安全な水を送る努力   2006.4.4 作成

「水道水源の水質保全対策の推進について」 谷津川導水路石垣跡
 発行 平成5年2月4日
 平成5年2月4日、水道水源の水質保全に関する有識者懇談会が答申を出した。内容は水質環境基準の大幅な見直しであった。
 答申書の「はじめに」によると、「水道は、国民の健康と生活にとって欠かせぬものであり、水道事業は、今日、現代社会の基盤を支える重要な事業のひとつとして営まれている。水道事業がその使命を達成していくためには、良質な水源の確保が必須の条件であり、したがって、水道事業の運営は、水源の状況に大きく左右されるといっても過言ではない。しかし、近年、水道の原水における各種の化学物質や農薬、肥料による水質汚染、異臭味被害の拡大、上流水源地における開発に伴う影響等 水道水源の水質悪化が顕在化
し、水道事業の適正かつ円滑な運営を困難にしつつある。・・・」とある。
 安全な水を送る津久井の人々の労苦を、そして守り続けてきた素晴らしい自然環境を大切にして行きたいと思います。  

 
  2001(平成13年)7.23付  朝日新聞より        慶応元年の久保沢宿と谷津川の様子
                                 相模国津久井郡川尻村字久保沢沿革図(部分)
                                        大正三年の作図より

 久保沢町の中央部には用水が引かれ、その水を利用しながら人々は暮らしてきました。谷津川に堰を設け水を引いたことから谷津川のことを「堰の川」とも呼びました。上 図の中央部下側、久保沢宿と谷津川が合流する地点から南側に慶応元年6月、佐原木町が誕生しました。また、下流の段丘面のところでは地形を利用した水車小屋もありました。
 安全な水を送る努力 明治43年8月11日、暴風雨のため津久井郡三沢村地内の山腹で地すべりが発生しました。
そのため水道路線が崩壊し断水が続きました。こうした事故を未然に防止するため導水路を変更する第2回拡張工事が開始されました。向原揚水ポンプ場はその完成までの応急措置として建設されました。直ぐ上流に谷津川が流れ込んでいるため、新たに谷津川の導水路も施行、取水口となる揚水ポンプ場に谷津川の水が入らないよう石垣で導水路を造る工夫が施されました。
 現在は相模川も谷津川も河床が下がり想像もつきませんが残された「石垣」から当時の先人の努力を垣間見ることができます。


                             2006.4・1 八木薫さんの作図

  
大正4年 向原揚水ポンプ場
    「目で見る相模原の100年」より
←谷津川導水路の石垣跡
    (手前は水天宮の祠)   
 
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