武田久吉博士からの写真
                       
    
 ー尾瀬の父、武田久吉博士の生涯ー 武田久吉博士の年譜(作成中)
   

 
         ー津久井の道祖神と鈴木重光ー  
2011.8.22 年譜に「山岳」「博物の友」等の関係記事を追加
2012・5・4 林家よりご提供された論文や資料を掲載
2012・8・16 年譜に「民俗と植物」「登山と植物」等の関係記事を追加
2013・4・9 「庚申 庚申懇話会」に寄稿した関連記事を追加
2013・7・17 昭和12年の項に拱手について」を追加する。
2013・7・24 「科学知識」(国会図書館所蔵)に寄稿した論文を追加
2013・8・29 「日本の自然美」についての資料を追加
2013・9・28 「日本地理大系 山岳篇」の記述を追加
2013・12・20 「櫻草のふるさと」と、関連する未公開原稿を追加
2014・1・13 私家本「植物及動物/日本の高山植物」から関連記事を追加
2014・2・21 「大法輪 農村の行事と俗信」を追加 
2014・4・5 「丹澤 秦野山岳会」(秦野市立図書館所蔵)に寄稿した関連記事を追加
2014・9・5 「アルプ 88〜93号 木暮君と私(一)〜(五)」の関連内容を追加
2014・9・20 明治38年尾瀬旅行スケッチ3枚を追加
2014・10・29 「日本高山植物写真図聚 壹・弐」から関連記事を追加
2014・11・7 「大雪山 北海道文化財シリーズ第七集」から関連事項を追加
2015・3・4 「吾妻火山群の植物景観」からの関連事項を追加 
2015・4・7 「国立公園・戦前編」内容を確認し資料を追加  
1
2015・5・28 妻・直子に宛てた「郵便はがき」の内容等を追加
2015.8.7 「月刊 文化財 第十号」の内容等を追加
2015・9・7 「路傍の石仏」の目次と「あとがき」の部分を追加
2015・9.18 明治31年、早田文蔵が尾瀬にて「ながばのもうせんごけ」発見を追加
2016・5・11 昭和45年3月の項に「山の神」信仰関連の内容を追加
2016・5・13 サブタイトル名を「尾瀬の父、武田久吉博士の生涯」に一部変更する。
2016・6・15 服部植物研究所より送られた「イトミズゴケ」に関する資料を追加
2017・3・26 「昭和九年十一月陸軍特別大演習竝地方行幸群馬縣記録」と関係記事を追加


 
 「道祖神」 昭和16年発行
 昭和16年12月、武田久吉博士はアルス社から「道祖神」を出版しました。武田久吉博士といえば高山植物学者や山岳家でもあり、また「尾瀬」を電源開発から守ったと云う自然保護者であることもあまりにも有名です。
 だが、意外と知られていないところでは、藻類学者としても名を馳せていたことです。イギリス留学中は高名な藻類学者G・S・WestやF・E・Fritschの指導を受け、帰国後は一早く長野県の霧が峰とその周辺の湿地に足を運んで淡水藻の研究を始めました。そして、その研究の成果を「山岳 11の3号」に「霧が峰と鎌ヶ池・八島ヶ池」と題して発表しました。またイギリスでは既に「Scourfieldia cordiformis,a new Chlamydomonad,Ann,Bot.30 」、
「Dysmorphococcus variabilis,gen,et sp.nov.ibid.30」
「On cartoria fritschii n.sp.ibid.30」の3篇を報告していました。
 昭和2年、3回目に訪れた「尾瀬の春」では、残雪に赤く染まる藻類「虹雪(こうせつ)」のこともさりげなく紹介しました。
 博士は、日本各地の山々を登り高山植物学者として昭和34年には「原色日本高山植物図鑑」を刊行しました。また植物調査の傍ら、その土地々に伝わる民俗や習俗のことなどについても調査を続け民俗学者としても名を馳せていました。
 今回、取りあげた「道祖神」はそうした研究の中で(※合間に)生まれた記録集で何時ごろかは分かりませんが津久井にも2回調査に訪れました。
 武田久吉博士は「道祖神」の構成法を先ず「形式別」に分類し次に検分した「場所」を明示し、それらにまつわる説明を加えました。その構成法はまるで植物図鑑を見ているかのように、例えば山梨県の道祖神は丸石系が圧倒的に多くなっていますが、ここでは10例だけを取り上げ、丸石の形、石祠内か外か、丸石の数など、それらを丹念に分類しその違いを明らかにしました。
 現在、津久井郷土資料室の中に保管されている「鈴木重光綴」のなかにはその当時、鈴木重光が武田久吉博士から譲り受けた貴重な写真が収められています。
 譲り受けた、下図の写真は一部がなくなっているところもありますが、どれもが貴重な写真ばかりです。当時は今と違って内務省の検閲がありました。検閲は厳しく、男根、女根石など土俗的色彩の強い、写真の掲載は例え学問的な調査であったとしてもかなりの厳しさがありました。
 鈴木重光は相模民俗学会が昭和34年3月発行した「民俗 第34号 神奈川県道祖神特集号」の中で博士と共に津久井を訪ねた思い出を「津久井郡の道祖神雑感」として書き記しました。
  合間に 当初、私は合間と云う感覚で考えてしまいましたが目録や年譜の補正を行う段階で、私の大きな間違いだったことが
         分かりました。また、この時期は博士が大変なご苦労をされた時期でもあり、大変な失礼をしてしまいました。
         博士のご労苦を忍び少しでも多くの皆様に知っていただきたくあえて記述を残させて戴きました。
          謹んでお詫び申し上げます。 (2012・5・30/保坂記)

資料@ 津久井郡の道祖神雑観   鈴木重光
 津久井郡の道祖神で、私の調べたものについては、これ迄に度々各誌に発表して、既に品切れの観がある。それを今更事新しく繰り返すということは、何と考えても気がひけるし、又全部整理して纏めるとなると、この中には変化のあったものもあるから、尚一応調べなおす必要もあるので、ここには思いついたことを少し綴って見たい。
 何故か神奈川県の中でも、津久井郡にだけは変わった道祖神が、少数ではあるが存在している。お隣の山梨県には、特に目立つたもののあることを聞かないが、その次の長野県になると、特殊なものが実に沢山ある。
 武田久吉博士とは先年津久井郡の道祖神巡りを二回もやり、この節長野県のものの写真を沢山頂戴したが、これ等は何れも同博士の著「道祖神」に載せることをはばかったというものばかりであった。
 現今ではそうでもないが、その当時は内務省の検閲がきびしく、仮令学術的の出版物であっても、極端なものは直ちに発売禁止になったもの
で、本県下でも鶴田栄太郎・永江維章両氏の手になった「神奈川県郷土資料写真」に、私と長谷川一郎先生とで解説を書いた「津久井の道祖神写真集」を入れた時にも、相模湖町与瀬橋沢部落の道祖神の女根は、原版をボカして石コロのようにして頒布した位であった。

 而して津久井郡にはこんな道祖神があるのはどういうわけであろうか。昔津久井郡は甲信地方から江戸への交通の要路に当っていて、人馬の往来がはげしく、信州馬といって一人の馬子が三疋位の牝馬(牝馬のほうがおとなしいから)を曳いて江戸へ往来したという位で、信州との交渉は深かったもので、信州のものの影響を多分に受けたものか、それとも津久井郡内の石工に、巧者なものがあって、その独創的な作品が残ったのか、今の処どちらとも判明しないが、相模湖町与瀬橋沢部落の石製の男女両根などは、数十年前に津久井町中野の石工が刻んだのだということも、言い伝えられているし、又津久井町鳥屋にも石工があって、昔は大抵ここで石碑類をこしらえたものであるから、矢張り道祖神碑の多くは、この地方の石工の手で造られたものと思っても差支えないであろう。
 それにしても甲信地方の影響を受けているらしい点は、津久井郡では一般に道祖神と呼んでいるが、山梨県では道禄神というのが普通で、主に丸石が祀られている。そして甲州街道筋の藤野町吉野の矢部(ヤベ)・椚戸(クグト)・長沢部落では観福寺境内から、炭団位の丸石三個を持って来て焼き、相模湖町与瀬の西部では、丸いのと石棒のようなのと二個の石を、道禄神と称して居り、同中野部落では、小穴のある焼け石の長いのと丸くて穴の貫通しているのがあり、長いのを道禄爺、丸いのを道録婆といっているのも興味深いことである。
 道祖神碑の前で、門松やしめ飾り、古い神札などを燃やし、梅の枝の三叉のものに団子をさしたのを此火で焼く行事を、「お松やき」とか「セイの神の団子焼き」といい、大抵正月十四日の夕刻に行われるので、その時刻になると各所で火の手があがり、壮観を極めたのが、今では左程でもなくなったようである。相模湖町若柳阿津部落では、何故か朝早く焼くことになっているのは異例である。
 相模湖町小原底沢部落及び藤野町佐野川上河原部落では、この行事の火で火災を起こしたため、その後は焼かないで、お宮などへ納めることになっている。また藤野町名倉葛原辺りでは、菩提寺の正念寺が門徒宗(真宗)であるため、同様に焼かないというが、その理由は判らない。
 特殊なものとしては、前記橋沢の石製男女両根、同町寸沢嵐道志部落北、同町若柳阿津部落、津久井町青山鮑子(あびこ)の男女二神並立手に瓶子と盃を持つもの、相模湖町寸沢嵐関口部落の弓と払子を持つもの、同町寸沢嵐増原部落の二神が互いに袖の中に手を入れ合ったもの、津久井町青山新宿部落並びに青山部落のは祖の字の字旁の且が象形文字になっているものなどであろう。
 尚、津久井町根小屋中野部落のものは、男女二神並立で、上部に御幣があり、側にも「猿田彦大神宮」の碑がある。そこには石製の女根の上部の缺(か)けたものがあったというが今は無い。猿田彦命は道路嚮導の意義から、道祖神との関係も勿論であろうが、この特異な鼻の形から性器を想わせるものがあるであろう天狗の面に配するオカメの面を以てするのでもわかることである。津久井町中野の鎮守中野神社境内には、道祖猿田彦命 天宇受売命と刻んだ碑が建っている。
 相模湖町千木良宿部落の道祖神碑の文字は、同地出身の有名な漢学者溝口桂厳翁(落合直文、大沼枕山等と親交あり)筆のものである。
 道祖神碑はどこでも露天にさらされたままのが普通であるのに、相模湖町寸沢嵐道志部落のものだけは、三箇所とも杉葉で簡単な小屋を造ってあり、団子焼きの際焼き払うが、そのあと直ぐに青杉葉で小屋掛けをすることになっている。かく鄭重に扱うけれど、毎年毎年神像も男根石も一緒に焼かれるので、見るも哀れに砕けているのは惜しいものである。
 団子焼きの行事の際子供たちが唱える文句は、久しい前から聞かれないが、昔はこの文句で噺ながら通行人に金銭をねだてたり、それで菓子や蜜柑を買って食べたものであるという。
 藤野町沢井日野部落では
サイドーゲサイトーゲ お祝いなされ
あれば百 なけりゃー五十
スツキなけりゃー十六文でもいい。

これを相模湖町千木良宿部落では、初めの句を訛って
セートーギセートーギー
といい、、その次に「あれば百・・・・・」が続きあとは前者と同じであった。

相模湖町寸沢嵐増原部落では
セイの神ア馬鹿だー     他人(ヒト)の
カカー盗んで
坂ア下りー追ツかけた
と囃子し婦人が通りかかると、あとからお尻をまくったりした。同関口部落では
セイのオンマラボー
と唱えた。
 津久井町中野不津倉部落では、矢張り正月14日に、友林寺という禅寺に保管してある、長さ三尺の細長い見事な石棒に、住職が造って呉れる御幣をつけて麻縄でしばり、子供たちが担ぎながら、「オンマラオンマラ」と唱えて部落内の家々を廻り、金銭をもらい集めて、終わりに分配するそうだが、私がその住職に会った時、「このオンマラオンマラということはなんとかあらためたいが・・・・・」といわれたので、
「とんでもない。是非その通り言わせて下さい」とあわてて止めた事があった。
 道祖神信仰がお松を焼く事ばかりでなく、今尚続いているのは、津久井町青山辺で、児童が生まれるとはじめての正月十四日の早朝、これを背負って七個処の道祖神へ参拝すると、風邪にかからないといわれて居り、又下の病にも効験があるとてお詣りする者があると見えて鮑子の道祖神などには、いつもお洗米が供えてあるのを見受けた。

相模民俗学会が昭和31年5月発行した「民俗 第17号」 
資料A 鈴木重光翁の古希を祝して    中村亮雄
 (前略)昭和16年に翁の存在を知った私は、翌年仙台に学び3年を経て軍籍に入り終戦を迎えて直接ダムの工事に従事することになった。仕事以外に希望を持って為す事もないので考古学を主として郷土史を調べようと翁のお宅へ訪れたのは翌二十一年一月十五日の事で初対面にもかかわらず、数時間に互ってお話を承った事は忘れ得ぬ思い出である。その時にアルスの武田久吉博士による写真集「道祖神」を贈られたが、其の書にある津久井の道祖神の写真は、鈴木翁の案内で武田博士が撮影されたものであると云うことである。此の武田博士を始め郷土津久井の民俗や他の調査や研究に来られた方は必ずと云って良いほど翁を訪れ翁の援助を得て居られる。(下略)
  

   掲載をはばかった11枚の写真
    
   「水郷牛堀」 茨城県潮来市牛堀
 写真の説明は今となっては分かりませんが、「流し」の上に無造作に置かれた桶、右側の写真は相輪の部分を「男根」に見立てています。「相輪」とは五重塔とか宝筺印塔の上部の部分を云い九輪・請花・宝珠の順に並び請花は丸い宝珠を包み込むような形をしています。相輪部を上図のような形に変形させ「セイノカミ」になりました。
    
   双体道祖神                中山道 和田峠 唐沢 向かって左側背面に穴あり

    
   信州富士見村御射山  セイノカミ     信州富士見村青柳 双体道祖神 

     
   背景の石垣、建物や石仏から同一箇所のように見えます。山梨県の国中地方に多い六道地蔵と岩船地蔵(右写真)

    
   甲府市積翠寺 九、一〇、二 同一場所に在り     甲府市 

     
   写真なし 南多摩郡鶴川村小野路 小堂祠中に在り 不動尊なり  武蔵野 第51巻3号 昭和47年10月発行
                               万葉 (七)  こうぞ 武田久吉
   「道祖神」の中の掲載箇所
国名 郡名 町村名 字名
武蔵 東京市 浅草区 浅草公園 77
西多摩郡 小河内村 川野・青木 52
留浦 77
下総 東葛飾郡 松戸町 小根本 25
相模 足柄上郡 寄 村 大寺 24
清水村 神縄・日向 24
上秦野村 矢沢・清戸 26
菖浦・中庭 33
中井村 鴨沢・馬場 36
岡本村 駒形 63
塚原 74
松田町 庶子・池田 63
南足柄町 刈野・御霊 64
刈野・本村 65
福泉・下 65
桜井村 曾比・西ノ庭 65
上中村 篠窪・入形 68
篠窪・神ノ平 74
福沢村 堀之内 71
足柄下郡 下府中村 鴨之宮 8
下曽我村 曽我谷津・向ノ窪 31
湯本町 須雲川 59
小田原市 小台・上 62
荻窪・中市座 64
中郡 北秦野村 管提・新田 7
管提・政ヶ谷戸 20
管提・四山・霞ヶ谷戸 21
戸川・三屋 72
高部屋村 西渋田村 17
洗水 17
伊勢原町 池端・寺窪 35
池端・池ノ上 55
池端・西池田 65
南秦野町 今泉・明星 30
今泉・中里 58
東秦野村 東田原・猪之代 57
秦野町 山谷 19
乳牛 57
大根村 南矢名・平内久保 40
比々多村 下栗原 58
愛甲郡 煤ヶ谷村 谷太郎 18
玉川村 七沢・馬場 22
岡津古久・後津古久 23
三田村 上三田 38
荻野村 下荻野・子合 53
妻田村 三家 54
子鮎村 飯山・尾台 54
棚沢村 下谷 59
高座郡 相模原町 田名・陽原・観音前 28
大野村 上鶴間・谷口 76
津久井郡 内郷村 道志・南 30
関口 74
中野町 三ヶ木・新宿 53
上野 吾妻郡 高山村 中山 46
利根郡 川場村 谷地・上界戸 78
高崎市 石原 中組 79
勢多郡 荒砥村 西大室・北宿 33
伊豆 田方郡 函南村 丹那・名賀 4
丹那・瀧沢 29
丹那・畑 29
田代 76
韮山村 北奈古屋・小野沢 73
国名 郡名 町村名 字名  頁
駿河 駿東郡 足柄村 竹之下・宿 5
70
竹之下・市場 67
竹之下・中之台 69
深良村 町田・東組 5
富士岡村 萩蕪 9
甲斐 南都留郡 秋山村 古福志 7
島田村 鶴島・駒門 28
北都留郡 丹波山村 保之瀬 10
東山梨郡 大藤村 下粟生野・清水 11
下粟生野・糀屋 13
塩山町 東村 14
上手組 34
北巨摩郡 更級村 大山 12
穴山村 伊藤窪 15
旭村 山口 16
中巨摩郡 竜王村 竜王新町 16
信濃 東筑摩郡 中山村 神田・上手 1
里山辺村 新井 2
上金井・矢崎 80
錦部村 赤怒田 32
本郷村 39
横田 41
洞・山城 43
大村 44
松本市 三才 27
筑摩・大門 37
筑摩・町村 42
沢村 38
49
波多村 中波多 47
岡田村 岡田町 48
松岡 56
70
塩尻町 柿沢 62
大門 80
島立村 荒井 69
麻積村 麻積・上町 66
南安曇郡 豊科町 新田 43
梓村 上立田 46
下立田 45
上野・寺家 56
南北城 60
小倉村 小室・南村 61
北安曇郡 北城村 塩島 50
細野・大麻生 79
神城村 沢度 2
50
51
表紙
飯森・大中 52
小県郡 長久保新町 新道 6
長窪古町 北古屋 75
県村 加沢・原 75
根津村 根津・東町 78
北佐久郡 大里村 73
協和村 天神林 72
越後 南魚沼郡 藪神村 九日町・猫道  4
山城 京都市 上京区 塔之段・幸神町 8








         武田久吉博士の主な年譜
凡例のようなこと
 博士の年譜づくりをはじめさせて戴いて、五年近くなりますが終わりがまったく見えてまいりません。いろいろな方々からご指導をお受けしているところですが正直なところアップアップな状態です。それでも行実の一つ一つが解決するなかで喜びの生まれていることも事実です。
 植物学者でもなく山岳家でもなく、写真家でもなく、まして民俗学者でもない私が、こうも取組み続けられるのは何か、まだまだ答えが出てまいりません。年譜では分からないところには日付を入れ、○印も添えました。誤字もあり、自分自身まだまだ満足できるものではありませんが、その辺のところをご理解して戴きながら眺めていただけると、とても助かります。皆さま方の御教示をお待ちしております。
    ご連絡先 kenjihotaru@hotmail.com 保坂  2014・9・18
西暦 和年号 年齢  主な武田久吉博士と津久井民俗(一部)の歴史
1883 明治16年 0
3月2日生まれ。父は駐日英国外交官でサー・アーネスト・サトウ、母は兼と云い、二男一女の次男(東京市飯田町6丁目16番地で出生する
1884 明治17年 1
7月、故矢田部良吉博士がこの山(戸隠山)で一新植物を発見し、それに戸隠草とか戸隠弁麻の名を与えられたし、多分その折りであろう、山中でムシトリスミレも発見されて、日本におけるこの草の第三の産地(第一は浅間山、第二は八ヶ岳)が明らかになったのであった。 「明治の山旅・戸隠山」より
10月〜11月、父サトウ、バンコク駐在から休暇を過ごすために日本に帰る。
10月6日、父サトウが横浜に到着、午前11時の汽車で東京に向かう。同日、兼の待つ飯田町の家に帰る。
 「ヒルゴ(午後)、コドモヲミニイッタラ、フタリトモソウケンデ、オトナシクテ、メズラシイ。エイタロウ(栄太郎)ハ、イッサクネンヨリ、カクベツセイガノビナイ。チエガツイタ。ヒサキチ(久吉)、イロシロク、ワガオトウト、セオドーア(Theodore) ニヨクニタリ。」 サトウ日記より 
資料 遠い崖14-P340
11月、東京市麹町区冨士見町に家を購入する。
1885 明治18年 2
1886 明治19年 3
1887 明治20年 4
1888 明治21年 5
1889 明治22年 6 9月、区立富士見小学校に入学。
11月22日、麹町富士見町富士見軒に於いて「ダーウィン Origin of Species 種ノ起源 30年祭」が開かれる。
参考 植物学雑誌第卅四号 雑録 P449より
(略)同日ノ模様並ビニ同日ニ有リシ演説ハ学術雑誌ニ明細ニ出ツベケレバ此ニ略ス而シテ此事ヲ思ヒ立シハ急速ノ事ナルヲ以テ地方会員諸君ニ報ズル能ハザリシハ吾輩ノ遺憾ニ思フ処ナリ。但シダーウイン氏ノ著書ハ動物ニ関スルモノ多ケレバ動物学会ヨリ出品スベキモノハ実ニ多カルベケレ○植物学会ニテ出品スベキモノナ割合ニ少ナキ○ナリ併シ植物学会ニテモ出品スベキモノ随分多くシテ富士見軒ノ一室ノ如キ狭キ処ニハ到底陳列シ盡シ得ベキモノニアラザレバ今回ノ出品ハ僅カニ自然ノ変化並ニ人工上ノ変化ノ一部分ヲ示スニ止マルノミ是レ迚モ誠ニ不充分ナルハ遺憾ノ至ナリ顕微鏡的ノモノ及ビ下等動物等ニ至リテハ一品ヲモ出品セザルモ亦遺憾トスベシ/同日本会ヨリ出品セシハ左ノ如シ
食蟲植物
其葉ヲ以テ小蟲ヲ捕獲シテ之ヲ消化シ食用ト為ス、ダーウイン氏ノ特ニ研究セラレタルモノナリ
もうせんごけ Drosera rotundifolia,L. 茅膏菜(ぼうこうさい)科
こもうせんごけ D.burmanni,vahl. (同上)
いしもちさう D.Lunata,Buchan. (同上)・石龍牙草
ながはいしもちさう L.Indica,L. (同上)
たぬきも Utricularia vulgaris,L. 狸藻科
むしとりすみれ Pinguicula vulgaris,L. (同上)
みづさしさう Sarracenia purpurea,L. 瓶子草(へいしそう)科
枝ガ変形シテ葉状ヲ為シ眞ノ葉ハ僅ニ鱗片トナリテ存シ或ハ全ク消滅シタルモノヲ示ス(以下略)
1890 明治23年 7
5月11日、牧野富太郎が江戸川伊田村(南葛飾郡小岩村伊予田)でムジナモを発見する。
  「牧野氏ガ武州伊豫田村ニ於ケル発見ヲ以テ嚆矢トナシ」
    資料  明治35年2月 発行「植物学雑誌」 180号 鈴木靖著「むじなもノ分布ト利根川」より
     
注  嚆矢(こうし) 物事のはじめ。
    
  M22・5 町村制の施行に伴い五村が合併小岩村となる。伊豫田村は旧村名 20016・8・3 保坂
8月9日、三好学が、下野國庚申山で「こうしんさう」を発見する。
 
       明治23年9月 発行「植物学雑誌」 43号  三好学著「Pinguicula raosa,sp.nov.第十一版図 ニ就テ」より 
1891 明治24年 8
1892 明治25年 9
1893 明治26年 10 ○この年、碓氷峠にアプト式鉄道が完成する。
○この年の夏、伊香保に旅行する。 「明治の山旅・箱根と伊香保」より
1894 明治27年 11 9月、群馬県師範学校教諭渡辺千吉郎の利根川水源探検隊が、帰路尾瀬ヶ原と尾瀬沼を経由して戸倉に出る。
               
出典『太陽』1895創刊号から記述 「遺伝1961・7 「尾瀬発見記」」より
1895 明治28年 12
7月、父サトウが駐日の公使として再び来日する。
8月、兄と母、幼なじみの小山内薫を加えた4名で、妙義山や旧碓氷峠に登り、善光寺へ参詣。(登山のはじまり)  「妙義山」より
資料@ 「文芸春秋 昭和41年7月号 ごまのはい」より
(略)
松井田駅に下車、町で中食を済ませてから、妙義町の菱屋に落着いた翌日、形の如く案内者を、三人の子供は、三山の最高峰である金洞山に向かった。四つの石門を通過してから、やや急な山路に、最高点への途中の朝日岳の頂上で、私は野生のカノコユリを発見したのは、特筆大書してもよかろう。(略) 
資料A「創文1969ー5 72号」に「登山の発祥と山岳会」より
(略)
平地とは別天地である山中の景色はどんなであろうか、山頂からの眺望は何と何が見えるかという、いわば好奇心に駆られたためではないであろうか。私が明治二十八年八月に、始めて妙義山に登ったのも、探究心からであったことは事実である。それが偶然にも、朝日岳の頂上で、一株の満開のカノコユリを発見しかことが、小児の頃からの無性に花を愛した私の心を捉え、更に翌年の夏、一ヶ月を栃木県の日光町に滞在して、山野に生ずる天然生の花ーその或るものは初見の品ーに遭遇して自然界に対する目を開き、山の魅力に取りつかれたのも、元を質せば、好奇心が原因といえると考える。
(略)          
11月25日、牧野富太郎が「日本園芸会雑誌 第六十七号」に「日本産食蟲草 (其一)」を寄稿する。
1896 明治29年 13 ○この年の夏を振出しに、日光山とは深い縁が結ばれて、・・ 「明治の山旅・初夏の日光山」より
資料@「岳人・昔の登山 −好奇心という本能の発露−」より
(略)
その翌年(本年のこと)の夏を日光に送り、見なれぬ草や蝶に、目をみはる毎日。山と植物との関係がますます面白くなったのは当然である。中善寺から先は、山駕籠のほか乗物のなかった当時、糸のような細径が一筋、戦場ヶ原に通じていたその景は、『日光山志』巻の四に描かれたものと、いくばくも差異はなかった。湯元はまったくの湯治場で、旅宿には自炊客のために、幾つかの竃が、ずらりと並んでいた。屋外の共同湯では、農閑期の湯治客が、曲物で、入浴前に、頭に何十杯かの湯をかけていた。その当時として、登山らしい登山はできないで、ただ外山とか、大谷川の右岸にある銭沢不動から、路のない沢を向山の稜線に登って、泣虫山の麓に下り、どうやら道らしいものに出会って、鉢石町に戻って来たこともあった。
7月25日、牧野富太郎が「日本園芸会雑誌 第七十四号」に「日本産食蟲草 (其二)」を寄稿する。
我帝國版図内ニ産スル食蟲草ニ十有五種アリテ今之レヲ綜ブルトキハいしもちさう科ニ属スルモノ二属スルモノ二属ニシテ五種、又たにきも科ニ属スルモノ二属ニシテ十シュヲ得ベシ、是レ吾人ガ今日ニ知得シタル全数ナリ、然レドモ琉球ノ如キ又新領台湾ノ如キ未ダ検討洽ネカラズ新品ノ湮沒セルモノ想フニ應サニ少ナカラザルベシ、此ノ如キハ之レヲ後日ノ検出ニ徴スル外ナシ(略)
其一
いしもちさう科 いしもちさう属 (一)いしもちさう
(二)ながばのいしもちさう
(三)もうせんごけ
(四)こもうせんごけ
むじなも属 (五)むじなも
其二 たぬきも科 たぬきも属 (六)たぬきも
(七)のたぬきも
(八)こたぬきも
(九)ひめたぬきも(新称)
(十)みゝかきぐさ
(十一)まるばみゝかきぐさ
(十二)むらさきみゝかきぐさ
(十三)ほざきのみゝかきぐさ
むしとりすみれ属 (十四)むしとりすみれ
(十五)かうしんさう
 



1897 明治30年 14 3月、麹町区富士見尋常高等小学校卒業。
4月、東京府立尋常中学校(現日比谷高校)二年級入学。
資料@ 「植物の世界 昭和36年10月」の中の年譜より
 幼時から花を愛し草木を植えることを好んだ私は、東京府尋常中学校(今の日比谷高校の卵)の二年級に入学し、帰山信順先生の熱心な薫陶をうけ、植物の研究に心魂を傾け、爾来この学問の研究に心血をそそいで来た。
 中学5年のころであったか、その当時では清澄山と榛名山以外に知られなかったキヨスミコケシノブを日光山に発見したのが動機となって、牧野富太郎先生に親灸するの機会を得、野外において親しく草木を観察し、その性情を悉知せんと努力をつづけている。

資料A “無言の博物館”山で学ぼう <秩父宮記念学術賞を受ける植物学者>と紹介された新聞記事より
 私は登るためではなく、植物があるから山に行くのですよ。中学生のとき、妙義山の頂上で一本のカノコユリを見つけましてね。庭に栽培するものとばかり思っていた花が野生しているのです。そのときの驚きと感動。それから山行きが病みつきになりました
資料B「創文1969ー5 72号」に「登山の発祥と山岳会」より
(略)それがその翌三十年に、中学に入り、博物学の時間には、折から教育に特別に熱心な帰山信順先生の植物分類学の実験と講義に拍車を掛けられ、年一年とその道に深入りしてしまったので、なんとしても今更義理にも後へは引かれぬ仕儀となった。従って山に登るとしても、植物の影を追っての登山であり、アクロバットの演技を真似する気は毛頭ない。
5月、15〜16日、三好学教授に従い理科大学植物学科の学生(十名)が武州御嶽山へ採集旅行を行う。
7月、同行坊が「植物学雑誌 第百廿五号」に「御嶽山紀行」を寄稿する。

○この年の夏休みの出来ごと
(略)中学では一ヶ月に余る夏休みがあるので、遠出が出来るわけ、それで家中で京都に出かけ、麩屋町の柊屋に陣取って京都見物、さらに足を大阪に伸ばし、堺まで出掛けて妙国寺の蘇鉄を見たり、名物の刃物を求めたり、かれこれ一ヶ月を遊び暮らしたので、山行の機会を失ってしまった。(略) 「明治の山旅・日光ー第二回目の訪問」 P35より
8月、大渡忠太郎が「植物学雑誌 第百廿六号」に「御嶽ノ「フロヲ」ニ就テ」を寄稿する。
本年五月理科大学植物学科ニアルモノ挙テ三好教授ニ従ヒ武州御嶽ニ至る、余亦其列ニ加ハル、記事ハ前号雑録欄内ニアリ(略)今前二者ノ分布ヲ考フルニいはなんてんハ南方ニ割拠シ秩父ヲ以テ北限トシるゐやふぼたんハ北部ニ陣シテ其南域御嶽ニ及ベリ、故ニ御嶽以北秩父ノ間ハ正ニ両者共有ノ地ニテ北方即チ、北方即チ寒地ノ産タルるゐやうぼたんガ御嶽ニ於テハ南方即チ寧ロ暖地ノモノナルいはなんてんヨリモ下方ニアリテ其位地ヲ倒ニセルノ観アルハ是レ其御嶽ニ於テハ相混生セルヲ證スルモノニテ採集者ガ尚ホ綿密ニ捜索セバ必ラズ実際ニ両者ガ混生シテ孰レガ下方ニ生ジ居ルモノカ相辨ズル能ハザラン 余ハ豫メ之ヲ明言スルニ憚(はばか)ラザルナリ此理由ニヨリ考フレバ暖寒両者ノ共有区域ノ南限ハ未ダ御嶽ヲ以テ終リトセズ其南方尚ホ多少ノ地アラン、・・・(略)
9月、大渡忠太郎が「植物学雑誌 第百廿七号」に「るゐやうぼたん九州ニ産ス」を寄稿する。
○、この年の冬期休暇の出来ごと
(略)中学の二年級に編入されたその年の暮であったと思うが、多田、井上の両上級生が、冬期休暇を利用して、日原に鍾乳洞を見学し、その足で雨の降る中を仙元峠に登り、上は雪となっていたので、道を失い、ついに凍死という気の毒な運命に追い込まれたので、全校生徒の衝撃はもちろん、世間を騒がせたことは少なからず、どこの家庭でも、若い子弟の登山は禁物ということになった。  「山への足跡・山歩き七十年」より
1898 明治31年 15 7月、「東京府尋常中学校学友会」が「学友会雑誌 第26号」を発行する。 
○この年の頃
 
少年のころから草花を植えるのがすきであった私が、小学校の上級から中学の下級に学ぶころには、江戸時代にはやったサクラソウの話、わけても戸田ノ原のサクラソウのことが、時折かたり聞かされた。そのうちに、中学(東京府立尋常中学校、後の府立一中、いまの日比谷高校)の校友会雑誌に、先輩である西郷斉員、塩野季彦、朝比奈泰彦氏達が、博物の帰山信順先生の指導によって行った、戸田ノ原のサクラソウ研究の記事が掲載されるや、私の興味は依然サクラソウに向けられるに至った。  「遺伝 S32・3 桜草雑稾」より
      注 上記雑誌はメモリアルホール D2−58に展示 内容未確認 2016・5・20 保坂記
7月、早田文蔵が尾瀬にて「ながばのもうせんごけ」を発見する。燧ヶ岳ノ直グ下ニ至ル「みずごけ」アリテ・・」
参考 尾瀬までのコースと「ながばのもうせんごけ」の発見まで(部分)
(略)
余ノ此ノ地方ニ採集セシハ三十一年七月ナリ七月一日先ヅ汽車ニテ上野ヲ発シテ前橋ニ到リ歩ムコト四里渋川ニ泊ス二日渋川ヲ出デ利根川ニ沿ヒテ北方ニ上ルコト五里計リニシテ利根川ヲ超ヘテ沼田町ニ達ス之レヨリ利根川ヲ辞シ其支流片品川ニ沿ヒ東ノ方ニ上ルコト三里計リニシテ老神ノ温泉ニ到ル之レヨリ北ノ方ニ此ノ川ニ沿フテ上リ上リテ水ノ窮マルノトコロ是レヲ沼山峙トナス山下ニ村アリ戸倉ト云フ村ト云フニ足ラズ旅店ナシ木賃泊アリ夜ヲ凌(しの)グニ足ル之レ沼田ヨリ会津ニ入ルノ縣道ナリ尚他ノ道アリ沼田ヨリ川場湯原ノ温泉ヲ経テ花咲峠ヲ越ヘテ戸倉ニ達ス余此ノ道ヲ取レリ沼田ヨリ戸倉マデノ里程明カナラズ恐クハ七八里ナラン翌早朝沼山峙ニカヽル此峠上リ四里下リ四里ニテ岩代桧岐ニ到ルベシ戸倉ヨリ道細ク且ツ悪シ上ルコト四里尾瀬沼ニ達ス實ニ深山幽谷ニシテ人ノ行クコト稀ナリ沼ニ沿フテ行ク沼ヲ隔テヽ燧ヶ岳ヲ見ル水辺ヲ行クコト漸クニシテかや、もみノ林ニ入ル残雪ヲ踏ミテ行クコト数町ニシテ尾瀬ノ平ニ出ヅ沼地ニテ路ノ跡ナシ進ムニ行カレズ亦聞クベキ人モナシ偶マ材木ノ音ヲ聞ク行キテ途ヲ問ヘバ曰ク此所人行稀ニ且ツ沼地ナレバ人行アルモ途ノ跡ナシ只此原ヲ東北ニ切リテ彼ノ山ニ登レ路アリト余教ヘラルヽガ如クス果シテ路アリ下ルコト四里桧枝岐ニ着ス駒ヶ嶽ニ採集シ更ニ燧ヶ岳ニ採集セント欲シテ再ビ尾瀬ノ平ニ登ル沼ニ東北ニ沿フテ燧ヶ岳ノ直グ下ニ到ル「みずごけ」アリテ(ぬか)ル様ノトコロニ葉ノ長ク直立セル「もうせんごけ」ノ如キモノアリ之レ嘗(かつ)テ千島ニ発見セラレタル Drosera longifohia L, ナリ往年根本莞爾氏モ之レヲ尾瀬ノ平ヨリ得、牧野氏之ヲ「ながばのもうせんごけ」ト命名シテ一昨年ノ本誌上ニ公ニセラレタリ其外「えぞせきしやう」Schenchzeria palustris L,ハ未タ北海道以外ニ知ラレザルモノナリ又「やなぎとらのを」Lysimachia thyrsiflora L, アリ「こみやまりんどう」Gentiana thunbergii Sriseb,var minor Maxim アリ余ノ粗漏ナル採集ヲ以テスラ尚之等ノ珍種ヲ得タリ此辺ノ「フロラ」ヲ充分ニ採集研究セバ中々面白キモノアラン同山脈ナル駒ヶ嶽ノモ「つまとりさう」ノ一種ニテ Trientalis europea L,var arctica I※□edeb,アレバ南会津ハ一体ニ採集ノ価値アルベシ依リテ広ク採集家ニ紹介ス
明治35年12月「植物学雑誌 20巻191号  南会津竝ニ其ノ附近ノ植物」より
(ぬか) 雨や雪解けなどで、地面の土がどろどろになる。ぬかるむ
※□ 判読困難
7月27日、日光山に於いて寄生植物のヤマウツボを採集、水彩画に記録を残す。
                         資料 横浜開港資料館 久吉(文書類) No615−2より 
8月11日、川上瀧彌が北海道千島國擇捉島アトイヤ山で、ながばのまうせんごけを発見する。
   (博物学雑誌第十五号参照)
  明治33・2 植物学雑誌 156号 牧野富太郎 日本植物調査報知第二十三回 ○百ながばのまうせんごけ岩代國ニ産ス」より
8月11日、日光山に於いて寄生植物のナンバンギセルを採集、水彩画に記録を残す。
                         資料 横浜開港資料館 久吉(文書類) No615−2より 
8月24日、日光山に於いてカラスビシャクを採集、水彩画に記録を残す。
                         資料 横浜開港資料館 久吉(文書類) No615−2より 
8月30日〜31日、日光三山がけ。「日光山志」を相手に山野を跋歩
 私は翌31年の8月には、ハイマツを見たさに、日光の女貌山に登ることを許され、これを、荒沢から登って栗山へ越す富士見峠に下り、さらに小真名子を上下してから大真名子を越え、男体山の北裏の志津に下り、そこにあり7月の禅定の時の無人小屋に、高寒の一夜をしのぎ、翌日男体山に上って中禅寺に下ったのが、高山らしい高山に登った最初であった。   「「山歩き七十年」より
参考@ −当日の日光登山のコースー
山内→荒沢→栗山道に沿って出面峠→畚平
(もっこだいら)(オオガギボウシ・オヤリンドウ・コメツガ)→無住の唐沢ノ宿(休憩)→薊(あざみ)平→頂上田心姫(たごりひめ)小社(ハイマツ)・剣が峰→専女山→帝釈山→富士見峠→小真子山→鷹ノ巣→大真子・御岳→千鳥返しの険→志津の行屋(泊)→男体山(コメツガ・シラビソ)→中禅寺→山内  「明治の山旅・日光 第二回目訪問」より
参考A「岳人・昔の登山 −好奇心という本能の発露−」より
(略)高山植物の幾種かに見参したのは、この時が最初であったが、その当時には、名を教えてくれる人もなし、せっかく採ったオヤマリンドウを、案内者が毒草だといって捨てさせたのは、今思えば笑止な話である。(略)
参考B 「山岳第1年1號 創刊號 日光三山がけ」から

 志津より見たる大眞子
(略)我等は信神の為にあらねど、三山がけは僅か二日にして四山に登り、山彙の大部分を見得るのは便あれば、それこそよけれとて、三山がけするに決す。案内の者には、先の日我等を慈観に導きし、荒澤の茶店主なる大貫乙助(字は正しきや否や知らず)とか云へる男をやとふ事とし、出發は八月三十日と定めたり。二十九日は需要品を求め、登山の準備を整ふ、夜となれば、洋服、脚胖など枕邊に置きて臥床に入りしも、初山の嬉しさに、たやすくは得眠られず、八千餘尺の高山の景、
如何あらんなど想ひつゝまどろむ。三十日午前零時三十分起床し、身支度して門を出しは正に一時十五分なり、兄は和装に洋傘を携へコダックを肩にして、我は洋装にて、一枚の茣蓙(ござ)を風にひるがへしたり、荷物は若干の下着に麭麺數片、ジャム一鑵等なり。残月末だ落ちず、星は煌々と輝く。(略)前記の文は、予が初めて日光の霊岳に接せし時の紀行にて、當時の手控を基として記し、山の高度の外は総べて後來の観察を加へず、只我が會遊の紀念となすに過ぎざれば、山中の景に至りては頗る矇朧(もうろう)として霧中に彷徨(ほうこう)するが如く、到底、後來遊子の参考とするに足らざるは深く慚愧(ざんき)に堪えざるなり。兢懽、謹みて之を附言す。
11月、「食蟲植物ノ概略」を手書・墨書により写描を行う。
   資料 横浜開港資料館 久吉(文書類) No617より 書写の原本名不明のため 確認要 2016・7・11 保坂
  丸      
    はへとりぐさ        むじなも    もうせんぐさ 又 もうせんこけ  いしもちさう

      
   むしとりすみれ          たぬきも        へいしさう     うつぼかづら

○この年、「Natural History(博物ノート)」を書きしるす。
   
  
   巻末に「明治三十一年/歸山信順先生 口授/武田久吉筆記」 横浜開港資料館久吉(文書類) No618より
1899 明治32年 16
1月以降、「新撰日本植物図説 (全20冊)」が「敬業社」から刊行され、牧野先生は顕花植物とシダを担当、7月30日発行の第4集と11月20日発行の第5集に苔忍科の歯朶、十種を執筆する。
                       
「明治の山旅・牧野先生と「清澄苔忍」」より
4月25日、武田兼子が、「国風音楽講習所小松景和代理川口鈴代」より「生田流筝曲古今令伝授状」を受ける。
5月、日光旅行を行う。 「横浜開港資料館所蔵 山日記」より
8月、日光旅行を行う。 「横浜開港資料館所蔵 山日記」より
8月、根本莞爾氏ノ一門下生が岩代國南会津郡駒ヶ岳山中ノ尾瀬平でながばのもうせんごけを採集する。
   「植物学雑誌 M33・2 156号 牧野富太郎 日本植物調査報知第二十三回 ○百ながばのまうせんごけ岩代國ニ産ス」より 
11月18日、八王子産 苦竹の花の写生を行う。  「横浜開港資料館 No 615−3」より
○この年、父サトウが、片山直人著「日本竹譜」の要点を翻訳、彩色図版二十一葉を添えて出版する。

資料 (略)明治二十九年(28年?)に、特命全権公使として、日本に赴任してからは、日本植物、わけても竹類の研究に没頭した。そして其等の生品を蒐集して栽培する為に、其の当時は東京の郊外であった源兵衛村に土地と家屋を借りて別墅(べつしょ)とし、週末を其処に過し、竹類の観察に興じた。それは故人の旧友フリーマンミットフォード氏(後の「リーズデイル卿」)の著書『バンブーガーデン』に刺激されてであった。(略)
                  
昭和42年5月発行 歴史読本 エルネスト・サトウの片影」より
1900 明治33年 17
2月、牧野富太郎が 「植物学雑誌 百五十六号」に「日本植物調査報知第二十三回 ○百 ながばのまうせんごけ岩代國ニ産ス」を寄稿する。 
○この年、武田久吉ら、東京府立第一中学校在学中の生徒で、植物や昆虫に興味を持つ仲間が集まり回覧雑誌を発行する。 
この年の春、木下川(きねがわ)薬師堂に向け遠足が行なわれる。
 10時5分(亀戸天満宮出発)→12時15分(木下川薬師堂着)→(休憩1時間)午後1時出発2時(吾妻橋)解散→3時15分(帰宅)
                      資料「 横浜開港資料館 No615−23」より
6月、牧野富太郎が「植物学雑誌第百六十号」に「日本植物調査報知第二十六回 ○百九 日本産食蟲草ノ稀数」を寄稿する。
  図表
科名 属名 学名 和名






いしもちさう属
Drosera,
D.Iunata Ham.
(=D.peltata Sm.var.lunata Clarke)
いしもちさう
indica Linn. ながばいしもちさう
rotundifolia Linn. まうせんごけ
Byumanni Vahi こまうせんごけ
Longifolia Linn. ながばのまうせんごけ
むじなも属
Aldrovanda.
vesiculosa Linn. むじなも




たぬきも属
Utricularia.
.vulgaris Linn. たぬきも
pilosa Makino. のたぬきも
intermedia Hayne. こたぬきも
sp. しまたぬきも(台湾産)
sp みかはたぬきも(新称)
名倉ァ一郎氏ノ発見採集セシ一品
U.bifida Linn. みヽみかきぐさ
affinis Wight. むらさきみヽみかきぐさ
U.racemosa Wall. ほざきみヽみかきぐさ
orbiculata Wall. まるばのみヽみかきぐさ(台湾産)
むしとりすみれ属
Pinguicula.
P.vulgaris Linn.var.macroceras Herd. むしとりすみれ
.ramosa miyoshi. かうしんさう
7月、兄栄太郎がイギリスに到着する。 「アーネストサトウ図説年譜」より
  渡英時期の検討要、「明治の山旅・箱根山を越える」では明治34年4月に兄の外遊離別に先立って箱根に記念旅行をされています。
               2013・12・19 保坂記

8月、小島烏水が甲斐の白峰山に登る。
8月27日、日光山内の行者堂の傍らで「清澄苔忍(きよすみこけしのぶ)」を発見する。
           「明治の山旅・牧野先生と「清澄苔忍」」より
参考 (略)ところで、明治二、三十年頃に神田神保町に敬業社という本屋があって、その本屋から植物学の雑誌や書物が発行されていました。ところが三十二年の四月に発行された「新撰日本植物図説」に「きよすみこけしのぶ」というシダの一種で、房州の清澄山と上州妙義山の外には産地が知られていない珍しいものが掲載されていました。その年の夏を下野の日光で暮らしている間に、その「きよすみこけしのぶ」と思われるものを日光で発見したわけです。まあ、鬼の首でもとったように子供心に思っておったが、何分それが「きよすみこけしのぶ」かどうか、妙義山と房州にしかないというものが日光にあったということは、新しいことでありまたそれがもし違った別のものであるかもしれないというので、その植物を記載された理学博士の牧野先生に恐る恐る手紙に同封してお伺いをたてたところが、これは「きよすみこけしのぶ」に間違いないというような鑑定をしていただいた。それがきっかけで牧野先生の所にたびたび伺うようになって、他の植物の専門家とも接触するような状態になった。(略) 「日本山岳会の創立と小島烏水君」より
参考 北海道大学農学部演習林研究報告 第24巻第2号 P296 舘脇操著「奥日光の森林植生」に「博物之友2−13 8〜9」に「キヨスミコケシノブ日光行者堂に産す」の記述あったが
「武田久吉著作展」目録に記載がないため確認要 2015・9・25 保坂記
10月中旬、修学旅行で伊豆を旅したおり、別働隊として熱海から岩戸山を経由、軽井沢峠を越える。
   この時、コゴメグサの一種を採取する。  「明治の山旅・岩戸山に登る」P235 より
1901 明治34年 18
3月、尋常中学校を卒業。
7月、日本博物学同志会と改め再発足、機関誌「博物之友」が創刊される。
8月10日頃、日光山内→行者堂裏→檜ヶ田和→殺生禁断の境石(さかいのいし) →八風山の石室跡(ユキワリソウ・オヤマリンドウ・イワノガリヤス・コメツガ)→唐沢の宿→薊平(トウヤクリンドウ・ミヤマダイコンソウ・ホソバノイワベンケイ)→道に迷う→下山
                                   「明治の山旅・女貎山の再探」」より
8月、日光に於いて、牧野先生と植物採集を行う。  「日本山岳会の創立と小島烏水君」より
    日光→殺生石→七瀑→唐沢ノ宿(庚申草)→女貎山→赤薙山→日光 「明治の山旅・女貎山の再探」」より  
参考 (略)それから数日後、牧野先生からの来信によると、近頃女貎山山中で見出された庚申草を写生のために、日光に行く、宿は萩垣面の五百城文哉氏方とある。さっそく伺候に及ぶと、明早朝登山との御話。そのお供をすれば、誰に遠慮なく登れるわけ。
 東道を承るのは、山草家の城数馬(じょうかずま)氏、同行には、日本赤十字社長佐野常民伯の令息、それに城氏の友人スイス人ファーデル氏、人夫の三五郎を加えて総勢六名。型の如く。殺生石、稚児ヶ墓、白樺金剛童子と、朝霞を踏んで行けば、前方遥かに大勢の登山者の一団が見える。たちまちその一行に追いついて尋ねると、今日は東宮殿下(後の大正天皇)の七漠観漠の御催しだとのこと。
(略)      「明治の山旅・女貎山の再探」」より
9月、東京外国語学校入学。
○春、日光や筑波を訪ねる。「わが山々の思ひ出」より 再検討要
○秋、高尾から景信山や陣馬を訪ねる。「わが山々の思ひ出」より
この年の末、日本博物学同志会の会員となる。
1902 明治35年 19 1月、「博物之友 二巻七号」に「雑録 博物雑爼」を寄稿する。
2月、鈴木靖が「植物学雑誌180号」に「〇むじなもノ分布ト利根川」を寄稿する。
    又、同号に矢部吉禎が「〇対馬採集雑記」を寄稿する。
3月、「博物之友 二巻九号」に「雑録 植物雑話(一)・魚虎について」を寄稿する
4月、「博物之友 二巻十号」に「雑録 植物雑話(二)」を寄稿する
4月、日光旅行を行う。 「横浜開港資料館所蔵 山日記」より
5月、「博物之友 二巻十一号」に「雑録 早春の日光」、「植物雑話(三)」を寄稿する。
5月4〜5日、本郷駒込団子坂下の花戸薫風園において山草の展覧会が開かれる。
   
去年8月、日光八風山で採取したユキワリソウが出品される。
    
注  「明治の山旅・女貎山の再探」では、展覧会の日程が5月5日〜6日になっている 
学会にも貢献した山草会
(略)
前にも述べた様に此れを刺激したのが山草会であるから日本の高山植物研究に際しては本会の存在せし事を歴史的にも忘れられないものである。今日此の会は存続しては居ないが、その後 引き続いて東京にも其処此処(そこここ)に山草を作り楽しんで居る人はあるやうだ。山草会の創立は、明治三十四、五年頃で同四十二、三年頃迄続いたと思ふ。/ 此れは、段々会員が死去したので自然会は立行かなくなった為である。今日死去された人達は、松平子爵、加藤子爵、久留島子爵、城氏、小川氏、五百城氏の中堅人物である。昭和4年7月発行 牧野富太郎著 「高山植物の歴史」より
山草陳列者名 陳列山草名
松平康民(やすたみ)子爵 作州津山藩主の令嗣 ハリガネカヅラ・コイチョウラン・ムカデラン・ガンコウラン・ウメガサソウ・マンネンスギ・ヒメケイラン・ゴゼンタチバナ・トウヤクリンドウ・コバノイチヤクソウ・キバナノコマノツメ・チャボゼキショウ・ヲノエラン
加藤康秋子爵 伊予大洲の藩主 ツルコケモモ・ハクサンチドリ
久留島通簡(みちひろ)子爵 豊後森の藩主 エンレイソウ・ヲンジ・モジズリ・コケモモ・コアツモリソウ・ガンコウラン・チングルマ・モウセンゴケ
青木信光子爵 久留島子爵の姻戚 コアツロリソウ・ズダヤクシュ
武田久吉 学生 ユキワリソウ
                   1969/4 「創文 武田久吉著 山草陳列会」より
 (仮称)高山植物研究史(メモ書き)
1902 明治35年春 団子坂薫風園で第一回山草展覧会が開から その記事が植物学雑誌XVI No183に矢部吉禎氏執筆「城氏の高山植物を見る」の標題を掲げ、記事中には「アルパイン植物」の詞を用ひてゐる
          横浜開港資料館 久吉(原稿(著作)) NO601より
○この年の春、初めて高尾山の登山を行う。 「明治の山旅・高尾山」より
6月、「博物之友 二巻十二号」に「雑録 早春の日光(二)」を寄稿する。
7月、「博物之友 二巻十三号」に「雑録 早春の日光(完結)」、「植物雑話(第四回)」を寄稿する。
7月8日から日光に出かけ、太郎山への採集登山を試みたが連日の雨天のため中止する。
                             「明治の山旅・箱根山を越える」より
7月26日、トラキチランの発見者である神山寅吉を案内者として、日光太郎山に登る。
 荒沢→丹青山(タンゼイ)の裾のウリュー坂→薬研掘・挺棒河原・弥兵衛ヶ平・弁天河原→(ゴゼンタチバナ・シロバナノヘビイチゴ)志津(泊)→太郎山の姥→砂払(スナハライ)→太郎山(シラビソ・カラマツ)→→火口址のお花畑(キバナノコマノツメ・シラネニンジン・タカネヒカゲノカズラ・ハクサンチドリミヤマヌカボ)→奥の院(ウサギギク・クルマユリ・キバナノコマノツメ・イワカガミ・ウスユキソウ・カイズルソウ・ハクサンフウロ・ハクサンチドリ・コケモモ・ミヤマダイコンソウ・ヒメコゴメグサ・ホソバノイワベンケイ・カラマツソウ・ギョウジャニンニク・コメススキ・コタヌキラン・ミヤマスズメノヒエ・ツマトリソウ・ゴゼンタチバナ・ヒメシャジン・シラネニンジン・オヤマリンドウ・ウメバチソウ・シオガマギク・ミツバオウレン・クロマメノキ・ハクサンシャクナゲ・マルバシモツケ・ミネヤナギ・クロゴケ)→お花畑→新薙(ツガザクラ・イワヒゲ・ホツツジ・キンレイカ)→治左衛門助けの水(休憩)(コケシノブ・エビゴケ)→砂払→志津の行者小屋→日光の神橋
 志津附近で、アオジクスノキ、一名ヒメウスノキも採集する。「明治の山旅・初夏の日光山」より
    
参考 ヒメウスノキ
 
本種は明治10年7月故矢田部良吉博士が日光に採集せられたもので、後故松村任三博士之を検して Vaccinium Myrtillus に充てられ、アヲヂクスノキの名を命ぜられたが、明治34年に至り、牧野博士によって新種として記念名を与へて発表せられたのである。翌年7月筆者はこれを日光太郎山麓に得、牧野博士に致して検定を乞ひ、新たにヒメウスノキの称呼を与へられたのである。蓋しその漿果の色素がウスノキに類せるの故で、ヒメスノキではないのである。
                     
「植物及動物 第4巻第8号 日本の高山植物 121)ヒメウスノキ」の項より 
8月26日、箱根山を越え、沼津の牛臥(うしぶせ)に訪う。
  
   早雲寺所蔵のセリ椀と、そのスケッチ図 1       2                    3 
 湯本・福住楼→早雲寺(マメヅタ・イヌワラビ・ヘビノネゴザ・ミツデウラボシ・ハカタシダ・カナムグラ・オニドコロ・ヤイトバナ・セリ・ミツバ・ツユクサ・キンミズヒキ・ヒメムカシヨモギ・キツネノマゴ・キンエノコロ・キツネノボタン・オヒシバ・メヒシバ・オオバコ・ヤブラン・モミジガサ・ミズヒキ・イノコズチ・イヌビュ・ダイコンソウ)→旧道を西へ(人家にミヤギノハギ・エノキグサ・イヌタデ・ミズタマソウ・ヨツバムグラ・カタバミ・イヌガラシ・マツカデソウ・ノキシノブ・リョウメンシダ・タマアジサイ)→玉簾の瀑(キハギ・ハコネグサ・シュモクシダ・イノデ・リョウメンシダ・コモチシダ・ヤブミョウガ・ノブキ・ミズタマソウ・ウマノミツバ・ムカゴイラクサ・ヒヨドリバナ・カンアオイ)→福住楼→湯本発電所→箱根本街道へ(ヌスビトハギ・ダイコンソウ・マツカゼソウ・アキノタムラソウ・ツルシノブ・シシウド・フユイチゴ・オオバノイノモトソウ・ハコネグサ)→須雲川(コアカソ・キツネノボタン)→畑宿(ジャゴケ・イワガネゼンマイ・コトンボソウ・ムカゴソウ)→朝日瀑(飛竜瀑)(ギボウシ・ミシマサイコ・ニガナ・オミナエシ・ホタルブクロ・フシグロ・チタケサシ・アリノトウグサ・タマアジサイ・シモツケソウ・タチコゴメグサ・コガンピ)→恩人碑→(ノリウツギ・コウリンカ・ヒメヨモギ・ヤマハハコ・チタケサシ・コウゾリナ・イタドリ・コマツナギ・ウツボグサ・オトギリソウ・ホタルブクロ・オオバコ・ミズギボウシ・シシウド・シモツケソウ・クルマバナニガナ・アキノキリンソウ・トダシバ・ヒメシロネ・アカネ・ヤマトラノオ)湯ノ花沢・花ノ湯(泊)→芦の湯(ツリフネソウ・シシウド・ホシダ・キツネガヤ)→二十五菩薩(キンレイカ・イワナンテン)→二子山の北麓をよぎる道(シオガマギク・バライチゴ)(ヤマムグラ・マルバカンアオイ・ヤマイヌワラビ・イヌヤマハッカ)元箱根・箱根神社(コケシノブ・コウヤコケシノブ・ミヤマシケシダ・カブトゴケ・ミツデウラボシ・ウチワゴケ)(コトシボソウ・ムカゴソウ・コケシノブ)箱根宿→箱根峠→芝刈地蔵→三島→(列車)→沼津  「明治の山旅・箱根山を越える」より
研究資料:横浜解雇資料館所蔵 久吉(原稿(著作))No566−18 「『山』高原特輯号原稿「高原と高山 ひとつの?」」の原稿用紙の裏面に、沼津三津浜で四種のシダ類を採取した記録がありました。牛臥山に登られた後、三津浜を訪れたと思われます。今後の研究資料として掲載しました。       2017・6・2 保坂
考察の根拠 「明治の山旅・箱根山を越える」 P66より

「「『山』高原特輯号原稿「高原と高山 ひとつの?」の原稿用紙裏面」より
(略)東海道本線の三島駅だといえば、それは薄原(すすきはら)だと、雲助根性を発揮して、割増賃金を要求して動こうとしない。それでも、地獄の沙汰ですら、左右出来る金の力で、荷は東海道線の三島駅に事なく運ばれて、三時十二分の列車に塔(とう)じて、沼津に向かった。で終わったまま、目的地の牛臥や、その後の状況の記述がなかったため、もしかしてと「三津浜」行のことも想定して見ました。
雑誌『山』の創刊は昭和9年1月なので、昭和12年以降、京都帝大農学部時代の執筆(講義ノート)か 検討要 2017・8・16 保坂
9月21日、高尾山から西南を指して甲州街道を下り、与瀬駅(同年小仏トンネルが開通)までを歩く。
                                   「明治の山旅・高尾山」より
「秋ノ高尾山」
東京府第一中学校博物学教諭浦部虎松先生ト共ニ武州ノ高尾ヘ一日ノ楽シイ採集ヲシテ
朝五時少シ前・市ヶ谷→
(甲武線)→新宿→(とだしば・てうせんぎく・ひめむかしよもぎ・すゝき・はぎ等)→国分寺の雑木林(をみなへし・おとこへしガはぎ・すゝき等・きゝやう)(あざみ・かうぞりな・ひよどりばな・まつむしさう等)→立川・多摩川堤防(なでしこ・まつむしさう)→日野(つりふねさう・しらやまぎく・なんてんはぎ・かはらけつめい・をみなへし・すゝきおとこへしひよどりばな・はぎ・つりがねにんじん・まつよひさう・ひめじよをん)→豊田(ひめしをん)→八王子駅デ、中央線ニ換ヘ→7時30分浅川着、停車場附近(くさぎ・つりふねさう・きんゑのころ・むらさきゑのころ等)(やまぜり・くさぼたん・からすのごま等を採取)→8時半・高尾橋着・琵琶瀧道へ→(めなもみ・からすのごま・あぶらすき・よめな・いぬたで・とぼしがら・やくしさう・ひよどりばな・つゆくさ・くはくさ・てうせんぎく・ゑのきぐさ・●えひしわ・●・くさのわう)(たまあぢさい・ぢしばり・しらねせんきう・いぬがんそく・みぞそば・おとこへし等・やまのいも・こぶなぐさ・ふうろさう・きつねのまご・きんみづひき・だいこんさう・ちからしば・いたどり・つるぼ(果)・あきのたむらさう・かたばみ・やぶまめ・くるまばな・はこべ・すめのひゑ・よもぎ・つるあづき・まんじゅしゃけ・みづひき・いぬつげ・ひめはぎ・あうね・くず・さるとりいばら・しほで等・はみづごけ)→二軒茶屋附近(てうせんがりやす)(げじげじいだ・おほばのゐのもとさう・くまわらび・すゝき・りうなうぎく)→一大松樹ノ下ニ(せんぼんやり)→琵琶瀧の岸壁ニハ(いはなはこ・ねぐさ・ほらごけ)・其ノ附近ニ(あまちゃづる・みやまねこのめさう・しうぶんさう・うはゞみさう)→本道へ戻る道で(ちゞみざさ・はぎ・こあかう・いぬわらび・あきのはたこぐさ・やぶそてつ・あをまを・さじはぐま・しうぶんさう・あきのきりんさう・みつば・ひめがんくびさう・きじょらん・よつばむぐら・やまむぐら・ゑびね・うまのみつば・なきりすげ)→本道に出てから「左右ニ杉苗寄進ノ札ヲ樹テ」→(うしはゝぐま・つるりんだう・しらやまぎく・やぶらん・おほばこ・ぬすびとはぎ・さいどがや・もみぢはぐま・とうひれん・ふくわうさう・きくあざみ・あきのきりんさう等)→11時半・薬王院本坊ノ側ナル一小茶屋・「此処デ弁当ヲ開キ、茶ヲ飲ミ、又採品ヲ假ニ油紙ニ移シテ、僕ガ背負フコトニナッタ、ソコデドノ路ヲ取ッテ帰ロウカト云フノデ、本道ヲ下ロウカ、小仏ヘ出ヤロウカ、或ハ与瀬ニ向ハウカト云フ議ガ出タガ、終ニヨセバヨイノニ与瀬行キト定マッタ、与瀬ハ此処カラ三里アルト云フ」・「茶亭ヲ出タノガ十二時十分」(つるりんだう・をけら・はぎ等)→高尾山頂(かしはこがんび・めがるかや・おがるうや・まつばなでしこ・おきなぐさ・おとこよもぎ・をみなへし・すゝき・くるまばな・あぶらすゝき・しらやまぎく・はぎ・まるばはぎ・あきのたむらさう等→「・・ソコデ大奮発デすゝきノ中ヲカキワケテ、ヤウヤク其ノ路ヘ下リタ時ニハ手モ顔モ大分傷ヲ蒙ッタコレカラサキハ下リ路デ大分楽デアル(もみ?ノ林)(もみぢがさ・をとこへし・やまあざみ)(あきてうじ・あかばな・ことぢさう)甲州街道→(かはらはゝこ)木良→与瀬→6時25分市ヶ谷着 明治三十七年五月発行「博物之友 四巻二十二号 秋ノ高尾山」より
9月、「博物之友 二巻十四号」に「雑録 植物雑話 第五回」を寄稿する。
10月、日光旅行を行う。     「横浜開港資料館所蔵 山日記」より 
0月、「博物之友 二巻十五号」に「雑録 植物雑話 第五回ノ続」を寄稿する。
12月、早田文蔵が、「植物学雑誌 第191号」に「南会津竝に其の附近の植物」を寄稿する。

  「尾瀬回想 尾瀬≠ニの出会いと関わりあい”」 冒頭の部分より
 僕と尾瀬との関わりは、初めて尾瀬と言う地名と出会ったのは、明治36年西紀1903年でね。1月20日発行、植物学雑誌、第191号。当時、東大植物学科の学生で、早田文蔵と言う植物の非常に好きな人が居て、その人が、「南会津並びにその付近の植物」と題する一文を掲載して、明治31年7月にこの地方に植物を採集した時の記憶を筆にした中に現れる。早田君の足跡を辿れば、群馬県の渋川から沼田町に達し、川場を経て、花咲峠を越えて戸倉迄足を伸ばし一泊(戸倉には、木賃宿式の農家が在ったんだね)。翌朝、沼山峠を越えて桧枝岐に下り、その翌日(多分)会津駒ヶ岳に採集して歩き、又尾瀬に戻り、燧ヶ岳の麓(多分沼尻辺りと思うが)で、ナガバノモウセンゴケを発見して、更に何処かで、ヤナギトラノオ、タテヤマリンドウ、エゾセキショウ等の珍品を採ったと言う記事が出ていたので、尾瀬と言う所の名前を初めて僕は知った訳だ。 
   注:「南会津竝に其の附近の植物」論文の発行年については 再確認済(12月) 2015・12・17 保坂記  
1903 明治36年 20
1月、第3回日本博物学同志会の談話会が永田町山王社境内の茶屋「楠本」で開かれ、標本の展覧会や講演会等が行われる。出席者の中に高野鷹蔵がいて、初めて知る。
1月25日、「一年志願兵服役願」を第一師団長 伏見宮貞愛(さだなる)親王宛に提出す。
2月、「博物之友 三巻十六号」に論説 ロウバイに就きて・雑録 北米の春草等を寄稿する。
3月、「博物之友 三巻十七号」に雑録 北米の春草・暑中休暇を寄稿する。
4月、千葉県安房郡清澄山に訪う。  「明治の山旅・清澄山」より
  
発見した六弁のタチスボスミレのスケッチ
三十六年四月七日、上総興津隧道附近ニテ株
本所→(総武線)→千葉→大原→(ガタ馬車)→小池→勝浦(泊)→(翌朝は勝浦を発して十六キロを距てた天津に向かったが、道路は狭くて、その上悪路とあっては、馬車を通じ難いので、人力車にたよるの外なかった。勝浦から松部までは、海に沿い、ここから鵜原までは、ちょっと凸出した小半島を横断するので、景は大したこともない。次の守谷は、狭小な地ではあるが、海を眺める景はなかなか壮快である。次の興津は随分と殷盛な町と見た。再び海を離れ、浜行川を経て隧道を越すと大沢だが、ここの海岸はなかなか豪壮で、なかんづくお千転がしと俗称する部分は、烈風の日に
は、通行ほとんど不可能だと耳にした。)→大沢→→小湊→鯛ノ浦→天津・油屋(泊)→清澄山(マキノゴケ・シロバナノショウジョウバカマ・ウラジロ)→帰京    「明治の山旅・清澄山」より
4月、牧野富太郎、「植物学雑誌 第17巻第194号」に「はないかだ芽鱗上ノ花」を寄稿する。
(略)芽鱗ハ長楕円形ニシテ緑毛ヲ具ヘ其質厚カラズ而シテ此ノ如キ状態ハ予ハタゞ之レヲ雄本ノ上ニ認メシノミ雌本モ亦(また)此ノ状ヲ呈スルヤ否ヤハ尚未ダ検スルニ及バズ、予ハ武田久吉君ノ恵贈セラレタル標品トニヨリテ此事実ヲ知リ後ノ我標品ヲ検シテ亦此ノ如キ状態アルモノ若干ヲ得タリ即チ一ハ明治廿二年五月廿二日土佐國高岡郡鳥形山ニ採リタルモノ一ハ明治三十二年四月廿七日武州小豆澤ニ採リタルモノナリ由エ是観之此現象ハ普通ニ此樹上ニ行ハルゝモノト見ユ、芽鱗花ヲ載ス極メテ異例ニ属ス記シテ同好ノ士ニ報ズト云ウ、
                     
 植物学雑誌 第17巻第194号」に「○はないかだ芽鱗上ノ花 P67」より
4月25日、「第四回講演会戯曲梗概」が「東京外国語学校校友会」から刊行される。
    資料 横浜開港資料館 久吉(文書類)No615−7 講演会に本人名の掲載はありませんでした。 2016・7・20 保坂
5月、河田と高尾山に登る。 明治三十七年五月発行「博物之友 四巻二十二号 ○秋ノ高尾山」より
6月12日、「東京府北豊島郡巣鴨町役場」より「徴兵身体検査執行通知」が送られる。
6月26〜27日、武州御嶽山に植物採集を行う。
    御岳神社の傍らでも、「清澄苔忍(きよすみこけしのぶ)」を発見する。
            「明治の山旅・牧野先生と「清澄苔忍」」より
    この時、「はこねぐさ」も発見する。
資料@ 「○寡聞管見録(其二) ●八、はこねぐさ支那ニ産ス」から
 (略)
予モ昨年武州御岳山麓ニ見タリ、武甲ノ境盖シ其ノ産地ノ北限タルベキカ。
資料A ○寡聞管見録(其二) ●十 再ビきよすみこけしのぶノ産地ニ就テ」から
房州 清澄山頂
上州 榛名山榛名神社近傍
野州 日光瀧ノ尾神社附近
武州 御嶽山御嶽神社近傍(卅六年六月予此ニ得)
信州 浅間山麓(田中貢一氏ニ據ル)
信州 赤石山麓(同右)
土州 安芸郡(牧野富太郎氏ニ據ル)
由是観之其ノ産品比較的広大ナルモノニシテ、本邦中部以西ノ各地ニ産スルコトヲ知ルベシ、然レモ未ダ日光以北ノ地ニ得ズ、切ニ同好諸士ノ探求ヲ待ツ。
                        明治三十七年五月発行「博物之友 四巻二十二号」より
7月、「博物之友 三巻十八号」に論説 左まきと右まきとに就いて・雑録 北米の春草を寄稿する。
7月、友人と共に太郎山に登る。帰り湯元に一泊して翌朝、白根山に登る予定を風雨に阻まれ金精峠で残念する。 「明治の山旅・白根登山」より
   この採集登山で、「みやまちどり Platanthera Takedana Makino.」を発見する。
                                   
牧野標本館所蔵 MAK026178
7月24日〜28日、河田黙と夏沢峠から赤岳へ。八ケ岳でヒナリンドウやタカネシダを発見する。
高崎→御代田→岩村田→馬流(泊)→猪名湖・長湖→猪子ノ原(アヤメ・ノハナショウブ・ヤマオダマキ・カラマツソウ・オミナエシ・マツムシソウ・シラヤマギク・ヤマハハコ・ヤマノコギリソウ・クカイソウ・シシウド)賽ノ河原→馬返し(ヤナギラン・キンバイソウ・ウマノアシガタ・クカイソウ・ホッスガヤ)(コメツガ・カラマツ・ゴゼンタチバナ・コバノイチヤクソウ・キソチドリ・マイズルソウ・ツバメオモト・ツルツゲ・ハクサンシャクナゲ・レンゲツツジ・オサバグサ・キバナノモマツメ・クリンソウ)本沢温泉(泊)(ハクサンシャクナゲ・ゴゼンタチバナ・サンゴゴケ・カラマツ・コメツガ・アオジクスノキ・シラタマノキ・フタバラン・コガネイチゴ・ゴヨウイチゴ・ツマトリソウ・マイズルソウ・ミヤマゼンコ・ガンコウラン)→ 夏沢峠→(シラビソ・イワセントウソウ・ハイマツ・ミヤマハンノキ・ダケカンバ・ミヤマシオガマ・ミヤマダイコンソウ・ツガザクラ・イワヒゲ・イワウメ・ムシトリスミレ→硫黄岳(ハイマツ・チシマギキョウ)天候不順のため下山→本沢(泊)→硫黄岳→横岳「二十三夜の石碑」ムシトリスミレ・ミヤマアケボノソウ)「大聖不動明王の石碑」→赤岳→本沢(泊)→渋ノ湯→稲子(コメツガ・シラビソ)臼田(泊)
   @この時の採集品は、一と揃えて研究用として、牧野先生に呈上したが、それ等は六十五年余を過ぎた
     今日でも、牧野標本館に保存されていることであろう。
 「明治の山旅・八ヶ岳」」より
   A本沢温泉付近で、アオジクスノキ、一名ヒメウスノキも採集する。 「明治の山旅・初夏の日光山」 P261より
   B第四巻五十六頁ニ於テ予ハ日光ニ創見セラレタルひめうすのきヲ信州南佐久郡本澤の地に得テ・・(略)
                  「明治38年1月 博物之友第弐拾四号 再ビひめうすのきノ新産地ニ就テ P53」より
この頃の、八ヶ岳登山について
(略)
だがその頃の交通や旅館のことを思い出して見ると、遺憾乍ら実に不便極まりないものであった。八ケ嶽旅行の古い記録を捜し出して見ると、午前六時上野発、八時四十分高崎着で、現今よりは二十分は余計にかかっている。それはとに角として、此処で一旦下車し、托送の荷物を受取ってから、新規に切符を求め、更めて荷を托送して、連絡の列車で九時出発、軽井沢迄三時間を要したものである。小海線など思ひもよらぬ当時の事とて、御代田からガタ馬車で一時間を費して岩村田に着き、車をかえて更に二時間もして臼田着。今度は新規に仕立てた馬車で、晩の七時五十分に馬流(マナガシ)に到着して一泊。翌日は人夫を傭い、八時間もかかって本沢鉱泉の、いぶせき宿に到着して、ここを根拠地としたのであった。(略)
                         
   S15・9 「山と渓谷 再燃の尾瀬ヶ原貯水池問題」より
8月11日〜14日、続けて台ケ原から甲斐駒へ。(人夫の鈴木太十はウエストンと鳳凰山に登山する
市ヶ谷→甲府→台ヶ原(竹屋・泊)
(サルマメ・キキョウ・オミナエシ・カワラナデシコ・イタチササゲーレンリソウ属・サワギキョウ・ボタンズル)→駒ヶ岳神社前宮・白須→(タニソバ・ジンジソウ・ヤマハハコ・ヤハズハハアコ・ムカシヨモギ・ママコナの1種後に新種と認められタカネママコナ)→笹ノ平(タマガワホトトギス・ヤナギラン・クカイソウ・ヤマトリカブト・ガカヨウオウレン)→黒戸山の稜線→(シラビソ・コメツガ・ジンバイソウ・ゴゼンタチバナ・シュスラン・シロバナノヘビイチゴ・クロウスゴ・ミヤマシブレ・ヒメイワカガミ・タカネママコナは密生・クルマユリ)→屏風岩の小屋(シラネワラビ・ナヨシダ・ホソバコケシノブ・オオバショリバ・ヤマイヌワラビ・シノブカグマ・タカネコウボウ・ミヤマアカラマツ・モミジカラマツ・ハクサンサイコ・タカネナデシコ・シナノオトギリ・ミヤマエンレイソウ・コオニユリ・クルマユリ・ツバメオモト・クロクモソウ・コセリバオウレン・ゴカヨウオウレン・ハンゴンソウ・ミヤマオトコヨモギ・ニョホウチドリ(?)・シナノコザクラ(?)・コメツガ・シラビソ・ヤハズハンノキ・ミヤマハンノキ・ナナカマド・ソウシカンバ・ツリガネツツジ)屏風岩の小屋(泊)→(セリバシオガマ・ツバメオモト・タカネママコナ・マイズルソウ・キバナノコマノツメ・コミヤマカタバミ・ゴカヨウオウレン・ヒメイワカガミ・ゴザンタチバナ・フタバラン・コモイコザクラ・コメツガ・チョウセンゴヨウ)→剣の刃渡り→(ベニバナツクバネウツギ・ミヤマホツツジ・ヒメイチゲ・コメススキ)→七丈ノ瀑→駒ヶ岳頂上→摩利支天岳→地獄谷→屏風岩の小屋→白須
                              「明治の山旅・甲斐駒」」より
参考/明治40年12月「植物学雑誌21巻251号P332 中井猛之進著 ○邦産まゝこなニ就テ」より
Melampyrum laxum Miq(ミヤママゝコナ) ミヤマ・タカネかの呼称は検討要
Prov.Kai:駒ヶ嶽 Aug.12.1903.(H.Takeda.) fl.specim.2.
 
 
8月、ウエストンが芦安、奈良田、さらに台ケ原から黒戸尾根を経て甲斐駒に登山し、鋸岳も目指すが途中で引き返す。
8月、甲斐駒登山を終え、新発田の知人宅(泊)より→五十公野(いじみの)→赤谷→滝谷温泉(泊)→飯豊山登山を途中で残念し下山→滝谷温泉(泊)→新発田
参考ー「飯豊山に登る」より 一部
 (略)
この行、私の最も愉快に思ったのは、滝谷新田附近で、コゴメグサの一種を得たことで、一両年後それは邦産中の稀品であることがわかり、新たにホソバコゴメグサなる和名を命ずることにした。(略)
                               
「山への足跡・飯豊山に登る」より
 
植物学雑誌19巻222号・ほそばこごめぐさ(新称)ニ就キテ」より
(「ほそばこごめぐさ(新称)ニ就キテの冒頭の部分から)一昨三十六年八月予越後ニ遊ビシ時一日新発田ヨリ瀧谷温泉ニ赴ク、途ニ瀧谷新田ヲ経テ少時ニシテこごめぐさノ一種ヲ得タリ。繊細ナル茎枝上ニ白色優雅ナル花ヲツケ、葉モ亦狭小ニシテ稍(やや)異彩ヲ呈セリ。帰リテ牧野氏ノ検定ヲ請ヒシニ氏ハひろはのこゞメグサノ狭葉品ナラント言ハレシガ其ノ学名ヲ得ザリキ、頃日Wettstein氏ノMonograph-ie der Gatt
ung Euphrasiaヲ見テ其ノ学名 E.Japonica Wettst.ヲ知ルヲ得タリ。仍テ其ノ葉ノ狭長ナルニ因テ新ニほそばこごめぐさナル和名ヲ命ジタレバ次ニ此ノ植物ヲ形貌ヲ記シテ同好ノ士ニ報ゼントス。(略)また、ひかげのかづらに就いては、瀧谷新田辺デ見タモノハ二乃至四個(の子嚢穂)ヲ着ケテ居タガ、昨年信州北安曇郡佐野坂デ得タモノニハ五個ヲ有セシモノガアル。   「博物之友」明治39年1月号 「○ひかげのかづら」より 
10月、「博物之友 三巻十九号」に雑録 北米の春草・中臥の浜辺・アドニス花・山草陳列会を寄稿する。
10月、日光旅行を行う。 「横浜開港資料館所蔵 山日記」より
12月20日、田口静が牧野富太郎に紹介され東京植物学会に入会する。 植物学雑誌 同月号より
1904 明治37年 21
2月、小島烏水が「太陽 第10巻第3号」に「甲斐の白峰」を寄稿する。
3月、「博物之友 四巻二十一号」に「寡聞管見録(其一)・水仙と風信子・清澄山道中案内記・花信一束」を寄稿する。
4月、同校独語学、英語学、国語学及び言語学終了。
4月21日付、M.Oguma(小熊捍)が〔絵はがき〕(植物学雑誌借用を希望)についてを記載して投函する。
          「植物学雑誌第二十一巻百二十四号」 横浜開港資料館 久吉(書簡)No 867より
4月30日、筑波山を訪う。
土浦→臼井(ジャニンジン)→筑波の町・「結束」→夫婦餅・気象観測所→女体山(筑波神社附近:ニシキゴロモ・タチスボスミレ・ウグイスカズラ・サルトリイバラ・アオキ・ツクバネウツギ・ヤマツツジ・コバノトネリコ・ミツバアケビ・ツクバネ・ヤブツバキ・ミヤマシキミ・ウチダシミヤマシキミ・ヤマブキ・マムシグサ・テンナンショウ・ミヤマウズラ・オオヤマカタバミ・ヒトツボクロ・コアツモリソウ・チゴユリ・ヒサカキ・ニガイチゴ・ホクロ・モミジイチゴ・センボンヤリ・コケリンドウ)(両峯の間:ヤマブキソウ・カタクリ)・(男体の頂上:ウスバサイシン・ワチガイソウ)・(女体への道:ヤマブキソウ・カタクリ・ニリンソウ・キクザキイチリンソウ・ナガバノスミレサイシン・オオヤマカタバミ・ミヤマハコベ・ヒメノキシノブ)・(女体から下る道:ツクバネソウ・ナガバノスミレサイシン・カンスゲ・トウゴクサバノオ・マルバコンロンソウ・ニシキゴロモアズマイチゲ筑波の町
5月1日(翌日)、再度、 筑波山を訪う
筑波の町→弁慶の力餅→女体の頂上→夫婦餅(小憩)→10:25分筑波の町→臼井→土浦
5月「博物之友 四巻二十二号」に「秋の高尾山・寡聞管見録(其二)」を寄稿する。
5月26日から28日、氷川・日原方面を訪う。
注意  旧仮名遣のままで表記しました。(以下原文のまま)
(略 英字による行程を省略)丹三郎ヨリ二十町許にして多摩川ヲ渡リ其ノ左岸ニ沿ヒテ上ル棚沢ヲ過ギテ道路ノ右側一大かしノ路ヲ蔽(おお)ヒテ枝ヲ出スアリ梢上かやらん多ク 果実ヲ着ク路漸ク上リ左右ノ植物稍(やや)変ズ、くりノ花盛ニシテまたたびノ白葉、谷ヲ蔽(おお)フ いはたばこハ岩ニ着キ蕾ヲ生ズいぬしだ・いぬわらび・くまわらび・いはとらのを・げじげじしだ・くじゃくしだ・はこねさう・ほいぬわらび(丹三郎)・のきしのぶ・ひろうどしだ・しのぶ・みつでうらぼし(dwarpo)・いのもとさう・ほばのゐのもとさう・しゅもくしだ・いはでんた・ゐのでぜんまい・わらび・くさそつく・いぬがんそく・ゆうれんしだ・ふくろしだ・まめづた・はりがねわらび 花アリシモノ、くり・またゝび・やまぐわ・ていかかづら・さつき(残・花)さはあぢさゐ・なはしろいちご・てりはのゐばら・ 果実 あぶらちゃん・にがいちご・すぎ・ひのき・くは 草本ニテ花アリシモノ たけにぐさ・おほばこ・こまつなぎ・こうぞりな・ほたるぶくろ・どくだみ・とりあししゃうま・くさのわう  丹三郎ノ附近ニ ほがへりがや(ホガエリガヤ)アリ
五時十五分氷川村三河屋幸右衛門ニ入ル、此ノ日風西南ニシテ微リ、概シテ晴天ナリ

(略 英字による行程を省略)
氷川日原間ニ見タル圭ナル羊歯類
いぬわらび・げじげじしだ・きよたけしだ・みやまくまわらび・わらび・くまわらび・わうれんしだ・ししらん・いてうしだ・えびらしだ・ひらうどしだ・しのぶ・こばのひのきしだ・いたちしだ・のきしのぶ・ほていしだ・みつでうらぼし・つるでんだ・くものすしだ・ふくろしだ・はこねしだ・くじゃくしだ・やまいぬわらび・ゐのもとさう・おほばのゐのもとさう・うちはこけ・ほそばのこけしのぶ・かたひば・いはひば・たうげ
ひば
           「山手帳」より  
 たうげひば←→たうげしば 検討要 2015・7・10 保坂記
   博物之友 二十七号 「秩父採集ノ記」では「たうげしば」と記述がありました。 2015・11・10  保坂記
    
参考 尚、 「秩父採集ノ記」では採集月を六月としていましたが、年譜では山手帳の日付にしました。       
5月、「かんしのぶ東京市中ニ自生ス」を発見する。 「博物之友 第弐拾四号 明治三十八年一月」より
    市内牛込市谷間ノ甲武鉄道沿道ニテ之(かんしのぶ)ヲ見タリ。
6月3日、独語による、茶に関する説明を記述(手書き)する。
      横浜開港資料館 久吉(文書類)No615−9 手書き 発表の有無に就いては検討要 2017・6・22 保坂
月6日、高尾山に訪う。
   
浅川→蛇瀧入口→琴比羅道→本道十九町目→高尾山頂→琵琶瀧→小仏頂上(4・50)→高尾(5・35)
7月16日、師範学校の教諭、矢沢米三郎を訪ね、戸隠山、黒姫山や妙高山の模様を訊ねる。
7月17日〜23日、戸隠の表山と裏山を探り、足を伸ばして越後の妙高山に登る。「山歩き七十年」より
長野・城山館(泊)→塩沢(アカマツ・ウツボグサ・オオバコ・クサフジ・チチコグサ・チクマハッカ・ヤマハギ・ノリウツギ・ニガナ・トリアシショウマ・ヤマブキショウマ・クサノオウ・コアカソ・イタチササゲ・イブキジャコウソウ)→七曲(オカトラノオ・カワラナデシコ・カワラマツバ・クサフジ・ヒルガオ・クララ・コマツナギ・ノアザミ・ヒレアザミ・シシガシラ)→荒安(コバノガマズミ・カラマツ・クララ・クロズル・イブキジャコウソウ)→飯縄原(シラカバ・マツブサ・クマヤナギ・ヒョウタンボク・カンボク・ヤマブキショウマ・クララ・ノアザミ・コウリンカ・ヒヨドリバナ・ヨツバヒヨドリ・シモツケ・マツムシソウ・シシウド・イブキジャコウソウ)→最初の沼(カキラン・クガイソウ・ミソハギ・ノハナショウブ・ミズゴケ)→浮島沼(ミズゴケ・ヒルムシロ・ミカズキグサ・アゼスゲ・サギスゲ・ミツガシワ・エンコウソウ・モウセンゴケ・サワギキョウ・ミズバショウ)→戸隠入口の大鳥居(シラカバ・ウメバチソウ・カナビチソウ・ヤマハハコ・ヤマブキショウマ・メタカラコウ・アリノトウグサ・ノギラン・ミヤコグサ・ウツボグサ・クサボケ・カンボク)→宝光社 →中社・久山家(中食)(シラタマノキ・トリアシショウマ・オニシモツケ・ヤマオダマキ・オウレンシダ・コイヌワラビ)久山家(泊)(ヒメシャガ・ダイコンソウ・コウリンカ・ウツボグサ・ヤマブキショウマ・ホタルブクロ)→戸隠原(ヒカゲノカズラ・モウセンゴケ・バイケイソウ・ショウジョウバカマミカズキグサ・ハイイヌツゲ・ヤチスギラン→戸隠原を北へ(シラタマノキ・ミズナラ・キンコウカ・ショウジョウバカマ・イワショウブ・ナツグミ・モウセンゴケ・ヤマサギソウ・ミズチドリ・メシダ)→念仏池(ホソバノヨツバムグラ・メタカラコウ)(ブナ・イタヤカエデ・トチノキ・ツノハシバミ・キクバドコロ・ルイヨウショウマ・ルイヨウボタン・リョウメンシダ・オオメシダ)→大洞沢(サワグルマ・ミヤマカラマツ・カメバヒキオコシ・資料ー1、アカネの一品→オオアカネ・サンカヨウ・トガクシショウマ)→不動沢(カツラ・テツカエデ・タカネミズキ・サワホウズキ・ミヤママンネンギク・イワインチン・ネマガリダケ)→不動の帯岩→ミヤマシダ・ヤマソテツ)→十三仏の地名がある所(一不動〜五地蔵の迄)(クルマユリ・ギョウジャニンニク)・(シラネアオイ・キバナノアツモリソウ・グンナイフウロ・オオカメノキ・ミネカエデ・サラサドウダン・アカツゲ・ハクサンシャクナゲ・コメツガ・グンナイフウロ・イブキジャコウソウ・ヨツバシオガマ・ミヤマクワガタ・ハクサンシャクナゲ・サラサドウダン・イワカガミ・ハクサンサイコ・ヒメシャジン・ミツバオウレン)・(ミヤママンネングサ)注1:守田宝丹翁が出資して建てた小屋(泊) 守田宝丹翁が出資して建てた小屋(五地蔵の峯〜)(ネマガリダケ・ネコシデ・サワラ・コメツガ・イワハゼ・ミツバオウレン・マンネンスギ・イチョウラン・キソチドリ・イワナシ・シュスラン・ゴゼンタチバナ)→八観音あたり資料ー2、ヒメウスユキ(ハナヒリノ
   
   明治15年、東京の守田宝丹が五地蔵岳の山頂に建てた小屋と
   石祠のスケッチ図
 武田博士山手帳より
キ・ミヤマホツツジ・ツリガネツツジ・オガラバナ・サワホウズキ)→山頂の一角(ハイマツ・ハクサンシャクナゲ・ネマガリダケ・ヤマサギソウ・コゴメグサ)→十阿弥陀→摩利支天の小祠(ダケカンバ・ナナカマド・タカネナナカマド・チシマギキョウ・イワベンケイ・ミヤマダイコンソウ・ミヤマハタザオ・コタヌキラン・ミヤマヌカボ・ミヤマナズナ)→測量台(ミヤマハンノキ・ダケカンバ・ネマガアリダケ・コメバツガザクラ・コイヌワラビ・ミヤマホツツジ・ミヤマコウゾリナ・ギンリョウソウ)小池(ミヤマキンバイ・ミノボロスゲ・アオジツガザクラ・サンカヨウ・ショウジョウバカマ・コミヤマカタバミ・イワカガミ)→茶池(ミヤマメシダ・ベニバナイチゴ・ムラサキツリバナ) →乙妻山(ミヤマヤナギ・ミヤマウラジロイチゴ・クルマユリ)→阿シュクノ峯→地獄谷(チシマアマナ・タカネニガナ・ヒメカラマツ・ヒメクモマグサ・ヤマウイキョウ・イワベンケイ・チシマギキョウ・ウラジロキンバイ・イワオウギ・タカネツメグサ・トウヤマリンドウ・チシマゼキショウ・
ミヤマムラサキ・キバナノコマノツゲ・(トガクシナズナ・ミヤマナズナ「同一種であることがわかった」と記す))→五地蔵の小屋(泊)(ネガマリダケ・クロソヨゴ・クロズル・ハナヒリノキ・アリドウシラン・ツクバネソウ・マンネンスギ・ミヤマフタバラン)→弘法の護摩所→(ミヤママンネングサ・ミヤマオトコヨモギ)・(ヒメクモマグサ・キバナノコマノツメ・ユキワリソウ・チシマゼキショウ・ミヤママンネングサ・ヒメスミレサイシン・コメバツガザクラムカゴトラノオ・ミヤマナズナ・イワベンケイ・イワオトギリ)→(キバナノコマノツメ・キバナノカワラマツバ)剣の刃渡→蟻ノ門渡(イブキジャコウソウ・ヒモカズラ・ヒメクモマグサ・イワインチン)→百間長屋ムシトリスミレ・ブナノキ)→奥社(ヒモカズラ・ヒメシャガ・ミヤママンネングサ・ノシュンギク・キチジソウ・アキカラマツ・クルマムグラ・オニシモツケ・シラヒゲソウは(オオシラヒゲソウ)であろう→中社(泊)→柏原→田口→赤倉温泉・香嶽楼(泊)→妙高山→赤倉温泉・香嶽楼(泊)→帰京(八日間の山旅)
                               「明治の山旅・戸隠山」」より
資料ー1
(略)
この辺(不動沢)でアカネの一品を得たが、花はちょうど満開で普通のアカネではまだ蕾も出ない時期なのは注意に値する。そのうえ各節に六枚の葉をつけていたのは珍しい。その翌月、牧野先生はここにこれの果実をつけたものを得られたので、それと私の標示とによって新変種としてオオアカネの名を命じ、「植物学雑誌」第二一四号一四四頁に発表された。普通のアカネが花を着ける八月に果実が熟するという早熟性のものである。これは後には別種に引き上げられ、九州や朝鮮にも産することが判ったし、尾瀬の鳩待峠や白馬山麓にもある。(略)
資料ー2
(略)
八観音あたりで、ヒメウスノキを得たがこれはウスノキに似た実をつけるもので、従来あまり能(よ)く知られなかった種類であり、この和名は牧野先生の命名であるが、すでに松村博士のアオジクスノキの命名があり、諸方の亜高山帯に通有ともいうべき小灌木で、夏月登山すればたいていその赤い漿果(しょうか)を見るのであるが、花は六月に咲くもので、初めてこの花を採集したのは明治三十九年六月、私が日光の金精峠に見出した時であった。(略)             「明治の山旅・戸隠山」より
注1:「守田宝丹翁が出資して建てた小屋」について
 博士が泊まった戸隠中社の久山家(旧勧修院)の玄関に掲げられている扁額の15番目に「大富邊の雨宿り 行暮れてたつきもしらぬ山人に雨宿めぐむ大富邊の神」と云う歌がある。明治15年、守田宝丹が妻女と共に登山して難儀、後人のために三百余円を投じて木造小屋を建てたという。久山家からこのことを聞いた博士は石祠とともに山頂の小屋をスケッチし記録に残しました。
  
   「あしなか 第138輯 武田久吉先生追悼号」より
7月20日、「植物学雑誌第18巻210号雑録」に「甲州駒ヶ嶽採集記」を寄稿する。(続き10月号へ)
(冒頭・番号ナシ)  東京ヨリ甲府ニ至ル
 駒ヶ嶽  甲府ヨリ台ヶ原ニ至ル
 登山ノ路  注(二は失番)  台ヶ原屏風岩間帰京 
 發程     注(三は重複)  屏風岩ノ小屋并ニ其ノ附近ノ植物
  また同号に、田口勝が「ひめいずゐ銚子ニ産ス」を寄稿する。
8月16日、日光浄土院より、華厳の滝・歌ヶ浜方面を歩く。
  
        武田博士山手帳より
8月22日、荷を神山寅吉に託し、白根登山を行う。
日光町→中禅寺→戦場ヶ原→湯元・山田屋(泊)→白根沢→前白根(天狗の角力(すもう)取場)(ミヤマハイビャクシン・ミヤマハンノキ・オヤマリンドウ・トウヤクリンドウ)→白根山頂上(荒山権現の小祠)(コケモモ・コメススキ・クロミノウグイスカズラ・イワヒゲ・ミヤマヤナギ・ガンコウラン・コメバツガザクラ・クロマメノキ・マイズルソウ・バイケイソウ・ヒメシャジン)→五色沼→湯元(泊)→金精峠→菅沼附近の小池→(モウセンゴケ・※オクヤマトンボ(カオジロトンボ「博物の友」第三十二号一六七頁)→東小川   「明治の山旅・白根登山」より
資料@ ※オクヤマトンボ  「明治の山旅・白根登山 P119」から
(略)東小川に通じる林内の寂しい小径を辿ることこと時余。小池を発見した。池畔には、よく生長したモウセンゴケが水蘚に生じ、それに捕らえられた見馴れぬ蜻蛉の一種を幾疋(ひき)か持ち帰ったが、翌々年、松村松年博士によって、その学名が分明したので、私はこれに、オクヤマトンボの名を与えた。(「博物の友」第三十二号一六七頁が、その後この種は諸方の高山(ことに湿地のある)に見られることが知られるに至ったが、見聞の狭い昆虫学者は『博物之友』を見る機会が無いと見えて、私の命名の事実を知らずして、今ではこれをカオジロトンボと呼んでいるとは、むしろ気の毒な気がしてならない。
資料A 「○まうせんごけ蜻蛉ヲ捕フ」
(略)
一昨年八月二十四日予ハ植物採集ノ為メ上野国利根郡ノ深山ニ入リシ時山中ニ無名ノ小沼アリ其ノ畔みずごけアリテ※1沮洳ノ地ヲナシ此ニまうせんごけ非常ニ繁茂シ何レモ壮大ニシテ中ニハ※2ノ長サ一尺二三寸ニ達セルモノサヘアリ紅色ニ腺毛ヲ具ヘタル葉ニ密ニ地ニ敷キ實ニまうせんぐさノ名ニ背カズ此ニ此ノ池ヨリ発生スルとんばう三種アリテ一ハやんまノ類一ハいとゝんぼノ一種不明ナルモノ一ハあかとんぼうノ類ナリ而シテ(そ)いとゝんぼハ常ニ沼畔ニ生ゼルくろばならうげやまどりぜんまい又ハすげ類ニトマレドモ此ノLibellulidaeノ一種ハ既ネ密生セルまうせんごけノ上ニ翅ヲノバシトマルガ故ニ時ヲ経ル間ニ其ノ尾端ハイツシカ該(その)草ノ腺毛ニ粘着シヤガテ飛ビ去ラントスル頃ニハ全ク捕捉サレテ脱スルコト能ハズ空シク翅ノミヲ動カシ得ルノ窮状ニ陷リ終ニハ消化サレテまうせんごけノ餌食トナルヲ見タリ此ノ如ク働作緩漫ナルガ故ニ予ハ捕蟲器ヲ用ヰルコトナクシテ其ノ数頭ヲ捕フルコトヲ得今ヤ松村博士ノ考査ヲ経テ其ノ学名 Leucorhinia rnbicunda Sel. ヲ明ニスルヲ得予ハ之ニおくやまとんぼナル和名ヲ命ジテ称呼ニ便ニセントス此ノとんぼハ北欧ヨリ西比利ニ亞互リテ分布スルモノニシテ今我国中部ニモ産スルヲ以テ見レバ本邦北部ノ山中ニハ盍シ稀少ナルモノニ非ザルベク又種々ノ点ヨリ彼ノ月山又ハ岩手山ニテまうせんごけニ捕ヘラレタリト云フモノモ是ニ非ズヤノ疑ハ直ニ吾人ノ脳裏ニ湧出スベシト雖モ今其標本ヲクノ故ニ断定スベラザルハ遺憾ナリ今後斯カル場合ニ遭遇サレタル諸君ハ充分ノ留意アランコトヲ切望ス(武田)
     ※1沮洳(しょじょ):土地が低くて水はけが悪く、いつもじめじめしていること。
   ※2● (いぬなずな):芹に似た水草で食用になる 草カンムリ+亭の合字
            「博物之友 第三十二号 明治三十九年五月」 より
8月中旬、牧野富太郎が「庚申草研究ノ為日光ヘ向ケ出発セラルヽ」 「植物学雑誌第18巻210号雑録」より
9月「博物之友 四巻二十三号」に「北米の春草・雑録 やどりきの寄生主」を寄稿する。
9月20日、田口勝が「植物学雑誌 第18巻第212号雑録」に「上総成東附近の植物」を寄稿する
 
     「明治・山日記」より
参考 成東附近の植物と時刻表
 「山日記」の記入法は、大きくは二つに分かれ、その殆んどが山岳関係とそこで検分した植物名が記されています。後半の数ページは折り々の出来ごと、例えば、打合せやその時の人物名などが記してありました。左図は田口勝の「上総成東附近の植物」を要約して書き出したもので、田口勝が検分した植物名をそのままの配列で記してありました。そして、いつでもその場所に行けるよう時刻表までも書き添えてありました。田口勝が調査した銚子や成東地区での探査は、時を経た大正14年8月となりましたが、博士は決して忘れてはいませんでした。博士の几帳面な処の一端を知る貴重な資料として掲載を致しました。2015・8・30 保坂記
 また、「成東中学附近 こもうせんぐさ」とあるのは、現在の呼名、コモウセンゴケのことで、明治二十九年七月に発刊された「植物学雑誌第百十三号 ○上杉幸吉ノ質問ニ答フ」では冒頭「氏ハ丹後国与謝郡上宮津村字小田ニ於テ農務の余暇もうせんぐさヲ採集シ其産地ノ模様並ニ此植物が葉上ノ腺毛ニテ小虫エオ捕フル有様ヲ精細ニ観察シテ一書ヲ寄セラリタリ・・・」とあり、当時はモウセングサとも呼ばれていたようです。  2015・9・12 追記
10月20日、「植物学雑誌 第18巻第213号雑録に「甲州駒ヶ岳採集記」を寄稿する。 
                     「日本山岳会の創立と小島烏水君」より 
 屏風岩ヨリ頂上ニ向フ 十二  屏風岩ニ帰ル
 頂上並ビニ其ノ附近ノ植物 十三  下山
 南坊主 十四  帰京
十一  地獄谷 十五  梗概
11月12日「日本博物学同好会 第六回例会」に於いて「日光山のランに就て」を講演する。
    来席者:梅澤・小熊・原・内田・武田・小川・河田・東條
下野日光山及ヒ其ノ附近ニ産スらん科植物ハ松村博士ノ日光植物目録ニ出ヅルモノ二十七種アリ、此ノ目録出版以来十年間ニ於テ新ニ発見サレタルモノ三十余種ニ上レリトテ右全数ヲ列挙シ一々其ノ産スル所ヲ述ベ且ツ標本ヲ示シ又同山目録ニ載レルモノ、二三ニ就テ批評ヲ試マレタリ、而シテ更ニ新発見ノモノ数種ニ就テ詳説シ殊ニとらきちらん及ひあをきらんノ二種ニ就テ其ノ花部ヲ解剖比較シテ終レリ、其ノ委細ハ追テ誌上ニ掲載セラルベシ 
                   「博物之友 二拾四号 明治三十八年一月」より
12月、長谷川泰治が富山師範学校に転居する。(明治41年10月没) 植物学雑誌同年12月号・41年12月号より
1905 明治38年 22
1月、「博物之友 五巻二十四号」に「※1八ヶ岳の高山植物に就て・日本産スミレ科植物目録・熱帯の植物界・雑録 再びヒメウスユキの新産地に就て・日光山におけるイワオウギ・※2ムシトリスミレ日光に発見される」外二篇(ふくじゅさう・支那ニ於ケルはこねぐさノ産地・かんしのぶ東京市中ニ自生ス)を寄稿する。
 また、交詢の項に伊藤圭介著、和装本「日本植物図説 草部初編イ」を照介する。
 資料
(日本植物図説の概説後)
本文五十枚最後ニ学名索引二葉ヲ附シテ終レリ収ムル所ノ植物五十品種往々高山産ノ小灌木ヲモ交ヘタリ今左ニ其ノ名称ヲ抄出セシイイハゼ。イハチドリ。(略)イブキノジカウサウ。タチジヤカウサウ(船来品)此ノ書初稿編ヲ出シタル後不幸ニシテ続刊セズ僅ニ一冊ニ終ルハ甚惜ムベシ。(武田)」
※1八ヶ嶽ノ高山植物ニ就テ(導入部分の全文)
一昨三十六年七月下旬河田君ト共ニ八ヶ岳ニ採集ヲ試ミ山上及ビ途上ニテ得タルモノ約二百種ニ達セリ其ノ紀行並ニ羊歯類以上ノ採集品目録ハ河田君巳ニ本誌二十一号以来ニ連載サレタレバ此ノ旅行ノ路線及ビ山上ノ光景等ハ会員諸君ノ巳ニ詳シク知ラルヽ所ナルベシ只山上ノ植物ニ至リテハ其ノ主ナルモノヽ名称ヲ記セルニ止マリテ盡ク挙ゲス目録ニハ羊歯類以上ノモノハ全体ヲ掲ゲタレドモ一々産地ヲ附記セザレバ何地ニ産スルモノナルヤ明ヲ※1ケリ且又予等ノ新発見ニ係ルモノアリテ新称ヲ附セシモノアレバ名称ノミ知リテ其ノ植物ノ如何ナル者ナルヤヲ知ラザル諸君モ盖シ鮮カラザルベシ殊ニ方今我国ニ於テモ高山植物ノ研究漸ク盛ナラントスルニ当リ未ダ其ノ成書ヲモ※1ケルナレバ予ガ拙(つたな)キ筆ヲ以テ記スル断片的ノモノト雖(いえど)モ多少ノ参考ニモナランカト茲ニ其ノ各種ニ就テ評記スルコトトセリ昨年七月下旬会君早川隆助氏モ亦同山ニ登リ所謂横岳辺迄至リ得ル所鮮少ナラザレシガ如シ其ノ大部分ハ予等ノ採集セルモノト異ラザレドモ予等ノ見ザリシモノ十数種アリタレバ此ニハ之ヲモ収録セリ採集品ヲ検定スルニ際シ誤診アランコトヲ恐レ其ノ大半ハ専門大家牧野富太郎氏ノ考定ヲ乞ヘリ即チ此ニ記シテ其ノ好意ヲ謝ス
左ニ録スルモノノ中新品或ハ此ノ山ニ生ズルモノニシテ他ニ産スルモノト大ニ其ノ形ヲ異ニスルモノ等ノ他一々記相セズ然リト雖(いえど)モ各種ノ産区ハ其ノ分布ヲ知ル上ニ必要ナレバ努メテ蒐録セリサレバ本篇ハ一ノ産地目録ト見エルモ可ナランカ只予ノ浅見ナル其ノ遺漏多キヲ信ズ博識ノ士幸ニ叱正セラレンコトヲ/産地ニ関シテハ多クノ書籍目録等ヲ参考セリサレド煩ヲ避ケテ一々其ノ名ヲ記サズ又洽子ク(あまねく)信州ノ諸高山ヲ跋渉セラレタル田中貢一君ノ教示ヲ俟チシコト大ナリ此ニ記シテ其ノ好意ヲ謝ス本篇ヲ見ラル丶ニ際シ願ハクハ本誌第二十二号ニ於ケル河田君ノ紀行ヲ参照セラレンコトヲ但シ時ニ或ハ重複ノ恐レナシトセズ請ヲ之ヲ諒セヨ
       ※○ ケツ かける 缶+欠の合字か、ここではとしました。 
※1八ヶ岳の高山植物に就て 概略
5巻24号 明治38年1月 導入部(はしがき)・総論・各論・しだ類 ●のきしのぶ科(一、たかねしだ) ●はなやすり科(二、ひめはなわらび)・ひかげのかづら類 ●ひかげのかづら科(三、すぎかづら)
5巻25号 明治38年3月 裸子類 ●まつ科四、はひまつ 五、しらびそ 単子葉類 ●禾本科六、みやまかうばう  以下未確認
5巻26号 明治38年5月   未確認 2015・11・18 保坂記
6巻30号 明治39年1月 ●なでしこ科二十九、いはつめぐさ  三十、たかねつめくさ 三十一、みやまつめくさ 三十二、みやまみみなぐさ ●うまのあしがた科三十三、はくさんいちげ 三十四、つくもぐさ  三十五、みやまはんしゃうづる 三十六、みやまきんぱうげ  三十七、ひめからまつ 三十八、しなのきんばいさう ●けし科三十九、こまくさ  ●十字花科四十、みやまたねつけばな 四十一、ふじはたざほ  四十二、くもまなづな
6巻31号 明治39年3月   未確認 2015・11・18 保坂記
6巻32号 明治39年5月  未確認 2015・11・18 保坂記
※2 「ムシトリスミレ日光に発見される」は「ムシトリスミレ日光白根山に発見される」か 再確認要 2015・9・25 保坂記
  表題は「○むしとりすみれ日光ニ発見サル」であったが、本文は白根山であった。 2015・11・4 保坂 確認済
資料 ○むしとりすみれ日光ニ発見サル(より全文) 
此ノ属ノ植物ハかうしんそうノ外日光ニ産スルヲ知ラレザシガ昨年七月教員養成所生徒同地ニ採集旅行ヲナセシ際日光植物分園ノ望月ト云ヘル人白根山中ニ得タリト云ウ此ノ草ハ其前年田中勝彌氏ノ同山ニ見出セシヲ以テ
※1嚆矢トスト云フ (武田生)      ※1嚆矢(こうし):物事のはじめ
 
 たかねしだ
 原図は、横浜開港資料館 久吉(文書類)) No615−32に収録
 「明治の山旅」 平凡社 P83より



  写真の掲載を検討中
  2014・9・16 保坂






参考 ながばのまうせんごけ、こつまとりさう
原図は、横浜開港資料館 久吉(文書類)) No615−33に収録




1月14日、「日本博物学同好会 第7回例会」に於いて「戸隠及ビ妙高に於ける珍稀なる植物に就て」を講演する。
  来会者:梅澤・小熊・市川・東條・河田・武田・小谷・内田
(略)氏は又トガクシナヅナとミヤマナヅナとの二者を比較し種々相類せる点を挙げて之ヲ全然別種となすは非なることを説き畢竟ミヤマナヅナはトガクシナヅナの一品に過ぎさればその学名を左の如く訂正したき旨を述べられたり
 トガクシナヅナ Draba Sakuraii,Makino.
 ミヤマナヅナ  Dr.Sakuraii,forma sinanesis,(Makino),

3月11日、「日本博物学同好会 第9回例会」に於いて「ゆりわさび及ビわうれんニ就テ」を講演する。     来会者 :鳥山・小川・小谷・小熊・田中五・武田・内田・梅澤・岸田・東
月、「博物之友 五巻二十五号」に「八ヶ岳の高山植物に就て(承前)・日光山のラン植物に就て※1戸隠山及び妙高山植物採集記(河田黙と共筆)・すみれ雑記・熱帯の植物界・雑録 花と虫(三)・アオキ」を寄稿する。
※1戸隠山及び妙高山植物採集記(河田黙と共筆) 概略
5巻25号 明治38年3月  未確認 2015・11・18 保坂記
5巻26号 明治38年5月  未確認 2015・11・18 保坂記
5巻27号 明治38年7月  未確認 2015・11・18 保坂記
5巻28号 明治38年9月  未確認 2015・11・18 保坂記
5巻29号 明治38年11月  未確認 2015・11・18 保坂記
3月25日、ウォルター・ウェストンは二度目の日本滞在を終え、故国へ向けて立することになったが、その四日前、横浜で知り合った四人(小島烏水、岡野金次郎、武田久吉、高野鷹蔵)の山友達をオリエンタル・パレス・ホテルの昼餐に招いて山岳会の設立をすすめる。
資料/明治三十八年、ウエストンは、日本から英国に帰った。その帰航の数日前に、私は岡野、武田、高野の三君と共に、ウエストンを横浜のオリエンタル、パレース、ホテルに訪れた。ウエストンは、繰り返へして、日本に山岳会建設を、諸氏の力に待ってといふやうな意味のことを言はれたが、果して英国に帰国してから英国の山岳会のマム氏、プリストル、ビショップ氏連暑の日本山岳会設立に関する激励の手紙を、寄与せられた。その手紙の全文及びそれに依って山岳設立の決意を固くして、組織に急いだことは、我が「山岳」の創刊号に、書いて置いたから、参照せられたい。  山岳第二十五年第三号 昭和五年十一月 小島烏水 日本山岳会成立まで」より
4月、日本博物学同志会の主催・第一回採集旅行で、日原(原嶋政吉方泊)から雪に埋もれた仙元峠の山越え登山を行う。   「わが山々の思ひ出」・「明治の山旅・日光から尾瀬へ」よりより
    秩父・大宮(関根屋)→別行動(河田・山中・小泉・武田)で妻坂峠(セツブンソウ・キバナノアマナ)
4月1日
(雨天)
飯田町→立川→(ひめかんすげ)→日和田駅下車→(徒歩、多摩川の左岸沿いに)(うぐひすかぐら・たちすぼすみれ・つぼすみれ・あふひすみれ・きけまん・むらさきけまん・たねつけばな・ひめかんすけ・たびらこ・えぞすみれ・のきしのぶ)→澤井(めやぶそてつ・ほそばのかなわらび・やうめんしだ・こすみれ・あかねすみれ・まるばすみれ・あふひすみれ・たちつぼすみれ・きふぢ・あまな・みやまきけまん・かてんさう)→白丸(かららん・いぬしだ・かうやこけしのぶ・かたひば・あぶらちゃん・いはでんだ・ゆきやなぎ・えぞすみれ)→氷川(昼食)→日原川の右岸を北へ(だんかうばい・あぶらちゃん・かたくり・くさのわう・しゅんらん・つのはしばみ・くまわらび・こばのひのきしだ・のきしのぶ・みやまのきしのぶ・びろうどしだ・みつでうらぼし・ほていしだ・つるでんだ・くものすしだ・かたひば・いはひば・たうげしば・ひめとらをしだ・ひめのきしのぶ・ほそばこけしのぶ・うちはごけ・はこねさう・あづまいちげ・あせび)・(山中君発見ときょしだ・ししらん)→日原(原嶋政吉方泊)
4月2日 日原(原嶋政吉方泊)→(しはいすみれ・のびる・かてんさう・こばのひのきしだ・ふでりんだう・むらさきたんぼ・つのはしばみ・だんかうばい・地くり・やどりぎ・あかみやどりぎ・すすき・みづなら・やましゃくやく・くりニやどりぎ)→仙元峠(昼食)(つが・みづなら・ししがしら・だんかうばい・くろもじ・クリニやどりぎ・あかみやどりぎ)→浦山(のきしのぶ・みやまのきしのぶ・きけまん・かうやこけしのぶ)→荒川支流沿いに下る→(はこべ・たんぽゝ・きけまん・たちつぼすみれ・かんすげ・かたくり・あづまいちげ・とうだいぐさ・ひとりしずか・えぞすみれ・いはたがらし・ゆりわさび・片平君の発見、せつぶんさう・きけまん・たねつけばな)影森→大宮(関根屋・泊)
4月3日 大宮(関根屋・泊)→(せつぶんさう・あづまいちげ・やまねこやなぎ・しろばなのえんれいさう・えぞすみれ・つぼすみれ・のびる・せつぶんさう益々多ク・きばなのあまな)→妻坂峠→大宮(昼食)→波久禮→(汽車)→帰京
           武田久吉著「○秩父植物採集ノ記」より行程表を作成する。2015・11・10 保坂記
    同行者:市川三喜・和泉友太郎・石川丈助・鳥山悌成・小川弘太郎・岡見慎二・小谷國次郎・河田黙
          片平重次・田中健太郎・田中五一・武田久吉・内藤堯資・梅澤観光・柳澤秀雄・山中太三郎
          福岡礒次郎・小泉和雄・岸田松若・藤戸信次の20名
  「博物之友第二十六号 会報」より
4月9日、日本博物学同好会第五回総集会が武田氏邸で行われる。
資料 明治三十八年五月号 博物之友 第貳拾六号 会報 第五回総集会記事(の全文)
四月九日午前九時より武田氏邸ニ於テ開会セリ。来会者ハ市川三喜、石川光春、石上定海、原
正三、鳥山悌成、東條操、小川弘太郎、小谷國次郎、小熊捍、河田春男、河田杰、河田黙、帰山信順、高野鷹蔵、田中健太郎、田中五一、武田久吉、竹崎嘉徳、内田清之介、梅澤観光、山田好三郎、山中太三郎、松村巌、牧野富太郎、福田卓、小泉和雄、岸田松若ノ二十七氏ニシテソノ次第左ノ如シ
開会之辞 庶務 小川弘太郎君
会務報告 会計 梅澤 観光君
父地方植物採集談
       
武田 久吉君
本会ノ第一回採集旅行ニ於テ得ラレシ植物ト前年日原ニ遊バレシ当時ノ植物トニ就テ報告セラレタリ。
胡蝶類ニ於ケル擬躰 高野鷹蔵君 (省略)
鉱物採集談 石上定海君 (省略)
昼食
植物学ニ関スル訳語ノ変遷ニ就キテ
牧野先生
訳語ノ必要ヨリ説キ起ノ植物学上ノ訳語ノ起原及ビ変遷ニ就キ種々ノ参考書ヲ示シ説明セラレ更ニソノ可否、誤用等ニツキテ注意セラル丶所アリ次ニ趣味アル古書及ビ貴重ナル古標品ヲ示サレコレコレニツキテ説明セラル丶所アリキ詳細ハ追テ誌上ニ掲載セラルベシ。
植物ノ灰ノ分量ノ割合ニ就テ 帰山先生 省略)
 写真撮影/茶果/図書標品類展覧/右終リテ午後五時散会セル。
 当日ノ出品者及ヒ出品物次ノ如シ。
●牧野富太郎君出品目録
伊藤錦(圭介) 泰西本草名疏 三冊 小石川植物園草木目録 三冊
救荒本草 一冊 教育博物館列品目録植物之部 一冊
松本駒次郎 植物啓蒙 三冊 伊藤圭介  植物乾せき法 一枚
松村任三、伊藤圭介 植物小学 二冊 植物学 一冊
天野皎 博物小学植物篇 二冊 植物訳筌 一冊
植物畧解 一冊 宇田川榕庵 植啓原 三冊
百科全書植物生理学 二冊 嶋次郎  文部省新刊小学懸図博物教授法 三冊
百科全書植物綱目 一冊 山口松次郎 文部省博物図教授法 二冊
安木徳寛 植物書 一冊 能勢玄栄 中学植物学 二冊
植物通解 一冊 博物館列品目録 一冊
三橋惇 初学十科全書第八集植物学教授本 二冊 理学入門植啓原訳文(牧野氏訳並ニ自書) 一冊
飜刻植物学 三冊 E.Kaempfer,Amoenitatum Exoticarum.
永田方正  由氏植物学 三冊 (英文・略)
薬圃図纂(写本) 一冊 (英文・略)
植物淺解 一冊 (英文・略)
林娜斯氏植物綱目表 一枚 (英文・略)
垤甘度爾列(ドカンドルレシ)氏植物自然文科表 一枚 (英文・略)
松原新之助 植物綱目撮要 一冊 (英文・略)
松原新之助 植物名称 一班 C.P.Thunberg,Flora Japonica.
丹羽敬三、高橋秀松、柴田承桂、普通植物学 二冊 ノルデンショルト北極探検採集植物標本 二帖
訓蒙図彙 一冊 ツクシスミレ
(Viola diffusa,Ging.)
博物小集(牧野氏手記) 一冊 ハウチハスミレ
(V.dactyloides,Roem.et Sch.)
博物局 博物雑誌 五冊 フイリゲンジスミレ
(V.variegata,Fisch.)
三好学 中等教育植物学教科書 二冊 ミギハガラシ
(Nasturtium amphileium,R,Br.)
岡村金太郎 植物学教科書 一冊
              注 「学」榕庵著の植学啓原の誤植か 検討要 2015・11・7 保坂記
●武田久吉出品目録
G.Kunze,Pteridigraphia Japonica. ハクサンイチゲ類
「コロラド」の写真帖 一冊 カタクリ  一鉢
「コロラド」「ホワイトホーン」鉱、金類採掘ノ写真 三葉 エゾスミレ 一鉢
日本産ナヽカマド類標品 ヤハズマン子(ね)ングサ  一鉢
 次に、河田黙・高野鷹蔵・小熊捍・河田杰・山田好三郎・梅澤観光の順で出品目録の記述がありましたが、ここでは掲載を省略しました。 保坂記
4月10日、「小熊、河田ノ両君ト共ニ牧野氏ニ従テ大塚辺ニ採集セシ時山手線ノ堤ニにほひたちつぼすみれヲ」発見する。  「博物之友 五巻二十六号 植物隨見小録」より
4月16日、神奈川小学校に於いて、日本博物学同好会横浜支部第二回談話会が開かれ、「食蟲植物の話」を講演する。
「食蟲植物の話」、講演の状況(全文)
氏は例の快舌を振って食蟲植物に就て述べられたり塗板上の略図と十数葉の掛図と珍稀なる標本とは一般公衆をして多大の愉快を持ってよく了解せしめたり而も亦普通ありふれたる書物に記載しあらざるの事実多くして此道に経験あるものにも大に利益となると多かりき、先づ食蟲植物なる名称より説き起して『食』なる字の意義に及ぼし遂に此等の植物をが『肉を消化する植物』と称する方適切なりと云はれたり而して本論に入るに際し現今世界に生存する約五百の者を捕蟲の方法によりて三類に分ち
一、瓶嚢を有するもの(外部の運動なし)
二、蟲類の接触によりて運動を起すもの
三、瓶嚢を有せず又運動を起すことなく葉に生ぜる粘体を以て蟲を捕ふるもの
其各類に就て順次に二三十種の植物に就て捕蟲の方法及び消化の状況を詳細に説明し一々demonstrateし又猪籠草瓶子草等の如き者は捕蟲器官のみならず一々の全形を描ける図を掲げて説明の●を捕ひ懇切を極め前後一時間半余聴衆をして少しも倦怠な●らしめしは氏の談の如何に歓迎せられしかを知るに足るべし氏の示されたる標本の内にはナガバノマウセンゴケ、カウシンサウ、ミメコタヌキモ等の珍品ありて殆んど邦産の食蟲草を網羅せしものなり。
氏の講演終りて後来会者一同撮影し再び左の講演あり。

参考 当日の講演者:梅澤観光・高野鷹蔵・小泉和雄・武田久吉・小嶋久太(発表順)
         出品者:小嶋久太・荒川一郎・高野鷹蔵・武田久吉・山中太三郎・左羽麟太郎・小泉和雄
         片平重次・松野重太郎・石井直(記述順)   
  「博物之友第二十六号 会報」より
4月20付、五百城文哉が「採集草の図およびその説明」についての「はがき」を送る。
             横浜開港資料館久吉(書簡) 804 より 内容未確認のため調査要 2015・9・11 保坂記
4月23日、日本博物学同好会の12名が、志村・戸田橋方面に遠足を行う。
上野→赤羽→小豆澤→志村(コノ間、わださう・にほひたちつぼすみれ・しんすみれ等アリ、赤羽附近ノ畑ニつちはんめう、つまきてふノ飛ブ)→荒川沿い→(さくらさう・のうるし・ひきのかさ・しろばなすみれ・やぶえんごぐさ・あまな・ちゃうじさう・はなやすり)昼食・戸田橋→左岸を下る→浮間(みちおしえ・やなぎはむし・きあげは・さくらさう・のうるし・ひきのかさ・みつばつちぐり)→赤羽鉄橋→渡船→赤羽→上野
当日の参加者名:市川三喜・小谷國次郎・河田黙・田中五一・田中美津男・武田久吉
           中野治房・梅澤観光・柳澤秀雄・山中太三郎・増田吾助・岸田松若

       「博物之友第二十六号 会報」より   ※会報の記述者は不明なので注意願います。(保坂記)
5月6日〜7日、巣鴨加藤子爵別邸に於いて山草陳列会が開かれる。
 
    牧野富太郎著「実際園芸増刊号
    高山植物研究の歴史」より
参考 山草陳列会出品目録陳列目録
 カミメサウ、チシマキンバイ、ヒメクモマグサ、イハユキノシタ、ナツノハナワラビ、カッコサウ、ミヤママンネングサ、オホヤマフスマ、エビネ、ヒメクモマグサ、アケボノスミレ、ヒトツバショウマ、キバナシャクナゲ、ユキワリザクラ(白花)、クマガヘサウ、イハヒゲ、アカモノヒメシャクナゲイチエフラン、ハコネサウ、ナンキンコザクラ、リシリシノブ、ハヒズルサウ、タチカネバサウ、ヤマハナサウ、ミヤマミミナグサ、イハカガミ、キバナノコマノツメ、ルリサウ、ヒナザクラ、スズムシサウ、キクバクハガタ、ヲノヘラン、サルメンエビネ、ウルップサウ、ソノエビネ、モイハナヅナ、ムギラン、ゴカエフワウレン(ごかようおうれん)、ヒメスギラン、シリバヤマブキサウ、イチヤクサウ、キングルマ、イハチドリ、クロユリ、チシマフウロ、タニギキョウ、エゾマツ、ヒメイハカガミ、ユキワリザクラ(紅花)、ミヤマクハガタ、タカネツメグサ、ヤマシャクヤク、コケモモ、ツガザクラ、スノキ、シコタンサウ、ハゴロモグサ、キエビネ、コバノツメクサ、ミヅイテフ、ゾタヤクシュ(ずたやくしゅ)、カウシンサウ(こうしんそう)、キミカゲサウ・イハハタザホ、ホソバヤマブキサウ、イカリサウ、アヅマギク(紅、紫、白)、サンリンサウ、ホテイアツモリ、チングルマ、ヒメウラジロ、ヤマガラン、ウチャウラン、ミヤマダイコンサウ、ガンカウラン、イハナシ、イハゼキショウ、フデリンダウ、ハリガネカヅラ、ハナセキシャウ、チャルメルサウ、タカネヒカゲカヅラ、タチクラマゴケ、タイトゴメ、エゾアヅマギク、オホサクラサウ、マンネンスギ、コアツモリ、サンセウヅル、ユキザサ、シラネアフヒ、テンナンシャウ、ミヤマキンポウゲ、ヒモラン、ヒモカヅラ、ヒカゲカズラ、クモマナヅナ、ヒメレンゲ、モミヂカラマツ、ヒキノカサ、ムサシアブミ、キクザキイチリンサウ、コメバツガザクラ、ヒメカラマツ、イハベンケイ、ヒメイズイ、アヲノツガザクラ、イハザクラ、ハマハタザホ、ベニバナイチヤクサウ、ミヤマタネツケバナ、コイハザクラ(紅、淡紅)、ミヤマカタバミ、オホバキスミレ、タカネスミレ、フヂスミレ、サクラスミレ、ニッカウスミレ、シンスミレ、フモトスミレ、マルバスミレ、イシモチサウ、ハルリンダウ、コケリンダウ、コマウセンゴケ、イハウメ、ヘビノシタ、バイクワイカリサウ(ばいかいかりそう)、ハヒマツ、オサバグサ、オキナグサ、カヤラン、クモノスシダ、ウンラン、ゴゼンタチバナ、エンレイサウ、シロバナエンレイサウ、イソツツジ、チゴユリ、
ワチガヒサウ、サンカエフ、ミツバコンロンサウ、スミレサイシン、エゾスミレ、シハイスミレ、エヅイヌナズナ 
  
           考察 武田博士が今会の山草陳列会に出展されたかは不明なため 検討要 2015・3・24 保坂
           「こうしんそう」は特に注意 5月13日に関連あるか検討要 2015・11・10 保坂記
5月13日、日本博物学同好会第十回例会に於いて「かうしんさうに就て」を講演する。
 来会者:市川三喜・石川光春・原正三・東條操・小川弘太郎・小谷國次郎・川上瀧彌・河田黙・片平重次・高野鷹蔵・武田久吉・竹崎嘉徳
       内田清之介・梅澤観光・山田好三郎・福田卓・小泉和雄・岸田松若ノ十八名

参考資料 、「博物之友 五巻二十六号 会報 P230」より
(略・上記の続き)岸田松若ノ十八名ニシテ午後六時過散会セリ尚当日ハ河田、武田両君ノ出品ニ係ルこみやますみれ、さんりんさう、きみかげさう、みやまくはがた、
かうしんさうノ生品ヲ陳列シタリ。当日左ノ四席ノ講演アリ。(略)
  かうしんさうに就て  武田久吉君
氏ハ此草ノ花ヲ有スル生本ヲ示シ此ガ産地、種子散布ノ法、捕蟲ノ法等ヲ簡単ニ述ベラレタリ、散布ニ関シテハ本誌第二巻第十四号ニ同氏其ノ大要ヲ述ベラレタレバ略シテ捕蟲ノ法ニ関シテ略記スベシ此ノ草ハ葉面並ニ花梗上ニ腺毛アリテ盛ニ粘液ヲ分泌スルヲ以テ小昆蟲ノ触ルヽアレバ直ニ粘着サレテ又逃レ去ル能ハズ而シテ蟲ノ附着セル部分ハ粘液ノ分泌更ニ盛ニシテ終ニ蟲体ヲ消化吸収スルナリト。氏ハ尚むしとりすみれノ捕蟲法ニ説キ及ボシテ曰ハク、むしとりすみれガ葉ヲ以テ虫ヲ捕フルヤ腺毛ハ盛ニ液ヲ分泌シ而シテ其ノ溢ルヽヲ防ガン為メ葉緑特ニ反巻ストハ諸大家ノ説ク所ナレ
欧州ニテハイザ知ラズ日本産ノ者ニハ此ノ現象ハ顕著ナラズ葉ハ蟲ヲ捕ヘザル時ヨリ其ノ縁反巻スルモノニシテ捕蟲後モ特ニ巻キ上ルヲ見ズ若シ又葉縁ヲ超エテ溢出スル程液汁ヲ出スハ葉端並ニ葉脚モ葉心ヨリ高マラザレバ両端ノ何レカヨリ流出スベク殊ニ岸壁ニ生ゼル者ニオアリテかうしんさうノ如ク葉ハ水平ニ展開サルヽコトナク傾斜シテ生ズルヲ以テ如何ニ葉縁ヲ反巻スルモ液汁ハ流出スベキナリト。
5月18日、小熊捍、「スミレの種類につき問合せと、札幌周辺の植生につき報告」の「絵はがき」を送る。
検討要/高野洋子著「ヒナスミレを発見した小熊捍(まもる)先生」に同年4月1日、日原採集旅行の記述あり、上記「絵はがき」にヒナスミレの発見に関する事項が、もしかして含まれているかと思うので「横浜開港資料館久吉(書簡) 868 」の内容確認が特に必要            2015・9・13 保坂記
5月、「博物之友 五巻二十六号」に「シロバナノヤハズエンドウ・八ヶ岳の高山植物に就て(承前)・戸隠山及び妙高山植物採集記(承前)(河田黙と共筆)・北米の春草(完)・熱帯の植物界・雑録 クモマグサ果たして八ヶ岳に産するか」他十三編(武州御嶽山ニ於ケルいはなんてんトるゐえふぼたんノ所在地ノ位置ニ就テ・植物似而非類聚(一)・再ビ日光山ノいはわうぎニ就テ・対馬植物誌ニ追加スベキ植物・日本産えんれいさう属ノ三種・Artemisia sinanensisノ新産地・桜草色・Lilac colour・ねもとしゃくなげ・ひめうめばちさうノ新産地・いちげノ意義・ひんじノ名義・むらさきかたばみ・日光山ノらん科植物追報・植物隨見小録)」を寄稿する。
 また、同号「交詢」の項にガルケ著「独逸植物誌(Garcke,A.−Illustrierte Flora von Deutschland.19.Auflage,Berlin 1903.kl.8 Lwbd.M.770 Fig.)」を紹介する。
ガルケ著「独逸植物誌」紹介文の一部
(略)一年草ノ越冬スル者ト然ラザル者トノ記号ニ就テ厳密ニ其ノ区分ヲ説キタリ次に林娜リンネ氏二十四綱ヲ述ベ属ニ迄及ビテ各其ノ特徴ヲ記シ(一乃至七十二頁)更ニ十四頁ヲ費シテ自然分類ニヨリ独逸ニ産スル各科ノ性質ヲ略記シ之ヲ検索的ニ掲ゲタリ此ヨリ彌々本文ニ入ルモノニシテ頁ヲ更メ索引ト合シテ七百九十五頁うまのあしがた科ヨリのきしのぶ科マデ一百二十科七百十七属二千六百十二種ノ植物ヲ記述シ挿ムニ(略)
  参考 「福島県植物誌(1987) 福島県植物誌編さん委員会)」の文献目録に、「博物之友 五巻二十六号 5:149〜150」に「Artemisia sinanensisの新産地・ひめうめばちさうの新産地」の記述あり
5月、高尾山採集遠足会に参加、コアツモリソウを目にする。 「明治の山旅・日光から尾瀬へ」より
6月、武州久良岐郡森村海浜の荒地に於いて「あれちぎしぎし(新称)」を発見する。
              明治39年5月、「植物学雑誌20巻232号 あれちぎしぎし(新称)」より
6月29日、梅沢親光(ちかみつ)と日光・丹青(たんぜい)(オオバギボウシ(方言ウルイ))へ登山を行う。
6月30日、帝大植物分園の望月直義を誘い7回目の女貌山を行う予定であったが天候不順のため不参加となり、二人で登山を続ける。 「明治の山旅・日光から尾瀬へ」より
  行者堂→檜ヶ田和→殺生石→稚児ヶ墓→寂光石→白樺金剛童子の小石祠(ソウシカンバ)→七瀑の拝所→筥石(はこいし)金剛(コメツガ・ミツバオウレン・コセリバオウレン)→唐沢の破れ小屋→下山
7月、「博物之友 五巻二十七号」に「戸隠山及び妙高山植物採集記(承前)(河田黙と共筆)・ホバコゴメグサ(新称)に就て・ホツツジの二品・熱帯の植物界・雑録 秩父植物採集ノ記」を寄稿する。
         バコゴメグサ(新称)→ソ ではないか検討要 出典元:武田久吉著作展 S47 2017・3・29 保坂
        参考 また 国会図書館は「博物之友 五巻二十七号」を所蔵せず
7月6日から5日間、日光〜湯本〜金精峠〜戸倉〜尾瀬へ植物採取旅行を行う。
日光〜湯本(泊)〜金精峠(コメツガ・カモメラン・ラセウモンカズラ)〜菅沼〜一ノ瀬(バイクヮウツギ)〜東小川・東翠館(泊)〜蛇倉峠〜閑野〜戸倉・たまき屋(泊)〜アテ坂〜鳩待峠〜山ノ鼻〜尾瀬ヶ原に吐き出された時(コツマトリサウ・タテヤマリンダウ・キンカウクヮ)〜尾瀬平を走るように〜(ヒツジグサ・ネムロカハホネ・ハッチャウトンボ・イトトンボの珍種)桧枝岐小屋(泊)〜白砂の湿原(イハカガミ・キヌガササウ・白砂川にイメバチモ・ヒアフギアヤメ)〜沼尻平(ナガハヤナギ)〜清水俣〜三平の上り(エゾムラサキ・シラタマノキ・アカモノ・アスヒカズラ)〜三平坂を南に下る〜船河原鉱山事務所〜中ノ岐澤〜片品川(トチ・ブナ・ミズナラ・カヘデ)〜野営(泊)(トチノキ・アスナロ・オホレイジンサウ)〜四郎嶽の東肩らしい(ネマガリダケ)〜丸沼の奥の湯澤〜大尻沼〜一ノ瀬〜金精峠〜湯本(泊)〜日光 「初めて尾瀬を訪(おとな)う 」より
 尾瀬でのスケッチ  横浜開港資料館所蔵武田博士山手帳より
    
尾瀬ニコユル峠ノ堺ヨリ西ニ笠科山ヲ望ム     ・・・至仏山ヲ望ム        尾瀬湖畔ヨリ北々西ニヶ岳ヲ見ル  
初めての尾瀬の印象(一部)
(前略)再び沼尻平の湿原、次に樹林、復も押出しの湿原。それから大入洲迄は湖畔に沿って、ナガハヤナギの根に足を托し、波に漂ふ鮒の死屍を踏み越え(踏み越え)、幾度泥棒に足を奪はれたことか。そして又も密林に入り、浅湖の湿原を横切り、更に森林を横断して清水俣に出て、間もなく縣道に合してホット息を吐いた。
 何といふ変化に富む植物景! そしてまた何といふ美しい風景!! 単に「珍品を蔵するに止まらないこの宝庫!!!」 私は唯々驚嘆してしまった。拙
(つたな)い筆では到底写すことは出来ない。(後略)
            機関紙「山岳」 の創刊号に尾瀬紀行、「初めて尾瀬を訪(おとな)う (「尾瀬と鬼怒沼」昭和5年)」より。
金精越え記述の一部分より  P128
金精越えはいつも二時間、上がり一時間半で下りが半時間であるが、重荷のため手間がかかった。金精沢沿いの径は、コメツガの巨木に交じって、ウラジロノキやオオカメノキがあり、それらの根元にはゴザンタチバナやマイズルソウがある。一時間ほどで、峠の名の起りである金精神社に来た。往年の暴風雨に破れた小祠は近頃修理されて新しく、神体は男茎形に刻まれた石像で霊験いやちことか。
 ここから更に二キロほどで頂上。時に十時四十分。東方の眺望極めて佳。今では頂上に金精神社を建て、かって見たところによると、三位一体の神体を祀ってあったが、これは古来のものではなく、最初のは金剛童子の祠に金精大明神を祀ったものだと聞く。ここで高山甲虫の一種であるミヤマハンミョウを見た。西面もまたコメツガの密林で眺望はないが、下り切れば右に菅沼が展開し、湖畔を清水と呼ぶのは、小流木の在るに由るか。

               「明治の山旅・日光から尾瀬へ」より
この頃の、尾瀬旅行について
(略
三十八年七月六日、日光の湯元を発し、金精峠を越して先づ上州に足を入れたのであった。今のやうに、バスが有るので無くとも、完全な地図があり、道程が判然としてゐるなら、その日に戸倉迄脚を伸ばせたのを、輯製二十萬といふ怪し気な地図しかなかった為め、案内兼人夫に傭った宮川の勝といふ狡猾な男の言に乗せられて、上小川の穢苦しい宿に投じ、翌日は馬に荷をつけて戸倉に達し、此処で人夫雇傭の為めに一日費してしまった。戸倉は片品村最奥の部落で、戊辰戦争の時焼き払はれた上に。生産物も碌に無いといふ気の毒な寒村。折悪しく養蚕で血眼になっている時とて、人夫に出ようといふ者は一人も無い。玉城屋の先代萩原甫作が奔走の結果、職業が猟師といふ処から、養蚕をやらない萩原喜一と、越後から出稼に来てゐた欲張爺の何とかいふルンペンを、五六十銭が相場であったその当時、二円づゝの日当と湯元の宿泊料とを支払ふならといふ、虫の良い要求を容れて引連れることゝし、笠科川に沿うて溯り、その日は原を横断し、東端丈堀の傍で、桧枝岐の釣師の掛けた掘立小屋に雨露を凌ぎ、翌日は燧ヶ岳の裾を廻って尾瀬沼に達し、更に湖岸に沿うて県道に出た。その間は道路らしいものは全く無くて、釣師の踏跡を拾って辿るのであるから、或時は股迄浸って渓流を徒渉し、或時は笹藪に阻まれ、又或時は泥濘に足を奪はれたり、隠れた倒木に向脛を払はれて(てん)倒するなど、名状す可からざる困苦に遭遇したのであった。(略)  S15・9 「山と渓谷 再燃の尾瀬ヶ原貯水池問題」より
7月、上記、尾瀬への植物採集旅行に於いてシロバナヒメシャクナゲ(Forma leucanta Takeda)を発見する。
7月7日、小島烏水が、「日本山水論」を「隆文館」から刊行する。
参考/「日本山水論」といふ本を書いたときに、序文に「友人武田久吉氏が、植物標本を、高野鷹蔵氏が、胡蝶標本、及び右に関する材料を貸与せられたるを徳とす、二氏年齢少うして、きはめて篤学の士、居常、余の二氏に負ふところ多し」と書いたが、今となっては、高山植物の権威なる武田博士や、小鳥の会の創立者、鳥類の恩人、高野君などを、少年扱ひにしたやうに取れるのは、全く済まない気がする。武田君等は、当時中学生であったかと思ふが、「博物之友」なる雑誌を発行し、種々科学上の新見を発表せられてゐた。
                 「山岳第二十五年第三号 昭和五年十一月 小島烏水 日本山岳会成立まで」より
7月7日、山岳会設立の件で、高野鷹蔵、梅沢観光、河田黙の三名が小島烏水の紹介状を携え、本郷西片町の高頭仁兵衛家を訪ねる。(注意:武田博士は尾瀬探険旅行の最中のため、この時は不参加)
7月中旬、梅沢観光からの連絡が入り高野鷹蔵、市河三喜と一緒に、高頭家を訪ねる
7月20日、「植物学雑誌19巻222号」に「ほそばこごめぐさ(新称)ニ就キテ」を寄稿する。
8月、「博物学雑誌 6巻61号 動物標本社」に「ホソバココメグサ(新稱)に就て」を寄稿する。
                       内容未確認のため調査要 2017・4・9 保坂
8月1日〜4日、大宮口から吉田口に下る富士登山を行う。 「甲斐の権現岳」より
1日 「東京から大宮まで」
川→御殿場→鈴川→(鉄道馬車)→大宮→(池中にウメバチモ)浅間神社・桜屋(泊)
2日 一合目まで」
(オカメザサ・ハグロソウ・コマツナギ)→粟倉(カセンソウ・チタケサシ・オヌガヤ・タチフウロ・オミナエシ・オニドコロ・ホタルソウ・コウゾリナ・ナルコビエ・クルマバナ・キツネノカミソリ・ホタルブクロ・タカトウダイ)→村山・浅間神社境内(イチョウ・ゴンズイ・エノキ・ホウノキ・カキ・ニシキギ・ミズキ・アブラチャン・タママジサイ・モウソウチク・ハコネダケ・ソクズ・ダイコンソウ・チタケサシ・ハグロソウ・アカソ・キツネガヤ・エイザンスミレ・バライチゴ・タチコゴメグサ)札打(ふだうち)→細紺野(ほそこんの(ウスユキムグラ・ホソバノヨツバムグラ)八幡堂(タテヤマギク・キンレイカ・ヤマトウバナ・オオカメノキ・ノリウツギ・ゴンズイ・ヒロハツリバナ・コイチョウラン・ヤマトウバナ・ツルシロカネソウ・コバノイチヤクソウ大樅(おおもみ)(グンナイフウロ・トンボソウ・ホソバノキソチドリ・フジハタザオ・コケモモ・モメンズル・ムラサキモメンズルミヤマオトコヨモギ・グンナイフウロ・シモツケ・イワシモツケ・ハナヒリノキ)一合目小屋(泊)
参考 採集を終えた日の夜なべ作業
 (略)一合目は海抜約2000メートル、亜高山帯の中部以上に位し、小屋は木造で広く、床も高く、飲用水や薪炭もやや豊富だし、宿泊者も少なく、採集品の圧搾には好都合である。怪し気な夜食を済ませてから、この日の採品を処理し終わって、毛布に身を包み、穢げな布団に横たわったのは、十時頃であった。小屋番らと剛力は、客に販ぐべき菓子を食いながら何やら勝負事に余念ない様子であった。
 
頂上に向かう
 三日、衾(ふすま)を蹴って起き出たのは午前二時二十分であった。炉の火を盛んにして体を温めながら、出発の準備に音を立てると、小屋番も目をこすりながら起きて来て、朝食を調え始めた。圧搾板を締め直して毛布に包んで行李に収め(た。略)
                  「明治の山旅・富士山を跨ぐ」P166 より
3日 「頂上に向かう」
一合目小屋(トウヒ・カラマツ・クルマユリ・グンナイフウロ・ハナヒリノキ・タカネバラ・コケモモ・オンタデ)→三合目(イワオウギ・オンタデ・フジハタザオ・ミヤマオトコヨモギ)→五合目(葡匐形のカラマツ)→六合目→(オンタデ)八合目→(オランダタデ)九合目
表口頂上
「お鉢回り

浅間神社奥宮参拝→コノシロノ池→剣ヶ峰→野中氏の旧跡→(時間調整)→銀明水→東賽ノ河原→勢至ヶ窪→阿弥陀ヶ岳(俗:伊豆ヶ岳)→初穂打場(俗:大日ヶ岳)→薬師ヶ岳(俗:久須志ヶ岳)→金明水→西賽ノ河原→剣ヶ峰の下コノシロノ池→本社奥宮→(時間調整)剣ヶ峰→大沢の頭→雷岩→釈迦ノ割石→薬師ヶ岳の茶店北口頂上
「下山
北口頂上
七合目(イワツメクサ・オンタデ・イワシモツケ)→砂払いの茶屋→五合目(ミヤマハンノキ・ダケカンバ・タカネバラ・ナナカマド・シロバナノヘビイチゴ・イワスゲ・コタヌキラン・ミヤマオトコヨモギ・フジハタザオ・コメツガ・トウヒ・カラマツ・シラビソ)→三合目→二合目→馬返し(泊)
4日 馬返し(ナデシコ・イヌゴマ・タチコゴメグサ・イブキボウフウ・ハナハタザオ・オミナエシ・タチフウロ・ウツボグサ・コマツナギ・ワレモコウ・カワラマツバ・カセンソウ)→中ノ茶屋→上吉田→(鉄道馬車)→大月
  この植物調査登山の詳細は「博物之友」の「富士山を越ゆるの記 上・中・下にも記述されていました。 2015・7・9 保坂記
8月5日、武田博士→小島烏水宛てに、富士登山での様子をハガキで伝える。
資料 小島烏水著「すたれ行く富士の古道 村山口のために」より
(略)武田久吉博士が、未だ一介の学生たりし青年時代に、私のところへ寄せられた冨士便りのハガキをたまたま見つけ出したから、左に援用する。村山口経由の登山である。日付は明治三十八年八月五日で、日本山岳会成立以前のことである。/「去る一日、東京発。大宮町に一泊。二日、曇天、強て登り候処、札打辺より霧に遭ひ天照教より雨にぬれ候、同夜は一合目に宿泊。三日、一合目を発して頂上に登り内輪、外輪を周り、雲と風とを経験し、吉田口に下りて馬返に一泊。翌早朝、吉田に至りて馬車に乗じ、大月より汽車にて、午後三時半無事帰京仕り候。路の安易なると、剛力の弱きときは、洵(まこと)に予想外にて候、昆虫は殆ど零、植物は丁度好機にて、種々採集することを得候。」(略)  参考 同内容、深田久弥編「富士」の中にも所収してあり 2017・4・22 保坂
8月8日、片平重次と八ヶ岳の一峰、権現岳に植物採集登山を行う。 
  飯田町→日野春→大八田(ミヤコグサ・カワラザイコ・コウゾリナ・イヌゴマ・ナンテンハギ・オカトラノオ) →大泉村谷戸(泊)→西井出→鬼窪口(イブキジャコウソウ)→材木尾根(キキョウ・カワラナデシコ・コウリンカ・ウツボグサ・コウゾリナ)→(シモツケソウ・ツリガネニンジン・キキョウ・カワラナデシコ)イゲー水(ヤマオダマキ・マツムシソウ・ウスユキソウ・ヒメシャジン・キバナノカワラマツバ・コメツガ)→前ノ三ツ頭→中ノ三ツ頭→奥ノ三ツ頭(権現岳頂上・オオビランジ・セリバシオガマ)→谷戸(泊)そのまま信州へ
                          「甲斐の権現岳」より
8月10日、第一回目、白馬ヶ岳登山を上諏訪牡丹屋で河田黙と合流、そのまま登山を続行する。                「明治の山旅・白馬ヶ岳」より
大泉村谷戸→富士見円太郎馬車上諏訪・牡丹屋(泊)→塩尻峠→明科・池田(泊)→四ツ屋・山木屋(泊)→白馬山(12泊)→帰京8月30日。  信州白馬山麓において「ムラサキボタンヅル」を、また佐野坂で5個の「子嚢穂」を持つ「ひかげのかづら」を発見する。  「博物之友」明治39年1月号 「○ひかげのかづら」より 
10日 大泉村谷戸→富士見円太郎馬車上諏訪牡丹屋(泊)
11日 牡丹屋→(徒歩)→塩尻峠→赤科駅下車→池田町・吉野屋(泊) 
12日 池田町→(徒歩)→大町→中綱湖→簗場(西田要蔵宅で中食)→青木湖→飯森(雨がまたはらはらと降りかかる。・サワギキョウ)→北城村字四ツ屋・山木屋松沢貞逸方(泊)(細野の丸山常吉に連絡し白馬登山準備)  
13日 山木屋→降雨のため出発延期(泊)
14日 山木屋→降雨のため出発延期(泊)
15日 山木屋→細野(キキョウ・オミナエシ・オトコエシ・マツムシソウ・ミヤコグサ・コマツナギ)→二股(エゾユヅリハ・アスヒカズラ)→沼池(ミズバショウ・ザゼンソウ)→中山ノ沢→(ブナ・ネマガリダケ)→猿ー(さるくら)(ハイイヌガヤ・エゾユズリハ・ネマガリダケ・タマガワホトトギス・ナライシダ・タケシマラン・トチバニンジン・サンカヨウ・オオレイジンソウ・オニシモツケ)→長走沢(オオイタドリ・オニシモツケ・ジャコウソウ・ヤグルマソウ・エンレイソウ・キヌガサソウの大群落・カツラ)追上沢(おいあがさわ)小川草魚先生に出会う→中食→白馬尻→葱平(ねぶかびら)(シロウマアサツキ)→破れ小屋(泊)
16日 破れ小屋(ムカゴユキノシタ・イワブスマ)→頂上附近(シコタンソウ・ツクモグサ・ヨツバシオガマ・タカネシオガマ・ハクサンコザクラ・チシマアマナ・コマクサ・ハイマツ)→改築後の小屋(泊)
17日 改築後の小屋・風雨止まず、出られず(泊)
18日 改築後の小屋・風雨止まず、夕方頂上附近→改築後の小屋(泊)
19日 改築後の小屋杓子裏(ハイマツ・アオノツガザクラ・ハクサンコザクラ)→槍ヶ岳の西北麓の細流の傍(ジンヨウスイバ・ミヤマハタザオ・ミヤマオダマキ・ミヤマアズマギク・ウメハタザオ)→槍ヶ岳と杓子ヶ岳の小さな盆地・中食※クモマベニヒカゲ(蝶)→槍ヶ岳の頂上近くから北西にかかる細長い残雪(ウルップソウ・イワベンケイ・タカネシオガマ)→槍ヶ岳→改築後の小屋(泊)
参考 クモマベニヒカゲ発見の時  ※クモマベニヒカゲ(蝶)
クモマベニヒカゲ?何といふ呼びにくい名だ? と。去る人から抗議を申込まれたことのあるこの可憐な高山蝶。この名は明治三十八年(西暦1905年)の九月に、実のところ私が考へて提案し、高野鷹蔵君が採用して発表したのであるが、何も発音の練習の為めに、故らに言ひにくい名を選んだ訳では、毛頭ないのである。(略)/その(八月)十九日のことである。鑓裏に着いたのが午前十一時。一とわらり植物を見まはしてから、乱石の上に腰を下して中食を始めた頃、フト、花の間を飛び廻る小さい蝶を認め、例の捕蟲網を張って追ひまはし、捉へたのが、見なれぬこの蝴蝶。その後、二十七日下山の当日にも、大雪渓の中途でも捕獲し、慥(たし)か東京迄持帰ったのは総てゞ三四種はあったと記憶する。(略)
           「山 第一巻第八号 雲間紅日影の追憶」より
20日 改築後の小屋風雨止まず、出られず(泊)
21日 改築後の小屋風雨止まず、出られず(泊)
午後1時半頃、二名の人夫が村の使者として登り来る。
  (白馬岳騒動:詳細は1966年11月 日本山岳会々報 257号 白馬岳初期登山者・その外V)
22日 改築後の小屋風雨止まず、出られず(泊)
23日 改築後の小屋曇天で霧が飛んでいる広太郎と葱平へ改築後の小屋(泊)
24日 改築後の小屋旭岳との鞍部に下る(イワイチョウ・ハクサンコザクラ・ヨツバシオガマ)→旭岳・塩頭(ショウズ)頂上→改築後の小屋(泊)夕方からまたも雨
25日 改築後の小屋・雨と風のため、出られず(泊)
26日 改築後の小屋・雨と風のため、出られず(泊)
27日 改築後の小屋・下山の準備→氷河の遺跡の巨岩(タテヤマウツボグサ・カライトソウ・(チシマセンブリ→タカネセンブリ))→白馬尻→猿ーの岩屋→中山(トガクシショウマ)→二俣ムラサキボタンヅル→四ツ屋・山木屋(泊)
28日 四ツ屋・帰京準備・山木屋(泊)
29日 山木屋(マツムシソウ・オグルマ・ツユクサ・サワギキョウ)佐野坂ヒカゲノカズラ・ミズゴケ・モウセンゴケ・コゴメグサの一品・キンコウカ)大町・対山館(中食)→池田町→明科・明科館(泊)
30日 明科・明科館(篠ノ井線)→軽井沢→上野

山上の破れ小屋と六名の人夫 「明治の山旅・白馬ヶ岳」より
参考 山岳荷物の内訳
 ここで人夫達は荷を整理し、山中での食として、白米一斗を加えた。その他の食料として、固形味噌、醤油エキス、梅干、千瓢、椎茸、白子干、焼麩、味付海苔、お多福、鰹節、桜鰕、葱、馬鈴薯、砂糖、スターチ、ビスケット、果物缶詰のごとき物で、従来の経験から、肉類の缶詰は特に省いた。そのほか、薬品数種、ナイフ、フォーク、匙、缶切り、針金、西洋ローソク、アセチレン灯、火縄、捕虫網、宝丹万福、万年筆、糸、紙、マッチ、鉛筆、金かんじき、手拭、小刀、楊子、小楊子、歯磨、石鹸、鏡のごときは申すまでもない。(略)
            
「明治の山旅・白馬ヶ岳」 P200より

「植物学談義 野菜と山菜 発行S53・9 P44 」より
 (略)始めて白馬ガ嶽に登った時ー明治三十八年の夏ー 味噌汁の身にとて人夫が歯朶(しだ)の若葉を採って来た。俗称を「たけわらび」と呼ぶという。それには黒光りのする鱗片が着いていたので、みやまめしだだろうとすぐに推定できた。
 歯朶の類で昔から食用になるのは、わらびとぜんまいであるが、そのほか、くさそてつの若葉のまだ開かぬものもなかなかに味がよい。そしてその姿からこれをこごみまたはこごめと呼ぶのも面白い。近年やまどりぜんまいも諸方で食用に供するようだが、それを葉形からひのきぜんまいと呼んだり、かくまと称したりして、俗称は一定していないらしい。またかくまとよばれる歯朶もこれのみに限らないで、土地によってはりゃうめんしだをかく唱える。そしてこの方は食べる代わりに、成熟した葉を干して尻拭いに用いるのである。
(略)
   この年頃の、登山については、「原色日本高山植物図鑑 私の経験 8・尾瀬と白馬(附り 富士山と権現岳)に詳し 2014・7・22 保坂記
9月、「博物之友 五巻二十八号」に「戸隠山及び妙高山植物採集記(承前)(河田黙と共筆)・熱帯の植物界・雑録 サクラソウの新産地」他三篇を寄稿する。
9月10日、高野貞助が、上野国館林附近の沼池で、むじなもを採集する。
9月23日〜25日、日本博物学同志会の12名が相州塔ノ岳に登山を行う。山頂には午後5時55分に到着したため、下山は案内人と共に小田原提灯一つを持って翌朝午前2時松田駅前の宿舎・富士見屋に到着する。  「日本山岳会の創立と小島烏水君」より  (参考 10月14日の項と一部重複しています)
  (塔ノ岳の山頂には)、ウメバチソウとことにウスユキソウの大群落は瞠目に値する光景であった。
                          「明治の山旅・塔ノ岳」より
高さ三丈の黒尊仏
(略、明治38年9月24日に、)汗を拭き拭き無茶苦茶に、登って行く内に破れた小屋跡と不動尊の石像のある水場に出た。それから僅でハッキリした小径に出遭い、それを少し左に行くと、目の前に高さ三丈もあろうかと思われる黒尊仏が立って居た。諸士平を出てから四時間近くを費した沢である。
 黒尊仏は高さ五丈八尺ばかりといわれ「其形座像の仏体に似たり、故に此称あり」と古記録にある。此の石に雷穴という穴があって、それは雷神が棲んで居たといわれる。旱魃の時には山麓の村人は、竜の形物を造り、幾本かの長旒を押し立て、鐘や太鼓を鳴らし、懺悔懺悔六根清浄を唱えながら、三里の難路を塔の嶽に押し上り、彼の雷穴に石や木を投込んで、雷神を怒らせると、忽
(たちま)ち豪雨が降ると信じられて居た。又この「岩上に生ずる苔を上人お衣と称し、虐疾を煩う者あれば、是を取って煎じ用うれば必ず効験あり」などとも謂われて居る。
 一行は石の高さを測ったり、お衣なる苔を採集してその何なるかを確かめたり、写真を撮影したりなど、いろいろな欲深い計画を持って居たが、時刻の遅い為皆それを後日に延す他なかった。その後幾年かを経過しても、それを実行する機会を持ち得ない内に、大正十二年の震災に、尊仏石は金沢
(かねざわ)の谷深く埋もれてしまい、あたら名物が永久に失われたことは、返す返すも遺憾である。
                     
 雑誌「山と渓谷」昭和26年4月号「四十年前の丹沢を語る」より
塔ノ岳登山に於ける参考資料
 1905年には学生時代の武田久吉が、玄倉川を経て塔ノ岳に登り、イワシャジン(MAK086424)を採集(9月24日)し、牧野富太郎が新種として武田氏に献名、記載している(Makino、1906)。丹沢をタイプロカリテイとする最初の植物である。武田はこのときの山行が丹沢の学術的登山の嚆矢であると記している。
                                   
イワシャジン
       
「丹沢大山自然環境総合調査報告書(神奈川県・環境部) 第7章 植物相とその特色 P544」より 
            参考 赤字は牧野標本館に保管されている標本番号です。
   ※嚆矢(こうし):ものごとの始まり。
10月12日、コゴメグサ採集のため伊豆・岩戸山に登る。




新橋駅→(ノコンギク・アキノキリンソウ・マツムシソウ・)国府津→小田原(徒歩で海岸→ハマヒルガオ・オニヤブマオ・ホラシノブ・カンシノブ・オニヤブソテツ・コモチシダ・ホシダ・コブナグサ・ツボクサ・アキノノゲシ・ヤクシソウ)→石橋村(人家にナギ・モチノキ・ツバキの巨樹・オニヤブソテツ)→米神村(マダケ・イタチシダ・フモトシダ・コモチシダ・カンシノブ・ホラシノブ・イノデ・カニクサ・イタビカズラ・アリドウシ)→根府川(シロダモ・キブシ)→江ノ浦・吉浜・千歳川を渡って泉村(ホトトギス・キブネギク・タマアジサイ・センブリ・ウメバチソウ・シラヤマギク・ヤマラッキョウ・シオガマギク・コシオガマ・コゴメグサ)→岩戸山頂上→日金道三十五丁目→日金山・地蔵堂→湯河原(泊)→十国峠→箱根→小田原→帰京   明治の山旅・岩戸山に登る」より
     
     明治38年、伊豆の岩戸山で、著者によって発見されたコゴメグサ属の一種で生品から描いたスケッチ、
        後、イズコゴメグサ(Wuphrasia idzuensis)と命名して明治43年7月に発表した。

     
「明治の山旅・岩戸山に登る」の説明文(P238)より 「横浜開港資料館所蔵 山日記」より
10月14日、日本博物学同志会の第十三回例会が開かれ市河三喜、小谷国次郎、河田黙、高野鷹蔵、田中健太郎、田中五一、武田久吉、内田清之助、梅沢親光、福田卓、北沢基幸、岸田松若の十二名が集まる。その席上、高野は9月24日に玄倉川を遡った塔ヶ岳採集登山(12名・先達は南多摩郡由木村の竹内富造)の報告を行い、散会後、高野と武田、梅沢、河田の四人が、飯田河岸の富士見楼で、小島、城、高頭と合流、「山岳会」の設立について話し合う。運営の実務、財政、会員獲得と宣伝や『山岳』刊行のことなど、最終的な打ち合わせを行う。  
10月20日、「植物学雑誌 19巻 225号」に「日光山らん科植物小目録」を寄稿する。
    注意 博士は、明治27年松村博士が「日光植物目録」に著してあるものは、学名の前に※印を附して区別してありましたが、
           下図では学名の記載を省略したので和名の前に表記をすることにしました。 保坂記
和名 採集場所 和名 採集場所
さはらん あさひらん 赤沼ヶ原(稀) 35 たかねふたばらん 金精峠
まめらん まめづたらん 古賀志山(文狭附近) 36 やちらん 赤沼ヶ原
きそえびね 栗山(川俣辺) 37 ありどほしらん 白根山(目録) 志津辺
えびね 日光(低地ニ生ズ) 38 ひめむえふらん 太郎山麓 湯本附近
さるめんえびね 丸山辺 39 さかねらん 栗山 御堂山
ぎんらん はくさんらん 所野(望月直義氏ニ據ル) 40 やうらくらん 山内
きんらん きさんらん 日光(目録) 所野 41 はくさんちどり しらねちどり 白根山 太郎山 八風山 女貌山 金精峠
ささばぎんらん 志津道弥平茶屋附近・所野 日光? 42 をのへらん 金精峠(目録) 女貌山 八風山 太郎山
さいはいらん 御堂山 所野辺 43 かもめさう かもめらん いちえふちどり 日光((目録) 女貌山 丸下山 金精峠 
10 しゅんらん ほくろ 所野辺(低地ニ多シ) 44 にょはうちどり 女貌山 赤薙山
11 こあつもり 日光(目録) 萩垣面 45 みめけいらん にっかうらん 湯坂(目録) 金山道 湯本 七瀧
12 くまがいさう 霧降 小百道 46 いちえふらん ひとつばらん ろくていらん ひとつぶくろ同名あり 志津辺 唐澤 金精峠 富士見
13 あつもりそう 丹青山 慈観 出面峠 瓜生坂 赤沼ヶ原 八風山 六方 47 あをちどり このびねちどり 白根山(目録) 赤薙山
14 せきこく 日光 今市 48 みやまさぎさう 中禅寺(目録) 湯本(同上)
15 こいちえふらん 湯本(目録) 志津辺 唐澤 富士見峠 49 じんばいさう みづもらん 裏見
16 えぞすゞらん あをすゞらん 湯本 中禅寺(共ニ目録) 菖蒲ヶ浜 女貌山 金精峠 50 のびねちどり 湯本(目録) 栗山 霧降辺
17 ※かきらん 日光(目録) 所野 赤沼ヶ原 51 みづちどり じゃかうちどり 赤沼ヶ原 所野
18 とらきちらん とらきちてんま 太郎山麓 52 いひぬまむかご 日光
19 あをきらん 瀧ノ尾河原 53 つれさぎさう 外山 萩垣面
20 おにのやがら てんま 湯坂 萩垣面 銭澤 54 やまさぎさう 所野 赤沼ヶ原
21 あけぼのしゅすらん 湯本川俣間 55 たかねとんぼ 白根山
22 ひめみやまうづら 志津辺 富士見峠 女貌山 56 きそちどり 志津辺 富士見 女貌山頂
23 みやまうづら かもめらん 萩垣面 57 おほやまさぎさう 湯本 裏見 萩垣面
24 ちどりさう てがたちどり 白根山 志津 女貌山 八風山 富士見峠 58 みやまちどり
Platanthera Takesai Makino.
女貌山 白根山
25 うちゃうらん 馬返シ 天狗澤 倉下 霧降 59 とんぼさう ことんぼさう 日光 所野 久次郎原赤沼ヶ原
26 さぎさう 猪ノ倉(古賀志山麓) 60 ほそばのきそちどり 赤沼ヶ原(目録)
27 みづとんぼ あをさぎさう 猪ノ倉(古賀志山麓) 61 ときさう 猪ノ倉(文狹附近))
28 むかごさう 裏見(目録) 所野 外山 62 やまときさう 赤沼ヶ原 久次郎原 所野 霧降 猪ノ倉
29 くもきりさう 日光山内 萩垣面 63 まつらん べにかやらん 日光
30 ぢがばちさう 湯本(目録) 山内 御堂山 八風山 64 かやらん 日光 上野辺
31 すヾむしさう 山内 赤沼ヶ原 内ノ外山 65 ねぢばな ひだりまき 日光 所野等
32 こふたばらん 日光(目録) 深澤 女貌山 白根山 66 ひとつぼくろ 萩垣面 兒ヶ墓附近
33 みやまふたばらん 女貌山 67 しゃうきらん 白根山 中禅寺 山内
34 あをふたばらん 金精峠 中禅寺(共に目録) 大師堂山 萩垣面 瀧ノ尾河原
10月26日、日向和田から日原川の谷に入り採集旅行を行う。 「明治の山旅・岩戸山に登る」より
        日向和田→日原・原島政吉宅(泊・往復)(オウレンシダ・コバノヒノキシダ・クモノスシダ)→牛込停車場
11月、「博物之友 五巻二十九号」に「戸隠山及び妙高山植物採集記(承前)(河田黙と共筆)・秋の日原・熱帯の植物界・雑録 日光のラン科植物追報第二」他七篇を寄稿する。
12月20日、「植物学雑誌 19巻227号」に「をのへりんだう(新称)ニ就テ・牧野氏ノ「閉鎖花ヲ生ズル本邦植物」ニ加フベキ者・おほばへうたんぼくノ一産地・おほあかねノ第二産地・きつりふねノ花・めやぶそてつ最北ノ産地及ビ葉形ノ変化・羊齒ト石灰岩トノ関係」等七篇を寄稿する。
多忙な明治38年の主な出来ごと
 (この年)、日光の丹青山と白根山に足を向け、それから尾瀬を文字通り跋渉し、富士山を南面から登って北面に下り、白馬に行く途上に甲斐の権現岳に登り、最後に白馬山巓(さんてん)の破れ小屋を改装してそこに十二泊して風雨や濃霧とたたかい、いよいよ病膏肓にはいって、医もまた手を施すべき術を知らないという状態となってしまったのである。  「山歩き七十年」より
1906 明治39年 23

1月、「博物之友 六巻三十号」に「尾瀬採集の植物を記す・八ヶ岳の高山植物に就きて(承前)・ひかげのかづら・熱帯の植物界・雑録 動植物和名の仮字遺いに就いて」他二篇を寄稿する。
  また、市河三喜が同号に「濟州島紀行」を寄稿する。
○尾瀬採集ノ植物ヲ記ス (7月5日〜10日)
尾瀬ノ植物ハ早田理学士及ギ中原源治ノ両君精シタ探険サレ、早田氏ハ之ヲ東京植物学雑誌第十七号第百九十一号ニテ紹介サレ、同氏ノ採集サレシ植物ハ其ノ次号ニ掲載サレタル『会津植物目録』中ニ記サレタリキ。昨年七月初旬予ハ日光ニ在リシ際
早川隆助君ノ同行ヲ得テ同地湯本ヨリ金精峠ヲ越エ上州ニ入リ、更ニ間道ニヨリテ片品川ヲ遡リ尾瀬ヶ原ニ出デ、尾瀬ヶ原及尾瀬沼畔ニ採集ヲ試ミ上州ヨリ会津ニ通ズル県道ノ頂上ナル沼山峠ニ出デ、更ニ此ノ道ヲ南下スルコト二三里ニシテ片品川ノ左岸ニ渉リ、ネバ澤ト称スル小渓ニ沿ヒテ遡リ、重疊セル山岳ヲ越エテ丸沼畔ニ下リ、再ビ金精峠ヲ越エテ日光ニ帰来シタリ。日ヲ閲スルコト僅カニ五日、或ハ谿流ヲ徒渉シ、或ハ百花爛まんタル沼地ヲ跋渉シ、或ハ巨巌頭ヲ壓セントスル急坂ヲ攀ヂ、或ハ、ねまがりだけノ密林ヲ分ケ、時ニ辛酸具ニ至リ、又ハ壮絶快絶ヲ極ム。其ノ紀行ハ他日『山岳』第一号に記スベキ以テ、此ニハ只途上瞥見セシ所ノ植物ニ就テ記サントス、元ヨリ脱漏誤謬アルベキハ論ヲ俟タズ、是ハ豫メ諸君ニ謝スル所ナリ。(下へ@↓ 以下・採集径路を図表内に示す 保坂記)
日 時 行  程 参考 「初めて尾瀬を訪(おとな)う」に記載されたコースと植物名 (明治38年7月の項を複写) 
7月5日 日光→湯本(泊 日光→湯本(泊
7月6日  東小川(泊 〜金精峠(コメツガ・カモメラン・ラセウモンカズラ)〜菅沼〜一ノ瀬(バイクヮウツギ)〜東小川・東翠館(泊)
7月7日  戸倉(泊) 〜蛇倉峠〜閑野〜戸倉・たまき屋(泊)
7月8日 桧枝岐小屋(泊) 〜アテ坂〜鳩待峠〜山ノ鼻〜尾瀬ヶ原に吐き出された時(コツマトリサウ・タテヤマリンダウ・キンカウクヮ)〜尾瀬平を走るように〜(ヒツジグサ・ネムロカハホネ・ハッチャウトンボ・イトトンボの珍種)桧枝岐小屋(泊)
7月9日   →野営(泊) 〜白砂の湿原(イハカガミ・キヌガササウ・白砂川にイメバチモ・ヒアフギアヤメ)〜沼尻平(ナガハヤナギ)〜清水俣〜三平の上り(エゾムラサキ・シラタマノキ・アカモノ・アスヒカズラ)〜三平坂を南に下る〜船河原鉱山事務所〜中ノ岐澤〜片品川(トチ・ブナ・ミズナラ・カヘデ)〜野営(泊)
7月10日   →湯本(泊) (トチノキ・アスナロ・オホレイジサウ)〜四郎嶽の東肩らしい(ネマガリダケ)〜丸沼の奥の湯澤〜大尻沼〜一ノ瀬〜金精峠〜湯本(泊)
(@より続き) 金精峠ハ白根山及ビ温泉ヶ岳ノ中間ニ位シ、連脈中ノ一凹所ニシテ、其ノ頂上ハ湯本ヲ距ル一里半許、道ハ白根山ノ麓ヲ行クコト少時ニシテ金精澤ニ沿ヒテ上リ右ニ森林ヲ穿ツテ頂ニ達ス、此ハ上下両毛ノ堺界ナリ。湯本ヲ発シテ先ヅねまがりだけノ間ヲ行ク、やなぎさう、ごまな未ダ開カズ、脚下おほばのよつばむぐら、おほばみぞほゝづきアリまゆみハ花ヲ着ケひろはのへびのぼらず、おほかめのき、うらじろのき等ハ実ヲ結ベリ、岩石磊々タル所ひごくさアリ、密林ニ入レバごぜんたちばな、まひづるさう、しらねわらび、ならゐしだ、たけしまらんアリ、うこんうつぎノ花又盛ナリ、しゃうじゃうばかま、むらさきやしほつゝじヲ得テ後渓ヲ渡ル、坂路漸ク急ナラントス、いはなし、ひめうすのき孤ハ果実未ダ熟サズ、おほばすのきハナアリ、頂ニ近クうすばすみれヲ得、花已ニ謝シテ実ヲ結ベリ、頂上ニねまがりだけアリ、其ノ間ヲ捜レバしなのきんばいさう、しらねあふひ、はくさんちどり等ヲ得ベシ、しらねあふひハ近頃濫獲者ノ数ヲ増セルガ故カ一両年前ニ比シテ著シク減少シタリト云フ、此ノ辺みちおしへノ一種ヲ産ス、白根産ノ者ト同一ナリ、予ハ其何種ニ属スベキカヲ知ラズ、一昨年八月白根ニ得タルモノ数頭ハ之ヲ小熊君ニ送リ、又昨年同地ニ得タルモノハ近頃此ノ類ヲ研究中ナリト云フ平野藤吉君ニ呈シタレバ、遠カラズシテ其ノ名ヲ知ルコトヲ得ンカ。頂ヲ辞シテ上州ニ下ル一里余ニシテ一湖アリ笈沼ト呼ブ、四面密林ヲ以テ圍マレ極メテ※1幽邃ナリ、其ノ間ノ見タルモノ一二ヲ採録スレバ、まひづるさう、くるまばつくばねさう、おほばのたけしまらん、いちえふらん、みつばわうれん、ゆきざさ、つるつげ、みやまかたばみ、うまのあしがた、さんりんさう等ナリ、池畔沮洳ノ地アリ、しなのきんばいさう、さぎすげ、つるこけもゝ、くろみのうぐひすかづら等アリ。一清流ノ流レシテ湖ニ注グモノアリ、掬シテ※2行厨ヲ開カントセシモ※3へい軍ノ来襲ニ辟易シテ逃走スルコト一二町、初メテ一休ス。
                ※1 幽邃(ゆうすい)けしきなどが奥深くて物静かなこと行厨(こうちゅう):弁当
                ※3へい軍(へいぐん): へいは虫+丙の合字 蚊とかブヨのような虫の大群のことか 

(略)
山ノ鼻ハ尾瀬ヶ原ノ一端ニシテ落葉樹亭立シテ後ニ至仏山ヲ負ヒテ前ハ直ニ※4渺茫際涯ナキ尾瀬ヶ原ニ接ス、茂生セルさんりんさう等ヲ踏ミテ行クコト一二町ニシテ直ニ尾瀬ヶ原出ヅ、みづごけノ※5沮洳タル所こみやまりんだう、一面ニ開花シ又こつまとりさうヲ交ユ、此処ヨリ尾瀬沼尻迄盡クみづごけヲ以テ満サレタル湿地ニシテ時ニ池アリ時ニ川アリ※6徒渉スベキ処一再ニ止マラズ、時ニ林ヲ穿チ時ニ水蘚ノ中ニ陥落シ、少シク歩ヲ止メテ草ヲ抜カントスレバ膝ヲ没セントスルコトナキニアラズ、四面ハ山ヲ以テ包マレ、其ノ広大ナルコト日光赤沼ヶ原ノ如キ遠ク及ブベキモノニアラズ。山ノ鼻ヨリ沼尻ニ至ルノ間即チ尾瀬ヶ原ヲ横断セルニ際シテ目撃セシ植物ヲ挙レバ即チ左ノ如キモノアリ、こみやまりんだう、◎おほばのたちつぼすみれ、◎つぼすみれ、◎こつまとりさう、◎おほばのたけしまちどり、たちつぼすみれ、こばいけいさう、みつがしは、いはいてふ、みやまきんぱうげ、◎ずみ、◎ときさう、◎やちやなぎ、りうきんくわ、◎さぎすげ、◎わたすげ、◎まうせんごけ、ながばまうせんごけ、つるこけもゝ、ひめしゃくなげ、◎うらじろえうらく◎さはらん、えぞせきしやう、みづどくさ、あぜすげ、◎こたぬきも、◎くろばならうげ、やなぎとらのを、◎ななかまど等ナリ。
             
※4渺茫(びょうぼう)際涯(さいがい) 果てしなく広いさま 物事や土地の限界。かぎり。はて
              ※5沮洳(しょじょ):土地が低くて水はけが悪く、いつもじめじめしていること。また、その土地。
          ※6徒渉(としょう):川を歩いてわたること。かち渡り
 沼尻ヨリ沼山峠迄ノ間ハ概ネつが等ヨリ成ル所ノ針葉樹ノ密林ニシテ、時ニねまがりだけ道ヲ阻ム所アリ、沼畔又みづごけノ平地アリ、或ハ急坂ヲ上下シ、或ハ湖ニ入リテ行クベシ、觸目セル植物ヲ録スレバ、◎とりがたはんしゃうづる、◎ごぜんたちばな、◎ひろはのどじゃうつなぎ、みくりぜきしやう、◎こまがたけすぐり、◎ひめけいらん、◎をがらばな、◎きぬがささう、ひめしゃくなげ、◎しろばなのひめしゃくなげ、◎ちんぐるま、んがばまうせんごけ、◎やちすぎらん ◎もうせんごけ、こみやまりんだう、◎いはかゞみ、◎むらさきやしほつゝじ、◎ひめうすのき、◎いはなし、◎ひめしらすげ、◎みづばせを、◎くろばならうげ等ナリ。
尾瀬産ノ植物ニシテ早田理学士ノ会津植物目録ニ載レルモノ約三十、予等ハ其ノ半ヲ見、尚ホ他ニ該目録ニ載録サレザルモノ十余種ヲ得タリ、即チ前記中 ◎印ヲ頭ニ附シタルモノ是ナリ。
沼山峠ヨリ縣道ヲ南下スルコト二里許ニシテ船河原鉱山ニ至ル、途ニ急坂アリ三平坂ト称ス、峠ノ頂上ヨリ此ノ辺迄ノ植物亦凡ナラズ、即チみづばせを・いはなし・さんりんさう・おほばみぞほゝづき・もみぢしょうま・のびねちどり・づだやくしゅ・えんれいさう・のまがりだけ(略)
 
予ハ此ニ此ノ稿ヲ終ルニ当りハトマチ峠下尾瀬山ノ鼻辺ヨリ沼山峠辺ニ至る間ニ見タル植物中注意スベキ数種ニ就テ筆ヲ重ネテ簡単ナル卑説ヲ述ベント欲ス。
和 名 学 名 特記事項
みやました/Athyrium crenatum Rupy. (略)
みづどくさ/Equisetum limosum Linn. (略)
やちすぎらん/Lycopodium inundatum Linn. (略)
えぞせきしやう/Scheuchzeria palustris Linn. 欧州ノ中部並ニ北部、亜細亜ノ北部及ビロッキー山脈ニ分布スル小草ニシテ我国ニテハ従来北海道ノミニ産スルコトヲ知ラレシモノナリ尾瀬ニ産スルハ早田氏ニヨリテ発見サレタルモノ、同地ニハ甚ダ饒多ナリ。
ひろはのどじやうつなぎ/Glyceria aquatica Linn. (略)
みくりぜきしゃう/
Juncus xiphioides E.Mey.var montanus Engelw.
札幌及ビ白山ハ已知る産地ナリ。
きぬがささう/Paris Japonica Franch. 本邦北部ノ高山ニ見ル、白山、乗鞍ヶ岳、白馬ヶ岳、鹽頭ヶ岳等ハ其ノ産地ナリ、予ガ尾瀬ニ得タル者ハ叢生葉ノ径一尺二寸余、花径二寸余ニスギズ、城数馬氏ハ白馬ヶ岳ニテ非常ニ大ナルモノヲ見ラレシト聞ク。
さはらん/Arethusa japonica A.Gr. 希品ト称セラル、赤沼ヶ原、戸隠原、函館等ニ産ス、おくらん・あさひらん等ノ異名アリ、貌(かたち)ハときさうニ似テ花色鮮紅、単花茎ニ着キテ下向又ハ斜向ス。
やちやなぎ/Myrica Gale L var.tomentosa C.DC. 本州ノ島北部及ビ北海道各地ニ生ズ牧野氏ガ三河高師原ニ得ラレシハ最南ノ産地トシテ特記スルノ値アリ。
おほれいじんさう/Aconitum pallidum Reichenb. (略)
とりがたはんしゃうづる/Clematis tosaensis Makino. 初メ土佐鳥形山ニ発見サル、(以下略)
みやまきんぱうげ/
Ranunculus acris Linn.var Steveni Regel.
(略)
しなのきんばいさう/Trollius patulus Salisb. (略)
なかばまうせんごけ/Drosera longifolia Linn. 歐羅ノ極地、亜細亜ノ西部、亜米利加東部ニ分布セルモノニシテ本邦ニテハ極メテ希品ト称スベシ、其ノ創見者ハ即チ早田理学士ニシテ実ニ明治三十一年七月三日此ノ尾瀬沼畔ニ得ラレタリシナリ翌月十一日ニ至ッテ川上農学士同種ヲ千島択捉アトイヤ山ニ探ラレ今ニ至ル迄他ニ産地得ズ。尾瀬ニ於テハ尾瀬ケ原並ビニ尾瀬畔ニ多生シ常ノまうせんごけト共ニ繁生セリ、欧州ニ於テモ亦然リ林娜斯氏ハ此故ニ全然別種ナリヤ否ヤヲ疑ヘリシ程ナリ、而シテ尾瀬ケ原ノモノハ同地ニ産スルいととんぼノ一種ヲ捕食ス、此ノとんぼハ専門家内田君ニ呈シタルニ未見ノ種ナリト言ハレタリ図版ニ示スモノハ二匹ノいととんぼヲ捕ヘ居ルモノナリ(第六年第一版)。
のうがういちご/Fragaria vesca Linn.
※その後の植物名について 確認要 2015・10・15保坂記
美濃能郷ノ名ヲ冠スしろばなのへびいちごト同属ノモノナレドモ種名未ダ明ナラズ、葉状一見みやまきんばいニ似、苗ハしろばなのへびいちごヨリ小ニシテ匐枝(ふくし)ヲ出スモ彼ノ如ク長大ナラズ、亭上分岐スルコトヲ見ズ、単花ヲ載ケリ花弁ハシロバナノヘビイチゴト異リテ七八片ヲ有シ楕円形ニシテ細シ。
ちんくるま/Geum dryadoides S.et Z. (略)
おほばのたちつぼすみれ/Viola Langsdorffii Fisch. (略)
ひめしゃくなげ/Andromeda Polifolia Linn. (略)
しろばなのひめしゃくなげ/Var.leucantha Takeda. 予ノ管見ナル未ダひめしゃくなげニ白花アルヲ知ラズ或ハ変種トナスノ価値ナキヤモ知ラレザレドモ姑ク右ノ新名ヲ下スベシ、原種ト異ルハ花冠及ビ花極ノ純白ナルニアリテ他ニ異点アルヲ見ズ。希少ナリ。
やなぎとらのを/Lysimachia thyrsiflora Linn. (略)
おほさくらさう/Primula jesoana Miq. (略)
こつまとりさう/
Trientalis europaea Linn.var.arctica Ledeb.
原種ナル常ノつまとりさうハ本邦各地ノ山中ニ生ズルモノナルガ此ジョ変種ハ早田博士ガ南会津ノ駒ヶ岳ニ発見サレシ外ニ未ダ採集セシ人ナキガ如シ、予等ハ尾瀬ケ原ニテ多クヲ見タリ、原種ニ比シテ稍小ニシテ茎ハ下部ニ至ル迄葉ヲ有スル事原種ト異レル主点ナリ、尤モ中ニハ茎ノ下部ノ葉大ニ縮小シテ鱗片状トナリ原種ノ如キ形貌ヲ呈スルモアリ(第六年第一版)。
こみやまりんだう/
Gentiana thunbergii Griseb.var.minor Maxim.
えぞむらさき/Myosotis intermedia Link.
(挿図解、1 花冠ノ剖展図、2 蕚(がく)、3 雄蕊(しべ)、4 同上側面図、5 果実ノ縦截、6 小果ノ一、皆廓大)。
予ハ始メ此ノ種いはむらさきト誤認して其産地タルコトヲ報ジキ(左下段へ↓
↓右上段より)第五年二二八頁)而シテ今其ノ非ナルヲ知リ此ニ之ヲ訂正ス、又早田理学士ノ目録中ニ前掲ノ学名ニいはむらさきノ和名ヲ附シテ記サレタルモノアリ従来いはむらさきニ誤リテ此ノ学名ヲ用ヰ来レルコトアレバ該(その)目録中ノモノニハ学名、和名何レガ正シキモノナルヤ今其ノ標本ヲ親賭スル能ハザルガ故ニ確言シ難シ。此ノ植物ハ欧州大陸及ビ西比利亞等ニ分布スルモノニシテ本邦ニテハ初メテ北海道日高静内(シヅナイ)ニ採集サレ未ダ之ヲ内地ニ得ザリシモノナリ、若シ早田氏ノ該種ニシテ学名ヲ正シキモノトスレバ同氏ガ尾瀬ニ発見サレシモノト云フベク若シ和名ヲ正シトスレバいはむらさき亦同地ニ産スルコトヲ知ルベク戸隠以外ノ一産地トシテ記スルノ値アリ。(以下略)

○八ヶ嶽ノ高山植物ニ就テ (博物之友 六巻三拾号では二十九から四十二を収録)
四十二 くもまなづな 
Draba Sakuraii,Makino.var.nipponica,(Makino)Takeda.
横岳辺ニ多ク生ゼリ。/矢澤氏始メテ之ヲ此ノ山ニ取レウモノニシテ実ニさい爾タル小草ナリ、牧野氏之ヲ一新種ト考ヘ是レニ Draba nipponica ナル新名ヲ下サレタリ、予ハ其ノ後同山ニ花、実ヲ有スル良標本ヲ得テ以テ精査スルニ終ニ之ヲ特立ナル一種ト考フル能ハズシテ、とがくしなづなノ一変種ニ収ムルヲ以テ当ヲ得タルモノナラント思フガ故ニ、敢テ其ノ学名ヲ前記ノ如ク変更シタリ、とがくしなづなト異ル点ハ苗一般ニ小ニシテ茎ハ繊細ニシテ概シテ毛ヲ有セズ、葉ハ彼ヨリ細クシテ深ク櫛歯状ニ刻マレ一般ニ毛ヲ蒙ルコト薄シ茎ハ小ナルモノハ花時
四「センチメートル」ニスギザルモノアレドモ大ナルモノニ至れば果実ヲ着ケタル時十三半「センチメートル」ニ達スルモノアリ。本品ハ未ダ八ヶ岳ノ外ニ産地ヲ得ズ、此山ノ特産トシテ知ラルヽ者ナリ。(嗣出)
2月、高頭仁兵衛が「日本山嶽志」を「博文館」から刊行する。
 始めて牧之翁の名を知ったのは、何でも明治三十二三年の頃、たしか「帝國文學」の二三號に亙って掲載された、翁と馬琴との交友に関する記文(瀧澤又市氏執筆)であるが、今その内容をよく記憶してゐないのは遺憾である。三十九年に至って、友人高頭式君の『日本山嶽志』の出づるに及び、苗場山の條下に、翁の苗場遊記が轉載されてゐるのを見て、百年以上も前にこの山に登り、且つ詳細な紀行文を残した翁の敬服に値することを知ったが、幾許もなく『北越雪譜』を手にして、益々翁を欽慕するに至った。雪譜とはいふものゝ、雪に関する記事のみでなくて、越後諸地方の人情風俗歳事祭祀風景傳説その他諸般の事柄に亙って記述してあるので、中には根據の希弱な臆説等も混じってはゐるものゝ、それもその當時の知識人が、どのやうに態度を以て自分の周圍を眺めたかといふことも、知る便ともなるのである。    欽慕(きんぼ):敬いしたうこと。敬慕。 
        S16・5 「牧之翁祭記念集 牧之翁と著作」より
月、「山岳」創刊号に伴なう編集会議が行われる。日時については不明のため再調査要 2015・8・14 保坂記
 
       「山日記」より
考察
「山岳」の当初の発行予定日は三月二十五日であったが実際の発行日は翌月の四月五日となった。また、原稿を依頼する中に「野中」の名前が記されているが創刊号には間に合わなかった為か、次号にも記されていませんでした。。「野中」とは野中至のことで、極寒の富士山頂において気象観測を続けました。武田博士は、昭和6年に刊行された「日本地理大系 別巻5 富士山(編者)」の中で、野中至のことを紹介されています。 
     2015・8・14 保坂記

 注:創刊号の原稿依頼に関し「山日記」に、「山崎直方
    神保小虎博士・志賀重昴・小川琢治・野中至」の名あり

   記述の有無の確認要 「日本山岳会の創立と小島烏水君」より






(会誌「山岳」、第一のなやみ)、明治三十八年夏以来、私達は山岳会の結成のために、幾度となく会合したり、書面の往復をしたりして、日本で始めてのこの種の会の創立に、万全の策をねっていた。そしていよいよ十月十四日に、最後の会合を、飯田海岸(いいだがし)の富士見楼で行ったが、その頃の第一のなやみは、会員が全国でどの位集まるだろうかということであった。山に登る人達は、自分達の仲間三−四十名以外にどの位あるだろうかということが、頭痛のたねであった。たといこの会の経常費を、会費に仰がないだけの準備があるにせよ、一千部刷った会誌『山岳』が、毎回九百部ずつも残るのでは、忽ちにして置場さえなくなってしまう。蓋をあけて見たら、幸いにして百名を突破したし、日に月に増加しては行ったが、それでも中々五百名には達しなかった。
                                           S35・7 「他人の迷惑を考えよう」より
3月、「博物之友 六巻三十一号」に「八ヶ岳の高山帯植物に就きて(承前)・熱帯の植物界・雑録 イワベンケイ日光に産す・チシマギキョウ及びイワギキョウ共に白馬ヶ岳に産す」他七篇を寄稿する。
3月10日、日本博物学同志会第十七回例会が開かれ「富士山植物採集談」を講演する。
昨年八月一日ヨリ四日ニ亘リ富士山ヲ表口ヨリ北口ニ両断シテ食物ヲ採集サレタル模様ヲ述ベ採集品数十点ヲ示シ大宮口ト吉田口トノ植物景ノ同異、富士山採集ノ注意等ニ就テ談ラレタリ。
来会者:高野鷹蔵・田中健太郎・田中五一・武田久吉・中野与右衛門・梅澤観光・岸田松若ノ七名
3月31日〜4日、日本博物学同志会主催による天城山採集旅行が行われる。(総勢18名)
新橋→三島→大仁→湯ヶ島・落合楼(泊)→(アブラチャン・ヒサカキ)八丁ノ池(ミズゴケ・ツツジの類・イワナンテン・ブナ・クロモジ)→三本榎→大幡峠→提灯の火をたよりに柏峠→伊東・東京館(泊)→宇佐美(ダンチク)→宇佐美峠→熱海峠→伊豆山神社→江原竹二と共に山越え泉村へ→湯河原・桜屋(泊)→日金山→十国峠→一本杉→箱根宿→湯本→小田原→国府津→帰京  「明治の山旅・天城山と箱根」より
同行者:市河三喜・早川隆助・保坂彦蔵・鳥山悌成・小谷國次郎・片平重次・高野鷹蔵・田中健太郎・田中五一・武田久吉・梅澤観光・山中太三郎・増田吾助・江原竹二・佐羽麟太郎・岸田松若・守田豊蔵・角倉邦彦
4月8日、日本博物学同志会第六回総集会が開かれる。
開会ノ辞及ビ会務報告 庶務 武田久吉 白馬岳植物採集談 河田黙
豆相地方採集旅行談 梅沢観光 マクカリヌプリ山(蝦夷富士)ニ就テ 河合篤叙
甲州八ヶ岳植物採集談 武田久吉
来賓河合君ハマクカリヌプリ即チ蝦夷富士登山会長ニシテ当時在京サレシヲ以テ高頭君ノ紹介ニテ来場同山ニ就テ一場ノ講話ヲナシ又宮部博士採集同会ヘ寄贈サレシ植物標本等ヲ示サレタリ(講話の内容説明・略)河合氏ノ講話済ムヤ一同階下に降リテ撮影シ後茶菓ヲ供シテ会員並ニ本会ヨリ出品セル図書標本等ヲ観覧シツヽ雑談に移リシガ同夜ハ山岳会ノ役員会アル可カリシ為メ市河君ノ講演ハ次回ニ延シテ午後四時頃散会セル
来会者:石上定海・市河三喜・原正三・新帯國太郎・鳥山悌成・小川弘太郎・小谷國次郎・片平重次・河田黙・川出隆太郎・川崎義令・河合篤叙・横山惣五郎・高頭仁兵衛・高野鷹蔵・田中健太郎・田中五一・武田久吉・梅澤観光・山内鏡太郎・松村巌・増田吾助・小泉和雄・小島久太・江原竹二・佐羽麟太郎・岸田松若・北澤基幸・宮内安之・城数馬ノ三十名
4月、「山岳 第一年第一号 尾瀬紀行 付録 日光三山がけ他」を創刊、寄稿する。
   同号に高野鷹蔵が「塔ヶ岳」を寄稿、38年秋に行われた塔ヶ岳登山を記す。 
  本 号 目 次
○附図
○白馬山腹の大雪渓  ○赤沼ヶ原より太郎山を望む  ○本澤より箕冠山の爆裂口を望む ○乗鞍山嶺の神祠 
○乗鞍山頂凍死者の追悼の標本 ○戦場ヶ原にて見たる男体山  ○男体山頂の一点 ○男体山絶嶺 
             ○山岳會設立主旨書
凡そ山岳が、一國の地文及び人文に、影響することの大なるは、今俄に説くを要せず、之を歴史に攷ふるに、日本の文化は先づ近畿中國の山脈間に、印度の文明は、早く雪嶺山下に発達し、支那の美術は、北嶺山脈の秦嶺間に、希臘(ギリシャ)の藝術は、ピンドス山脈の狭間に起り、伊太利、佛蘭西、日耳曼諸邦(ゲルマンしょこく)は、皆アルプス山下に強を成しぬ。(略)自然が刷ける色彩、自然が放てる光澤の、純粋なるものは、最も山に饒多にして、自然が意匠し、彫刻せる形態體劃線、又山を以て最も變化萬千となす、故に山角に立つは、絶対ノ秘奥を覗ふが如し、人生何物の高快か之に如かんや、惟みるに、山は實に不朽の壽を有する理想的巨人なり、天火を以て鑄られたる儀表的銅像なり、全國民の重鎭として立てられたる天然的柱石なり、之を謠ひ、之を究むるは、永世の大業にして、且つ何ぞ今日不急の事は謂はむ、本會ここに見るところあり、微力自ら測らずして、先づ欧州のThe Alpine Journalの例に傚ひ、山岳専門の機関雑誌「山岳」を發刊し、山岳に関する考察記事、一切を網羅し、山岳趣味と知識の啓發に任せんと浴す、然れども本會の事業たる、単に雑誌發刊の事に止むべきにあらず、山中に登山者宿泊の小舎を立つるも可なるべく、登山新路を拓くも可なるべく、全國に亘りて山岳案内記を出版するも可なるべく、各登山者間に連絡を通ずる方法を講ずるも亦可なるべし、為すべきこと極めて多くして、未だ一も其の緒に就きたるはあらず、之を大成するは、一に趣味嗜好を同じうする、諸君子の援護に待つの他はある可らず、蓋し是れ實に國民的事業にして、決して少数人士の能く為し得るところにあらざればなり、即ち本會成立の主旨を略記して、偏に大方の賛助を懇請するものなり。
    明治三十九年四月五日 山岳會 
                   発起人
(イロハ順)
                         
河田黙高頭式高野鷹蔵武田久吉
                   梅澤観光
小島烏水城数馬
○本欄
山嶽の成因に就て 理学士  小川啄治   塔ヶ嶽 高野鷹蔵
高根の雪 理学士  山崎直方   女子霧ヶ峰登山記 久保田柿村舎
北海道ノ火山 理学博士 神保小虎   野州丹青山 梅澤観光
湖沼研究の趣味    田中阿歌麻呂   乗鞍嶽採集記 川崎義令
赤石山の記       小島烏水   妙高紀行 大平晟
飯豊山行      石川光春   赤薙の一角 五百城文哉
女貌山と太郎山 法学士  城数馬   尾瀬紀行 武田久吉
信州八ヶ岳      河田默
○雑録
 (省略)
○雑報
 ○蝦夷富士登山会彙報 ○浅間山の鳴動 ○駒ヶ岳噴火原因調査 ○駒ヶ岳鳴動
○会報
 ○本会の成立 ○本誌の表紙 ○お願ひ ○会費に就て ○会員氏名
○附録
 加賀の鞍ヶ嶽  高頭式/ 飛信界の乗鞍ヶ嶽  同/日光三山がけ  武田久吉
4月、柳田國男、「山岳会」に67番目の会員として入会する。
4月15日、神奈川小学校に於いて「通俗博物学講演会」が開かれる。
「ダーウイン」ノ一生 市河三喜 羊歯ノ話 武田久吉
山岳地ノ名称ニ就テ 小島久太
武田久吉・出品標本図書目録から      「博物之友」 六巻三十二号 会報欄より
らん科せき葉標本百二十一枚
(名称略
かもめさう・やうらくらん・えぞすゞらん・さはらん・みやまふたばらん・むらさきふたばらん・みやまちどり・こふたばらん・にょはうちどり・こばのとんぼさう・ひめむえふらん・しゃうきらん・うてふらん・ちどりさう・はくさんちどり・だいさぎさう・をのへらん・なつえびね・ひめけいらん・のびねちどり・あをきらん・たかねとんぼ・しろうまちどり・いちえふらん・たかねさぎさう・ほそばきそちどり・きばなのあつもりさう・さゝばらん・ありどほしらん等
すみれ類せき葉標本 六十二枚(名称略)
すみれさいしん・うはばすみれ・ひめすみれさいしん・ひかげすみれ・きばなのこまのつゆ・おほばきすみれ・たかねすみれ・おほばのたちつぼすみれ・あけぼのすみれ・しこくすみれ・にほひたちつぼすみれ・ながはのたちつぼすみれ・ながはしすみれ・ほそばのえぞすみれ・おほみやますみれ・しはいすみれ等
図書  飯沼慾斎著 新訂草木図説  草部  二十巻
4月22日、日本博物学同志会による遠足が行われる。
本郷田中氏邸集合→向陵→巣鴨→上板橋→練馬→白子→下新倉・休憩中食→「荒川畔ニ出デ其ノ右岸ニ沿ヒテ下り志村ニ至りテさくらさうヲ採集シ小豆澤、袋ヲ経テ」→赤羽→上野駅・解散
参加者保坂彦蔵・武田久吉・岸田松若・平山成一郎・田中五一・石川光春・竹崎嘉徳・中野治房・梅澤観光、合流出来ずは市河三喜・河田黙の両氏
4月29日〜5月2日、御嶽、大嶽から大菩薩峠を越して塩山へ。 「明治の山旅・大菩薩峠の魅惑 」より
拝島→秋川の右岸に引田の屏風岩→養沢→御岳・御師林正樹(博士は遅れたため八王子から五日市を経由合流する(フモトスミレ)(泊)→大岳神社→大楢峠→氷川の本村→水根沢→小河内・鶴屋(泊)→与沢→小菅→小金沢山→古木場(ふるこんば)→大菩薩峠→裂石→七里村塩山・広友館(泊)→塩ノ山(赤松にマツグミが寄生・ヤマツツジ)→塩山→帰京
資料 再ビ武州御嶽山ニ於ケルいはなんてんトるゐえふぼたんトノ所在地ノ位置ニ就テ(全文)
本誌第五年第二十六号ニ於テ予ハ標記両植物ノ御嶽山ニ於ケル所在地ノ位置ニ於テ予ガ観察測定ノ結果ヲ記シタリキ当時ハ両日共雨ニ逢ヒタル為メ充分ノ観察ヲナスヲ得ザリシカバ再遊ヲ欲シテ俟マザリシガ本年四月二十九、三十日其ノ機ヲ得テ前ノ観察ノ遺漏ヲ補フコトヲ得タレバ此ニ再述シテ同好者ニ報ゼントス。前回ニ於テハ予ハるゐえふぼたんガいはなんてんヨリモ凡ソ二百三十五米突ノ高所ニ生ゼルヲ見テ大渡氏ガるゐえふぼたんガいはなんてんヨリモ下方ニアリト云ハレシニ反対ノ結果ヲ得タリシガ今回ハ御嶽奥ノ院即チ征夷高祖御社ノ所在地ノ附近ニいはなんてんが繁生セルヲ発見シタルガ此処ハ予ノ推測ニヨレバ予ガ前回(今回モ)るゐえふぼたんヲ得タル最低所ヨリモ高キコト約九十米突ニ位スルコトヲ知リテ更ニ御嶽ヨリ隣峯大嶽ニ登ルヤ大嶽ノ中腹ニ於テ復タいはなんてんガ茂生セルヲ見タルガ此処ハ御嶽奥ノ院附近ノ地点ヨリモ尚ホ高キコト約八十米突ナラント思惟ス然ルニ大嶽神社ニ達スルヤ前記るゐえふぼたんガ生ズル地点ヨリモ正ニ二百米突ノ高所ニアル社側ニ於テ再ビるゐえふぼたんヲ見タリ因是観之御御嶽辺ニ於テハ両者ハ全ク混生シテ大渡氏ノ予言ハ正ニ確実トナレルヲ知ルベキナリ。 
                         
「博物之友 六巻三十二号」 P165より
5月、「博物之友 六巻三十二号」に「八ヶ岳甲州方面の植物に就て・すみれ雑記(承前)・熱帯の植物界・雑録 コマクサ尚お御岳に産す・恵那山のタマクボシダ」他六篇(再ビ武州御嶽山ニ於ケルいはなんてんトるゐえふぼたん(るいようぼたん)トノ所在地ノ位置ニ就テ・まうせんごけ蜻蛉ヲ捕フ・じんじさうノ異品)を寄稿する。
5月20日、「植物学雑誌20巻232号」に「さゝばらん最北ノ産地・だいさぎさうノ新産地・しこたんはこべ最南ノ産地・いちげノ意義・えぞむらさきヲ本州ニ得タリ・あれちぎしぎし(新称)」を寄稿する。
   また同号に、大上宇一が「中國ノ植物ニ就テ」を寄稿する。
資料 大上宇一著「中國ノ植物ニ就テ」の中の「ゆにぐちさう」項より
四国(名鑑)作州リヲサンギ山(雪吹氏)余ノ蔵スル標本ハ武田久吉氏武州多摩郡塚村産トアリ野生カ栽品カ未詳と、博士の記述あり、尚「塚村」についての所在は不明なため調査要 2015・9・25 保坂記
資料
 ○ えぞむらさきヲ本州ニ得タリ 武田久吉
えぞむらさき(Myosotis inte rmedia Link) ハ、歐洲大陸及ビ西比利亞等ニ分布スルむらさき科ノ宿根草ニシテ、本邦ニテハ初メテ日高國靜内ニ發見サレシモノナリ、昨年七月予ハ尾瀬ニ採集ヲ試ミシ時、上州沼山峠ニ此ノ植物ヲ得タリキ、是ヨリ先キ、早田文藏氏ハ、植物學雜誌第十七巻第百九十一號ニ、會津植物目録ヲ掲載サレシザ、其ノ中ニ前掲ノ學名ニいはむらさきナル和名ヲ附シテ記サレタル植物アリ、從來、いはむらさきニ、誤ツテ此ノ學名ヲ用ヰ家リシコトアレバ、此ノ場合、和名、學名ノ何レガ正當ナルカハ、其ノ標本ヲ檢セザレバ知ルコトヲ得ズ、從テ學名ヲ正トスレバ、予ノ以前ニ早田氏ハ之ヲ本土ニ得ラレタリト云フ可ク、若シ和名正シキモノナラバ、同地ハいはむらさきノ新産地ト云フヲ得ベシ。えそむらさきノ形貌ハ、博物之友第六年第三十號ニ圖説シタレバ、此處ニ贅セズ、詳細ハ同誌ニ就テ見ルベシ。
参考:博士はこの号に6篇を寄稿しましたが、その項の前に編集者からか、こんな記述が載せてありました。 2015・3・2 保坂記
植物学雑誌二月分モ今四月中旬ニ至ルモ原稿ノ集マラザルタメカ發兌トナラズ聊
(いささ)カ其埋草ニモ成ルヤ否ヤハ知ラズクダラヌ事ヲ二三言記スルノミ、
5月、宮部金吾、三宅勉、宮城鐡夫が「樺太民政暑事務嘱託」を復命、樺太植物調査の嘱託を受ける。
参考 復命
本年五月植物調査ノ委嘱ヲ受クルヤ三宅先ツ中央以南ノ南部ヲ調査シ次テ海馬島北方ボロナイ河畔国境付近ナイオロ以南ロレーニニ至ル沿岸及ビススヤルータカ流域ノ植物ヲ調査採集シ宮部ハ七月嘱託農学士宮城鐡夫ヲ伴ヒ東シンノシレトコ半島ニ至リ西ピレオニ至ル迄沿岸各地ノ海藻及陸上植物ヲ調査シ以テ樺太植物ノ概略ヲ知ルヲ得タリシンノシレトコ以北ノ沿岸及内部各地特ニ
山岳ノ植物ニ関シテハ未ダ調査ヲ行ハサルヲ以テ其詳細ニ至リテハ之ヲ記スルヲ得スト雖十一月以降専ヲ各自観察シタル所ト其採集シタル標本トニ就キ調査ヲ行ヒ且ツ札幌農学校所蔵標本ト書籍トヲ参考シげんニ本年度ニ於ケル調査ノ概要ヲ記シ報告トシテ閣下ニ呈ス其詳細ニ至リテハ採集品ヲ精査シ更ニ之ヲ提出スルコトヲ期ス(略) 調査の期日 宮部・宮城班  明治39年7月11日〜8月23日
            三宅班
      同年 6月12日〜10月20日  明治40年3月 「樺太植物調査概報」より
5月〜6月、父サトウ、外交官生活から隠退することになったため、北京から帰国の途上、日本に約1ケ月滞在。兼との最後の出会いとなる。父サトウの出国が約十日間延期されたため、サトウは久吉を連れて、日光から中禅寺湖周辺を約一週間かけての旅行を行う。
  この時、金精峠において、アオジクスノキ、一名ヒメウスノキの花を初めて採取する。
「明治の山旅・戸隠山」より
               「植物及動物 第4巻第8号 日本の高山植物 121)ヒメウスノキ P1477」の項より 
  同じくこの時、日光でワダソウ属の一種を新種と認め後年、ヒゲネワチガイとして発表する。
                             
「明治の山旅・初夏の日光山へ」より
6月5日、日光鉢石(はついし)で土産物の日光下駄を購入、午後四時八分、東京に入る。

    山日記 日光ニ旅行シタル年月」の項より 所蔵 横浜開港資料館
6月9日、父サトウ、シベリア号で横浜を出港、アメリカに向かう。
6月12日〜7月3日札幌に向け、午前十一時四十五分の常磐線の急行に乗車する。
    
札幌農学校に在学の友人、小熊捍(まもる)・学生の竹田君・松尾梯治郎らとモイワ山や手稲山に登る。
尻内
(ハマナシ)→室蘭→幌内の泥炭地→モイワ山(モイワナズナ・ヤマハナソウ)→手稲山(エゾイワベンケイ・ミヤマオダマキ・コケモモ・イワウメ)→札幌→函館→上野「明治の山旅・札幌と手稲山」より
十四日、朝三時に室蘭に入港。(略)旧友小熊捍(まもる)としげしげ往復するうちに、新しい友人も出来るし、そとことに案内されれば、見馴れぬ草木が目に触れ、私を少なからず喜ばせた。名士宮部博士は思いもよらず歓迎して下さり、その前年から採集されたマクカリヌプリ産植物の標本を、沢山頒け与えて下さった。東京では五月に咲く牡丹が、六月中旬花盛りというのであるから、その涼しさが窺われよう。それでついに風邪を引いてしまった。/宮部先生は、学校の完備した標本庫に案内して下さったり、助手の近藤金吾氏に近郊に案内するように手配して下さったので、二十一日には手稲(本名テイネイ)に、また二十六日には中ノ島へ、翌二十七日には幌内(本名ポロモイ)の泥炭地に案内して貰った。その夜、旧友は、松尾梯治郎という植物好きの学生を連れて来てくれて、手稲山登山の相談がはずんだ。(7月1日、札幌駅を出発、3日午前7時40分に上野駅に到着。雨は止む気配を見せ、やがて晴天となり、寒暖計は華氏八〇度以上を昇り、涼しい北海道に馴れた体には、なかなかこたえるのは当然である。八時十分、我が家に帰って、この旅行は終わりを告げることとなった。「明治の山旅・札幌と手稲山」より
6月12日、三宅勉一行が、先発樺太コルサコフに上陸、植物調査を行う。10月1日、コルサコフに帰着、同月20日迄
6月、「山岳 第一年第二号 甲州八ヶ岳・白馬岳籠城記
(河田黙と共筆)・雑録 再び落機山中の高峰に就て・ヒマラヤの意義・
山岳を名称を冒せる植物」を寄稿する。
  注 雑録の三篇はH・Tで表記
  また、同号に小島烏水が「高山に於ける植物の保護」を寄稿する。
      注 烏水論文の名前には「K・J」の表記あり 「植物学雑誌241号 三好博士」論文には烏水の表記あり確認要 2016・7・16 保坂
7月11日、宮部金吾・宮城鐡夫一行が、樺太コルサコフに上陸、植物調査を行う。8月23日、コルサコフに帰着
7月、「博物之友 六巻三十三号」に「パナマ帽の原料植物・すみれ雑記(承前)・富士山を越ゆるの記(上)・札幌見聞記(第一稿)・熱帯の植物界・雑録 チョウノスケソウの産地訂正」他六篇を寄稿する。
7月27日付、矢野宗幹が、博士宛てに〔書簡〕(周防宮野村で採集のすみれについて、(略)、すみれ標本同封)を送る。
 
                        横浜開港資料館 久吉(書簡) No1249 より
8月3日〜7日、母と富士登山を行う。   「明治の山旅・再び富士山に登る。」 P268〜270より
 新橋→御殿場→須走・米山館(泊)→古御岳→六合目小屋(泊)→薬師ヶ岳に到着。駒下駄に、北口頂上の朱印→逆方向にお鉢回り→2時20分、表口頂上の浅間神社→勢ヶ岳→東賽ノ河原の噴気孔→銚子口から下山→二合二勺小屋(泊)→太郎防→滝河原→御殿場11時15分→帰京
 
  久吉と富士山に登った母の兼 
   (明治初期頃) 
参考 母、兼(かね)が纏った当時の出立ち
 
(母は)、単衣一枚に袴をはき、草履の代わりに新調の駒下駄を穿くことにして出発。(略)これより上にはナメと称する溶岩地帯を通るのだが、駒下駄はその威力を発揮した。前後して登って行く人達は、私を行者だと思っているのを小耳に挟むと、微苦笑を禁じ得ない。(略)駒下駄は草履と違い、往復四日に、ただ一足で十分に事足りた。  「明治の山旅・再び富士山に登る。」 P268〜270より


8月23日〜28日、甲州鳳凰山に登る。 「明治の山旅・鳳凰山と鳳凰沙参」より
飯田町→日野春→台ヶ原・竹屋(泊)→新富→大武川を徒渉(カワラニガナ)→実相寺の大桜→小武川(ススキ・キキョウ・カワラハハコ・タチフウロ)→空掘(かんぼり)(カラハナソウ・コオニユリ・サワヒヨドリ・タチフウロ・ミヤコグサ・ハコネグサ)→青木湯(泊)(コメツガ・カツラ・ミネカエデ・ナナカマド・ネコシデ・オガラバナ・ミヤマハンノキ・フジアザミオオビランジ)→泊(コメツガ)→南御室(トウヤクリンドウ・コメススキ・ミヤマゼンコマイズルソウ・コガネイチゴ・ミヤマメシダ・キバナノコマノツメ・シロバナノヘビイチゴ・ミヤマワラビ・オヤマリンドウ・ゴゼンタチバナ・キオン・ミヤマウラジロイチゴ・トウヒ・ソウシカンバ・リンネソウ)→砂払い(2700m)→薬師ヶ岳→観音ヶ岳の西肩に無数の地蔵尊→賽ノ河原(ハイマツ・ダケカンバ)→地蔵仏と呼ばれる巨岩(ダケカンバ・タカネビランジ・タカネニガナ・ミヤマヒゴタイ・キバナノコマノツメ・ウシノケグサ・ホウオウシャジン)→賽ノ河原(ダケカンバ・ミヤマシャジン)→ 観音ヶ岳三角点→薬師ヶ岳下の水溜り→砂払い→南御室→青木湯(泊)→御座石→牧の原→日野春→台ヶ原・竹屋(泊・8月28日)
参考 鳳凰沙参についての記述
 鳳凰沙参は間もなく一新種として詳しく記載して発表したが、今では私がこの前年、玄ー(くろくら)川の上流で発見したイワシャジンの高山性亜種と考えている。   「明治の山旅・鳳凰山と鳳凰沙参」P278 より
8月28日〜30日、鳳凰山の登山を終え、そのまま案内者の山岸喜作を伴ない駒ヶ岳へ
台ヶ原・竹屋から駒ヶ岳に向かい、翌二十九日、頂上に達してから下山台ヶ原(泊)→帰京
                                            「明治の山旅・鳳凰山と鳳凰沙参」より

9月8日、博士・河田黙(しずか)・梅沢観光・市河三喜の四名が、丹沢蛭ヶ岳の登頂を目指したが雨のため中止する。 与瀬→渡し舟で勝瀬へ→篠原→川上→小舟→菅井→長俣→上青根(助役井上喜助)→雨の日が続き登山と久保沢経由の帰京を中止し→田野入→上野原  
参考ー@ 「明治の山旅・蛭ヶ岳を志す」の一部より
 これ(地図)で見ると、蛭ヶ岳へは、北麓の青根村から登るのが捷径であるように思われる。しかし青根村に旅館の有無が判らないので、役場宛てに書面で問い合わせたところ、助役の井上喜之助氏から返事があって、宿屋は無いが、私の家に泊めて上げようということになり、いよいよ明治三十九年九月八日の朝、市河三喜(さんき)、梅沢親光(ちかみつ)、河田黙(しずか)の三君と、私と同勢四人、中央線の牛込駅を発九時四十分の列車で出発した。(略)ここで道志川を渡り、青根村に入り、上青根の井上喜助氏方に、やっと辿り着いたのは、夕の六時五十五分であった。/その夜、井上氏の計らいで、猟師の杉本斧吉(当時五十歳)という者を呼んで、蛭ヶ岳の登山について協議した。彼の考えでは、蛭ヶ岳から北へ引く尾根に登りつき、それを伝って、頂上の北の小突起のボッチという所に小屋があるので、それに泊まって頂上を極める案を提出した。(略)九日、午前五時起床。斧吉も来たが、天気が思わしくないので、出発を見合せようかと相談中、降雨となったので、登山を中止し、滞在ということになった。昼頃であったが、井上氏の妻女が、いい天気になったと干物を外に出したので、やれ嬉しやと、外を見ると、糠雨がしとしと降っている。このくらいな霧雨が、好天気の類とは、恐れ入らざるを得ない。森林の深いあの時代では、あの辺では、こんな天気は普通であったのだろう。そのうち、風呂が沸いたという知らせに、浴室は何処かと縁に出てみれば、雨の降る庭先に据風呂を出して、湯を沸かしたのである。市河君が、下駄を履いてその風呂に入りに行った。家の女の子が、唐傘をさし掛けているのは、はなはだ奇妙な図であった。この時代には、この辺の村では、粟か稗(ひえ)が常食であったらしい。私達はこの地の食物がどうも口に入り兼ねる。気の毒に思った家の人は、折からの玉蜀黍(とうもろこし)を焼いて出してくれた。これならおいしく食べられる。結局これによって、命を繋いだようなものであった。
   据風呂(すえふろ):茶の湯の道具である「水風炉(すいふろ)」に構造が似るところからという。
          桶(おけ)の下にかまどを取りつけ浴槽の水を沸かして入る風呂。塩風呂・蒸し風呂などに対していう。すえふろ。

参考ーA 「雁ヶ腹摺考」の一部より
 (略)同年9月初旬、(三人で)、相州蛭ヶ岳へ志した折、山麓の上青根で傭(やと)った猟師の杉本斧吉(当時五十歳)の山談の中に、また雁ヶ腹摺に関するものがあった。同人の言を帰京後所持の山嶽志に記入しておいたのを抄出すると「大藤近傍ヨリ雁ヶ腹摺山ヲ越エテ小菅及ビ西原ニ通ズベシ山路夷ナラザレドモ馬ヲ通ズト云フ(杉本斧吉)」というのである。しかしこれは本当の雁ヶ腹摺山ではなくて、大菩薩峠にあたること疑うの余地はないのである。(略)
参考ーB 「丹澤の昔を語る」の一部より
 
それ以来(明治38年)丹澤への興味はますます深くなって、翌年は蛭ヶ岳に登ることに定め北の青根村から登る案を立てました。先づ登路や旅館の所在を役場に照会したところ、もとより旅館などある筈もなかったが、幸ひ青根村の助役さんが好意を寄せて自分の家へ泊っても差支へないと言ふ返事がありましたので、九月下旬中央線を寄瀬で下車して青根村へ参りました。翌日は、焼山の尾根続きから蛭ヶ岳へ登る事に予定して居りましたが雨で延期、次の朝はどうかと案じながら目覚めると、奥さんが言はれるには大分良い天気だと言ふ話に、喜んで外へ出ると矢張り霧の様な雨が降って居るので其の日も中止です。一体雨が降って良い天気とは不思議とたづねた所、此の辺は此の位の天候ではまづ良い方だとの事に丹澤山塊に雨の多い事を泌々と感じました。そう言えば雨の降って居るのに干物なぞ出してありましたが、尚困った事は此の村の人々は稗を常食として米を食べて居ないので、都会育ちの吾々にはこれが食べられない。詮方なくたうもろこしばかりで過ごして居りましたが天候は容易に回復せず、結局三日間太陽を殆ん仰がず、山へも登ることが出来ず引返して来ました。これが明治三十九年の事です。(以下略)
9月、「博物之友 六巻三十四号」に「雑録 シナノナデシコ甲州に産す・追悼一篇」を寄稿する。
9月20日。「植物学雑誌 第20巻236号 雑録」に「○りんねさうノ一新産地・○東駒ヶ嶽ノおほさくらそう」を寄稿する。
「○りんねさうノ一新産地」より、一部
(略)
本年八月、友人辻本満丸氏ハ、之ヲ甲州鳳凰山ニ得タリ、同草ノ新産地トシテ、又我国最南ノ産地トシテ、此ニ記スルノ値アルベシ。
○東駒ヶ嶽ノおほさくらそう」(全文)
 
本誌第十八巻第二百十号一三五頁ニ於テおほさくらさうヲ甲州駒ヶ嶽ニ得タル事ヲ記セリ、其ノ後之ヲ精検シテ、其ノ全クおほさくらさうニ非ズシテ、こいはざくらニ他ナラザルコトヲ確認スルヲ得タリ、此ニ之ヲ記シテ予ノ粗漏ヲ謝ス、同草ハ甲州ノ他ノ山ニモ亦之アリ。
                    
粗漏(そろう):大ざっぱで、手落ちがあること
 
また、同号に牧野富太郎が「植物新産地三報」の中で、「むじなも(Aldrovanda vesiculosa L.)上野国館林附近ノ沼池ニ産ス明治三十八年九月十日高野貞助君ノ見出採集スル所ナリ」と報告する。また「所謂(いわゆる)金線草トハ何乎(か)」と、問いかける。
所謂(いわゆる)金線草トハ何乎(か)(全文)
 金線草丁幾(チンキ)ト稱シテ坊間薬舗ニ鬻グモノアリ此金線草ハ其正名ニアラズシテ商人ノ妄ニ命ゼシ私名ナリ以テ世人ヲシテ其實物ヲ模索スルニ苦シマシム然カモ是レ地衣類ノさるおがせナリ
10月13日、日本博物学同志会第二十七回例会が開かれ「しらねにんじんニツキテ」を講演する。
10月20日、「植物雑誌20巻237号」に「○日本産はなわらびノ種類」を寄稿する。
はなわらび属即チ Botrychium ノ種類ハ、従来本邦産トシテ知ラレタルモノ、其ノ数僅ニ四五ニ過ギザリシガ、過般所蔵標本ヲ整理セントセシノ際、理科大学ノ標品ニ就テ調査シタリシニ、本邦産ノモノ、左の九種ヲ明ニスルヲ得タリ、即チ
和 名 学 名 備 考(要約)
ひめはなわらび
又へびのしだ
Botrychium lunaria 此ノ種ニ三品アリ高山ニ見ル処ノ種類
みやまはなわらび Botrychium lanceolatum 稀品
こはなわらび (新称) Botrychium simplex
ふゆのはなわらび Botrychium ternatum 最モ普通ノモノ
しまおほはなわらび(矢部氏) Botrychium daucifolium 台湾ニ産スルモノニシテ、矢部氏ノ検定セル所ニ係ル
おほはなわらび Botrychium japonicum 亦稀ナラズ
やまはなわらび
 (新称、牧野氏並ニ予)
Botrychium robustum 従来ふゆのはなわらび中ニ混雑シタルモノ、
なつのはなわらび Botrychium virginianum なつのはなわらびトながほのなつはなわらびモ亦相混ジテ共なつのはなわらびノ名ノ下ニ呼バレ居タリシガ、今之ヲ分チテBotr.strictum Underw.ニながほのなつはなわらびノ新称ヲ与ヘタリ、此ノ両種亦広ク本邦各地ニ分布セリ。
ながほのなつはなわらび
 (新称、牧野氏並ニ予)
Botrychium strictum
 右ノ外予ガ見ザル品種無之ヲ保セズ、斯学ニ忠実ナル諸君ガ本属植物ノ標品ヲ寄贈シテ、予ノ研究ニ資セラレンコトヲ希フ。(宛処ー東京市麹町区富士見町四丁目六番地 武田久吉)
11月の晴れ上った日曜日、友人と二人で高尾山→城山→小仏峠→景信山→陣馬ヶ峯→沢井村栃谷→与瀬→帰京    「あしなか110輯 相州栃谷の山ノ神」より
11月16日、帰山信順が没す。(39才・染井墓地)
11月、中井猛之進が日本博物学同志会に入会する。
11月、「山岳 第一年第三号 白馬岳籠城記(承前)(河田黙と共筆)」を寄稿する。
    同号に辻本満丸が「甲州鳳凰山と地蔵岳」を寄稿する。
11月、「博物之友 六巻三十五号」に「シラネニンジン等に就きて・熱帯の植物界・雑録 他一篇」を寄稿する。
11月20日植物雑誌 20巻238号」に「しらねにんじん並ニやまうゐきゃうノ學名ニ就イテ述ブ」を寄稿する。
(末尾の部分より)(略)即チ、此ノ種ハ、しらねにんじんが、本邦中部以北ニ産スルニ反シテ、専ラ、中部以南ニ居ヲ占メ、而シテ、其ノ額モ、彼ノ如ク多カラザルガ如シ、今予ガ知レル産地ヲ、挙グレバ、戸隠山・白馬ヶ岳ヲ最北トシ、八ヶ岳・浅間山・木曽駒ヶ岳・甲州地蔵ヶ岳等ニシテ、四国阿波ノ、剣山頂ノモ、亦其ノ産スルヲ知レリ、而シテ、此ニ特記スベキハ、此ノ種ガ、朝鮮ニモ産スルコトニシテ、同国済州島ノ羅漢山頂ニ、生ズルヲ知ル、即チ昨年、予ノ学友、市河三喜氏ノ、此所に採ル所ニ係ルモノニシテ、此地ノハ、我ハ剣山ト、略、同緯度ニアリ、若シ夫レ、更ニ、南方、台湾ノ新高山ニ、之ヲ見バ、愉快ノ事ナルベシ。
 予ハ、此ノ卑説ヲ終ルニ臨ミ、予ノ考査ニ、多クノ序言ヲ、与ヘラレタル、牧野富太郎先生ノ、好意ヲ深謝ス。
12月20日、「植物学雑誌20巻239号」に「ひよどりじゃうごトまるばのほろしノ漢名ニ就イテ・てんなんしゃう属植物ノ雌雄ニ就イテ・所謂金線草ニ就イテ」を寄稿する。
所謂(いわゆる)金線草ニ就イテ」(全文)
 金線草丁幾(チンキ)ト号シテ薬舗ニ販グモノノ原料ナル、所謂金線草ニ就キテ本誌第二百三十六号ニ牧野氏ハ其ノさるをがせニ外ナラザルコトヲ記サレタリ。此ノ草ヲ発見シタルハ三田幸蔵トカ云フ人ナリトノコトナルガ、古来甲州身延ニテハ、之ヲ「七面様のお草」ト称シテ販売シ、迷信者ハ購ヒ来リテ、風邪ニハ煎ジテ飲ミ、火傷ニハ其煎汁ヲ塗リ、以テ効アリトナセリ。此ノ植物ノ含有物ハ主トシテ単寧(タンニン)ナリト云フ。  注 関連論文 大正7年「山岳第12年第1号」に「甲州七面山の「御神木」と「萬歳草」」があり
参考:同号・雑報欄に樺太植物調査、「〇樺太植物ノ調査」が掲載される。
日露戦役ノ結果トシテ樺太ノ南半我帝国ノ販図ニ帰スルヤ我政府ハ直ニ人ヲ派シテ諸種ノ調査ヲ開始シタルガ我植物学界ニテハ札幌農学校教授宮部博士命ヲ奉ジテ本年ノ夏期休暇中彼ノ地ヘ渡航シ門下生農学士三宅勉氏等ト共ニ直ニ採集調査ニ着手シ夥多ノ採集品ヲ得テ帰ラレ引(略)
○この年、母を奉じて信州の諏訪湖や甲州和田峠を越えて御岳昇仙峡や差出の磯を見物する。
    この月七日から十日と記述あり。何月かは不明なため検討要 「明治の山旅・諏訪湖と昇仙峡付近、差出ノ磯」より
1907 明治40年 24
1月、「博物之友 七巻三十六号」に「マツの説(一)・雑録 ヤマウイキョウの最北の産地」他二篇を寄稿する。
2月9日、「日本博物学同志会 第二十四回例会に於いて「クルマユリの学名」を講演する。
   参集者:鳥山悌成・片平重次・高野鷹蔵・田中五一・武田久吉・南部洋・梅澤観光・大橋良一・矢野宗幹
         福田卓・江原竹二・寺尾新、岸田松若・守田豊蔵
2月、「博物之友 七巻三十七号」に「かきつばたの学名如何・札幌見聞記(第二報)・雑録 ミヤマハタザオの花の紅変」他三篇(韓国産ほそばゆりノ学名・『対生変ジテ輪生トナル』ニツキテ・)を寄稿する。同号に、南部生と記して「磐城角田(カクタ)附近ノニ匂ヲすみれ」が寄稿される。
参考資料 余昨春ヨリすみれヲ採集シテ十数種ヲ得、武田氏ニ送附して検定ヲ乞ヘリ、尚他ニ採集ノ見込充分ニアリ、其中ニテ香気ヲ放ツモノ左ノ如シ。 (一)えぞすみれ・・・(略)
2月、三好学が「植物学雑誌 第二百四十一号」に「名木ノ伐滅并ニ其保存ノ必要」を寄稿する。
      注 上記論文は「東洋学術雑誌23巻301号」からの転載であることを論文の冒頭に記載してありました。 2016・7・16 保坂
一 名木保存ノ必要
二 樹木死滅ノ原因
三 世界各国ニ固有ナル樹木并ニ絶滅ノ危険
四 外国ニ於ケル名木保存ノ計画
五 我邦固有ノ樹木并ニ古来ノ保存及ビ伐採
六 保存スベキ樹木ノ部類
一 土地ノ風致上密接ナル関係アルモノ、例、松島ノ於ケル松及ビ他樹
二 郷土ノ歴史ニ関係アルモノ又ハ記録的、口碑的ニ由緒アルモノ
三 紀念トシテ種植セルモノ
四 学術上珍奇ナルモノ、又ハ完全ナル標本ト認メラル丶モノ、例、江北村荒川土手ノ櫻

    拙著「日本植物景観」第四集第二十八図番
龍華寺ノ蘇鉄同上第三十一図番
五 美観上卓絶セルモノ、例、唐崎ノ松「日本植物景観」第四集第二十九及三十図番
(略)其保存スベキ価値ト必要ノ十分ニ知ラレザルモノ少カラズ、(げん)ニ一例を挙グレバ、札幌附近ノ藻岩山ノ如キ、(さいじ)タル一小嶺ニ過ギザレドモ、固有ノ樹木極メテ多ク、植物分布上頗ル注目スベキ勝区ナルハ、嘗テザルジェント氏ノ嘆賞シタル所ニシテ、氏ノ前記ノ書中ニ詳記セラレタルガ、予モ亦嘗テ札幌農学校ノ宮部教授ト此山ニ登リ、同教授ノ説明ニヨリテ其実況ヲ目撃シタリ(略) 
七 名木保存ノ方法
八 灌木、草本、水草等ノ保存
一 土地ノ開拓、道路ノ布設、田畠ノ新開等ハ何レモ其土地ニ固有ナル灌木、草木ノ減滅ヲ(以下略)
二 烟突ヨリ吐出スル有害瓦斯(亜硫酸及ビ其他ノ無機酸(ならび)ニ鉱物性毒分)又は(以下略))
三 種々ノ工場ヨリ流出スル下水中ニハ(しばしば)、有毒物質ヲ混ゼルガ為メニ、(以下略)




採集の劇甚ラルニヨリ草木、灌木等ノ種類ノ著ルシク減少シ、遂ニハ全ク其跡ヲ絶ツニ至ルコト多シ、是レ主トシテ園芸其他ニ用ヒラルヽ(略)アルプス山旅客ハ紀念トシテ山上ニ自生スルエーデルワイス(Leontopodium alpinum.)ヲ持チ帰ル他為メ、今ハ甚ダ其数ヲ減ジ、之ガ採集ヲ禁ズルニモ至レリ、我邦ニテモ御嶽登山者ガ争テこまくさヲ採リ去ルニヨリ、今ハ殆ド該山中ニ見ル能ハザルコトヽナレリ、(略)
九 結論
月12日、宮部金吾・三宅勉が「樺太民政署」から「樺太植物調査概報」を刊行する。
3月、札幌農学校講師に赴任する。 植物学雑誌21巻243号P110 転居の欄にも記載あり 2015・3・2 保坂
3月、「山岳 第二年第一号」に「東駒ヶ岳と白崩山とは同物か将又異物か・日光大地震大洪水大火日記」を寄稿する
   また、同号に梅澤観光が「武州御岳山及び大嶽山より大菩薩嶺を越えて甲州塩山に至るの記」を寄稿する。
大菩薩連嶺のスケッチと小金沢山のことなど/(略)東京から望岳の歴史が加えられていることは、甚だ興味がある。但し残念なことに、一、二是正すべき点があって、それを木暮君に知らせようと思い乍ら、遂にその機を逸したことである。即ち同書一一一頁に引用されている『山岳』第二年第一号に揚げられた、東京市中から遠望した御前山塊と大菩薩連嶺のスケッチなるものは、実は私が自宅の屋根の棟から跨って描いたものなのであって、たとい梅沢君の記文に挿入されたとしても、三角の中に人字を描いたようなサインは、久の字をもじったものなのである。ついでに申して置くが、私の大菩薩連嶺のスケッチに、大菩薩岳、大菩薩峠としたものは誤りないが、「初鹿野山」と考定したものは、実は熊沢山と天狗棚山とであり、その左に続く無名のものは、小金沢山なのである。そしてその妙見山から東に引く尾根と、前三頭と繋がるように描かれているのも、光線の工合でそう見えたためにそうなった誤りである。更に訂正を要することは、『登山講座』一一六頁のスケッチ中、オアキド(1048)メートルとあるのは、アマキドの誤りで、多分筆が滑ってマがアとなったものであろうが、この山名は私が大正時代に道志流域を歩いた時に、聞き出して来て、木暮君に報告したのが基であった。(略)  「アルプ89号 木暮君と私(二) P59より
3月、「博物之友 七巻三十八号」に「テンナンショウとマムシグサと区別あること・札幌見聞記(第三稿)・雑録 オオカニカワホリの新産地」他一篇を寄稿する。
3月20日、「植物学雑誌21巻242号」に「やまひめわらび(新称)」を寄稿する。
(冒頭の部分から)予ノ一友山中太三郎君、昨年八月信州夏澤峠(なるさわたうげ)ニ得タル処ノ一羊齒ヲ送リテ名ヲ質サル、就イテ見ルニ、予ガ未知ノ一種ナリシヲ以テ、其ノ名ヲ諸書ニ求メテ、遂ニ其ノCystopteris sudetica A, Braun et Milde.ニ該当スルコトヲ知ルヲ得タリ。(以下略)
4月、「博物之友 七巻三十九号」に「雑録 札幌通信」を寄稿する。 
5月、「博物之友 七巻四十号」に「雑録 札幌通信」他二篇を寄稿する。
7月22日〜27日、武田久吉、河田黙・梅沢親光・鳥山悌成と人夫を含めた9人が高遠を出発―戸台―赤河原―北沢峠―甲斐駒ケ岳―台ケ原に登山、白崩(しろくずれ)山と甲斐駒ケ岳の同一性を実地検証する。

 「山岳」第三年第一号 「白崩山に登り駒岳を降る 鳥山梯成・梅澤観光」より
      踏査のルートを赤線を加筆
「白崩山に登り駒岳を降る 
         鳥山梯成・梅澤観光」より

 一  白崩山
(略)此絶頂の此観に「十五夜前にこんな快晴は長の年月かかさず御参りしたわし等も、とても七八度しかありませなんだ」と大先達の言に、我等は深く天の殊籠を感謝した。早くついた二人の青年は摩利支天へと御参りをすませて戻って来た、大先達始め油屋さんと順蔵とは携へ來った白米を供物に捧げて観世音に礼拝に余念がない、我等は写真をとる、スケッチを作る。カメノコテントウムシ、カミキリの三種ばかりを瓶に収める。
 やがて、一行九人集まって胡瓜を齧
(かじ)った。一万尺に垂たる霊峰の頂巓(ちょうてん)、人は相親しんで自然の荘厳を語る、此時、我等は雇主ではなく人夫は雇人でない、一切の假名を脱した赤裸々の同胞で、携へ來った数箇の瓜の主は油屋さんで僕等はその御馳走にあづかった次第「旦那召上りませんか」と云はれた時には悦しかった、瓜より水がいゝ等と栄誉を云っては仕方がない。自然の美に人情の美が加って登山の興味は増して行く思ひがする。
 いつまでも眺めてもはてしがないので十二時三十分降りに。信州よりの白崩山登りはこれに終る。
二 駒岳
 甲斐の黒駒の名は白崩よりも世に知られておらう、これよりの道は武田君も
曾遊にかゝる熟路である。末と政は参拝ずみ故本道の順路を水雨天の方へと降り、残る七人は摩利支天へ降る、大先達は「どうぞ御先へ」と大貴已命を祀った、岩に一大鐡劔が立った三丁許あなたの祠に向ふ、「摩利支天で待たう」武田君が先に立ってトットッと花崗岩のばい爛した雪より白い砂の上を駈け下る一歩は一歩より急で速力は大きくなる。(略)
 ※曾遊:前に訪れたことがあること
踏査コース
飯田町→甲府→辰野→(乗合馬車)→高遠→東高遠・星野家(泊・
星野家は昔高遠の城主内藤大和守の家老)→(準備・人夫・篠田先達・伊沢金治・志賀順蔵・森末松・篠田政雄)(泊)→7月24日/黒河内→前宮→御鷹岩→乞食岩→戸台→三ツ石(ヒメバラモミ)→赤河原・大岩の小屋(泊)→7人が北沢峠へ、瀑発見できず大岩に戻る→大岩の小屋(泊)→7月26日/藪沢の瀑→刀利(とうり)天狗と刻んだ碑石(ハクサンシャクナゲ)→六合目刀利権現(約2550m)(ハイマツ・ゴゼンタチバナ・ミヤマキンバイ)→屏風岩の難場→(ハイマツ・ベニヒカゲ・クジャクチョウ・ヒメヒオドシが舞い・ハクサンイチゲ・アオノツガザクラ)頂上の三角櫓(白崩山=駒ヶ岳頂上)→麻利志天→ハゲの岩屋→阿留摩耶天狗の石碑→尾白川の岸→前宮→台ヶ原・竹屋(泊)→日野春  「明治の山旅・「白崩山・甲斐駒・異同の実地検証」」より
参考(部分)
(略)
山岳会が結成されて後、甲斐駒ケ岳と、信州でいう白崩山と同一か異物かという議論が起こり、その当時、山岳通として自他ともに許した小島烏水君は、異物説を固執して譲らない。何せ実測の地図の皆無な時代のこととて、地図によって決することは、不可能なのであったから、実地について検証する外ないので、明治四十年(1907)数名の友人と、長野県高遠から白崩講の先達を案内者として、戸台を経て登山し、その同一であることを確認して、台ヶ原に下山したことがある。(略) 「明治の山旅・甲斐駒」」より
7月、「博物之友 七巻四十二号」に「雑録 札幌通信」を寄稿する。
7月、北海道石狩國上川中学の安藤秋三郎が生徒を引率し、ヌタカムウシュペ山「大雪山」の植物採集を行う。 「博物之友 八巻四十八号ヌタクカムウシュペ山の植物に就きて」より
8月18日、日光女貌山嶺から帝釈山ニ至ル途中にて、キチョウ・スジグロシロチョウを発見する。博物之友47号P371
8月、「博物之友 七巻四十三号」に「雑録 南部日本アルプスの植物」を寄稿する。
9月東北帝大予科講師。(至明治42年11月)
10月20日、松田定久が「植物学雑誌21巻249号」に「金線草ト支那ニ産スルあかね属」を寄稿する。
11月、「博物之友 七巻四十六号」に「雑録 トキワマンサクの漢名」他一篇を寄稿する。
11月、辻本満丸が、「山岳 第2年第3号」に「鳳凰山第2回登山記」を寄稿する。
   また、同号に城幹事宛てに、武田千代三郎山梨縣知事が瑞牆山や富士山についてを記した書翰を送る。
12月、「博物之友 七巻 四十七号」に「林娜斯氏と林氏二十四綱・高山にて得たる二、三の蝶に就いて」を寄稿する。 注意 林娜斯は植物分類学の父リンネのことで期は誤植のため修正した。「武田久吉著作展 日本山岳会」より  2015・9・23 保坂記 
林娜斯氏と林氏二十四綱の冒頭部分
凡ソ自然界ニ趣味ヲ有シ博物ノ学ニ親ム者ニシテ誰カ林娜斯リネース)ノ名ヲ耳ニセザル者アランヤ、動植物ノ学名ノ終ニ L. ノ一字ヲ記セルモノ、是レ林娜斯ノ略符ニシテ、其学名ガ林氏ニヨリ命ゼラレタルヲ示スモノニ外ナラズ、世界各国ノ動植物、殊ニ欧州ニ産スル動植物ノ大部分ハ、概ネ林氏ノ命名スル処ニ係リ、一百数十年来世界ノ博物学者間ニ用ヰラレ、其学名ト共ニ命名者ノ名ヲ萬世ニ伝ヘツヽアルナリ。博物学ノ大改革者トシテ、将又近世博物学ノ開祖トシテ仰ガルヽ、此偉大ナル林娜斯(Carolus Linnaeus)ハ今ヲ去ルコト二百年即チ西暦一千七百〇七年五月二十三日スウヰーデン(下表へ)
西 暦 年齢  出 来 事
1707 5月23日、スウエーデン南部Smaland州 Rashut に生まれる。
1727 20 Lnnd(ルンド)ノ大学ニ入リ薬学ヲ学ビシガ、傍ラ熱心ニ植物学ヲ研究スルヲ怠ラズ、Vaillantノ論説 De sexu Plantarum (植物ノ性ニ就イテ)ニヨリテ始メテ植物ノ性ニ関シテ注意ヲ惹起シタリシハ実ニ此時ナリシト云フ。
1728 21 Upsala(ウプサラ)ノ大学ニ移リ、勉学ノ傍ラ神学者 Olaf Celsius ガ聖書ノ植物ヲ研究スルニ力ヲ借シタリシガ、越エテ
1730 23 Rudbekノ下ニテ植物園ノ管理者トナリス。此頃彼ハBibliotheca botanica ;Classes plantarum;Genera plantarum.ノ著    述ニ着手シ傍ラルートベック図書館ニ於テ動物学ノ研究ヲ始ムルニ至レリ。彼ガ大学ニ至ルノ間ハ多大ノ困苦ト缺乏ニ苦シミ、時ニハ破靴ノ修繕サヘ為シテ以テ資金ヲ得タルコト稀ナラズ、後Celsius 及ビ Rudbeckノ補助wp得タルコト鮮ナカラザリシト云フ。
1732 25 彼ハウプサラノ科学会ノ委嘱ニヨリテLapplandニ探険旅行ヲ行ヒ、Falunニ赴キテ鉱物学及ビ試験術ヲ教ヘタリシガ、次デ山岳地方ナルDalekarlienニ旅行シタリキ、彼ガラプランドノ探険ヨリ帰ル時後年彼ノ妻女トナリシ州医 Morausノ娘ヲ携ヘ来リシガ、此者ヨリ和蘭ヘ旅行スベキ費用ヲ得テHaderwijkニ於テ学位ヲ得タリ、後、Leiden及ビ Hartekan ニ留ルコト三年ニシテ Systema natulae;Fundamenta botanica(自然の体系)等ノ書籍ヲ印行セシメタリヤ。其頃 Baer have ハ彼ヲCliffort ニ推薦シタリシガクリフォートハ彼ニ自レノ植物園並ニせき葉庫ノ使用ヲ許シ、又
1735 28 彼ハストックホルムニテ初メテsystema naturae ヲ印行セシメシガ、本書ノミニテ十二回其版ヲ更メヌ、翌年→@
1736 29 暫時英国ニ旅行セシメタリ、翌年彼ハパリーニ遊ビ、帰リテ後 Stockholm ニテ医家トナリシガ、
→@アムステルダムニ於テ Bibliotheca botanica 及ビ Fundamenta botanica ノ両書ヲ公ニシ、其翌年ニハ→A
1737 30 Flora lapponicaヲ刊行シタリ、而シテ其採品ハ新品奇種ヲ含ムコト鮮ナカラザリシガ、之ヲ研究スルニ際シテ彼ノ Sexual system ハ初メテ企圖サレタルモノナリシナリ。(1732年のラプランド探険旅行で採集した大約537種を独特な分類法によって記述した。)→AGenera plantarum ヲ出版シタリシガ、続イテ、 Hortus Cliffortianus ヲ梓ニ上セタリ、此書中ニハ希少ナル外国産ノ植物ヲ記載シ、又其図ヲモ載セタリ
1738 31 Classes plantarum seu syst‘ma plantarum a fructificatione desumta ヲライデンニテ印行シタリシガ、其後ハ屡々諸種ノ論文ヲ草シ、其ノ大部分ハAmonitates Academica ニ集積サレタリ。
1741 34 ウプサラニ於テ薬学ノ教授トナリ翌年ルートベックノ死後其後ヲ襲ヒテ植物学並ニ博物学教授ノ職ニ就キヌ。此位置ニアリテ彼ハ植物園ヲ改革シテ世界ニ有名ナルモノトナシ。又博物館ヲ設立シタリキ、
1746 39 其著Schwedicshe Fauna ヲ刊行シタリシガ、其翌年侍医ニ任ゼラレ、ヤガテ彼ノ学生ヲ世界各地ニ送リテ天然物ノ探険ニ従事セシメ、自ハ益々其研鑚ノ歩武ヲ進メ、又其著書ニハ絶エズ増訂ヲ加ヘ、新版ハ毎ニ面目ヲ新ニシタリキ。(略)
1747 40 Flora zeylanicaヲ出版する
1748 41 Hertus upsaliensis 並ビニ Fioraceconomicaヲ出版シ、
1749 42 Materia medica 及ビ Pansuecicus ヲ公ニシ、
1751 44 重要ナルモノノ一ナル Philosophia botanica ヲ著シ、
1753 46 Species plantarum ヲ出版シタリシガ、此書ノミニテモ実ニ彼ノ名ヲ不屈ナラシムルモノナリ、
1754 47 Genera plantayum 第五版が出版される。
1764 57 彼ハ教職ヲ其子Karlニ譲リテ退隠シタリシガ、越エテ六十二年国王ハ彼ヲ北星騎士団ノ騎士ニ任ジテ貴族ニ列シス、彼ガKarl von Linne ノ名をヲ称シタルハ実ニ此時ニシテ、以前ハ Linnaens ノ名ヲ用ヒ居タルナリ。
1778 71 1月十日、ウプサラニ於テ、古稀ノ齢ヲコエテ逝ク。
1905 去ル一千九百〇五年ウヰーン府ニ開設サレシ万国植物学会ニ於テ議定サレタル植物命名法ニ就テハ、本書ニ記載サレタル植物ノ名目ヲ以テ、吾人ガ学問上用ユベキ最古ノモノト定メ、又属の性質ハ一千七百五十四年ニ出版セラレタル Genera plantayum 第五版ニ記載サレタルモノヲ用ユベシト決定シタリルヲ以テ見ルモ、是等ノ書籍ガ如何ニ重要ナルカヲ知ルニ足ラン、
                  
            同書論文より構成を変え作成し、二十四綱についての掲載は省略しました。 2015・10・4 保坂記
 ※「高山にて得たる二、三の蝶に就いて」の一覧
冒頭の部分から
(かつ)テハ熱心ナル昆虫採集者ナリシ予ハ一度之ヲ中止シテヨリ網ヲ揮ハザルコト数年ナリシガ両三年前ヨリ植物採集ノ傍高山ノ昆虫ヲ採集スルコトヲ初メタルガ元ヨリ片手間ノコトナレバ思ふ様ニハ行カズ只九牛ノ一毛ヲ獲テ帰ル次第ナルガ其ノ内蝶類ニテ予ノ捕獲セルモノニハ次ノ六種アリ同好者ノ参考ニモナランカト考ヘテ今左ニ記スコトトセリ。
くもまべにひかげ M38・8・19→信越境上ノ鑓ヶ岳字鑓裏ニテ初メテ採取、
M38・8・22→白馬ヶ岳頂上
M38・8・27→白馬ヶ岳字白馬尻附近ニテ多数花間ニ飛翔、 
くじゃくてふ M38・8・27→白馬ヶ岳頂上
M39・8・29→甲斐駒ケ岳ノ地獄谷ニテ採取
いちもんっじせせり M38→白馬ヶ岳上ニ籠居中
M38・8・24→越中下新川郡シューブ(塩頭)ヶ岳ノ連脈跋渉セル際
べにひかげ M39・8・29/M40・7・26→甲斐駒ケ嶽
M39・8・26→甲州鳳凰山中ニテ目撃シタリ。
ひめひおどし M39・8・29→甲斐駒ケ岳ノ地獄谷ニテ採取
M40・7・26→甲斐駒ケ嶽頂上
きてふ並ニすぢぐろしろてふ M40・8・18→日光女貌山嶺ヨリ山背ヲ伝ヒテ帝釈山ニ至ル途中ニテ此ノ両種ガたびたび灌木帯ノ間ニ飛翔スルヲ認メタリ元来下房ヨリ吹キ上ゲラレテ此ニ到リシモノナルヤモ知レザレド飛翔ノ状態ハ此ヲ棲息地トセルガ如キ観アリ。
1908 明治41年 25
1月、「博物之友 八巻四十八号」に「ヌタカムウシュペ山の植物に就きて」を寄稿する。
略)此の学術的登山者殆んど絶無なるヌタカムウシュペは。昨夏七月、当時石狩國上川中学校教諭たりし、安藤秋三郎氏に引率せられたる同校生徒等によりて登攀(とうはん)を試みられ、其際採集せられたる植物標品は、安藤氏より我が札幌農科大学助教授半澤農学士の元に送致せられ、予は幸いにして同学士より其標品を検することを委嘱されなるを以て、当大学のセキ葉庫に於いて、豊富なる所蔵標品と比較し、又書籍に考へて、此頃其の名称を明にするを得たり採品は全数五十種許りにして、同山植物の総てを網羅するにあらざるは勿論なりと雖(いえど)も、此山の植物に関する最初の智識なるを以て 特に本誌の余白を借りて報告することとしたり。(略) ※セキ: 月+昔の合字
参考 ヌタカムウシュペ山で採取した「はくさんばうふう」関連の資料
一昨年予ハ半澤農学士ノ依頼ヲ受ケテヌタカムウシュペ山産ノ標本を検定セルノ際、はくさんばうふうノ標本アルヲ見、直ニ農科大学せき葉室ニ就イテ其他ノ産地ヲ知ラントセシモ、はくさんばうふうノ屬包中只一個ノ白馬岳産標品ヲ蔵スルニ過ギザルヲ見ルニ止マリシガ、終ニ其ノ数個ヲやまぜり即チ Augelica Miquciana ノ属包中ニ発見シ得タリ、(略) 「博物之友 第五十九号 北海植物瑣談(其二) P17」より
植物採集の区間 科名 和名(No) 科名 和名(No)
チュフペツ川上流〜
ヌタクカムウシュペ山
 入口
禾木科 ミヤマイチゴツナギ(14) 十字花科 ミヤマガラシ(2・11)
かやつりぐさ科 ヒゴクサ(10) エゾワサビ(16)
イハキンスゲ(3・9) いばら科 アヅキナシ(8)
ショタイサウ(5) あかばな科 此種ならんかと思はるゝ僅少の標品あり、不完全と不充分なるの為に断定する能はず (9)
マシケスゲ(14) ヒメアカバナ(7)
なでしこ科 ミミナグサ(6) 繖形科 オホカサモチ(4)
ノミノフスマ(17)
船来植物の野生せるものにして本島往々之を見る
唇形科 ミソガハサウ(1)
うまのあしがた科 モミジショウマ(15) あかね科 カハラマツバ(13)
十字花科 ミヤマハタダホ(12)
菊池小 のきしのぶ科 ヤマソテツ(13) めぎ科 ウメバチサウ(21)
ひかげのかづら科 lycopodium complanatum.L.(9)
アスヒカツラ(9)
いばら科 コガイチゴ(4) 子
らん科 コウチエフラン(3) かへで科 ヲガラバナ(14)
ミヤマフタバラン(2) あかばな科 ミヤマタニタデ(10)
イチエフラン(5) 繖形科 ハクサンバウフウ(16)
ホソバノキソチドリ(20) しゃくなげ科 エゾツツジ(12)
なでしこ科 ナデシコ(19) さくらそう科 ツマトリサラ(1)
うまのあしがた科 ウメバチモ(6) すひかづら科 ウコンウツギ(15)
めぎ科 ナンブサウ(8) きく科 ミミカハホリ(11)
サンカエフ(7) アキノキリンサウ(18)
アラシグサ(17)
山腹より頂上に至る間 かやつりぐさ科 アゼスゲ(30) しゃくなげ科 イソツツジ(29)
ゐ科 ミヤマヰ(30) ズワウ(34)  子
なでしこ科 イハツメクサ(24) キバナシャクナゲ(25)
うまのあしがた科 キンバイサウ(27) いはうめ科 フキツメサウ(23)
ゆきのした科 クモマグサ(26) さくらさう科 エゾコザクラ(29)
いばら科 チンクルマ(28) りんだう科 ミヤマリンダウ(33)
しゃくなげ科 イハヒゲ(31) ミツガシハ(22)
ヂムカデ(32)
以上五十四種の植物は安藤氏より送られたる標品の全数にして、これを以てヌタカムウシュペ山お植物の如何を談するは早計の誹(そしり)を免れざるべけれど、其大部分は他の高山に通用なるものにして、特に珍と謂ひ奇と言ふに足るべきものなしと雖(いえど)、亦其或者は北海道の他の高山にも稀なるものなきに非ず、亦或者な内地に稀ならずして、北海道として珍なるものも之れ、有るなり。尚此山の植物の詳細は他日自ら踏査し而して之を記さん。
  注意 この表では学名を省略、実際の報文では、学名の後に番号が付与されていましたが、ここでは和名の後に付与しました。
        この
「番号は安藤氏より附して送られたる標品の番号なり」との記述があったため 保坂記
2月、
「博物之友 八巻四十九号」に「雑録 オランダミツバとオランダセリ」を寄稿する。
2月、「植物学雑誌第二百五十三号」の「邦文新著紹介」欄に「●武田氏「林娜斯氏ト林氏二十四綱」博物之友第七巻第四十七号」が紹介される。
昨年ハ林娜斯氏ノ々ノ聲ヲアゲシヨリ二百年目ニ該当スルニヨリ端典國ニテハ紀念ノ著述二冊ヲ作リ過日本会ヘモ寄附シ来リシコトアリシガ武田氏ハ恰(あたか)モ良シ此紀念ノ歳ニ際シ筆ヲ採テ林娜斯氏ノ履歴ヲ延ベ終ニ所謂林氏二十四綱ヲ説明セリ。(川村)   こ: 月+瓜 漢字変換不能
5月、「博物之友 八巻五十二号」に「植物界に於ける巨漢」を寄稿する。
5月17日、山岳会第一回大会が東京地学協会会館に於いて開催される。
会則第五条により、去五月役員を改選したるに、左も八氏当選したり、皆重任なり。(イロハ順)
河田 默 高頭  式 高野 鷹蔵 武田 久吉
辻本 満丸 梅澤 観光 小島 久太 城 数馬
    陳列室出品目録(イロハ順)  
今村 巳之助(寄贈) 金精嶺写真                         一
地学協会(出品)
伊能忠敬自測日本全図 一折 伊豆群島図 一折
日本全国海道折図 一折 小笠原之図 一折
エゾ古図 一折 朝鮮金剛山屏風
日光山志 五冊 欧洲亞西亞模形図
大下藤次郎(出品) 水彩画八点
日野春より見たる甲州駒ヶ岳 梓川及焼岳
赤城小沼より黒檜山を望む 野尻湖より黒姫山を望み
雨の上高地 妙高山腹より苗場山を望む
上高地の穂高山 磐梯山火孔
高頭仁兵衛(出品)
日本与地全図 長久保赤作(初版)
   
天明三年刊行(凡百二十五年前)
一折
一折
佐渡全図(写)文政五年作(凡八十六年前)
能州名所図絵(写本)
一折
十冊
日本山海図道大全 石川流宣画
    元禄十六年刊行(凡二百五年前)
一折 近江国大絵図 山下重政作
    寛保二年刊行(凡百六十六年前)
一折
扶桑国之図
    寛文二年刊行(凡二百四十六年前)
五巻

雷鳥夏毛雌雄



東海道分間之図 菱川師宣画/正徳元年刊行
田中阿歌麿(出品) (省略)
武田久吉(出品)
増訂大日本輿地全図 一折 官版実測日本図地 北蝦夷 一折
官版実測日本図地 蝦夷諸島 一折
辻本 満丸(出品)
五海道中細見記 安政五年刊行 木曽御岳山全図 明治二十六年
和州大峯山之略図 明治二十七年 ヒマラヤ山写真
同西の覗き写真 御守札 一束
同登山用釋杖
梅澤 観光(出品) 一 伊豆七島全図 附無人島八十与図/相武房総海岸図 不詳市売 同版五百部        一
一 関東路程図 弘化丁未 長山貫作 須原屋伊八/若林喜兵衛 求校            一
一 日光之部                                      六
日光御山之絵図 御絵図所植山弥平 日光内眞図 鬼平金四郎 明治十九年
日光山全図 小林治郎 明治二十年 日光山中禅寺温泉記 林田丞太郎 明治卅四年
日光両者名所図絵 高塚東太郎 明治二十九年 日光名所獨案内 小林次郎 明治十四年
一 諸国温泉一覧        明治二十二年
一 案内記図
妙高山赤倉温泉之図 武田常吉/明治卅六年 大和国多武峯 談山神社之図 記述なし
会津東山温泉浴場全図 山内糺/明治卅年非売品 改正身延山全図 (省略)
野州塩原温泉之図 池田善太郎/明治廿五年 天台宗総本山比叡山延暦寺略図 (省略)
下野国塩谷郡塩原温泉之図 君島弥平/? 天台宗総本山比叡山延暦寺伽藍絵図 (省略)
下野国塩谷郡塩原温泉独案内 池田六兵衛/明治廿年 上野国金洞山中之岳眞景 (省略)
上野国四方温泉全図 加納政吉/明治卅七年 茨城縣常陸国筑波郡小影筑波神社全図 (省略)
皇国第一等之温泉
豆州熱海全図
重田吉兵衛/記述なし 上野国榛名山眞図
武蔵国御岳山全図
(省略)
(省略)
伊香保鉱泉明細全図 加藤六郎/明治廿五年 写真版捜画笠置山及月瀬名勝記一冊 (省略)
那須諸温泉之景 川名伊五郎/明治卅年
一 三峯山誌  全 石倉重継著/明治卅九年
理学士山崎直方(出品) (省略)
小島 烏水(出品)
富士山写真帖 植物景観
富士山十二景 一組 ヒマラヤ山
日本群島火山形成 アルプス案内記
箱根外輪山写真 マッキンレイー山探検記
木曽御岳舊図 アルバム
高山植物叢書
山岳会(出品) (省略)
理学士白井光太郎 出品 (省略)
理学博士神保小虎 出品 (省略)
神東惇(出品) (省略)
城 数馬(出品) (省略)
尚、この陳列に関し目録を記述した著者は、「謝辞一束」のなかで特に「○地学協会幹事小林房次郎氏は種々斡旋の労を執られ多大の便宜を与えられたるを深謝す。」と、その労をねぎらいました。  小林房次郎は津久井郡青根村出身で「火山」や教科書として使われた日本や世界の地図帳等を発刊しました。          「山岳第三年第二号 会報」より  2014・11・24 保坂記
5月20日、「植物学雑誌第二百五十六号」の「邦文新著紹介」欄に「●武田氏『ヌタカムウシュペ山ノ植物ニ就キテ』(博物之友第四十八号)」が紹介される。また、同号に「○メンデル紀念資金」のことについても掲載される。
 安藤氏採所ノ植物ニ就キテ鑑定シ其五十四種ノ学名、和名、ヲ挙ゲヌタカムウシュペ山ハ海抜七千余尺北海道ノ最高峯然モ採集登山者絶無ナリシモノナレバ本邦高山植物ニ興味ヲ有スルモノヽ一読ヲ要ス、  (川村)
6月30日、東京へ帰京する。
7月12日〜21日、大下藤次郎が弟子三名を連れて、尾瀬の写生旅行を行う。
(略)私の尾瀬旅行は、その翌年4月発行の『山岳』第1年第1号に掲載された。これに目をとめた風景画家の大下藤次郎氏は、弟子の森島直蔵、八木貞裕、赤城泰舒の3氏を伴い、明治41年(1908)7月12日東京を出発して沼田泊り、翌日は追貝へ、14日に戸倉に到着、玉城屋で用意万端を調え、翌15日荷物は馬背によって尾瀬沼まで運ばせ、身軽になって尾瀬に向かった。三平峠についたのは12時すぎ、予定では槍の突出しにあたる大林区暑とかの小屋を根城にするはずであったが、破損はなはだしく使用にたえないというので、最後には桧枝岐の漁夫に教えられて、奥沢右岸あたりらしい所にあった数軒の小屋の右端のものに陣取って、写生に数日を送った。(略)20日晴・下山予定の日なので荷をまとめ、涙をのんで戸倉まで下った。21日 半晴・朝6時半銘々で荷を背にして戸倉を出発・土出から蛇ー峠を越して東小川へ、それから一ノ瀬をへて金精峠を越え、日光湯本まで歩いて全行程を歩き、湯本に着いてもなお余裕があって、湖畔に散歩したという。足弱のこの人達、しかも登り道を戸倉から1日で来られるのに、私の雇った「勝」は遠くて1日には行かれぬと欺いたのであった。大下氏の記事はその年の11月18日臨時発行の『みづゑ』44号の「尾瀬沼」に載った。これまた尾瀬を文化人の間に紹介する点においてひと役買ったわけであるが、これとてすでに半世紀以上も前の事になる。  ー日本山岳協会会長 理博ー 昭和36年7月 「遺伝 VoL15 No7 尾瀬発見記」より
8月、北海道利尻島に於いてエゾコザクラを採取する。 1913・「日本産のサクラソウ類(属)についての標本」より
9月、「博物之友 八巻五十四号」に「ネジバナの花序のねじれ方に就いて」を寄稿する。
11月「博物之友 八巻五十七号」に「富士山を越ゆるの記(中)」を寄稿する。
11月、風景画家、大下藤次郎が『みづゑ 第四十四号』に尾瀬の風景を記した「尾瀬沼」を発表する。
(略)尾瀬ヶ原に達した時の時の感想を、尾瀬ヶ原へ出た時は、暫時口もきけなかった。活きて甲斐ある事をつくづく感じた、風景画家として、かかる天然に接する事の出来た身の幸福を心から感謝した、ア丶此の大景、この美観、吾輩はこの刹那の感を忘れぬであろうと筆にしている。(略)  武田久吉「懐古の尾瀬」より
1909 明治42年 26
1月、「博物之友 九巻五十八号」に「北海植物瑣談(一) ハシガキ・ふくじゅさう」を寄稿する。
ハシガキ(全文)
北海ノ客トナリテ既ニ二星霜ヲ経、所産ノ植物ニ親灸シテ、ヤ丶其ノ一部ニ通ズルヲ得タリ。従来世ニ知ラル丶コト多カラザル、北海ノ植物ヲ、日本内地ノ同好諸君ニ紹介スルハ、本会員タル予ノ義務ナリト信ジ、敢テ特有ノ者ニ限ラズ、其ノ奇ナルト凡ナルトヲ問ハズ、苟モ北海ニ生育スル植物ニシテ、予ノ凡眼ニ映ジタル者ニ関シテ、雑駁ナル記述ヲ試ミ、之ヲ蒐メ録シテ、北海植物瑣談トイフ。/げんニ本篇ヲ記スニ当リ、予ノ植物探求ニ就キテ、多クノ便宜、補助ヲ与ヘラレタル、植物学教室ノ諸氏、殊ニ常ニ予ヲ教導サレ、加之、せき葉庫ニ蔵スル豊富貴重ナル標本ヲ検シ、又、充棟ノ図書ヲ関スルノ自由ヲ与ヘラレタル、宮部(金吾)博士ノ好意ニ対シテ、特ニ深厚ナル感謝ノ意ヲ表ス。
2月、「博物之友 九巻五十九号」に「北海植物瑣談(二)」を寄稿する。
3月、「博物之友 九巻六十号」に「北海植物瑣談(三)」を寄稿する。
3月、中井猛之進(共著)と「植物学雑誌23巻第266号」に「済州島の植物」の研究報告を行う。  Plantae ex insula Tschedschu
3月、志村寛(鳥嶺)が、「成美堂書店」より「高山植物採集培養法」を刊行する。
参考 「第一章 總説 第四節 高山植物の研究」より(P10〜13)
高山植物の研究は、植物分布學上缺(か)くべからざるのみならず、植物生態學及植物形態學研究上、一日も忽諸(こつしょ)に附すべきものにあらず。特に其の培養法に至りては、深く研究するの必要ある事、余が言を俟(ま)たずして明なり。然るに本邦には、未だ高山植物と専攻せる學者なく、其の培養法の如きは、實に幼稚の域を脱すること能はざるは、頗る遺憾とするところなり。海外に於ける高山植物の研究は、(略)/本邦にありては、他の科學に比して、植物の研究夙く開けたり。小野蘭山(本草綱目啓蒙著者)、水谷豊文ほうぶん(物品識名著者)、山本亡羊(ぼうやう)(百品考著者)、伊藤圭介、飯沼慾齋(よくさい)(草木圖説著者)、等皆人の知れるところなり、特に飯沼氏の圖説の如きは、實に一世の大暑なり、その着眼非凡にして、従來の本草學者が、爲せしところに倣(なら)はず、全く學術的に記述分類したれば、今日にありても學者に裨益(ひえき)を與かること尠(すくな)からず。/外人にして、本邦の植物を研究せし人々には、ケンフェル氏(獨人外國新聞記者)、ツンベルク氏(日本植物誌著者)、シーボルト氏、ミケル氏、サパチェー氏、マキシモヴェチ、グレー氏等あり。以上本邦植物研究の泰斗(たいと)、小野蘭山以下の人々も、特に「高山植物」に就きて研究せしにはあらざれとも、高山は實に植物の種類に富めるが故に、皆高山植物を採集研究(さいしふけんきゅう)を爲さざるものなし。近代に至りては、矢田部博士、松村博士、三好博士、牧野氏等、高山植物の研究に、多大の裨益(ひえき)を與へられし大家なり。(略)
     裨益(ひえき):ある事の助け・補いとなり、利益となること。役に立つこと。
        泰斗(たいと):(泰山や北斗のように)世間から重んぜられる権威者。その道の大家。
参考 第四章 日本高山植物産地及植物目録
第一節 白馬嶽植物目録 第十二節 月山及植物目録(安田氏による)
第二節 針木峠及越中立山植物目録 第十三節 早池峰山植物目録
第三節 有明山、燕嶽、大天上、常念嶽及槍ヶ嶽植物目録 第十四節 岩手山植物目録
第四節 戸隠山、飯綱山、黒姫山及妙高山植物目録 第十五節 八甲田山植物目録
第五節 八ヶ岳植物目録 第十六節 岩木山植物目録
第六節 加賀白山植物目録 第十七節 マカリヌプリ山植物目録   
第七節 富士山植物目録 補遺 木曾御嶽植物目録
第八節 日光山、白根山植物目録  〃 木曾駒ヶ嶽植物目録
第九節 尾瀬沼付近(早田氏による)  〃 江州伊吹山植物目録
第十節 飯豊山植物目録  〃 勢州菰野山植物目録
第十一節 鳥海山植物目録
     マカリヌプリ山→羊蹄山
   
注 目次と本文の表記が一部違っていましたので本文の内容に合わせ訂正しました。2017・6.7 保坂
3月、辻本満丸が「山岳 第4年第1号」に「鳳凰山に採取する植物の目録」を寄稿する。
3月30日、北海道樽前山が大噴火、溶岩を噴出する。 母・兼に宛てた「絵はがき」より
4月、「博物之友 九巻六十一号」に「富士山を越ゆるの記(下)」を寄稿する。
参考 会告 博物之友 九巻六十一号の記述より
従来本会会員にして山岳会会員たる人は同会会費減額の規定に有之候処右は爾(その)後廃止致す事に相成候に就き同会とは全然関係なきものと御承知相成り度候明治四十二年三月日本博物学同志会
5月、「博物之友 九巻六十二号」に「北海植物瑣談(四)」を寄稿する。
    ○エゾキンパウゲ ○ノウガウイチゴ ○ヤチカヅラ ○クモノスシダ 
5月9日、樽前山大噴火の絵はがきを母・兼(かね)宛てに投函する。
    
   「日本にて稀なる大噴火をなし/溶岩を噴出したるタルマイ山噴火の景」と記す。(書面右上)
5月16日、柳田國男、山岳会第2回大会で「山民の生活」を講演する。
6月28日から8月19日まで、色丹島をはじめとする北海道内の植物採集旅行を行う。
6月28日 札幌→岩見沢→沼ノ端・広瀬(泊)(ハマナシ・ウラジロタデ)
6月29日 沼ノ端・広瀬→勇払の泥炭地(スゲ類・ヒメワタスゲ・ミズゴケ・ネバリノギラン・ミズドクサ・ウラジロタデ)→ユープトゥ(センダイハギ・ハマエンドウ・ハマフウロ・コウボウムギ・コウボウシバ・ハマニガナ)→旭川・越前屋(泊)
6月30日 旭川・越前屋→(オニシモツケ・カシワ)辺別→狩勝→十勝原野(カシワ・アカネムグラ(後、宮部博士によって新種として記載))→帯広→釧路(泊)
7月1日 釧路、午前中、今まで採集した植物を圧搾整理したり書面の発送などを行う。(ウマノアシガタ・オオダイコンソウフウロソウ属の一種・タンポポ・オランダゲンゲ・オオサカモチ・キショウブ・オダマキ・ヒナギク・ワサビダイコン)→真砂町通りを東して旅館(泊)
7月2日 旅館→ハルトゥロ沼(エゾノクサイチゴ・キミカゲソウ・コウボウシバ・ハマニガナ・ハマニンニク・アヤメ・バイケイソウ・ハマハタザオエゾツルキンバイ・クロバナロウゲ)→宿に帰り沼ノ端での採集品を手返しし、今日の採集品を圧搾する→汽船に乗る→根室(船内泊)
7月3日 根室へ6時入港→弥生町の斉藤元吉宅へ、降雨のため荷物を整理、午後は圧搾紙を換え、雨が止まないので、火熱を用いて吸湿紙を乾かしたが、夜になっても止む気配だにない。(泊)
7月4日 斉藤元吉宅(海岸でスガモ)→花咲→斉藤元吉宅(泊)
7月5日 斉藤元吉宅→ピンネトゥケモイ(エゾノクサイチゴ・ウマノアシガタ・ヒオウギアヤメ・ハクサンチドリ・チシマフウロ)→シュナパウシ(スゲの類・アヤメ・ウマノアシガタ・カシワ・ヤマハンノキ・シラカンバ)→コタンケシ(ハマベンケイ・ハマハコベ・海にスガモ)→斉藤元吉宅(泊)
7月6日 斉藤元吉宅→根室半島の南岸、山県牧場の湿地(コツマトリソウ・サギスゲ・アヤメ・クロユリ・池中にミズドクサ・ミズニラには出遭わなかった・ミツガシワ・コウホネ・)→ナンブトウの沼畔(コツマトリソウ・水中にミズドクサ・ヒンジモ(品字藻))→斉藤元吉宅(泊)
7月7日 採集品が多いため、吸湿紙が不足となったので、この日は外出を中止して、吸湿紙の乾燥と採集品の手返しに終始した
7月8日 斉藤元吉宅→穂香(ほにおい)(ウシオツメクサ・ハマフウロ・フタマタイチゲ・アヤメ・エゾゼンテイカ・)斉藤元吉宅(泊)
7月9日 斉藤元吉宅山田池(ヤマブキショウマ・ヤナギトラノオ・エゾツルキンバイ)→弁天島(エゾツルキンバイ・ハマニンニク・ハマハコベ・ヒャマエンドウ・エゾヒナノウスツボ)斉藤元吉宅(泊)
7月10日 斉藤元吉宅ノトゥカマップ岬(ハマフウロ)→コタンケシ(サギスゲ・ワタスゲ・ツルコケモモ・スゲの類)(ユキワリコザクラ・カムイヨモギらしいもの)→ノトゥカマップ岬(ベンケイソウの類・イヌナズナ・キタミソウと思われるもの・ハマエンドウ・ユキワリコザクラ・シロイヌナズナ・チシマキンバイ)斉藤元吉宅(泊)
7月11日 斉藤元吉宅→花咲丸の見送り→ハッタラ→斉藤元吉宅(泊)
7月12日 斉藤元吉宅ナンブトウ(ハマナシ・ヘビノシタ)→トゥモシリ(シロイヌナズナ・イゾイワベンケイ・ホソバノキリンソウ・ネムロシオガマ・ユキワリコザクラ・スゲの種類)→トゥモシリ岬(アヤメ・チシマフウロ・ハマフウロ・ナガバツメクサ・ネムロシオガマ・ミミナグサの類・チシマキンバイ)→海岸(エゾイワベンケイ・シロイヌナズナ)→友知村斉藤元吉宅(泊)
7月13日 斉藤元吉宅→(雨天)→斉藤元吉宅(泊)
7月14日 斉藤元吉宅→雨天、色丹島、渡島準備
7月15日、根室から西久丸に乗船、色丹島に向け採集旅行を行う。
7月15日 根室→(西久丸で出航)シイショウ(訛って水晶島)→ウリリ島→志発島→タラウク島→シコタン島・シャコタン港(午前3:30
7月16日 シャコタン入港(PM3:30)→戸長遠藤次郎に面会→シャコタン湾東岸→シャコタン湾西岸(ハマニンニク・コウボウシバ・シロヨモギ・シロツメクサ・ヒメスイバ・スズメノカタビラ・オオバコ・スギナ・ヤマヨモギ・コウゾリナ・チシマフウロ・チシマセンブリ(白馬山に生ずるものを別種と考えタカネセンブリと命名)→(泊)
7月17日 島の東端(ネマガリダケ・チシマヤマブキショウマ・スゲの類・ヨモギ・キオン・ヒオウギアヤメ・ヤマハハコ・ミヤマアキカラマツ・アカネムグラ・エゾカンゾウ・ナガホシシロワレモコウ・チシマアザミ・ミネヤナギ)(ミネヤナギ・オニシモツケ・ケヤマハンノキ・tゾツツジ・ヤマブドウ・ミヤマハイビャクシン・ハイマツ・ゴゼンタチバナ・イワツツジ・ヒカゲノカズラ・イワウメ・ミヤマダイコンソウ)→シャコタン山頂上(ヨツバシオガマ・ムカゴトラノオ・チシマルリソウ・コツマトリソウ・チシマフウロ・ミヤマダイコンソウ・エゾツツジ・キバナシャクナゲ)→三等三角点(413m)(コダマソウ(ミヤマエンドウ)・ムカゴトラノオ・カタオカソウ・ウラシマツツジ・チシマヒメイワタデ)→西北に向かって頂上の草原を横断(キバナシャクナゲ・ガンコウラン・コケモモ・チシマイチゲ・ムカゴトラノオ・リシリシノブ・ミヤマハイビャクシン)→山頂の北端を東へ(ミヤマハンノキ)→墓(タカネトンボ(昆虫)・センダイハギ)→海浜近く(エゾツルキンバイ)→戸長役場(に戻り泊)
7月18日 戸長役場近傍を採集(ハマナシ・エゾボウフウ・ウンラン・オオダイコンソウ・キバナノカワラマツバ・ハマニガナ・コブノキ・コウゾリナ・コウボウ・エゾイラクサ)(ヨモギ・クサヨシ・トドマツ・シラネワラビ)→峠の頂上、東南岸のチポイを眺め帰路へ(湿原にバイケイソウ・サギスゲ・モウセンゴケ・コケモモ・ツルコケモモ・マルバンモツケ?(マルバシモツケか)・イソツツジ・エゾオタカラコウ・キンロバイ・イブキヌカボ・エゾカラマツ・ケヤマハンノキ・オオブキ・ヒロハノドジョウツナギ・ミミコウモリ・ホザキシモツケ)→役場
7月19日 役場→マタコタン川を渡る→マタコタン湾の東岸(チシマセンブリ・ナデシコ・チシマフウロ・キバナノカワラマツバ・シロヨモギ・ハマフウロ・ノコギリソウ・キリンソウの一種・ハマナシ・ハマニンニク・エゾツルキンバイ)→対岸に海岸を歩く(シコタンハコベ・エゾイワベンケイ・エゾツツジ)→アナマ荒井氏の漁場
7月20日 →西方の崖に登り採集→
7月21日 →海浜に採集を試みる(チシマゲンゲ・アカバナの類・カラフトニンジン)
7月22日 →付近を散策(ハマニンニク・エゾヒナノウスツボ)
7月23日 →漁舟に便乗、西の方ポロペツの河口(キンロバイ・チシマルリソウ・ウサギギク・キリンソウの一種・ハマニンニク・ハマニガナ・シロヨモギ・ウラゲヨブスマソウ・チシマセンブリ・ハマハコベ・シオマツバ・ハマイ・ヒオウギアヤメ)
7月24日 →採集品の整理→
7月25日 →追分→ポロペツ湿原北沿→ノトロ川を下る(水中にスガモ・アマモ・地上にタイセイ・シオマツバ)→ノトロの漁家→トッカリマスバの漁家(泊)
7月26日 トッカリマスバの漁家→ノトロ→江湾を渡り桃木漁場(シオガマギク・チシマフウロ・ノコギリソウ・湿地にガンコウラン・コケモモ・)→出張(ではる)の任田半次郎宅(アサギリソウ・シコタンハコベ・マルバトウキ・エゾイワベンケイ・キリンソウの一種)→  
7月27日 任田半次郎宅・出張の附近(キンロバイ・タカネナナカマド・ガンコウラン・コケモモ・キバナノカワラマツバ・チシマフウロ)→仙台湾〜切通しの間(オオヤマサギソウ・ホソバノキソチドリ・タカネトンボ)→松ヶ浜(エゾリンドウ・ゴマナ)ポロペツ湿原(オオメシダ・イワガネゼンマイ)→追分→アナマ湾奥の番屋→→アナマの荒井氏宅(泊)
7月28日 アナマの荒井氏宅→コマイという帆船→トッカリマスバ上陸し採集→帆船(泊かは不明検討要
7月29日 小舞船は荷役のため終日ここに碇泊するため上陸して採集(ハコベやノボロギクの外来種)→夜10時根室に向け出帆(汽船と衝突しそうになる)
7月30日 →夜11時30分に根室港に投錨(泊)
7月31日 朝6時根室上陸、斉藤元吉宅に戻り、根室を中心に採集の日々を送る。
(国後島に行くという広告を見て待っていたが船はついに入港しなかったため計画を取り止め)
8月17日 準備→夜10時十勝丸に乗船(泊)
8月18日 午前4時出帆→釧路→ハルトル沼(エゾノミズタデ)
8月19日 釧路→落合(泊)→8月20日午後4時50分・札幌に帰着
                      「明治の山旅・北海道内の採集旅行ーシコタン島とシャコタン山ー」より
                      参考 武田博士学位論文、「色丹島植物誌」の中の色丹島地図
11月、「博物之友 九巻六十八号」に「北海植物瑣談(五)」を寄稿する。
11月3日、柳田国男が「山岳 第4年第3号」に「山民の生活」を寄稿する。
「柳田先生と私」より
(略)明治四十二年五月十六日に催された山岳会第二回大会の折の柳田先生の講演「山民の生活」は拝聴の機なく、ただその筆記を、その年の夏に発刊の『山岳』第四年第三号の誌上で一読したのであったが、まことに示唆に富む一文で、その前から諸方でいろいろな地名に出あって、それに多少の関心を持ち始めた私にとって、この講演筆記には、啓発されること鮮少でなかった。(略)
11月20日、「植物学雑誌23巻274号」に「○転居 麹町区富士見町4丁目6番地」の知らせを行う。
12月、「博物之友 九巻六十九号」に「北海植物瑣談(六)」を寄稿する。
○この年、「植物学雑誌23巻第274・275(Botanical Magazinc.Tokyo Vol.]]TTT.No 274 und 275)」に「日本ーサハリンのヒカゲノカズラ類について(Lycopodialen Hokkaidou.nebst denen von Japanisch−Sachalin)」の研究報告を行う。
1910 明治43年 27
1月20日、「植物学雑誌24巻第276号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)」を寄稿する。
    
Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido(1)〜(6)
2月20日、「植物学雑誌24巻第277号」に「日本産のがりやす属(Calamagrostis)ノ新品種ニ就テ」を寄稿する。 nouvelles calamagrostis du japon

みやまのがりやす
たかねのがりやす(新称)
ひめみやまのがりやす(新称)
Calamagrostis.urelytra HACKEL.
α macrantha TAKEDA.
β parvigluma TAKEDA.
γ pumila TAKEDA.
ひながりやす(新称) C.nana TAKEDA.
みねのがりやす(新称) C.levis TAKEDA.
おほひげがりやす(新称)
ながひげがりやす(新変種)
C.grandiseta TAKEDA.
※1 var
longe−aristata TAKEDA.
おくやまがや(新称) C.subbiflora TAKEDA.
あをのがりやす(新称) C.viridula TAKEDA.
おにのがりやす(新称) C.gigas TAKEDA.
をのへがりやす(新称) C.incequiglumis HACK.forma nipponica TAKEDA. 
やまのがりやす(新称) C.variiglumis TAKEDA.
 ※1  赤字 longe−aristata 「ろんぐ毛ーあり多々」の語呂合わせか(ユーモア)? 検討要 2015・3・7 原本確認済 保坂
 原種ト異ル点ハ主トシテ芒ガ flowering glume ノ基部ニ近ク生ジ且ク原理ノヨリ長シ、稈ハ平滑、
3月、「山岳 第五年第一号 高山に産するイヌナヅナの種類に就いて」を寄稿する。
 本邦の諸高山に登らるゝ諸君が、山頂に近き岩石の間に於て、可憐の白花を綴れる十字花科の小草に逢着せらるゝとあるべし、其の花謝落すれば長楕圓形の短角を結ぶもの、之れをイヌナヅナの属(Draba)に収むべし。本属に隷する本邦産の種類には、黄花を開くものと白花を開くものと白花を着くるものとあり黄花のもには平地に生ずるイヌナヅナと奥州の高山に産するナンブイヌナヅナの二種があり、白花の種類には北海道に産するシロイヌナヅナ、モイワナズナ等と、内地の高山に数種あるを知らる、白馬にはシロウマナズナあり。戸隠にはトガクシナズナとミヤマナヅナあり、八ヶ岳にはクモマナヅナを生じ、御岳にはオンタケナヅナとも呼ぶべきDraba ondakencis を産す、其の他槍ヶ岳の絶頂、木曾駒ヶ岳、東駒ヶ岳、鳳凰山、仙丈ヶ岳等には又やゝ形貌を異にする種類があり。今此の如き多数の種類を比較する時は、トガクシナヅナとミヤマナヅナとは全く同一物にして、殆んど区別すること難く、八ヶ岳のクモマナヅナは其の一変種に収むべきものにして、別種となすに躊躇せざるを得ず、(略)(ここ)に於て会員同志諸君の仁心と同情とに訴へて、諸君が高山攀躋の際、僅小の時間を割き、一挙手一投足の労をなして、予の為めに標本を採取せられんことを切望して竭ます。惠送せられべき標本は可成根際より採集し、茎頭のみを摘取せられざらんことを希望す、而して無花無果のものは避けられ度く、花のものと、(なるべく成熟したる)果実を着けたるものを望む、又各標品は、これに産地と採集年月日と採集者の姓名を記したる小紙片を添へ、新聞紙の間に入るれば足るものにして、敢て一々台紙に貼付するに及ばず、斯して之れを「ぼーる」紙に挟みて、「博物学標本」として本会事務所にあて郵送せられんことを希望す。(略)此の如くして寄贈されたる標本は永く予の標本彙中に保存致すべきに付き、可成完全なるものを豊富に送附せられんことを望む。(武田久吉)
               攀躋(セイハン):高い所によじのぼる。
3月2日、日本郵船の熱田丸で横浜を出港、大正5年2月までの6年間、イギリスに留学する。
4月28日、久吉、長い船旅を終えロンドンに到着、父サトウを尋ねる。
3月、5月、「植物学雑誌24巻第278・280号」に「数種の日本産の新種植物と稀産種について」の研究報告を行う。
  
 (Notulae ad plantas novas vel minus cognitas Japoniae)
   
ユキノシタの他、多くの種が扱われている
5月3日、ロンドンに帰りリッチモンド・ヒルでの下宿生活を行いながら、歩いて40分ほどのキュー植物園(Kew・Gardens)で研究生活を始める。
5月、「博物之友 十巻七十一号」に「ヒメエンゴグサ・エゾエンゴグサ(北海植物雑記七)」を寄稿する。
北海植物瑣談(其一〜七)迄の一覧
9巻58号 明治42年1月  北海植物瑣談
  (其一)
ハシガキ・一、ふくじゅさう
9巻59号 明治42年2月  北海植物瑣談
  (其二)
二、巨草 三、はくさんばうふう北海道ニ産ス
9巻60号 明治42年3月  北海植物瑣談
  (其三)
四、 Acer Fauriei トハ何ゾヤ
五、 ひめいはしゃうぶ千島ニ産ス
六、 みやまふたばらんノ産地
七、 おほばのよつばむぐら
9巻62号 明治42年5月  北海植物瑣談
  (其四)
九、 えぞきんぱうげ(新称) (番号ダブリ)
九、 のうがういちご 
十、 やちかづら  一名 やちすぎらん

十一、 くものすしだ
9巻68号 明治42年11月  北海植物瑣談
  (五)
(未確認)
10巻69号 明治42年12月  北海植物瑣談
  (六)
(未確認)
10巻71号 明治43年5月  北海植物雑記
  (七)
えぞえんごぐさ
Corydalis ambigua Cham.et Schltd.
α.glabra Takeda.
えぞえんごぐさ Lusus genuina Takeda. 
ほそばえんごぐさ Lusus lineariloba Takeda.
まるばえんごぐさ Lusus rotundiloba Takeda.
Lusus pectinata Takeda.
β.Papillo Takeda.
しらげえんごぐさ Lusus Vulgaris Takeda
ほそばのしらげえんごぐさ Lusus lineariloda Takeda
まるばのしらげえんごぐさ Lusus rotundiloba Takeda
5月20日、柳田国男が、山中笑(共古)と交わした問答を「石神問答」として「聚精堂」から刊行する。
6月、ロンドン大学に於いて、植物学特別講義を聴講。
6月20日、「植物学雑誌24巻第281号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)」を寄稿する。
      
Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido(7)〜(19)
7月、ノーフォーク海岸植物探検隊に参加。

7月、「山岳 第五年第二号」に「雑録 丹沢山の登路に就て」を寄稿する。
資料 三境ノ峰を狙う/次には丹澤山即ち三境ノ峯をねらい、秦野の人に頼んで資料を蒐集した。だがオイソレとは登攀の機がなさそうなので、『山岳』第五年第二号に掲げて、誰でも一度山中の様子を見て来て呉れればと期待して居たが、誰も彼も高山許り覘って、丹澤山など見向きもしない状態であった。 
                      「四十年前の丹澤を語る 山と渓谷 No143号  昭和26年4月」より
7月、明治38年に伊豆の岩戸山で発見したコゴメグサの一種をイズコゴメグサと命名、キュウ植物園広報に発表する。
7月20日、「植物学雑誌24巻第282号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)」を寄稿する。
   
 Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido(20)〜(23)
8月、「博物之友 十巻七十四号」に「通信 編者に宛てた手紙の一部、スコットランドより」を寄稿する。
月20日、「植物学雑誌24巻第283号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)」を寄稿する。
    
Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido(24)〜(40)
8月20日、中井猛之進が「植物学雑誌24巻283号」に「Lactuca albiflora (A.GRAY)MAXIM.ハ独立スベキ一種ナリ」を寄稿する。論文中に博士に関する記述あり 2015・3・2保坂
参考/(略)又、L.Thunbergii ニ近似ノモノニテ武田久吉氏ガたかねにがなト命ゼルモノアリ氏ハ L.Thunbergii lnsus,alpicola トセシガ牧野氏ハ直チニ改メテ subvar alpicola トセリ、余ハ其可否ヲ知ラズ、余ハ数年前日光女峰ノ頂上ニテ其ヲ採収シ形状ノ著シタ相違セルヲ注意シタレドモ未ダ之ヲ精検スルノ機ヲ得ザリシガ武田氏ノ記載ニ依リテ明カニ L.Thunbergii ト相違スルヲ認メ得ベク之レ亦、L.alpicola トシテ独立セシムベキモノナラント想定セラル、(略)
10月、王立理工科大学入学。
10月、「博物之友 十巻七十六号」に「シラオイハコベ一名エゾフスマについて・雑録 ヒメシャジン三品」他三篇を寄稿する。
10月20日、「植物学雑誌24巻第285号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)」を寄稿する。
    
Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido
(41)〜(44)
11月、「博物之友 十巻七十七号」に「雑録 シロウマチドリ千島に産す」他八篇を寄稿する。
11月20日、「植物学雑誌24巻第286号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)」を寄稿する。
    
Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido
(45)〜(60) 参考 No48 イヌナズナ属も記す
   また、同号に「にがな、しろばなにがな等ニ関スル予ノ卑考」を寄稿する。
             
末尾に「(四十三年十月初旬、英国リッチモンドニテ)」と記述日を掲載
11月、辻本満丸が「山岳 第五年 第3号」に「鳳凰山所産ホウワウシャジン」を寄稿する。
資料@「時の人 高山植物の研究で第六回秩父宮記念学術賞を受賞した 武田久吉」と題した新聞記事より
<前略>明治四十三年、イギリスに留学、王立ロンドン理科大学、バーミンガム大学で植物学を学んだ。このとき高山植物とともに異常なほどに興味をおぼえたのが顕微鏡的植物≠ナある。
 「ぼくのやっているのは淡水産の藻類(そうるい)だが、この中には植物か動物か区別のつかないようなものがある。数ミクロンから数十ミクロン(ミクロンは千分の一ミリ)という小さなもので顕微鏡での観察に苦労するんだが、この新種の発見はとにかくおもしろい」
 だが今はその藻類の研究も前の通りをつっぱしる自動車が原因である。わずかな振動も顕微鏡の観察を妨げる。そのため武田さんは一時藻類をあきらめているが、高山植物の方はいぜん続けている。
<後略>
12月20日、「植物学雑誌24巻第287号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)を寄稿する。
    Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido
(61)〜(79)
1911 明治44年 28
1月20日、「植物学雑誌25巻第288号」に「北海道の植物の知識への貢献(独語)を寄稿する。
     
Beitrage zur Kenntnis der Flora von Hokkaido(80)〜(96)
注 「北海道の植物の知識への貢献(独語)」は全体で七編に分かれ構成されていますが、標題に区別がなかったため、博士が紹介している、植物に付与していた番号を仮番号として付与しました。今後の、研究に誤解を招かないよう事前に記載しておきます。 2017・4・1 保坂
4月20日、中井猛之進が「植物学雑誌25号291号」に「朝鮮桔梗科植物ノ新属ニ就テ(予報)」を寄稿する。
(参考:末尾の部分より)(略)本植物調査ニ際シ松村教授ノ懇篤ナル指導ヲ謝スルト共ニ比較スベキ Sup hyandra ノ標本ヲ付与シタル英国  Kewノ皇立植物園長 Dr.STAFF氏、 露国聖ピーターブルグノ植物園長 FISGHHER VON WALDHEIM氏、之レガ紹介ノ労ヲ執リシ、早田博士、露ノ PALIBIN氏竝ニ特ニ予(誤植か、実際は余)ノ為メニKewノセキ葉庫ニ蔵スル全世界ノ Campanula,symyhyandra,Adenophora ノ諸品と比較シテ全ク世界的珍種ナルコトヲ確メラレシ滞英中の畏友武田久吉氏ニ其好意ト労トヲ深ク感謝ス
5月12日〜15日、柳田国男と牧口常三郎が甲州谷村から道志を歩く
5月、「博物之友 十一巻八十二号」に「日本に産するオダマキの種類・雑録 アオチドリ及びチシマアオチドリ」他一篇を寄稿する。
6月20日、牧野富太郎が「植物学雑誌25巻293号」に「羽状葉ヲ有スルしろばなのへびいちご」を寄稿する。
資料(略)更ニ1対ノ小葉ヲ具ヘ以テ二対五小葉ヨリ成レル羽状葉ヲ呈セリ武田久吉君 BISSET 氏ノ同ジク日光ニテ採集シタル標品ニ就テ之ヲ記載シ以テ F.vesca L.monstr.pinnata TAKEDA. ノ新品名ヲ与へ之ヲ明治四十三年十二月發行ノ植物学雑誌第廿四巻第三百四十一頁ニ之ヲ載セラレタリ(略)
7月、大下藤次郎が「水彩写生旅行 嵩山房」を刊行、「尾瀬沼」を所収する。
9月、「植物学雑誌第25巻第296号」に「日本アルプス産イヌナズナ属数種の新分類系についての試論An Attempt at a New Arrangement of Some Japanese Alpine Species of Draba.の研究報告を行う。
Draba Sakuraii MAKINO,emend.
α. genuina TAKEDA.
Hab.in monte Togakushi
(S.KAWADA et H.TAKEDA !19.Z.1904)
β.nipponica TAKEDA.  
  Forma a. typica TAKEDA. Hab.in montyibus Yatsugatake
(S.KAWADA et H.TAKEDA!27.Z.1903;(略))
  Forma b. intermedia TAKEDA. Hab.in monte Komagatake,tractus Kiso
(S.KAWADA!4.[.1906) 
  Forma c. angustifolia TAKEDA. Hab.in montyibus Howozan
(M.Tsujimoto!13.[.1906;
 H.Takeda!26.[.1906;(略))
 
γ.rigidula TAKEDA Hab.in monte Komagatake,prov.Kai
(H.TAKEDA!29.[.1906)
σ.ondakensis(MAKINO) TAKEDA Hab.in monte Ontake,tractus Kiso
sec.MAKINO)
           Herbarium.Royal Botanic Gardens,Kew.   july 1911.
11月26日、南方熊楠が「山岳第6年第3号」に「祖国山川森林の荒廃」を寄稿する。
12月、信濃博物学会が「信濃博物学雑誌36号」に「本縣に於ける主要高山植物発見年表」を発表する。
○王立理工科大学特待生となる。
1912 大正元年
7月30日改元
29 7月、龍動皇立理工科大学植物学科卒業、学位D.I.Cを授与される。
    参考 龍動皇立理工科大学 昭和18年12月発行「農村の年中行事 著者略歴」より
9月20日、「植物学雑誌26巻309号◎雑報」に「武田久吉氏ノ任命」と題した事柄が掲載される。
本会々員武田久吉氏ハ久シク英国ニ留学中ナリシガ今回英京ロンドン理工科大学植物学講師(Demonstrator in Botany,at the Imperial College of Sciennce and Technology,London)ニ任命セラレタリ 
10月、同校に於いて、学生の指導と講義を受け持つ。(至大正3年8月)
講師の仕事
 明治の最後である四十五年の夏、ロンドンの理工科大学を卒業した私は、直ちにそこの理学部植物学教室に就職することとなった。仕事は、日本の大学で言えば、助手と講師とを兼ねるようなもので、学生の実験を指導するのが主な仕事であるから、その材料の整備から、関係の文献をのぞいて置くことも必要であるし、女の学生には切片用の剃刀を研いでやることもある。暇な時には、有志の者をキュウの植物園に案内して、生きた植物について説明することもある。とにかく忙しいが、楽しい仕事であった。
                  「アルプ88号 木暮君と私(一) P60下段」より
11月、「植物学雑誌第26巻第311号」に「日本産わださう属ノ植物ニ就イテ」を発表する。
  上記論文の末尾に「英国キュー植物園ニテ記ス」と記す。 
   松田定久も「同号(植物学雑誌第26巻第311号)」に「くろづる学名ノ変更ニ就テ」を寄稿する。
資料:本誌二十四巻二八四−二八六頁ニ昆明山海棠属即くろづるノ属ニ関シ卑見ヲ述ベタルコトアリシニ今度武田久吉君ハ英国キユウ植物園所蔵ノ材料ニ基キテ此ノ属ヲ研究セラレタル結果ノ報告アリ(Bull. Miscel. Inform.,Kew,1912,pp.221−223)氏ニ従ヘバ本属ハ二種一変種ヲ有シ従来ノくろづるノ学名ニ変更アリ即(以下略)
(略)而モ其ノ標品ニ至リテハ全然相違レル者ニシテ、且ツ一新種ナレバ、予ハ之ニ命ズルハ K.Palibiniana ノ名ヲ以テセントス、此品朝鮮ニ産スルノミナラズ、又本邦中部ニ生ゼリ、予嘗テ是ガ標本ヲ日光ニ採レリシガビセットモ亦之ヲ同地ニ採リ、其ノ標本ハキューニ保存セラル。以上述ベタルガ如ク、本属ノ品種ニシテ我ガ國ニ産スルモノ実ニ五種あり、今是等ノ者ニ異名及ビ和名等ヲ配シテ羅列スレバ実ニ左ノ如シ
和名 産地(分布) 学名
ほそばわちがひさう
くしろわちがひ
釧路、十勝 K.sylvatica.MAXIM.Prim.FI.Amur.p.87.
わだそう 日光、南部、東京附近
妙義山・武州和田村
K.heterophylla MIQ.Prolus.FI.Japon.P.351.(略)
支那 K.Davidi FRANCH.
西比利亞 K.Rupestris TURCZ.
ひめわださう(新称) 富士、箱根 K.Maximowicziana FR.et.SAV.Enum.PI.Japon.II,p.297.(略)
わちがひさう 日光、秩父、筑波、九州
彦山・劔山・武州御岳・南会津・
K.heterantha MAXIM.in.Bull.Imp.Sc. St_Petersb.XVIII,p.376 (略)
ひげねわちがひ(新称) 日光・武州三ツ峯・信州 K.Palibiniana TAKEDA,sp.nov.(略)
ひなわちがい 筑波山 K.heterantha MAXIM.var.linearifolia TAKEDA,in Notes,Roy.Bot.Gard,(略)
   同号に記述した、射索表の順に表記しました。植物学雑誌第26巻第311号 P343」より
 注意 :植物学雑誌第29巻第341号「再ビ日本産わださう属ノ植物ニ就テ」より加筆の部分を紫色で表示しました。 2016・6・28 保坂記 
1913 大正2年 30
○この年の夏、一度だけ帰国する。栄太郎をデンバーに尋ねるため、アメリカを経由して帰国。
5月下旬、ロンドンを発った私は、リヴープールからキュナード線の汽船に塔じる。
6月1日、ニューヨークに到着。
(米国での様子)/一ヶ月を北米合衆国に留まって、訪問や観光などに寧日なく、またその後国立公園となったコロラード州のエステスパークに遊び、ロッキュー山脈の一峯ロングスピークに登りなどをした後、(略)
7月1日、スィアートルから郵船静岡丸に乗って太平洋を横断する。
7月14日、横浜に入港、日本山岳会の幹事高野鷹蔵(同夜泊)、梅沢観光君等に迎えられる。
7月15日、東京の実家に帰る。
    資料 「アルプ88号 小暮君と私(一)」より
7月24日、雑司ヶ谷の料亭、「あやめ」に於いて「秩父会」が開かれる。
(略)日本山岳会員中、特に秩父の山に深い関心を持つ者数名が、秩父会という小規模の会を結成したという事もあった。その会は発起人だけが会員であり、しかも私も知らぬ間にその会員であるという話であった。そしてその月の二十四日に、雑司ヶ谷の鬼子母神の境内にあるあやめという料亭で、焼鳥を食べ乍ら、秩父会をやるから、是非出席するようにということであった。(略)当日は梅沢、辻本満丸、南日(今の田部)重治、中村清太郎の諸氏や山川黙君も姿を見せたと思うが、小島君は多分不参したようであった。(略)その日、木暮君は五六斤の牛肉持参で出席、梅沢君と健啖力の競争をやったのには、並居る者皆驚嘆の目を眸ったものである。梅沢君に至っては、遂に残余の肉を悉く平らげてしまい、弁々たる腹を撫でて、誰かこの上に登って見ろなどと、甚しい茶目振りを発揮したものであった。         「アルプ88号 木暮君と私(一) P62」より
7月、「Annals of Botany Voi27 No CVII」に「ウエルウイチアの苞の形態 (Morphology of the Bracts in Welwitschia mirabilis.)」を発表する。
8月8日、農学士柳澤秀雄が夕張山上に、後(翌3年1月)のユウバリリンドウを検出する。
                      
武田博士著  「日本の高山植物 P2213 80.ユウバリリンダウ」の項より
8月8日、農学士柳澤秀雄が夕張山中に、後(○年○月)のユウバリコザクラを検出する。
                      武田博士著  「日本の高山植物 P186.ユウバリコザクラ」の項より 

8月3日〜10日、仙丈ヶ岳西肩、約2700mに於いてハイマツの生態調査を行う。

                            
「続原色日本高山植物図鑑」より
   仙丈ヶ岳)へは梅沢君と三峯川を遡り、その支流の荒川を遡行して荒川(塩見)岳に登ってから、
    更に本流に沿うて上り、念願のこの
仙丈ヶ岳岳に登ってから、市ノ瀬に下った。 
                       「明治の山旅・「白崩山・甲斐駒・異同の実地検証」」より
 「民俗と植物」の中の「草木の方言と名義・デンダ」から(部分)
(略)
大正の初期に信州三峯川(みぶがわ)を溯った時、同行した人夫の中に杣(そま)を渡世にする者が居て、木や草の事に大分興味を持つ様子であったが、それが矢張りレンダの名を口にするを耳にした記憶がある。今それが如何なる齒朶(シダ)を指してレンダと称したか判然としないが、この名が伊那郡に残ってゐる證據とするには充分である。この杣は已に故人となったので、今それを尋ねる由もないが、市之瀬又はその北の中尾あたりで探求したら、この名を知る者があるかと思はれる。
8月31日山中太三郎に誘われ、秦野の大川楼(泊)→諸戸(もろと)の切通し→札掛→金林ノ澤を渡り金林(きんばやし)から尾根伝ひに→塔ノ岳に登山、尊仏岩を訪ねる「丹沢山」より
資料@ 「丹沢山」より一部
 (略)
いよいよ(塔ノ岳の)頂上に達する前に、平坦な美しい草野がある。それから少しだらだらと上ると、塔ノ岳の絶頂だ、ツリガネニンジン、シラゲシャジンなどをふみわけて、頂上についたのが十一時に五分前、例のウメバチソウもそろそろほころびはじめていた。
 途中から吹き出した風は、ますます暴威を逞しくして、霧を横なぐりに吹きつける、もちろん帽子など冠っていられるものでない、楽しみにしていた眺望は絶無だ、とにかく孫仏様へお参りしたら、天候が恢復するか、少なくとも雨天になることはあるまいと、咲き乱れたるミヤマギクをふんで、北方に少し降りた。木立に入ると午前中だというに、いやに暗い、下草は露にしとしととしめっている。孫仏の石は山かげの妙なところへただ一つ生えぬけたように立っている。高さは一丈ばかりもあろうか、頂に小さな地蔵仏を安置してある、恐る恐るはい上って、生えているトウヒレン、イワキンバイ等を採集し、しかもちょうど手頃のかけ石一つ謹んで頂載することに申し上げた、岩質はおそらく凝灰岩ででもあろうか。
略)
資料A 「四十年前の丹沢を語る」より一部
(略)
大正二年八月、一人の同志、山岳会員の山中太三郎君を誘い、秦野の大川楼に一迫し、翌昧爽一人の案内を連れて出発、諸戸(もろと)の切通しを越えて丹沢の部落即ち札掛に達し、此処の人達に路を教えられて、金林(きんばやし)を上り、近頃の登路とほぼ同一の路を、先ず塔の嶽に上りついた。その頃には、未だ木ノ俣大日があった筈だが、案内者もこれを知らないので、それも見ずに通ってしまい、札掛から三時間近くを費して頂上に着いた。
 幾年 振りかで尊仏岩をも訪ね、竜ガ馬場を経て三境
(さんさかい)の頂上を極めたが、尾根筋は物凄い藪で、当今のように楽楽と歩けるものではなかった。当時この辺に来る者は山麓から駒鳥を捕りに来る少数の者位で、何れも大倉から塔の嶽を経て上下し、時には山中に仮小屋を結んで野宿する位であったから、刈払など勿論やらず、霧の多い山の事とて、樹下は甚しく陰湿で、明治時代と大差はなかった。(以下略)
                   雑誌「山と渓谷」昭和26年4月号「四十年前の丹沢を語る」より
資料B 「丹澤山附近ノ植物ニ就イテ」より一部
(略)
本年八月末再ビ塔ヶ岳ニ登リ、山稜ヲ北ニ傳ヒテ丹澤山頂ニ到リ、ヤ丶此ノ辺ノ植物景ヲ見タレバ、左ニ略記シテ参考ニ資ス。/山稜ハ主トシテぶなノ巨木ヲ以テ蔽ハレ、うりはだかへで、ぐみ、まめざくら、ひめしゃら、りやうぶ、いぼた、等之ニ交ハリすゞたけ甚深シ。樹幹ニハ蘚苔密生シ、いはぎばうし、まつのはまんねんぐさ、みやまのきしのぶ之ニ著イテ生ゼリ、又稀ニつりしゅすらんアリ、コレ此植物ノ最北ノ産地ナリ。樹下ニハみづもらん、ししらん、てんにんさう等アリ。(略)
8月、小島烏水が、「山岳 第8年第2号」に「甲州山村の三升桝」を寄稿する。
   
また、同号雑録欄に「一高山岳会の成立」が掲載される。 経過未確認のため本文調査要 2016・7・8 保坂
       
参考 桧枝岐東雲館資料の中に「一高旅行部五十年 ・一高旅行部の歩み 発行 S43・12」を保管する。 
    
会報欄には「三高山岳会に本会幹事の派遣・一高山岳会団体旅行概況・東京地質学会に於ける飛騨山脈の地質及び氷河作用に
             就ての講演 k」等の記述もあり。 
Kは小林房太郎か確認要 016・7・8 保坂
9月21日夜9時、多数の友人達に見送られて新橋駅を出発、敦賀に向かう。
9月22日夜7時、汽船ペンザ号に搭乗、ウラデォオストークへ向かう。
9月24日朝10時到着→同日の夕刻、シベリア鉄道でモスクワ→ウァルシャワ→ベルリーン→フォークストン→
10月6日朝8時、ロンドン・ヴィクトリア駅に到着。
 資料 「アルプ88号 小暮君と私(一)」より
10月、「植物学雑誌27巻第322号P464〜469」に「三峯川上流地ノ植物・塔ヶ岳、丹澤山附近ノ植物ニ就イテ」を寄稿する。
11月、「Notes of Royal Botanic Garden,Edinburgh.No. ]]]XU(37)」と云う学会誌に「日本産のサクラソウ類(属)について(Notes on the Japanese Primulas)」研究報告を行う。
   報告文は12頁に及び後部に図版を(Plate14〜25)12枚収める。11種3変種2品種を掲載している。
   参考 日本では、植物学雑誌29巻337号の新著欄「日本ノさつらさう属ニ就イテ」で照会されました。 2017・1・30 保坂 
12月、「山岳 第八年第三号」に「丹澤山」を寄稿する。
    同号に、大村忠一が「甲州山村の三升桝の記事に就て」を寄稿する。 同年8月号参照のこと。 保坂
○ この年、柳澤秀雄が、夕張岳でクモマユキノシタを検出する。
参考 野坂志郎著 北方山草1(1980) 「北海道のユキノシタ属植物」より
7)クモマユキノシタ(Saxifraga laciniata NAKAI et TAKEDA ヒメヤマハナソウ)
(略)中井猛之進博士はソウルの学校教員であった森氏が白頭山で採取した標本(1913年)により、一方、武田久吉博士は、柳澤秀雄氏が夕張岳で採取した標本と小泉秀雄氏が大雪山で採取した(ともに1913年)標本により、ともに stellarisとは別種であることを認め、james の標本もクモマユキノシタであることを確認し、両博士連名で、中井博士は植物学雑誌28巻(1914年)に、武田博士はエジンバラの王立植物園紀要第39号(1915年)に、それぞれ記載発表した。(略)
注):エジンバラ王立植物園紀要のNo は再確認要 ;Takeda,Not RBGEdinb.8:235(1915);の記載もあり
                                                 2015・3・12 保坂記
○ この年、柳澤秀雄が、芦別岳でウスユキトウヒレン検出する。
○この年、「○  」に「The Vegetation of Japan(日本の植生)」を発表する。 雑誌名検討要
資料 館脇操「植物学者としての武田先生」より
 
(略)そのひとつは、日本にとり注目すべきは「日本の植生」(Vegetation of Japan)(大正二年)がある。当時は欧文により日本全体の植生が世界に紹介されなかった時代で、これはパイオニア的な性格を持っている。そして先生の論文中の傑作の一つと信ずるが、あまり世の人は知らない。(略)
1914 大正3年 31
1月、前年、農学士柳澤秀雄氏が夕張山頂に検出されたリンドウを新種として考定、ユウバリリンドウ(G.yupayensis,TAKEDA)と名付け発表を行う。
                          「動物及植物 第3巻第12号 P2213」より
1月20日、「植物学雑誌28巻325号 東京植物学会録事 転居」に転居先を報告する。
Botany Depatment,Imperial Callege of Science and Technology,Prince Consort Road,South Kensington,Londom,S.W.England 武田久吉
   
 バーミンガム大学研究科在学当時 中央右から4人目が武田博士
3月20日、「植物学雑誌 28巻327号」に「田麻科ト(び)猴桃科・所謂あらかはわうぎノ学名」を寄稿する。
  
また同号に小泉源一が「木曽御嶽火山植物分布論(予報)(承前)」を寄稿、学名に「TAKEDA」と記された、
   ちしまにんじん(Cnidium Tilingia,TAKEDA)を紹介する。

5月20日、「植物学雑誌 28巻329号」
に「あっけしさうニ就テ」を寄稿する。
   
同日、牧駿次が「嵩山房」から「日光の栞〔日光の案内記〕」を再刊する。
6月15日付、辻村伊助が博士宛に葉書を送る。
  2−1、2−2 横浜開港資料館所蔵
月18日付、20日付、22日付、25日付、辻村伊助が博士宛に葉書を送る。 
                                      2−3.2−4.2−5、2−6 横浜開港資料館所蔵

7月、「植物学雑誌 28巻331号 雑報」欄に、「英國「リンニアン」学会ニ於ケルロッチー氏ノ講演」内容を照会する。
英國「リンニアン」學會ニ於ケルロッチー氏ノ講演
(英國倫敦「ローヤルカレヂ」講師本會々員武田久吉氏ヨリ教室某氏ヘノ通信中ヨリ抄録ス)
(前略)
多分御聞キ及ビノ事ト存ジ候ガ去ルニ月十九日當地「リニアンソサイティ」ニテ「ドクトル」ロッチーノ講演有之題ハOn the Origin of Species by Crossingト云フ頗ル興味アルモノナルバ平素ハ兎角振ハザル同會ノ例會ト異ナリ會場ハ定刻前二立錐ノ餘地ナキ盛況空前ノ事ト注サレ候小生等間ギハニ到セル者ハ席ヲ得ズシテ三時間直立ト云フ目ニアヒ申シ候、同日午後八時會長ボウルトン教授席會務報告終ルヤ「ドクトル」ロッチーハ幻燈畫、標本、圖畫等ヲ示シテ次ノ如キ新説ヲ述ベラル候其ノ要鮎ヲ申上グルバ左ノ如クニ候/
吾人ハ進化ノ問題ニ關シヲ事實ヲ個體ヨリ蒐聚セザル可
カラズ、何トナルバ種并二變種ハ抽象的ノモノニシプ實在ニアラズ。誰人ト雖モ種或ハ變種ヲ示スコトハ不可能ニシテ、只彼ガナシ得ルハ或ル種又ハ變種ニ屬スルト考ヘラル丶個體ヲ示スニ過ギズ。
(省略)
                
注  著→着の誤植 
7月29日付、辻村伊助が博士宛に絵はがきを送る。 横浜開港資料館所蔵 久吉書簡No1068
8月20日、「植物学雑誌 28巻332号」に「日本産のきしのぶ属ノ二三ニ就テ」を寄稿する。
資料 のきしのぶ Polypodinm lineare THUNB.
P.lineare THUNB.
α.Thunberbianum (KAULF.) TAKEDA 和名 のきしのぶ 分布 日本・台湾・支那・朝鮮・布蛙
 =Pleopeltis Thunbergiana KAULF.
 =Pl.   elongata KAULF.
 =P.    atropunctatum.GAUD.
 forma caudato−attenuatum TAKEDA 端ノ特ニ長ク延長セルモノ 分布 日本・支那
 forma contortum (CHRIST) TAKEDA
 (以下省略)
和名 つくしのきしのぶ
 
分布 日本・支那
 β.subspathulatum (HOOK.) TAK 
 (以下省略) 
和名 ひめのきしのぶ

分布 日本・支那

 γ.ussuriense (BGL et MAACK) C.CHR 
 (以下省略)
和名 みやまのきしのぶ
分布 日本・満州

 δ.Ioriforme (WALL) TAK.
 (以下省略) 
和名 無 

分布 主トシテ印度・支那ニモ産ス、

 ε.elongatum (SCHRAD.) TAK. 
 (以下省略)

分布 マダガスカー、南亞及熱帯亞非利加

 (略、末尾の部分から)羊齒殊ニ亜細亜産ノモノニ就キテハクリスト、ベイカーノ両氏最多ク貢献アリ、サレドクリスト氏ハ多ク記述セリト云フダケニシテ羊齒ヲ識(し)レル人ニ非ズ、昨今ニレハ同氏ハ世界屈指ノ羊齒専門家ト崇メラルル様ナレド之レハ同氏モ至ツテ迷惑ノコトナルベシ。ベイカー氏は羊齒ニツイテ多大ノ興味ヲ有ス、然レドモ同氏晩年ノ仕事ハ記憶力ノ減退ト視力ノ衰弱トノ為メ誤診頻々タルハ頗(すこぶ)ル惜ムベシ、予ハ友人及先輩ノ誤ヲ指摘スルヲ忌メドモ日本ニテ欧州学者ノ事情ニ通ゼズシテ一図ニ信用スル人ノ為メニ一言ス。近来世ノ中ガ多忙トナルニ伴ヒ羊齒ヲ真面目ニ研究スル羊齒学者ナキハ遺憾ニ極ナリ、トマス、モーア、ジョン、スミス、近クハベッドームノ如キ真摯ノ人少シ、尤(もっと)モ是等ノ学者ノ或者ハ大陸ニテノフェ、プレスル。メッテニユスノ如ク、羊齒葉脈ノ研究ヲ過重視シタル結果要点ヲ逸(そら)して細末ニ走リシハ惜ムベキモ、其態度ハ稀ニ見ル所ナリ、予ハ羊齒学者トシテハリューアセン氏ヲ第一ニ推サントスレド同氏ノ東洋ノ羊齒ニ関シテ多クヲ記セザルハ憾トスル所ニシテ、又エングラーノ『自然科属誌』ニ羊齒ヲ擔任セザレシハ頗ル遺憾ナリ。殊ニ吾人ガ最モ迷惑ニ感ズルハ東亞ノ羊齒ガ真摯ナル羊齒学者ニ研究セラレズシテ、唯無暗ニ多クノ種類ノミ新設セラレシコトナリ。来年ノ万国植物学者大会ニテ素人ハ植物ヲ記載スベカラズヲウナ決議ニテモナシ呉ルレバ幾分カ此ノ厄難ヲ減ズルヲ得ベキカト思ハル、之レハ欧米学者ノ真相ヲ知レル人ハ頗ル同感ノ事ナラント信ズ、コレハ唯混雑ヲ惹起スルニ過ギザルベシ。
9月、リンネ学会雑誌植物部第42巻に「色丹島の植物」と題し324種の植物を発表する。
   
   
論文の最終項に記された「色丹島植物分布表」の中の「takeda」名の一覧
 ・ Anemone Taraoi,Takeda
10  ウマノアシガタ科 シコタントリカブト Aconitnm kurilense,Takeda
30  ナデシコ科 シコタンミミナグサ Cerastium rigidulnm,Takeda
31  ナデシコ科 キタミミナグサ Cerastium boreale,Takeda
35  ・ Stellaria sachalinensis,Takeda
76  バラ科 チシマキンバイ Potentilla megalantha,Takeda
98  ※マツヨヒグサ科 シコタンアカバナ Epilobium shikotanense、Takeda
99  アカバナ科 マルバアカバナ Epilobium ovale,Takeda
136  キク科 チシマウスユキサウ Leontopodium kurilense,Takeda
299  イネ科 チシマドゼウツナギ Atropis kurilensis,Takeda
                  ※マツヨヒグサ科 科名は 昭和15年 大野笑三編「色丹島の植物」より引用
               No6・35 全論文が英文のため和名が判らず 後日調査予定 2017・1・22 保坂
9月20日、松田定久が「
植物学雑誌 28巻333号」に「ふぢばかまノ学名ニ就テ」を寄稿する。
(略)先般東京栽培ノふぢばかまノ標本ヲ英国留学ノ武田久吉君ニ送リ、学名ノ當否ヲ確メラレンコトヲ求メタルニ、君ハ、Kew 并ニ大英博物館所蔵ノ原本Whampoa産(一八六二年十一月ハンス氏採 )及広東産(一八七六年十月ナ―ヴン氏採)ノモノニ比較シ、其能ク吻合スルコトヲ報ゼラレタリ。因テふぢばかまノ学名ハ東西ニ通ジ、相違ナキコトト信ズ、此事ヲ報ズルト共ニ同君ノ労ヲ取ラレタルヲ深謝ス。
10月、バーミンガム大学研究科に在学。主に淡水藻の研究に従事。(至大正4年7月)
11月20日、植物学雑誌 28巻335号」に「再ビ日本産のきしのぶ属ノ二三種ニ就テ」を寄稿する。
12月、英国の「リンネ学会年報8巻(Trans.Linn.Soc.Ser.2.Bot.Vol.[)」に「日本産のミズニラについて(On Isoetes Japonica)」をCyril West(ウエスト)博士との共著で研究発表を行う。
   
資料 ミズニラとの関わり 「辻村伊助遺稿 スウイス日記」の中の「追憶」より
 (辻村伊助君は)
スウイス開国記念日に当たる八月一日に、遂にその絶頂に達したのであったが、帰路にアヴァランシュに遭遇し、三時間もかかて登った四百米の急斜面を、僅々二分位に頽雪(たいせつ)に乗って降ったのである。危険なクレヴァス二つ三つ飛び越したので、命には別条はなかったが、二人のガイド諸共負傷してしまったので、一ヶ月余を山麓の病院に送らねばならないのであった。
 本来私も此の行に加わる心算であったのを、一友と水韮(みずにら)の研究に没頭し、何百枚かのプレパラートを作って、染めたり覗いたり、或はスケッチに又は写真に日を暮らし、イースター迄に出来る予定が夏休みとなっても終わらなかったので、千載一遇の好機を逸して残念ではあったが、一方から見ればアヴァランシュで大切な向脛でも折ってしまったら尚更取り返しがつかないのだから勿怪(もっけ)の幸いとあきらめて、遭難の話が出る度によく辻村君にそう云った。「然し君が一緒に行けばキットいきなりあんな峻嶮な山に取りつきはしなかったに違いないから怪我はなかったろう」といっても辻村君はそう答えるのであった。
1915 大正4年 32
1月、「植物学雑誌29巻337号 ◎新著」欄に「〇武田久吉氏『日本ノさくらさう属ニ就イテ』」が照会される。
TAKEDA,H.:−Notes on the Japanese Primulas( Notes of Royal Botanic Garden,Edinburgh.No. ]]]XU.Nov.1913.) 
武田氏ハ日本産櫻草トシテ

Primula Sieboldii,E.MORREN.
  f.a.hortensis,TAKEDA
  f.b.spontanea,TAKEDA
さくらさう
〃  jesoana,MIQ. おほさくらさう
〃  kisoana,MIQ. かつこさう
〃  tosaensis,YATABE いはざくら
〃  Reinii,FRAN.et SAV. こうはざくら
〃  modesta,BISSET et MOORE. ゆきわりさう
3月、中井猛之進が朝鮮総督府の嘱託で行なった「智異山植物調査報告」を発表する。
   参考 TAKEDAと学名のあった植物名 武田家所蔵本より
179  ひげねわちがいさう Krascheninikovia Palibiniana,TAKEDA
299  くろづる Tyipterygium Regelii,Sprague.et TAKEDA
308  をがらばなノ一種 Acer ukurunduense,Trautv.et Mey.var.pilosum,NAKAI.
P79  うすげをがらばな Acer ukurunduense,Trautv.et Mey.var.glabratum,NAKAI.
P60・P85   うすげをがらばな Acer ukurunduense,Trautv.et Mey.var.pilosum,NAKAI.
  参考 「うすげをがらばな」について鉛筆でチェックがしてあったので特記しました。他にP26にも記載有 2017.1.16 保坂
3月、「植物学雑誌29巻339号」に「ひらぎなんてん、ほそばひらぎなんてん等ニ就テ」を寄稿する。
 一両年前ヨリ余暇アルゴトニ、舊世界各地ニ産スルひらぎなんてん属即チMahonia ノ種類ヲ研究シ、此頃一ト通リ終了シタレバ、日本ノ庭園ニ普通ナル種類二三ニ就テ卑考ヲ述ベンカ。(略)台湾産ノ種類トシテ早田博士ハ只一種 B.nepalensis ヲ挙ゲラル、予ハ同博士ノ好意ニヨリテ同地産標品ノ或者ヲ親睹スルヲ得タレドモ、遺憾ニモ標品不完全ニシテ断定ニ苦シム。然レドモ其ノ何レモ M.Napaulensis DC. ニアラザルハ前ニ言ヘルガ如シ。予ノ考フル所ニヨレバ台湾ニハ少クモ三種類以上産ス、其ノ一は M.lomariifolia TAKEDA ニシテ、阿里山及ビ岩山ニ産ス、其二ハ M.morrisonensis TAKEDA ニシテ、新高山七千五百尺ノ地ニテ川上、森両氏ノ採集スル所ニ係ル、第三ハ同ジク新高山産ノモノナレド、花ヲ缺クガ故ニ今姑ク命名記載スルヲ扣ウ。此他キールンノモ産スル報告アレドモ、予其標品ヲ見ズ、蓋シイジョウ挙ゲタル三種以外ノモノナルベシ。(略)
 また、同号
(339号のこと)に中井猛之進が「日鮮新植物(其三)」を寄稿、本誌第23号266号に記載した博士との共著「済州島の植物」の中の112.Elscholtzia minima,NAKAIについて所見を述べる。
5月、「植物学雑誌29巻341号」に「再ビ日本産わださう属ノ植物ニ就テ・みづにらノ解剖」を寄稿する。
9月、「植物学雑誌第29巻第345号」に「○日本産ひかげのかづら属植物ノ数種ニ就イテ・朝鮮かさゆりノ学名ニ就イテ・えぞうすゆきさうに関シテノ質疑」を寄稿する。

「日本ーサハリンのヒカゲノカズラ類について(Lycopodialen Hokkaidou.nebst denen von Japanisch−Sachalin)」と「日本産ひかげのかづら属植物ノ数種ニ就イテ」の論文の比較から
203 チシマスギラン
.Selago L.
 Forma appressum DESV.

コスギラン
204 ヒメスギラン L.Chinense CHRIST. L.Selago L.ニ近似
206 ホソバタウゲシバ
207 ヒロハタウゲシバ
208 スギラン
210 ヤチスギラン・ヤチカヅラ
211 ミズスギ・サハスギ
211 マンネンスギ L.obscurum L.  
212 ウチハマンネンスギ  forma flabellata TAKEDA
213 タチマンネンスギ  forma juniperoideum TAKEDA
214 スギカヅラ
L.annotinum L.
Var,α,angustatum TAKEDA,nov

狭葉
215 ヒロハスギカヅラ Var.β.latifolium TAKEDA,var. nov 廣葉
217 タカネスギカヅラ Var,γ.pungens
218 ヒカゲノカヅラ L.japonicum THUNB. まんねんすぎの一異名を・・・予ハ寧ロ之ヲひかげのかづらナリト思考ス。
221 タカネヒカゲノカヅラ L.sitchense RUPR.var.nikoense TAKEDA.
L.sitchense RUPR.var.Veitchii(CHR.)m.
225 スヒカズラ 田内捨吉のスケッチを挟む
227 チシマヒカゲノカヅラ
229 ミヤマヒカゲノカヅラ
235 コケスギラン
235 ヒモカヅラ・ヒメヒカゲノスズラ
       参考 和名については1909年の著「日本ーサハリンのヒカゲノカズラ類について」の論文の中で
               博士が鉛筆で直接添字したのをそのまま図表にし表記し、細部に関しては省略した。 2017・1・29 保坂記
「えぞうすゆきさうに関シテノ質疑」の冒頭部分
本植物ハ予ガBulletin de la Sociele Botanique de Geneve,2me seri―vol. iii(1911), p. 152二於テLeontopodiumjaponicum MIQ. subsp. sachalinenseトシテ發表セシモノナリ、其ノ原種ト異ル點ハ、予ガ其ノ當時研究二供セシ樺太及トドモシリ島産ノ標品二於テハ花序ガうすゆきさう二於ケルガ如ク分枝セズ、両全花ガ梢小形ニシテソノ冠毛ヨリモ微二短ク、雌花ノ痩果ガ平滑ナルニァリ。然ルニ近頃宮部理學博士及工藤理學士ハ札幌博物學會々報第五巻第三號一四八頁二於テ、本植物ヲ一新種ト認メラレ(樺太植物誌ニテ初メテ發表セラレシ由ナソ、予ハ未ダ其刊行物ヲ手ニセズ)L. sachalinense MIYABE.et. KUDOト改称セラル、其理由トスル所ハ、「痩果ハ頗ル平滑ニシテ、冠毛ノ先端多少明カニ畫筆状ヲ呈スルヲ以テ」ナリト云フ。同博士等ハ十餘ヶ所ヨリノ標品ヲ検査セラレシ上此決断ヲ下サレシモノナレバ、其ノ見解ハ予ガ僅々数箇ノ標本ヲ基トシテ立論スルモノヨリモ遙二精確ナルハ論ヲ侯タズ、然シナガラ予ガ理解シ兼ヌルハ、一、同博士等ガ単二痩果ト云ハルヽハ雌花ノ痩果ナルヤ、或ハ両全花ノ痩果ナルヤニアリ、(略)因ニ記ス、うすゆきさう属ノ植物ニシテ我国ニ産スルトシテ一九一二年迄ニ知ラレタルハ左(本年譜では下)ノ数種ナリ。
L.microphyllum HAYATA. 台湾産
L.japonicunm MIQ. a.typicum BEAUV..
L.japonicunm subsp.sachalinense TAKEDA.
内地産
北海道及樺太産
L.discolor BEAUV.
L.discolor var.hayachinense TAK.et.BEAUV 
礼文島産
早池峰産
L.kurilense TAKEDA. 千島産
L.alpinum CASS.var.Fauriei REAUV. 内地高山産
L.leontopodioides BEAUV 朝鮮産
             「〇えぞうすゆきさうに関シテノ質疑 P299」より
10月、「植物学雑誌29巻346号」に「achlys属について形態学的・系統的研究」を寄稿する。
   On the Genus Achlys. A Morphological and 
      Systematic Study.(ナンブソウ)

11月、「植物学雑誌29巻347号」に「みづとんぼノ辨」を寄稿する。
12月、「山岳 第10年2号 「各地の山岳會彙報(二)」欄に京都組合銀行徒弟講習所や山梨山岳講演會等が開かれ幻燈機が使用されたことが掲載される。
 同所では生徒、卒業生並に組合銀行員有志が毎月一回必ず遠足會を催し、近郊の山てふ山は皆踏破に踏破を重ねつゝある、處へ昨秋當地の日本山岳會関西大會開催と、此程の大坂の同大會とで、山岳熱が益々高くなって、堪へきれない。其處へ日頃同所の生徒や卒業生が、登山家として遠足家として運動家として敬慕して、ゐる同所理事今村幸男氏の盡力で、大坂の大會で態々来れて呉れた幹事高野鷹蔵氏及大坂の大會の主催者加賀正太郎氏を煩はして同所で一夕の幻燈講演をやって貰ふ事となった。(略)(大正四年六月、東生報)
○京都に「大典記念植物園」の設置が決定される。
○この年、エジンバラ植物園彙報に、明治37年に筑波山で採取したワチガイソウの狭葉を一変種として 発表する。 「明治の山旅 筑波山に訪う」より
1916 大正5年 33 ○この年、藻類についての論文3篇を発表する。

 「Scourfieldia cordiformis,a new chlamydomonad,Ann,Bot.30 」
 「Dysmorphococcus variabilis,gen,et sp.nov.ibid.30」
 「On cartoria fritschii n.sp.ibid.30」 

  Scourfieldia cordiformis,a new chlamydomonad,Ann,Bot.30
  
淡水産線藻類の新種 クラミドモナス類の新種 スコウルフィルジア・コルジフォルミスについて(冒頭部分)
    

   Dysmorphococcus variabilis,gen,et sp.nov.ibid.30
   
淡水産線藻類の新属新種 新属・新種 ジスモルフィコックス・バリアビリスについて(冒頭部分)
       
  
      On cartoria fritschii n.sp.ibid.30
      
淡水産線藻類の新種 新種カルラリア・フリッチについて(冒頭部分)
         
                          
上記三論文の所蔵 山岸高旺
1月26日付、父サトウ(72才)の日記より

 午後3時40分の汽車で久吉は去って行った。われわれはふたたび会うことがあるだろうか。できることなら、私は久吉をイギリスに引きとめておきたい。しかし、カナダへの投資で損をしたことと、所得税が三シリング・六ペンス(つまり、税率17・5パーセント)に倍額されたために、わたしの収入がかなり減ってしまい、もはやかれを助けるために毎年二百ポンドをわたしてやる余裕がなくなってしまった。それに久吉の母が非常にさびしがっていて、かれのかえりを待ちこがれている。
2月下旬、帰国。
久シク英國ニ滞在セラレタル武田久吉氏ハ去ル二月下旬無事歸朝セラレタリ
                参考 植物学雑誌 30巻 351号 雑報欄に帰朝の記述有り
3月、「植物學雑誌第30巻第351号」に「雜報 武田久吉氏歸朝」のことが掲載される。
   また、同号に大野直枝(遺稿)の「K姫山産『天狗ノ麥飯』ニ關スル研究」が掲載される。
参考 附記第三曇日 故 畏友大野博士未亡人坂村農学士ヲ介シ予ニ寄スルニ故博士ノ遺墨手記一対ヲ以てセラレ且ツ事ノ學界ニ資益スルモノアラバ採リテ之ヲ世ニ公センコトヲ託セラル、中ニ所謂天狗ノ麦飯ニ関スル研究記事若干アリ、抑モ天狗ノ麦飯ナルモノハ本邦自然界ノ一奇象ニシテ故博士ガ其研究ニ先鞭ヲ著ケラレタルノ功ハ學界ノ忘ルベカラズ所ナリ、會々京都醫科大學講師理學士川村多實二君亦年来(諸)問題ノ研究ニ従事セラレツツアルヲ傳聞シ乃チ君ニ謀ルニ大野氏遺稿編述ノ事ヲ以テシタルニ君之ヲ快諾シ〇簡零篇ヲ収拾補綴スルノ勞ヲ敢テセラレここニ本篇ヲ公ニスルヲ得ルニ至レリ、又長野高等女學校教諭八木貞助君ハ當時大野博士ト産地探検ノ行ヲ共ニシ其状況ニセラルルヲ以テ特ニ本篇ノ閲覧ヲ煩ハシ事實ノ正確ナランコトヲ期セリ、吾人ハ川村、八木両君ノ厚意ニ對し深ク感謝ノ意ヲ表ス、唯本研究ハ其業固ヨリ未完ニ属シ故博士ノ深ク筺底ニ蔵セラレタルモノニシテ後来猶ホ追補訂正ヲ要スルノ點一二ニ止マラザルベク敢テ之ヲ世ニ公ニシ故人ノ志ニ背クノ告ハ獨リ予ノ甘受スル所ナリ、本篇挿ム所ノ寫眞圖第一ハ飯綱山麓ニ於テ著者ガ一行ト共ニ撮影セル所ニ係リ以テ個人ノ温容ヲ髣髴スルニ足レリ(柴田桂太)
       ※會々(たまたま)/先鞭ヲ著ケラレタル:他人に先駆けて物事に当たること。いち早くそれを行うこと。
       ※類似熟語 断簡零墨:一部分が失われたりきれぎれになったりして残っている書きもの。
        ※大野直枝(遺稿)論文の中には博士のことに関する直接的な記述は何もありませんでしたが、藻類学者であること
         川村多實二や後年、関りを持つ八木貞助の記述が含まれていたので、参考として記載しました。 2017・5・7 保坂

3月18日午後2時より、小石川植物園内植物学教室に於いて東京植物学会例会を開き、「やへむぐら族(Stellatae)ノ托葉ニ就イテ」を講演、午後4時に散会する。来会者約30余名
                     参考 植物学雑誌Vol30 No352 東京植物学会録事より
4月、「植物学雑誌第30巻第352号」に「やへむぐら族ノ托葉ニ就イテ」を発表する。
資料 (附記)右ハ本年三月十八日本会例会ニ於ケル講演ノ大要ニ加筆シテ稍趣ヲ変更セシモノニシテ、其ノ主要部分ハ本年七月発行ノ Annals of Botany ニ於テ発表スル予定ナリ、従テ挿図一切ハ該誌上ニ掲載スルコトトセリ。やへむぐら、あかね等ノ植物ハ輪生等ノ例トシテ、往々教科書等ニ引用サル、コトアリ、其ノ不穏當ナルコトハ今ココニ贅(むだ)スル迄モナケレド、眞正の輪生葉ヲ有スル植物ノ例ヲ擧グルモ亦無用ノコトニアルマジケレバ、思ヒツキタルママ左ニ二三記スコトトセリ。
すぎなも、ふさも、ほざきのふさも、たちも、くろも、みずすぎな、むじなも、きんぎょも(以上水生生物)びゃくぶ、つるびゃくぶ、おのまんねんぐさ、みつばのべんけいさう、つるまんねんぐさ、つくばねさう、くるまばつくばねさう、くぬがささう、えんれいさう、しろばなのゑんれいさう、おほばなのゑんれいさう、けふちくたう、つりがねにんじん、くかいさう(以上陸生植物)
4月、京都帝大医科大学講師。(至大正6年1月)
5月、「山岳 第10年 第3号」の雑録欄に「京大陸上運動部主催山岳幻燈講演会の記・一高旅行部近況」が掲載される。 
              
注 内容未確認のため調査要 2016・7・9 保坂 2018・2・11 確認済
(スライド使用の始めについては、)大正時代になって、英国から幻灯機械や大きなスクリーン等一式を求めて、それを中京から関西方面にまでかつぎまわって、登山趣味の鼓吹に東奔西走したものであった、その時代には、三五ミリのキャメラなどなかったから、幻灯(スライド)の画面は、八二ミリ四方のガラス二枚をはり合わせた大きなもので、映写機もそれ相当に大きく且つ重いものであった。それに比べれば、当今は何事によらず軽便簡略になったものである。                  S35・7 「他人の迷惑を考えよう」より
7月16日と9月29日、二度にわたって霧が峰を訪れる。
8月5日、理学博士の学位を受ける。
    
    申請した学位論文名 色丹島植物誌
     滋賀県大津市 京都帝国大学医科大学附属大津臨湖実験所 武田久吉 

9月初旬、日光から中宮祠・金精峠を越え上州利根郡の丸沼迄の遠足を行う。
                             「山岳 第十一年第二号・日光遊行雑記」より
9月、18日、「官報 第一二四一號」に「理学博士の学位」の授けられたことが掲載される。
學位記                                東京府平民武田久吉
右論文ヲ提出シテ學位ヲ請求シ東京帝国大學理科大學教授會ニ於テ其大學院ニ入リ定規ノ試験ヲ経タル者ト同等以上ノ學力アリト認メタリ仍テ明治三十一年勅令第三百四十四號學位令第二條ニ依リ
(ここ)ニ理學博士ノ學位ヲ授ク/論文審査ノ要旨・参考論文(略)
10月、「山岳 秩父号 第十一年第一号 ハヒマツの生長の割合」を寄稿する。
甲斐國志との出会い/(略)『山岳』第十一年第一号は「秩父号」と銘打って、秩父会の人達の紀行四篇の外に、河田羆氏の「武蔵通志」の山岳篇が登載されている。私はこれに刺激された一方、同じ秩父会の辻本工学博士と往来することも繁くなり、同君所蔵の「甲斐國志」を借覧して、武蔵から甲斐へかけての山の研究に没頭することとなった。
 この両書で解決がつかぬ場合には、木暮君を煩わして、『郡村誌』の一部を複写して貰ったことも一再に止まらない。
(略)   「アルプ89号 木暮君と私(二) P60〜61」より
10月、植物学雑誌第30巻第358号」に「○みづにらノ説」を発表する。
11月、植物学雑誌第30巻第359号」に「○みづにらノ説」を発表する。
12月「山岳 第十一年第二号」に「日光遊行雑記・【図書紹介】「日光の栞」(牧駿次著)」を寄稿する。
12月、植物学雑誌第30巻第360号」に「○みづにらノ説」を発表する。      
 ●みづにらノ説         武田久吉(H.TAKEDA
水生植物ハ採集ガ多少億劫ナリト云フ点ニヨルニヤ陸生植物ニ比シテ兎角其研究遅ルヽ傾アリ。水中ニ生ズルモノハ其生理的状態陸生ニ生ズル植物ト大ニ異ナルタメ、種々ノ点ニ於テ特殊ノ面白キ事アリ。顕微鏡的ノモノハ暫ク措き、肉眼的ノ者ノ中ニモ興味アル者少ナカラネド、中ニモ、にずにらハ羊歯門、石松門ニ対シテ、特立スル一門ノ代表者ニシテ、高等顕花植物中殊ニ奇ナルモノナリ。みづにらガ属スルみづにら科(Isoetaceae)ハ只一属みずにら属(Isoetes)ヲ含ムノミニシテ、コレヲ属スル種類ハベイカー氏ニヨレバ(Baker,Handbook of hte Fern−Allies.1887)世界ヲ通ジテ四十九種ニ上リ、ザーデベック氏ニヨレバ(Sadebeck,in Engler and Prantl,Pflanzenfamilien,i,Abt.iv.1902)六十二ヲ算スト云フ。本属ノモノニシテ日本ニ産スルハ Isoetes lacustris,I.echinospora,I.asiatica(ひめみづにら)及ビ I.japonica(みづにら)ノ四種ニシテ就中みづにらハ本島及四国ノ池沼水澤ニ比較的広ク分布スルヲ以テ材料ヲ得ルニ難カラザルト同時ニ、世界最大ノ種類ニシテ、形態解剖等ノ研究ニハ最良ノモノナリ。

                  導入の部分(サブタイトル名なし・全文)
外形
Caudexノ内景
茎ノ生長点及初生組織ノ発育
茎ノ初生組織ノ構造 イ、本質部・ロ、篩管部・ハ、初生皮層
茎ノ後生組織ノ構造 イ、形成層・ロ、形成層ノ生産物
Rhizoqhoreノ生長点及初生組織ノ発育
Rhizoqhoreノ後生組織
根ノ発生、構造、及配列 イ、発生・ロ、構造・ハ、配列
葉ノ配列
10 葉ノ発生
11 葉ノ組織構造 イ、表皮・ロ、気孔・ハ、葉肉・ニ、維管束・ホ、小舌
12 幼芽ノ保護
13 分類
14 系統
(附記)以上3号に互リテ略説セシトコロノモノハ予等ガ最近ノ研究ノ結果ニヨリシモノニシテ、従来諸学者ノ研究ト異ナレル點少ナカラダレドモ、此処ニハ議論ヲ避ケテ只事実ヲ説述セシニ止メタリ。みづにらノ類ヲ専門に研究セントセラルル士ハ幸ニシテC・West and H・Takeda・−On Isoetes Japonica A・Br・(Trans・Linn・Soc・Bot・ser・2,vol・[,pp・333−376,pl・33−40・Dec・1915)ニ就イテ見ラレ度シ。みづにらノ配属體ニ関シテハ理学士高嶺昇氏目下研究中アルヲ以テ、遠カラズ氏ノ筆ニヨリテ記述サルルコトナルベシト信ズ。(了)
1917 大正6年 34 ○大正5年5月〜6年1月の間、京都帝大医科大学で「植物と其研究」と題し講演する。
                  注意:講演の時期については、講演収録集「植物と其研究」から推測しました。(保坂附記)
  
    「植物と其研究」より
「植物と其研究」より
(前略)ー、其運動する植物を初めて見た時分には、皆動物だと思った。動物だと思ったのはまだ宜しいが、中には元来こんなものが地球上にあり得るだらうか、どうも是は事実でない、見て吃驚気が狂った人がある。それは全くの事実で、和蘭のシュワンメルダムと云ふ哲学者は、顕微鏡の下で色々な小さな微生物即ち微細な動植物が運動するのを見て気が狂った。それから英吉利では昔からロイヤル ソサイエティと云って、科学を研究する最高の学舎がある、其学舎で殆ど毎月のやうに会があって、名論卓説は出来ますが、千六百六十七年、此のロイヤル ソサイエティの会合で碩学徒達が集った所へ、例の細胞を見付けたロバート フックと云ふ人が顕微鏡下に微生物を見せた。其時分には動くもの皆動物として居りましたが、微生物が水中を盛に泳ぎ廻るので見せたところが、是は不思議だ、吾々はこんな物を見たと言っても、世界中の人が承知しない、何か證據物件を遺さなければならんと云ふので、大勢の学者が集まって大きな紙に證文を書いた。確かに我々は斯う云ふ物を見たと云って銘々判を捺した。それ位でありますが、兎に角さう云ふ微生物は初は動物視されて居た。それが段々研究が進むにつれて、其或者は植物であることがわかあって来た。動物も其中にあるが、中には何方とも云へないものがある、鞭毛藻と云ふ仲間のものは、非常に簡単と云ふよりも、始原的と申す可きでありましょうが、動物とも植物とも付かない、その
二つの性質を具へたやうなものでありますが、是が矢張り盛に水中を泳ぎ廻って居るのである。鞭毛藻と云ふのは単細胞の生物で、鞭のやうな髭が生へて居る。例へば、挿図2及3図に示した様なもので一本、或時は二本又はそれ以上の鞭毛を有し、之を動かして水中を泳ぎ廻るのでありますが、是には細胞膜がない、当分眞正の植物には入れて置けないが、しかし葉緑素を含んで居るものが沢山ある。(後略)
1月、京都帝大医科大学講師を辞す。
2月、「教育画法 4 同文館」に「高山植物 p180〜185」を寄稿する。
  
タカネシダ(郭小)      高山産単細胞淡水藻  (郭大原圖)
 晩春の象徴とも云ふ可きシャクヤクは散り、アヤメの紫はあせてハナシャウブの紫白色あざやかに、木々の新緑は黒味を帯び、クリの花の白きが一トきは目に立つ頃となれば、碧
(あを)い 碧(あを)い大空に、眞綿をちぎった様な白雲が、風のまに まに高く低く翔(かけ)るのを見る、夏が来たといふ感じが一入(ひとしお)深くなる。山好の人々は地圖を擴げたり、登山具を點儉して、登山の準備に餘念もない。毎年数千の人が山に登るが、其目的は必しも一でない。或は動植物や鑛物岩石の採集を主とし、或は地理の研究を眼目とし或は描畫寫眞撮影を主眼とし、或は単に海抜一萬尺の峰頭に足跡を印するを以て快とする。併し其何れに拘はらず高山に登って吾人と最交渉の多いのは、山岳を麓(ふもと)より絶巓に至る迄蔽ふ處の植物である。高山とは海抜幾米突以上のものを指す可きかは一寸定め難いが、假に二千米突以上のものとすると本邦に二百餘りもあるが、其内二千五百米突以上のものは約一百座もある。(略)
高山植物と言ふと、直に顕花植物や羊歯類以上の、主として肉眼的な者を指す様に考へる人もあるが、高山特有の隠花植物も種々ある。蘚類、苔類、菌類、地衣類、藻類、細菌類中で夫々高山植物と呼ぶ可きものが少ない。然るに肉眼に触れ易くない爲めに、従来日本では餘り多く研究されて居ないのは甚遺憾である。蘚類中でもクロゴケ科と云ふのは、一科一屬といふ小族ではあるが世界中に一百餘種を産し其の大多数は高山に限って生ずる。本邦にはクロゴケといふ一種があるが、硅石質の炭(岩)石を好む爲め、各地の火山の岩上に稀でない。奥州では高山の黴(かび)や、池沼中又は濕岩上に産する淡水藻類を研究した人もあるが、日本では此方面は暗黒と言ってもよい。殊に淡水藻の種類は形態の美麗なのや、学問上極めて興味の深い種類があるが、平地産のものすら研究する人は實に曉天の星と云ふ程である。高山と言ふ程でもないが、北海道及日本中部で、海抜三千乃至六千尺の山地にある池沼から得た淡水藻類中、形の美しい者数種を選んで示すことにしたが、是等の植物に関して詳細な説明はあまりくだくだしくなるから他日筆を更めて述べる事にしよう。日本の高山は、毎年幾千といふ多数の人が登り、其中には植物採集を試みる人も少ない様であるのは誠に結構ではあるが、其の爲めに稀有の種類は兎角絶滅する虞(おそれ)がある。されば登山者は各自注意してこれを濫獲濫採せぬ様に、日本の学術の爲めに特に御願ひして置く次第である。 
     注 下線は保坂が特に書き入れ自然にやいする博士の思いをくみ取って戴きたいと記しました。 2017・5・22 保坂
3月、小泉源一が「植物学雑誌 No363」に「はくさんさいこノ学名」を寄稿、博士の一文を記述する。
(略)武田博士に據レバ此他千島色丹島ニハ Bupleurum longifolium L.Wolf.subvar.involucratum H.Wolf.ヲ産スト云フ。
4月、日本山岳会第十回大会に於いて、「高山植物の研究」を講演する。
           参考 当日の講演記録は「山岳第十二年第一号」に掲載されてあります。 2016.12.8 保坂記
4月、岡村周諦が「植物学雑誌 第364号 雑録」に「蘚苔類雑録(二一) 六三、珍ラシキみづごけノ一新種」と題した論文を発表する。

茎の横新面ノ一部  茎ノ表皮細胞ノ外壁 いとみづごけノ全形
論文の冒頭部分より
 大正五年夏七月理学博士武田久吉君信州ニ遊ビ、諏訪郡八島ヶ池附近ニテ採集セル二種ノみずごけあり。余之ヲ検スルニ其一種ハ本邦各地ニ広ク産スルはりばみづごけSphagnum cuspidatum (EHRH.) Russ et WARNST. ナレドモ他ノ一種ハ一見他ノみづごけト外貌ヲ異ニシ、全体細クシテ枝ヲ分タザルカ或ハ僅少ノ枝アレドモ枝叢ヲナサズシテ一個ヅ丶独生シ、其簡単ナル茎枝ノ有様ハ直ニ欧米ニ産スル S.guwassanense WARNST.等ヲ想起セシム、然レドモ其茎甚ダ長ク葉ノ疎ナル所一瞥
別種タルヲ認メ得ベシ。余ハ其後本品ヲ精検シテ之ヲ新種ト認メ、 武田氏最初ノ発見ヲ記念セシガ為メ、其学名ヲ其姓ニトリテSphagnum Takedae SH.OKAMURA. トシ、其和名ヲ茎ノ簡単ニシテ絲状ヲナセル所ニトリテ いとみづごけ ト命ジタリ。本品ハ実ニ他ノ本邦産みづごけト一見区別シ得ラルベキ一珍品ニシテ、みづごけ属中ゆがみば類(Subsecunda)ニ属ス。ゆがみば類ニハ邦産既知ノモノ十種アリテ其七種ハ本邦特産ノモノナリ。(略)  資料提供 服部植物研究所 2016・6・16 保坂記
4月26日付、辻村伊助が博士宛に葉書を送る。  2−8 横浜開港資料館所蔵
6月初旬、石川光春が秩父十文字峠に於いて「ほていらん」を採取する。
 
   ほていらん
   撮影 高野鷹蔵
(略)本植物は一属一種のもので、ヒメホテイランといふ種の変種として認められて居る。ヒメホテイランは甞(かつ)て岸上鎌吉氏が樺太マウカの地に採取し、後三宅勉氏同島オチョポカの地に得たる標品によって命名したもので、此の方は欧、亞、米北部の針葉樹林中に生じて居る。自分は甞て之をロッキー山中に見たが、其の美は到底我がホテイランには及ばない。本號に掲げたものは、大正六年六月初旬、本會員にして秩父通を以て鳴る石川光春君が、十文字峠で採集して生きながら恵まれたものを、高野幹事が殆んぢ實物大に寫眞されたものである。(武田)   「山岳第12号 雑録 T7・2」より


6月、「高山植物」を「同文館」より刊行する。
(上略)この本が出版される大正六年以前には、高山植物の入門書がなかったため、飛ぶような売れ行きを示し、僅か二カ月たらずで二版が出版された。第二章では、木曽御岳、日光、白馬岳、南アルプスの植物景観を述べながら登山案内も兼ねているが、南アルプスの項では現今と違ったコースで当時の辛苦がしのばれる。巻末の二一頁は、付録となっていて、日本特有高山植物目録として一五四種の植物名があげられ、また日本山岳冒称の植物として、タテヤマーとか、ハクサンーという山の名を冠した植物名が示されている。この項には高山植物以外の一般植物も含まれている。シラネニンジン、シラネアオイなどのシラネは日光白根山、アサマリンドウは浅間山ではなくて、朝熊山(三重県鳥羽の近く)であるなど、重要なことが書かれている。
                   「昭和47年度 武田久吉著作展」の資料より
タカネイチゴツナギ・ムカゴユキノシタ・ムカゴトラノオなどの子持ち植物等も掲載する。
 
  高山植物 (表紙)
  
発行 T6・6・28
 
  高山植物 (扉)

 圖版六−高野鷹蔵氏寫眞




【資料構成】
・図版
 (16枚)
はしがき
 
頃者我が邦が邦青年の間に登山の氣風が漸く勃興し。近年は婦女子さへも高山に登り深谷にわけ入る様になったのは、國民嗜好の上に於て寔に慶賀すべき事と思ふ。凡そ大自然が赤裸々に露はれたるは、山岳を措いて他になく、山岳に攀ぢて無垢の自然と一致相応するは、寔にこれ人生の最大慰樂である。山岳に登って吾人と終始交渉の深甚なのは、岩石を以て骨と肉とをなす山岳の膚を蔽ふ植物である。故に植物と相識るは則ち山中に知已を得ることで、遠く人寰を距つる山嶽に獨り坐するも、尚寂寥を感ぜぬ所以である。我が邦に於て草木を記し、其の美観を説くところの書籍實に棟宇に充ち牛馬を汗する程であるが、而も未だ山岳を粧ふ植物の全汎に亙って、殊に通俗を旨として記述したものを見ないのは、予の甚だ憾とするところである。乃ち自ら揣らぬではないが、多年内外山岳の間を彷徨して、自然より學び得たる賜物を經とし、先進諸家の學説を參酌して之を緯とし、以て此の小冊子を編むに至った。幸にして登山者の伴侶となり、究學者の僚友ともならば、予の望はこれに過ぎないのである。
    大正六年六月    東都、坐して富岳を望む所にて 著者
しるす
  寂寥(せきりょう):心が満ち足りず、もの寂しいこと。  棟宇(とうう):家のむねと、のき
・目次/・図版解説
・一 登山
pp.1〜5
   
登山の目的と植物・高山・富士
二 高山に於ける植物帯
    植物帯・木曽の御岳・日光の山彙と其の植物景・白馬ケ岳の植物景・欧亜六名山の植物帯・植物帯の境界線
    高山植物と極地植物・高山帯の気象と極地の気象・高山植物区系の成立

三 高山植物の分布 
    山頂の低地性植物・地理的分布・生態的分布・草木帯の生態的細別・アルプス植物の地理的分布
    日本高山植物の要素・内地の高山植物と千島の植物

・四 高山植物の生態 

   
花と色・芳香と花蜜・紅葉・フラヴォーン・葉の保護・茎と葉・樹幹の短縮蟠屈する原因・葉の組織
    蒸散と葉の構造・気孔・根・地質との関係・種子の油脂・多年生草本の常緑木本

・五 高山植物の種類 

   
顕花植物・隠花植物・池沼中の植物・淡水藻の生態と分布・高山の徴とバクテリア
・六 高山植物の採集と培養

   
採集・乾燥の秘訣・保存の方法・藻類の採集・培養・生品の採集・実蒔・盆養と地栽・ロックガーデン
    灌水と噴霧・冬の手当

・附録 日本特有高山植物目録 

                   「国立国会図書館・レファレンス事例詳細」より
   参考 圖版の解説文
圖版番号
日本山岳會 高山のいたゞき(立山、富士の折立附近、白き花はハクサンイチゲ)
日本山岳會 御花畠(立山の室堂附近、ハクサンイチゲ、ウラジロタデ、コバイケイサウの群落)
日本山岳會 はひまつ(立山五色ヶ原)
日本山岳會 黒木立(赤石山中針葉喬木帯)
日本山岳會 春の穂高山(上部は針葉喬木帯、下部は闊葉喬木帯、圖の中央を名がるゝは梓川)
日本山岳會 1、ミヤマウスユキサウ(きく科) 2、チシマウスユキサウ(同上) 3、タカネウスユキサウ(同上)
高野鷹蔵 1、ミヤマヲトコヨモギ(きく科)
高野鷹蔵  1、イハイテフ(りんだう科) 2、ムカゴトラノヲ(たで科)
高野鷹蔵 1、キバナシャクナゲ(しゃくなげ科) 2、イハベンケイ(べんけいさう科) 3、ヒメスギラン(ひかげのかづら科)
10 高野鷹蔵 1、ハクサンコザクラ(さくらさう科) 2、はくさんいちげ(うまのあしがた科)
11 高野鷹蔵 1、ミヤマミ丶ナグサ(せきちく科) 2、コメス丶キ(禾木科) 3、ツマトリサウ(さくらさう科)
12 高野鷹蔵 1、チシマギキャウ(ききゃう科) 2、タウヤクリンダウ(りんだう科) 3、ミヤマクロスゲ(すげ科) 4、ゴザンタチバナ(みづき科)
13 高野鷹蔵 1、ツガザクラ(しゃくなげ科) 2、タカネヒカゲノカヅラ(ひかげのかづら科) 3、ウラシマツツジ(しゃくなげ科) 4、ミネズワウ(同上)
14 高野鷹蔵 1、クモマグサ(ゆきのした科) 2、イハワウギ(まめ科) 3、シナノキンバイ(うまのあしがた科) 4、ウサギギク(きく科)
15 高野鷹蔵  1、コケモ丶(しゃくなげ科) 2、ミヤマキンバイ(いばら科) 3、クロマメノキ(しゃくなげ科) 4、チングルマ(いばら科) 5、ガンカウラン(がんかうらん科)
16 高野鷹蔵 1、イハツメグサ(せきちく科) 2、シコタンハコベ(同上) 3、チングルマ(いばら科、果實) 4、ミヤマシホガマ(ごまのはぐさ科) 5、リンネサウ(すひかづら科) 6、ミヤマキンパウゲ(うまのあしがた科) 7、クモマナヅナ(十字花科)
 以上列記する山岳寫眞と、特に撮影した植物標本の圖版とは、一に日本山岳會幹事高野鷹蔵君に負ふところのもので、尚其他巨細の注意を賜はったことに對して、謝辭を見出すに苦しむのである。

 附録 日本特有高山植物目録の内訳
科  名  植物名 
きく科 タカネウスユキサウ・ミヤマヲトコヨモギ・タカネヨモギ・ミヤマカウゾリナ・ハヤチネウスユキサウ・ユキバヒゴタイ・タカネヒゴタイ・ミヤマウスユキサウ・ミヤマヲグルマ・ウスユキサウ・シラネアザミ・タカネアヅマギク
ききゃう科 ホウワウシャジン・ヒメシャジン
まつむしそう科
おみなえし科
すいかずら科 オホバヘウタンボク・コゴメヘウタンボク
あかね科
おほばこ科 ハクサンオホバコ
たぬきも科
はまうつぼ科
ごまのはぐさ科 ミヤマコゴメグサ・ミヤマシホガマ・タカネシオガマ・イハブクロ(タルマイサウ)・ダイセンクハガタ・ミヤマトラノヲ
しそ科
むらさき科 ミヤマムラサキ・チシマルリサウ
はなしのぶ科
りんだう科 オヤマリンダウ・ミヤマリンダウ・シマイケアケボノサウ(ミヤマアケボノサウ)・ヒナリンダウ・リシリリンダウ・ユーバリリンダウ・コミヤマリンダウ
さくらそう科 ヒナザクラ・ユーバリコザクラ・ナンキンコザクラ(ハクサンコザクラ)・ヒメコザクラ・ミチノクコザクラ
いはうめ科 イハカヾミ・コイハカヾミ(ヒメカヾミ)
しゃくなげ科→つつじ科 アカモモ・シラタマノキ・ツガザクラ・ハコツツジ(ミヤマホツツジ)
がんこうらん科
いちやくそう科
みずき科
繖形科→せり科 ミヤマセンキウ・ハクサンバウフウ・ヤマウヰキャウ(ミヤマウヰキャウ)・ナンブタウキ(イハテタウキ)
うこぎ科
あかばな科 ミヤマアカバナ
すみれ科 タカネスミレ
おとぎりそう科 シナノオトギリ
かえで科
にしきぎ科
もちのき科
かたばみ科
ふうろそう科 シロウマフウロ
まめ科 オヤマノエンドウ・アラカハワウギ・シロウマワウギ・タヒツリワウギ・モメンヅル
いばら科ばら科 ミヤマキンバイタカネバラ・カライトソウ・・ミヤマナナカマド・メアカンキンバイ・ハクロバイ・シナノキイチゴ・タウチサウ・ギンロバイ(ンロバイ? 検討要
ゆきのした科 ヒメウメバチサウ・アラシグサ・クロクモサウ・クモマグサ・エゾクモマグサ・チシマクモマグサ・ダイモンジサウ
まんねんぐさ科→べんけいそう科 ミヤママンネングサ・タカネマンネングサ・イハベンケイ
十字花→あぶらな科 フジハタザホ・ミヤマタネツケバナ・ナンブイヌナヅナ・クモマナヅナ・シロウマナヅナ・ミヤマナヅナ・タカネナヅナ・トガクシナヅナ
けし科 コマクサ
めぎ科
うまのあしがた科→きんぽうげ科 ミヤマオダマキ・ヒメカラマツ・ツクモグサ(カタオカサウの変種)・ユーバリウヅ
すいれん科
せきちく科→なでしこ科 メアカンフスマ(テウカイフスマ)・ミヤマミミナグサ・オホビランジ・イハツメクサ・カトウハコベ
たで科 ナンブトラノヲ・オヤマソバ・ウラジロタデ・オンタデ
かんば科→かばのき科 ミヤマハンノキ・タケカンバ
やなぎ科 ミヤマヤナギ・マルバヤナギ・レンゲイハヤナギ
らん科 シロウマチドリ・タカネサギサウ・タカネトンボ
あやめ科
ゆり科 ネバリノギラン・クルマユリ・ヒメイハシャウブ・コバイケイサウ・イハシャウブ・リシリサウ・イハゼキシャウ
いぐさ科
イトヰ・ミヤマヌカボシサウ・エゾホソヰ
さといも科
すげ科→かやつりぐさ科 シャウジャウスゲ・イトキンスゲ・イハスゲ・タカネクロスゲ・シロウマスゲ・キンチャクスゲ・コタヌキラン・ミヤマクロスゲ
禾木科→いね科 カニツリノガリヤスタカネソモソモ・ヲノヘガリヤス・ミヤマノガリヤス・ヒゲガリヤス・ミネノガリヤス・ヒナガリヤス・タカネノガリヤス・タカネカウバウ。オホヒゲガリヤス。アヲノガリヤス。
いちい科
びゃくしん科
まつ科 ミヤマネヅ・カラマツ
もみ科
うらぼし科
ちゃせんしだ科
ししがしら科
のきしのぶ科→おしだ科・いわでんだ科 オオバショリマ(注 のきしのぶ科→おしだ科)  トガクシデンダ(注 のきしのぶ科→いわでんだ科) 
きじのおしだ科
わらび科
はなわらび科
いわひば科
ひかげのかずら科 ミヤマヒカゲノカズラタカネヒカゲノカズラ
※印は武田の名のついた植物の学名  例 ※ユーバリソウ lagotis Takedana Mirabe et Tatewaki
注 この科名の順列は、昭和42年の「増訂版(続)原色日本高山植物図鑑」を基調としました。目録の実際の配列は植物名をアイウエオ順で表記されています。また、植物名は旧字をそのままに表示しました。 2017・5・26 保坂
8月、「日本農業雑誌13巻9号」に「高山植物の研究」を寄稿する。
8月15日〜21日、利根川支流宝川・水源間の登山を行う。
 〔宝川・水源間の登山記〕の手記 横浜開港資料館 久吉(文書類)No640に収録 内容未確認 2014・9・7 保坂記
参考 「民俗と植物 地名と植物 P99」より
◇利根川上流の藤原に宝川温泉といふのがあり、笠ヶ岳から流出する宝川がその傍を流れて利根に注ぐのであるが、その上流にヘネコ澤といふのがある。これはその澤筋にヒメコマツが多いことから出た名であって、ヒがヘに、そしてヘメコがヘネコと訛ったに相違いない推定する。そして爰にいふヒメコマツは、植物学者や林学者のいふゴエフマツであることを附記して置く。(註二)。(略)
。(註二)木暮理太郎氏の『山の憶ひ出』上巻一八〇頁によると、この澤は郡村誌に惠根子と當字されてゐるらしい。謂はゞヘネコのフランス讀といった形である。
8月26日・27日、秋田縣小坂町に於いて山岳講演会が開かれる。
 会員加藤榮氏の慫慂に由り秋田縣小坂町教育會及び小坂鑛山スキ倶楽部の招聘に従ひ、去る八月廿六日及び廿七日夜山岳講演會を開きたり。本會幹事近藤茂吉、武田久吉、梅澤観光、高野鷹蔵夫々幻燈講演をなせり。/本講演會開催に際し小坂町長小笠原勇太郎氏、小坂鑛山所長斎藤精一氏及び其他鑛山関係諸氏の多大の厚意に感謝の意を表す。
    招聘 (しょうへい):人を丁重(ていちょう)な態度で招くこと
                                   「山岳第12号 雑録 T7・2」より

9月、「山岳 11巻3号」に「「霧が峰と鎌ヶ池及八島ヶ池」 高山植物検索便覧(一)
    「雑録 しらたまのき・「菅沼」なる名称について・日本の山地に見るオダマキの種類」
    「図書紹介 高山植物の研究 日本アルプス縦断記 鹿沢温泉と夏山植物」」を寄稿する。 
    「霧が峰と鎌ヶ池及八島ヶ池」の文中に
    「
鎌ケ池の北端と八島ケ池との見通しの所にある小池をば本会員理学士川村多實二氏と共に
    
瓢箪池と命名したが、尚是等の外に底無し又は鬼ケ泉水と呼ぶ小水界があるといふ話であるが、
    其位置は明らかに知り難い。」
と記載、川村多實二氏と共に小池を瓢箪(ひょうたん)池と命名する。
     
      「霧が峰と鎌ヶ池及八島ヶ池」で観察した藻類図
    
(中略)鎌ヶ池、八島ヶ池の周囲及此湿原は植物の採集地として面白い、わけても久保田氏も書いて居るが一種珍しいタヌキモの産するのは目下の所信州では霧ヶ峰山彙以外は知られて居ない、此タヌキモはコタヌキモ(U.intermedia)に近縁の種類で、Utricnlaria ochroleucaと呼ばれるものに相当すると考へられる。鎌ヶ池の縁の浅い所では、此タニキモが甚しく萎小なものとなって、一見異種に属するかの観があるが、生産地の状況に適応して浅水的の形を呈するに過ぎないのである。此種は珍奇の種類であるのだから、何卒乱採して絶滅させたくないものである。

  八島ヶ池 スケッチ図
 隠花植物、殊に顕微鏡的のものでは、実に珍奇の品がある、殊に八島ヶ池や瓢箪池の水中及池畔のミズゴケ等の間にはチリモの類が夥(おびただ)しく生じて、而も稀種に富んで居る。目の細かい絹で作った袋形の網を水面に近く引くと、時にはこれ等の植物が一杯入って、水が淡緑色を呈する位のことがある、其の一滴を検すると到底形容も出来ぬ様な奇妙な形をして居るチリモの類が無数に見える。図版はそれ等の中の或者を示したのであるが、これは実に九中の一毛にも過ぎないのである。チリモの類は世界に三四千も種類があるが、何れも美しい形をして居るもので、実に顕微鏡下の美観である。チリモは八島ヶ池のみに限らず、諸方の池中、湿原等に産するもので、中には常に浮遊生
活を営むものあり、又は水草の葉間に生棲するものありて、殊に石灰質の少ない又有機物に乏しい池を選ぶのである。日本では此類の研究は殆んど行はれて居ない、それで序ながら登山家諸君中自分に同情して下さる方があらば、材料を供給して頂きたい。採取法は甚簡単で、隠花植物の様に壓搾する必要もない、只水中の水草ー葉の細かいものなら尚宜しーなり或はミズゴケー沈水性のもの殊に、そして手ざわりがヌラヌラすれば尚更有望ーを手で掬い上げ、少し水の切れたる所で之を徐に搾って其滴る水を小壜の中へ受ければよいのである。これで一週間や十日は充分生活をつづけるから、このままを郵便なり何なりで送って戴けば結構である、但し各壜に産地と採集年月日とを明記されたい。萬一長時日に亘って発送の機がない時には少量の希薄なー十パーセント位ーの工業用フーマリンを少し加へて置いて下されば永く保存が出来るのである。尤も旅行や登山の折其用意なしで、偶然に池に出会ったり、ミズゴケの原にさしかかることがないでもない、其の時には水草なり水草なりミズゴケなりを其まま採って、紙にでも包んで送って頂いてもよい。立山の弥陀ヶ原、五色ヶ原、会津の駒ヶ岳や越後の平ヶ岳等の上の小池畔には面白い種類があることと思ふ(下略)
同号に梅沢観光が「相州蛭ヶ岳」を寄稿する。   昭和13年 丹澤山岳会発行「丹澤」より
10月24日夜、高野氏邸に於いて「外人会員交歓会」が開かれる。
(略)在京浜外国人会員の来集を乞ひ、スウイス及び日本の幻燈を映写し、相共に山を談じ、雪を語りて復なき面白き会合を開きたり、会するもの。(外国人名略)、幹事武田久吉、梅澤観光、近藤藤吉、辻村伊助、高野鷹蔵諸氏及び来り会したる会員茂木猪之吉氏、並に近藤茂吉氏令夫人。辻村伊助氏は瑞西グロッスシュレックホルン登山談を、武田久吉氏は高山植物の話しを幻燈を以て説明せられたり、本会は斯く私的(プライベート)会合なれど、本会として内外人の交歓に益すること極めて大なりき。(岳雄) 「山岳 第十二年第一号 会報」より
10月26日、上條嘉門が黄疸病のため島々の家で没する。(享年73歳) 「山岳 第十二年第一号 会報」より
11月、「植物学雑誌31関371号」に「欧米植物学者ノ苗字ノ読ミ方」を寄稿する。
11月7日、探険隊を組織し、日光山の瀑布調査を行う。
                  大正7年12月発行 山岳 第13年第1号「日光山の瀑布」より
12月、中村組植物研究所に於いて、有用植物の研究に従事。(至大正8年3月)
12月16日付、辻村伊助が博士宛に葉書を送る。  2−8 横浜開港資料館所蔵
○この年から京都府立植物園の工事が始められ、大正12年11月に開園する。
○大正6・7年頃より「甲斐國志」を相手に、登山家たちから、ほとんど顧みられる事のなかった、甲州郡内地方の山々を、机上と実地とによって研究を始める。 「回想の冬山」より
1918 大正7年 35
2月、「山岳 第十二年第一号」に「高山植物の研究」・「あかもの」・「ほていらん」・「甲州七面山の「御神木」と「萬歳草」・図書紹介「大正五年登晃旅客一覧」(日光警察署長編纂)」・山岳彙報「神山寅吉の訃」を寄稿する。
高山植物の研究(大正6年4月東京で行われた日本山岳会第十回大会での講演記録)
山麓帯
亜高山帯 濶葉喬木帯
針葉喬木帯
高山帯 灌木帯
草本帯
地衣帯
 山地植物帯の分類
  (2017・8・24 保坂作成)
(略)それが従来多少異なった意味に用ひられる様になって、高山の喬木生ずる所よりも上部を指す様になったので、此處に生ずる植物を Alpins plants 即ち高山植物といひ、高山上で高山植物を生ずる部分を高山植物帯又は略して高山帯といふのである。此高山帯の下部にはミヤマハンノキ、タケカンバ等の灌木が多いので、之を灌木帯として區別し、其以上に上って、主として草木や矮小な木本より成る所を草本帯と名づけ、更に上って顕花植物は著しく減じて、只岩上に生ずる地衣類のみを見る所を地衣帯と區別することが出来る。然し此の區別は従来學者によって銘々異るので。或人は此處に云ふ草本帯以上の植物を眞正の高山植物と呼ぶ傾があるかと思ふと、中には、ブナ帯の上の針葉喬木帯をも込めてそれ以上を高山帯と見做すのが最自然であると主張する人もある。
高山帯の直下が亞高山帯と呼ばるゝが、これは高山帯の定義次第で變化があるのは論をまたあない。前記の如く灌木帯以上を高山帯とすれば、その直下の喬木帯ー針葉喬木帯及濶葉喬木帯ーが亞高山帯に属するのである。そしてそれ以下は便宜上、山麓帯又は草原帯と稱するのである。予は山地植物帯を分って、一、山麓帯、二、亞高山帯、三、高山帯として、二を細別して濶葉喬木帯及、針葉喬木帯とし、三を細別して、灌木帯、草本帯、地衣帯としたい、そして夫以上は雪線以内に入る譯である。(略)以上述べた如く、高山植物の研究は範囲は甚廣いか、それに反して本邦では只僅に緒に就いた許りで、今後の研究に俟つべきものが甚多いのであるし、又其の研究たるや必しも専門家といって、植物學を専攻する人達に限るといふ譯ではなく、只綿密精緻を旨として、慎重な態度をとりさへすれば、どれもこれもとは言へないが大抵は普通教育さへあれば出来る仕事なのであるから、之を自然の愛好者に御薦めすると共に、斯の如く高山植物の研究がいくらも進んで居ない日本に於て、登山者が苟にも其の研究材料である高山植物を無意識に濫採絶滅して後来取りかへしのつかない様にしてしまふのは、日本の學術の發達を阻害するのであるから、決して大日本帝國の忠良なる臣民とは申し難い譯である故、斯様な不心得な人達に遭遇された場合には、よくこれを諭して、一には學門の爲め、二には帝國の爲め、三には山霊の爲めに、一本一草も心なく折り取り踏みにぢらない様に勧告されんことを御願ひして擱筆することゝする。(了)

   あかもの(自筆)
あかもの
(略)
アカモノの果實はシラタマノキの果實と同じく、誠によい味であるから食用とすることが出来る。そして其の風味は、日本産のシャクナゲ科植物(廣義の)中の白眉とも言ふ可く、コケモ丶だのスノキ等の果實と違って酸味はないし、種子を去ることも容易であるから、是等の植物の繁殖を計って、其の果實を以てジャムでも製したならば、甚面白い事と思ふが、一番奮發して試みる篤志家はなかなうか。但し此の場合単に自然にあるものを濫獲
しないで、充分植物を保護し其の繁殖を計る可きことを第一に念頭に置いて貰はなくてはならない。(武田)
甲州七面山の「御神木」と「萬歳草」
本會幹事の中村清太郎君が去る冬の間三月程も七面山上の寺に籠って油繪の大作に従事されたが、其の土産として予に一對の紙袋を贈られた。紙袋の表には、
  御神木  七面山
  萬歳草  奥 院
 と朱肉で印刷してある。中にはマッチの軸木程の木片一個と、大形の蘚が一個入って居る、そして此の木は七面山上に生ずるイチヰ即ちアララギの材であらうといふことであった。「御神木」なる木片は長さ四十七ミ、メ、約二ミ、メ、角の大きさで、木材を只荒く割った丈のものである、色は赤味を帯びて、一見アララギの材の様に見える。是が軟材即ち松柏科植物の材であることは、小口を一見して直に觀取することが出来るが、それと同時と年輪が対角線の方向に走って
(略)斯の如く御神木として販ぐものは常にカヤを用ゐるか、時にはアラアラギをも用ゐるか、或は通常アララギを用ゐ、時にはカヤを間違って使ふものか、一個や二個の僅少な材料から速断することは不可能だが、兎に角予が檢したものは上記の通りのものであることは事実である。
 
次に萬歳草とは何かといふに、これはカウヤノマンネングサに近似の一品で、コバノカウヤノマンネングサ一名ホウライゴケといふもので、カウヤノマンネングサよりも枝が細くて数も多く、雅致のある品で、深山には稀なものではない。斯様な穿鑿(せんさく)は何等の益がないと言はるゝ方があるかも知れないが、自分の様な物好な人間には何となく面白味がある、殊に斯様な名山の神符等に其の山の特産品とか又は特に多産する植物等を用ゐるのは、植物利用と言ては語弊もあらうが、何となく興味があるので、つまらぬ詮議もして見たくなる。信州戸隠山の神符には表山に多いクロソヨゴ一名アカツゲの葉が一枚入れてある(博物之友第七年第三十七號六一頁)のに反して、日光二荒山神爾には何も書いてない木のヘゲが心(しん)になってそれに紙が巻きつけてあるのは、何やら有難味が少なくなる。勿論神符等といfものは、中味な何でも宜しいのであらうし、又不可開なのであらうが、アダム イーヴ以来人間は何でも知り度いといふ慾(即ち美しく言へば知識慾)があるのだから致方がない。今げんに擱筆するに當って、同好諸君が類似の材料を供給して下さらむことを御願する。其の山の神符は何木何草であるといふ報告なり、又斯様なことをして山霊の罰も恐ろしいと思はれる方は實物を送られてもよい、さうすれば祟りは予一人で引受けて穿鑿や報告の勞を敢て致します。(武田)
  穿鑿(せんさく):(穴のない所に穴をあけるように)手を尽くして、たずね求めること。細かい点まで根ほり葉ほり知ろうとすること。
神山寅吉の訃(全文)
山案内として、神山寅吉の名を知る人は少ない事と思ふ。今から一四五年も前迄、日本山岳会が未だ存在して居なかった頃、日光の山々に登るのに自分は、常に此の男を使用した。小柄な男で、其の名に似合はず温和で、山が好き植物が好きといふ點に於ては、賃金を第一の目的として山へ行く案内者とは、大分選を異にして居た。客がなければ自分一人で山へ行く、そして、何か珍しい草でも見付けると大喜びで採って帰って、其の名を教はっては楽しみとして居た。明治三十五年の秋九月、志津から太郎山の方面へ一人草木を探しに入って、針葉樹林の中で一種の奇植物を発見した。此の標本は直様故五百城文哉が写生した上、牧野富太郎氏の検査を乞ふ事となって、間もなくこれが日本に於いて未発見の一蘭品であるとわかり、発見者の名誉を彰表するが為にトラキチランと命名されることゝなった。此の写生図は今春の大会に小石川植物園から出品された高山植物写生帖に綴込まれて保存されてある。トラキチランは其の後秩父の雲取山に於いて会員の石川光春氏が発見され、又信州本澤附近に於ても発見されたが、兎に角邦産稀品中の一であることは確である。神山寅吉は十二三年來馬返しのつた屋で雑用をつとめて居つたが、本年六月某日気分が勝れないといふて、郷里上野(ウハノ・日光の稍下)に帰り、間もなく死去したとのことである。年は六十五か六であったと思ふ。天命を完うしての死ではあるが、山と植物とに関係の浅くない、そして自分とよく山中に苦楽を共にした事のある寅吉を失ふて、甚痛惜の情を禁ずることが出来ない。(武田)
3月15日、木暮理太郎と大菩薩峠から黄金沢へ山の縦走予定だったが降雪のため柳沢峠ー丹波山(野村屋泊)ー大田和峠ー鶴峠ー鶴川に沿って→長作ー上野原へ、
                 「回想の冬山・わが山々の思ひ出・「アルプ88号 小暮君と私(二)」より
(略)大正七年の三月中旬になって、漸く気運は熟した。私などに増して、この連嶺に注意を向けていた武田君は、既に御坂、道志、丹沢等の山塊を縦横に探られ、転じて大菩薩の連脈に足跡を印しようというのである。私は一も二もなく賛成してお伴することになった。生憎東京を出る時は雨であったが、裂石(さけいし)の門あたりから雪に変わり、ゴロタの一軒屋に休んで、朝食をとっている間に一尺近くも積もった。その時の雪片は、この冬東京に降ったような大きな牡丹雪で、見る間に二寸三寸と積ってゆくのに驚いた。これでは縦走など思いも寄らぬ、登山も暫く見込がない、それで丹波山へ踰えることにした。いつも午前九時を過ぎてついたことのない落合へ、十一時に着いたような仕末であった。
 雪の中を丹波川沿岸の絶景を賞しながら、ぶらぶら歩いて丹波山に一泊し、翌日大田和峠、鶴峠を踰えて、上野原から鉄路帰京した。
(以下略)       木暮理太郎著「大菩薩連嶺瞥見」より
4月、「植物学雑誌32巻376号」に「植物和名雑記(一)」を寄稿する。(二)は大正8年3月の項を参照
○しらねあふひ、○わたすげ、○かっこさう、○しんこまつ、○えにしだ
参考資料
:(略)因ニ記ス、日光山志ノ著者上田孟縉ナル人ハ、慈観僧正ト同一ナリト云フ。慈観僧正ハ日光華蔵院住職(現代ヨリ四代前)ニテ、当時ノ高徳トシテ知ラレ、後日光一山ノ学頭タリシ修学院ニ轉ジ、慶応二年八月(1866年)七十余ノ高齢ヲ以テ入寂ス。(略) 「○しらねあふひ」の項より
5月5日、赤坂溜池三会堂に於いて幻燈講演会が開かれる。
雷鳥と鳥類の保護 
高山植物保護の必要
インドカシミヤ山地の旅
獣医学士
理学博士

 内田清之助
 武田久吉
 石崎光瑤(原稿代読:幹事梅澤親光)
5月中旬、木暮理太郎と柳沢峠ー鶏冠山ー丹波山ー二俣尾へ「わが山々の思ひ出」より
5月、「ツーリスト 第六年第三号」に「丹澤山と塔ヶ岳」を寄稿する。
5月、「副業之研究 3巻5号」に「高山植物の研究」を寄稿する。p27〜31 pid/1522103
5月20日、名古屋市会議事堂に於いて第三回山岳講演会が開かれる。
名古屋に於ける第三回山岳講演会在名山岳会員の慫憊に由りて在名山岳会員主催第三回山岳講演会を同市市会議事堂に開く、今回は特に第二日を婦人のみ公開して、婦人の山岳趣味を涵養せんと計れり。
第一日 5月19日午後7時より開会
開会の辞
登山の注意
一週間の山の旅(幻燈)
石崎光瑤氏インドカシミヤ山地の旅 
会員 八木道三氏
幹事 高野鷹蔵氏
会員 福澤桃介氏
幹事 近藤茂吉氏
第二日 5月20日午後7時半より開会
開会の辞
日本アルプス
(幻燈講演) 
山岳と植物
(幻燈講演)   
会員 八木道三氏
日本山岳会幹事 高野鷹蔵氏
日本山岳会幹事・理学博士 武田久吉氏
                             「山岳 第12年第2・3号  会報」欄より
    
参考 「横浜開港資料館 久吉(文書類)No
641」に、 山岳講習会(名古屋市会議事堂に於いて、女性用入場券付案内)が記述されていました。
5月、「植物学雑誌32巻377号」に「ひひらぎなんてんノ原産地判明ス・舊世界産ノひひらぎなんてん属植物」を寄稿する。
  ひいらぎなんてん属(Mahonia) 注 学名の中のTAK表記TAKEDAのことです。
一、印度産ノ種類
M.napaulensis DC. ネパール
M.griffithii TAK. ブータン
M.qycnophylla (FEDDE) TAK.キャジア

M.Roxburghii(DC.)TAK. マニプール
M.acanthifolia G.DON.ネパール、クマオン、ダーヂリン

M.sikkimensis TAK. シッキム
M.borealis TAK.印度西北部ニ広ク分布ス
M.manipurensis TAK. マニプール
M.simonsii TAK. キョジア
M.Leschenaultii(WALL.) TAK.ニールギリ

二、支那産ノ種類
M.Beaulei CARR. 湖北省、四川省、広東省
M.Flavida SCHN. 雲南省
M.Forgii SCHN.   広東省
M.longibracteata TAK.雲南省
M.polyodonta FEDDE. 四川省
M.Scheridaniana SCHN. 湖北省
M.Gracilipes(OLIV.) FEDDE. 四川省
M.nitens SCHN.四川省
M.decipiens SCHN. 湖北省
M.hypoleuca SCHN.(=M.nivea SCHN.)雲南省

M.Mairei TAK. 雲南省
M.bracteolata TAK.(=M.caesia SCHN.)雲南省
M.dolichostylis TAK. 雲南省
M.conferta TAK.  雲南省

M.Hancockiana TAK.  雲南省
M.lomariifolia TAK.(=M.Alexandri SCHN.) 雲南省
M.Veitchiorum(HEMSL. et WILS.)SCHN. 四川省、雲南省
M.Fortunei(LINDL.) FEDDE. (ほそばひいらぎなんてん) 四川省
M.confusa SPRAGUE(=M.Zemanii SCHN.)湖北省、四川省
M.Fargesii TAK.四川省
M.Bodinieri GOGNEP. 貴州
M. Duclouxiana GOGNEP. 雲南省
M.eurybracleata FEDDE. 四川省
M.ganpiensis LEV. 貴州
M.setosa GOGNEP. 雲南省
三、台湾産ノ種類
M.japonica DC.(=M. tikushiensis HAYATA.)
M.lomariifolia TAK.(M.oiwakensis HAYATA.)

M.morrisonensis TAK.
四、シャム産ノ種類 M.siamensis TAK.
五、マラッカ産ノ種類 M.siamensis TAK.?
六、ビルマ産ノ種類 M.siamensis  TAK.
七、アナム産ノ種類 M.annamica GOGNEP.
八、ジャワ産ノ種類 M.sp. 標品未見ニテ種名判然セズ
九、フィリパイン産ノ種類 M.philippinensis TAK.(=M.philippinensis SCHN.)
                      「舊世界産ノひひらぎなんてん属植物」より
7月、武侠世界臨時増刊「登山探検画報」に「山岳を愛護せよ」を寄稿する。
7月26日〜8月6日、木暮理太郎と日野春→柳沢・雑貨店小池浅吉方(泊)→大武川を上流に→シラハリ平(ソウシカンバ)→早川尾根、無人小屋(泊)→ミヨシ沢→三階淵→広河原小屋(泊)→大樺沢―大樺ノ池→ハイマツ)北岳―小鞍部に野営(泊)クロウスゴ・ダケカンバ→間ノ岳―野営(泊)→(クロユリ)農鳥岳―広河内岳(ウラジロキンバイ)―大井川河原(泊)―西天狗→アイダレ沢→(ハイマツ)蝙蝠岳―塩見岳→タケ沢の源頭(泊)→北荒川岳―阿倍荒ー→三つ棟(むね)岳(泊)→横川岳→荒ー岳(伊那 荒倉岳)(ハイマツ・エゾムラサキ)→仙丈ケ岳→北沢峠(地ノ平)→北沢小屋(泊)→仙水峠(ハイマツ・地衣類)→小松峯(駒津峰)→甲斐駒ケ岳→七丈の小屋(泊)→屏風岩―柳沢→日野春(キスゲ)の大縦走。
     (東駒ケ岳でチョウセンゴヨウを採取自生していることを裏付ける) 「アルプ 90号 木暮君と私(一〜五)」より
     白峯北岳東南腹、約2800mに於いてハイマツの生態調査を行う。   
           
「続原色日本高山植物図鑑」より  
木暮理太郎との縦走中にハイマツの生態調査 
8月15日から10日間 柳田国男ら10名で内郷村調査を行う。(日本で最初のフィールドワーク)
    
柳田国男、草野俊介、正木助次郎、牧口常三郎、中桐確太郎、佐藤功一、今和次郎
      田中信良、小田内通敏、中村留治、石黒忠篤
 
地元側:鈴木重光、長谷川一郎 

8月、「山岳 第12年第2・3号」の会報欄に「名古屋における第3回山岳講習会」の開かれたことが記載される。
9月、「日本植物学雑誌32巻第381号」に「数種の極東産の植物について極東植物雑記」の研究報告を行う。 Notes on Far Eastern Plants1ー4
 注:欧文→雑誌では和文 2015.2.28 保坂
  
  「極東植物雑記(英文)」
「極東植物雑記」を記された冒頭部分
 別項欧文欄中ニ「極東植物雑記」ト題シテ掲ゲタルモノハ主トシテ顕花植物及羊歯植物ノ分類ニ関セル事項ニシテマヽ形態学上ノ問題ヲモ取扱フコトアルベシ。議論ハ英文ヲ以テ記シショクブツノ記相文ハ羅典文ヲ以テ掲グルコトヽシタレバ、和文ヲ以テ要点ヲ記シ、之ヲ雑録欄ニ載セテ一目シテ要領ヲ捕捉セン人ノ便ニ供スルコトヽセリ。番号ハ主文ノモノト同一トシ、挿図ハ主文ノモノヲ利用スルコトヽシテ、此処ニ再出セズ。
 一、しらたまのき。従来本植物ニ Gaultheria pyroloides Hook.f.et THOMS. ナル学名ヲ充テ来リシハ、ミクル氏ガ我ガ日本ノモノヲ印度産ノ植物ト同一ナリト考ヘテ、此ノ学名wp充テ用セシニ始マリ、マクスィモー
ッチ氏亦之ヲ襲用シタリシガ、印度ノモノハ雄蘂(オシベ)ニ二本ノ刺ヲ有シ、果実ハ藍黒色ナリト云フヲ以テ、予ハしらたまのきヲ新種ト認メ、之ニ Gaultheria Miqueliana ナル学名ヲ与へタリ。本種ハ北海道及ビ内地中部以北高山ノ亞高山帯ニ産ス。雪白ノ果実ナ初秋成熟シ、枝頭ニ累々タルハ甚美ナリ。  (以下、5品目の説明に入る)
しらたまのき (上記に記述)



たけしまやまぶだう


本誌第三七七号ニ中井博士ハ欝陵(ウルルン)島ノやまぶだうノ一新変種ヲ発表シテ、之ヲたけしまやまぶだうト呼バル。本変種又北海道本島ニ産シ、宮部博士及予ハ之ヲ札幌附近ニ得タリ、北海道ニハナホ他所ニモ産スルナルベシ。


ひめうめばちさう及ビひめみやまうめばちさう

Parnassia alpicola MAK.
 α.enoluta TAK.       ひめうめばちさう
 β.simplex HAY.et TAK
ひめみやまうめばちさう
こうめばちさう (省略)



しらねにんじんノ三品


Cnidium ajanense DRUDE
 forma a. nirmale TAK. しらねにんじん
 forma b. nirmale TAK. ほそばしらねにんじん
 forma c. nirmale TAK. ひろはしらねにんじん 
ひめいぬなづな (省略)
11月21日〜26、(27)日、木暮理太郎・浅井東一(東大植物学教室)・黒田正夫と四谷駅を夜に出発→初狩で下車月夜道を歩く→眞木→赤岩(あかや)ノ沢→雨のため桑西に戻り、小林仁兵衛宅(泊、霜に赤るんだ百目柿を炉で温めたり、干した舞茸の煮付けに舌鼓を打ったりして、満腹した上に安眠を得て、疲労を回復した)→茶臼沢→白岩(しらや)ノ丸→黒岳山→川胡桃沢ノ頭→(時間不足)→嵯峨塩鉱泉宿(泊)→小金(黄金 )沢山→大菩薩峠の縦走に成功ータケノカヤ川右岸→池之尻・亀井屋(泊、名物のワサビに舌鼓を打った。)→佐野峠ー猿橋・桂川館(泊)→上野原
     「わが山々の思ひ出・回想の冬山・「アルプ89号 小暮君と私(二)」より   宿泊数検討要 2014・8・31 保坂
12月、
「山岳 第十三年第一号 日光山の瀑布・高山植物雑記(一)」を寄稿する。
    また、同号に「【会報】神奈川県庁、横浜市役所主催山岳後援会」が掲載される。 
1919 大正8年 36
1月16日、浅川→小仏ー石老山ー吉野(泊)→生藤山ー三國山ー軍茶利山ー熊倉山ー栗坂峠ー南秋川の谷ー本宿(橋本屋:泊)ー沸澤の瀑→神ノ戸岩ー御前山ー北秋川に沿って→今熊山大権現→八王子→帰京。「わが山々の思ひ出・北相の一角・神戸岩と御前山」より
資料@ 推定 鈴木重光との出会い登山と植物 北相の一角」より (P170〜171の部分)
 
(前略)川原まで七十米許りある絶壁とも称す可き崖を、細い径を伝うて下って行くと、眼下には渡守の小舎が見える。此処は千木良村の字原村の下に当るので、渡しを俗に原下の渡しと呼ぶさうな。渡守の親爺は眼も口も引鈞た、見るからに恐ろしい人間で、夕暮などに一人きりで渡して貰ふのはちと薄気味がわるい位。著いたのは二時間四十五分で、まだ日暮には間もあるが、少時躊躇して居る中に、幸ひ一人の同船者が出来た。
 
石老山
 原下の渡しで同船した人は此の界隈に住むものと見えて、地理に精しい上に甚だ親切で、その御蔭で奥畑から間(あひ)ノ山を越えることに決める。桂川の右岸の土も石も皆凍ってカチカチした急な路を、自分が先になって登って行く。足駄履きの連れはこんな路に馴れて居るのか、いやに曲がりくねった路をスタスタ上るので、兎角靴の滑り勝な自分は後ろから追はれる様になって、息もつかずに直上七十米許りの崖を駈る様にして上がると、間ノ山の北麓の寒さうな斜面に、奥畑の人家が現はれる。部落の西端に近い人家の間から、間ノ山から流れ出る細い谷間の左岸を、眞上に見えるモミソを目当てにして上がれと教へられて、此の若い嚮導者と右左に袂を別つたのは、丁度三時であった。筧で引いた山の清水が農家の前の桶に溢れるのを一掬(ひとすくい)して、一と息入れ乍ら立留る。奥畑の主部は此の谷の右岸にあるらしく、その方から蓄音器の響きが聞こえて来る。今浪花節が終わったところで、引き続いて越後獅子が始まる。曲こそ違へ、こんな麗かな午後にグラモフォンを聞くと、何やら日曜日に英国の田舎へでも行った様な気がする。しかし今日は木曜だ、さうさう日本の田舎は毎日日曜なんだっけ(後略)
    
 嚮導先に立って案内すること。また、その人。
                         撮影2012・8・19
  
 千木良と奥畑を結ぶ渡しのあったところ  渡しからの道 右奥が重光の家、左は間ノ山への
 生藤山
(略)吉野から二十分許で澤井川を渡って日野の部落に入る。旭は平和な部落に暖かい光を投げかけて、如何にも新春らしい気持になる。此の辺では大人も子供も今日は破魔矢を作るに忙しい。雄竹を割って弓を造り、藪などに生えて居る箱根竹を四本そろへて矢を造り、之を恭(うやうや)しく山ノ神に上げるので、二十一日の未明には四方に向かって射るのだといふ。今しも向の農家から一組の万歳が出て来ると、四五人集まって日向ぼつこをして居た若者達が、万歳サンは初めてだから何か御目出度い物を安くやって貰はうと言ひながら銭をやると、二人は真面目で何か謳(うた)ひ出す。日野の鎮守御岳神社は左手の山腹にあって、数十階の石磴の上に立派な鳥居が立って居る。(略)
資料A「相州栃谷の山ノ神 P3」より
(略)
も一つ序でに記しておくべきは、津久井郡は、同じ神奈川県の中でも、他郡とは趣きを異にすることが多く、また、かつては津久井県と呼ばれたことがあるので、上記の古い棟札にはそのように書いてある。殊に山ノ神に関しては、一月十七日に弓矢を作って献じることは、大正八年一月中旬、沢井村で見聞した処であるが、それを二十一日の未明に四方に向って射る。そしてこの日には山ノ神は馬に跨って山中を駈け廻り猟に夢中になって、冠の落ちるのにも気がつかぬ程であるから、山に入るとその馬に蹴られて怪我をするから、入山はつつしむようにと戒める。それでこの日を山ノ神のお冠落しと呼ぶのだとは、戦争中吉野町で耳にした処である。この詞は今日では殆んど忘れられているが昔は津久井郡に接する高尾山の南麓の梅ノ木平でもそう曰われたと見えて、祠だけはそこに残っているが、意味はすっかり忘却されてしまっている。些細なことながら、記録して置くに値するかと思われるので斯くは
       昭和43年9月、「あしなか 山村民俗の会第110輯」に「相州栃谷の山ノ神」より
資料B「農村の行事と俗信 第十回  (三十)佛の年越しと山の神」より
(略)山の神の爲めに造る弓矢について、大正の中年に見聞した処であるが、相州津久井郡佐野川村日野では、一月十七日朝雄竹を裂いて弓を造り、篠竹で四本の矢を調ととのへ、之を山の神に献じ、二十一日の未明に、四方に向って之を射るのだといふ。
 注 この「生藤山」旅行は10月に発行された「山岳第十三年第三号」の中の「北相の一角」から時期を大正8年1月と考察しました。清水長明「武田先生と庚申塔」では(大正七年一月の旅)と記述されていますが、「北相の一角」冒頭の部分に「昨年の冬は暮のうちから飛出して、年賀と虚禮を避けると同時に、憧れていた山々谷々の景色に、都会の空気に疲れ切た頭脳を一新しやうと豫てから地図を相手に大計画をたてて居たが、旅行者を左右する一大威力である天候は、出発を一日々々と遅らせてしまった。それも元旦の午後から暴風雨が起るといった天候で、毛頭新春らしい気分にもなれず、病上りとでも行た調子で一両日を過もうちに、俗用といふ奴は遠慮なく襲ってくる。・・・(略)」と、あることから、この旅行は大正8年1月としました。   2014・9・19 保坂記
2月2日、第三回小集会に於いて「牛奥山の雁ノ腹摺について」の講演を行う。 正式題名は不明 検討要
参考ー1 「牛奥山の雁ノ腹摺について」(導入の部分)
 
雁ヶ腹摺といふ山峯については、私は可なり前から興味を持って居たので、先年甲斐に旅行の際山民に聞糺し等して、大体の位置を突き止め、又文献上に○索して、その結果を大正八年二月二日の本会第三回小集会席上に於て発表し、後本誌第十三年第三号に掲載することゝした。(略)  大正15年8月号 「山岳第二十年第二号」より
参考ー2 「牛奥山の雁ノ腹摺について」 追加 P63下段
 (こ)の席上で、腹摺の話をした後、列席された會員の中澤眞二君は、御坂山地に於て現に雁が腹摺をやって、網を以て飛雁を捉へ得る時點を精しく通知されたことがある。
                      
民俗学的に貴重な文献として追加しました。 2017・6・8 保坂 
3月、「植物学雑誌33巻387号」に「植物和名雑記(二)」を寄稿する。(一)は大正7年4月の項を参照
○をきん、○びゃくなげ、○にうめんらん、○はまなす、○ぶだう、○ころは、○しょりま
○かぐま、○でんだ、○なんきんこざくら
 また、同号にハマナスは浜梨子(ハマナシ)が本名であることを発表する。 
                                
「明治の山旅・札幌と手稲山」 P263より
3月下旬、武相境の低い山々山々を歩いてー上野原(泊)ー芦垣ー権現山ー扇山ー鳥澤ー小篠峠ー秋山ー上野原へ「わが山々の思ひ出」より
4月、「山岳 第十三年第二号 高山植物雑記(二)」を寄稿する。
4月下旬、大山→水小屋→煤ヶ谷村(泊)→半原峠→佛果山→宮ヶ瀬→鳥屋、宮の前(泊)→早戸川上流→滑り瀧ノ澤の山師の小屋(泊)→天候不順のため下山→  「わが山々の思ひ出」より
5月1日、編輯兼発行者高野豊三郎が、「日光町・國粹堂支店」から「日光山寫眞帖」を刊行する。(参考)
  
  
  日光山寫眞帖(参考)

 日光東照宮眠猫(参考)
 日本語(絵葉書の上段に表示)/眠猫。奥社入口なる坂下門前の廻廊の潜門にあり。名匠左甚五郎の作と傳へ三尺の童子も知れる名高き彫刻
 英語(絵葉書の下段に表示)/ 「
THE SLEEPING CAT(FAMOUS CARING) AT−IYEYASU TEMPLE,NIKKO.
日光杉並木 13 日光國幣中社二荒山神社 25 日光磐若の瀧
日光神橋 14 日光大猷廟仁王門 26 日光方等の瀧
日光相輪〇(とう) 15 日光大猷廟二天門 26 日光白雲の瀧
別格官幣社東照宮石鳥居及表門 16 日光大猷廟夜叉門 28 日光華厳の瀧
日光東照宮五重ノ塔 17 日光大猷廟唐門 29 日光中禅寺大平ノ霧
日光東照宮御手洗屋及輪蔵 18 日光大猷廟拝殿内部 30 日光中禅寺湖(南岸橋附近)
日光東照宮廻燈籠虫中鐘蓮燈籠 19 日光大猷廟皇嘉門 31 日光中禅寺湖歌ヶ濱ヨリ男體山ヲ望ム
日光東照宮陽明門 20 日光霜降の瀧 32 日光中禅寺湖上野島
日光東照宮唐門 21 日光含滿(がんまん)ヶ淵 33 日光湯の湖及湯元温泉
10 日光東照宮拝殿内部 22 日光田母澤御用邸
11 日光東照宮眠猫 23 日光裏見の瀧
12 日光東照宮奥社鑄抜門及多寶塔 24 日光中禅寺途上深澤渓
    注 1〜34の番号は配列を考察するためのもので、実際には付与されてはおりませんのでご注意願います。 2017・888・12 保坂
5月4日、「日本山岳会第十二回大会」が東京市赤坂区溜池町三会堂に於いて開かれ、地図類を出品する
松浦竹四郎 東西蝦夷山地理取調図 二十七冊 安政六已未、1859
松浦竹四郎 蝦夷闔境山川地理取調大樂?図 一冊 安政七庚申  万延元年、1860 
北海道廰発行 二十萬分一北海道地形図 全三十二図 第六刷明治四十年、1907
林子平 蝦夷国全図 天明五年、1785
藤田温卿 蝦夷闔境與地全図 嘉永六發丑、1853
小野寺謙 蝦夷海陸路程全図 安政二年、1855
開拓使 北海道國郡図 明治己巳二年、1869
著者不明 大日本全国之内出羽全図 明治元年? 1868
橋本謙 陸奥出羽国郡行程全図 明治以前
宮田彦弼 御寶播磨州郡邑與地全図 弘化三年、1846
著者不明 大日本九州之図 文化十年、1813
著者不明 新刻九州之図 文化十年、1813
著者不明 信州浅間大燒並上州吾妻郡大變之図絵(写本) 天明三年 1783?
林子平 無人島大小八十餘山之図 天明五年、1785
関口備正 府縣改正大日本全図 明治九年、1876
地理局地誌課 大日本國全図 明治十三年、1880
著色補記五萬分一地形図 四葉
Bartholomew:ーNew Reduced Survey:
     1. New Forest and Isle of Wight、
     2. Bedford、Hertford、etc 
     3. Surey
     4. Berks and Wilts

(書籍) Satow and Hawes:−Handbook for Central and Northern Japan.ed 1(1881)
                                       
 ;       :ed. 2(1884)
               
 Chamberlain and MasonーHandbook for Japan,ed 8(1907)
5月、東海道線の山北→玄倉村→山神峠→玄倉川上流→御本平(みもとだいら)→蛭ヶ岳→犬越路→上野田(泊)→上野原 「わが山々の思ひ出」より
参考@(略)明治卅八年の秋初めて訪ねた玄倉村に入り、山神峠を越して玄倉川の上流に入った。一と昔の静寂とは全く変って、この谷にも伐採は盛んに行はれ、製板、炭焼、刳物細工の工場や小屋が、ここかしこと並んでゐるには少なからず驚いてしまった。然しその爲め宿泊には便利で、殊にその頃には珍らしい登山姿の者は、大に歓待されたものであった。御陰で御本(みもと)の平から蛭ヶ岳あたりを歩きまはることは、實に易々たるものとなってゐたのは、聊か倦氣ない程である。(略)この山旅に際して、この山中到る所に杉の自生してゐることを確認することが出来たのは、大きな拾ひ物ともいへよう。  「わが山々の思ひ出 P152」より
参考A(略)大正七年八年へかけては機会に恵れて山神峠へ入ったり、蛭ヶ岳へ登ったり致しましたが、すでに此の時の山神峠に昔の俤はなく自然林も大分切取られ炭に焼かれて居ると云ふ有様で、非常に落膽致しました。蛭ヶ岳へは五月に入りましたが新緑が實に見事だったと記憶して居ります。(略) 
                  昭和12年 秦野山岳會編「丹澤」 「丹澤の昔を語る」より 
参考B山へは大正七年に初めてかついでいった。−前号で六年としたのは誤り−この年の五月、かねてねらっていた丹沢登山を決行することになり、辻本満丸氏のところに話に行くと、「君、そんな珍しい山に行くのにカメラを持ってゆかぬ法はない。ぼくのを借すからとってきたまえ。現像も引き受ける」と、しきりにすすめられ、それでは、ということになったのだ。    1963.5 「岳人 日本山岳写真史ノートD P93 編集部」より
        ※参考Bでは修正して大正七年としているが大正8年の5月が有力と考えられるが検討要 2017.3.7 保坂
5月中旬、駿河駅→世附川上流→大棚澤奥の製板小屋(泊)→山中湖畔の平野→籠坂峠→乙女峠→箱根・蔦屋で催された小島烏水の歓迎会へ→  「わが山々の思ひ出」より
5月下旬、駿河駅→世附川→大又澤→城ヶ尾峠→諸窪澤→竹ノ本(泊)→加入道→大群山→犬越路→神ノ川奥の伐採事務所(泊)→伊勢澤→蛭ヶ岳→不動ノ峯→丹沢三山→玄倉川奥の旧知の宿(泊)→鍋割→寄村→松田駅  「わが山々の思ひ出」より
5月、小泉源一が「植物学雑誌33巻389号」に「仙丈ヶ岳ノ針葉樹帯ニ高地要素ノ存在スルコトニ就テ」を寄稿、その中の一つに「しんぱく(Juniperus Sargentii TAKEDA)」を記述する。
8月、
小暮理太郎君と、白峯三山を縦走し、ついに広河内あたりまで行き、大井川の源流に下ってから、蝙蝠岳の尾根にとりつき、そこから塩見岳を経て、三峯川上流左岸の長い尾根を二日がかりで歩き、再度仙丈岳を南から登って北沢峠に下ったことがある。 「明治の山旅・「白崩山・甲斐駒・異同の実地検証」 P291」より
8月、辻本満丸に誘われ岩菅山に登る
第六回小集会、演題「上信国境の山旅」より
(略)
次で氏が大正八年八月中旬以後、豊野より安代温泉に到り、辻本博士の驥尾に附して、地獄谷に遊び、更に波坂を上がり手て澗満瀑、琵琶池、丸沼、蓮池、大沼池を探り、発補より岩菅山に登りて山頂の新石室に二泊し、雨を犯して裏岩菅に達し、其後単身発補より焼額に登りて奥高天原に遊び、琵琶池の西を匝(めぐ)りて草津街道に出て、熊ノ湯より笠ヶ岳に登り、又国境を上州に越ゆるの途次、渋峠より横手山に登り、葭ヶ平に下りて白根に上り、山頂を一周の後万座温泉に下りその附近を探勝の後万座川に沿ひて干俣に下り、上ノ貝を経て田代に出て、鹿澤温泉より湯ノ丸山に登りて新張(ミハリ)に下り、天候不良の為めに浅間以東を放棄して帰京されたる大要を、通路附近の風景約七十枚の写真を示して物語られたり、氏の経験によれば、岩菅山頂の石室は設計の法宣しからざる為め、最も不便不快なる建物なる由、又登山根據地として発補の天狗ノ湯、万座の日進館は推奨に値するものにて、鹿澤温泉は三年前焼亡後全く荒廃して未だ恢復するに至らず、宿泊地としては原始的なることを以て名のある熊ノ湯にも劣ること数等なる由なり。     「山岳 第十四年第一号」 P138より
(略)私の写真術は実に辻本君に負う処が多く、同君の手解きによって始めたものである。辻本君は大中小三四台の写真器を所持され、山岳写真には随分と努力を惜しまれず、時折素晴らしい作品をものされ、日本山岳会発行の『高山深谷』に採択されたのも少くないやうである。(略)岩菅登山は両三回行はれたらしいが、大正八年には私も誘はれて共に山頂の小屋に二三泊したことがある。安代から私は汗みづくになって波坂の急坂を登り、沓打の茶屋から琵琶池を経て発哺の天狗ノ湯へ徒歩したが、辻本君は沓野の馬子で八字髭を生した黒岩角太郎に口を取らせた馬に跨り、単衣にモンペイの涼しさうないで立ちは羨しかった。初めの日は角サンの案内で大沼を探り、沼の北端に立って瓢箪形の湖の一部を望見した。翌日は高天ヶ原を越し、梯子澤を登り、乗切りに達してから山脊を表岩菅に昇り着き、此処に新設された小屋を根據として兩の間を裏岩菅迄注意したのであった。最近の状態は知らないが、その頃の岩菅小屋は設計が甚だ下手で、内部は焚火の烟で呼吸が出来ぬ程であり、戸を明ければ寒気に苦しめられる有様であった。尤も現今は発哺から容易に日帰りが出来るから、こんな小屋は恐らく不用であらう。岩菅の山頂から、苗場山を望むのも辻本君の予定の内にあったらしい。だが私との登山の時には、去来する白雲の間から僅に望見出来たに過ぎなかった。苗場山の登山慾も辻本君は持合わせてゐたらしいが、あの頃は慈恵小屋は勿論、手狭な遊仙閣すら無かったのであるから、実行の機会は無かったのである。(略)
                        昭和16年3月 山岳第35年第2号 追悼 「我が山の友辻本満丸君」より
              登山の日時に就いては不明なため検討要す 2015・4・22 保坂
9月、小泉源一、「植物学雑誌33巻393号」に「日本高山植物区系ノ由来及区系地理」を発表、この中に、「TAKEDA」と名の付いた高山植物21種を記述する。
植物名(和 名) 植物名(学 名) 記 事
たかねひかげのかづら Lycopodium sitchense RUPR.var.nikoense TAKEDA
屋久島の頂上
あかもの Gauliheria Miqueliana TAKEDA
シンパク Jumiperus Sargenlii TAKEDA. ミヤマシャジン
タカネアヲヤギ Veratrum longebraeteatum TAKEDA
ミヤマチドリ Olatanthera Takeda MAX.
ユウバリガニツリ Trisetum laere TAKEDA.
オホヒゲガリヤス Calamagrostis grandiseta TAKEDA.
オクヤマガヤ Calamagrostis subbiflora TAKEDA.
アヲノガリヤス Calamagrostis viridula TAKEDA.
ヤマノガリヤス Calamagrostis variiglumis.TAKEDA.
ユウバリウヅ Aconitum yuparense TAKEDA. ユウバリトリカブト
カタヲカサウ・ツクモグサ Aconitum Taraoi TAKEDA.
シロモノ Gaultheria Miqueliana TAKEDA. シラタマノキ
ユウバリコザクラ Primula yubarensis TAKEDA.
ユウバリリンドウ Gentiana yuparensis TAKEDA.
ホウワウシャジン  Adenophora howozana TAKEDA. ホウオウシャジン
タカネヒゴタイ Saussurea kaimontana TAKEDA. ミヤマヒゴタイ?
タカネカウリンカ Seneeio  flammeus Dc.var alpina TAKEDA.
カラフトアヲヤギ Veratrum anticleoides TAKEDA.et MIYAK. カラフトシュロソウ
カラフトアオヤギソウ
カタヲカサウ Anemone Taraoi TAKEDA.
チシマニンジン Cnidium Tilingia TAKEDA.
9月7日、第五回小集会が清水谷皆香園に於いて開かれ「多摩川相模川の分水山脈」を講演する。
一、黒部川   木暮理太郎氏       二、多摩川相模川の分水山脈  武田久吉氏
9月10日、「日光山寫眞帖」が「下野三樂園販売部」より刊行される。 所蔵 桧枝岐村教育委員会
  

10月15日、日本山岳会の事務所が高野鷹蔵宅から武田博士宅に移行される
 
 『山岳第十三年第三号
この頃の雑誌「山岳」について
大正八年十月十五日、高野君の健康状態の関係で、日本山岳会の事務所が、急遽私の家に移り、それ迄遅刊に遅刊を重ねた『山岳』の発刊を取り戻そうと、全力をそれに傾斜した頃、相談相手は手近かな所に住んでいた梅沢君と、本郷の小暮君とであった。梅沢君は専ら会計の方をやり、小暮君は編集主任ということにし、私は庶務を掌った。然し雑誌の発行がその当時の会の唯一の事業とも言われる程の状態であったから、庶務だからと言っても、その方の仕事にのみ携わって居る訳にも行きかねるので、編集の仕事も半分以上は手伝わなくてはならない。そして原稿も自然に集まるのを待っている訳にも行かないので、自身筆を執る必要に迫られる。そんな事で、『山岳』第十四年第一号の如きは、雑録と雑報と会報五十余頁の原稿は私一人で拵え上げたし、第二号の雑録の半分は私の筆に成ったものである。その結果、第一号が二月、第二号が四月、
第三号が七月、また第十五年の第一号がつづいて八月、第二号が十一月と、それ迄は一年にやっと二号位しか発行できなかったのに比べれば、(略)     資料 「アルプ88号 小暮君と私(一) P66」より
10月22日、「山岳 第十三年第三号 雁ヶ腹摺考・北相の一角・高山植物雑記(三)・甲斐柳澤近況」を寄稿する。
  また、同号に、辻本満丸が「信州岩菅山梅沢観光が「白崩山の古道に就て、戸澤英一が丹澤山塊」を寄稿する。
同号には、(武田久吉氏撮影)として4枚の写真が掲載されています。
   
左から@岩菅山登路の一部平穏堰沿岸の濶葉樹林  A南面の鞍部ノッキリ(乗切)より仰げる岩菅山嶺   C岩菅山梯子(ハシゴ)澤の二重瀑
                                 B東館北麓清水の小屋場より仰げる岩菅山 

注 同号には辻本満丸の「信州岩菅山」と題する掲載があり、8月中旬に同行する。  2014・7・30→2017・3・7 保坂記
参考 また、辻本満丸撮影による茶屋の写る小仏峠の写真もあり。 高畑棟材著「山を行く」では明治43年6月撮影とある 2014・8・1 保坂記
10月、湯本→奥白根→上州側へ・御釜→遠鳥居→金精峠(金精神社)→湯元→日光
前略)過ぐる大正八年の秋十月、湯本から奥白根に登り、西に上州に降った時、山上で写した高山初冬の景の数多い貴重なフィルムを、鞄ぐるみ、他の登山用具や衣服もろとも、上野駅の小荷物係の御目に留った結果、巧なからくりで手際よく搾取されて以来、幾度か湯本を訪いながら、白根に登る機を得なかった。それが今回は恵まれた晴天の御蔭で、奥日光の巓から水の退いた菅沼を※1(げかん)したり、前々日通過した鬼怒沼を遠望したりすることが出来た。そして両毛の国境を辿って、金精峠の頂上に藪を分け、神様にふさわしくないロッグハウス式の金精神社に詣でたが、誰の悪戯かつまらぬ社殿を建てたものだ。私は何も似而非道学者をまねて、その神体を云々するのではなくて、建築の様式について言うのだが、神社礼拝が問題となる今日の時勢として、社殿の様式も顧慮されねばなるまいと思う。中の祭神は伊弉諾尊の権化でもあり、また猿田彦命とも言われている由緒あるものであれば、そしてまた最も神秘な力の象徴でもあれば、誰人と雖(いえど)もこれに額(ぬかず)くに異議のある可き筈が無い。
 初秋の湯本は静寂其者であった。たとえば現代の諸設備が整ったにせよ、俗人の喚きさえなくば、湯本は依然として仙境と呼ぶにはしかるに、繰返して言うが、しかるにだ、十三夜の月影を踏んで金精峠から降りて来て見ると、昨夜迄静謐であった湯本に、絃歌が湧いているではないか。
(以下略)  「登山と植物 尾瀬と奥日光を訪うて」より
    ※1下瞰(げかん)見おろす。上から下を見おろす。 
注意)尾瀬と奥日光を訪うて」の文中、金精峠から次にどのコースを辿られたを考察して見ましたが、上州行か湯本行か両方に
    読み取れましたので再検討要  2014・12・9 再読 
登山コース確定(下記に記す)する 2015・4・19 保坂記
コース設定の根拠 「山岳 第十四年第二号 大正九年四月号 ○会員通信」欄 P120 より
△昨日単騎食料防寒具等を背負込みて白根山に登る、九月の大洪水にて白根澤大分荒れたると(略)白根山頂より上州に下り、御釜を横ぎり密林を穿ちて遠鳥居に下りる。帰途清水より、日暮れ例の提燈を点して金精峠をこゆ、日光八合目(?)以下の路全く流失し(九月の大雨にて)澤を下り不少大困難を営む。(略)本日中禅寺以下は大霧なり、それを通じて午後日光に着く。(八年十月二十四日日光にて武田久吉)
 
11月9日、「第六回小集会 紀尾井町皆香園」に於いて「上信国境の山旅」を講演する。
演目  高山植物の栽培に就て 農学士 辻村伊助      上信国境の山旅 理学博士 武田久吉
出席者/戸沢英一・黒田孝雄・沼井銕太郎・堀亀雄・宮本璋・中村孝二郎・森喬・村越匡次・山本宣次・青木軍二郎・M名増雄・横山光太郎・高橋トミ太郎・宏直弥・酒井忠一・武井真澄・佐藤文二・山崎武二・三宅驥一・松本善二・木暮理太郎・近藤茂吉・武田久吉・辻村伊助の二十四名及会員以外の来会者五名。
「上信国境の山旅」講演の後半部から
(略)次いで氏が大正八年八月中旬以後、豊野より安代温泉に至り、辻本博士の驥尾に附して、地獄谷に遊び、更に波坂を上がりて澗満瀑、琵琶池、丸沼、蓮池、大沼池を探り、発哺より岩菅山に登りて山頂の新石室に二泊し、雨を犯して裏岩菅に達し、其後単身発哺より焼額に登りて奥高天原に遊び、琵琶池の西を匝りて草津街道に出て、熊ノ湯より笠ヶ岳にに登り、又国境を上州に越ゆるの途次、渋峠より横手山に登り、葭ヶ平に下りて白根に上り、山頂を一周の後万座温泉に下り、その附近を探勝の後万座川に沿ひて干俣に下り、上ノ貝を経て田代に出て、鹿澤温泉より湯ノ丸山に登りて新張(ミハリ)に下り、天候不良の為めに浅間以東を放棄して帰京されたる大要を、通路附近の風景約七十枚の写真を示して物語られたり、氏の経験によれば、岩菅山頂の石室は設計の法宣しからざる為め、最も不便不快なる建物なる由、又登山(略) 大正9年2月号 山岳第十四年第一号 「第六回小集会記事」より
○この年、上青根の井上喜助宅を再訪し思い出話に花を咲かせる。
検討事項 「私は大正8年頃、玄ー川の上流の熊木沢から蛭ヶ岳に登り、帰途中川から犬越路を越え、青根に来て、井上家を訪ねたが、大そう歓迎して下さって、特に白米を炊いてくれられたのには、大いに恐縮したことであった「明治の山旅・蛭ヶ岳を志す」より5月は2回、丹沢に来ているので、井上家には何時頃訪ねられたか 検討要
〇この年、関東水電(株)が、尾瀬ヶ原から利根川に導水して発電する事業計画をたて、そのための水利使用を関係(福島県・新潟県・群馬県)知事に申請を行う。
1920 大正9年 37
2月8日、木暮理太郎が、「第七回小集会 紀尾井町皆香園」に於いて「皇海山(すかいさん)に就て」を講演する。
皇海山(すかいさん)に就て 木暮理太郎氏 
 氏が昨秋該地方に行はれたる詳細の旅行談にして、此多くの人には名さへ耳遠き山岳を充分に紹介したるものと云ふべく、此山は庚申山の奥院なりし事を断ぜられたり、追て此記文は山岳誌上に掲載せらるべきも、其暴雨中のシノヤガミの一夜の如き、集会出席者以外には受け難き興味ある談なりき。

出席者二十八名辻本満丸・松本善三・小林修明・藤島敏男・黒田孝雄・伊藤新三・横山光太郎・村越匡次・武井真澄松井幹雄・又木周夫・高田達也・鳥山悌成・日高信六郎・谷内重夫・今村巳之助・高頭仁兵衛・木暮理太郎・田部重治・武田久吉・梅澤観光      山岳 第十四年第二号 会報欄より
2月15日付、辻村伊助が博士宛に書簡を送る。 
   「高山植物」改訂に関する意見  横浜開港資料館所蔵 久吉書簡No1075 内容未確認 2017・6・9 保坂
2月15日、「山岳 第十四年第一号」に、「神戸岩と御前山(一)・一二山湖の名称・コンパの意義・四阿山上州方面の登路附旅舎の事・万田山卑考・伊豆の大室山」・甲斐柳澤の旅舎と人夫」を寄稿する。また、同号に辻本満丸が「信州笠ヶ岳と横手山」を寄稿、日高信六郎が写真1枚、武田博士が写真4枚(下写真)、辻本満丸が写真2枚を掲載する。
 
               2                3                4     5
     
  2・笠ヶ岳頂上の神祠    3・渋湯温泉寺附近よりの東南望。左端、坊平山・・・ 4・硯川附近より望める横手山 5・硯川附近より見たる笠ヶ岳 
4月10日、「霧の旅会」幹部の人々と、猿橋駅ー佐野峠ー麻生山ー大室(権現)山ー扇山ー鳥澤(泊)ー小篠峠ー無生野ー雛鶴峠ー盛里ー大月ー帰京
           
「わが山々の思ひ出」・「大正10年1月第6号 「霧の旅」/松井幹雄著「佐野峠から権現山」」より
4月、「山岳 第十四年第二号 神戸岩と御前山(承前、完結)・雛鶴峠・塩見岳なる名称に就て・二合半坂」を寄稿する。
   また、圖版 大岳山頂より望める御前山 御前山の神祠 御前山頂より大岳山 も収録する。 
圖版未確認 2017・11・29
資料ー1 二合半坂
 東京市中や近郊から望める主要な山岳については、本誌第八年第二号に中村清太郎氏が一と纏にして揚げられて以来、これが導火線となってか、望岳に熱中する人も大分出て来た様だが、其の前後からして同じ趣味の深い同人間の研究も益々歩武を進めて、第九年第一号には木暮氏の筆になる処の大井川奥の山々のスケッチが揚げられるし、第十年第一号には赤羽台からの大展望図が巻頭を飾り、第十一年の第二号には苗場山の発見といふ驚く可き報告が、鈴木牧之をして地下に驚喜せしむるといふ処迄進んで来たが、是等数年に亘る研究の結果は第十一年第三号に取纏められて『東京市内所望山岳高度表』として発表されてある。此の図の説明には二〇〇〇米以上の山岳六十三座を挙げ、且つ各山峯の眺望地をも併記してあるのは吾々望岳を無上の楽とする輩には寔に有難い次第である。(略)/二号半坂は私には親み深い坂の一つで、明治十九年頃、私が未だ小学校へも通はない頃から、晴天の日にはよく日光山を見やうと言て、此の坂の頂に立ったことの記憶が、其後に学んだ教科書の内容よりも遥に歴然と残って居る。加之此の坂の眺望は、目黒の行人坂の様に、見るもいやな「西洋館」で遮断されることなく、今でも晴天の日には日光山の半を、双眸に入るゝことが出来る。 (武田久吉)
また、同号に竹内亮が会員通信欄に「大正八年三月五日ニセイカウシベ岳の渓谷にて」を寄稿する。
   
注 表題名なかったので、末尾のところから引用しました。同所には大正七年十二月中旬以降公務を帯びて訪れています。 保坂記
   また、同号に古家實三が「天然林保護に就て」を寄稿する。
5月1日より10日まで、フランス山岳会主催による「万国山岳大会」がモナコで開催される。

フランス山岳会副会長にして連合国間の万国山岳会長ガベー男爵からの要請があったが「適当なる代表者を派遣する事不可能なれば、大会に列席することは見合すの止むを得ざるに至れり」と、2月14日付を以て地図を発送、「又同18日、武田幹事本会を代表してガベー男爵に宛てて祝辞を送り「山岳」前号一冊を発送したり。かゝる間にフランス山岳会は、本会名誉会員ウェストン氏を山岳大会に招待し、同氏は我が国山岳会の大要及び本会の成立に関して講演せらるゝこと」  山岳 第十四年第二号より
5月9日、「日本山岳会第十三回大会」が赤坂溜池町三会堂で開かれ下記の地図類や生植物を出品する。
山城名勝志 十五冊 正徳元年(1711) 北越雪譜 初編三冊 天保十三年(1842)
都名所図絵 六冊 安永九年(1780) 北越雪譜 二輯四冊 天保十三年(1842)
拾遺都名所図絵 五冊 天明七年(1787) 日光山志 五冊 天保八年(1837)
再撰花洛名勝図会 八冊 元治元年(1864) 利根川図志 六冊 安政二年(1855)
摂津名所図絵 十二冊 寛政十年(1797) 富士根元記 一冊
和泉名所図絵 四冊 寛政七年(1795) 日本名山図絵 三冊 文化元年(1804)
河内名所図絵 六冊 享和元年(1801) 日本山水名區 二冊
伊勢参宮名所図絵 六冊 寛政九年(1797) 小笠原眞図 一冊(写本) 文久元年(1861)
近江名所図絵 四冊 文化十一年(1814) 養滿徳志
(日本奥地通志畿内部大和図)
二冊 享保二十一年(1736)
紀伊国名所図絵 五冊 文化八年(1811) 肥前豊後風土記 一冊
紀伊国名所図絵 二編五冊 文化九年(1812) 常陸風土記 一冊 天保十年(1839)
紀伊国名所図絵 三編七冊 天保九年(1838) 播磨国風土記 一冊
紀伊国名所図絵 後編六冊 嘉永四年(1851) 伊豆海島風土記 一冊
播州名所巡覧図絵 五冊 享和三年(1803) 武蔵野話 四冊 文化十二年(1815)
芸州厳島図絵 十冊 天保十三年(1842) 寸簸之地理   ※寸簸→吉備 二冊 安政七年(1860)
阿河名所図絵 二冊 文化八年(1811) 厳島道芝記 四冊 元禄十五年(1702)
東海道名所図絵 六冊 寛政九年(1797) 信貴山縁起 三冊 享保六年筆
木曽路名所図絵 七冊 文化二年(1805) 皇国道中早見一覧 一冊
木曽街道図絵 二冊 明治二十七年飜刻 大日本地図道中記 一冊 明治十二年(1879)
国芳木曽街道六十四次 一冊 五海道中細見記 一冊 安政五年(1858)
東国名勝志 五冊 宝暦十二年(1762) 諸国道中袖かゝ見 一冊 天保千年(1839)
銅版袖珍日光名所図絵 二冊 明治十五年(1882) 東海木曽両道中懐宝図鑑 一冊 天保十三年(1842)
唐土名勝図会 六冊 文化二年(1805) 東海道巡覧記 一冊 寛延四年(1751)
松島図絵 一冊 文政三年(1820) 吾嬬路記 一冊 享保六年(1721)
伊香保志 三冊 明治十五年(1882) ※1
甲斐叢書 前輯五冊 嘉永四年(1851) キミカゲサウ(函館産)
下野図誌 十二冊 文久晩年(11861) コメツガの新緑(三峰川上流産)
                          ※2
 ※1 With Camera and Rucksack on the Oberland and Valais by R.A.Malley
 ※2 Sapponaria ocymoides. Aredarin balearica :サポンソウ
また、同会場で講演会が行われる。
高層の気象現象   理学博士  藤原咲平        イエロウストーン ナショナルパーク(幻燈) 理学博士 中村清二
5月、松本善二と大月駅ー金山沢を溯って姥子山へは不成功(奈良子川上流の百間干場迄)ー初狩(泊)ー瀧子山ー大岩ヶ丸ー大蔵高丸ー焼山沢下る(農家泊)ー湯ノ沢峠ー白屋ノ丸ー黒嶽山ー大峠ー雁ヶ腹摺山ー姥子山ー奈良子川の谷に沿って猿橋(夜10時泊)ー百蔵山ーコタラ山ー扇山ー帰京「わが山々の思ひ出」より
6月7日夜11時、新橋駅に集合→松本善二と東海道線駿河駅(午前2時)ー明神峠ー三國峠ー山中湖ー石割神社→石割山ー鹿留山ー明見ー桂川沿いに小沼ー橋本屋(泊)ー前田巌(西桂村青年団長)と共に達磨石→石割権現→八十八体の石仏→岩屋の観音→三峠権現→三ツ峠ー白糸の滝ー上暮地→小沼→谷村(泊)ー栃苗代→佛ヶ澤→奥の院御正体大権現祠→御正体山ーズサ山ー谷村→(馬車鉄道)→大月ー帰京。 
            この登山については「山岳 第十五年第一号」の○会員通信欄にも詳しく掲載されていました。 保坂記
            考 横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))No693−6 「甲斐神鈴峰之圖」を所収
6月13日、紀尾井町清水谷皆香園に於いて午前中、山岳会幹事会が行われ、木暮・高野・高頭・武田・田部・梅澤が出席する。午後から、第九回小集会を開催、下記の講演会が行われる。
    一 武蔵野の逃水に就て  理学士 梅澤親光    二 木曽山脈の地貌発達に就いて 理学士 辻村太郎

当日の出席会員名酒井忠一・別宮貞俊・高畑棟材・黒田孝雄・松本善二・伊藤新三・五十嵐芳雄・村越匡次・高田達也・松宮三郎・六鵜保・青木軍二郎・松井幹雄・又木周夫・沼井銕太郎・茨木猪之吉・郷郁三郎・辻村太郎・田部重治・梅澤観光・高頭仁兵衛・木暮理太郎・武田久吉・会員外四名
7月17日〜24日、木暮理太郎、藤島敏男と、上野発(夜11時30分)高崎行→高崎→渋川→沼田町羽鳥屋(朝食)→小日向→藤原・柳淀(林忠七方(泊))→横山→西ノ橋→上ノ原→須原の麓→十二様の小石祠(イワハゼ)→湯ノ小屋→旅舎大坪友三郎方(泊)→八谷越え(アスヒ・トチノキ・ミズナラ・ブナ)→午後、洞元ノ瀑→楢俣川の左岸に沿って下る→ナツギ沢→大芦→須田貝→一畝田→久保→横山→打上り(泊)→(21日より木暮理太郎、藤島敏男は利根川水源を目指し別行動)→平出(ひらいで)→青木沢→裏見ノ瀑→洞口(どうこう)→(にわか雨に遇い引き返す)(泊)→玉原越から天ヶ禿山へと志すが藪ふかく撃退→→23日午前2時50分打上りを出発→久保の猟師林主税宅→宝川の谷を遡り、笠ケ岳頂上ー清水峠ー湯檜曾・本家旅館(遅い時間のため宿泊を拒否される)→打上(泊) 
                   「寶川を溯って笠ケ岳に登る「回想の冬山」・ 「アルプ 92号 木暮君と私(四)」より 
7月17日、「成東町肉食植物産地(成東・東金食虫植物群落)」が国の天然記念物に指定される。
7月24日、打上→伽葉山の麓の東門→七谷越→滝沢 →天神→塩河原鉱泉→高平(泊)(台風の模様)→武尊神社→南郷との別れ道山師の小屋→大洞(だいどう)→青木→水沼→(汽車)→桐生(泊)→帰京
                   「アルプ92号 小暮君と私(四)」より
8月、「山岳 第十五年第一号 多摩川相模川の分水山脈(上)」を寄稿する。

     
多摩川相模川の分水山脈図(部分                ↑七国峠
 
百蔵山の中腹より扇山の西面を望む 殿山東腹より望める扇山及び百蔵山
  辻本満丸氏撮影      武田久吉博士撮影
(略)百蔵山上にも水は甚だ乏しくて、只、東南面八合目辺で宮谷川の源よりも稍上部に当って少量の水が湧出する所がある。水側には三四株の杉があるし、茶碗も備へてある。また観世音の石像一基此処に立って居るが、これは百蔵山の祭神ではなくて、実際の祭神は下和田に鎮座する百蔵山春日明神である。甲斐國志巻之七〇 百蔵山春日明神下和田井尻ニアリ本村氏神ナリ地蔵立像アラハハキ弐体衣冠形座像背後ニ文明(略)百蔵山は下和田から登るのが本道であらうが、猿橋からでは大神宮の側から北に道を取るのが一番近い。南面から
登る道もあるし、西麓葛野からの路もある。五月中旬にはヤマツツジの花で全山赤変すと云ふも誇張ではない位である。又東面の登り口から長尾山を経て扇山に登ることも易々たるものであるし、兎に角路は縦横に立て居るから、何れの方面からでも上下出来る。          「多摩川相模川の分水山脈(上)」より
 同号、「○会員通信欄」に、道志山塊研究登山報告(同年6月の記述)を行う。
9月、北海道帝大水産専門部講師。(至昭和10年11月)

9月、出口米吉著、「日本生殖器崇拝略説」が刊行される。
10月初旬、苫小牧を経て支笏湖畔に遊ぶ。  「山岳15年3号 雜録 通信欄」より
(略)フープシムプリ(1123米)の側面を仰ぎ足下に・コケモヽ・ガンカウラン・シラタマノキ・タイマイサウ・イタドリ等の浮石の燒野を飾れる天上の美観を擅(ほしいまま)にすることを得候時に十一時。(略)
11月、「山岳 第十五年第二号 丹沢山塊に関する資料・コロラド州内の高峰」を寄稿する。
12月、丹沢山塊の仮小屋に泊まり、ウラジロモミの葉に霧の凍るを観察、樹氷となるプロセスを体得する。    「回想の冬山」より
12月下旬、下暮地→三ッ峠、森林植物の越冬状態を観察する。→真木(農家泊)→鳥屋ノ丸→吹切(ふつきり)→雁ガ腹摺山→大樺の頭→七保村和田→猿橋 「回想の冬山」・「山岳 第十五年第一号」大正9年8月発行の会報欄より
連理の枝」の発見
大正九年の暮に、甲斐北都留郡廣里村桑西から鳥屋ノ丸に登る途上で、路傍にある小いブナノキの連理を見たのが、野外で出会った最初であったかと記憶する。   「昭和14年7月発行・ドルメン 7月号 P35」より
1921 大正10年 38
2月6日、麹町区紀尾井町清水谷皆香園にて「第十二回小集会」が開かれ講演を行う。
一、 温泉岳より鬼怒沼に至る話 木暮理太郎
二、 大菩薩山脈       武田久吉

 先づ、大菩薩山脈の主脈より説き起して、北は丹波川南岸の鶏冠山より南は笹子峠附近に至るものとし、此の連嶺を大菩薩山脈と稱するは、最高點大菩薩岳あるが為にあらずして、反て其名は大菩薩峠より導かれたるものなるを明かにし、峠の名の起源に就て述ぶる所あり、夫より連脈の各峰の稱呼及大體の地形を論じ、地圖に表はされたる誤謬を訂正し、足らざるを補ひ、更に支脈の重要なるもの二三に就て説明する所ありたり。何さま同地方を縦横に跋渉されたる氏のことゝて、其所説は聴講者を益すること多大なりき。
 當日の來會者は松本善二・別宮貞俊・濱名増雄・辻本滿丸・沼井鐡太郎・横山光太郎・松井幹雄・黒田孝雄・高畑棟材・高田達也・高橋〇三郎・神谷恭・飯塚篤之助・伊藤新三・鈴木u三・鳥山悌成・村越匡次・今村巳之助・又木周夫・藤島敏男・森喬・近藤茂吉・六鵜保・武田久吉・田部重治・高頭仁兵衛・木暮理太郎の二十七氏にして、會員外來會者九名也。
2月であったか、葛野川の上流から長峯(ながね)に上る途中で、枯れた連理の枝を発見する。
参考ー@「連理の枝」の発見
(略)斯く二株のものが連理となった例として大正十年の二月であったか、甲斐北都留郡を流れる葛野川の上流から長峯(ながね)に上る途中で、ツガの大木の枝と隣に立つリャヤウブの枝と相接して一部癒合したものを見て面白いと思ったが、ツガの枝は残念にも枯死してゐた。(略)  「昭和14年7月発行・ドルメン 7月号 P35」より
    考察 「2月であったか、」と記したように実際は3月4日〜6日の出来事と思われる。2015・6・5 保坂記
3月4日〜6日 霧の旅会の有志と木暮理太郎、最終列車で上野原下車、(博士は津久井郡佐野川村に在って一行と上野原で合流する)→小伏(こぶし)→三二山→栗坂峠(夜もほのぼのと明け始めてから、峠の浅間祠を後にして)→三頭山(頂上だけ少数のソウシカンバ)→長作→小佐野峠→佐野峠→猿橋・桂川館(泊)3月6日、佐野川村に引き返す(泊)→市道山→臼杵山→五日市(泊)→今熊山→刈寄山(かりよせやま)→森久保→底沢→寄瀬→帰京  「アルプ 92号 木暮君と私(四)」より 
3月15日、下野三樂園副園長今井徳順が「下野三樂園販売部」から「日光山寫眞帖」を発行する。
   
  
 日光山寫眞帖              扉 武田理学博士解説
  
  十五 眠猫
 全國に名高き眠猫は、東照宮の奥社に達する石磴登り口なる、坂下門前の廻廊に在る潜門の蟇股に彫刻せるものにして、名匠左甚五郎の作と云ひ傳ふ。此の猫あるが為に、日光の廟社は鼠害を被ることなしといふ。此の彫刻あるの故を以て此の門を猫門と呼べり。










At the bottom of the flights of steps,which give access to the tomb of Iyezasu,there is a smail gate called SAKASHITA MON.Just in front of this gate,and in the red paintel ioggia,there is a small door.(略)

勝道上人御像 十四 東照宮拝殿内部 二十七 霜降之瀑
開山堂 十五 眠猫 二十八 憾〇(かんまん)ヶ淵
杉並木 十六 東照宮多寶塔 二十九 裏見ヶ瀑
神橋 十七 二荒山神社 三十 中禅寺途上大谷の激流
輪王寺庭園 十八 二ツ堂及大猷廟仁王門 三十一 方等之瀑及般若之瀑
相輪〇(とう)及三佛堂 十九 大猷廟二天門 三十二 大平
東照宮石鳥居及表門 二十 大猷廟夜叉門 三十三 華厳之瀑
五重之塔 二十一 大猷廟唐門 三十四 中禅寺橋
東照宮御厩 二十二 大猷廟拝殿内部 三十五 中禅寺立木観音堂
御手水屋及輪蔵 二十三 大猷廟本殿 三十六 歌ヶ濱より男山を望む
十一 皷樓、廻燈籠及薬師堂 二十四 大猷廟皇嘉門 三十七 戦場ヶ原
十二 陽明門 二十五 慈眼堂 三十八 湯瀑
十三 (唐門) 二十六 田母澤御用邸 三十九 湯湖及湯元温泉
4月、「山岳 第十五年第三号 雑録 雛鶴峠追記」を寄稿する。
資料@「武田久吉先生をしのぶ 愛した山岳と高山植物 舘脇操(北大名誉教授)」と題した新聞記事より
<前略>私と先生との出会いは大正十年の春、先生が北大水産専門部で植物学を講じていた時である。日本水産植物学界の第一人者で学界の名物男・遠藤吉三郎教授のあとガマとして先生に白羽の矢が立ったのであった。先生は「高山植物が海にもぐるか」と苦笑されていた。私は先生とともに渡島・駒ガ岳や夕張岳連峰に入って、かなり精密な調査をしたが、そのとき先生はミヤマハンモドキを初発見した。すでにユウバリコザクラをはじめ、夕張岳の珍奇な植物を英国で発表し、本道の名峰夕張岳が日本に占める位置が確立されていた。またユウバリソウは後に宮部金吾先生とともに、先生を記念してラゴティス・タケダナと命名、後年、私自身が発見したテシオコザクラ(プリムラ・タケダナ)は、美しく気品があったので、ひどく先生を喜ばした。<後略>
     昭和47年6月20日付 北海道新聞(夕刊)
  参考 テシオコザクラ Primula takedana Tatew.
また、同号に竹内亮が「樽前山の近況及び支笏湖」を寄稿する。
4月、藻岩山にて「しらねあふひ 萌發」の写真撮影を行う。「高山植物写真図聚2 No290」より
5月、藻岩山にて「しらねあふひ 花」の写真撮影を行う。「高山植物写真図聚2 No292」より
5月上旬、久留島水産得業士と北海道洞爺湖の舟遊と有珠山の登山を行う。「北海の奇勝を探る」より
   同月、渡島駒ヶ岳にて「みやまはんのき」の写真撮影を行う。「高山植物写真図聚 P65」より
7月、北海道ウトナイ湖(沼ノ端)にて「うらじろたでとはまなし・むらさきたちあふひ」の写真撮影を行う。
 (略)この両種共に砂礫地を好むもので、寒冷な地方では相伍して生じ得るも、温度の更に高い内地に来ると、ハマナシは元来海岸植物であって、唯寒冷な汐流の訪れる沿岸地のみにしか生ぜず、その南限は日本海側では鳥取附近に、太平洋側では鹿島灘沿岸に達するが、ウラジロタデの方は沿岸地を離れて、唯高山上に生ずるのみであるのは、甚だ興味ある事実と称す可きである。 「高山植物写真図聚 P121と2−No338」より
8月、夕張嶽にて「ひあふぎあやめ・えぞつつじ・ふたまたたんぽぽ・たかねをみなへし・ゆうばりりんだう・ゆうばりこざくら・えぞつがざくら・ながはつがざくら・れぶんさいこ・しそばすみれ・ちしまいちご・くもまゆきのした・えぞのくもまぐさ・えぞいはべんけい・たかねぐんばいなずな・ちしまいはつめぐさ・ゆうばりかにつり・りしりびゃくしん・みやまいはでんだ・おおいはぶすま・えぞしほがま・なんぶいぬなずな」の写真撮影を行う。
参考資料 「三九三 ゆうばりかにつり」の項より
(略)
本植物も亦柳沢農学士の発見する処に係り、夕張山脈の特産種である。筆者はその新種なることを認め、カニツリグサ属」の一種として記載発表したが、一九二七年に到り、禾本科専門の本田博士は理由を明示することなくしてこれをコメススキ属に移すに至った。今暇にその説に従ふも、覆審の必要あるものと思考する。 所属ー禾本科。 学名Deschampsia Takedana,HONDA.    「高山植物写真図聚2 No393」より
参考資料 「高山植物雑記 十六 石倉岳の地衣」の項より
(略)
又前記 Umbillicaria のもは、矢張り北米に發見され東亜に分布する。 U,pensylvanica といふ種類があって、私は去る大正十年北海道の夕張山中に採取し、朝比奈博士の檢定を経てこの名が確定し、同博士によってオホイハブスマの名が與へられた。   S12・10 「山岳 二十二年 一号 P142」より
8月、小夕張岳にて「おにく」の写真撮影を行う。。「高山植物写真図聚2 No410」より
8月21日、旧長蔵小屋の前で平野長蔵翁の写真撮影を行う。
  
 舊長蔵小屋に於ける故平野長蔵翁
  (大正十年八月廿一日寫)
  



9月、北海道札幌住、末吉惣左衛門の五女直子と結婚する。
10月中旬、那須・三斗小屋→三本槍岳→大蔵場(テント)→鏡ヶ沼→大峠→那須・三斗小屋
(略)大正十年の秋、那須岳に登ろうと、地図を調べたら、二千メートルにも足りないのにマツの記号がある。多分は間違えただろうなどと、疑いの目をもっていたが、現地に臨んで、それがまごう方なきハイマツであるのに、かつ驚きかつ喜んだことである。(略)    昭和33年3月 東京新聞 日だまり欄 「山とハイマツ」より
※(略)大正十一年の秋十月、日本山岳会の藤島敏男、松本善二、下岡忠二氏等と、之を試みた時、到底短時間に山陵を縦走することの不可能を悟り、鏡沼に下って、大峠の道に出て三斗小屋温泉に戻るの余儀なきに至った。(略)  山と渓谷 No147 昭和26年8月 「那須の追憶」より  大正十一年もあり再検討要 2016・4・12 保坂
※(略)私の家には「はひまつ」が三鉢ある。その一つは大正十一年の秋。その頃は滅多に登山家に見舞はれなかった那須の旭岳から携へ帰ったもので、やっと二三寸程のものであった。(略)
  山 第2巻9号 昭和10年8月「無題」より 日本山岳会所蔵 大正十一年も那須岳登山の可能性あり  2016・6・3 保坂記
11月20日〜21日、八丁峠・黒岳・十二ヶ岳等、御坂山系の登山を行う。
11月20日 →午前3時より歩き出し9時、八丁峠着→藪の中を、御坂峠・(中食)→黒岳→河口湖畔→大石村・盛集館(泊)
21日 盛集館→十二ヶ岳に上り西に下る筈→(芦川渓谷)→(泊)
22日 →夕までに、甲府か石和に出る予定→帰京
             はがきの末尾に 「蜜柑が非常に甘いので大切に半分づゝ食べて居る。
            大正10年11月22日付 妻・直子に宛てた「郵便はがき」より
12月、「山岳 第十六年第二号 高見石と白駒ノ池・甲斐駒ケ岳の新登路」を寄稿する。
○この年、木曽御嶽山でもチョウセンゴヨウの自生していることを裏付ける。
       「続原色日本高山植物図鑑 増訂五刷 ハイマツの生態 P75」より 2016・5・11 保坂
○この年、谷村駅→道志山塊越え→上野田(泊)→姫次→蛭ヶ岳(撮影した山頂の石像は八王子由木村、竹内富蔵が寄進)→ボッチ沢出合小屋(泊)→大滝→鳥屋→与瀬駅
       道志と丹沢の山旅(山行メモ)」秦野山岳会会報No.18(昭和13年11月)掲載」より
       ※原本再検討要 特に薬師像の写真撮影時期また雛鶴峠を通過したか 検討要 2016・4・12 保坂
12月17日〜28日、「東京日々新聞」に「冬の登山」を連載する。 松井幹雄「霧の旅」より
1922 大正11年 39
1月、「東洋学芸雑誌 39巻1号 通巻484号」に「植物の祖先 p28〜34」を寄稿する。
1月13日朝6時、木暮理太郎と飯田町駅発→二股尾(終点)→氷川→日原・水元(みずもと)屋(泊)→仙元峠→蕎麦粒山(十二時五分同所着。撮影などして居る内に、同十五分信州の浅間山が大爆発を起した音を聞いた。)→向沢裏→尾根を棒ノ折レ山→雪が激しく降りそそぐ→有間谷→河俣・丸喜屋(泊)→名栗川に沿うて飯能→帰京。      「アルプ 92号 木暮君と私(四)」より  参考 妻・直子に宛てた郵便はがき 1月14日朝 日原にて
2月4日の夜行、木暮理太郎と、日野春→和田→若神子(ここには味噌なめ地蔵という妙な石地蔵がある。)→二日市場→中穴平→川俣→万年橋→下津金→上津金→樫山→小尾越路(おびくうじ)→御門(みかど)→東小尾→増富鉱泉・津金楼(泊)→木賊峠(ヤエガワカンバ、この木は、八ヶ岳の東側から浅間山の麓にかけて分布するが、西側に見ない。そしてまた甲州の西保(にしぶ))あたりから、乾徳山麓にも分布し、ここではミヤマの名で知られている。それをつい一両年前、埼玉県秩父郡の高篠村の山中、約八〇〇メートルの地に発見したのは意外であった。)→一七五五メートルの峯頭→下黒平(しもくろべら)→猫坂→御岳金桜神社・大黒屋(泊)→帰京。  「アルプ 92号 木暮君と私(四)」より 
2月5日、「東洋学芸雑誌」に「冬の三ッ峠山」を寄稿する。
3月、「東洋学芸雑誌 39巻3号 通巻486号」に「植物の祖先(二)p13〜18」を寄稿する。
特に紅雪についての記述/(略)パルメラ状になったスフェレラは啻に乾燥に耐ゆるのみでなく、氷点下の酷寒に遭ってさへ死滅しない、そして夫にはヘマトクロームの存在が大に于與するものと考へられて居る。而も此植物は元来が寒冷な地方によく棲息するものであるから、其一種は高山や極地の氷雪上にさへ盛に繁殖して、所謂紅雪をなすのである。斯かる地方では、日中太陽熱の為に氷雪が解ける時、紅雪熱植物は膜を破って遊出し、夕刻結氷に先立って再びパルメラ状に戻ることさへある。序に注意迄に言って置くが、紅雪植物は単にスフェレラの一種に限らない。これと縁の近い種々の属の者は、雪上に繁殖する能力を以て居るので、中には黄雪や緑雪さては黒雪さへをなす者もあって、其種類は多数に上るのである。(略)
3月、中井猛之進が「植物学雑誌 第四百二十三号 すみれ雑記(其一) 十二 かうらいたちつぼすみれ」の項の中で、「武田久吉君ガ平稲山デ採取シテ居ル」と記述、「かうらいたちつぼすみれ」の存在を紹介する。 注 平稲山は手稲山のことか検討要 2015・11・16 保坂記
3月5日〜8日、(木暮理太郎と待ち合わせたが、逸れたため一人行)上野発→熊谷→小海線松原湖(泊)→海尻→海ノ口→切荘→板橋・朝日屋(泊)→延山(のべやま)の高原→粘(ねんば)の高原(ヤエガワカンバ)→長坂駅→帰京。   「アルプ 92号 木暮君と私(四)」・大正7年3月3日 妻直子に宛てた「郵便はがき」より 2015・4・6 日時確認済 保坂
○3月〜4月の頃、丹沢山塊への小旅行を行う。「アルプ 92号 木暮君と私(五)」より 日時検討要 2014・9・4 保坂
4月、「學藝 39巻4号 通巻487号」に「植物の祖先(三) p130−131」を寄稿する。
   また、同号に鳥井龍蔵が「北樺太黒龍江下流の民族に就て(承前、完結)」を寄稿する。
4月、中井猛之進が「植物学雑誌 第四百二十四号 すみれ雑記(其二)を寄稿する。
 末尾に「以上九十六種二十九変種十異名トナル。斯ノ如キ多種ガ一地方ニ生ズル所ハ世界廣シト雖モ日本以外ニハナイ。日本ハ實ニすみれノ都デアル。(Notes on Japanese Violets.IIー T,NAKAI)」 と記述する。
4月29日〜5月6日、木暮理太郎・松本善二と(夜発、信越線高崎行に乗車、高崎から渋川へ→沼田)→勝沢→上牧(かみもく)→阿寺沢→小日向(ヤマブキ・タチツボスミレ・ラショウモンカズラ→アズマシャクナゲ)→谷川温泉(金盛館・泊)→割石沢→阿野川岳(笹・ブナ・アカツゲ)金盛館に戻る。※1

   金盛館をバックに 右から三人目 武田博士
アルプ 92号「木暮君と私(五)」 59P(原文)」より
※1 
折角阿能川岳の登山に成功したにもかかわらず、その晩から木暮君の健康が異状を呈するに及んで、私達は少なからず驚いた。正に鬼の霍乱である。どうも(高崎の)珍々軒のシナソバが原因らしい。そのため、大物の谷川富士は棄権するという。せめて一日静養したらばというので、翌日は三階の室に寝かせて置き、松本君と二人で谷川の上流を探ることにし、大体右岸に沿うて蹈跡を拾って行って見た。木の幹、花、新芽などを写すに多大の時間を費した後、昼頃帰って病人の容態を見ると、どうも一向に思わしくない。蓖麻子油がほしいというが、この部落では求めるに由なくて、湯原まで行かなければならないという。松本君を誘って、一緒に行こうというが、なかなか首を竪に振らない。止むなく午後になって私一人湯原へ買いに行って来た。それでも蓖
麻子油の効果はなかなか現われず、病人はどうも良くならない。天気も折角好くなったのに谷川富士の登山は思いもよらないという。余程気分が悪いものと見える。/二八 /五月三日の朝、本意なくも木暮君を宿に残し、松本君と二人で、谷川富士を登ることにして、浅間神社の傍を通って、ホドノ沢の右岸の怖ろしく急な尾根筋を登って行った。(略)           尚、写真は「アルプ159号 奥上州と上越境上の山を訪う」から引用させて戴きました。
→5月3日朝(上記からの続き)、ホドノ沢→(タカツボ沢の手前より雷鳴が轟き、大粒の雨が落ちて来たため引き返す。)→浅間神社※2→金盛館(泊)に戻る。
※2 今俗にいう谷川岳は、峯頭が二つに分かれていて、南峯には薬師仏を祀り、北峯には浅間を祀ってある。それ故、この山は谷川富士と呼ぶのが正しいことは論ずるに及ばない。若しその称呼が気に入らぬとなら、後閑あたりから遠望した姿に拠る「耳二つ」の名が適切と思われる。 「アルプ 92号 木暮君と私(五) 59P下段」より
→5月4日朝(上記からの続き、回復の徴候を見せない木暮理太郎は帰京→仏岩峠赤岩(あかや)・十二様の前の茶店で駄菓子を食す→永井(泊)→三国峠→法師温泉・長寿館(中食)荷物を取りに永井に戻る→湯宿(泊)→三国山で9枚続きの展望写真を撮影→帰京。
       
 「山への足跡」の中の「野辺山の原と十文字峠」・「回想の冬山」・「アルプ 92号 木暮君と私(五)」より 
 
この時、阿能川嶽・谷川富士(嶽)に於いて、「しゃくなげの蕾と花」の写真撮影を行う。
                                「高山植物写真図聚1 P127」より

 
この時、,三国峠で、「しゃうじゃうばかま」と、天神峠で「いはなし」の写真撮影を行う
                        「高山植物写真図聚2 No214・No340」より

5月、「蛭が嶽の薬師像」と題し写真撮影を行う。 
「山と渓谷 No143号 昭和26年4月号」より
グラビア写真掲載の全文 尚、本年譜での写真は昭和13年2月の項にも掲載しました。

 蛭が嶽の薬師像
  ツァイス ウナール16 ・アンティスクリーン2/1
 蛭が嶽を一口に薬師と呼ぶのは、頂上の南面に薬師仏を祀るからであるが、写真右端の像は「武州大澤住 先達 竹田富造」の立てたもので今は亡われて見るに山ない。翁は南多摩郡由木村大澤の人で、丸東なる講中の先達として、春の峯入りには三十五日間の難行苦行を続けたという。又塔ノ嶽の水場には嘉永元年二月から明治十四年四月迄に、六十三度尊佛に登拝した記念の不動尊を建立した。明治四十五年一月、九十歳の高齢で他界する迄、丹澤三山に信仰を集めたことは、稀に見る篤志の人である。    「山と渓谷 No143号 昭和26年4月号」より



5月、「學藝 39巻5号 通巻488号」「植物の祖先(四)」を寄稿する。
5月20日、東京朝日新聞社 福井晋太郎、武田久吉/山岳を中心に(執筆依頼状及び原稿) 状21 封筒1
研究資料 横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))No 566−1 「主人の原稿」と記された紙製箱に保管されている資料の一部
     内容未確認のため 調査要 2017・6・10 保坂

6月2日の夜行、飯田町駅→木暮理太郎とその義兄野田九浦の3人で日野春→若神子→二日市場→蓑ノ輪→長沢の「月ノ木館」で昼食→川俣川の左岸を渡り弘法水(レンゲツツジ・白いズミ・紫のフジ)→平沢→国界の蓬莱屋(泊)→袖先山→矢出原(ヤエガワカンバ・サクラソウ・サンリンソウ)→丸山(シラカンバ)→二ツ山を通過してミサワ川の右岸のウズミ原(ウマノアシガタの大群落)→御所平→梓山・信陽館(泊)→八丁ヶ原→十文字峠→(チチブシロカネソウ・アツモリソウ)栃本・大村方(泊)→強石(こわいし)→影森へ
                「山への足跡」の中の「野辺山の原と十文字峠」・「アルプ  2号 木暮君と私(五)」より
 
  矢出原から仰いだ八ヶ岳。左側の大木はヤエガワカンバ
(木暮理太郎氏撮影)「アルプ 92号 木暮君と私(五)  P61より

「木暮君と私(五)  三二 」より、冒頭の部分
 
袖先山で散々展望に耽った私達は、東北面に下がってから、矢出原牧場に通じる路に合して、三軒屋に向かった。空は限りなく晴れ、残雪をちりばめた八ヶ岳が眩しい程である。私は早速三脚を立てたが、木暮君はその木と人物を前景として、山を写した。それが同君の『山の憶ひ出』の下巻四六四頁に対して挿まれた写真で、あの日のよい思い出となった訳なので、 に再度掲出する。
 
※1:サクラソウやサンリンソウの繁る木立を通ってから、三人は丸山に登った。頂上にはシラカンバが一株立っていたが、今はどうなったか。ここを北に下ってから、二ツ山の小さな部落を通過して、ミサワ川の右岸に展開するウズミ原を通ったが、ここのウマノアシガタの大群落こそは、未だ他に見たことのない程の見事なものであった。(略)
 この時、,十文字峠で「つばめおもと」と、梓山で「べにばないちやくそう」の写真撮影を行う。 
                      「高山植物写真図聚2 No215・No227」より
 ※1:同じく、この時に撮影されたサクラソウの写真  
    
 高原に自生するサクラソウ    サンリンソウと混在するサクラソウ
  山梨県北巨摩郡平沢附近     長野県南佐久郡矢出原 
 





注 この時の、サクラソウにつきましては「遺伝」 S31・4月の項に記述しておきましたので。ご参照願います。  保坂
    「遺伝」 S31・4より   
6月6日、尾瀬ヶ原からの導水に関し関係知事が水利使用を許可する。
資料 長谷部俊治 「水利権とダム(2) −分水−」より
(略)
許可の際には工事計画は具体化していなかったが、分水量は毎秒6.12m3とされている。だが、後述するようにこの水利権をめぐって強い反対意見があり、工事着手に至らないまま、分水量を含めて尾瀬分水計画の具体的な内容は変更を重ねてきた。(略)
6月、「學藝 39巻6号 通巻489号」に「ナンブサウ」を寄稿する。

  ナンブソウ
  北海道定山渓上流にて
ナンブサウ −退化した奇植物−
(冒頭の部分)六月の初旬、札幌の西郊ハチャム川を遡って、テイテイ山麓を飾る森林に分け入るか、或は豊平川の上流定山渓の岸とかオタルナイ川の岸を彩る樹林に入ると、キミカゲサウの芳香を軽く下様な、奥床しい花香が、そよ吹く風のまに、どこからとなく漂うて来るのを感ずるのであるが、季節から言っても、亦産地から推しても、キミカゲサウである可き筈もないので、遠近を尋ねると果して縁深い樹蔭に、概形が瞥見ツタの葉に似た薄質の葉がモザイクをなす間から、細い金線の様な葉の頭に、碎小の
白花を穂に綴った、やさしい花が目を牽くのである。これこそ標題に掲げたナンブサウ一名ミツバサウと呼ばれる小草で、學問上甚だ興味深い植物である。(略)種々の點を綜合して比較研究すると、ナンブサウ属はイカリサウ属及びルヰエフボタン属と密接な類縁関係のあることがわかる。然し勿論是の両属からは可なりの距離を以て離れて属するので、其の中間に置かれる可き種属は已(すで)に絶滅したものに相違ない、又前記の諸属はメギ属と類縁関係を有するもので、分類学上ではメギ科(Berberidaceae)に改められるものである。
  瞥見(べっけん):ちらりと見ること。  碎小(さいしょう):
  参照 T4  植物学雑誌29巻346号 「achlys属について形態学的・系統的研究」
6月30日付、東京日日新聞発行所枝元長夫から博士宛てに原稿が返却される。
注意:同封された原稿名は「富士越し龍と笠富士 富岳に現れる雲の研究」と記されているが、原稿用紙(「山岳」仕様22×10)は28枚もあり、実際にその封筒に原稿が入るかが疑問、現在のところ、同名の論文の発行所、発行年が不明なため 検討を要す。 2017.6.19 保坂
7月、「科学知識 第2巻7月号」に「高山植物大観」を寄稿する。
7月、再度、八ヶ岳の本沢から硫黄岳に登山を行う。 「明治の山旅・八ヶ岳 P82」より
      
また、夏澤峠で「みやまぜんこ・しゃくなげ」を写真撮影する。「高山植物写真図聚 P106」より
7月、「學藝 39巻7号 通巻490号」に「海洋美と山岳美」を寄稿する。
    口繪 「直径四十三キロの距離にある御坊山巓より撮影した富士山の北面、赤石山上より見たる聖嶽
    注 御坊山は御坂峠のことか?2017・4・7   御坊山はJR中央本線笹子トンネルよりやや北上に存在を確認 2018・2・5 保坂
7月、「山とスキー 17号」に「樽前岳ドームの最高點より望めるフツプシ岳・樽前岳北腹より見たるフツプシヌプリの東面」の写真を掲載する。
また、同号に竹内亮著「私の觀た惠庭岳」に「しらたまのき・惠庭岳頂上・惠庭岳火山略圖」等の写真が掲載される。
8月、「賜皇太子殿下並各宮殿下台覧 學藝 39巻491号」に「天上の花園 p32〜38 」を寄稿する。
   
口繪 アルプスノの名花ヱーデルワイス―三色版       撮影者確認要 2017・4・7 保坂
口繪 
北海道手宮洞窟の古代文字御覽中の皇太子殿下 /武田博士撮影
口繪 
大沼に映じたる駒ヶ岳の峯影 / 武田博士撮影
(略)御花畑の本来人工的に平地に作られたものに命ぜられた名に相違ない。それが高山上の特殊な植物景観に適用されたのは決して近頃の事ではないと思はれる。さはいへ、立山とか白山とか、古来多数の人が、目的は別としても、登山を行った山岳上に、此名が用ひられて居たことは耳にしないが、予が知っている實例は日の御花畑である。日光山のは人も知る通り、今から一千一百五十餘年前、勝道上人が大心願を立てて遂行したもので、徳川氏が霊廟を築いたのはそれよりも遥か後代の天和三年に最初の造営が行はれたのであるから、やっと今から三百餘年以前に當たるのである。處で縁起と其時代は未だ詳にすることが出来ないが、恐らく東照廓建立以前に濫觸し、以後に於て更に大袈裟に行はれたと思はれる強飯(ごうはん)の式といふのがある。これは輪王寺本坊や別所などで行はれたもので(今では只本坊のみで行はれる)、日光三社権現や東照宮から賜はる飯を強ひる儀式である。其時一山の僧が山伏の姿にいでたち、恐ろしい形相で螺(ほら)を吹立てなどし、高貴の方へさへあら(〈)しく飯をすゝめるのである。其詞の一節に「・・・・くも當山の権現並に東照宮より賜はるところの強飯一杯二杯に非ず七十五杯一粒も残さずすると取上げてのめそう殊(こと)、更御馳走として中禅寺の木辛皮きがらかは、寂光の生大根、蓼の湖ノ蓼、瀧ノ尾の青山椒、御花畑の唐辛、霜降のごきのみいろ珍物を取揃へて下さる・・・・・」といふ中に「御花畑」の名が見える。これが抑々高山植物の特殊群落に御花畑の名を配した最初ではあるまいか。(略)
中禅寺の木辛皮きがらかは 現今でも同地で販賣する山椒の皮の醤油煮であるし、
寂光の生大根 寂光で大根を作ったことは略想像出来るし、
蓼の湖ノ蓼 蓼ノ湖に蓼は生じないが、是は地名をかくもじったものと思へば差閊へないし、
瀧ノ尾の青山椒 瀧ノ尾に山椒の野生するも事實であり、
御花畑の唐辛 此の「御花畑」は下界のではなくて、無理に唐辛の山地とされてしまったもの、
霜降のごきの 霜降にごきのみ(即ち、ツクバネ)の産することも誤りではないから、
     開闢(かいびゃく):天地のはじめ。     濫觴(らんしょう):物のはじまり。
8月6日から8月11日、木曽御嶽山に登る。
8月6日 自宅発→(夜行列車)→
7日 朝5時木曽福島着→七合目小屋・午後5時頃着(泊)
妻・直子に宛てた郵便 大正11年8月9日消印 より
昨朝五時木曽福島着黒澤口への道をブラ)/登山者はゾロ白衣が遠くから見えて 一寸見ものだ天気がよくて暑いので大閉口汗をしぼりつくしてから木立に入る五時頃七合目の小屋着大に優待され湯に入り酒を呑むで大に英気を養ふ/(略)
8日 朝6時頃・七合目小屋出発→御嶽頂上・10時40分着→二ノ池小屋(泊)
9日 二ノ池小屋→月ノ権現を祀った一峯に上る→二ノ池小屋(泊) 8日か検討要 2015・5・17 保坂記
10日 二ノ池小屋→二ノ池→三ノ池→四ノ池→五ノ池→継子岳→二ノ池で中食→六合目・田ノ原小屋(泊)
11日 六合目・田ノ原小屋→朝、八合目付近まで登り九時近く六合目に戻り 途中遊び(く)一時王滝口山麓に下りつき→只今 松原と云う旅館で中食→木曽街道の上(アゲ)松(泊)
実際に、駒ヶ岳に登られたかの検討   12日以降は検討要 2015・5・16 保坂記
「(略)駒に上るとすれば不用具は上松より郵送致す可く、左なくば 持返る考、若し小包が着いたら駒に上ったものと思はれ度し 木の枝が小包から出たらおして置くこと、暑くて 汗は出るが躰はピン、安心の事、十一日 王滝にて認(上松で出す)
     参考 消印に御嶽山とあるのは、明治40年以降夏季のみ山頂に開設される郵便局のこと。
12日 明日(予定)は、御料林視察→寝覚ノ床→未定(泊)
13日 (予定)→駒ヶ岳の山上(泊)
                妻・直子に宛てた郵便 大正11年8月9日消印  8月11日(上松で出す) より
この時、御嶽黒澤口行場小屋下の小湿原(海抜2180m)で「しらたまのき」を発見する。
        学名 Gaultheria miqueliana Takeda 「高山植物写真図聚1 P15」より

    また、御嶽で「高山帯のばいけうさう」と題した写真撮影も行う。「高山植物写真図聚2 No267」より
8月、「科学を基礎とした文化生活 1」に「二〇 山岳趣味」を寄稿する。
8月23日、山都→藤沢・相模屋(板橋音松)(泊)→一ノ戸川→飯豊山遥拝所→一ノ木→大岩神社→川入(かわいり)(泊)→8月25日朝、妻・直子に宛てたはがきより
(略)飯豊神社社務所を訪問して登山につき種々便宜を頼み(略)その頃から大分雨がはげしく降り出してはやんだ。神社では 毛布やら着茣蓙(きござ)やら貸してくれたので、それを負うて、十時過ぎ出発 二里余の道を山麓の川入りといふ村に向った。途上度々雨やみしたので時間がかかったが今日はあまり上らない御沢オサハといふ/山のとりつき迄位で泊る考なのでゆる行く其内雨は益々激しく少しもやむ間もなくなった 茣蓙と桐油紙(とうゆがみ)とで防いでも膝から下は可なりぬれた 午后二時すぎにやっと川入りにつき あと半里で御沢であるのだ/そこまで行くのも只ぬれる許りなのと小屋へ泊っては万事不便と思ひ川入りの人家で飯豊山参をとめる家へ厄介になることとしぬれたものを干した。ゆっくり休養したりした。(略)
川入→二ノ鳥居・天の狭霧神社→塩釜神社→御沢(おさわ)神社(ブナ・トチノキ・ホオノキ・センノキ・イタヤカエデ・ヒトツバカエデ・ハウチワカエデ・ウリハダカエデ・クロモジ・ハクウンボク・イヌガキ・オオカメノキ・エゾアオキ?等・ヤブコウジ・オオイワウチワ・シシガシラ・ゼンマイ・イヌガンソク等)→下十五里・宗像神社→中十五里・若木神社→上十五里・戸隠神社(イワハゼ)→横峯・八幡神社(ヤシャブシ・ノリウツギ・イワハゼ・クロソヨゴ)→地蔵山(ブナ・ノリウツギ・ソウシカンバ・ハクサンシャクナゲ・ウラジロナ・カマド・ミネカエデ・クロズル・イタドリ・モミジカラマツオヤマリンドウ・ミツバオウレン・カラマツソウ・オオバショリマ・オオイワカガミ)→血ノ池(ミズバショウ)(コヨウラクツツジ・ツノハシバミ・オオカメノキ・マルバマンサク・コシアブラ等・イワイチョウ)→剣ヶ峯(ホツツジ・ハコツツジ・コメツツジ・マルバマンサク・ブナ・クロソヨゴハナヒリノキ・イワハゼ・リョウブ・クロズル・オオヤマリンドウ・イワショウブ)・三国岳(ガンコウラン・コケモモ・ツガザクラ・スノキ)→箸ノ王子・神明神社(ヤハズハンノキ・マルバマンサク・ハクサンシャクナゲ・クロソヨゴ・クロズル・ミズナラ・ウラジロヨウラク・ウメバチソウ・オヤマリンドウ・アキノキリンソウ・ヒゴオミナエシ・ハクサンコザクラタテヤマウツボグサハクサンチドリミヤマコウゾリナ)→七森・菅原神社(キャラボク・ハイマツ)→種蒔・稲荷神社(ミヤマリンドウ・チングルマ・アオノツガザクラ・ネバリノギラン・ハコツツジ・マルバシモツケ・アラシグサ・ニッコウキスゲ・アラシグサ・クマイノデ・ホソバノシラネニンジン)→切合(きりあわせ)(ハイマツ・ソウシカンバ)→草履塚・剣神社(ハイマツ・イワオウギ・イワウメ・ウラシマツツジ・クロマメノキ・オヤマノエンドウ・ヒナマウスユキソウ・ムカゴトラノオ・タカネマツムシソウ等)→姥小屋・子安神社→御祕所(ごひそ)→御前坂(おまえざか)→頂上本社(泊)→(ハイマツ)大日→本社(泊)→御手洗→(ハイマツ)五王子・籠山神社→三角点(ハイマツ・ハクサンシャクナゲ・ガンコウラン・シラネニンジン)四王子(泊)→草履塚・七森等で写真撮影(オニシオガマ・カリヤスモドキ)・箸ノ王子(泊)ヨツバシオガマ・カニツリノガリヤス・アラシグサ・シナノキンバイ・ヒメウメバチソウ等・ソウシカンバ)→長坂・・・→弥平四郎→極入→宮古→山都→帰京
参考 教えて下さい(保坂)  「極入→宮古」間を結ぶ山道とは何処でしょうか
(略)極入から小一時間かかって、峠の頂まで上る。風はほとんでなくて、むされるように暑い。峠の上に辿りついた時には、荷を投出してひと休み。大日の脈は夕日にクッキリと浮かんで、青黒い山膚が雪多き頃の崇高さを思わせる。
 ひとしきり下ってからまたも小さい峠。それを降って宮古に入った頃にはもう暮色迫り、提灯を要するくらいとなったが、急行にはかえって邪魔とそのまま前進を急ぐ。道は宮古川の左岸に走って、近頃改修されたか幅広い易路である。
(略)   「山岳 二十年三号 飯豊山に登る」より  注意 「山への足跡」では二号と表示があり誤植を確認済 2014・7・26
 この時、飯豊山で「ちちっぱべんけいさう・しなのきんばい・えぞひかげのかずら・おにしほがま・にっくわうきすげ」と、飯豊山系大日岳で「みやまたねつけばな」の写真撮影を行う。
             
「高山植物写真図聚2 No223・231〜233・237とNo246・247」より
9月、「科学知識 第2巻9月号」に「アイヌ部落訪問記(一)」を寄稿する。
10月、「科学知識 第2巻10月号」に「アイヌ部落訪問記(二)」を寄稿する。
 (略)眼を閉じて静に黙想に耽ると、僅か二日の間に見たアイヌの生活から、思ひは飛(と)むで彼等の過去や未来に迄及ぶ。鬱々と茂った森林の中にゆたかに産した鳥獣を追ひ、青波満々たる河海に魚介を得て、原始的なそして地球上に生息した各人種が、何れも進化の一階梯として蹈むだ未開の生活も、時代の経つと共に昔の夢となり終ったのである。彼等は自然に親しみ、自然を考究して、利用厚生の道には努力を惜しまなかったに相違ない。牧畜を営む迄に進歩しなかったとはいへ、犬を馴致して、諸種の用を辨ずるに使用する程度には達したのである。植物を利用することは驚く可き巧さである。(略)漁労の発達につれて漁獲は増加するも、養殖の実が伴はないから実際の率は上って居ない。之が自然を征服しやうと企てた開拓の結果であると見ると、其手段は決して真実の科学的方法であったとは推定出来ない。単に北海道に限らず、十分蕃殖の法を講ずることもなくて乱獲乱採乱伐を行ひ、自然を蕩盡(とうじん)してしまふは決して科学的経営法でない證據である物質文明酔ふ結果として、科学万能を謳歌するも無理もないが、夫等(それら)の人士の考へる科学は眞の科学ではなくて、皮相の見地から履き違へた似而非(にせ)科学である。根本の研究に立脚した科学の応用ではなくて、目前の利益に眩惑した疑似科学である。眞実の科学ならば、自然を征服しやうなどと、空中楼閣を夢みる筈ではない。反(かへ)って自然を根本的に研究し、自然の懐(ふところ)に入って、自然に服従してこそ、其処に初めて自然の恵をよく覚(さと)り得るので、自然を征服し得たなどと皮相の喜びに酔ふ後には、自己滅亡の暗い陰影が、悪魔の如き呪(のろい)の手を伸して居ることを忘れてはならない。
 
物質文明、似而非(にせ)科学、そして是等に必然伴ふ処の、戦慄すべき精神教育の廃頽・・・・アイヌ種族の過去に対照して、熟考す可き我国の現在と未来・・・・熱い温泉に浸って居た体にも悪寒を覚えて、思はず浴槽から飛上った。 (了)  博士は温泉に浸かりながら自らに向け「眞の科学者としての心構え」を意識させました。(保坂付記)
10月、薩哈嗹軍政部の嘱託により、工藤祐舜・館脇操が「北樺太植物調査報告書」を刊行される。
10月、「學藝 39巻493号」に「植物の祖先(五)」を寄稿する。
11月、「學藝 39巻494号」に「果實と種子の散布 」を寄稿する。
12月、「科学知識 第2巻12月号」に「・乾海苔の話(一)」を寄稿する。
12月、「學藝 39巻495号」に「植物の祖先(六)・果實と種子の散布(二)」を寄稿する。
   

 前回に細説したスフェレラ科のものとは梢異った種類に、プラティモナスといふものがある。是は去る千九百十五年の五月に、筆者が英國バーミンガム大學に於て、故ウェスト教授の下に是等の微生物を研究して居る時、同大學の動物學教室で、蟹の一種の發生を実験する為めに海水を盛って放置したタンクの中に無数に發生したもので、恐らく此海水と共にタンクに入れたアヲサの一種に著いて、プリマスから来たものだらうと考へられたのである。此の原始植物は其當時研究の結果、學界未知のもので、而も新属を建つ可きものと決定し、翌年ウェスト教授が、Platymonas tetrathele といふ名で發表したものである。(第十五圖)営養體は自由に運動する微小なもので、長さは千文の十四乃至十六ミリメートルを算し、前述の諸種の如く球形又は圓じゅ形ではなくて、横から壓(お)された様に幾分扁平となり、横断面は略長方形を呈する。正面即ち幅の廣い方から見ると、大略楕圓形其幅千分の七半乃至八ミリメートルを算し、前後両端に向って丸味を以て尖るが先端には小さい凹窩があっ
て、其中央から四本の短い鞭毛が生じて居て、その長さは千分の九半乃至十二ミルメートル程である。(略)
                        
注 圓じゅ→円筒形 じゅ→漢字変換不能

○この年、「理科教育 第5巻第8号」に「高山植物」を寄稿する。
一、 高山植物とは何か 六、 高山植物の地理的分布
二、 高山上の植物帯 七、 高山植物と極地植物
三、 植物帯の高さ 八、 高山植物の生態的分布
四、 植物帯の境界 九、 高山植物の生態
五、 植物帯の特徴
九、 高山植物の生態」より
 高山植物の生態的分布も興味ある問題に相違ないが、各種植物の生態を検査して見れば更に興味の深いものである。生態上の問題で取扱ふ可きものは、例へば高山植物の花の大きさや花色の美醜、芳香と花蜜の多寡、紅葉の美と其原因、茎葉の短小なる特質や、葉面の縮小を補ふ構造上の特點、強烈な日光や劇しい蒸散に対する葉の保護、樹幹の形状と気象上の関係、根や根茎と土砂水濕との関係、更に進むでは地質と植物の種類の関係、種子の含有する油脂の性質、多年生草木と常緑木本の如き種々調査す可き問題がある。之を遺憾なく解決しやうとなると、単に暑中に遊山気分で登山したのでは不足である。出来れば四季を通じて観測を行ふ必要も起る。(高山植物の生活(態)ついての試験・略)について、本邦では此種の実験は平原の植物に於てさへ余り行はれて居るのを聞かないが、早晩此方面のも学者は申すに及ばず、自然に趣味を持つ人士が注意を向けられる様に切望する。そして其実験材料であり又一面に於いては国宝にも勝る貴重な高山植物を濫獲して絶滅させない様に、不断の注意を怠らないことが、国民としての義務であると考へられる、殊に高山植物を只美しいからといふ様な単純な理由で摘み取って、山岳の美観を減じ、他人の失望を買はない様に心懸けることは甚だ緊要である。高山植物に関して書く可きことは未だ山の如くある。然し貴重なる紙面を此上塞くことは不本意であるから、今回はこれで擱筆することゝする。発行月について未確認 尚、メモリアル・ガラスケース内に 同年7月発行の「理科教育」あるので確認要 2016・6・5 保坂
1923 大正12年 40 1月、「學藝 40巻496号」に「果實と種子の散布(三)」を寄稿する。
1月2日、午后三時、日光停車場より、妻・直子に郵便はがきを投函する。
(略)雪に見舞はれ今市では盛に降雪 日光も同様で二寸位積むって居る。これでは中禅寺行きは出来ても外山へは登れまい。幸に晴れてくれたら さぞ素晴しからう。
1月、「科学知識 第3巻1月号」に「乾海苔の話(二)」を寄稿する。
2月、「科学知識 第3巻2月号」に「雨水」を寄稿する。
2月、「學藝 40巻497号」に「果實と種子の散布 」を寄稿する。番号なしのため注意
3月、「科学を基礎とした文化生活 2」に「三八 冬の登山」を寄稿する。
3月、「科学知識 第3巻3月号」に「乾海苔の話(三)・霜と霜柱」を寄稿する。
      「乾海苔の話(一)〜(三)」の項目内容 
本場の浅草海苔 17 海苔抄(す)きの準備
淡水産の食用藻類 海苔ひび 18 海苔の漬け方
あをのり 10 ひびの建て入れ  19 海苔干す
あをさ 11 海苔の発育と肥料 20 干し上げと貯蔵
さくらのり 12 種子の亘りとひびの移植 21 特殊の乾海苔
うしけのり 13 海苔の期節 22 生海苔と佃煮
あまのり 14 あさくさのいの本體 23 其の他の乾海苔
あさくさのり 15 まるばあまのり 24 イヨヌイタサと千島海苔
浅草海苔の本場 16 浅草海苔の摘取
       注意 乾海苔の話(一)(二)(三)を一欄表にまとめたところ五番が重複していました。 保坂記
  
 あさくさのり養殖場         乾場

注意/左2枚の写真は昭和8年、「博物教科書 植物篇 修正再版」から引用しました。
乾海苔の話(一)〜(三)の内容は、国会図書館に収蔵されているマイクロフィルムから読み取りましたが、写真の状態が悪くそのまま掲載しても無用のような状態になっていました。その中でも、右の「乾場」の写真は、教科書の写真と同じ原板を使用したものと思います。また、遠景の「あさくさのり養殖場の写真は「乾海苔の話」の中で使用されていると思いますが黒くて確認が取れませんでした。
再検討要 2014・2・8 保坂記
研究資料
横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))No565−14
[海苔等製造風景写真] 包紙1 保管有 内容未確認
  2017・6・10 追記 保坂
 
  乾場
考察
上写真右は乾場と云われるところですが、下写真は、作業中の光景です。上図では海苔は埋め尽くされていますが下写真は未だ海苔が途中の段階であることが分かります。手前には養殖場を行き交うであろう手漕ぎの船が置かれています。海上に建つ右から三番目の柱にゴミのようなものが絡みついていることから、上写真と同ヶ所であることが推察できます。博士はこの作業が終わるのを待っていたものと思われます。写真の裏側に撮影日など記入されていればよいのですが、民俗学的に見ても大変貴重な写真となっています。

 「横浜開港資料館 久吉(原稿(著作))No565−14」より
 2017・8・14 保坂
3月、「学藝 40巻498号」に「果實と種子の散布」を寄稿する。番号なしのため注意
4月2日、日光輪王寺にて強飯式に、同夜は輪王寺の客分として本坊に泊る。「翌日は(中里)昌競さんと一緒に中禅寺により、歌ヶ浜に一泊の餘定に変更、」
                 消印判続困難のため再検討要 妻・直子に宛てた4月3日付、「郵便はがき」より 
4月17日、平野長蔵翁が武田博士宛に書簡を送る。 

                         所蔵 横浜開港資料館
   1923年4月17日、反尾瀬貯水池化計画に奮闘し保護財団設立に奔走する長蔵小屋の平野長蔵は
    久吉に手紙を送り、財団の顧問を依頼した
 アーネストサトウ図録集P116 発行 横浜開港資料館 H13・12より引用
参考資料ー@ 明治の頃の尾瀬の状況と当初の電源開発計画
 明治三十八年といえば、日露戦争の終った年で、この頃からそろそろ種々の企業が、戦勝の煽(あお)りを食って盛になり始めた。尾瀬沼の南岸から菖蒲平(あやめだいら)へかけての村有林が、民間人に売られて、伐木を目的の会社となり、それが殆ど失敗に帰してから、発電会社の有となったのもこの頃だと聞かされて居る。然し大正時代になっても、この会社は別段発電事業は行わないで、権利を売る機会を待って居た様子であった。一方尾瀬ヶ原の方も、幾筋かの流れが、原を貫流してから合して、遂に只見川の源流の赤川になるあたりを堰き止めれば、手もなく貯水池にすることが出来ようという素人の見立てがもとで、大正の晩年あたりにか、水電会社が成立した。然るにこれ亦何もせずに数年の歳月が流れ去り、その権利を継続するが為には、設計変更願の提出を餘儀なくされ、その書類が、国有林の関係から、東京営林局に廻附された。私が尾瀬と水電の悶着を始めて耳にしたのは、大正十三年の事であったが、第二回目は昭和二年この設計変更願に関連(続きは→昭和二年六月の項へ)
注 水電の悶着を始めて耳にしたのは、大正十三年」とありますが上記書簡から大正十二年4月とも考えられます。 2016・4・10 保坂
               昭和25・6山と渓谷 No133 「尾瀬ヶ原の回顧と水電問題」より
4月、「科学画報 第1巻 創刊号」に「櫻草のふるさと・プリムローズとその花の色」を寄稿する。
櫻草のふるさと」の項目別内容
三百年の昔から培れた櫻草
野生地はどこか
荒川のほとり
浮間の櫻草摘み
分布しらべ
自生地と生育のありさま
高原の櫻草
櫻草の故郷
海外の産地
プリムローズとその花の色
櫻草の故郷の項の全文
 筆者が實見したところから結論すると、高原に自生する桜草と、荒川沿岸に繁生する桜草とは、その生育の状に純自然と半自然の差が認められる。推測するに、戸田の浮間の桜草は、遠い昔に上流から、河水によって種子や時には根も運ばれて、生育に適した此の地に移住したものであらう。然らばその原産地即ち故郷はといふと、荒川の極の上流、秩父の奥で大約一千米前後の高距を有する地であらねばならない今日迄に得た報告によると、三ツ峰の附近大血川の奥にはその自生地があるといふ。未だ自ら花期に其地に臨む機会はないが、信ずるに足る報告であるから、原産地の一として此処を挙げることが出来よう。
 
此の推測が的中したとすれば、浮間や戸田や田島ヶ原は、桜草の第二次的野生地として、そしてそれが異常な発育を遂げた点と、且つ又斯かる土地の現今に於ける唯一の残存地として、それ丈でも確に保護の価値も十分にある。荒川流域の桜草がかかる有意義なものであると知れば、そしてそれが我が国土に発達した珍宝であることを知れば、浮間に遊ぶ人は只に其の地が一箇の遊山としてのみでなく、一の共同的国宝として、相倶に桜草の保護と繁殖を計らうではないか

荒川のほとりの項の一部
(略)筆者が初めて此の地を訪ねたのは、明治三十一二年の頃で、其の動機の主なものは、其の頃恰度恩師、故帰山信順(かえりやましんじゅん)先生が、志村の原で桜草の花の構造等を研究されたことであった。板橋駅を過ぎ、本蓮沼を経て清水坂を下り、坂下から(略)
 同号に挿んであった補稿  2013・12・20記す。
 

 
  信州の高原に おほしゆろさう かうやわらび等と交って
   樹陰の濕地に群生する桜草  (武田撮影)


5月、「科学画報 第一巻第二号」に「新緑の美」を寄稿する。
みどりの色 青葉薫る時節 面白い開野
驚くべき作用 木の芽草の芽 色彩の美
とりとりの新緑 冬芽さまざま 総括した美
総括した美」より(部分)
 (前略)春の新緑美が、秋の紅葉美と大に異なった点は、後者が固定された。静止的の美であるのに反して、前者は可動的な力強い美であることである。そしてその何れも其々の特長を備へて山野を飾り、それに対して些なりとも関心を持つ吾々に、心の糧を無限に與へて呉れる。そして草木の種類に富むことでは、世界で屈指の我が邦では、新緑にせよ、紅葉にせよ、その美観は、欧米などは較べ物にならない。
5月、「山岳 第十六年第三号 宝川を溯りて笠ヶ岳に登る・利根川上流の方言二三・藤原より武尊山への登路・玉原越」を寄稿する。
   
また、同号に木暮理太郎が「利根川水源地の山」を寄稿する。
5月、「学藝 40巻500号」に「果實と種子の散布」を寄稿する。
6月、「東洋学芸雑誌改題 学芸 第40巻第501号」に遺跡紀行 勝頼の終焉 武田」を寄稿する。
    また同号に、金田一京助が「アイヌの神話の話」を寄稿する。
自然界の征服は果たして誇大妄想か 理学博士
農学博士
松村松年 人体に異種蛋白の侵入した時起る変化 医学博士 三田定則
動物の眼 理学博士 石川千代松 家族制限策の変遷 理学士 山本宣治
流氷の諸現象 工学博士 宮城音五郎 アイヌの神話の話 文学士 金田一京助
新発明と新発見(一) .・ X Y Z 日本人の身長に就いて 松村瞭
林産物需給関係と木材防腐保存法 林学博士 三浦伊八郎 童劇レコードの品藻 医学士 高峰博
厭はるる雨、感謝さるる雨 医学博士 佐々木秀一 台湾音楽考 理学士 田辺尚雄
食堂の装ひ 工学博士 佐藤功一 「遺跡旅行」勝頼の終焉 理学博士 武田
電熱式電気冷蔵庫 工学博士 伊藤奎二 独逸の物価 医学博士 佐々木秀一
植物病害防除法 理学博士 白井光太郎 神秘なる生命と科学 薬学士 檳榔子
書画の眞贋を識る最も便利な方法 理学士 竹内時男 海外雑爼 理学博士 彳テ子
           注) 武田文吉となっているのは誤植、本文は久吉の名  2014・8・22 保坂記
6月、純白のアツモリソウの幾株かを携え、辻村伊助の箱根高山園を訪ねる。
6月、「科学画報 6月号」に「北海の奇勝を探る」を寄稿する。

 寄稿文は「地理・狩太へ・留寿都へ・洞爺に向かう・雨の洞爺湖・泥流と爆裂口・湖上の島嶼・有珠岳登山・大有珠登り・大有珠の頂上・下山・屏風岳と善光寺」で構成されています。下 記の項は「湖上の島嶼から、円空仏の部分を掲載しました。
 「湖上の島嶼より
 (略)神堂島(カムイチセモシリ)は廻り八丁、ここに一つの堂があって、寛文年間濃州竹ヶ鼻の僧円空が鉈彫りの観音を安置している。円空は諸国の高山を廻り、常に一挺の鉈で仏像を刻むのであったが、北海に渡ってからは太田山、シュマコマイ、蟻谷、夕張、恵山、樽前、山越内等で仏像を作り納めたが、後この島に久く住居して種々の奇瑞を蒙り、観音の二体を作って一体をこの島に安置し、他の一体を礼文華(レブンゲ)の窟に納めた。老いて後濃州に帰り江州伊吹山に入って平等岩という窟で入定したという。その頃今釈迦または窟の和尚と尊称されたと伝えられる。手作りの仏像は粗い中に非凡の技巧があるので尊信の念を起こさせるという。  「北海の奇勝を探る」より
7月、「学芸 第40巻502号」に「北海の名勝支笏湖  武田」を寄稿する。
[「学芸」に発表された論文 1922・1〜1925.6 国会図書館デジタルコレクションより
発行年月 雑誌名と巻号 寄稿したタイトルの名称 Inf−No
1922年1月 東洋学芸雑誌339巻1号通巻484号 論説 植物の祖先(P28〜34) 3559442
1922年2月 東洋学芸雑誌39巻2号通巻485号 論説 冬の三ツ峠山(P15〜24) 3559443
1922年3月 東洋学芸雑誌39巻3号通巻486号 論説 植物の祖先(二)(P13〜18) 3559444
1922年4月 学芸 39巻487号   植物の祖先(P150〜151) 3545391
1922年5月 学芸 39巻488号 植物の祖先(P128〜131) 3545392
1922年6月 学芸 39巻489号 ナンブサウ(P35〜45) 3545393
1922年7月 学芸 39巻490号 海洋美と山岳美(P9〜9) 3545394
1922年8月 学芸 39巻491号 口絵:北海道手宮洞窟の古代文字御覧中の皇太子 殿下
口絵:大沼に映じたる駒ヶ岳の峰影

天上の花園
(P32〜38)
3545395
1922年9月 学芸 39巻492号 口絵:カラマツの林ー札幌の附近/武田    3545396
1922年10月 学芸 39巻493号 植物の祖先(P122〜124) 3545397
1922年11月 学芸 39巻494号 果實と種子の散布(P102〜108 3545398
1922年12月 学芸 39巻495号 果實と種子の散布(P62〜69)
植物の祖先
(P120〜125)
3545399
1923年1月 学芸 40巻496号 果實と種子の散布(三)(P112〜117) 3545400
1923年2月 学芸 40巻497号 果實と種子の散布(P107〜111) 3545401
1923年3月 学芸 40巻498号 果實と種子の散布(P67〜71) 3545402
1923年4月 学芸 40巻499号     (記述なし) 3545403
1923年5月 学芸 40巻500号 果實と種子の散布(P90〜92) 3545404
1923年6月 学芸 40巻501号 「遺跡旅行」勝頼の終焉(P95〜107)  武田 3545405
1923年7月 学芸 40巻502号 北海の名勝支笏湖(P120〜126)   ※ 武田 3545406
1925年6月 東洋学芸雑誌41巻506号 「むしかり」の芽の研究(P35〜40) 3559446
    武田  目次欄は「文吉」で、本文では「久吉」とありました。後世のため記述の追加  2017・7・26 保坂

7月、富士・表口一号五勺附近の皆伐地でオオウバユリと植林のカラマツを撮影する。
                                           地理大系別巻5より

7月、富士山にて、「闊葉樹林内のばいけいさう」と題した写真撮影を行う。
                           高山植物写真図聚2 No266」より
7月、大宮口より、富士登山を行う。
7月27日 →大宮口二合目(泊)
28日 大宮口二合目→(植物調査と写真撮影)→大宮口二合目(泊)
29日 大宮口二合目→(植物調査と写真撮影)→表口五合目(泊)
(略)種々の葉花美し、一同元気(さかん)なり、脚の工合も大分宜し、七月二十九日朝大宮口二合目にて
30日 表口五合目→宝永山爆裂口に入る→御殿場口六合目(泊)
(略)今日朝も快晴山中湖、蘆ノ湖伊豆半島 箱根 丹澤山、玉川の御岳大岳等も見ゆ、今日は御中道をやり大澤の険をこえて小御岳泊りの予定 一行無事/七月丗日東表口砂走り六合目にてサイン
31日 御殿場口六合目→(植物調査と写真撮影)→大澤の険→小御岳(泊)
8月1日 小御岳→不明   以後の順路が不明のため調査要 2015・5・18 保坂記
                      妻・直子に宛てた「絵はがき」より 7月29日・7月30日
7月、「科学知識 第3巻7月号」に「木曽御嶽とその植物帯(一)」を寄稿する。
7月、「科学画報 第一巻第四号」に「高山植物の生活から」を寄稿する。

8月、「科学知識 第3巻8月号」に「木曽御嶽とその植物帯(二)」を寄稿する。
8月、小富士、裸地と森林地との間の直線状の劃線を撮影する

8月27日から29日、富士山に登る
27日 吉田口六合目→御中道→須走五合目上→御殿場口六合目(泊)
28日 御殿場口六合目→宝永山・中に入り→大宮口五合目→大宮口を頂上に上り→噴火口の中段迄下がる→吉田口頂上に上る(表面の写真)→吉田立合迄下がり(泊)
29日 吉田立合→須走に下山→直ちに帰京 
  大正12年8月30日付  妻・直子に宛てた「郵便絵はがき」より (表面)大正十二年八月廿八日富士山頂にて認 ○口八合目にて投函 久
             注意 吉田立合の場所が不明 立→五か? 検討要 2015・5・12 保坂記
9月1日、関東大震災。小田原の裏山の貯水池が崩れ辻村伊助とその家族4人が不慮の死をとげる。
10月、薩哈嗹軍政部の嘱託により、工藤祐舜・石田文三郎・(洲川専三郎)がシュミット半島植物調査報告を行い「シュミット半島植物調査書」を発表する。    武田家蔵書本より 2017・1・16 保坂
11月、「科学画報 第一巻第八号」に「自然の錦」を寄稿する。
11月7日付、正宗厳敬(まさむねげんけい)が博士に絵はがきを送る。
辻村伊助の死去を悼む。湖水植物の調査につきプランクトン鑑定の依頼
                     横浜開港資料館  久吉書簡 No1204 内容未確認 2017・6・9 保坂
11月11日、「日本山岳会 臨時茶話会」が麹町清水谷皆香園で開かれる。
資料 「山岳 T13年5月号 会報  ○臨時茶話会」より
昨年九月に開催す可き筈であった本会小集会は大震災の為に自然延期の止むなきに至ったが、其後市内の混雑も次第に緩和されたので、十一月には恒例の小集会を催し得る迄になった、然し此際小集会よりも寧ろ茶話会を開いて、会員各自の震災当時及其後に於ける安否動静等を相互に知り合ふやうにした方が宜からうといふことで、在京浜及び近郊の会員に通知を発して、十一月十一日午後一時に
麹町清水谷の皆香園に集まって貰ふことにした。(略)
当日の来会者:佐藤文二・郷郁三郎・吉岡八二郎・森喬・山内淳一・中村常雄・岡野徳之助・横山光太郎・本多友司・神宮徳寿・馬場忠三郎・野口末延・木村鉱吉・酒井忠一・別所梅之助・辻荘一・松本善二・青木軍二郎・飯塚篤之助・中條常七・五十嵐芳雄・磯貝藤太郎・丸山晩霞・志賀重昴・冠松次郎・槇有恒・鳥山悌成・武田久吉・田部重治・高頭仁兵衛・木暮理太郎の三十一氏であた。
12月、竹内亮が「植物学雑誌37巻439−444号」に「樽前火山彙ニ於ケル植物景観ノ変遷ニ就キテ」を寄稿する。
○この年、富士山御中道、戸峯の南方にオオシラビソの森林を発見する。
参考 「9 御庭に向う」より、一部分
 (略)ここから路を北にとって、御庭まで約八キロの間はわずかな上下があるにすぎない。そしてその大部分は密林で富士山中これほど幽邃静寂の気分を味わえる所は稀である。森林はシラビソでコメツガにカラマツを混生し、また稀にオオシラビソの姿もみられる。これは従来富士に産するを知られなかった樹木の一つであるが、その存在を予期して探査した結果、大正十二年にそれを見出した時は愉快であった。(略)
1924 大正13年 41
1月5日、沼津より伊豆半島南端に向け旅行を行う。妻・直子に宛てた「郵便はがき」より
 
1月4日 東京→(夜行列車)→
5日 朝3時頃、沼津着→(徒歩)→三島→(徒歩)→大場→(乗車)→6時半、大仁着→(徒歩)→10時、湯ヶ島着→2時半、ネッコ(猫越)峠着→宮ヶ原→7時半、松崎着(泊)
6日 松崎→(徒歩)→7時前、長津呂といふ伊豆南端の小村着(泊)
風強からず雲ありて暑からず一たいに楽な歩行であったし山をこえては海岸に出で渡し舟に乗ったり中々愉快であった。
7日 長津呂→石廊崎といふ伊豆最南の岬に行き長津呂湾の絶景を見てから東に東にと進んで→(予定)下田着→(不明) 
  今夜か、明日下田から第二報を出す、
8日 (不明)
                旅行の目的や帰りの順路が不明なため検討要 2015・5・23 保坂記
1月9日、柳宗悦が、浅川巧に案内され旧池田村小宮山清三宅を訪れ木喰上人の手になる木喰仏を発見する。
1月15日、丹沢山地が震源と云われる大地震が発生、山麓は土石流による甚大な被害に見舞われる。

1月16日、平野長蔵翁が武田博士宅を訪れる。
   資料 訪問の用向 「尾瀬ー山小屋三代記」のP36〜37に記載された記述を引用して
長蔵翁の用向は、両三年前に沼と原を貯水池として、発電に使用することが許可されたので、それを防止するには、尾瀬を国立公園としたならば、あれだけの風景や植物を完全に保護できようかというのであった。(中略)その時代の国立公園なるものは、開発を看板に風景を破壊し、国民一般の利益よりも、むしろ一部事業化の懐を肥すのが、せめてもの結果ではあるまいかとさえ危ぶまれるほど、無鉄砲なものであったから、私は翁の案を実行に移すよりも、まず尾瀬の自然を可及的損傷しないように保護することが、差当っての重要な仕事ではあるまいかという私案を提出したのに対して、翁は直に共鳴して、それ以来その方針を以て邁進したのであった。尾瀬が今日まで、原始的な風光を損傷せられずに来たのは、翁の献身的努力の賜といわなくてはならない」(『尾瀬ヶ原の諸問題』)
1月、「科学画報1月号」に、霜柱についての観察記録を寄稿する。 
参考 藤原咲平著「霜柱に就て」の冒頭部分
文献 英文欄に載せたものの外田村哲君が後藤稲垣両氏の節を紹介したものであると云ふ、日本の霜柱に就いてはProf.Doenitz なる人が何か紹介したとNature Vol.31.p.193にあるが評論は不明である。科学画報大正十三年一月号に武田久吉氏の一寸した観察がある。また多々羅怒平氏の研究もあると云ふ。    藤原咲平著「霜柱について 気象集誌 T13 第43年 第2輯 第2号」より 
                 
 実際の題と内容未確認 再調査要 2016・4・5 保坂
3月、「科学知識 第4巻3月号」に「丹沢山塊略説(一)・冬芽とその開舒(かいじょ)(一)」を寄稿する。
3月15日〜17日、淵野辺から震災状況を確認するため、東海道線の松田・山北方面に向け旅行する。
3月15日 →淵野辺→相模野横断→麻溝村市場(当地名産の豚肉中々に味宜し・昼食)→相模川・渡しで青島牛の渡航を写す、それと一緒に自分も川を渡り台地をこえて→中津川→夕方・半原村平山、甲州屋(泊)
16日 甲州屋→経ヶ岳・8時半着→煤ヶ谷村・所根(ショネ)これからまた二時間もかゝる峠をこえて炭俵の婆さんの所へでも行って見やう→丹澤山中(泊)
17日 丹澤山中本日快晴、南に向ひ秦野に下る此の辺の山崩れは驚く可きものなり、その為め陸路松田に出るを止め秦野より鉄道によりて二ノ宮に出でこゝで東海道線の列車にて只今山北に向ふ途中なり、山北より酒匂川を溯る事二里位の村に一泊の予定なり(汽車にて)四時五十五分山北着、こゝまでは無事に来た 今夜の宿泊地で山の模様を尋ねた上で、明日 またこゝから乗車して帰宅するか、夫共 山越して甲州に出で一泊明后日帰宅するかに決する筈なり          翌日以降の順路が不明なため検討要 2015・5・20 保坂記
                 大正13年3月17日付 3月18日付 妻・直子に宛てた「郵便絵はがき」より 
4月、「科学知識 第4巻4月号」に「丹沢山塊畧説(二)・冬芽とその開舒(かいじょ)(二)」を寄稿する。
5月、「科学知識 第4巻5月号」に「丹沢山塊畧説(三)・冬芽とその開舒(かいじょ)(三)」を寄稿する。
           注意・丹沢山塊の植物調査報告 神奈川県レッドデータ生物調査報告(1995年)の文献欄には「丹沢山の植物」とあり
               再調査要 「丹沢山塊略説(一)〜(三)」 2014・3・9 保坂記

5月、竹内亮が「山岳 第17年第3号」に「樽前火山彙の地形及び植物景観」を寄稿、同号に写真9枚(樽前山東峰(外輪山最高点 )・樽前山新出山最高点とフップシヌプリ・東方の外輪山頂より新出山を望む・樽前山中腹より見たるフプシヌプリ・東峰最高点より中央火口丘を距てゝ西峯を望む・白果累々たるシラタマノキ・オポツプ空澤の上流・ウチハマンネンスギ・イハヒゲ)を収録する。
注@ 山岳総目録から記述したため、博士との関わり等が不明  再調査要 2015・9・27 保坂記
注A 「山岳」を取り寄せ、博士との関係を検分したが、文中には「大正11年秋に登山した友人の話によると(P11)」とか、「大正11年7月多年の宿望を達して、人夫一人を同行し、(P15)」と云うように具体的な名前がなかったため、同行されたか、また博士との関わりについて は依然不明  再調査要 2015・9・30 保坂記
5月、「霧の旅 第十四号」に「地名の詮鑿せんさく」を寄稿する。
    
西部丹澤大又澤源流の地名と沢名、及び蛭ヶ岳ー桧洞丸間の山名の考証である。 「丹澤」より
○この年の初夏、鬼怒沼林道が完成する。

(略)然るに何たる幸ぞ、四十年の長日月を尾瀬の開発と保護とに盡瘁し、尾瀬の仙人の称を以て知られるに至った平野長蔵翁が、官憲を説いて終に鬼怒沼林道を完成したのが、大正十三年の初夏であった。幾年かの後に希望を満し得る機会に逢着した吾々は、その年の七月、一週間の尾瀬探求の帰途に、この林道を選んだのは、当然すぎる程当然な話ではないか。       「文芸春秋 昭和6年7月号 鬼怒沼」より
月、中井猛之進が、「植物学雑誌38巻450号」に「東亜植物雑集(其一)」を寄稿、「(2)はまべんけいさう」の項に「(略)1911年武田久吉氏ハ其壮大ニ生長スル故ヲ以テ Mertensia maritima 其物ヨリ区別シテ其亜細亜産亞種トシテ発表シタ。之レガ本植物ノ異点ヲ見出セル始デアル。(略)」と、記述する。
6月2日
、甲州山中村にて、「雨は夜中猛烈に降って」と、妻直子に近況を伝える。
   また、「
富士に笠雲が出て見るなり然し下に雲あって写真とならず」と、笠雲についても
   書き記す。                     
妻・直子に宛てた「郵便はがき」より
登山コースの検討;「山2巻8号 無題」より
 「(略)
大正十三年の初夏、山口成一君と山伏峠をこして、世附川上流に入った時、途中で一尺位の「かつら」を持ち帰ったのが、今では高さ一丈三四尺位。(略)」
6月11日、甲斐山岳会が発足する。(会長:若尾金造、副会長:石塚末吉、座長:小宮山清三)
資料 『山』 T14・5 創刊号 会報欄より
△大正十三年六月十一日。午後一時。山梨縣会議事堂に於て本会発会式を兼ねで第一回春季総会を開催す。平賀幹事開会の辞に始まり、小宮山清三氏を座長に推して会則決定、役員選挙、本会前途の事業方針を議し若尾会長の挨拶、梅谷総裁の訓辞あり。後理学士石原初太郎氏の『甲斐の山々』なる講演を以て終る。(略)
月、「科学知識 第4巻7月号 富士山号」に「富士山の植物」を寄稿する。
 富士植物研究の略史  表口の植物景
 富士山上の植物帯  東口の植物景
 高山上の植物帯と富士  北口の植物景
 富士山植物研究の方針  東表口の植物景
 富士山学術研究旅行 10  中道の植物景
7月、「高山植物の話」を「大阪毎日新聞社」より刊行。
   ムカゴユキノシタは「欧州アルプスにも稀であるし、本邦でも稀品中の稀品」と記す。
   本書の冒頭の部分には「我がなき友、農学士辻村伊助君の霊に捧ぐ」と記された、頌があり震災で亡くなら
    れた辻村伊助の死を悼みました。
 
  15p ×11p
はしがき
 登山が旺になるにつれて、高山植物に対する一般の興味が増進するは、怪しむに足らない事実である。しかし、登山を試みても、高山植物に関する適当な指導を得ない為に、正確な知識を求めて得られないことを、不満に思ふ人も少なくないと共に、高山植物を愛好し研究し乍らも、登山を実行する躰力や、余暇や、機会のない人も、必ず多いことと考へる。是等の人々に、高山植物の真相、殊にその生活の状態を伝へ、登山者の伴侶となり、究学者の僚友となるが為に、産まれたのが則ち本書である。されば高山植物生育状態の写真数十葉を挿むで、之を繙けば坐ながらにして高山に登る思ひあらしめると共に、山上に携へて実地と照合すれば、無言の師友を伴にすると等しく、草木生育の有様を自ら会得出来る様に努力した。憾らくは、無盡蔵の大自然を、斯かる小冊子中に説盡すことは不可能であるが為に、読者の胸中に起こる諸

問題に対して、悉く解決を与へることは困難である。とはいへ、本書が自然研究の一助ともならば、著者の労苦は償うて余りある次第である。    大正十三年六月     著者しるす
目 次
登山と人生 十九 乾生植物と濕生植物との雑居
山岳と自然 二十 タカネイチゴツナギ
高山植物の観察 二十一 ムカゴユキノシタ
山麓と裾野 二十二 ムカゴトラノヲ
闊葉喬木帯 二十三 ヒメシャクナゲ
針葉喬木帯 二十四 菌根
灌木帯 二十五 チングルマ
草木帯 二十六 バイケイサウ
地衣帯 二十七 イハタデ
喬木帯と灌木帯の草本 二十八 ウラジロタデ
十一 御花畠 二十九 イハベンケイ
十二 御花畠の細別 三十 根・茎・根と花の大きさ
十三 点在して生ずる植物 三十一 ウメバチサウ
十四 岩上の植物 三十二 葉の構造
十五 ミヤマウスユキサウ 三十三 気孔
十六 ミネズハウ 三十四 木本の年齢
十七 ガンカウラン 三十五 年輪
十八 シラタマノキ 三十六 高山植物の研究と保護
附録 日本山岳冐稱の植物
7月7日〜20日、館脇操、山口成一の3人で尾瀬へ、沼田経由で初めて入る→長蔵小屋→桧枝岐村→駒ケ岳→鬼怒沼→川俣温泉 
東京〜沼田〜追貝〜須賀川・梅田屋(泊)
須賀川・梅田屋〜鎌田(アカマツ・コゴメヤナギ・オホマツヨヒグサ・シラカンバ・オホイタドリ)〜太田〜越本・武尊神社〜中里〜東澤〜知倉・たまき屋〜山神社(トチノキ・カツラ・シナノキ・オホバダイジュ)〜大清水〜中ノ岐澤〜柳澤〜三平峠(オホシラビソ(ツガ・アヲモリトドマツ・方言でブサ・オモタ・トドマツ・オホリウセン)・アカモノ・シラタマノキ)〜長蔵小屋(泊)
9日 長蔵小屋(ミツガシハ・ミヅドクサ・ミツガスハ)〜檜ノ澤の小流(オホバミゾホホズキ・ミズバセウ・オホカサスゲ・オホバユキザサ・ハリブキ・オホバノヨツバムグラ・マヒヅルサウ・ヒアフギアヤメ・コツマトリサウ・ハクサンチドリ)〜三平峠下(エゾムラサキ・シウリ(ザクラ)・天狗の巣)〜大江川沿岸〜長蔵小屋(泊)
10 長蔵小屋〜浅湖(あざみ)の湿原(タテヤマリンダウ・コバイケイサウ)(オホシラビソ・コメツガ・エゾマツ・サウシカンバ)〜大入洲の奥の小湿原(ミズバセウ・ミツガシワ・ヒアフギアヤメ・ギャウジャニンニク)〜小湿原(コメツガ・エゾマツ・ナナカマド・シロシャクナギ・アシ・クロバナロウゲ・オホフトヰ)〜押出(おんだし)〜沼尻平(ヒメシャクナギ・ナガバノマウセンゴケ・ネズコの枝にアスナロノヒジキが寄生して小天狗の巣)〜沼尻川の水門(アカツゲ・オホシラビソ・ネズコ・ホロムイスゲ・ワタスゲ・カキツバタ)〜雷雲が発生して雨、沼尻へ〜長蔵小屋(泊)
11 長蔵小屋〜沼尻平(サンカエフ・クマノヰデ・オホバショリマ・ミヤマハンノキ)〜燧岳〜沼尻平〜長蔵小屋(泊)
12日 長蔵小屋〜大江川中流の湿原〜焼山澤の右岸(タウヒ・ウラジロヤウラク・ミヤマヤナギ・ゴゼンタチバナ・アカモノ・巨大なブナ・トチノキ・ミヤママタタビ)〜道行澤最終の橋・赤法華(地名)(ススキ・オホバコ)〜七入りの小部落を左に〜桧枝岐・丸屋(泊)
七月十二日 尾瀬長蔵小屋にて サイン
(略
十一日燧に登る この日も小雷雨ありしも雨は少く 雷は遠く困難せずして/○○本日午前中湖上を探る これより桧枝岐に向ふところ 便あるにより一書を出す、一同疲労漸く恢復し元気益々よし靴下に穴あき始め掛がへなきを憾む若し 出来るなら湯本板屋あてにて小包にて送ることを希望す、湯本に到着は十八日になることゝ考ふるにより十五六日頃 東京を出すとすれば間に会ふと考ふ ネズミ色のにて宜しと考ふ火縄は大分有効写真ももう八十枚程写したがまだ)/大にやう考、/(略)           7月12日 妻・直子に宛てた手紙より
13日 桧枝岐・丸屋〜駒登山口〜1900m迄上る(ハクサンコザクラ・チングルマ・イハイテフ・シャウジャウバカマ・タウヒ・オオシラビソ)〜会津駒ヶ岳頂上〜桧枝岐・丸屋(名物の蕎麦を食べ月明かりをたよりに)〜長蔵小屋(泊)
14日 長蔵小屋〜沼尻平〜白砂の湿原・地溏(チマキザサ・ブナ)〜桧枝岐小屋〜三條瀑(サウシカンバ・エゾマツ)〜原ノ小屋・長松オジイ〜尾瀬平の東端を縦横に歩いて湿原観察に熱中〜原ノ小屋(泊)
15日 原ノ小屋〜尾瀬ヶ原〜(ヨッピ川)・猫又川を遡る(イハシモツケ・ネズコの藪)〜山稜を北に伝ふ(ハヒマツ・ガンカウラン・コケモモ・シロシャクナギ)〜至佛山・山頂〜原ノ小屋(泊)
16 原ノ小屋・(朝食が済むと(同行の)尾瀬沼仙人は一と足先に長蔵小屋に帰る。)〜湿原での撮影(シツジグサ・ネムロカハホネ・ニックヮウキスゲ・カキツバタ)〜原ノ小屋に戻って中食〜長蔵小屋〜白砂湿原〜沼尻平(ヒアフギアヤメ)〜沼尻(泊)
沼尻に出た。もう此処も見収めである。細雨に煙る尾瀬沼の姿をレンズに入れる。そして三人は暫く周囲の景を見まもって、黙(しづか)に沼と岳とに別れを告げた。
17 「・・食料や雑品を長松オジイに背負せて、三人は鬼怒沼に向かった。山人は村のはづれ迄送って来て呉れる。さらば尾瀬よ。さらば山人よ。」〜大江川中流から黒木の森(オホシラビソ・サウシカンバ)〜田代の小湿原〜黒岩山(オホシラビソ・コガネイチゴ・セリバワウレンヲサバグサ)〜久恋の鬼怒沼湿原(ヒメシャクナギ・ツルコケモモ・ガンカウラン・米1:コケモモ・アスナロ)〜日向恐し澤〜日光澤温泉跡〜(ヤマハンノキ)八丁ノ湯(泊)
18 八丁ノ湯〜手白澤〜婦夫淵(めおとぶち)〜栗山郷〜前ノ澤(ブナ・コメツガ・ヒメコマツ)〜西澤金山跡〜金田峠(コメツガ・ヤグルマサウ)〜湯本(泊)
19 湯本〜兎島〜小田代の原(アカヌマフウロ・ノハナシャウブ・イブキトラノヲ)(ミズナラ)竜頭ノ滝・地獄の茶屋〜湯本(泊)
20 湯本〜(馬車・天狗の巣)〜中禅寺〜旧見晴茶屋跡(ハクサンヲミナエシ・ビバウシュ)〜日光〜宇都宮
                   (「尾瀬再探記」 (「尾瀬と鬼怒沼」昭和5年)」より。
※1:コケモモ コケモモが乾燥性の裸地に生ずることは上に記したがあ、稀にツルコケモモなどに伍して、水蘚湿原にも生ずることがある。これは大正13年7月、筆者が鬼怒沼湿原に発見した処であって、生態学的に見て興味が多い。                    「 植物及動物第4巻8号 日本の高山植物124)コケモモ」の項より 
      特記 尾瀬再訪記からの日時の設定は、何日目と云った表記のため、分かりませんでしたが、妻直子に宛てた「郵便はがき」の
         消印と博士が記載した日付により、日時を換算し直し表記を行いました。 
2015・4・6 保坂記
資料A「武田久吉先生をしのぶ 愛した山岳と高山植物 舘脇操(北大名誉教授)」と題した新聞記事より
<前略>大正十三年には尾瀬に誘っていただいた。二週間ばかり滞在して尾瀬沼の主・平野長蔵氏の案内でくまなく歩いた。長蔵翁の愛孫、長晴君は京大を出て北海道新聞社に勤めた。尾瀬を熟愛するあまり社を退き、吹雪の日に尾瀬のため命を捧げたことは有名である。尾瀬の自然を心から愛した先生と、先生を尊敬した平野一家の人たち。そこにもかくれた北海道が首を出すのである。 昭和47年6月20日付 北海道新聞(夕刊)
資料B舘脇操著、「尾瀬と鬼怒沼・尾瀬をめぐりて・はしがき」 ※1 巻頭部分
 
一つの影絵が、執拗に私を迫ってゐた。その影絵は、いつの日も、夢の小唄を嘔ひながら、心に解け込む様な韻律を帯びてゐた。ハオパーボラのひろがりの様に、それが時と共に、私の頭には、軟な大きな線にのびて行った。まだ中学生の頃、港の街で『山岳』をひもとき、沼井氏の紀行を読むだ折には、既に札幌への決心も定まり、早田博士の文に、唯胸を躍らしぬいてゐた。尾瀬! 北の国に来てから、山の旅に、島の旅に、思ひつゝも機を得なかった私は、武田博士にその獅得て、こゝに驥尾に附すること二週間、親しく生態学的観察の指導を賜はるを得、自然の中に在て自然を看る自然観に触れて、私の若い日のある夏を、ほんとうんの心の中で埋め得たことを欣ぶと共に、深い感謝の意を武田博士に捧げないわけには行かない。又行を共にし、この旅を意義あり、且つ愉快に印象づけられた山口氏にも、謝意を表する。尾瀬へ!! 私の心はのびのびと展開して行った。そして絶えずものさびた美しい響を耳にしながら、私の旅装は整へられ、又その旅装は解かれた。(略)            1930年8月の項目より 
月、会津駒ヶ岳→「みらさきやしほつつじ・みつばわうれん」、燧岳→「さんかえふ・いはうめ・くまゐので」、 
   
黒岩山→「をさばぐさ・こがねいちご」の写真撮影を行う 
                 
「高山植物写真図聚1/高山植物写真図聚2 No224・279・347」より
7月26日付、「山岳 第十八年第二号 十二月号 会員通信」欄に、尾瀬・丹澤での行動を書き記す。
参考ー1 (全文・見出し無し)
尾瀬を中心として岩城両毛の境を彷徨すること二週日、最後は鬼怒沼、川俣、西澤を経て湯本に出て候。鬼怒沼は予想外のよい所にて、再遊を望むこと切に候。帰来直に丹澤山に向ひ、一昨夜帰宅。塔と丹澤との頂に三角測量櫓復活され、両山間の交通路も数倍の容易を加へ候。八九月に大雨さへなくば、今秋の登山には差支なき迄の山径出来候。尤も前の如く深谷に入り山陵を縦横に歩くことは当分不可能に候。(七月廿六日武田久吉)
参考ー2 「○丹澤山の近況と眺望」より
  
昨秋の関東大震災以後、丹澤山地に脚を入れること数回に及び、渓流は神ノ川を除くの外主なもの全部を跋歩し、峠路は明神峠と犬越路以外、重要なものは悉く越えて見たが、山峯に至っては経ヶ岳と焼山連山を毘盧ヶ岳に傳った外、これぞといふものへ登る機会がなかった。然るに今夏七月下旬、神奈川縣庁の主催によって、縣下の代表青年十数名を引率して、丹澤山塊殊に東西両丹澤を踏査する挙が行はれ、筆者もその一行に尾して丹澤山と塔ノ岳との頂上を極め、その際従前の観察の不足を補ひ得たことは少なくなかった。殊に本誌第十五年第二号に揚げてある拙文中、更に訂正を要する点を発見したので、近況を報ずると共に正誤を試みることにしよう。(略)
 踏査の順路
 札掛→荒樫尾→大洞→繰廻し→本谷の河原→黐小屋→蜘蛛ヶ淵→木裏澤→丹澤山頂・一等三角櫓
(本年6月完成)→塔ヶ岳・三等三角測量櫓→(下山ルートやや不明なため 再調査要 2015・4・25 保坂記
   「山岳 第十八年第二号 丹沢山の近況と眺望」より
 注意 博士の文では「今夏七月下旬、神奈川縣庁の主催によって」とある。「丹沢・やまものがたり」から引用した青年団の丹澤探査では
     8月と記載ありました。7月と8月に連続して探査が行われたかは不明なため 再調査要 2015・4・23 保坂記

参考ー3  妻・直子に宛てた「郵便絵はがき」より 消印 13年7月23日 
昨日無事当地着、 夕食後他の三四の名士に交じって小話を試みた、丹沢の古なじみ丈けに山でも私の来るのを待って居るそうだ、今日は例の炭俵の婆さんの居る札掛泊る、明日山を越して諸子平に泊る筈、一行五十名許り、詳細は「日々」に出ることと思ふ、気分 大に宜し、
                     (表面)二十三日朝  秦野町にて サイン 
7月、八甲田山に於いて「、ひなざくら・べにばないちご」の写真撮影を行う。
                          
「高山植物写真図聚」より 登山記録については検討要
登山記録についての考察 
大正14年7月31日付、八甲田酸ヶ湯温泉から投函した郵便には「(人名)猛公は去年よりも ふとり二十一貫目ありとか、わらじを切ることはげし、」とあり、7月の何日かは分かりませんが、八甲田を訪れていたことが確認ができました。             2015・5・16 保坂記
7月、八ヶ岳硫黄岳北肩、約2700mに於いてハイマツの生態調査を行う。「続原色日本高山植物図鑑」より
8月1日、「報畫學科 第二巻三号 新光社 特集 山水奇觀號」に「新説 高山植物の分布」を寄稿する。 また同号に、「雲間に艶をきそふ草本帯植物の優姿 ・高山植物学者秘蔵の写真帖」欄に写真11枚を掲載する
 
 報畫學科 八月号
 黒百合には、面白い伝説がある。昔秀吉の臣佐々成政の妾に小百合といふものがあった成政の胤(たね)を宿して、寵愛日々に加はったので、他の妾がこれを妬(ねた)み、小百合が小姓の竹澤熊四郎と通じたと讒言(ざんげん)した。成政はそれを信じて両人を惨殺したのみならず、小百合の一族十八人を死刑に處した。小百合は死に臨(のぞ)み「立山に黒百合が咲いたならば、佐々家は滅亡する」といった。その後天正十六年、秀吉が花の會を催うしたとき、成政が白山千蛇ヶ池に咲く黒百合を献じたところ、それが非常に好評を博したので、北の政所、成政を怨(うら)んで彼を滅ぼしたといふのである。
 北海道では平地に、これがあることは寫眞の説明通りであるが、そこのは、内地の高山で見るやうなけちくさいのではなく、時には三四尺に達するものがある。武田博士などは、三枚つゞきの標本を持って居られる。しかし、これが札幌の大學の牧場の林などにあって、牛馬に踏みあらされて
ゐる。尤(もっと)も、これは、今から五年も前の話。但し内地の高山にあるものゝ方が、何となく、深い感じを與へるのは、右の傳説が頭にあるため知れない。高山植物学者として、先づ指を屈すべき、武田博士は、高山の植物分布について研究多年の結果、その分布帯の分けかたについて新説を立てられました。前號から本號にかけて、その一端の談話を筆記し、博士の閲を経て掲げました。特に本號には、博士秘蔵の珍寫眞を拝借して、読者諸君とゝもに、賞觀することのできたのを喜びます。
 博士は山麓の草原のできた由来と、そこに生ずる草本を説き、次に、従来、高山の植物分布を山麓、落葉喬木、針葉喬木、灌木、草本、地衣の六帯に分けることの誤れるを論じ、針葉樹帯中に、その帯特有の濶葉樹のあることを指摘し、各帯にも上中下があって、固有の植物のあることを述べられたのが、前回の切れ目でありました。
前号分 後日掲載予定 2017・8・3 保坂 
前号分 後日掲載予定 2017・8・3 保坂
前号分 後日掲載予定 2017・8・3 保坂
前号分 後日掲載予定 2017・8・3 保坂
前号分 後日掲載予定 2017・8・3 保坂
前号分 後日掲載予定 2017・8・3 保坂
前号分 後日掲載予定 2017・8・3 保坂
葉喬木帯の上部に到って現れるサウシカンバは(省略)
灌木帯の分子としてはオホヘウタンボク、ウラジロナヽカマド、(省略)
灌木帯の盡きた所は草本帯である。(省略)
十一 草本帯の上部に到ると、顕花植物の華美な姿は漸く減じて(省略)
十二  高山上の植物が、以上の様な諸帯に分れるとした處で、その間に厳然たる境界があるわけではないのであるから、常に中間地帯があって、上下両帯のある種類が混生するのである。加之、是等植物帯の變化推移は、等高線に並行して行はれるものではなくて、温度、水濕、地質、岩石の新舊、積雪量等、種々な事由に左右されるものであるから、二帯間の境界は水平線ではなくて、不規則な鋸歯状を呈するのである。故に、今假にある山岳の中腹を、等高線に沿うて一周するとすれば、或る地點、例へば砂礫地、崩壊地、放射谷の沿岸では、主に草本をそして意外な低所に高山植物を見るが、岩上には樹木を、そして殊に南面に於