資料 兄、加藤武雄の農民小説 加藤武雄には直接的な農民の生活を描いた作品はありませんが、生涯を通じ直接的な農民小説を書きたいと思い続けていました。そう思いながらも最後まで描くことはありませんでした。下記の文章の中に「・・・望郷思想こそ、著者加藤武雄の故郷追慕を表したもののように思われる。広意の農民小説の原型のようなものと感じられる。」とあるように極めて間接的な表現となっています。 年齢差が十七歳もある弟、哲雄が兄を農民作家として捉えた貴重な短文で、家の光協会が1976年5月号「土とふるさとの文学全集 月報A」のなかで書き記しました。 戦争中、加藤武雄は故郷の山王山に農民学校を作ろうと開墾地を作りました。地元でもあまり知られてはいませんがその中に相原からショイコを背負って本を読みながら来る人がいました。地元の人たちは、「まるで二宮金次郎のようだ」と云っていたそうです。山の開墾地に掘立小屋を建て野菜を作っていたと云います。(小池さんの奥さんから聞いた話)その人の名は「黒煙」を主宰した藤井真澄でした。加藤武雄は、様々な人たちと交流を重ねながら農民文学の花咲く日を待ち続けました。 兄、加藤武雄の農民小説(全文掲載) 今回、兄・加藤武雄の初期農民小説「土を離れて」および「祭りの夜の出来事」の二篇が、この全集に登載されることになった。 兄・加藤武雄は明治二十一年生まれであるから、長生きしていれば、今は八十七歳位である。六人兄弟、長姉の次が武雄で、そのあとが女が三人あり、末が私という順序、したがって兄と私とは年齢差十七歳も違っている。そお兄が上京してしまったので、否応なしに、私が農家を嗣ぐこととなったのである。 私はこの小文を書くため、安西勝君著、私書版加藤武雄年譜によって、この二篇の作品はいつ頃ののものかを調べてみた。 「土を離れて」は、大正五年九月、雑誌「新潮」に登載され、文壇への処女作であるとしてある。兄はこの年、二十九歳、そして結婚後、はじめて新妻と長子恒雄を伴って三人で故郷の父母の家へ初帰りしたのだ。今その当時の思い出をさぐってみる。新妻である、私には嫂(あによめ)の花子は東京・京橋の五十嵐家の長女として誕生したが、母方臼井家に後継者のないため、臼井家の嗣子として入籍してあったので、旧戸籍法でその廃嫡手続きはなかなかむづかしく、加藤家長男の嫁として、入籍する迄二年位の時日を要した。したがって兄との正式結婚などもすんでいなかった。私は初めて見る嫂とその甥を、襖の隙から恐るおそる覗いて見たものだ。東京者の新妻とその甥の垢ぬけしてきらびやかな存在は、うす汚れた畳の、雑然とした田舎家の一室には、どうみても、まことに不釣合いな形である。 兄はその年から八年前の明治四十三年9月、郷里の川尻小学校の教師をやめて、小説書きという、当時としては稀な職業を目指し裸一貫で東京へ飛び出したのだ。そして八年目の今、美しい新妻と、玉のような幼な子を伴い、二台の人力車をつらねて父母の待つ家へ帰ったのだ。更に、雑誌「新潮」に新進作家として短篇が登載され、将来を期待されるという大きな喜びを提げて帰って来た兄、私は十二歳の少年で、無論その実質的ななにも判らぬ時だったが、家族、殊に父母の並々ならぬ歓待の様子などから、「兄は、偉くなったのだナ」という最初のおどろきを味わったものだ。
兄が死んで二十年になろうとしている。成城の住居には今長男恒雄一家が暮らしているがこの頃は断えて音沙汰もない。田舎に分骨した墓地を囲んで雑木が今美しい若葉の頃だ。 「土とふるさとの文学全集 月報A」 発行 家の光協会 1976年5月号より掲載 加藤武雄農民文学の扉 戻る |