本市入山辺区原
  銘「明治七年二月十五日」「大澤中冶(治)良」

右:
長野県松本市 正安寺 56×29p
銘 「文化十一酉年十一月」梵字は強いて読めば、「バーラク」であろうか 以下「牛頭□□畜男」とあるが意味不明  高さ45p
     「路傍の石仏」より
10月12日、岡書院の坂口保治を通じて柳田國男に誘われ、秦野の遠足に出かける。
  「この一日で、道祖神や庚申塔などを、一ダース以上も撮影することができた」と記す。 「柳田先生と私」より
(略)昭和七年の十月、神奈川県の秦野あたりに遠足しないかと、神田駿河台の岡書院に居た坂口氏を通じて誘われたことがある。一行三人は十二日の朝、小田急線の大根駅を下車、線路の北側を暫時西に平内久保から大根川を南に渡ってその右側で西し、隧道の入口の手前を南に下って伊勢原から秦野に通じる街道に出た。間もなく斉ヶ分で三基の道祖神を写してから、その頃とても珍しい掛茶屋を見つけて昼食としたが、先生が私達の弁当まで用意して来られたのには恐縮した。食後右手の中野という部落を何か目当があったのか探られたが、これぞという獲物もないまま。秦野の町を通りぬけて、北秦野村の横野に足をのばし、そこから戸川を通って西秦野村の掘山下に来て、寛政三年の道祖神を見出したところ、碑前に「くつめき、くつめき」と墨書したしゃもじが幾本も献じてあったので、先生はその説明をされたが、その後数年して愛甲郡の道祖神を調査した時、玉川村七沢の門口に、「痰道六神」と彫りつけてある一基を発見して、先の日の「くつめき」を思い起こした。この一日で、道祖神や庚申塔などを、一ダース以上も撮影することができた。(略) 「柳田先生と私」より
10月12日、今泉鐸次郎が「越佐叢書 第五巻 越佐叢書刊行会」に「秋山紀行・北越雪譜」を所収刊行する。
10月16日付、柳田國男が博士に「絵はがき」を送る。
写真早速受け取り、その手腕に敬服   横浜開港資料館  久吉書簡 No1198 内容未確認 2017・6・9 保坂
10月16日付で武田博士が胡桃沢勘内宛てに長文の手紙を送る。
 拝啓 心ならずも永々無沙汰に打ちすぎ何とも申訳御座なく候
 九月五日鍋冠から雨の中を下山、松本に帰着致してから帰京前 今一度拝芝してと存じ候処、助手の男が八ヶ岳に立寄る予定にて、それにはその夕方時幾らかの列車にて諏訪迄参り度しとの事に小生同行の必要を生じ急遽乗車致し候  その間に一寸電話にてでも御別れの御挨拶をと存じ、銀行の方へ通話致し候処 御不在と承はり、乗車の時間にせき立てられ残念乍らそのまま出立仕り候  諏訪に一泊致し茅野氏が調査致し呉れ候材料により、一、二ヶ所採集をと存じ候  折しも翌日は朝より雨にてこれも残念致し帰京に決して車中の人となり候処
 塩山に到る頃雨やみ候へば途中下車して町の附近を駈けめぐり、二猿の庚申塔、円石の道祖神を初め熊野権現などの掘出しもの(?)を致して、その夜帰宅致し候
 その後、留守中山積の用務や連続して湧き出づる雑用を処理の傍ら現像に従事致し、やっと一昨夜を以て八月以来のもの全部を終了致し候
 今秋は殊の外雨多くして旅行にも参りかね候処  柳田氏に誘はれ三、四日相州秦野町に一日の採集を試み約一打撮影致し候 あの地方の道神は同封の写真にて御覧の通り二体合掌の形式を年代の如何に不拘墨守せるものらしく、その他は文字のものに不遇候 唯一やゝ陽形形かと考へらるゝ自然石と地に何とも要領を得ぬ自然石を見出し候も、神像のデザインは甚だ旧式のもの以上に発展致さゞりし模様に有之候
 柳田氏より承はり候が福間三九郎の事につき御記述の御予定の由 何ぞ挿画用として御役に立ち候写真拙作中に有之候はゞ喜んで御使用の為の提供仕る可く候に付御遠慮なく御申付け被下候 
 何かの御参考にもと同封候「三九郎」の二枚は松本地方にてのオンマラの事を同地にてかく称へ候ものにてこれは神城村字飯森に行はれ候 同じ村にても佐野あたりでは三九郎等は持ち参らずして唯銭を集め候由 北城村にてもこの事は聞き申さず候 
(略 松本での道祖神の報賽物や写真説明など)
 去る八月富士山にて目
(ママ)出し候庚申塔は(北口二合目下)正面に観音(?)像と三猿を、向かって左に馬頭観音を、右に青面金剛を刻みある宝永山爆発に数ヶ月先立てる作に候 これ亦同封致し候 松本渚行の折発見の牛頭神は柳田氏も未知にて珍物とのことに候 去る佛家の説には梵字はバザラと読むものらしく、バザラ牛王とでも称し牛の健康でも祝福するものかとの事に候 御参考迄に申添へ候
(略 松本市桐寺の道祖神やドンド焼のことなど)
 
道神の研究に連関して金勢神崇拝の方にも手を伸ばす必要有之かと存じ多少の材料を手に入れ候、その内金勢石として由緒もあり又年代の明なるものゝ内最古と思はるゝ足利鑁阿寺のものゝ写真御参考迄に同封仕り候   尤もこれは形態は到底里山辺荒井のものに比す可くも無之候
(略 今秋の採訪の都合のことなど)
万一これが不可能なら来年一月中旬三九郎の小屋などの撮影に出向き申す可きにつきその折は幾分時間の余裕も有之見込に候 松本附近にて採集済の地は左の如くに候
  入山辺村 宮原以西ー宮原、舟附、南方、橋倉、桐原
  里山辺村 上金以西ー上金井、矢崎、藤井、兎川寺、荒町(コゝニ市神モアリ)、新井
  本郷村   北洞以南ー北洞、南洞、山城、浅間、大村、雪中、惣社、横田
  岡田村   岡田町、松岡
  中山村   神田
 右の如くにて既採集漏れも有之ことゝ存じ候 澤村の例のものは今度こそ意気込み候丈に形はよく候も遺憾乍ら二枚共フィルムに疵ありて成績100%とは申し難く候
 客月五日鍋冠を経て北小倉に下り候折同地にて良きものを認め候も雨に半ばぬれて撮影致し難く残念致し候 雨さへなければ南小倉ー中塔ー小室ー北北城ー南北城ー大久保ー田屋ー上野と山沿ひに採集してからバスで松本に帰ることも或は出来たのに遺憾に存じ候  此の次には七時十分のバスにて参り、午後立田に出てバスにて松本に戻るコースを試みんかと考へ居り候
 先は御無沙汰御詫び旁々右迄
    十月十六日
                   武田久吉
 胡桃澤勘内様
     梧下

  ○写真十四葉が別封にて発送仕り候
 
大町のモンペ姿のものは百瀬氏承知無之由にて採集不能に陥り候
日本石仏協会発行 「日本の石仏」から 胡桃沢友男著 「高嶺の花から路傍の石へ(一) P111〜114」より  
参考 本稿には「武田博士撮影」とある写真12葉が収録されてあります。別封にて発送されたものかは検討要 2014・1・30 保坂記
           
  松本市蟻ヶ崎塩釜神社   松本市蟻ヶ崎の青面金剛  本郷村の抱擁像    澤村の道祖神(表)   注 武田博士撮影 (裏)
「澤村の道祖神」についての記述から
 
下図は前頁のに似て更に小さいものではあるが、この裏面は自然にやゝ異状を呈するので、それが恐らくは俚人をして神性ありと感激せしめ、道祖神に選がしめた動機となったものかと思はれる。それに対して彫刻された線画は能く足利時代の筆法を伝へるものであると、その道の達人は賞讃するが、爰(ここ)にそれを掲出し得ないのは遺憾である。    (信州松本市澤村) 65p×50p 安政六歳已未正月 澤村の刻銘ある。
                「道祖神 発行 アルス 昭和16年12月 P38 」より

なくなった「澤村の道祖神」
 澤村の道祖神の写真は3回目で撮影されたものですが、当時の社会情勢から、上記「道祖神」には、掲載されておりません。また、この道祖神は、
戦後になって姿を消し、今ではこの写真でしか見ることができない。おそらく不心得者が持ち去ったのであろう。まことに残念である。 (茶色) 胡桃沢友男著 「高嶺の花から路傍の石へ(一)」より
         
  足利市鑁阿寺の金勢神     富士山麓の道祖神      山梨県塩山のオヤマ    北城村のオンマラ

     
   北城村の三九郎人形 @ A B 
   注 澤村の道祖神の裏面写真は胡桃沢友男著 「高嶺の花から路傍の石へ(一)」に収録されていませんでしたが、写真が武田家に
       保存されていましたので掲載をしました。十四葉の中に含まれていたかは不明  再調査要 2014・3・20  保坂記  

10月16日、柳田国男、博士宛てに「写真早速受け取り、その手腕に敬服」したと絵はがきを投函する。
               「横浜開港資料館 久吉(書簡)目録 1238」より
10月18日、日光山金精峠頂上の丸太小屋に安置された金精神の写真撮影を行う。
  
         「18、X、’32 撮影」とあり 性崇拝アルバムより
 
11月、「文部省検定済 新制乙表 博物教科書 植物篇」を「積善館」より刊行する。
11月26日付、胡桃沢勘内宛てに「絵ハガキ」を送る。
 西下(京大の講義)の時機が伸び伸びと相成りヤット一両日間に出発と決定候ものの途上一寸御訪問中上候予定に狂ひを生じ候へば、一月三九郎撮影旁々御邪魔申上度く存じ居り候 就ては正月(新暦にて)何日頃が宜しかる可きか、御手すきの折御一報を願ひ度く候 場合によっては大町迄出かけんとも考へ居り、雪が多い様なら北城あたり迄スキーでも携へてと欲張り居り候 来月中旬には帰京の予定室に有之候
                 胡桃沢友男著 「高嶺の花から路傍の石へ(一)」より
○この年、中井猛之進が「植物学雑誌46巻542号」に「日鮮植物管見第四十一ノ解」に於いて、武田博士が色丹島で発見された、しこたんざさ Sasa depauperata NAKAI.(1930年版)についてのを記述を行う。
1933 昭和8年 50
1月、「婦人之友 27巻1号」に「世界からなくしたいもの / 佐藤春夫・石K忠悳・細田源吉・武田久吉・神戸正雄・西川義方・河野密・大島義C・吉田絃二カ・小鹽完次・三輪壽壯・北川冬彦・河野通勢・稻村隆一・左近義弼・丘淺次カ・弘田龍太カ・姉崎正治・兼常C佐・岡本かの子・小泉信三・小杉放庵・深尾須磨子・室伏高信・川路柳虹・上司小劍・麻生正藏・神近市子・尾佐竹猛・津田楓・吉田秋光・長田幹彦・石川義一・奧むめお・岡田哲藏・北澤樂天・別所梅之助・内田C之助・藤原咲平・中澤辨次カ・新村出・千葉龜雄・大内兵衞・宮田修・佐藤功一・帆足理一カ・三田村篤志カ・杉森孝次カ・北澤新次カ・加藤一夫・寺尾新・今和次カ・堀口大學・白鳥省吾・廣川松五カ・市川房枝・木内キヤウ・神原泰・恩地孝四カ・山縣五十雄・伊福部敬子・金子洋文・佐伯矩・石川千代松・コ田秋聲・平林たい子・楠山正雄・吉屋信子・正宗得三カ・西村眞次・小川未明・鷹野つぎ・麻生久・加藤勘十・八木澤善次・山川均・税所篤二・秋田雨雀・木村莊八・倉橋惣三・大西C治・長谷川如是閑・柳澤保惠・ガントレツト恒子・大塚金之助・三宅周太カ・白柳秀湖・沖野岩三カ・小牧近江・鳥居龍藏加藤武雄・岩崎ナヲ・松居松翁・岡本綺堂・C水良雄・安倍季雄・向軍治・妹尾秀實 ・濱田四カ・三谷民子・鈴木茂三カ・舞出長五カ・窪川いね子・生江孝之・河井醉茗・新居格・小池重・藤森成吉・葉山嘉樹・井口乘海・石橋湛山・浮田和民・高群逸枝・小澤恒一・林春雄・市川源三・福島四カ・田中栫E長岡半太カ・駒井卓・山本一C・高橋偵造・今井邦子・星島二カ・小岩井淨・P夜雨 p47〜52,」を回答する。
1月、文部省が「尾瀬天然記念物調査報告 発行:刀江書院」を刊行する。
   ※ 調査の内容が不明なため同書についての調査要 所蔵:宇都宮大学付属図書館  ID:1660139369 2017・2・28 保坂
   この項に、研究者と研究内容の一覧と掲載予定  2017・3・17 保坂
(略)本邦の風景地が水電事業とか伐木とかその他の原因で次第に影を潜める今日、尾瀬一帯の地は、官民協力して子々孫々に傳ふべき寶物であり、國民にはその義務がある。それは単に景勝地であるのみでない。学問上の寶庫として、十分に保護を加へると共に、また研究を遂行すべき地域である。昭和七年文部省は多数の学者をこの地に送って、天然記念物の調査を行はしめたが、その報告書に調査員達は筆を揃へてその學的価値を賞賛し、その保存の必要を絶叫してゐる。筆者もまた已に昭和二年東京営林局の委嘱によってこの地方の調査を遂げ、當時民間から出願された水電貯水池の設計に反対の意見を復命して置いた。(略) 
              昭和13年2月19日付「東京日日新聞 電力管理案と尾瀬ヶ原問題」の記事より
1月、金城朝永が「異態習俗考」を「六文館」から刊行する。 古本/武田家所蔵本
1月・2月、信州白馬山麓を中心に道祖神調査を行う。松本では飴市を見学する。
  1月10日(夜)〜11日 飴市が開かれる
   此の間、松本市に隣接した本郷と岡田の両村で、道祖神や三九郎の木偶をはじめ、道祖神祠と祭具、
   それに村の子供たちが門松や注縄飾りを集めて作った三九郎小屋(「農村の年中行事」第八十五、
   八十六図)などを精力的に調査して歩き、カメラにおさめた。
 胡桃沢友男著 「高嶺の花から路傍の石へ(一)」より
  1月14日(夜)、三元社(雑誌「旅と伝説」発行元)社主萩原正徳をゲストに「三九郎夜の集い」が催うされる。
           
聞く会の記念写真 横浜開港資料館 久吉(文書類)No653に収録 未確認2014・9・7 保坂
 
   三九郎の夜の集ひ 松本市下横田町みよしにて
   昭和八年一月十四日  話をきく会

吉田倦    萩原喜恵司
柴田達夫    徳田安儀
橋村正夫    池上喜作
笠井茂夫    胡桃澤勘内
加納富次    市澤郡次郎
小池元男    萩原正徳
戸田 稔     小澤寛夫
今井武志    武田久吉
寺村治太郎   山崎亀代重 
吉田睦夫     中村五一郎
佐野豊太郎   武藤清文


   横浜開港資料館 久吉(文書類)No653より
  1月15日帰京。途中、塩山に立ち寄り、オヤマを見物する
1月16日、母兼の一周忌法要を武田家の菩提寺、港区三田四丁目の妙荘山薬王寺で営む
1月20日付、胡桃沢勘内宛てに礼状を送る。
 途上予定の通り塩山にてオヤマを見学致し十五日夜無事帰宅仕り候、早速御礼状差上ぐ可き筈翌日は一周忌の法事にて寺に参りなど致し、引続き雑用にて心ならずも延引の次第何卒悪しからず御容(赦)願上候 従って今回の採集品も未だ現像未了の有様に候へ供其内ボツ実行の予定に有之候過日伺上候桐寺の道祖神と申し候は澤田四郎昨氏の Phaiis Kultus に出である由にて、十二月廿一日より一月十六日迄道祖神の宿をするとて各家へ順次に持ち廻はり、十四日より十六日迄はトンドを焼いて祭をなし、参拝者に甘酒を飲ませたいといふ。平素は子供の玩弄に委してあった為め破損のヶ所が多い。抱擁の像と孤立の像とがあるとの事に候、どうも記事の確実性に乏しく候 或は大村にて見候ものと同一かとの疑も有之候
 
     胡桃沢友男著 「高嶺の花から路傍の石へ(一)」より  
2月12日、本郷村原区で木彫りの抱擁像、撮り直しのため再訪する。
    その日の、
午後より胡桃沢勘内が同行し、隣村の岡田村塩倉の山の神祠や松本市放光寺集落の道祖神
    などを見て歩く。
  S8・4 胡桃沢勘内著 「三九郎の家を訪ねて」より  



木彫りの抱擁像と唐破風造の木祠
  
左写真、裏面の添書

信濃東筑摩郡
 本郷村
 原
 室内に安置する道祖神
 の木像を入れる小木祠の
 破風下の彫刻


 参考 2月12日、博士に同行した胡桃沢勘内は、その時の模様を「ドルメン4月号」に「三九郎の家を訪ねて」と題し記述を残しました。
木彫りの抱擁像について、「桐寺の道祖神」と云った確実性の乏しい表現が発端となり、発見までの時間がかかりましたがって、最終的には本郷村大村地区の男女が向き合って抱擁している姿、またもう一体は、単身の男神を確認することが出来ました。博士は、上写真(本郷村原地区)と併せ、今回の調査で二ヶ所の抱擁像を見つけ出しました。  
  ○2月中旬、北アルプスに沿った三郷村小倉から梓川村一帯の道祖神調査を行う。 
    著者は2月18日付、胡桃沢勘内宛ての中味のない封筒が残されていたこと、また昨年10月16日付書簡の内容等を考慮し、
       調査の時期を推定されました。 
胡桃沢友男著 「高嶺の花から路傍の石仏へ (二)」より 
                          調査日程については再検討要 2015・5・30 保坂記
2月、「婦人之友 27巻2号」に「科學のページ 冬の野外 p64〜70 」を寄稿する。
4月、「図解科学 1巻4号 特集 長距離無着陸飛行の新記録」に「〇」を寄稿する。
                タイトル名確認要 2017・4・5 保坂記
4月、「ドルメン No13 第2巻第4号」に「朝鮮の火田民・朝鮮の寺院・
    表紙写真(慶尚南道咸陽郡碧松寺の禁護将軍)」
を寄稿する。
    同号に胡桃沢勘内が「三九郎の家を訪ねて」を寄稿、博士との同行記録を書き記す。
 
   ドルメン第二巻四号 
   慶尚南道咸陽郡
   碧松寺の禁護将軍
   (朱塗高サ八尺)
    武田久吉寫
















満州古人種 清野謙次 朝鮮民俗学会への展望 岩崎継生
北満のツングース族 小山榮三 巫女の家 秋葉隆
満州考古学発達小史 島田貞彦 朝鮮の尻とり文句など 田中梅吉
南満州に於ける漢代貝墓に就いて 駒井和愛 朝鮮に於ける白衣の禁に就いて 加藤灌覚
老鐵山麓の石斧から関東廳博物館の創立まで 島田孝三郎 妓生の話  一 山中鹿六
関東廳博物館 島田貞彦 朝鮮の火田民 武田久吉
ハルビン博物館 三上次男 朝鮮の索引考(東来索戦風俗) 及川民次郎
満州の古物と支那の古文献 八木奘三郎 にせものがたり 藤田亮策
北陵見物記 青鳥生 慶州南山に遺跡を探る 杉原荘介
熱河発見の契丹文字墓碑 島田貞彦 びんづ雑話 島田貞彦
私と熱河省の研究に就いて 鳥居龍蔵 朝鮮の寺院 武田久吉
満州の思出 濱田青陵 南鮮の注連縄 及川民次郎
むかし見た満州 三村竹清 厠の後始末について 青木一郎
満州の貨幣 島田貞彦 朝鮮の城隍神 大曲美太郎
満州の便所(支那建築史研究除録 三) 伊藤清造 朝鮮の土産話 今村博士談
満州に於ける小児の遺棄死体と迷信 森 修 黒坂博士の伯父さん
建築家になった尉遲敬徳の伝説 村田治郎 原始的舟の形態と分布 二 佐々木彦一郎
板振鎌束獄に下される事 鳥山喜一 石神巡礼 白石道人
蒙古チャムの祭見たまゝ 江上波夫 三九郎の家を訪ねて 胡桃沢勘内
女眞の遺跡を探る 井坂錦江 鳥追ひ行事の有つ特異性(民俗採集誌) 早川孝太郎
支那古代のイルミネーション 田中國益譯 小豆飯の厄除け
東省文物研究会 陶存厚 かつら草に就て 村林仁八
朝鮮人体質人類学に関する文献目録 島五郎 オカンヂャケ考 永井義憲
朝鮮考古学略史 藤田亮策 村の人文地理読後感 パーワン生
朝鮮博物館見学旅日記 小泉顯夫 n・・ie 語史攷 一 大藪訓世
慶州の博物館 有光広しげ 人種秘誌 10 中山源二郎訳
東来貝塚 及川民次郎 雑誌叢欄満鮮関係書抜抄目録
朝鮮古地図ところどころ 近藤音三郎 学界彙報・口絵・表紙
参考@ 「朝鮮の火田民」より(部分)
(略)「
今南鮮各地、殊に慶南全北に跨がる京大演習林附近に見る火田民について、同演習林主任林学士山本吉之助君の好意ある報告に基き、その一端を記して見よう。(略)(一九三三年二月)」と述べられ、山本吉之助が調査された「一戸当たり(0.5ha)の収穫量や家族五人暮らす収支関係図」や。次号、「朝鮮の市と宿舎」に記述した市場の制度等に関する事項を掲載しました。
参考A 「朝鮮の寺院」より(部分)霊源寺厠(トイレ)の記述
(略)(慶尚南道咸陽郡馬川面の)
寺院に宿泊して特に気持のよいのは、その厠(トイレ)である。これは棟を離れた建物であって、概ね崖を利用して建てられ、又中は広くて、同時に数人が用を足し得るし、足(靴)で入って差支へない点の如きも、日本の田舎に見るものに似て、更に大規模である。

 左側に厠の見える霊源寺の境内

 加之最も心地よいのは、用便後、厠内に山と積まれた青草の葉を上から振り掛けて、排泄物を蔽ふことであって、糞尿溜は下方から別の門扉によって容易に達せられ、排泄物は青草と混ぜられてから、畑に施される模様である。この点は民家の厠と同一ではあるが、遥に広大な建物である丈けに、和式のものなど、遠く及ぶ可くもない。
 水洗便所の便に恵まれない欧州の田舎等では、通例用便後砂を撒り掛けて置くが、器が接近して居る故が、矢張りこの朝鮮の寺院のに及ばない様に思ふ。便所の設備に関する限り、日本式は最も不文明、非衛生的なものとして、世界に冠たるものであらう。
(略)
参考B 「ドルメン No13 第2巻第4号 編葺後記」より
満州国の建設は慶福すべきでが、満州の伝統を無視した文化の建設は感心した事ではない様に思へます。此点で日満両国人は満州に於ける斯学の発展並に其の業績に大いに関心を有つべきではないかと思ひます。それにつけても遺憾に思ひます事は満州(に限りませんが此の幣は内地朝鮮にも沢山あるやうです)の官衛官学に於ける斯学方面の刊行物が一向に内地一般の学徒に紹介されないばかりでなく、当局も其の積極的具体的方法について殆んど考慮されて居られないらしく見える点が大分ある様に思へます。此れは一面書店が利を営む事の外に文化交詢機関中の一役を負はされて居る事をも自覚すべきでは勿論ありますが、一面「此れは別に売らなんでもいい本だ」と云ふ考へ方を当局が反省される事も緊要かと思ひます。官衛官学が営利をされては堪りませんが、学徒が出来る丈け円滑に購需出来る様な道は、啓いて頂き度いと思ひます。本号を編葺して居ります内に、今更ながら考へさせられた事であります。忘言御諒怒下さい。

参考C「三九郎の家を訪ねて 胡桃澤勘内著」より、冒頭の部分
 若年に当って行はれる三九郎のオンベ祭所謂ドンド焼の機会に出会して、少年の間に御神体として祀られる道祖神と其の祭具の写真採訪に、わざわざ松本までやって来られたT
(武田)先生、折柄のこれも根源に於て相通ずる趣意のありさうな塩市の光景を見物に、駅前の旅館を出て町の方へ歩いて行かれる途中、○○堂の店に立ち寄って携帯のカビネ型大の一枚の写真を出して、「この写真は君のところから出たものと思ふが、此の本体の所在はどこか」と尋ねると、店先に居た主人の一向に要領を得ない。「これは引伸ばしましたね」と言って空うそぶいてから、「あなたはいつか胡桃澤さんと一所に来ましたね、あの人にお尋ねなさい、きっと知って居るでせう」と、此写真は京都の某氏を経てT先生の手に入って居るもので、裏面に「本郷村」と記入されて居るのであるが、それは正確で無さそうであるし又写真もあまりよく無いので、此の機会に尋ねて撮影し直さうとするが、先生の目的の一つであったのである。○○堂といふのは其の本郷村の出身の男で、上海あたりに居て拓本採集をやったこともある採集商売人で、此地方の所謂郷土写真を撮影して我々の注意を惹いたと同時に、そこらの耽奇趣味の旅行者などに売りつけて居る男である。(略) 
5月、「ドルメン No14 第2巻5号」に「朝鮮の市と宿舎」を寄稿する。
5月、「郷土研究 第7巻第5号 郷土研究社」に口絵家の神としての道祖神」写真二葉を掲載する。
     
「農村の年中行事」より 第六十三図 第九十六図」と同じ

拡大図



   撮影場所 長野県下高井郡豊郷村野澤 昭和八年製作のもの 神々の誕生 参照
   同号、早川孝太郎著 「神々の誕生 −案山子のことから−承前」に、道祖神が毎年新たに作られている事を
    「博士から聞いた話として」記述する。

6月1日、松井幹雄が慶応病院において腸捻転により急逝。(36才)
6月、「高山植物図彙」を「梓書房」より刊行する。
   巻頭言 
 曩(さき)に、友人松江高等学校教授理学士田辺和雄君と共に「高山植物写真図聚」を編著して、本邦の諸高山上に生ずる草木羊歯蘚苔地衣の類の、外形竝びにその生育の状況を、具に示さんことを試み、既に三百九十六図を刊行し、更に二十二図を加へて、将にその第二巻を了らんとしてゐる。此の企図は、事情の許す限り継続して、数百或は数千図の多きに達して、高山植物の写真集大成たらしめんとし、殊に力を生態方面に注ぎ、植物の生活状態を観察し、また環境と植物との関係を精査して、これが更に形態に及ぼす影響をも、正視せんとしてゐる。従って、その完結の日の能く予測し難いと共に、厖大な容積は、到底これを登山者の衣嚢に収め、山上に拉して以て随時繙閲するを許さない。(略)
 本書の編著に方り、田辺君は同氏の写真一百葉の使用を快諾され、またヤナギ類の専攻家である友人東北帝国大学助教授理学士木村有香君は、氏が撮影に係るヤナギ類の写真二葉の挿入を許され、尚友人水産講習所助手岡田喜一君も亦
(また)、三葉の印畫を貸与された。茲(ここ)にこれを記して上記三氏の好意と、中扉に題字を賜った竹清先生の芳情けを拝謝する。
        昭和八年晩春   識者謹識
6月末、信州塩尻町柿沢・上西条・洗馬村小曽部(こそぶ)旧中山村北埴原・鳥内・北中島、豊科町を調査、「三九郎の歌」等を採集する。
6月、「現代 第十四巻第六号」に「聖林か柊林か」を寄稿する。
7月5日、「文部省検定済 新制乙表 博物教科書 植物篇 修正再版 」を「積善館」より刊行する。
 
 博物教科書 植物篇
  修正再版

               緒 言
1・本書は新制度の中学校教授要目の理科乙表により、既に一般理科を習得したもの
  に、植物学を授くる教科書に充てんがために編纂したものである。

2・教材は、小学校の理科ならびに竝に一般理科との連絡に就いて、特に留意して選
  択した。即ち既知の知識を整理啓発し、進んで日常目撃する植物から模範的な材
  料を選び、植物界の顕著な事実と、自然の理法とを会得せしめ、尚人生との関係・
  実生活に関する応用等を知らしめんことに努力した。

3・観察・実験に重きを置き、主としてそれらによって得た知識を基として新事実を説明
  し、或は考査せしめるようにした。

4・挿図と図版とに就いては、その選択に注意し、尚特に本書の為めに書いたものが甚
  だ多い。これによって或は本文の説明を助け、或はその不足を補ふことが少なくな
  いだらうと確信する。
   昭和七年十一月      著者識



第三章
藻類の種類 藻類は海水及び淡水中に生ずるもので、その色によって三つに大別せられる。

(一)緑藻類 体は緑色の種類である。あをみどろ・ほしみどろ等は淡水に産し、あをのり・あをさ・みる等は海水に産する。海産のものは食用に供せられる。





(二)褐藻類 体は褐色で、常に海中に生じ、緑藻類よりも稍深いところに産する。こんぶ・わかめ・あらめ・かぢめ・ひじき等がこれに属し、食用とする他にヨードを製し、また肥料に用ひられる。

(三)紅藻類 一般に紅色を帯び、概ね深海に産する。あさくさのり・てんぐさ等は食用となり、ふのり・つのまた等は糊の原料となる。
 尚淡水・海水中には、下等の藻類が甚多く、これらは微細の小動物と共に、水中に浮遊してゐる。これを浮遊生物といふ。


珪藻)普通褐色で、種類が多く、形も種々である。外膜に珪酸を含み、運動するものが多い。(略)

 ゆれも・みどりむし・うちはむし等は汚水中に普通見る下等な種類で、何れも運動する。(略)
附録 植物の採集と標本製作法 
植物の観察(略)
採集用具
〔採集胴乱〕〔野册〕〔根掘り〕〔手帳及び紙札〕(略)
採集上の注意
(略)
さく葉標本製作法
採集した植物を胴乱から取り出し、不用な部分は切去って、葉・枝・花等が重らないやうにし、これを新聞紙四つ折りにしたものヽ上に、位置を正して置き、更にこれを新聞紙四つ折にしたものヽ間に挟んで置く。
 新聞紙四つ折り大位の厚板二枚を準備し、その一枚の上に吸湿紙として新聞紙三四枚を置き、その上に植物を挟んだ新聞紙を置き、また三四枚の吸湿用の新聞紙を置く。かやうに植物を挟んだ紙と紙との間には三四枚の新聞紙があるやうにして重ね、最後に板を置き、その上に適当の大きさの石を載せる。
 最初の三四日の間は、日々二三囘吸湿紙を乾いたのと取換へる。その後は毎日一囘づ
取換へて十分乾燥させる。第一囘の吸湿紙取換への時に、標本を一々しらべて、その位置のわるいものや折れた葉等を正して置く。葉が乾いたか、否かは、葉の端を折って見る。よく切れ離れるやうになったならば、十分乾いたのである。乾きが足らないと、かびが生えたり、折角壓しつけた葉が縮まって、不體裁となる。
 乾燥した標本は、白くて稍厚い台紙の上に置き、アラビヤゴムの著いた細い紙片で、諸所を台紙に貼附ける。尚記名用紙に名称、採集年月、産地、生育地等を記入して台紙の一隅に貼っ
 
 「植物及び動物 第4巻第1号 連続講座日本の高山植物 ]V」より
 85・(B).Swertia micrantha、TAKEDA
  (タカネセンブリ)
て置く。
蘚苔類・地衣類
は壓し附けないで、そのまヽ乾燥し、紙袋に収めて台紙に貼り附ける。海藻類は、淡水で塩分を洗ひ落し、水中でその形を伸し、その下白い洋紙を入れて静に掬ひ上げ、水を切った後、糊気の落ちた木綿でその上を被ひ、これを新聞紙に挟み、普通の方法で乾燥させる。但木綿片は、海藻が十分乾燥して紙に附着し、それから自然に離れるまで、そのままにして置いて紙だけを取換へる。
7月2日付、胡桃澤勘内宛てに書簡を送る。
 先日御別れ致し候てより予定の如く塩尻に一泊、翌日桝屋の主人小澤を東道の主人と致し本洗馬方面に出動 芦ノ田にて寔に珍らしき道祖神を見申し候  年代は不明に候も石は細長く尖りし形にて表には上に〆縄、下に両部、その右に銚子左に盃、更に一部に魚一尾、何れも古雅なる陰刻にして表しあり候  尚二十年程前迄は裏に立上がれる陽物の刻みありしを警察にて心配し、石屋を派して丸鑿にて削らせ候とかにて今は何も無之候が寔に惜しき極みに候
                資料 胡桃沢友男著 「高嶺の花から路傍の石仏へ (二)」より
7月、北村公佐、「ドルメン 2巻7号」に「西相模地方の土俗信仰」を寄稿する。
7月、「短歌研究 第2巻第7号」に「帝国の南端を探る」を寄稿する。
(略)台湾への旅を奨励し、その内容を宣伝する総督府も、都合によりまた気の向き工合によっては、中々蕃地旅行をオイソレと許可しない。今では有力な幹部もあるらしいが、私が旅した昭和四年から五年にかけては、台湾山岳会とやらは登山に関して何等の斡旋をして呉れない ー而も日本山岳会評議員の資格に於ける交渉に対してもー 有名無力な団体であったから、山即ち蕃地への旅は、一に理蕃課とやらの一顰一笑によって左右される訳であった。(略)
8月、「旅と伝説  第6年8月号」に「槍ヶ岳の開山播隆上人」を寄稿する。
   
冒頭の部分 /信州の上河内(俗にいふ上高地)から槍ヶ岳に登った人は、その大凡七合目ともいふ可き大槍小屋と殺生小屋の中程あたりに、坊主小屋といふ岩窟のあるのを見たに相違ない。今でこそ殆ど顧みられないが、大正中年頃迄、槍ヶ岳の登山者は往々あそこに雨霧を凌いだ程で、勿論陰鬱には違ひないが、奥行も可なりあるから、相当の人数も収容出来るし、余程の暴風でもない限り、水浸しの憂は先づ無いと言ってよい。尤も期節が早ければ、洞内は雪に埋もれて、入るに由ないこともある。それはさておき、この洞窟を坊主小屋と呼ぶのは何故かといふに、それは百余年の昔、槍ヶ岳をひらいた播隆上人が此所に籠ったから
であって、本邦の登山史上、最も顕著な遺跡なのである。
 播隆上人の名は可なり前から伝へられてゐるが、その事跡は近年まで正確に知られてゐない様であった。又バンリウの名のみ耳にしても、正しい文字を知らない為めに、甚しい場合には播龍の字さへ当てられたことがある。今松本市東郊に在る女鳥羽山玄向寺に就いてその略伝を得たから、左に記して同好の人々に伝へたいと思ふが、萬一にして潜入した誤謬があらば宜しく是正あらんことを切望する
。(以下略)
8月20日、「岩波講座生物学 8巻」に「生態写真(植物)」を掲載する。 
目次
はしがき 
一 撮影者の態度と心懸
  
※(下記に冒頭部分を記す)
二 感光板
三 濾光器 
四 光暈
五 実際上の困難
六 材料の良否
七 鏡玉 
八 鏡玉の明るさ
九 望遠鏡玉と補助レンズ
十 暗箱と三脚 
十一 露出計 
十二 露光の實際 
十三 シャッターの正確度
十四 印画紙の性質 
十五 現像
十六 現像の実際 
十七 印画 
十八 撮影法 
附 図版(第一-十六図)十六葉
はしがき
 本邦に於ける写真術は、欧米化に比して殆ど遜色なき迄に進歩発達してゐると称せられるが、それは主として所謂芸術写真の方面に関してであって、学術写真と称す可き方面に於ては、甚だ未熟な状態にあると謂はれても致方がない。
学術写真と一と口に言っても、その実は甚だ多岐に亙るが、その中でも、植物に関する写真は、普通の写真家と呼ばれる人々にも、全く顧みられないといふ訳ではなくて、「椿」、「水仙」、乃至は「花の静物」などといふ題の下に種種の作品を見かけることも往々あるが、是等は假令題材に植物を取扱ったものであっても、学術写真の一部門をなす処の、植物写真と見做すことは断じて出来ない。また假に、芸術写真と標榜しない迄も、画面の上に学的価値が盛られてゐず、更に又、学術写真と称したとて(略)/植物写真(Pfianzenphotographie)として取扱はれるものは、一、植物学的景色即ち植物景観、二、植物の群落、三、個々の植物、の三通りに大別されるが、個々の植物の撮影は、それが生育してゐる有様を始めとして、植物体の一部分、例えば花なり果実なりのある枝とか、更に他の部分のもを詳しく示すこともあるし、また場合によっては、その一部を廓大して撮影する必要もある。但し植物体の内景は勿論であるが、原微な植物はその全形を写すにも、顕微鏡写真に據らなければならないので、これは寧ろ部門を異にするから今は除外する。近来植物生態学の勃興につれて、植物写真の必要が高唱され、欧米のその専門書中には、植物写真撮影法の大略を附記するものさへあるが、本邦では未だそれについて記述した信憑す可き書物は見当らない。今ここに述べんするは、植物写真の中でも、生態に関するもののみであるが、此の問題を出来得る限り広い意味に取扱って、景観と群落は勿論のこと、個々の植物の生態的の写真についても亦記して見たいと考へる
一 撮影者の態度と心懸」より、冒頭の部分
 写真に限らず、総ての仕事は、最初に、その仕事に対する態度如何によって、結果は重大な影響があり、成功不成功を或る程度迄予想することが出来る。植物写真に限らず、写真に手を染めるに先立っては、一応写真に関する物理的、化学的の事項を、大要なりと考究することが必要である。それからまた、自分は何の為めに撮影を行ふのかといふ、目的を明確に考慮する必要がある。何事によらず。漠然と始め、漫然と行ふのでは、堂に入ることは六ヶしい。これは敢て履行出来ぬ程のことでないにも拘らず、とかく吾人が陥り易い幣で、筆者も体験から、その矯正を痛感するので、特に最初にこのことを注意して置く。(略)

岩石の裂罅に生じた〔みやまあづまぎく〕 (同上) 〔にりんさう〕の群落(昼間) 〔にりんさう〕(薄暮) 夏の闊葉樹林 晩春の針闊混淆林
注意 国会図書館で確認して下さった情報では表紙・奥付のない白刷りの状態であった、発行年はレファレンス事例詳細情報から本年8月としました。また、1〜12巻の発行年月は1932〜1934年です。 再確認要 2014・10・6 保坂
武田久吉関連資料目録(東雲館)Ac453での発行日はS8・8・20 確認済 2016・3・7 保坂 
8月24日から9月3日、尾瀬から鬼怒沼・奥日光方面を訪う。
8月23日 (車中・泊)
24日 午后三時半着・戸倉玉城屋富士見峠→尾瀬ケ原小屋(泊)
@妻・直子に宛てた「絵はがき」より(全文)
天気よし、其の他万事都合よく一行十五名元気にて午后三時半戸倉の玉城屋に到着、日向では暑いが蔭の深しきはまた格別、今日も晴天、朝風が寒い位だ、これから富士見峠を越えて尾瀬ケ原の小屋へ、明日は原を縦断して至仏山へ登山、明后日は終日 原を見学、その翌日は桧枝岐へ出てから駒ヶ岳の登山、そしてまた沼へ    廿四朝 戸倉にて サイン
25日 尾瀬ケ原小屋→至仏山→尾瀬ケ原小屋(泊)
26日 尾瀬ケ原小屋→終日・尾瀬ケ原→尾瀬ケ原小屋(泊)
27日 尾瀬ケ原小屋→(順路不明)→桧枝岐・着(泊)
28日 桧枝岐駒ヶ岳→(不明・泊)
A妻・直子に宛てた「絵はがき」より(全文)
昨夕予定の通り桧枝岐着、途中/雷雨に遭いひたるのみにて一行元気也、/今日は快晴、駒ヶ岳登山、明日いよ)/尾瀬沼に向ひ、明后日は燧登山三十一日 鬼怒沼を経て 八丁温泉、九月一日日光湯本板屋着、二日 白根登山、三日 中禅寺に出で帰京の途につく筈、   八月廿八日 (七を八日に訂正) /南会津郡桧枝岐 丸屋にて サイン
29日 (不明・発)→(順路不明)→尾瀬沼→(不明・泊)
30日 (不明・発)→燧ヶ岳→(不明・泊)
31日 (不明・発)鬼怒沼八丁温泉(泊)
9月1日 八丁温泉(順路不明)日光湯本板屋着(泊)
B妻・直子に宛てた「絵はがき」より(部分)
唯今湯本に安着、明日は白根登山(略)九月一日湯本板屋にて午后四時半 サイン
2日 日光湯本板屋白根登山→(不明・泊)
3日 (不明・発)→中禅寺に出で帰京
             妻・直子に宛てた「絵はがき」 8月24日・8月28日・9月1日より
             
注意 「旅 11月号」に掲載された尾瀬と奥日光を訪うて」より再検討要 2015・5・17 保坂記
             この旅行で「ヨッピ川」の写真撮影を行う。 「山」 第2巻11号より
9月、「ドルメン No18 2巻9号」に「M茄子異議」を寄稿する。
9月、石川治郎が「山 第四十三号」に「本谷川溯行丹澤山」を寄稿する。
0月16日、信州松本市南部の出川(いでかわ)町大上手(おおわで)で抱合像二体の道神を発見する。
    
出川(いでかわ)町大上手(おおわで)で抱合像二体の道神        10月21日付、胡桃澤勘内に宛てた書簡より
10月21日付、胡桃澤勘内宛てに書簡を送る。
 先達而貴地御訪問の節はいつに渝らざる御芳情に浴し有難く感佩仕り候 十六日にはあれより「大上手」に参り抱合の道神二個を発見致し候処 已に日没後と相なり撮影に大なる困難を感じ候も、とに角一写に及び候 何れ不日現像の上幸にして結果良好なれば御送り申上ぐ可く候、それより飛騨屋へ立寄り候処七時の列車に十分間に合ひ候まゝ乗車仕り、塩尻に下車致し翌日晴天ならが洗馬村朝日村方面をと存じ候ひしに旅館の主人微恙ありて同行出来難き由にて、唯種々談話を聞き候のみにて他日に譲り帰京仕候
              資料 胡桃沢友男著 「高嶺の花から路傍の石仏へ (二)」より
10月24日、「中等植物新教科書 修正版」を「積善館」より刊行する。
○この秋、始めて伊豆の道祖神に接する。民族学研究第六巻三号」の中の「豆州道神録ー東海岸の部 はしがき」より
(略)筆者が始めて伊豆の道祖神に接したのは、慥か、昭和八年の秋であって、唯僅に熱海市(その当時は熱海町)の水口(みなぐち)のと、(いずみ)のとの二体に過ぎなかった。近年に至って駿東郡や相模足柄下郡の道祖神を研究するに方り伊豆のものとの比較を必要とするを認め、終にその基本的調査に指を染めることゝなった。斯様な調査には十二分の時間と、地元の篤志家の助力を必要とするは言を俟たないが、その両者を缺く筆者としては、現在のところ細密に亙る探査は望む可くもないので、極めて大略乍ら採訪の結果を纏めて爰に報告し、一面同好者の参考資料として提供すると共に、他面地元の研究家の奮起を望む次第である。(略) (昭和十五年四月二十五日)
11月2日、日本山岳会小集会「懐古と幻燈の夕べ」に於いて「「山岳」の定まる迄」を講演する。
          槍ヶ岳登山以前    小島烏水氏
         「山岳」の定まる迄  武田久吉氏
11月、「日本山岳会 会報 30号」に「「山岳」の定まる迄」(講演の速記録)が掲載される。
11月、「旅 10巻11号」に尾瀬と奥日光を訪うて」を寄稿する。
   (巻頭の部分)今年は久しぶりで、尾瀬へゆるゆる遊ぶ機会を得て、近頃の状態を細かく見聞きすることが出来た。最近には一昨年の三月から四月に掛けてと、六月初旬とに尾瀬沼を訪うたが、いずれも短い期間の滞在でもあり、広い範囲にわたって歩くことが出来なかった。しかもそれ以後に於て、この地方は急激に旅客が増し、道路の開墾や交通の発達は、あの不便な地を普通の遊山地と同程度の便利な地と化してしまった。それにもかかわらず、尾瀬地方が依然として太古のままの景趣を保っているのは、風景破壊の激烈に行われる本邦としては、まことに稀有なことと言うべきであろう。(以下略)
11月3日付、胡桃澤勘内宛てに書簡を送る。
 出川町上手の分はあの穴のあきたるオンマラの分は失敗致し候も、大上手の抱合像二体はどうやらものに成り候  試し焼同様のものは田中氏まで送り置き候が、目下バッグに筆を加え居り候へば完成の上取纏め御目に掛け渡しと考へ居り候、とに角当っては三九郎に関係深きもの丈け精出して集め御手元に差上げ候て、福間三九郎記事の御完成を乞ひ度存じ申し候、三九郎の歌此の六月に集め候もの二三此中に認めて同封仕り候先頃本町一、二丁目その他三四撮影未済にて心残りにても有之、御誘を蒙り候らへば再度出向き度く、来る十一日土曜日の午后はその為め再び田中氏を煩し度く書面にて依頼致し置き候へば多分都合して御同行被下と存じ居り候十二日の日曜は若し快晴に候はゞ朝一番の自動車にて刈谷原に参り、それより尾根歩きを試み、高萩の上を通り、五常村の方に御供致しても宜敷く、これは浅間の小澤君を唆かしてはと考へ居り候 十三日(月曜日)御差支さくば朝日か洗馬の方へ出馬も如何かと存じ候 朝日では古見(上下共)、洗馬で岩屋、下曽部、本洗馬上野のものは隣家の屋根のコールタールが垂れ掛りて汚れ居り候へば石油でゞも荒ひ置き貫はねば撮影不可能に候 また中町のものも失敗し候故今一度撮影致し度く、下平のものも失敗、太田は未済に候/とに角十日夜、遅くも十一日朝迄には着松の予定に候へば、その上にて御都合伺ひ申す可く候
          資料 胡桃沢友男著 「高嶺の花から路傍の石仏へ (二)」より
11月7日付、小林義秀が〔絵はがき〕(十和田湖の様子報告)を博士宛に送る。
        
横浜開港資料館 久吉(書簡)No954 より 内容確認要 2016・6・30 保坂
11月10日夜か、遅くも11日朝迄に松本を訪れ、心残りの箇所の再調査を行う。

        
再調査の理由は11月3日付、胡桃澤勘内宛てた書簡によるが、調査の実際は不明 再調査要 2015・5.7 保坂記
12月、秦野山岳会が発足する
○この年、越後中魚沼郡倉俣村・西田尻にて「釜神様の神體」についての写真撮影を行う。
   
     釜神様の神體
     「農村の年中行事 第六図」より
1934 昭和9年 51 1月24日、(群馬)縣下中等学校博物教員協議会開催・天覧博物研究品調製ノ打合ヲナス
             「昭和九年十一月陸軍特別大演習竝地方行幸群馬縣記録」より
1月、小林義秀が「国立公園 第六巻第一号」に「十和田の断想」を寄稿する。
1月、「旅と伝説 第7年1月号 三元社」に「旅行と地図」を寄稿する。 pid/1483473
1月、「山 第一巻一号」に「武相境上の最高峰・山の木と草 一」を寄稿する。 
 
  山 題字:河東碧悟桐
【追記】震災後に修正発行された地形図を見ると、影信山が727.6であったのが727.1となり、生藤山は990.6と変更されてゐる。従って上記の数値は、0.1米位の減少を必要とすることになろう。    【追記】原稿は「登山と植物」の中で加筆した箇所。
「山の木と草 一」  末尾に段を変え、あえて記した文章
 事些か本業に関するとなると、とかく深入りをしたり理屈を言ひ度がる悪い癖が出て、モットモット軟く書く可に筈であった序説が、大層無味乾燥な文となったことは何とも申訳ない次第です。書き度い事柄は未だ未だ沢山残ってゐるが、この位で思ひ留まり、次回からは一々木なり草なりを捉へて、なる可く肩の凝らぬ様な記事を書いて見たいと、その心算だけを一寸御披露して置く。
   また、同号(「山 第一巻一号」)に茂木愼雄が、「入峰禅頂・船禅頂」を寄稿する。
                     
勝道上人と日光の開山」より
1月、「婦人之友 28巻1号」に「この頃食卓にあつた話 /石川千代松・(略)・武田久吉・(略)・佐々木秀一」を回答する。
1月、「ドルメン No22 3巻1号」に「土器・石器・土俗品の写真一」を寄稿する。
   
また同号に宮坂英弌が「長野縣尖石遺蹟發掘手記」、小河内三郎が「石棒崇拝」を寄稿する。
はしがき(全文)
 必ずしも高山に限らず、野外に出て木や草の姿態を寫した寫眞の原板が、積り積って幾千百打かに達したので、その整理が必要となって来た。處が、出しては眺め、眺めては記帳して行く間に、吾れ乍らよい原板だと讃嘆措き難い程のものもあると共に、哀れむ可き程貧弱な原板が少なくないのには何とも閉口の外は無い。その内には、現像や定着の技術の拙いのもあれば、折角寫した草や茎や枝の形の思はしくないものもある。これはつまり被寫體の選定宜しきを得なかった爲め、焼付けても何となく感じの好くない畫の出来上るものなのである。かと思へば、周囲やバックは申分なくて居ながら、肝腎な花が風の爲めに動いたとか、又はそれを避けんが爲めに、短い露光を與へた結果、折角叮寧に現像を行ひ定着を済ませたものが、露光不足で焼付けに骨が折れたり、乃至(ないし)は骨を折っても一向物にならないものさへある。/草や木の寫眞がとかく風に殃ひされて、失敗の多い割に、添景としてあしらった岩や石は、いつも主體よりも鮮明によく寫る、せめて石や瓦位な程度の被寫體ならばなと嘆息せしめられることが(屡々:しばしばある、そんな愚痴を聞いた去る考古學者が、横合から口を出して、イヤ石や瓦だとて中々六ヶ敷ものだと言ふ。それは勿論易々楽々たるものでないにしても、野外で寫す花や草の寫眞に較べたなら、十が一か時には百が一の苦勞で一と通りのものになる。論より證據と、石塔の寫眞を出して見せると、成程これは拙くないといふ。のみならず、序にその秘傳を授けろと強要する。秘傳は別に無いから、話してもよいが、同じ様な悩みを持つ人々を敢て少なくもあるまいし、幸にして私の経験談が、多くの人達の役に立つものだとしたら、『ドルメン』の餘白でも、借りて、少し許り御談議をしようかと、謀叛氣の萌した矢先に、土俗學者とか名乗る一人が飛込んで、その道の種々様々な寫眞の撮影法も併せて述べろと無理な註文を提出した。自分の本業とは大分掛離れた仕事、殊に五もく屋以上の土俗學者の註文に迄手を伸すとなると、諺にいふ鋳掛屋が鐘を引受けたも同然、荷が勝ち過ぎる嫌ひがあるから、寧ろ謹んで引き下るが得策とは承知の上ながら、頼まれると後へ引けない江戸子氣質。読者に十分な満足を與へることは出来ぬ迄も、一と渡り記述して見ようか、といふ處が發端と御承知を乞ふ。さは去り乍ら、同じ講釈でも、聞く人の素養如何によって効果に差異があるし、又それに應じて講話の程度も定めなければならないが、差當りの處。「失敗の經驗ある初心者」といふ位に止め、無經驗者や、無失敗者は謹んで除外することゝする。乞諒焉。
 ※ この「はしがき」は、一読してあまりにも面白かったので、そのままを掲載しました。どうぞ、お楽しみ下さい  2017・5・5 保坂
2月、「ドルメン No23 3巻2号」に「土器・石器・土俗品の写真二」を寄稿する。
   
また同号に、久保寺逸彦が「「狩獵人と猿神」の譚(はなし)」を寄稿する。
2月、「山 第一巻二号」に「山の木と草 二」を寄稿する。
四 学名(部分)
 前の例に挙げたエゾノエンゴサクやエンレイサウ等に、それぞれ学名を並記して置いたが、この学名というものについて大体の知識を持っていることは、好都合でもあり、又必要だとも考えられるから、以下その概略を述べて置く。
 学名は我々に姓と名とある様に、一種毎に属名と種名との二つで組立てられてある前記の Corydalis anbigua とか Trillium Smallii とかくのごとく、その一は属名、一は種名なのである。そして共にラテン語又はラテン語化された語を用いることになっている。属名は名詞であり種名は形容詞又は名詞の第二格(所有格)の形を取る。種には方言を充当することもある。ここの例ではambigua は英語の形なら ambiguous で「他のものと紛らわしい」ということであたえられたのである。また Smallii は「スモウルの」という意味で、この人に縁(発見したとか又はその他の事で)ある植物の意味である。
かような二名法は、四百年程前から徐々に発達したもので、例えばヒョウタンボクの類に紅花のものと黒花のものとあるとすると、一は紅花で、葉は長楕円形云々、の長たらしい記載を添える煩雑を省く為、一を紅花ヒョウタンボク、他を黒花ヒョウタンボクと呼ぶ様なのである。従来植物は(動物でも又)かような二名法で命名することになったが、その命名者の姓をも添えることに定まり、エゾノエンゴグサならば Corydalis ambigua,Cham et Schltd. エンレイサウならば、Trillium Smallii,Maximと書くのが本式である。 Cham.et Schetd. とは Chamissoと Schlechtendal 両名で命名した意味で、長いから省略して書いた訳、又 Maxim.はMaximowicz の略である。それで前記ホソバノシラゲエンゴグサの学名を正式に書けば Corydalis ambigua,Cham.et Schltd.var.β.papillosa,Takeda,lusus 2.lineariloba,Takeda となり、ムラサキタチアフヒのは Trillium Smallii,Maxim.var.β.Maximowiczii,Miyabe et Kudo とすべきものなのである。このラテン語で綴った学名は世界共通のものであって、エンレイサウとかエゾノエンゴグサのごとき一国内以外に通じない俗称とは格段の差がある。ところでまた、(略)
注意:この号には他に、「登山者と植物学」、「分類」が収録されていましたが、「山の木と草」シリーズがどこまで掲載されているかの内容については未確認なため、今後の研究に委ねたいと思います。このことは、ドルメンに寄稿した「土器・石器・土俗品の写真」シリーズも同じです。  2015・10・14 保坂記 出典 日本山岳風土記3 富士とその周辺 P319〜320より 
2月1日〜7日、上越地方の写真撮影を行う。
(略)天候の変り易いあれ等の山の写真は、未熟な腕前と、優秀ならぬ感光板やフイルターでは、到底見込みなしとあきらめて居たのに、赤外線の一歩手前の、赤端線乾板が輸入されたのに勢を得て、昭和九年二月望遠レンズと共に、それをリックの中に忍ばせて、もうその頃には、清水遂道の工事も終っていた上越線によって、大正時代には味わえなかったのんびりとした気分で出掛けたのである。この地方ではこの月の初めから天候が思わしくなかった。二日には湯檜曾、大穴、水上駅あたり一帯には降雨さえあった。三、四、五、六の四日は、午後に少時間陽光のさした日もあったが、連日雪が降り、時には風さえ強くて吹雪の状態が下界でさえも認められた然し六日の午後になって、月夜野(つきよの)では、快晴、温暖で雪も大分融けたとはいえ丈約一五〇〇メートル以上には、相も変らず雪雲がへばりついて居た。七日になってヤット快晴。一点雲なしという拭ったような好天気になった。早速後閑駅の北西約半キロにある月夜野橋(こゝから後閑三国街道が始まる)を渡って数丁西の田圃に積った雪を漕いで利根川右岸の段級の端に出、崖の縁の程よい所に三脚をすえ、数枚の乾板に露光を与えた。その中の一つがこの写真(月刊ゆうびんの表紙)で昨年図らずも記念切手の図案に採用されたものである。/レンズは焦点距離三五.七五インチ、即ち九〇八ミリでした。(略)    資料 「昭和30年7月号 月刊ゆうびん」より
2月、「日本山岳会 会報 33号」に「カンダハール・ビンドゥング」を寄稿する。
3月、「ドルメン No24 3巻3号」に「土器・石器・土俗品の写真三」を寄稿する。
    
また同号に、知里眞志保が「穴狩」、佐藤虎雄が「渡海入定」を寄稿する。
3月、「山 第一巻三号」に「丹澤山・山の木と草 三」を寄稿する。

          
注意 横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))566−2 「山の木と草 二・三」の切抜部分を所収 2015・9・9 保坂記
4月、「ドルメン No25 3巻4号」に「土器・石器・土俗品の写真四」を寄稿する。
4月、「山 第一巻四号」に「犬越路・山の木と草 四」を寄稿する。
5月、「旅と伝説 第7年5月号」に「利根の藤原」を寄稿する。
5月、「山 第一巻五号」に「山の木と草 五」を寄稿する。
5月、小林義秀が「国立公園 第六巻第五号」に「吉野の旅路から」を寄稿する。
6月、
「山岳 第二十九年第一号」に「勝道上人と日光(山)の開山・耳二ツの写真に就いて・上越国境の山二三」を寄稿する。   注意 「武田久吉著作展」目録では日光山の開山、「山への足跡」と「山岳風土記5」では日光の開山と表記されています。
 
 勝道上人像 博士所蔵写真
冒頭の部分
 下野の日光、いや今では世界の日光の開山は、今から一千百有余年前に、傑僧勝道上人によってなされたことは、諸書に散見する処であるが、その当時の詳細な記事や、上人の生立に至っては、あまり坊間に流布していないようである。
 かれこれ十五六年前のことであるが、勝道上人の事蹟等について、出来るだけ正確な伝記を編纂したいと考えたが、群書を渉猟するという余暇もなく、ただ手もとにある三、四の書物に探っただけで、ともかくもその当時の目的は達したことにして、差当りの責は塞いで済ませてしまった。
 しかるに先年梓書房から創刊された雑誌『山』の第一号を見ると「入峰禅頂・船禅頂」という題を掲げて、茂木
(もてき)慎雄氏が、勝道上人の事蹟を詳述して居られるので、世間には自分と
同じようなことに興味を持たれる方があるものかと、一しお懐かしく感じながら、この記文を面白く拝読した。
 処で、それに茂木氏が引用されている文献は、表面上は『日光山志』と『補陀落山草創建立修行記』の二種に止まるが、なおその他に何か拠所とされるものがあるのかとも想像出来ないこともない。というのは、勝道上人の男体山の足跡を、最近発見されたということが明記されて居り、そしてそれが女貌山から小真子、大真子を経て男体に登る入峰禅頂の路程と一致すると、ほぼ断定的に書かれていながら、何書によるかを明記されないからである。
(中略)
 
又開山堂に安置された上人の像は、平素閉鎖されてある以上、何人でも容易に参詣出来る筈のものではないので、正直に忠言に従って、無駄足をす人がないとも限らないと考え、余計な御世話のようではあるが、筆者所持の写真を覆刻して、本書に挿入することとした。 乞諒焉。 (昭和九・六月)
 また、同号に小島烏水が「上高地は神河内が正しき説、この一文を故辻村伊助君に捧ぐ」と題し寄稿する。
                
 小西民治著「山に悟る」より
6月、「ドルメン No27 3巻6号」に「土器・石器・土俗品の写真四」を寄稿する。
          
注 本文では、「土器・石器・土俗品の写真五」で目次の表記が間違い。 2017・5・2 確認済
6月、「山 第一巻6号」に「山の木と草 六」を寄稿する。
7月1日、「国立公園第6卷第7号」に「国立公園と高山植物」を寄稿、口絵欄に、わたすげ群落・きばなしゃくなげ群落・はくさんいちげ群落・くろゆり群落の写真を掲載する。
7月17日、(群馬縣)天覧のための、尾瀬沼地方植物採取に着手。
(爾後数回採取セリ)
          
 「昭和九年十一月陸軍特別大演習地方行幸群馬縣記録」より
7月18日、「官報 
二二六三號」に「國立公園と高山植物(その一)」が掲載される。
7月25日、本(群馬)縣産特殊博物標本調整委員会開催。
           昭和九年十一月陸軍特別大演習竝地方行幸群馬縣記録」より
7月25日、「官報 二二六九號」に「國立公園と高山植物(その二)」が掲載される。
7月、「婦人之友 28巻7号」に「三條ノ瀑」を寄稿する。
7月、「ドルメン No28 3巻7号」に「土器・石器・土俗品の写真六」を寄稿する。
7月、「山 第一巻七号」に「山の木と草 七」を寄稿する。
7月、松井幹雄
(1933・6・1急逝 36才)の遺稿集、「霧の旅」が「朋文堂」から刊行され木暮理太郎と共に「序」を寄せる。
 
 霧の旅
  昭和9年発行 初版

 日本山岳名著全集6
  解説 斎藤一男より
資料 
 山友松井幹雄君が生前「霧の旅」その他の刊行物に執筆された紀行随筆等の重要なものをまとめて、一巻の書として世に出す計画が霧の旅会の幹部の手によって企てられたことを耳にして、私は大きな喜悦を感ずる者の一人である。
 いまだ春秋に富む同君が不幸にして夭逝されたことはわれわれ友人にとって寔に大きな損失である。俗悪低級に堕せんとする現今の登山界にあって、常に変わらない敬虔な態度を持して自ら山岳に対し、また他にもその感化を及ぼした松井君のごとき人は、当代にあってははなはだ少数であると言っても過言ではあるまい。君の山岳に対する意識は常に明瞭にその作品に現われている。着実に、綿密に山岳を研究するとともに、深くそれに愛執と憧憬を感じ、山岳の大小高低に拘泥しないと同時に、往々山岳に付随する他の対象にも興味を起こすことは、偏狭な心の持ち主には出来がたいことである。
(略)
 
十余年前、松井君が創設し、そして最後の日までわが子のごとくいとおしんだ霧の旅会が、その後に輩出した群小の登山会の間に立って、独特な位置を保つのは、一に同君が多年にわたり終始かわらざる統率をなされて、堅実な歩武を続けしめ、尊い伝統を築き上げられたからにほかならないと考える。今、その後継者が、松井君の残された記文を一括して上梓されることは、はなはだ意義あることであるとともに、その編集の大任を託された尾崎君が、よく松井君の本質を理解されて、この大業を遂行されたことは、名曲を演奏する名指揮者を得たのと同様の効果をあげ得られることと信じ、同君の労苦に深甚の敬意を表して筆をおく。      昭和甲戌七月上浣  武 田 久 吉

8月1日、「官報 二二七五號」に「國立公園と高山植物(その三)」が掲載される。
8月3日、「本日ヨリ三日間尾瀬地方ニ貝類共同採集ヲ行フ」
           「昭和九年十一月陸軍特別大演習竝地方行幸群馬縣記録」より
8月、「ドルメン 3巻8号」に「土器・石器・土俗品の写真七」を寄稿する。
8月、「山 第一巻八号」に「雲間紅日影・山の木と草 八」を寄稿する。
  
注意 雑誌「山」に連載した「山の木と草・他」シリーズは何号迄続いていたかは不明なため再調査要、尚、横浜開港資料館には
    「山の木と草一〜十一(原稿)、手書」 久吉(原稿(著作))589 として所収されています  2015・9・10 保坂記

9月、「ドルメン 3巻9号」に「土器・石器・土俗品の写真八」を寄稿する。

    また、同号に郷土発行所編「石 (郷土特輯號)(限定百部・岡書院扱)」の目次」欄が掲載される。
  ※ この「石」には、折口信夫・金田一京助・佐々木喜善・早川孝太郎・橋浦泰雄・胡桃澤勘内・池上隆祐らが名を連ねています。 
9月、「文部省検定済中等植物新教科書 修正版 4版」を「積善館」より刊行する。
 
 中等植物新教科書
   修正版 4版

(所蔵 市立相模原博物館)


資料 緒言
一、曩
(さき)に中等教科書を編者してより以来既に七閲年、その間これを使用せられたる教員諸賢より、有益なる助言を与へられたるもの少なからず。今回改訂を行ふに当り、是等の諸点につきては特に意を注ぎ、尚その他の修正をなしたるに、その結果内容殆ど一新せり。仍て書名を中等植物新教科書と改め、ここに出版せるに至れり。
一(一) (省略 )
 (二)形態を説明するに当り、適当なる機会あらば、その構造・生理或は生態等にも説き及ぼしたるところ少なからずや。
 (三)〜(五) 
(省略)
 
(六)植物の観察・植物の写生と記載及び顕花植物中普通なる科の特徴を附録となし、生徒の実験観察資料に供したり、但し記載用語集は一種の字彙なれば、その心して使用すべきものなり。
一、植物学は暗記の学問にあらずして、実験の学問なれば、機会ある毎に、生徒をして実物を観察・検査せしめられんことを望む。
      大正十五年九月   著者識
   目次
  第一篇  普通植物
   第一章 普通顕花植物の観察 
さくらその1・2、あぶらな、ゑんどう、をどりこさう、たんぽぽ、まつ・おほむぎ
                 あやめ、ゑんどうとおほむぎとの種子
   第二章 顕花植物の形態  
根・茎・芽・葉・花・果実
   第三章 普通隠花植物の形態 
わらび・こけ・藻類・菌類・バクテリア類
   第四章 植物の分類
 第二篇  植物体の構造と機能 
細胞・葉・茎・根・養分
 第三篇  果実及び種子の散布
 第四篇  紅葉と落葉
 第五篇  植物の群落と地理分布
   第一章 植物の群落 
水生植物群落・乾生植物群落・中生植物群落
   第二章 植物の地理分布
 第六篇  植物と人生  
山林・培養植物・工芸植物・薬用植物 
 附録
  植物の観察・植物の写生と記載・顕花植物中普通なる科の特徴・顕微鏡使用上の注意・植物採集と標本製作法
  天然記念物  (グラビア写真)
   

  きゃらぼく(伯耆大山)   なぎ(奈良春日神社境内) 美し松(近江美松山)
グラビア裏頁の写真説明
きゃらぼく 伯耆大山 (いちゐ科)/(略)
なぎ 奈良春日神社境内 (まき科)
 なぎは本邦西南暖地より台湾に亙りて自生し、その北限は伊豆半島に及べり。奈良春日神社の境内には数百年前これが植栽せられ、気候地味の適せるが為にそれより漸次蕃殖して、現今はその数萬を超え、数十町歩に亙れる広大なる区域に自生するに至り、邦内他に斯の如き例を見ず。
美松 近江美松山
 (まつ科)/(略)
第二章 植物の地理分布 〔高山の植物分布〕 P118〜124(全文)
 今若し高山に登るとすれば、その麓より頂上に至るに従ひ、漸(ようや)く寒冷の度を増すと共に、気壓(きあつ)低く、日光強く、雲霧・強風起り、気候甚しく変化するを以て、これに適応したる植物の種類、及び生育の状態に、逐次(ちくじ)変化あるを認めん。本州中部の高山につきて述ぶれば、山麓にては、その植物周(まは)りの原野・丘陵(きゆうりょう)に生ずるものと大差なけれども、登るに従ひて落葉闊葉(かつよう)樹彌々茂り、樹下には陰草の生ずるあり、又樹幹に纒繞(てんじょうして、多量の日光に浴せんとする藤本(とうほん)あり。その種類は主として温帯に産する植物なり。益々登り、高距一千三四百米の地に至れば、針葉樹常緑樹漸く多きを加へ、更に登ればその密林となり、闊葉樹は著しく減じて、林内昼なほ暗し。更に上りて二千三四百米に達せんか、喬木も樹幹漸く底まりて、遂に灌木の状を呈し、針葉樹は減じて、だけかんば・みやまはんのきの如き闊葉樹、或は蟠屈(ばんくつ)し、或は匍匐(ほふく)するを見る。やがてはひまつ現れ次第に匍匐蔓蜿(まんえん)して密生し、尚ほその間に少許(しょうきょ)の闊葉樹混生し、又矮小(わいせう)なる小灌木・草本生育して、美しき花を間き、岩間(いはま)・崖(がけ)を彩る等、その趣甚だ異れり。三千米以上の山嶺に至れば、顯花植物次第に減じ、岩上に唯種々の蘚(こけ)類及び地衣類のみを生ずるに至る。かくの如く高山上に於ける植物の変化は、主に高さによるものにして、恰(あたか)も山側に或る幅の帯を卷きたるが如く見ゆるにより、低山帯・亞高山帯・高山帯の名称を附せりと雖(いえど)、その境界もとより明ならず、且つ土質・気候等に左右せらるゝこと多きを以て、水平線によりて、簡単に区別すること能(あた)はざるものなり。
纒繞(てんじょう)まとわりつく/藤本(とうほん)蔓植物/蟠屈(ばんくつ)まがりくねること/匍匐(ほふく)腹ばいになって、手と足ではうこと。
 蔓蜿(まんえん)はいひろがる/少許(しょうきょ)少しばかり/能(あた)はざる(あたわざる)出来ない

 低山帯は山麓より落葉喬木林の上部に至り、樹木の種類が多く、かへでの諸種・とち・さはしば・ほゝのき・かつら・しらかんば・ぶな・しなのき等に交りてあかまつ・すぎ・もみ・うらじろ・もみ・つが等の針葉樹を生ず。この帯の下部は往々開墾の為めに甚しく本来の植物景を破壊せられ、或は畑地となり、又は稲田となり、時には野火又は伐採の為めに草原となりて、八千草(やちぐさ)の咲き競ふことあれど、未だ人力の及ばざる地にては、森林よく発育せり。亞高山帯は落葉喬木林の最上部と針葉喬木林の全部とを含み、こめつが・たうひ・しらびそ・おほしらびそ或はえぞまつ・とゞまつを生じ、さうしかんば・なゝかまど・ねこしで・みねかへで等の落葉樹を混ず。この帯は雨量最も多く、温度も左まで寒冷ならざれば、草木よく繁茂し、夏期は中生植物として、冬期は乾生植物として生活す。高山帯は、樹木が灌木状を呈する地帯以上を指すものにして、高山独特の景を呈せり。一般に日光強きによりこれに適する植物生育す。又気圧低くして風激しきにより、蒸散作用盛なれども、一旦濃霧或は豪雨至る時は、忽(たちま)ち水湿の過剰を来たすことあり。尚砂礫岩片のみにして乾燥し易き地には、主として乾生植物を生じ、土地の傾き緩くして土壌堆積(たいせき)し、水湿多き所には、中生植物あり。又小池あり、これに水生植物の生育せるところあり。草木よく繁茂密生する所にて、盛夏の候、百花一時に開く時は、その美観譬(ひ)ふるにものなし。かゝる地域は御花畠(おはなばたけ)といふ。御花畠は水分の多寡(たか)によりて三種に区別す。即ち外観乾燥せるものを、乾性御花畠といひ、水湿多きものを、湿性御花畠と呼び、中間に位するものを、中性御花畠といふ、各生ずる植物に差異あり。
譬(ひ)たとえ/多寡(たか)多いことと少ないこと
 かく高山上に見る植物景の変化は極地に向ひて旅するが如く、初めは温帯の樹種に接し、やがて亞寒帯の景に入り、終に寒帯に於けると同じく灌木林に移る。且つ高山帯に生ずる矮小灌木及び草本中には、極地に産する種類あり。されど、高山帯に生ずるものは、皆極地の植物と同一なるにはあらずして、極地と高山帯との気候に相違あるが如く、植物にも明なる差別ありて、各特有の種類あるものなり。
 
同項には、14枚の白黒写真とカラー写真の1枚が収められていますが、ここでは掲載を省略しました。 2014・10・21 保坂
   高山植物(図) 
1きばなしゃくなげ 2たかねばら 3ちしまぎきょう 4はくさんこざくら 5いはべんけい 6しらねにんじん 
                                7いはぎきょう 8がんかうらん 9くろゆり 10みやまきんぽうげ
11こめすすき 12みやまだいこんそう 13くるまゆり 14はくさんいちげ 15べにばないちご 16たうやくりんだう 17しなのきんばい 
          18みやまきんばい 19うらしまつつじ 20いはうめ 21いはいてふ 22こけもも 23みやまりんだう 24こめばつがざくら
25みねずはう 26あをのつがざくら 27つがざくら 28ちんぐるま 29こまくさ 30たかねすみれ
                                31いはひげ 32きばなのこまのつめ 33むかごとらのを 34よつばしほがま
35みやまくはがた 36うさぎぎく 37みやまをだまき 38みやましゃじん 39いはわうぎ 40おんたで 41おやまのゑんどう 42たかねにがな


 附録  三 顕花植物中未だ記載せざる普通なる科
 
ききゃう科 ききょう・ほたるぶくろ・つりがねにんじん
うり科 きうり・しろうり・すゐくわ・まくはうり・メロン・たうなす・とうぐわ・へうたん・ゆうがほ・へちま
なす科 なすび・じゃがたらいも・トマートー・たうがらし・ほゝづき・ひよどりじゃうご・まるばのほろし
ひるがほ科 ひるがほ・あさがほ・さつまいも・ねなしかづら
しゃくなぎ科 たまつゝじ・もちつゝじ・さつき・しゃくなぎ・しろしゃくなぎ・どうだんつゝじ
繖形科 ちどめぐさ・せり・みつば・しゝうど・しゃく・はなうど・にんじん
すみれ科 さんしきすみれ・おほたちすぼすみれ・にほひすみれ・おほばきすみれ・えぞのたちつぼすみれ・たちすぼすみれ・すみれさいしん・さくらすみれ・みやますみれ・あかねすみれ・すみれ・のぢすみれ・こすみれ・あふひすみれ・つぼすみれ・えぞすみれ・やぶすみれ・えいざんすみれ
つばき科 つばき・さゞんくゎ・ちゃ・やまゆり(引用)・もくこく
あふひ科 むくげ
けし科 やまぶきさう・ひなげし・けし・こまくさ
うまのあしがた科 うまのあしがた・をきなぐさ・ふくじゅさう・はんしゃうづる・をだまき・とりかぶと・しゃくやく・ぼたん
なでしこ科 はこべ・うしはこべ・みゝなぐさ・つめくさ・なんばんはこべ・なでしこ・ふぢなでしこ
ぶな科 くり・かし・かしわ・ならくぬぎ・しひ・ぶな
やなぎ科 ねこやなぎ・やまならし・ばっこやなぎ・しだれやなぎ・かはやなぎ・こりやなぎ・きぬやなぎ・どろのき・やまならし・ポプラー
らん科 えびね・せきこく・あつもりさう
すゐせん科 すゐせん・らっぱすゐせん・ひがんばな・はまゆう
ゆり科 ゆり・うばゆり・つくばねさう・くるまばつくばねさう・くろゆり・きみかげさう(すずらん)・はらん・ヒヤシンス
てんなんしゃう科 さといも・こんにゃく・からすびしゃく・てんなんしゃう・まむしぐさ・みずばせう・あやめ・せきしょう・しゃうぶ
   注 目次の項目名と実際の項目名は違っていました。また、それぞれの項には豊富な図録や写真が掲載されていましたが
     ここでは省略しました。 2014・10・20 確認済 保坂
  つばき科のやまゆりは 雄花はやまゆりに似たる芳香あり。
9月、「山 第一巻 第九号」に「山の木と草 九」を寄稿する。
10月31日、「天覧成績品
(尾瀬地方で採取した植物等)ヲ陳列場(大本営)ニ搬入ス」 
          
「昭和九年十一月陸軍特別大演習竝地方行幸群馬縣記録」より
10月、「ドルメン 3巻10号」に「土器・石器・土俗品の写真九」を寄稿する。
10月、「山 第一巻 第十号」に「霧ヶ峯」を寄稿する。
 
  鎌ケ池
(略)鎌ヶ池や八島ヶ池のある八島湿原は、今や末期に入った水蘚湿原で、面積こそ狭いが、典型的な外形を呈し又所生植物にも珍種が少なくない。殊に八島ヶ池や瓢箪池に棲息する鼓藻の種類は、豊富なると共に珍奇なること、恐らく日本一といふも過言であるまい。わけても熱帯に産するPleurotaenium Kayeiと亜寒帯産のEuastrum montanum とが、同一湿原の水界内に生活する点は、特記に値する。瓢箪池の附近には、私が発見したイトミズゴケが見られるし、釜ヶ池には狸藻の一種であるUtricularia ochroleucaが、沈水性の形から陸生のものに推移する状態を示すのを、先年観察したことがある。(略)
イトミズゴケ S. guwassanense ssp. takedae (Okam.) H.Suzuki
   また同号に、林芙美子が「戸隱山」を寄稿する。 
11月、「ドルメン No32 3巻11号」に「土器・石器・土俗品の写真十」を寄稿する。
   
また、同号に高田竹治が「八朔私考」を寄稿する。
11月、「山 第一巻 第十一号」に「山の木と草 十」を寄稿する。
       
横浜開港資料館には「山の木と草一〜十一(原稿)、手書」 久吉(原稿(著作))589 として所収されていることから、
       一覧表を作成し今後の研究資料といたしました。 2015・11・20 保坂記


「山 第一巻 第一号から十一号」に掲載された「山の木と草 十一」迄の内訳
一月号 山の木と草 一 一 序説
二月号 山の木と草 二 二 登山者と植物学、三 分類
三月号 山の木と草 三  白樺、
四月号 山の木と草 四 六 小葉の白樺、七 草紙樺と嶽樺、八 樺類の異名考、 九 樺類の学名、十 八重皮
五月号 山の木と草 五 十一斧折、 十二 夜糞峯榛、 十三 裏白樺
六月号 山の木と草 六 十四 地蔵樺、十五 唐樺、十六 香拳
七月号 山の木と草 七 十七 松、十八 這松 
八月号 山の木と草 八 這松(続き)、十九 姫小松、 二十 五葉松、 二十一 朝鮮五葉、
九月号 山の木と草 九 二十二 姫子、五葉松の名称考
十月号  欠
十一月号 山の木と草 十 二十三 這松と姫小松ー風の影響、二十四 八甲田五葉
十二月号 山の木と草 十一 二十五 赤松、二十六 黒松
11月10日〜18日、群馬県に於いて陸軍特別大演習竝に地方行幸が行われる。
11月11日、陳列品整理整頓及び生物類を大本営(群馬縣庁)内に搬入。
            
「昭和九年十一月陸軍特別大演習竝地方行幸群馬縣記録」より
11月12日、学芸成績品(第一回分)及特殊博物研究品ノ天覧ヲ賜フ、天覧後生物類搬出。

特殊博物研究品(社会課室)
標品ハ机上ニ陳列シ写真、地図類ハ壁面ニ
掲ゲタリ 陳列圖
(上)左ノ如シ
天覧
午後四時二十八分ヨリ一時間二十分ニ亘リ、金澤知事御案内御説明ノ下ニ、物産第一及第二陳列室、天覧ノ次ニ特殊博物室ニ成ラセラル。金澤知事、星子学務部長、横手視学官扈従ス。
(下)記ハ知事御説明控員トス。
沼田中学校校長 安達成之 尾瀬植物 高崎高等女学校教諭 角田俊夫 特殊岩石鑛物
前橋中学校教諭 熊谷佐平 特殊植物 元小学校教員 角田金五郎 地衣類
高崎中学校教諭 長坂亨三 特殊動物 勢多農林学校教諭 伊藤春夫 粘菌
師範学校教諭 本間信一 貝類
 次ニ金澤知事御案内御説明ノ下ニ、学芸成績品第一及第二室ヲ天覧遊バサル。星子学務部長、横手視学官扈従ス。尚午後七時四十五分ヨリ八時二十五分迄四十分間ニ亘リ更ニ特殊博物標本ヲ天覧遊バサル。
    「昭和九年十一月陸軍特別大演習竝地方行幸群馬縣記録  P353」より
参考@ 天皇陛下への御説明内容    特殊博物室(社会課室)
此ノ室ニハ懸下ノ動植物竝ニ鑛物中ノ特殊ナルモノヲ陳列致シマシタ
一 尾瀬植物、
是ハ本縣利根郡尾瀬地方ニ関スルモノデアリマス此ノ地方ニハ原始其ノ儘ノ自然ノ姿ガ
          保存サレテアルトイハレテ居リマス
(イ)尾瀬湿原一小部ノ縦断面、コノ標本ハ尾瀬平ノ一部ヲ切リ取ッテ参ッタモノデアリマス水蘚湿原ガ年代ノ経過ニ従テ泥炭化スル状ヤ之ヲ組成スル植物ノ研究ニ好材料ト思ハレマス
(ロ)尾瀬産特殊植物標品、
尾瀬地方ハ実ニ植物ノ宝庫デアリマス此ノ豊富ナル植物ノ中カラ学術的ニ有意義ト思ハルルモノ五十種ヲ選ンデせき葉ト致シマシタ
(ハ)展望写真、
是は尾瀬地方ノ展望デアリマス
(ニ)尾瀬植物写真帳、
尾瀬地方産植物中ノ著名ナル高山植物ノ写真帳デアリマス
(ホ)尾瀬地方風景写真帳
、尾瀬地方ノ風景ヲ写シタモノデアリマス
(ヘ)水蘚湿原ノ模型、
尾瀬水蘚湿原ノ概観ヲ示シタモノヲ水蘚湿原中ニ生育セル代表的植物数種カ採植シテアリマス
二 特殊植物、此處ニハ縣下植物中特殊ト認メタルモノヲ集メテ陳列致シマシタ此ノ中「天狗のむぎめし」ヲ除ケバ大體暖帯植物ノ北進シタ極ノモノデアリマス
三 特殊動物
此處ニハ縣下ノ動物中特殊ト認メタルモノヲ集メテアリマス平地産ノモノニハ餘リ特異性ハアリマセヌガ高地産ノモノ得ニ尾瀬地方ノモノニハ分布上カラ見テ興味深イモノガアリマス
四 貝類、
縣下各地ノ淡陸産貝類ヲ採集シテ陳列致シマシタ各地カラ集メタモノヲ研究調査シタ所二十三科百六種アリマシタ此ノ中ニハ今回新稱トシマシタモノガ八種アリマス
(イ)種類分類標本、是ハ懸下貝類ノ標本二十三科百六種ヲ分類学ノ系統ニ従ッテ配列致シテアリマス
(ロ)飼育生貝標本、
箱ノ中ノモノハ陸産、水槽及水盤中ノモノハ淡水産ノ貝類デアリマス採集品中ノナカノモノヲ今日迄飼育致シテ参リマシタモノノ一部分デアリマス
(ハ)特殊標本、
是ハ蝸牛ノ個體變異ヲ示ス標本デアリマス
(ニ)生態写真、
写真ハ棲息所採集地、攝食、交配、産卵其ノ他ニツキ学術的価値アルモノヲ集メテアリマス
五 特殊岩石鑛物   (省略)
六 個人特殊研究品
(イ)地衣類標本、是ハ本縣勢多郡角田金五郎ノ集メタ地衣類ノ標本デ約八百種アリマス
(ロ)赤城山産地衣類標本
、角田金五郎ガ赤城山産ノ地衣類ヲ集メタモノデアリマス
(ハ)群馬縣産粘菌標本、
是ハ勢多農林学校教諭ガ採集シタ縣下各地ノ粘菌ノ標本デアリマス
(ニ)肝臓ジストマノ研究、
是ハ元中学校教員ノ研究デアリマス
          「昭和九年十一月陸軍特別大演習竝地方行幸群馬縣記録 P350・351 「御説明書」より
11月14日(水)、特殊博物研究品ヲ御統籃室タリシ御次ノ間ニ搬入陳列ス
            
「昭和九年十一月陸軍特別大演習竝地方行幸群馬縣記録」より
   
特殊博物標本ヲ御統籃室ニ移サシメラレ、御自由ニ御研究遊バサル。」 「ハ天覧 P353」より
11月18日、「群馬県知事 金澤正雄」より、「感謝状」と[陸軍特別大演習並地方行幸用務ニ盡力ニヨリ木杯壱箇が贈呈]される。  横浜開港資料館 久吉(文書類)No654 収録
参考@ (略)昭和九年秋群馬県に大演習の行はれた際、畏くも聖上陛下の天覧に供せんがために尾瀬ヶ原の床をなす水蘚を數メートルの深さに切り取って、泥炭層の断面を調製した際の如きも、國土の過去に関する種々面白い事実が発見された。あの泥炭層が幾千年の歳月によって成生されたかは難しい問題であるが、またそれだけに学問上に寄与することの大きなるものである。(略)
         昭和十年は誤り  昭和13年2月19日付「東京日日新聞 電力管理案と尾瀬ヶ原問題」の記事より
参考A 武田尾瀬原の泥炭層の断面を、昭和九年大演習で陛下が前橋に見えた時、僕らが沼田中学の教員を指導し切出させて、御覧に入れた事があるが、一ぺんには切り出せないものだから、少しづつ切り出したものを背負って運び出して来たものだが、それなどで見ても、泥炭層の一番上は生きているミズゴケ、それから枯れたやつ、泥炭層、それから又ミズゴケ、それから今度は木の枝などの流されて溜っているもの、又砂の層がありという風になっているが、それを又、近頃流行の花粉分析という事をやって見れば更に面白かろう花粉の種類を見ることによって、植物の何万年間の変遷を或る程度見る事が出来るのですが、そういう点からも貴重な材料です。(以下略) 
                昭和23年11月、「山 11月号」に「(座談会) 尾瀬共同研究 P32」より
   参考B 群馬県著 「昭和九年十一月陸軍特別大演習並地方行幸群馬県記録」から尾瀬に関する記述
天覧成績品の各班別担務
(一)庶務班 (省略)
(二)学芸成績班 (省略)
(三)蠶絲業関係品班 (省略)
(四)特殊博物研究品班 (一)尾瀬沼産植物ノ蒐集竝研究ニ関スル事項
(二)本縣産貝類ノ蒐集竝研究ニ関スル事項
(三)本縣特殊植物標本ノ蒐集調整ニ関スル事項
(四)特殊研究物ノ蒐集ニ関スル事項
(五)説明用グラフ、地図類ノ製作ニ関スル事項
(六)出品物ノ搬入竝陳列ニ関スル事項に関スル事項
(七)特殊博物関係目録ノ調製竝印刷ニ関スル事項
(八)當班ノ記録報告ニ関スル事項
(五)郷土資料品班 (省略)
特殊博物研究品の部門別内訳 
尾瀬地方植物ノ部 採集及標本類調製ニツイテハ理学博士武田久吉氏指導ノ下ニ沼田中学校長安達成之竝同校教諭竹田八雄之ニ當リ而シテ之ガ目録竝解説ニツイテモ同氏ノ校閲ヲ経タリ。
特殊動物之部 (省略)
特殊植物之部 (省略)
特殊岩石鑛物之部 (省略)
貝類之部 (省略)
特殊博物研究品の目録
   (全文)
 畏クモ叡聖文武ナル天皇陛(下)ニハ本縣下ヲ中心トシテ行ハセラルル陸軍特別大演習御統籃ノ為親シク錦旗ヲ本縣ニ進メサセ給フ 是レ洵ニ千載一隅ノ盛事ニシテ百二十萬縣民ノ齊シク感激ニ堪ヘサル所ナリ此時ニ方リ聖駕奉迎ノ至情ヲ被瀝スル一法トシテ群馬縣ノ動植物竝ニ鑛物中特殊ナルモノヲ蒐集シテ之ヲ天覧ニ供スルコトトセリ本事業ノ遂行ニ當リテハ今春来懸下中等中学校竝ニ小学校関係教職員其他縣内博物研究者ノ協力ニ依リ竝ニ其ノ計画ノ完了ヲ告ケ大湿原ト豊富ナル植物トニ於テ比類稀ナル尾瀬ニ関スル標本竝ニ本縣内ニ於ケル特殊博物及ヒ淡陸貝類ニ関スル標品ノ作製ヲ了シ且特殊研究者ノ出品ヲ得テここニ全計画ノ完了ヲ見ルニ至リタルハ予ノ深ク欣快トスル所ナリ 希クハ本事業ニ関与セル諸君 此ノ光栄ヲ永久ニ記念シテ奉公ノ至誠ヲ致シ其ノ志ス所ニ励ミ益学界ニ貢献セラレンコトヲ 一言以テ序トス
     
昭和九年十一月群馬縣知事 金澤正雄
   
(部分)
(略)
尾瀬地方植物ニ関シテハ理学博士武田久吉氏ノ指導ヲ受ケ沼田中学校ニ於ケル博物関係教員二名之ニ當リ(略)竝ニ尾瀬地方植物ニ関シテ懇切ナル指導ト援助トヲ与ヘラレタル武田久吉氏ニ對シ深甚ナル感謝ノ意ヲ表シ尚関係係員竝ニ本事業ノ為直接間接尽力セラレタル各位ニ對シ感謝ノ意ヲ表ス
       
昭和九年十一月群馬縣学務部長 星子政雄
   目次
尾瀬植物之部/特殊動物之部/特殊植物之部/特殊岩石鑛物之部
附/個人特殊研究品 (三件・省略)
12月、「ドルメン No33 3巻12号」に「土器・石器・土俗品の写真十一」を寄稿する。
12月、「山 第一巻 第十二号」に「山の木と草 十一」を寄稿する。(内容未確認のため注意)
12月、尾瀬が国立公園に指定される。
○この年、「植物及動物 2巻8号」に「高山植物の生態的観察」を寄稿する。
○ この年、静岡県伊東市八幡野・八幡宮来宮神社境内の「リョウビンタイ」が国指定天然記念物に指定される。
資料  「大正6年・・・。武田久吉博士は八幡野でリョウビンタイを見出した。」との記述あり。
             「天城山の植物 杉本順一 (1974)」より   
  調査月日について、再検討要 
1935 昭和10年   52 1月、「植物及動物 3巻1号」に「連続講座日本の高山植物 T」を寄稿する。
1月、「ドルメン No34 4巻1号」に「土器・石器・土俗品の写真」を寄稿する。
             
土器・石器・土俗品の写真 No 番号表示なし 2014・2・8→2017・4・5 確認済
             
本文に(十二)と表記を確認する。 1017・5・2 確認済
    
また、同号に高階成章が「諏訪湖の御神渡」を寄稿する。
土器・石器・土俗品の寫眞 一から十二」迄の掲載の一覧
9年1月 3巻1号 一、はしがき 二、被寫體の分類 三、印畫 四、感光板
9年2月 3巻2号 五、放射線と感色性 六、遮光器
9年3月 3巻3号 七、遮光器の效果(未完)
9年4月 3巻4号 八、實際上の困難 九、備ふ可き遮光器の種類
9年6月 3巻6号 十、光暈 十一、材料の購入 十二、乾板とフィルムの優劣 注)目次欄は四で誤表示
9年7月 3巻7号 十三、鏡玉
9年8月 3巻8号 十四、焦點と焦點距離 十五、鏡玉の明るさ 十六、被寫體の距離と鏡玉の明るさの變化
9年9月 3巻9号 十七、望遠鏡玉と補助レンズ 
9年10月 3巻10号 十八、暗箱 十九、三脚と雲臺
9年11月 3巻11号 二十、露出計
十一 9年12月 3巻12号 二十一、露光の實際
十二 10年1月 4巻1号 二十二、シャッターの正確度  二十三、印畫紙の性質(未完)注)目次欄に十二の表示なし
1月、「山 第二巻 第一号」に「日本アルプス名稱論」を寄稿する。
   
また、同号に山口成一が「ウェストンと嘉治門」を寄稿する。
参考・編輯後記/(略)武田博士の「山の木と草」は編輯者の手違ひから本号は休載となりましたが、引き続き御執筆いただく筈であります。 次号の有無について未確認 2016・4・15 保坂
1月、三輪善之助が「葦牙書房」から「庚申待と庚申塔」を刊行する。
2月、「山 第二巻 第二号」に「本澤温泉とマルメロ・食麺麭の目塗」を寄稿する。
2月、「ドルメンNo35 4巻2号」に「福間三九郎名称考
・Pronide versus Bronide」を寄稿する。
    
また、同号に知里眞志保が「ノモ」蚤に關するアイヌ説話」を寄稿する。
2月、「旅と伝説 第8年2月号」に「汽車旅行雑感」を寄稿する。
2月、「婦人之友 29巻2号」に「
科學 霜柱と氷柱」を寄稿する。
    また、同号に岡田喜一が「
科學 食品科學 寒天はどうして出來る」を寄稿する。
2月、「植物及動物 3巻2号」に「連続講座日本の高山植物 U」を寄稿する。

2月13日、久吉勘内書簡
      「
昭和8年と9年は松本の三九郎を調査したけれども、昭和10年は三九郎を近県のみに止め申し候」と
(参考)3月1日、「甲斐志料集成刊行会」が「甲斐志料集成12巻」を刊行する。
甲陽随筆  上下二巻写本 加賀美遠清 御祭礼及縁日 一巻稿本 同人
甲斐の手振り 一巻写本 宮本定正 塩山向岳庵小年代記 一巻写本
享保水損物語 一巻写本 著者未詳 安政五年暴瀉病流行日記 一巻写本 市川喜左衛門
桜槝先生答釈録 一巻写本 加賀美光章・坂名井聰翁 一一 大小切騒動資料
理慶尼記 一巻 理慶尼 一二 駅傳詞訴記 一巻 白沙翠竹村会主人 久保田政弘
武田氏系図 二本 一三 甲斐の先史並原史時代の調査 一巻 仁科義男
甲州年中行事 一巻稿本 若尾謹金之助
書籍の中に御寄贈者からの手紙が挟まれてありました。寄贈者の名前が不明なため 再調査要 2015・6・24 保坂 所蔵 相模原市立博物館
3月、「植物及動物 3巻3号」に「連続講座日本の高山植物 Vを寄稿する。
○この春、尾崎喜八、河田驍フ3人で甲斐の大石峠→芦川→朝日館→黒坂峠
農村の年中行事 繭玉 P83
 
(略)富士の北麓河口湖畔の大石村では、旧暦の正月十三日に、幕の内の戌又酉の日に伐ったヤマグワ即ちヤマバウシの大きな枝に、お札(さつ)だといって四角な餅をつけ、サン粉の丸団子と繭形のを初め、胡瓜・小判・ササゲ等を刺し、又蜜柑をも添へる。そして完成したものを餅バラとか団子バラとか称するが、この名は大石峠を北に越した芦川谷の諸村にも行はれるし、甲府盆地の北諏に位する西保(にしぶ)村でも同様である。但し此の村の団子バラは第十九図に示すやうに、大石村のとは趣が違ってゐる。
 サン粉 米の粉を、ねったもの この時に、民俗調査(聞き取り)をされたかは不明なため 再調査要 2015・5・12 保坂記
4月1日、日本植物学学会大会(京都)に於いて「柳華即チ柳絮(リュウジョ)ニ就イテ」の講演(代読:木村有香)が行われる。
   (Read before the Annual Meeting held at Kyoto,April 1,1935)
4月、「植物及動物 3巻4号」に「連続講座日本の高山植物 W」を寄稿する。
4月、紀伊国屋出版部「行動 第3年4月号」に「サクラの科學」を寄稿する。
   
また、同号に入澤達吉 が「シーボルドと其文献資料」を掲載する。 pid/1539197
5月、「植物及動物 3巻5号」に「
連続講座日本の高山植物 X」を寄稿する。
5月、「山 第二巻第五号」に「ずみの木」を寄稿する。
6月、「植物及動物 3巻6号」に「
連続講座日本の高山植物 Y」を寄稿する。
6月17日、「東京帝大新聞」に「わが山々の思出」を寄稿する。
7月、「植物及動物 3巻7号」に「連続講座日本の高山植物 Z」を寄稿する。
7月、「経済往来」に「高山植物の魅惑(2)を寄稿する。
資料
 本書内に、はいまつ・エーデルヴァイス・こまくさ・こばいけいそう・くろゆりの5種類を記載し、エーデルヴァイスでの項では「欧州アルプスの名花として、又いろいろなロマンスの結び付けられるこの草は、茎にも葉にも、白色の綿毛が密生しているからの名であるが、・・(略)さて、このエーデルヴァイスなる草の仲間は本邦にも数種あって、薄雪草という属の植物である。その中でも、雛薄雪草と、早池峰薄雪草の二種は、欧州のに近似した種類である。」と、その魅惑を伝えています。
7月、「信濃教育会南安曇部会編」による「信州南安曇郡郷土調査叢書第一篇「年中行事篇」」が発兌される。
7月、山 第二巻第七号」に「立山と劔岳 」を寄稿する。
8月、「植物及動物 3巻8号」に「連続講座日本の高山植物 [」を寄稿する。 
8月、「山 第二巻第八号」に「無題」を寄稿する。
8月17日〜21日、「山」主催の講習会が5泊6日で長野県の「ヒュッテ霧ヶ峰」で開催される。
  木暮理太郎・柳田国男・武田久吉・藤原咲平・
尾崎喜八・辻村太郎・中西悟堂・深田久弥・小林秀雄・松方三郎
   石黒忠篤・大岡昇平・飯塚浩二・村井米子

注意 村井米子「武田久吉先生と山の花の想い出」の中で開催年を11年と記してありましたが、実際は(2002年8月平凡社発行「別冊太陽」の”山旅の宿”「再現1935年ヒュッテ霧ヶ峰 山の會」や岡茂雄の「炉辺山話」等の記述から、昭和10年が妥当ではないかと推察しました。 保坂記
(略)一番楽しかった思い出は、昭和十年八月中旬に、信州霧ヶ峰ヒュッテで催された「山の会」に参加した時で、今は故人となった登山家の木暮理太郎氏や、気象学者藤原咲平氏その他数氏が講師となって、講演やら座談やらが日夜つづいて賑やかであった。先生は「狩と山の神」の題で講演され、その筆記は雑誌『山』の第二巻第十号に載っている。人々の講話もさることながら、山中の遠足や、夜の座談会に至っては、痛快を通り越したものであった。その状況は、同誌の第二巻第九号に詳しい。何はともあれ、先生に咫尺して居る時はいつも楽しいものであった。       昭和46・4 「柳田先生と私」より
8月、「俳句研究 第2巻第8号 改造社」に「俳句と高山植物」を寄稿する。
(高山植物の話の後、略)、以上は学問上、群落生態学と呼ばれる部門に聯関したことをチョッピリ述べただけであるが、かゝる群落の構成分子である各個の草木の、生態に関する問題、即ち個体生態学的な事柄も、亦中々興味の深いものである。わけても、あらゆる生物の 生活現象中、最も重要な生殖に関する事柄は、如何にも深遠玄妙なもので、探れば探る程、珍しい事実が次々と現れて来る。処が世人の大多数は、生殖の問題となると、男女間の而も醜悪な方面の関係のみを想像すると見えて、或は又聖人君子を気取り度い為めか、故(ことさら)顰蹙(ひんしゅく)顔を見せるが、これはそんな安価な遊戯的なものではなくて、徹頭徹尾純眞な、そして眞剣な問題なのである。植物の生殖は、啻に雌雄の両性に由る有性生殖のみでなく、全く無性的な生殖法も数々の種類があるし、また単性の生殖もあって、実に幽玄なものであるが、それについて、一端なりと記述する紙数の無いことを憾むで擱筆する。
                     顰蹙(ひんしゅく) 不快に感じて顔をしかめること。まゆをひそめること。
9月、「植物及動物 3巻9号」に「
連続講座日本の高山植物 \」を寄稿する。
9月、「山 第二巻 第九号 梓書房」に「もみぢからまつ」を寄稿する。
9月12日付、東京朝日新聞に、尾瀬ヶ原ダム計画に対して、文部省が、「尾瀬ヶ原は天然記念物の指定に内定している」と反対の態度を表明する。
  
 東京朝日新聞 9月12日付
    
(タヌキモ(上図) ゼニゴケ(下図))
日本一の發電所に文部省が横槍
      尾瀬沼の天然記念物指定

 奥日光の景勝地ー尾瀬ヶ原と尾瀬沼の大盆地を利用して日本における最大の水力発電所建設を計画した東電では、すでに同地における水利使用権を獲得し、続いて内務、逓信両省に工事認可を申請、認可を待って大工事に着手しようと待機してゐる矢先、最近に至り尾瀬沼及び尾瀬ヶ原には同地独特の湿原植物が多数あるところから、文部省はこの湿原植物を天然記念物に指定することに内定した。ところがこの湿原植物が天然記念物に指定されると大発電所建設に大支障を来たすので、この突然の横槍に東電では少なからず狼狽し極力陳情を試みてゐるが、文部省の天然記念物指定と東電の大水力発電計画がどう落ちつくか頗る注目されてゐる。【凸版はタヌキモ(上)とゼニゴケ】(略)
双方の意嚮は指定の範囲は研究中右について文部省宗教局では語る尾瀬ヶ原と尾瀬沼の湿原植物については天然記念物の指定をなすことに大體決定し目下研究手続中である、東電の発電計画に對してはなるべく打撃を与へぬ様にし双方で譲歩したいと思ってゐるが、湿原植物を他に移植するといふ様なことは出来ぬどの
範囲の指定をし保存する様にするかはまだわからぬ
現在指定だと大打撃東電では発電計画について語る。どうも天然記念物の指定問題には困ってゐる、湿原植物の保存が必要であればあの付近には廣い土地を持ってゐるので移植してやっても良いと思ふのふのだが現在指定をやられては打撃である、だから内務逓信両省に對して極力陳情し斡施方を頼んでゐる
10月、「植物及動物 3巻10号」に「連続講座日本の高山植物 ]」を寄稿する。10
10月、「日本山岳会 会報50号」に「風景地の保護と国民の自覚」を寄稿、小島烏水は「富士山ケーブルカー反対」、そして松方三郎も「他山の石」を寄稿し、富士山のケーブルカー建設に反対する。     資料:村串仁三郎 「研究ノート 富士箱根公園内の戦後の観光開発と反対運動 P254」より
会報、巻頭部の全文
 
尾瀬水電と富士ケーブルカーの問題尾瀬沼、尾瀬ヶ原の水力発電問題は大正十年代以来の問題であり、当時農林当局は、武田、田村両博士に同地域の調査を依嘱し、我が國の自然財産として如何に此の地帯が国宝的存在であるかを天下に明にした。又文部省では最近に至り同地域に対し天然記念物指定を行ふ旨内定したと傳へられる。然るに、尾瀬ヶ原一帯で水力発電計画を有してゐた東京電灯会社では右指定が確定的となれば、水力工事に重大支障があると云ふので、現に内務、逓信省から水利権を賦余されてゐることを理由に右天然記念物指定に反対し、当局に陳情してゐると九月十二日附の東京朝日新聞は報道してゐる。(中略)本会としての主張が尾瀬、富士に限定されたものでないことは論ずる迄もない。但し、此の問題について我々がその主張を貫徹するか否かが将来に如何に重大関係あるかを考へる時、我々はその責任の重大さを意識せざるを得ない。自然の破壊、無統制な機械文明の自然界への侵入に対しては、我が日本山岳会は断然反対であると云ふ一事を此の機会に天下に表明し幟旗を明らかにして置くことは望ましきのみならず、当然の義務でもある。
10月、東京電灯鰍ェ、「尾瀬ヶ原ダム計画」を発表する。
(略) これは、尾瀬ヶ原に高さ七十五メートルの大ダムを築き、原を貯水池とし、トンネルで水を利根川に落とし、二ヶ所の発電所で二十万キロワット、下流の増電合わせて出力四十万ワット、日本一の発電規模の電源開発を行う、というもので、その後に出てくる様々な尾瀬電源開発計画、わけても東京電力のマスタープランになったものだ。(略)   「自然保護NGO 半世紀の歩み P4 発行1985・2」より
〇この年、文部省は再度尾瀬を天然記念物指定とすることを内定していたが、見送られてしまった。
博士の証言/「この時文部省が思い切って指定しまえば、悔いを今日に残さななかったであろうが、東電では既に大正十一年に内務、逓信両省から水利使用許可を得ているので、この計画が駄目になれば、今迄に要した総計費を賠償してもらいたいと申し出たので、ついに見送りの形となったものである。これと一つには、尾瀬沼の方は事業化も原まで重視しないが、重要な方の原は、工事不可能でもあり、その内には電力事情も緩和出来るかと、一縷の望をつないで、そのままとしたものかとも推察出来る
            「自然保護NGO 半世紀の歩み P5 
S25年「尾瀬ヶ原の諸問題」より
10月、「林曹会報 225号」に「もみぢからまつ」を寄稿する。
            所蔵 秋田県立図書館 請求記号 A650−4−225  P60〜64 2017・4・7 保坂
10月、「秦野山岳会編・秦野町青年団発行 丹澤山塊」に「丹澤山塊の今昔と将来」を寄稿する。
    
 巻頭に黒尊仏の写真が掲載される。

10月、相模煤ケ谷から七澤方面の道祖神調査を行う。
              
S18年 「飯泉の公孫樹と道祖神」より
11月、相模厚木附近の道祖神調査を行う。
             
 S18年 「飯泉の公孫樹と道祖神」より
11月、「山 第二巻 第十一号 梓書房」に「ヨッピ川」を寄稿する。

     
同号に「ヨッピ川」の写真も掲載する。 末尾に「撮影は昭和八年八月下旬。晴天。
      イゾクローム乾板、
Ero No1フルター 絞り。露光は不用と考へるので省略する。」と記述あり。

11月、「植物及動物 3巻11号」に「
連続講座日本の高山植物 ]T」を寄稿する。11
11月10日、旧秦野町曾屋小学校に於いて「16ミリ映画と講演の集い」が開催される
       
 武田久吉「丹澤の昔を語る」
        横浜山岳会(尾関廣)

      田杭安太郎 「丹澤の開発に就いて」  
 武田久吉・田杭安太郎の講演内容は昭和13年発行の「丹澤」に収録。
11月11日(翌日)、「晩秋の丹沢」へと題し、札掛から塔ノ岳に向けの登山会が行われる。

        
1977年発行・「秦野 郷土のあゆみ」に当日の模様が記載される 内容未確認のため調査要
12月、「植物及動物 3巻12号」に「連続講座日本の高山植物 ]U」を寄稿する。12
12月3日、「文部省検定済 女子中等植物」を「積善館」より刊行する。

文部省検定済 女子中等植物」 94と95Pの間に挟まれてあったメモ書
文部省検定済 女子中等植物」より
第三章 工芸植物
1・繊維植物 植物体内にある繊維を利用される植物である。
 織物原料 あま・あさ・からむしの靱皮繊維、わたの種子に附いた毛等は、何れも織物の原料に用ひられる。ラーミーはカラムシに似た植物で、支那及び東インドに培養せられる。その繊維は性質優良であるから、近来我が国でも栽培するやうになった。つなそもインドの特産である。
茎の靱皮繊維を以て織物を製し、米棉の包み袋とする。

12月24日、伊豆大島、「サクラ株」が国指定天然記念物となる。
○「山 第2巻8号」に「無題」を寄稿する。
○この年、三輪善之助が「庚申待と庚申塔」を刊行する。

〇この年、「誠文堂新光社」が「最新写真科学大系 第1-7 」を刊行、各巻に植物写真を掲載する。
    注 第1-2の発行社は「新光社」なので注意  第7巻はS12・7が発行  保坂
1936 昭和11年 53
1月、相模中郡三之宮の道祖神祭りに列席する。→今泉(岐神)→大磯サイト焼を見る。
                S18年 「飯泉の公孫樹と道祖神」より
1月、「深山の珍味」を「週刊朝日」に寄稿する。後年、「植物学談義 昭和53年9月 学生社」にも収録される。              注意 「登山と植物」では寄稿時期が同年の6月とあり 再検討要 保坂記
1月、「植物及動物 4巻1号」に「連続講座日本の高山植物 ]V」を寄稿する。13
資料 1902年、矢部吉禎博士により白馬岳の高山帯で発見採集された植物を長い間、チシマセンブリとして扱われてきたが、(略)1936年、武田博士は、その植物を新種として考定され、Swertia micranhha Takedaという学名と、タカネセンブリという和名をつけられた。
               
「環境科学年報(1980) 長野県産の貴重なリンドウ科植物 豊国秀夫」より 
2月、「植物及動物 4巻2号」に「連続講座日本の高山植物 ]W」を寄稿する。14
92.ヒナザクラ(P.nipponica,YATABE)の項より
(略)
サクラサウ科の専門家であるPAX氏は、本種を前記のヒメコザクラと混同し、Cuneifolia節に対して Macrocarpae なる節を作ったが、これは勿論言語道断な話である。加之同氏はその節中に Farinosae 又は Souliei 節に属す可きものを含有せしめてゐる。Cuncifolia 節は僅に5−6種を含むのみの小いもので、その中心は日本にあるのも甚だ興味あることである。

   ヒナザクラの標本
1913・11「日本産のサクラソウ類(属)について」の掲載写真より

 サクラサウ属の記載を了るに方って、此の属の植物のてい即ち花茎は1株に1本であるか否かといふ点について、略記して置く必要があらうかと思はれる。昭和二年四月三日発行の『植物研究雑誌』第3巻第11号に、同誌の主筆であった牧野富太郎氏の「花茎は一つで□とさくらさう」なる題下に短い随筆(?)が載って居り、それに私が先年発表したサクラサウ属の小論文が引用されてあるが為に、その後その要点に関して質問が私の所に来たことがあった程で、斯かる問題に注意を向けられる篤志家の為に、敢て一言を費やす次第である。
 発端は『日本植物図鑑』の口絵の「高山植物」図中のハクサンコザクラが、1株に2株の花茎を生じたるが如く描いてあるが、それは正しくないといふ非難が起り、それに対する回答或は駁文として、上記の題によって、甚だ諧謔的に書かれたものである。此の文は正面から学問的に批評の成否を検討し、堂々と反駁される代わりとして、私の小論文の附図にあるヒナザクラの乾(セキ)標本の写真が、偶然にも1株に2花茎あるかの如く見えるのを複製掲出して反證とされ、且つ「・・・・此処ニ掲グル図ナノデアル此レハ雷名天下ニ隠レナキ羽柴筑前ノ守久吉様ト同名デ同ジク久吉武田ノ君トナシ呼ビ参ラセル御方ノ堂々ト世界ニ発表セラレタ・・・・・(略)」とあって、私の小論が飛んだ役割を演じてゐるのである。私はそれに関する私の立場その他について直に筆を執って、2−3日も後に小文を主筆の御手元迄郵送した処が、読者も面白がること故早速誌上に掲載しようといふ御返事があったにも拘らず、拙文は遂に掲載の栄光に浴することなく、その内に牧野博士は主筆を辞されてしまった。加之、牧野博士の文は最近『植物随筆集』の中にも再録されてゐるが、拙稿は到底日の目を見る運命に出遭ひさうもない。(略) 
   加之 シカノミナラズ そればかりでなく
     駁文 バクブン 他人の意見や考えなどを攻撃して反論を述べる文。
  
3月、「植物及動物 4巻3号」に「連続講座日本の高山植物 ]X」を寄稿する。15
3月9日、「降雪後の丹澤表尾根」と題した写真撮影を行う。
   またこの日、特に催うされた下大槻の「嫁の臀(尻)祝」の行事に参加する。
   →小字神ノ平→小字入形にて僧形坐像型
「寛文十一天」の道祖神を発見する。(北村宅泊)
3月10日、飯泉観音にて、境内の公孫樹と道祖神調査を行う。S18・12 「飯泉の公孫樹と道祖神」より
資料@ 早春降雪の翌日午後、渋澤から南に、西秦野村の 永坂庭を経て、篠窪に向う途上、下庭の坂から、前Hの雪に輝く鍋割山から三ノ塔までを一望に収めた。 「山と渓谷 No143 昭和26年4月号」のグラビア文の全文より
資料A 尋で三月初旬、秦野町の漆原君や古西君の肝餅で、下大槻に嫁の臀祝が特に催うされたのに参加した折、幸いにも松田の北村君に面晤することが出来、その際西秦野村の窪ノ庭に、異様な塞の神のあることを耳にしたので、翌日之を探ることを決心した。然し前日の雨と雪に道路は泥濘甚だしく(略) S18・12 「飯泉の公孫樹と道祖神」より

昭和11年3月9日 
テッサー4・5 絞16 Aフィルター1/2 
イルフォードパンクロ

嫁の尻祝の一隊(相州中郡大根村下大槻)
昭和18年 「農村の年中行事」より


4月、「植物及動物 4巻4号」に「連続講座日本の高山植物 ]Y」を寄稿する。16
5月、「植物及動物 4巻5号」に「
連続講座日本の高山植物 ]Z」を寄稿する。17
5月10日付、久吉→胡桃澤勘内宛てに書簡を送る。
小生昨年二月以来とかく健康勝れずして蟄居致し居り候(中略)尤も一進一退の状態故快方の折には近縣へ両三日の旅行位は試み候 遠隔の地に出向かれぬ為め主として千葉縣とか神奈川縣などに足を向け候処意外なる発見有之候 就中津久井郡以外は神奈川県にも其の道の人未踏の地とも申す可きか、珍しき習俗の残れるもの少なからず、また立石にも面白きもの有之候(中略)目下同縣下の篤志家を唆して採訪に努め居り候へば一両年後には大分目鼻のつく事と期待致し居り候    胡桃澤友男著 「武田博士の相模の道祖神調査」より
5月20日、群馬縣が「昭和九年十一月陸軍特別大演習地方行幸群馬縣記録」を刊行する。
5月、「科学雑誌 24巻4号 科学の世界社」に「日本語は科學的でない」を寄稿する。
5月、「植物学雑誌 50巻 593号 P283〜289」に「柳華即チ柳絮ニ就イテ」を発表する。
(略)柳ノ卵子ニハ珠柄ハ無イ。従ッテ柳絮ハ珠柄上ニ生ズルモノト考ヘタリ、又ハソノ故ヲ以テ aril ト認メントスルハ誤謬デアル。
 本稿ヲ終ルニ方リ、文献ノ繙閲等ニ多大ナ便宜ヲ与ヘラレ、且ツ四月一日ノ大会席上ニ代読ノ労ヲ取ラレタ東北帝国大学助教授理学士木村有香
(ありか)君ニ深甚ノ謝意ヲ表スル。  論文末尾の記述より 
6月8日の夜、田端の自笑軒に於いて雑誌「東陽」主催による座談会が開かれる。
  柳田国男司会・岡田三郎助・和田三造・荒木十畝・松林桂月・中沢弘光・香取秀真・与謝野晶子
   佐藤春夫・上原敬二・武田久吉

  (座談会の模様を雑誌「東陽」の第1巻第4号に掲載する。定本柳田国男集の年譜では雑誌「風景」になっていた。 2013・11・15 保坂記)
6月、「植物及動物 4巻6号」に「連続講座日本の高山植物 ][」を寄稿する。18
6月1日、
「旅と伝説 第九年第四号 第百号記念特輯 6月号」に「大磯の虎御石」を寄稿する
(略)(さて)近代になって、土俗的にこの石を眺めた最初の発表は恐らく加藤玄智博士が雑誌『性』第五巻第一号(大正十一年一月)に掲げられたものではなかろうか。これ亦一箇の簡単な記文には過ぎないが、「更に相模大磯延台寺(日蓮宗)の虎御石なる霊石を見るに、是れ亦石製男根に七個の女陰を刻したものであって、此女陰は工藤祐験の箭痕だと云ひ伝へられてゐるが、之れ亦男女二根を一にした生殖器崇拝の対象物の稍変形して現はされてをるものであることは明白である」として、一の陰陽石と断言して居られる。然るにその後同博士が亜細亜協会の報文に於て同様な問題を取上げて論ぜられた際には(Asiatic Transactions,2nd Ser.Supplement to Volume 1.1924.p.14)何故か陽石とのみ言はれてある。(略)
  2017・4.9 国会図書館WEB 第9年(4)(100) 1936−4 となっている。 注意要 2・26事件により発行が遅れた。
注:発行の遅れた原因に就いては後記の中で「(略)先月の十八日に又追加が百二十枚程送られて来ましたので、いろいろと手違ひが起きて発行がおくれ且つ頁も増しましたので定価も変更せねばならなくなりました。従って締切も延期しました。」と、発行の遅れを述べています。
6月、「婦人之友 30巻6号」に「山麓の景觀 麓で見た花 」を寄稿する。
7月、「植物及動物 4巻7号」に「連続講座日本の高山植物 ]\」を寄稿する。19
7月下旬〜8月上旬、武田博士、二階堂譲嗣・栗田勤・大城川次郎・有村常清と猪苗代、福島両営林署による、吾妻山一帯の森林植生調査を行う。  
          昭和18年発表の「つつじ科植物の小観察」・昭和14年・大城川次郎著「吾妻火山群の森林植生に就て」より
料ー1 吾妻火山群の森林植生に就て 農林省林業試験場 大城川次郎
1 緒言 筆者は、理学博士武田久吉氏に随行し、昭和11年7月下旬より8月上旬に亘り、東京営林局、福島、猪苗代両営林署管内、安達太郎、一切経、吾妻、磐梯の諸山に登り、之等の山の植生を踏査するのは好機会を得た。以下、上記踏査の途々武田博士より御教示を受けた事並に筆者自身の観察とを基礎にして之等の山の森林植生の概況を延べ度いと思ふ。/ 然しながら吾妻火山群の広大なる地域を僅々2週間足らずの日程を以ての踏査に基き取纏めたるものにして、従って不充分の点、或は即断の憾なきを保し難い点もあるが、木材不足の対策として、斯る高山地帯に於ける無立木地の造林並に粗悪天然生林に対する施業改善が、漸く研究の対象となりつゝある今日、読者各位より御教正を受くる機会を得ると共に、幾分なりとも御参考にならば、・・(以下2行半略)
         
昭和14年・大城川次郎著「吾妻火山群の森林植生に就て」より
7月、「子供之友 23巻7号」に「高山ノオ花畑」(深澤紅子) を寄稿する。pid/1808819
8月、「植物及動物 4巻8号」に「連続講座日本の高山植物 ]]」を寄稿する。20
8月20日、小島烏水が「アルピニストの手記」を「書物展望社」から刊行する。
ガウランドの登山事蹟 P80より
(略)
英国人サトウ(Ernest Mason Satow)も、たしか明治十二三年頃、甲州八ヶ岳へ登られて、ムシトリスミレを発見せられ、鑑定を伊藤圭介翁に乞ふたところ、翁は初め、ミヤマミミカキグサと命名、後にネバリバサウ(粘り葉草)と名づけられたのを、明治十七年、矢田部博士が、同植物を戸隠山に採集せられ、ムシトリスミレの名を命じて、この方が、今日一般の通名になったが、併しこの草は、菫々菜スミレ・キンキンサイ)科に属してはゐないのだから、スミレといふ名は、ほんとうはどうかと思う。(略)
8月20日、白馬に於いて「ハイマツ」の写真撮影を行う。 「岳人181号 グラビア写真」より
8月22日、博士の勧めで北村公佐(きんすけ)と漆原俊が中心となり「秦野民俗学同人会」が結成される。  当日は12人が集まり、会長に秦野高等女学校長丹羽寿雄、委員に北村公佐と漆原俊が就任した。
当夜は丹羽会長の発会に関する挨拶に始まり、
一、秦野地方の道祖神分布と其の行事
二、道祖神を記したる文献に就いての二つの発表があった後、盆行事を中心にした座談に更けました。
 爾後、出来る限り毎月集会し、西相模地方の民俗観察や研究発表をなしたり、再三武田先生をお招きして講演を伺ったりして来たのであります。(秦野民俗学同人会の結成について、)数年前の一月、武田久吉先生が西相模の石神と小正月行事との採訪を試みられた折、私達も其驥尾に附いて一日歩き懇切な示教に預り初めて郷土の再観察を痛感するに至ったのでありました。それより屡々先生の示教を得て、民俗観察を重ねるに随ひ、年々湮滅を急ぐ此の地方の民間伝承も、今のうちなら未だ採録すべきもの多々あるに気付き、観察研究や資料の蒐集等の機関設立を痛要して居った矢先、武田先生からも再三御懇情厚に御勧めに接し、同好の北村公佐兄や古西為郎兄と計り、更に秦野高等女学校長丹羽寿雄氏の御理解深い厚意を得ましたので、西相模に在住する郷土研究者に呼びかけ、昭和十一年八月二十二に初めて同行の集会を行ひ、席上、秦野民俗学同人会の成立を見たのであります。
        
   胡桃澤友男著 「武田博士の相模の道祖神調査(漆原俊の記録)」より
8月、「東陽 第1巻第4号」に「風景概論」を寄稿する。
    同年、6月8日に行われた談話記録に二三の語句が付け加えてあります。
8月、「科学画報 第二十五巻第八号」に「特別寄稿 富士山見学」を寄稿する。pid/10984618
はしがき 大澤へ 頂上へ論文末尾の記述より 
裾野 大澤附近 御鉢廻り
中腹の森林 御庭へ 下山
天地ノ境 御庭 山麓の名所
中道 小御嶽へ (追記)
宝永山へ 小御嶽
はしがき」より(全文)
 何百座び上(のぼ)る日本の高山の中で、単独で、最も高くして、最も広大なものを求めたとしたら、富士山を措いて外にない。三〇〇〇米級の高山が羅列してゐる日本アルプスの中を探っても、単独の山で富嶽に匹敵し得るものは一つだってありはしない。古来富士山を目して扶桑第一の霊峰となすのは、寔に故ありといふ可きである。
 その霊山の土手ッ腹に穴をあけ、ケーブルカーを架して、幾十萬か幾百萬かの大衆を運び上げ山上を雑閙の俗地と化し去らうといふ案が、国粋保護の一手専売であるかの如き日本人によって時もあらうに、この非常時に、真剣に計劃されたといふのだから、恐らくこれは、欧米人をして唖然たらしめんが為めの案だらうと、私達は考へるのだが、そんな暴挙が実現しない前に、親しく富嶽を探って、その真価のある処を見学して来ようではないか。吾と思はん者は、何も腰に黍団子を結付けるにも及ばないが、老若に拘らず、甲斐々々しく結束して、登山口の一つである甲州郡内の上吉田に集い給へ。

富士の側火山/武田博士
富士十景/武田博士
富士山頂三態/武田博士
富士の植物風景/武田博士
特別寄稿 富士山見學/武田久吉
高山植物の採集と培養/鈴木吉五カ
10月、「植物及動物 4巻10号」に「連続講座日本の高山植物 ]]T」を寄稿する。21
11月、「植物及動物 4巻11号」に「連続講座日本の高山植物 ]]U」を寄稿する。22
11月3日、「東京朝日新聞 群馬版」に「金精神社取拂ひ命令」の記事が掲載される。
11月4日、群馬県立沼田中学校長安達成之→久吉 金精神社取拂ひ命令反対の書簡を送る。

                             所蔵 (相模原市立博物館)
11月「山岳 第三十一年第一号」に「山岳会の成立する迄」を寄稿する
11月、坂本光雄が「山と渓谷 四十号」に「丹澤・塔岳雑談」を寄稿する。

「丹澤・塔岳雑談」より
九段の靖国神社際にお住まいの武田先生のお宅を、私が初めてお訪ねしたのは、たしか昭和十年の秋だったから、今からざっと三十七年前のことになる。秦野山岳会の漆原俊さんの紹介で、先生がお持ちの尊仏岩の写真を拝借するためであった。この写真は尊仏岩唯一の貴重なもので、霧の旅会の故松井幹雄氏が撮影されたのを、先生が保管されておられた。幸いお許しを得て、『山と渓谷』四十号の拙文「塔岳雑談」の記事を飾ることが出来て有難く思った。(略)
           あしなか 武田久吉先生追悼号 坂本光雄著「丹沢の父」より
参考資料  同号も末尾に記述された感謝のことば
末尾に孫佛岩の写真掲載を御貸與下されし武田博士、種々御指導を賜りし岩科小一郎、加藤秀夫両氏及び在秦野漆原俊氏の諸氏に厚く謝意を表します。
                   
12月、「植物及動物 4巻12号」に「連続講座日本の高山植物 ]]V」を寄稿する。23
12月17日、折口信夫が国学院大学の郷土研究会で講演を行う。
     
講演内容は「日本民俗」第二巻第七号に収録 農村の年中行事福間三九郎」の項より 内容未確認 2015・1・18 保坂
農村の年中行事 福間三九郎 P230〜P233
(略)
さてまた、三九郎に関する一つの仮説が折口文学博士によって提出されてゐるのを等閑に附する訳にも行かないと思はれる。これは博士が昭和十一年十二月十七日、国学院大学の郷土研究会に於ける講演の一節として『日本民俗』第二巻第七号に揚げられたものであるが、それによると、松本附近でトンド焼のことを「三九郎」といふに対する疑問を解決せんには、北安曇郡の越後境に近い小谷村を訪うて、正月に木で作る男女の人形を参考とすることも必要であるといふのである。この人形寧ろ神体を三九郎と呼ぶのは、越後から入った名称であらうと博士は推定されてゐる。そしてモ一つ重要なことは、松本附近で三九郎を焼く行事の主役をする頭を子供仲間から選出する、そしてそれをふくま三九郎太夫と称し、これが先ず御札を刷り、これには福間三九郎神主とある。それからこれが主役となって活躍するのであるが、斯様に子供が福間三九郎云々の御札を刷るのは、もと越後の福間からあ毎年正月に札を配りに来た者が、後に至って来なくなったが為に、村々の子供がその代役を勤めるやうになったものだらうといふのが、博士の考察である。
 何やら理路井然たらざるの憾があるのは、恐らくは筆記者の罪に帰す可きものであって、博士の校閲を経てから掲載したのではないに相違あるまい。それにしても、昭和六年の末に発行された『北安曇郡郷土試稿』第三輯が参考せられてゐないのは、論據を薄弱にするものかと愚考せざるを得ない。
 上記両説共に、福間三九郎の解決に対しては殆ど光明を投げてゐないのは遺憾である。筆者が去る昭和十年二月一日発行の『ドルメン』第四巻第二号に発表した卑考は、三九郎とは、サギチョウの轉訛なりとするもので、未だ専門家から正々堂々たる反対の議論を承ってゐないから賛成の方も相当に多いに相違ないと自惚れてゐる次第である。但し遺憾にして、サギチョウからサンクロウに変化する過程を、整然と示し得ないことである。若しも実例によって、転訛の途中の形をでも揚げることが出来れば、甚だ好都合なのであるが、それを旨く行かない憾がある。唯然し一例として挙げ得るのは、甲州郡内の七保村地内に、サギチョウなる小澤の名を、サンギチャウと呼んだりサギッチャウと訛ったりしてゐる事実を挙げ得るに過ぎない。又別の例ではあるが、鳥追の項にも述べたやうに、ダイロウドンが第六天に変わることもあるし、コシアブラといふ木の名が小三郎と訛ったり、タレユヱサワといふ草が太郎兵衛草となって、人名のやうに変わったものもある。斯様なことから、左義長が遂にはサンクロウにまで変化し、三九郎なる文字が当てられたのではあるまいか。一方、「とんど」焼きのことを、左義長と松本平で呼ぶかどうかを調査して見る必要もある。『南安曇郡郷土調査叢書』第一篇によると、同郡鳥川村には左義長の称呼が行はれる所もあるといふから、全部が全部三九郎に統一されてゐる訳でもないことが知れるのである。と同時に、サギチョウの名が知られてゐるにも拘らず、極めて稀にしか行はれてゐないといふのは、それが概ね三九郎に変化し終わったものと見做して差閊ないともいへよう。
(略)
12月、「科学知識 16巻12号」に「随筆評論」を寄稿する。
                内容未確認のため調査要 2017・4・5 保坂記
○この年、日本山岳会が「山岳語彙採集帖」を刊行する。
〇この年、「後閑(ごかん)盆踊に就いて」(手書き)を冊子にまとめ記述する。
  
  後閑盆踊 記述年月は不明
後閑(ゴカン)盆踊に就いて(冒頭の部分)/部分的には他村に於けると同様に可成り舊(ふる)くから行はれてゐたのである。それが今から(昭和十一年)六、七年前、恰度、中山といふ人が、後閑驛長を務めて居られた時、後閑の驛も新驛とて、驛前に廣場が出来て、例年、その頃になると踊りたい人々が三々五々打連れて何時しか申合せたやうに、此の廣場に集るやうになり、之を見物する人も至極適当なる空地であるとして相当集るやうになった。此の空地は村の空地でなく驛ので謂はば公地であること。ところが中山驛長も愈々(いよいよ)此盆踊が年々再々盛んになるので何時しか興を曵かれて椅子を持ち出して踊のサークルの中に入って之に眺め入るやうになってしまった。(略)  横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))No 661 

補記/冊子は、六、七年前、後閑の駅前で行なわれていた盆踊の状況と、「歌はれていゐ歌詞はすべてで百餘番あるが之等のうつで特色のあるもの二十番を選んでみた。」と記述、以下に歌詞を並べってあります。残り80余についても、恐らく民俗学的価値の高いものと思われるので追加調査しておく必要があると感じました。 2017・6・18 保坂
                   
1937 昭和12年 54 1月、「科學ペン 2(1);新年號 科學ペンクラブ」に「一頁講座 高山植物と積雪」を寄稿する。 pid/11185134
1月、武田博士が、「旅と伝説 第十年一月号」に「日光の金精神社」を寄稿する。

1月、小島烏水が岩波文庫版「志賀重ミ著 日本風景論」の中の解説欄を執筆する。

2月27日、神奈川県旧南秦野村今泉中里の「道祖神(性神)」を撮影する。

     
  旧南秦野村今泉中里の道祖神           (左写真の裏面)

考察
昭和16年12月15日、「
アルス文化叢書12 道祖神」を「アルス」より刊行。

 写真撮影は、セイノカミの背後に莚
(ムシロ)を立掛け背後を遮断してから行われたことが読み取れます。また実際の「道祖神」では、その前に祀られている「岐神」のみを掲載、当時の厳しい社会的な事情から「セイノカミの掲載は、はばかれた」年譜(ここ)では、あえて掲載することによって今後の研究資料となるよう期待を込めました。2015・6・12 保坂記
2月、藤井萬喜太が、「旅と伝説 第十年二月号」に
    「(木越;エツ)峠の金精明神―武田久吉博士の論文を読みて―」を寄稿する。
     
(1月5日稿)
2月
「植物及動物 5巻2号」に「連続講座日本の高山植物 ]]W」を寄稿する。24
3月、
1934年以降、途絶えていた「橋浦泰雄日本画頒布会」が催され、「世話人」として名を連らねる。
世話人を含む七三名の賛助員/小笠原栄治笹沼孝蔵、田上義成(以上、北海道)市谷信義(福島)、池上隆祐、長谷川如是閑、浜田道之助、新居格、細田民樹、折口信夫、小川正夫、岡村千秋、岡正雄、大間知篤三、大藤時彦、大月源二、小沢正元、熊谷辰二郎、金井満、加藤武雄、笠原千鶴、武田久吉、田中咄哉洲、高松泰三、高橋文太郎、塚原健二郎、辻誠、角田健太郎、中川一政、野村愛正、野口孝徳、倉田一郎、柳田国男、柳瀬正夢、松山文雄、江口渙、矢部友衛、藤森成吉、秋田雨雀、山口貞夫、後藤興善、桜田勝徳、佐々木幸丸、金田一京助、渋澤敬三、三角泰、白井喬二、守随一、下田芳夫、比嘉春潮、平林恒夫、森下雨村、最上孝敬、関敬吾、瀬川清子、吹田順助、末光績、杉浦健一、鈴木棠三、須山計一(以上東京)、有賀喜左衛門(神奈川)、胡桃沢勘内、矢ヶ崎栄次郎(以上、長野)、伊奈森太郎(愛知)、江馬修(岐阜)、成瀬清(京都)沢田四郎作(大阪)、吉村秀治、涌島義博(以上、鳥取)、曽田共助、須田元一郎(以上、福岡)、山口良吾、星野歳馨(以上、佐賀)、久保清(長崎
3月、武田博士が、「旅と伝説 第十年三月号」に
   
 「再び日光の金精神社に就いて―藤井萬喜太氏の駁文(ばくぶん)を読みてー」を
    寄稿する。
(2月5日稿
3月19日付、博士→漆原俊宛に梵字調査に着いての「郵便はがき」を送る。   
  
参考  「御葉書有難く拝誦、梵語につき飛んだ御手数をかけ恐縮に存じ候」で始まるこの葉書は、道祖神としてまつられている石碑に梵字が書かれてあったが、調査の際にその読みと意味が不明であったため、漆原氏が 後日調べて報告したことに対する返事である。武田久吉自身が参考書で調べたところでは、読みだけは何とか推考したが、他に類例がないので依然、意味は不明と述べている。
                  「H10・9 丹沢 山ものがたり 31P」より


3月、「婦人之友 31巻3号」に「口繪 植物の世界(2)木の芽・草の芽」が掲載される。
4月25日、「民族学研究 第3巻第2号」に北村公佐との連名で「相模足柄上郡の道祖神と小正月の行事」を寄稿する。
 はしがき (全文)より
 相模の道祖神に関しては、津久井郡
内郷村の鈴木重光が、大正の晩年に炉辺叢書の「相州内郷村話」(一九二〇頁)に小記されて以来、再三諸雑誌に発表され、殊に昭和七年九月発行の「民俗芸術」第五巻第六号に、精図を挿んで、与瀬町 内郷村、串川村、中野町のものを紹介されたが、同じ郡でも牧野村、青根村、青野原村だとか、佐野川村方面だの、更に他郡のものについては私の寡聞にも由るのだらうが、殆ど報告されたものを知らない。
 尤も出口米吉氏の
『日本性崇拝資料一覧』には、「高座郡田名村字上田名」、「中郡上秦野村堀」、「同郡南秦野村今泉の岐神」の三ツが載録されてゐるが、その形状その他については、これからは何等窺ふことが出来ない。其他では足柄下郡湯河原の「挾石」の上に安置された道祖神について、大正十年二月発行の『郷土趣味』第二十三号(八頁)と、昭和八年一月発行の『民俗学』第五巻第一号(四〇頁)に簡単な記事が揚げられてゐるのを知るのみである。
 相模の道祖神は、数年前の秋、柳田国男氏に誘はれて、秦野町及びその近郊に半日の再訪を試みたのみに終ってゐたが、こゝ両三年来、津久井、高座、愛甲、中、足柄上、下の六郡に亙って、其の地方の友人数氏の助力を得て探る機会を得、殊に足柄上郡諸村のものは小正月に行はれるトンド焼に連關する習俗についても可なり広く見聞して、中郡や津久井に於けるものと比較することも出来たが、松田町神山の
北村公佐君は、本年一月上旬以降、この地方の行事を巨細に亙って調査し、一括して送致されたの
で、それを骨子として、こゝに両人の名を連ね、本誌の一隅を拝借して報告する。(武田)
 
 道祖神と粟穂 三保村字玄倉ノ下
「民族学研究 第3巻第2号」より
拱手について
「相模足柄上郡の道祖神と小正月の行事」の第二十五図より
  道祖神と粟穂 三保村字玄倉ノ下神像拱手、安永九子天
  左右に七個の天然陽石を置く  52p×32p

 武田博士は袖の中に手を入れている様相に対し初めて拱手と云う用語で表現しました。(保坂記)
参考  「道祖神の本質と形態」より
 
(略合掌に似て非なる手の形が、相模の神像中には往々見られる。これは手先を衣の外に出さないで、袖口の内に入れたまま、胸の辺に置く容で、私達は之を假に「拱手」と呼ぶことにしてゐる。本誌第二十九巻第九号(大正十二年)に載る処の、池田四郎次郎氏の解によると、眞正の「高拱」ともやや異なるらしく思はれるが、差当って適当な称呼を知るに苦しむ次第である。その実例は「民族学研究」第四号第三号に、多数の写真を掲げて置いたから、就いて見られ度いが、中には拱手したままで尚笏を持つのすらある。(略)   「国学院雑誌 民間信仰研究号 昭和16年10月」より
4月、「植物及動物 5巻4号」に「連続講座日本の高山植物 ]]X」を寄稿する。25
4月、「婦人之友 31巻4号」に「口繪 四月 山に咲く櫻 」を寄稿する。
5月、藤井萬喜太が、「旅と伝説 第十年五月号」に
   
「再び金精明神に就て ―武田久吉博士に答ふ―」を寄稿する(3月31日稿)
    
 
参考 藤井萬喜太氏が寄稿した日光綺談(1)〜(10)の内容
     「旅と伝説 第10年第1号」に「日光綺談(1) 日光権現都落ち」を寄稿する。
     「旅と伝説 第10年第2号」に「(木越)峠の金精明神」を寄稿する。
     「旅と伝説 第10年第3号」に「日光綺談(2) 日光開山」を寄稿する。
     「旅と伝説 第10年第4号」に「日光綺談(3) 障利三百大香荒神」を寄稿する。
     「旅と伝説 第10年第5号」に「日光綺談(4) 釘抜念仏 (5) 兄弟契」と
                    再掲 「再び金精明神に就て ―武田久吉博士に答ふ― 」を寄稿する。
     「旅と伝説 第10年第6号」に「日光綺談(6) 波之利大黒天 (7)犬牽
(いぬひき)地蔵」を寄稿する。
     「旅と伝説 第10年第7号」に「日光綺談(8) 日光天狗の話」を寄稿する。
     「旅と伝説 第10年第8号」に「日光綺談(9) 瓣
(べん)草紙」を寄稿する。
     「旅と伝説 第10年第9号」に「日光綺談(10) 幻夢物語」を寄稿する。


  注 武田博士と藤井萬喜太氏との間で金精神社のことについて論争がありました。この経緯については、
     前年11月4日付の書簡に記されている金精神社御神体の「取拂い命令」のことが起因してい
     ます。博士の日光修験に関するご研究は、昭和9年の報告もあり一見論争のようにも思えますが、
     一刻も早い「取り拂い命令」の解除を願った論文であることをご理解して欲しいと思います。つまり、
     「最初から論点がずれていた」と云うことをご承知おきして戴けたらと思います。この年、藤井萬喜
     太氏は「日光綺談(1)〜(10)」を連載しながら日光に伝わる様々な出来事を書き記しました。
     藤井萬喜太氏が本書で述べようとしたのは金精峠と云う峠名は(
木越こむら)峠であったこと
     小祠の中に
金剛童子を祀っていたことなどを述べていました。 
           
後世に誤解が生じないようあえて書き記しました。2013・3.18 保坂記
          
 木越で一字/の漢字が変換できなかったため仮字/こかげの意    

5月15日、輪王寺門跡執事鈴木常觀が「輪王寺門跡寺務所」から「日光山寫眞帖」を刊行する。

     日光山寫眞帖(27p×19p)
勝道上人御像 十四 東照宮唐門 二十七 霧降之瀑
開山堂 十五 東照宮拝殿内部 二十八 憾〇(かんまん)ヶ淵
杉並木 十六 眠猫 二十九 裏見ヶ瀑
神橋 十七 東照宮多寶塔 三十 中禅寺途上大谷の激流
方等之瀑及般若之瀑
輪王寺庭園 十八 二荒山神社 三十一 大平
相輪〇(とう)及三佛堂 十九 二ツ堂及大猷廟仁王門 三十二 華厳之瀑
相輪(とう) 二十 大猷廟二天門 三十三 中禅寺橋
東照宮石鳥居及表門 二十一 大猷廟夜叉門 三十四 中禅寺立木観音堂
五重之塔 二十二 大猷廟唐門 三十五 歌ヶ濱より男山を望む
東照宮御厩 二十三 大猷廟拝殿内部 三十六 戦場ヶ原
十一 御手水屋及輪蔵 二十四 大猷廟本殿 三十七 湯瀑
十二 皷樓、廻燈籠及薬師堂 二十五 大猷廟皇嘉門 三十八 湖及湯元温泉
十三 陽明門 二十六 田母澤御用邸慈眼堂 三十九
        注 全写真は新しくなりましたが、解説文(英文)は、大正10年、発行(武田博士解説)の寫眞帖と同じ内容でした。
               尚、寫眞の配列の一部が変更となっていましたので、その部分を赤字で表示しました。 2018・5・27 保坂

6月9日、京都帝国大学農学部講師嘱託の辞令が発令される。 横浜開港資料館 久吉(文書類) No662 
        
注意 農学部講師は昭和2年10月発令 再確認要 2014・9・8→2017・6・17 辞令書確認済 保坂 
6月、「植物及動物 5巻6号」に「連続講座日本の高山植物 ]]Y」を寄稿する。
26 
             
発行 昭和12年6月(確認済)
              参考 「植物及動物 3巻1号〜5巻6号」に「連続講座日本の高山植物 T〜]]Y」の詳細 作成中 2014・2・1
月、吾妻山に登山を行う。 昭和18年発表の「つつじ科植物の小観察」・昭和13年「吾妻火山群の植物景観」より   
    4. 吾妻山のネモトシャクナゲ(Rh .Fauriae a fleur sdoubles d’Adzumasan) 牧野博士がハクサンシャクナゲの變種としてRh .brachycarPum  var .Nemotoi又はvar .emotoanum として記載發表されたもので, その時はこの變種の特徴として, 雄蘂が瓣状で葯を有する點以外, type と異らすと記してある。(略)私は去る昭和十一年と十二年の七月に, 吾妻山に登り, 桶沼の附近と鎌沼の縁とで, ネモトシャクナゲを觀察したが, 奇妙なことには, 純白色の者はなくて皆淡紅色か紅色の美しい花を着けるもののみであつた。(略) 
8月、「高山植物図彙 増訂第二版」を「養賢堂」から再刊する。
   
 高山植物図彙のカバー グラビアの着色図 みやまおだまき
第二版の巻頭に
(略)日進月歩の学術は、過去四星霜の閧ノ、学名の改変を必要とせしめたのは勿論、種類の限界に対する見解にも訂正を要求するに至ったので、能ふ限り最近発表の論文をも参酌して改訂すること少しとしないが、新説と雖
(いえど)も必ずしもそれに盲従するとは限るものでないことを諒せられ度い。(略)
 改訂版の製版印刷は悉く東京プロセス社の手腕に俟ったが、社主齋藤任弘氏は特に巻頭に二枚の着色図を、義侠的に提供せられ、又友人田邊理学士は同氏撮影に係る写真六十葉の使用を許され、又前版にも挿入せる木村理学士、岡田喜一氏の写真両三図は、依然本書を飾る重
要なものとなってゐる。上記諸氏の厚意に対して、げんに満腔の謝意を表する。
 昭和十二年初夏    著者謹識


 きく科 06 シロサマニヨモギ Artemisia arctica,var.Villosa,Tatewaki
10−1 シロバナミヤマアズマギク (変種) Var.albus,Tatewaki
19 キクバヂジシバリ Ixeris stolonifera,A.Gr.var sinuata,Takeda
32 ユキバヒゴタイ Saussurea chionophylla,Takeda
33 タカネキタアザミ Saussurea Yanagisawae,Takeda 
34 ユキバタウヒレン
35 タカネカウリンクワ
Saussurea Yanagisawae,Takeda,var.nivea,Nakai 
Senecio Takedanus,Kitamura
 ききょう科 40 オホバナノヒメシャジン Adenophora nikoensis,Fr.et Sav.forma macrocalyx,Takeda
40−1 ヒメシャジン Forma genuina Takeda
41 ホソバヒメシャジン Adenophora nikoensis,Fr.et Sav.forma linearifolia,Takeda 
42 ホウワウシャジン
38−1 
やまなかしゃじん
38−2 花冠が悉く雄蘂と化す
Adenophora howozana,Takeda
forma multiloba Tak.
Monstr.Apetala Tak.
 まつむしさう科 45 タカネマツマシサウ Scabiosa japonica,Miq.forma alpina,Takeda
 ごまのは科 62 ユウバリサウ Lagotis Takedana,Miyabe et Tatewaki
72 エゾミヤマトラノヲ 
67−1 あぽいくわがた
67−2 けみやまとらのお
   
Veronica yezo−alpina,Takeda
Forma exigua Takeda
Var pubescens Takeda
72−1 アポイクハガタ Forma exigua,Takeda
72−2 ケミヤマトラノヲ
64 ばんだいくわがた
Var.pubescens,Takeda
Veronica bandaiana Takeda
 むらさき科 78 エゾルリサウ (チシマルリサウの変種) Mertensia pterocarpa,Tatewaki et Owi,
  var.yezoenseTatewaki et Owi,
 りんだう科 85−1 シロバナミヤマリンダウ Var.leucantha,Takeda
87 ヲノヘリンダウ Gentiana Takedai,Kitagawa
88 ユウバリリンダウ Gentiana yuparensis,Takeda
88−1 シロバナユウバリリンダウ
77−1 くもいりんどう
80−1 しろばなたてやまりんどう
85 たかねりんどう(しろうまりんどう)
90 たかねせんぶり
Forma albiflora,Miyabe et Tatewaki
Var.lgarashii Miy.et Tatew.
Forma ochroleuca Takeda
Gentiana Yabei Takeda et Hara
Swertia micrantha Takeda
 さくらさう科 95 オホサクラサウ
95−1 エゾノオホサクラサウ(有毛な変種)
94−3 しろばなおおさくらそう
Primula jesoana,Miq.var.glabra,Takeda et Hara 
Var.pubescens,Takeda et Hara
forma albiflora Tatewaki
97 ユウバリコザクラ
93−1 みちのくこざくら
96−1 れぶんこざくら
96−3 さまにゆきわりそう
Primula yuparensis,Takeda
var.heterodonta Takeda
var.matsumurae Takeda
var.samani−moutana Tatew
 つゝじ科
  ↓
 しゃくなげ科
99−1 シロバナヒメシャクナゲ  Forma leucantha,Takeda
101 ウラシマツヽジ Arctous alpina,Nied.Var.japonica,Takeda
107 シラタマノキ Gaultheria Miqueliana,Takeda
113−1 アヲヂクツガザクラ(変種) Var.viridescens,Takeda
116−1 ユウバリツガザクラ(変種) Var.Takedana,Tatewaki
120 ヤヘキバナシャクナゲ R.chrysanthum,Pall.forma senanense,Takeda
126 クロウスゴ Vaccinium axillare,Nakai,var.typicum,Takeda
128 ナガミクロウスゴ(変種)
107−1 まるばないわひげ
127−2 あらげえぞつつじ
129−7 みやまえぞくろうすご
Vaccinium axillare,Nakai,var.obovoideum,Takeda
var.globularis Takeda.
Forma barbatum Takeda
Forma alpimum Tatewaki
 繖形科
  ↓
 
せり科
153 シラネニンジン Cnidium ajanense,Drude,forma normale,Takeda
154 ホソバシラネニンジン Cnidium ajanense,Drude,forma pectinatum,Takeda
155 ヒロハシラネニンジン Cnidium ajanense,Drude,forma latisetum,Takeda
162 ホソバノハクサンバウフウ Peucedanum multivittatum,Maxim.var.dissectum,Takeda 
162−1 エゾノハクサンバウフウ Var.linearilobum,Tatewaki
 にしきヾ科 179 クロヅル Tripterygium Regelii,Spr.et Takeda
 ばら科 214−1 シロバナノミヽタウウチサウ
204 ちんぐるま
204−1 ちょうかいちんぐるま
204−2 たてやまちんぐるま
Forma albiflora,Takeda
Sieversia pentapetala Greene var.dryadoides Takeda
Var.dilatata Takeda et Honnda
Forma rosacea Takeda
 ゆきのした科 226 ヒメウメバチサウ Parnassia alpicola,Makino,var.evoluta,Takeda
226−1 ヒメミヤマウメバチサウ(変種) Var.simplex,Hayata et Takeda
239 クモマユキノシタ
218−1 ちしまくもまぐさ
Saxifraga laciniata,Nakai et Takeda
var.robusta Takeda
 べんけいさう科 241 イハベンケイ Sedum roseum,Scop.var.Tachiroei,Takeda
241−1 エゾイハベンケイ Var.vulgare,Takeda
 十字花科 253 クモマナヅナ Draba sakuraii,Makino,var.nipponica,Takeda
253−1 ミヤマナヅナ
此外尚一二の変種あるが省略する。検討要
D.Sakuraii,Mak.var.gnenuina,Takeda

 けし科 257−1 シロバナコマクサ Forma alba,Takeda
 めぎ科 260−1 サンカエフ(読み さんかよう) Var.typica,Takeda
260−2 マルバサンカエフ Var.rotundata,Takeda
260−3 キレバサンカエ Var.incisa,Takeda
 うまのあしがた科 264 ミヤマヲダマキ Aquilegia flabellata,S.et Z.var.prototypica,Takeda
271−1 ヤヘミヤマキンポウゲ
243−1 やまおだまき
246−1 やえざきみつばおうれん

248−1ふたつばなしらねあおい
248−3 ひとつみしらねあおい
248−4 えぞあおい
Var.plena,Tatewaki
varbuergerina Takeda
Var.semiolena Miyabe et Tatewaki

form.dianthum Takeda
form monocarpum Miy.et Tatewa
form paradoxum Miy.et Tatew
 なでしこ科 282 クモヰミヽナグサ Cerastium schizopetalum,Maxim,var.bifidum,Takeda
283 タカネミヽナグサ Cerastium Takedae,Hara
283−1 キクザキタカネミヽナグ Var.tetraschistum,Takeda
287 ビランヂ Melandrium Keiskei,Owi,var.minus,Takeda
288 オホビランヂ Melandrium Keiskei,Owi,var.majus,Takeda
288−1 ツルビランヂ Var.procumbens,takeda
 たで科 299 ウラジロタデ Pleuropteropyrum Weyrichii,H.Gross,var.genuinum,Takeda 
 らん科 294 はくさんちどり
319 ウヅラバハクサンチドリ
Orchis aristata,Fisch.var.immaculata,Takeda 
Orchis aristata,Fisch.var.punctata,Takeda 
320−1 シロバナハクサンチドリ Forma albiflora,Tatewaki
321 ミヤマチドリ Platanthera Takedai,Makino
322 シロウマチドリ Platanthera hyperborea,Lindl.var.Makino,Takeda
 ゆり科 333 キヌガササウ Kinugasa japonica,Tatewaki et Suto
333−1 ウラゲキヌガササウ Var.Tomentosa,Miyabe et Tatewaki
334−1 フナシクルマユリ Forma immaculatum,Takeda
340 エンレイサウ Trillium Smallii,Maxim.var.apetalon,Takeda
342 タカネアヲヤギサウ
07−1 くろみのつばめおもと
Veratrum Longebracteatum,Takeda
Forma nigra Takeda
 禾木科
  ↓
 
いね科
362 ヒナノガリヤス Calamaprostis deschampsoides,Trin.var.nana,Takeda
365 ユウバリカニツリ Doschampsia Takedana,Honda
366 タカネソモソモ Festuca Takedana,Owi 
371 コモチタカネイチゴツナギ Poa shinanoana,Owi,var.vivipara,Takeda
 おほばこ科 55−1 ハクサンオホバコ
55−2 シロバナハクサンオホバコ
基準種 α.purpurascens,Takeda
変種 Var.viridescens,Takeda
おどりこそう科 69−1 エゾミツガワソウの白花品  Forma ajbiflora Tatew.
いわうめ科 101−1 べにばなひめいわかがみ Forma purpureiflora Takeda 
うこぎ科 158−1 めはりぶき Forma subinerme Takeda
まめ科 181 むらさきもめんずる Astragalus fujlsanensis Miyabe et Tatewaki
びゃくしん科 367 みやまはいびゃくしん Juniperus Sargentii Takeda
ひかげのかずら科 382 ちしまひかげのかずら
383−1 
α
383−2 ひろはすぎかずら
387−1 うちわまんねんすぎ
387−2 たちまんねんすぎ
389 たかねひげのかずら
Lycopodium alpinum L.var.genuinum Takeda
Var.angustatum Takeda
Var.latifolium Takeda
Forma.flabellatum Takeda
Forma.juniperoideum Takeda
Lycopodium sitchense Rupr.var.nikoense Takeda
注意 和名の番号について 黒字・カタカナ/、「高山植物図彙 増訂第二版による図番号で枝番は便宜上の識別番号です。
                 
紫字・ひらがな/昭和27年6月三版発行 「日本高山植物図鑑」による図番号で枝番は便宜上の識別番号です。
参考
○この頃、 昭和10年から12年にかけて、連載していた「植物及動物 養賢堂 日本の高山植物(26回分)」を私家本とした「日本の高山植物」が刊行される (作成年月日、作者 確認中) 
私家本 「日本の高山植物」について
「武田久吉著 雑誌「植物及動物」(養賢堂刊)連載の連載26回分(昭和10年〜昭和12年)私家版特製本 A5判 約150頁 ただし、第一回「はしがき」の1頁と第十七回の1頁のみ手書き筆写となっています。私家版のため、表紙はボール厚紙製で背、表紙共にイタミ、スレ、ヨゴレ有り。個人印1ヶ所有り。 内容:雑誌「植物及動物」に連載された武田久吉著の連載講座「日本の高山植物」第1回から第26回までの連載頁のみを1冊にまとめたもの。日本の高山植物の代表的155種の詳細な解説。モノクロ写真155点。
「アルピフローラ HP」より
注意 「植物及動物 巻○号」の発行年月については最終章の奥付から換算して表記しました。また、1頁のはしがきの上部には「小林」と云う朱印が押されてありました。 2014・1・13 保坂記
8月26日、上高地のウォルター・ウェストンのレリーフが設置される
9月2日朝、八ヶ岳に向う。(注意 消印年の判続が困難、念のため12年とする 楠木正成赤像 2015・5・5 保坂記)
  参考−1 「妻・直子に宛てた郵便はがき」の全文
来る五日には雨でも降れば夕方六時少し前飯田橋着。若し晴天だと 十時半頃になるかと思ふ、 夕食は何れにしても 軽いものを用意されゝば 十分なり今日は晴天、諏訪も風は涼しい。いよ く(いよ) 八ヶ岳に向ふ、九月二日朝 柳澤旅館にて サイン
○この年以降の12月、御殿場線裾野駅近くの(地名)茶畑で道祖神を撮影後、警察に捕まる。

「道祖神 P5」より
撮影地 駿東郡深良村町田東村
(略)支那事変中のある年であったが、十二月のある日、御殿場の付近を歩いてからだいたい箱根裏街道に沿って南下し、水道で有名な深良(ふから)を通り、午後かなり遅くなって、裾野駅に近い茶畑にきた。ここで目指す道祖神を写して、そこから近い所にもう一基あるというので、日の落ちないうちにと急いだので、三脚の上に手札判のカメラを固定したままかついで、走るようにして行き、最後の撮影を終わって、道具を片付けていると、とうとう警察につかまってしまった。その場で調べればよさそうなものなのに、派出所までこいという。どうも自分たちの巣の中へ連れ込まないと不安心なのであろう。それでも敏捷な犯人なら、警視庁の中からでも逃走できる。ルックザックの中から、携帯品を洗いざらいつかみ出させて、一々眺めていたが、最後まで何も怪し気な品は出てこない。カメラの外には、洗面具・雨着・五万分の一の
地形図・手帳に記入されている事が道祖神の寸法では、捕縛する口実にはならないと見たらしい。お互いにつぶした時間が惜しいだけの結果に終わった。そこで勧められた旅館に泊まることになった。(略)
注意 記述が支那事変中とあったので、発端となった盧溝橋事件以降としました。 S44年 「月刊文化財 第74号 戦争と採訪」より
11月、「科学画報 26(11) 誠文堂新光社」に掲載された「懸賞科學寫眞當選發表/ /科學寫眞審査會」の中で、各応募作品別に批評が行われ博士が植物部門を行う。pid/10984634
應募作品批評/  昆蟲/河田黨   鳥類/C棲幸保  植物/武田久吉   地學/原田三夫
12月、松下石人が「三州奥部産育風俗圖繪」を「正文館書店」から刊行する。 ガリ版刷 武田家所蔵本
12月、「愛知縣原存若い者文献集」を「愛知縣教育會」が発行する。  武田家所蔵本
○この年、相模足柄上郡調査の途次、小田原の小台と飯泉、鴨の宮附近を調査する。
〇この年、帝国大学新聞社 編「雪庇・随想集」に「冬山の斷片」を寄稿する。pid/1221157
参考 目次 / 雪の國とスキー 田部重治 /山旅南北 足立源一カ / 北海道から樺太へ 高橋健治 / 冬山の斷片 武田久吉 / 十勝の連峰など 栃内吉彦 /想ひ出の山山 田邊和雄 / スキーのC水峠 深田久彌 / 人智の貧弱さ 松方三カ /田部君の遺書 山口昇 /
1938 昭和13年 55 1月、「日本山岳会 会報 72号」に「日本山岳会誕生の年月」を寄稿する。
2月、
茨木猪之吉 が「ケルン10(2月號)(57)ケルン編輯室」から「武田久吉氏(岳人素描)」を寄稿する。pid/1475402
2月8日、「東京日々新聞」に「尾瀬原発電計画  逓信省電気局案」が掲載される。

尾瀬原発電計画(尾瀬の項の全文)/七日の衆議院電力委員会における綾部健太郎(政)の尾瀬原発電計画に関する質問に對し、高橋水力課長はその計画の大要を左の如く説明した。
一、貯水池有効貯水量三三〇、〇〇〇千立方米、有効水深三〇メートル、堰堤高さ八〇メートル、有効落差六三四メートル、使用水量最大毎秒一〇〇立法米
一、渇水期延べ百廿日一日六時間継続、中間期延べ百廿日五十立方米、毎日六時間継続、
豊水期百廿日は休止してポンプ揚水に従事す
一、出力五十二萬四千キロ、年発生電力量五六六、〇〇〇千キロ時、この外利根川下流に卅萬キロの利根川地点あり、そして渇水期尾瀬原発電所の放水により五〇三、〇八〇千キロ時、合計一、〇六九、〇八〇千キロ時、従って出力にすれば尾瀬原と利根地点合計で六十三萬九千キロとなるから、これを電力量で割れば資荷率二〇パーセントになる
一、工事概算一億四十萬圓(但し尾瀬原のみ)建設費一キロ當り百五十七圓
一、かくて東京、大阪へは火力代用として一キロ當一銭見當で供給できる、石炭消費量に通算して一年五十七萬トンになるからそれだけ節約となる
一、送電線は大阪へ四百キロメートル余、東京へは百五十キロメートル余あるが、渇水期のみに働くから既存設備を利用すればよいので別に送電線建設を考慮する必要がない

一、利根川下流の発電所を有利に働かせ余剰電力の出来るまで時日を要するので工事着手は二、三年おくれる。但し尾瀬電の水路は二本を要する関係上、一本づつ建設するので第一期工事完成は昭和廿年、第二期完成は廿三年の予定
2月15日、「秦野山岳會」が「丹澤」を刊行する。
    表紙 題簽  武田久吉 相州丹澤山話(一) 漆原俊
     丹澤の昔を語る 武田久吉 丹澤山塊に関する文献 宇山幸治
     丹澤の開発に就いて 田杭安太郎(横浜山岳会)  写真 毘盧ヶ岳の薬師像 武田久吉
     丹澤の遭難に就いて 北村八郎・古西為郎  写真 金林ノタルから三ツ峰 武田久吉
     短歌 樅のにほひ 上村健三  写真 本谷キウハ澤 北村八朗
     丹澤遭難手記 岩崎正元  写真 秦野から冬の表屋根 武田久吉
     丹澤山塊を聴く 拾壹氏  写真 雪の龍ヶ馬場 石川治郎
      キウハ澤 宇山幸治  写真 雪の不動ノ峯 石川治郎
    ドウカク澤 漆原俊 附図 中津川水源概念図 秦野山岳会
     丹澤雑記 奥津泰次郎 附図 玄倉川及中川水源概念図 秦野山岳会
     丹澤山塊植物表 石綿秀夫編 後記
  
  表紙 題簽 武田久吉

 写真 毘盧ヶ岳の薬師像 撮影武田久吉

  
      丹沢山塊絵葉書の広告  
資料ー@ 毘盧ヶ岳の薬師像
 丹澤を愛さるる各位の山運隆盛を祈って掲揚した左の口絵の写真は毘盧ヶ岳の別名、薬師ヶ岳の山名を物語る薬師如来の尊像で、今は誰人かの悪戯に禍(わざわ)されて見る由もない貴重な写真である。右端のは丹澤先達で有名だった武州國多摩郡柚木大澤の竹内富造老の寄進になるもので、此の富造老は毘盧ヶ岳、不動ノ峯、孫佛山を所謂丹澤三山となし、春の入峯三十五日間難行苦行を続け、一方、丸東なる講社を作り明治四十五年一月、九十歳にて他界する迄、先達として生活を送りし模様である。塔ノ岳の水場には嘉永元年二月より明治十四年四月迄、六十三度孫佛に登拝した記念の不動尊を今尚残して置く。(漆原)

資料ーA 丹沢山塊絵葉書の広告  
 (深田久彌氏評)丹澤山塊絵葉書は此の種の絵葉書としては、甚だ高等なもので、山好きの小生大いに満足して居ります。以後続いて第二輯、第三輯の出るのを待って居ります。

2月19日、「東京日々新聞」に猛然と「尾瀬ヶ原電源開発案」に反対論を展開する。      
  
       東京日日新聞昭和13年2月19日付

3月16日、「吾妻火山群の植物景観」が「東京営林局」から刊行される。
  
  吾妻火山群の植物景観
(扉の箇所より)              
 
当局福島・猪苗代両営林署管内、安達太郎・一切経・吾妻・磐梯山には、所謂高山植物及高山林の豊富な地域が依然として原始の姿其儘(そのまま)に保存され、未だ学術的調査の手を染められた事を聞かない。由(よ)って今回理学博士武田久吉氏に委嘱し、昭和十一年七月下旬より八月上旬に亙(わた)り、前記緒山の植物景観に就きて調査を行ふことゝした。茲(ここ)に本書を謄写に代わって刊行する次第である。
                     昭和十三年三月     東京営林局


  吾妻火山群の植物景観  一  緒言
 本報告は昭和十一年七月下旬より八月上旬に亙る本地方の調査を骨子とし、武田博士自らの翌十二年夏季の研究観察を参考として記述せるも、元来地域広大なると通路以外の踏査には障害多く、且つ其通路もまた不十分で、詳細なる調査は尚将
来に俟
(まつ)可きものが多いが、一先その一般を敍述する事とする。而も踏査期は同地方としては大略融雪直後の初夏に限られたるを以て、仲夏以後晩秋更に冬季の植物景に関しては遺憾乍ら材料を缺
(か)
く。然し乍らこの短期間の調査の結果に見るも、如何に本火山群が植物の種類、分布竝(ならび)
に生態的方面より見て、当局館内北辺に於ける一大宝庫たるかを充分に知り得るであらう。
 即ち本地方は聚落から可成離融し、古来斧鉞の入ることなき原始の状態を今に維持する地域多く、森林は天然の儘所謂高山林の実体究明を待つものの観があり、其間湖沼・渓流・湿原を鏤
(ちりばめ、山頂には高山植物を豊富に生育せしむる等、地質・地形・気象の変化と共に興味盡(つ)きざるものあるは勿論のこと、風景も亦斯る地方の常として、絶佳、人口を借らずして、完璧の域に達して居ることは驚嘆の外ない。


吾妻火山群の植物景観  目次
一、緒言 内容は上記参照の事
二、地勢 (イ)吾妻火山彙   (ロ)沼尻火山彙  (ハ)磐梯火山彙
三、植物景観
(イ)吾妻火山彙 (一)廿日平 (二)西大嶺 (三)西吾妻山ー人形石 (四)人形石ー弥平 (五)弥平ーヤケノママ
(六)ヤケノママ (七)継森 (八)谷地ノ平 (九)駕籠山稲荷
(ロ)一切経山彙 (一)一切経山 (二)吾妻富士 (三)桶沼 (四)浄土平 (五)鎌沼 (六)姥ヶ平 (七)吾妻小屋
(八)鳥子平 (九)幕ノ湯 (10)野地温泉
(ハ)沼尻山彙 (一)鬼面山 (二)箕輪山 (三)鐵ヶ城 (四)安達太良山 (五)硫黄山 (六)白糸ノ瀑
(ニ)磐梯山彙 (一)五色沼 (二)磐梯山 (三)土津(はにつ)神社
四、注意すべき
  植物

植物名 科 名 解説文(原文)・学名
  一、ハヒマツ マツ科
  二、ヒメコマツ マツ科
  三、シラビソ マツ科
  四、ミヤマネズ スギ科
  五、コメスゝスキ 禾本科
  六、ヤマタヌキラン カヤツリグサ科
  七、タカネハリオスゲ カヤツリグサ科
  八、グレーンスゲ カヤツリグサ科
  九、ミクリゼキシャウ ヰ科
  十、コバイケサウ ユリ科
 十一、タカネアヲヤギサウ ユリ科 Veratrum longebracteatum,TAKEDA
 十二、ショウキラン ラン科
 十三、フキユキノシタ ユキノシタ科
 十四、ウラシマツゝジ ツゝジ科 Arctous alpina,Linnaeus,var.japonica,TAKEDA 
 十五、コメバツガザクラ ツゝジ科
 十六、イソツゝジ ツゝジ科
 十七、ネモトシャクナゲ ツゝジ科
 十八、ヒナザクラ サクラサウ科
 十九、ミヤマリンダウ リンダウ科
 二十、イハイチャウ リンダウ科
二十一、バンダイクハガタ ゴマノハグサ科 Veronica bandaiana,TAKEDA
磐梯山に特産する本種は、牧野博士によってキクバクハガタの変種として発表されて以来、諸学者をの説を踏襲して来た。今回の踏査に際しては大雨中なると且つ花期を過してゐた為め、その生本を携へ帰って栽培開花せしめた結果花形がキクバクハガタと異る点、ガクが果実の時にも著しく増大することのない点だけでも、明に特立せしめる価値あるを認め、一新種として前記の学名を制定することゝした。更に
昭和十二年夏磐梯山中にその花あるものを検したが、自生地に於ても、花は栽培品同様、キクバクハガタとは異るを認めた。
二十二、アラゲヘウタンボク スヒカヅラ科
二十三、マルバキンレイクヮ ヲミナヘシ科
二十四、クロタウヒレン キク科
    附 写真 百葉
附言
記述中吾妻富士・磐梯山の項及び注意すべき植物は武田博士の筆になり、他は局技手栗田勤記述し、同博士の校閲を経たものである。尚写真は第三十二・・三十五・三十八・四十一・七十一・七十四図(栗田撮影)と第二十二図(二階堂譲嗣氏撮影)とを除き全部武田博士の撮影に係るものである。
4月、風景協会編「風景 5巻4号」に「尾Pヶ原の眞價と發電所問題 p3〜5」を寄稿する。

風景協会発行 「風景」
現下の風景問題/尾瀬地方の發電所問題現下の風景問題として最も大きなものは、何と云っても尾瀬ヶ原と尾瀬沼を中心とする、發電所の問題である。本協會では黒部峡谷と北山峡については、先年當局へ建議案を提出したが、尾瀬地方については過日臨時総會を機會に、陳情書を提出する事になった。猶本號には、冠、武田両氏の意見を載せ、同地方の寫眞も掲げたが、その眞價は寫眞ではよく現はせないやうである。
 帝国議會に提出せられた所謂電力案は、衆議院で修正可決せられ、目下貴族院の委員會で審議中であるが、今日の新聞紙の報ずる所によれば、恐らく貴族院でも修正案を出し、結局両院協議會を経て修正可決される様子である。
 何れにしても、尾瀬地方の發電計劃については、猶各方面からの研究を待ち、慎重の態度で臨んで頂きたいものである。 
「尾Pヶ原の眞價と發電所問題」(部分) 理学博士 武田久吉
上/今議會で萬丈の波瀾を巻起してゐる電力案の中心ともなるべきものは、電力を安価に供給する點であり、そしてそのために、政府は尾瀬ヶ原發電計劃を陣頭に立ててゐる。
 
去る二月八日の新聞に、その全貌として掲載されたものを見るに、今まで民間會社で同一地に對して予定したものの二十倍以上の發電能力があるやうに計算されてゐるだけに、只見川上流に設けん堰堤の高さは、八十メートルと設計されてゐる。しかしその幅もまたその位置も明示していないので、貯水池の水面を幾何に保たうとするのか不明であるが、下流を利根川流域に落として再びその水を利用する考へらしいから、舊案の如く原の西端猫又川上流から、トンネルをもって楢俣川にでも導くものらしい。さすれば、水面は少なくとも千四百メートルを缺(か)いたのでは無効である。
 ところでここに問題となるのは、その堰堤の位置であって、それによっては貯水池は到底實現の可能性がないことになる。電気局長や、水力課長が實地踏査をどの程度なされたか知らないが、僅々八十メートルの堰堤千四百メートルまで水を貯へるには、左岸は脆弱な火山岩層、右岸は鋸屑にも等しい泥炭地、そして河床もまた基岩なる閃雲花崗岩の上を覆ふ安山岩でしかない地點に、それを設けるより仕方がない。素人目にも安全らしく思はれる地點、即ち基岩の露出してゐる下流に堰堤を設けるとしたら、少なくとも高さ二百メートル、幅員六百メートルを算するほどのものでなければ、到底尾瀬ヶ原を貯水池とするには役に立つものではない。それでもなほ原の一部は水上に顔を出すか、子供達が尻を端折って、水遊びが出来るほどの浅瀬が出来る位でしかあるまい。
 一歩退いて、政府案でやるとしても、堰堤の石材はこの近くには得られるものでない。その他セメント、人夫の食料等百般の品は人煙の絶えた山また山を数里も距った地から、ケーブルかトラックで送らなければならないし、それの置場もないほどの深山であり、のみならず一年の六、七ヶ月は深雪の下に埋まる土地である。平地と見える原は所謂湿原であるから、材料を置けば悉く數メートルの下に沈下してしまふ。安全な地は何処も相當の傾斜地である。
 更に不安なことは、假に水を貯へたとしてそれが地底から漏水しないと太鼓判を押し得る人は、良心と常識のある限り一人としてあるまいとしか思はれないほど、神秘の尾瀬ヶ原は特殊な地なのである。

中/天然に堰き止められた池沼とか、普通の河川を堰き止めて貯水池としたものは、従来枚挙にいとまない。しかし尾瀬ヶ原の如き特殊な地域を、簡単に貯水池になし得ると考へたら失敗は火を睹(み)るより瞭(あきらか)である。假(かり)に堰堤が成功したとしても、あの特殊な地勢と気候の下にある尾瀬において、例の怪草「水蘚」が、或は地底から浮び上り、または周囲から侵入して、再び大規模の湿原を形成しないと保證し得る人も恐らくあるまい。そして一億四千萬圓を泥土の中に投入じて了ったとしたら、或はまた完全な貯水池を造るに三億、四億の出資を要するとしたら、低廉な電力は如何にして国民に供給出来るであらうか。大きな疑問が前途を横たはるを、平気でゐられるほど、現在の国民には餘裕がない。(略)下/(略)
                     尾瀬地方發電計劃については三月九日の本會臨時総會にて協議、可決の
                     上、逓信、厚生、内務、鐡道の各大臣へ左記陳情書を夫々提出した。
          尾瀬地方發電計劃に關する陳情書
 尾瀬沼及尾瀬ヶ原は日光國立公園の西北部を占め一は幽邃静寂なる山湖を中心とする神秘境を成し他は廣大優美なる大湿原を展開する原始境にして共に世界に誇示するに足る我國風景の至寶たるのみならずその珍奇を
はるる湿原植物を豊富に蔵する學術上の價値に至りては眞に他に絶對に求め難き世界の寶庫なりとす而て昭和九年國立公園に指定せらるるや其の眞價は汎く世上に認められ爾來國民の保健強化に貢献しつつあることを寔に計り知るべからざるものあり(略)
 冀
(こいねがわ)くば政府に於かれては與論のある所を深く考慮せられ本會の眞意御賢察の上尾瀬地方の發電計劃は絶對に之を中止せられんことを爰に本會総會の議を経て陳情に及び候也
                                       風 景 協 會
           昭和十三年三月   會長 公爵 鷹司信輔/(以下役員氏名略)
       参考 同号に記された風景協会の役員欄に博士の名前はありませんでした。 2017・5・12 保坂
4月15日、「民族学研究 第4巻第2号」に北村公佐との連名で「相模足柄上郡の道祖神と小正月の行事(第二報)」を寄稿する。
一 道祖神略記
(略)
今迄に得た資料によると、(道祖神は)村民に女性だと目せられるものは、十四日サイトバラヒの時屋根を燃すと、直ちに新しく杉葉で葺いて翌年までそのまゝ放置する。これは津久井郡にも行はれる風習であるが、唯異るのは、屋根は道祖神の位置から遠く離れた所に運んでから燃すので、其の為、石像は津久井郡のものゝ如く焼けて損傷する様なことの無いのは幸である。また女性だと言はれる道租神には、多数の陽石が捧げられてあるのが一般の様である
4月末、成瀬村石田の民家に植ゑられたヒャクジッコウに連理の枝を発見する。
連理の枝」の発見
(略)こゝにまた昨年四月末、相模中郡成瀬村石田の民家に植ゑられたヒャクジッコウの枝の連理を発見して喜んだことであった。(略)         「昭和14年7月発行・ドルメン 7月号 P35」より
5月、金鑚武城が、「埼玉史談 第九巻第五号」に「西武地方の石棒に就て」を寄稿する。
5月、高頭義明が酒井嘉七から「秋山紀行」の写本を授かる。
       知人同國長岡出身酒井嘉七君此書を携來して余に表書を需む余未だ學徳才の成らざるを
      以て辞すれども許されず鈴木先生は余の尊崇する所なり故に厚顔之を書せり不遜の罪幸に恕せよ
           昭和拾参年五月弐拾日誕生日
           前日本山岳会々会長  高頭仁兵衛藤原 義明謹書  時六拾貳叟  花押

5月10日付、久吉→胡桃澤勘内宛てに書簡を送り近況を伝える。
近年相州の道祖神に多大なる興味を催し余暇を得る毎に同地に出向き候(中略)。本年は相州愛甲郡のを略完成致し目下原稿整理中に候、この夏には発表できるかと楽しみ致し居り候
             胡桃澤友男著 「武田博士の相模の道祖神調査」より
5月14日、「大石山の南面と玄倉川」と題し、写真撮影を行う。
 久し振りで玄倉川の流域を歩き度くなり、秦野山岳会の漆原君と、塔ノ嶽が下がって湧津に一泊し、翌日山神峠に向う途上、逆木丸の附近から望んだもので、昔このあたりの山腹は日の目も漏らさぬ原始林で蔽われて居たことを思うと、悲惨な感を抱かざるを得ない。  「山と渓谷 No143 昭和26年4月号」のグラビア文の全文より
7月、鈴木重光が「旅と伝説 第11年7月号」に「鏡ヶ沼の怪と甲子温泉の発見」を寄稿する。
 
資料ー1 「鏡ヶ沼の怪と甲子温泉の発見」は八王子 村田柳路の遺稿文を鈴木重光が補遺し発表しました。
 村田柳路氏、本名は治郎、府下恩方村の舊家に生まれ、桑都八王子市に於て、織物装飾業を営んでゐた。去る昭和九年一月、病魔の犯す処となり、爾来闘病四ヶ年、其の間病床の徒然を慰むる為めに、川柳に志し、柳路と号し、桑都柳壇の覇を握るに至ったが、惜しむべし本年一月以来の不順な気候に禍ひされ、遂に起つ能はず、四月三日午後七時十五分不歸の客となった。予も曾て氏と病院の同室に呻吟せしことありて、同氏の御家族に親身も及ばぬ看護を受けた事は、今尚忘れる事が出来ない。今回の他界に臨み、予の筺底深く祕置きし遺稿に補筆して公にし、以て若くして逝きし雅友の冥福を祈る。(重光記)
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 以下記述する物語は、私が或る夏(昭和八年)下野國那須郡那須温泉三斗小屋に遊んだ時、宿の主人から親しく聞いた話である。
今より(以下略)
7月、尾瀬沼に注ぐ奥沢に生えたヤナギトラノオの写真撮影を行う。 「明治の山旅P153」より
撮影日時についての検討
(昭和13年)7月1日、平野長英が武田博士宛てに「訪問の際の厚遇への礼、尾瀬への誘い」の絵はがきを投函しているので、実際の写真撮影は6月になるか書面の検討要    
「横浜開港資料館 久吉書簡1147」より
7月、「科学ペン」に「新緑の色と香」を寄稿する。後年、「植物学談義 昭和53年9月 学生社」にも掲載される。
7月、深田久弥編「高原/紀行と案内 青木書店」に「尾P 」が所収される。
      注 ここに記載されている「尾瀬」の旧題は「秋の尾瀬」で、初稿はS4年発行の「改造 11巻7号」に発表され、
             その後、「尾瀬と鬼怒沼」にも所収されています。 2017・4・15 保坂

7月、誠文堂新光社 編「新修写真科学大系. 第7卷」に口繪寫眞「ヤシャブシの老木・アカトド(北大手鹽演習林)・アヲトド(北大手鹽演習林)・山猫柳(雌株) ・山猫柳(雄株)・岩高蘭・マルバスミレ・イタヤカヘデの巨樹(湯西川)・染井吉野・敦盛草」と「植物寫眞」の撮影法について発表する。Pid/1239526  注 また、第5卷Pid/1239517・第12卷。Pid/1239538にも記述あったが、内容未確認 武田家所蔵本 2018・4・2 保坂
 
植物寫眞の各章名  各章に掲載された写真のタイトル
緒言
第1章 撮影用器具 1 ミヅバセウの群落/ 2 一株のミヅバセウ/3 ローシアン・クヰック レヴェル トップ/4 ウオッキンスのビーター/5 砂丘上のハマグルマ/6 ハマヒルガホ/
第2章 露光の秘訣 7 ヘビイチゴの群落/ 
第3章 遮光器 8 牧場のタンポポ/9 ベニテングタケ(オーソフィルムを用ひて赤を黒ッポク再現し白色部との差を明瞭に表はしたもの)/10 シソバタツナミ(日陰で寫したもの)/11 コシダ(弱光のもとにおいて撮ったもの)
第4章 光線の強弱と角度 12 草の萌發(陰影を利用した写真)/
第5章 背景 13 ネズミサシの幹(強光のもとでの撮影)/14 黒バックを用ひて寫した絞りの椿(赤札乾板使用)/15 白バックを用ひて寫したイトアヲノリの標本/
第6章 風除け 16 天然の岩石配置をバックとして写したモイワナヅナ/17 青島のビラウ林(薄暗い林内でトップヘヴァーのビラウは風の日には手におへまい)/18 ガズマル(風の日には氣根が動いて撮影に困難なもの)/19 微風位にはビクともしない欅の幹/20 卑湿池に生へるリュウキングワ/21 蕾と半開と満開の花をつけたニホイコブシ/
第7章 材料の選擇 22 キンバサンカエフの花/23 ジャガタライモ/24 残雪の傍に頭を出したフキの薹/25 伸びたフキの薹(右は雄株・左二つは雌株)26 仲秋枝端に現れたヤツデの蕾/27 鱗片全く落ちて蕾は將に開かうとする/28 第一の開花(花枝の末端の花叢が先づ開く)/29 第二の開花(花枝の末端の花叢が今や満開)/30 果實の成熟/31 春季冬芽の開舒/32 新葉梢伸びて舊葉殆落つ/  
第8章 樹木の撮影 33 宮城前の公孫樹/34 落葉時のシナノキ/35 河岸の泥地に柳の種子が落ちてそれから無数の芽生が發生した有様(白點點たるは種子をのせて飛ぶ柳絮)これから柳の群落ができる/
第9章 群落の撮影 35 ニリンサウの小群落、薄暮に際して花はみな閉ぢて點頭の状/37 コメツガの天然林内部/38 カラマツの疎林/
第10章 植物景観 39 濕原とそれ接する樹林の景観/40 砂丘上に生じた黒松の林(二つの砂丘とその間の窪地と黒松の根張を見よ)/
第11章 水生植物 41 ネムロカハホネ/42 干潮時にその生育地で天然のままを寫したエゾイシゲとヒバマタ/43 シャーレに容れて寫したムジナモ/
第12章 結尾
8月、苗場山中に一週間程滞在し、富士の姿を探す。 「山と渓谷社 62号 苗場山の富士 P28」より
    参考 「北越雪譜」と「苗場山の富士」の文章内容の比較
「北越雪譜(一部)   「苗場山の富士」より、本文(原文のままの一部)
(略)さて眺望(みわたせ)ば、越後はさら也、浅間の烟をはじめ、信濃の連山みな眼下に波濤す、千隈川は白き糸をひき、佐渡は青き盆石をおく。能登の洲崎は蛾眉をなし、越前の遠山は青黛をのこせり。こゝに眼を拭て扶桑第一の富士を視いだせり。そのさま雪の一握りを置くが如し。(略)
    校註北越雪譜 野島出版 S50・11 8版より
(略)昭和十三年の八月私は苗場山中に一週間程滞在したが、その中の一日、無類の晴天に恵まれて、少なくも午前中は、佐渡も能登も、浅間の烟も草津白根も、 四方八方実に明瞭に見えたが、扶桑第一の富士だけ姿を現さない、年の為に濃いフィルターを掛けて撮影を試み、その結果を見ても富士のフの字も見出せない。(略)
8月5日、麹町郵便局より愛国国債売捌に関する書状が送られる。
     その裏面に、セイノカミについての写真撮影の箇所を記載し、その所在と呼称法を明らかにしました。
     
(書状文から作成の時期を考察しましたが、実際のいつごろかは時期不明 検討要
8月、「旅と伝説 第11年8月号」に「鏡ヶ沼の大蛇」を寄稿する。
資料ー2 「鏡ヶ沼の大蛇」、始めの部分より
 本誌七月号に、村田柳路氏の遺稿である鏡ヶ沼の奇怪な伝説が、鈴木重光氏の補筆を得て掲載されたが、それは私が掌て同じく那須の三斗小屋温泉で耳にしたのと、大同小異であるから、此処に異説を揚げる程の事もないが、あの沼に住むだといふ蛇の全身について、朧気な記憶を辿って、大要を書いて見よう(後略)
(大正10年秋)、「国境山稜の猛烈な藪に歩行を阻まれたので、とに角と沼迄下って見たがと記しているように深い藪に覆われていたため赤崩岳への登山を中止しました。 
 
同号にも掲載された「赤崩山と鏡沼
資料ー3
昭和5年6月発行/「改造社・日本地理大系 別巻1 山岳篇」P167より
赤崩山と鏡沼
 那須火山の一峯三本槍岳の北肩から北に望んだ赤崩山(一名旭岳)で、その標高は1835米を算する。前面に湛へられた小池は鏡沼と呼ばれる神秘的の小火山湖で、その水極めて清澄。池畔には文久四年六月鏡沼大明神に献じた石燈篭があり、南会津の山民は往々雨乞の為に来ることがある。(武田久吉)
←鏡沼(黒くなって見える箇所です。)

8月、大雪山、約2100mに於いてハイマツの生態調査を行う。 「続原色日本高山植物図鑑」 P80 より
番号 採集地 採集年月 年輪数 本質部の半径(%) 年輪平均の厚さ(%)
最大 最小 平均 最大 最小 平均
12 大雪山、約2,100m XV1938 84 40 28 34 0.49 0.33 0.41
13 八ヶ岳赤岳ノ頭の西部,約2,600m T]1926 76 41 18 30 0.54 0.25 0.40
14 大雪山、約2,100m XV1938 108 53 36 44.5 0.45 0.33 0.40
9月、佐渡民間伝承叢書第一輯「佐渡年中行事編」が刊行される。
9月10日、「民族学研究 第4巻第3号」に北村公佐・漆原俊との連名で「相模愛甲郡の道祖神と小正月の行事」を寄稿する。
10月、「Alpine Flowers of Japan(日本の高山植物)(英文)」を「三省堂」より刊行する。
         Alpine flowers of Japan; descriptions of one hundred select species together with cultural methods, by H. Takeda. 
10月、「登山と植物」を「河出書房」より刊行する。
   「登山と植物」の中の作品年表










山岳を愛せよ 武侠世界       大正7年7月1日
登山熱の勃興と本来の精神 東京朝日 大正11年7月31日
登山する人へ 東京日日 昭和4年7月14日
婦人の登山と其の注意 婦人画報 大正12年7月
登山の心得八箇條 婦人画報 大正15年8月
冬期の登山とその準備 東京日日 昭和4年1月17日
山人の寝言 山林会報 昭和3年3月
岩登りの思出 日本山岳会会報13号 昭和7年3月











登山春夏秋冬 太陽 昭和2年8月
春の山 東京帝大新聞 昭和7年3月14日
新緑の頃の山々 改造 昭和7年6月
新緑の色と香 科学ペン 昭和13年7月
森林の神秘 山林 昭和7年7月
高山のもみぢ 追記ハナノキの伝 東朝 昭和3年10月28日
冬の山 東京朝日 昭和7年1月3日
武相境上の最高峰追記あり 昭和9年1月1日
深山の珍味 週刊朝日 昭和11年6月
山の湯の思ひ出 霧の旅8年24号 昭和2年7月










わが山々の思ひ出 東京帝大新聞 昭和10年6月17日
北相の一角 山岳 第13年第3号 大正8年10月
神戸岩と御前山 山岳 第14年第1〜2号 大正9年2月14日
御嶽から乗鞍まで 雷鳥 1930・2 (昭和5年)
寶川を溯って笠ケ岳に登る 表示なし 表示なし
尾瀬と奥日光を訪うて 昭和8年11月
冬の三ツ峠山 東洋学芸雑誌 大正11年2月5日
出羽の名山鳥海 太陽 大正14年8月1日
北海の奇勝を探る 表示なし 表示なし





高山植物の魅惑(1) 山林 昭和5年7月
高山植物の魅惑(2) 経済往来 昭和10年7月
夏の高山と高山植物 植物及動物 昭和8年8月
高山植物と冬 報知 昭和2年2月22日
高山植物の生態的観察 表示なし 表示なし
11月、「ドルメン 4巻9号 再刊1号」に「風変りな道祖神」を寄稿する。
12月、「ドルメン 4巻10号 再刊2号」に「樹木崇拝と樹種・正札の付いた道祖神」を寄稿する。
○ この年の末、再び湯河原と吉浜の一部を訪ねる。
この年 「丹沢山塊絵葉書 第1〜3輯(8枚組)」を丹沢山岳会が編集、秦野町・丹沢山振興会から刊行される。
   撮影者:武田久吉・石川治郎・松井幹雄・亀岡清・森谷清二・山口栄吉・漆原俊
1939 昭和14年 56
1月、「山と渓谷 53号 p55〜55」に「新刊紹介 登山と植物」が紹介される。pid/7933764
樋沼より見た一切經山・一切經山より見た小富士と樋沼 / 大森三郎 / p126〜126 紀行 富士の三日間 / 小池文雄 / p119〜121
1月、北村公佐と湯河原から浜通りの道祖神調査を行う。
1月、柳田国男篇、「歳時習俗語彙」が刊行される。
1月、「ドルメン 5巻1号 再刊3号」に「臼道禄神と鍾道禄神」を寄稿する
2月、「科学ペン 第四巻第二号」に「松竹梅」を寄稿する。
2月、「日本山岳会 会報 84号」に「出版の苦悩」を寄稿する。
3月、「ドルメン 第5巻第2号 再刊4」に「道標としての道祖神」を寄稿する
    また同号に、早川孝太郎が「ゐろりと座席」を寄稿する。
4月1日、神奈川県都筑郡田奈村が横浜市に編入(第6次市域拡張)される。
4月1日、「旅と伝説 第12年4月号」に「上州の産泰神社」を寄稿する。
(略)処で、群馬縣庁では両三年前から、この種の崇拝対象の※1破壊湮滅に大童であり、到る所で村民を失望落檐せしめて得々たるものがある。前記瀧窪ではそれ以来出産で死亡する女が続出すると歎いてゐると伝聞するが、それにしては※3呑舟の魚にも比す可き産泰神社を逸したことは、大きな手抜かりであるともいへよう。(略)又一方、俗信の対象が陰石陽石の類であるとしても、崇拝物である以上、その石が風俗を乱し又は猥褻(わいせつ)な行為をなしたり、又はさる事を助長奨励するものでもあるまい。而もその思ひの十分にある温柔郷は、却って警察の監督(保護?)の下に邦内到る所に存在し、殊に群馬県の如きはその尤なるものである。(略) 日本の上代には、生殖力の崇拝信仰のあったことは、歴然たるもので、※4造化の三神を始め、国土成生の神話、神名、更に生殖器の威力に関する説話等、枚挙するに遑が無い程である。暇令記紀に記す処のものが、支那伝来の思想を多少なりと混ずるにせよ、日本在来のものゝ多分にあることは否めない。神道発達の基準とも言ふべきこの信仰は、又祖先からの遺産でもある。その事実を忘れ、それを危険な外来思想でゞもあるかの如くに誤解して、徒に※5蛇蝎視するにも及ばないことであらう。
   ※1湮滅(インメツ) 跡形もなく消えてしまうこと。また、消すこと。「
   ※2大童(オオワラワ) なりふりかまわず,夢中になってする・こと(さま)。「
   ※3呑舟(どんしゅう)の魚(うお) 舟をまるのみにするほどの大きな魚。転じて、大人物。大物。
  ※4造化の三神 古事記神話で,国土・人間・万物を創造したという三柱の神。
     
天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)・神皇産霊神(かみむすひのかみ)の三神。
  
※5蛇蝎視(だかつし) へびやさそりのごとく忌み嫌うこと
4月、「ドルメン 第5巻第3号 再刊5号」に「一人立ちの道祖神・馬力と澱粉 附 米食の事」を寄稿、「一人立ちの道祖神」の項に伊豆長岡町の丸彫り座像の写真2枚を掲げ、伊豆型道祖神の特徴を述べる。
(他地域の道祖神と比較して、)これに反して、伊豆に見る座像は、像が丸彫になってゐるので、浮彫のものは何れかと言へば、希少なのも妙である。その為めであるか、年号その他の文字を刻みつけたものは、余り見当たらない。像は合掌でなければ笏か末広を持つか又は桃の如きものを持つかであって、それによって大抵は男神なり女神なりを識別し得る。(略)東海岸の方へ来ると、概して無毛の頭部を有して、瞥見地蔵菩薩のやうにさへ見へる。その多くは手を合掌してゐて、慣れぬ目には地蔵としか映るまいと思はれる。(略)それにしても、伊豆各地のの道祖神は、モット徹底的にその形態を調査する価値が十分にあると筆者は信じてゐる。
  また同号に、早川孝太郎が「ゐろりと座席二」、北村公佐が「蘇民将来雑考」を寄稿する。
5月、「ドルメン 第5巻第4号 再刊6号」に「天子ヶ嶽の瑤珞躑躅・茂原の帝神社」を寄稿する。
     
 セイノカミ・アルバムより (掲載写真不明のため再調査要2015・6・19
茂原の帝神社」より 冒頭の部分
上総國茂原町に帝神社といふ小祠があり、その御神体として衣冠束帯の木像が有るが、これのみを見たのでは何神を祀るものか更に判らないが、実は生殖器崇拝が根源をなしてゐるもので、その證據は同町吉野某の庭先の木像の前身であったといふ石製陽根が小祠中に存在してゐる。これは変形生殖器崇拝の好例である。といふのが大正十一年一月発行の『性』第五集第一号に掲載された、加藤玄智博士の論文の大意である。同様な記事が、同博士の手になる英文の論文、(日本亜細亜協会出版物)にも揚げてある。
生殖器崇拝ーー往々性崇拝とも言はれ、便利な詞として私も使用することもあるが、厳密にいへば、性其者の崇拝ではなくて、
生殖力の驚異から外陰部の崇拝に帰納せられるものーーの対象としては、本来露骨な形態をなせるものが多いが、中には可なり変形したものもあつとは言へ、帝神社の場合には、どういふ径路で斯く変化したかとその経緯を聞質して見たいと思ひ、両三年前房総線で旅行する折に茂原で途中下車し、同町字高師(たかし)に吉野氏を訪ねて見た。機よく床には加藤博士が大正十年に略写せられたことのある帝大明神の軸が掛けてあったので、それを見せて貰ふことも出来たし、又博士が先年写真せられた石製のリンガも、庭の一隅に破れた小木祠中に祀ってあったので、一覧することを得た。(略)/処が、明治初年中、「帝」の名が不敬であるといふので、木更津縣の官吏が再三出張して、この木像を破棄しようとし、終に細かく割って火に投じてしまったといふ。その為か、一時之を三角神社と称したこともあったそうである。斯く神像を破壊された後、旧社地から移って、今は吉野氏所有の地所内に、数名の世話人によって社殿だけは再建せられてゐるが、神職は無いといふ。(略)
5月、矢島市郎が「日光・鬼怒高原」を「三省堂」から刊行する。
    
11 金精峠越え 原文 「(前略)湯本から約1時間半の工程で、栃木群馬の県境のこの峠の
      左手金精山を背に金精神社が方三間の社殿に異物を神体にして祀ってあったが、今日は物議を
      醸して神体は無い。寒い時、風雨の時の避難小屋になる。(後略)」

     昭和12年、藤井萬喜太氏と金精峠に関しての論争があったが、文中から御神体を 異物として捉え、また御神体の無いことが
          記述されてる。何時ごろからか、また博士や安達成之らの心中は如何のものか
疑問が残った 検討要
5月、「日本山岳会 会報 86号」に「地名小記」を寄稿する。
6月、相模足柄下郡の道祖神調査を終了。12月19日付、胡桃沢勘内に宛てた書簡からの推測/胡桃沢友男 
6月、「尾瀬ヶ原・中田代の浮島、背景は至仏山」の写真撮影を行う。 「明治の山旅 P137」より
6月、「ドルメン 第5巻第5号 再刊7号」に「地名と植物」を寄稿する。
    
参考 「カクマ」について、「民族文化 三巻六号 「かくま」の事から にもあり  2014・2・8 保坂記
7月、「ホームライフ 5巻7号」に「高山植物への愛」を寄稿する。内容未確認 2017・4・5 保坂記→2018・2・2 保坂
7月、「ドルメン 第5巻第6号 再刊8号」に「連理の枝・道標としての道祖神(第5巻第2号)補訂」を寄稿する。また同号に、北村公佐が「道祖神と鏡餅」を寄稿する。
8月(7月5日受理)大城川次郎が、「日本林学会誌21巻8号」に「吾妻火山群の森林植生に就いて」を寄稿する。 
8月、深田久弥編、「青木書店」から「山」を刊行、「小佛峠」を収録する。
   また、同書に「大峠」と「小菅大菩薩峠」の寫眞2枚を収録する。
作品名 出典元 作者 作品名 出典元 作者
「山とスキー47〜48号」より 大島亮吉 将監峠 「山岳」1916刊より 小暮理太郎
峠に関するー
  二三の考察
「太陽」1910刊より 柳田國男 浅間越え 「週刊朝日」1933刊より 寺田寅彦
峠・坂・越え 「山の想ひ出」より 木暮理太郎 檜原峠 大島亮吉著「山・檜原峠」より 大島亮吉
峠(の情趣) 「峠と高原」1931刊より 田部重治 普甲峠 「雪線散歩」1933刊より 藤木九三
峠の小舎 「ケルン26号」1935刊より 森本次男 大菩薩峠 「山小屋」1935刊より 瀬名貞利
峠と山村 「雪庇」1937年刊より 高橋文太郎 十國峠・籠坂峠−
   ・長尾峠
「自然・気まぐれ・紀行」1931刊より 戸川秋骨
峠の語原 「山岳」1931刊より 細野重雄 デンユク峠 「破片岩・大井川」1933刊より 冠松次郎
足馴峠 「日本アルプス」1910刊より 小島烏水 御在所峠 「花袋紀行集」1923刊より 田山花袋
金田峠 「山岳」1906刊より 白井光太郎 中尾峠 「ミス・スポーツ」1932刊より 黒田米子
信州峠 「山の絵本」1935刊より 尾崎喜八 神坂峠 「山路の旅」1938刊より 田部重治
仙元峠 「山岳・仙元嶺と鍾乳洞」より 梅澤観光 ピャナン越え 「山岳・臺灣の山旅」1929刊より 大平晟
針ノ木峠 「朝日新聞・日本アルプスの縦走」T4・8の記事より 長谷川如是閑
河東碧梧桐
清水峠 「雪庇」1937年刊より 深田久弥
北見峠 「北の山」1935刊より 伊藤秀五郎 美幌峠 「旅・美幌峠を越えて」より 茂木愼雄
杖突峠 遺稿集・伊那谷木曽谷」1937刊 細井吉造 勢至堂峠 「勢至堂峠より白河へ」より 柳田國男
安房峠 「折柴随筆」1935刊より 瀧井孝作 鈴鹿峠 「山岳・臺灣の山旅・ピヤナン道路」より 西川正治
分杭峠・地蔵峠 「山と渓谷49号」1938刊より 長尾宏也 八十里越 「山岳・五月の山旅」より 藤島敏男
御坂峠 「山を行く」1930刊より 高畑棟材 小佛峠 「山岳・北相の一角」より 武田久吉
金精峠 「幾山河・みなかみ紀行」より 若山牧水 和田峠の合戦 「夜明け前」より 島崎藤村
大河原峠 「山小屋」1931刊より 中西悟道 山の分教所 「續村里生活記」1937刊より 結城哀草果
大日峠 「山岳」1913刊より 中村清太郎 三國峠を懐しむ 「旅・」1934・1刊より 入澤達吉
武石峠 「山岳」1915刊より 別所梅之助 湯山峠にて 「旅・」1934・6刊より 早川孝太郎
関山峠 「長塚節全集・旅の日記」より 長塚節 宇都の谷峠 「老妓抄・東海道五十三次」より 岡本かの子
仙人峠 「山岳」1923刊より 沼井鐡太郎 足柄と箱根 「旅」1935・3刊より 吉川秀雄
徳本峠 「日本アルプスへ」1916刊より 窪田空穂 早坂新道 「念珠集」1930刊より 齋藤茂吉
9月、「ドルメン 第5巻第7号 再刊9号」に「蛭ヶ岳・上河内(上高地)、代品と代用品、「地名と植物」補遺」を寄稿する。
9月12日
(消印)、苗場山麓八木沢にて→妻、直子宛てに「郵便はがき」を投函する。   


(天候が悪く)、これでは今日も頂上の小屋へは登れないかも知れない、中腹の小屋にでも泊って天気様子を見た上でと考へて ゐるが少々当てが外れた模様で落膽
 
9月、「明治聖徳記念学会紀要 52巻」に「講演・相模愛甲郡のサイトバラヒ」を寄稿する。
資料 冒頭の部分
 近年農村の研究が大層盛に行はれることは、寔に結構であるが、それは主として経済的方面の研究であって、多少共に信仰の加味された農村の行事については、割合に微々たるものではなからうかと思はわれる。農耕を以て國の大本とする我が國では村民の生活を種々な方面から眺めて研究し、単に只物的方面の合理化のみでなく、精神的方面に於ても、時勢に即すると共に、一方には伝統を無視せず、古来の信仰にも動揺を来たさない様にし乍ら、之を善く導いて行く必要があらうかと考へる(略)/ダイノコンゴウは今では一般にニハトコを使用するが、相州でも本来はカツノキ(一名カツンボウ)即ちヌルデを使ったものらしく見える。処で之をダイノコンゴウと呼ぶことについては、首肯す可き説明を聞かないが、他地方では、ダイノコンゴウなる名は、嫁の尻打に用ひるリンガの変形した棒とか、又は神仏への報賽物として主として木を削って作るリンガの呼び名である。これがどうして相州では削り掛の通称となったかは、興味ある研究問題である。差当って一般の拍手をち得る程の断案はないが、元来リンガを作る際に削り掛の形式とし、クルリとよぢれた木片を(失字)に擬したのではなかろうか、それが後来リンガの形でなくなっても名だけは依然ダイノコンゴウと残留したのではあるまいか、四五年前津久井郡内郷(うちがう)村若柳産れの老婆に出会った折、その人の村では昔は正月十四日にカツノキを以て、削り掛けの毛を具へたリンガを刻み、之を御松焼の火に投じたと話してゐた。これは現今は廃れてゐて、その地では中年以下の人達は、話にも聞いてゐない様子である。若し斯様なことが相州各地に広く行はれ、その名をダイノコンゴウと呼んだとでもしたら、解決は簡単につくのであるが、その当りの調査は未了である。(略)
 以上以て大略乍ら愛甲郡を中心として、サイトバラヒに関する種々の行事について述べ了ったが、サイトバラヒの火を以て焼く団子の製作や形式等については、煩を避けて省略したことを了せられ度い。とに角農村では斯様な行事が俗信と結び付いて行はれてゐる。教養の高い方々の目には、それは迷信と映じ、取るに足らぬものとの考を起さしめることであらう。然らばそれを厳重に取り締まり、迷信は片端から打破し、つまらぬ行事は禁壓してしまひ、信仰の対象は神祗官の認めた神々に限ることゝしてしまったら如何のものであらうか! 実際左る傾向は警察や学校教育者の方面から、年毎に村民に強ひられつゝある。群馬県の如きはその急先峰であって、三四年前から警官を動員して、淫祠と考へ迷信と思ふものは、その由緒や村民との交渉等をも精査せずして、片端から破壊湮滅させてしまった。多年安産の神として村民の尊信の篤かった陰石を地下に埋められて以来、御産で死ぬ婦人が相ついで出た村もある。道祖神として昔から祀られた陽石を、巡査の手で河中に投ぜられて以来、耳だれの神として霊験灼々たりしものを失って、今後子達の病気に対して祈願の対象をなくして悲嘆に暮れてゐる村民にも逢着した。斯くの如くにして、彼等の信仰心は次々と傷けられて行く。(『旅と伝説』第十二年四月号所蔵、拙稿「上州の産泰神社」参照)(以下略)    講演日については不明なため検討要 2015・10・7 保坂記
10月、「報知新聞」に「尾瀬ヶ原の浮島」を寄稿する。
(略)橘南谿の訪問し、親しく見て記述したものは、勿論尾瀬の浮島ではなくて、羽前西村山郡大谷村字大沼にある、大沼の浮島についてゞある。これは邦内の浮島中、駿河の浮島沼などゝ共に古来有名なもので、天武天皇の白鳳年間に役ノ小角の開基と称するは妄説であらうが、已に寺島良安の『和漢三才図会』に掲載せられてゐる処から見ても、少くも二百年以上も前から世に知られてゐるものである。若しまた実方(さねかた)中将も此処に遊んで、歌を詠じたと伝へるものが真実だとすれば、一千年近くも前から知られてゐることゝなる。左澤(アテラザハ)から三里余も山奥の大沼が、斯(か)くも有名となったのは、勿論この浮島があるに由るので、そのために此処に倉稲魂神を勧請して、稲荷神社と崇め、神秘的な浮島の浮遊を、神業として驚異の目を以て見たのである。
 されば大沼を訪ふ者は、遊山の人達ではなくして、信仰を以て湯殿山に詣でる者とか、または国土安泰五穀成就を祈願して、浮島稲荷に参詣する地方人が主であったやうである。
 浮島は稀有な現象であると共に、人為的にまた自然的に破壊する可能性があり、従って古来その名のみ知られて、今ではこれを見る山もないのが諸方にある。駿州浮島沼の浮島の如きもそれであり、また馬琴が『玄洞放言』巻一下に図まで入れて記述する(尤も実見に據ったのではない聞書きではあるが)秋田の島沼の如きも、百二三十年を経た今日では、その痕跡すら覓(もと)めることが出来ない。同様に鈴木牧之の『北越雪譜』二編冬に記述してある、芳谷村の郡殿の池の如きも、現存するや否や疑はしいものである。
 幸にしてこの大沼では、浮島が信仰の対象となってゐるがために、故意の破壊は勿論ないし、数年毎に春期「島切り」の式があって、湖岸の一部を切り取って水上に放ち、島の増加を計るといふから、容易に消滅するやうな心配は先づないといってよい。
 前置きが大分長くながくなったが、尾瀬ヶ原に見る浮島はといふと
(略)・・・・・
10月、大城川次郎が、「日本林学会誌21巻10号」に「吾妻火山群の森林植生に就いて(前号の続き)」を寄稿する。
10月、「旅 16巻10号」に「 "その頃"を語る 上越黎明時代」を寄稿する。 p65〜66
11月、「旅と伝説 第12年11月号」に「秩父の棒ノ神」を寄稿する。
 
 緑泥片岩で作られた棒ノ神
  中川村大字日野字宮ノ下

 昭和十三年五月発行の『埼玉史談』第九巻第五号に、金鑚武城氏は「西武地方の石棒に就て」と題して、多数の石棒を紹介せられ、殊に崇拝の対象として神社に祀られたものや、宝物として珍蔵されるものゝ写真を掲出せられたことは、実物を親検する機会に恵まれぬ研究家にとっては、寔に有難いことであった。然し乍ら、あれ程多数のものを実見せられた金鑚氏が、古来有名な棒ノ神を逸せられたのは甚だ惜しいことであった。(略)序に一言するが、前記の雑誌に於て金鑚氏は石棒を祀った社を婬祠なりと目され、又性崇拝が上代には無かった様に言はれるのは、故(ことさら)に体裁を飾らんが為めか、左なくば事実を曲解しての弁としか受取れぬ憾がある。石棒をリンガに見立てゝ之を祭祀したとて、決して嗤(わら)ふ可き事でもなく、性器崇拝が必しも婬祠を構成することは断ぜられない。斯く感ずるのは、近代人の性的堕落に因る見方であって、本邦では建国の太初から生殖の霊妙な作用やその力に対する崇敬の事
実は歴然たるものがあり、又性器を露出したり又はそれを行使する事に対して更に嫌悪の情の無かったことは、『記』『紀』その他の文献によっても察知することが出来る。然も希臘や羅馬の神話に見るが如き、エロテイークの方面への発展は余りなかったことも、注意す可き点である様にも思へるのである。上代人が斯くも天真爛漫であったにも拘らず、後世に至って濫に卑猥視し、器官を隠蔽せしめ、又行為を醜悪なりと誤認せしめたのは、仏教等の外来思想に禍されたが為めであり、弾壓の結果は陰性の醜行が発達し、濫用悪用は底止する処を知らない現状となったものとしか考へられない。その結果、現代人は、中等教育に於て生物学生理学を学ぶにも拘らず、性に関する正しい知識を得ることができず、認識不足の状態から脱却しることが出来ない。その濫用こそ慎む可く排す可きであるが之を卑猥視す可きでない事を敢て注意し度い。
12月19日付、久吉→胡桃沢勘内に書簡を送り近況を伝える。
   道祖神の方も種々資料を蒐集致し居り乍らも信州の方も貴台や橋浦君に当分御任せ致し小生は相州に主力を注ぎ候上近来は駿河と豆州に足を伸ばし傍らチト趣の変った東北地方のをも訪れ、喜田博士の御説の当否を確定する資料と共に関東や中部地方のものと比較し度く存じ居り候
 然し何分この方面は盲目の垣覗きと申す可き次第御憫笑被下度候。最近数回に亘りて伊豆を歩き同国道祖神の形態の大要を看取致し候が、祠ならぬものは悉く単立にて甲信両毛地方の如き双立のものは一も見出さず、せめてもの形態上の差異は立像か座像か浮彫かに不遇寔に面白く存じ候
 
           
胡桃澤友男著 「武田博士の伊豆の道祖神調査」より
〇この年、「大法輪 6巻7号」に「単独行」を寄稿する。 内容未確認 2017・4・5 保坂記 
1940 昭和15年 57
1月、「婦人之友 34巻1号」に「二千五百年代を顧みて 二千六百年代を想ふ――百餘氏回答/田中耕太カ・有島生馬・竹内時男・芦田均・内ヶ崎作三カ・別所梅之助・藤森成吉・土井晩翠・石原修・三島章道・帆足理一カ・上司小劍・高良富子・下村海南・吉田絃二カ・小澤恒一・久布白落實・牛塚虎太カ・コ永直・北澤新次カ・沖野岩三カ・尾崎行雄・日夏耿之介・佐々木信綱・齋藤隆夫・守屋東・石原純・中村武羅夫・新居格・阿部眞之助・宮城音五カ・中川一政・田村剛・大島正コ・々木喬・赤井米吉・武田久吉・山室軍平・小西重直・中澤辨次カ・駒井卓 ・岡田哲藏・蜷川虎三・片山哲・原田實・中川紀元・西川義方・小林澄兄・小川未明・高野六カ・東畑精一・奧むめを・尾崎秀實・松波仁一カ・本多顯彰・太宰施門・室伏高信・神戸正雄・嘉治隆一・末川博・田中茂穗・鶴見祐輔・今中次麿・松前重義・C澤洌・武井大助・長田幹彦・松村武雄・浮田和民・小池重・安部磯雄・林髞・石原謙・爲藤五カ・宮澤俊義・中嶋彌團次・山川菊榮・木檜恕一・小笠原長生・宮本武之輔・二荒芳コ・淺沼稻次カ・麻生正藏・岡部長景・石川欣一・杉森孝次カ・三谷民子・佐藤功一・倉橋惣三・北れい吉・安積得也・木内四カ・鈴木文治・野口援太カ・山本一C・和田傳・安井郁・仁科芳雄・入澤宗壽 ・山脇巖・大島義C・河野密・三輪田元道・中谷宇吉カ・杉山元治カ p38〜55 」を回答する。
1月下旬、伊豆地域に於いて双立道租神像を初めて発見する。
    「
田方郡宇佐美村に於いて、双立のもの1基を発見その意外なのに喜んだことであった。二体共
    僧衣僧形で合掌をなし、高さ四一糎、幅四五糎を算するが、年号の刻んでないのが遺憾この上ない。

                  「民族文化 第2号」に「伊豆に双立の道祖神」より
1月、「大法輪 第7巻第1号」に「農村の行事と俗信(一)」を寄稿する。
導入部のことばから(一部分)
(略)伝統的な行事が年毎に消滅して行く都会と異なって、農村では、假令近来村役場や警察署からの達しによって廃止されるとか、学校からの慫慂(しょうよう)によって簡単となったり、又は本来の意義とは甚しい懸隔(けんかく)のある形式に変じたものもあるが、一般村民が遵法(じゅんぽう)する数々の行事が依然として存在する。都会では例へば門松にしても、代金を支払って他人に依頼するとか、又は歳の市で購入して適宜にー或は申訳的にー立てるとかするが、農村では門松や〆飾りの如きものまで商估(しょうこ)に頼らずして、之を各自の労力によって製作し、松は山に赴いて伐って来る「御松切り」又は「御松迎へ」と称する一定の日に之を用意するので、各戸悉同一の日に行ふという工合である。
(略)総てのものが唯金銭で取引きされる都市とは全く異なって、農耕は本来自然相手の仕事であるが為めに、人事を尽くしての努力も、大雨、大風、旱魃、虫害、菌害、鼠害、その他んぼ種々の災害によって、多少なりと損害を受け、而もその或るものは人力を以て如何ともすることの出来ぬ場合もある。又作物の被害のみでなく、濃密な自然に圍繞されての生活は、思はざる自然的損害を被ることもあるから、その災害から免れるように、神仏に倚(た)よる心持も濃厚となるのは当然であらう。その結果、種々の行事には、作物の豊穣、家人の息災、災害の防止等を祈願する意味が織込まれ、又豊作感謝の意義が盛られることとなるのである。(略)又祭り方祝ひ方も、大体の基準はあっても、各戸の作り方とか伝統とかによって、多少の差異が見られるのは当然である。さればさういふ行事や俗信を採集した処で、夢の如きものであるかに見えようが、異った地方に行はれる同種の行事を蒐めて比較研究することによって、やがてはその本義も判然しようし、変遷の過程を推測することも出来、又民衆の心の中に活きる俗信を集めて見ると、民族の信仰のすう向を知ることも可能なのであるから、無下(むげ)にかかる業(わざ)を卑しむ可きものではない。(略)
   すう向:物事がある方向に向かうこと。
1月、会津沼田街道の車道化計画が策定される。
2月1日、草野心平編輯「東亜解放第2巻第2号」に「二月八日」を寄稿する。
社説  初風呂 日野草城
支那に於ける民族主義 平 貞蔵  二月八日 武田久吉
東亜共同体に於ける民族構成 井伊亞夫  島地の大陸への発展性 田中阿歌磨
民国二十八年の決算と展望 林 柏生  「五十年代」を祝す 周化人
一年来の日支事変 江雲生  山西景 福澤一郎
一年間の和平運動 胡蘭成  腰かける姑娘 小磯良平
一年間の国際政治 曾芝生  「貧乏の人々を守りて」 大河内一男
一年来の中国経済 郭秀峰  數学文化普及の風潮 吉岡修一郎
一年来の文化界 龍 七  「後鳥羽院」 萩原朔太郎
ほくち文化 高村光太郎  資料 邦書華譯の概観
遊歩道 与謝野晶子  ・
(略、二月八日)各地での伝承を綜合すると、二月と十二月の八日には。厄病神が廻って来る。そしてその厄病神は目が一つしかないかあら、之を嚇かして家に近づけないが為めには、成る可く目の数の多い品物を戸外に出し、此処には斯くも目の多い者が居るぞと、一種の示威運動を試みるのである。この厄病神は諸方で一ツ目小僧と呼ばれるが、伊豆では逆に目一ツ小僧と呼んでゐる。一ツ目小僧が来る晩には、器具などを戸外に出さぬようにと厳しく注意する土地もある。万一忘れて出して置けば、一ツ目小僧がそれに印を附けて行く。そしてそれを知らずに使へば、厄病に罹るからと云ふのである。殊に履物をしまひ忘れると、その家の人数がわかり、この内どれとどれを厄病にしてやらうかと。一ツ目小僧に印をされるからとも言ふ。又この晩には成る可く外出しないように慎むとか、又先に揚げた伊豆の例のやうに、己に病人が家内に居る振りをして、厄病神に厄病をたからせる必要がないと思はせ、パスさせてしまうやうに企む所もある。(略)/相州西部から駿州東部にかけては、厄病神が十二月八日に来る時に、翌年度に厄病に罹らす可き候補者の名を記帳し、その帳面を各村々に在る賽の神(道祖神)に預けて行く、そして翌年二月八日に再び来て、彼の帳面を返して呉れといふ時、道祖神の答へに、その帳面は一月十四日のサイト拂ひの折、自分の家ぐるみ燃されてしまったと云ふ、その為めに村々に厄病が入らないのだといふ信仰がある。この信仰は更に豆州にも相当広く行はれ、而も面白いことには、その状を具体的に現して、道祖神が帳面を持つ石像を刻んで安置した村さへある。斯かる石像は稲取町に在るのが有名であるが、私は更に上大見村、中大見村及び下狩野村でも斯かるものを発見したことを、此の際発表して置くのも穴勝ち無益ではあるまい。(略)で、こんな風習を捜し求めて、事変化の緊張す可き時代に、長々と書き記すなど、如何にも呑気であり、又迷信打破の急先峰である可き科学者に不似会だといふ、酷評を下される読者も無いでもなからうから、終りに臨ん一言して置く。(略)/その間の民衆一般の生活、思想がどうであったかに思を馳せようとする人は暁天の星にも似るといへよう。だがこれこそ本当に日本民族の生活し来った過去の、眞の姿を知るに、必要な仕事であり、祖先の業績を追想し、現在の日本の国で来る処を明にし、且又未来に備へる重要な事実である。日本の姿を正視するなんて事は、物好で閑な外国人に任せて置けばよいといふやうな考こそ、呑気千萬なもので、自分の巾着が空になったも知らない連中と同じである。/精勤」など称するものが出来ても、国民大衆の過去の精神を調べ上げてないから、現在をどうしようといふ策も樹て難い状態にある。又徒に「二本精神」を口にするも、過去の姿を知らないによって、その場に都合のよいやうな言辭を弄するに過ぎないことになる。然るに国家の大本である処の農耕を、畢生の事業とする農民の生活を調査し、彼等の心に抱く信仰を聞質さうとする様な事業に対して、官憲は極めて無関心である。隅關たまたま心を示せば、一種のスパイ行為だ位に誤解して、妨害阻止するのが關の山であることは、寔に概嘆に堪えない。殊に田舎巡査などが、自らの無智を棚に揚げ、低劣な思考力によって判断し、驚志家の邪魔をすることは決して稀でないといふは、世界一を誇りたがる我が警察の、特に考慮を乞はんと欲する処である。
2月、(旧正月15日)信州北安曇郡北城村蕨平にて。「道具の年取り」行事、土間に据えられた臼や諸道具の写真撮影を行う。   昭和22年 「農耕と園芸・新春の豊作祈願」より
2月、(旧正月16日)信州北安曇郡北城村野原にて。「道具の年取り」行事、石臼にさした若木様を中心に飾られた諸道具の写真撮影を行う。 昭和22年 「農耕と園芸・新春の豊作祈願」より
2月、「旅と伝説 第13年2月号」に「焼きかゞし」を寄稿する。
2月、「大法輪 第7巻第2号」に「農村の行事と俗信(二)」を寄稿する。
3月、「大法輪 第7巻第3号」に「農村の行事と俗信(三)」を寄稿する。
3月、「民族学研究 第6巻第1号」に「相模足柄下郡の道祖神と小正月の行事」を寄稿する。
3月16日、久吉→勘内書簡

   「
近くまた伊豆の旅に出かけ同国中部の道祖神の採訪に従事致す心算にて、東西両海岸は割合に
   簡単に済み候も中部は中々広き為め存外手間取り申し候
」 胡桃沢友男著、「武田久吉博士の伊豆の道祖神調査」より
4月、「大法輪 第7巻第4号」に「農村の行事と俗信(四)」を寄稿する。
4月19日付、久吉→勘内書簡

    「
双立のものも伊豆にても都合8基を発見致し、その中に享保時代のものもあって嬉しく存じ候」と、
    伊豆にも双立道祖神が建立されていたことを書き綴る
。  胡桃沢友男著、「武田久吉博士の伊豆の道祖神調査」より
5月、「民族文化 創刊号」に「会津桧枝岐に行われる御シトゲ」と「信州小縣郡の異形道祖神」を寄稿する。
「会津桧枝岐に行われる御シトゲ」
(略)
爰には南合津の山奥桧枝岐村で行はれる例を報告して置く。二月と十二月の八日、例の一つ目小僧の来るといふ日である、朝早く同地名物の蕎麦粉の中に、生米一と握を入れ、小鉢で捏ね、麺棒で伸し、之を四寸に六寸程に切り、三枚位づゝ親戚に配り、又自宅でも焼いて食ふ。又猟師が出発の朝には、米と栗を粉に挽き小鉢で捏ね、扁壓された団子に作り、神棚に捧げてから、出猟者に焼いて食べさせる。これも亦御シトゲと呼ぶ。(武田)
「信州小縣郡の異形道祖神」調査のための順路 調査日不明のため再調査要 2015・6・8 保坂記
縣村・田中→夏目田→海善寺→祢津村・東町→西町(異形の無いことを確かめてから)→(定津院・御姫尊)→常田→加澤→鏡石→牧屋→原→金子→別府→大石→桜井→滋野駅→片羽→赤岩新田→井子→原口→中屋敷→滋野駅→(汽車)
    注意 この時点で、(定津院・御姫尊)に立ち寄ったかは不明、博士が収集した御札の中にはあり、検討要 2015・6・9 保坂記 

 東部町常田の道租神 挿図一
(冒頭の部分)信州小縣郡の一部には、男女一体竝立のものであり乍ら、その顔色、服装、所持品などが、普通に見る神像雙立の道祖神とは、多少趣を異にし、殊にその容貌は宛も欧州人に似てゐるので、その原因は切支丹布教の為めに此の地に来た処の宣教師をでもモデルとして刻んだものかとも見ゆるが、左る證左も無いといふやうな記事が、雑誌『郷土』の特輯号である「石」(昭和七年七月発行)誌上に、瀧澤壽三氏によって報告されてゐる。信州の道祖神は、南北両安曇郡から東筑摩や諏訪郡にかけて、可なり広く見てはゐるが、小縣方面は余りよく知らないので、一度はその実物を見
たいとものと考へ信越線によって旅する機会を利用して、両三回この地方に採訪を試みたのも、もう数年前の事となってしまった。(以下(略)、寄稿文は道祖神の十例を記述し、五枚の写真を掲載する。)
参考 博士が採集した信州小縣郡内の御札
  
   別当定津院御姫尊の御札         瀧宮社 所蔵 相模原市立博物館
   参考 上図の定津院御姫尊・瀧宮社(陽石神社)に何時頃に再訪したかは不明のため再調査要2015・6・11 保坂記
     この頃、毎年1月7・8日に上田・国分寺八日堂で行われている「蘇(「蘓)民将来符」についての調査の有無も未確認
5月24日、尾瀬に向う途中の古仲より、妻・直子に宛て、「郵便はがき」を投函する。
    「(略)明日は長蔵小屋を経て原まで行く予定なり
5月30日、北村公佐と「民族学研究 第6巻第1号」に「相模足柄下郡の道祖神と小正月の行事」を寄稿する。
はしがき」より 部分
(略)
民俗学者が年来盛に採訪した結果、採訪に慣れ又採訪されることに喜悦を感じてゐる信州の村々と違ひ、相模殊に南部の地方では、採訪者を白眼視する傾向があり、村民を捉へて聞書を取らうとすると、秘密でも発かれる様に誤解したり、写真器を携帯するを見て、軍機保護法に牴触するものと即断して駐在所に密告したり、終には無智な警官が駆付けて来ることさへ皆無ではなかった。又箱根山地は温泉場等の関係から開け過ぎて了って居はしないかと思ってゐた処、かへって古い習俗を残して居る所が多く、意外の感がした。(略)
5月、「旅 17巻5号」に「新緑隨想 春と植物の生活」を寄稿する。
5月、「養老事業 第二号」に「長寿の相談」を寄稿する。
5月、「大法輪 第7巻第5号」に「農村の行事と俗信(五)」を寄稿する。
6月、「大法輪 第7巻第6号」に「農村の行事と俗信(六)」を寄稿する。

6月、「民族文化 第2号」に「伊豆に双立の道祖神」を寄稿する。 
○6月の末、南会津郡桧枝岐村方面に旅行する。(注 ありうるが5月24日の項にもあり検討要  保坂記)
(略)丁度一昨年の六月末頃であった、南会津に旅行した序に、草木に明るい人達をた捉へて聞糺した結果、同郡桧枝岐村や館岩村でカクマと称するは、リャウメンシダとは大分縁の遠い、ヤマドリシダ一名ヤマドリゼンマイであることが判明した。そしてそれがワラビやゼンマイと竝び称せられるといふだけに、昔は左ることはなかったが、近年はゼンマイと同じく食用に供せられることも耳にすることを得た。その旅の途上、上州戸倉で折よくヤマドリシダを山の如く採って来て、食料として調製せんとするに出会ったので、何か方言のあるものかと尋ねた処が、ヒノキゼンマイといふ答を得た。然し後で聞く処によると、これは本来戸倉の土名ではなくて、丁度其処に工事に来合せてゐた他國人の称呼であるといふから、この名が元来何処のものであるのか、聞き質すのを逸したことは心残りである。(略)            昭和17年6月発行「民族文化 「かくま」の事から」より
7月2日、豊島区鴻巣五丁目真性寺の庚申塔を撮影する。
7月4日付、中沢厚と馬渡静夫が「久吉宅訪問の約束」についての「絵はがき(速達)・甲州西山舊温泉(写真)(五反田発)を投函する
   
   投函された速達絵葉書(部分)
御多用の中を わざ()/御通知いたゞきまして恐縮/致して居ります/お言葉に甘へて明五日夜 七時頃お伺ひいたします/三日夜 /中澤厚/馬渡静夫」  「横浜開港資料館 久吉(書簡)目録 1114」より
7月5日、中沢厚が武田久吉博士邸の書斎で、山中共古著「甲斐の落葉」と出会う。
7月9日付、東京朝日新聞群馬版に「風致よりも増産だ」の見出しによる新聞記事が掲載される。
 千古の謎を秘めた尾瀬原の大自然にいよいよ斧鉞を加へる計画が、内務、逓信両省で進められてゐるー群馬、福島、栃木三縣に跨るこの地帯は風致地区として全国有数の廣大なもので、會で東京電燈株式會社を樹てたが風致を害する虞れがあるといふので、沙汰休みとなったまゝ現在に及んでゐる。然し事変発生以来殷賑産業の目覚ましい勃興に伴ひ電力の需要激増し、又生産拡充にによる灌漑用水の補給難が叫ばれると共に、累年の災害防止のためにも該地点に発電並に河水統制の必要が喫緊の問題となったので、両省でも本格的な計画を立案することになったものである、事業主体は国営とし大体群馬県の奥利根河水統制と相呼応し十年計画で竣工させる方針で、大蔵省の承認を得れば今議会に提案明年度から具体化する模様である、かくて平和な眠りを続けた大自然の美観も『増産國策』の脚光を浴びてその面目を一新する譯である。内務省谷口技監談第二期の発電計画として考へられてゐたが電力が慾しい、水が足らぬ今日の情勢ではかういふ時点の開発を急いでやらなければならぬと思ふ。幸ひ群馬縣で奥利根の河水統制をやるので、これと足並を揃へて十年計画で実施するのが一番好都合だ、計画も単に発電計画だけでなく河水統制もやって、工場灌漑用水を補給し風水害の防止にも役立たせたらいヽと思ふ。
              「山岳 第三十五年第二号 川崎隆章著 尾瀬原貯水池反対説 P218」より 
7月19日、平野長英が出征、南支へ。
7月、「民族文化 第3号」に「庚申雑記 (1)青面金剛の腕・ (2)相模の古い庚申塔」を寄稿する。
7月、「大法輪 第7巻第7号」に「農村の行事と俗信(七)」を寄稿する。
7月、「山と渓谷 62号」に「苗場山の富士」を寄稿する。 pid/7933773
月、大野笑三が「丸善」から「南千島色丹島誌」を編纂、舘脇操が「色丹島の植物」を著す。
 
  参考 「色丹島の植物」の記述に見られた「TAKEDA」の学名の付いた植物名の一覧表 
ヒカゲノカズラ科 スギカズラ
ウチハマンネンスギ
タチマンネンスギ
Lycopodium annotinum L.var.angustatum TAKEDA
Lycopodium obscurum L.firm.flabellatun TAKEDA
  form.juniperoideum TAKEDA
ヒノキ科 ミヤマハヒビャクシン
(シンパク)
Juniperus Sargenti TAKEDA
イラクサ科 オホバイラクサ
(エゾイラクサ)
Urtica Takedana OHWI
タデ科 チシマヒメイハタデ

ホソバオンタデ
Pleuropteropyrum ajanense NAKAI,form.glabrescens TAKEDA
  form.pilosum TAKEDA
ナデシコ科 キタミミナグサ
シコタンミミナグサ
Cerasitnm boreale TAKEDA
Cerasitnm rigidulum TAKEDA
ウマノアシガタ科 シコタントリカブト Aconitum kurilense TAKEDA
ケシ科 エゾノエンゴグサ Corydalis ambigua CHAM.et SCHL.var.glabra TAKEDA
バラ科 チシマキンバイ Potentilla megalantha TAKEDA
アカバナ科 マルバアカバナ
シコタンアカバナ
Epilobium ovale TAKEDA
Epilobium shikotanense TAKEDA
セリ科 チシマイブキバウフウ Seseri Libanotis KOCH,var.kurilensis TAKEDA
シャクナゲ科 ウラシマツツジ Arctous alpina NIEDZ.var.Japonica TAKEDA
ムラサキ科 ハマベンケイ Mertensia maritima DON,subsp.asiatica TAKEDA
アカネ科 エゾヨツバムグラ Galium kamtschaticum STELL.var.hirsutum TAKEDA
キク科 チシマウスユキサウ Leontopodium kurilense TAKEDA
キンポウゲ科 シコタントリカブト aconitnm kurilense TAKEDA
イネ科 チシマドゼウツナギ

シコタンザサ


Puccinellia kurilensis HONDAーAtropis kurilensis TAKEDA
Sasa depauperata NAKAIーSasa nipponica MAKINO,var.depsuperata TAKEDA
参考
アマモ科
アマモ
コアマモ
Zostera asiatica MIKI
Zostera japonica ASCHERS.et GRAEBN.
  参考 コアマモに付いては博士が「知床半島植物調査」時に於いて知床半島先端部の文吉湾で自生を確認されています。 2017・1・13 保坂記
8月、「大法輪 第7巻第8号」に「農村の行事と俗信(八)」を寄稿する。
8月、「民族文化 第4号」に「庚申雑記 (3)東京の古い庚申塔」を寄稿する。
9月3日、浅草公園内銭塚地蔵脇の大日如来の庚申塔を発見する。

 
 大日如来の庚申塔
「庚申 第二十五号 石塔の損傷と亡失(部分)
(略)
浅草公園内銭塚地蔵脇の大日如来の庚申塔は聊(いささ)も損傷を受けていないが、終戦后一時的に他に移した後再び旧位置の近くに運ぶこととなったため、その際墨で番号を、事もあろうに、正面上部に印ししたので、小林徳太郎氏の『庚申塔』や清水長輝氏の『庚申塔の研究』に載るものは、その墨痕を示している。私は一九四〇年九月三日これを発見し、翌年三月三一日に撮影したので、この厄をまぬがれ得たのは幸である。(略)
墨痕:著書「路傍の石仏 P232」では「当事者が、ペンキで番号をつけたが、事もあろうに、光背の表面に数字を書いて、それを用済みになっても、消すことを怠ったために、写真にする時、誰しもが不快感を覚える。区吏か都吏たる者、大いに常識を貯えて欲しいものである。博士のお気持ちを想い、後世のため、この記述を追加しました。 2018・3・1 保坂

9月、
「民族文化 第5号」に「自在鉤の素材・庚申雑記 (4)八阪の庚申堂・(5)擧母の庚申堂・(6)桃を持つ猿の庚申塔」を寄稿す。 
9月、「山と渓谷 63号」に「再燃の尾瀬ヶ原貯水池問題」を寄稿する。 016・4・7 修正済 保坂
9月、「山と渓谷 六十三号」に「日光・尾P・會津駒・鬼怒沼」を寄稿する。
 
  山と渓谷 63号
参考資料/(略)◆特に今度の特輯で苦心したのにのは、<南会津の山>の領域でして、御承知の如く、会津駒、桧枝岐方面の資料は従来大分散見致しましたが、帝釈山脈方面になると全然未開拓の地方とてこれへ手を染めるには苦心惨憺たるたるものでしたが、安斎教授を初め、長谷川末夫、金子總平、中村敬の諸氏の貴重な文献を得たことはいささか誇りとする處であります。(略)◇又尾瀬の文献としては斯界の権威武田博士を初め、舘脇博士、安達沼田中学校長、高橋文太郎氏の第一人者を一堂に集めた外、二十年前尾瀬で生活した広瀬潔氏の厖大なる「尾瀬を紹介した人と文」は筆者が前々より精根を盡して研鑽をつまれてきたもの丈に當に金字塔的労作の感があり、これが發表は本誌の誇りとする所であります。又日光方面では矢島氏の「日光花譜」は氏の蘊畜を傾け盡くした力作でありますが、木暮理太郎氏の日光入峯禅頂記が多忙で執筆され得なかったことを多大の遺憾事と致します(略   「編輯室」より
日光花譜 矢島市カ 名案内人物語(七)鈴木富次カを語る 矢島市郎
尾瀬の眞價
尾P地方の植物
安達成之
館脇操
南會津・熊狩雜記 金子總平
登山雜信(二〇)・アルバイン・グループ 編集部 尾Pの山名
會津・檜枝岐 
盾ニ文
高橋文太カ
天利文彦
日光・尾P・會津駒・鬼怒沼 武田久吉 尾Pの冬 菅沼逹太カ
蒙疆山水記(二)保徳進攻記 渡邊公平 沼田中學の「尾P室」 沼田中學校
日光尾P産・食用植物について C水大典 北那須の素描 中村敬
グラフイック 水晶宮に入る(春の雲龍渓谷)
グラフイック至佛山の頂近く(六月)遠景は利根源流の山
塚本閤治
重岡早見
會津駒と檜枝岐
「尾P」刊行の因由
町田立穗
川崎隆章
グラフイック 景鶴山から望んだ燧が嶽(四月) 重岡早見 日光尾P南會津の山案内 (1)南會津の祕境・田代山 (2)茶ノと木平より細尾峠へ (3)奧鬼怒温泉クの旅 (4)女峯・赤薙・丸山 (5)尾P觀賞の代表コース 編集室
グラフイック 尾Pが原の朝(山ノ鼻小屋附近にて) 船越好文 Movie Section(映畫の頁)
グラフイック 會津駒が嶽より燧が嶽遠望 塚本閤治 山岳知識 編集部
グラフイック 噴泉塔附近の湯 澤の瀧 大森三カ 讓りたし
グラフイック 神池への道 渡邊公平 ヒユッテ巡り(15)學習院・光徳小屋
グラフイック 丹勢山の林相 岩崎京二カ 新刊紹介
グラフイック 八丁ノ湯の鈴木富次郎
グラフイック 朝の奥白根・錫への山稜
矢島市郎
松本浩
火山脈
ろばた(讀者寄語)

グラフイック 尾瀬が原のニッコウキスが・ミズバセウ
グラフイック
尾P室の一部・泥炭層
渡邊規矩次
沼田中學校
山岳辭典(20)
岳人往来

グラフイック 春の光徳小屋 
グラフイック 神 苑 尾 瀬
グラフイック ながばのもうせんごけ
グラフイック 冬の景鶴山頂上附近
グラフイック 三條瀧の横顔・珍車の群落
土田新一
木下藤次郎

川崎精雄
武田久吉
編輯室
尾Pを紹介した人と文

記録 日光に殘された祕境 丹勢山を探る
記録 六月の錫ヶ岳
記録 初秋の至佛山越え

廣P潔
岩崎京二カ
松本浩
中村譲
會南の山岳と其地形 安齋徹 記録 錦繍の湯の旅・裏日光より奧白根へ 正井暉雄
山岳雜記帳(二) 深田久彌 ヒマラヤ文學の素描(一) 高井房雄
あらたふと 繪と文 加地春彦
山のおもひ出 “中禪寺湖畔に慈悲心鳥を聽く會など” 若山喜志子
北關東の桃源境(三)中ノ川温泉群と博士山縱走 長谷川末夫
(金精峠の上) 平野長英
冬期雲龍溪谷の序曲 吉岡正人
奥日光雜記 木下漸
    注 「大下藤次郎」について、目次欄では「木下」になっていましたが本文は「大下」で現わされていました  2017・8 7 保坂


沼田中学校の「尾瀬室」の一部
略)されば、この尾瀬室の施設は、単に本校生徒の教養の資たるのみにならず、廣く天下の尾瀬を愛好し、理解せんとする人士の一粲を乞ひ、出發に於ける準備、帰途の纏め
参考 沼田中學の「尾P室」の中の様子


設立 昭和十年四月
場所 本校一階、博物室の隣
設備室 (縦二間半 横一間半)の一室、戸棚二棹(標本材料入)
(研究用) 長机二脚、腰掛十脚


寫眞の部 拡大寫眞(額縁付)十二、顕微鏡寫眞八、
植物生態寫眞二、風景寫眞帖二、尾瀬寫眞帖一、
地図の部 尾瀬に関する拡大地図六
標本の部 植物標本百七十種(主として代表的なもの)
動物標本(液浸或は乾製)十種 
鉱物岩石十七種 泥炭標本五點(湿原より得たる長さ三米のもの)

プレパラート標本七種(泥炭層より得たるもの)
文献の部 (1)尾瀬に関する著書雑誌、研究論文、調査報告、随筆紀行文等
(2)地図数種  (3)パンフレット數種  (4)絵葉書數組
の場所として、又初心者には、一の指導標たらしめ、経験者には、整理の場所たらしめたい念願である。斯く本校尾瀬室は、全く天下の尾瀬をして正しく、よりよく理解せしめんとする趣旨により、開設せられたるものにして、以下(上図)その内容を少しく誌す。
参考資料、同号に掲載された、廣P潔著「尾瀬を紹介した人と文」の内訳
一、古文献と地圖 會津風土記・保科正之・寛文6年
上野國志・林義郷・安永3年
上州利根郡沼田物語・・
利根郡村誌・・
日本地誌提要・塚本明毅・明治8年1月
日本山岳志・高頭式・明治39年2月
二、小暮理太郎の尾瀬通過と
     平野長蔵氏の燧岳開山
尾瀬の昔と今・小暮理太郎・S14年6月
燧ケ岳開山實記・平野長蔵・S8年9月月
燧ケ岳開山記・平野長蔵・昭和8年3月

三、利根水源探検隊の尾瀬紹介 利根水源探検隊紀行・渡邊千吉郎・M27年12月 利根水源探検隊記・渡邊教諭・M27年10月
四、植物寶庫としての尾瀬紹介 南會津竝ニ其ノ附近ノ植物・早田文蔵・M36年1月
 (植物學雑誌191号)
日本高山植物産地及植物目録・志村鳥嶺・M42年(高山植物採集及び培養法)
五、ながばのもうせんごけ發見 ながばのもうせんごけ岩代國ニ産ス・牧野富太郎
(植物學雑誌156号・M33年3月)
南會津竝ニ其ノ附近ノ植物・早田文蔵・M36年1月
植物學講義・三好学・M38年3月
食虫植物・大平晟・S8年3月

星大吉氏書信・S14年11月筆者宛
六、學生の探検旅行 尾瀬の昔と今・小暮理太郎・S14年6月 兩毛山彙探検記・中村春二
(旅ごろも・M40年8月)
七、銀山平探検隊の尾瀬通過 銀山平探検記・北魚沼郡役所・M37年9月
八、武田久吉氏等の植物採集旅行 尾瀬紀行・山岳創刊号 M39年114月
尾瀬採集の植物を記す・博物之友6巻30号・M39年1月
日光町より栗山桧枝岐を経て尾瀬沼に至るの記・片平重次・(博物之友6巻34号 M39年10月)
森林紀行・ホーフマン(南会津郡誌 T3年5月)
初めて尾瀬を訪ふ・(尾瀬と鬼怒沼 S5年8月)

九、田中阿歌麿氏の尾瀬沼調査 尾瀬沼・田中阿麿(湖沼の研究・M44年12月)
十、南會津郡案内誌の刊行 名勝・渡邊夢庵 (南會津郡案内誌 M41年5月)

十一、大下藤次郎氏一行の寫生旅行
尾瀬沼 木下藤次郎(みずゑ臨時増刊尾瀬沼M41年11月)
尾瀬日記 森島内臓外 (同上)
水彩寫生旅行 大下藤次郎(M44年7月)
十二、學生の尾瀬登山旅行 燧岳に登る記 關口泰(山岳7年1号 M45年5月)
十三、尾瀬地方の測量 至佛山 二等三角測量 M37年 行方五市 
燧岳 同    M38年 斎藤壽吉
燧岳二等三角測量 M41年 川名八蔵
燧岳圖幅 地形調査 M45年 宮坂栄一
十四、大正時代の文献 (省略)
十五、昭和時代の文献 (省略)
参考資料 ※ 十一、大下藤次郎氏一行の寫生旅行(部分)
 明治四十一年七月水彩畫家大下藤次郎氏は、森島直蔵、赤城泰舒、八木定裕の三氏を同行尾瀬に寫生旅行を試みた。大下氏は當時全國の山野を跋渉して寫生旅行を続け、尾瀬を訪れる前年は上河内にはいってゐた。一行は太陽の『利根水源探検記』武田久吉氏の『尾瀬紀行』中村二氏の『旅ごろも』によって尾瀬を知り、明治四十一年七月十二日東京出發、沼田戸倉を経て尾瀬沼に五、六日滞在、尾瀬ヶ原にも遊び、帰途は戸倉から金精峠を越え、日光へ抜けて、七月二十二日に帰京した。
大下氏は帰京後東京で展覧會を催したので、一行の尾瀬作品は一般都人士に尾瀬の勝景を紹介するに役立った。又同年十一月大下氏の主宰してゐる『みづゑ』は臨時増刊『尾瀬沼』特輯號を發行して、一行の作品を掲げ、尾瀬紹介文をも載せたので、尾瀬の風光が廣く畫壇に知れ渡るやうになった。『尾瀬沼』號には、大下藤次郎氏の『尾瀬のスケッチ』(數點)八木定裕氏の『湖畔の雨』赤城泰舒氏の『白樺』森島直蔵氏の『自然の庭』等が水彩畫石版で、又赤城泰舒氏の『いでたち』等線畫木版で蔵められ、本文は大下藤次郎氏の『尾瀬沼』と森島直蔵氏の『尾瀬日記』が二十餘頁に亘って記述されてゐる。尾瀬沼畔の一行が泊まった小屋の四圍については、(略)尾瀬の景観に至っては『尾瀬沼畔の景色は雄大といふものでもない。又優美一方でもない。両方を兼ねてゐるので、風景としては、吾輩が今迄歩いた處で是以上の場所はない』『尾瀬ヶ原へ出た時は、暫時口もきけなかった。活きて甲斐ある事をつくづく感じた。風景畫家として、かゝる天然に親しく接する事の出来た身の幸福を心から感謝した。ア丶此大景、此美観、吾輩はこの刹那の感を生涯忘れぬであらう』などゝ最大級の賛辞を呈してゐる。この大下氏の『尾瀬沼』と森島氏の『尾瀬日記』はその後明治四十四年七月に刊行された大下著『水彩寫生旅行』に再録されたが、同著には大下氏作『會津燧岳』『尾瀬沼畔(尾瀬の神苑)』等の美しい原色版が、『水芭蕉』の寫眞版と共に揚げられてゐる。大下藤次郎氏は、武田久吉氏と共に初期の尾瀬紹介の双璧であらう。
9月、「書斎 9月号」に「尾瀬の今昔 −風景よ何処へ行く−」を寄稿する。
(略)地理が大分判明し、土地の状況も知り得たので、この地方を植物学的に精査し度い希望はその(明治38年7月の尾瀬)時已に脳裏に沸き起こったのではあったが、あの不便さを考へる時、容易に再探の計画を進める気にもなれなかった。それが大正の半以後、長蔵小屋の建設から、やがて昭和に入っては彌四郎小屋の新築、山ノ鼻小屋の設備充實や、道路の改修と相俟って、近年の尾瀬巡遊の便利なことは實に驚く可き程である。尾瀬が啻(ただ)に植物の寶庫のみならず、風景地として邦内稀に見る地域であることを、廣く世に紹介したのは、私の紀行文が最初であったかと思ふ。尾瀬訪問客の増加と共に、私の意見は益々裏書され、尾瀬に遊んでその風景美を賛美しないものは一人もないし、又東京営林局は、燧嶽國有林の主要部を保護林に編入し、文部省はこの地方を天然記念物に指定し、尋で日光国立公園に編入されて、今では心身陶冶の霊場として、公認の区域となったのは、三十五年の昔夢にも考へなかった事である。殊に吾々が一と通りならぬ喜悦を感ずることは、交通が発達し、幾千人の訪客が押し寄せるにも拘わらず、上河内その他の名勝地の如く甚しく荒廃してゐないことである。尾瀬程に風景要素が整って、而もこれ程荒らされてゐないのも少いと思はれるのは、決して贔屓目(ひいきめ)では無いと信じて疑はない。
             
筆者は高山植物の権威、理学博士。著書「高山植物圖彙」「登山と植物」及び
                      「Alpine Flowers of Japan」(三省堂版)
9月、「大法輪 第7巻第9号」に「農村の行事と俗信(九)」を寄稿する。
10月、「大法輪 第7巻第10号」に「農村の行事と俗信(十」を寄稿する。

10月、「民族文化 第6号」に「庚申雑記 (7)庚申塔の猿」を寄稿す。
10月、深田久弥編「富士山  青木書店」に「中道廻り」を寄稿する。
11月、「山と渓谷 64号」に「風景よ何処へ行くー再燃の尾瀬ヶ原貯水池問題ー」を寄稿する。
  また、同号の「丹澤座談会」にも参加する。pid/7933775  日本山岳会収蔵図書と確認済 2016・4・4 保坂
(略)然るにこの勝地であると共に植物学的に国宝以上の地、何処でもやれる発電の為めに、水底に没しようといふ計劃が最近復も政府によって進められてゐるとぴふ噂を聞いて、吾と我が耳を疑はずにはゐられないのである。電力の必要には同感であるが、二なき宝庫を破壊して、僅々五六十万キロの電力に代へるといふに至っては、その無謀と、非国民的ともいう可き行為には、全く惘れ返らざるを得ない。尤も特殊工業の為めには、差当り背に腹は替へられぬ場合とは謂へ、假令水浸しであっても、これは焦土戦術と何等選ぶ処がない。従って、国家永遠の為めに、吾人の黙視するに忍びない由々しき問題である。昨今一部の人は贅沢禁止に大童であるが、尾瀬ヶ原を水底に没せんとする案こそ、実に贅沢の筆頭に算へらる可べきものでなくて何であらう。高価な装飾を身に着けるとか、珍味佳肴を口にするのみを贅沢と考へるのは、実に短見者流の見解に過ぎないことを、吾人は銘記しなければならない。尾瀬ヶ原破壊案の禁止を敢行する、心底からの愛国の士は、果して何処の誰であらうか。吾人はその出現を切に翹望して竭まない。
                  翹望(ぎょうぼう) 首を長くのばして待ち望むこと。その到来を強く望み待つこと。
 
座談会の終りの部分より
武田 山を樂しまうといふことを考へないで、山を征服しようといふ考へで行くから駄目なんだ。山へ行くには、山を愛し山を敬ふ心がけを持って居らなければならない。山を征服する気持で出掛けたり、中には何の為に行くか知らない連中がある。僕等は昔は登山を宣伝したり、山に親しめと云ってゐたが、今の人達は正反対だ。今は無暗と山へ登るな云ふのに却って骨が折れるんだ。
本社 ではこの辺で(略)  
(於 日比谷山水楼)
 左から 小田急山の会根本行雄 小田急山の会足立俊郎 理学博士武田久吉 町田立穂 横浜山岳会尾関廣 (二人おいて)
 右から 秦野山岳会漆原俊 秦野山岳会宇山幸治 坂本光雄 塚本閤治 
参考 2021・9・27 追加
風景よ何處へ行く=再燃の尾Pケ原貯水池問題 / 武田久吉 / p9〜12
グラフィック 秋の富士山麓にて(
鳴澤の獅子舞) / 河合武
グラフィック 富士山麓雲雀丘にて / 大森三カ
丹澤座談會 登山者の初めて入山した頃の丹澤・最近一年間の入山者統計・尊佛小屋その他の施設・東丹澤と西丹澤の代表コース・丹澤でスキーが出來るか・丹澤の遭難種別と對策・寫眞的に見た丹澤の魅力・東京から見える丹澤山塊は何處が良いか・小田急及び地元山岳會の入山者への希望 / 武田久吉 ; 塚本閤治 ; 町田立穗 ; 尾關廣 ; 坂本光雄 ; 宇山幸治 ; 漆原俊 ; 足立俊カ ; 根本行道 / p50〜61
丹澤・菰釣山について / C水長輝 / p114〜117

<抜粋>
11月、「民族文化 第7号」に「伊豆山の道祖神」を寄稿する。
11月、「科学文化(医学ペン)第五巻第十七号」に「菊」を寄稿する。
11月10日、「民族学研究 第6巻第3号」に「豆州道神録 -東海岸の部-」を寄稿する。
はしがき 筆者が始めて伊豆の道祖神に接したのは。たしか昭和8年の秋であって、唯僅に熱海市(その当時は町)の水口と泉のとの二体に過ぎなかった。近年に至って駿河駿東郡や相模足柄下郡の道祖神を研究するに方り伊豆のものとの比較を必要とするを認め、終にその基本的調査に指を染めることとなった。・・・・
11月10日、紀元二千六百年記念式典が皇居前で行われる。
12月、「民族文化 第号」に「庚申雑記 (8)猿の牝牡・(9)石塔の施主」を寄稿す。
12月、「民族学研究 第6巻第4号」に「相模足柄下郡の道祖神と小正月の行事(補遺)」を寄稿する。
               注 発行年月 S16・2 確認したので削除する。 2016・5・17 保坂
12月4日、横浜市長津田町で地神尊の写真撮影後、交番に連行される。

 地神塔 横浜市長津田町
 「農村の年中行事」より
写真を撮って咎(とが)められる
岩科 その写真を撮って警察に引っ張られたこともありましたね。
武田 
それは地神様を撮ったときです。戦争中でしたね。柳田先生にさそわれて一しょに歩こうということで、原町田から南の方へ歩いて横浜線の長津田駅で電車を待っておった。柳田先生はその晩座談会に出られるから本を読むというので、ぼくにそこらを歩いたらなにかあるだろうといわれたので、写真機をもって歩いているうちに土手の上に大きな地鎮塔があるのです。それを写そうと思うのだが、そばに行くと三脚が溝に落ちるし、離れると人が往来するので、さんざん苦心をしたあとで、ようやく一枚写したのです。
そして駅に帰ってこういうものを写したということを話しておったら、巡査が一人やって来て、「何か写しましたか」という。「写しました」といったのです。ところが、「ちょっと話を聞きたいから来てくれ」ということです。「ぼくは電車に乗るのだからそんなところに行っておられない。用があるならここで伺おう」といって拒んだのです。ところが、運の悪いときにはしょうのないもので、その年の十二月の一日からその辺が横浜市内に編入されたのです。もともと橘樹郡であったのが、その月の一日から横浜市だという。それが
十二月の三日のこと
だし、官報に告示してあるというのだが、官報を見ていないからそんなことは知らないのです。
             「民間傅承 第20巻第7号 通巻第113号<座談会>夏・山・民俗」より

注意:旧田奈村字長津田が横浜市に編入された時期は昭和14年4月1日となっています。年月が合致しないため、この年譜では、1969年に発行された「月刊文化財74号 戦争と採訪」から昭和15年12月3日としました。尚、翌日の昭和15年12月4日は「定本柳田国男集別巻5」の年譜P648によると、「雑誌「俳句研究」の座談会に出席、(柳田国男)、武田久吉、水原秋桜子、久保田万太郎、田部重治、中川一政らが同席する。」と記述がありました。(年日については再検討要)

 
 大野村上鶴間谷口道祖神
 
(略)昭和十五年の十二月のことであった。昔の鎌倉海道の跡をたずねるので、時折ここぞと思うあたりを歩いているが、一緒に来ないかというおさそいをいただいた。四日の朝支度をととのえて、小田急線の成城駅からただ二人、先生は二重まわしを着て白足袋ばきといういでたち、私は洋服姿で登山靴をはき、カメラその他はリックサックに収めて背負った。「僕は白旅でそちこち歩くので、知らぬ人は神主だと思っているヨ。君はよくそんな重い靴を平気ではくネー」などといわれる。先生よりも八ツも若いのだもの、足馴れた登山靴など一向気にならない。新原町田駅で下車、町を通りぬけてから西に境川を渡って相模高座郡に入り、大野村上鶴間の谷口に来て、ここに享保三年の道祖神を見出した。光背形の石に僧衣合掌の二神を浮彫りとしたもので、中央上部に「造立」と、向って右に「道祖神 相州高座郡谷口村」、左に「享保三年戊戌年十一月卅日」、下に「施主十七人」と刻んであった。この写真は、翌年に書肆アルスから出版した拙
著『道祖神』に掲載してある。ここから南に下り中和田で、享保十二年の地蔵尊の立像の連座の下に、三猿を刻んだ四角な石の台座のあるのを見てから、再び武州に入って、南多摩郡南村小川の台で、正徳四年造立の単立僧形の道祖神を発見し、最後に都築郡に入って長津田駅に達した。この郡が、三日前に横浜市に編入されたのを知らずに、横須賀鎮守府司令官の許可なくして地神塔を写したというので問題を起し、先生にご心配をかけたのは恐縮の至りである。(略)     昭和46・4 「柳田先生と私」より 
12月、「大法輪 第7巻第12号」に「農村の行事と俗信(十一)」を寄稿する。
表紙 丙丁童子 福岡青嵐 筆  村里随筆 結城哀草果
禅学提唱 従容録 駒沢大学教授 神保如天  大智禅師傳 村上素道
仮名法語 大応国師法語 今津洪嶽  農村の行事と俗信(十一) 理学博士 武田久吉
梅之坊物語 上司小剣  明治仏教史談 文学博士 鷲尾順敬
大乗起信論講義 東洋大学教授 西義雄  通俗仏教医学 夜船閑話 高山峻
農村時言 吉植庄亮  大智禅師偈頌通解 心月 高橋竹迷
仁王禅を説いた鈴木正三 宮嶋蓬州  泰賢禅師と芋代官 木村毅
或る部落常會の話 小野田露村  仏教常識講座 保坂玉泉
名刹國清寺を訪ふ記 医学博士 高峰博  画人池大雅 青木春三
修證義講話 大洞良雲  鮮血妙國寺 鍋井克之
仙人列伝 佐藤信一  新訳 西遊記 雲山閣道人
華厳経講説 江部鴨村  戯曲 莫逆記 安間愛二郎
  本文  (三十五) 事八日・馬曳・針供養 の内容から
 
厄病神から預かった帳面を
   持った塞の神

静岡県田方郡中伊豆町中大見
柳瀬 下柳瀬
「路傍の石仏」より
「厄病神から預かった帳面を持った塞の神の記述の部分
(略)
相州西部から駿州東部にかけては、疫神が十二月の八日に来る時に、翌年度に厄病に罹かゝらす可き候補者の名を記録し、その帳面を各村々に在る道祖神に預けて行く。翌年二月八日に再び来て、彼の帳面を返して呉れといふ時、道祖神の答へに、その帳面は、正月のサイト払ひの時、自分の家ぐるみ子供達に燃されてしまったといふ。この為めに村々に厄病が入らないのだといふ信仰がある。この俗信は更に豆州にも相当広く行はれ、而も面白いことには、その状さまを具体的に現して、道祖神が帳面を持つ石像を刻んで安置した所さへある。斯かる石像は稲取町に在るのが有名であるが、私は更に※1上大見村及び下狩野村でも斯かるものを発見した。(挿図百二小正月の火祭りに際して、道祖神の家を作ってて燃やすとか、又は火中に石像を入れて焼くのが本格的であると、諸国で広く考へられてゐる。この習俗と結合して厄病神の帳面の説話が生まれたものであらう。(略)
  本文は誤殖上→中 挿図百二は伊豆田方郡中大見村と記述ありました。 保坂記
編集後記○輝かしき紀元二千六百年の歴史的祝典、並びに奉祝会は、十一月十、十一日の両日、天皇、皇后陛下の行幸啓を仰いで、宮城外苑に於て一億民草歓喜の裡(うち)に滞ほりなく終ることを得た。われら生(せい)をこの昭代に享(う)けてこの喜びにあふ、何ものゝ幸栄かこれて比すべき。たゞこの上は協心戮力(きょうしんーりくりょく)、以て皇謨(くわうぼ)を翼賛し、聖恩の万分の一に応へ奉(たてまつ)らんと誓ふばかりである。○翻(ひるがへ)って思ふに、聖戦第四年も正に暮れようとして、しかも頑迷なる蒋政権は未だその非を改むるに至らず、英米援助の下に尚我に抗せんとしてゐる。
○日独伊三國同盟は厳として新世紀の誕生を物語り、西殴に於ては佛既に降り、英また累卵の危きにありつゝも、流石(さすが)に老大国の粘りを示し、戦禍は遂にバルカンに波及して、伊希戦争今や酣(たけなわ)である。一方米またはルーズベルト三選してます横車(よこぐるま) を押さんとし、世界を挙げて粉乱また混乱、前途眞に逆睹し難きものがある。/(○以下略)
  この編集後記は、当時の社会情勢を知る上で重要と考え、あえて掲載することにしました。 2015・7・11 保坂記
12月10日、冠松次郎(57)、横浜に行き、蚕糸会館で開かれた、日本山岳会による皇紀二千六百年講演会で講演する。槇有恒、武田久吉らも講演する。 
    出典 神奈川近代文学館HPから 横浜近代史総合年表より 2016・3・15 保坂追加
12月4日、日本山岳会、「十二月定例理事会並ニ役員総会報告」が行われる。
日時   十二月三日(火) 午後六時半 於虎ノ門本会事務所
出席者 木暮、武田、木村、加藤、額田、三田、茨木、吉澤、冠、津田、西堀、塚本、野口 
      鳥山、中司、望月、委任十二名

役員総会 日本山岳連盟結成ノ件・社団法人申請の件
理事会  
、紀元二六百年記念講演会の件
   武田名誉会員の申出により会名を単に日本山岳会講演会とし、十日蚕糸会館講堂に開催、
   講演者、槇、武田、冠、木暮の四氏、司会者吉澤氏と決定。

一、「山岳」「会報」「山日記」編輯報告。山岳、会報百号共大体予定通り進行中なり。
一、谷川岳山小屋の件
一、(以下・略)
            「会報 No101 会務報告」より 
12月10日、丸ノ内蚕糸会館に於いて「日本山岳会講演会」が行われる。
日時 昭和十五年十二月十日 午後6時半開会/場所 丸ノ内蚕糸会館講堂
   次第

一、挨拶
一、温き山・強き山
一、秘境秋山郷
一、時局と登山
一、登山五十年
吉澤一郎氏
槇 有恒氏
武田久吉氏
冠松次郎氏
木暮理太郎氏
 先ず司会者吉澤理事の開会の挨拶の後、評議員槇有恒氏演壇に立ち、例によって静かな壮重な口調をもって、山登りの種々なる態様を、豊富な経験を以て語られ、温き、心の糧となる山登りから、力強き能動的な山登りに及び、登山者の態度、山の見方等に就き示唆多き講演をされた。次で名誉会員武田博士は右記のやうな演題下に、上越国境の野反池から源を発する魚野川の上流にある秋山について、全紙九枚張りの大説明図に竿差し乍ら、何回にもわたる実地調査の結果を「北越雪譜」其他古今の文献を引例しつつ、博士独特の巧みな話術を以て説き来り説き去る事正に一時間半に及ばんとする長講であったが、聴衆一同全く魅了せられて時の過ぎるのを知らざる状態であった。休憩の後評議員冠松次郎氏立ち(中略)最後に木暮会長萬場の拍手(略)この日の会長は初めの謙遜な言葉とは違ひ、実に豊かな音量と熱のこもった口調で力強い講演をされ、その内容は全く「登山二千六百年」と題した方がよかったと思ふくらひである。かくて非常な感激裡に閉会したのは十時に近かったが、此の夜の聴衆は会員会員外を合わせ約四百名、落着いた気持のよい集会であったのは嬉しかった。其後会員からあのやうな意義の深い会は年に二三回は催して欲しいといふ希望も来てゐるし、又、早くあの内容を活字にして今一度あの感激に浸りたいとの希望も続々と申出られてゐる。元よりその事は予定してゐたので各講師には依頼済であるが、木暮、武田の両氏からは已に快諾の返答をいただいてゐる。他の二講師にも恐らく承諾していただけると思ふが、小暮会長の講演内容は「山岳」第三十六年第一号(最近にお送りする次の号)に発表の予定である。又武田博士は尚数回の実地調査をしてから書くといふ非常な意気込で居られるから、期待せられたい。(塚本記)      日本山岳会 会報 No101号 「講演会の記」より
12月、「日本山岳会 会報 100号」に「富士の御額」を寄稿する。
○この夏、家族と塔ノ岳登山を行い漆原峻宅に於いて、「山花水鳥出知己」の書を贈る。
〇この年の頃、世田谷区奥七沢の九品佛浄真寺の庚申塔を訪ねる。 
 
 撮影中の博士と次女の静枝さん
九品佛にて
静江さんが動いたのか、私の
写真器が動いたのか。
たぶん写真器が動いた
のだと思ひます。

  「写真の裏面」より



 1941 昭和16年 58 1月、「民族文化 第2巻1号 通巻第9号」に「べろべろの神」を寄稿する。
参考 想定される秋山郷を中心とした民俗調査の順路
@上越線・石打→十二峠→倉下→土倉→角間→田澤村字白羽毛(しらはけ)→信越線・田中 S16年・「べろべろの神」より
A
前記の小出(こいで)から西に南山(みなみやま)を越すと→所平(ところひら)→源内山(げんないやま)S16年・「べろべろの神」より
B
源内山から東南に行くこと約二粁、急坂を降って、釜川の左岸に展開する所平を尋ねて見ると・S17年「釜神様」より
C
源内山から今度は西北に二粁も行くと、中津川に沿って秋山に通ずる往還上の船山に達する。 S17年「釜神様」より
 
(末尾に、)越後の釜神に関しては尚これ以外の資料をも持ち合せてゐるが、この上紙面を費しては申訳がないから、割愛することとして筆を擱く。」と記していることから、時期は不明ですが信濃川右岸に広がる山沿一帯を既に調査されていたことが伺えます。また、こうした民俗調査は大著「農村の年中行事」刊行後も続けられていました。博士のこうした民俗調査は、撮影された写真や採集した御札などからも広範囲に亘っていたことを物語っています
            2014・2・6 探査地図作成要・秋山への民俗調査の時期が不明のため再確認要 保坂記  
1月、「会報 日本山岳会 No101」に「忠別岳の老狐」を寄稿する。
1月、「科学文化(医学ペン) 第六巻第一号」に「松竹梅」を寄稿する。
1月、「旅 18巻1号」に「旅の科學欄 嚴冬を生き拔く植物 」を寄稿する。
    また、同号に池雅子が「最近踏査 相模野に箒作る村々」を寄稿する。
1月、「フタミニュース ダイエット第5巻2号」に「しもばしら」を寄稿する。
  
(上)に示した両図共、ユキヨセサウに着いた氷翼で、暗色の莖を中心に、
 氷片が翼状に突出してゐるのがよく窺はれる。
(略)これ等の現象は厳冬の山野でなくては自由に観察しにくいものであるが、斯かる奇観に魂を奪はれて、その撮影などに夢中になってゐる間は、寒さも一向苦にならず、而も有益な結果が得られるのであるから、自然に親しむ写真家は實に恵まれたものだといへる。因に此の現象は維新前から已に学者の注意を牽いてゐたものであるが、成因その他に関しては、関東大地震の冬から翌一月にかけて、筆者が科学的考察を試みたに始まる。そしてそれが實にユキヨセサウに止まらず、近縁のテンナンサウだとかヤマハクカ属の数種等にも見られることを明らかにした。 P4より

1月(舊正月)、山梨県上芦川村に伝わる旧正月の行事調査を行う。
農村の年中行事 御柱・御幣」 P214」より
 (略)足を甲州に入れて甲府盆地に来ると、御柱とか御幣(おんべ)の称は聞かれないで、一般にオヤマと呼ぶことが知られるが、土橋里木氏(『旅傳』六ノ一)によると、同じ国中(くになか)でも上九一色村では、上述の(信州)諏訪郡の例とと同様に、「さいの神」と称するといふし、その隣の上芦川村では御山木と称へるとふ。但し筆者が昭和十六年旧正月に上芦川村を訪ねた時には「御神木(ごしんぼく)」と言ってゐたし、上九一色及び下九一色村では「柳」と称してゐた。この両村では、「柳」と称してゐた。
 この両村では、柱は信州での例のやうに、太い木の丸太を用ひるが、塩山町では長大な眞竹を用ひる。竿の先につける飾り物の形式は村村によって多少の相違があるが、大体において紙を翦
(き)って作った幣とか、紙製の小袋、旗や扇子等で、白紙と色紙で美しく飾ってある。(略)
「民族文化 第2巻第2号」に「庚申雑記 (十)庚申塔と地蔵尊」を寄稿する
2月6日、文京区小日向(こびなた)日輪寺の板碑(元氷川明神の社前)の所在を確認する。
 
 1 日輪寺の庚申塔
資料 「失われた庚申塔」より
(略)一方、小日向(こびなた)日輪寺の元亀四年のもので、(山中共古翁の『共古随筆』によると)「今不明」とあるものは、この寺に保管してあることを突きとめた。(略)最も残念なのは、日輪寺に元亀四年の板碑が、戦災によって同寺消失の際に粉砕されたことである。(略)/それらのうち、戦前に撮影した原板のあるものから適宜に選び出し、略説を添えて以下にご披露し、永く記録にとどめることとする。
 日輪寺の板碑(写真1)江戸時代から有名な庚申塔で、古くは『十方庵遊歴雑記』、後には『江戸名所図会』にも出ている。この板碑はもと日輪寺が管理していた氷川明神の社前にあったというが、すでに文化のころから一部欠損していたように記録されている。明治年間かに、その価値あることを知らぬため、溝板に代用されていたというから『共古随筆』に「今不明」とある
のは、そのころのことであったのかとも思われる。私が見たのは昭和十六年二月六日のことで、その時分には大切に保存されていた。(略)/連座にある梵字は上端中央に大きく一つ、その下に竪(たて)に四行、各行五字で総計二十一字、つまり山王二十一社の本地仏の種子であるが、書体が変わっているので、私などにはすらすら読むことができない。くわしくは清水氏の『庚申塔の研究』三八ページにゆずる。
      引用した原本については、S39年7月発行「月刊文化財7」の「失われた庚申塔」の項をご参照願います。 保坂記
2月10日、北村公佐と「民族学研究 第6巻第4号」に「相模足柄下郡の道祖神と小正月の行事(補遺)」を寄稿する
2月、「大法輪 第7巻第2号」に「農村の行事と俗信(十二)」を寄稿する。
「越後中魚沼郡田澤村十二峠の十二様」の記述の部分

 田澤村十二峠の十二様
(略)中魚沼郡田澤村の字倉下から登ること約十町で。南魚沼郡との境に十二峠と呼ばれる鞍部(あんぶ)がある。下ること約一里半で上越線の石打駅に達する。峠の名に負う十二神は、嶺上(れいじょう)の小木祠内に蔵められ、朱塗りで高さ一尺許(ばかり)の木像一対と、腐蝕した女神の小木像一個と在る(挿図百十二)。この十二様を守る倉下のぶらくでは、新暦二月十二日にマユミの材で一挺の弓を作り、墨で横線を描くといふから藤絲(とういと)に擬したものであらう。(つる)はオロ即ちアカソの繊維を張り、矢は葭(よし)で十二本を作る。その他に二本の葭(よし)を半紙の両端につ
け、紙には三重の圓を描き、又その上に十二山之神と墨書して的(まと)とする。これ等を取り揃へて山の神に持参し、八木澤と同じ唱へ事又は「悪魔払ひ く(繰り返し)」と言って二三本天に向かって引き、他は全部山神(さんじん)に納めて来るといふ。(略)
 今後の調査を進めるために/北越雪譜・秋山紀行の作者鈴木牧之は、この峠を越えて秋山郷に入りました。武田久吉博士もまた、この峠を越え民俗調査を続けました。両者にとって思い入れの深い峠道です。 2016・5・12 保坂
3月、「大法輪 第7巻第3号」に「農村の行事と俗信(十三)」を寄稿する。
「民族文化 第2巻第3号」に「庚申雑記 (十一)庚申塔と山王」を寄稿する
3月13日、
「山岳 第三十五年第二号」に「追悼 我が山の友辻本満丸君」を寄稿する
 
    また、同号に川崎隆章が「尾瀬原貯水池反對説」を寄稿する。
志賀重昴 「日本風景論」 七、日本風景の保護
武田久吉 「尾瀬と鬼怒沼
武田久吉 尾瀬と鬼怒沼」 尾瀬再遊記
武田久吉 尾瀬と鬼怒沼」 秋の尾瀬
中野治房 文部省尾瀬天然記念物調査報告  尾瀬沼及び附近の植物生態学的調査
鏑木外岐雄 文部省尾瀬天然記念物調査報告  尾瀬の動物相 
松方三郎 反対運動に於ける障害
武田久吉 尾瀬の破壊と保護
武田久吉 電力が國寶か 尾瀬ヶ原貯水池問題
武田久吉 電力案と尾瀬ヶ原
大西昇路 尾瀬ヶ原問題
三桂 尾瀬と黒部
武田久吉 尾瀬ヶ原貯水池
冠松次郎 水電と風致
文部省 昭和十三年二月二十八日 文部省が逓信省に宛てたる警告文書
高野長英 尾瀬 尾瀬ヶ原發電計劃と國寶的勝地の保護
村田省蔵逓鉄大臣談と川崎隆章が記した末尾の部分の全文  折柄去る八月六日新任参拝のため西下した、村田逓鐡相の電力国家管理新方針の車中談は、甚だ我が意を得たものである。曰く
電力国家管理の代行機関たる日發が政府の補給金を受けて経営されてゐるが、こんなことでは國民の負擔が増すばかりである。会社の機構を変へる必要はないと思ふが、会社をもっと引締めると共に収支の改善を図ることが急務である。(中略)電力の開発は物動や生産や拡充計画と關聯せしめることは勿論であるが、更に進んで國土計画との関係も考慮して、日満支を一体とする工業立地の推進を目指してその基礎施設たらしむるやうに、総合的開発を図らねばならぬと思ふ、電力を大量に要する化学工業などは満鮮の電力の廉価なところへ持って行くなどは当然のことであらう。
 誠に然りである。日満支を通ずる産業圏内の生産拡充の綜合的樹立なくして、科学日本の将来は絶対にない。何を好んで国民の血の叫びに耳をふさぎ、計画者自身ですら感じてゐるであらう何者にも換へ難き、祖宗より傳へ来りし尾瀬の大自然美を壊滅する必要があらうか。尾瀬原貯水池築造は絶対に不可である。これこそ國を愛するものゝ心底よりの聲である。新体制機構の旗印は國宝愛護の下に!然らば吾人は挙って祖國の大自然を擁護すべき義務と、光栄ある権利を有するものである。(皇國紀元二千六百年秋)
     ※この項、執筆の原因となった「 昭和15年7月9日付 東京朝日新聞群馬版は同日付欄を参照願います。 保坂
        川崎隆章は旧来からあった「尾瀬原貯水池反對説」をこの項でまとめ、重要と思われる部分に傍点を書き込み記述しました。
3月31日、浅草公園内銭塚地蔵脇の大日如来の庚申塔の写真撮影を行う。
       
注:庚申塔の写真は1940・9・3の項に記載してあります。 2018・3・1 保坂
4月2日、胡桃澤勘内の追善法要に参列する。
   法要を「泣崖(きゅうがい)居士百ヶ日追悼会」と称し、「話をきく会」の最終回が開かれ38人が参集した。
参考 (略)昨年の四月の初め、松本の民俗学会の重鎭をなしてゐた胡桃沢勘内の法要に出席して、その後両三日を近郊の採訪に暮したが、今年もその頃数日の小暇を得たので、今度は足を大町まで伸ばすことゝし、その序を以て胡桃沢氏が生前能く話してゐた借馬(かるま)の道祖神を見、又大町やこの近くで意外な発見をして来たのは幸であった。(略)               「旅と伝説 第十五巻十一月号 久米路橋と登破離橋」より
「民族文化 第2巻第4号」に「庚申雑記 (十二)庚申と道祖神」を寄稿する
4月30日、「民族学研究 第7巻第1号」に「豆州道神録 -西海岸の部-」を寄稿する。
4月、「大法輪 第7巻第4号」に「農村の行事と俗信(十四)」を寄稿する。
5月、「大法輪 第7巻第5号」に「農村の行事と俗信(十五)」を寄稿する。
5月、「山と渓谷 67号」に「植物因む峠/正井暉雄 ・ 武田久吉校證」を寄稿する。pid/7933778
        国会図書館未収蔵 内容確認要 2017.4.6 保坂 →  pid番号追加する2021・5・13 保坂
「民族文化 第2巻第5号」に「庚申雑記 (十三)庚申と阿弥陀仏」を寄稿する
5月、鈴木卯三郎 編「牧之翁百年祭記念集」に「牧之翁と著作」を寄稿する。
        
注 桧枝岐村目録より発行月は5月、、また発行者、「鈴木牧之翁追慕会」と確認する 2017・4・16 保坂
(略)近頃になって、翁の『秋山紀行』を繙讀(ばんどく)し、翁が文政十一年に耳順(じじゅん)に近い年齢にも拘らず、現今ですら不便な彼の地に往復一週間の旅を試み、食料にも不自由勝ちで加之連夜睡眠も碌々攝れない程の因苦を冒し、「秋山修業は爰なりと辛棒」し、剰へ耳に螺を當てゝ補聴器とした程の不自由を忍んで、あれ丈の詳しい聞書きを取り、又細かい観察を為して、貴重な記録を残されたことを思へば、吾々は翁に對して満腔(まんこう)の感謝を捧げなくてはならない。殊に鈴木卯三郎氏の好意によって原本を閲覧するの機会を與へられ、翁が記述を補はんが爲めに挿入した多数の着色圖を而り眺めて、採訪家としての翁の手腕筆録以外にもその凡ならざるを知ると共に、京山人の刪修を経た『北越雪譜』から受ける印象よりも、内容の着實性に對する信頼の度の遥に大なるものあるを覚ゆる。あの當時の記録としては、年代も亦さうであったが、實に『眞澄遊覧記』に次ぐ優秀なものとして、厚く之を賞讃するに躊躇(ちゅうちょ)しない。(略)
  繙讀(ばんどく):書物をひもといて読むこと  耳順(じじゅん):「耳順」は、六〇歳。「論語」の「六十にして耳順(したが)う」による。
  → 修養を積んで他人の言葉を素直に受け入れられるようになる年、の意。  満腔(まんこう):からだじゅう。満身。  
     剛修():        躊躇(ちゅうちょ):決めかねてぐずぐずしていること。ちゅうちょ。
後記/(略)山岳探究も権威高頭仁兵衛氏其他郷土有志各位の幹旋により、昨秋霊峰苗場山上に牧之翁の句碑が建てられ、栄世不朽の記念を遺し得たことは、感激更に惜く能はざるところであります。(略)鈴木卯三郎
5月28日付、自宅より湯田中→(バス)→上林→広業寺に向う。
   
昼飯は同寺で。ウドとワラビ」と書き添える。 (妻・直子に宛てた原稿用紙型の手紙)
5月、長野県下高井郡平穏村沓野の黒岩角太郎より年中行事の聞き取り調査を行う。

               「正月行事採集帳 武田久吉聞書 山村民俗の会」より

6月1日付、妻・直子に宛てた絵はがきに、原稿の執筆、「積善館の会に間に合ふ様に帰る」のことなどを記す。
           
六月一日 午后 サイン と記されているが 消印は湯田中 細部の場所が不明なため検討要 2015・5・6 保坂記
         絵はがき 「檜ノ高山から積雪下の尾瀬沼を距てゝ燧ヶ嶽と平ヶ嶽(左)」と記されている写真
6月2日付、妻・直子に宛てた絵はがきに、ハクサンシャクナゲの蕾のあるものを手に入れたことや、勝道上人写真のことなどを記す。       差出人の記入なし、消印は16・6・2、長野・湯田中」とあり
明日帰途行田に寄る(略)帰ると直に勝道上人の木像の写真を製版にやらなければならないので若し納戸にある/箱の中にあるやも知れぬので捜して置いてほしい、逗子の中に入りシャクジャウを手にする座像なり、今日も晴天で中々暑い位、この附近の村々は庚申塔も道祖神も珍しきもの更になし サイン
            絵はがき 「
浅湖(あざみ)湿原から仰いだ燧ヶ嶽」と記されている写真
6月、「科学ペン. 6(6)科学ペン社」に「師・友・書籍」を寄稿する。pid/11185187
「民族文化 第2巻第6号」に「庚申雑記 (十三)題目ある三猿塔・(十四)大日如来と庚申塔」を寄稿する        項目番号(十三)は重複していました。 2014・1・26 再確認済 保坂記
  
 馬頭観世音に誤植
(十四) 大日如来と庚申塔 P6・P12より
(略)
扨て大日如来と庚申と習合したものは決してこれのみでない證據を、モ一つ掲げて置かう。これは大分東京から離れた甲州の而も富士山中に立つものである。北口登路によって富士に上り、一合五勺を過ぎて将に二合目に達せんとする手前左側に、左右三六糎もあって、三猿のつく台石の上に、印契こそ定法とは稍々異るも、矢張り胎蔵界の大日如来の像を彫りつけ、上に屋根のあって、総高八〇糎もある石塔が見当るであらう。この石塔は大日と庚申との習合といふ事意外に更に面白いことには、向って左面には聖観世音の像が浮彫りとなり、右には、六臂の青面金剛が刻まれてゐる。何故正面に青面金剛を彫らずに、右横にそれを置いたものか、一向不明である。大日如来の首の左右には、諸願成就と大きく彫り、下に七人の姓名を
刻み、更に外側には宝永四丁亥年六月十七日 武州御茶水 暮澤善兵衛講中とある。青面金剛の二手は合掌で、右手の上は戟(ほこ)を、下は矢を、左手の上は輪寶を、下は弓を携へてゐる。そしてこの間の外側にも、四人の姓名を刻んである。又馬頭聖観世音は、未数蓮華を手にして立ち、その外側にも寄進者の名が見える。宝永四年といへば、彼の宝永山の爆発した年であって、今から二百三十四年前の事になるが爆発は十一月二十三日に(陽歴十二月十六日)に起ったのであるから勿論その前に建立された石塔は、この天変地異とは何の関係もないことが判る。富士山は孝霊天皇の五年庚申の年に噴出したものといふ伝説があって、庚申の年を御縁年と称し、維新前にはその時だけ婦人の登山を許したのである。されば山中か少なくとも山麓には、庚申塔が沢山有りさうにも思はれるが、殆どそれを見ないのも奇といふ可きである。或いは維新後神仏分離の時、斯かりものを破棄してしまったのであらうか。さうでなくともこの山麓の村々には、道祖神はあっても庚申塔は殆ど見当らないやうである。
6月、農林省高原開発調査会委員。(至昭和20年)
6月、「大法輪 第7巻第6号」に「農村の行事と俗信(十六)」を寄稿する。
7月、「大法輪 第7巻第7号」に「農村の行事と俗信(十七)」を寄稿する。

7月、「高山の植物 アルス文化叢書 1」を「アルス社」より刊行する。
はしがき
(略)
さてこの小冊子には何分にも、高山上に生える植物の、一端しか取扱へぬ憾がある。(略)(高山植物について)、若し是以上の事柄をめざめられるは、筆者と田邊理学士との共著である『高山植物写真図聚』(梓書房刊)に就いて見られ度い。若し又主として名稱を模索したいのなら、完璧の書では勿論ないが拙書『高山植物図彙』第二版(養賢堂発行)を繙閲せられれば、略その目的を達せられるであらう。更に又栽培に関する参考書を望まれるなら、僅々百種の
ものに限られてはゐるが、そして英文で記述したものではあるが、『英文日本高山植物』(三省堂発兌)も亦一顧の価値なしとしないであらう。
    昭和辛已皐月 上浣 著者識


高山の植物 
富士の裾野の記述(部分)より

 (略)同じ裾野でも、富士の裾野を歩いて見ると、爰(ここ)には又変わった趣が見られる。爼原の初夏を飾るアヤメだのノハナショウブの姿は殆どなく、又七月末の爼原をレモン色に染めるキスゲの姿も、唯甲州側に稀に見るに過ぎない。そのうへ八ヶ岳に多いキキョウの花も殆ど目に着かない。それのみでなく、八ヶ岳の裾野には、イブキジャカウサウが稍々高度の高い所に見られるが、富士の四周には此の植物は唯の一本も産することが無い。話が無いない尽くしのやうになるが、(略)
 富士の裾野にはフジザクラ即ちマメザクラが多く、これが稍々末になる頃には、箱根へ掛けての特産品の、ビロードウツギが美しいし、所々にサンセウバラといふ、バラ類中の大木が生じて、大きな花を開いてゐる。又八ヶ岳の裾野には、ノイバラやヤブイバラを見るが、富士の方には、それ等の外に、箱根山や丹沢山に掛けて生ずるフジイバラが多い。一方高原に多いレンゲツツジとなると、富士にも八ヶ岳にも共に大量に産し、六月初旬の美観は譬(たと)へる可きものもない程である。富士北口の裾野には、天然記念物とさへなってゐるが、八ヶ岳の粘(ネンバ)原や延山(野辺山)ノ原では、之に勝るも劣らない美観が見られる。
(略)
7月、「写真文化 23巻1号」に「お花圃」を寄稿する。 内容未確認 2017・4・5 保坂記
8月3日、南千住の豊徳山誓願寺にて、庚申塔を訪ねる。
8月、「大法輪 第7巻第8号」に「農村の行事と俗信(十八)」を寄稿する。
 
  参考 「農村の行事と俗信(一)〜(十八)」に掲載された写真撮影地の一覧
項  目  名 写真撮影の場所
(一)大正月斗廻札・(二)べろべろの神・(三)正月四日・(四)六日年越・(五)七草・(六)小正月まで(つづく) 年棚・信州松本/おみたま・信州松本/松小屋・足柄上郡吉田島村/小屋の内部・足柄上郡桜井村/下げた外飾りの堆積・北都留郡丹波山
(七)小正月・(八)繭玉・(九)繭玉と禁厭・(十)俵と粟穂・稗穂(つづく) 繭玉・俵・繭玉・二十三夜塔に捧げた俵と稗穂・粟穂・稗穂丹波山村保之瀬/粟穂・稗穂・北佐久郡望月附近
(十一)稲花・(十二)物作・(十三)農具の年取と畜類の年取・(十四)高男と苧蒔(をまき)・(十五)十二月・(十六)削り花 繭玉の木に挿す削り花・田方郡中大見村梅木/道租神に捧げたダイノコンゴウ・南秦野村/道祖神に捧げたハナ・十六花の一部・児玉郡丹荘村/削り花・児玉郡秋山村
(十七)三九郎の人形・(十八)オッカド棒と門入道 正月道祖神に捧げた三九郎の人形・北安曇郡北城村塩島/道祖神に供えた三九郎の人形・北城村細野/オツカド棒、一名門の道神・丹波山村丹波/俵と粟稗を背負ったオツカド様・西多摩郡小河内村川野/簡略になったオツカド様・秩父郡白川村日向/道祖神とそてに献じた脇差・北甘楽郡西牧村南野牧/門入道の一種・田方郡中狩野村雲金・足柄上郡三保村玄倉/門入道・三保村字中川小字箒澤/道神様・丹波山村/神棚に祀る木製の道祖神・下高井郡野沢温泉
(十九)鳥追・(二十)粥掻棒・(二十一)粥箸・(二十二)粥杖 粥掻棒・伊豆修善寺町字山田/ダイノコンゴウ即ち粥掻棒・伊豆長岡町長瀬/粥箸・北安曇郡北城村/嫁祝棒・飛騨高山、山彦洞販売品・大宰府の鷽
(二十三)嫁祝い・(二十四)筒粥 相模大根村の嫁の尻祝の一隊/一月十四日に婚礼のあった家への祝ひ物
(二十五)道祖神・(二十六)上元の火祭 野沢温泉の燈籠・道祖神・櫓の建設・火祭の櫓・大木の道祖神/道祖神・南安曇郡豊科町本村・梓村小室南村・東筑摩郡里山辺村湯ノ原・利根郡川場村谷地・南安曇郡安曇村島々・田方郡宇佐美村桑原北巨摩郡旭村北原/松小屋・足柄上郡吉田島村榎本・福沢村儘下/三九郎の小屋・東筑摩郡木郷村稲倉/東筑摩郡島内村町村/小屋・北安曇郡会染村花見・山梨郡神金村中新居・駿東郡泉村茶畑瀧頭下組・中郡比々多村白根/大磯の浜辺/火を掛けた小三九郎・東筑摩郡本郷村御才山本村/団子焼き・津久井郡内郷村寸澤嵐
(二十七)御柱・御幣 御柱・南安曇郡明盛村一日市場/農家の門口に吊るしたオンベの紙片・東筑摩郡洗馬村下平/オヤマ・塩山町字上塩後/御神木・南都留郡船津村・川口村中町、下町/オンベ・田方郡錦田村字中山新田・字笹原新田/松田町字神山
(二十八)悪魔拂・(二十九)福間三九郎 悪魔拂の獅子頭・足柄上郡北足柄村瀬戸/悪魔拂の一行・足柄上郡上秦野村菖蒲/三九郎の木偶・松本市蟻ヶ崎、放光寺、外大村、伊勢町/
10 ・(三十)仏の年越と山の神・(三十一)二十日正月・(三十二)晦日餅・晦日団子・(三十三)太郎の朔日・次郎の朔日・(三十四)節分 正月山の神に捧げた弓と矢・松本郊外塩倉/山の神に捧げた掛の魚と白餅・相州江ノ浦/木彫りのヲコジの絵馬・利根郡片品村/巻藁・北安曇郡北城村
11 (三十五)事八日・馬曳・針供養(三十六)稲荷と初午  目籠と白水・修善寺町益山・田方郡下狩野村加殿/疫病神から預かった帳面を持つ賽の神/厄病神だともいはれる道祖神・愛甲郡煤ヶ谷村金翅入口/道祖神に餅をつけて曳く藁馬・小県郡長窪古町
12 (三十七)十二様・(三十八)涅槃会・(三十九)地神と社日・(四十)春彼岸 十二様・利根郡新治村赤谷富士新田・利根郡東村追貝・利根郡片品村東小川・南魚沼郡神立村芝原・南魚沼郡三俣村・下高井郡堺村小赤沢・中魚沼郡田沢村十二峠/聖徳太子画軸、黒駒太子・秋山郷小赤沢/地神碑・中郡北秦野村横野宮ノ子・中郡比々多村神戸/地神画軸・足柄上郡南足柄町苅野象ヶ入
13 (四十一)味噌炊き・(四十二)雛祭り・(四十三)四月八日・(四十四)苗代と種蒔・(四十五)菖蒲の節句・(四十六)代ごしらへ 苗代大根を苗代に投入するところ・愛甲郡/
14 (四十七)六月一日・(四十八)田植 ナーバ流し/常陸行方郡太田村
15 (四十九)蟲送り・(五十)大祓・(五十一)釜蓋朔日・(五十二)七月七日
16 (五十三)盂蘭盆会・(五十四)土用・(五十五)八朔・(五十六)二百十日・(五十七)十五夜・(五十八)十三夜 盆棚・秦野町某家/盂蘭盆会の辻・秦野町
17 (五十九)案山子・(六十)十日夜・(六十一)恵比寿講・(六十二)亥の子・(六十三)神送りと神迎へ 案山子・信州上田・高座郡座間附近/藁人形・武蔵奥澤・座間附近/十日夜のお供へ・利根郡白澤村/藁鉄砲を持つ子供達・利根郡白澤村
18 (六十四)金山講・(六十五)十一月十五日・(六十六)大師講・(六十七)乙子の朔日・(六十八)煤拂ひ・松迎へと松立て(六十九)餅搗・(七十)年神棚と年越 門松の柱の根元に寄せかけて結びつけた鬼打木・利根郡片品村戸倉/
8月、「民族文化(貝塚合併) 第2巻8号」に「カノウとアラク」を寄稿する。
8月、「尾瀬と日光(編集 分担執筆)」を「山と渓谷社 山渓叢書」より刊行する。
 
 尾瀬と日光
 編纂者 武田久吉
「序に代へて」より(部分)
 
子供の時から山に親しむ機会に恵まれた私は、よくよくな事情でもない限り、(略)
 私の登山史は、日光の山から始まったといっても好い。妙義や榛名の如き低山でなしに山らしい山に登ったのは、明治三十一年の八月末、日光三山がけの時が最初であった。尾瀬への初めての旅は、矢張り日光からであって、沼田経由のルートに由ったのは、大正十三年の再探の時を以て嚆矢とする。日光も明治四十年の大暴風雨を最後として、段々足が遠ざかった。殊に滝に青銅所が出来て、天狗の棲むなどといはれた清滝権現の森にも、枯木の数が多くなり、足尾の毒烟に、中禅寺湖南岸の峰々が禿げるやうになって、幽邃な趣は日に月に滅ずるに至っては、昔の日光を知る者にとって、少なからぬ淋しさを感ぜしめる。湯元に電燈が点り、自炊の湯治客が跡を絶ってからは、俗悪一方に馳り、昭和に至って両三回の訪問は、とかく失望の感を深くさせられる他なかった。それにしても、私の心の奥には、日光山の名は第二の故郷ともいふ可き程の、反
響を喚び起こすに十分である。
 
戦場ヶ原が全く湿原の趣を失ってからも、私には尾瀬ヶ原が十二分にその代理を務めて呉れるやうになった。だがこれとても、最後には――尤も私の命の終焉までは勿論
 大丈夫であるが――戦場ヶ原と同様な、埃っポい草原となってしまふ運命にある。それがさうなる前に逆に水浸しの厄に遭はうとしてゐるのだから、世は皮肉なものである。だがあれが若返って湖上にモーターボウトが浮び、湖畔に建てられたペンlキ塗りのカフェーで、コーンドビーフのシチューがハイカーとやらに薦められるのは、私の眼の黒い内には実現すまい。(後略)
  目次
  序に代へて 武田久吉 昭和16年6月中浣
  奧日光概説 川崎隆章
  尾瀬・南會津・日光の山岳地形 安齋徹 昭和16年4月25日稿
  奧日光の地質 大塚昌彌
  日光山の瀑布 日光湯川の小瀧の全文転写 武田久吉 山岳第13年1号 大正7年12月
  尾瀬地方の植物 館脇操
  尾瀬の科學 安達成之
  南會津に於ける高倉宮御舊蹟 柳田國男
  尾瀬の昔と今 木暮理太郎
  勝道上人と日光の開山附記 武田久吉 山岳 第21年第1号 昭和9年6月
  尾瀬中心の山村民俗雜記 金子總平 昭和16年5月2日誌
  尾瀬の四季(短歌) 平野長英
尾瀬・日光登山案内 矢島市郎
日光・尾瀬雜筆
   日光・尾瀬・会津駒と鬼怒沼

武田久吉

山と渓谷 第63号

昭和15年8月
   尾瀬ヶ原の浮島 武田久吉 報知新聞 昭和14年10月
   三條ノ瀑 武田久吉 婦人の友 昭和9年7月
   尾瀬の柳と唐檜 武田久吉 林友 第183号 昭和5年5月
   鬼怒沼 武田久吉 文芸春秋 昭和6年7月
   地名小記A 一二山湖の名称附記 武田久吉 山岳 第14年第1号 大正9年2月
         B 萬田山卑考・附記 武田久吉 山岳 第14年第1号 大正9年2月
         C ヨッピ川 武田久吉 山 第2巻第11号 昭和10年11月
       D 鮠瀑・小湯ノ又澤其他 武田久吉 日本山岳会会報 第86号 昭和14年5月
     ※1 日光と尾瀬山岳名義小記  武田久吉 昭和16年6月稿
   銀山平と戸倉の方言一束 武田久吉 萩原武治手帳を一覧表に
   桧枝岐に行はれる御シトゲ 武田久吉 民俗文化 創刊号 昭和15年5月
   長蔵翁の思ひ出 武田久吉 山岳第25巻第3号 昭和5年11月
尾瀬の發電計畫 安達成之
再燃の尾瀬ヶ原貯水池問題 武田久吉 山と渓谷 第63号 昭和15年9月
 日光と尾瀬山岳名義小記」(部分)より 
(略)両毛国境上に在って、湯ノ湖畔から仰げるオヒズル岩なる岸壁は、何に由来するものかを明にしない。その形が別段笈に似てゐない。昔山伏が入峰の時、笈をどうかしたとでもいふ伝説も耳にしない。だが五萬の地図のyたうに笈吊と宛字するのもどうかと思はれる。笈をオヒズルと称することもあるが、それは本来笈が肩に当って擦れるのを防がうと、其処に当てた布片が笈擦であって、後には袖の無い肩衣のごときものとなり、更に転じて笈その物を呼ぶに至ったが、吊るのはあるまい。それ共山伏が通過の時、笈を負うた」まゝでは通れないので、綱で吊り下ろしたとでもいふ確かな據があるなら格別である。但し峯修行の経路は、この岩上を通りはしなかった。この岩の峯に金精山の名があるらしいが、これは何時頃からの名であらうか。どうせ古いものではあるまいが、多分金精峠から導かれたものであらう。金精峠は、古名を※2木越峠といふと「日光山志」にもあるが、今いふ富士見峠にも亦(木越)峠の名があったらしい。処で金精峠の途中で、路から少し外れた所に、夏峯修行の掛所である「宿しゅく」があり、其処に在って本来は金剛童子を祀る小石祠内に、金精明神が祀られるに至り、その信仰の盛になったのが安永年間の事に属する。これでこちらの(木越)峠には遂に金精峠の名が生ずるに至ったのである。その名前の起源となった金精様が、近年姿を消してしまったと聞くが、何となく惜しいやうな気もする。峠の頂上に在る祠は近来のもので、本来峠の名と関係あるものではない。(略)
                   
※2 (木越)は木ヘンと越の漢字変換ができなかった合漢字
   注 昭和15年9月ー月『山と渓谷』第63号→昭和15年11月ー月『山と渓谷』第64号 2016・4・7 確認済 保坂
 田辺和雄が寄稿した「尾瀬はどうして出来たか」の掲載が「尾瀬と日光」にないので検討要 2013・11・29 保坂記
 「日本山岳風土記5 東北・北越の山々」の収録文掲載書誌一覧には「「尾瀬と日光」(昭和17年 山と渓谷社刊)より」と記述があったので、
  もしかして、増版時に後から寄稿されたか
検討要、また文中に「昭和二十五年、沼尻の堰堤が完成した。」との記述もあり
8月、深田久弥が「青木書店」から「高原 紀行と案内」の普及版を再販する。
9月、「経済マガジン 9月号」に「登山と錬成」を寄稿する。pid/1474047
9月、「山と渓谷 69号 山の湯旅号」に「〇」を寄稿する。 確認要 2017・4・5 保坂
9月5日、新潟県中魚沼郡秋成村見倉、山田金太郎より正月・釜神行事等の採集調査を行う。
                    「正月行事採集帳 武田久吉聞書 山村民俗の会」より

※この年越後中魚沼郡秋成村見倉に於いて「鋤や鍬柄をさした釜神様」と題しての写真撮影を行う。
 
 鋤や鍬柄をさした釜神様 
「農村の年中行事 第五図」より
「農村の年中行事」より「釜神様の年とり」の一部
(略)
釜神の神体は、長さ七八寸、径一寸程の栃の木二本を以てそれにあて、注連縄で聢(しかと)結び、それに栃の木の細枝で作った鍬柄と鋤とを挿すとか(第五図)、又はタニウツギの枝で削り花を作って添へるとか、また茅のベロ四五本を挿す。(略)



 注意:「鋤や鍬柄をさした釜神様」と題しての写真撮影月が、「農村の年中行事 第五図」の記述に、なかったが、9月5日の調査日と照合できました。
                                 2015・1・13 確認済 保坂

9月13日付、柳田國男が博士に「はがき」を送る。
写真の礼状        横浜開港資料館  久吉書簡 No1239 内容未確認 2017・6・9 保坂
10月、福島県南会津郡桧枝岐の星団吉より年中行事や盆踊り歌などの聞き取り調査を行う。
            「正月行事採集帳 武田久吉聞書 山村民俗の会」より
10月、「民族文化 第2巻第10号」に「庚申雑記 (十八)梵字の庚申塔」を寄稿する
     注意:庚申雑記(十五)〜(十七)についての記述はありませんでした。7〜9月号で確認済 2014・2・5 保坂
10月、「国学院雑誌 第四十七巻第十号 民間信仰研究号」に「道祖神の本質と形態」を寄稿する。pid/3365209
冒頭の部分/道祖神は古来広く本邦各地に亘って信仰される神様であるが、相当な社殿の中に祀られることは罕(まれ)で、多くは路傍殊に辻に立ってゐる、『新編相模國風土記稿』を見ると、往々『道租神社』と記してあっても、それは格別の社祠があるのではないものらしいー少なくとも現今では、中空又は小石像を容れた小石祠以外には、道祖神と刻んだ碑石か像を刻んだ普通のもの以外には、自然石しか相模には見当たらない。
 道祖神の中で、立派な社殿のあるのは、その名を持つ神として最初の記録のある、京都出雲路のと、その娘が齋き祀られたといふ、奥州笠島の道祖神とであるが、東北地方の道祖神中には、小さい乍らも木造の祠内に安置されたものが時偶見当たるのである。それにしても、笠島のに及ぶものは一つもない。
(以下省略)
           手書き原稿あり 横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))No566−3 
 また、同号に宮地直一が「民間信仰研究の意義」、柳田國男が「龍王と水の神」、早川孝太カが「田の神・山の神」、 宮本常一が「諸々の地神たち」等も寄稿される。
11月、深田久弥が「青木書店」から「山」の普及版を再販する。
11月23日付、「中外商業新聞 第2078号」に「ブナの実と野鼠」を寄稿する。
12月8日、日本軍、ハワイ空襲、マレー半島上陸、対米英宣戦布告。
12月15日、「アルス文化叢書 12 道祖神」を「アルス」より刊行。
 
アルス文化叢書 12 道租神
 緒言
 日本の田舎を歩いて見て、吾々の目を殊に牽くものは、土地それぞれの景色ー山川草木のたたずまひ、田や畑や又それを點綴する農家等ーの外に、街の辻や道路に沿って竝ぶ色々の立石(たていし)である。地蔵尊・馬頭大士。如意輪観音・不動尊・庚申塔・蚕神・山之神・道祖神・地神塔・二十一夜・二十二夜・二十三夜塔・大黒天・寒念仏・南無阿弥陀仏、その外普遍的でないものまで数へ上げれば、驚くべき多種多様に上るが、これは恐らく外国には無いことで、全く日本独特と申すべきであらう。
 是等のものはいふ迄もなく、無意味に立てられたのでもないし、亦装飾や体裁のためなものではなくて、何れも信仰の対象として祀られたものであり、多くは現在までもその信仰が継続してゐるが、中には応時に比して希薄となったものもあれば、或は己に全く顧みられぬ程に、なってしまったものもないではない。
何れにしても、是等雑多な立石が、風景に味ひを添加することは争はれぬもので、田舎路の歩行をどの位楽しいものにして呉れるか判らない。そして是等のものに興味を感じ、注意を拂ふことは、郷土に対する認識を助長し、延いては国土愛護の精神を涵養し得ることともなるのである。吾々の祖先が残した斯様なものを破毀することなく安全に保護し、又昔を考へる便とするのも、詮ずる処国防の一端である。国土防衛を、外敵の侵入に対するもののみと考へるのは、短見者流の見解である。吾々は国防を広義に考へて、獅子身中の蟲に備へる一方、更に之を国土愛護にまで推し進めて行かなければならぬとは、私が年来禿筆を驅り、口を酸くして述べ立てゝゐる処である。国土防衛を、外敵の侵入に対するもののみと考へるのは、短見者流の見解である。吾々は国防を広義に考へて、獅子身中の蟲に備へる一方、更に之を国土愛護にまで推し進めて行かなければならぬとは、私が年来禿筆を驅り、口を酸くして述べ立てゝゐる処である。(略)
12月、「民族学研究 第7巻第3号」に「相模足柄上郡の道祖神と小正月の行事(第3報)」を寄稿する。(三保・清水・共和村の3ヶ村をまとめる)
12月、島村環が、「植物学雑誌」に「さじばまうせんごけノ細胞学的研究、特ニソノ雑種性ニ就イテ」を発表する。
12月、石田元季・小室翠雲と同名の「隨筆三部作稔りの秋」を「科学文化 1巻1号」に寄稿する。pid/1469859
     また、「科學文化協會寄附行爲 / p94〜95」 pid/1469859 内容確認要 2018・4・3 保坂
12月、小西民治が「墨水書房」から「山に悟る」を刊行、「上高地と神河内」を所収する。
1942 昭和17年 59 1月、「民族文化(貝塚合併) 3巻1号1月号 通巻21号」に「川場村の道祖神」を寄稿する。
  
1月、「写真文化 新年特別増大号 アルス社」に「路傍の石佛巡禮 ー道租神ーを寄稿する。pid/1541965
(略)一体日本の田舎ほど、そこらこゝらに立石たていしの多い國は世界にも少ないのではあるまいか。それを眺めながら歩くことは、少なからぬ楽みであるのみでなく、吾々の祖先が、何時頃どんな信仰を持ったかの、確実な記録であって、その研究は、精神文化史上、※1忽諸に附すべかざるものである。それをまた近年は、道路改修上邪魔になるなどゝ、片付けてしまふことのある如き、近代人の信仰の稀薄なことを、如実に物語る例にも逢着する。さて上記の立石の大多数は、仏道に関係あるもので、神道に属するものとしては、道祖神が、主要なものである。道祖神は通例ダウソジンと呼ばれるが、正しくはサヘノカミ又はサイノカミと称すべきものであり、又往々道路衢神とか、道陸神などの文字を宛てられることがある。その標章として立てられる石は、隅には自然石の事があるも、多くは道祖神と文字を刻まれたものか、又は像が彫ったものであり、地方によっては小石祠の事もある。(略)
    ※1 忽諸(こっ しょ) おろそかにすること。なおざりにすること
    参考 本文P86に道祖神の持ち物について『東亜解放』第二巻第二号(昭和十五二月発行)に掲載の拙稿を参照とあり、
           国会図書館に問合わせたところ蔵書がないとのことで確認がとれませんでした。
 2015・7・2 保坂記
1月、鈴木卯三郎が「山と渓谷 71号」に「『北越雪譜』餘談」を寄稿する。
(略)今年(実際は昨年のこと)は牧之翁の没後丁度百年となったので、この春越後鹽澤に於て、翁を追善する郷黨の人達の手によって盛大なる百年祭が挙行され、併せて之を記念するため、翁の菩提寺なる鹽澤長恩寺の境内に立派な句碑「川音の日に日に遠き茂りかな」が建立された。さきには、山岳探究の権威高頭仁兵衛氏の主唱のもとに苗場山上に牧之翁の記念碑が建てられ、ともに永世不朽の記念を遺すことゝなった。
2月、「会報 日本山岳会 No114」に「山の思ひ出」が掲載される。
               「日本山岳会社団法人改組関西記念講演会の講演記録/富田記」から 
当時の状況を知る参考記録/編輯後記色々な束縛の生じたためでもあらうが、会員の活躍を物語る前進的な登山の記事が殆んど見られないのは止むを得ないとしても、単なる懐古に時を費してゐてはならない。過去の経験も、歴史も現代に生かされて始めて意義があるのであって、昔は酒も砂糖も豊かでなどといって見た所で益々今日の惨めさを感じるだけである。そこから一歩出てこの悪条件を克服して行く意気がなくては、十二月八日以後の日本人たるの資格はない。古人もさうした様に、直接行動     尚、 編者は不明 2016・4・15 保坂
2月、「旅と伝説 第15巻2月号」に「釜神様」を寄稿する
冒頭の部分 民俗学者と名乗る方々の間にあっては、採集には一定の基準もあり、又方法も宜しきを得て、寸分の隙もなく行くことであらうが、私達のやうなズブの素人であり乍ら、民間の習俗に興味を持ち、旅の行きずりにフト耳にした色々の事柄を記録する場合には、とかく聞き下手が(わざわい)してか、不正確になり勝ちである。加之行事が衰頽に傾いてゐるものは、同じ部落の内でも、昔通りやる家もあり、又は全く廃してしまった家もあって、旨い所に当れば、耳よりな話を聞き出せても、運の悪い時には、無精な人にのみ出遭って、そんな風習は皆無なやうな印象を受けることもある。その上家々の方式は必ずしも一致しない場合があるので、一人二人の人から聞いた事を以て、村全体をさうだと推定し難い例は、枚挙に遑(いとま)がない。『民族文化』第二巻第一号に「べろべろの神」を発表して以来、専門家から二三の問合せもあったし、又自分として更に多数の例を集めると共に、聞下手による不安の感をも一掃し度いと心懸けてはゐるものゝ、時代の故(せい)でもあらうか、中々興味のある話を捉へる機会に恵まれない。然し乍らその後の採集によって、僅かながらも、嘗て筆にした記事に追加訂正す可き資料を得てゐるので、爰(ここ)に本誌の余白を拝借して、短文一篇を掲げることゝする。然し本来誌面が別なのであるから以前の拙文の「補訂」とするよりも、新たな記事として纏める方が、読者にとっては便利かとも考へるので、多少の重複や、一部の省略を聽して頂くとして、筆を執る方針であることを諒せられ度い。(以下略)
2月、「写真文化 2月号 アルス社」に「路傍の石佛巡禮ー庚申塔ーを寄稿する。
参考 本誌8月号「馬頭観音 其の他 ー路傍の石佛巡禮その三ー」より
     本誌二月号掲載「庚申塔」の項にのせた挿図の所在地説明を追捕しておきます。
東京下谷入谷小野照崎神社境内 甲斐塩山町東村東町地 13 上州利根郡新治村赤谷
東京小石川茗荷谷藤寺境内 東京南千住誓願寺境内 14 上州利根郡片品村土出伊閑町
日光西本龍寺境内 東京淀橋成子坂子育地蔵 14 b  〃
日光清瀧観音堂前 10 相州江ノ島 15 上州利根郡片品村戸倉
東京亀戸萩寺境内 11 信濃松本市出川町 16 東京本郷駒込神明町神明神社裏
相模愛甲郡愛川村上ノ原 12 信濃東筑摩郡入山辺村奈良尾 17 上州利根郡新治村箕輪
検討事項 上記の表は挿図に番号だけが表示されていたため所在地が分かりにくかったのを、博士が改めて8月号に追捕をしたものを表示し
     ました。所在地が広範囲に亘っていることに注目して戴けたらと思います。  ●は判読が困難 2015・10・21 保坂記

3月、「民族文化 3巻3号(貝塚合併)」に「田名の道祖神」を寄稿する。
  
  田名堀之内地区の道祖神
相模原市立博物館に収蔵されている「田名の道租神」について
 (堀ノ内地区のセイノカミに刻字されていた銘文の表記説明文の後)/
近頃のやうに殺風景で身勝手な世の中になっては、道路改修の為めに、道祖神を移転したとて、わざわざその事の由を記録して「来者に告ぐ」などと丁寧親切な心懸の者は一人も有るまいが、明治時代には未だこれだけの人があったのである。処で移転させたといふ道祖神はこれではなくて、その直傍にある寛政五年十一月吉日の双立神像拱手のもの(写真参照)であるかと思はれる。そして是等両基のものの在る所は、田名の字堀ノ内の小字中村であって、上田名といふのではない。この神像は、田名の公所の缺間にある天明三癸卯年正月十四日造立のものの手本として刻んだらしく、彼に似て更に良い彫刻である。  「田名の道祖神 P9」より
 参考 上記道祖神は、清水長明氏の調査によって田名公民館に保管されていることまで確認さ
れていましたが、その後の行方が分からなくなっていました。最近、田名を知る会々長大山栄子さんのご努力によって、相模田名民家資料館 から、さらに元あじさい会館六階にあった相模原市民俗資料室に移動され、現在は相模原市立博物館に保管されていることを確認されました。/上記道祖神は道路が拡張されたことによって安住な場所を失い数奇な運命を辿ってまいりましたが、ここに所在を明らかにすることがでlきました。改めて大山さんの労苦に感謝申し上げたいと思います。  2014・10・20 保坂記
4月、「民族文化 3巻4号(貝塚合併)」に「桃とモヽ」を寄稿する  旧津久井郷土資料館所蔵資料より
第三巻四號 「桃の特輯號」
桃の文獻と其の語源 中島利一郎 桃と雷除 角田序生
桃とモ丶 武田久吉 一茶と桃 大神俊文
桃雜爼 高山太郎
土佐の桃節句の民俗 桂井和雄 支那古代に於ける桃 津田逸夫
桃と染色 上村六郎 支那に於ける桃の信仰 金子總平
史前の桃随想 直良信夫 桃太郎と黍團子 山口麻太郎
桃のお守り 清水市之 編輯後記
第三巻六號
續桃記 中島利一郎
4月、「学生と練成 第一巻第四号」に「春と生物」を寄稿する。
5月、本山桂川が「日本民俗圖誌 第十三巻 童戯篇」を東京堂から刊行する。
   
その内容見本(カタログ)文に、西村貞次、松村武雄、武田久吉、柳宗悦、式場隆三郎らが、推薦文を寄稿する。
 
 「日本民俗図誌」のカタログ
 
 左上に「情報局後援」の
    表記がありました。 
『日本民俗図誌』発刊をことほぎて(全文) 理学博士 武田久吉(自筆)
 日本の民俗学は未だ若いといふ。
なるほど老成した巨匠のやうな面影はそれに見られないやうである。いさゝかなりと民俗に関する疑問が起り、それを解決しようとする時、「これさへ繙けば」といふ程の成書あるといふでもなく、辞典と名のつく一二の編著はあっても、寔に便ない断片の羅列に過ぎない程度で、萬人をして首肯し満足せしむ可き記事は殆ど見当たらない。だが若いだけに溌刺たる元気もあり、威勢もよい。それ故か、近来は色々の方面で民俗に関する出版物が現れ、そして、世間の歓迎をうけてゐるやうに思はれる。とはいへ、いか程巧な言廻しや上手な記載で事物を述べて呉れても、図画によって直截的に目に愬へる行き方でなくては、到底脳裏にその片影をすら浮び上らせることは出来ないものもある。茲に本書の著者は、多年に亘るその方面の蒐集を經とは前者に重きを置いて、余りにも後者を閑却し過ぎてゐる。知識人の知識の如きも、前者に関するそれであって後者に関するそれではない。これは決して一国民を心解する正直ではない。/『日本民俗図誌』はかうした傾向に対する力強い
抗議であると共に、民衆生活の理會に対する真摯な指導である。それは、民衆生活史のさまざまの面層に関する優れた図画的記録である。これを翻展する者の心眼には、默々として力強い生活を生活しつづけ来った一般民衆の姿が、いとも鮮明に現前する。民衆生活の種々相は、一面に於ては類型的であり、他面に於ては個性的である。型のうちに個がり、個々のうちに之を貫く原則がある。『日本民俗図誌』は、その両者の真相を伝へて殆んどあますところがない。かうした意味に於て、本書の刊行は、人間社会の本当に力強い部分への理会と愛情とを強大ならしめる一つの喜ばしい企画であると言はなくてはならぬ。
第一冊、祭禮篇 祭典 祭式 祭具 神具 供饌 幣束 假宮 神輿 装飾 渡御 還御 行列 供奉 警護 其他特殊神事の内図示に適するもの
第二冊、祭祀篇 祭神 祭石(石神・立石・メンヒル等) 石敢當 道祖神 庚申塔 地蔵尊 供養塔 水神 其他同前
第三冊、行事篇 正月行事(神棚飾・〆飾・松立・供物・幸木・贈答品等) 節分行事 三月節句 五月節句 ミソギ行事 八月行事 霜月行事 年末行事  其他同前
第四冊、住居篇 構造 屋根 破風邪 間取 窓 明取り 格子 戸 上り台 炉 納屋 押入 障子 門 入口 墻塀 庭 作業場 其他同前
第五冊、調度篇 箪笥 長持 櫃 茶棚 机卓 物置台 自在鍵 釜 鍋 桶 火鉢 七輪 湯沸 燭台 ランプ 燈籠 照明器具 其他地方的特殊器物等 同前
第六冊、服飾篇 常服 晴着 労働服 手拭 前掛 タスキ 被物 帽子 笠 履物 帯 下着 防寒具 装身具 髪飾り 其他同前
第七冊、飲食篇 常用物 間食物 儀式食物 各その器具 酒器等 同前
第八冊、婚姻篇 結納 儀式 嫁入道具 行列 作法 披露 婚姻服装 贈答品 回禮 里帰 其他同前
第九冊、産育篇 祝儀 祝物 保育具 宮参り 初誕生 生育ニ伴フ行事 成年式 若者宿 其他同前
第十冊、葬祭篇 神葬 仏葬 葬儀 葬列 供養 埋葬 墓地 講中 年忌 葬祭服装 其他同前
第十冊、習俗篇 各篇以外の特殊習俗 豊年祝 大漁祝 其他同前
第十冊、舞楽篇 楽器 地方特有の舞踊(獅子舞 盆踊 ゑんぶり 棒踊 人形廻し) 假面等々 同前
第十冊、童戯篇 獨楽 凧 羽子板 羽根 其他童戯及童玩等 同前
第十冊、農耕篇 耕筰 播種 施肥 作業 農具 農耕服装 その他用具(笠・カブリ物・履物・手甲・脚胖・蓑等) 農耕行事 習俗等 同前
第十冊、漁労篇 漁労作業 漁労具 漁船 網 海女 漁労習俗 製造行程 (漁村生活をも) 其他同前
第十冊、染織篇 染織作業 染織用具 作業工程 製品 其他同前
第十冊、運輸篇 陸上運搬具 水上運搬具 (車・荷車・馬匹・荷馬・車・ソリ・スラ・荷船・通船・ハシケ・筏) 頭上運搬 其他
第十冊、生業篇 上 鍜冶 鋳物師 塗師 陶器師 ロクロ師 指者師 其他特殊生業状態及其工程 其他同前
第十冊、生業篇 下 同前 続篇 
第十冊、工芸篇 各種民俗工芸製品及工程  構造 部分模様 其他 
  ※ 全巻に博士の関連記述あるかは未確認のため確認要  2016・1・17 保坂記
6月、「民族学研究 第7巻第4号」に「相模足柄上郡の道祖神と小正月の行事(第4報)」を寄稿する。 注意 上記「第7巻第4号」は1941年3月の発行予定であったが12月8日に太平洋戦争が勃発したため発行が遅れ6月となる。
                               2014・1・23 保坂記
【附記】相模の道租神像には、手を袖中に置いて、宛も合掌したるかに見えるものが甚だ多い。従前報告書中には、假に之を「拱手」と呼ぶことにして、眞正の合掌と区別して置いたが、漆原俊氏よりの通知によると、浮屠氏の間では之を金剛合掌と称する由である。
6月、「野菜と山菜」を「短歌研究 第十一巻六号」に寄稿する。
                後年、「植物学談義 昭和53年9月 学生社」にも掲載される。

月、「民族文化(貝塚合併) 3巻6号 山岡書店」に「「かくま」の事から」を寄稿する
7月17日、柳田国男が「カクマ」と云う名称についての「郵便はがき」を博士宛に送る。
                  
横浜開港資料館 久吉書簡1241 より
7月、文部省所管による民族研究所が創設される。
7月(以降)、日本科学協会主催による「第一回夏期大学」申込書の裏面に
   二十一佛板碑の種子等を配列書きにして、三輪善之助著「庚申待と庚申塔」に挟む。

    
  
 三輪善之助著「庚申待と庚申塔」 第三圖(部分)    「増森薬師堂」と記された種子(部分:メモ書き)
    埼玉縣増森薬師堂天正三年山王本地廿一佛庚申供養板碑拓本 現:埼玉県指定文化財(有・考古)
   注 このメモ書きは、博士の庚申研究の時期を知る上で貴重と思われましたので今後の研究を考慮して記載しました。 2017・3・26 保坂
7月、深田久弥編「富士山 <普及版> 青木書店」に「中道廻り」を寄稿する。
7月、直良信夫が「子供の歳時記」を「葦牙書房」から刊行する。 
武田家所蔵本
8月、「写真文化 25(2) アルス社」に「馬頭観音 其の他 ー路傍の石佛巡禮その三ー」を寄稿する。pid/1541971
 
高座郡大澤村上大島坂上
道祖神と念仏供養塔の習合
馬頭観音 其の他 ー路傍の石佛巡禮その三ー(上大島道祖神の説明部分)
(略)南無阿弥陀仏の文字に日月や三猿を配したものは、浅草の待乳山にもあるが、これはズット古くて寛文九年の建立に係るものである。寛文よりは大分後のであるが、目黒行人坂の大圓寺境内にある一基は、天蓋(てんがい)のあるもので、竿石の正面には奉供養青面金剛と刻み、その右に貞享元甲子天、左は六月廾五日とあり、その下に三猿を浮彫とし、下端に施主六人の男女名を竝べてあるが、妙なことには、左横には三界萬霊等と刻み右横に南無阿弥陀仏と深く彫ってある。南無阿弥陀仏と庚申塔との習合はこの位に止め、写真11・左写真)によって道祖神と念仏供養塔と一緒になったものを示すことゝしよう。これは相模川左岸、神奈川県高座郡大澤村の上大島にあるもので、明かに双立神像の道祖神であるにも拘らず、側面に念仏供養塔の文字を読むことが出来る。道祖神はまた庚申塔と習合することもあって、その著例は、東京市内では小石川の牛天神境内にあり、稍離れては、下総八幡の葛飾八幡境内にもある。其等は、文字で道祖神と大きく書いた下に三猿の在るものであるが、八幡神社には今一基、三猿の上に立つ青面金剛像の肩に、道祖神と小さく彫ったのがある。(略)
8月、「新若人 第三巻第五号」に「茄と胡瓜」を寄稿する。
8月、日本民族学会が解散。

8月20日、財団法人民族協会が発足。
9月21日、漆原俊が道祖神の写真と添状を博士宛てに送る。
           横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))566−4−1 より
9月28日、石棒「お彌勤様」を山梨県南都留郡東桂村夏狩で撮影する。
9月30日 本山桂川が「日本民俗圖誌 第一巻(祭礼・祭祀篇)」を東京堂から刊行する。
参考 道祖神(7)
    
    第133図ー1       第133図ー2         第133図ー3      第133図ー4
 第133図ー1は、相模(神奈川県)津久井郡内郷村阿津の西方旧道の側にあるもの。2は同村増原にあるもの。3は同村道志にあるもの。天明九年三月の建立で、男体像は盃を持ち、女体像は徳利を携えている。4は同村関口にあるもの。男体像は払子を持ち、女体像は弓を携えている。(鈴木重光採図並に報告)
  
 道祖神 第134図ー1 
参考 道祖神 (8)
 伊豆地方では道祖神のことを又賽の神とも道陸神ともいう。第134図ー1は伊豆(静岡県)賀茂郡宇久須村芝の道座像。手に徳利のようなものを持っている。(武田久吉氏の撮影による)
  
      「日本民俗圖誌 第一巻(祭礼・祭祀篇)」より
             所蔵 鎌倉市立図書館 
11月、「多磨 第十四巻第一号」に「文学と植物」を寄稿する。
11月、「旅と伝説 第15年11月号」に「久米路橋と登破離橋」を寄稿する。
参考 (略)昨年の四月の初め、松本の民俗学会の重鎭をなしてゐた胡桃沢勘内の法要に出席して、その後両三日を近郊の採訪に暮したが、今年もその頃数日の小暇を得たので、今度は足を大町まで伸ばすことゝし、その序を以て胡桃沢氏が生前能く話してゐた借馬(かるま)の道祖神を見、又大町やこの近くで意外な発見をして来たのは幸であった。思出深い池田町も、今迄に再三訪ねたことはあっても、未だ登波離橋を訪ねる機会が無かったので、今度は足を陸郷村に入れ、更に犀川を渡って生坂村をも訪ねて見た。(略)有明や小實平での見聞中面白いと思ったことは、この両部落ともに球形又は楕円形とか、凹凸のある自然石を、道祖神として祀ることであって、斯かるもの六、七個を集めた上に、標飾や藁などを用ひて低い屋根が葺いてある。自然石を道祖神と崇めることは、信州にも敢て稀ではないが、幾分甲州のものを思はせるやうなものは、余り多くない。此の種のものが、陸郷村の山間部落には、諸所に見られるものかどうか、他日の採訪の機を楽しみにしてゐる。  
 ※「今年もその頃数日の小暇を得たので・・」:その頃の時期については、検討要 2015・8・12 保坂記 
〇この年、小山周次等編「丸山晩霞・水彩画家」に「歐洲での晩霞君」を寄稿する。
   また、鵜澤四丁も「晩霞君を偲ぶ」を寄稿する。 「丸山晩霞年譜」も所収 pid/1069030
1943 昭和18年 60
1月、「民族学研究 第8巻第3号(をもって廃刊)」に「豆州道神録 -中央部(一)-」を寄稿する。
    注意 「民族学研究」巻号別目録」では発行年が1942年9月とあり  2014・3・15 保坂 再検討要
1月、民族協会の「民族学研究 第1巻第1号」が創刊される。
    武田博士は同協会の会員になっていないことから「豆州道神録-中央部(二)-」の寄稿を断念する。
    
そのため、伊豆中央部一町二ヶ村の調査結果は発表出来たが残り二町十ヶ村は未発表に終わった。
     駿河駿東郡の調査結果も未発表で終わった。 
   胡桃沢友男著、「武田博士の伊豆の道祖神調査」より
2月、「短歌研究 第十二巻第二号」に「道祖神と影蹈」を寄稿する。
2月3日、北村公佐が足柄史談会探訪の写真及び添状を博士宛てに送る。
                  横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))566−4−2 より
2月14日、北村公佐が道祖神写真及び添え状を博士宛てに送る。
                  横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))566−4−3 より
2月17日、山梨県南巨摩郡曙村を視察する。
 
 石棒 「丸石神」より 曙村中山の道祖神
研究資料
 左道祖神についての、撮影の時期については分かりませんが、昭和19年1月の項の中の「
形態的に見た道祖神」に収録されていました。
   
撮影の時期は、この時か 検討要 2015・10・29 保坂記
(略)
甲州でも、斯様な形は稀であって、私の知る処では僅に三四に過ぎない。その主なものゝ所在地等を挙げると、
中巨摩郡御影村野牛(やご)島。 高サ約六0糎、周九0糎。「文政十一子正月、中村氏子。」
中巨摩郡登美村瀧坂。 高サ約三三糎、周六三糎。無銘。
中巨摩郡曙村中山。 高サ三七糎、周七二糎。「天保十四卯九月、當村氏子中。」

 
この第三のものが一番宜しい(第三図)

2月18日、昼は湯田高女で女学生に「植物の不思議」、夜は県立図書館で「一ツ目小僧、道祖神」を講演する。
2月19日、「朝日新聞」に「‘日本精神‘の源泉 助長せよ伝統の行事」が掲載される。
記事は17日から18日にかけて訪れた山梨の様子と日本精神論が述べられた。/(部分)眞の日本精神を見るには外国文化、都会文化にわざはひされない農村独特の文化、ことにその精神文化を知ることが大事で、いま大東亜戦争に赫々たる戦果をあげてゐる将兵の大部分が農村出身で、それらは学校教育、都会教育で育てたものでなくーもちろん隊にはいって隊でみがきをかけられるがー教へられるのではなく、知らず知らずのうちに発生してゐるものであって、これは実際に農村に行って研究し、分析すればはっきりする。
3月20日、本田正次が「植物学雑誌57巻675号」に「日本植物新学名録 (二十三)」を寄稿する。
通 番  和  名  学  名 産  地
1035


ふぎれおほばなのみみなぐさ

Cerastium Fischerianum SER.
form.dentatum(HONNDA)OHWI 
.c.p.253
北海道

ながばのおほばなみみなぐさ form.robustum(WILLIAMS)OHWI I.e. 北海道
おほばなみみなぐさ

form.Schmidtianum(TAKEDA)OHWI I.e.

樺太、千島、
北海道、本州
ほそばなのくんしやうばな var.angustilobum (HONDA)OHWI I.e. 北海道
ちしまみみなぐさ var.macrocarpum(FENZE)OHWI I.e. 千島、北海道
げんかいみみなぐさ var.molle OHWI I.c. 朝鮮、九州
おほみみなぐさ var.scariosum(TAKEDA)OHWI I.e. 北海道
1036

ほそばみみなぐさ

Cerastium furcatum CHAMISSO et SCHLECHTENDAHL
form.Takedae(HARA)OHWI I.e.p.252 
本州

ちいさんみみなぐさ var.chiisanense OHWI I.e 朝鮮
しばのみみなぐさ var.ibukiense OHWI i.e. 近江伊吹山
ほくせんみみなぐさ var.koreanum(NAKAI)OHWI I.e 朝鮮
きくざきたかねみみなぐさ var.tetraschistum(TAKEDA)OHWI I.e. 本州
1037


たがそでさう


Cerastium pauciflorum STEVEN
var.oxalidiflorum(MAKINO)OHWI I.c.p.254
本州

      注意 ≪ここ(年譜)ではナデシコ科・みみなぐさ属の一覧のみを記載しました。≫ 2015・3・13 保坂
4月20日付、「東京毎日新聞 第二三九八号」に「苗代大根」を寄稿する。
4月21日〜23日付、「東京新聞 第二〇一〜二〇三号」に「山林と木材の供出」を寄稿する。
5月、「民族文化4巻1号5月号 通巻31号 山岡書店」に「盗まれた道祖神」を寄稿する。
  
  信州山形村字小坂の道祖神
資料@本文より
(略)
小坂に足を入れ先づ取附の清水で発見したのは、寛政頃のものと思はれる一基であったが、無名であるので、目指す石像でないことは明であった。足を進めて大日に来て見ると、苦もなくこの字が見当ったが、嘉永五年建立のもので、これ亦目的のものではない。更に足を進めて山口に行って見ると、幸にも其処の常会長の中川清人氏に遭遇し、山口の道祖神にからまる伝説を聞くことが出来た。この部落に語り伝へられてゐる処によると、山口のはもと蘆ノ久保に在ったのだが、昔大力の男が一人で背負ひ、道を通らずに山越しに持って来たのだといふことである。これが寛政七以下磨滅のものであるか、正徳五年のものであるかは、苔蒸した碑石を検(手ヘン・変換不能)するに方って、少なからぬ興味が掛けられる。而も彫られた両神は明かに握手してゐるではないか(第三図・ここでは左図)ブラシを取り出
して叮嚀に払拭して見ると、右手下隅に文字が顕れた。浅く彫られた小さい文字を矯めつ眇めつして見ると、なんとそれは正徳五年乙末十月卯日蘆野窪講中と読み取ることが出来たのである。(略)
資料A上図の写真説明 「路傍の石仏」P58より
63 長野県東筑摩郡山形村字小坂上手(わで)山口  銘「正徳五年乙末十月卯日  蘆野窪講中」これを寛政七卯年八月六日に山形村小坂上手に盗まれて、上記の村に現存 最初は同郡朝日村古見蘆野窪に建てたもの 松本平で年代の明らかな最古のもの 
 同号に戸川安章が、三巻六号に発表した「「かくま」に就いて」の関連を寄稿する。
6月、「民間伝承 第九巻第二号」に「寛文時代の道祖神」を寄稿する。
7月23日、甲州鶴島に於いて、正月行事(上條蔵氏談)の採集を行う。
                            「正月行事採集帳 武田久吉聞書 山村民俗の会」より

9月18日、甲州南都留郡秋山村無生野の六斎念仏見学を機に山梨民俗学研究会の発会式が行われる。
    
加者 岡泰元・土橋里木・大森義憲・竹川義徳・小松明・坂本敏雄・京戸保
     東京から 橋浦泰雄・武田久吉

  ○山梨民俗学研究会/(略)十月には上九一色村を、明年一月には黒部(現甲府市黒平で誤植)・西部等の村を見学することが予定された。同縣内会員でも初顔合せの人が多く親睦の念を強めて愉快な発会式であった。              「民間伝承 第九巻第五号 昭和十八年九月号 学界消息」欄より
10月13日、新潟県中魚沼郡倉沢・倉俣村西方地区に於いて正月・釜神行事の採集調査を行う。
                            「武田久吉聞書 山村民俗の会」より

10月14日、長野県下水内郡小赤沢地区に於いて正月・釜神行事の採集調査を行う。
                  「武田久吉聞書 山村民俗の会」より
10月15日、長野県下水内郡大赤沢地区沢に於いて正月・釜神行事の採集調査を行う。
                 「武田久吉聞書 山村民俗の会」より
10月16日、長野県下水内郡堺村柳在家・水内村森地区に於いて正月・釜神行事の採集調査を行う。
                             「武田久吉聞書 山村民俗の会」より

10月17日、長野県下水内郡上郷村羽倉地区に於いて正月・釜神行事の採集調査を行う。
                     
「武田久吉聞書 山村民俗の会」より
10月20日、「教材社」から「美の思索/植物の美」を寄稿する。

 美の思索 
 発行 昭和18年
序/美は到るところに在る。自然の中にも戦場のなかにも、塵埃のなかにも。唯美を見る眼、美を感ずる心さへ持ち合はせてをればいいのである。けれどもあらゆる事々物々に美を感じ得る美しい精神が果たしてこの世にどれほど存在するであらうか。美を思索することは、このやうな美しい精神を養ふことでなければならぬ。與へられてさりながら未だ使ふ術(すべ)をしらなかった審美の能力を発揮させることでなければならぬ。それぞれの分野に於ける専門家達のこの美の理論は、それ故おそらく諸君のうちに新しい美感の覚醒を約束するにちがひない。いはゆる美術のみが美の対象なのではない。さう信じ得ればこそ、そして更に又、この未曽有の決戦下にややもすれば荒まんとする人々の心に、幾らかなりとも和らぎをおくり得ると信ずればこそ、編者は敢ていまこの一巻を世に送るのである。  編者
  グラビアに「コマクサ」と「カタヲカサウ」の写真2枚の掲載がありました
   傳統について 室生犀星 文藝の美しさ 池島重信
  傳統と現代 古谷綱武 映畫美の構造 津村秀夫
   肉體美 永田龍雄 天體の美 野尻抱影
   會畫の思索 柳  亮 植物の美 武田久吉
   工作藝術美の本質 小池新二 日本山川の美 田部重治
   彫刻の美について 片山義郎 動物の美について 平岩米吉

 
参考@スフェレラ(12番の項の全文)毎年三四月の候になると、私の庭の池や水鉢の水が、多少なりと赤變する。その一滴を採って顕微鏡下に窺ふと、数多の赤い球體が泳いでゐるのが見える。大きさは長径五十分の一粍から最大二十五分の一粍以下で、二本の鞭毛があり、回轉し乍ら前進するかと思へば、時々後退する。最外側に無色透明な細胞膜があり、中央に卵形でやゝ尖った有色部が見える。個體によっては赤色のヘマトクロームといふ物質が少量しかなくて、小さい葉緑粒の為めに却って緑色に見えるものもあるが、中には赤色の細粒で充たされてゐるものもあって、實に美しい。これは時に雨水中に無数に繁殖して「紅雨」を惹起する。/スフェレアに似たものにクラミドモナスといふものがあって、その属の一種も矢張り赤色の物質ヘマトクロームを含み、往々融雪上に繁殖して、所謂「紅雪」の現象を起すことがある。クラミドモナス属のものは一般に深緑色であって、それが無数に繁殖すれば、水色為めに緑變する。クラミドモナスに似た小體が、四個又は十六個集まって、大體方形の群體をなすものに、ゴーニウムといふのがあり、又十六個集まって球形の群體をなすパンドリーナ、三十二個の小體の集合したエウドリーナなど、それぞれに美しい。殊に三十二、六十四、又は百二十八個の小球體の集まって而もその間に大きさと分業の差異のあるプレオドリーナ、又スフェレ
ラに似て小さく、且つ緑色の小體が多数(多きは二万五千も)集合して球形の群體をなすヴォルヴォックスなど、何れも美しい。そして是等はどれも淡水中に遊泳生活を営み、動物の一員らしく見えるが、實は植物なのである。

  上図(195 頁凸版圖説明 (全部原圖))の原図説明
ミドリムシ Euglena viridis. ×500 横浜本牧三渓園
ミドリムシ Euglena tripteris. ×500 産地同上 但しこの圖は英國産のものを描けり
ウチハムシ Phacus Iongicauds. ×250 産地同上 ウチワヒゲムシ属
レポキンクリス Lepocinclis texta. ×500 産地同上
レポキンクリス 同一個體を上方より見たもの
トラケロモナス Trachelomonas hispida var.subarmata. ×500 英國
トラケロモナス Trachelomonas hispida var.coronata. ×500 産地同上
トラケロモナス 同一個體を上方より見たもの
トラケロモナス Tracletomonas Stokesiana. ×500 産地同上
10 トラケロモナス 同上の上面観。
11 トラケロモナス 同上の底面観。
12 スフエレラ Sphaereila lacustris. ×500 東京 ・ 
13 セレナストルム Selenastrum gracile. ×500 北米
14 ペディアストルム Pediastrum Tetras. ×500 北海道・大雪山
15 ペディアストルム 同上 ×500 横浜本牧三渓園
16 ペディアストルム Pediastrum Simplex var.clathratum. ×250 阿弗利加ヴィクトリア
ニアンザ
17 鼓 藻 Pleurotaenium nodosum. ×125 錫蘭島 (本邦にも産す。)
18 鼓 藻 Micrasterias rotata. ×125 信州諏訪鎌ヶ池
19 鼓 藻 Staurastrum leptacanthum. ×250 州諏訪八島ヶ池
20 鼓 藻 Cosmarium multiordinatum. ×250 ビルマ
21 鼓 藻 Desmidium coarctatum ×500 北海道・大雪山
22 鼓 藻 同上の一細胞を上面より観たるもの
23 硅 藻 Eunotia robusia. ×500 日光湯本
24 硅 藻 Stauroneis Phoenicentron. ×250 東京・井ノ頭
25 硅 藻 ×500 同上一部を更に拡大せるもの
参考Aこの上書は「教材社思索叢書」として、「幸福の思索」、「愛情の思索」、「生活の思索」、「闘争の思索」、「生死の思索」と五種類に分類されたシリーズ本になっていました。
          
當時の世情からして珍しい書籍と感じたので序文と共に記載をしておきました。(2017・3・22 保坂記)
11月、「植物分類地理学会第13巻」に「つつじ科植物の小観察」についての研究報告を行う。
 Notes critiques sur quelques plantes du japon, de la famille des Ericacees 
イソツヽジの葉 八重キバナシャクナゲ
ハクサンシャクナゲの花 ツクシシャクナゲの萼
ハクサンシャクナゲの葉 イハヒゲの花
吾妻山のネモトシャクナゲ コメバツガザクラの花序
八ヶ岳のネモトシャクナゲ 10 クマコケモヽ
12月、「農村の年中行事」を「龍星閣」より出版。
    著者略歴の欄に「大正元年龍動皇立理工科大学卒業」と記述する。  

「農村の年中行事」から 右上写真  嫁の尻祝の一隊
       
 (相州中郡大根村下大槻)
 諸言/(略)農村で最も重要な仕事は、云ふ迄もなく農耕である。処で農耕は古来我が国の信仰生活と、経済生活との中心であった。従って農耕文化は我が国の文化の主流をなすものであり、これが研究は我が民族の精神生活を明らかにする上に、最も重要な仕事である。 我が国の農業は、気候や地勢の関係で岡作に限られた土地を除けば、水稲の耕作が主である。そしてこれに関する諸種の祭祀があり、多くの信仰儀禮はこれに関連し、又一年を通じて行はれる種々の行事も、概して稲の栽培と関係が深く、村の生活はそれによって支配されてゐる。(略)
 あとがき/(略)行事のよく保存されてゐる村々は、多く交通不便な土地に位する。遠路を
厭はず訪ねて見ると、屋外のものは雨とか雪の為に撮影不能に陥ったり、屋内のものは光線不足で不結果に終わることもある。加之近年は、うっかり写真器を軍需工場、発電所、橋梁、防空見張所などの附近に携行して咎(とが)められることも稀ではない。三脚を立て、冠布を被り、ゆっくり焦点を合わせてゐるやうなスパイは、多分無いことと思ふが、農村の防諜監視人は、さういふのでなければ、スパイだとは思って居ないらしい。これなどは未だ怒す可きであるが、時には写真器を、あからさまに携帯してゐるといふだけで怪しまれたり、甚しい場合には、測量部発行の地図を披見したといふので密告されたりするから、農村も中々安心して歩けぬ時代となった。私などはその辺の用意があるから、何処で何に出会っても格別驚きもしないが、嫌疑を掛けられるのは不愉快なことであり、弁明には貴重な時間の浪費は免れないことである。 これ程の苦心を重ねて撮影した写真も、さて印晝にして竝べて見ると、或る方面には比較的豊富であっても、他の方面には、甚だ不備であるか、時には全く缺(か)けてゐることを発見した。(略)然し私は幸いにも、友人中澤厚君の多大な助力を得て、民俗学的には永く閑却されてゐた甲州から、数々の資料と共に、貴重な写真の寄贈を受け、それを本書に挿入することの出来る幸運に恵まれた。そして刊行の間際まで増補に腐心しか結果、第七〇図と七十一図との間に、番外の(略)
                   
「諸言」と「あとがき」の部分より
図番から写真のタイトル名と撮影場所等の説明文の一覧
図版No 写真のタイトル名 撮影の場所他 図版No 写真のタイトル名 撮影の場所他
蕃社の新年 台湾高雄州屏東郡マガ社、パイワン族下三社蕃 99 大木の幹で作った一対の道祖神 濃下高井郡野沢温泉
藁沓 (裏面と側面とを示す) 100 信州南安曇郡明盛村 一日市場の御柱。頂端のお松の下に日輪、その裏に月輪あり、下端には復お松と、割竹に五色の紙を附けた柳花を幾本もさす。その間に張子の赤い陽物を附ける。
水屋の大柱に掛けられた十八筋のスゲ縄と馬の沓 信州北安曇郡北城村 蕨平 101 農家の門口に出したオンベの紙片 信濃東筑摩郡洗馬村 下平
大黒柱に掛けられたスゲ縄、馬の沓と一諸に結へられた木は鎌の柄、右手にあるのは成環   信州北安曇郡北城村 野平 102 甲州西八代郡上芦川村 荒井原の御神木 傍らに猿田彦大神、天細女大神の幟が立つ
鋤や鍬柄をさした釜神様 越後中魚沼郡秋成村見倉
昭和十六年
103 甲州西八代郡上九一色村梯 猪之村の「やなぎ」
釜神様の神体 越後中魚沼郡倉成村 西田尻、
昭和八年頃
104 甲州東山梨郡塩山町 上塩後の「お山」
釜神様の神体 越後中魚沼郡中深見村 源内山、約百年前の製 105 甲州南都留郡船津村のお神木
平釜 上州利根郡片品村 戸倉 106 甲州南都留郡河口村の御神木 左は同村下町の、右は中町のもの
「蟹の年取」 信州小郡塩川村
戸口の壁に刺したもの
107 伊豆田方郡錦田村 中山新田のオンベ 右は前景、左は中央部
10 水屋小屋の外飾に附けた「おやす」 信州上伊那郡伊那富村今村、松の代に栂の枝が用ひられてゐる。中沢厚氏撮影 108 伊豆田方郡錦田村 笹原新田のオンベ
11 「お松曳」に曳いた外飾の集積 甲州北都留郡丹波山村丹波 109 相州松田町 神山のオンベ
12 「松小屋」 相州足柄上郡吉田島村 高河原 110 悪魔払の獅子頭 相州足柄上郡北足柄村瀬戸、サイの神の小屋前にて
13 「松小屋」の内部 相州足柄上郡桜井村 高河原 111 悪魔払の一行 相州足柄上郡上秦野村菖蒲の農家にて、古西為郎氏撮影
14 お田植 甲斐東山梨郡加納岩町、下神内川、中沢厚氏撮影 112 三九郎太夫の木偶 松本市蟻ヶ崎、1/4大、上半身に白粉を塗る
15 大小の丸団子の外に俵・鼓・芋・初蕈・亀・達磨・絲瓜・繭玉等の形物を作りそれに蜜柑を添へた繭玉 相州箱根 小涌谷 113 三九郎太夫の木偶 松本市澤村
16 繭玉の団子と吊し菓子をつけた繭玉 上州新田郡強戸村菅塩、後方に立て掛けたものは「十六花」、根元に寄せ掛けたものは「粥掻棒」 114 三九郎太夫 松本市放光寺、高さ一尺〇八分、幅四寸五分
17 将軍木の枝で作った「削り花」を添へた団子の木の一部 相州箱根 蘆の湯 115 神主三九郎の木偶 松本市外、本郷村大村、高さ一尺〇五分
18 ミズキの大木に刺した丸団子に餅を切って蠶の蟲を添え、種紙の袋を結び付け、穂のついた稲を吊した団子の木 甲州北都留郡丹波山村 保之瀬 116 松本市伊勢町の道祖神祠と木偶
19 いぼたの枝に「花」と「俵」とを刺した「団子ばら」 甲州東山梨郡西保村 中村 横道 117 信州大町に見出した三九郎の木像 高サ左九寸三分、右一尺一寸二分
20 箙(えびら)にミヅキの枝を刺して作った繭玉 信州下高井郡平穏村沓野 118 道祖神と子供達に誤認されてゐる三九郎の木像 北安曇郡平村、高サ左九寸五分、右一尺一寸二分
21 「稲花」 信州松本 119 正月山の神に献じた弓と矢 信濃東筑摩郡岡田村 塩倉
22 信濃北安曇郡北城村の「若木様」 120 山神祠に献じ弓、箭、的その他 甲斐南巨摩郡曙村矢細工
23 前図の一部、特に稲の穂を示す、右手の細長いのは餅の粟穂 121 山の神に奉納した「おこじ」の小絵馬 上州利根郡片品村
24 柳の枝に餅をつけそれが枝垂れるように結び合せた「稲の花」 信州更級郡日原村 置原 122 山の神に捧げた掛の魚と白餅 相州足柄下郡片浦村江ノ浦
25 「稲の花の枝端」 信州小縣郡塩川村石井 123 山の神の祭典に掛ける軸 相州片浦村江ノ浦、山の神は怖ろしい神だといふ處から女神といひ乍ら男神に描く
26 二た組の俵 甲州北都留郡丹波山村 124 巻藁 信濃北安曇郡北城村
27 二十三夜塔に捧げた俵と稗穂 甲州北都留郡丹波山村 保之瀬 125 恵比寿様に上げた年取の鰤の頭と小正月の繭玉 信濃北安曇郡北城村
28 粟穂と稗穂 甲州北都留郡丹波山村 126 晦日に作った「稲の花」 信濃更級郡大岡村 川口
29 ミヅキの枝で作った肥塚棒 上州利根郡片品村 戸倉 127 焼かゞし 甲斐西八代郡大同村黒澤、モミの枝に鰯の頭をさす
30 縄で結んだ粟穂稗穂 信州北佐久郡望月附近 128 鬼の目 同右、竹竿の先に「手すくひ」を附けたもの
31 上図と同形式で、小口に数字を記すもの 信州下高井郡平穏村沓野 129 二月八日の目籠と白水、目籠にも戸口にも柊の小枝を刺す 伊豆修善寺町益山
32 竹の枝にニハトコを刺して作った粟穂と稗穂 東京都板橋大泉町、
高橋文太郎氏撮影
130 柊を刺した目籠を被せた白水 伊豆田方郡下狩野村加殿
33 物作 上州戸倉 131 帳面を持った道祖神 伊豆稲取町 東
34 成環・萬物作・スゲ縄・釜柄・馬の沓 信州北安曇郡北城村 野平 132 帳面を手にする道祖神 伊豆田方郡中大見村柳瀬
35 物作の紙札 信州北安曇郡北城村 蕨平 133 厄病神だとも謂はれる道祖神 相模愛甲郡煤ヶ谷村金翅入口
36 道具の年取 信州北安曇郡北城村 野平 134 道祖神へ藁馬を曳いて来た子供 信州小県郡長窪古町
37 道具の年取 信州北安曇郡北城村 蕨平 135 「馬曳」の日に道祖神へ曳く藁馬、左のは餅を入れた一駄の
苞苴をつけるもの、右のは荷を皆下ろして子供の玩具となったもの
同上
38 削り掛の一種 信州北安曇郡北城村 幸田 136 山の神の木像 陸中和賀郡沢内村 川舟、高さ約九寸五分、高橋文太郎氏撮影
39 繭玉の木に挿す削り花 伊豆田方郡中大見村 梅木 137 十二様の石像 上野利根郡新治村 赤谷 富士新田、高さ一尺
40 道祖神に捧げた「だいの小こんごう」 相州中郡南秦野町今泉 138 十二様の石像二体 上州利根郡東村 追貝、右のもの高さ五寸余、無銘、左高さ八寸半、承応三年甲午と刻む
41 「十六花」 武州大里郡秦村葛和田 139 十二様の木像 上州利根郡片品村、東小川、一対の着色像、男神高さ八寸半、女神高さ八寸
42 長大な「十六花」の一部 武州児玉町 140 十二様の石像 越後南魚沼郡神立村 芝原、高さ一尺三寸幅九寸半
43 道祖神に捧げた三段の「花」 武州児玉郡丹荘村阿保 141 十二様の木像 越後南魚沼郡三俣村、男神九寸半、女神九寸
44 二段に掻いた削り花 武州児玉郡秋平村秋山 142 十二様の座像 信州下高井郡堺村 秋山 小赤澤、男神八寸半、女神八寸
45 十六花と十六玉、達磨の上に竝ぶ幣は七社様に捧げたもの 上州新田郡強戸村上強戸 143 十二様の木像 越後中魚沼郡田澤村 倉下、赤く着色、男神高さ約一尺五分、女神高さ一尺余
46 恵比寿棚に結んだ十六玉 上州新田郡強戸村菅塩 144 十二様の木像 同郡中條村 山新田、男神高さ九寸六分、女神高さ八寸三分
47 十二・十六 上州勢多郡大胡町上大屋 145 十二様の掛軸 信州下高井郡平穏村
48 高男と苧蒔 信州北安曇郡北城村 菅 146 地神塔 横浜市長津田町、慶応四戊辰載仲春吉日と刻む、高さ六尺一寸
49 十二月 信州北安曇郡北城村 蕨平 147 「天社神」と彫った地神様 相州中郡南秦野町川原淵
50 小正月に道祖神に供へた三九郎の人形 信州北安曇郡北城村塩島 148 角柱石の地神塔 相州中郡比々多村 神戸 木下霊神境内、高さ一尺九寸、正面に埴山姫神、右に大已貴命、左に大日霊神、次に倉稲魂命、次に少彦名命、次に文政四年辛已二月吉日と刻す
51 九郎の人形二種 同村細野 149 竪牢地神の画軸 相州足柄上郡南足柄町 苅野 象ケ入で地神祭当日使用のもの
52 三九郎の人形三種 信州北安曇郡北城村 150 疫神送りの藁人形 羽後雄勝郡皆瀬村貝沼、
松本善二氏撮影
53 夏秋の候まで残された三九郎人形 信州北安曇郡北城村細野 151 吊し味噌 信州北安曇郡陸郷村
54 おつかど棒」一名門の道神 甲州丹波山村丹波 152 吊し味噌 甲斐巨摩郡増富村 黒森、
中沢厚氏撮影
55 俵と粟穂(左)とを又俵と稗穂(右)とを背負った「おつかど棒」 武州西多摩郡小河内村川野 153 吊し味噌 信濃東筑摩郡里山辺村 兎川寺
56 簡略になった「おつかど棒」 武州秩父郡白川村日向 154 吊し味噌 信州北安曇郡陸郷村
57 粟穂だけを杭に結びつけた「おつかど棒」 (同上) 155 「苗大大根」の敷き込 相模愛甲郡荻野村
58 道祖神に献じた「脇差」 上州北甘楽郡西牧村南野牧 156 苗間に立った案山子 信州下高井郡平穏村、水口には粥掻棒が立ち、又一旦ぬるめた水が流入するやうにしてある
59 門入道一種 伊豆田方郡中狩野村雲金 157 苗代に立てた色々のかゞし 東京都世田谷区喜多見
60 門入道一種 相州足柄上郡三保村玄倉 158 代拵と田植 上州勢多郡敷島村 猫
61 門入道一種 相模足柄上郡三保村 中川 箒澤 漆原俊氏撮影 159 「ナーバ流し」 常陸行方郡太田村
62 二対の道祖神様 甲州北都留郡丹波山村 160 虫送りの人形 陸中稗貫郡内川目村、
田辺和雄氏撮影
63 紙の衣装を着た一対の道祖神 信州下高井郡野沢温泉 161 相州秦野町某家の盆棚 日蓮宗なるが為め背後に題目の軸を掛けてある
64 太郎サン次郎サン 信州東筑摩郡洗馬村上小曾部 162 相州秦野町盂蘭盆会の「辻」 古西為次郎氏撮影
65 粥掻棒 伊豆修善寺町堀切 山田、カツノキ製、長さ一尺二寸 163 「辻」に線香を立てたもの 相州秦野町
66 同右 信州川上村大深山、
中沢厚氏撮影
164 風神の石像 越後南魚沼郡湯澤
67 「田の神」 甲州塩山町千野下組、カツノキ製、長さ約七寸、径二寸半 165 風の三郎様 越後仲魚沼郡秋成村 上結束
68 「粥箸」と呼ばれる粥掻棒 信州下高井郡平穏村沓野、
長さ一尺二寸五分
166 弓矢を手にた案山子 信州上田で案山子品評会に出品のものといふ、森谷清三寄贈
69 縄で結へた粥掻棒 甲州東山梨郡加納岩町下神川、長さ七寸半、径二寸余、
中沢厚氏撮影
167 大麦の畑に立てられた案山子 信州上高井郡都住村
70
「だいのこんごう」と呼ばれる粥掻棒
甲州芦川谷の粥掻棒(田の神)
 
※同図番号

楔で頭部を連絡した粥掻棒

 ※同図番号
伊豆田方郡韮山村中臺
西八代郡下九一色村高萩、長さ五寸八分、周四寸六分、
中沢厚氏撮影
甲州西山梨郡相川村上積翠寺東組。長さ四寸三分
中沢厚氏撮影
168 西瓜畑に立つ案山子 相州高座郡座間
71 協働の苗間水口に立てた二対の粥掻棒 信州下高井郡平穏村 169 西瓜畑に立つ案山子 相州高座郡座間
72 粥箸 信州北安曇郡北城村蕨平、
長さ九寸
170 胡麻と落花生の畑に立つ案山子 相州伊勢原町
73 嫁祝棒 飛騨高山町山彦洞発売品 171 甘藷畑の案山子 相州伊勢原町
74 大宰府の鶯 高さ三寸三分、径二寸三分 172 稲田に立てられた案山子 甲州東山梨郡日川村歌田、
中沢厚氏撮影
75 嫁の尻祝の一隊 相州中郡大根村下大槻 173 長茄子に鶏の羽毛を植ゑ金線で吊り下げた案山子 甲州東山梨郡山梨村、
中沢厚氏撮影
76 婚儀のあった家に一月十四日に贈る祝ひ物 相州中郡高部屋村日向 174 養蚕の網を竿頭から下げた案山子 甲州東山梨郡綿塚村、
中沢厚氏撮影
77 祝儀に携へて歩く道祖神の石像 信濃諏訪郡四賀村、
男神高サ八寸余
175 鳥を吊した案山子 甲州東山梨郡綿塚村、
中沢厚氏撮影
78 諺文を刻んだ道祖神の碑 信濃南安曇郡豊科町本村 176 鶏の翼と足とで作られた案山子 甲州東山梨郡綿塚村、
中沢厚氏撮影
79 丸彫単座の道祖神 伊豆田方郡中大見村冷川 177 用済にならんとする案山子 信州小県郡長窪古町
80 祝言の容を刻んである道祖神 信濃南安曇郡安曇村島々 178 案山子最後の御奉交 信州東筑摩郡朝日村 古見、 中沢厚氏撮影
81 丸石の道祖神 甲斐北巨摩郡旭村北原 179 ニユウボッチの上に載せた十日夜のお供へ、傍の児童の携へるは藁鉄砲 上州利根郡白澤村 岩室
82 石のお帳屋に入った丸石の道祖神 甲斐東山梨郡塩山町千野上組ノ上 180 藁鉄砲を手にする子供達 上州利根郡白澤村 岩室
83 円錐形に建てた松小屋 相模足柄上郡吉田島村榎本 181 藁鉄砲で地面を叩く子供達 同上
84 横長に建てた松小屋 相模足柄上郡福澤村儘下 下櫓 182 稲の「法印干」 上州利根郡川場村
85 完成した三九郎の小屋、中央は大三九郎、前と左右のは小三九郎、画中にはないが傍に呼三九郎もある 信濃東筑摩郡本郷村稲倉 183 穀類のハデ掛と大豆のニユウ、中央に掛けてあるのは蜀黍と粟、他は稲 越後南魚沼郡神立村
86 建設中の三九郎の小屋 信州東筑摩郡本郷村 184 門松の柱の根元に寄せかけて結び付けた鬼打木 上州利根郡片品村 戸倉
87 注連飾やヤスで飾った道祖神の石塔 信濃東筑摩郡島内村町村 185 年棚 信州松本市澤村
88 道祖神の上にヤスで屋根を葺き、注連飾で樽を作って献じたもの 信濃北安曇郡曾染村花見 186 年棚 上州新田郡強戸村 上強戸
89 杉葉で造った道祖神の御帳屋 甲斐東山梨郡大藤村下粟生野 清水 187 年棚 同上、但し右端に「おみたま」を載せる
90 注連飾で小屋を造り門松を立てた道祖神 駿河駿東郡泉村茶畑瀧頭下組 188 年棚の一端 上州新田郡強戸村 菅塩
91 外飾で道祖神の上に造った一時的の小屋 相模中郡比々多村白根 高林 189 年棚 上州勢多郡大胡町 上大屋
92 相州大磯の海浜に立てられた「さいと」 190 「おみたま」 信州松本
93 火を掛けた小三九郎 東筑摩郡本郷村 御才山 本村 191 「おみたま」 上州新田郡強戸村 上強中
94 一月十四日の団子焼 相模津久井郡内郷村 寸澤嵐 192 棒注連 上州新田郡強戸村
95 信州野沢温泉の燈籠 193 農具の年取 甲斐北都留郡大目村矢坪
96 野沢温泉片桐孫九郎邸内の道祖神祠、中には八衢比古神・八衢比買神道祖神と記した木札がある。
97 櫓の建設 信濃下高井郡野沢温泉
98 完成した火祭の櫓 信濃野沢温泉、
矢部豊次郎氏撮影
12月、「旅と伝説 第16巻第12号」に「民俗学と写真」を寄稿する。
『写真文化』野九月号(第二十七巻第三号)に、民俗学の大家と写真界の達人と会合して、民俗と写真について語り合った座談会の記事が載ってゐる。民俗学者でもなし又写真家でも勿論無いが、その何れにも多少の関心を持ってゐる私は、之を興味と期待とを以て読んで見た。民俗学者と写真家との接近は、その何れにとっても、甚だ慶賀すべきことに相違ない。だがこの会合は初めての故か、結局これぞといふ目に立った結論に到達した摸索もなくて、何やら物足らずに終了してゐるやうである。/(略)斯くて学術写真道の樹立に向って萬進するならば、政府と雖(いえど)もその必要を認めて、資材その他の配給に力を借スであらうし、学術写真家が一般アマチュアと一視同仁的に扱はれて必要な資材の缺乏に喘ぐ苦悩は漸次に解消するに至る事、期して待つ可きであらうと信ずる者である。学者の奮起を望むこと切である。
12月、神奈川県郷土研究会編「郷土神奈川 2巻12号通巻24号」に「飯泉の公孫樹と道祖神 p75〜77」を寄稿する。
 相模の道祖神の研究に指を染めてからもう十年餘りになるが、幾分眞劒にやり始めたのは、昭和十年の秋十月煤ヶ谷から七澤あたりを探り、十一月に厚木附近を少し許り歩いたのに始まったと謂ってもよいと思ふ。その翌年一月には、中郡三之宮の道祖神祭に列席し、秦野郊外今泉の岐神を訪うてから、更に長驅大磯のサイト焼を見る機會を得た。尋で三月の初旬、秦野町の漆原君や古西君の肝煎で、下大槻に嫁の臀祝が特に催うされたのに参加した折、幸いにも松田の北村君に面晤することが出来、その際西秦野村の窪ノ庭に、異様な塞の神のあることを耳にしたので、翌日之を探ることを決心した。然し前日の雨と雪に道路は泥濘甚だしく、一方地理に通曉せぬ結果、餘期した石像を探り當てることは出来なかったが、偶然にも永坂庭で、手をつないでゐるものを一基發見した。その前秦野町やその近郊に塞の神を探し求めた時や、愛甲郡の經驗では、「拱手」又は笏を持つやうなもの許りで、松本平に見るやうな、握手形式のものには更に出會はなかった。(略)  (理学博士 民俗土欲研究家)
   長驅(ちょうく)「:馬・車などで遠くまで馳(は)せ行くこと。転じて、軍を率いて遠くまで攻撃をかけること。
〇この年、田部重治・熊沢復六編「北アルプス」に「御嶽から乘鞍まで」を寄稿する。pid/1043775
1944 昭和19年 61
1月、「旅と伝説 第17巻第1号」に「雙立の石造と道祖神」を寄稿、現相模原市上大島地区の「念仏供養塔」と彫られた道祖神と小字稲荷林にある僧形合掌型の双立像が紹介される。
   冒頭の部分/二十年程前には、一顆の石に二体の像を刻んだものを見て、甚だ以て迂闊な話だが、驚愕の目をみはったものであった。それまでは、地蔵尊にせよ観世音にせよ、一人立のしか知らなかったし、又道祖神は丸い石だと許り思ひ込んでゐた。ところが今日では、双立の像を見さへすれば、何によらず道祖神のやうに思へて仕方がない。五六年前、相模愛甲郡を踏査中、玉川村七澤の小字上谷戸で、異様な雙立像を見出した。(略)

 苗場山頂巨巌に立つ石像
P10上段より/是等とは趣の変った双立像が越後苗場山頂の巨岩の上に、伊米(いめ)神の銅像に竝んで立つのを見た人も少なくはないことであらう。高さ僅々六七寸程の石像で、二体とも合掌して坐するらしく見えるが、彫刻は甚だ稚拙で、着衣は不明であり、何の像とも判明しない。場所柄から見て、之を道祖神だとは推定しにくいが、若し山麓の村落内にでもあったとしたら、誰しも多分はさう考へることであらう。陸地測量部の地図には、爰に「伊米神祠」と記してあるが、古来神祠らしいものはなくて、唯巨巌が在るのみである。
 それはそれとして、この双立像は一体何であらうか。墓石や普通の供養塔ではないことも確かである。其処で山頂の遊仙閣について尋ねて見るに、是は両部大日であると話して呉れた。姿は到底大日如来に似ても似つかないが、両部大日として祀るのなら、判らぬこともない。そしてこれは、彼の七澤の上谷戸の石像を解決するのに、ヒントを与へて呉れたのである。(以下略)
1月5日甲斐猿町藤崎(旧大原村)にて、穀びつの上に飾られた「鍬神様」の情景を撮影する。
             昭和22年 「農耕と園芸・新春の豊作祈願」より
○この年の1月、甲州黒平地区の民俗調査を行う。 日時について検討要 2014・9・24 保坂
二人の師/「弧影の人」は二人の師についてふれられている。(略)民間伝承の編輯者である橋浦泰雄氏は、特に二人の師を語る人であったが、吾々は孫弟子として気にはかけなかった。(略)山梨の民俗採集に二回程、橋浦氏は武田久吉氏と共にきており、民間伝承の山梨における読者は皆参加したのであるが、戦時中のことであり私服刑事などもついてきており、御岳の黒平の採集の時には下黒平の鉱泉宿に泊まったのであるが、武田久吉氏は夕食の時に敗戦論を盛んに語り宿の主人が激怒し、遂に武田久吉氏は一人平然として宿泊をとりやめ夜晩く原始林のような上黒平から樹海の路を辿り上黒平に出て牧丘町まで一人で歩いてゆかれたのであるが、その事は大きな驚きであった。後に柳田、折口両師に橋浦氏について尋ねたのであるが、両氏共に柳田先生に対しては、決して迷惑をかけるような事はしない人であると話しておられ、(略)  昭和57年・大森義憲著「結社と詩形」より部分
             ※上黒平については著書の再確認済 経由については再考を要す 2015・10・29 保坂 
資料 「何故、黒平地区の民俗調査を行ったか」についての考察
黒平温泉 金桜神社から約六キロ二時間、信玄の隠し湯として有名で、温泉から約二十分にして橡(とち)の大木夫婦樹のところに出られる。幹の空洞中に性器が祀られてあり、子授として尊崇されている。この村に今も遺る能三番は余りにも有名である。       S28・10 「甲府の今昔 躍進の観光面 P93」より
1月、柳田國男先生古希記念文集「日本民俗学のために」に「形態的に見た道祖神」の稿を纏める。
甲 自然石 一、 桃形の石 (略)前記五日町の北に当る藪神村九日町の字猫道に在り、大きな杉の根元に祀られて、前に鉄製の鳥居だとか、蝋燭など置いてある。石の高サ約六〇糎、周囲一米四〇糎を算し、表面平滑で無文。(略)
二、 丸石 (略)又丸石は女性を象徴するものであるから、道祖神は女性の神に相違なからうなどいふ憶説も現れる。だが丸石を道祖神だとする甲州では、それを女性だとも男性だとも、厳密に考へることはしない。それのみならず、西八代郡の上芦川村などでは、旧正月十四日の道祖神祭の当日、子供が昇く神輿の中に、男女一個づつの石を神体として容れるが、男神の分は丸石で、女神のは薄い楕円形の石である処を以て見ると、丸石は寧男神を意味すると考ふ可きである。それなら、何故丸石を道祖神とするかといふ問題が残るが、道祖神以外にも丸石を祀るものがあるかどうかを、一とわたり調べて見ることも必要と思はれる。今迄に逢着した例を挙げると、邸神、石尊、子ノ神、山神、秋葉山、大神宮、午頭天王、疱瘡神などとして、丸石を祀ってあるが、道祖神以外では邸神が一番多い。邸神といふ名の下に祀られるものは、『山村生活の研究』にも述べてあるやうに、千差萬別であるが、甲州では稲荷が多いかと思ふ。(略)
三、 楕円形の石 道祖神として祀られる丸石には、時々不恰好なのがあって、中には扁球形のさへ見るが、それとは異って竪に伸びた楕円形又は俵形とでも形容す可き石の置かれることもある。 (略)
四、 凸凹若しくは縞のある石 (略)縞模様のある石も甚だ異様な観を呈するが、その或者は陽石に類することもあるし、見様によっては陰石にも類する。此種の石は多く相模足柄上郡の東北部に産出するが、信州東筑摩郡入山辺村中入字三反田にも、斯様な石が祀ってある。(略) 
五、 陽石 (略)天然陽石の形の良いのは、信州東筑摩郡里山辺村新井にあるもので、その左側に置かれた天然陰石と共に、注目に値するが、この陽石は見る方向によっては形が宜しくない。昭和十六年早春頃、村民は特に石垣を築いて石を置き直した時、誤って側面を正面に向けてしまったので、現在では甚だ見苦しい姿となってしまった。(略)天然陽石には形の良いものは少ない。中には陽石と見るには可なり骨の折れることもある。比較的良いのは相州津久井郡内郷村若柳や、湘南村下河原等に見られるし、又やゝ劣るが中郡北秦野村菩提、新田(あらた)の下にも一基ある。其他の例は拙著『道祖神』に譲ることゝし、爰には写真を揚げることをしない。
六、 陽石類似 (略)
七、 陰石 (略)
八、 趺坐形の石 人間が蹲居すると謂はうか、それとも趺坐すると称した方が当るかと思はれる自然石は、勿論希少なものに相違ないが、それでも絶て無くして僅に存するといふ程罕なものでもないらしい。甲州日下部町小原西分には、斯様な石を石尊として祀ってあるのを見た。(略)、
九、 異形な石 (略)
乙 半自然石  自然石に加工したもの (略)
十一、 石棒  石棒又はその破片が出土した場合、斯様なものを製作しない大和民族はそれに対して驚異の目をみはり、遂にはそれを神又は佛として祀った例は甚だ多い。(以下図に纏める↓) 
名称 所在地 名称 所在地
笠石 石尊 久留里町
蕈(きのこ)石 十一面観音 児玉郡共和村上眞下
麻羅石 御嶽権現 児玉郡秋平村秋山
神裸石 野州三和村板倉 午頭天王 児玉郡若泉村渡瀬
棒ノ神 秩父 オサンゴウジ様 甲斐西八代郡大塚村
キンギョウ様 相州津久井内郷村 御彌祿様 南都留郡東桂村夏狩巣
子ノ権現 津久井郡中野町
甲斐北都留郡初狩村
諾冊両神 谷村町
杵地蔵 南巨摩郡曙村 不動尊 三吉村東光寺
杵佛 北都留郡七保村奈良子 御聖様 三吉村日尾組
第六天 棡原(ゆづりはら)村小伏
多摩郡東村山村野口
雁田八幡 信州麻績(をみ)町
道鏡様 上総茂原町 中央 天照皇大神宮
右 八幡大菩薩
左 春日大明神
相州愛甲郡荻野村
(↑より)枚挙に遑がない。さて石棒が道祖神として祀られるとか、又は道祖神に供へられた例二三は、拙著『道祖神』に揚げて置いたが、其等は何れも相州からで、他にはその例が少ないかと思ふが、爰に第七図として揚げるものは、信州東筑摩郡からのもので、これ亦橋浦氏の著書に漏れてゐる。この外諏訪郡本郷村立澤にも、石祠の中に石棒を納めて、道祖神として祀ってある。
資料研究:上図の名称一覧については、昭和13年 8月5日、麹町郵便局より愛国国債売捌に関する書状が送られた用紙の裏面に同様の記載がありました。何時頃から記載されのか分かりませんが、アルバム写真も残されており、今後の研究課題といたしました。2015・11・2 保坂記
丙 人工のもの 十二、丸石 (略)
十三、陽石  東京附近で有名なのは、相州相模原町田名堀ノ内中村のと上村のであるが、形の整ってゐるのは上村のであり、刻銘のある点で面白いのは中村のである。名に曰く、
道祖神舊在此去離 位十間許松老椎古
森為一叢今茲甲午 春縣道修築伐樹平
途因遷於是丘丘面 雨嶽帯湘川風花雪
月四時共宣蓋如有 神意而轉徒者然書
於石以告來者
  明治二十七稔神嘗祭石三日 耕餘義熟長 正七位松岡利紀撰
             藍 江藤猷書/発起 中村講中
 石は高サ九六糎、茎周一米を算する。(以下 略)
 詳細については昭和17年3月、「民族文化 3巻3号 田名の道祖神」参照のこと。
十四、陰石 (略)
十五、角石 (略)
十六、石祠 (略)
十七、文字を刻むもの (略)
十八、文字と神像と組合わされた (略)
十九、双身像 (略、双立像は、)その後屋外にもこれに似たものを発見しtが、その一は伊豆田方郡田中村白山堂にあり、高サ五〇糎の握手像であるが、惜しいことに頭部がひどく痛んでゐる。その他では甲斐西八代郡久那土村三澤お日向にある同じく握手形のもので、これは多くの石地蔵のやうに、首が無い。又中澤君の報告によると、甲府の西方に当る大宮村山宮の上組には、矢張り頭部の破損したものが二基もあるといふ。(略)
二十、単身像 (略)伊豆の道祖神は一と通り調査を了り、東海岸のものは昭和十五年十一月(略)に、西海岸のものは昭和十六年四月(略)に、又中央部の一小部分は昭和十八年一月(略)に報告を発表したが、その続稿発表の機会を与へずに、同誌は廃刊してしまった。その為中央部の一番広大な部分は、未発表なまゝ篋底に蔵するの外なく、この方面の研究家に不便を感じさせて位るのであるが、事態は容易に好い方に転換する見込が無ささうである。(略)
  注意)この論文は、実際には昭和19年1月に完成されていましたが、戦争等により延期となり刊行されたのは昭和26年で、博士は
        この時の状況を新たな追記として書き残しました。 2015・10.20 保坂記
〇この年の春、日発が尾瀬沼取水計画を発表する。
(略)これは、尾瀬沼から尾瀬ヶ原を経て只見川(日本海)へ流れる沼尻川の河口をせきとめて沼の水位を上げ、沼から利根川水系の片品川(太平洋側)源流のナメ沢へ、トンネル(八百五十b)で水を分水し、七ヶ所の発電所に送水、渇水期の用に供するというものだった。   出典 「自然保護NGO半世紀のあゆみ P4」
月、北原鉄雄編 アルス社「写真科学 第28巻3号」に「日本の樹木・生態觀察と寫眞記録に就いて」を寄稿する。   また、同号に岡田喜一が「海底の植物」を寄稿する。 pid/1528914
4月10日、牧野富太郎が「続植物記」を刊行、「正称ハマナシ誤称ハマナス」を記述する。
5月10日、「山形県飽海郡吹浦村 國幣中社 大物忌神社社務所」が発行した「國幣中社大物忌神社略記 訂正5版発行」の中の項に「▽高山植物」が掲載される。
「國幣中社大物忌神社略記」の初版は昭和十年二月三日に発行されていますが、内容未確認のため、ここ(年譜)では、念のため昭和19年としました。また、執筆者については記載がなかったので、直接武田博士の記述と関係があるかどうかは分かりません。しかし、大正13年8月に当地を御調査をされていること、また、御遺族の林家にも「國幣中社大物忌神社略記 訂正5版」が保管されていたことなどを考慮して掲載をいたしました。
   参考 てうかいふすま(チョウカイフスマ) 学名 Arenaria merckioides Maxim. var. chokaiensis (Yatabe) Okuyama
                       再調査要 2015・5・24 保坂記
5月16日、長野県下水内郡上ノ原地区に於いて正月行事の採集調査を行う。
                                             正月行事採集帳 武田久吉聞書 山村民俗の会」より

5月17日、長野県下水内郡小赤沢・上結東地区に於いて正月・釜神行事の採集調査を行う。
                                           「武田久吉聞書 山村民俗の会」より

8月、空襲激化のため、「民間伝承」が休刊となる。
8月20日、小島烏水が「太陽出版社」から「山岳文学」を刊行する。
資料 「本州中部・陸奥・北海道の深山幽谷を跋渉したる芸術僧円空」 P281 より
(略)円空を伝へたるもの、伊藤氏以前に於て、探検家松浦竹四郎あり、「東蝦夷日誌」(文久三年)に、円空鉈彫りの観音像図を載す。印文は、前記伊藤氏の写すところと、多少の相違あり。(二十八日は二十六とあり)有珠湾北岸の名所善光寺は、北海道第一の舊寺にして、寛文六年円空が再興したるものと伝へらる。(武田久吉氏「登山と植物」参照)(略)
〇この年の夏、尾瀬沼取水工事始まる。
(昭和19年の夏)登山者の絶えた尾瀬には、朝鮮からの強制連行の人たちがはいっていた。「昭和19年、取水工事が始まったのです。尾瀬沼の水を片品川に落として、渇水期に下流のいくつかの発電所の助けにするということでした。尾瀬が国立公園に指定された翌年の昭和十年、それから十二年と尾瀬ヶ原発電計画がむし返されたのですが、ついに沼で工事が始まったのです。戦争中のことで、私たちには何も言えませんでした。それにしても、工事に使われる朝鮮人の人たちは、可哀そうでした。雪の中の掘っ立て小屋のような宿舎に寝泊りして、長蔵小屋にも食べ物を分けてくれと、よく来たものでした」と長英さんは語る。
                
佐藤充著 「尾瀬 −山小屋三代の記」より
9月14日、長野県下水内郡堺村大巻・前倉地区に於いて正月・釜神行事の採集調査を行う。
                                           「武田久吉聞書 山村民俗の会」より

9月18日、長野県下水内郡秋成村屋・上郷村出浦地区に於いて正月・釜神行事の採集調査を行う。                                             「武田久吉聞書 山村民俗の会」より
11月10日 本山桂川が「日本民俗圖誌 第二巻(行事・婚姻篇)」を東京堂から刊行する。
  
 「道祖神」P58より  サイノカミ
参考 正月行事 (34)・(35)
 第35図は相模(神奈川県)中郡南秦野町で、正月十四日、サイノカミの碑前に供える削り掛けで、この地方ではこれを「ダイノコンゴー」と呼ぶ。(武田久吉氏の撮影による。
        日本民俗圖誌 第二巻(行事・婚姻篇)」より



○、この年の頃(昭和16年12月から20年にかけて
清水長明著「武田先生と庚申塔」から
(略)
相模の探訪中、写真機を携行しているということから、スパイの猜疑を受け、不快な思いをされたこともあったという。日本の自然と生活をこよなく愛された先生をスパイ視するような馬鹿げた時代でも先生は敢然ととして出かけてゆかれた。/するどくめた研究心は、当時の狂乱じみた世情を許すことなく、堂々と歩まれたのである。何度かおききしたことではあるが、戦時中の国策詩人某氏に対しこの、痛烈な非難はいささか はげしいものがあった。「再三警告(神がかりの戦争協力に対して・・・・筆者)を発したが改めないので、交りを断った」とさえいわれた。合理と正確と誠実に反することには ものすごい反撃を加えられたのである。(略)
              庚申 第65号 −武田久吉先生追悼号− より 
○この年、木村陽二郎が、「植物学雑誌58巻688−690号」に「邦産コゴメグサ属植物に就いて Yojiro kimura:De Euphrasia Japonica 」を寄稿、学名に「Takeda」の名のついた「5.トサノコゴメグサ群(Grex.E.Makinoi)ートサノコゴメグサ(E.Makinoi Takeda)四国産;コゴメグサ(E.Iinumai Takeda)伊吹山産 6.タチコゴメグサ群(Grex E. Maximowiczii);伊豆産のイズコゴメグサ(E.Idzuensis Takeda)」を記述する。
    ※昭和18年10月、日本植物学会第11回大会(京都)に於ける講演要旨からの抜粋より「TAKEDA」の部分
〇この年、植物分類地理学会 編「植物分類・地理 : 小泉(源一)博士還暦記念・星野書店」に「ツツジ科植物の小観察」が所収される。pid/1064179 内容確認要 2018・4・2 保坂
  また、同号に「京都帝国大学理学部植物学教室分類研究室史」を所収する。
本邦産キンバイサ属(宮部金吾) シロバナマンジュシャゲの記(牧野富太郎) 新属コクテンギ属(附)日本産マユミ属の新分類(中井猛之進) 朝鮮森林植物病原菌類の研究(逸見武夫) ツツジ科植物の小観察(武田久吉) 中国地方山地帯所産層生銹菌科の種類(平塚直秀) 日本産団子菌と菌生冬虫夏草(今井三子) 支那産ヒメハギ及び其の近縁種(御江久夫) 日本産シネココックスに就て(米田勇一) 日本産ウリ科提要(北村四郎) 日本産サジラン属の分類(田川基二) 所謂北極中新植物群に就て(大石三郎,藤岡一男) 本邦桑属の生態及地理分布(堀田禎吉) 関西の南方系デスミッド(平野実) 日本産リリオデンドロン属化石葉に就て(奥津春生) ミクロネシヤ植物研究資料(細川隆英) 加道坑の泥炭中の花粉及胞子に就いて(正宗厳敬,小早川利次) 本邦産キケマンとその品類(大井次三郎) サリックス・サブフラギリスの正体(木村有香) 帰化植物雑考(久内清孝)科の和名統一に就て(本田正次) 邦産イヌショウマ類の分類(原寛) 日本産コゴメグサ属新植物(木村陽二郎) 稀観書「〓南本草」を読む(石戸谷勉) 苔類記(堀川芳雄) 台湾産ハヒノキ属の一新種(館脇操,吉村文五郎) 数種の日本産カブトゴケ属新植物(犬丸[カク]) 東亜産シャリントウ属植物(古沢潔夫) 日本産カブトゴケ類地衣に就て(佐藤正巳) 邦産スゲ中真正スゲ亜属の節の分類に就て(秋山茂雄) 北支那担子菌類誌略(今関六也) 満洲国内に野生する松属に関する知見(竹内亮) 沖縄産チリモに就て(岡田喜一) 史前帰化植物について(前川文雄) ホシクサ属の一新種(佐竹義輔) ルイジア・テレテイフオリアの本体(津山尚) 日本本土に於ける暖地性植物の分布考察(田代善四郎) 京都帝国大学理学部植物学教室分類研究室史
1945 昭和20年 62
1月6日、南多摩郡由井村長沼・津久井郡川尻村に於いて正月行事の採集調査を行う。
                               「武田久吉聞書 山村民俗の会」より

1月7日、津久井郡三沢村三井・川尻村畑久保に於いて正月行事の採集調査を行う。 
                               「武田久吉聞書 山村民俗の会」より

1月8日、津久井郡佐野川村和田・沢井村中里に於いて正月行事の採集調査を行う。
                               「武田久吉聞書 山村民俗の会」より

7月26日付、牧野富三郎から博士に書簡が送られる。
日課の植物方言の整理の様子報告、オノヲレカンバと思われる小木の葉の標本同封、同定依頼
                          横浜開港資料館  久吉書簡 No1198
9月、戦時下の臨時措置として着工した尾瀬沼の取水工事が中止となる。
    敗戦によって、トンネル工事は350メートルを掘削したところで中断する。 出典 「自然保護NGO半世紀のあゆみ P4」より
10月、白百合学園教官(昭和22年1月迄)
11月12日、GHQは日本政府に対して「美術品、記念物及び文化的歴史的地域、施設の保護、保存に関する覚書」を発する。
○この年、国立公園中央審議会委員   注 委嘱時期について再確認要 2017・2・16 保坂
1946 昭和21年 63
〇3月末、関東水電が大正8年に申請した、尾瀬分水の水利期限が満了となり、許可期限の延長を再申請すると同時に、尾瀬沼からの小規模な分水を申請、尾瀬分水水利権は昭和31年3月末まで延長される。
2月、「翰林工芸 第一巻第二号」に「工芸品とその素材」を寄稿する
3月、「翰林工芸 第一巻第三号」に「工芸品とその素材(二)」を寄稿する
(略)○ 聖徳太子の楮皮の使用を以て、我が邦独持の改良と考へ、それを本邦特産の楮皮に由るものと認める人もあるが、この植物は本邦に自生する確証がなく。支那から渡来したものを栽培するものと認められてゐる点からすると、若し実際太子がその使用や栽培を督励されたとしたら、この植物の渡来もその頃の事と考へることが出来よう。処でゲンに問題となるのは楮をカウゾに充てるか又はカヂノキとするかである。俗にはカウゾに「楮」の字を。そしてカヂノキには「構」を配するが、この両字共にカヂノキの事であり、カウゾには漢名が有るや否や明でない。従って若し朝鮮からカヂを用ひる製法が伝はり、それの代わりに聖徳太子がカウゾを用ひられたといふのなら、それこそ太子の卓見と称す可きである。
 カウゾとカヂノキとは同属に隷するが相似た別種の木で、前者は五米に達し、同株上に雌雄別々の花を着けるのに反し、後者はその二倍の高さに及び、雌花叢と雄花叢とは、別株上に生ずる差別がある。そしてカヂノキは支那諸州に自生するが本邦になく、カウゾは諸方の山地に自生すると共に、又弘く栽培せられてゐる。而も支那には比較的少ない様子であるから、普通に見当たらないため、これぞといふ名称がついてゐないのであらう。
(略)
                           「翰林工芸 第一巻第三号 工芸品とその素材(二) P4」より
4月、「翰林工芸 第一巻第四号」に「工芸品とその素材(三)」を寄稿する
5月、「翰林工芸 第一巻第五号」に「工芸品とその素材(四)」を寄稿する
    
 注 目次では(三)だが、本文は(四)で表示してありました。 2017・4・29 保坂
6月 「翰林工芸 第一巻第六号」に「工芸品とその素材(五)」を寄稿する
6月、「会報 日本山岳会 No135号」に「山の木二ツ三ツ」を寄稿する。
8月、「翰林工芸 第一巻第七・八号」に「工芸品とその素材(六)」を寄稿する
8月、「あんとろぽす No 2
 特集 近代日本文化黎明期に貢献せる外人」に「アストン氏を訪ふ」を寄稿する。また、同号に木村毅が「アーネスト・サトウの遺片」を寄稿する
アーネスト・サトウの遺片
薩道の事ども
チェンバレンと日本言語学
E・S・モースと日本動物学
木村 毅
新村 出
金田一京助
谷津直秀
モールス先生と日本考古学
アストン氏を訪ふ
ガウランドの古墳研究
シーボルト父子
甲野 勇
武田久吉
後藤守一
清野謙次
8月、「民間伝承」が復刊する。
9月、「あんどろぽす 特集・人間と饑餓 No3」に「カロリーと澱粉」を寄稿する。
 明治以来永いこと欧米に遊學し、その後再三彼の地に漫遊して、元兇ヒットラーやムッソリーユにも面接したことを、自慢話の一として居られた、元東大農學部教授三宅驥一博士によると、世界で最も優秀な民族はユダヤ人であり、それに次ぐは日本人だといふことであるが、戦争中と違って、敗戦後の今日では、種々な面に於いての虚僞や歎瞞をかなぐり捨てゝ、誰も彼も天眞爛漫の姿を他人の前にさらけ出してゐることゝて、その優秀な加減は別段詳述説明するを要さないことであらう。/さて滅金もスッカリ剥げて、御互に赤裸々になった今日、徒らに悲観許りしてゐたり、又は多分勝った方で何とかして呉れるだらう位な、安易な考を以て、棚ボタを夢見るのは「優秀」な國民の採るべき手段方法ではないから、宜しく勇往邁進して、地上の安樂土を現出するやう、一致協力しなければならないこと論ずる迄もない。處で、以前は何をするにも、先立つものは金であったのだが、當今では金も彼の緊急措置令に縛られて、不自由極まりない有様だが、それに増しても不自由なのは、食物の問題である。生物である人間は、日々十分な食物を摂取しなければ、衰弱の結果死ぬより外致方がないのは、明々白白の理である。(略)この危機(食糧難)から各自を助けようと、種々の方法が採られて居るが、足を擂子木にしてデモ行進とやらをして見た處で、又残り少なのエネルギーを浪費して、聲を大にして待遇改善を叫んで見ても、結局勞して効なきことであるから、それよりも寧ろ直接食物を獲得するのが一の手である。それも暴逆飽くことを知らぬ「農家の皆様」にペコと頭を下げ、その上無け無しの服装その他を提供して御機嫌をとり結び、やっとの思ひで雀の涙汁程の少量を手に入れても、運が惡いと、法規とやらに反するとかで、我が家に帰り着かぬ内に、翼のない鳶に攫(さら)はれてしまふ恐れなしとしない。(略)
10月、「翰林工芸 一巻九号」に「工藝品とその素材(七) 」を寄稿する。
    考考  号数(欠)再検討要 2014・3・13→2017・4・29 (表記なしの)併用号あったため 確認済 
          学習院女子大学図書館 高橋新太郎文庫 箱Noー0008 5巻3号までの合本あり
 保坂記 
工藝品とその素材(一)〜(七)までの主な内容の一覧
翰林工芸
S21年2月 第1巻第2号 工藝とその素材
翰林工芸(二) S21年3月 第1巻第3号 工藝品とその素材(二)
翰林工芸(三) S21年4月 第1巻第4号 工藝品とその素材(三)
翰林工芸(三) S21年5月 第1巻第5号 工藝品とその素材(四)
翰林工芸(五) S21年6月 第1巻第6号 工藝品とその素材(五)
翰林工芸(六) S21年8月 第1巻7・8第号 工藝品とその素材(六)
翰林工芸(七) S21年10月 第1巻第9号 工藝品とその素材(七)
12月、日本山岳会会長(至昭和26年4月)  
     注意:日本山岳会HP 「歴代会長」の項では「1948−1951」
           日本山岳会HP 「日本山岳会のあゆみ」の項では1946年(S・21) 新会長に武田久吉就任」

       
林家「武田久吉 年譜」では「昭和21年12月日本山岳会会長(至昭和26年4月)」  就任の時期再検討要
12月、「山 日本山岳会々報 No137」が刊行される。
日本登山界の再編成と日本山岳会の新しい出発/
本会組織の拡大(本文省略)
日本登山協会との関係(本文省略)
組織の拡大と支部建設(本文省略)
他の山岳団体との関係(本文省略)
当面の事業の重点(本文省略)(松方)
12月、「日本の自然美」を「富岳本社」より刊行する。

日本の自然美
 装丁:恩地孝四郎
資料 「岳人だより 日本岳人全集月報F」より、
   「植物学者としての武田先生 館脇操」から、原文の一部を掲載しました。
<前略> 
 あまり人に知られていないが、戦後の人心にフレッシュないぶきを与えようと世に送られた本がある。昭和二一年一二月一五日、富岳本社発行、「日本の自然美」(定価一八円)。日本の実力を知ると共に、反動的に日本の美点を瓦礫のごとく捨て去ろうとした国情を憂いての出版で、今読み返してみても、先生がいかに日本を愛しているか、また自然に対する高雅な品格と毅然たる態度がよく判る高著である。
 先生のこれまでの人生を通じ、労作中の中心は高山植物と山岳植物の分類と地理的総括である。これを第四期とみてよいであろう。この研究はどこから生まれてきたのだろうか。一言にして答えるなら「先生が心から山を愛しておられたからだ」と、私は強く答える<後略>  この「岳人だより」の月報は自著「「登山と植物」の中に挟まれてあった」と、林様よりお聞きしました。(2013・9・3追記)
序言 (前略)だが、燃し、一昨年来の戦災で、昔の本や雑誌類が、大抵は焼け亡せてしまった今日、そして日本が裸一貫から、再び出発しなければならぬ時に際し、甞て諸所に発表したものの中から、続書子の座右に薦めるに足りるかと思はれる数篇を選んで、一小冊子として世に送るのも、萬厚無意識ではあるまいと、考へるに到った。
 今や国民の大多数は、短からぬ年月を、軍閥や官僚の欺瞞に乗せられて、暢気な夢の國に遊んでゐた挙句、惨敗の現実をまざまざと見せつけられて、日本の実力を明確に知ると共に、それに愛想をつかし、今度は反動的になって、日本の美点をも、瓦礫の如く捨去らうとしてゐる。これは何としても由々しい大事である。外国の糟粕を嘗めたり、鴉
(からす)が鵜(う)の真似をしたのでは、何の取柄もないが、日本の邦には、一方に於いて、何処に出しても恥ずかしくない画が、立派に存在する。然るに、意外にも、多くの人達はそれを感じて居らぬらしい。そしてそれは何も今日始まったことではなくして、以前から左る傾向が可なり強く見えて居たのは、寔(まこと)に嘆ず可きことである。
 永い年月、戦争の有無などに係らず、静に日本の自然界を観察する機会に恵まれたことは、筆者にとって大きな幸福と謂はねばならない。
(後略)  
風景の保護と改造 「日本地理大系」別巻五、巻頭言 昭和6年9月
風景概論 「東陽」第一巻四号  昭和11年8月
富士山見学 「科学画報」第二十五巻第八号・追記 昭和11年8月 (追記)
高山植物の生活から 「科学画報」第一巻 第四号 大正12年7月
新緑の美 「科学画報」第一巻 第二号 大正12年5月 新緑の香(追補)
自然の錦 「科学画報」第一巻 第八号 大正12年11月
新緑の美」の中の「総括した美」より(P101の部分)
(前略)
春の新緑美が、秋の紅葉美と大に異なった点は、後者が固定された。静止的の美であるのに反して、前者は可動的な力強い美であることである。そしてその何れも其々の特長を備へて山野を飾り、それに対して些なりとも関心を持つ吾々に、心の糧を無限に與へて呉れる。そして草木の種類に富むことでは、世界で屈指の我が邦では、新緑にせよ、紅葉にせよ、その美観は、欧米などは較べ物にならない。
新緑の美」の中の「新緑の香(追補)」より(P103の部分)
 (略)
若草の萌える春の野に横臥し、白雲の去来する碧空を仰ぎ乍ら、長閑な雲雀の声を心ゆく迄聞く時、又は木立深く分け入って、若葉の匂ふ樹梢を漏れる日影を虎斑に浴びて、郭公や時鳥の声に耳を傾ける時、そこには幸福の外何物も吾々の念頭に在しない。 
1947 昭和22年 64
、「婦人之友 41巻1号」に「ほしいもの・したいこと/齋藤勇・嘉治隆一・暉峻義等・天野貞祐・湯川秀樹・吉岡彌生・片山哲・野口彌吉・新村出・佐々木喬・留岡C男・谷津直秀・村上龍太郎・山下興家・田川大吉郎・大槻正男・齋藤茂吉・今和次郎・武田久吉・小林澄兄・石原勵・藤森成吉・本多靜六・榊原千代・佐藤尚武・大塚久雄・木原均・湯淺八郎・大内兵衞・駒井卓・吉植庄亮・本位田祥男・牧野英一・上司小劍・山本一C・上泉秀信・矢島祐利・權田保之助・安部磯雄・末川博・鏑木C方・岡田武松・三島章道・田中栫E深尾須磨子・前田多門・坂口謹一郎・佐佐木信綱・河井道 ・舞出長五郎・與謝野光・眞島利行・山脇巖・杉森孝次郎・中川善之助・山本杉・安積得也・今村荒男・末弘巖太郎・足立源一郎・柳田國男・ 木内四郎・山室民子・藤原咲平・小汀利得・石井柏亭・大島義C・穗積七郎 p4〜10」のアンケートに答える。
2月、「あんとろぽす 1・2月合併号Nol5」に「収穫と祭」を寄稿する。 
  
   あんとろぽす 1・2月合併号(表紙)
収穫と祭
 農耕を中心とする行事を調べて見ると、大部分のものは、穀物とか、その耕作又は収穫等に用ひられる道具類の様な有形のものや、豊作とか新年、さては風、雷の様な無形のものを、神として祭る習俗のあることに、誰しも気がつくことであらう。
 此の場合の神は、祖先崇拝の神とは趣が異り、霊魂とも呼ぶ可き性質を多分に含むから、神道にいふ八十萬の神々とは大分に違ってゐる。されば山ノ神の様に、時に村の鎮守として社殿を有することはあっても、宗教類似の色彩を帯びる譯のものではな
い。唯時々無智や誤解等に基いて、山ノ神を大山祗命に同定したり、サエノ神を猿田彦や細女命と考へて、さう言囃すこともあるが、固より誤謬に外ならない。
 斯様な見地から眺めれば、上代以来、わけても平安朝以後の諸書に見え、又六百余年、北畠親房郷が「神皇正統記」の冒劈に掲げた国体観の、「大日本者神國
(やまとのくにはかみのくに)ナリ」とは別の意味で、日本は神の国と称しても好いかと、私などには思はれる。其故に、民俗学的に見た「神」は、所謂天神地祗とは趣が異なるものであり、その陰に極端な国家主義などが潜むとか、又はは、軍国主義の手先となって、終には国を滅ぼすやうな虞(おそれ)は、有り得ないのである。
 それ処でなく、春には農作の神に豊穣を祈り、秋には収穫に対して感謝の眞心を捧げ、又諸道具類の労を犒
(ねぎら)ひ、それにも感謝の意を捧げることは、謙譲の美徳とも称す可であって、農耕者の謙虚な心の発顯として、寧ろ賞讃に価す可きことでもあり、之を舊弊として嗤笑する前に、一考を費すの要あるものかと思はざるを得ない。(冒頭の部分より下略)
2月、尾瀬沼取水工事を商工省が、内務、文部、厚生などの各省を無視、日発に即時工事再開の命令を発する。
3月、G,H,Q天然資源局農業部技術顧問となる。(昭和26年12月迄)
3月。国立公園法の権限が厚生大臣に復原される。(2月14日 課→公衆保健局国立公園部に昇格する。)   
4月3日、日本植物学会の総集会(場所不詳)に於いて、特別講演会が行われ博士は「方言とその名義」の演目を予定していたが急病により取止め急遽、津山、 前川が代演、 朝比奈泰彦が「地衣類クラ ドニアの分類」を講演する。
                        
日本植物学会編「日本の植物学百年の歩み」より
5月、「村 5月号 第2巻第5号」に「農村の食生活」を寄稿する。 
農村の食生活に関する座談会の記事を読んだ感想があって、(略)座談会の記事の中に、農村に「団子大損」といふ詞があると見えてゐるが、これは何処の村の話であるか知らないが、面白いことと思ふ。相模の国でも一番風習の特異な津久井郡には「一合雑炊、二合粥、三合飯に四号団子、五合強飯与平倒し」といふ諺(ことわざ)がある。これは雑炊なら、一合で足りる処を、白粥だと二合、普通の飯なら三合を要する。それを団子だと四合入るし、強飯にすれば五合なくてはならず、結局与平が破産するという意味だそうである。(略)民俗的に測ったのであるから、その意味から見れば中々面白いが、当今のやうな配給の世の中にあっては、甚だ以て不合理な話である。「農村の食生活」より
6月1日、日発関東支店が厚生省に「日光国立公園特別地域内工作物新築の件」についての申請を行う。
6月14日、ウォルター・ウェストンのレリーフが復旧、除幕式が行われる。(第1回ウェストン祭)

6月24日付、桧枝岐村星数三郎村長が森戸辰男文部大臣宛てに「小瀬沼附近の風致保護について」の書信を送る。
7月1日付、長蔵小屋平野長英も尾瀬沼保存の管願書を文部大臣に送る。
7月4日、厚生省社会保健局長室に於いて第1回「尾瀬沼発電計画に関する協議会」が開催される。
厚生省 社会保健局調査課長(飯島稔) 社会保健局は国立公園行政を所管する部署
林学博士田村剛(21年4月嘱託として国立公園行政に復帰)
武田博士は所用で欠席
文部省 社会教育局(武井・新居)
史蹟名勝天然記念物調査会(理博中井猛之進・理博鏑木外岐雄・理博本田正次)
日発 関東支店土木部長土屋龍夫
商工省
群馬県
電力局(不明)
(不明)
(資料・略)協議は紛糾し、文部省側で出席していた中井博士から、「この会議は恰も図上戦術をやっているようなもので、図に依ってこれ以上議論をしても決着はつくまい。然し、現地でよく立合って研究したら、何とか良い妥協点を見出し得るのではないか」と云う動議が出され、話し合いによる解決策を模索する。
                             出典 「自然保護NGO半世紀のあゆみ P11」
7月14日、現地協議会が博士の病気のため出発を一週間延期して7月21日〜となる。
7月23日、尾瀬沼の取水工事再開に伴う現地協議会が長蔵小屋の二階で開かれる。 45名
 
厚生省 武田久吉博士・石神甲子郎技官・牛丸義留事務官
文部省 中井猛之進・新居事務官
商工省 電力局施設課新井技官
農林省 林務局徳本技官・三谷技官
内務省 国土局河川課南雲技官・計画課中田事務官・藤井事務官
全観連 林主事
群馬県 湯本計画課長・計画課清田技師・横堀主事・土木部八島河川課長・青木技師・大島技師・林務課小倉技師・平野長英
福島県 土木計画課秋月技官・星数三郎桧枝岐村村長
営林局 前橋営林局石井計画課長・山口営林署長
日本発電 土屋龍夫土木部長・新工務部長・小野沢庶務課長・本多工事係長・竹中岩本建設所長
その他 十八名
    注 現地調査の総計数45名〜48名で、確定せず 再調査要 2017・2・16 保坂 
   研究資料:武田久吉関連資料目録(メモリアルホール保管) E2ーNo30 「尾瀬沼発電利水工事に関する現地打合せ状況」 1冊を保管する

     武田久吉関連資料目録(メモリアルホール保管) E10ーNo13 「尾瀬沼発電利水工事に関する現地打合せ状況他 」 1袋を保管する
9月、「日本農業 第4巻第8号 8・9月号」に「農村の年中行事」を寄稿する。
鈴木牧之著「秋山紀行」について、また昭和7年に刊行された「越佐叢書」についての記述(部分)
(略)「秋山紀行」は信濃川の貢流中津川の上流に点在して、一部は信州(下高井郡)に一部は越後(中魚沼郡)に属する秘境の訪問記で、始めは十返舎一九と同行の計画であったのを、一九の出足の渋っている内、季節が進んで深雪の時期とならうとするのに焦慮した翁は、幸いに適当な指導者を得たのを機に、文政十一年の秋十月、往復十日の旅を決行し、その年の末に着色絵入りの草稿を認め、後天保二年の秋清書して一九に送ろうとしてゐる矢先、一九はその年の七月二十九日に六十七才を一期にあの世に旅立ってしまったので、最初の計画は齟齬してしまったが、幸いにもこれらの稿本も浄書の方も現今に伝はっている。その浄書の方が昭和七年に「越佐叢書」に収録されて、今日私達も被見する機会をえているが、惜しいことに多少魯魚の誤が潜入している。
 真澄翁の紀行(所謂「真澄遊覧記」)は驚くべき大部に上り、一部は紛失して求むべきもないが、現存するものでも、天明三年(西紀一七八三年)依頼文化十一年(一八一四年)までに、五十数編の冊子となって残り、民俗学の先覚者としての、翁の名声を永遠に高揚している。(詳細は創元選書八八「菅江真澄」参照
(略)

 市立相模原博物館所蔵  昭和7年刊行「越佐叢書」より
9月、船崎光治郎との共著、「高山花譜」を「富岳本社」より刊行する。
10月、国立公園中央委員。
10月25日、山岡書店・社会教育聯合会主催による「新歴史科学講座(第1回あんとろぽす文化講座)」に於いて「年中行事について」を講演する。
      講演場所 神田一ツ橋中学校講堂
        25日午後 武田久吉 「年中行事について」・後藤守一 「日本古代の生活」
        26日午前 柳田国男 「二つの人類学」 
        26日午前 甲野勇 「縄文文化の起源」・大場磐雄 「登呂遺跡」

12月15日、「あんとろぽす 11・12月合併号 Vol2.No4 通巻8号」に「年中行事」を寄稿する。
  
  あんとろぽす 
   11・12月合併号
          
資料 年中行事
一 (一項の全文)
 長い間の大義名分のない戦争に驅
(か)られた無辜(むく)の国民は、敗戦確認無条件降伏によって、戦争に終止符が打たれてホツとして見ると、今までの軍や官の欺瞞(ぎまん)政策や暴壓にあきれかへり、その犠牲となったことに忿懣(ふんまん)を感じたり驚いたりしてゐる内に、軍とその関係会社などや悪辣(あくらつ)な連中の物資隠惹や不法獲得其の他が闇相場の根元となり、それ等を種に闇屋は跳梁跋扈し、一方には竊盗強盗殺人空巣そう拂ひななどは盛となり、それに対して、嘗てはあれ丈の暴威を揮(ふる)った警察も、今や去勢されたかの如くに活動が鈍り、唯力弱い都民が生存の為に、千辛萬苦してやうやく手に入れた僅少な食料を没取する能力しかなくなり、一方、官吏は怠業罷業収賄とく職をこれ事とするといふ噂を耳にするとなると、日本の再建も覚束ないやうな気がするが、こんな悲観材料から耳を外らせて、戦争に
よって得られた好い事を尋ねて見ると、萬吏皆無でないことに気がつく。思ひがけなく降って来た男女同権とか婦人参政権を始め、言論の自由の如き、素晴らしい拾ひ物もある。わけても永い間※1(圧)の下に置かれた言論が、天下晴れての自由を得たことは、勿怪の幸であって、米国の如きですらさうたやすくは得られなかったのである。然し言論に限らず、自由の裏には、責任といふものがなくてはならないのに、とかくそれを夢の如くに忘れていまひ、放縦と履き違へてゐる者の多いのは遺憾である。
(二〜十三は略) 十四(全文)
 紀行として異色あるのは、同じ著書
(北越雪譜の作者鈴木牧之の秋山紀行で、これは文政十一年の秋十月、翁の住居塩澤から往復十日の旅を試みた詳細な記事で、多数の着色図を挟んで、秋山の風光習俗等、細大に互って記述してある。これも昭和七年に発兌された越佐叢書第五巻に収録されてゐるが、活字本の御多分に漏れずして、多少魯魚の誤が潜入してゐるのと、折角の着色図を拙劣な網版として挿入した為、原画の趣を十分に伝へ得てゐない。
 牧之翁の上記両書にも増して貴重なのは、菅江真澄翁の所謂真澄遊覧記で、驚く可き大部に上り、多少亡失したものもあるが。現存するものでも、天明三年(一七八三年)依頼文化十一年(一八一四年)まで三十年以上に互る中部日本から北日本に到る紀行である。これ亦先年大部分活字版として覆刻され、更に一部は原本通りの覆刻もある。詳細は創元叢書八八の菅江真澄参照(十五以降略)  ※1 (圧):強く押さえつける。自由にさせない
○「農耕と園芸 第3巻第1号」に「新春の豊作祈願」を寄稿する。  
○「北方風物 第2巻第1号 お正月の巻」に「七草粥」を寄稿する。   
○「科学知識 Vol 27」に「甘藷」を寄稿する。   Vol No再考要
〇今秋、尾瀬沼取水工事が再開される。
同年に工事再開の許可は下りたが、実際には工事事務所や倉庫の建設が終わるか終わらぬかの間に降雪期に入り工事は中止となる。    出典 「自然保護NGO半世紀のあゆみ P13」
1948 昭和23年 65
月、「婦人之友 42巻1号」に「平和のために何をなすべきか何をなしつゝあるか/婦人之友編輯室・佐佐木信綱・遠藤新・金森コ次カ・武田久吉・與謝野光・坪井忠二・天野貞祐・藤森成吉・新村出・石井柏亭・柳田國男・佐々木喬・石原謙・加藤與五カ・權田保之助・ヲザキユキヲ・生江孝之・大島義C・牧野富太カ・大來佐武カ・山室民子・林春雄・高嶺俊夫・齋藤勇・矢島祐利・神戸正雄・薗部一カ・湯淺年子・大槻正男・小倉山人・岡田武松・駒井卓・淺沼稻次カ・Tanakadate.A・末川博・つださうきち・宮本忍・本多靜六・榊原千代・嘉治隆一・山脇巖・宮澤俊義・三島通陽・小野秀雄・山本一C・前田多門・山下與家・松岡駒吉・湯淺八カ・佐野利器・田中栫E佐藤尚武・坪井誠太カ・山本忠與・有島生馬・杉森孝次カ・今中次麿・山川均・ガンドレツト恒 」のアンケートに答える。を寄稿する
2月19日、商工省が「尾瀬只見利根総合開発調査協議会」を東京高輪旧武田宮御殿の商工大臣官邸で開催、
  
「尾瀬ヶ原、只見、利根川総合水利計画」の原案を発表する。
学識経験者
内海清温(主催者の推薦によって座長に推される)
経済安定本部 建設局長以下7名  高野興作建設局長・山岡包郎技官
文部省 小林行雄社会教育局文化課長・平山繁夫文化課嘱託・武田久吉博士・中井猛之進博士
鏑木外岐雄博士・本田正次博士
厚生省 田村剛博士(嘱託)・石神甲子郎公衆保健局調査課長
農林省
建設院
福島県 知事以下4名
新潟県 11 知事以下11名
群馬県
商工省 電力局長以下7名 玉置敬三電力局長・岡崎三吉水力課長
関東商工局
仙台商工局
日本発送電本社 副総裁以下3名 進藤武左衛門副総裁
日発関東支店
同仙台支店
同只見川調査派出所
資料 電力饑饉が甚だしくなるにつれて、之をそのまま捨て置けないというので、当事者の間で電力総合開発計画が進められたのは当然であり、電力増強希望の国民の声を無視しなかったことは多とするに足りる。それで一昨年の春三月、高輪の旧竹田宮御殿の商工大臣官邸で、一大協議会が開かれた。四、五十名も集まった者の多くは電力関係の人々であったが、厚生省国立公園関係者と、文部省史跡名勝天然記念物関係者とが特に招かれて列席し、その協議に携ることになった。というのは、数ある計画の中で、第一に取り上げられるのが、尾瀬ヶ原であったからである。(略)さて、その会議の席では、予定地尾瀬ヶ原について、世上で多年に亘って学問上の宝庫であると謂われているのは、果たして真なりや否や、その価値についての専門家の意見を聞くのだと許り思って居た吾々を唖然たらしめたことは、電力関係の方々は、貯水池とすることは既定の事実なるかの如き態度で臨み、唯その水を利根川流域(群馬県側)に落とすか、只見川(新潟県側)に流すか、そしてその計算上の出力の比較は夢中になって御座って、他を全然顧慮しないことであった。そこで吾々側で試みた二、三の質問に対し、それを暴言なりと難じ、終には今度は厚生、文部の両省関係者を除外して議を進めようと提案する者さえ出たとは実に驚くべき横暴なことであった。而も唯一の言訳として、これは確定したのではなくて、目下も今後も引続いて尾瀬ヶ原を研究し、その上で貯水池とする事だと、気休めらしいことを口にして一時を糊塗し、会議は終ったのである。
        昭和25年「厚生省国立公園部編「尾瀬ヶ原の諸問題」、武田久吉著「尾瀬と水電―回顧と批判―」より
2月23日、第1回国立公園中央委員会を開催「現下の情勢に即した国立公園政策」について諮問を行う。     博士がこの委員会に出席したかは未確認 2017・3・1 保坂
3月、文部省社会教育局文化課が「尾瀬ヶ原の学術的価値について」の小冊子を発行する。

5月、「山と渓谷  111」に「奥日光特集 日光初登山の思ひ出」を寄稿する。
月、「山と渓谷 (111)」が「山と渓谷社」から刊行される。 pid/7933809
表紙 戰場ヶよりの金精峠/山川勇一郎 / 表紙
口繪日光の渓瀑/塚本閤治 / p1〜1
阿世潟・中禪寺湖 / 目次
國立公園のありかた--日光國立公園について/千家哲麿/p7〜9
奥日光の植物景觀/松村義敏 / p10〜13

日光初登山の思ひ出/武田久吉 / p14〜17
千手ヶ原と鬼怒川水源/黒田正夫 / p19〜21
《戰場ヶ原》/山川勇一郎 / p23〜25
ニッコウ・ヤマ・クラブ/阪本丁次 / p26〜28
奥日光交響樂/黒田初子 / p29〜3

◆奥日光爐辺ばなしの会◆/柴田稔 ; 秋葉哲 ; 露崎蕎 ; 岡田銀冶
→齊藤武二 ; 鈴木きち ; [伴]信久 ; 矢島市郎
日光の魚を慕ふ/佐藤垢石 / p41〜43
日光の思ひ出--(繪と文)/李方子 / p44〜45
奥日光の岩魚釣り/成P勝武 / p46〜48
あの頃の日光--繪と文/中村C太郎 / p49〜51
日光の鳥の旅/中西悟堂 / p52〜57
◆奥日光全域の登山ガイド◆/矢島市郎/p58〜63
雲龍峡の追想--《繪と文》/足立源一郎 / p64〜65
☆「富士山頂」撮影中間報告 / p33〜33



6月2日付、「サン写真新聞 661号」において「尾瀬の電源開発問題」を特集しその是非を報じる。
7月、「観光 第22号 全日本観光連盟」に「尾瀬ヶ原問答」が掲載される。
地形 理学博士 辻村太郎 地質 理学博士 末野悌六 植物 理学博士 武田久吉
動物 学博士 鏑木外岐雄 風景 林学博士 田村 剛
問答に入る前の導入部の全文/尾 瀬 ヶ 原 問 答
 
本年二月十九日の河川綜合開発調査協議会に於いて、経済安定本部、商工省及び日本發送電が尾瀬ヶ原發電の大規模計画が發表されるや、文部省、厚生省をはじめ各方面に於いて反対の聲があげられ、観光界、自然科学界の宝庫の死活問題として新聞紙上を賑わした。以後賛否両論互に続出し、未だに決定をみず、そのためか、今夏尾瀬への来訪者は今迄にみない數に達したという。勿論本連盟も観光的立場よりこれに反対するものであるが、何故に尾瀬は観光界、自然科学界の宝庫といわれ永遠に保存されなければならないか、各界の権威をわずらわして尾瀬ヶ原問答≠開き、御説明を願った。以下御説明によって明らかな如く、尾瀬こそ、雄大な山岳、森林と湿原の妙を得た配置、幽邃な山湖や渓流、その間に散在する北地性の植物などによって、織りなされる一大神秘境であり、学術的に見ても、地質学、動植物學等の研究にとって、残された唯一の秘庫なのである。この故にこそ、産業開発の重大なことは深く認識しつつも、敢て反対の立場に立つのであって、単なる観光地が破壊されると云うが如き軽擧ではなく、実情を見極めた心の底から反對なのであることを、これにより充分に理解せられたい。
7月24日、第2回国立公園中央委員会に於いて「現下の情勢に即した国立公園政策」についての答申を行う。  博士がこの委員会に出席したかは未確認 2017・3・1 保坂
7月、「旅 22巻7号」に「尾瀬沼と其植物」を寄稿する。
8月、「国立公園 復刊第一号」に「国立公園と高山植物」を寄稿する。
   また、同号に林静一郎が「尾瀬ヶ原電源問題」を寄稿する。
(冒頭の部分)既設十三の国立公園の中で、高山植物の生えてゐる様な箇所といへば、北から順に数へて、阿寒、大雪山、十和田、日光、富士箱根、中部山岳、及び大山国立公園の七つであるが、その中で世界中の何処に出しても、又誰に見せても恥しくない程のものは、北海道の大雪山、本州では中部山岳国立公園の一部で、それに次いでは十和田湖国立公園内の八甲田山の一部、日光国立公園内の尾瀬の一部、それに富士山の一部といふ所で、大山にも山頂には少し許りの眞正高山植物が生えてゐるとしても、ホンの僅か中訳位の程度にすぎないから寧ろ無いに近いと申しても宜しいであらう。日本中で、高山植物が豊富にあるといっても、種類が多いといふ丈では二本か三本の標品を採って来て、それを眺めて満足する程度の採集家なら知らず、国立公園の使命の一部が、教養を高めるための無言の博物館であると認めるとか、乃至は百花繚乱の御花畠の美観をまのあたりに見て、それを心の糧としようとする人達には、量の多いといふことも亦重要な問題であると言わなければならない。その点からいって、日本中で第一に推す可きは大雪山であり、第二は中部山岳国立公園の一部で、其の他は規模の点からみて、遺憾乍ら及第点を取る訳に行かない。
9月、「民俗と植物」を「山岡書店」より刊行する。
  「民俗と植物」の中の作品名
草木の方言と名義
   (新稿)
序説・ガマズミ・オオカメノキ・ニシコリ・ネソ・マルバカエデ・イタヤカエデ・ニワトコ・盛岡イタヤ・ソネ・キブシ・ゴンズイ・キハダ・コメゴメ・ドングリ・カバ・タゴ・ヌルデ・バラ・イチイ・ミズキ・チングルマ・ユクノキ・ブナ・ジンドウソウ・カッコソウ・ナンキンコザクラ・ツマトリソウ・ラショウモンカズラ・レンリソウ・シラネアオイ・スカシタゴボウ・アカソ・ラセイタソウ・クマガイソウ・ニュウメンラン・カイロラン・シオデ・ツバメオモト・カタクリ・ギボウシュ・オオバギボウシュ・ワタスゲ・ビロウドテンツキ・ショリマ・デンダヤマドリシダ・ウサギシダ・オシダ・チリメンカンジュ・仮名書きと当て字50
地名と植物 ドルメン 第5巻第5・第7号 昭和14年6・9月
「かくま」の事から 民族文化 第3巻第6号 昭和17年6月
天子ヶ嶽の瑤珞躑躅 ドルメン 第5巻第4号 昭和14年7月
M茄異議 ドルメン 第2巻第9号 昭和8年9月
聖林か柊林か 現代 第14巻第6号 昭和8年6月
松竹梅 科学文化(医学ペン) 第6巻第1号
科学ペン 第4巻第2号
昭和16年1月
昭和14年2月
桃とモモ 民族文化 第3巻第4号 昭和17年4月
春と生物 学生と錬成 第1巻第4号 昭和17年4月
野菜と山菜 短歌研究 第11巻第6号 昭和17年6月
茄と胡瓜 新若人 第3巻第5号 昭和17年8月
苗代大根 東京毎日新聞 第2398号 昭和18年4月20日
科学文化(医学ペン) 第五巻第十七号 昭和15年11月
ブナの實と野鼠 中外商業新聞 第2078号 昭和16年11月23日
馬力と澱粉 附米食の事 ドルメン 第5巻第3号 昭和14年4月
白井博士と不老長寿の薬 ドルメン 第1巻第5号 昭和7年8月
長寿の相談 養老事業 第2号 昭和15年5月
山林と木材の供出 東京新聞第 201〜203号 昭和18年4月21〜23日
カノウとアラク 民族文化 第2巻第8号 昭和16年8月
朝鮮の火田民 ドルメン 第2巻第4 昭和8年4月
文学と植物 多磨 第14巻第1号 昭和17年11月
*印は補筆
11月、「山岳 第四十三年第一号」に「追悼 亡き友 木暮君を憶ふ」を寄稿する
11月、「山 11月号」に「(座談会) 尾瀬共同研究」の内容が掲載される。
     出席者:武田久吉・関口泰・足立源一郎・岡山俊雄・浜野正男・垣内政彦(司会)
尾瀬の資質的特色この項は全文)
司会者 所で岡山先生、尾瀬を地質的に見るとどうなのでしょうかー解らないという話ですけれども、泥炭や何か非常に珍しい形で保存されているという事ですが、ほかにはありませんか。
岡山 ほかにはないと思います。/武田 
橄欖岩の山なんかは少ないでしょう。岡山 少ないですね。
司会者 沼の生成と結び付けて尾瀬の話をして頂きたいのです。それからあと、尾瀬の湖沼学的な事になるかも知れませんが、深さとかいう様な事などについて・・・・・
岡山大体、沼とか池とか湖水とかいうものは、地質学的に見れば、ほんの一時的のものという事になっています。それにしても尾瀬沼と中禅寺湖とは又時期が違っていますが、ちょうど尾瀬原の湿原が無くなってしまう程度に埋まってしまって、これからどういう事になるか解りませんし、先程武田先生が余り變化がない様におっしゃっていましたけれども私は大正八年に行き、それから三年ばかり後に行って気がついた事は、沼山峠の下邊りが非常に埋立てられてしまっているという事でした。初めて行った時には、湿原の川の水量がもう少しあったと思うのですが・・・・・/武田
 時期は夏ですか。岡山 そうです。/武田 變化がなかったと云ったとしたらば僕の間違いで、變化は大いにある。三平の下ーこちらから行きますと尾瀬沼が見へて、葉面に燧が見へる所の砂浜が出来ています。あすこは、初め、水の中に路があった様な所だが、その後大正十三年第二回目に行った時は大分砂浜が出て来ている。足立 やはり土砂が出て来るのですかね。/武田 水位が下がったのですね。それで、浮島の様な所が、原になるという事が、一歩々々進歩して行くのですね。
司会者 大正池なんか非常に變化がはげしくて、どんどん池がなくなって行くという傾きがありますが、その点で、地質学的に尾瀬はどうなのでしょう。
岡山 尾瀬は非常に保つと思います。/武田 
われわれの生きている、どころではない、われわれの孫子の代まで、尾瀬は尾瀬だよ。(笑声)/岡山 今お話の大正池などは、池から流れ落ちた水が非常に急流になっていますから、どんどん掘り下げが行はれますけれども、尾瀬沼の場合には、沼と原との距離があり、ことに沼と原との落差が僅かで、ゆるやかに流れていますから、水面がさがるにしても、非常にゆっくりさがるのではないかと思はれます。まあ、そういう事もあるけれども、山から流れ下る土砂の堆積という事にもあると思います。足立 あの砂浜は天幕が張れる位に今なって来ましたね。/武 雪解けの頃に行って見ると、砂浜はないですよ。
12月、日本山岳会第6代会長に就任する。(1948〜1951) (検討要)
           注意:日本山岳会HP 「歴代会長」の項では「1948−1951」
              日本山岳会HP 「日本山岳会のあゆみ」の項では1946年(S・21) 新会長に武田久吉就任」

           
林家「武田久吉 年譜」では「昭和21年12月日本山岳会会長(至昭和26年4月)」  就任の時期再検討要
12月13日、小島烏水が没する。
12月18日付、高頭仁兵衛が、小島烏水御逝去に驚いた、また地図入れ四箱御入用のこと等を「郵便はがき」に伝える。

   「郵便はがき」 (全文)    横浜開港資料館 久吉(書簡)No971より
謹啓 田村の只今の住所は品川区大井瀧王子町四三七七で有りまする。
小島君御逝去の由 新聞紙にて拝見一驚を致しました 老生只今は隠居の身の上にて世間の事は更に存じ不申 早速遺族宛にて御悔状を差出して置きましたが他は御教示を請ひまする 次に地図在中の約三尺四方のもの四箱御入用ならば差し上げまする  .来春田村帰国のよし其折にでもと存じまする用事のみ  怱々 昭和二十三年十二月十七日正午
12月、厚生省国立公園部が、『日光国立公園地域内尾瀬ヶ原を保存すべき理由』についてを発行する。
○この年、「『農耕と園芸』第3巻2号、誠文堂新光社」に「甘藷物語」を寄稿する。
          出典:尼崎市地域研究資料館 Web版 図説 尼崎の歴史」より

○尾瀬ヶ原巨大ダム計画に反対の声を上げ、調査報告書を提出する。
          注  提出の時期や内容等未確認のため調査要 2017・3・27  保坂
1949 昭和24年 66
1月1日・3日〜4日付、「時事新報」に「尾瀬・奥会津の開発問題」を特集する。
1月、「日本農業 5巻1号」「農村新年の一週日」を寄稿する。pid/1783864
1月、「国立公園 複刊第三号」に「ロッキー山国立公園とロングスピーク」を寄稿する。

1月、内郷村長谷川一郎が「多麻史談」に「粟と民俗資料 四、ベロベロの神と粟の供物」を寄稿、
武田博士が御研究をされていた「釜神様」のこと等を述べる。
1月31日付、高頭仁兵衛が、自身の寿像建立に伴う銘文の執筆依頼を書簡にして送る。
            横浜開港資料館 久吉(書簡)No971より
2月、G,H,Q天然資源局農業部最高(高級)顧問。(至昭和26年12月)
4月、「国立公園 第四号」に「自然風景保護の文化的意義」を寄稿する。
○この月、新潟県弥彦山に「高頭仁兵衛翁壽像銘文」を撰文する。(石碑建立の時期検討要:已丑は昭和24年)
6月13日、NHKラジオ歌謡で「夏の日の思い出」が放送される。
7月、「科学画報 誠文堂新光社 特集 高山植物展望」に「高山植物展望」を
 また、グラビア欄に「高山植物の種々相、白樺と這松、高山をいろどるお花畠」を寄稿する。
 
 科学画報7月号
高山とは 這松の生態 13 高嶺菫々菜(たかねすみれ)
高山植物 高山と積雪 14 稚兒草(ちんぐるま)
地質と高山植物 御花畠 15 白玉之木
登山 10 高山植物の特徴 16 零餘子虎之尾(むかごとらのを)
垂直分布 11 駒草 17 高山植物の栽培
植物帯 12 御山之豌豆 18 高山植物の採集
高山とは(冒頭の部分)
日本は山国である。関東平野だとか、石狩平野だとかいった処で、海の方へでも向いて立っのでなければ、彼方の空を限るものは山嶽である。国内何処の隅へ行っても、山の見えない所はない。
従って、汽車に乗って二日も三日も走りつゞけても、朝日は地平線の彼方から昇り、夕日は地平線の彼方に沈むといった、シベリヤとか北米合衆国の一部のような光景は夢にも見られない。どちらを向いても鼻がつかえそうである。この国土に生まれ、こゝに育ったまま廣い世界を見ない者は井の中の蛙も同然、量見の狭くなるのは止むを得ない。(略)
    所蔵 桧枝岐村教育委員会
    注)「高山植物展望」は1〜18の項目に分かれて発表されていますが、実際には番号が付与されていません、配列を分かりやすくするため、
       本年譜だけに便宜上付与しました。御注意願います。 2017・8・3 保坂

7月、国立公園中央審議会委員。(至昭和26年8月)
8月、「旅 25巻8号 全国海水場及び夏山情報」に「〇」を寄稿する。 確認要 2017・4・5 保坂
9月、金井利彦らと尾瀬へ。
9月、「山と渓谷 9月号」に「高頭仁兵衛翁壽像建設趣意書・壽像建設計画概要・高頭仁兵衛翁壽像銘文」を掲載する。  また、「同号p97〜97」に野中到他が「富士山ケーブルカーの是非」を寄稿する。  pid/7933823
10月、「山と渓谷 (126) 」が「山と渓谷社」から刊行される。 pid/7933824
表紙 朝陽 / 梅原龍三郎
口繪 富士山に沈む月(天體望遠鏡による) / 朝日新聞社
富士山の創成とその將來 / 津屋弘逵 / p9〜19
◇海外登山界ニュース / p22〜22
◆登山界ニュース / p20〜21
富士山略説 / 武田久吉 / p23〜28
牧水富士百首 / 若山牧水 / p30〜37
☆野中到インタビュウ / p38〜44
富士の景觀 / 辻村太郎 / p45〜49
氣象觀測所員のみの富士山座談会 / F・ギブニー ; 藤村郁雄 ; 福島正久 ; 志崎大作 ;
  →室伏隆治 ; 小見山實 ; 渡邊C光 ; 田代忠作 ; 梶重信 ; 梶光明 / p50〜61
グラフイツク--富士山の雲形と烟の形 / 阿部正直 / p62〜67
讀者希望出題--天體望遠鏡で富士山撮影 / 朝日新聞社 / p68〜71
富士創生--長篇詩 / 藤木九三 / p72〜73
航空機上よりの富士山研究 / 藤村郁雄 / p74〜75 (0038.jp2)
富士山を繞る低山座談会 / 田部重治 ; 塚本閤治 ; 冠松次郎 ; 岡田紅陽 ; 中村幸雄 ;
  →中村折平 ; 永村日出男 ; 宮下正三 / p76〜84
スケッチ / 津屋弘逵 ; 川ア晴朗 ; 朝日新聞社 ; 茨木猪之吉 ; 藤村郁雄 ; 下澤木鉢郎 ;
  →吉田元 ; 畦地梅太郎 ; 關野準一郎
スケッチ (第一圖) 山中湖方面から見た小御岳 / 津屋弘逵 / p11〜11
スケッチ (第二圖) 富士吉田方面から見た小御岳 / 津屋弘逵 / p11〜11

スケッチ (第三圖) 小御嶽附近略圖 / 津屋弘逵 / p12〜12
スケッチ (第四圖) 富士山南西麓の古富士火山噴出 / 津屋弘逵 / p12〜12
スケッチ (第五圖) 白糸[瀧][断]面圖 / 津屋弘逵 / p12〜12
スケッチ (第六圖) 寳永山附[近]略圖 / 津屋弘逵 / p13〜13
スケッチ (第七圖) 寳永山模式[断]面圖 / 津屋弘逵 / p13〜13
スケッチ (第八圖) 富士山構造[概]念圖 / 津屋弘逵 / p14〜14
スケッチ (第九圖) 富士山の構造を示す[概]念的[断]面圖 / 津屋弘逵 / p14〜14
スケッチ (第十圖) 富士山頂略圖 / 津屋弘逵 / p15〜15
スケッチ (第十一圖) 雁穴丸尾梨ガ原丸尾略圖 / 津屋弘逵 / p16〜16
スケッチ (第十二圖) 富士山北西腹上の寄成火山と新期溶岩流 / 津屋弘逵 / p17〜17

スケッチ 富士山登山地理一覧 / p23〜2
スケッチ 野中氏創案富士山頂
  →觀測所模型見収圖 / 川ア晴朗 / p42〜43
スケッチ 富士山展望圖 / 朝日新聞社 /
スケッチ 牧水朗吟の圖 / 茨木猪之吉 / p31〜31
スケッチ 航空機装備氣象計記録 / 藤村郁雄 / p75〜75
スケッチ 御正體山よりの富士山 / 茨木猪之吉 / p76〜76
スケッチ 目次カット(天目山よりの
  →富士山)/下澤木鉢郎/p6〜7
スケッチ 妙義山略圖 / 吉田元 / p96〜96
スケッチ 本文カット / 畦地梅太郎 ; 關野準一郎/p100〜100
富士山(詩) / 草野心平 / p85〜85
◇富士裾野(長歌) / 新川二郎 / p48〜48
○サ・セ・フジヤマ○ / タケ・アソウ / p86〜87
朝陽(梅原龍三郎作品) / 川崎隆章 / p19〜19
★溪の秋〔句〕 / 松宮寒骨 / p87〜87
登山地情報 / p90〜92
岩場めぐり(VII)裏妙義の岩場 / 吉田元 / p94〜98
・山岳會消息 / p29〜29
・憩い(読者寄語) / p93〜93
・山溪?樂部レポート / p99〜99
・希望出題・希望編集 / p20〜20
・七ツのケルン / p93〜93
・岳人往來 / p44〜44
・新刊紹介 / p61〜61
・これはどこから眺めた富士山でしょう / p89〜89
・これは何山でしょう(答) / p89〜89
・本社代理部(山岳圖書) / p82〜82
・本社代理部(登山用品) / p83〜83
・在庫品常備店 / p93〜93
・出版便り / p100〜100
・編集室 / p100〜100
富士山か冨士山か / 中野敬次郎 ; 牧田不二 / p88〜89
10月、「山岳 第四十四年第一号」に「日本山岳会の創立と小島烏水君」を寄稿する 
参考 (略)一言つけ加えておきますが、日本博物学同志会は、会則にも「本会は会長を預かず」として、すべて幹事の合議制で事を運び、責任分担主義でいきました。その関係で山岳会も法人になる暫く前(昭和六年)までは会長なしで、初めの間は七人の発起人が雑誌の原稿を各自責任をもって二十頁ずつ自分なりに人に頼むなりして集め、あとの十頁は切抜通信などによって集めた雑誌で埋めることにしていたものです。日本での民主主義の団体の先駆者の一つでもあるかと存じます。  原文の末尾に記された記述より
10月27日 尾瀬保存期成同盟(後の日本自然保護協会)が発足。 
 資料 後藤允著 「尾瀬ー山小屋三代の記」より P114より
 (発足時のメンバーは)本田正次・大井次三郎・川崎隆章・冠松次郎・安倍能成・武部英治・田中耕太郎・武田久吉・辻村太郎・中村清太郎・小林義雄・東良三・岸衛・三浦伊八郎・関口泰・折下吉延・岡田紅陽・鏑木外岐雄・谷川徹三・田部重治・田中啓爾・田村剛・塚本閤治・中井猛之進・村井米子・足立源一郎・佐竹義輔・三田尾松太郎・平野長英の計二十九人であった。
 「会には、偉い先生がたがずらりと並んでいました。私も『「たいしたことはできませんが、現地で反対の署名運動をさせてもらいます。』と、翌年からは『登山者皆様にお願』と書いて署名簿を小屋の宿帳といっしょに出したり、玄関の受け付け台の上に置いたり、休憩所でもお願いしたり、小屋の者皆で、一生懸命に署名を集めました。お客さんも、ずい分と協力して下さいました。」
と平野長英は語った
10月29日、宮内庁より「お茶」会の御招待状が出される。
    
お茶会 11月4日午後2時  宮内庁長官田島道治→日本山岳会々長 武田久吉殿
11月11日、尾瀬沼の取水工事が完成する。

注意)尾瀬の電源開発計画は、尾瀬ヶ原と尾瀬沼の二ヶ所であったこと
資料/尾瀬沼の取水工亊の竣工まで
 二十三年は融雪と同時に着工したが、請負人の誤算などでひと夏を費やしても完成しないために、二十四年に入ってから工事を鹿島組に請負わせてようやく工事も進捗し二十四年十一月十一日に施工式が行われた。 
             出典 「自然保護NGO半世紀のあゆみ P13」
11月30日、尾瀬保存期成同盟第二回会合が開かれる。
            武田博士の出席については未確認のため調査要 2017・3・1 保坂
12月11日夜8時半からのNHKラジオ番組、「時の動き」の中で尾瀬ヶ原の電源開発問題にふれ、これを是認するような放送が行なわれる。
12月2日付(発行日時検討要)、読売新聞が「電力か学術か。尾瀬沼論争遂に爆発」・「電源に軍配をあげたNHKへ文部厚生両省が激怒」と云う見出しの記事が掲載される。
12月21日付、「毎日新聞」が社説欄で「(尾瀬ヶ原)電気かコケの保存か」を記載する。
12月22日付、「読売新聞」がコラム「編集手帳」に尾瀬ヶ原を湖底に沈めるほかはないと考える」と記載する。

「尾瀬ヶ原を湖底に沈めてダムをつくろうとする只見川開発問題に学術上、観光上の立場から文部、厚生両省が反対しているという。われわれの結論を先にいうと、こうするより他に電力五ヵ年計画の進めようがないならば、電源開発のためには尾瀬沼を湖底に沈めるほかはないと考える」と、電源開発推進に賛成する態度を表明、マスコミ論調が一斉に電源開発容認に傾いたことに大きな危機感を持ったからに他ならない。ただこの様なマスコミ論調は、当時の社会状況を見ると、やむをえない面があったようだ。尾瀬保存期成同盟が結成された昭和二十四年は、わが国政府はもとより産業界や国民一人一人が、敗戦の虚脱と混乱の中から一日でも早く立ち上がろうと必死にもがき苦しんだ時代だった。(略)
         出典 「自然保護NGO半世紀のあゆみ P 31」
12月29日朝、予定されていた平野長英から村井米子に変わり「NHK・私の言葉」に出演、尾瀬ヶ原の自然の素晴らしさ、また、その学術的に貴重なものかを訴える。
○「日本農業 第5巻 第1号」に「農村新年の一週間」を寄稿する。
   本文の末尾に「(筆者はG,H,Q天然資源局勤務農学博士)」と記す。
○この年、「出羽国立公園候補地学術調査報告 朝日〜月山〜鳥海 鶴岡市公民館」にて「出羽国立公園候補地の風景的考察」と題した研究報告を行う。
(略)それと今一つ心配なことは、何れの山岳にせよ、中腹以上の一番attractiveな区域は、高山植物の繁茂する所である。処で、その区域が自由自在に踏破出来る状態に置かれるとなると、その結果は、両三年を経ずして、臍を噛むも及ばない有様にならないとは断言出来ない。尤もこれは敢て本候補地に限った訳ではないし、又国立公園であらうとなからうと、例へば月山や鳥海山の現状から想像出来ないことではない、多年諸方の国有林や御料林内で行はれてゐた様な、巡視を置くことも考へられるが、欲しいと思ふ者に対して、唯禁止々々で厳重に取り締まるよりも、再三私が提唱する様に、活着容易な種類は適当な場所に苗圃でも造り、それに正確な名称と、栽培法を附記して、拂下げるのも一考を要することであらう。
 とに角、国立公園の今後の運営は、従来の様に何もせずに放置するのでは意味がないから、種々の施設も必要になるが、その方法には細心の注意が織込まなければならないことは申す迄もない。
○この年、福島県麻耶郡北塩原村雄国沼(おぐにぬま)や吾妻山系の調査を行う。内容未確認2015・9・18 
○この年、「農村の年中行事」のドイツ語訳がペーピンの神学大学から出版される。
         注:ベーピングが所在、また内容未確認 2015・12・13 「あしなか追悼号著書目録」より
〇この年、「H.タケダによって 陸軍総司令部連合軍最高司令官天然資源セクション 1949 (リポート) 」が発表される。
           by H. Takeda General Headquarters Supreme Commander for the Allied Powers Natural Resources Section 1949 (Report)
1950 昭和25年 67
2月、学術奨励審議会委員。
2月15日〜5月8日、柳田国男からの依頼及び、CIAP参加了承までの経緯を示す記録あり。
 
      CIAP:Commission Internationale des Arts et Traditions Populaires
     
横浜開港資料館 久吉(書簡)目録 1243−1〜3」より 内容未確認のため調査要 2015・9・9 保坂記
3月8日、尾瀬保存期成同盟第三回会合の席上、資源庁電力局水力課長山岡包郎氏が尾瀬ケ原を貯水池にした場合の、発電に寄与する実効力を述べる。
上記の事に対し、博士は(略)尾瀬ケ原を貯水池にした場合の、発電に寄与する実効力は全く驚く可きもので、なる程これが机上案の通りスラスラと実現すればー何時の事か知らないがー素晴らしいものでありそうなことは能く首肯出来る。假令どんな障害があろうと、あらゆる不可能を、数千億円の費用と、何十年かの労力とによっても是非克服して、これを実現させ度いとは、その道に携る人々の永遠の夢であることに相違あるまい。日本ではもとより世界一水電事業の発達して居る米国だろうと、こんな特殊地域の土木事業には空前の事に相違ない。それを易々と実現出来、而も落成後またもpこの怪草水蘚に悩まされることの断じて無いという自信のある人は、職業上「尾瀬ヶ原破壊」の旗幟を押し立てて居る人達の中にも、二人とは居ないことと思われる。それは勿論假想の話であるから、今すぐ何れとも采配は上げられまい。だが然し、これ程の地域が日本に在ることは、誇るに足るものの寔に少ない我邦にとっては、望外の喜でありその研究こそ、幾千億の金をかけても、日本の学者によって完遂されねばならぬ事である。(略」 昭和25・6山と渓谷 No133 「尾瀬ヶ原の回顧と水電問題」より
3月、山口隆俊が「香蘭 27(3)〜28(1)」に「曼珠沙華(一)〜(五・補遺)」を連載、武田博士の指導を受ける。 武田家所蔵本
   また、香蘭28(2)号に、「「曼珠沙華」に就ての御願ひ」についての願い文(変B5版1枚)を添える。
  
  「香蘭28(2)号」に、挟まれてあった「「曼珠沙華」に就ての御願ひ」文

香蘭 第二十八巻第壹号
S25年2月 発行

コーヒータイム
 武田博士は、この世に多くの論文や書籍を残しました。そうした中で、一般の市民からも意見とか標本を募りました。左の願い文は、曼珠沙華の方言など各地に伝わる呼名を知らせて欲しいと云う願い文です。
 博士の人柄を知る大変貴重な資料です。これを後世に伝えて行くため、あえてご掲載を致しました。(保坂記)



4月17日尾瀬保存期成同盟第四回の会合で新たなメンバーに徳川宗敬・松方義三郎・桧枝岐村村長星敬三郎が加わる。            「国立公園 第八号」より
4月、「新昆蟲 3巻5号 北隆館 P176〜177」に「尾瀬ヶ原と植物 」を寄稿する。
  また同号に、朝比奈正二郎が「尾瀬昆蟲記」を寄稿する。
4月、山口隆俊が「香蘭 第27巻第3号」に「曼珠沙華考(一) 補遺」を寄稿する。 武田家所蔵本 
4月、「山と渓谷 131号」に「登山の理念」を寄稿する。pid/7933829
口繪 妖麗(三島から望んだ富士) / 岡田紅陽
登山の理念 / 武田久吉 / 36〜37
グラフイツク 富士を眺めるハイキング--節刀・十二が岳の山稜を行く/石場C三 ; 水谷正晴/110〜115
紀行 四尾連湖より本栖湖へ / 高力幸太カ / 183〜185
<抜粋>
                     2017・4・6 確認要 保坂→2021・9・27 発行月 確認済
月11日、「尾瀬ヶ原の保存について」の請願書をG・H・Qへ陳情する。
 本同盟(尾瀬保存期成同盟)は先に国会へ請願書を提出したが、N・R・S(天然資源局)、C・I・E(民間情報教育局)、E・S・S(經濟科学局)へも夫々請願書を出し、特にESSに対しては五月十一日東良三・鏑木外岐雄・岸衛・田村剛・本田正次・村井米子の各氏出頭の上説明をした   S25・8 「国立公園 第八號」より
6月、「日本高山植物図鑑(共著 武田久吉・田辺和雄・竹中要)」を「北隆館」より刊行する。
 
  18p×10.5p
資料 序
 終戦後己に五年、登山の気風も漸く隆盛に向かい、心身の鍛練を、山岳の間に風潮の著しくなったことは、大いに喜ばしいことといえる。自然の粹(いき)を萃(あつ)めた高山に登れば、四圍の風物が自ら人界のものと異なるのは、一度なりと経験ある人の能く知る処である。高山の独特な環境は、第一に地形の然らしめるものであるが、そこに生えている植物も亦関係することが多い。従って、地形竝びに植物に関係する知識を具えることは、登山を弥が上にも楽しいものにして呉れることは争えない。そこで、近年登山をする人々の間に、その方面の知識の要求が高まり、良い伴侶となる可き著述の要求が旺んになって来たことは、当然であると考えられる本書は斯様な要望に応えんとして生まれたもので、そのため先ず高山の上にどう植物が分布するものか、そして其等がどのような生活を送るかという一般的な事柄から説き起こし、次に本邦産の重要な高山植物と、亞高
山帯に生ずる、目に触れ易い種類、総計400種の格々を図説し、更にまた巻頭には多年に亙って高山上で撮影した写真を揚げて、その実景を髣髴(ほうふつ)させようと試みた。又読者の便を思い、巻末に附録として採集上の注意や、採集地の手引きや、栽培上の参考となるべき事柄を一括して述べておいた。(略)
6月、「厚生省国立公園部」が「尾瀬ヶ原の諸問題」を刊行する。
尾瀬ヶ原景観地の保留 田村剛
尾瀬の地形と地質 安齋徹
尾瀬ヶ原の植物 本田正次
動植物より見た尾瀬ヶ原 鏑木外岐雄
尾瀬と水電―回顧と批判―
武田久吉
尾瀬と水電―回顧と批判―(部分)
昭和22年に行われた尾瀬沼の水を隧道で片品川の上流に落とす工事の決定まで
 終戦の年であったろうか、尾瀬沼の水を隧道で片品川の上流に落とし、渇水期の用に供しようと計画した。然し軍部専横の時代であったのだから、理も非もなく着手したが、工事半ばにして終戦ということになり、そのまま放置してあった。それを年毎に増えて行く電力需要に応ずる一助にもと、日発で続行を計画し、その可否が問題となったのは、昭和二十二年の初夏の事であったと記憶する。商工省あたりは勿論賛成であっやが、否を唱えたのは厚生省と文部省であった。国立公園内を電力工事の如きで荒らすのは怪からんという訳であり、文部省も、未だ指定こそしていないが、天然記念物同様に大切にしている尾瀬沼に、濫りに手をつけるのは以っての外という意向であった。其等の人達と、日発側と会合し、相互に腹蔵のない意見を交換した結果、物分れという形であった。その会合に出る筈の私も、何か差閊があって、不参したので、詳しい消息は聞いていない。然しその後日発東京支店の土屋土木部長から計画の詳細を説明された時、それが夏から秋に向かって漸々水位を高めて、平水上一米迄貯水し、冬中平水下二米迄片品川の源流に放出して、下流五、六箇所の発電所で使用すれば、関東一帯一日量の需要を賄うだけの電力を得られるという案を聞いて、私の考は賛成に傾いた。/多年尾瀬の発電事業に妨害こそしなかったが、不賛成の旗幟を翻して来た私が、これに賛成するには相当な理由があった。第一には平水上一メートルの増水は、大雨後には常でも度々有ることであり、誰組れが平常は一週間内外で落水はするのだが、多雨の年には可成り連続的に起ることであるから、左まで沿岸の草木には害がなかろうと考えたること。第二に、沼の周辺には、絶対にそのまま保護しなければならぬという珍品奇種がなく、あってもそれこそ附近に移植して間に合うこと。第三に、尾瀬沼は原の方と違って、天然記念物としてよりも、寧ろ名勝として指定する可き地域である。その名勝たる生命はこの沼の存在に困るのである。それが私が最初に探った明治三十八年(1905)から見ると、水位がやや下がったかと思はれる節があるのと、それはとに角としても、北岸一帯に沼沢植物の増殖と、沼の中心に向っての進出とは、水界をせばめると共に、一部が沼沢化して行き、沼の湿原化を多少なりと促進する。つまり沼の生命を縮めて行くのである。寧ろ水の満々たることによって風致の生命を長からしめ、又貯水池として機能を発揮せんが為には、幾年毎かに沼沢植物の進出を阻止したり、又一部の泥土を浚渫することによって沼の命脈を延長するという、一挙両得とも考えられる。沼尻の堰堤にしても、沼の南岸の取水口にしても、風致を害さぬ注意を十分にやれば、これ亦不可能なことではないと考えたからである。日発側もそれに異存は勿論ないし、一日も早くこれを完成して、その年の冬の間に合わせ度いという希望であった。私はこの意味で厚生省側と文部省側の反対派と折衝した上、とにかく一度現地調査の上、何れにか決しようということになった。そこで七月初旬を期して數十名に上る関係者一同現地に向かい、終戦以来放置してあった堀削地、取入口の予定地及び沼の周辺の冠水区域を舟と徒歩とで調査の上、結局数々の条件附で許可に内定し、日発側では直ちにその手続をとったのであった。だがこれはどこ迄も臨時措置であり、必要が解消されれば中止するし、又悪結果が生じた場合には、変更か中止も考慮される筈である。
    出典 「自然保護NGO半世紀のあゆみ P12・13」より転写
    
国会図書館に厚生省国立公園部の発行した上本のないことを確認する 2017・3・21 保坂          
6月、「尾瀬ヶ原の回顧と水電問題」を「山と渓谷 No133」に寄稿する。pid/7933831
口繪 燧ガ嶽より尾P沼の俯瞰 / 武田久吉
口繪 燧ガ嶽より尾Pが原の俯瞰 / 岡田紅陽
口繪 菖蒲咲く尾Pガ原下田代 / 岡田紅陽
口繪 花咲く日光戰場ガ原 / 石川輝之
尾Pガ原の回顧と水電問題 / 武田久吉 / 19〜24
海外登山界ニュース / / 26〜27
登山界ニュース / / 39〜39
故木暮理太郎氏記念碑建設 / / 24〜24
高頭仁兵衞氏壽像建設 / / 77〜77
尾P濕原の泥炭地質 (1)尾Pの地形と地質 (2)尾Pガ原盆地の
  →堆積地層 / 安齋徹 / 28〜33
十年後の日光 / 千家哲麿 / 34〜37
尾P花譜(濕原花譜・高山花譜) / 館脇操 / 40〜43
メボソ鳴く(短歌) / 平野長英 / 42〜43
會津駒登山(短歌) / 川崎隆章 / 70〜71
奧日光花暦 / 矢島市カ / 44〜47
グラフ 北米のロツヂ / 安齋徹 / 26〜26
グラフ 泥炭層成生順序(四葉) / 安齋徹 / 30〜30
グラフ 明智平展望臺より西望(華嚴の瀑と中禪寺湖) / 内藤實
グラフ 尾Pの名花水芭蕉 / 佐藤保
グラフ 長藏小屋より燧嶽を望む / 南雲政逸
グラフ 景鶴山の岩ー、平滑の瀧 / 武田久吉
グラフ 尾P沼の冬 / 南雲政逸
グラフ 水芭蕉咲く初夏の尾P沼と燧嶽 / 酒井菊雄
グラフ 三條の瀑、燧嶽から俯瞰した尾Pガ原 / 武田久吉
グラフ 中禪寺湖南岸より男體山 / 内藤實
尾P座談会 (1)沼田より紅葉の尾P沼へ (2)尾P沼水路工事現場を見る
  →(3)長藏小屋の夜(戸倉と檜枝岐の方言比べ)
尾Pの昔・尾Pの交通・
  →尾Pの氣象・尾Pの美しさ・尾Pの名物・尾Pの動物・登山者の種々相・
  →登山者の遭難・尾P沼の水路工事について・尾Pガ原貯水地問題
  →(4)温泉小屋の夜(大岩魚を肴に熊狩噺) (5)落葉を踏んで尾Pが原から戸倉へ
  →(6)上州越本中里の一夜 / 星數三カ ; 平野長英 ; 星段吉 ; 萩原武治 ;
  →萩原岩雄 ; 萩原豊 ; 萩原善作 ; 橘良雄 / 50〜72
薫風の尾Pへ 長藏小屋より燧嶽を望む、尾P沼の朝、廣漠たるPガ原、
  →尾Pガ原より至佛山、菖蒲平より尾Pガ原俯瞰、水ク菖蒲平/岡田紅陽/74〜78
山小屋日記 或る年の五月の日記 / 平野長英 / 80〜82

表紙画解説 / 小山良修 / 80〜80
口繪解説 / 武田久吉 / 80〜81
口繪解説 / 岡田紅陽 / 81〜82
口繪解説 / 岡田紅陽 / 82〜82
口繪解説 / 石川輝之 / 82〜82
目次画解説 / 正井暉雄 / 78〜78
尾Pに寄す / 赤松稚枝 / 84〜85
詩 尾Pの朝 燧嶽にて / 北村善二 / 84〜84,85〜85
尾Pの山葡萄酒 / 橋本權藏 / 79〜79
スケッチ 尾P地帶集水域 / 安齋徹
スケッチ 三平峠より望んだ燧嶽 / 川崎隆章
スケッチ 尾Pガ原龍宮の位置 / 荻原善作
スケッチ 尾P沼水利利用計畫(日發) / 平野長英
スケッチ 三平峠越え尾P沼略圖
   →富士見峠越え尾P原略圖 / 川崎隆章
スケッチ 會津駒、大津岐峠附近及び尾P見取圖 / 田村榮
スケッチ 半月山と社山略圖 / 田中新平
スケッチ 目次カツト(日光太カ山よりの展望) / 正井暉雄
會津駒より尾P沼へ 小ヨッピ澤、半遭難の
   →思い出 / 田村榮 ; 佐々木啓祐 / 86〜90
山の湯を語る(5)湯西川温泉 / 麻生武治 / 92〜93
山と溪谷創刊二十周年記念事業(3)當選山の
   →歌≪作曲發表≫ / 小澤直與志 / 82〜83
紀行 南日光の靜境 新緑の社山 / 田中新平 / 96〜99
紀行 日光表連峰縦走 / 原全ヘ / 100〜102
紀行 栗山ク・秋の旅 / 川崎隆章 / 106〜109
登山地情報 / 編集部 / 103〜105
日光國立公園主要登山コースの手引 / 編集部 / 116〜
山の音樂と映画の會 /山と溪谷社;京王帝都;秩父鉄道;小田急;
  →京浜急行 / 82〜83
岳人往來 / / 49〜49,90〜90
山岳會消息 / / 94〜95
執筆家通信 / 西村武重 / 73〜73
憩い(讀者寄語) / 鈴木初代 / 83〜83
山溪クラブレポート / / 91〜91
火山脈 / 羽生田 / 48〜49
山岳實用箱原稿募集 / / 48〜48
登山病 / 福田亮一 / 94〜94
奧鬼怒温泉ク情報 / / 72〜72
希望出題・希望編集 / 山と溪谷社 / 73〜73
本社代理部(山岳圖書) / / 116〜116
本社代理部(登山用具) / / 116〜116
山溪バックナンバー販賣店 / / 114〜114
山溪出版便り / / 82〜83
夏山特大號豫告 / / 114〜114
編集室 / / 114〜114
四十前の尾P沼の思い出 / 赤城泰舒 / 110〜113
奥日光山岳概念図(特別附録) / / 115〜
7月11日、尾瀬保存期成同盟第五回の会合が開かれる。
7月18日、国立公園審議会委員が新宿御苑に集まり「国定公園の将来についての希望」と題して、座談会が行われる。 出席者 岸衛・田中啓爾・田村剛・武田久吉  「国立公園 第十号」より
8月、木暮理太郎が「山岳選書 登山の今昔」を「山と渓谷社」から刊行する。
8月、「旅 24巻8号」に「海と山の特集 亡びゆく尾瀬沼」を寄稿する。
8月、平野長英と星数三郎が「国立公園 第八号」に「尾瀬を護れ」を寄稿する。
私共の願い (一) 平野長英   (二) 星数三郎(福島県南会津郡桧枝岐村々長)
   また同号に「尾瀬保存期成同盟の動き」の欄に「第四回、会合」の動きを伝える。

              請願書
           尾瀬ヶ原の保存について
 最近の水力電源開発計画によれば、福島、新潟、群馬三縣に誇る尾瀬ヶ原一帯の地は特に永久に水底に没し去らんとする危機に直面している。
 わが国経済に対する水力電源開発の重要性は、勿論、われわれの齊しく認めるところであるが然もなお同地域は別添冊子に詳説する通り、日光国立公園の最も重要な部分を占め、わが国の代表的な原始的高層湿原風景を保持するのみでなく、地学動物植物学等各分野に亘り今後の解明に俟つべき貴重な学術的資料を極めて豊富に秘蔵する世界的存在であるのである。
 只見川水域の電源開発には幾つかの計画案があるが尾瀬ヶ原を破壊せずして経済的及び技術的に日発案に匹敵する発電量を得る方途も可能という。然かも日本の既開発電源は未だ三割に過ぎず未開発七割の中計画中のもの一七二一地点その最大出力一三六三萬キロに上る候補地を保有するのであるから、予測し得ざる歳月を賭け施工上の最大の悪条件と闘ってまで、唯一無二の尾瀬ヶ原一帯を水底に没し去るが如き暴挙に対しては吾人の到底興し得ざるところである。
 尾瀬保存期成同盟は自然を保護してその恩恵の均霑化を図り、学術文化の発達向上並び観光利用による国際理會の深化と国際収支の改善とに貢献せしめるため、かかる大自然の傑作を原始の状態において保護することをもって当代の重大な責任であると信ずる。よって本問題につき汎く国民の良識に愬えると共に広く同憂の士と呼応しこれを人類文化の問題として当路の反省を促さんことを決議し、同地域の永久保存につき国会の高邁な理解による有効な支持と適切な処置とを要望するものである。
 右請願する。
               尾瀬保存期成同盟
本田正次 武部英治 小林義雄 折下吉延 田中啓爾 足立源一郎
大井次三郎 田中耕太郎 東 良三 岡田紅陽 田村剛 佐竹義輔
川崎隆章 武田久吉 岸  衛 鎬木外岐雄 塚本閤治 三田尾松太郎
冠 松次郎 辻村太郎 三浦伊八郎 谷川徹三 中井猛之進 平野長英
安部能成 中村清太郎 関口泰 田部重治 村井米子
                          右代表者
本田正次・鎬木外岐雄・田中啓爾
田村剛・村井米子・三田尾松太郎

      注 「国立公園 第八号」より記述、 請願書の実際を確認しておりませんので文字、行数、配列等は不明ですので、ご注意願います。
         
請願日の記入がないので原本との検討が要 2016・6・10 保坂記
9月、「富士山 岩波写真文庫15(監修)」を「岩波書店」より刊行する。  

  「富士山 二、富士山の気象 雲」より
撮影者はどなたでしょうか (調査要)
 昭和6年9月に刊行された「日本地理大系別巻富士山」には、笠雲の写真が12枚掲載されています。その内の9枚が武田博士が撮影されたもので、富士見平からが2枚と精進湖畔からが7枚で、それぞれ笠雲が発生する経過を写真に収めています。

 左の写真は「富士山 岩波写真文庫15」に掲載されている写真ですが、撮影地や撮影者の記載がありません。更にその表現法が絵画的で一幅の絵を見ているようにも見えます。他に「富士山 岩波写真文庫15」の写真撮影者を記載して、今後の検討資料にしたいと思います。津屋弘達・安部正直・清棲幸保・塚本閤治・岩波写真製作所「日本地理大系別巻富士山」は小林義秀
9月10日、「文部省初等教育課編集 初等教育資料(5)」に「尾瀬の真相」を寄稿する。
 
  文部省 初等教育資料
     第5集
(略)ダムの予定地は、基盤の花崗岩を覆う溶岩や、その破片・泥土・泥炭が100米以上も堆積した地点である。安全なダムを造るのは容易な事業ではない。深山中の深山地、而も一年の過半は深雪に埋もれ、真冬には息もつけない程の吹雪に見舞われるし、積雪は四米にも達する。/川の左岸の新潟県分は、まだ良いとして、右岸の福島県分は燧が嶽の裾の綏傾斜地である。ダムの長さも、一粁は必要だ。而も此処は保護林に指定されて居るから、大規模の伐採など許されない。/無理をして、幾千年も掛けて築堤した処で、此処の自然水では発電には遥に不足する。他の河川からポンプ・アップする電力が、若しあるのなら、他の事業に利用した方が利口である。
 利根川の支流、例えば八木沢などを適宣利用した方が、工事も簡単であり、年数も掛からず、焦眉の急を救うには遥に策の得たものである。而も唯一の景勝地、学界の宝庫、万人の愛惜す
る地を破壊せずに済む。而も尾瀬が原を貯水池にしようとする案は、専門家の綿密な調査に基いたのではなくて、本来が素人の四十五年も前の思付きに端を発して居るのである。/法隆寺の壁画は人工のものである。模写も可能であるし、又他にそれ以上のものを描き得る人が出ないとは限らない。然し、天工に成るこの大自然、而も学界の宝庫そして惜しまれ、能く天然のままお姿に保存された、そして風景要素が整った尾瀬が原を、この国の為に保存することの利益を、悟り得ない人が、この国民の中に一人でもあるのであろうか。    (総司令部天然資源局勤務)
9月、舘脇操博士と北見地方を歩く。  <舘脇文献集 p74>
置戸→温根湯国有林→留辺蘂→北見
9月、山口隆俊が「香蘭 第27巻第5号」に「曼珠沙華考(三) 補遺」を寄稿する。 武田家所蔵本 
9月21日、折口信夫が日本山岳会第125小集会に於いて「山の信仰と宗教(上)(下)」に就いて講演する。

            日本山岳会1964・8−9 No234号ーNo235号より
10月、「国立公園 第十号」「国定公園の将来についての希望(座談会)」の内容が掲載される。
11月、山口隆俊が「香蘭 第27巻第6号」に「曼珠沙華考(四) 補遺」を寄稿する。 武田家所蔵本 
11月24日、神田YMCAに於いて、日本山岳会「名誉会員晩さん会」が開かれる。
(出席者・58名)武田久吉(会長)・高野鷹蔵・三枝守博・鳥山悌成・田部重治・加賀正太郎・中村清太郎・槇有恒(以上名誉会員)・吉田竹志・加藤泰安・海野治良・米澤益二郎・名須川浩・藤井運平・沼倉寛二郎・網倉志朗・百瀬舜太郎・長富修吉・相内武千雄・村山雅美・今村正二・野口末延・初見一雄・逸見眞雄・日高信六郎・堀田弥一・渡辺公平・石原巌・早川種三・山田力・林和夫・松方三郎・小原勝郎・伊藤隼・牧野衛・田辺主計・成瀬岩雄・織内信彦・佐藤テル・藤島敏男・川森時子・佐藤久一朗・岡茂雄・瀬名貞利・望月達夫・高木正孝・田口二郎・石原憲治・大澤伊三郎・三田幸夫・神谷恭・外山義夫・古澤肇・福井正吉・原全教・森久保康夫・佐久間宏・谷口現吉・関根吉郎(世話人藤島・神谷・成瀬)            「山 日本山岳会々報 No153 1951・1」より
12月、「山と渓谷 139号」に「冬山隨想集 私のスキー登山」を寄稿する。pid/7933837
冬山隨想集 不二雪中登山 / 野中到 / p48〜48
冬山隨想集 冬富士の笑窪 / 廣P潔 / p49〜49
冬山隨想集 私のスキー登山 / 武田久吉 / p50〜50
冬山隨想集 冬山の凍死者救助 / 犬飼哲夫 / p51〜51

グラフ 高田地方の豪雪 / 小池義夫 / p20〜21
スキーゲレンデ案内 富士山太郎坊 / 白鳥良平 / p122〜123
火山脈 谷川岳の遭難を繰返すな / p84〜85
スケッチ 東京から見える富士六圖 / 正井暉雄 / p204〜209
東京から見える富士について / 正井暉雄 / p204〜209
火山脈 谷川岳の遭難を繰返すな / p84〜85
スケッチ 東京から見える富士六圖 / 正井暉雄 / p204〜209
東京から見える富士について / 正井暉雄 / p204〜209

〈抜粋〉
12月、「国立公園 第十二号」に「磐梯朝日の地形地質・動植物」を寄稿する。
地形と地質
哺乳動物
植 物
安斎徹
岸田久吉
武田久吉
〇この年、塚本閤治著 「塚本閤治作品集/日本の山々 第2集「(2) 飯豐山 武田久吉」を寄稿する。pid/2995431
〇この年、日本植物学会 編が「植物学選集 : 宮部金吾博士九十賀記念」を刊行、「植物の名義と方言 」を寄稿する。
口繪 宮部金吾博士近影/序 小倉謙 植物病理學界展望 栃内吉彦
宮部先生の略歴 伊藤誠哉 植物の傳染病と環境 / 逸見武雄
植物方言の小解 牧野富太カ 我國に於ける植物バイラス病?究の發達 福士貞吉
植物の名義と方言 武田久吉 羊齒種子類の諸問題 小倉謙
地衣成分を種名學的要素として利用することは合理的なるか 朝比奈泰彦 我國に於ける海藻學發達の經過 山田幸男
イハザクラ節のサクラサウ類 中井猛之進 ケシヤウヤナギに就て 木村有香
支那植物區系地理總説 小泉源一 日本植物地理學の寄與 舘脇操
小麥屬に於けるゲノム分析の變遷 木原均
    参考 「植物の名義と方言」イスランドゴケの項に和名ホソバノイスランド苔についての記述あり
1951 昭和26年 68 1月、「あしなか 第21輯」に「門入道」を寄稿する。
2月、山口隆俊が「香蘭 第28巻第1号」に「曼珠沙華考(五) 補遺」を寄稿する。表紙絵(アネモネ) 鈴木信太郎 武田家所蔵本 
4月、「香蘭 第28巻第貳号」が刊行される。。表紙絵(アネモネ) 鈴木信太郎 武田家所蔵本 
   また、別刷りで山口隆俊が「「曼珠沙華」に就ての御願ひ」を挿む。
  
 香蘭 4月号 鈴木信太郎画
「曼珠沙華」に就ての御願ひ」(全文・縦字)
暖かくなりました。突然ですが何時か高田保氏が東京日々紙上の「ブラリひょうたん」に曼珠沙華の事を書かれてから、其御話に疑問を生じ、以来武田久吉博士の指導を仰ぎ乍ら、前後五回にわたり歌誌「香蘭」に曼珠沙華を書いて参りました。一応打切るつもりの処、其の第五回発表に曼珠沙華の俗称が五十余程ある由、牧野博士が日本植物図鑑に書いて居られるのを、武田博士と果して如何であろう。「香蘭」誌友の手で調査して頂きましょうと約束致しました事を発表しました処、早速高田保氏よりも同氏の郷里での俗称等も進んで御通報あり。今度香蘭誌友は元より、新万葉集に曼珠沙華の歌を発表して居られる諸先輩のみならず、短歌声調現代詩人人名辞典で曼珠沙華の歌を発表して居られる方々にも御願いして調査して頂き、其結果を整理して最後に牧野博士にもお会いして、其根拠を教えて頂き「香蘭」紙上に発表さして頂き
たいと存じますが是非御援助下さいます様御願い致します。先の條項其他特種な御研究があれば参考にさして頂きたいと存じます。大体六月末迄で一応締切りたいと存じますから、拙宅迄御一報御惠與賜らば感謝の至りです。
先は右御願迄
一、報告者の住所姓名
二、曼珠沙華の俗称 /三、其俗称を使って居る地域
四、其俗称の起源伝説等 
五、其他曼珠沙華に関する研究報告
(附近高等学校の生物学教授等に御質ね下さると仲々良い情報が得られるかと存じます。)
一九五一年四月
川崎市鹿島田九五四「香蘭」同人住所(省略)/山口隆俊 
参考 上記の文章は、曼珠沙華に対する同氏の呼びかけ文ですが、博士が大正6年9月、「山岳」に、藻類についての呼びかけ法と考え方が同じだったので、参考として掲載をいたしました。 2018・11・6 保坂記
4月、「山と渓谷 第143号 丹澤山塊号」に「四十年前の丹沢」を寄稿する。 pid/7933841
口絵 降雪後の丹澤表尾根 蛭ガ嶽の藥師佛 大石山の南面と玄倉川・
グラフ 地藏澤源頭からの蛭が嶽、逆木附近から臼・蛭・不動の玄倉川水源の山々、山神峠の山神と水神碑、札掛の大欅 五十歩の頭から龍ガ馬場と三境の峯
   また、同号に前田鐵之助が「山麓雜詠より(詩)」を寄せる。
東京から見える丹沢山塊 玄倉山を遡る
失われた塔ノ嶽の黒尊仏
(略)年毎に山麓の大倉から数百人の人達をひきよせた。それとまたこの山には、大正十二年の大震災で亡失する迄、頂上の北裏に、黒尊仏又は御塔と呼ばれる巨巌があって、雨乞いその他の信仰の為に折々は登る者もあった。/それのみでなく、最高峰蛭ケ嶽に薬師仏を、その東に続く峰に不動尊を祀り、それと黒尊仏のある塔の嶽の三峰を巡って参拝する講中もあって、これは主として北麓鳥屋(とや)から早戸(はやと)川に沿うて登るのが普通で、その先達は武州南多摩郡由木(ゆぎ)村の竹内富造という人であった。(略)
幽邃の境地に驚喜
 先頭が逆木に着いたのは十時半。落葉樹の原始林を縫うと約四粁、高距にして二〇〇米ばかりを下ったのである。ここで玄倉川に再会した訳であるが、両岸から差し出した樹木の長い枝を漏れて差す陽光は、白く輝く閃緑岩の河床の上を、音も無く流れる透明な水を照し同じ岩質の岩塊が川を横切って竝ぶ間に板を渡して足場としてあり、岩の上には、鰐の子供が甲羅を干してでも居るかとさえ思われる風情であった。(以下略)

博物学同志会の誕生 高さ三丈の黒尊仏 ※)一部を明治38年の項に記しました。
同志会の丹沢登山 雨で蛭が嶽を断念
丹沢は幕府の御留山(おとめやま) 三境ノ峰を狙う
資料@ (明治38年9月24日、玄倉から塔ノ岳に立って)、「頂上に達したのは午後五時五十分・・・・狭い平かな山嶺には小さな石祠があり、その周辺にはウメバチソウの白い花とウスユキソウの白い葉とが一面に密生して居るのが認められた他、あとは悉く薄墨色に塗潰されていた
           
H16・7発行 奥野幸道著「丹沢今昔」より
参考(詳細):山と渓谷 (143) 山と渓谷社
口繪 降雪後の丹澤表尾根 / 武田久吉
口繪 塔の嶽の尊佛岩 / 松井幹雄
口繪 蛭ガ嶽の藥師佛 / 武田久吉
口繪 大石山の南面と玄倉川 / 武田久吉
四十年前の丹澤を語る / 武田久吉
/ p19〜27
海外登山界ニュース / p29〜29
登山界ニュース / p38〜39
山で餓鬼につかれる話--ヒダル神のこと / 大藤時彦 / p30〜32
丹澤山塊の雨と雪 / 石川治郎 / p34〜35
(殘)(雪)(繪)(考) / 岩科小一郎 / p40〜43
思い出の丹澤 / 尾關廣 / p44〜47
春の夜の尊佛小屋の窓の灯(詩) / 平野武次 / p48〜49
岳界時言 國體登山に望む / 御在所入道 / p52〜53
尊佛小屋略歴書 / 根本行道 / p54〜58
丹澤山塊遭難の一考察 初心者の遭難について 中級者の
   →遭難について / 坂井光一 / p60〜63
丹澤の谷歩きいろはがるた / 平岡靜哉 / p64〜65
丹澤山麓宿泊所案内 / 編集部 / p64〜65
グラフイック 丹澤K部 玄倉川本谷溯行 / 風見武秀 ; 天野誠吉 / p66〜69
グラフ 地藏澤源頭からの蛭が嶽、逆木附近から臼・蛭・不動の玄倉川水源の
  →山々、山神峠の山神と水神碑 / 武田久吉
/ p20〜22
グラフ 札掛の大欅 / 武田久吉 / p44〜44
グラフ 玄倉川上流諸士平に於ける塔ガ嶽採集の一行、同諸士平の番小屋で
  →握飯を食べる一行 / 鷹野高藏 / p24〜24
グラフ 五十歩の頭から龍ガ馬場と三境の峯 / 武田久吉 / p26〜26
グラフ 再建した尊佛小屋 / 佐伯啓三郎 / p54〜54
グラフ 在りし日の尊佛小屋 / 根本行道 / p55〜55
グラフ 洗戸澤奥壁、田子倉の熊狩の衆、岩小屋より見た
   →洗戸澤奥壁 / 川上晃良 / p114〜117
グラフ 大崩連峯、大小積岩、湧塚 / 橋本三八 / p124〜128
グラフ 弓張平から月山、姨ガ岳、湯殿山 / 村井米子 / p131〜131
グラフ 守門山の雪庇 / 高橋藤雄
グラフ 今は亡き人々、谷川岳西黒尾根三合目ベースキヤンプ、
   →遭難現場 / 佐野高校山岳部 / p136〜137)
丹澤の暴力團“猪”―付、丹澤登山者の服裝瞥見 / 菅沼達太郎 / p70〜73
丹澤の原始境 蛭ガ岳--檜洞丸 犬越路
   →≪讀者希望出題≫ / 天野誠吉 / p74〜77
丹澤の傳説 (一)水無川の由來 (二)四十八P川の由來 (三)震生湖の由來
  →(四)矢櫃峠の飢餓病 (五)孫佛山の雨乞い / 蒲谷年男 / p78〜7
丹澤の山に春が來た(詩) / 高橋義弘 / p78〜79
丹沢登山案内 (1)大山川 / 東京雲稜會 / p82〜83
丹沢登山案内 (2)水無川 / 東京雲稜會 / p83〜85
丹沢登山案内 (3)大瀧澤 / 宮坂和秀 / p85〜86
丹沢登山案内 (4)キウハ澤 / 宮坂和秀 / p86〜87
丹沢登山案内 (5)勘七澤 / 宮坂和秀 / p87〜89
丹沢登山案内 (6)葛葉川 / 宮坂和秀 / p89〜91
丹沢登山案内 (7)中川川赤澤溯行檜洞丸へ / 天野誠吉 / p91〜92
丹沢登山案内 (8)湯の澤溯行彌七澤下降 / 天野誠吉 / p92〜94
丹沢登山案内 (9)大杉澤より大石山へ / 天野誠吉 / p94〜96
丹沢登山案内 (10)大野山 / 東京雲稜會 / p96〜96
丹沢登山案内 (11)大群山 / 東京雲稜會 / p96〜97

丹沢登山案内 (12)菰釣山 / 東京雲稜會 / p97〜98
丹沢登山案内 岳人辭典(13)〔ニ・ヌ・ノ・ハ・ヒ・フの部〕 / 牧田不二篇 / p82〜98
山の文化施設 山の憩いの家 / 野口巖 / p100〜103
丹澤の山窩 / 中山謙治 / p104〜105
春山の薪運び / 板倉黎子 / p106〜107
春山への回想 / 坂倉登喜子 / p108〜109
山麓雜詠より(詩) / 前田鐵之助 / p36〜36
≪登山實用箱≫ カメラ取付具 / 岡野重雄 / p129〜129
≪登山實用箱≫ 僕の眞魚板 / 吉田諭 / p122〜122
スケッチ 殘雪繪考六圖 / 岩科小一郎
スケッチ 塔ガ岳頂上尊佛小屋 / 根本行道
スケッチ 猪よけのバリケード、猪の肉を喰う、原始的形相と變つた
  →ハイキングコース、澁澤驛にて(登山者の服裝三態)/菅沼達太郎
スケッチ 山の憩いの家四圖 / 野口巖
スケッチ 蛭ガ岳―檜洞丸 / 天野誠吉
スケッチ 丹澤山中心略圖、勘七澤略圖、葛葉川近傍略圖/宮坂和秀
スケッチ 中川川東澤本棚澤略圖、湯ノ澤溯行略圖、大杉澤略圖/天野誠吉
スケッチ 會津朝日岳概念圖 / 川上晃良
スケッチ 湧塚・小積附近圖 / 橋本三八
スケッチ 守門山の雪庇の説明 / 高橋藤雄 ; 安齋徹
スケッチ カメラ取付具二圖 / 岡野秀雄
スケッチ 西K澤略圖、同遭難現状見取圖 / 佐野高校山岳部
スケッチ 上越國境縦走概念圖 / 高橋定昌
スケッチ 卷機山登路略圖 / 金指元憲
登山地情報 〔付・丹澤周邊バス時刻表〕 / 編集部 / p110〜113
記録 南會津朝日岳登山--田子倉側より / 川上晃良 / p114〜122
記録 日向大崩山 湧塚の岩場 / 橋本三八 / p124〜128
月山の春スキー / 村井米子 / p130〜132
淺春・山の朝(詩) / 北村善二 / p80〜80
表紙畫解説 / 石川滋彦 / p83〜83
目次カット解説 / 正井暉雄 / p84〜85
執筆家通信 / p81〜81
憩い(讀者通信) / p123〜123
岳人往來 / p27〜27,38〜38
新刊紹介 / p73〜73
登山質問室 / p28〜28,59〜59,122〜122
山岳會消息 / p134〜135
高校山岳部に就て / 北村武彦 / p134〜135
火山脈 / p99〜99
富士登山所感 / 正井暉雄 / p99〜99
スタンプの有料捺印 / 高林弘一 / p99〜99
本仁田山の指導標 / 高田孝 / p69〜69
山溪倶樂部レポート / p133〜133
オスロのジャンプ臺 / p58〜58
山の文化施設原稿募集 / p103〜103
社告(摯ナ斷行について) / p33〜33
新編登山地圖帳 / p161〜161
山溪出版部 / p46〜46
希望出題・希望編集 / p81〜81
本社代理部(山岳圖書) / p48〜48
本社代理部(登山用具) / p49〜49
山溪バックナンバー / p47〜47
登山地圖帖販賣店 / p162〜162
次號要目 / p162〜162
編集室 / p162〜162
山と溪谷社 主催・春のハイキング寫眞展覧會 / p50〜50
谷川岳西黒澤遭難報告 / 栃木縣佐野高校山岳部 / p136〜143
冬富士の大雷雨 / 野中到 / p144〜145
足を折つた登山家(創作) / 廣P潔 / p146〜153
上越國境縱走報告 第二隊報告(中ノ岳―下津川山)/ 川崎山岳會/p154〜157
上越國境縱走報告 第三隊報告(下津川山―卷機山)/ 昭和山岳會 /p157〜160
山と溪谷社 後援・塚本閤治氏作品總天然色映画 日光國立公園の夕/p51〜51
5月、「尾瀬 岩波写真文庫 33 (監修・写真)」を「岩波書店」より刊行する。
 
巻頭部分の原文
 そこなわれたこの国の自然を嘆く声が一方に起こって緑地運動その他の提唱がなされる他面、この尾瀬の秘境は、世界にもたぐい稀な大湿原尾瀬ヶ原をはじめ、周辺をかこむ山岳、森林、渓流、瀑布、湖沼がいくたの珍しい動植物とともに、水力発電の犠牲となり水底に没しようとしている。私たちはその賛否かまびすしい議論に加わる前に、まずこの秘境を探ってみよう。そこには自然の美が惜みなく展開されている。と同時に、たゆみなく生成発展しつづけてやまない自然の活動が、一木一草の目にもとまらぬ動きを通じ、壮大な“実験”をくりひろげて私たちを待っている。
  かまびすしい:うるさい。やかましい。さわがしい
5月、「国立公園 No18 P7〜10」に「尾瀬ヶ原を語る」を寄稿する。
5月、北海道から、青森県黒石町外の農試場、大曲農試場、鶴岡、新発田、高田を経由する大旅行を行う。 途中、「津軽海峡に機雷が出没し出航が狂い青森についてからチト忙しい思いをしました。」と記す。      5月22日消印、妻、直子に宛てた「郵便はがき」より  2015・4・6 保坂記
(略)北海道の旅は連日晴天に恵まれ岩見沢・旭川・永山・名寄・北見と/歩き十九日の午后札幌に戻りました。ルベシベの奥のオンネ湯と、/昭和三年に大雪山その時泊ったソーウン峡温泉に泊りノンビリしました、津軽海峡に機雷が出没し出航が狂い青森についてからチト忙しい思いをしました。然し無事寝台に寝て船ではゆっくり出来ました。今日は青森県黒石町外の農試を訪ひ、電車で弘前に出て/大阪行きの汽車を捉へてこれから秋田行き、明日は大曲の農試、明后日は鶴岡、廿四日は新発田、廿五日に高田に着、こゝで廿九日に帰るか丗日にするかを確定する筈ですが丗日となるでせう
6月、「山と渓谷 通巻145号」に「奥上州山旅の思い出」を寄稿する。 下記は博士撮影の写真 pid/7933843
口絵 月夜野から望んだ耳二つ 口絵 渋澤の頭より上越国境の諸山
グラフ 天神峠から笠ガ嶽と七ツ小屋山 グラフ 法師温泉と・川古温泉
グラフ 谷川岳と越後富士・天神峠から仰いだ耳二ツ・小出俣岳と阿能川岳
   また、同号に安達成之が「谷川岳の動植物」を寄稿する。
7月、日本自然保護協会が設立される。
7月、今野圓輔著「民俗学研究所編 柳田國男監修 桧枝岐民俗誌」が「刀江書院」より刊行される。
8月、「野の花ー春 岩波写真文庫(監修)」を「岩波書店」より刊行する。
 
 ヒナスミレ(左)とフモトスミレ(右)
   「野の花ー春」 P28より
「野の花ー春」 P28より(原文)
 ヒナスミレは本州中部の特産で、前頁のシハイスミレシハイスミレは、葉の背面が紅紫色をおびているのでその名があり、本州、九州、四国の山麓山陵丘陵に分布している。花は淡紅紫色で直径1.5p、距は筒状で長いに似ているが、葉の幅がひろく細長い卵形をなし、質がやわらかい点で区別がつく、花は淡紫紅色、ヒナスミレには葉の表面に、白いまあだらをもっているものがあり、それをフイリヒナスミレとよぶが、フモトスミレもこれに似ているが、葉
がずっと小さく、卵状楕円形をなし、花は白く下瓣に紫の細いすじがある、本州の中南部から、九州にかけ分布している。
      参考 ヒナスミレの採集者 M.Oguma! H.Takeda! H.Nambu! T.Makino! etc! etc!
       
ヒナスミレの学名 Viola Takedana Makino 1907年植物学雑誌第26巻○号 2014・8・14 再調査要
8月、「山と渓谷 (147) 」が「と渓谷社」から刊行される。 pid/7933845
擴張された日光國立公園/矢島市郎 / p19〜23
◇海外登山界ニュース / p43〜43
◆登山界ニュース / p24〜25
尾Pの學術的價値/安達成之 / p26〜31
秋來の庭(短歌)/平野長英 / p27〜27
澄める空(短歌)/川崎隆章 / p29〜29
日光・尾Pの湖沼と濕原/安齋徹 / p32〜37
那須の追憶/武田久吉 / p38〜42
秋・の・奥・日・光/冠松次郎 / p44〜47
◇深夜の怪鳥の聲/中西悟堂 / p48〜49
先人の面影 (3)辻村伊助篇/高野鷹藏 ; 中村清太郎 / p50〜53
グラフ 菖蒲平にて/船越好文/
グラフ 辻村伊助の肖影/高野鷹藏 / p50〜50
グラフ 四月の中禪寺湖、綿菅咲く戰場ガ原/石川輝之 / p32〜34
グラフ 尾Pガ原仲田代/船越好文 / p35〜35
グラフ 沼尻濕原より尾P沼/内藤實 / p36〜36
グラフ
三本槍と朝日嶽、那須殺生岩、茶臼嶽、奥州駒返坂の石碑
   →
赤崩山と鏡沼/武田久吉 / p38〜41
グラフ 追神祭り/宮尾しげを / p63〜63
グラフ 岩魚/松本昇/
グラフ 菖蒲平にて/小林章 / p78〜78
グラフ 白砂濕原/近藤正春 / p80〜80
グラフ 清流に咲く水芭蕉/小合正勝 / p81〜81
グラフ 懐しの會津駒/小瀧清次郎 / p106〜106
グラフ
那須三本槍より赤崩山/武田久吉 / p110〜110
グラフ 地獄谷より權現澤(春季)/川上晃良 / p124〜124
グラフ 舊道川合よりのコップ状岩壁/餅田茂 / p138〜138
グラフ マチガ澤S状曲點より遭難現場を望む/加藤章 / p144〜144
只見川の深峽を探ねて--尾P沼、銀山平まで/渡邊萬次郎 / p54〜60
日光裏ばなし 〈第1話〉赤城と日光の戦い/萩原豊 / p62〜63
日光裏ばなし 〈第2話〉狩に生きる民/萩原豊 / p63〜66
日光裏ばなし 〈第3話〉金精峠と「さいの神」/萩原豊 / p66〜67
日光裏ばなし 〈第4話〉故人の足蹟/萩原豊 / p67〜68
山行歌曲集(4)--南ドイツ民謡〈タンネの森の小鳥〉オーストリア民謡
   →〈チロールの卷〉/早川義郎 / p70〜71
爽凉の尾Pへ/正井暉雄 / p72〜76
尾Pの食虫植物/志方欽二 / p78〜81
◆三條の瀑林道(詩)/高橋義弘 / p78〜81
*日光國立公園宿泊所案内/編集部 / p128〜129
*日光國立公園内バス時刻表/編集部 / p133〜133
日光國立公園登山案内
 <尾P>(1)尾P沼と尾Pガ原を探る/矢島市郎 / p82〜83
 <尾P>(2)會津駒ガ岳と燧裏林道/矢島市郎 / p83〜83
 <日光>(1)光コキャンプ村から切込・刈込湖/矢島市郎 / p83〜84
 <日光>(2)奥白根登山/矢島市郎 / p84〜86
 <日光>(3)奥鬼怒温泉郷/矢島市郎 / p86〜86)
 <那須・藤原>(1)那須岳と温泉めぐり/矢島市郎 / p86〜87
 <那須・藤原>(2)藤原、新湯大沼めぐり/矢島市郎 / p87〜88
 <高原山>(1)八方原から□の湯、鶏頂山の旅/矢島市郎 / p88〜89)
 <高原山>(2)足尾庚申山/矢島市郎 / p89〜90
★山岳語彙(16)〔ミムモヤの部〕/牧田不二 / p82〜87
(わ)(ら)(じ)(隨)(談)/向山雅重 / p92〜95
わらじの思い出/高野鷹藏 / p94〜95
長藏山人(創作)/廣P潔 / p96〜101
紀行 秋の鹽原日留賀岳/羽賀正太郎 / p103〜105
紀行 會津駒と檜枝岐/小瀧清次郎 / p106〜109
紀行 北那須紀行--二岐山より三本槍へ/古市義孝 / p110〜113
◇日光街道・杉並木(詩)/北村善二 / p91〜91
スケッチ 日光尾P湖沼濕原概念圖/安齋徹 / p33〜33
スケッチ 志津道より太カ山、太カ山より男體山/中村清太郎 / p45〜46
スケッチ 杓文字を作る落人部落の人/萩原? / p66〜66
スケッチ 燧嶽南面見取圖/川崎隆章 / p79〜79
スケッチ わらじ隨談二圖/向山雅重 / p92〜93
スケッチ 只見川上流略圖/渡邊萬次カ/
スケッチ 北那須略圖/古市義孝 / p112〜112
スケッチ 八ガ岳概念圖/川上晃良 / p126〜126
スケッチ 鹿兒島市外より櫻島をのぞむ/宮下三千年 / p134〜135
スケッチ 二ノ澤本谷大棚登攀圖、同右股本谷略圖/東京克R岳會/p140〜142
山の寫眞の撮し方〔第三回〕/船越好文 / p114〜120
山の文化施設 小規模なヒュッテ/野口巌 / p121〜123
岩場めぐり(16) 八ガ岳の岩場/川上晃良 / p124〜127
≪登山實用箱≫ 私の山行マスコット/石原利夫 / p37〜37
登山地情報/編集部 / p128〜133
日光の渓流釣/編集部 / p60〜60
車窓の山々(1)--南九州の地質を採る/宮下三千年 / p134〜135
目次カット解説/正井暉雄 / p84〜85
執筆家通信 / p69〜69
憩い(讀者寄語) / p77〜77
新刊紹介 / p53〜53,109〜53,109
登山質問質 / p90〜90,132〜90,132
那須八幡温泉(詩)/北村善二 / p47〜47
那須連峰(詩)/小池吉昌 / p47〜47
10月、「尾瀬保存期成同盟」を発展解消、「日本自然保護協会」が発足する。
   参考 日本自然保護協会会員一覧と略歴(1951年10月現在)
   *印は,協会設立発起人18名 旧尾瀬保存期成同盟参加者 29名 
 
理事長 *田村剛林学博士・東大講師
理事 井上万寿蔵鉄道省官僚 評議員  安部能成学習院院長,元文部大臣
同 *鏑木外岐堆東大教授(理学博士,動物学) 同 *辻村太郎東大教授(理学博士,地理学)・日本山岳会名誉会員
同  *本田正次元東大教授(理学博士)・東大小石川植物園長 同 *高久甚之助元日本ツーリスト・ビューロー役員
同  *三田尾松太郎登山家・鉱業経営者 同  武田久吉理学博士・日本山岳会会長
同  *岸衛国立公園施設協会会長 同  武部英治全日本観光連盟理事長
評議員 *東良三著作家,日本山岳会会員 同  塚本閤治山岳映画作家
同 *岡田紅陽写真家・(財)日本観光写真連盟会長 同  津屋弘達東大教授(理学博士,火山学)
同 *折下吉延元宮内庁技師,造園家(農学博士) 同  徳川宗敬参議院議員(農学博士),日本博物館協会会長
同  冠松次郎登山家,日本山岳会会員 同  *村井米子著述家・日本山岳会会員
同 足立源一郎画家・日本山岳画協会会員 10月30日以降の参加
評議員  石井柏亭洋画家,美術評論家
同  黒田鵬心美術,建築評論家 同  大井次三郎植物学,国立科学博物館 
同 *小糸源太郎画家 同  川崎隆章山と渓谷社経営者,登山家 
同 *小林義堆理学博士・国立科学博物館,菌藻学者 同  黒田長礼鳥類学,日本鳥学会会頭
同 *下村宏元逓信省官僚,法学博士,元拓殖大学長 同  佐藤久
同  関口泰元厚生省官僚,旅行作家・前社会教育局長 同  島田隆次郎
同 *田中啓爾立正大学教授(地理学) 同  田中薫経済地理学,神戸大教授
同 *田部重治東洋大教授・日本山岳会会員 同  中西悟堂野鳥研究家,日本野鳥の会創設者
同  藤島亥治郎東大教授(工学博士),文部省文化財審議会委員 同  山階芳麿鳥類学,山階鳥類研究所長
同  松方三郎共同通信編集局長,登山家 同  山根銀一日本工業倶楽部主事
同 *三浦伊八郎元東大教授(林学博士),日本山林会理事長 同  吉江勝保元猛商務省官僚,元内務省社会局長
同  福原楢男 同  吉阪俊蔵元内務省官僚,山梨県知事
同  中沢真二電力技師 田中耕太郎 元文部大臣・最高裁判所長官
同  中村清太郎画家・日本山岳画協会会員 佐竹義輔 佐竹南家第19代当主、東京科学博物館植物研究部長
同 *中井猛之進理学博士・国立科学博物館長 平野長英
同  谷川徹三法政大学教授(哲学)
  団体会員  国立公園協会・日本風景協会 10月30日以降からの参加 日本山岳協会・日本鳥類保護連盟
 この会員一覧は、村串仁三郎の「【研究ノート】戦後後期の国立公園制度の整備・拡充(1)―1951年.1957年―」の研究論文から引用、2013・10・19一部を加筆をしました。一部加筆の箇所は、尾瀬保存期成同盟結成時には参加していたが新たに発足した「日本自然保護協会」へのメンバーに加わらなかった3名(田中耕太郎・佐竹義輔・平野長英)を書き添えました。 (敬称略)
12月、「日光 岩波写真文庫(監修矢島市郎・武田久吉)51」を「岩波書店」より刊行する。
はじめに(全文)
 私たちか國土の美しさに、おのずから寄せる愛情も、しばしば多くのゆがみをうけていた。日光は古くから、自然の美と人口の美を兼ねそなえた名所とうたわれてきた。しかし案内記の類を飾るこの讃(ほ)めことばが、単に古い自然信仰へのあこがれや、封建時代の権力者が誇った財力に対する畏怖や、また外國人のエキゾテッシズムての追従から受けとられていてはなるまい。戦後又、観光ニッポンの宣傳文句にかざられる日光から、私たちは民族の誇りとして何を見て来たらよいであろうか。
(次頁へ )
 日光といえば、私たちはすぐに東照宮の華麗さを頭に浮べがちである。日光を見ないうちは結構というな、という徳川時代から私たち日本人に深く植えつけられた言葉が、好むと好まないとにかかわらず日光という土地への関心につきまとってくる。
 しかし、日光に残された自然と、多くの人の汗の結晶である建造物とは、もはや封建的な支配者のものではなくて、われわれの宝である。私たちは、自然科学の方面でも、歴史や藝術の上でも、もっともっと日光を研究してゆかなければならない。
 はじめて日光の山にこ拠ったのは、千年以上も昔、山岳佛教のもといを築いた僧たちであった。彼らは、奈良朝末期の都会化しかけた佛教とは別に深山幽谷をひらいてそこに宗教の活路をみいだそうとする積極性があったし、それが、点変地異に圧しひしげられず生産のいつなみをひろげようとする民衆の願いに結びついてもいた。時代とともに、当初の精神はおとろえ、今は彼らの末流が、後の封建的な権力の保護をたのんで、「法燈」を守った遺物が多く残っている。しかし、日光には新しい科学が発見した貴重な宝が自然のふところに抱かれて眠っているし、旧い遺産に対する再検討も、私たちの使命として残されている。

 
 金精峠 P54より
制の遺産 P54
入峯禅定の修行が明治維新前まで守られていたという。行者たちは、日光を中心にする廣い地域をその修行道場にし神聖と秘密とを守るために、殺生禁断、女人禁制、不伐木、不開拓、御張面木などのきびしい掟をもうけた。それは尾張の藩主が、「木一本首一つ」というきびしいおきてで、木曾山林を守ったのにも比せられる。民間に山林を解放せずそれだけで國土の生産力の進歩をはばんだこの禁制が、一面今に残る原生林を保存してきたのは、山岳佛教以来の思わざる遺産であったかもしれない。この山々をめぐる一万千四百余町歩は、明治政府によっり帝室御料林に編入され、皇室の財政を守ってきたが、同時に治山治水の効をあげ、変化に富む風致や、豊富な水系を保つ役割もはたしてきた。
          御張面木 御張:江戸時代,前科者の罪状や所在を記録した帳簿 。 
                      面木:( めんぎ):角形のコンクリート柱や梁のすみ角に面をとるために、型枠の入り隅に打つ細い木。

 
 日光・戦場ヶ原
 P60より
光・戦場ヶ原
 戦場ケ原の名は男体の神と赤城の神とが、中禅寺湖をめぐって争ったという伝説から出ている。明治の終に再三起こった洪水のために、土砂に埋もれて昔の姿が全くなくなったが、かつて名高い水蘚濕原で、ツルコケモモやヒメシャクナグに交って、モウセンゴケが群生し、その間にカラマツの巨樹が立って、周囲の高峯とよく調和した風景をしていた。今では乾いた原にはイブキトラノオや、ノハナショウブ、アカヌマフウロ、ワレモコウ、アカヌマシモツケなどが高原のおもかげをしのばせ、僅に残った濕地にホザキナナカマドがみられる。近年は船来品のオオハンゴンソウの黄色い花が疎開地にはびこっている。春に秋に咲きみだれる花の中を湯元へ通じる道がつづき、西に入ると湯川の流れがあり、底には銀色の鱒が泳いでいる。
  注 上記の執筆者は、博士かは不明 参考資料として掲載しました。 調査要  2018・5・15 保坂 
○「日本民俗学のために 柳田國男先生古希記念文集」に「形態的に見た道祖神」を寄稿する。
  資料 (昭和十九年一月稿) 追記(原文をそのまま掲載)
 上記脱稿後、戦争末期から戦後にかけての、旅行の制限や交通の不便の為に、新資料の莵集が意の如く行かないので、5ヶ年の日子の経過に対して、怠慢の謗を免れないが、時節柄寔に已むを得ない。然し同好の人達から寄せられた報告に基いて、次の点を追補したい。
 緒言の中に、天正年間に造立の者があれば、破片なりと一見し度いと記したが、木曽福島町の横内斉氏の報告によると、信州東筑摩郡五常村には、天正五年の銘のあるもので、稚拙な彫刻で、僧形と覚しき小さい双身像があるといふ。若しもそれが後代の建立に係るものでないのなら、甚だ珍とするに足りること無論である。
 第十九双身像の記事の中に、男女の両神が手を引き合ふ最初のものは、信州東筑摩郡朝日村古見にある正徳5年のが、最古のものだと記したが、友人中沢厚君の努力によって、甲州東山梨郡諏訪町杣口にある正徳元年の1基こそ、この種形式の最初のものであることが判明した。これは向かって右が男神、左が女神であることはわかるが、地衣の着生と、彫刻の浅いのと磨滅や一部の損傷も手伝って、詳細を知ることは容易でない。両神とも髪を有することは誤たないと考へる。

   ※この追記の文章は博士が研究を続けて来られた、昭和18・19年当時を思いおこしながら書き込まれた追記の箇所の文章です
1952 昭和27年 69 2月、「邦産松柏類図説(ほうさんしょうはくるいずせつ)」を「産業図書」より刊行する。共著:岩田利治・草下正夫  校閲:武田久吉
 
  邦産松柏類図説
            (全文)
 凡そ自然物を人類福祉のために利用する場合には、能くその性状を弁えてかからねばならぬこと、敢て呶々を要せぬ処である。しかし性状を攷究するに方っては、まず物類を識別することの必要なるは論を俟たない。中にも造林の如きは森林樹種の一々を知り、その特質を究めて、気候や土地との関係を調べ、目的に応じた施設をなすのが実効を挙げる上に、欠くことのできぬ準備である。造林樹種の主なものはいわゆる針葉樹であって木材利用上最も大切な一群の植物である。わが国は元来地勢や気候の関係から植物の種類に富み加之変種・品種の数が饒多である。この事実は、直に相互間の識別の容易でないことを思わせ、事に従う人々に望洋の嘆を発せしめることすら無いではない。友人岩田君は、嘗(かつ)て駒場の農科大学に在学の当時から木本植物の分類識別に多大の興味を抱き、卒業論文には落葉樹木の実用的分類の新考案を立てられたこと
がある。学業を卒え、旧帝室林野局に入って以来、造林の繁務に携わる傍、森林樹木の攷究に余力を傾け長期に亘って、弘く各地から無数の資料を蒐集されたこと、実に、驚くべきものがある。今や伴侶に新進篤学の草下君を得、相共に蘊畜(うんちく)を傾け、資料を整理按排して、ここに本書を大成せられたことは、斯界のために寔に慶賀に堪えぬ次第である。不肖その校閲を委嘱され、原稿を通覧ししばし屡次(るじ)の助言を呈するの機会を得て、両君の努力の尋常ならぬことを、具に認識することを得た。校閲に際しては、常に著者の意見を尊重するを旨とし、濫に自説を固持して内容の著しい変更を敢てすることを慎み、以て両君の学識経験を十分に発揮せしめるように努めた。今や印行に方って、求められるままに、蕪詞を連ねて序とする。
          昭和甲申晩夏     武田久吉識
 昭和甲申晩夏→昭和19(1944)年で発行までに8年の隔たりがあった。尚、29年に増訂版が刊行された2016・4・9 保坂記
3月、米国地質調査所技術顧問。(至昭和35年6月)
3月、「米 岩波写真文庫(監修松尾孝嶺・写真提供)」を「岩波書店」より刊行する。
3月29日、伊豆大島、「サクラ株」が国指定特別天然記念物となる。
4月、「高山の花 岩波写真文庫(監修)」を「岩波書店」より刊行する。
はじめに(全文)
 すべての生物は環境に左右されながら。また新しい環境をかたちづくってゆく。あたかも私たち人間が歴史のうちにはぐくまれ、また次の歴史を生みだしてゆくようにー。そこに、生物のいのちと、その環境との微妙で興味ふかいからみあいの壮大な展開がいとなまれる。
 高山は、いうまでもなく、私たちの住んでいる周囲とくらべると、別天地である。人々がまだ汗ばみつつ働いている秋のはじめに、富士山はもう美しい雪化粧をはじめる。まばゆい春空がくまなく晴れて、おはじきをちらしたように、花が野をおおいはじめる頃も、高山ではまだ雪や氷の世界が去らない。低山のかなたに、おそい春がおとずれるのは、もはや地上の夏である。そして短い春・秋の駈け去るのを追うように、高山の冬はまた迫ってくる。気温や気候の特殊性にくわえて、日光のつよさや、乾湿の度なども、高山は平地とは異なった生物環境を生む。そうした環境にそだつ草木は、どのように私たちを迎えるであろう。一口に高山植物というけれども、 けして一様でない生命のいとなみを、私たちは山上に探って見よう。


岸壁のムシトリスミレ(紫)
ムシトリスミレ」についての説明文 P28
タヌキモ科
(Lentibulariaceae)
ムシトリスミレ Pinguicula vulgaris var.macrocerasl
高山の岸壁といえば、誰しも乾燥しているものと思いやすいが、意外にも、湿っていることが多い、ことに霧がかかると、水が滴るようになる。そこで、ムシトリスミレのような、根の発育がわるくて、養分を吸うにも自体を安定させるにも不十分なほどの植物でさえ、岸壁の裂け目に安住している。この草は食虫植物として知られる。葉の表面に二種類の腺があり、粘液を分泌しているために、葉はいつもねばつき、小さい虫がとまると逃げられなくなってしまう。その上、虫がもがけば、粘液の分泌はいよいよさかんになり、ついには虫の体はとかされ、液状になって吸収されるのである。
10月11〜13日、長野県松本(信州大学理学部)において、「日本人類学会・日本民族学会による第7回連合大会」が開かれ「秘境秋山郷」と題し講演を行う。
   参考 秋山郷(周辺)に於ける民俗調査の場所と日時など あしなか 152号 「武田久吉聞書ノート」より
新潟県 塩沢町
塩沢村栃窪
十日町市 六箇村塩ノ又
水沢村池沢
水沢村野中

鍬柄沢
当間








中里村 土倉
西田尻
市越

倉俣村西方



S18・10・13
山田の本家に聞く


津南町 上結東
見倉
大赤沢
前倉
上結東
上郷村百ノ木
上郷村羽倉
上郷村寺石
上郷村小池
前倉
上結東
前倉
秋成村屋
上郷村出浦
上郷村鳥帽子
中子

S16・9・5
S18・10・15



S18・10・17・



S19・5・17
S19・9・14
S19・9・18
S19・9・18



山田金太郎
中屋にて糺す






山田惣一郎
織沢善五郎
山田惣一郎



長野県



栄村(堺川の流域地域) 堺村柳在家
堺村志久見

堺村塩尻
下水内郡水内村森
堺村大巻
北野・
中野
極野
S18・10・16


S18・10・18
S19・9・14・






同地の老婦に聞く



栄村(中津川上流地域)
小赤沢
上ノ原

秋山村屋敷
上ノ原
和山
小赤沢
S18・10・14
S19・5・16



S19・5・17

山田政治談
山田清蔵



山田政五郎
下高井郡 平穏村沓野 S16・5 黒岩角太郎
       上記の濃紺の字/別稿「釜神様」に記載のなかった民俗調査地区です。 
            所在地未確認 新潟県中魚沼郡倉沢地区 S18・10・13 関沢方に聞く ・新潟県南魚沼郡土樽地区 保坂記
11月、「針葉樹 岩波写真文庫(監修)」を「岩波書店」より刊行する。
12月6日、中井猛之進が亡くなる。武田博士が追悼の言葉を述べる。(葬儀の日は不明)
市河三喜著「私の博物誌 P212〜213 済州島紀行(部分)」から
(略)そのほか別に済州島の植物を採集した記憶も記録もないが、先年科學博物館長中井猛之進君の葬式に行ったら、ちょうど追悼の言葉がはじまったところで、武田久吉博士が五十年来の友人というので昔の思い出を語っておられたが、思いがけなくもわたくしの名が出て、「今の東大名誉教授市河三喜君が學生時代アメリカの動物學者について朝鮮の済州島へ行き、昆蟲のほかに植物も少しばかり採って帰った。専門家でないから標本も完全ではなくカケラのようなものばかりだったが、當時朝鮮の植物はほとんど知られていなかったのでカケラといえども貴重な資料で、それを當時朝鮮の植物を研究し始めた中井君に見せたところ非常に面白いといって、二人で研究の結果を植物学雑誌に發表したことがあった。」というようなことを云われ、のちに中井博士が二十二巻におよぶ朝鮮の植物誌を著し世界的貢献をされ端緒を、私の集めた「カケラ」が提供したことを始めて知り、誇らしく思ったことであった。
〇この年、「山と渓谷 丹沢の山と渓号」に「丹澤の自然界」を寄稿する。
       また、同号に中野敬次カが「丹澤の史蹟と傳承」を寄稿する。
        注 発行月 不明なため再調査要 国会図書館WEB pid/2985575 2017・4・6 保坂
1953 昭和28年 70 1月、「国立公園 38号」に「五つ昔前の尾瀬 (1)」を寄稿する。
2月、「国立公園 39号」に「五つ昔前の尾瀬 (2)」を寄稿する。
      「つ」の表示あるか 国会図書館は「つ」なし 再確認要 2014・9・30→「つ」あり 2016・6・7 確認済 保坂記 
「五つ昔前の尾瀬 (1)」の内訳 「五つ昔前の尾瀬 (2)」の内訳
その頃の交通 11 鳩待峠へ
戸倉 12 尾瀬ヶ原へ
尾瀬沼 13 尾瀬ヶ原
尾瀬ヶ原 14 丈堀の一夜
尾瀬沼の発見 15 尾瀬沼へ
尾瀬と植物 16 県道へ
南会津竝に其の附近の植物 17 粘沢へ
私の尾瀬旅行 18 日光湯元へ
戸倉へ 19 後がき
10 その当時の準備  注 通番は便宜上に付与しました。保坂記
  また、同号に金井利彦が「風景・発電・灌漑 −十和田・奥入瀬の場合−」を寄稿する。
3月、田辺和雄と「岩波写真文庫 89 上高地 (監修・写真)」を「岩波書店」より刊行する。

 牛番小屋 (故辻村伊助氏撮影)
「上高地」P33に記された記述(写真左下)
徳本峠にまもられた頃の上高地は、それこそ「神高地」の文字をあててもよい程の仙境であった。ここから槍岳に登るには、幾回となく梓川を徒歩し、その上無人の岩小屋に高寒の一夜を凌(しの)ぐ必要があった。梓川沿いの肥沃な沖積地には、大小の草が豊かに生い茂り夏には放牧が行われた。その番人の小屋は辻村伊助氏の傑作として、今に傳わっている。




4月、「婦人之友 47巻4号」、「過ぐる半世紀の歴史の中にどんな進歩のあとを見出されますか、来るべき半世紀にどんな期待を寄せられますか」の問いに に68名が答える。 主な回答者:小川芳樹・柳田國男・金田一京助・奧野信太カ・丸山眞男・本田正次・曾宮一念・有島生馬・小川未明・深尾須磨子・武田久吉・武田祐吉・土屋C・志賀潔・松前重義・平塚らいてう・津田左右吉を含む68名が回答する。 
1、過ぐる半世紀の歴史の中にどんな進歩のあとを見出されますか
 細かいことを拾い上げたら大変な紙数を要しませうから重要な点の二三を挙げれば、細胞遺伝学も進歩に伴ひその応用の育種学に於いて色々のよい農作物や園芸品種の作られたことです。例えば稲の耐寒性品種、耐病性品種、多収穫品種の育成などがそれです。この例などは日本人にとって殊に重要な事柄であります。それと共に栽培技術の進歩も見逃せませんでせう。
、来るべき半世紀にどんな期待を寄せられますか
 
悪いことも色々考案されることと思ひますが好い事に対する進歩は常に悪事に打ち勝って行くと思ひますから人類の滅亡など近い将来には起り得ないと信じます。然し人間は常により好い方へ目標を置いてそれに向かって進む努力を惜しんではならないと思ひます。それと共に自然界の本質をモットよく、理解することが大切であると信じます。
6月23日、神田・森田館に於いて「高山植物をかたる」と題し座談会が行なわれ出席する。
  尚、この座談会の模様は「山 No207 8月号 P52〜61」に掲載されました。 
 
 右から3番目が武田博士
座談会当日の出席者
    司会者・山下一夫/理学博士・武田久吉/早大講師・田邊和雄
    山草会・荒川一郎/山草会・小澤元之助/朋文堂・新島章男/「山」編集・森 いづみ

(略)
司会者
 私が高山植物中の高山植物と申し上げたのは、例えば高山植物は、高山と云う特殊な地域に生える為に、特に蒸発作用を防ぐように毛が深いとか、或は特殊な組織を持っているとか・・・・・・。
武田 
それは然し、高山植物と雖(いえど)も別にとび離れた構造と云うものはないでしょう。毛が多いのはカワラハハコでもチチコグサでも平地にある。植物はそれぞれに科や属の特徴を持っていて、それぞれの生育地に適するようになっている。高山植物の花に牡丹のように大きい花の咲くも
のはないが、シラネアオイにしても、コマクサにしても、それぞれの生育地で落ついた型のものになっていると云えるでしょう。  (略)
6月26〜28日、茨城県立大洗水族館の見学後、仙台松島を訪う。
 大洗の海岸は中々景がよくて面白かった。県は此処を公園化しようと目大童で一年もたてば大に俗化することだろう。最近水族館を建てそれを拡張中だ。フグの類か 主に背ビレと腹ビレを使って泳ぐのは面白かった。今日の午后仙台着 大学へ行ってから直に松島海岸に来たが昔スッカリ違って便利になったが俗化して それに生徒の大勢ぞろ(ぞろ)してゐるのでチトうるさいが これも御時勢といふものだろう。明朝はモーターボートで島廻りといふ寸法だ。夕方には月が上って美しかった。  六月廿六日 夜 (久)  消印28・6・27
        妻、直子に宛てた「絵葉書」より 旅行の目的が不明なため再調査要 2015,4,7 保坂記
月、「婦人之友 47巻7号」に「口繪 山上の花々」を掲載する
7月、山形県東村山郡山寺村の宝珠山に登る。
(略)山形県東村山郡山寺村の宝珠山に登った折り、ある寺院裏手の崖に、タカネナデシコの咲いているのを見て、それが栽培品か野生のものかを尋ねたところが、野生のものであり、採集してさしつかいないという答なのに、これ幸と一株をえて帰った。これは別段他と変ったことはないのだが、茎も葉も霜白色で、葉の色は淡紅色である。タカネナデシコにも、かくの通り顕著な粉白色のものがあるとなると、クモイナデシコをシモフリナデシコとよぶことはおもしろくないし、またその特徴そして(略)  1956年「タカネナデシコの異変」より
8月、「山 8月号・朋文堂」の「高山植物特集号」に「高山植物とお花畠」等を寄稿する。
 
 所蔵 桧枝岐村教育委員会






目次
アルプスの高山植物切手 小倉謙 世界のエーデルワイス 山下一夫
高山植物とお花畠 武田久吉 高嶺の花に寄せて 板倉登喜子
高山と種の起源 竹中要 印象に残った高山植物 津端生子
私達は高山植物です 田邊和雄 私は高きものを求む 千葉正夫
ヒマラヤの高山植物 北村四郎 高嶺の花十花撰 武州大五郎
北海道固有の高山植物 館脇操 ガイドのみた高山植物 星野貢
高山植物を語る 座談會/武田久吉田邊和雄
      荒川一郎・ 小澤元之助・山下一夫
【山岳小説】K3の頂上
ある山案内のこと 
ウルマン・妹尾アキ夫譯
ギド・レイ 長越成雄譯
高山植物の培養 鈴木吉五郎 山俳壇  河野南畦選
植物採集と標本の作り方 平林てるを 山歌壇 泉甲二選
高山植物採集地案内・東北地方 伊藤敝 山と高原の會 會報
    尾瀬と日光 田邊和雄 山彦・私は誰でしょう
 =@   南北・中央アルプス 山村大一郎 書評「尾瀬」 深田久弥
   参考 博士と田邊和雄による 高山植物寫眞と解 (P1〜P88) 国会図書館 pid/3565251
 武田久吉 ミヤマダイコンソウ・トウヤクリンドウ・ミヤマオダマキ・ウサギギク・タカネコウゾリナ・ヨツバシオガマ・コバノツメクサ・クモマグサ・イワベンケイ・アオノツガザクラ・ミヤマリンドウ・ミヤマイ・タカネヨモギ・ミヤマキンポウゲ
 田邊和雄



 田邊和雄



コマクサ(原色版) ・ハクサンコザクラ(原色版) ・チングルマ(原色版) ・チシマギキョウ(原色版) ・キヌガサソウ(原色版) ・クロユリ(原色版) ・シラネアオイ(原色版) ・コバイケイソウ(原色版)
ハヤチネウスユキソウ・シロウマウスユキソウ・ミヤマアズマギク・イワギキョウ・タカネマツムシソウ・リンネソウ・シロウマリンドウ・ヒメセンプリ・ミヤマシオガマ・ミヤマムラサキ・イワウメ ・タカネシダ・ミヤマメシダ・ヘビノシタ・ムシゴケ・ウルップソウ・ミソガワソウ・ミヤマアケボノソウ・キバナシャクナゲ・ハクサンシヤクナゲ・コケモモ ヂムカデ・イワヒゲ・シラタマノキ・ウラシマツツジ・ミネザクラ・シロウマオウギ シコタンソウ・フジハタザオ・ハクセンナズナ・ハクサンイチゲ・タカネヒキノカサ・タカネキンポウゲ・チョウカイフスマ・タカネマンテマ・タカネイワヤナギ・ネバリノギラン
  また同号に、深田久弥が「田邊和雄著「尾瀬」を讀んで」を寄稿する。
    同内容を昭和31年4月、「高山植物とその培養 朋文堂編集部編」として再刊する。 2013・10・14 保坂記
8月10日付、北海道旅行を行う。   旅行場所が不確実のため調査要 2015・5・6 保坂記
妻・直子に宛てた「絵はがき」の全文
定山渓は物凄い発展振りで旅
館が所狭きまで立ち並び浴客が眞夜中まで騒いで居る、然し中山峠の道は感じがよく今ではバスが通って居る、登別も大した繁昌で拡声機が何かわめいて居る、トウヤ湖畔も大小の旅館で一杯、夜は満艦飾の舟が客を読んで昭和新山を見せにつれて行く、今日は快晴で平穏な航海で青森に向ひ今夜は弘前に夢を結ぶ予定 、利三と実子サンには一方ならぬ世話になった、ブラウスは丁度寸法がよかった。     八月十日 連絡船にて サイン
11月、「岳人 67号」に「高山と冬と高山植物の越冬 −高校生のために−」を寄稿する。
1954 昭和29年 71 2月、日本学術振興会・尾瀬ヶ原総合学術調査団が「尾瀬ヶ原 尾瀬ヶ原総合学術調査団研究報告」を刊行する。
  
尾瀬ヶ原/尾瀬ヶ原総合学術調査団
研究報告
 発行 日本学術振興会
 

はしがき 冒頭部分
 尾瀬ヶ原は本邦中部における唯一の大規模な高層湿原として旧くから知られ、既に日光国立公園の一部となって愛護せられて来た。一方この地域に水を湛えて大貯水池を造るという計画が早くから企てられていたが実現せられなかった。しかるに戦後における電力事情に連関してこの地域を貯水池化することが再び俎上にのぼり、天然資源と資源開発の是非を巡っていろいろ検討せられるに至った。吾々はこの湿原を学術上の貴重な資料として永久に保存せられることを切望するものであが、万一ここが水底に没するようになった場合にも、憾(うらみ)を後世に遺さぬよう学術上の充分な調査を行っておくべきものと考え、「尾瀬ケ原総合学術調査研究」を企画し、文部省科学研究費の補助により昭和25年度から3ヶ年の予定を以て実地調査を行い、本年度を以て一応終了した。
(以下略)
  昭和28年7月         尾瀬ケ原総合学術調査研究代表者 小倉 謙

3月20日、「屋久島スギ原始林」が、特別天然記念物に指定される。
4月、「御花畠 山岳講座 第三巻 (分担執筆)」を「白水社」より刊行する。
4月、「あしなか 第39輯」に「沙門勝道」を寄稿する。
6月25日、博士撮影の(谷川岳)写真が、上信越国立公園の記念切手となり発売される。
  注 切手の発売日は6月25日 確認済 2015・12・12 保坂記  あしなか 武田久吉先生追悼号より
7月、「あしなか 第41輯」に「丹沢山塊の想出」を寄稿する。
10月、「山と渓谷 184号」に「山名雜考 p156〜161 」を寄稿する。pid/7933881
12月、小寺駿吉が、国立公園 第61号」に「日本における自然保護運動ーその生長発展過程の分析」を寄稿する。
 とまれ自然保護運動におけるヨーロッパ的潮流は日本にも波及し、且これが日本の自然保護運動の主流となった。日本において近代的な意味での自然保護の精神を他に先んじて体得し、そしてこれを世に唱道した者は科学者というよりはむしろアルピニストというにふさわしい性格の人々であった。山岳の崇高さをたたえ、その一木一草の神聖を説いた者には前近代的な信仰的登山の遺風が多分に認められる。けれども少なくとも小島烏水(明治三十八年七月一日ー『日本山水論』)に到れば、ヨーロッパのアルプスにおける高山植物の保護がすでに学問的見地より出発せる公衆道徳なることも承知していたほどである 
     「武蔵野」 第51巻3号  昭和47年10月 武田先生追悼号 小寺駿吉著 武田久吉先生の精神的基盤」より引用
○北海道国体の行なわれた、この年の夏、旭川市興隆寺に於いて、全日本山岳連盟(日本岳連)の結成が決議される。
1955 昭和30年 72 1月、「林業技術 No155」に「尾瀬の柳と唐檜」を寄稿する。
2月3日、「山村民俗の会」のメンバーと大菩薩峠に登る。
同行者:羽賀正太郎、加藤秀夫、神谷恭、岩科小一郎他(4名)
       記念写真より  あしなか 武田久吉先生追悼号 岩科小一郎著「書斎の雑談」より
2月、「採集と飼育17巻2号」に「毎日新聞社社会部写真部編 皇居に生きる武蔵野を寄稿する。
(略)私の庭で唯一つ誇りとしているのは60年余り前 兄が吹上の御苑内に伺候した折 大正天皇(勿論御幼少の頃)から戴いたヤマモミジで その頃生えた許りの芽生えのが今では相当な大木となっている その他青山六道ノ辻にあったヒトツバタゴの子孫もあれば、由緒は不明ながら 150年以上のサルスベリや 含笑花 また連理のサマンカの如きものもある。狭い庭でも相当な草木が植えられ また遺存しているのだから 皇居のような 面積から言っても また位置から見ても 環境の変化の余り激しく起りそうもない所では さぞかし昔ながらの種類も残っていようし よそから移植されたものもよく根づき そして繁茂することは 容易にうなずかれる。終戦後 被占領時代に2回 独立後1回 皇居の中を 吹上以外は 隅々まで拝観する光栄に浴した私は毎日新聞社発行の本に挿入された写真を見て 許可のあったのも拘らず写真を写して来なかった私にとって喜びは人一倍大きい あの本にある盆栽や松や槇柏など 一つ一つ丁寧に見た記憶は 今でも私の脳裏に生き生きと焼きつけられている 呉竹寮の付近から 午砲台の跡とか また乾堀に沿って乾門に出るあの長い松並木のの道を そぼふる小雨にぬれ乍ら静けさを楽しんだ思出など 好きな時に勝手に行かれる場所でないだけに 印象はたやすく記憶から消え去るものではない わけてもその日は陛下に咫尺(しせき)して 親しく御言葉を賜った後だけに 一人であった。(略)
2月、「日本の森林岩波写真文庫(監修)共著・森林資源綜合対策協議会」を「岩波書店」より刊行する。
 
  アカマツ林を置きかえるモミ
      (比叡山中)
植生と環境森林が天然に成立する順序を調べてみると、まず日のよくあたる草原などに、強い日光と乾燥に耐えるいわゆる陽樹がスクスクと伸びはじめ、長い年月の中に、その蔭に芽を出した陰樹がしだいに勢を増してゆく。陽樹によってスタートした森林は、だんだん日蔭に耐え得る種類でおきかえられ、遂に最後の段階の極盛相に到達する。環境を構成する因子を大別するとほぼ次のようになる。
(一)気候的因子もっとも重要な因子で、その地方の一般的気候、季節の変化、光線、気温、降水、湿度、風などをふくむ。
(二)地相的因子地層をはじめとし、高度、傾斜、露出等の地勢、及び浸蝕、沈泥、飛砂などによる。
(三)土壌的因子土壌の物理的化学的性質とか、含水量、通気などにもとづく。
(四)生物的因子動物又は植物等生活する有機体によるものをいう。これらの因子はからみ合って相互に作用しまた反応しあう。
 「日本の森林 12頁」より
4月、「ハイカー 1号」に「春のハイキング」を寄稿する。
4月、「山と渓谷 190号」に「山と溪谷」二十五周年を記念した座談会が開かれ、武田久吉・田部重治・K田正夫・塚本閤治の対談内容が掲載される。pid/7933887
  また、「同号
p100〜107」に石渡Cが「山岳文學特集 小泉八雲の「富士登山の記」」を発表する。
5月15日、全日本山岳連盟が36都道府県山岳連盟・協会の加盟を得て、同日、東京日本青年会館に於いて発表式を揚げる。
    会長  武田久吉 副会長 今西錦司・尾関広・小島六郎・各ブロック代表者1名
    理事長 高橋定昌
6月、松浦良松が「山と渓谷 192号」に「日本岳人展望(2)日本山岳會創立當時の人々 <高頭仁兵衞・武田久吉・木暮理太カ・田部重治・辻村伊助> p38〜46」を寄稿する。pid/7933889
7月1日、「月刊 ゆうびん 7月号 通巻59号」の表紙に博士撮影の写真が掲載される。
  
    月刊 ゆうびん 表紙 
     郵政博物館蔵
    (承認番号223)
表紙説明  「谷川岳と耳二つ
 始めて上越国境方面に足を入れたのは、一九二〇年七月で、上越線など産声もあげて居ない頃であった。藤原から宝川を遡って笠ヶ岳に登り、頂上から清水峠に下り、あの廃道になった幅の広い道の残骸を伝わって湯檜曾(ゆびそ)に下り着いたのは夜の九時四五分であった。訪う人も稀で、将に廃業に瀕して居た温泉宿に、一夜の宿を借りようとしたのをもなく断られたので、すごく藤原まで疲れた脚を曳きずった。以来、湯檜曾には断じて泊らないことにして居る。(略)写真前景の村落は古馬牧村原組辺で、利根の流れが見られる。耳二つに向って右から来る大きな屋根は天神峠から谷川に向って西南に引いている。昨年六月発行された上信越国立公園切手二種の中の十円切手谷川岳はこの写真の上部約三分の一を取ったものです。尚駅は土合より前橋に向って湯檜曾、水上、上牧、後閑、沼田の順です。
              
-筆者は植物学者・理博
8月、「高山植物をたずねて 観察と実験文庫」を「同和春秋社」から刊行する。

  高山植物を訪ねて
はしがき(全文)
 
一時は、ものみ遊山ぐらいにまちがえられて下火となっていた登山も、終戦後十年を経た今日では、ようやくかつての勢をとりもどして、日に月に盛になって来て、夏と冬とを問わず、登山によって心身を鍛えようとする人たちは、莫大な数にのぼるものかと思われます。高山は、まことに生きた博物館であります。また、そのいただきに達するのは、たとい一と通りの労力ではないとしても、清浄な空気を呼吸しながら、地理や気象の実地練習であり、景色の変化は地形や植物の実際の観察に、無限の材料を提供を提供してくれるのであります。しかしながら、その欠点とするところは、山上のどこにも、何等の説明も、立札も無いことであります。したがって、たいていの登山者はせっかく宝の山に登りながら、この
無言の師父から、なにものも学び得ずに帰って来ることであります。幸にして晴天に恵まれれば、広大な眺望を得て、楽しかったというだけに止まるが、不幸にして風雨にあえば、辛かったという印象をもち帰るだけでしょう。つまり、時間と労力と費用を、無駄にしたようなものです。そのために、登山が物見遊山と混同され、無用であり、また、時には危険を伴なうものと誤解され、ひいては非難を受けることにもなるのです。はなはだしいのになると、なにかスリルを感じるのが、登山の目的だと思ったり、危険を防止したり、それから脱出するのを、恥だとせ考えている者もあるらしいのです。いやしくも、文化国家を築こういうけなげな青少年は、そんな非科学的な考えや行動に、あまんじてはなりません。かりそめにも、高山に登るとなったら、しっかりした基礎知識を土台として、真剣な観察を試み、平地では得られない経験と、教科書からは求められない知識をみやげとして、無事に山から下りるようにしたいものです。そういう真面目な人達の手引きとして、本書は執筆したもので、ただの高山植物の種類ばかりでなく、それらがどのように生活するかを、実地について説明するようにしくみました。     著者
 大 項 目  中 項 目  写 真等
はじめに・グラビア 原色版 コマクサ・イワカガミ・イワギキョウ・ミヤマオダマキ
高山植物の研究 14
登山 15 登山の準備・※1山と森林・※2昔の登山 日本アルプス(白馬山頂より黒部五郎、立山、劒岳をのぞむ)・実をつけたコマクサ・イヌブナの林(高尾山)他
富士山 25 青木ヶ原・精進口登山道・中腹の森林帯・天地の境・小御岳(こみたけ)・御中道・頂上へ・山頂の一周・下山 富士行者(吉田口)・諏訪の森・足和田山から富士山をのぞむ・富士山西北側の側火山列・青木原の一部・長尾平のカラマツ・青木原状部に続く森林・コメツガの老樹他
御嶽(おんたけ) 59 中腹の密林・高山帯・頂上とその附近・下山・田ノ原と黒石ノ原・山麓 黒澤口山麓から仰ぐ御岳・森林への入口・ミズゴケの中に生えたシラタマノキとクロマメノキ・オオヒョウタンボクの実他
乗鞍岳(のりくらだけ) 81 噴出の順序・登路・私の登山・岳ノ湯・上ガ洞へ・高松葉・乗鞍岳の何面・山中の一日・下山 乗鞍岳頂上から北方を望む・イワギキョウ・御岳西ノ池・岳ノ湯附近の針葉樹林他
槍ガ岳(やりがたけ) 105 上高地・槍ガ岳・雪渓とお花畑・槍の肩へ・東鎌尾根・喜作(きさく)新道 (常念岳頂上から見た槍ガ岳、中岳、大食岳、南岳)・(常念岳頂上から見た穂高岳、明神岳、前穂高、奥穂高、涸沢岳、北穂高)他
(つばくら) 128 お花畑・中房へ・中房温泉・次の計画 燕岳と北燕岳・花と実をつけたイワオウギ・ダケカンバ・シラギソとオオシラビソ他
(やつ)ヶ岳火山彙(い) 140 八ヶ岳と高山植物・最初の八ヶ岳登山・本沢温泉へ・初めの一日・再挙(さいきょ)・赤岳鉱泉・裾野・峯伝い 横岳(八ヶ岳)の西面・中岳から望んだ権現岳・チョウノスケソウ・ミヤマシオガマ・冬の松原湖・キミカゲソウ・イブキジャコウソウ・キンバイソウ・ゴセンタチバナとユオウゴケ他
白馬ガ岳 170 山麓・白馬尻へ・大雪渓から葱平へ・小雪渓と御花畑・小屋と頂上・山頂の植物・小蓮華を越えて大池へ・大池附近・下山 (北城村から仰いだ杓子、白馬、大日岳)・(北城村から仰いだ八方尾根と鑓ガ岳)・二またから南またの奥を仰ぐ・瀬戸岩・オオイタドリ。ミソガワソウの群落他
高山植物の科学 204 植物の研究・生態分布・環境と生態因子 熱帯林(シマオオタニワタリ)・亜熱帯植物(ビロウ)他
高山帯 219 ハイマツの生態一・ハイマツの生態二・矮小灌木 ハイマツの群落(乗鞍ガ岳)・ホシガラスの食堂他
高山植物と雪 228 花をつけたツガザクラ・実のなかったガンコウラン他
高山植物の採集ち保護 233
参考 ※1「山と森林」より 部分
(略)東京の西で、よく人の行く高尾山は、頂上は海面からはかって、602米あります。山としては低いほうであり、丘陵としては、すこし高すぎる位です。あの山では、よく木が繁っています。その中には、周囲五メートルにも余るようなスギがありますが、何百年か前に植えたものですから、とくに大切にすべきものです。また、そのすこし西にあたる相模湖の南に石老山という、七〇〇メートルほどの山がありますが、ここでは山の木を大抵切ってしまったので、あまり山らしい感じがしません。かように、山には木のあるものとされているため、木のたくさん生えている森を、「やま」と呼ぶことがあります。また、仙台の附近では、低い山を、何々山と呼ばずに、何々森といいます。これは木がしげっているので、山というよりも、森と呼んだ方が、感じがよく出るからのことと思います。(略)
参考 ※2「昔の登山」より 部分
(略、甲斐の駒ヶ岳へ明治36年)に、甲府まで開通した中央線の汽車と、甲府からはガタ馬車を利用して、山麓の台原という村にたどりつきました。山の中に野宿する覚悟で、六食分のパンや油紙や鍋などを用意して出掛けたところが、幸にも屏風岩に小屋があり、食物も布団もあることがわかり、大に安心しましたが、ここで出あった人たちは、みな白い行衣(ぎょうい)というのを着た信心の講中(こうじゅう)の人ばかりで、わたくしは、植物採集に来たのだといっても、信用しないほどでした。そして団体の先達(せんだつ)というリーダーが、クルマユリを見せて、私がその名を知っているかどうかを試し、そのうえでヤットうそでないことを認めてくれたのには、驚いてしまった。後でわかったことですが、この山に採集に来た人は、甲州側から一人と、信州側から一人と、私以前には二人の採集家が登っただけで、私が三人目であったのです。
9月、文化財専門審議会委員。
9月、「岳人 89号」に「大菩薩をめぐる座談会/武田久吉・神谷恭・羽賀正太郎・加藤秀夫・益田勝利・岩科小一カ」が掲載される。 
注 同メンバーでS30・2・3 大菩薩峠に登られています。
9月、尾瀬入山五十年を記念し感謝祭が
長蔵小屋で開かれる。
  
  長蔵小屋には地元山小屋の主人7人が集まって開拓者≠フ功に感謝した。
    ランプの燈の下、山料理を囲んで尾瀬の自然に話はつきなかった。    
(左の写真説明)
今年は前人未踏の尾瀬に武田氏が探索の歩みを印してからちょうど50年目、それを記念して感謝祭が催うされた夫人、令嬢とともに招待された氏はとても喜んで、愛用のハンド・カメラにその愛する自然を写しまくった

      毎日グラフ 10月号より

(略)(三平)峠の頂上には、更に幾人か出迎えの人がいて、私達を長蔵小屋に案内してくれた、北側に下ること20分程で、尾瀬沼の東南岸の三平下さんぺいしたにつくと、船が用意されて、陸行するも、船上の人となるも随意という訳、湖畔の県道を長蔵小屋につくと、ここにはまた、尾瀬中の小屋の主人達が出迎えてくれるという鄭重な扱いであった。その夜、長蔵小屋の楼上に、尾瀬の山小屋の人達が全部集まって、私の尾瀬探検50年の祝賀会が開かれた、それは1905年に私が始めて尾瀬に足を入れ、この地の凡ならぬことを詳しく世に紹介したのが因となって、尾瀬今日の盛況を見るに至ったというので、その感謝のつどいであったのである。然しながら、私より前に尾瀬に行った人の数は決して少ないものではなかったので、私が前人未踏の尾瀬を発見した訳では毛頭ない、だだ尾瀬が素晴らしい景勝地であることを強調して、やや詳細にわたって紹介したに止まるのである。もっとも尾瀬ヶ原を縦断して、その真価を認め、これを記文としたのは、私以外には誰のなかったことは否む訳に行かないであろう。(略)      「遺伝 1971・7 尾瀬発見記」より
10月19日付、「毎日グラフ 10月号」に「自然と共に美を探る −武田久吉氏−」が掲載られる。
 
 毎日グラフ 10月号 
僕は写真作家じゃないよ。いつかも、ある雑誌社で写真家の名鑑をつくるからといってきたんだが、ことわった」/わが国山岳写真・生態写真の草分けともいうべき武田久吉は、白い眉の下に落ちくぼんだ鋭い眼をレンズのように光らせながらこう語る。/「写真なんて面倒くさいものは、はじめっからやるつもりは毛頭なかったもんだがね・・・・・・/それが専門の植物学を研究する必要から、やむをえずファインダーをのぞきはじめたのが大正八年ごろ。/「しかし、写してみれば、やっぱり面白いんでね・・・」/研究に必要な植物から、元来好きだった山岳、風景、自然へとレンズが向いて・・・・「やがて、病コウコウに入ったっていうのかな。海外からさまざまの器械やパンフレットを取寄せてね、大いに写真術を研究、手札版のカメラ、レンズに乾板、三脚、暗幕と、一式六貫匁もの道具を背負って数週間も山にこもるようになった」という。(略)「僕は植物ひとつにしても、たんなる静物として写したんじゃ意味がないと思うんだ。やはり、それが自然のなかに生きる真実の姿をとらえなくっちゃね」(略)「少し」どころでない。いまでは誰知らぬもののない『尾瀬』は明治三十八年、武田氏がはじめて探索して、その貴重な存在を世に紹介
したのである。その功績は絶大だ。本年九月、氏の功をたたえ、感謝する会が、地元有志の手で催うされたのは当然のことである。/「尾瀬はいついってもいいね。あそこが電源開発のため姿を消すのはやはりあらゆる意味で惜しい。いや、尾瀬に限らず、自然はどこでも実にいい、すばらしい・・・・」(略)
10月、島村環が、「遺伝 第9巻11号」に「イチョウの受精」を寄稿する。
    
また、同号に新宿御苑に勤務する上杉文郁が「キク作り 思い出ばなし」を寄稿する。
10月、関口晃一・常木武雄と「3年の学習 学習研究社」「りか はてなんでしょう」を寄稿する。
11月、「旅 29巻11号」に「紅葉の[秘]境を探ぐる/附・全国の紅葉一覧表 紅葉観賞にほしい知識 」を寄稿する。 
11月13日付、田辺和雄→武田久吉宛てに絵はがき送られる。

久吉宅訪問の約束、原色図鑑の件もその時報告のつもり
    横浜開港資料館 久吉書簡 No1043 内容未確認 2017・6・9 保坂
12月4日、第11回(兵庫県)国民体育大会山岳部門が、日本体育協会の国体委員会で今回は中止と最終決定される。
12月、古川晴男 ・村野四郎と 「3年の学習 学習研究社」に「1.どうして もう ちってしまうの―草木の冬ごし」・「3.どこからおまえはやってきたの―しもばしら」を寄稿する。
〇この年、山村民俗の会編「炉辺山話・山と渓谷社」に「地名と植物」が所収される。 pid/9542627
1956 昭和31年 73 1月、「武蔵野35巻1号 武蔵野の民間信仰特集」に「東京に見る庚申塔小記」を寄稿する。
はしがき(原文)
 終戦後十年、見かけは戦前の状態にまで漕ぎつけた様でも、実質的には中々それに及ばざること遠く、暇にまかせて、カメラを肩に、道祖神や庚申塔を捜し廻る余裕のある人は少なかろう。私など、最近両三年に至って、幾分そんな機会に恵まれることもあるが、手持ちの史料は大抵戦前のもので、記録した地名など、随分と変わって、通用しなくなったものがないでもない。
 今その古臭い資料を取り出して、乞はれるがまゝに、東京の古い庚申塔について、少し許り記すことゝする。だがこの方面では、私ごとき駈出者は、大先輩山中笑氏の『共古随筆』中の一篇「三猿塔」中の一篇や、三輪善之助氏の『庚申待と庚申塔』に頼る処が頗る多い。それで先づ右両氏に敬意を表して置く。
2月、角田喜久雄が日本温泉協会 編「温泉 24巻2号」に「武田久吉氏の想い出」を寄稿する。
         内容未確認 保坂 pid/4412283
2月、「国立公園 1・2月号、No74・75」に「新指定国定公園・石鎚国定公園」を寄稿する。
2月、赤城泰舒(やすのぶ)遺作集刊行会編「赤城泰舒遺作集」に武田久吉氏所蔵の「三三 尾瀬燧岳 (昭和二十四年作)」を掲載する。
2月、市河三喜(さんき)が、中央公論社から「私の博物誌」を刊行、「思い出の蝶々・「博物之友」・歸山先生のこと・牧野先生訪問記・イギリスの自然 / 濟州島紀行(明治三十八年) 」等を所収する。pid/1375273
3月、石沢慈鳥 ・中山周平と「3年の学習」に「はてな?おもしろい春の花や虫」を寄稿する。
3月、「あしなか 第50輯」に「クズヤの疑問」を寄稿する。
3月、「遺伝 10巻4号  北隆館」に「桜草雑稾」を寄稿する。
 
  遺伝 4月号
(略)いまから30数年もまえ、6月の初旬、甲州と信州の国境をなす、念場ガ原から野辺山を、初夏の微風に吹かれ、郭公やホトトギスの声にききほれながら歩いたとき、私の望みはかなえられた。大門川に沿う平沢あたりから、野辺山の一部をなす矢出原などには、いわゆるサクラソウがおびただしく生じ、ときには放牧の馬に踏みにじられていた。地は海抜1200〜1300m、適潤の地であった。これこそサクラソウの本当の故郷であるに相違ない。荒川の上流にも、これに似た生育地があって、そこから流れ下って種子が、戸田ノ原などに、第二の故郷を形成したことは、想像の範囲外ではない。さてしからば、その原産地はどこかと問われると、即座に解答のできないのは遺憾である。一方、荒川は下流近くで、寛永六年まで利根川とつづいていたのだから(鈴木雅次博士著『河』による)、利根川の洪水は、当時入間川の河道であった浮間附近までに逆流したことも考えられる。されば戸田ノ原のサクラソウは、昔々どこかの高原から、種子がはこばれてきたことは、無稽な接ではない。    −理学博士−
4月、「高山植物とその培養 朋文堂編集部編」に「高山植物とお花畠」外2篇を寄稿する。
高山植物原色版並に解説 田辺和男
高山植物写真並に解説 武田久吉・田辺和男
アルプスの高山植物切手 小倉謙
高山植物とお花畠 武田久吉
高山と種の起源 竹中要
私たちは高山植物です 田辺和男
ヒマラヤの高山植物 北村四郎
北海道固有の高山植物 舘脇操
高山植物を語る  −座談会 武田久吉・田辺和男・荒川一郎・小沢元之助・山下一夫
高山植物の培養 鈴木吉五郎
植物採集と標本の作り方 平林てるを
高山植物採集地案内 伊藤敝・田辺和男
世界のエーデルワイス 山下一夫
高嶺の花に寄せて 板倉登美子
印象に残った高山植物 津端生子
私は高きものを求む 千葉正夫
高嶺の花十花撰 武州大五郎
    山岳雑誌「山」(昭和28年8月号)発行の「高山植物特集号」を底本に、再編集が行われ再行されました。 保坂記
4月、「国立公園 No77」に「国立公園の著名な植物景観」を寄稿する。
5月19日、全日本山岳連盟が日光市で第二回評議会を開催、「第一回全日本登山体育大会」は大台ヶ原山・大峰山を中心に行うことを決議する。
7月、「高嶺の花」を「山と渓谷社 山岳新書」から出版、ムカゴユキノシタを写真入りで掲載する。
    ポケット型の高山植物の解説書で、約35種類もの代表的な高山植物を紹介している。
    また、同書に掲載されている「コマクサとクロユリ」の項は、後に刊行された「植物学談義 昭和53年9月 
     学生社」にも掲載されています

目次/ 序
エーデルヴァイス(Leontopodium alpinum) コモチタカネイチゴツナギ(Poa Komarovii var.shiroumana forma vivipara)
ミヤマウスユキソウ(Leontopodium shinanense) イブキジャコウソウ(Thymus quinquecostatus var.japonicus)
ヒナウスユキソウ(Leontopodium Fauriei) ガンコウラン(Empetrum nigrum var.japonicum)
ホソバヒナウスユキソウ(Leontopodium Fauriei var.angustifolium) ミネズオウ(Loiseleuria procumbens)
エゾウスユキソウ(Leontopodium discolor) シラタマノキ(Gaultheria Miqueliana)
ハヤチネウスユキソウ(Leontopodium hayachinense) イワハゼ(Gaultheria adenothrix)
ウスユキソウ(Leontopodium japonicum) クロユリ(Fritillaria camschatcensis) )
ミネウスユキソウ(Leontopodium japonicum var.shiroumense) ミヤマムラサキ(Eritrichium nipponicum)
オヤマノエンドウ(Oxytropis japonica) チングルマ(Sieversia pentapetala)
コマクサ(Dicentra peregrina var.pusilla) チョウノスケソウ(Dryas octopetala var.asiatica)
バイケイソウ(Veratrum grandiflorum) イワベンケイ(Rhodiolae Tachiroei)とホソバイワベンケイ(R.Stephani var.hondoensis)
シュロソウ(Veratrum aponicum) ウルップソウ(Lagotis glauca)とユウバリソウ(Lagotis Takedana)
ミヤマバイケイソウ(Veratrum alpestre) シャクナゲ(Rhododendron)
コバイケイ(Veratrum stamineum) アズマシャクナゲ(Rhododendron Degronianum forma spontaneum)
ムカゴトラノオ(Bistorta vivipara) ハクサンシャクナゲ(Rhododendron Fauriae)キバナシャクナゲ(R.aureum)
ムカゴユキノシタ(Saxifraga cernua) ハイマツ(Pinus pumila)とヒメコマツ(Pinus pentaphylla)
垂直分布と環境の変化
7月、「民間傅承 第20巻第7号 通巻第113号」に岩科小一郎・胡桃沢友男・大森志郎との座談会が行われ、「<座談会>夏・山・民俗」として掲載される。
 
 左から 岩科・武田・胡桃沢・大森氏
道祖神の発見
 武田 人情風俗からすれば上州というところは生き馬の目を抜くようなところで、人の悪いのがいて、桐生あたりでもうっかり泊まると大変な目に遭うことがあるのですが、奥上州は別世界でした。法師あたりに行くとなかなかよかったものです。そこで道端に妙なものが立っていることを発見したわけです。
 二人立った石像です。それまでのぼくらの経験では、馬頭観音とか地蔵様とかそういうものは、路傍にいくら立っておられても驚かないのでけれども、二人立っているのです。「なんだ」といったところが、百姓がにやにや笑っておってな
かなか教えないのですよ。そうなって来ると余計に興味が湧いて来るのでしょう。それがさえの神(道祖神)であることがわかったのですがある年の五月、白馬岳の帰りに松本で胡桃沢さんに会って、話しているうちにそのことに及んで、いろいろと案内してくれました。
 当時銀行におられた胡桃沢さんが部下の人をつれ出して、三四人で見て歩き、全部写真にしました。それを胡桃沢さんに送って褒められたのがそもそもいけなかったのです。橋浦君が『道祖神図絵』といって出したものがありました。柳田先生のすばらしい機械をかつぎ出して撮したというのですけれども、中には鮮明でないから筆を加えたものもあったようです。その後、そこら中を歩いて見ますと、信州ばかりでなしに、山梨県、神奈川県、千葉県と関東いたるところにあるから、それを全部撮りましたね。何百枚かあるでしょうね。戦争中には伊豆の道祖神を全部調べました。  座談会の内容(一部)から
7月26日、「登山の今昔」を「山陽新聞・山陽随筆No 1707」に寄稿する。
7月末から8月の初め、上越・湯桧曽(ゆびそ)上流両岸の山々を縦走、イブキフウロを発見する。
            S30・11「採集と飼育・イブキフウロ」より
7月、「遺伝 10巻8号 8月号 特修 高山植物 北隆館」に「タカネナデシコの変異」を寄稿する
  
 遺伝 8月号    口絵 第1図 山寺産
     シモフリタカネナデシコ (P)花直径45_
(略)ナデシコの類は、雌雄の両蕊とも、完全に発育するものもあれば、その一方が発育不良、または不発育も場合もある。上記の変異の中でも、種子の稔らないものもあるし、同じ株でも、花によって稔るものである。それ等がどういう変異を示すか、ことごとく皆自然まかせでどうなるかは、聊(いささ)か非科学的だという譏(そしり)をまぬかれないとはいえ、相当の興味を以て期待しうると思う。
 因に記す。カワラナデシコでも、霜降りの品種があり、わたくしはこれを自園で栽培している。       
−理博−


8月、増井正次郎(警察庁防犯課長)と」「週刊東京 2巻28号通巻47号」に「太陽族℃Rへ登る―霊気をやぶる嬌声と痴態」と題した記事が掲載され、その取材に答える。
武田久吉氏(元日本山岳会副会長、理学博士)にきいてみよう。「いまの若い人はスリルと楽しみを求めて山へゆくらしい。太陽族≠ニいわれる連中がそれに手ごろな場所として上高地などを見つけたとしても不思議ではない。つまり、山の霊気なんていうことは、連中には問題ではないのだ。逆に、山の霊気を吹き飛ばすために、町の俗塵をありったけ持ちこもうとしている。連中の特徴はレジスタンス精神にあるそううだが、こんな反抗は随分くだらない。山には山でだけしか味わえない楽しみがあるのだ。軽井沢のブルジョワを気取る若者にしても、軽井沢の楽しみ方をしらないのだ。金の使い方も下品だ。もっと上品に使えば、地元の人がこうした連中を見る目も、みっと変わってくると思うのだが・・・・そうすれば山も人も、もっときれいになるだろう。どだい、山は見るものだ。その中にひたりにゆくものだ。麻雀をし酒を呑むなんて、町にいたってできるじゃないか
8月9日、尾瀬が国指定天然記念物に指定される。
9月10日、全日本山岳連盟事務局が「第一回全日本登山体育大会」に於ける「厚生省」の後援許可を得る。

9月18日、全日本山岳連盟事務局が「第一回全日本登山体育大会」に於ける「文部省」の後援許可を得る。
              
注 博士の動向が不明なため調査要 2016・3・22 保坂記
9月、「ハイカー11号」に「立穂ハイキング対談《お時間拝借》植物学者/武田久吉」を寄稿する。
9月、「あしなか 第53輯」に「女性の登山問題」を寄稿する。
10月、「八ヶ岳にて 撮影 風見武秀」で掲載される。 「あしなか 武田久吉先生追悼号 グラビア」
10月、小沢英二・清水勝と「4年の学習 1巻7号 学習研究社」に「はて?どこをたべている」を寄稿する。pid/1765260
10月1日、「財団法人国立公園協会」より、国立公園の発展に盡力した功績で「感謝状」が授与される。 
10月14日〜22日、四国方面を訪う。
10月14日 東京(21時発)→車中(泊)
10月15日 車中→(汽車と船の旅)(夕方7時15分・高知着、館脇の友人が出迎える)→高知・三翠園(泊)
10月16日 高知・三翠園(急行バス)→室戸岬(泊)
10月17日 室戸岬→高知・三翠園(泊) 17日夕、高知三翠園からの「絵はがき」(全文)
室戸岬へは急行バスで三時間はタップリ掛りました。幸ひ晴天に恵まれて海岸やら山の上の灯台やら無電局を訪ねて愉快な半日を送りて一泊、今朝再び山や海岸で珍しい植物を写したり採ったり十一時半ハイヤーにて出発途中長さ六メートルもある尾の長い鶏を見て高知に戻りました。明日は朝の八時から夕の五時までかゝるバスの旅で四国の南端足摺岬に向ひます、幸に躰に異状なくタドンにもなれて来ました。南国は流石に温かく藪蚊がブン
10月18日 高知・三翠園(バス)足摺岬足摺岬・営林署の寮(泊)
10月19日 足摺岬・営林署の寮(バス)高知三翠園(泊)
10月20日 高知三翠園→琴平(泊)
10月21日 琴平琴平山(岡山発・17時の急行)→車中(泊)
10月22日 車中東京(7時23分着)
                  1956・10・16日朝/10月17日夕 妻・直子に宛てた「郵便はがき」より
参考 話は大分古くなるが、何でも十年程前おこと、香川県農事試験場を訪ねたことがある。使用ではなかったから公用のようなものであったと思う。宇野から船で高松につき、それから車で、たしか仏生山町とかいう所の、その役所に行ったと記憶する。四国に行けば、呑気にも、ユキモチソウはたやすく手に入るかに考えていた私は、用を片付けてから、その話を持ち出した。(略) S40・11 「植物春秋4(11) むらさきおおはんげ異変」より
10月25日〜27日、(南方熊楠を偲び)、田辺・串本方面を訪う。
→大阪(朝7時着)→田辺(12時39分着)(発動汽船)→神島・原始林→(発動汽船)→白浜→熊野三所神社の社叢林→白浜・望南荘(泊)→熊野三所神社の社叢林→(ジープで駅に、そこから汽車)→串本→「海月」といふ旅館で中食→(船)→大島→京大植物園→米軍のレーダー基地で夕食→(舟)→串本(泊)→那智瀑→(不明)
 (以降の行動については不明 検討要 2015・5・5 保坂記)  1956・10・27付 妻・直子に宛てた「郵便はがき」より作成しました。

参考 大台ヶ原にて
「岳人」103号より
11月4日〜14日、「菊展覧会巡り」の大旅行を行う。
  
11月4日 東京駅→三島・楽樹園・菊展覧会→草薙駅で大花園といふ菊作りの名人を訪ねる→夕刻静岡着・菊の展覧会(泊)
11月5日 静岡→大井川の右岸・茶業試験場→夜8時・京都着・濱田・堀田君、出迎へ・大文字屋(泊)
11月6日 大文字屋→(朝から雨)→大学→牧方・菊の展覧会→香里園で菊の栽培家を訪ねる→大阪→保育社→神戸(泊)
11月7日 神戸→(自動車)→六甲山・頂上→高山植物園→(車で下山・中食)→明石城址・菊の展覧会→人丸花壇(泊)
11月8日 人丸花壇→岡山・菊の展覧会→福山(泊)
11月9日 福山・菊の栽培家二軒を訪問→急いで「安芸」に乗車→(車中泊)
11月10日 →朝・7時半東京駅着
11月11日
11月12日 新宿御苑
11月13日 安行
11月14日 平塚園芸試験場
    11月7日付 十一月六日 京都河原町三条西入る 大文字屋にて サイン
   11月8日付 十一月七日夜 明石市人丸花壇にて サイン  妻・直子に宛てた「郵便はがき」より
     参考 教子である、山本吉之助と六甲山で再会できたか、生死についても不明のため検討要 2015・5・12 保坂記  
11月16日〜12月1日、屋久島へ調査旅行を行う。
11月16日
(金)
東京→(夜行)→ 同行者 ジョーン・クリーチ(米国園芸学者)
11月17日
(土)
→久留米→萩荘(園芸試験場の阿部・ツツジに詳しい田村、屋久島行を協議)→萩荘(泊)
11月18日
(日)
萩荘→原田氏が車で来訪、園芸試験場(熊沢場長)→久留米駅→(霧島号)→鹿児島→鶴丸荘(泊)
11月19日
(月)
鶴丸荘→鹿児島県庁→鹿児島大学に初島住彦教授を訪ね屋久島や種子島の植物に関する話を拝聴→樹木園→城山→市内散歩(昔、故池野成一博士が精虫を発見した蘇鉄→島津氏別邸の巨大な孟宗竹)→夜10時、長福丸にて出航
11月20日
(火)
一屋久島、一湊(いっそう)→宮ノ浦港で種子島から来て待っていた大内山氏が案内→宮ノ浦永迫旅館(朝食)→営林署、工藤氏から島や島の草木についての談話→(営林署のジープ、途中、草木の採取や撮影)→永田→渡辺氏のポンカン園を視察(中食)、沈竹(方言:チンチク)が茂る→夜、村長が来訪→永迫旅館(泊)
11月21日
(水)
永迫旅館→(熊沢氏と大内山氏はバスで、→安房(あんぼう)博士と長野氏はジープで移動)→(採集と撮影)→一湊(中食)→一湊にて採集→永迫旅館(泊)
11月22日
(木)
永迫旅館→(徒歩)→長野氏の案内で宮ノ浦川中流の林内→第十号橋→路上で中食→橋→永迫旅館(泊)
11月23日
(金)
永迫旅館(ジープ)→安房(あんぼう)へ、熊沢氏と大内山氏に遇う→営林署→ジープで「はとばの家」(中食)→(軽便鉄道)→太忠山→小杉谷・幽岳荘(泊)
11月24日
(土)
幽岳荘→(森林軌道・トロッコ)→石塚、(屋久杉の伐採地)→(徒歩)→花ノ江河(エゴウ)(中食)→黒味岳(時間不足で登山中止)→石塚→(森林軌道)→幽岳荘(8時30分着:泊)
11月25日
(日)
幽岳荘→大杉見学→小杉谷(中食)→(トロッコ)→途中、採集と撮影→「はとばの家」(泊)
  今日は百八十年程前に伐られたといふ大杉の株を見に山中を分け入り予定よりもおくれて・・
      妻・直子に宛てた11月25日夜の「郵便はがき」より 
11月26日
(月)
「はとばの家」→(ジープ・バス)→栗生(くりう)・大迫旅館→栗生川の河口に紅樹林を探る(メヒルギの群落・オオハマグルマ・グンバイヒルガオ・スナヅル)→大迫旅館(泊)
11月27日
(火)
大迫旅館→(車)途中、採集と撮影→尾ノ間(湯ノ峯荘)→海岸(マメ科のハマアズキ)→湯ノ峯荘(泊)
11月28日
(水)
湯ノ峯荘→月見川橋→(バス・バス)→「はとばの家」→徒歩→営林署(波多野氏に挨拶)→(上屋久からジープ)→宮ノ浦永迫旅館(泊)
11月29日
(木)
永迫旅館→(大内山氏とジープ)→一湊川(ホソバハグマ)→伐採小屋(中食)→(ジープ)→宮ノ浦→営林署と村役場に挨拶→船が来ないと云う情報→永迫旅館(泊)
11月30日
(金)
永迫旅館→(バス)→小瀬田、女川流域を探る→(バス)→宮ノ浦(中食)→(ジープ)→大内山氏と楠川に赴く→宮ノ浦(イトバショウ)
12月1日
(土)
宮ノ浦・永迫旅館7時30分:長福丸にて出航→種子島・島間(シママ)→立本(タチモト)の国有林調査→上中(カミナカ)泊
12月2日
(日)
種子島(調査内容不明)
12月3日
(月)
種子島(調査内容不明)
12月4日
(火)
(大風と高波により六日の朝まで出航を延期)
12月5日
(水)
滞留したことにより、「種子島北部を探って野生のタチバナを発見」する。
 参考:明治35年2月発行「植物学雑誌」180号より、矢部吉禎は「対馬採集雑記」の中で龍良山の南側でたちばなの
     野生者及びがんせきらんを採取したと記述する。
12月6日
(木)
種子島→鹿児島→指宿・吟松(泊)
12月7日
(金)
指宿・吟松→開聞岳の麓、牧聞(ヒラキ)神社の原生林調査、場合によっては山の中腹あたりまで登るかも知れず。→泊
12月8日
(土)
 →鹿児島→久留米(泊)
12月9日
(日)
久留米→(再び園芸試験場か不明なため検討要)→久留米8時、急行「阿蘇」→車中(泊
12月10日
(月)
車中→東京(夕7時8分到着)
  アルプ 140号」に「屋久の島秋月日誌」より作成する。 保坂
参考  妻・直子への「郵便はがき」31・11・188付/11・20日付/11・23付/11・24付/11・25付/12・2付/12・7朝付より
○この年の、第11回兵庫国体山岳部門の競技が中止となる。
11月、「岳人 103号 11月号 中部日本新聞社」に「第一回全日本登山体育大会の意義」を寄稿する。
第一回全日本登山体育大会の意義(全文)
 わが国の登山は、半世紀にわたり発展の一途をたどってきたが、殊に最近に至って一大飛躍を遂げ、その愛好者は都会、農村の別なく、また老若男女を問わずして著しく増加し、今や国民スポーツというも過言ではない現状であります。しかしながら、激増しつつある登山愛好者のすべてが、真に登山者として謙虚な自覚を有しているものばかりとは思えず、自然風土を蹂躙するが如きものも一部にあり、また憂うべき遭難事故も続出しております。ここにおいて、われわれは健全なる登山思想の普及発達を願い、もってすぐれた自然美をもつわが国の風土を広く国民に認識せしめると共に遭難の予防に当る主旨にて、全国各都道府県の登山人を糾合し、うつて一丸とした全日本山岳連盟を結成し、わが国登山界の正しい発展に情熱をもって当ってきたのであります。われわれは以上の目的を達成するために、国民スポーツの祭典たる国民体育大会に毎回参加し、全国登山人の協和交流を図ると共に健全なる登山思想を鼓吹し、自然を通じ国民に勇気と希望を与えてきたのであります。このとき、本年(昭和三十一年十一月)開催される第十一回国民体育大会登山部門が、諸般の事情によって中止のやむなきに至ったのは、まことに遺憾なことであります。しかしながら、激しい勢をもって興隆しつつある登山界の現状をみるに、これの正しい指導と、健全なる発達を育成することは極めて急務であり、ゆるがせにできないと断定し、別項の如き計画により第一回全日本登山体育大会を開催することとしたのであります。この大会は全国都道府県より選抜した優秀なる登山人によって模範的演技を展開し、もって登山界の健全なる発展に寄与し、併せて全国登山愛好者の道徳、技術の向上に資せんとするものであります。須らく全国岳人の蹶起を促すと共に、各方面の協賛を得て、これが完遂を希求し且つ期待して止まぬ次第であります。
                            (全日本山岳連盟会長)
1月22日〜25日、第一回全日本登山体育大会が奈良県大峰山、大台ヶ原で行われる。
  参考資料 ★開催までの経緯★
 
第十一回国体登山中止の報が伝わるや、各地関係者は愕然とし、これにかわる大会の必要性を事務局に寄せられたのであります。ここにおいて、全岳連側国体常任委員(全岳連五、日本山岳会五もって構成された国体登山のための機関)は対策を鳩首協議し、「全岳連独自の大会をもつほかなし」との結論に達し、これに対する全加盟岳連の意向を問い、評議委員会に図ることとしたのであります。即ち
1、全国大会開催の可否
2、開催場所 
(イ)富士山、(ロ)大峰山・大台ヶ原、(ハ)六甲山、
3、開催の場合、参加者を送ることができるか。
の三点をあげてアンケートを発したものであります。これに対し回答十六を得、その結果は

1、賛成十五(白紙一)計十六
2、(イ)六、(ロ)七、(ハ)二、(白紙一) 計十六
3、参加者を送ることができる。
(イ)の場合二十五名、(ロ)の場合二十五名、(ハ)の場合三十六名、わからない二通(おくるとすれば三名が一通)<略> 
  
全日本山岳連事務局「岳人 103号 11月号」より
  参考資料 岳人103号に大会コース概念図や大会実施要領等が併せて掲載されています。 尚、武田博士が同大会に出席したかについては
        日程的にご無理なところがあり、今後の検討事項にしたいと思います。
 2016・3・15 保坂記
1957 昭和32年 74 6月、「詩心 うたごころ 第2巻 第6号」に「尾瀬の今昔」を寄稿する。 
 
尾瀬の今昔」より   原文をそのまま掲載
(略)
 最近の朝日新聞によると、あの幾百幾千とある水芭蕉も、観光客に踏み荒らされて、五、六年もすれば、全滅するだろうとの話。それまででなくとも、萎縮して、昔の美観壮観は見られなくなるかも知れない。イヤ尾瀬許りではない。高山植物は引き抜かれたり踏みつぶされたり、清浄なる可き山は、紙屑空缶の類で汚され、暇と金をかけて行く価値はなくなるだろう。そうすれば、山も太古以前の姿にかえり、遭難者もなくなるかも知れない。
 
尾瀬ヶ原は、半世紀以上も、発電用貯水池の候補地として、殊に大東亜戦争以来、話題をまいた。それを遂行しようとか、又は阻止しようとかで、随分金をつかった人もあれば儲けた者もあった。トンボが何だ! モウセンゴケが大切なら、移植すればよい! などと愚にもつかぬ議論
をする政治家や事業家があったのは笑止である。放送局までが、その尻馬に乗ったのだから滑稽千万である。
 尾瀬は日本でも稀に見る珍しい地域で、その価値の高いことは「尾瀬ヶ原綜合学術調査」の結果が証しで余りある。
 その面白い点、興味のある点、価値のある点などは、この狭い紙上では、九牛の一毛だも述べることは出来ない。宜しくこの研究報告書について見て頂くより致し方がない。
 幸いなことに、文部省はこの地を天然記念物として指定したので、水底に没する憂はなくなった。あとはその意味を汲んで、どの程度観光客が保存に協力するかにかかっている。
  
7月、「父と子の山(分担執筆)」を「中央公論社」より刊行する。 pid/2986369
     尾瀬紀行 武田久吉 /或る年の尾瀬 武田静枝
7月、「山岳 第五十年」が「日本山岳会」から刊行される。
五十周年記念講演 五十年の回顧 / 高野鷹蔵
五十周年記念講演 回顧と展望 / 松方三郎
日本山岳会創立前後之見聞 / 志村鳥嶺
黒部と山の人たち / 冠松次郎
           注 同号に、博士の記述あるか確認要 Pid/6064988  2017・8・15 保坂
8月23日付、「讀賣新聞」に「初秋の植物採集」を寄稿する。
8月下旬、信州鉢伏山に於いて1株の「イブキフウロ」を発見する。
追記 その後、本年8月下旬、信州鉢伏山の植物を見に行った折、ハクサンフウロに交じって、1株のイブキフウロウを発見したが、季節がこの花にとっては、遅い頃なので、僅かに残花を見たに止まり、また他にも同様なものが、幾株もあるかどうかを、たしかめることができなかった。 1957・10・15  
                          
 「採集と飼育 第19巻11号」に「イブキフウロ P326」より
10月14日、「日本植物学会七十五周年記念大会・日本植物学会」より、多年にわたる会員として会の発展に寄与した功績で「感謝状」が授与される。
○この秋、那須朝日岳に登り山上に於いて放送座談会が行われる。
昨秋(昭和32年秋)も、茅、吉田博士と、那須の朝日岳に登り、山上で放送座談会の録音をとろうとした時、機会に風が当って雑音が入るという心配から、紫黒色の実のなったガンコウランをしとねとして、大きなハイマツの陰に陣取ったのも、まことによい思い出となった。    昭和33年3月 東京新聞 日だまり欄 「山とハイマツ」より
10月30日、福島県麻耶郡「雄国沼湿原植物群落」が国天然記念物に指定される。
11月、「採集と飼育 第19巻11号」に「イブキフウロ」を寄稿する。
 中学時代のこと、飯沼慾齊翁の草木図説≠開いて見たところが、自分の知らないフウロソウ属の草が図説してあるので、牧野先生に伺って見たら、ハクサンフウロというのは、私が日光で再三見たことのある、アカヌマフウロと同じということで安心したが、イブキフウロという、花弁の先のわれたものは、類がないので、大に興味をそそられたが、これまた同じものという御話なので、一度はそんな異形のものに廻り会いたいと、念願していた。曽て伊吹山に登ったこともあったが、秋10月の事では、花のありよう筈もなし、草を掘り採って、イブキジャコウソウなどと共に、同好の士なる岡田喜一君の元へ送り届けて、管理を頼んで置いたのに、送り方が下手だったと見えて、翌春何一つ地上に顔を出さなかったという報告に、落胆したに止まり、その後、あの山麓を、毎年2〜3回は汽車で通るにも拘らず、立寄って見る気も起らなかった。
 去年の夏7月の末から8月の初めにかけて、久し振りで・湯桧曽(ゆびそ)上流両岸の山々を縦走の折、とある草原にまがう方なきイブキフウロを発見したが、時間や天気の都合で、撮影ができなかったので、その根を携え帰って栽培することにした。本年6月、その蕾が出たので、どんな花が咲くかと、楽しみにして居たところが、開いて見れば依然去年のと同じような
花なので、斯ういう固定した一品があるものであることを知った。そこで、幾枚かの撮影を試みた。その一つ二つをここに掲げて同好の士に紹介する。(略)
  イブキフウロ Geranium yesoense Franch.et Savat.var. Iobato−dentatum TAKEDA
 ページが(326 頁へ)と、飛んだため、後半の内容未確認 2017・5・10 保坂 2018・2・3 確認済 保坂 
○この年、ケソン市で行われた第8回太平洋学術会議に於いて「日本の植生、特に日本アルプス圏内の植生について」の講演を行う。
○この年、金精峠に鉄筋コンクリート造りの金精神社社殿が完成する。
1958 昭和33年 75
2月、「武蔵野233号」に「入谷の喜宝院 日本三庚申の一」を寄稿する。
3月3日、「東京新聞 日だまり」に「山とハイマツ」を寄稿する。
3月15日、「東京都知事 安井誠一郎」より、駐留軍関係要員としての貢献により「褒状」が授与される。
6月、「民間傅承 第22巻3・4・5・6合併号 No233号」に「夾竹桃のことから」を寄稿する。
7月、「旅 32巻7号」に「特集 高フ温泉をもとめて 緑に映える温泉宿-植物学的見地から」を寄稿する。
7月、厚生問題研究会編「厚生 13巻7号」「高山植物の絶滅をおそれる p17〜19 」を寄稿する。
(略)高山植物の育つ環境を述べるて)、こんなわけであるから、、高山植物は、下界の草のように容易に繁茂することはむずかしい。したがって、これをみだりに摘みとり、根をふみねじれば、彼等は再起不能におちいるのは当然であることに近年に至って、高山植物の荒れ方は実に甚だしいことを知る。それはただ登山者が意識的に摘み取るのでなく多人数が通路以外の所を歩きまわって、踏みにじるだけでも、恐るべき結果を招く。背の低いハイマツで美しく蔽われていた八ヶ岳山景の硫黄岳の頂上の如き、それが〇〇された結果悉く枯死して、昔の片鱗さえ留めなくなってしまった。若しそれ天然記念物に指定されたものでもあるとしたら、それが抱合大の巨樹でもない限り、数年を出でずして根絶してしまう。これは総じて国民の教養の如何にかかわる所であるから、法律などで取締っても、一向に効果をあげることは出来ないと思う他ない。(日本山岳連盟会長)
参考  八ヶ岳山上も禁札近来高山植物の濫採益々甚だしく、珍種は遠からずして絶滅に歸せんとは、一般の杞憂する處なるが、其防遏(ぼうあつ)手段として、今夏八ヶ岳山上に、左記禁札の樹立せられたるを見る。
掲示
一八ヶ岳國有林内ニ於テ高山植物ノ採取ヲ厳禁ス但学術研究ノ爲メ採集ヲ要スルモノハ當暑ノ許可ヲ受ケ其證ヲ携帯スベシ明治四十一年七月長野大林區臼田小林區暑掲示されたる場處は、夏澤峠の頂上、及横岳に各一ヶ所なりしと記憶す。斯る一片の辞句が、果して事實上有効なりや否や、疑問に屬すれども、有るは無きに勝れるものあらむ。餘事ながら、本澤温泉には「高山植物採集案内」てふ珍奇の肩書を有する中村喜太郎君あり、高山植物の今場は、流石に違ったものと感心せり、此種の案内は、同君が日本にて嚆矢なるべし、故に一寸紹介して置く。(辻本(満丸)  明治41年10月 「山岳 第3年第3号 雑録」より
        杞憂(しゆう):心配しないでいい事を心配すること。とりこし苦労。   嚆矢(こうし):「物事のはじめ。
8月、「ハイカー 34号」に「山登りで感じたこと」を寄稿する。
8月、「旅 32巻8号」に「かくれた鉢伏山の花園 」を寄稿する。pid/7887623
10月、「登山講座 第三巻(分担執筆)/山と渓谷社」に「山の樹木」を寄稿する。 pid/2486910
   同本に田辺和雄が「高山の植物」、 志方欽二が「湿原植物」を寄稿する。   
11月、「民間傅承 第22巻第10号 通巻第237号」に「年中行事考」を寄稿する。
○この年、「現代紀行文学全集 6 修道社」から「尾瀬・北相の一角」が掲載される。 pid/1667170
1959 昭和34年 76
2月、「天文と気象25巻2号」に「“氷花"のいろいろ 」を寄稿する。pid/2356662
4月、「民間傅承 第23巻第3号通巻第240号」に「猫車」を寄稿する。
4月、「帳面 
特集花 4号」に「春を告げる山の花」を寄稿する。
5月、冠松次郎と「ハイカー 43号」に「『ハイカー』創刊四周年を迎えて」を寄稿する。

6月17日、日本体育協会(日体教)加盟問題について、日本岳連とJACの代表者会議がお茶の水の「山の上ホテル」で開催され、その結論として、二つの団体が「日本山岳協会」を窓口に加盟することを決定する。
6月、「山と渓谷 通巻241号」に「アルプス以前」を寄稿する。pid/7933938
7月、「山岳 第五十三年」に「追悼 高頭君の想い出」を寄稿する
7月、「ハイカー 45号」に「知っていて便利な高山植物の話」を寄稿する。pid/2296002
7月、「遺伝 Vol13・No7 裳華房」に「富士山とその植物相」を寄稿する。
序説(略)一方あの霊山を紙屑、弁当殻、空缶、空瓶等々、あらゆる種類のゴミで、完膚なきまでに汚して少しも恥としないのが、誰あろう、この国の住民であるのだから、外国人が驚くのも無理はない。その上、山勢や地質もわきまえずに、ケーブルカーを架設して、一ともうけしようとたくらむ者も現われるに至っては、沙汰の限りともいうべきであろう。
8月、「民間傅承 第23巻第5号 通巻第242号」に「深田植」を寄稿する
 
(略)序でいうが、あの登呂とアテ字された地名すら、アイヌ語のトーオロ即ち「沼ある所」から来たものと、私などは推測する。そしてその辺を開拓してああいう部落が出来たのだろうが、大洪水ででも亡びたものだろう。これをヤヨイ式時代と解釈するのは、考古学者の説だと聞くが、その道の素人である私などは、菊池山哉君の説のように、ずっと新しいものと考える方が、合理性があるように思うがどうであろうか。(略)

参考 昭和45年1月、博士は「東京史談 ・菊池山哉先生追悼号」に「学者臭のない学者」と云う記述があります。 2018・10・2 保坂記
9月、「原色日本高山植物図鑑」を「保育社」より刊行する。
9月、石渡清が「山と渓谷 244号」に「武田久吉博士の『尾瀬と鬼怒沼』 高山植物に生きた人-山の文章(第24回)」を寄稿する。
11月、「旅 33巻11号」に「特集 2泊3日の週末旅行 紅葉美の極地 
        裏磐梯と吾妻山-紅葉はどんなところがすばらしいか?
            植物学者で登山家の筆者が推める秋の秘境」を寄稿する。
12月、「民間傅承 第23巻第7号 通巻第244号」に「稲の杭掛け」を寄稿する。
12月、「あしなか 第66輯」に「江戸後期の道祖神像」を寄稿する。
〇この年、「帖面 第4号」に「花」を寄稿する。 内容未確認 2017・4・5 保坂記→2018・10・28 内容確認済 保坂記
1960 昭和35年 77
2月、「学燈」に「誤訳談義」が掲載される。
2月、「民間傅承 第24巻第1号 通巻第245号」に「まゆ玉と十六玉」を寄稿する。
    
     まゆ玉と十六玉 
撮影地 群馬県勢多郡強戸村上強戸にて
(まゆ玉と十六玉の数について・略)/ここで問題となるのは、十六という数である。戦時中、群馬県勢多郡粕川村で、「十二・十六」というものを見た。「十二」というのは、大きなまゆ玉十二個を木の枝にならせたもので、「十六」とは、矢張り木の枝に、十六枚の長方形に切った伸餅をさしたものである。この「十六」はその年お札(さつ)が沢山手に入るようにという予祝的飾り物だと説明されたが、十二の数が一年十二カ月をあらわすことはよくわかるが、十六の数に至ってはこれを説明するものに出あわなかった。また十六玉の風習は、上州あたりのみでなく、道志川沿岸の村々や、相模川沿岸の町村にも行われ、秋山川沿岸の村々では、これにアンを入れ、その小豆をつぶさずに、繭の中の蛹だと称し、またこれを下げるのにも、十六日にし、その日に煮てたべる処を以て見ると、十六という数にこだわる点は見逃せない。更にまた、鳥沢町で見聞きした処では、団子ばらに
十六だんごを刺すのみでなく、その前に、普通に食べるのの倍位の大きさに切った伸餅十六枚を、八枚ずつ重ねて二行にならべ「エガ餅」と呼んでいる。エガとは相模川下流の津久井郡あたりにも行われる方言で、蚕薄(えびら)の土名である。こうなると、この数は養蚕と密接な関係のあることは想像するに難しくない。諸方でいろいろ質問を繰り返した揚句、最後につきとめ得た結果は、これは蚕の虫の脚の数だということである。そういえば、鱗翅目の幼虫は、胸部の三環節には六本の有節の胸脚があり腹部の四環節には八本の腹脚と、尾端の環節には二本の尾脚があって、是等五対のものは、袋状をなすのが普通であり、其等は蛹になる時に失われてしまうのである。こういう細部までも観察して、それを予祝的呪法に利用するとは甚だ面白いことと考えるのであるが、先に『農村の年中行事』を出版した頃からの疑問が、戦争末期に解決出来たことは、非常に愉快に思われるので、この機会を利用して発表する次第である。
3月、「民間傅承 第24巻第2号 通巻第246号」に「かたくり」を寄稿する。
3月5日付、「〇〇新聞」に「全日本ヒマラヤ遠征隊の歓迎会」の開かれたことが掲載される。
     武田全日本岳連会長・日高日本山岳会会長・松田文部大臣・清水文部省体育局長尾関全日岳連副会長
     和田本社東京支社編集局次長・深田久弥・伊藤隊長・岩瀬副隊長・ニ木・稲垣・羽田・石原隊員
3月25日、尾瀬が国指定特別天然記念物に指定される。
3月、滝井孝作編「日本週報社 文学にみる日本の川・多摩川」に「多摩川・相模川の分水山脈」が掲載される。
4月1日、全日本山岳連盟と日本山岳会が共同で日本山岳協会(日山協)を設立、日本体育協会の加盟団体となる。
      初代会長 武田久吉
(昭和35年〜昭和41年迄務められました)
  
    副会長 日高信六郎(JAC)  尾関広(日本岳連)
5月14〜17日、第4回全日本登山体育大会が尾瀬・至仏・燧ヶ岳で開催される
5月、「武蔵野39巻4・5・6号」に「東京都南多摩郡における八日僧について」を寄稿する。
    巻頭の部分より/戦時中、今の城山町久保沢に行く序に、柚木村を通過した折、短時間の採訪を試みた
     が、その時は主として小正月の行事を集めたのであり、腰を据えての採訪でなくてただ行きずりの見聞だ
     けであったのでこれぞという収穫はなくて終わった
 
5月19日、「産経新聞 趣味の旅」欄に「尾瀬の今昔」を寄稿する。
尾瀬の今昔」の全文
大正十三年(一九二四年)一月十五日の未明、激震によって私達の夢は破られた。前年九月一日のものほどでこそなかったが、相当はげしいものであった。そのあと掃除が終るか終わらないかの早朝、尾瀬沼山人平野長蔵老人の訪問を受けて、チトばかり驚いたが、山人の用向きというのは、両三年前に、尾瀬沼と尾瀬ヶ原を、水電の貯水池として使用することが許可されたので、それを防止するには、あの地域を国立公園としたならば・・・・・・・というのであった。そして私がよく尾瀬を知り、その熱心な紹介者であることを人から聞いたので、尾瀬の保護を相談するには、適任であると考えたがためらしい口振りであった。
 その当時、国立公園の語が世人の口に上ったことは確かであったが、その内容に至っては、推測程度で、仮に山人の希望が実現して、国立公園として指定されたにしても、風致の保護などが理想通りに行くかどうかは疑問であった。そこで、何はともあれ、尾瀬の自然を保護するのが差し当って重要であろうと提案した。翁はこの私案に共鳴して、それ以来、尾瀬の保護に対して文字通り献身的であった。尾瀬地方が今日年々数十万の訪客があるにしても、よく風致が保たれているのは、翁の終生の努力の賜ものである。
(中見出し)電力源とは非国民的暴挙/それにもかかわらず、尾瀬ヶ原の群馬県側が、水電会社の私有地であるがために、三年に一度ぐらいは、貯水池と化せんとする計画が今にも実行に移されるかのような宣伝が行われる。尾瀬は今は日光国立公園の特別区域でであり、また最近には特別天然記念物として指定をうけている。これをしも(※1 略)破壊して、でこでも起こすことのできる電力を得ようとするのは、だれが何と言っても非国民的暴挙である。かかる案は、国民全体協力して阻止しなければならない。(中見出し)他に比類のない壮観/尾瀬は日本でもまれな景勝地である。山岳、森林、湖沼、激流、滝、湿原などの風致要素が、これほど集まった所は、他に例がないのである。そして尾瀬ヶ原の大湿原には、大小幾百かの湖沼が散在し、幾本かの渓流がこれを貫流し、また池床の湿原や池沼に咲く花は、五月の末から九月にわたって、ほとんど毎週その趣をかえている。地上の雪が消えるや純白のミズバショウが湿地を埋め、リュウキンカは渓流に沿って黄金のさかずきを浮かべるし、初夏にはヒオウギアヤメやシナノキンバイがそれにつづいてコバイケイやワタスゲの大群落が、やがてその跡にニッコウキスゲが咲き誇る壮観は、到底他の地方で比類を見ることができない。
 明治三十八年(1905年)の七月初旬、私が初めてこの地をたずねた時には、上越線の布設など思いもよらぬころとて、日光の湯本から金精峠をこえ戸倉に達し、ここで人夫をやとってまず尾瀬ヶ原に足を入れたが、そのころは渓流はおおむね徒歩を余議なくされ、また原を横断するこみちは夢のごとくかすかであった。
 そのころの日光戦場ヶ原はなお湿原のおもかげをとどめ、糠塚
(※2 判読が困難のため16行を省略)中田代(なかたしろ)に見るカキツバタの群落、下田代(しもたしろ)のチングルマなど、季節によって景色の変わる尾瀬の風物は今なお訪客の目を奪うに 十分である。また沼の北岸には、ミツガシワの白花におおわれた浮き島のあることを忘れてはならない。
尾瀬ケ原の貯水池問題は、大正時代に始まったものではなくて、実は今から半世紀以上も前の、日露戦争直後、戦争景気で文物大いに
ったころ、この地の独特の地勢、すなわち四方を山峯で囲まれた盆地で、山側を流れ下る水は幾筋かの渓流となって原を貫流し、それらは集まってついに一本の赤川となり、平滑(ひらなめ)急流をなし、三条の大滝となって落下する。この赤川が原の北東端を破って北流するあたりをせき止めれば、ここに一大貯水池を形成するは容易の策だというのである。このしろうとの案がようやく実現して、某会社が水利権を得たが、元来地質調査に立脚したものでないので、ダムの築堤が不可能となり、権利だけが転売されて今日に至っている。そして群馬県分が現在さる会社の所有に帰してはいるが、ダムの予定地は国有林内であり、その上、げんに蓄えられる天然水だけでは発電には不足するのが実情である。こんなものに巨額の金銭を投入する愚を、営利会社が実行するわけはあるまいと思われる。(たけだ・ひさよし 理学博士)
      
(※1): 切抜が不明  ※2): コピー状態悪く判読が困難なたの省略しました。 2015・1・18 保坂
5月、「日本山岳風土記2 中央・南アルプス 宝文館」に「高山植物の魅惑」が掲載される。
5月20日、「日本山岳風土記3 富士とその周辺 宝文館」に「山の木と草、四十年前の丹沢」が掲載される。
6月6日、「朝日新聞(夕刊)」に「深刻さ増す‘尾瀬攻防戦‘ 電源開発やめよ」が掲載される。
尾瀬の植物研究家、理博武田久吉氏の話 尾瀬ヶ原にダムを作るなどという計画はとんでもない話だ。前に、尾瀬を愛する学者では偏見があるということで、尾瀬を全く知らない第三者の学者たちに、‘尾瀬の打診‘をしてもらったが、この人たちのレポートは全部「学術的な価値がらみで尾瀬は現状のまま保存すべきである」という結論だった。日本に残された最後の高層湿原、それと美しい原始林をわたしはみんなで守りたいと思う。」と述べる。また、それと同時に東京電力・小林土木課長と電源開発会社・新井土木部長の話も掲載された。
6月、米国地質調査所の技術顧問を退職する。
7月、「旅 34巻7号 歩かず登れる涼風境号」に「バスの窓から植物の変化をみる」を寄稿する。pid/7887646
7月、「日本山岳風土記5 東北・北越の山々 宝文館」に「尾瀬と奥日光を訪うて、出羽の名山鳥海、勝道上人と日光の開山」が掲載される。」
7月、厚生問題研究会 編「厚生 15巻7号」に「他人の迷惑を考えよう」を寄稿する。 pid/2681437
7月6日、NHK7:20からのTV番組、「おはよう」に出演、「史跡・名所・尾瀬」を語る。
8月、全国市長会・全国市長会館編「市政9巻8号通巻97号」に「山岳を仰ぐ」を寄稿する。pid/2711398
8月、文化財専門審議会臨時専門委員(第三部会)となる。
9月、「民間傅承 第24巻第5号 通巻第249号」に「「葡萄鏡」か「菊唐草鏡」か」を寄稿する。
10月、「岩波書店」から、「一外交官の見た明治維新(上下) アーネスト・サトウ 坂田精一訳」が刊行される。
10月、「旅 34巻10号」に「特集 阿寒・十和田・雲仙 奥入瀬から蔦への紅葉 」を寄稿する。
11月3日、「内閣総理大臣 池田勇人」より「紫綬褒章」を授与される。
11月、「自然保護 No2 日本自然保護協会」に「尾瀬と水電問題」を寄稿する。
11月、「アルプ 33号」に「地名四方山話」を寄稿する。
1961 昭和36年 78 1月8日、新宿区上落合、月見ヶ岡八幡神社境内の宝筺印塔を訪ねる。
    
  
庚申 18号」    所蔵 津久井郷土資料室 ガリ版刷
1月、「庚申 18号1月号」に「庚申と猿」を寄稿する。 
1月、「学燈 58巻1号」に「回想の冬山」を寄稿する。
1月、「峠」に「岩手山と八幡平」を寄稿する。
2月、清水長明と埼玉県戸田市重瀬地区に於いて庚申塔の写真撮影を行う。
  
      庚申塔を撮影する武田博士                  
 (左図)は庚申塔を撮影中の著者
 埼玉県戸田市重瀬にて 1961年2月清水長明氏撮影
 この庚申塔は宝暦十年九月の造立で像の上部に次の偈がある
 「日日拝尊補 得無限寿身 朝昏行倍力 家富吉祥新」

                   「路傍の石仏・著者略歴欄の下部分の記述」より


3月、「庚申 19号2月号」に「比企丘陵の庚申塔小記(一)」を寄稿する。
4月、「庚申 20号3月号」に「比企丘陵の庚申塔小記(二」を寄稿する。
○この年の春、秩父郡高篠村の山中で多数のヤエガワを見分する。
(略)関東には未だ知られていないようだが昭和三十六年の春秩父郡高篠村に属する山中約800mの地に、かなり多数の(ヤエガワが)生ずるのを見た。この種にコオノオレとかコハオノオレとかの新名が命ぜられたこともあるが、近頃では幸にもヤエガワカンバの名が正名として採用されている。(略)  1962・May 「植物方言思いつくまま」より
5月、理事より「武蔵野文化協会」会長に就任する。
5月、「武蔵野 第40巻 第3・4号」に「かたくり」を寄稿する。
5月、「庚申 21号4月号」に「埼玉県吹上の庚申塔」を寄稿する。
5月、串田孫一編「峠 有紀書房」に「三平峠」を寄稿する。
5月、「鈴木牧之百二十年祭」に参列。(調査中)
  
長恩寺経蔵を改装した当時の「鈴木牧之記念館」と120年祭の記念品として配られた布巾
 
天井のすすけてひくし冬籠 花散て浮世にうとき山家かな 煤掃や塵に交る神の札 牧之
   また同月に「鈴木牧之顕彰会」が「牧之ー鈴木牧之百二十年祭記念出版」を刊行する。
○この年の初夏、一ノ瀬に向う途上、柳沢の合流点でトカチヤナギを見分する。
資料 (略)三十六年の初夏、大清水でバスを下りて一ノ瀬に向う途上、柳沢の合流点で片品川の方を眺めた拍子に、かなりの(トカチヤナギの)巨樹三四株を認めて少なからず喜んだ。(略) 
           1962・May 「植物方言思いつくまま」より
5月、「旅 第35巻第5号」に「百花芽吹く飛騨路から上高地へ」を寄稿する。
7月11〜14日、文部省との共催による登山指導者講習会が岐阜県宝田温泉で開催される。

7月、「遺伝 VoL15 No7」に「尾瀬発見記」を寄稿する。
8月、「日本高山植物図鑑(学生版 )(共著 武田久吉・田辺和雄)」を「北隆館」より刊行する。
日本に自生する高山植物432種を自然分類式により配列。花期,生育地,分布を精密な図と併せて詳述。原色写真版8枚,普通写真版64枚を挿入し,植物帯,高山植物の生態,形態など植物記載用語例と高山植物の観察と採集地,高山植物栽培法を付したこの種の図鑑の原典。(同社宣伝文より)
8月、「庚申 22号8月号」に「戸田町笹目付近の庚申塔」を寄稿する。
8月、「旅 35真美8号」に「湖畔の話題を楽しくする知識 沈水植物・挺水植物について 」を寄稿する。
8月、「ホームメーキング 8号」に「高山植物の種類と解説」を寄稿する。 pid/3564341
10月、「学生社」が「科学随筆全集8 植物の世界」を刊行する。
随 筆名 初 稿 記 事
登山春夏秋冬 太陽/S2・8
山人の寝言 山人の寝言/S3・3
高山のもみじ 東京朝日/S3・10 〔追記〕(全文)上記ハナノキの名義については、地元の人々からももっともと思われる説明を耳にしない。葉色のなまで美しくないイタヤがハナノキの代表者であるような地方すらあるから、これは名称の起源ではないと思われる。小正月の行事の一として、この木の枝で「花」を掻(か)いて神棚などに供える風習からでも、この名が出たものかとも考えられる。しかしこの習俗は今は多く廃止されているため、確証をつかむに困難を感ずる。岩代南会津郡伊北(いほう)村には、これが残存するらしく聞くが、まだその地についてこれを確かめる機会のないのを遺憾に思う。
深山の珍味 週刊朝日/S11・1
新緑の色と香 科学ペン/S13・7
野菜と山菜 短歌研究/S17・6 〔追記〕(全文)暖国の海岸に、はまあざみというあざみの一種がある。その根は牛蒡のように食べることができるので、渾名して浜牛蒡という。また本州諸所に産する牛蒡あざみ一名やぶあざみというものの根は、よく山牛蒡として売られることがある。また牧野博士の発表によると、美濃の岩村町の富安という漬物屋では、隣の本郷村から、その村の桑畑の間などに栽培してあるこのあざみを仕入れ、味噌漬とし、菊牛蒡の名で販売し、それが同地の名物になっているという。また出雲の三瓶山で三瓶牛蒡と称して食用とするもので、同じく牛蒡あざみだということである。特産でこそないが、富士山に多いふじあざみの根も金平(きんぴら)などにすればなかなか旨いということだが、それにはまだ富士牛蒡のような名はつけられていないらしい。
高嶺の花
 コマクサ・クロユリ
高嶺の花/S31・7
誤訳談義 学燈/S35・2 検討事項:(略)数年前になるが、日本交通公社から、英文で盆栽の書物を刊行するにあたり、挿入の写真の樹木の鑑定や樹種の英名の取り扱いについて相談をうけたことがある。盆栽によくつかわれる梅の英名を、普通にプラムとする誤りを正して、ジャパニーズ エイプリコットを採用することを進言して、それがいれられ、また同社から出版された『英文日本案内』(ジャパンオフイシャルガイド)にも、梅の名所案内の項には、梅園を訳してジャパニーズ エイプリコット ガーデンとしてある。(略)
                   同全集には他に木村均・本田正次・牧野富太郎・服部静夫の随筆が収録されています
10月、「庚申 24号9・10月号」に「寿徳寺の庚申塔」を寄稿する。
10月、「現代登山全集8 富士・丹沢・三ツ峠 東京創元社」に「丹沢の自然界・丹沢山」を寄稿する。
10月、「自然保護 No7 日本自然保護協会」に「尾瀬で見たもの聞いた事」を寄稿する。
10月、「経済往来 13巻10号」に「ムチ・ムチ・ムチ 」を寄稿する。pid/1411948
11月9日、田辺和男が南アフリカ踏査中に病死する。(61才)
11月、「学燈 五十八巻一号」に「回想の冬山」を寄稿する。
           「山への足跡」では11月と表記 1月号か検討要 2016・3・21 保坂
12月 矢崎経済研究所嘱託。(至昭和38年2月)
12月、「庚申 25号11・12月号」に「石塔の損傷と亡失・水口の青面金剛」を寄稿する。
12月、「自然保護 No8 日本自然保護協会」に「富士山で見たコケモモのおばけ」を寄稿する。
〇この年、小山義治が新潮社から「穂高を愛して二十年」を刊行「序にかえて」を寄稿する。pid/2979247
〇この年 串田孫一 編集解説 「筑摩書房 山. 第3」に「春の尾瀬」が所収される。
   また同号に、富田砕花が「手招く者」を寄稿する。 pid/1666811 S5年「尾瀬と鬼怒沼」所収とは内容未確認 2018・4・2 保坂
〇この年、「現代登山全集 第6巻 (八ガ岳)」に「甲州八ガ岳・霧が峰」を所収する。pid/3038050
〇この年、「現代登山全集. 第1巻 (日本の山と人)」に「 日本アルプス名称論」を所収する。pid/3038045
1962 昭和37年 79
2月、「庚申 26号1・2月号」に「庚申ばらについて」を寄稿する。
2月、「武蔵野 第41巻2号」に「武蔵野とカツラ」を寄稿する。
    同号に「カツラの老樹(直径2メートル) 北海道大雪山麓塩谷温泉附近」と記述されたカツラの写真を掲載する。
月、「自然保護 No11 日本自然保護協会」に「ひきがえるに学ぶ」を寄稿する。
4月、「ハイカー 4月号」に「丹沢の白樺」を寄稿する。
5月、「May 「Acta Phytotax Geobot」に「植物方言思いつくまま」を寄稿する。
          
「植物分類・地理  第20巻1号 P13〜17」に収録
5月16日、赤坂プリンスホテルに於いて「武田先生を囲む会」が開かれる。
6月、「武蔵野41巻3・4号」に「武蔵野と大盃」を寄稿する。
6月、「岳人 170号」に「アンケート 若い登山者たちへ /武田久吉・荒巻広政・西岡一雄・伊達忠雄・四谷竜胤・橋本三八・須賀太郎・日高信六郎」が掲載される。 アンケート内容未確認 2017・4・9 保坂
7月、「続原色日本高山植物図鑑」を「保育社」より刊行する。
7月26日〜8月4日、鳥海山の植物調査を行う。 「日本自然保護協会調査報告 第5号」の「鳥海山の植物概論」より
7月26日 →夜行にて東京発
27日 酒田・午前6時40分着→菊水旅館休憩→日向川・ヤツメウナギの養殖場→支流草津川登る(オオイタドリ・クズ・ノリウツギ・ケナシクズ・ミズナラ)→湯ノ台(泊)
28日 湯ノ台→ジープで大台野(ヤマモミジ・ウリハダカエデ・ハウチワカエデ・ブナ・リュウブ・オオシダ・ノリウツギ・ヤマウルシ・エゾユズリハ・ヒメアオキ・ヒメモチ)→(休憩ミネカエデ・タムシバ・ミネヤナギ・タニウツギ・ヤマウルシ・ベニイタヤ・ナナカマド・コシアブラ・ゴマギ(稀)・ミヤマガマス・クロズル・ツタウルシ・ウラジロヨウラク・ハナヒリノキ・アクシバ・イワハゼの灌木・ツルアリドオシ・カキラン・ヨツバヒヨドリバナ・エジニュウ等の下草)→9時25分小休(オオバクロモジ・エゾアジサイ・テツカエデ・ヒロハツリバナ・イワガラミ・ヤマブドウ・ウツリュウヤマブドウ・コクワ・リュウモンジシダ)→下見晴→(ムラサキヤシオツツジ・テツカエデ)→荒木川を渡る→(ブナ林・オオマイズルソウ・ミヤマカタバミ・キヨタキシダ・巨岩の上にサワダツ)→3時過ぎ、鶴間ノ池・のぞき→ブナ林・ミズナラ・ミネカエデ・コシアブラ・ハウチワカエデ・ダケカンバ・チシマザサ・→荒木川上流→(ケナシハクサンシャクナゲ・コシジオウレン・イワイチョウ・クロウスゴ・チシマザサ・キャラボクツルツゲ)→5時40分、滝ノ小屋着(泊)
29日 9時、滝ノ小屋発(ミチノクカラマツ・イワイチョウ・ミヤマキンポウゲ)→草津川の源流に沿って(クロウスゴ)→白糸の瀑→雪田→(ハクサンフウロ・シロバナトウウチソウ・コバイケイ・ベニバナイチゴ・ナナカマド・ウラジロナナカマド・ミネザクラ・ミネカエデ・ミヤマハンノキ・ミヤマナラ)→(ハイマツ・ミネヤナギ・ミヤマナラ・ミネカエデ・ミヤマホツツジ・アカツゲ・オオカメノキ・ツノハシバミ・ノリウツギ・ハナヒリノキ・タカネツリガネニンジン・トウゲブキ・ナンブトウキ・ヨロイグサ・イワノガリヤス・オオバショリマ・シラネアオイの小群落)(クロミノウグイスカズラ・コケモモ・ウラジロヨウラク・ハリブキ・コミヤマハンショウズル・イワキンバイ・ヨツバシオガマ・ホソバノイワイベンケイ・コバイケイ・ハクサンフウロ)→11時過ぎ、河原宿着→(チシマザサの大群落・ハイマアツ・ナナカマド・ウラゲハクサンシャクナゲ・ニッコウキスゲ・イワノガリヤス・オンタデ・ミチノクカラマツ・ミヤマキンポウゲ・ハクサンボウフウ・チングルマ・イワイチョウ・エゾクロウスゴ・ミヤマメシダ・クマイノデ)→河原宿、山小屋(泊)
30日 河原宿、山小屋発→(チョウカイチングルマ発見できず)→大雪路登りつめた頃→(ミヤマハンノキ・ベニバナイチゴ・ミネヤナギ・ミネザクラ・コシジオウレン)→9時45分、八合目着→登り切って外輪山の山陵(コメバツガザクラ・ガンコウラン・イワギキョウ・ミヤマリンドウ・ヨツバシオガマ・ミヤマキンバイ・ミヤマキンポウゲ・チョウカイフスマ)→行者岳から内壁に下りはじめる→(イワブクロの満開の花)→11時20分、神社着→烈風吹き荒れる→神社(泊)
(略)乱発するチングルマの間を行けば幕営する者の炊事の結果、焼け爛れた植物の少なくないことに気づく。かかることは将来厳重に取締って、この区域を完全に保護しなければならない。(略)            「鳥海山の植物概論 P20」より
31日 神社、9時秋田県矢島町に向け発(チョウカイフスマ)→遭難碑→七高山から100米下る(シラタマノキ・イワカガミ・アオノツガザクラ)→舎利坂→(ハクサンシャクナゲ)→薊坂(チョウカイアザミ・チョウカイゼリ・ミヤマハンノキ)→九合目、氷ノ薬師→七ツ鎌(ミヤマハンノキ・モミジカラマツ)→七合目、御田(おんた)(ヒナザクラの群落)→六合目の賽ノ磧(かわら)(ミズバショウ)(オガラバナ・ミヤマハンノキ・ベニバナイチゴ・ダケカンバ(方言でタッチラと呼ぶので坂をタッチラ坂)→五合目、祓川神社→竜ヶ原(ヌマガヤ・ミツガシワ・ヒオウギアヤメの小群落・ミズバショウ)→さらに下る泥沼池(ミズバショウ・フイリミズバショウ・タムシバ・ミズナラ・ムラサキヤシオツツジ・ミヤマコウゾリナ)(ブナ林)善神ノ池(ブナ林・スギ造林)→矢島町(泊)
8月1日 矢島町、午前9時、矢島営林署の赤川祐平氏の案内で自動車で出発→法体ノ瀑(野生針葉樹はヒメコマツ・ハイイヌガヤ)→布川奥のブナ伐採地→上百宅の梵天平の巨柳調査→(野生針葉樹はヒメコマツ・ハイイヌガヤ・植栽アカマツ・カラマツ・スギ)→下百宅(泊)
2日 下百宅→(ジープで矢島町)→午後1時、矢島発→象潟→蚶満寺→象潟ホテル(泊)
3日 象潟ホテル・午前4時30分、鳥海山の山頂に笠雲のかかるを認める→9時30分自動車で吹浦→御崎公園にタブ林を視察→道路の両側にオニユリ→11時、吹浦大物忌神社斎館に着、報告会に列席。この夜、台風のため風雨強く、翌日の飛島行き見込なきを察する。
4日 8時発→帰京→上野着(泊)
8月8日、柳田国男が心臓衰弱のため永眠する。(87才)
8月、飯豊山に登り山中で3泊、途中、熱塩加納村字根岸の巳待供養塔を訪ねる。
   
 注 「自然保護 NO24」に、この時の山容写真が掲載されています。 2018・11・1 保坂記
8月、「自然保護 No16 日本自然保護協会」に「尾瀬を守ろう」を寄稿する。

8月、「日本山岳会 会報 222号」に「尾瀬の地図と地名」を寄稿する。
8月「旅 36巻8号」に「☆特集☆ 夏休みを安くたのしむ
         海抜一、〇〇〇m以上の涼しい高原さがし 戦場ヶ原 」を寄稿する。
10月11日、「日英協会理事長 西春彦」より、「明治維新をめぐる日英関係資料展」出品に関する「感謝状」が授与される。
10月、「岳人 174号」に「紅葉随想 もみじ探勝の知識」を寄稿する。
10月15日、「自然保護 No 18 日本自然保護協会」に「
植物班 回想の鳥海山」を寄稿する。
     
また同号に、阿部襄が「天狗の神」を寄稿する。
10月末、岡山県蒜山登山を行う。
 「国立公園 No162」・「蒜山の思い出」より
○この年、「日本山岳名著全集 弟6巻」が「あかね書房」より刊行される。
(同書は1970・7に新装1刷再刊)
 同書に収録されている松井幹雄遺稿集「霧の旅」の序には、36才の若さでご逝去された作者のために木暮理太郎と共に追悼文を寄せています。
1963 昭和38年 80 1月、「植物研究雑誌 38巻1号420号」に「Dr.Reinとその著書」を寄稿する。
1月、「武蔵野42巻2号」に「上保谷の庚申塔」を寄稿する。
1月、「岳人 177号 1月号」に「山の花@ スイセン」を寄稿する。
2月、「岳人 178号 2月号」に「山の花A オニシバリ」を寄稿する。
2月、「旅 37巻2号」に「九州の秘境 南海に浮ぶ巨木の群像・屋久島」を寄稿する。
2月、高野鷹蔵が「日本山岳会 会報 No225」に「山岳会事始め」を寄稿する。
(参考/文章の最後半部と博士が記された追記の部分)
×××(区切り)/
われわれ(武田君と私)が初めてウエストン師にお会いしたのは、山岳会を作ろうではないかときめた後のことで、英国山岳会の内容をしったのはその後でありますから、山岳会創立の当初から英国山岳会をお手本にしたわけではありません。再言すれば、児島さんという山岳文作家を中核として、高頭さんと日本博物学同志会の武田、高野等が凝集して後に山岳会が創立されたもので、時間的に誰れが先登かと言うには、むずかしい点もあるかも知れません。ヒマラヤの初登頂は誰一人の力で出来るものではなく、集団の力と同じと思いますが、この一文は一応、武田君にも目を通しておいてもらいました。(昭和三十七年十二月)
 <武田追記>広瀬氏が高野君に送ったという書面の中で、「山岳会は博物の会(日本博物学同志会の意味であろう)が主になって登山家を呼び寄せ創立したものだから、武田氏が元祖だと言い張り・・・・・」とあるが、この簡単な文句では、何時何処で誰にということははっきりしないが、広瀬氏の問に対して私がそう主張したとしか受け取れない。山岳会の創立については『山岳』第四年第一号に載っている私の講演筆記を見れば、その当時の経緯が誰にでも判る筈で、広瀬氏に斯様な質問を吐かせる必要はないのである。(但し、同山岳14頁第二行の「明治三十六年七月」とあるは「三十三年八月」の誤字です)広瀬氏は一九二五年九月入会とあるからには、上記の『山岳』の配布を受けている筈であるのに、斯様な質問を提出するとは、質問の意図がどこにあるのか納得がいかない。私は、広瀬氏から山岳会の創立について質問された記憶もないし、加之、「元祖だと言い張る」ような馬鹿気たことをする筈もない。
3月、「庚申 31号3月号」に「金輪寺門前の庚申塔其の外」を寄稿する。 
3月、「岳人 179号 3月号」に「山の花B フクジュソウ・セツブンソウ・カタクリ」を寄稿する。
 
 セツブンソウ
フクジュソウの説明部分(部分)
 埼玉県秩父郡の丘陵では、セツブンソウも三月に入らないと。花が綻(ほころ)びない。その故かある有名な詩人が、この花は旧暦の節分頃でないと咲きませんよと放送して、聴取者を烟にまいたのは昨年の春の事であった。地下にある直径一a内外の球から数枚の葉と二−三の花径を出し、その頂端に径二a許りの花をつける。白い萼片は五枚あって花弁のように見え、花弁は縮小して黄色いふたまたの蜜槽となっている。/節分草の花の終わる頃には、野生のフクジュソウが開いて、山側を色どる。(略)
   また同号に、編集部が「スウィス日記」の著者=日本山岳写真史ノートB」が記述される。
  
参考資料 セツブンソウの自生地カード   カード作成の時期表記あったが March 12 (?) 作成年不明
  
4月、「岳人 180号 4月号」に「山の花C ヤマブキソウ・イカリソウ・ホクロ・イワウチワ」を寄稿する。
     
また同号に、編集部が「開拓期の人々=日本山岳写真史ノートC」の中で辻本満丸・石崎光瑠氏が紹介される。
4月、「日本山岳会 会報 226号」に「地名と当て字」を寄稿する。
4月13日(土)、新らしく手に入れたカメラの試運転に近郊庚申塔の行脚を始める。
自宅→(京成電鉄)→青砥・延命寺(庚申塔)→(中川沿いに)→本田立石町・南蔵院(庚申塔・天文乙未)→四ツ木→(バス)→亀有駅→(バス)→埼玉県北葛飾郡三郷村上口(閻魔堂・板碑二つに折れ撮影が不可能なため、近くの庚申塔二基の庚申塔をを撮影)→南埼玉郡八潮村伊草・円蔵院→(綾瀬川の左岸に沿って)→八潮村・柳之宮→西袋・蓮華院門前・道しるべのある青面金剛像→(バス)→草加→自宅  庚申36号 近郊庚申塔行脚(一)」より
5月、「増訂版原色日本高山植物図鑑」を「保育社」より刊行する。
月、「自然保護 No24 日本自然保護協会」に「飯豊山の御鏡雪」を寄稿する。

参考 博士は、刊行後についても、必ず読み返し、誤植、脱字のある場合は必ず修正を施されています、本号でも初行の「自雉二年→白雉二年」と修正されています。 2018・11・1 保坂記
5月、「庚申 32号5月号」に「石棒の巳待庚申塔」を寄稿する
  
 庚申 32号5月号 巳待庚申塔スケッチ図
   (表紙)
(略)両県の境の尾根は明治年間に県界査定の時に人が歩いて以来、近年まで殆んど人跡のない森林地帯で、熊が木に登った時の生々しい爪跡などがあり、又ブナの梢に熊の座敷もあって文字通りの原生林で実に愉快であった。
 途中、同村根岸に、石棒の庚申塔があると聞いていたので車を留めて一覧に及んだ所が、庚申塔ではなくて、巳待供養塔であった。無頭石棒高さ約二尺五寸、達筆に巳待供養塔と刻んであるが、巳の字が違っている。年号も人名も見当たらなかった。


「庚申」がガリ版刷りのため、巳待供養塔をスケッチで描いています。又文中には昨年、飯豊山に登られ山中で3泊されたこと等の記述があり、その健脚さにあらためて驚かされました。(保坂記)

5月9日、清水長明より「相模に寛文の道祖神、六基あることの所在について」問合書簡が送られる
   資料 書簡返送のための下書 (所蔵 相模原市立博物館)

  下書の表側
参考 表紙
「原色日本高山植物図鑑」に「日本博物学同志会と山岳会の誕生」と云う項があり、左原稿はその草稿と思われます。
 記述の内容を大幅に変更したためでしょうか二つ折れか、三つ折れか、その部分を切断しメモ用紙として使われていたものと思われます。
 博士の日常を知る貴重な資料としてご掲載致しました。

     2013・10・4 保坂記


  下書の裏
参考 裏紙
昭和18年6月、「民間伝承 第九巻第二号」に「寛文時代の道祖神」を寄稿されています。清水長明の消印が5月9日となっていましたので、到着後直ちに返送したものと思われます。


 
5月、「岳人 181号 5月号」に「山の花D ヤマシャクヤク・ツバメオモト・ミヤマエンレイソウなど」を寄稿する。
   また同号に、編集部が「山岳写真五十年の武田久吉氏=日本山岳写真史ノートD」が記述される。
   
グラビア/武田久吉集  富岳三面・ムカゴシダ・台湾/ハイマツ・白馬/尾瀬三条滝の落日
 
  愛機「アクティス」
愛機「アクティス」を手に (この項の全文)
 最初。現像だけは辻本氏が引き受けていたが、やがて、現像、焼付ともに武田氏が自分でやるようになる。大正11年にベスト判の小型カメラを買った。よく12年、資生堂が輸入したフランス製ハンドカメラ『アクティス』(ACTIS)を入手する。蛇腹三段伸ばしでクラウス・テッサーF4・5、一三五_レンズがつき、アオリがきく新鋭機だ。高山植物の実物大接写も容易になり、以後の山行に無二の友となった。このカメラは、さらに便利なことに特殊鏡胴にダルメヤーレンズをねじ込んで装着すると焦点距離が最大一b強となり、超望遠撮影を可能とした。大正十二年から昭和五、六年にかけて武田氏を熱中させた富士山の撮影は『アクティス』の威力に負うところが多い。(グラビア『富岳三面』参照)このときの富士山の写真は昭和六年九月改造社発行の『富士山』(日本地理体系別巻)に集大成されている。文章もあるが、写真集といっていい体裁、内容を持ち、富岳解剖のメスとして使われ山を読みとるための意味≠持つことになる。 編集部
5月、「国立公園 NO162」に「蒜山の思い出」を寄稿する。
6月、「岳人 182号 6月号」に「山の花E ミズバショウ・ザデンソウ・アヤメなど」を寄稿する。

   
 ミズバショウ    ザゼンソウ        アヤメ         リュウキンカ 
参考@ この項の全文
 五月の末から六月の初めにかけて、尾瀬ではミズバショウの花が、幾百千と数知れぬほど湿地を埋めて咲く。この草は尾瀬に限ったことではないのだが、尾瀬の環境が引き立たせるので、今では尾瀬の名花の一つとなっている。かつては尾瀬沼の東北端にそそぐ大江川の両岸や焼山下あたりが見事であったが、今では川縁は踏みあらされて、ミズバショウの数が著しく減じた反面、尾瀬ヶ原ではこの草がことのほか繁殖して、沼の縁よりも一段と目ざましい景を展開している。近頃またミズバショウよりも数は少ないが、異様な花をつけるザゼンソウが、同じ時期の尾瀬ヶ原をいろどるので、登山者にもてはやされる模様である。同じころ尾瀬沼付近に咲くリュウキンカが、初夏の碧空に向かって金色の花をかかげる光景は、見る者の目を見張らせずにはおかない。花は径二a許り、橙黄色の花弁と見える五ー七枚のものは、実のところ花びらでなくて萼片であり、本当の花弁は無い。花の中心には五ー八個の雌蕊があり、それを取りまいて多数の雄蕊があり、これまた濃黄色を呈するから、花は黄色い一とかたまりとなる。花が終わると雌蕊だけを残して皆散り落ち、やがtそれが熟すと、短い嘴(くちばし)のある長楕円形の果実となり、中の種子が成熟すれば、果実の内側がたてに裂けて丸こい黒色の種子を散らすことになる。尾瀬の菖蒲平(あやめだいら)には、その」名にそむいて、一本のアヤメも生えていない。アヤメはまた潮来出島のマコモの中のような湿地は嫌いで、八ヶ岳の裾野などの乾いた場所が好きである。花はカキツバタやノハナショウブと同じ形式で、三枚で元の方に黄色い網目模様のある大きな外花被片と、同数の小さくて直立する内花被片とからなり、三つに割れた雌蕊も枝のかげに、雄蕊が一本づつかくれている。
  また同号に、編集部が「冠松次郎・穂苅三寿雄・手塚順一郎氏=日本山岳写真史ノートE」を記述する。
7月、「岳人 183号 7月号」に「山の花Fニッコウキスゲ・ヒオウギアヤメ・ノハナショウブ・ゴゼンタチバナ」を寄稿する。
7月2日〜5日、福島県猪苗代湖に於いて「天然記念物猪苗代湖ミズスギゴケ群落特別調査」が行われる。
  化財専門審議会専門委員(本田正次、武田久吉)、東京都立大教授(宝月欣二)、
   文化財保護委員会記念物理(吉川需、 品田穣)、福島県文化財専門委員(吉岡邦二、五十嵐由吉) 
   (県教委担当職員および猪苗代町助役,職員が参加)   
「教育年報1963年(S38) 文化財の修理等」より
参考資料 当日の調査に持参されたものか「天然記念物調査報告植物之部 第十五輯/猪苗代湖の毬藻産地・猪苗代湖のミズゴケ群落 昭和10年3月30日」の抜書が手書のかたちで遺されています。」  横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))571より
7月、芦田英一が、「道租の神々」を「池田書店」から刊行する。
 この本の中には、博士がこれまで撮影された16枚の写真が挟まれてありました。この挟まれた写真の中には、これまで公表をはばかって来られた
  写真が殆んどで、多分、博士はその写真を本に重ねながら、新たな歴史の流れを感じ取られたのではないかと推測しました。
2013・9・17保坂記
7月、「カラーブックス 32 高山植物」が「保育社」から刊行される。
 
 高山植物(ポケット版)
資料 はしがき(部分)
(略)
これらの高い山には、高山植物が産することもちろんであるが、、高山のどの辺にあるものが、本当の高山植物なのか、その辺のことをはっきりつかんでいない人が、存外少ないように思われる。高山の上に植物がどんな工合に生えるものかを詳しく述べるには、本書の紙数が十分でないが、その大略だけは、後文の説明で理解して頂くことにして、写真のページは、高山の中腹以上、わけても、高山帯に生える草木の姿と生活を読者の眼前に彷彿とさせようと試みた。しかし、この試みは、狭い土俵の上で勝負を争うよりも、更に難事であることを、つぶさに経験した。
 幸にして、友人故田辺和雄君が、多年邦内各地の高山上で撮影された、幾千を数えるカラー写真の中から、遺族の許可を得て、自由に使用することが出来たことは、読者と共に、喜びに堪えない。

この点に関しては、田辺君と共著と言っても過言でない。撮影者の記名のないカラー写真は、すべて田辺君の作品である。その他二、三の方々からも、協力を得たことを、心から感謝する。
項目 主な内容
植物の分布 (省略)
高山の四季 (省略)
高山の気象と土壌 (省略)
ハイマツの生態 (省略)
お花畑と岩盤 (省略)
高山植物の観察地 近畿以西の山 (伯耆大山・キャラボクウサギキク・タカネニガナ・ダイセンクワガタ・コメバツガザクラ・ツガザクラ・ダイセンキスミレ(ナエバスミレ))
白山 /(白山・クロユリ・ハクサンチドリ・ハクサンイチゲ・ハクサンフウロ・ハクサンボウフウ・ハクサンサイコ・ハクサンオミナエシ・ハクサンオオバコ・ハクサンコザクラ・ハクサンガヤ(アオノツガザクラ)・ハクサンシャクナゲ・ゴゼンタチバナ・ハイマツ)/(御苗代池・ウキガヤ・ナナカマド・ウラジロナナカマド・ミネザクラ・ミネカエデ・ブナ・ミヤマナラ・笹野の一種が生え、その影にはオオバショリマ・クマイノデ・エゾホソイ・イブキトラノオ)
北岳 /(北岳・ハイマツ・ハハコヨモギ・キタダケヨモギ・ミヤマハナシノブ・クロミノウグイスカズラ・チシマヒョウタンボク・チョウノスケソウ・ハクロバイ・ムカゴユキノシタ・クモマナズナ・キタダケトリカブト・キタダケソウ・キタダケキンポウゲ・タカネマンテマ・アオチャセンシダ)
荒川岳
(塩見岳)
/(荒川岳・タカネツメクサ・ウラシマツツジ・チシマギキョウ・クモマナズナ・チシマアマナ・ハクセンナズナ・ジンヨウスイバ・タカネシオガマ・ミヤマキンバイ・タカネイワヤナギ・タカネヒゴタイ・シロウマオウギ・シコタンソウ・ヒメクモマグサ・タテヤマキンバイ・ヒメクワガタ・タカネシダ・ヤツガダケシノブ)
仙丈岳
(前岳)
/(仙丈岳・ハイマツ・タカネヒゴタイ・ミヤマシャジン・チシマギキョウ・トウヤクリンドウ・ヒメコゴメグサ・イワウメ・コメバツガザクラ・ウラシマツツジ・ミネズオウ・ツガザクラ・アオノツガザクラ・ゴゼンタチバナ・ヤマウイキョウ・タテヤマオウギ・オヤマノエンドウ・ミヤマキンバイ・ヒメクモマグサ・タカネビランジ・ヒメイワショウブ・中腹に矮小なエゾムラサキ)/(白峰山脈のある部分にはクロユリの大群落)/(赤石岳・キバナノシャクナゲの大群落)/(広河内岳・ウラジロキンバイ)
鳳凰山 /(鳳凰山・リンネソウ・クモマナズナ・ヤマウイキョウ・エゾシオガマ・タカネウスユキソウ・グンナイフウロウ・クルマユリ・ゴゼンタチバナ・タイツリオウギ・ウラシマツツジ・ムカゴトラノオ・キバナノコマノツメ・タカネニガナ・タカネビランジ・ホウオウシャジン・チシマヒョウタンボク)
東駒ヶ岳
(甲斐駒ケ岳)
/(東駒ヶ岳・ハイマツ・タカネツメクサ・イワツメクサ・ガンコウラン・タカネヒゴタイ・イワカガミ・ウラシマツツジ・キバナコマノツメ・ミヤマスズメノヒエ・ヒメコゴメグサ・ヤマゼンコ・コケモモ・ミヤマキンバイ・イワウメ・ミヤマタネツケバナ・イワベンケイ・ミヤマミミナグサ)/(摩利支天・ヒメコゴメグサ・ハクサンイチゲ・ミヤマキンバイ・シラネニンジン・イワウメ・ヨツバシオガマ・タカネツメクサ・コケモモ・ウシノケグサ)/(地獄谷・タカネスイバ・オオビサンジ・ツガザクラ・イワカガミ・シロバナノヘビイチゴ・グンナイフウロウ・ミソガワソウ・ミヤマキンバイ・ミヤマオトコヨモギ・コタヌキラン・イワゲンケイ・ニョホウチドリ・ユキワリソウ・イワオウギ・クロユリ・ミヤマチドリ)
八ヶ岳 /(八ヶ岳・横岳の西側・タカネヒゴタイ・タカネニガナ・チシマヒョウタンボク・ムシトリスミレ・ヒメコゴメグサ・ウルップソウ・ミヤマアケボノソウ・ウラシマツツジ・キバナシャクナゲ・ヤエキバナシャクナゲ・ハクサンシャクナゲ・ネモトシャクナゲ・ナガミクロウズコ・アオジクスノキ・キバナノコマノツメ・タカネスミレ・リシリオウギ・シロウマオウギ・イワオウギ・オヤマノエンドウ・チョウノスケソウ・ウラジロキンバイ・ムカゴユキノシタ・イワベンケイ・コマクサ・オサバグサ・クモマナズナ・ツクモグサ・ミヤマミミナグサ・タカネナデシコ・タカネツメクサ・ミヤマツメクサ・コバノツメクサ・イワクメクサ・シコタンハコベ・タカネヒキノカサ・タカネイワヤナギ・ホソバタカネイワヤナギ・キヌゲタカネイワヤナギ・ミヤマヤナギ・キヌゲミヤマヤナギ・ヤマヤナギ・ホテイラン・キバナノアツモリソウ・ミヤマラッキョウ・クロユリ・チシマアマナ・チシマゼキショウ・タカネアオヤギソウ・タカネスズメノヒエ・クモマスズメノヒエ・ヒナノガリヤス・リシリカニツリ・コモチタカネイチゴツナギ・ヤツガタケシノブ・ナヨシダ・ミヤマウラボシ・タカネシダ・ミヤマハナワラビ)/(南端の権現岳・オオビランジ)/(編笠岳の付近・セリバシオガマ)/(本澤温泉の付近・タカネママコナ)
西駒ケ岳
(木曽駒ケ岳)
/(西駒ケ岳・濃ヶ池(縞池)にちなんでシマイケアケボノソウ(ミヤマアケボノソウ)・ヒメウスユキソウ・ヒナウスユキソウ・ハハコヨモギ・ハクセンナズナ・タカネヨモギ・フジシダ・ヤマイワカガミ・ナガバノシラカンバ・コメツガ)/(伊那側の崩壊地・コマガタケスグリ)/(山頂の巨岩・ウラシマツツジ・ミヤマハナゴケ)
富士山 /(富士山・ミヤマオトコヨモギ・ムラサキモメンズル・フジハタザオ・メイゲツソウ・オンタデ)/(林内・コバノイチヤクソウ・ジンヨウイチヤクソウ・ベニバナイチヤクソウ・ミヤマハンショウズル・ミヤマフタバラン)/(中腹北側から西側にかけて・ウラゲハクサンシャクナゲ)
上河内
(俗称上高地
とその付近)
/(上河内合戦小屋まで・シラビソ・カラマツ・トウヒ・コメツガ・チョウセンゴヨウ・ソウシカンバ・ネコシデ・オガラバナ)/(合戦沢ノ頭・ダケカンバ・ハイマツ→お花畑・オオヒョウタンボク・ハクサンシャクナゲ・ミヤマホツツジ・ミネザクラ・ベニバナイチゴ・ウラジロナナカマド・オオタカネナナカマド・タカネウスユキソウ・ウサギギク・ミヤマコウゾリナ・タカネニガナ・ミヤマアキノキリンソウ・ヨツバシオガマ ミヤマクワガタ・オオサクラソウ・コイワカガミ・シラネニンジン・キオバナノコマノツメ・オオバキスミレ・ハクサンフウロ・ミヤマダイコンソウ・ミヤマキンバイ・ミヤマダイモンジソウ・サンカヨウ・ハクサンイチゲ・ミヤマキンポウゲ・シナノキンバイ・ムカゴトラノオ・タカネスイバ・テガタチドリ・ハクサンチドリ・ネバリノギラン・クロユリ・クルマユリ・コバイケイソウ・ミヤマメシダ・オオバショリバ)/(燕山荘附近・チシマギキョウ・トウヤクリンドウ・イワウメ・ウラシマツツジ・キバナシャクナゲ・ミネズオウ・ツガザクラ・コバノクロマメノキ・コケモモ・ガンコウラン・タカネスミレ・イワオウギ・イワベンケイ・タカネツメクサ・コバノツメクサ・イワツメクサ・イワスゲ・コメススキ・稀にコマクサ)/(燕の尾根の南・ハイマツ・ダケカンバ・カラマツ)/(西岳小屋までの途中・ダケカンバ・ハイマツの異常分布・ベニバナイチゴ)/(殺生小屋あたりまで・チシマギキョウ)/(殺生小屋から上・ハイマツ・シナノキンバイ・ミヤマキンポウゲ・ハクサンイチゲ・ミヤマリンドウ)/(槍ヶ岳山荘付近まで・チシマギキョウ・イワウメ・コメツガザクラ・イワヒゲ・ツガザクラ・キバナシャクナゲ・コバノクロマメノキ・コケモモ・オヤマノエンドウ・チョウノスケソウ・シコタンソウ・イワベンケイ・タカネツメクサ・コバノツメクサ・シコタンハコベ・チシマアマナ・タカネスズメノヒエ・イワスゲ)/(北穂高・イワスゲ・シロウマスゲ・ミヤマコウボウ・クモマスズメノヒエ・キナナシャクナゲ→頂上を越えて南面に・コメススキ・トウヤクリンドウ・シコタンソウ・ウサギギク・タカネウスユキソウ・イワベンケイ・ヨツバシオガマ・アオノツガザクラ・チシマギキョウ・ミヤマダイコンソウ・タカネウラジロイタドリ・タカネヨモギ)
代馬ヶ岳
(俗称白馬ヶ岳)
/(代馬ヶ岳・クロトウヒレン・タカネコウゾリナ・ミヤマアズマギク・クモマニガナ・タカネヨモギ・ウサギギク・ミネウスユキソウ・タカネコウリンカ・タカネマツムシソウ・ハクサンオオバコ・シロバナハクサンオオバコ・ヒメコゴメグサ・ヒナコゴメグサ・ウルップソウ・タカネリンドウ・タカネセンブリ・タカネイワヤナギ・シロウマチドリ・ハクサンコザクラ・オオサクラソウ・ツガザクラ・アオノツガザクラ・コツガザクラ・キレハノハクサンボウフウ・メハリブキ・シロウマオウギ・リシリオウギ・オヤマノエンドウ・ハゴロモグサ・ウラジロキンバイ・タカネトウウチソウ・ユキクラトウウチソウ・カライトソウ・ムカゴユキノシタ・クモマグサ・クモイハタザオ・シロウマナズナ・ホソバトリカブト・オオレイジンソウ・ミヤマオダマキ・ツクモグサ・クモマキンポウゲ・タカネキンポウゲ・ハクサンイチゲ・クモイミミナグサ・タカネミミナグサ・キクザキタカネミミナグサ・クモイナデシコ・タカネツメクサ・コバノツメクサ・エゾイブキトラノオ・ミヤマタネツケバナ・コマクサ・ジンヨウスイバ・タカネウラジロイタドリ・シロウマアサツキ・クロユリ・チシマアmナ・シシマゼキショウ・ヒメイワショウブ・タカネアオヤギソウ・ミヤマイ・タカネイ・クモマスズメノヒエ・シロウマスゲ・ミヤマノガリヤス・ミヤマアワガエリ・リシリカニツリ・コケスギラン・ミヤマヒカゲノカズラ・アオチャセンシダ・ミヤマハナワラビ・クマイノデ・オクヤマワラビ)
東北地方の山 /(鳥海山・チョウカイフスマ)/(早池峯・ハヤシネウスユキソウ・ナンブイヌナズナ/(岩手山・秋田駒・エゾツツジ・岩木山・ミチノクコザクラ)

8月、「岳人 184号 8月号」に「山の花G ハクサンコザクラ・イワカガミ・チングルマ・キンコウカ」を寄稿する。
9月、「岳人 185号 9月号」に「山の花H エゾリンドウ・イヌハギ・ウメバチソウ・フジアザミ」を寄稿する。
10月、「岳人 186号 10月号」に「山の花I リュウノウギク・ゴマナ・ヤクシソウ・センブリ・ノコンギク」を寄稿する。
11月、「岳人 188号 11月号」に「山の花J リンドウ・キクタニギク」を寄稿する。
12月、「岳人 189号 12月号」に「山の花K トクサラン・サツマノギク・カンツワブキ・ヤマセンニンソウ」を寄稿する。
12月、「あしなか 第87輯」に「檜枝岐狩猟メモ」を寄稿する。
12月、「日本山岳会 会報 224号」に「地図と地名」を寄稿する。
12月26日、第2回 近郊庚申塔行脚を行う。
自宅→上中里駅→(徒歩)→円勝寺(庚申塔)→掘船町・福性寺(青面金剛・聖観音と地蔵尊庚申塔)→梶原の停車所に戻る→都電神谷町で下車→常住山自性院(六基の庚申塔・如意輪観音)→都電→小台停留場から足立区小台町・金龍山珠明院・庚申塔→都電・町屋一丁目・原稲荷で所在を確認→自宅
             
庚申37号 近郊庚申塔行脚(二)」より
○この年、「日本自然保護協会調査報告 第5号 鳥海山国定公園候補地学術調査報告」に「鳥海山の植物概論」についての研究報告を行う。
1964 昭和39年 81 1月5日、第3回 近郊庚申塔行脚を行う。
自宅→北千住(乗換)→西荒井で下車→栗原町(猿仏・念仏供養塔・庚申塔)→栗原町(徳寿院・青面金剛塔)→島根町(来迎寺・地蔵像・庚申塔)→(バス)→保木間町(十三仏堂の裏・庚申塔)→竹の塚(延命寺・青面金剛像)→(バス)→北千住→自宅
            
庚申39号 近郊庚申塔行脚(三)」より
1月7日、第4回 近郊庚申塔行脚を行う。
自宅→秋葉原→(都電)→千住大橋(豊徳山誓願寺・庚申塔)→千住中町(稲荷山源長寺・庚申塔)→千住大橋→(京成電車)→関屋下車→千住曙町・千葉山西光院(庚申塔・青面金剛)→牛田駅→(電車)→五反野→南町(長性寺・庚申塔)→五兵衛町(観音寺・聖観音庚申塔)→普賢寺町(文殊山養福寺・宝印塔・庚申塔)→綾瀬駅→伊藤谷本町(薬師寺・青面金剛・庚申塔)→自宅
            
庚申40号 近郊庚申塔行脚(四)」より
1月9日、第5回 近郊庚申塔行脚を行う。
自宅→千住五丁目(西林山安養院・カンカン地蔵・三猿の地蔵尊)→三河島駅(耳無不動・庚申塔)→自宅
                
庚申40号 近郊庚申塔行脚(四)」より
1月26日(日)、第6回 近郊庚申塔行脚を行う。
自宅→日暮里→町屋駅(原稲荷神社・庚申塔)→小台町(庚申塔)→珠明院(庚申塔)→橋供養庚申塔→北宮城町(性翁寺・庚申塔)→北宮城町1054番地(溶岩でできた庚申塔)→宇田川邸傍(橋供養庚申塔)→自宅 
            
  庚申40号 近郊庚申塔行脚(四)」より
1月、「岳人 No190 1月号」に「山ノ神 あしなか草子 その一」を寄稿する。
まとめの部分/以上、山ノ神に関する管見を記したが、写真を全部のせられないのが残念である。こういう民間信仰の対象は、次第に失われているのが現状であり、そのデータの蒐集は刻々と困難になりつつある。有志の人々の研究を待つ。(理博、山村民俗の会顧問)
1月19日、武蔵野文化協会の一月例会に於いて「山の神について」講演される。
          
武蔵野 第43巻第2号 協会ユースより
2月、「山と渓谷300号」に「
冬山随想 冬山登山」を寄稿する。pid/7933997
2月、「国立公園
 No171自然公園と利用開発 過度の観光開発に禍いされる国立公園を寄稿する。
2月2日、第7回 近郊庚申塔行脚を行う。
自宅→来迎寺→(バス)→保木間(十三仏堂の裏・庚申塔)→(徒歩)→六日町(成就院・青面金剛塔)→自宅
         
庚申41号 近郊庚申塔行脚(五)」より
2月3日、第8回 近郊庚申塔行脚を行う。
自宅→中里町(円勝寺・地蔵像)→駒込神名町(天祖神社・庚申塔)→諏訪山吉祥寺・稲荷堂裏の庚申塔→自宅 
          
庚申41号 近郊庚申塔行脚(五)」より
2月14日、第9回 近郊庚申塔行脚を行う。
自宅→豊島区巣鴨(真性寺・庚申塔)→文京区本郷蓬莱町(浄心寺・庚申塔)→同町(※1光源寺・庚申塔)→自宅
          
庚申41号 近郊庚申塔行脚(五)」より  ※1 H23・3・1 文京区有形民俗文化財指定
2月16日、第10回 近郊庚申塔行脚を行う。
自宅→町屋二丁目(原稲荷・庚申塔)→小台町(珠明院・庚申塔)→西荒井町(浅間神社)→大師堂・宝篋印塔→自宅
  
※町屋二丁目→丁目変更済み  庚申41号 近郊庚申塔行脚(五)」より
3月、「庚申 36号3月号」に「近郊庚申塔行脚(一)」を寄稿する。
4月、「民間傅承 第28巻第2号 通巻第264号」に「植物名考 ハマナスとマンサク」を寄稿する。
   
同号に、鈴木重光が「神奈川県北部地方のキノコ」を寄稿する。
          
発行月は7月か 再調査要  相模原博物館ー箱 2014・9・29 保坂→2017・4・9 4月に変更
4月、「岳人 193号」に「山岳会特集 栂池と雁股ノ池/白馬岳の二つの池」を寄稿する。
4月、「武蔵野43巻2号」に「赤面金剛の庚申塔」を寄稿。 
 
 日枝神社境内の灯篭
  奉庚申待金剛赤面供養
赤面金剛の庚申塔(旧栃木県上都賀郡板荷村)
(略)日枝神社の拝殿の北に、二基の石灯籠が立つが、これは一対ではなくて、一基づゞ別々に建てられたものである。両方共形は相類し、また、大原の天神に奉納のものも形式は同一である。庚申の文字のあるのは、向かって右のもので、総高サ二メートル。その棹石は七十四センチを算し、その上部に雲に乗る日月と二猿が陽刻され中央に「奉庚申待金剛赤面供養」その下部の左右に「願主、敬白」の文字が見える。そして右横に「正徳元年」、左横に「十一月吉日」とある。下部両側に人名らしいものが沢山彫ってあるが、浅い彫りなのと、石面がざら/\しているので、容易に判読出来ないのは遺憾である。これは丁寧に拓本でもとれば、少なくとも一部は読み取ることは出来るかと思うが、相当手間のかゝる仕事である。とに角、青面金剛の外に、五金剛薬叉の中の赤面の見当ったことは特筆に値すると申して宜しかろう。因みに、窪博士のお話に、青森県の某地に白面金剛らしいものがあるという。若しこれが確実に白面金剛であれば、これ亦愉快なことであり、黒面、黄面が出現するなれば、更に面白いが、これは聊か見込薄と考えて宜しかろう。(略)
5月、「武蔵野43巻3号」に「山の神」を寄稿する。
一、山の神 民間信仰 民間信仰は時代によって変化し、又人によっても考え方が違うものである。現在は生活様式の変化に伴って、すっかり変化し、信仰心も低下してしまった。民間信仰には明治時代に完成したものが多いが、現在では日待ちも日曜に、又旧暦は新暦になって、祭礼の時期も変化してきている。民間信仰を調べるには実地に歩いて見なければならない。従って時間や労力を要する大変な仕事であるが、その割にあまり効果のあがらないものである。/山の神 旅行をして歩くうちに、山の神にあちこちで出会い、御神体のあるものも見かけるので、その都度写真を撮って集めた。山の神に限らず民間信仰の神の本体は、はっきりしないものであり、儀軌で定められた仏像のようなわけにはいかない。(以下略)/信者(以下略)/祭日/神体/祭りの作法/山ノ神とオコジ/山ノ神と陽物/十二様/十二様の分布/十二様の祭礼
二、山の神に関する報告 冒頭の部分から/山の神信仰は、北は北海道から南は九州に亘る広いもので、その地その他で特有性が見られる一方、全体に通有性のあることも見逃せない。唯近年は一体に信仰心の低下によって、旧慣が守られないで、祭日や祭典も自由に変更される嫌いがある。それにしても、各地で現在行われている状態を調べて記録して置くことは必要であるのだが、私一人では到底手がまわりかねる。米沢地方の山の神について資料を得たいと思い、市役所に簡単な質問を発したところ、それが市立米沢博物館に廻送され、同館の尾崎周道氏から貴重な資料を提供されたので、これを私するに忍びず。同氏の承諾を得、本誌上を借りて読者諸子と共にその喜びをわかつこととする。以下、尾崎周道氏から御提供された資料のタイトル名)/八谷/和田鼠持の山ノ神社/梓山/小国の芹出の地蔵/小国の小白川妻頭堂の山ノ神/羽前椿の才津堂の山ノ神/口田沢の才津の山ノ神吉田の東方の妻頭神社/上郷谷ノ口の山ノ神/才津の山ノ神/山口姫城の山ノ神/赤崩にある依座/山ノ神を家の中に祀るもの/山ノ神の行事△谷ノ口の山ノ神△海上の山ノ神講/△鼠持部落/△沼沢の蕨嶺の山ノ神/幣のつくり方/陽物の奉納/細原の山ノ神/鷺の口・上小倉の山ノ神/当市々外の山ノ神/△山の神の祭日/祭神/祭事の順序
三、飫肥の山の神  九州宮崎県飫肥(おび)は銘木飫肥杉の林業で昔から有名な地である。この地方の山ノ神信仰についての資料を得たいと思っていた矢先、同地の豪家植物研究所を経営されている理学博士服部新佐氏が見えたので、早速にも山ノ神の話を持ち出したところ、帰郷の上、山師について聞き糺して、一通リの資料を送り越されたので、左はこれを記して、同好者の一粲(いっさん)に供することとする。(略・以下服部博士から送られた資料の紹介)
5月、「庚申 37号5月号」に「近郊庚申塔行脚(二)」を寄稿する。
6月、「旅 36巻6号」に「立山・ブナ坂の新緑」を寄稿する。
    また、同号に瀬川清子が、「奥能登・ヘクラ島の海女たち」を寄稿する。
6月末、千葉県野田市の鷺山を訪れた帰路、浦和市三室の裏参道で丁子蔓を発見する。
(略)三十九年六月下旬、野田の鷺山を訪れての帰途、浦和市三室にある女体氷川神社に案内されて、その裏参道から社叢に足を入れたが、入口の左側に杉の巨木があり、それが下枝がなく、かつよく日光が当たる状態なので、そこに丁子蔓が一面にからみついて、少数の残花をつけていた。この植物はもっと南方でなければ野生しないものと思っていたのは、中井博士の記事もさることながら、清澄の裏山だとか、もっと北でも浅川の西の高尾山には見られても、浦和市の三室は、おそらく北限に近いだろうかと考えたので、少なからぬ興味を感じながら帰京したのであった。(略)
    サギ営巣地の移行調査のためか 行實についての調査要  2017・8・15 保坂  S42・2「月刊文化財」より  
7月1日、「月刊 文化財 7月号 第十号」に「失われた庚申塔」を寄稿する。 
   同号に記載された庚申塔と再調査の結果(下図) 
  主な再調査の期間は、S38・4〜S39・2ですが、ご調査はその後も続けられ、亡くなる日の前日まで続きました。 2015・8・7 保坂記
名 称(タイトル名) 住  所 戦前 亡失 記事 (戦後からの見た現在の状況)
日輪寺の板碑 文京区小日向(こびなた) 「共古随筆」に「今不明」とあるのは、そのころのことであったのかとも思われる。私が見たのは昭和十六年二月六日のことで、その時分には大切に保存されていた。
月見ヶ岡八幡の宝篋印塔 新宿区上落合一丁目 (略)この神社では、この塔が貴重なものであり、風化から守るために覆屋を造ることをすすめられたというので、大工に命じて寸法をとらせ、塔の高さと幅に準じる細長い箱(の)ようなものをしつらえ、土方に命じてその中に件の宝篋印塔を移させることにした。(略)前後左右方向もかまわずに、ただ積み重なれてしまったというのである。→(その後(略))、宝篋印塔は解体されて、二個の塊となって、今度は前向きに置かれている。
鎧神社前の猿の庚申塔 淀橋柏木四丁目 「共古随筆」との記述の違いを記す。
成子坂子育地蔵尊裏のもの 淀橋成子坂の成子天神向い (略)その背後の狭い空き地に、数基の庚申塔や地蔵尊、馬頭観音、聖観音などの雑多な石塔が、重なり合っていた。これは区画整理の際に、この附近にあった庚申塔や類似のものを十数基集めたもので、おもしろいものが多数あった。それでもあまりに乱脈に押し込まれているため、一つ一つを(略)
題目のある庚申塔 浅草今戸三丁目長昌寺 (略)これも(庚申塔)空襲の犠牲となって、三猿が焼け落ちて、庚申塔としての外観を失ったというので、ここにその旧態を揚げることにした。
田中稲荷裏の庚申塔 渋谷駅東 × 戦前渋谷駅の東、渋谷川との間の狭い空地に、田中稲荷というのがあって、その背後に、どこから集めてきたものか、多数の庚申塔が、東向きに二列にならんでいた。前列には九基、後列には六基のほかに墓標と思われるものが一基あった。そのうち数基の庚申塔を撮影したのは二十数年前のことであった。戦後の今日、これら全部が姿を消し、ただその中の二基だけが、渋谷金王町の金王八幡の境内に移されて現存するが、他は行方不明とは情けないことである。
伝通院にあった庚申塔 小石川・無量山寿経寺 × 戦災を受けて今は気の毒なありさまである。(略)境内にあった不動堂も、戦後は姿がなく、そこにあった享保三年の庚申塔(写真11)の影もない。(略)福聚院の境内の咳止め地蔵の脇にあったもので、(略)これも戦火のために全くいたんで見るかげもなくなってしまった。
真性寺の庚申塔 豊島区巣鴨五丁目 × 戦後になってたづねてみると、それら(六基)はことごとく姿を消してしまった。やむなく古い原板からここに三つのものをっかげて、簡単な説明を添えることとする。
千代田稲荷の一猿の塔 道玄坂の百貨店の奥 × むかし渋谷宮益の千代田稲荷にあったものを、昭和の頃、稲荷と一緒に道玄坂の百貨店の奥に移したというが、今は見当たらない。
待乳山聖天堂背後のもの 浅草聖天町金龍山本竜院 × 戦災で焼失
                                    (文化財専門審議会専門委員)
7月、大雪山特別調査が文化財保護委員会によって計画され、南方の沼の原からチュウベツ岳を経て黒岳までの踏査を行う。
大雪山地区特別調査参加者名簿                 (敬称略、順不同)
◎調査員
 武田久吉
 佐竹義輔
 犬飼哲夫
 秋山茂雄
 渡辺千尚
 武藤憲由
 斎藤春雄
 稲垣貫一
 阿部  永
 阿部  学
 藤巻裕藤
 大場与志男

(日本山岳協会長、文化財専門審議会専門委員)
(国立科学博物館第一研究部長、文化財専門審議会専門委員)
(北海道大学名誉教授、北海道文化財専門委員)
(〃        助教授、北海道文化財専門委員)
(〃          教授)
(〃        助教授)
(北海道林務部、北海道文化財専門委員)
(北海道学芸大学旭川分校教授)
(北海道大学助手)
(〃         )
(〃         )
(〃         )

高山植物担当
〃     〃
動物    〃
高山植物 〃
昆虫    〃
森林    〃
鳥類    〃
高山植物 〃
動物鳥類 〃
〃      〃
〃      〃
地質    〃
◎文化財保護委員会
 吉川 需  (記念物課)

品田 穣   (記念物課)
  ◎協力員
 帯広営林局
  塚田順一
  菅野貞三
  前川哲夫
  近江勝幸
  深川正一
 旭川営林局
  石崎 沢
  藤森末彦
  倉島 功
  佐藤修一郎
 北海道
  俵 浩三
  藤野一成
 新得町
  尾沢 彰
  広瀬隆之
  中村岩夫
  川瀬俊正
  斎藤敏雄
  杉本啓子
  阿部 匡
  小木田亀太郎
  小田島一雄
  掘龍寅雄
  太田○文
  高田清八
  佐藤隆弘
  安川一郎
 上川町
  薄 俊雄
  中条良作
  滝本明
  佐藤友則
◎協力員
 
(局計画課長)
(特殊施設係長)
(経営計画編成第三係長)
(計画課)
(新得営林署経営課長)

(局計画課長)
(計画課経営計画企画係長)
(大雪営林署管理者) 
(大雪営林署)

(林務部)
(大雪山国立公園レインジャー)

(新得町教育委員会教育長)
(〃          次長)
(〃          )
(〃          )
(〃          )
(〃          )
(新得町役場)
(新得山岳会会長)
(〃      )
(〃      )
(〃      )
(〃      )
(〃      )
(〃      )

(公民館長)
(層雲峡博物館)
(上川町教育委員会)
(〃      )

 東川町
  佐藤朋吉
 美瑛町
  水上 博
北海道大学探検部
  鷹岡道夫
  倉地 康
  鈴木貞臣
  三木昭夫
  斎藤徹夫
  川成 洋
  佐野正春
  野崎義行
  西尾克彦
  山口充彦
  後藤 元
  鍬田民弘
北海道大学山岳部
  芳賀 卓
  市村輝宣
  松村 雄
  山口知充
  渡辺貞之
北海学園山岳部
  大場三雄
  古田義弘
特別参加協力
  林 慶太
  近藤栄造
  
  
  
  
  


(東川町教育委員会教育長)
 
(美瑛町教育委員会)

(理学部四年)
(医学部四年)
(理学部三年)
(〃      )
(文学部三年)
(〃      )
(理学部三年)
(教養部一年)
(〃      )
(〃      )
(〃      )
(〃      )

(大学院二年)
(〃      )
(〃   一年)
(理学部四年)
(〃      )

(経済学部二年)
(経済学部一年)

(東京)
(東京)





◎報道班
 北海道新聞社
  阿部要介
  寺井 敏
 北海タイムス社
  金子俊男
 毎日新聞社
  戸田 駿
  田中 浩
  木村勝久


(本社社会部)
(帯広支社編集部)

(帯広支社)

(北海道発行所報道部)
(東京社会部)
(東京写真部)

朝日新聞社
 香月浩之
 渡辺剛士
読売新聞社
 原 和巳
札幌テレビ放送
 米良迪哉
北海道放送
 中島幹雄


(東京本社)
(北海道支社)

(北海道支社)

(本社)

(本社)
◎北海道教育委員会
 石崎美彦
 山本慎一
 檜山弘

(社会教育課)
(〃         )
(〃         )

斎藤晟
久保木正博

(上川地方教育局)
(十勝 
〃       

 日 時  「大雪山を行く・大雪山覚え書」より特別調査の順路と記載された植物名
7月3日 19:50上野発「北斗」にて佐竹博士・吉川氏等ご一緒に出発
7月4日 9:40青森着→(乗船)→PM2:00函館着→PM8:20札幌着(出迎え:道教育庁社会教育課松田一好・文化財保護係長石崎美彦・同林務部林政課公園係技師俵浩三・北大助教授秋山茂雄等)→日程等打合せ→共済会館(泊)
7月5日 札幌にて各自山行の準備。午後、北大植物園→2時近く小雨で帰宅、夜中大雨。
7月6日 札幌→上川駅、同地公民館にて町長野田晴男氏より中食→(自動車)→層雲峡→(自動車)→白楊平→石狩川左岸に注ぐヤンベタップの谷の高原温泉(タイセツヒナオトギリ・ナナカマド・ヨブスマソウ・ハンゴンソウ・アキタブキ・ゴゼンタチバナ・エゾイラクサ・カラマツサウ・シャク・サワホウズキ・ケヤマハンノキ・オノエヤナギ?・オオバヤナギ・ソウシカンバ・トドマツ・エゾマツ)(旧路を引返)→昭和29年15号台風被害地の惨状とその跡に(ソウシカンバ・ケヤマハンノキ・クロエゾマツ・トドマツ)→大雪営林署の音更(おとぶけ)製品事業所(泊)
7月7日 音更(おとぶけ)製品事業所→倉島氏や層雲峡博物館主事中条良作氏の東道で、石狩川源流のクチャンベツに沿って約2キロをワゴン車→(針闊混淆林のなかにクマイザサ・ウコンウツギ・ムラサキツリバナウラジロナナカマド・ウコンウツギ)沼の原(ソウシカンバを交えたエゾマツの疎林・ウラジロナナカマド・ミツガシワ・ウコンウツギ・※1クロバナヒョウタンボク(一名チシマヒョウタンボク)・キバナシャクナゲエゾマツ・ハイマツ・ツルコケモモ・カラフトヒメシャクナゲ・チングルマの様な矮小灌木・ミツバオウレンシラネニンジン・ホロムイリンドウ・コツマトリソウ・クロスゲ・ミガエリスゲ・ヤチスゲ・ワタスゲ・ミズギボウシ・ハクサンチドリ・ウズラバハクサンチドリ・モウセンゴケ・サジバモウセンゴケ・ナガバモウセンゴケは未確認→五色ヶ原の池畔(ウコンウツギ・ウラジロナナカマド・コヨウラクツツジ)中食→クチャンペツ湿原とトムラウン川の原流の相合う地点→(笹の間にエゾイチゲ・エゾリュウキンカ)→100b許りの急な登り(ウコンウツギ・ウラジロナナカマド・ハイマツ)(キバナシャクナゲ・イワノガリヤス)→クチャンペツの源流右岸に沿って登ると雪渓(キバナシャクナゲ・ハイマツ・ウラジロナナカマド・クマイザサ・チシマザサ)→雪渓を登り切ると五色ヶ原の主部(キバナシャクナゲ・約一時間も続くエゾハクサンイチゲの大群落・エドハクサンイチゲ・タカネトウウチソウ・ミネズオウ)上川町と美瑛町との境界の山陵を下る(大きな一株のアオイワゲンケイ)忠別岳石室(泊)
7月8日 午前1時、小屋の屋根を打つ大粒の雨音と大風→忠別岳頂上(1960m)→忠別池(ヤチスゲ)→風雨強く中食は立ったまま→高根ヶ原→雨も小降りに(アオノツガザクラ・エゾツガザクラ)ヤンベタップ南股の源流を渡る前後、レインジャーの藤野氏に迎えられ白雲の小屋近く(エゾオヤマノエンドウ)→白雲の石室(泊)
7月9日 快晴/白雲の石室→(エゾイチゲ・キバナノコマノツメ・ジンヨウキスミレ・ヒメチシマクモマグサ・ハイマツの途絶えた所には、ヨコヤマリンドウ)→中食→小泉岳の斜面(ホソバウルップソウ・エゾオヤマノエンドウ・キバナシオガマ・コマクサ・イワウメ・タカネスミレ・ミネズオウ・チョウノスケソウ・※2エゾハクサンイチゲ・ハイマツ・ミヤマキンバイ(本州で見るものの変種でユウバリキンバイ(一名チャボミヤキンバイ)で基準品と異なることも判明)・タカネオミナエシ)エゾリュウキンカ→白雲の石室(泊)
7月10日 薄曇/白雲の石室白雲岳の東腹を登る≪先年は白雲岳の火口内を通ったが、この火口底の平地に、イワウメが密生するのに、驚いた記憶がある。≫花ノ沢の源頭(キバナシャクナゲ・エゾノキツネヤナギ・エゾオヤマノエンドウ)→北海沢に下る途上(ヒメイソツツジ・コメバツガザクラ・ヒメチシマクモマグサ・コケモモ・メアカンキンバイ・ウラジロナナカマド・ガンコウラン・ウラシマツツジ)→北海沢に下る→中食→エゾコザクラ・エゾツガザクラ・)→赤石川の本流を徒渉し、雪渓に沿って登る(エゾコザクラ)→にわか雨に追い立てられながら小屋へ、旭川学芸大学稲垣博士や国立公園映画撮影中の学研映画局の人達と合流する黒岳小屋(泊) 
7月11日 半晴/黒岳小屋→赤石川左岸(ウラジロナナカマド・ミヤマイ・ヒメイソツツジ・イワウメ・ウラシマツツジ・エゾイソツツジ・ハイマツ・裸の砂礫地にメアカンキンバイチシマツガザクラ・この辺の傾斜地にミネズオウ・チシマツガザクラ・ガンコウラン・コバノクロマメノキ・ハイマツ・砂礫地にコマクサ・コケモモ・コメバツガザクラ・イワヒゲ・赤石川左岸の斜面にエゾツガザクラ)→御蔵沢(キバナシャクナゲ・ハイマツ・ウラジロナナカマド・ヒメイソツツジ・ガンコウラン・イワヒゲ・イワウメ・ウラシマツツジ)→御蔵沢を見下ろす沢の奥に巨岩→(ウラジロナナカマド・ハイマツ)→帰りは別の道で赤石沢→(エゾコザクラ)→黒岳小屋(泊)
7月12日 晴曇/黒岳小屋→山上散歩(ハイマツ・ウラジロナナカマド・メアカンキンバエ・ミヤマバイケイソウ・エゾツガザクラ・ミネヤナギ)→黒岳小屋→朝食→(メアカンキンバエ・シロサマニッヨモギ・ハイマツ・ミヤマハンノキ・タカネスミレ・タカネオミナエシ・エゾツツジ)黒岳三角点(ニセイカウシュペ・ハイマツ・ミヤマハンノキ・ウコンウツギ・ハクサンボウフウ・ミヤマキンポウゲ・エゾキンバイソウ・タカネウラジロイタドリ・カラマツソウ)(チシマヒョウタンボク(クロバナヒョウタンボク)・エゾヒメクワガタ・イワオトギリ・クロユリ・ハクセンナズナ)九合目→(ソウシカンバ・ミヤマキンポウゲ・カラマツソウ・エゾニュウ・ウコンウツギ)→六合目→(クロエゾ・アカエゾ・トドマツ)→四合目→(休憩中昼食)→(略)雨足は漸く繁しくなった。したがって、闊葉樹林は急ぎ足に通過したが、昭和の初め頃と違って、森林は少なからず荒れて情けない。(略)→1時30分:層雲峡博物館着
7月13日 帰路
※1クロバナヒョウタンボク  昭和42年、「11月、「大雪山を行く」の項を参照のこと
※2エゾハクサンイチゲ
   (略)また、エゾハクサンイチゲの萼片の裏面が、丁度ニリンソウなどに見られるように、淡紫紅暈(うん)を帯びるものが折々見当ったので、差当り、ウラベニエゾハクサンイチゲの名を与えたらということにした。それよりも愉快なのは、吉川技官が見付けられた、重弁(実際は萼片であるが)このハクサンスミレで、これはこの日の成果中の白眉である。(略) 「北海道文化財シリーズ第七集 大雪山 P16」より原文のまま
               「大雪山を行く・大雪山覚え書」より
参考資料 月刊文化財7月号 ー文化財ニュースー(全文 大雪山地域の特別調査始まる P35より
 北海道の大雪山地域一帯にわたる特別調査が、六月二十九日から文化財保護委員会と北海道教育委員会の手ではじめられた。この大雪山地域には、わが国の氷河時代の遺存動物として著名なナキウサギ、ウスバキチョウをはじめ本州では絶滅したとみられる世界最大のクマゲラ(キツツキ類)などの動物および最近急速に減少しつつある原生林、高山植物など学術上貴重なものが多い。そこで、これらの文化財を保存するために、動物植物および地質鉱物等にいてなどについて総合的に調査し、その保存対策を考究することになったものである。
 この調査は二週間にわたって四班に編成された調査員により実施される。判別および中心となる調査員は下記の各氏であるが、ほかに文化財保護委員会事務局、北海道教育委員会、北海道庁、北大等からも調査員が参加する。
    
(原生林班) 文化財専門審議会専門委員 日本山岳協会長  武田久吉
     (動物班)  北海道文化財専門委員、北大名誉教授       犬養哲夫
     (地質班)  北海道文化財専門委員、北大教授          石川俊夫
     
(高山植物班) 文化財専門審議会専門委員、国立科学博物館第一研究部長     佐竹義輔 
 なお、この種の記念物特別調査は、昭和三十四年度から実施され、既にトキ、マリモ、コウノトリ、アホウドリ、シラコバト、キタタキ、アマミノクロウサギ、ミズスギゴケ、カワウソなどが、調査対象としてとりあげられている。
7月17日、伊豆山神社境内の「摩多羅神」を撮影する。
8月28日、埼玉県羽生市「宝蔵寺沼」に於いて本田正次・佐竹義輔博士並びに小宮定志等と
    「ムジナモ」の生息調査を行う。 1966・5 国の天然記念物に指定される。
8月29日、群馬県館林市、「多々良沼」に於いて本田正次・佐竹義輔博士並びに関係者と共に
    国指定天然記念物に指定されている「ムジナモ」の生息状況を調査するも確認できず。
    (文部省文化財保護委員会天然記念物部会  1966年指定解除)
8月、「民間伝承 No265 第28巻第3号」に「迷惑解消祈願の庚申塔」を寄稿する。
蓬莱町天昌山光源寺の庚申塔の銘文から
(略)
明和の頃、殊にその晩年の明和九が迷惑に通じるより、世直しの為に建てたこの庚申塔の文句が面白い。そんなこんなで、明和九も押しつまった十一月十六日(陽歴十二月十日)安永と改められた。それでも物価は高く、庶民の生計は少しも楽にならなかった。その為に改元の時の落首に「年号は安く長くと変れど諸色高くて今に明和九」というのがある。この庚申塔については、『民間伝承』第二六五号に発表しておいた。(略)   庚申41号 近郊庚申塔行脚(五)」より
9月、「財団法人奥日光自然保護協会設立趣意書(発起人依頼状)」が世話人の杉山吉良・中上川(藤原)あき両名から依頼される。  横浜開港資料館 久吉(文書類)No674 内容未確認 2014・9・7 保坂
昭和三十九年九月 財団法人 奥日光自然保護協会設立趣意書(全文)
まえがき
 私たちの都会生活では、美しく澄んだ空も目を休ませる緑もありませんし、清冽な流れなどは、どこにも見ることができません。
数多い国立公園も、心なき人々に踏みあらされ、自然美を保っているものも数少なくなってまいりました。その貴重な自然の宝庫に奥日光があります。この美しい自然は、私たちの心の憩いの場だけでなく、自然科学の面からみても誠に得難い宝庫であります。近年観光客も増大し、昭和三十八年中に日光を訪れた数は約五百十二万人の多くに達し、また新道開発のため金精峠の荒廃は心ある人々を嘆かせております。こうした状況にかんがみ、自然美愛護のため公徳心の喚起を促すとともに、必要な施設・指導標などを設けるべく、有志が相集い、奥日光自然保護協会を発起して二年になりますが、諸情勢を検討の上更に一層の強化充実を図り、「自然と芸術」の融合した日光を将来にわたって保護すべく、こヽに発展的解消し、財団法人として再発足するにいたりました。
設立の趣旨
 心の憩いの場として、また自然科学の分野から見ても貴重なる天然自然の宝庫奥日光、こうした自然地域に対しては、全国民的政策のもとにそれが保持されなければならない。それはまた文化国家の一使命でもある。殊に首都から距離などを考慮に入れると、今こそ私たちは奥日光に対し、愛護の眼を開き、百年の計を樹立すべきものと考える。奥日光の実態とその意義を深く認識し、その愛護に万全を期すべく本会を設立するものである。

            御案内書御芳名 
 (敬称略 五十音順)
新垣秀雄 河合良成 小絲源太郎 舘脇操 藤山愛一郎 横山隆一
池島信平 河北ヨ 佐藤達夫 団伊久磨 深田久彌
上村健太郎 狩野近雄 正力享 永井竜男 福島慶子
江戸英雄 木川田一隆 杉山吉良 中上川あき 星野直樹
大仏次郎 北島織衛 高見順 南間栄 水原秋桜子
扇谷正造 今日出海 武田久吉 東山魁夷 横川伸夫

               注 団体の存在については未調査のため検討要  2016・7・14 保坂
10月10日、「第18回 オリンピック東京大会・開会式」を観戦する。
    参考  第18回オリンピック東京大会 博士撮影による開会式の様子(一部)
10月、「日本山岳会 会報 235号」に「高野君の思い出・ガウランドとゴーランド」を寄稿する。
10月、「定本 柳田國男集 別巻第4に付された「月報34号」」に「柳田先生の思い出」を
    寄稿、傍の石仏や麓の村民たちの信仰生活研究へと移行された動機を記す。
     
大正5年に帰朝して以来、私の山に対する態度は、明治時代とちがって、山頂のみならず、
       漸く中腹以下にまで興味がひろがり、昭和に入ってからは、山麓の村民と中腹以下の山林との
      交渉から、やがて村民の生活、わけてもその信仰生活--例えば庚申塔や道祖神の研究--まで
      ぶようになった。それは、一つに柳田先生の勧告が大きな原動力となったことは争われない。
  
10月、「岳人 199号」に「小島烏水と「甲斐の白峯」 」を寄稿する。
11月3日、勲四等旭日章を授与される。
1965 昭和40年 82 1月、「山と渓谷 312号」に「グラフ ≪お宝拝見≫ 深田久弥 ・近藤等・武田久吉・串田孫一・冠松次郎・川口邦雄」各氏のお宝が掲載される。pid/7934008 グラビア写真の内容未確認 注意要 2017・4・9 保坂
1月24日、第11回 近郊庚申塔行脚を行う。
自宅→北千住→(東武線)→竹ノ塚(北根の応現寺)→吉浜(宝光山実相院・子育観音・庚申塔)→加賀血沼町・集会所脇庚申塔→(行脚記録は一とまず終る)    庚申42号 近郊庚申塔行脚(六)」より
1月、「植物研究雑誌40巻1号444号」に「エゾナニワズ 」を寄稿する。
2月、「日本山岳会 会報 237号」に「「高貴な女子」という高山植物」を寄稿する。
2月、「植物研究雑誌 40巻2号通巻445号」に「ホトトギスの白花品について 」を寄稿する。
3月、埼玉県秩父郡上吉田村の石間戸神社を訪れた際に、丁子蔓の野生種を発見する。
3月23日9時40分、奈良国立博物館庭「石人男女像」を撮影する。
3月、「北海道文化財シリーズ第七集 大雪山」が刊行され「大雪山覚え書」を執筆する。
  
  「大雪山覚え書」より
あとがき
(略)八二才の武田先生、七〇才近い犬飼先生など比較的高齢の先生がたが多く、かつ、延八〇名に及ぶ大人数のため事故や病気などの健康状態がいちばん心配でした。
 暗夜激流に流されたり、熊に会うなどの事故がありましたが、幸い、たいしたことなく、全員無事下山でき事務局一同ホットした次第です。
 一日一〇時間から一二時間の大行軍。まことにきつい日程でしたが、先生がたの健脚にははなはだ敬服の至りでした。
 また、一人平均四〇`以上、からだより大きい荷物を運んでくれた学生諸君には感謝のほかありません。
 激流を腰までつかって渡り、急坂を登り、湿地や雪渓を歩いたり、暴風雨の高根原行など、つ

らい思い出、川原の露天風呂につかったり、野営の夜のコーラス、高山植物の褥に横たわった楽しい思い出。本当にご苦労さまでした。この苦労が実り、天然保護区域として指定され、長く後世まで保存したいものと思います。(略) 北海道教育庁社会教育課長 吉田佐吉
    同書に発行日の記載がなかったので、序に記された日付を発行日としました。 2014・10・31 保坂
4月、「庚申 39号4月号」に「近郊庚申塔行脚(三)」を寄稿する。
4月、「太陽」に「道祖神のおわす道」を寄稿する。
   (昭和56年4月、曽根原駿吉郎編集の「信州の石仏」の中にも再録される。)
4月、「岳人 205号」に「山岳写真特集 写真に見る植物の生活/海抜ゼロメートルから山頂まで」を寄稿する。
5月、「山と渓谷 316号」に「山と溪谷の三十五周年を祝う」を寄稿する。
5月、「武蔵野44巻2・3号」に「龍源寺の月待板碑」を寄稿する。
(略)植物学者であることは承知しているが、会に関する限り会長は民俗信仰、又は石仏に関する研究者であった。それは「武蔵野」に掲載された一文が如実に示している。(上記の号にそ)の一文があり、月例見学会の後再訪して撮影詳細に調査したとある。見学会で満足する事が出来ず再訪する事がどの位難しい事か、私にはよく判る。私も二度も三度も同じ石仏を見に行く事があるが、この一文から私は、会長が晩年は石造物に興味を特別に持っておられた事が伺え、その近著「路傍の石仏」を見る時、その建立者の信仰にまで思いをよせられている事が諒解出来る。(略)
               追悼号「山田英二 石仏の影に故会長への追憶」より
5月6日、「毎日新聞 夕刊」に「富士山」を寄稿する。
5月、「太陽 3巻5号通巻23号」に「道祖神のおわす道」を寄稿する。pid/1792563
5月、「日本山岳会 会報 239号」に「高野君に関する誤謬二件」を寄稿する。
○この年の春、工事中の「戸隠森林植物園」を訪れる。
(略)一昨年の春、残雪未だ地表を蔽うころ、工事を進めるため、芽吹きもやらぬ原生林に足を踏み入れた人たちは、今池と称する凹窪地に、異様な白花をつける奇草を発見したが、それが水芭蕉であると判明するや、村長和田良一氏の肝入りによって、この窪地の周囲に一周する歩道を設け、昨年五月下旬の最盛期には、数か所のテント張りの休憩所をしつらえて、訪客に観賞の便を与えてあった。(略)    「S42・6 月刊文化財 水芭蕉の産地」より
6月初旬、宝光山実相院に、庚申塔撮影のため再訪する。
(略、1月24日の写真撮影で)三脚を立てて見たが、時に十一時をすぎ、やや逆光線で、成績は思わしくないので、六月の初旬、朝早くにここを再訪して、満足の行く結果を得た。(略) 庚申42号 近郊庚申塔行脚(六)」より
6月、「アルプ 88号」に「人と作品 小暮君と私(一)」を寄稿する。
6月、「學燈 62巻6号」に「植物の名の書き方 p34〜37 」を寄稿する。
7月1日付、(財)国立公園協会 評議員に委嘱される。日本自然保護協会理事 「国立公園 No188」より
7月、「アルプ 89号」に「人と作品 小暮君と私(二)」を寄稿する。
7月10日〜17日、第二次知床半島特別調査(団長武田久吉)が行われる。
 
日 時   「知床半島特別調査報告」より第二次特別調査B班植物部門の行動順と記載された植物名
7月7日 19時58分上野発の「北斗」にて出発。
8日 20時10分、札幌着
9日 札幌→「はまなす」→網走(16時40分着)→斜里(17時32分着)
10日 斜里→バス→オシンコシン瀑→ウトロ(9時45分着)→オロンコ岩カワラマツバ・ハマヲトヨモギ・ヒオウギアヤメ・キリンソウ・エゾイワベンケイソウ・エゾオオバコ・コガネサイコ・ヤハズソウ・ミヤマハイビャクシン・エゾヲグルマなど・キバナノカワラマツバ→知床五湖(第一湖の湿地・ヒオウギアヤメ→第二湖畔トドマツ・ノリウツギ・オオバスノキ・マイズルソウ・ツルワゲ・湿地にミズバショウ・陽地にはシナノキ・ミズナラ・ソウシカンバ(白)・シラカンバ・ニレ・オヒョウ・モイワボダイジュ・ツタウルシ・イワガラミ・エゾイタヤ・ナナカマド・ホホノキ・ハリギリ・ツルシキミ・コヨウラクツツジ・水中にミツガシワ→第三湖トドマツ・闊葉樹を乗せた中島・ミヤママタタビ→第五湖)→ウトロ泊(ユースホテル)
11日 (早朝)、ラウシ岳に厚い笠雲、燕は高く飛ぶ。8時巡視船「天竜」に乗船→やや半島の突端の文吉湾(9時45分着)→浜の砂礫地ハマハコベ・ハマベンケイ・岩上にはシコタンハコベ・キリンソウ・アサギリソウ・ウシノケグサ・シャジクソウ・エゾカンゾウ・エゾヒナノウスツボ・レビンコザクラ→午後風雨強くなり納屋に籠居
12日 納屋周辺オオイタドリ・オニシモツケ群落・センダイハギ・カノコソウ・午後より礫地にはハマエンドウ・アカネムグラ→納屋
13日 納屋→知床岬周辺ハマベンケイ→慶吉湾エゾコウボウムギ・ハマハコベ・ハマベンケイ・オオイタドリ・エゾヲグルマ→岬の崖上タカネナナカマド・ガンコウラン・ヤハズソウ・カマヤリソウ・エゾオオバコ・エゾカンゾウの群落・エゾイブキトラノヲ・ミヤマハンノキ・→文吉湾南方の岩上エゾスカシユリ・トモシリソウ・チシマツメクサ・エゾネギ・チシマコハマギリ→文吉湾の納屋(泊)
14日 文吉湾の納屋→再び文吉湾南方辺りを訪ね海産植物調査コアマモ・ウガノモク・ヒバマタ・エゾイシゲ・フクロフノリ漁場に戻る(9時30分)→乗船→ラウシ港→マッカウシでヒカリゴケ・ダイモンジソウ・二オイシダ→ラウシ町公民館(泊・風邪気味の私はストウヴの傍に陣取って休養)
15日 ラウシ町公民館(7時40分発)→(バス15分)→ラウシ温泉ヤマウルシ・ミズナラ・エゾイタヤ・ハリギリ・ナナカマド・アヲダモ・ヤマハンノキ・オヒョウ・ツタウルシヤチダモ・シウリ・笹に天狗の巣のついたもの・エゾミソガソウ・エゾクロクモソウ・ソウシカンバ→一息峠ミズナラ→里見台トドマツ・ソウシカンバ・ミズナラ・ハイマツ・アカツゲ→ハイマツ原→ヒロハツリバナ・ミヤママタタビ→第一の壁イワキンバイ・トガスグリ・カノコソウ・ウスゲヲガラバナ→第二の壁(休み)チシマフウロ→霧のため退却第二の壁(15時5分)→ハイマツ原(15時30分)→里見台(15時55分発)→一息峠(16時)→間歇泉→知床観光ホテル(着)
16日 知床観光ホテル発(8時)途中は温帯林で、ウダイカンバ・ミズナラ・サワシバ・オオシダ・ハリギリ・ヤマハンノキ・エゾヤマザクラ・ソウシカンバ・キハダ・ナナカマド・ハウチワカエデ・ベニイタヤ・ツタウルシ・エゾマツ・川岸にオオブキ→熊越ノ滝→濃霧雨のため退却し午後→マッカウシニオイシダ→ラウシ町公民館(泊)
17日 ラウシ町公民館発(6時30分)ラウシ温泉一息峠トドマツ→ハイマツ原→悪天候のため第一壁から退却→ラウシ町志賀旅館→午後、村田吾一氏の高山植物園→夕町の小学校歓迎会→ラウシ町志賀旅館(泊)
18日 ラウシ町発(10時30分)→標津発(12時43分)→札幌着(22時20分)
19日・20日 札幌→北大植物園→札幌発(13時40分)→東京着(10時20分)
8月、「太陽 3巻8号通巻26号」に「白馬ガ岳」を寄稿する。pid/1792563
8月、「アルプ 90号」に「
人と作品 小暮君と私(三)」を寄稿する。

9月9日、「○○新聞」に「尾瀬に生きる老学者 湿原に魅せられ」の見出しで同行記が掲載される。
9月、「岳人 211号」に「奥利根特集 平ヶ嶽雑記」を寄稿する。
月、「日本山岳会 会報243号」に「鹿内辰五郎の思い出」を寄稿する。
9月、「庚申 40号9月号」に「近郊庚申塔行脚(四)」を寄稿する。
9月28日、「尾瀬観光協会」より、尾瀬の紹介に盡瘁、「感謝状」が授与される。
9月下旬、新穂高温泉から瀑谷出会う迄を歩く。
(略)昨年9月下旬、新穂高温泉から曝谷出会まで歩いた間に、見たところによると、ウリハダカエデ、ミヤママタタビ、ミヤマイラクサの葉が、可なり虫害をうけ、殊にミヤマイラクサの葉は殆ど葉脉だけになっていた。(略)
          
S41・10 「植物春秋 5(10) ムシカリの弁」より
10月15日、日本山岳会創立六十年記念講演会が久保講堂で開かれ、「山岳会創立前後」と題する記念講演を行う。
       上記の講演内容は第六十一年「山岳」に、「明治の山旅」では「付録」の項にも収録されています。
10月、「アルプ 92号」に「人と作品 小暮君と私(四)」を寄稿する。
11月、「植物春秋4巻2号」に「むらさきおおはんげ異変」を寄稿する。
11月、「庚申 41号11月号」に「近郊庚申塔行脚(五)」と論評/「清水長明氏の「相模道神図誌」」について寄稿する。
(略)著者清水氏が是等数十の写真撮影に費やされた時間は、到底想像もつかぬ程莫大なものであろうし、一顆の碑石を写すにも、光線の関係その他で、数回足を運ばれたこともあろう。
 斯様な被写体の撮影にあたっては、大きさの測定は勿論、刻銘の判続も大切であると共に、恐ろしく面倒な仕事といわなければならない。殊に年代の古いものでは、文字が摩滅しているし、また往々彫刻が浅く、その上石面に大小の凹凸のある場所だと、誤読を招く恐れのあることも希でない。
(略)
11月、「学燈 62巻−11号」に「大雪山を行く」を寄稿する。
           
S39・7 文化財保護委員会が計画した大雪山特別調査報告  2016・3・14 原本確認済  保坂
「山への足跡」から、付記の部分の(全文)/沼の原附近では、いまだ蕾のままであったクロバナヒョウタンボク(一名チシマヒョウヘンボク)も、約一週目の後の、しかも南受けのこの斜面では、見事に咲き揃っていた。花の色は黒くないのに、この名のあることは妙である。多分乾セキ葉にすると、そんな感じの色にになるので、この名が与えられたのであろう。本州中部では稀にしか見られないが、北海道や樺太にはたくさんある。 「山への足跡」 発行 S45・9
11月、「日本山岳会 会報 245号」に「大雪山はタイセツザン? ダイセツザン?」を寄稿する。
11月、「アルプ 93号」に「人と作品 小暮君と私(五)」を寄稿する。

11月20日、「全日本山岳連盟会長 尾関廣」より、創立当初の会長として寄与につき「感謝状」が授与される。
          
横浜開港資料館 久吉(文書類)No 681−1
12月、「植物春秋 4巻12号」に「植木の名札、見たまま」を寄稿する。
   また同号に石川浩が「ハス博士」の題名で、大賀博士のことが紹介される。
12月、「山岳 第六十年」に「追悼 高野鷹蔵氏 住広造氏」を寄稿する。
12月、「国立公園 No193 尾瀬問題特集」に「尾瀬の景観及び科学的価値[1] 尾瀬」を寄稿する。
尾瀬へのいざない
尾瀬への道筋
尾瀬とは
尾瀬沼と尾瀬ヶ原
尾瀬ヶ原の発端と現状
尾瀬の荒廃と水電問題 
(下記に全文を記しました。)

       国立公園 No193 目次
尾瀬の荒廃と水電問題(の項の全文)
 近来尾瀬が心なきハイカーに荒らされたと、新聞や雑誌などに取り上げられて、その対策の噂などを耳にするが、荒廃はきのう今日の事ではなくて、十年程も前から、心ある顰蹙を買う程度に甚しくなって来た。その被害個所は、おもに水蘚の露出したような所で、それを、いくらハイカーでも、元々荒らす目的でやった訳ではあるまいが、登山靴で無暗に歩きまわった結果、柔らかい水蘚は徹底的に踏み荒らされて、生きた緑の部分がはぎ取られて、枯れた茶色の部分がむき出しになったのである。これを旧態に復するには、水蘚を植えつけるより他の方法はない。/この非行を
敢てしたのは、尾瀬がもともと月並の遊山地や観光地でなく、貴重な文化財であり、駆け足で通り過ぎるべきではなく、ゆっくり観察すべき、一種の博物館にも比すべき地だということを、誰も彼も教えてやらないからである。近頃長蔵小屋のほとりに、ビジターセンター(本当はヴィズィターズ・センターであろうが)という物が建てられたから、将来はそんな事に幾分なりと役にも立とうが目下のところでは、破壊の手は野放し状態である。/それと共に、この貴重な地を、どこでも出来る発電の為に、破壊しようと企む無恥蒙昧なやからが、日本の国民の中にあるとは、文化国家の看板が、号泣することであろうに、低能、無智な彼等が、哀れに思えてならない。
○この年、「雲と山と 1巻2号 雲と山と社」に「丹沢山」を寄稿する。
○この年、「月刊丹沢専門誌 雲と山と 1巻5号 雲と山と社」に「ちかごろ思う」を寄稿する。
 ちかごろ思う」(全文)
 .大学の山岳部や、そのほかの山岳団体でよくあることだそうだが、部の新人はリーダーや先輩の荷物を担いで登る。途中でへたばると、手ぶらで登ってくるリーダーや先輩格の者から、こっぴどく叱咤され、酷いのになると、鞭で文字どおり鞭撻されると聞く。キャンプ地へ着いたら設営はもちろん、炊さんの用意をして、彼らのリーダーを迎えるわけである。育成されるといいながら、新人たちは苦しむために登山部に入ったようなもので、こんなところに昔の軍隊の残滓を見るようである。 むしろ、リーダー達は、逆に後輩たちの荷物を担いで登るべきではないだろうか。
                ■

 
ヒマラヤへいくことが、日本で流行している。そうすることによって自分が偉くなったように感じるならば、その人にとっては、不幸と言わねばならない。外国の山に行く金があるならば、むしろ自分の国の山の掃除に使った方が有益ではないだろうか。故郷の山河は、ゴミだらけというのに・・・・・・。
                ■
 ちかごろの登山者は、山に登っても平気でゴミを捨てるし、またゴミの山で平気で昼食をとっていりのを見かける。"あなたはそんなゴミだらけの所で、ご飯をたべて楽しいですか〃とたずねると、"私が捨てたゴミではない〃と弁明する。
 私は、別にその人が捨てたと言ったわけではないが、従容として、ゴミの中で休んでいるその人の神経を疑うのである。
 こうした人たちに限って、私たちが山でゴミ掃除をしていると、「変なことをしている」といった眼付で、私たちを眺めるものである。

             

 山の石仏を転がして、それに坐って休んでいる若い登山者に「これは仏様ですよ」と注意したら「しかし、人間の作った、ただの石ころではありませんか」と反問してくる。この人は、無神論者かも知れないが、他人が信仰のために作った石仏に、腰かける法はないはずだ。他人の信仰でも、それは尊敬すべきであることを、知らなければならない。        注意 /→改行 
 1966 昭和41年 83
2月9日、平塚直秀が「ラジオに出演の久吉の声を聞いたと旨報告」の絵はがきを博士宛てに送る。
           「横浜開港資料館 久吉(書簡)目録 1143」より 
3月、岡茂雄が「アルプ 九七号」に「山岳誌「山」を創めるまで」を寄稿する。

3月、「近世の品川・民俗編 
品川の歴史シリーズ第三編第一部」が「品川区教育委員会」から刊行される。 
                            
武田家所蔵本
月、「日本山岳会 会報 250号」に「山川黙君と私」を寄稿する。
 参考 旧姓は河田 黙(しづか)
5月、岡茂雄が「アルプ 九九号」に「武田久吉さんとの因縁を手繰る」を寄稿する。

5月、「羽生市宝蔵寺沼ムジナモ自生地」が国の天然記念物に指定される。
5月15日、
「日本高山植物圖鑑 第4版(武田久吉・田辺和雄、共著)が「北隆館」から刊行される。
訂正再版の巻頭に(全文)
 
本書新版の議は已に数年前に起り、その計画は着々とすすめられ、原稿は昭和36年頭初に組版に廻されたのであるが、予期しなかった故障のために、その実行は延々として進捗せず、荏再日を重ねる内に、著者は研究観察のために山地に向かう必要にせまられ、わけても田辺はアフリカ縦断旅行の準備に忙殺されて、席のあたたまる暇もなく、そのため綿密な校正にあたる時間にとぼしく、ついにこれを他人の手にゆだねるのほかなかった。一方において、出版の時期は刻々とせまって、少しの余裕をも与えてくれない。八月の中旬にいたってようやくその発足を見たが、予期に反して欠陥のみ、目につく状態であったことは遺憾千万と申すべきである。今回さいわいにして重版する時機にあい、前版の誤植その他を訂正すると共に、新しい事実の追加、学名の改訂などをおこなって、最新の知識をもりこみ、使用者各位の便に供するように心掛けた。もし幸いにしてこの意図が達せられたとしたならば、校訂者の労は十分にむくいられたといえよう。残念ながら、田辺が昭和36年秋、キリマンジャロに登った後、健康に異常をきたし、11月ケニヤの首都ナイロウビの病院で急逝したがために、今回の改訂にあたって、彼の助言を得られないことである。          1965年早春 武田久吉識
6月、「庚申 42号6月号」に「近郊庚申塔行脚(六)」を寄稿する。
6月、「マンスリー東武第206号」に「どなるか尾瀬」を寄稿する。
6月、「ハイカー 128号」に「尾瀬とともに六十年」を寄稿する。
6月21日〜23日  大清水ー長蔵小屋(泊)ー尾瀬ヶ原ー山の鼻(泊)ー鳩待峠
6月26日、「東京・中日新聞」に「生きている博物館 武田博士(日本山岳会会長)尾瀬を行く」の
    見出しで、尾瀬同行記が掲載される。
7月7日、「あしなか 
第百輯 小絵馬の研究」の出版記念会に出席、祝辞を述べる。
7月、「文芸春秋 第44巻第7号」に「ごまのはい」を寄稿する。pid/3198231
7月、「民間傅承 第30巻第2号 通巻第273号」に「
名物学 附ホリーのこと」を寄稿する。
7月、「自然保護 No55 日本自然保護協会」に「尾瀬に求めるもの(T)」を寄稿する。
7月、「アルプ101号」に「雪庇の写真」を寄稿する。
8月、「
日本山岳名著全集3 尾瀬と鬼怒沼」を「あかね書房」より刊行(昭和5年と同じ内容)
8月、「自然保護 No56 日本自然保護協会」に「尾瀬に求めるもの(U)」を寄稿する。
8月、大森義憲が「まつり No11 特集念仏踊」に「各地だより・山梨県/山梨の六斎仏」を寄稿する。
(略)無上野の場合は昭和十六年夏橋浦泰雄、武田久吉氏等及び山梨郷土研究会員によって調査され、平野のものと批較分析して、組織、行事など同型のものが伝えられていたことがみとめられた。(略)
          無上野→無生野 昭和十六年→昭和十八年 年月について再調査要 2017・5・18 保坂
9月、「山と渓谷 333号 p138〜139」に「≪わたしの登山論≫昔の登山」を寄稿する。pid/7934029
  また、「同号 p129〜129」に「スタジオ訪問「富士山大滑降」をのぞく」が掲載される。
9月10日、「日本山岳会 
会報 山 255号」に「白馬岳初期登山者、その外(T)」が掲載される。          横浜開港資料館 久吉(原稿(著作)) No567−3−1 所収 
9月24日、「松沢貞逸奉賛会 会長北沢幸義」より、本会事業に御高配、御指導を賜ることにつき「感謝状」を授与される、
横浜開港資料館 久吉(文書類) No680 収録
9月26日、NHKの番組「この人 この道「武田久吉」」に出演する。 
武田久吉/新田次郎 午後11:20〜11:49
9月27日、畠中善弥が「久吉出演のテレビを観たこと、および庭の様子報告」の葉書を投函する。

            
「横浜開港資料館 久吉(書簡)目録 1132」より
9月、舘脇操が、「北海道大学農学部演習林研究報告24巻2号」に編著「日本森林植生図譜(X) 奥日光の森林植生」を発表する。

11月、「植物春秋 5巻10号」に「ムシカリの弁」を寄稿する。
10月、「民間傅承 第30巻第3号 通巻第274号」に「
植物談義 山牛蒡とベコの舌」を寄稿する。 pid/2237537
  又同号に伊川公司 が「めくら摩訶般若波羅密多心経」を発表する。
10月、
「霧の旅会」の長老5名と尾瀬を訪ね、尾瀬植物保護センター(山ノ鼻)の開所式に参列する。
10月7日 上野→(上越線)→沼田→(東武バス)→戸倉→戸倉の旅館で休憩→(マイクロバス)→鳩待峠→山ノ鼻小屋→竜宮小屋→下(しも)田代→第二長蔵小屋(泊)
10月8日 第二長蔵小屋→三条ノ瀑→温泉小屋→→第二長蔵小屋(中食)(マユミ・オオマルバノホロシ・ヒロハノツリバナ)→沼尻(ぬしり)→(渡船)→長蔵小屋裏→営林署の小屋(泊)
10月 9日 営林署の小屋→(行動記録がないので再検討要)→?(泊)
10月10日 →大江川湿原(ニッコウキスゲ・ヤナギラン)(超満員のため分散泊)元長蔵小屋(泊)
10月11日 元長蔵小屋→大江川湿原(ミゾギボウシ・)→焼山峠(シラタマノキ)→第二長蔵小屋(ナナカマド)(渡船)→沼尻→魚止り→第二長蔵小屋(泊)
10月12日 第二長蔵小屋→弥四郎小屋→竜宮小屋→第二長蔵小屋(泊)
10月13日 二長蔵小屋→竜宮小屋(ミツガシワ)→→竜宮小屋(中食)→上の大掘の橋(イチイ・カラコギカエデ)→山ノ鼻小屋→至仏山荘→センター内の見本園を一巡→山ノ鼻小屋(泊)
10月14日 山ノ鼻小屋→11時センター開場式に参列→伝馬沢→鳩待峠→(マイクロバス)→→戸倉→(尾瀬林業社長の車)→新前橋→帰京
           資料 アルプ 1971−12 166号 「尾瀬の秋色と変貌した桧枝岐」より
           
 尾瀬植物保護センター(山ノ鼻)の名称については再検討要 2014・8・24 保坂記
10月10日、「日本山岳会 会報 山 256号」に「白馬岳初期登山者、その外(U)」が掲載される。
10月15日、虎ノ門、久保記念講堂に於いて「日本山岳会60周年記念講演会」が開催され「日本山岳会創立前後」についての記念講演を行う。 
              講演の内容は翌年3月発行の「山岳 第62年 P5〜14」に収録されています。
11月10日、「日本山岳会 会報 山 257号」に「白馬岳初期登山者、その外(V)」が掲載される。
資料(白馬山騒動について)/(明治三十九年)八月二十六日、夜来の雨やまず、風は依然強く吹いていたが、八時頃から雨は収まり、濃霧となり、西風が盛に霧を飛ばして居た。午後三時半頃、村役場から荷下げ人夫三名到着。聞けば三名の募集に対して、百名の応募者があり、抽選によって定めたが、結局山に慣れていない当選者は、山慣れた者に権利を譲るという有様であったという。三名中只一人は、山稜上から越中の国を覗いて見たいので志願したという篤志家であった。この日の午後五時頃西の大風が吹いたが、風は東に変ったりして、一定しないで、夕に近く再び大雨となった。然し翌日は下山の予定故。日没後、荷下げの準備に取り掛った。(明治四十年八月二十一日迄の記述を省略)
 私達の登山中に起った上記の騒動の遠因は、登山者の案内者としての労銀(日当金四十五銭乃至五十銭)は、平地に働くよりも多い収入があるので、経験が無い為に山案内に出られない多くの村民の走]嫉妬の的となっていた折柄、連日の雨天は山上に人が居るから起った降雨だという迷信で問題となり、案内に立とうという者が躊躇したのを、内山の一行が過大の賃金によって一部の者を買収し、村民一同の諒解なしに、抜駆的に四名の人夫を山に拉し去ったのが近因だと云うことであった。
 これでは将来の登山者の迷惑は測り知れない虞れがあるというので、其の頃山岳会設立の相談が進行中でもあったので、これが問題となり、応急の手を打とうというので、発起人の一人であった城数馬が、長野県内に多数の知人のあるのを幸い、長野県地方裁判所検事鈴木豊次郎氏に測り、同氏を介して北安曇郡役所の横沢本衛氏を煩わし、一切の事業を具して、調停の労を執られん事を請うた。氏は村長や警察分署長とも熟議を遂げ、細野区長や区民一同に向って調停を試みられたところ、日ならずして円満な解決を得て
(略)
11月、「植物研究雑誌41巻11号466号」に「久内氏のマダラホトトギスについて」を寄稿する。
○この年の秋、九州臼杵を訪れる。
(略)昨秋、九州臼杵の石仏群の付近でも丁子蔓を見たが、葉の形も色も、関東のものと一向に変わるがなかった。
     月刊 文化財 S42・2 「埼玉県内の丁子蔓」より コースや目的等が不明なため再調査要 2017・8・16 保坂 

12月10日、「日本山岳会 
会報 山JAC No258号」に「白馬岳初期登山者(W 完)」が掲載される。
ムシトリスミレの部分(略)長沢氏の「白馬岳小史(2)」の24頁に、明治十七年、松村博士雪倉岳でムシトリスミレ発見するとあるのは『山岳』第二年第一号に載る大平晟おおだいらあきらの「蓮華山及針木嶺」の記文中、109頁に「明治十七年松村博士本山に於て始めて発見せるものなりと云ふ」のに拠られたものであろうが、大平氏はそれを同行の志村寛氏からでも聞いたのかとも考えられるが、これは跡方もない虚報で、恐らく明治十七年七月十二日に、矢田部博士が戸隠表山の百間長屋で採集された事実の覚え違いででもあろう。これが本邦でこの草が採集された最初ということになっているが、私の父はそれよりも前に之を八ヶ岳に採り、伊藤圭介博士に示したところ、博士は和名が無かったので英名バターワートを訳して、牛脂草と名(付)けたという。然し牧野博士によると、江戸時代に採った人があって、それが最初だということであるが、その頃の名は不明である。(略)
      横浜開港資料館 久吉(原稿(著作)) No567−3−2 収録
    
 注 上記の「白馬岳初期登山者T〜W」について、国会図書館は所収なし 日本山岳会に所収有確認済
○「民間伝承 No275 第30巻第4号」に「何がしかの貢献」を寄稿する。
1967 昭和42年 84
(1月)、東武サービスグループ1月号カレンダーの裏紙に「入用」と記し、「オゼとは」・「早田文蔵伝」・・「尾瀬への私案」・「旅立ち」・「千客万来の日本」・「日本の花卉園芸」の記述を行う。 尚、カレンダーの写真は「谷川天神平スキー場」
資料 オゼへの紹介透い 早田文蔵伝 マジック書き
 明治三十六年といえば、西暦一九〇三年である。その一月二十日発行の『植物学雑誌』第百九十一号に早田文蔵という人の執筆による一文「南会津竝ニ其ノ附近ノ植物」というものが掲載された。この人は越後長岡の人と聞いて居るが、明治七年(1874)の生れ、加茂小学校を終り、私立長岡学校に入り、中途退学して家事に従事したが、○年植物に深い関心を持ち、明治二十五年十八才の時東京植物学会に入会したが、二十八年(二十一才)上京し、第一高等学校大学予科に入学、三十三年東大の植物学科に入り三十六年(一九〇三年)卒業後理学大学助手を拝命、後講師を経て遂に教授に進んだが、晩年は日蓮宗の盲信者となり病中にも医者を排して題目を唱
(ママ)し遂に昭和九年一月十三日永眠した。その郷里にる頃か又は一高時代に会津の諸山ー吾妻山・磐梯山・飯豊山・浅草(ママ)ヶ岳・駒ヶ岳ーに採集し尾瀬のものと共にその目録を同誌二月号に掲載した。氏の記事によると尾瀬に採集したのは、一高時代であるらしく、明治三十一年(一八九七)七月一日、上野から両毛線で前橋へ、そこから四里の道を徒歩して渋川に到って一泊、翌日利根川の右岸の道を行くこと五里、川を渡って沼田に入り、川場湯原を経、花咲峠を越え、戸倉に達したかに見えるが、里程は七・八里ならんとある。これは小生が歩いても二日路でなければならない、翌朝沼山峠を越えて桧枝岐を下り駒ヶ岳に採集したというから、これ丈でも二日は掛った筈である。それから燧ヶ岳に採集しようと、再度尾瀬に引き返し、岳麓沼尻平でナガバノモウセンゴケを発見採集したが、それ以後の記事がなくどうも登山を断念して帰京したらしいが判然しない、氏はこの採集を七月三日と記して居るが、錯覚であろう。その上前記の植物目録も学名と和名の食い違いが沢山あってその何れが正しいのやらはっきりしないし、産地の名も怪しいものがある。それにしても尾瀬には、こゝと北海道にしか見られないという者が揚げてあるので、当時採集熱の高かった私をして、尾瀬一遊を思い立たせずには置かなかった。然し乍ら、同地への道の甚だ不便なのと、この年には八ヶ岳行が確定して居たし、翌年は戸隠山と妙高山が予定されて居たので、一九〇五まで延期を余議されたのである。   注意  メモ書きのため判読困難の箇所が多数ありました。 1015・8・22 保坂記
1月、「アルプ 107号」に「房州伊予ヶ岳を訪う」を寄稿する。
1月、「北海道文化財シリーズ第九集 知床半島(特別調査報告)」に「知床日記」を執筆する。
    
注意:発行日については特に記載がなかったので序文に記載された日時を発行日としました。 保坂記
2月、「學燈 64巻2号」に「銀杏をなぜGinkgoとは
p18〜19 」を寄稿する。
2月、「武蔵野46巻1号」に「浦和の丁子蔓」を寄稿する。
2月、「月刊文化財 2月号」に「埼玉県内の丁子蔓ーその北限地ー」を寄稿する。
3月、木村博が「日本民俗学 49号」に「伊豆型道祖神に関する一つの問題」を寄稿する。
3月、民間傅承 第31巻第1号 通巻第276号」に「植物釈明四十六条」を寄稿する。
3月、「増訂版原色日本高山植物図鑑 6刷」が刊行される。
図鑑(P74〜P149)に記された記述の内容
垂直分布と環境の変化
高山植物の栽培
「高山植物」の語はいつ出来たか
高山植物研究略史
私の経験 1 日光三山がけ
2 女貌山の再探
3 太郎山に登る
4 八ヶ岳を探る
5 甲斐の駒ヶ岳に登る
6 戸隠山
7 妙高山を訪う
8 尾瀬と白馬 (附り 富士山と権現岳)
石川氏の飯豊登山
川崎氏の乗鞍岳採集
日本博物学同志会と山岳会の誕生
    別刷の附録、「植物の写真、・原色日本高山植物図鑑・≪出版の苦心≫」も刊行される。
植物の写真(全文)
(前略)私がロンドンで講義して居た頃には、必要があればラボラトリーボーイが何でも写したり、幻燈を作って呉れたりしたので、写真のような手数や時間を食う仕事に手を染めるに及ばなかったが、帰朝後は写真の上手な友人にたよって一時は凌いで居る内、どうしても自身でやる必要を感じ、又友人にすすめられて、大正七年頃から、ボツボツ始めてみたが、中々思うようには写ってくれなかった。それでも翌々年北大で講義の傍ら、暇にあかして勉強の甲斐あって、昭和の初めから、京都大学で講義した頃には、講義の説明用として幾百枚かの写真を、実物幻燈(エピテイアスコープ)で写したり、又学生の指導旅行の折、森林植物の分類や生態の講話
の序に、撮影の技術や実施の指導にも当ったりし た。「樹木図鑑」の著者の岡本君とも、内地の山々は勿論、樺太・朝鮮・台湾に愛機を携えて、互に腕を磨きあったものである。
 小型写真器と感光材料の急激な発達に伴い、最近はその恩恵に浴しているが、大切なものは依然焦点距離一三五又は二八〇ミリのレンズのついた、ハンドエンド スタンドカメラを用いること、ここに挿入の写真の通りである。又遠距離の地形の撮影には、時に四三インチの望遠レンズを

用いることもある。小型カメラの活用は、主に写真に無頓着な同行者のある時に一番威力を発揮するようである。
・原色日本高山植物図鑑・≪出版の苦心≫(部分)
(前略・出版に際し)、予想したよりも遥に面倒な点のあることを悟った。第一に、従来は、この種の出版物の為に特に撮影した原板から製版したので、フィルムを使用する分だけ、自由に切り取って使い度いという申出であった。私が大正時代以来写しためて持っている原板を利用する以上、そんな勝手なことをされてはたまらない。さりとて、新規に撮影するとなると、少くも5〜6年の日子と、莫大な費用を要することになるし、その適任者を得ることさえ、容易なことではない。第二に、花の色が紅とな黄とかいっても、その濃淡とか斑紋とかを、一々製版者に説明することは容易でない。しかし幸いなことに、友人田辺理学士は、ここ数年来、高山植物のカラースライド製作に精通して、己に数千枚の逸品が集められている。その或るものは生態的撮影を主としたものであるが、一部は形態的のものであるため、うってつけの参考品である。そこでそれ等のスライドを借用することが出来た許りでなく、色彩の方の校正まで、田辺君の好意にまつことを得たのは、読者と共に喜びにたえない処である。(略)斯様に、他人の失敗は目につき易いが、自分の錯誤は看過し易い。私のこの著書にも、意外な誤謬が潜入していないとは、中々断言が難い。若し読者の中にそれに気づかれた方があったら、著者又は発行者に宛てて注意を喚起せられ度い。それによって、一つでも誤りが是正されれば、自他共に裨益をうけるからで、学問に為に特にそれを御願いして置く。
                           
▼著者住所 東京都千代田区富士見町三の一
3月20日「山岳 第61年」に「山岳会創立前後・追悼 山(旧姓河田)黙氏」を掲載する
同号の主な内容
登山界と登山者 /松方三郎
山岳会創立前後/武田久吉
六十年を振返って/槙有恒
登山の文化史/桑原武夫
創立六十周年記念行事
追悼/山川黙氏(武田久吉)
/北沢基幸氏(編者) /柴山乙彦氏(編者) /曾原久蔵氏(藤島敏男)
森本次男氏(阿部恒夫)/橋本三八氏(月原俊二)/福田康雄氏(冠松次郎・行方沼東・村木潤次郎)
竹中要氏(木原均)/斉藤清太郎氏(高橋定昌) /君島久登氏(三井松男)/山川勇一郎氏(深田久弥・石井鶴三)
4月、「山と渓谷 341号」に「何のための山登り」を寄稿する。pid/7934037
4月、「民間伝承 31巻1号」に「植物釈明四十六条」を寄稿する。
4月、「ハイカー 4月号」に「愛すべき山草たち」を寄稿する。pid/2295911
   また、同号に江間章子が「ずいひつ花―その想い出」を寄稿する。
4月、「岳人 233号」に「山名と地名」を寄稿する。
5月、「増訂版続原色日本高山植物図鑑 5刷」が行される。
続図鑑(P74〜P92)に記された記述の内容
ハイマツの生態 附:ヒメコマツの葡匐型
春の白馬山
    別刷の附録、「著作と文章・高山植物の写真」も刊行される。
高山植物の写真(全文)
 本書正篇を鐇続したある親切な方から、一片の葉書がある時著者あてに届いた。それは附録に書いた「出版の苦心」の中で、あれだけの数の写真を新規に写すとなると、少なくも五−六年の日子と、莫大な費用を要する。また全部の図は白黒の写真を元として着色したことを明らかにしたことに対する解決策である。最近富士で発売した ASA100のカラーフィルムを用いれば、容易にしかも安価に、一ヶ年でその仕事を完了することが可能だというのである。折角のこの名案も、私にはこれを履行する勇気のないことを告白する。
    「別刷の附録」の時期については増訂版5・6刷期で確認したので年譜上は3・5月として表示しました。検討要 保坂記

    参考 「増訂版(続)原色日本高山植物図鑑」に記された植物名  
黒字は正編、紫字は続編に掲載されています。
科  名  植物名  ※印は武田の名のついた植物名  例 ※ユーバリソウ lagotis Takedana Mirabe et Tatewaki
きく科 タカネウスユキソウ・ウサギギク(キンクルマ)・ミヤマオトコヨモギ・タカネヨモギ・チョウカイアザミ・ミヤマアズマギク・ミヤマコウゾリナ・タカネニガナ・ヒナウスユキソウ・ハヤチネウスユキソウ・ミネウスユキソウ・ヒメウスユキソウ・オタカラコウ・タカネコウゾリナ・クロウトヒレン・ナガバキタアザミ・ヤハズヒゴタイ・キオン(ヒゴオミナエシ)・タカネコウリンカ・ミヤマアキノキリンソウ・チョウジギク(クマノギク)・サマニヨモギ・シロサマニヨモギ・ハハコヨモギ・エゾハハコヨモギ・ヒトツバアヨモギ・ジョウシュウアズマギク・カニコウモリ・コウモリソウ・オニアザミ・フジアザミ・ミヤマサワアザミ・フタマタタンポポ・エゾムカシヨモギ・クモマニガナ・キクバジシバリ・ホソバヒナウスユキソウ・トウゲブキ(エゾタカラコウ)・カイタカラコウ・オオニガナ・イワテヒゴタイ・※ユキバヒゴタイ・ミヤマヒゴタイ・タカネヒゴタイ・※ウスユキトウヒレン・※ユキバトウヒレン・ミヤマタンポポ(タテヤマタンポポ)・タカネタンポポ・クモマタンポポ
ききょう科 ※ホウオウシャジン・ヒメシャジン・ミヤマシャジン・タカネツリガネニンジン・イワギキョウ・チシマギキョウ・※オオバナノヒメシャジン・※ホソバヒメシャジン・ヤマホタルブクロ
まつむしそう科 ※タカネマツムシソウ
おみなえし科 ユキンレイカ(ハクサンオミナエシ)・コキンレイカ・タカネオミナエシ(チシマキンレイカ)
すいかずら科 オウヒョウタンボク・リンネソウ(エゾアリドオシ)・ウコンウツギ・クロミノウグイスカズラ・チシマヒョウタンボク(クロバナヒョウタンボク)・アラゲヒョウタンボク(オオバヒョウタンボク)・ミヤマシブレ
あかね科 オオバノヨツバムグラ・ヤツガタケムグラ・ツルアリドウシ
おおばこ科 ハクサンオオバコ
たぬきも科 ムシトリスミレ
はまうつぼ科 オニク
ごまのはぐさ科 ミヤマコゴメグサ・ヒナコゴメグサ・ウルップソウ(ハマレンゲ)・ミヤマシオガマ・ヨツバシオガマ・タカネシオガマ・エゾシオガマ・イワブクロ(タロマイソウ)・ヒメクワガタ・ミヤマクワガタ・ホソバコゴメグサ・※ユーバリソウ・サワホウズキ(オオバミゾホウズキ)・セリバシオガマ・オニシオガマ・キバナシオガマ・※バンダイクワガタ・テングクワガタ・エゾヒメクワガタ(ハクトウクワガタ)・※エゾミヤマトラノオ
しそ科 タテヤマウツボグサ・イブキジャコウソウ・ミヤマクルマバナ
むらさき科 ミヤマムラサキ・エゾルリソウ・エゾムラサキ
はなしのぶ科 ミヤマハナシノブ
りんどう科 イワイチュウ・トウヤリンドウ・オヤマリンドウ・タテヤマリンドウ・ミヤマリンドウ・オノエリンドウ・ミヤマアケボノソウ・ヒナリンドウ・クモイリンドウ・リシリリンドウ(クモマリンドウ)・エゾリンドウ・エゾオヤマリンドウ・ユーバリリンドウ(シロウマリンドウ)・ハナイカリ・ミツガシワ(ミズハアンゲ)・ヒメセンブリ・タカネセンブリ・エゾミヤマアケボノソウ・・
さくらそう科 ヒナザクラ・ユキワリソウ・ツマトリソウ・エゾコザクラ・※オオサクラソウ(ミヤマサクラソウ)・※ユーバリコザクラ
いわうめ科 イワウメ・イワカガミ・ヒメイワカガミ・ヤマイワカガミ
つつじ科 ヒメシャクナゲ・コメバツガザクラ・※ウラシマツツジ・チシマツガザクラ・イワヒゲ・イワハゼ(アカモモ)・※ベニバナイワハゼ・※シラタマノキ・ジムカデ・イソツツジ・ミネズオウ・ツリガネツツジ・アオノツガザクラ・ツガザクラ・ナガバツガザクラ・キバナシャクナゲ・ハクサンシャクナゲ・ネモトシャクナゲ・エゾツツジ・ミヤマホツツジ(ハコツツジ)・クロウスゴ・ナガミクロウスゴ・ミヤマクロウスゴ・エゾクロウスゴ・イワツツジ・クロマメノキ・コバノクロマメノキ・コケモモ・アオジクスノキ(ヒメウスノキ)・ヒメシャクナゲ(ニッコウシャクナゲ)・マアルバナイワヒゲ・ハリガネカズラ・イワナシ・ウラジロハナヒリノキ・コヨウラクツツジ・ツルコケモモ・ヒメツルコケモモ・エゾツガザクラ・※ユーバリツガザクラ・ムラサキヤシオツツジ・ヤエキバナシャクナゲ・アズマシャクナゲ・オオバツツジ・コメツツジ・ベニサラサドウダン
がんこうらん科 ガンコウラン
いちやくそう科 コバノイチヤクソウ・ベニバナイチヤクソウ・ジンヨウイチヤクソウ・シャクジョウソウ(シャクジョウバナ)ギンリョウソウ(ユウレイタケ)・コイチヤクソウ・エゾイチヤクソウ
みずき科 ゴゼンタチバナ
せり科 トウキ・イワテトウキ(ミヤマトウキ)・ハクサンサイコ・ミヤマゼンコ・ミヤマセンキョウ(チョウカイゼリ)・ミヤマニンジン・ハクサンボウフウ・オオカサモチ(オニカサモチ)タカネボウフウ・シラネニンジン・ホソバシラネニンジン・ヤマウイキョウ(ミヤマウイキョウ)・オオバセンキウ(エゾオオバセンキウ)・レブンサイコ・キレハノハクサンボウフウ・イワセントウソウ・ヒロハシラネニンジン
うこぎ科 ハリブキ(クマダラ)
あかばな科 ミヤマアカバナ・ヒメアカバナ・ヤナギラン(ヤナギソウ)
すみれ科 キバナノコバノツベ・タカネスミレ・オオバキスミレ・ミヤマスミレ・ウスバスミレ・ジンヨウキスミレ・ナエバキスミレ(ダイセンキスミレ)・シソバスミレ
おとぎりそう科 イワオトギリ・シナノオトギリ・・
かえで科 ミネカエデ・オガラバナ・オガラバナ(ホザキカエデ)
にしきぎ科 ムラサキツリバナ(くろつりばな)・※クロズル・ヒロハノツリバナ・ムラサキツリバナ(クロツリバナ)
もちのき科 ツルツゲ
かたばみ科 コミヤマカタバミ・
ふうろそう科 グンナイフウロ・ハクサンフウロ・チシマフウロ(エゾタチフウロ)・エゾグンナイフウロ・シコクフウロ・
まめ科 ムラサキモメンズル・リシリオウギ・タイツリオウギシロウマオウギ・イワオウギ(タテヤマオウギ)・オヤマノエンドウ・チシマゲンゲ・エゾオヤマノエンドウ・リシリゲンゲ
ばら科 キンロバイ・チョウノスケソウ(ミヤマグルマ)・ノウゴウイチゴ・シロバナノヘビイチゴ・ミヤマキンバイ・ウラジロキンバイ・ミネザクラ(タカネザクラ)・タカネバラ・ゴヨウイチゴ・ヒメゴヨウイチゴコガネイチゴ・ベニバナイチゴ・シロバナトウウチソウ・カライトソウ・タカネトウウチソウ・※チングルマー白馬岳・※チョウカイチングルマ・※タテヤマチングルマ・ユウバリチングルマ・タテヤマキンバイ・ウラジロナナカマド・タカネナナカマド・マルバシモツケ・ハゴロモグサ・クロバナロウゲ・ノウゴウイチゴ・オオタカネバラ・タカネバラ・チシマワレモコウ・イワシモツケ
ゆきのした科 ウメバチソウ・ヒメウメバチソウ・コマガタケスグリ・アラシグサ・ミヤマダイモンジソウ・クロクモソウ・ムカゴユキノシタ・シコタンソウ・クモマグサ・イワベンケイ・トガスグリ・フキユキノシタ・※クモマユキノシタ(ヒメヤマハナソウ)・※ツルクモマグサ・ヒメチシマクモマグサ・エゾノクモマグサ・チシマイワブキ
べんけいそう科 ホソバノイワベンケイ(ナガバノイワベンケイ)・チチッバベンケイソウ(ハマベンケイソウ)・※ミヤママンネングサ
あぶらな科 ミヤマハタザオ・フジハタザオ・イワテハタザオ・ミヤマガラシ(チョウゼンジナ)・ミヤマタネツケバナ(ミネガラシ)・ナンブイヌナズナ・※クモマナズナ・シロウマナズナ・ハクセンナズナ・ミヤマガラシ(チュウゼンジナ)・シロウマナズナ・タカネグンバイナズナ
けし科 コマクサ・オサバグサ・リシリヒナゲシ
めぎ科 サンカヨウ・※キレバサンカヨウ・※マルバサンカヨウ
きんぽうげ科 ホソバトリカブト・ハクサンイチゲ・ミヤマオダマキ・ミヤマハンショウズル・ミツバオウレン・オオレイジンソウ・ミヤマキンポウゲ・クモマキンポウゲ・タカネキンポウゲ・ヒメカラマツ・モミジカラマツ・シナノキンバイ・ヒメイチゲ・リュウキンカ・ミツバノバイカオウレン(コシジオウレン)・ツクモグサ・キタダケキンポウゲ・クモマキンポウゲ・タカネヒキノカサ(ヤツガアタケキンポウゲ)
すいれん科 ネムロコウホネ・オゼコウホネ
なでしこ科 メアカンフスマ(チョウカイフスマ)・ミヤマミミナグサ・クモイミミナグサ・タカネミミナグサ・キクザキタカネミミナグサ・タカネナデシコ・クモイナデシコ・オオビランジ・※タカネビランジ・タカネツメクサ・コバノツメクサ(ホソバツメクサ)・イワツメクサ・シコタンハコベ・タカネマンテマ・エゾノタカネツメクサ・ミヤマツメクサ・オオイワツメクサ
たで科 ナンブトラノオ・エゾイブキトラノオ・ムカゴトラノオ・ジンヨウスイバ(マルバギシギシ)・オヤマソバ・ウラジロタデ・オンタデ(イワタデ)・タカネスイバチシマヒメイワタデ・メイゲツソウ・カラフトノダイオウ
かばのき科 ミヤマハンノキ・ダケカンバ・ミヤマハンノキ・オオダケカンバ
やなぎ科 タカネイワヤナギ・ミヤマヤナギ(ミネヤナギ)・タカネイワヤナギ・エゾノタカネヤナギ
らん科 キバナノアツモリソウ・コイチヨウラン・テガタチドリ・フタバラン(コフタバラン)・ミヤマフタバラン・ハクサンチドリ・シロウマチドリ・タカネサギソウ・キソチドリ・※ミヤマチドリ(ニッコウチドリ)・ホテイラン・エゾスズラン(アオスズラン)・ヒメミヤマウズラ・ホザキイチヨウラン・※ウズラバハクサンチドリ・カモメソウ(イチヨウチドリ)・ニョホウチドリ
あやめ科 ヒメオウギアヤメ
ゆり科 ネバリノギラン・シロウマアサツキ・クロユリ・ニッコウキスゲ・キヌガサソウ・クルマユリ・チシマアマナ・マイズルソウ・オオバユキザサ・チシマゼキショウ・ヒメイワショウブ・ミヤマバイケイソウ・オオシュロソウ・※タカネアオヤギソウ・コバイケイ・タカネトンボ・ミヤマラッキョウ・ギョウジャニンニク・ショウジョウバカマ・オゼソウ・テシオソウ・キンコウカ・クルマバツクバネソウ・イワショウブ・ヒロハユキザサ(ミドリユキザサ)・エンレイソウ・ミヤマエンレイソウ(シロバナノエンレイソウ)
いぐさ科 ミヤマイ・ミクリゼキショウ・エゾホソイ・クロコウガイゼキショウ
い科 イトイ・タカネイ・タカネスズメノヒエ・クモマスズメノヒエ
さといも科 ミズバショウ・ザゼンソウ
かやつりぐさ科 ショウジョウスゲ・イトキンスゲ・キンスゲ・イワスゲ・ミネハリイ・タカネクロスゲ・ヤマタヌキラン・ミタケスゲ・ハリスゲ(ヒカゲハリスゲ)・タカネハリスゲ(ミガエリスゲ)・ワタスゲ・サギスゲ(マユハキグサ)・ミカズキグサ・ヒメワタスゲ
いね科 カニツリノガリヤス・タカネコウボウ・コメススキ・ミヤマウシノケグサ・ミヤマドジョウツナギ・ミヤマアワガエリ・ヒナノガリヤス・イワノガリヤス・※ユーバリカニツリ・※タカネソモソモ・ミヤマコウボネ・コモチタカネイチゴツナギ
いちい科 キャラボク
びゃくしん科 リシリビャクシン・ミヤマネズ・ミヤマハイビャクシン
まつ科 ヒメコマツ(ヒメゴヨウ)・ハイマツ(シモフリゴヨウ)
もみ科 シラビソ(リウセン)・オオシラビソ(オオリュセン・アオモリトドマツ)・カラマツ(フジマツ)・エゾマツ・トウヒ・コメツガ
うらぼし科 ミヤマウラボシ
ちゃせんしだ科 アオチャセンシダ
ししがしら科 オサシダ
おしだ科 オクヤマワラビ・ミヤマメシダ・ニオイシダ・シラネワラビ・イワウサギシダ・オオバショリマ・ミヤマワラビ・クマイノデ(カラクサイノデ・シノブイノデ)・タカネシダ・ミヤマイワデンダ
きじのおしだ科 ヤマソテツ(チリメンクワンジュ)・ヤツガタケシノブ
わらび科 リシリシノブ
はなわらび科 ミヤマハナワラビ・ヒメハナワラビ(ヘビノシタ)
いわひば科 コケスギラン
ひかげのかずら科 チシマヒカゲノカズラ・※ミヤマヒカゲノカズラ・アスヒカズラ・スギカズラ・タカネスギカズラ・エゾヒカゲノカズラ・マンネンスギ・※ウチワマンネンスギ・タチマンネンスギ・※タカネヒカゲノカズラ・ヒメスギラン・コスギラン・トウゲシバ
5月、「アルプ 111号 特集高原」に「大雪山を行く」を寄稿する。
   
注) 1965・11月、「学燈 62巻−11号に同題の「大雪山を行く」がありますが、記述の内容が別になっていました。 保坂 
第二次学術調査の時期についての検討資料/同号記載の「大雪山を行く」より (部分 P12〜13)
沼ノ原大雪火山彙特別調査は、昭和三十九年の春頃から計画され、学術的の調査と自然保護の基礎となる使命をも帯びていた。スケデュールは、北海道教育委員会の建てる処によっていたが、いざどなって見ると、既設の登路に沿って通過するのが主で、ただ二回だけは同一宿泊地に二泊したに過ぎず、通路を離れての調査は思いもよらなかったのは残念である。しかし私にとって嬉しかったのは、先年は忠別岳以南に足を伸ばすことができなかあったのに、今回は沼ノ原から入って黒岳まで縦走することができたことであった。然し百花繚乱とも形容すべきお花畑の高根ヶ原を、暴風雨の日に脇目も振らずに通過する仕儀となったことである。
 前回には、連日快晴に恵まれて、ここを通るに暑さに悩まされたが、今回はその正反対の経験を余議なくされたのは遺憾千万と称すべきであった。
   第二次学術調査の日時 検討要 2014・8・27 保坂
5月、「歴史読本 ワイド特集維新動乱の証言者 人物往来社」に「エルネスト・サトウの片影」を寄稿する。
研究課題
@(あらゆる研究)
そして稀ではあるが、民俗や考古学にまで及んだ。そのため、自らの観察のみでなく、文献の力をも借りる必要上、諸汎の書物を蒐集したが、その当時にあっては、当今よりは容易に購入出来たことであろう。東京在住の頃には、泉屋文助という古本屋が出入りした。/前記考古学の調査というのは、群馬県勢多郡荒砥村下大屋にある産泰神社の南大門の近くにある、前方後円の大黒塚の出土品調査ということである。日本アルプス命名者として、またドルメンの研究家として有名なウイリアム・ガウランド氏と同行だというから、主役はガウランド氏であったのかとも思われる。(略)
  1880・3・6〜3・10 アーネストサトウ、上野國前橋大室古墳群の調査を行う。
  昭和14年
4月1日、「旅と伝説 第12年4月号」に「上州の産泰神社」を寄稿する
       
注)アーネスト、ガウランド氏は大黒塚も当日に調査されているか検討要 2015・11・11 保坂記
Aアーネストは現新宿区(旧源兵衛村)に土地と家屋を借れ竹類の観察を行っていた。 
明治32年の項に記す。
5月、「旅 41巻5号」に「特集5月の魅力 登山家の眼 」を寄稿する。
6月、「
月刊 文化財」に「新しく発見された水芭蕉の産地 ー一万二千坪の純群落ー」を寄稿する。
6月、「日本山岳会 会報 264号」に「記憶と想像」が掲載される
6月、「HIKER
(ハイカー)140号」に「座談会 尾瀬を守る百年の大計」が掲載される。
     
出席者  武田久吉・ 厚生省計画課長 大井道夫・ 尾瀬林業観光社長 谷鹿光治・ 白旗司朗
(略)本誌/いま大井さんからも、国立公園の立場のお話がありましたが、私はこれから尾瀬がどうなるかということで、武田先生からほんとうは人なんか来ないであのままでいったら自然はどうなるかというのが、むしろハイカーの読者には一番興味があるんじゃあないかと思いまして、その辺を伺ってみて、そういうふうな形を続けていくのには、さてわれわれがどうしたらよいかということで、伺わせていただきたいんです。
武田
いま一番だれが見てもはなはだしい変化は、尾瀬沼の北岸から半島状のものが突き出ている。これはだいぶ前から私は気がついているんですけれども、結局最後は尾瀬原みたいになってしまうんじゃないか。木道のないころ上田代あたりには、われわれが歩きますと、途中でゆるぎの田代≠ニいうところがあって、そこへ行くと上下に振動するんですよ。そういうところはその下に水があって、ミズクサがほんとうの根じゃないけれども、根茎がもつれ合っているところへ、ミズゴケが発生して相当な厚さになった。そいいった半島状のもので振動するのが、尾瀬沼の北岸によく発達しましたね。ですから、最後はそういうものが尾瀬沼を全部閉じてしまうであろう。これは百年や二百年じゃ、そうなりますまいが、そこで、尾瀬沼の水を片品川に落とすという問題が戦後にあって、われわれみんな長蔵小屋に籠城して会議をやったことがあるんですが、それがいいとか悪いとかずいぶん議論したものです。それで私の考えは、風景としては尾瀬沼というところは湖水が主である。だから、これが埋まってしまうということは、湖水がなくなるのだから、あまりそれがひどくなければ、これは切り取って水面を広げることが必要だ。つまり尾瀬沼を沼として保存しよう。尾瀬沼の景色というものは、沼がなくなればたいしたところじゃなくなる。尾瀬原のほうはもうあれだけふさがってしまった。原の現状をできるだけあのまま残してやりたい。だから原のほうは貯水池にはしないようにお願いしたいというような結論になった。けれども、戦後急激に電力が必要だというので、それではやむを得ない。しかし、原のほうは水びたしにしていただかないようにと、口約束だがお互いに紳士協約を結んでそういうことをお願いしておる。それじゃ沼の水をトンネルで落としましょう。これがきまったのが八月ごろじゃなかったですかな。そのときの土木のほうの方のお話では、それがきまりさえすれば、今年中にトンネルをあけてというのが、とうとう三年かかりましたな。三年目の十一月になって・・・・・・・。
谷鹿/戦争直後でございますからね。
武田
そうして最初のときには、じきに雪が降り、二年目には働く人が、ああいうさみしい山の中ではいられないというので、三年目には山小屋のそういう人のいるところへラジオを持ってくる、いろいろな設備をこしらえて退屈しないようにして、ごきげんをとりとりやって、できたのが十一月の初め、雪がちらちらするころでしたね。それですから、尾瀬というところは地質的にもなかなかやっかいな珍しいところでしてね。普通の土木事業のようなわけにはゆかず、実行してみるとなかなかいろいろなめんどうなことが起こるところらしいですね。水位を保つために、それを刈り取ってしまうぐらいな決断力がなければいけないだろう。そうすれば、これは発電の貯水池にも使えるし、また尾瀬沼の景色も存続させることができるであろうということだったんですね。
   また、同号に川崎隆章が「尾瀬に生きる人々<安達成之・平野与三郎・平野長英・平野保則>」を記述する。
            
 他に尾瀬に関する記事が多い  2017・4・9 保坂
7月、「HIKER 141号 山と渓谷社」に「海辺に花開く高山植物 
P58〜61」を寄稿する。 pid/2295914
8月、文化財保護委員会 監修「文化財の鑑賞」に「失われた庚申塔」を寄稿する。pid/1221157
 
   また同号に、伊藤延男が「鎌倉時代の本堂建築」のなかで柏尾山大善寺の建築構造を紹介する。
9月、「自然保護 No67 日本自然保護協会」に「竜宮余談」を寄稿する。
10月、「民間傅承 第31巻第3号 通巻第278号」に「続植物釈明四十六条」と「蔓荊
(はまごう)小記」を寄稿する。
10月24日、「あしなか十月集会報告」が三田図書館集会室に於いて行われ、田村豊幸氏、武田久吉先生、浅野明氏、石川純一郎氏の四名が、“恐山”のイタコについてを語る。
 武田久吉先生は、自作の写真を示されて、恐山の二度の旅の見聞を、独特のユーモアに満ちた語り口で満場を喜ばせてくださった。                  「あしなか 第107輯 十月集会報告」より
11月17日、「あしなか十一月集会告」が三田図書館集会室に於いて行われ、大内尚樹氏が「代用された植物」についてを語る。この時博士が植物学者の立場から補足的意見を述べる。
(略)さらに、田植祭の時に朴の葉にメシを盛って水口に供える習俗が、朴の葉の無い土地でおこなわれない事についての例証を話された。これについて武田先生は植物学者の立場から補足的意見を述べられた。 
                  「
あしなか 第107輯 十一月集会報告」より
11月、アルプ117号」に「大菩薩峠と小金沢山」を寄稿する。
12月、「民間傅承 第31巻第4号 通巻第279号」に「ショリマの事から」を寄稿する。
12月、「あしなか 第107輯」に「野沢の道祖神」を寄稿する。

資料 「野沢温泉の道祖神祭り」
≪はじめに≫長野県野沢温泉の道祖神祭りは、湘南大磯町の祭りと共に、民俗研究家の間には著名なものである。編輯室は、同地の会員片桐久衛氏(旅館きりやの主人)に、祭りの報告をお願いしたところ、三十四枚の写真とメモを送られたので、それをここに発表するが、残念乍ら祭りの行事の総体的な記事を欠いているので、はじめての人には行事の経過がよくわからないと思うので、昭和十年頃同地を訪れて、行事の概説を執筆された武田久吉博士に、旧文を再録させていただくことにした。武田先生の解説と片桐氏のメモと写真を併せて見られるならば、この壮大な祭りの一斑が了解されるであろうかと思う。(編輯室)
      野沢の道祖神  武田久吉    道祖神メモ  片桐久衛
     注 旧文名 「農村の年中行事 P197〜P201」  2018・10・25 附記 保坂
○この年、「日本の美 第7巻 国際情報社」に「大自然の花園」を寄稿する。pid/2517284
1968 昭和43年 85
1月、「月刊文化財 第52号 P10〜13」に「猿神漫筆」を寄稿する。
2月23日、「あしなか二月集会告」が三田図書館集会室に於いて行われ、はじめに、博士から道祖神についてのお話があり「和名類聚抄」という古い本を廻覧する。      「あしなか 第109輯 二月集会報告」より
2月、「アルプ120号」に「静けき山の朝を称える」を寄稿する。
4月、「HIKER 150号 山と渓谷社」に「レジャー放談・植物採集 山歩き70年の思い出 
武田久吉/武村卓也」が掲載される。
4月、「国立公園 No221」に「明治の山旅(一) 
箱根と伊香保・妙義山」を寄稿する。
4月、「民間傅承 第32巻第1号 通巻第280号」に「丸石の崇拝」を寄稿する。
4月、「
月刊文化財 No55号 15〜19」に「春の野草と山草」を寄稿する。
4月9日、朝比奈泰彦氏の米寿祝いに祝辞を述べる。 
朝比奈泰彦氏の門下生が主宰する「蕾軒会」での祝辞
4月下旬、浦和の調
(ツキ)神社を再訪する。「武蔵野47巻2・3号」より
5月、「HIKER 151号 山と渓谷社」に「尾瀬原の神秘 P60〜63」を寄稿する。
   
また、同号に宮脇昭が「尾瀬の植物」を寄稿する。
冒頭の部分・全く性質のちがう沼と原一口に尾瀬と言っても、尾瀬ガ原の区域と、尾瀬沼を中心とする区域と、似ているが、性質のちがう二つの区域があることに注意しなくてはならない。東京では、尾瀬と言うと、たいていの人はすぐに尾瀬沼を思い浮かべるものと見えて、大分前のことになるが、ある出版業者から、何か書物のカットにするのだから尾瀬の写真を貸して欲しいという申し出があった。そこで念のために尾瀬ガ原の方か、尾瀬沼の方はとたずねたところ、その婦人記者は沼の方のを求めたので、適当なものを選んで提供した。数カ月あとに、出来上がった書物がとどいたので、さっそく披見すると記事は原と貯水池問題を取扱ったものであった。一方、南会津の桧枝岐ひのえまたでは、尾瀬に行くと言えば、誰しも原の方を意味して、沼は通過してもそれを意図しないのである。(略)
5月、「国立公園 No222」に「明治の山旅(二) 日光・日光(第二回目の訪問)」を寄稿する。
5月、「会津史談会 第四十三号」に上田亀彦著「アーネスト・サトウと会津」が掲載される。
同号に、「この(昭和42年9月)五日武田久吉博士を招き、明治百年祭の一環として催される会合に、博士から父親の思い出話しを聞き、又会津の国立公園、天然記念物の指定の経緯などを拝聴し得る機会を得た事は甚だ喜ばしいことゝ思う。(九月二十二日)」と記述がされる。
 
講演日が五日か二十二日か不明なため、再確認要  参考:同号に鈴木茂雄著「明治戊辰百年祭行事」の記述もあり 2015・9・19 保坂記
7月、「植物春秋 第7巻第7号 通巻77号」に「ときわまんさく」を寄稿する。
7月、「国立公園 No224」に「明治の山旅(三) 八ヶ岳」を寄稿する。
7月、文化財保護審議会専門委員。
月、「ファルマシア 4巻7号 明治の根性(7月のベランダ)」欄に朝比奈泰彦氏の米寿祝いの祝辞内容が掲載される。
7月、「民間傅承 第32巻第2号通巻第281号」「『けえばをたずねて』を読んで」を寄稿する。
9月、「国立公園 No225・6 合併号」に「明治の山旅(四) 甲斐駒」を寄稿する。
9月、「あしなか 山村民俗の会第110輯」に「相州栃谷の山ノ神」を寄稿する。


10月、「国立公園 No227」に「明治の山旅(五) 戸隠山(前半)」を寄稿する。
10月、「民間傅承 第32巻第3号 通巻第282号」に「
ポタニイ漫筆 鼠刺とクワリン」を寄稿する。
11月、「植物春秋 第7巻第11号」に「水引の花」を寄稿する。
11月、「国立公園 No228」に「明治の山旅(六) 戸隠山(後半)と妙高山」を寄稿する。
11月、「植物研究雑誌 No43号 10月11月合併号 P368〜371」に「サバノヲ属植物の形態的特質について」を寄稿する。
12月、「国立公園 No229」に「明治の山旅(七) 日光から尾瀬へ」を寄稿する。
12月、「武蔵野47巻2・3号」に「浦和の調神社考察」を寄稿する。
     
注 S44年7月、埼玉史談に寄稿した内容と文面は同じでしたが掲載されていた3枚の写真はそれぞれ別なものでした。
       誤植部分のP5 上7行 「甲州でいう・・・」以下の内容が不明瞭なため 検討要 2018・11・8 保坂

参考 ツキノキ ケヤキの1品にツキノキと呼ばれるものがあって、地名などにも大槻とか槻ノ木などゝその巨木に因んで用ひられる例が乏しくない。相州秦野の近くとか、甲州郡内の大槻(=中央線の大月)など能く知られてゐるが、その地に臨んで調べて見ると、ケヤキである處を以つて見ると、ツキは古名で、ケヤキは新名であるらしい。然し東北地方には本物のツキノキがあって、ケヤキとは材の性質で區別されてゐる。それはとに角として、ツキの名義は、ハルニレのアイヌ語チキサニのチキからの轉訛かと思はれるがどんなものだらうか。
      S25 「植物の名義と方言」より
12月、「自然保護 No79 日本自然保護協会」に「伐られて抜かれた山法師」を寄稿する。
12月、「民間傅承 第32巻第4号 通巻第283号」に「江戸の残ス」を寄稿する。
○「登山と植物」を「日本文芸社」から刊行。
○ この年、「エーデルワイス写真集 日本山岳写真集団」に「尾瀬」を寄稿する。

〇この年、串田孫一編「山の博物誌」に「高嶺の花 」を寄稿する。pid/1383184
〇この年、「北アルプス/宝文館出版」に「高山植物の生態的観察・雲間紅日影の追憶」を所収する。
   また、同号に「収録文掲載書誌一覧」がある pid/2979296 検討要 2018・4・3 保坂 
〇この年、「中央・南アルプス : 山の風土とその紀行・宝文館出版」に「高山植物の魅惑を所収する。
    また、同号に「収録文掲載書誌一覧」がある pid/2975743 検討要 2018・4・3 保坂 
1969 昭和44年 86
1月、「国立公園 230号」に「日本名山図会余談」を寄稿する。
1月、「アルプ 131号」に「富士を周る冬の旅」を寄稿する。
2月、「植物春秋 8巻2号」に「おてれんこ」を寄稿する。
2月、「月刊文化財 No65号
 P 11〜15に「事八日」を寄稿する。
(略)神奈川県西部から静岡県東部にかけては、疫神が十二月八日に来るときに、翌年度の厄病にかからせる候補者の名を記帳し、その帳面を各村の道祖神に預けて行く。翌年の二月八日に再び来て、いざ実行にあたるから、かの帳面を返してくれという。その時道祖神の答に、その帳面は、小正月のさいと払いの時、自分の家ぐるみ子供たちに燃されてしmったという。このために村々に厄病がはいらないのだという信仰がある。この俗信は更に伊豆にも相当広く行われ、その状を具体的に現わして、かの帳面または巻物を持つ石像を刻んで安置した所が、東海岸の稲取町を始め、上大見村、中大見村、北狩野村、下狩野村にあることを発見したが、駿東郡清水村久米田にもあることを知った。/小正月の火祭りに当り、道祖神の家を作って燃すとか、または石像を火中に入れて続くのが本格的であると、諸国で広く考えられている。この習俗と結合して、厄神の帳面の説話が生まれたものであろうが、厄神の行動を中心とするならば、十二月の方が事始めでなくてはなるまい。おもしろいことに、『甲斐志料集成』十二に載る「甲州年中行事」によると、北都留郡広里村真木(まぎ)では、小正月の十四日に、藁または葦で小屋を作り、中に道祖神を入れ、加えて厄神神の帳面も製作してこれを小屋の中に入れ、小屋を燃すにあたっては、まずこの帳面に点火するということである。二月と十二月の八日に何で疫病が来ると考えられるかというと、おそらくこれは何か別の事から転化したものであろう。古代人の考えでは、病気は外部から人体に附着したものであり、病気をたからせる色々の神を疫神として恐れ敬い、こきには宮居を建てて祀ることもある。二月と十二月の八日に来る神は、疫神ではなくて、豊作の神であるかも知れないが、その日に謹慎をしいる目的で、疫神が来るからといって、戒飾せしめることになったのかとも想像できぬでもない。こうした民間の信仰は、幾百年来のものであり、習俗が長年月にわたって行われる間には、多少なりと変化することもあり得るので、栃木県安蘇郡では、疫神を「大眼」だとし、それは十二月に来るもので、二月に来るものを「少眼」だといっている。最後に疫病神を近づけない変わった方法として、長野県南安曇郡倭村では、戸間口に蓑を立ててその上に菅笠を載せて置くと、巡回して来た疫神がこれを見て、他の疫神がすでに来ていたのかと合点して通り越して行くと信じられているという奇習を附け加えて置く。  (たけだ ひさよし 文化財保護審議会専門委員)
3月、「日本山岳会 会報 285号」に「会員章余談」を掲載する
4月、「国立公園 No233」に「明治の山旅(八) 尾瀬ヶ原の探勝
を寄稿する。
4月、「創文1969ー4 71号」に「山草陳列会」を寄稿する。
4月、「民間傅承 第33巻第1号 通巻第284号」に「
ポタニイ質疑解答 クワリンとマルメロについて」と「「江戸の残ス」追記」を寄稿する。
4月、「月刊文化財 No67号 
P35〜37」に「瀑と滝の奇観」を寄稿する。
5月、「日本及日本人 薫風1473号」「私の山行と登山の本体」を寄稿する。pid/3368268
5月、「国立公園 No234」に「明治の山旅(九) 
尾瀬から日光光へ」を寄稿する。
5月、「創文1969ー5 72号」に「登山の発祥と山岳会」を寄稿する。
資料 「登山の発祥と山岳会」より
(略)
平地とは別天地である山中の景色はどんなであろうか、山頂からの眺望は何と何が見えるかという、いわば好奇心に駆られたためではないであろうか。私が明治二十八年八月に、始めて妙義山に登ったのも、探究心からであったことは事実である。それが偶然にも、朝日岳の頂上で、一株の満開のカノコユリを発見しかことが、小児の頃からの無性に花を愛した私の心を捉え、更に翌年の夏、一ヶ月を栃木県の日光町に滞在して、山野に生ずる天然生の花ーその或るものは初見の品ーに遭遇して自然界に対する目を開き、山の魅力に取りつかれたのも、元を質せば、好奇心が原因といえると考える。それがその翌三十年に、中学に入り、博物学の時間には、折から教育に特別に熱心な帰山信順先生の植物分類学の実験と講義に拍車を掛けられ、年一年とその道に深入りしてしまったので、なんとしても今更義理にも後へは引かれぬ仕儀となった。従って山に登るとしても、植物の影を追っての登山であり、アクロバットの演技を真似する気は毛頭ない。(略日本山岳会の結成に当って、高頭君の経済的援助の如何に力強く私達が感じたかは論ずるもないが、その申し出でを確かめるために、わざわざ新潟県長岡在住の高頭君の邸宅を訪問して、其の確実性を調査してくれた城先輩の慎重な努力も決して看過さるべきものではない。日本山岳会六十周年記念講演会において、その秘話を発表したところ、それは虚構であって、調査に行ったのは城サンではなくて武田君だと、山岳会結成当時の内状も碌々知らない癖に、多人数の面前で私に赤恥をかかせたある有名な登山家があった。それにこういう者に講演を依頼した会の幹部にしてからがチト常軌を逸しているとしか考えられない。会の過去をについて語るというなら、少しは勉強して「回想録」ぐらいは読んで置くべきであるのに、うろ覚えの誤った話を平気でやるなど、その鉄面皮に愛想がつきる。
6月、「国立公園 No235」に「明治の山旅(十) 富士山を跨ぐ  東京から大宮まで・一合目まで」を寄稿する。
   また、
同号に、上杉文郁が「菊作り五十年の思い出」を寄稿する。
6月、「自然保護 No85 日本自然保護協会」に「尾瀬ヶ原の神秘」を寄稿する。
6月、松浦伊喜三がガリ版刷で、「庚申塔 スッケチ集を発行「あとがき」欄に武田博士のことを記す。
 青春時代より登山と写真を趣味とした私は、山村の路傍にひっそりと立つ石佛に若干の興味を抱いていたが、特別な研究や記録は考えていなかった。しかし、昭和17年頃アルスより武田久吉博士の写真集「道祖神」が発刊されたのに、大いに刺激され、素朴な石像の美しさと、その形態の変化におどろき、これの探究欲を大いにそゝられた。しかし道祖神探訪にはどうしても東京から離れた甲信相に足をのばさなければならないので、戦時下業務多忙のとととて、とても無理であるから、東京附近の手近かな石佛として対象を庚申塔にしぼってみた。これには、今では古典とも言うべき、三輪善之助氏の「庚申待と庚申塔」や種々の民俗誌に負うと所が多大であります。(略)   相模原市立博物館所蔵(武田文庫)
7月、「埼玉史談 第16巻第2号 埼玉県郷土文化会」に「浦和の調神社考察・表紙写真共」を寄稿する
   また、同誌に「調神社
(つきじんじゃ)参拝のしをり」を挟む。
7月、「国立公園 No236」に「明治の山旅(十一) 富士山を跨ぐ 頂上に向う・お鉢巡り・下山」を寄稿する。
7月、武 蔵野文化協会
(会長武田久吉)主催による青梅市青宝院や塩船観音の見学会を行う。
    
塩船観音にて       青梅市青宝院にて 「武蔵野」 第51巻3号  昭和47年10月 武田先生追悼号 グラビア写真より引用  
7月、「民間傅承 第33巻第2号 通巻第285号」に「カヤとススキ」を寄稿する。
8月、「植物春秋8巻8号」に「タイサンボクの弁」を寄稿する。
8月、「創文 75号」に「夏二題」を寄稿する。
9月、「国立公園 No237・238 合併号」に「明治の山旅(十二) 甲斐の権現嶽」を寄稿する。
9月、「武蔵野48巻2・3号」に「江戸城の石垣に発見されたヒカリゴケ」を寄稿する。
9月、「旅 43巻9号通巻508号」に「第2特集 敬老旅行 明治の遺産を見直そう!→
      → <座談会> 建築学者、植物学者など明治通の各界の士が語る」で語る。 pid/7887756
座談会の出席者/藤島亥治郎 ; 渋沢秀雄 ; 武田久吉 ; 秋山安三郎 ; 和田芳恵
   また同号に、宮本常一が「隠岐の民俗的興味 民俗学者の眼で探る日本海の離島の風物詩」を寄稿する。
10月、「自然保護 第89号」に「自然保護」を寄稿する。
結びの部分 「大東亜戦争中、政府や軍部に散々欺かれたのに対する憤懣の余り、敗戦後主権在民の今日あるを忘れて政府要人に属するものと誤解してか、左なくば自分達の勝手気儘を当然と心得てか、大好きだと口にし乍ら、その山岳を芥溜のように汚して怪しまないこと、犬猫同然の振舞を敢てしている。これを補導することは容易ではないが、政府も日本国の将来を顧るなら口先だけの巧言令色に終止せずに、本腰を入れた国家国民の為の政治に力を入れたらどうであろう  三田博雄著 山の思想史 武田久吉の項より
10月、「民間傅承 第33巻第3号 通巻第286号」に「信州の道祖神盗み」を寄稿する。
10月、「国立公園 No239」に「明治の山旅(十三) 白馬ヶ嶽 一、山麓への道中と荷物の運搬」を寄稿する。
10月、「アルプ 140号」に「屋久の島秋月日誌」を寄稿する。
 
屋久島歴訪についての時期については当初、1951(S26)・1956(S31)・1962(S37)が考えられましたが、
  →
2014・10・1 調査要 保坂
   妻・直子に宛てた「郵便はがき」の消印から昭和31年であることが確定できました。 2015・3・25 保坂 完了
11月、「HIKER 169号 山と渓谷社」に「東海自然歩道に期待する」を寄稿する。
11月、「あしなか 第118輯」に「抜け参りの道しるべ」を寄稿する。
11月、「国立公園 No240」に「明治の山旅(十四) 白馬ヶ嶽 二、頂上へ目ざしてと小屋の改築」を寄稿する。
12月、{国立
公園 No241」に「明治の山旅(十五) 白馬ヶ嶽 山頂の籠居、下山と帰京」を寄稿する。
○この年、「月刊 文化財 第74号」に「戦争と採訪」を寄稿する。

○この年、「北海道自然保護協会々報 第6号」に「札幌への初旅」を寄稿する。
1970 昭和45年 87
1月、「武蔵野49巻1・2号」に「正月と餅」と「万葉(一) 万葉植物考・ひめゆり」を寄稿する。 
1月、「創文1970ー1 80号」に「≪夢の歳時記≫ 漫筆夢話」を寄稿する。  
1月、「国立公園 242号」に「北海道山名小記・明治の山旅(十六)塔ノ山 」を寄稿する。
1月20日、「東京史談 ・菊池山哉先生追悼号」に「学者臭のない学者」を寄稿する。
   
また、同号に菱沼勇が「相模国式内社の地理的分布」を、また、奥野高広が「北條氏康の外交」を寄稿する。
2月14日、武蔵野文化協会が東京都教育会館に於いて新春例会が開かれる。
    講演 “武蔵野の式内社について” 国学院大学教授 大場磐雄
    4時より武田会長の米寿を祝う懇親会が行われる。
3月5日、「日本学術振興会」より、「多年にわたる高山植物の生態に関する研究」に対し「第六回秩父宮学術賞」が授与される。
武田博士を偲ぶ  本田正次
(略)尾
瀬の父とまで仰がれたことは最も特筆すべきことで、氏の尾瀬に対する自然の保護の熱意に緒を発して、今日のような自然保護の声が大きくなったということも決して過言でない。近くは昭和四十五年三月、秩父宮学術賞を受けられたことも偶然ではない。私はその時の授賞式に欠席させてもらったが、出席した人の話によれば、氏は受賞に際して落涙滂沱、壇上で一語も発せられなかったという。以て氏の純情の一面を物語るに充分であると思う。(略)
               「武蔵野 第51巻3号 武田久吉先生追悼号」より
3月、「国立公園 244号」に「明治の山旅(十七) 岩戸山に登る・天城山と箱根・大菩薩峠の魅惑・御岳に集合・大岳山を訪う・多摩川について遡る」を寄稿する。
   また、同号に「第六回秩父宮記念学術賞、武田久吉氏受賞」の見出で、受賞記念を伝える。
 本誌に「明治の山旅」を連載執筆中の武田久吉博士は、このたび、日本学術振興会から「多年にわたる高山植物の生態に関する研究」に対し。第六回秩父宮記念学術賞を受賞された。氏は、専門の植物学の研究のかたわら自然に対する深い愛情から、わが国にあける天然記念物の保護に努め、尾瀬などをはじめ、日本の自然、高山植物の学術的探究と保護思想の普及に尽すと共に、明治三八年有志とともに日本山岳会を創設、わが国における近代的な登山術発展の端緒を開き自らも日本アルプスをはじめ各地の山野を跋歩し、広く日本各地にその足跡を残した。また、国立公園審議会委員として公園行政につくされると共に、当協会の理事、また現在は評議員として活やくされておいでになります。お祝いを申上げ、今後のご多幸をお祈りいたします。
3月7日付、「読売新聞 夕刊」に「山歩き七十年」を寄稿する。
3月、「あしなか 第120輯 山の神特輯」に「山ノ神雑稾」を寄稿する。
藤沢市遠藤の山の神 和田正洲 山の神メモ 江田絹子
陸中岩手郡鶯宿の山の神 杉本寿 蔵王修験と山の神 森口雄稔
山ノ神雑稿 武田久吉 木地屋と山の神の間 橋本鉄男
伊那の山の神 下平加賀雄 山中三助の話 木村弦三
岩手の山の神さま 高橋九一 山の神 −日光派マタギの信仰− 石川純一郎
西山のマタギと山の神 浅野明 妻を山の神ということ 高須茂
「産神問答」と六部 野村純一 山の神舞 田中義広
秋田の山の神 伊藤雅義 山神の形態 足立東衛
吉野の山の神 仲西政一郎
山ノ神雑稿
(略)私が民間信仰に興味を持って、旅行の度毎に頼まれもせぬ暇をつぶしたのは、主として戦前のことであるから、以下の記述に当たって、村名は旧称であって、近頃流行のその地に縁もゆかりもない閑人が、勝手次第に変更した地名を調べて、現代のと調整する労を省かせてもらうことにすることを諒承されたい。私の調査範囲は狭くてわずかに越後、上州、信州、甲州、駿州、羽州、相州の一部でしかないので、こんな大きな標題を揚げて筆を執るのは、いささか忸怩たるものがある。これらの地方で、山ノ神の神性を尋ねてみると、大体女性だということに一致するが、山ノ神の祭祀に当たって揚げる掛軸を見ると明らかに女神の体に描いたものもあるが、恐ろしい神だという概念に立脚して男性または天狗のように描いたものもあるし、そういう彫刻の神体も稀には存在する(略)
ー参考・過去に於ける「山の神」についての記述と写真掲載内容の一覧ー
発表年月 書名と論文名 掲載された写真
S15
10
大法輪
農村の行事と俗信(十)

(三十)佛の年越と山の神
     
 正月山の神に捧げた弓と矢  山の神に捧げた掛の魚と白餅  木彫りのヲコジを取りつけた小絵馬
 信州松本市郊外塩倉         相州江ノ浦
    上州利根郡片品村 
S16
大法輪
農村の行事と俗信(十二)

(三十七)十二様
            
上州利根郡新治村赤谷富士新田の十二様 同郡東村追貝の十二様   同郡片品村東小川の十二様
                   上小川もあり再検討要 2016・5・10 保坂
       
越後南魚沼郡神立村芝原の十二様 同郡三俣村の十二様  信州下高井郡堺村小赤澤(秋山)の十二様
  越後中魚沼郡田澤村倉下十二峠の十二様
腐朽した一体の女神は高サ一九糎、左右一一糎。
稍新らしき一対は赤く着色したる形跡あり、
男神高サ三一糎半、左右二〇糎、
女神高サ三一糎、左右一八糎。


S18
12
農村の年中行事
十二様 
         
 山の神の木像        十二様の木像            十二様の木像  
 陸中和賀郡澤内村川舟   越後中魚沼郡田澤村倉下        同郡中條村山新田
 高橋文太郎氏撮影 
 
  十二様の掛軸
信州下高井郡平穏村
(画像省略) (画像省略)
上州利根郡新治村赤谷富士新田の十二様 上州利根郡東村追貝の十二様
(画像省略) (画像省略)
同郡片品村東小川の十二様 越後南魚沼郡神立村芝原の十二様
(画像省略) (画像省略)
同郡三俣村の十二様 信州下高井郡堺村小赤澤(秋山)の十二様
S39
岳人
山ノ神 あしなか草紙 
その一
          
 甲州南巨摩郡曙村矢立工  越後南魚沼郡塩沢町    相州足柄下郡片浦村江ノ浦   左地と同じ
 山ノ神に供えられた弓矢的など 十二様に献じた弓矢的農具 山ノ神の掛軸であるがともに天狗に似ている
 
  利根郡片品村戸倉の十二様
(画像省略) (画像省略) (画像省略)
十二様の掛軸・信州下高井郡平穏村 利根郡片品村上小川の十二様 中魚沼郡十二峠の十二様
女神は赤子を抱く
(画像省略) (画像省略)
南魚沼郡三俣村の十二様 上州利根郡東村追貝の十二様 
   
  群馬県利根郡片品村戸倉の     オニオコゼの生魚でやはり  桑名市春日社境内の山ノ神後の樟の
  山ノ神に供えたケヤキ製の小絵馬  山の神の供物         
巨木が神体で陽石は祭神の奉納物
S39
武蔵野
山の神
   
 米沢市外上郷村谷ノ口の山神祠   南魚沼郡三俣村大島    中魚沼郡田沢村清田山

 
 信州下高井郡栄村小走沢
 (右高26糎)

(画像省略) (画像省略)
南魚沼郡神立村芝原の十二様 信州松本市郊外岡田村塩倉
(画像省略) (画像省略)
群馬県利根郡片品村戸倉 中魚沼郡十二峠の十二様
(画像省略)
信州下高井郡平穏村沓野
S43
あしなか
相州栃谷の山ノ神
    
 上栃谷の山神像  下栃谷の山神像   甲州東山梨郡雷の山ノ神     相州根府川の山ノ神の掛軸
 高さ19台共23センチ、 高さ16.5センチ
S45
あしなか・山の神特輯
山ノ神雑稿
(画像省略) (画像省略) (画像省略)
利根郡片品村上小川の十二様 三俣村本村の十二様  相州足柄下郡江ノ浦
(画像省略) (画像省略) (画像省略)
群馬県利根郡片品村戸倉の山神祠 甲州東山梨郡雷の山ノ神 米沢市外上郷村谷ノ口の山神祠
オコゼの絵馬  (いかづち) 左右に立つ人工陽石は高さ110糎
 研究者の皆様へ
 博士の山の神信仰に就きましては、未だどこかにあろうかと思いますが、今後の研究課題として御報告させて戴きました。尚、「武田久吉メモリアルホール」内に「山の神関係写真46枚」と「山の神直筆原稿1冊」が収蔵(E9−24・24)されております。 未確認 2016・5・11 保坂記
4月、国立公園 245号」に「明治の山旅(十八) 大菩薩峠を踰(こ)える・初夏の日光・札幌と手稲山・諏訪湖と昇仙峡附近差出ノ磯」を寄稿する。
5月6日付、「毎日新聞 夕刊」に「富士山」を寄稿する。
5月、「山 JAC No299号」に「秩父宮記念学術賞を受けて」を寄稿する。
  
 同号に、永原輝雄が「武田久吉先生と私」を寄稿する。
秩父宮記念学術賞を受けて  武田久吉
(略)
わけても、終戦から一両年後に、御殿場の御別邸に伺候して、当時御壮健であった宮殿下から山談を伺ったり、勝手な山話しを申し上げたりした時のことを思い浮かべると、感慨無量と申す外ない。そして、その後幾度か、いろいろな機会に拝芝の栄に浴した妃殿下から有難いお言葉を戴いたことは、これに過ぎる光栄はない次第である。若し仮に文化勲章と何れかと問われれば、学問に携わる身として、秩父宮記念学術賞を選ぶは当然である。何故なら、文化の向上にどれ程の効果をもらさないフィクションを筆にした者にも授けられる文化勲章なるものに比べれば、殊に山に関する仕事を為し得た者にとって、この方をと答えるのは、論を俟たない。学問というものは、それ程労力を要し、それ程真剣なものと、私などは信じている。
 わけても、言語を話さない草木に対峙して、彼等の心情を読み取る業は、一朝一夕の訓練ではあし得ないものである事は、門外漢の到底窺い知るを得ない境地であるから、それについて、濫に筆を弄することを省く。     乞諒怒 焉
5月、「旅 44巻5号 通巻516号」に「2色オフセット 旅情寸描」を寄稿する
5月、「国立公園 246号」に「明治の山旅(十九) 
再度富士山に登る・鳳凰山と鳳凰沙参」を寄稿する。 
5月、金精トンネル開通に伴い群馬県利根郡片品村東小川白根魚苑に、金精神社の社殿が勧請される。
6月、「山 JAC No300」に「武田久吉への“秩父宮記念学術賞”授賞理由」が掲載される。
        
−多年にわたる高山植物の生態に関する研究−
6月、「武蔵野49巻3号」に「万葉(二)ハンノキの辧」を寄稿する。 
6月、「日光/尾瀬 新編日本の旅5 小学館」に「尾瀬あれこれ」を寄稿する。
6月、「国立公園 247号」に「明治の山旅(二十) 蛭ヶ岳を志す・甲斐駒白崩山異同論・白崩山甲斐駒異同の実地検証寄稿する。
6月、「自然保護 No97 日本自然保護協会」に「嘆く太郎杉」を寄稿する。

7月、「民間傅承 第34巻第2号 通巻第289号」に「酒ばやし」を寄稿する。
7月、「岳人 277号 7月号」に「丹沢山塊から失われた三名物」を寄稿する。



     
 蛭ヶ岳の頂上にあった薬師如来の石像  いまはなき塔ノ岳の黒尊仏(故松井幹雄氏撮影) 札掛の大欅
 薬師如来の石像の写真説明文の一部ここに示す写真は、大正時代に写したものであるが、この山地にハイカーなどが盛んに訪れるにおよんで、この立派な石像も持ち去られたものか、または谷へでも投げ落とされたものか、今では姿を見ることができないのは、最悪の人災である。この石像は、多年に亘り先達として、講中(丸東)の信者を山中に導いた竹内富造氏が立てたもので、石像の右手に「武州大沢住先達」左手に「竹内富造 立之」と刻んである。
(いまはなき塔ノ岳の黒尊
の写真説明文の一部明治三十八年(一九〇五)九月二十四日、私は十一名の道志とともに、一人の猟師を案内とした。玄ー村から山神峠を越え、玄ー川を遡行して、遂に塔ノ岳の頂上に達したその途上、黒尊仏を見たが、時已に遅く、その高さを測ったり「御衣」と称する苔を採集する時間に乏しく、空しく傍観したに過ぎなかったのは遺憾である。大正時代に、窮乏旅会を主宰した故松井幹雄君が撮影したのが唯一の写真なので、ここに挿入して、その片鱗なりと示すこととする。黒尊仏は大正十二年九月一日の、関東大震災のとき、眼下の金沢に転落し、その上を砂礫などが覆ったものと見えて、今ではまったく見ることができないが、その位置と石の記号だけは、昭和時代に修正された、国土地理院の五万分の一の地図(「秦野」)に明示してあるので、それを頼りにこの巨石を捜しても徒労に属することを知る必要がある。
 札掛の大欅の写真説明の一部余談はさておいて、山回りの村民は、煤ヶ谷村の正住寺のある寺家(じけ)あたりから物見峠を通って丹沢山に入り、最後に布川について南に上り、札掛に達し、彼の大欅の幹の空洞の中に木の名札を掛けるのが習わしであった。その欅の姿はここに示すが、幹の太さを測った数字を今見失って掲げることのできないのを遺憾に思う。中に人間が自由に立居できる太さであったことはうたがいないが、関東大震災に耐えたこの大木が、昭和十二年七月の洪水に、惜しくも倒壊したのは、残念至極である。
7月、「創文 86号」に「読書室 益軒と損軒」を寄稿する。
7月、「国立公園 248号」に「明治の山旅(二十一) 大岩の小屋に向かう・失敗の千丈岳・白崩山に登り駒ヶ岳を降る」を寄稿する。
7月、「英語青年 116巻7号通巻1457号」に「植物学者としての市河三喜君 」を寄稿する。
8月、宮脇昭と「教育ジャーナル 9巻6号」に「
連載教育対談(59)自然の中に宿る命 p66〜75」を寄稿する。
(略) 武田わたしは、山へ登る人たちによくいっているのですが、最近、山に登る人たちはただ歩いて登る・頂上まで行くという目的でなくて、足の達者な者は、あるいは、機械体操のじょうずな者は、岩につかまって登る。そうではなく、山を見て、山に感化されなければだめだ、と。それには、ひとりで登りなさい。今は、おおぜいで登って、わいわいさわいで、なにも見ないで頂上へ行って、歌をうたって、ひどいのは手風琴まで背負って、登って騒いでいる。それで登山だといっている。とんでもない話ですよ。ひとりで登って、ほんとうの自然の味を味わって、山の深遠の気分を味わってこなければだめですよ。 (略)武田平和国家だ、技術だといっても、天然は破壊され、バランスがくずれている。
宮脇いちばん大事なのは、あすの民族をになうところの教育こそ、子どものもっている無限の可能性、肉体的にも、精神的にも、そういうものが発揮できるだけの生活の基盤を、失われている都市の中に復元し、教育者は子どもたちが自然と接触し、自然と共存できるだけの能力といいますか、正しい自然の利用のしかたができるように、種をまいてもらいたいということですね。 武田われわれにとっていちばん大事なことは種をまくことです、が、今は、種を持たないから、刈り取るばかりですよ。 宮脇そういう意味では、わたしは自然の念にかられます。教育学部にいるから、まず教師をいかにしてつくるかということで最大の努力は払っているつもりですが・・・・・・。 武田どうも近ごろの教育はうわすべりしているようですね。 宮脇(略) 武田それがなくなったら、日本の未来は寒心に耐えないと思いますね。 宮脇/そのとおりだと思います。きょうは、たいへん有意義なご意見をありがとうございました。
9月、「山岳名著シリーズ 山への足跡」を「二見書房」より刊行する。
 
  山への足跡
巻頭言(全文)
 山と植物との関係の面白さに目を見張ったのは、前世紀末葉の明治二十八年(一八九五年)八月の事であった。爾来、この道に突入して、北は南千島色丹島の斜古丹山、南は台湾南部の山地に及び、東は太平洋上に浮かぶ金華山、西は日本海上の佐渡ヶ島中北部の山地に足跡を印して、いつしか齢は知命を遥かに超えて米寿に達しても、未だこの道から免れる術を知らない。
 七十有余年のこの間に、筆を執って探求の成果を紙上に物したことも一再に止まらないが、その或者は殆ど採るに足らぬにしても、幾らか後世に残すべきものも皆無ではないと考える。すなわち、斉藤一男氏の援助を得て、その若干を纏めて本書とし、読書子の座右に薦めるのも、万更無益の業でも無いかと稽えて斯くは。
  昭和庚戌暮春
       著者 謹識

巻頭言
1 尾瀬ヶ原の神秘 「自然保護」八十五号
  尾瀬
  抜け参りの道しるべ 「あしなか」第一一八号
  山歩き七十年 「読売新聞」 昭和45年3月7日(夕刊)
  富士山 「毎日新聞」 昭和45年5月6日(夕刊)
  回想の冬山 「学燈」五十八巻一号 昭和36年11月→1月?
  野辺山の原と十文字峠
2 大雪山を行く (付記) 「学燈」六十二巻十一号 1965年11月
  北海の奇勝を探る 「科学画報」 大正12年6月
  甲斐の権現岳 「国立公園」第二三七巻三八号
  岩手山と八幡平 「峠」 昭和36年1月
  出羽の名山鳥海 「太陽」 大正14年8月1日
  三平峠 「峠」 昭和36年5月
  冬の三ッ峠山 「東洋学芸雑誌」 大正11年2月5日
  北相の一角 「山岳」第十三年第三号 大正8年10月
  多摩川相模川の分水山脈 「山岳」第十五年第一号 大正9年8月
  雁ヶ原摺考 「山岳」第十三年三号 大正8年10月
  丹沢山 「山岳」第八年三号 大正2年9月於東京記
  飯豊山に登る 「山岳」第二十年二号
3 風景概論 「東陽」第一巻第四号 昭和11年8月
  風景の保護と改造 「日本地理大系」別巻五 巻頭言 昭和6年9月
  北海道山名小記 「国立公園」第二四二号 昭和45年1月
  富士のお中道と精進口の原始林 「科学画報」九巻C一・二号 大正12年7・8月
  勝道上人と日光の開山 「山岳」第二十九年第一号
  日本名山図会余談 「国立公園」第二三〇号 昭和44年1月
  日本山岳会の創立と小島烏水君 「山岳」第四十四年第一号 昭和24年10月10日
あとがき(全文)
 
有為転変は世の習いとは、いみじくもこの現象を道破した詞だと、常々深く肝に銘じている。一見変化のなさそうな森林にしても、永い年月をかけて観察していると、たとい徐々であっても、変化していくことが明らかになる。例えば、富士山精進口三合目付近では、幾らかでも、森林観察の経験があり、事物を洞察する明のある人なら、コメツガの老齢林のしたに、次代を担うべきシラビソの若木が多数林立し、その時の来るのを待ちかまえていることを、見逃さないであろう。また比叡山中には、アカマツの林の中へモミの若木が侵入して、元の林をおきかえつつある。これらの状況は、十四、五年ほど前に、岩波書店から発行した写真文庫一三九号の、「日本の森林」の中に、明瞭な写真を揚げておいたが、その後この遷移はますます進捗していることであろう。またこの冊子にあげてある大雪山中のエゾマツやアカエゾは、昭和二十九年九月二十六日の第十五号颱風によって壊滅して、もはや見るべくもない。
 明治、大正、昭和の三時代にわたって山歩きを続けていると、同じ山へ十年また二十年も間をおいて登ることがある。そのような場合、まったく別の山へ行ったような感じを受けることすらある。新しい路が開かれたり、昔あった森林が姿を消したり、草原が樹林になったり、また何もなかった場所に山小屋が建てられていたり、何のかのと、いろいろな変化が起こっている。
 尾瀬ヶ原の丈掘(今では無知蒙昧なやからが、見晴なる新名を発明して喜んでいる)のごときは、大正以前には、漁夫の小屋か、それに似せて建てた桧枝岐一流の掘立小屋しかなかったのに、今では六軒の二階建ての山小屋がひしめきあい、そのあるものには、別館があるとは、驚嘆の外ない。それゆえ、幾年か前に見たありの儘を書き綴った紀文が、今の人の案内には役立つまいが、何らかの参考にはなろうし、それを活用すると否とは、一に読者の心境、態度いかんに係る次第である。
9月、「国立公園 249・250合併号」に「明治の山旅(二十二) 北海道内の採集旅行」を寄稿する。
9月、「自然保護 No100 日本自然保護協会」に「白馬山騒動」を寄稿する。
10月、「
日本岳人全集 第7巻 登山と植物」を「日本文芸社」より再刊(昭和13年/河出書房)される。
10月、「国立公園 251号」に「明治の山旅(二十三)
 “シコタン島とシャコタン山”」を寄稿する。
10月24日、「武蔵野文化協会」月例会で皇居の石垣で発見された「ヒカリゴケ」の見学会で「
君、東京のような汚い空気の中で負けずに活きている。ほんとうにきれいだね。(大槻信次、「武田先生を偲んで」より)」と話される。見学会の終了後、日比谷松本楼に於いて「武田久吉博士記念会」が開かれる。
 
   日比谷公園松本楼にて
武田久吉会長記念会
(略)先生はここで、若き日の思い出を約一時間半にわたって語られた。先生の生まれた牛込御門内の屋敷内には菊姫明神というのがあり、これはこの屋敷がかの千姫の吉田御殿の跡だとかいう、因縁からだという思いがけないお話。明治廿六年碓氷峠にアプト式トンネルに軌道が出来たので、これを見物旁々妙義山に登ったのが山との縁のつき始まりという話。影踏み遊びということ市ヶ谷見付脇のムクノキの下に狐が棲んでいたこと、芝公園
にはカワウソがいた話。軍隊式な東京府中学校(今の日比谷高校で当時築地にあった。)に通うため、毎日招魂社の裏から二ヶ年築地に通ったが、その途中には旧大名の屋敷の庭の跡などがあったという話等々。(略)
           「武蔵野」 S46・1 前島康彦、「武田久吉会長記念会の記」より
10月、「岳人 280号」に「ハイマツに聞く」を寄稿する。
12月、「新版考古学講座 第7巻 有史文化<下>」に「道祖神」を寄稿する。
○この年、「「日本山岳会編「越後の旦那様」 野島出版」に「高頭君の想い出」を寄稿する。
○この年、宮脇昭と藤原一絵が「尾瀬ケ原の植生―尾瀬ケ原湿原植生の生態学研究」(国立公園協会、昭和45年)また別冊として「尾瀬ヶ原湿原植生図」4枚を刊行する。
1971 昭和46年 88 1月、「明治の山旅」を「創元社」より刊行する。
1月、「武蔵野50巻1号」に「観光公害と自然界の破壊」を寄稿する。
    
同号に前島康彦が「武田久吉会長記念会の記」を寄稿する
3月、「路傍の石仏」を「第一法規出版」より刊行。
まえがき (部分)
 日に月に自然が失われていく都市を離れ、郊外に出て田舎道を歩いてみて、ことのほか嬉しいことは、田んぼに植えてある稲にせよ、畑に作ってある野菜にせよ、どれもこれも、規則正しく、整然と並んでいて、その光景が、私たちの目を楽しませてくれることである。それに加えて、村から村への主要道路沿いに、昔から立っているいろいろな石塔や石像が、景色に味わいをつけてくれる。例を挙げると、二十三夜塔、錫杖をついた地蔵尊、頭に馬面をかぶった馬頭観世音、こわい顔の青面金剛を刻んだ庚申塔などもあるかと思えば、なごやかな姿の男女像を彫りつけてある道祖神、(略)以上のほか、普遍的でないものまで数え上げれば驚くべき多種多様に上るが、これはおそらく外国には類例が少ないことで、まったく日本独特と申すべきであるまいか。
(略)
 それをまた、近年は、道路改修工事があるたびに、平凡な一片の石塊と同様にあつかって、無造作にとりかたづけたり、はなはだしい場合には破壊してしまったりすることがあって、これらの文化史上貴重なものの価値を知らぬ、現代人の無智をなげかずにはいられない。
 都会が日ごとに殺風景になっていく今日このごろ、からくも郊外に残って、楽しい田園風景を構成するこれらの風景要素に興趣を覚え注意を喚起することは、郷土に対する認識を助長し、ひいては、国土愛護の精神を涵養し得ることにも通じるのである。
 敗戦につぐ
※1忿懣(ふんまん)、自失、混乱等々の悪条件は、大多数の国民を精神錯乱の状態に陥れ、せっかく永い年数と多大の努力によってきずき上げた昭代の文化も、壊滅に瀕する情況となり、その影響は、いまだに全く回復に至らない。したがって、日本らしさの影は、日を追って稀薄となるばかりである。そして戦時中の※2欺瞞(ぎまん)に満ちた指導者に対して無限の反感を抱くのあまり、国土を愛護すべきことをも忘却してしまい、その上、さきの日の無軌道官僚や無鉄砲軍人どもの私有物でないことをも忘れがちである。。私たちは私たちの国土を、私たちの手で保護し、私たちの手で耕作し、私たちの手をもって美化しなければならないはずである。それには、私たちの国土を詳しく知ることが第一に重要なのである。
 少年であった明治時代以来、草や木の姿を追って、国内諸方、わけても関東、中部から東北地方の田舎道を、そこはかとなく歩く機会の多かった私に、上記の事物の研究の道が、幾十年か前に開かれたのは、日本での民俗学の鼻祖といわれる、辱知柳田国男先生の示唆によるものにほかならない。やがてこの方面の研究の面白さに引き入れられた私は、半世紀に近い年月の間に、諸方の農村を訪い、村民の信仰生活にふれるに及んで、彼等の信仰対象にも興味を覚え、片手間にその方面の研究に手を染めるようになった。しかしながら、これを真剣に行うのは、なかなか容易な業ではないとともに、各地における同好の士の援助を請う必要も起る。
(略)
 
(民間伝承の学について、)私のごとには、正確な資料の把握に重点をおかなければ不安につきまとわれるので、いつも実地について検討する主義であり、そのため、多大な時間と労力を要するのにくらべて仕事はなかなかはかばかしく進まないし、また華々しい成果を得がたいのは残念である。一方近来の社会情勢は、旧来の習俗の湮滅に加速度を加え、一日の遷延は一月ないし一年の損失にも該当することもないとはいわれない。また他方において、過去の文献の喪失も、日を追ってはなばなしくなる。(略)
 本書を完結するにあたって、かつては私の探訪に同行しその後も引きつづいて資料の蒐集に援助を惜しまれない、山梨県東山梨郡旧加納岩村の友人中沢厚君の好意を謝するとともに、戦前数年にわたって神奈川県諸郡内の道祖神の形状とその祭祀の実況調査に行を共にし、のち戦禍のために身罷(みまか)れた、同県松田町神山(こうやま)の友人北村公佐(きんすけ)君の霊に感謝を捧げたい。
      
一九七〇年 晩秋  八十八叟 武田久吉  謹識
    忿懣(ふんまん):腹が立っていらいらすること    欺瞞(ぎまん):あざむくこと。だますこと。
    目  次
 項 目 写真掲載数  写真の種類




立石と民間信仰 11 巳待供養塔(1)・二十三夜塔他(1)・馬頭観音(2)・如意輪観音・聖観音(1)他・道祖神(1)・后神(1)・天社神(1)・大黒天(2)
道祖神のある所 庚申塔他(1)・道祖神、陽石(1)・道祖神、金勢様(1)・道租神(2)・道祖神場(1)・小正月と道祖神(2)
岐神と賽ノ神 写真(0)
出雲路と笠島の道祖神 石碑(1)・神石(1)・道祖神への報賽物(2)・道租神社の社殿(1)
道祖神の古い碑石 長野県内の道祖神(3)
天然石の道祖神 16 陽石の道祖神(3)・自然石の道祖神(3)・台石が道標(1)・金勢石(1)・天然石の道祖神(6)天然陽石の道祖神(1)
丸石の道祖神 山梨丸石道祖神(3) 神奈川丸石道祖神(1) 長野丸石道祖神(1) 
江戸初期の道租神像(寛文ー元文) 28 寛文(6)・貞享(1)・元禄(5)・年号なし(1)・正徳(4)・享保(6)・元文(5)
江戸中期の道租神像一(寛保ー宝暦) 35 寛保(8)・延享(5)・寛延(7)・宝暦(13)・年号なし(1)・年号表示なし(1)
        中沢厚氏撮影再掲(1)
江戸中期の道租神像二(明和ー享和) 37 明和(8)・安永(5)・天明(3)・寛政(15)・年号なし(1)・年号表示なし(1)・享和(3)
江戸後期の道租神像一(文化ー天保) 44 文化(12)・文政(15)・天保(17)
江戸後期の道租神像二(弘化ー慶応 24 弘化裏表面の組写真(2)・弘化(5)・嘉永(6)・安政(2)・万延(1)・文久(5)・元治(1)・慶応(2)
明治以後の道祖神像 明治(9)
単身の道祖神像 22 南多摩郡(1)・静岡(14)・神奈川(5)・山梨(1)・群馬(1)
             
中沢厚氏撮影再掲(1)  伊豆型道祖神再掲(10)
文字の道祖神 長野(1)




庚申塔 掲載写真(0)
庚申の信仰 掲載写真(0)
庚申堂縁起 掲載写真(0)
日本三庚申 掲載写真(0)
入谷の喜宝院 掲載写真(0)
庚申塔と祭祀 掲載写真(0)
庚申塔の建立 小田原市上曾我中河原(1)・文京区駒込蓬莱町(1)
徳川期以前の庚申塔 板碑型部分元亀四年(1)・板碑型長享(1)  板碑型大永(1) 板碑型天文(1)         再掲平野実原図(1)
江戸初期の庚申塔 15 東京(10)・埼玉(2)・山梨(1)・栃木(2) 再掲 同所部分写真(3)
二臂と四臂の青面金剛 18 山梨(7)・長野(8)・神奈川(2)・静岡(1)    中沢厚氏撮影再掲(5)
六臂の青面金剛 東筑摩郡波田村・南巨摩郡中富町・本所正円寺境内・巣鴨真性寺境内・大塚護国寺境内
合掌の青面金剛 22 長野(11)・新潟(1)・東京(2)・山梨(1)・神奈川(2)・群馬(5)
道祖神との習合 葛飾八幡社(1)・西秦野窪ノ庭上(1)・西秦野窪ノ庭下(1)・秦野市乳牛(1)
庚申塔と阿弥陀如来 渋谷の金王八幡神社境内と聞く(1)・北区滝野川正受院境内
初稿「民族文化 第二巻第五号」 庚申雑記(13) 雑記では「庚申と阿弥陀佛」
題目のある三猿塔 掲載写真(0)
初稿は「民族文化 第二巻第六号」 庚申雑記(13) 雑記では「題目ある三猿塔」
大日如来と庚申塔 浅草公園(1)
初稿は「民族文化 第二巻第六号」 、庚申雑記(14)
観世音象の庚申塔 掲載写真(0)
庚申塔と猿田彦 一猿の庚申塔/小田原市下「曾我山岸(1)
庚申塔の猿 淀橋成子坂(1)・東八代郡(1)・日光市(2)・松本市(2)・小田原市片浦(1)・足柄上郡(1)・江ノ島奥津宮下(1) 中沢厚氏撮影再掲(1)
初稿は「民族文化 第六号」 庚申雑記(7)
猿の牝牡 新宿区牛込築土八幡社境内(1)・深川富岡八幡境内(1)
初稿は「民族文化 第八号」 庚申雑記(8)
庚申塔の施主 掲載写真(0)
初稿は「民族文化 第八号」 庚申雑記(9)
庚申塔と山王 掲載写真(0)、
初稿は「民族文化 第二巻第三号」 庚申雑記(11)
梵字の庚申塔 南魚沼郡五日町(1)・足柄上郡山北町(1)
初稿は稿は「民族文化 第二巻第十号」 、庚申雑記(18)
地蔵尊と庚申塔 西八代郡三珠町(1)・足立区千住慈眼寺境内(1)・北区赤羽宝幢院境内(1)
初稿は「民族文化 第二巻第二号」 庚申雑記(10)庚申雑記では「庚申塔と地蔵尊」
地蔵尊 秩父郡野上町(1)・東京染井墓地入口(1)
六観音および牛頭観音 馬頭観音(3)・如意輪観音(2)・準胝観音(1)・二十二夜=如意輪観音(1)・牛頭観音(2)
  あとがき(全文) 
 半世紀に近い日子を費やして、関東や中部地方などに旅した折に、多少の余暇を割いて路傍の石仏や石神の類を観察し、その種々相を眺めて多彩なのに驚き、レンズを向け、記録をとり、同好の友と研究を進めて、楽しい時を過ごした思い出は山ほどある。多年に及ぶ時日を費やして掻き集めた資料は、けっして少ないものではない。今その若干を一本にまとめて、世のl向学の士に奨めることのできるのは、私にとってこれに如く喜びはない。そして、それは出版社の手塚力氏の好意ある慫慂に基づくものであることを思えば、同氏に甚大な感謝を捧げなければならない。一方、それらの碑石を造立した人々の目的や意義は種々雑多であろう。それに刻まれた神仏の像は、実在のものを目に見て描写したのではないのであるから、いわば架空に基づいたものであるが、それにしても、いかにもそれらしいと誰しもが思うような姿に造られてあるのは仏心によるものででもあろうか。衆生はただそれに頼り、それに縋り、称名を唱え、経文を誦すれば、自らの行為の正邪、曲直を問わずして、なお救済されるものと思い込み、とかく他力本願に陥りやすく、自らを反省することなくしてただお題目を唱えて安心すること、戦時中の指導者階級の行為を想起させる。民間信仰の研究は、第三者の立場からこれを眺めてあるいは興じ、あるいは嘲笑していたのでは価値がなかろう。その研究に立脚して、民心の機微を窺い知り、それを適宜に利用して、民衆を善導する資料としなければ、意味がなかろう。結局は徒労に帰するよりはほかあるまいと思われる。おの一言を最後として本書を終る。
        ※「庚申雑記」の内容を基調としながらも、震災や戦災による損傷の事なども書き添えられています。 保坂記
庚申雑記No 発行年月 巻号No タイトル名 路傍の石仏 記事 pid
(一) 1940・7 3号 青面金剛の腕 - -
(二) 相模の古い庚申塔 - -
(三) 1940・8 4号 東京の古い庚申塔 - -
(四) 1940・9 5号 八阪の庚申堂 - -
(五) 擧母の庚申堂 - -
(六) 桃を持つ猿の庚申塔 - -
(七) 1940・10 6号 庚申塔の猿 庚申塔の猿 -
(八) 1940・12 8号 猿の牝牡 猿の牝牡 -
(九) 石塔の施主 石塔の施主 -
(十) 1941・2 2巻2号 庚申塔と地蔵尊 地蔵尊と庚申塔 -
(十一) 1941・3 2巻3号 庚申塔と山王 庚申塔と山王 -
(十二) 1941・4 2巻4号 庚申と道祖神 道祖神との習合 -
(十三) 1941・5 2巻5号 庚申と阿弥陀仏 庚申と阿弥陀如来 -
(十三) 1941・6 2巻6号 題目のある三猿塔 題目のある三猿塔 -
(十四) 大日如来と庚申塔 大日如来と庚申塔 -
(十六) - -  - - -
(十七) - -  - - -
(十八) 1941・10 2巻10号 梵字の庚申塔 梵字の庚申塔 -
    注意:庚申雑記(十五)〜(十七)についての記述はありませんでした。7〜9月号で確認済 2014・2・5 保坂
3月26日付、中沢厚から博士宛てに書簡が送られる。
「路傍の石」到着した事の御礼と「山梨におい出下さいませんか、私もここのところ娘の結婚やら何やらで家を離れておりません。」とお誘いの内容。また、旧八田村長谷寺境内の六地蔵・旧平等村上岩下夕狩沢入口の石室写真の二枚を同封する。 注 長谷寺境内の六地蔵は、セイノカミかと思われるので 現地調査要 2017・6・22 保坂
月、「植物春秋 第10巻第4号 通巻110号」に「ビロードウツギに見た異変について」を寄稿する。
4月、社団法人日本山岳ガイド協会が社団法人日本アルパイン・ガイド協会として設立される。

4月、「『定本柳田国男集』月報35号」に「柳田先生と私」を寄稿する。
5月、「アルプ 159号 深田久弥遺稿・増大号」に「
奥上州と上越境上の山を訪う」を寄稿する。
5月
、伊馬春部が芸能学会編「芸能 13巻5号通巻147号」に「武田久吉著「路傍の石仏」」を寄稿する。
6月、「明治の山旅」を「創文社」より刊行する。
7月8日付、「日本経済新聞」に、「格調高い山の日誌」と題した「明治の山旅」が紹介される。
 格調高い山の日誌 武田久吉著 明治の山旅 (全文)
 ろくな登山道具もない明治のころから、山を愛し自然の中を歩き回っていた人もいた。植物学者として、陸上植物の分類と調査に大きな功績を残した武田久吉もその一人。本書は高山植物の調査のために山々をたづね回った歩行日誌である。。/明治十六年から明治四十五年まで、箱根、日光から、八ヶ岳、戸隠山、尾瀬、富士山、大菩薩峠、白馬岳、御岳などをめぐり、北海道のシコタン島にまで足をのばす。今では車でも行き来しているところばかりだが、当時は、素朴で大いなる自然がそのままの姿で残っていたことがわかる。たとえば明治三十八年の尾瀬。「千古斧鉞(ふえつ)を知らぬ原生林・・・・昼なお暗く・・・・物淋(さび)しい密林であった。」明治の人だけに筆は古めかしいが、一方で格調の高いかおりが漂っている。昔語りではあるが、すでに過去のものになった景勝地の記録としても貴重なものだろう。高山植物についても詳しく書かれており、山道で会った農家の人たちとの心の触れ合いも、読んでいて楽しい。(創文社・1500円)                      (日本経済新聞 1971年7月8日朝刊) アルプNo163 P30 より
7月21日御池ロッヂよりヘリコプターで平ヶ岳の三角点附近に着陸する。
     「(私は)
山上を歩き回って、景色を賞するとともに、気になるのは草木である。ことに花満開の
     ケナシハクサンシャクナゲや、雌雄の花を着けたハイマツなどが見当たると、これを見逃すことは
     できない
。・・・・」と記述する遺稿 −山上の水蘇湿原未来記−より
(8月1日、大石武一環境庁長官、4日間の尾瀬視察を行う。) 
 日時について再検討要
7月30日朝、大石長官等は利根郡老神温泉→鳩待峠→お花畑→至仏山→山の鼻小屋(泊)→尾瀬ヶ原→渡し船→長蔵小屋→桧枝岐村国民宿舎(泊)→三平峠(工事現場を視察)→一ノ瀬茶店(休憩)→・・
8月3日、大石長官、閣議の席で尾瀬の視察を報告、「自動車道路の建設は自然を破壊するので認められない」と述べる。   
大石武一著 「尾瀬までの道」より
8月7日付、朝日新聞は「尾瀬の自然を破壊から守る会」が東京で結成されたことを報道する。
本田正次は東京虎ノ門の電気ビルで開かれた結成大会で「尾瀬は世界的な宝だ。これを失うのは日本の恥だ。道路を造り、車がどんどん入れば荒らされることは目に見えている。尾瀬を守ろうという運動は昭和の初めから続いている。日本の自然保護は尾瀬から発したものだ。その意味でも絶対に尾瀬を潰してはならない。」と述べる。
8月21日、「尾瀬の自然を守る会」が発足する。
8月22日、武田博士を囲んで「霧の旅会」が千石原の「竹友山荘」に集う。
(略)先生を囲んでの霧の旅会は、最近は毎年箱根の山荘で行われましたが、昨年も八月二十二日に、松本熊次郎君のお骨折りで、千石原にメキシコ風に新築された「竹友山荘」で集まりました。メンバーは、先生の外に、松本善二、神谷恭、松本熊次郎、牧野衛、田口三郎助、原田幹市、小林幹三郎、神奈川甚吉、鶴岡元之助、吹原不二雄、野口未延、足立源一郎画伯、それに私の十四人でした。先生を中心に懇談したのでしたが、思いなしか廊下を歩む先生の足もとが、大部弱られたように見えました。もっとも此の日集まった人の平均年齢が七十歳というのでは無理もないと思われました。(略)  あしなか 武田久吉先生追悼号 山崎金次郎著「霧の旅の頃」より
8月、芸能学会編「芸能 13巻8号通巻150号」に「文化庁文化財保護部監修「天然記念物事典」」を寄稿する。
8月、「月刊文化財 No95号 
P28〜31」に「諏訪の霧ヶ峰」を寄稿する。
 
 その頃使用されていた藻類採集瓶
チリモの研究明治時代には、大勢の熱心家が、腕によりをかけ足を擂粉木にして、国内の東西南北にわたり、植物の採集に従事した効果があって、新種や新品が毎月のように報告されたので、顕花植物や歯朶(しだ)の類は申すに及ばず、隠花植物でも菌類や海藻類は、かなり詳しく調査が進んだが、同じ藻類でも、淡水の方は、カワモズク属のような肉眼的の種類を除けば、珪藻以外はあまり顧みられなかったのはぜひもない。/もっとも、北海道の蓴菜(じゅんさい)沼産のチリモ科が、英国のRoy(ローイ)氏によって、明治十九年に発表されたことはあっても、だれも見向きもしなかったようである。それにしても、明治三十三年八月に、大野直枝氏が、帝国植物公園内の水槽に発生したチリモの一種「コウガイチリモ(新称)」を『新撰日本植物図説』の下等隠花類部第四十三図に図説されたのは、特筆に値するかと思われる。/それでも大正にはいった頃
には、チリモの研究に指を染める驚志家も現れて、まれながらそちこちの湖沼から、チリモの類が、報告されたが、わけても、上諏訪の裏山ともいうべき霧ヶ峰の八島ヶ池には、珍品希種が多数に産するという噂が、この類の研究を多年専門とする英国のウエスト教授に手ほどきを受けて、帰朝早々の私の耳にはいったので、早速にも、一遊を試みてみようということになった。(以下、「八島ヶ池を訪う」に続く、省略)
8月、「自然保護 No111 日本自然保護協会」に「嘆く三平峠」を寄稿する。
9月、「アルプ 163号」に「北海道の山名と地名小記」を寄稿する。
11月、「武蔵野第50巻3・4号 特集”武蔵野”の回顧と展望」に、巻頭「「武蔵野」五十周年を言ほぎて・エゴノキ小記」を寄稿する。

11月、「奥武蔵 河田髓ヌ悼号 142号 奥武蔵研究会」に「河田骭Nの憶い出」を寄稿する。
12月1日、平野長晴、豪雪の三平峠で遭難死。36歳
12月、「アルプ 166号」に「尾瀬の秋色と変貌した桧枝岐」を寄稿する。
○この年、大雪山が保護すべき天然保護区域として天然記念物に指定される。
1972 昭和47年 89
1月、「国立科学博物館,東京博物館 国立科学博物館」が「自然科学と博物館39(1/2)・押葉の功罪 」を寄稿する。
2月、「アルプ 168号」に「失われゆく自然 馬と馬車 −尾瀬の三平峠問題−」を寄稿する。
月、「自然保護 No119 日本自然保護協会」に「東京の蝶蛾」を寄稿する。
4月、「アルプ 170号」に「我が庭の木と草」を寄稿する。
冒頭の部分から
 私の育った家の庭には昔から色々の樹木や花卉があったので、自然その影響もあって、幼少の頃から、見様見真似で、草花を植えたが、明治時代には、近所の不動院の縁日に行くと、夜店の最後のあたりに植木屋の出店があって丈余の大木や鉢植えの草木が並んで居るので、珍しそうなものを物色して買って来て愛玩したものだが、その頃では能くドクゼリに何か不思議な名をつけて、紅白の花が咲くような看板を立てて売っていたり、ヒガンバナの球根を赤インキで染めて、その上、竹串で左右上下に連ねて、天下一の珍品らしく見せかけて、顧客の目を歎いたものであったから、時にはとんでもないまやかし物をつかませられて、大人に笑われたこともあった。趣味程度では満足出来ず、ついに植物学を専門的に考究する身となって、隠花、顕花両類の分類から解剖、形態学に亙り、数々の論文を発表して得意になっていたが、とかくむずかしい議論を上下する故か、読んでくれる人が少ないので、今度は少し河岸をかえて、いろいろな草木の特徴や名義などをやさしく筆にして見ようかと考えてみた。
(略)  「我が庭の木と草」より
4月、「季刊 植物と文化 第四号(八坂書房)」に「野草とその生態」を寄稿する。
4月13日、和歌山県白浜町、熊野三所神社境内の社叢林と火雨塚古墳が県指定天然記念物となる。
5月、三田博雄が「岳人 5月号 No299」に「武田久吉論」を発表する。
5月、自宅にて、対談形式によるテレビの取材が行われ、「尾瀬≠ニの出会いと関わりあい”」を語る。
6月1日、「植物春秋 第11巻第6号」に「花一輪」を寄稿する。
6月、三田博雄が「岳人 6月号 No300」に「武田久吉論 <承前>」を発表する。
6月6日、
戸田市平等寺の庚申塔、銘文の判読に時をついやす。

注 筆跡は編集者ですのでご注意を
庚申塔上の銘 武田久吉(全文)
 人間誰しも一生を安楽に暮したいと願うのは当然であり、その上に死後の世界があるとすれば、其処でも安楽に過し度いとうのは論を俟たない。その願望を達するには、庚申の信仰が一つの手だと説かれれば、それではと、その仲間に加わるであろう。そしてその首尊を供養する為に、庚申塔を建立し、それに何の目的で建てたかを記入すれば、目的が達せられると思うのは当然であろう。それ故、多くの場合、二世安楽之爲也という文句が見当ることになる。拙者『路傍の石仏』一八三頁以下に、長短種々の実例を挙げておいたが、十余年前、戸田市下笹目で見た庚申塔の中に、中々長文が刻んだものがあって、碑面に微か地衣のようなものがついていたり、石面に欠損があって、解説できずに居たものを、近頃興味の起ったまま、復も試みて見た結果を報告することとする。
 今度久し振りでカピネ版に申して文字を見易くしたのは、根木ノ橋の近くに建てられた、宝暦一四年二月建立のもので、この場所は、金子弘氏の『戸田の庚申塔』によると圃中公園と呼ぶのだそうだが、清水長輝氏の『庚申塔の研究』によると、ただ戸田町下笹目(根木橋)とだけあって写真は掲げてない。銘は同所一二〇頁に解読してあるが、塔の右側の分かは、「奉造立青面金剛一躯爲
村安穏  宝暦十四年二月 吉祥日」で石面の通りであるが、左側の分は、石面のものをそのままでなく分割したような順序になって、青面金剛と続けてあるが今、茲では、石面通りの字配りに書くことにした。(左図)右の第一行に等輩とあるべきが等翼とあったり、他に二・三の誤字があるようで、判読必ずしも
容易でない。 (附記の項は省略)(編集部・文責:小花波)  ○ガリ版刷りのため判読困難 2014・9・18 保坂
※2 「三輪善之助 武田久吉先生を偲ぶ」から
(略)
世間の民族信仰の学者の中に、自ら現地に行きて調査すること少なく、多くは個人の研究調査に基いて説を成す者もあるが、先生はすべて自身が現地に現物を,実査せられているから、その所説は絶対に正確である。/後進の若い学者は、何卒先生にならって、必ず現地に現物を実査することを、勧められたいのである。
※3 「清水長明 武田先生と庚申塔」から

(略)「民族文化」に「庚申雑記」を連載されはじめたのは、昭和一五年のことである。この連載に掲載のの写真のうち都内のものはこの頃の撮影と思われる。令嬢をつれられて都内の庚申塔を訪ねられたようである。
 令嬢が夏休みの日記?に「父と庚申に行く」というようなことを、たびたびかかれたので、学校の先生が「庚申とはなにか」といぶかられたという話を先生からきいたことがある。(略
、石造物の判読について)、先生の銘文判読は、一字もおろそかにせず徹底していたゴム粘土で銘文を埋め静かにはぎとり持参の鏡に写してみるという方法は先生独特のものであった。ゴム粘土をデパートに買いに行かれると「女店員が孫への土産とでも思ったのか、多のセットをすすめるので弱った。」と苦笑して語られたことがあった。鏡は10×8センチぐらいの卓上におくものを携行された。日陰の銘文はこの鏡で反射光線をあてて読まれた。(略)昭和四十六年ごろからいくらか、足が不自由になられたようだが、令嬢運転の車でしばしば、庚申塔をみに行かれたという。なくなる前日も戸田市の平等寺附近に出かけられ、庚申塔を撮影され、銘文の判続に時をついやされた。「庚申」二二号に掲載された「戸田町笹目附近の庚申塔」を再訪されたものであろう。当日、フラッシュの発火が悪く「もい一度こなくては。」と洩らされたという。日ざしがよい条件になるまで、何時間でも待ちよい写真が出来るまで、何度でも足を運ぶというのが、先生のやり方であった。 八十九才の死の前日まで、庚申の探訪をたのしまれたことは、私にとってなににもまして、感慨深いことなのである。
             
 「「庚申」第65号 武田久吉先生追悼号」より
6月7日、21時18分逓信病院にて他界、日光浄光寺に分骨(5年後)される。
                      菩提寺:港区三田4丁目妙荘山薬王寺
7月10日、「山 No325 」に「平(ひら)ケ岳瞥見記(遺稿) 山上の水蘚湿原未来記」が寄稿される。
       また、同号に藤島敏男が「武田久吉博士のことども」を寄稿する。
7月、「民間伝承 第36巻第2号」に「武田久吉先生逝去」の訃報記事が掲載される。pid/2237558
7月、「季刊 植物と文化 第五号(八坂書房)」に「高山植物の知識」を寄稿される。
7月、村井米子が「植物と自然」に「武田久吉先生と山の花の思い出」を寄稿する。
7月、「自然保護 No122 日本自然保護協会」に「平ヶ岳瞥見記」を寄稿される。
         −山上の水蘇温泉未来記−の手書原稿 横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))566−8 所収 
7月、「月刊文化財 / 文化庁文化財部 監修」に「懐古の尾瀬」を寄稿される。
  
  月刊 文化財7月号
    所蔵 服部植物研究所
懐古の尾瀬  武田久吉
 尾瀬を自然の環境破壊から守ろうとする運動は、現地のみではなく、東京でもいろいろな会合が催されて、保護派の人々の気勢が高くあがり、これはすばらしい傾向だと、昔から自然保護に尽瘁している私など、大いに喜んでいる。一方半世紀以上も前に、尾瀬の風光の秀抜なことを世に紹介した責任を感じることひと通りではないが、さりとて、風致破壊を平然と行なうような低俗な輩(ともがら)の尻を、やれ行けそれ行けと押した覚えはさらにないし、尾瀬ヶ原を、貯水池として水没させる計画には真っ向から反対しつづけている。昭和五年八月に、東京神田の梓書房から刊行した小著『尾瀬と鬼怒沼』の巻頭(四六ページ)には、「尾瀬が啻(ただ)に植物学的に貴重な地であるというのみでなく、未だ嘗て他で見ない風景地であることであった。勿論その頃の私の経験浅薄なものであったのだが、その後二十数年間の絶えざる山地への旅行によって見聞を広めた今日でも、尾瀬の右に出る地を思い浮かべることが出来ない。」若し類例を覓めると
したなら日光であろうが、その当時の日光だとて、今日の尾瀬には遥かに及ばない。まして自然的にも亦人為的にも破壊の厄に遭った現在の日光は、何の事はない風景の抜け殻見たようなものであるから、尾瀬と同時に談ず可きものではない。冀(こいねがわ)くば今後五十年百年の後に至っても、尾瀬をして『抜け殻』たらしめざらんことを。」と結んでおいた。私は明治二十九年依頼、日光の昔の景を逐年目にしていて、始めて尾瀬を訪うた明治三十八年までに、十か年の変遷を詳(つまび)らかにしている。あの交通の不便きわまりない時代に、何で私が僻陬(へきすう)の地尾瀬への旅を敢行したかといえば、その頃草木の採集と乾せき標品の調整にいわば夢中になっていたので、明治三十六年一月の『植物学雑誌』第百九十一号に、早田(はやた)文蔵氏(当時東大理学部植物学科学生、後の教授)が投じた一文『南会津竝ニ其ノ附近の植物』によると、尾瀬沼の近くには、そこと北海道以外に知られてない植物(たとえばヤナギトラノオ、エゾセキショウ、ナガバノモウセンゴケ等)が見られるというので、それらを採集しようというのが、主な目的であったのだが、早田氏の文中に、「風景愛スベシ」と述べてはあるが、あれほど多種多様な風景要素が整然たる調和をもって集まっていようとは、想像することもできなかった。 それゆえその明治三十九年の春四月に発兌された『山岳』第一年第一号に、紀行の大略を揚げ、その地の風光の凡ならざる点を述べたのにより、当時第一流の風景画家であった大下藤次郎氏が翌々年三名の弟子を従えて、その地に数か月にわたる写生旅行を企て、その結果を、主宰する『みづゑ』第四十四(明治四十一年十一月十八日臨時増刊)に揚げた、氏が尾瀬沼に近い林内の仮小屋から道なき道を藪漕ぎして、尾瀬ヶ原に達した感想を、尾瀬ヶ原へ出た時は、暫時口もきけなかった。活きて甲斐ある事をつくづく感じた、風景画家として、かかる天然に接する事の出来た身の幸福を心から感謝した、ア丶此の大景、この美観、吾輩はこの刹那の感を忘れぬであろう」と筆にして
   












   早や夏となりました。皆様には御気嫌よくお過ごしのことと存じます。
亡き主人存命中は、大層お世話になりまして厚く御礼申し上げます。
故人は、高山植物の宝庫であり、類い稀なる風光に恵まれた尾瀬をこよなく愛
しておりました。
ここに載せていただきました懐古の尾瀬≠ヘ、故人の尾瀬に関する原稿の最
後のものになりました。
御覧いただきまして、美しい尾瀬と共に故人を偲んでいただけましたら幸いで
ございます。
    昭和四十七年七月  
                                妻   直 子               
  奥様が「月刊 文化財」と共に感謝の込められた手紙
いる。(略)第二回目の尾瀬行きは、大正十三年の植物調査の時で、同行は北大の館脇農学士と、山岳会員の山口工学士で、燧ヶ岳、至仏山を初め、会津駒ケ岳をも上下したが、這摺山、菖蒲平、と裏林道を逸した憾みがあった。その後多年にわたり幾回となく尾瀬を訪ねた結果、オゼとは尾瀬ヶ原のような湿原を指す詞であることが判明したので、原の方がオゼの本体であることを主張することができる。 
         
 写真撮影 筆者  (たけだ ひさよし・遺稿)
7月、「アルプ 173号」に「遺稿 マレイの日本案内書に載る甲斐ヶ根」を寄稿される。
             手書原稿 横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))566−23 所収
8月、「あしなか 第133輯」に、「武田久吉先生逝去」の訃報記事が掲載される












庭内には2000種を越える都心の植物の宝庫、富士見町の武田家入口 47年8月撮影
      「武蔵野」 第51巻3号  昭和47年10月 武田先生追悼号 グラビア写真より引用    
8月、松本善二・田中薫が、山と渓谷 407号」に「武田久吉博士を悼む」を寄稿する。pid/7934105
9月、川崎吉蔵が、「山と渓谷 408号」に「読者応募 おちこちの人(76)武田久吉」を寄稿する。
9月、岡茂雄が「アルプ 175号」に「霧ヶ峰「山の会」」を寄稿する。

9月、「季刊 植物と文化 第六号(八坂書房)」に「高山植物の生態(遺稿)」が寄稿される。
10月、「武蔵野51巻3号」に「万葉(七)こうぞ(遺稿)」と「武田久吉先生追悼号」が特集される。
武田久吉先生の精神的基盤 小寺駿吉
武田博士を偲ぶ 本田正次
武田先生と尾瀬 金井利彦 「尾瀬ヶ原の諸問題」についての記述を述べる。
武田先生を偲んで 大槻信次
石仏の影に故会長への追憶 山田英二
武田先生の教え 小坂立夫
武田先生追憶 前島康彦
11月、「民間伝承 36巻3号」に「挨拶用語のことから」を寄稿される。
    また、同号に中平解が「武田先生のこと(追悼随想)」を寄稿する。
12月、「庚申 第26号 庚申懇話会」に「武田久吉先生追悼号」が特集される。
  
   庚申 第26号
   発行 庚申懇話会
※1 庚申塔の銘(武田先生遺稿)) 武田久吉
※2武田久吉先生を偲ぶ 三輪善之助
武田博士を偲ぶ 窪 徳忠
武田久吉先生の業績 小花波平六
※3 武田先生と庚申塔 清水長明
武田久吉先生の思出 横田甲一
思い出の中の武田久吉先生 芦田正次郎
吉田富夫氏を偲んで 石川博司
草津の庚申塔 岩科小一郎
∪のある庚申塔 鈴木正夫
12月、「アルプ 178号」に「高山植物とその異常分布」を寄稿される。
遺書のようにも読み取れた博士の言葉(P61より  タイトルは保坂が記しました、 2014・8・27)
 高山植物の垂直分布等のことを記された後/(略)北海道のシレトコ岬付近では、海岸の崖壁をシコタンハコベ、エゾイワベンケイ、レブンコザクラなどが飾っている。その他ミヤマハンノキやタカネナナカマドが崖上に見つかるのである。火山活動の結果植生が破壊されると、山麓の存外低い地に高山植物が侵入することもある。例えば明治二十一年に磐梯山が爆裂して、今謂う裏磐梯の植生が潰滅し、幾年かの後に新しい植生が進出するに当り、高山植物の一種であるミヤマハンノキが低地に侵入したが、従来、山麓の気候に適するアカマツやカエデの類やトチノキ等の樹木が繁茂するにつれて、ミヤマハンノキは近頃気奄々たる状態となり、僅少の株が余喘を保つに過ぎない。一方、裏磐梯の植生恢復に当って、隣の猫魔火山の一部を占めるミズナラの林に適量の果実が稔らなかったかして、その侵入の機会がなかったと見えて、当然在って然るべき地域にミズナラの姿を見ないのは、その侵入に何ぞ障碍があったに相違いないと思われるのである。
 以上述べたような事情によって、高山植物も、異常な分布を見せることがあるから、その辺のことを承知して、誤った観察に引に入れられぬように注意することが大切である。わけても、北地でいろいろ観察する場合には、十分の注意が望ましいのである
○47年度、日本山岳会主催の「第11回この一本展」に於いて「武田久吉著作展」が開かれる。
○この年、「○ 」に「ハイマツの生態」を寄稿する。
1973 昭和48年
3月、春日俊郎が「山 JAC No333」に「武田久吉著作展 出品目録A」を表わす。
3月、大森義憲が「民間伝承 37巻1号 通巻297号近況ハガキ通信(一)」に
    「武田久吉氏の道祖神」を寄稿する。
賀春 橋浦さんや武田久吉氏が入峡して、山の村を歩いた頃を想起いたしてをりまます。今度、武田久吉氏の道祖神の写真集を入手して楽しく見ております。
6月、三田博雄が「岩波新書 山の思想史」を「岩波書店」から刊行する。
8月、「あしなか 第138輯」に「<武田久吉先生追悼>」号が特集される。
    武田先生書簡
武田久吉先生略歴
ありし日の武田先生
丸石の道祖神(遣稿)の原稿
   
  山中共古著 『甲斐の落葉』より
    中沢厚 昭和五十年九月復刻
丸石の道祖神(遣稿・部分)
 不用意な登山家にさへ容易に目につく程、塩山町の附近には、丸石の道祖神が沢山ある。駅で汽車を待つのに退屈したら、近くの横町とか裏通などを歩いて見れば、この町の中でも二三箇所は苦もなく見つかるに相違ない。わけても立派なものは、駅から称々離れて徒歩で約十分もかゝるが、字若宮に在るもので、二段に積んだ台石の上に、セメントで固定された丸石には、周囲二米一三糎もある。字壽町のものは、無造作に置かれた大小の石片に囲まれて、十幾個かの丸石が雑然と積んである。(略丸石は多くの場合自然石であって、大抵は笛吹川その他の磧で見付けたものであるが、若し天然のものが得られない時には、人工を以て刻んだものがある。韮崎の在の旭村字山口のものゝ如きはその代表的なもので、昭和三年十一月にこの村の青年団が御即位記念として建立した処も面白い。古いところでは竜王新町にも見たが、これは文政年間の作であって、周囲が一米五八糎もある大きなもので、『甲斐の落葉』にも略図が載ってゐる。その他では富士嶽麓の河口にもあり、周囲一米〇二糎を算するのだから、竜王のには及ばない。
地名と植物−『民俗と植物』    
再燃の尾瀬ヶ原貯水池問題 
長蔵翁の思い出      
柳田先生と私       

尾瀬と共に生きた先生   
道祖神の発見者      
博士の色紙    
『農村の年中行事』    
茨木画伯のスケッチ帖から  
『君子の過ち』 
すぱらしい善人  
博士が褒めた二人  
幼き日の思い出  
父の客山     
祖父を失った思い 
叱られっ放し   
霧の旅の頃山 
明治は遠く  
丹沢の父    
武田さんの言葉 
蛇腹のあるカメラ  
書斎の雑談    
武田久吉先生著書目録 
『博物之友』と『山岳』ー雑誌記事目録ー
武田久吉
武田久吉
武田久吉
武田久吉
加納一郎
小花波平六
伊藤堅吉
倉田正邦
岩科小一郎
古沢肇
吉田武三
羽賀正太郎
胡桃沢友男
岸猛男
土橋進一
杉本誠
崎金次郎
戸田謙介
坂本光雄
高須茂
小野洸
岩科小一郎
小野幸編
編輯室
・山岡書店刊)より23・山岡書店刊)より
(昭和15年9月 山と渓谷 63号)より



















 12月、中沢厚、「山中笑翁略伝」を「甲斐路 第24号」に寄稿する
1974 昭和49年 1月、「あしなか 第140輯」に「鏡餅(遺稿)」が掲載される。
1975 昭和50年 4月、「あしなか 第145輯」に関原都代が「足手まといのお供 −武田先生の思い出−」を寄稿する。
9月10日、中沢厚が、山中笑(共古)著「甲斐の落葉」を「有峰書店」から再刊する。
中沢厚(再刊)「甲斐の落葉」の「おわりに」から
 
私が山中共古と甲斐の落葉をしったのは、昭和十四年か十五年のことである。民俗調査の味を覚えたばかりの或る日、東京九段の武田久吉博士の書斎で、初めて「甲斐の落葉」を見せてもらった。一見してその魅力にうたれ、教えられた神田の山岡書店に寄り、これを求めて帰ったのである。ところが、その「落葉」を手にとって父がつくづくいうには「お前はよい本を買って来たな、この山中先生はお前のお祖父さんに受洗してくださった牧師さんだよ」と教えてくれた。その夜は父が、この書を話さず読んでいたことを覚えている。(略)
1976 昭和51年 8月23日、秋山郷山村生産用具1057点が国重要有形民俗文化財に指定される。
8月、「あしなか 第150輯」に「採集帳より −桧枝岐年中行事・長野県平穏村沓野年中行事ー」が掲載される。
桧枝岐年中行事
長野県平穏村沓野年中行事
昭和16年10月、星団吉さんからの聞き取り
昭和16年5月、黒岩角太郎さんからの聞き取り
10月12日〜「萩原延壽著 遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」が「朝日新聞」に連載される。
○この年、「現代日本紀行文学全集(6) ほるぷ出版」に「尾瀬・北相の一角」が掲載される。
1977 昭和52年    
3月、「あしなか 山村民俗の会 第152輯」に「正月行事採集帳 武田久吉聞書」が特集される。
聞書は昭和16年から20年の間に、東京都・神奈川県・山梨県・新潟県・長野県・福島県を歩かれた採集手帳からなり全文がメモ風に書かれています。解説文によれば「・・・慎重というか、細かいというか、模範とすべき着眼である。通読して、重複が目立という人もあろう。が、十例集めて一例を使う、それが民俗学である。」とあり、かつての博士が藻類分類学者として出発していたことを彷彿とさせる貴重な資料となっています。
3月15日、大雪山が天然保護区域として、特別天然記念物に指定される。
5月25日、栃木県日光市浄光寺に分骨する。
8月10日、北川博敏(香川大助教授(現香川短期大学名誉学長))が朝日新聞のコラム「研究ノート」に「武田博士とウエスト博士」を寄稿する。
6月30日 本山桂川著、「日本民俗圖誌 第一巻(祭礼・祭祀篇)」が村田書店から再刊される。
9月30日 本山桂川著、「日本民俗圖誌 第二巻(行事・婚姻篇)」が村田書店から再刊される。
10月、廣瀬弘幸・山岸高旺編集「日本淡水藻図鑑」が「内田老鶴圃新社」から刊行され、「日本淡水藻の分類学的研究略史」の中で武田博士のことを紹介する
参考 「日本淡水藻の分類学的研究略史」から 「1911年から1920まで」の項(一部)
(略)
植物生態学者として知られている中野治房(1912、1919)が当時は緑藻やプランクトンについて報告を出している。また、わが国の陸水学の鼻祖である川村多実治(1918)は日本淡水生物学を出版したが、その中には淡水藻も扱われている。この面の参考書としては最初であったために後年まで重宝された。ついでながら、本書の復刻に加えて、川村の門弟たちにより補足加筆されて、同じ書名で出版(上野益三、1973)されている。日比野信一(1915)、三好学(1915、1929)らによる Chromulina rosanoffii ヒカリモの研究もこの頃である。武田久吉はイギリスで当時の高名な藻類学者G,S,West や F,E,Fritschの指導をうけ淡水藻の研究を始め、緑藻類の新種 Dysmorphococcus デスモルフォコックス属の記載(1916a)のほか、いろいろの報文(1916、1916b)を発表している。しかし、日本に戻ってから霧ヶ峰湿原の鼓藻類(1917)を報告して依頼、藻類についての研究報告に接しないのは誠に惜しむべきことであった。後年は山岳家として、また、高山植物の研究家として著名であった。(略)
○この年、「毎日新聞」より「豪華風景写真集 尾瀬日光」が刊行される。
   寄稿者奥村土牛・戸塚文子・堀正一・中坪礼治・朝比奈正二郎・武田久吉
1978 昭和53年 6月、「あしなか 第157輯」に「武田久吉博士の八ヶ岳登山・陽記覚書」が掲載される。
    明治38年の夏休み八ヶ岳でタカネシダを発見した時の様子を記述
     同山では父アーネストサトウが明治12・3年ごろムシトリスミレを発見している
。 
9月、武田久吉・牧野富太郎・亘理俊次著「植物談義 科学随筆文庫23」が「学生社」より刊行される。
 
 植物談義 学生社
登山春夏秋冬 登山と植物 昭和13年10月
山人の寝言 登山と植物 昭和13年10月
高山のもみじ 登山と植物 昭和13年10月
深山の珍味 登山と植物 昭和13年10月
新緑の色と香 登山と植物 昭和13年10月
野菜と山菜 民俗と植物 昭和23年9月
高嶺の花 コマクサ(47) クロユリ(50) 高嶺の花 昭和31年7月
誤訳談義 学燈 昭和35年2月
9月、小林義雄が、「植物研究雑誌53巻9号」に「武田久吉博士を懐う」を寄稿する。  
1979 昭和54年
○この年、岡茂雄が「アルプ 二三五?号」に「武田(久吉)先生 み霊の行方」を寄稿する。
○この年、岡茂雄が「アルプ 二六三号」に「尾瀬・平野家・武田博士」」を寄稿する。 
          岡茂雄著 新編炉辺山話より 263号を再確認済 2016・5・15 保坂
1980 昭和55年 1月、京谷秀夫・宮崎利厚が「神奈川新聞社」から「神奈川の道祖神(上)・(下)」を刊行する。
4月、曽根原駿吉郎編「信州の石仏」に「道祖神のおわす道」が掲載される。
6月、丸石神調査グループ(著者代表 中沢厚)が、「木耳社」から「丸石神 −庶民のなかに生きる神のかたち−」を刊行する。
カラー・グラビア撮影 山梨の丸石神・道租神祭・南紀の丸石神
遠山孝之
神宿る卵形の星 石子順造
丸石神について
御嶽道の丸石神 玉・魂・霊
笛吹谷の丸石神 丸石分布と伝説
甲州丸石道祖神概観 南紀に探る丸石神
屋敷神その他の丸石 丸石形成の謎
さやります道祖の神々 結晶球体説
道祖神祭 丸石神の不思議な世界
丸石神論
中沢 厚
丸石の教え 石の民俗誌へ
石の記号論から
非文化の形

中沢新一
神のかたち
石子順造と丸石神 日本人の視覚身体性と丸石神
小島福次
石を選ぶ直感 石子順造
英文要旨
編集後記 堀 慎吉
資料写真 武田久吉・中沢厚・小島福次・大矢好子
1981 昭和56年 3月、法政大学 市ヶ谷キャンパシ内に「アーネスト・サトウゆかりの屋敷跡」の石碑が建立される。

 この地に明治開國の立役者であ
り日本近代化の恩人である英
國人アーネスト・サトウゆかりの一
隅であって、その夫人武田兼のた
めに購入した旗本屋敷跡である。
ここは英國公使館に近く、その後
息である植物斈者武田久吉博
士が引續いて居住されていたところ
である。サトウ公使は一八四三年
ロンドンに生れ日本語通譯官とし
て、江戸に赴任し、ひろくアジア各地
に英國の外交使節として活躍し
その著「外交慣行入門」は東西外
交官の指針とされている。また日本
研究数十篇に及び欧州における
日本学研究の先覺者である
本學は同公使の功績を讃え、そ
の庭園跡にこれを銘記する

 一九八一年三月 法政大学
1982 昭和57年 3月23日、大森義憲が「中央線 第二十一号 中央線社」に「結社と詩形」を寄稿する。
○この年、岡茂雄が「アルプ 二九一号」に「石南花狂懺悔」を寄稿する。
1983 昭和58年 3月胡桃沢友男が、「日本石仏協会 日本の石仏」に「高嶺の花から路傍の石仏へ(一) −評伝武田久吉−」を発表する。
10月、「羽生市ムジナモ保存会(会長:小宮定志)」が発足する。
1984 昭和59年
3月、胡桃沢友男が、「日本石仏協会 日本の石仏」に「高嶺の花から路傍の石仏へ(二) −評伝武田久吉−」を発表する。
1985 昭和60年
3月、佐野賢治が「歴史公論 山の民俗特集」に「山の神の託宣儀礼」を発表する。
3月、大東急記念文庫編「かがみ 25号」に「アーネストサトウ蒐集の古版本」が掲載される。
6月、胡桃沢友男が、「日本石仏協会 日本の石仏」に「武田久吉博士の相模の道祖神調査」を発表する。
9月、
胡桃沢友男が、「日本石仏協会 日本の石仏」に「武田久吉博士の伊豆の道祖神調査」を発表する。
11月1日付、「横浜開港資料館館報 開港のひろば 第13号」に「館長対談」が掲載される。
  〜アーネスト・サトウの孫〜 武田澄江さん・林静枝さん御姉妹を迎えて 対談者  武田澄江・林静枝・吉良芳恵・館長
1986 昭和61年  ・ 8月、長沢武著「北アルプス白馬連峰 : その歴史と民俗」に「武田久吉のプロフィル」が掲載される。pid/9540204
〇この年、星一彰が「水草研会報25 p11〜12」に「尾瀬沼のコカナダモについて」を発表する。
 
 阿武隈川のオオカナダモ(左)と尾瀬沼のコカナダモ(ヒダリ)
〇尾瀬沼の環境 尾瀬沼は、現在、沼尻川の流失口がコンクリート水門によってとざされ、導水口からトンネルによって群馬県片品川に水が流されている。そのため夏には約1m水位が上昇し、冬には約2m水位が下降しており、その水位差は約3mにも達する。この環境変化がコカナダモの分布拡大を助長していると思考される。「切れ藻」によるfree-floatiingなどが四方八方に拡大し、雪圧によって押しつけられ、確実に定着することになる。沼周辺の山小屋よりの生活雑排水は、すべて沼に流入しており、そのため沼の富栄養化などが心配されている。沼の富栄養化も、コカナダモの分布拡大を助長していると思考される。沼従来の水生植物の中で、特にその生活習慣の似ているセンニンモ、ヒロハノエビモな
どは、現在その姿を殆んど認めることができない。そのくわしい推移については、今後の調査研究によらなければならない。 「図3・湖畔に打上げられたコカナダモ(1883・9・15・)」と記された写真も所収する。
1987 昭和62年 4月、布川欣一が「山と渓谷 621号 p160〜161」に「連載 「山岳名著の風景」(4)武田久吉「尾瀬と鬼怒沼」を寄稿する。  pid/7934336
1988 昭和63年 12月、中沢厚氏著 『石にやどるもの 甲斐の石神と石仏』が「平凡社」から復刊され、 序を歴史学者の網野善彦氏、解説(野生のエレガンス)を中沢新一が記述する。
1989 平成元年 5月、中沢新一が、「せりか書房」から「蜜の流れる博士」を出版、「野生のエレガンス」を所収する。 
1990 平成2年
1991 平成3年
1992 平成4年 11月、北村茂が、「北村公佐遺稿集」の中で、「武田博士の相模の道祖神調査 胡桃沢友男」や北村公佐との共著「相模足柄上郡の道祖神と小正月の行事」等を掲載する。
1993 平成5年 12月13日、「野沢温泉の道祖神祭り」が国重要無形民俗文化財に指定される。
1994 平成6年 1月、「(秋の)尾瀬」が「ふるさと文学館 第11巻 【群馬】 ぎょうせい」に掲載される。
    (秋の)は旧題が「秋の尾瀬」だったため、後世に混乱が生じないよう(秋の)を付け加えました。2013・9・10 保坂記
7月22日付、朝日新聞(夕)に「尾瀬沼の取水やめて」と題した見出しで、日本自然保護協会の尾瀬保護小委員会(水野憲一委員長)が「尾瀬の自然保護と利用のあり方」について報告する。
 
              →上段へ
(→下段より)の影響で受水量を上回る雪解け水などが流れ込む夏は、沼の水位が約一b上昇、逆に渇水期の冬は取水で最大二bも水位が下るようになったと指摘している。東京電力によると、年間の取水量は平均一千万d。発電量は、一般家庭一万軒の一年間の使用量にあたるという。同小委員会の星一彰・福島県自然保護協会長は「尾瀬沼はダムの役割をさせられている」と語る。報告書と星さんの説明では、沼尻川源流部は沼の水位が水門を超えないと流れなくなり、よどもによる汚濁が確認されたという。また、沼尻川から尾瀬ヶ原(湿原)への水の供給が減り、湿原の乾燥化を進めている可能性が高い。乾燥化したところに増えるヤマドリゼンマイが、尾瀬ヶ原を流れる沼尻川に沿って群生しているという。さらに、沼の水位変化で、沼周辺の木が水びたしになって枯れたり、水面で咲くヒツジグサなどの水生植物が水没したりしているという。














1995 平成7年 2月、「鳳凰山と鳳凰沙参」が「ふるさと文学館 第23巻 【山梨】 ぎょうせい」に掲載される。 
8月3日、尾瀬保護財団が設立される。
1996 平成8年 11月、福島県南会津郡桧枝岐村(東雲地区公民館)に「武田文庫」がオープンする。
(略)これは、先述の土橋進一氏が、生前、武田久吉から譲られた直接原稿、著書、カメラなど数千点を同村に寄付したことにより、とりあえず東雲地区の公民館の一室に展示されたものであるが、平成十一年五月完成予定の「ミニ尾瀬公園」の中に建設中の公園管理棟に「武田久吉博士メモリアルホール」がつくられ、そこに展示、公開される運びとなっている。同ホールの展示品として「武田文庫」の所蔵品に加え、日本山岳会が長野県大町市の山岳博物館に委託していた武田久吉の登山用具のほか、武田家からも資料の提供を受けることになっている。(略)(野村みつる) 「H10・9 丹沢 山ものがたり P35・36」より
1997 平成9年 8月、「日本の名山 丹沢(別巻1) 博品館」に「丹沢山」が掲載される。
10月、「日本の名山 高尾(別巻2) 博品館」に「○ 」が掲載される。(掲載の内容を検討中)
1998 平成10年 1月、岡茂雄著、「新編炉辺山話」が「平凡社ライブラリー231」として刊行される。
1月、小泉武栄が「山の自然学 岩波新書 541」の中の「U部 湿原と自然保護」の中で武田久吉博士のことを記述する。
3月、只見町史編さん委員会編「尾瀬と只見川電源開発(只見町史資料集)」が「福島県只見町」から刊行される。
月29日〜10月25日まで、横浜開港資料館に於いて「アーネスト・サトウその時代と生涯」展が開かれる
 この企画展は、1から16項目に亘って展示が行われ、15項目に「武田久吉ー植物学・日本山岳会・尾瀬」、16項目に「武田久吉をめぐるひとびと」と題した特別展示がなされました。
9月、「秦野市」が「丹沢 山ものがたり」を刊行する。
10月、武田博士が「別冊太陽 日本のこころ103号 人はなぜ山に登るか 日本山岳人物誌」に紹介される。
    
    昭和36年7月14日、尾瀬・三平峠下での武田久吉(当時78才 )
1999 平成11年 2月、「平凡社」が「平凡社ライブラリー 279 明治の山旅」を刊行する。
  
   明治の山旅
   
発行 平凡社
 はしがき (全文)
 人生五十にして天命を知る。この知命の年に達した以上、たいていの人は、未来よりも、過去の方が長くなる。私が山の花とかかわりあいの出来たのは、前世紀の末葉、一八九五年八月、小学校の上級生の頃である。爾来今日まで、花の姿を尋ねて、大小の山峯を上下すること七十有余年。したがって、語るにしても、筆にするにしても、過去の事柄しかない。その間に、我が国内凡百の山岳は、幾多の遊戯登山大衆の脚下に踏み躙
(にじ)られ、糅て加えて、観光公害の犠牲となり、昔日には到る所で見られた汚されない自然美は、日に日にと希薄となって、今やそれはなかなか求むべくもないと言ったらば、誇張であろうか。
 
明治時代に、天来無垢の山岳に接した当時の喜びと楽しみを、「国立公園」紙上に披露すること、約二ヶ年に及んだ。今それに多少の筆を加え、一方、必須以外の写真を省いて、ささやかな一書として、読書子に見えることになったのは、国立公園協会幹部諸彦と、創元社々主並
びに社員諸氏の好意にもとづくもので、それに対して満腔の謝意を表するに吝でない。そして、このような昔語りに興味を感じる方々の一粲(いっさん)を博するを得ば、幸いこれにすぎない。(なお、写真は友人撮影のもの以外は著者の拙作)
  昭和四十六年早春    八十八叟 著者 勤識

この書は、昭和46年創文社から刊行された「明治の山旅」が低本となっています。解説は杉本誠が「著者の全容を知る稀な本」と題し書き記しました
明治16年ー明治33年 明治生まれ (タイトル名なし) 国立公園  No 221 昭和43年4月
箱根と伊香保 国立公園  No 221 昭和43年4月
妙義山 国立公園  No 221 昭和43年4月
日光 国立公園  No 222 昭和43年5月
日光ー第二回目の訪問 国立公園  No 222 昭和43年5月
牧野先生と「清澄苔忍」 出典不明調査要2016・6・13  昭和 年 月
明治34年ー明治37年 女貌山の再探 出典不明調査要2016・6・13  昭和 年 月
高尾山 出典不明調査要2016・6・13  昭和 年 月
筑波山を訪う 出典不明調査要2016・6・13  昭和 年 月
太郎山に登る 出典不明調査要2016・6・13 昭和 年 月
箱根山を越える 出典不明調査要2016・6・13  昭和 年 月
植物と採集 出典不明調査要2016・6・13  昭和 年 月
清澄山 出典不明調査要2016・6・13  昭和 年 月
八ヶ岳 国立公園  No 224 昭和43年7月
甲斐駒   (合併号) 国立公園  No 225・226 昭和43 年8・9月
戸隠山(前半)・戸隠山(後半)と妙高山  国立公園  No 227・228 昭和43年10・11月
白根登山 出典不明調査要2016・6・13 昭和 年 月
明治38年 日光から尾瀬へ (連載) 国立公園  No 229・233・234 昭和44年(前12)・4・5月
富士山を跨ぐ (連載)  国立公園  No 235・236 昭和44年6・7月
甲斐の権現岳 (合併号) 国立公園  No 237・238 昭和44年9月
白馬ヶ岳  (連載)  国立公園  No 239・240・241 昭和44年10・11・12月
塔ノ岳 国立公園  No 242 昭和45年1月
岩戸山に登る 国立公園  No 244 昭和45年3月
明治39年 天城山と箱根 国立公園  No 244 昭和45年3月
大菩薩峠の魅惑 国立公園  No 244 昭和45年3月
初夏の日光山 国立公園  No 245 昭和45年4月
札幌と手稲山 国立公園  No 245 昭和45年4月
諏訪湖と昇仙峡付近、差出ノ磯 国立公園  No 245 昭和45年4月
再び富士山に登る 国立公園  No 246 昭和45年5月
鳳凰山と鳳凰沙参 国立公園  No 246 昭和45年5月
蛭ヶ岳を志す 国立公園  No 247 昭和45年6月
明治45年ー明治45年 甲斐駒・白崩山・異同論 (連載) 国立公園  No 247・248 昭和45年6・7月
北海道内の採集旅行 (合併号) 国立公園  No 249・250 昭和45年8・9月
シコタン島とシャコタン山 国立公園  No 251 昭和45年10月
8月、「講談社」が「民俗と植物」を刊行する。
 
   民俗と植物
   
発行 講談社
 この書は、昭和23年山岡書店より刊行された「民俗と植物」が低本となり、杉本誠による「植物学と民俗学の見事な融合」と云う題名で解説欄が付け加わえられています。
資料 解説 ー植物学と民俗学の見事な融合  杉本誠 (上・中略)
 先生の没後、写真展や写真集に収録の必要が起きて、膨大な量の原板に目を通したことがあるが、その時にフィルムの端に、撮影年月日、場所、データなどが極細字で記入してあるのを発見した。これは何よりありがたかった。
 山岳写真史の研究は原板探しから始まる。ほとんどの場合、説明はなく、プリントしてから謎説きのように撮影時期や場所をさまざまな方法で探り出していくしかない。武田先生の記入は、まさか亡くなった後に、このようなことが起こると想定されたわけではあるまいが、結果として最も正確な写真説明をつけて作品が発表できたことになる。

 
このように書いてくると、武田先生を近寄り難たい頑固者に思われてしまいそうだ
が、決してそうではない。本書の中にも意識してかどうか分からないが、思わずクスリとさせる文章が随所にちりばめられている。
 昭和の始め頃、尾瀬の小屋で見当をつけ兼ねる草の芽を食べさせられ、名は「藤吉郎」と言う。理由を聞いたら「木の下」に生える草だから、と答える話などまるで落語の小話のようだ。
 先生を知る多くの人たちが、武田邸訪問を喜び、その文章を愛読したのは、会話と文の間に隔てが無く、正しさを正さとして譲らぬ潔さに魅せられたのではなかろうか。私は武田邸で先生からじかに聞く思いに浸りつつ本書を読み終えた。            (元「岳人」編集長・山岳写真史研究者)
注 作品年表/の記述の後に 「※山岡書店版には「朝鮮の火田民」という小論が収められてあるが、現在の状況や本書の全体の構成に合わないので、著作権者の了解を得て削除した。」と、ありましたが年譜では当時の状況を知ることのできる学術的に価値の高い資料として掲載を致しました。後世に誤解を生じないよう記述をしておきます。     2017・5・29  保坂
○この年、「武田久吉メモリアルホール」がミニ尾瀬公園インフォメーションセンター内の二階に開設される。
2000 平成12年
2001 平成13年 11月23日、自然塾丹沢ドン会主催による「環境保全丹沢シンポジューム」に於いて、「丹沢の先駆者武田久吉博士と丹沢を語る」と題し、漆原峻(91才)と奥野幸道がパネリストとなり講演を行う。
12月、「図説 アーネスト・サトウ −幕末維新のイギリス外交官−が「有隣堂」から刊行される。
○この年、清水長明が「日本の石仏 100号記念特集 石仏研究の現在」に「道祖神塔 探訪・研究のあしあと」を発表する。
2002 平成14年 6月、「尾瀬の父(武田久吉) −武田久吉の亡くなった日−」 
    2002・6・7NTV「おもいっきりテレビ きょうは何の日=vにて放映される。
2003 平成15年 3月、横浜開港資料館/中武香奈美が「横浜開港資料館紀要 第二一号」で「武田家旧蔵アーネスト・サトウ関係資料 (1)」を発表する。
2004 平成16年 3月、横浜開港資料館/中武香奈美が「横浜開港資料館紀要 第二二号」で「武田家旧蔵アーネスト・サトウ関係資料 (2)」を発表する。
7月、奥野幸道が「有隣堂」から「丹沢今昔 山と沢に魅せられて」を刊行する。
2005 平成17年 1月、土橋進一が「尾瀬回想 尾瀬≠ニの出会いと関わりあい”」を刊行する。
    序 近藤信行 遺稿「平ヶ岳瞥見記 −山上の水蘇湿原未来記−」が納められる。

「尾瀬勝景絵葉書」より 撮影武田久吉 発行 長蔵小屋(作成年不詳)
「尾瀬・回想」対談集より(部分P)
記者/僕等もその類に入るんですが、その肝心な所と云うポイントのような所は、どういう処なのでしょうか。
武田/
それは矢張り現地に行かなければ説明できない。
記者/今の事、尾瀬の素晴らしさと関連するんですけれど。
武田/
例えば、浮島が沢山あるでしょう。あの浮島だって未だに成因がはっきりしない。僕は大体つかんで判っているが。それから、今お話したように、ああ云う湿原は樺太辺りに行けば沢山在ります。でも皆、平地で、周りを山で囲まれている湿原なんかは、そうざらには無い。その為に山から流れて下って来た沢の水は湿原の平らなところを通るでしょう。そこに又、竜宮などと云
う妙なものが出来たりね。そこらに竜宮の写真無かったかな?
土橋/御座いました。
武田/
それが、僕が大正十三年に行ったときの写真だ。ここで急に五メートルぐらいの深さになってしまう。そして泥炭層の下を潜って、こっちに流れ出すんだ。その下流に又、こんな所がある。三條の瀑は、正確な高さは判らないんだね。学研で尾瀬の映画を作りに行った時、冒険したんだね。体にロープをいわきつけてね、瀑の上に行って、ロープに錘を付けて、下してみたが、綱が切れちゃっているんだって、百メートル位でね。だから凡そ百メートルくらいと云う事になっている。
土橋/三條の瀑は、水量といい、落差といい、日本唯一、最高の瀑だと。それこそ、客観的になれず、主観的になってしまいますけれど。
武田/(笑いながら)
兎に角ね、水煙が上に上って来て、陽が当たるとあそこに虹が出る。あれが又うまい具合に西南に向いている。だから午後の陽が当ると虹が出るんですよ。これが平滑の滝・・・・。
記者/今の素晴らしさと関連するのですけれども、先生は植物の学者として、永年いらっしゃって居るのですけれど、尾瀬の植物だけでなく、森林を含めて植物と人間とを考えますと、人間にとって植物が、どれほど必要かと云う事を、お話し戴こうかなと思っているのですが。
武田/それは近頃の世の中の問題になっているね。人間と共に植物が無ければ人間も生きていかれない。もう二十年でおしまい等と云っているお坊さんがあったね、この間。僕の家に色んな樹が植わっている。それ等が、皆、酸素を供給して呉れるから、僕はこの年齢になっても生きていられるんだ。

 「三條の瀑」 同絵葉書より
   (注意)本文中に絵葉書2枚は掲載されていませんでしたが、内容を分かり易くするため引用しました。2013・10・5保坂記
11月23日、群馬県立尾瀬高等学校において「武田久吉先生尾瀬入山100年記念講演会」が開催される。主 催:奥利根自然センター・尾瀬を守る会・後 援:日本自然保護協会
         ビデオにて武田博士が尾瀬を訪れた時の様子を放映。
2006 平成18年 3月、横浜開港資料館/中武香奈美が「横浜開港資料館紀要 第二四号」で「武田家旧蔵アーネスト・サトウ関係資料 (3)」を発表する
○この年、杉本誠が「山岳 101号」に「長老と共にある日々 −高野鷹蔵、武田久吉、冠松次郎−」を発表する。
〇この年、 山本鎔子・林卓志・落合正広・福原晴夫・大高明史 ・野原精一 ・福井学・菊地義昭(尾瀬アカシボ研究グループ)が「陸水学雑誌(Japanese Journal of Limnology)67 p 209〜 217」に「尾瀬ヶ原のアカシボ現象に関する研究 −赤雪の垂直分布と藻類との関わり−」を発表する。
2007 平成19年 5月、(財)尾瀬保護財団が「はるかな尾瀬」を創刊、内海廣重が「武田先生のお供して」を所収する。
12月1日、朝日新聞に連載された「遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄」の作者、故萩原延寿さんの取材ノートや生原稿等、約1500件が横浜開港資料館に寄贈される。(2007・12・2付・朝日新聞)
12月23日、日本消防会館に於て「尾瀬国立公園記念式典「尾瀬から地球環境へのメッセージ」」が開かれる。
第T部〜みんなで考える尾瀬と自然環境〜
開会 司会(NHK アナウンサー)
主催者あいさつ尾瀬国立公園記念事業実行委員会委員長  大澤 正明(群馬県知事)
共催者あいさつ 環境省 
尾瀬国立公園ロゴマーク  表彰式  尾瀬国立公園記念事業実行委員会委員  佐藤 雄平(福島県知事)他より伝達
あいさつ 尾瀬国立公園記念事業実行委員会委員  泉田 裕彦(新潟県知事) 
特別講演  東京大学名誉教授 養老 孟司 氏 演題「自然環境を肌で学ぶ」
記念講演  ラムサールセンター事務局長 中村 玲子 氏 演題「ラムサール条約の尾瀬」 
記念講演 九州大学大学院理学研究院教授 赤木 右 氏 演題「湿原から考える地球・人間環境」
第U部〜みんなで楽しむ・尾瀬と地域文化〜
尾瀬周辺地域の伝統芸能
 群馬県片品村の芸能  尾瀬太鼓 和太鼓組曲「尾瀬の四季」より(尾瀬太鼓愛好会)
 新潟県魚沼市の芸能  舞踊「こまか広大寺(市無形民俗文化財)」、舞踊「魚沼はねおけさ」(守門郷土芸能保存会)
 福島県檜枝岐村の芸能檜枝岐歌舞伎「一之谷嫩いちのたにふたば軍記ぐんき 須磨す ま浦うらの段」(千葉之家花駒座)
 尚、ロビーにおいて、尾瀬国立公園記念事業実行委員会構成団体による展示が行われた。
2008 平成20年 4月、萩原延寿著、「離日 遠い崖 ーアーネスト・サトウ日記抄14ー」が「朝日新聞出版」から刊行される。
2009 平成21年
2010 平成22年
2011 平成23年 月1日、文京区光源寺「庚申待百万遍講中庚申塔」が文京区有形民俗文化財に指定される。
12月18日〜翌年3月31日迄、県立日光自然博物館に於いて「地元史観からのE・サトウ 主催:中宮祠自治会/中宮祠・中禅寺百年を語る会」が開かれる。
2012 平成24年 3月、野原精一が「低温科学 70 p 9〜20」に「尾瀬の自然環境の概要」を発表する。
10月17日、金子靖夫が、「アーネスト.サトウと武田久吉」について講演する。
    
主催:長野県山岳協会・日本山岳文化学会・日本ヒマラヤ協会   場所:長野県山岳総合センター
2013 平成25年 3月12日、金子靖夫が、「アーネスト.サトウと武田久吉」について講演する。
   「」を発表する。 
主催:大町山岳博物館友の会  場所:長野県大町市大町公民館文室学習室
10月19日〜12月5日、小田原文学館に於いて「アルプスに挑んだ小田原の登山家 辻村伊助」展が開催される。
○この年、湯口康雄が、「山岳 108号」に「武田久吉の書簡をめぐって ー吉澤庄作との交流ー」を発表する。
2014 平成26年 6月、「写真記録 富士山」が「日本ブックエース」から再刊される。
    底本 『日本地理大系別巻 富士山 昭和6年9月、改造社発行』
8月26日、「週刊朝日 9月5日号」に「子孫が語る秘話と秘宝 アーネスト・サトウ」が掲載される。
2015 平成27年 3月、加藤隆志が「相模原市立博物館研究報告 第23集 2015」に「武田久吉博士収集の御札類について」を発表する。
2016 平成28年 3月、小堀光夫が「昔話伝説研究 (35) p1−9」に「理科系の伝説研究 −武田久吉「大磯の虎御石」をめぐって−」を発表する。
6月21日、「旧英国大使館別荘」のオープンを前に、地元中宮祠自治会が「地域の記憶展」に使用された資料を再プリントし全戸に配布する。
7月1日、中禅寺湖畔の旧英国大使館別荘が、「英国大使館別荘記念公園」としてオープンする。
  
旧英国大使館別荘内に、父アーネスト・サトウと武田久吉親子とのコーナーが特設される。
9月21日、保坂健次が、「(仮)久吉少年のたのしい動物園」の紙芝居を作成する。
2017 平成29年 4月29日〜7月9日、日光自然博物館に於いて「武田久吉展」が開催される。
5月20日、英国大使館別荘記念公園事業が日本造園学会全国大会に於いて平成28年度日本造園学会田村剛賞を受賞する。
 
 旧英国大使館別荘
平成28年度日本造園学会田村剛賞の受賞理由
栃木県は、寄贈を受けた旧英国大使館別荘を、国際避暑地の歴史を受け継ぐ施設として、当時の建材の再利用や石積み三段テラスの復元など丁寧な手法と創意工夫により創建当時の姿に復元すると共に、開園後は訪日外国人を含む多くの来訪者に「国際避暑地歴史を体感できる新たな風景」の提供に取り組んでいる。
 これらの取組が自然公園の整備の分野における優れた業績であり、当該分野の進歩、発展等に対し顕著な功績として認められた。

12月15日、NHK「歴史秘話ヒストリア 日本人と山」の番組に、林静枝さまがご出演される。
      槍ヶ岳を開創した播隆(ばんりゅう)上人とアーネスト・サトウ、武田久吉博士のことなど
2018 平成30年 6月22日(東京会場)、野原精一が国立環境研究所主催「公開シンポジウム2018「水から考える環境のこれから」」において「遥かな尾瀬の水環境史 -湿原環境モニタリングと将来-」と題し講演する。 神戸会場:6月15日
(略)一方尾瀬沼の外来種の水生植物コカナダモの32年のモニタリングの結果、コカナダモの成長は植物自身による内的原因と気象・水質・底質の環境変化や藻類の繁茂等の外的原因によるものが見られました。猛暑の夏の2010年にはコカナダモ群落が殆ど消滅し、水草帯が無植生になりました。ところが2016〜2017年には以前と同程度に群落が復活しました。わずかな植物体から完全復活に要した時間はきわめて短期間でした。自然湖沼・湿原では長期的な野外調査や不断の監視を怠らず、環境要因との総合的な解析がたいへん重要です。  国立環境研究所HP(転写)より
10月20日〜12月6日、 栃木県立博物館で「ジョージ・ルイスと武田久吉展」が開催される。
12月、井戸桂子が「駒沢女子大学研究紀要 = The faculty journal of Komazawa Women's University (25) p.63-80」に「日光におけるアーネスト・サトウと武田久吉」を発表する。
2019 令和元年
2020 2年
2021 3年
2022 4年 . 5月、稲垣亜希乃(文.矢島慎一(写真)・星野ちいこ(イラスト)が「山と渓谷 5月号 p82〜p97」に「没後50年 武田久吉と日光・尾瀬」が特集される。
2023 5年 . .
2024 6年 . .
2025 7年 . .
2026 8年 . .
2027 9年 . .
2028 10年 . .
2029 11年 . .
2030 12年 . .
2031 13年 . .


(参考)発表の時期が不明な論文
○「庚申 49号○月号」に「日光昔むかし」を寄稿する。
○「私と尾瀬」武田久吉 24分 福原フィルム 日本山岳会・資料映像委員会 
○「春の白馬山」京大生の卒論の指導のため5月14日から18日にかけ白馬山麓で植生調査を行う。 続原色高山植物図鑑P84〜P92に記述あり
○熊本、宮崎の両県にまたがる市房山植物調査の実施時期
「高山植物今昔談(一)、(二)、(三)」   〇「日本の森林とその利用」
〇「山小屋の駄弁」、「富士越し龍と笠富士 −富岳に現れる雲の研究−

            年譜では敬称を略させて戴きました。御容赦の程お願い申し上げます。

11枚の写真から
 日本民俗学研究の夜明けは柳田国男が明治41年5月、宮崎県椎葉村を訪れた「後狩詞記」が最初と云われています。それから3年後の明治44年5月には牧口常三郎と山梨県の道志村を谷村から入り3泊4日の民俗調査を実施しています。そして大正7年8月、日本で最初の村落調査が津久井の内郷村で行われました。出迎えたのは内郷小学校の校長をしていた長谷川一郎先生と鈴木重光でした。
 後年、武田久吉はその鈴木重光に案内され津久井の村々を歩き「道祖神」を出版しました。
 「鈴木重光綴」の中の写真には武田久吉博士から「頂いたもの」との記載は特にありませんが、2頁後には「神奈川県郷土資料写真」集で掲載ができなかった写真も一緒に綴られてありました。
 道祖神信仰は、長い年月の中での仏教や神との習合・土俗的で複雑な信仰形態をとってきましたが、これほど地域に親しまれている神も少ないと思います。
 茶色の紙に鈴木重光の字で添え書きもありました。写真は後で外されたものか、なくなったり逆さに貼られているところもありましたが、そのままの形でWEB上に掲載をいたしました。なるほど武田久吉博士の本には沢山の写真が掲載されていますが、だがこうして掲載を「伏せてきた写真もあった」ことも事実なのです。発表に漕ぎつけるまでのそうした研究者としての立場、そして社会の世相のことなど、11枚の未公開写真は今それを語ろうとしているのです。 
                         11枚の写真の協力 相模原市立博物館


参考資料
原色日本高山植物図鑑 増訂版 武田久吉 昭和38年5月 保育社
日本山岳風土記 2 中央・南アルプス  昭和35年5月 宝文館
日本山岳風土記 3 富士とその周辺   昭和35年5月 宝文館 
日本山岳風土記 5 東北・北越の山々 昭和35年5月 宝文館
道祖神  武田久吉 昭和16年12月 アルス社
民俗  相模民俗学会 第34号
日本淡水藻図鑑 内田老鶴圃新社 1977・10 日本淡水藻の分類学的研究略史 山岸高旺
「武蔵野 武田久吉先生追悼号 第51巻3号」 昭和47年10月 武蔵野文化協会
「武蔵野  第50巻1号」 昭和46年1月 武蔵野文化協会
山の思想史  三田博雄  1973年6月 岩波新書 
武田久吉著作展 日本山岳会 近藤信行 第十一回この一本展 昭和四十七年度
遠い崖 −アーネスト・サトウ日記抄− 萩原延壽 朝日新聞社  1981・1第二刷
農村の年中行事 武田久吉 龍星閣  発行 昭和18年12月
日本の石仏  編集発行 日本石仏協会 発売 国書刊行会 
    評伝 武田久吉博士の伊豆の道祖神研究  胡桃沢友男 出典 社、時期不明 
日本の石仏 1985 NO・34 編集発行 日本石仏協会 発売 国書刊行会
    評伝 武田久吉博士の相模の道祖神研究  胡桃沢友男 
日本の石仏  発行 日本石仏協会 発売 国書刊行会
    連載 高嶺の花から路傍の石へ(一)、胡桃沢友男
日本の石仏 1984春 季刊第29号 発行 日本石仏協会 発売 国書刊行会
    連載 高嶺の花から路傍の石へ(二) 胡桃沢友男 
登山と植物 武田久吉 河出書房 昭和13年10月
民俗と植物 武田久吉 山岡書店 昭和23年9月
日本地理大系 別巻5 富士山 執筆及写真撮影 武田久吉・小林義秀  改造社 発行 昭和6年9月
    
注:年譜では写真撮影日の記述されているところのみを掲載しました。
横浜開港資料館紀要 第21〜24号 編集発行 横浜開港資料館 平成15年3月〜平成18年3月
   ー 武田家旧蔵アーネスト・サトウ関係目録(1)・(2)・(3) 中武 香奈美 ー
明治の山旅 武田久吉  平凡社 1999年2月15日
尾瀬と日光  武田久吉 山と渓谷社 昭和16年8月
山への足跡  武田久吉 二見書房 昭和45年9月
尾瀬までの道 大石武一 サンケイ出版 昭和57年3月
アンギンと釜神さまー秋山郷のくらしと民具ー 滝沢修一 国書刊行会 発行 1990年1月
柳宗悦・民芸・社会理論 竹中均 明石書房 発行 1999・12・10 初版第二刷
丹沢 山ものがたり 発行 秦野市 平成10年9月 
丹澤 編輯兼発行人 北村八郎 発行所 秦野山岳會 昭和13年2月15日 扉は昭和12年と表示
一外交官の見た明治維新(上・.下) アーネスト・サトウ 坂田精一訳 岩波書店 昭和35年10月5日第一刷
正月行事採集帳 武田久吉聞書 あしなか 第百五拾弐輯 山村民俗の会 発行 52年3月
日本山岳名著全集 6 あかね書房版 1970年7月 松井幹雄/霧の旅等
足柄乃文化第41号 山北町地方史研究会 2014年3月
   石井敬士著 山北を訪れた文人たち 武田久吉著の再録版 40年前の丹沢を語る(「山と渓谷」昭和26年春号より)
成東・東金食虫植物群落ガイド 山武市教育委員会 2011年3月18日 改訂
植物系統分類の基礎 山岸高旺 北隆館 昭和50年5月 2版
樺太演習林植物調査報告 昭和三年度学生植物調査班 発行 昭和五年六月
自然保護NGO 半世紀のあゆみ 日本自然保護協会五〇年誌上 1951〜1982 発行 新装版第1刷2002年12月
植物渡来考 白井光太郎 岡書院 発行者 岡茂雄 発行 昭和4年6月



ご協力者:林静枝・山岸高旺・大山栄子・加藤隆志・小林真美・小島瓔禮・杉本守・石原匠 
小島喜美男

機関:国立国会図書館・相模原市立橋本図書館・相模女子大学・(田名)半在家自治会
山梨県立文学館・横浜開港資料館・相模原市立博物館・秦野市立図書館・津久井郷土資料室
日本近代文学館・島田市立博物館・富士吉田市歴史民俗博物館・日本植物学会・大町山岳博物館
日本自然保護協会・日本山岳会・小田原市立図書館・山北町地方史研究会・茂原市立郷土資料館
首都大学東京牧野標本館・茨城県下妻市教育委員会・自然公園財団・大法輪閣
アクアワールド大洗・日本山岳協会・山梨県立図書館・日本山岳連盟・宇都宮大学附属図書館
山武市歴史民俗資料館・千葉県立中央博物館・鎌倉市立図書館・農研機構中央図書館
浅川伯教巧兄弟資料館・岐阜大学図書館・桧枝岐村教育委員会・市川三郷町立図書館
服部植物研究所・気象庁図書館・山村民俗の会・武田久吉メモリアルホール・北海道大学植物園
日光自然博物館・高知県立牧野植物園・練馬区立牧野記念庭園記念館・女子美術大学図書館
みなかみ町教育委員会・静岡大学図書館浜松分館・栃木県立博物館

古書店:えるく書房・天牛書店・森井商店・光風舎・かんたんむ・アルビフローラ・古書自然林
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ケルン書房・天地書房・今井商店・風流夢苑・古本寅の子文庫・弘南堂・国分書店
ほんのたまご・渡内書店・楽人館・書肆アモフル・市英堂書店・永森書店・ハナ書房

           
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