横浜水道はじめて物語

                               主な横浜水道史

           


 開港後の横浜は、海や沼を埋め立てて市街地を作ったため、水質は非常に悪く、井戸を掘っても飲用できるものはそう多くありませんでした。
 そのため、近くの村から湧き水を運んで飲んだり、水売りから水を買って生活していました。しかし市街はますます発展し人口は増加する一方で、わずかな水ではたりず、悪い井戸水や汚れた川の水を使う人もあって伝染病がひろがり、人々はきれいな水の必要を強く感じ、水道の建設をさけび始めました。
 判事の井関盛良(もりとめ)はこの事業の必要なことを知り、明治元年(1868年)民部省土木司に頼んで多摩川の水を引く計画を建てましたが、うまくいかず中止になりました。
 その後、横浜の代表的な商人である、原善三郎、茂木惣兵衛、高島嘉右衛門、鈴木保兵衛、金子平兵衛、田中平八、大倉喜八郎、中村宗兵衛、原正三郎、岡本伝右衛門、や有力者の石川徳右衛門、同半右衛門、同又四郎、中山沖右衛門、吉田勘兵衛、渋谷市右衛門、高梨林右衛門、原木政蔵の18名が資金を出して、水道会社をつくり、明治4年(1871年)3月多摩川から横浜の市中までの木管敷設に着工し、明治6年(1873年)3月に原始的な共同水道が完成して給水を始めました。
 しかし、木桶からの漏水事故や水道料金の滞納続出のため経営不振となり、明治7年(1874年)7月いっさいの事業を神奈川県に引き継いで解散しました。
 神奈川県はその後、人口急増にこたえる給水の第二期計画に着手し、明治16年(1883年)3月たまたま日本に来ていたイギリス工兵中佐パーマー(henry spencer palmer)を雇い入れ、水道工事のいっさいををまかせました。

                  
                  henry spencer palmer

    
  津久井郡三井村用水取水所全景         用水取水所汽鑵(ボイラー)


    
   用水取水所揚水機械                用水取水所機械室

   



  
     津久井郡三井村用水取水所


    
   用水取水所量水室遠景            水道鉄管布設線路其1


    
    水道鉄管布設線路其2            水道鉄管布設線路其3

    
   水道鉄管布設線路其5           水道鉄管布設線路其7 三井村字 塩民

    
     水道鉄管布設線路其12         水道鉄管布設線路其14 小倉之渡津

    
    水道鉄管布設線路其15 川尻村       水道鉄管布設線路其17

    
    水道鉄管布設線路其20  相模原鶴間村    都築郡上川井村接合井
                         写真 「横浜水道百年の歩み」グラビア
             ↓                    「横浜水道写真帳」宮内庁書陵部所蔵




  トロッコのレールを再利用した柵        撮影2012・7・18
  
  相模原緑区上大島地区 
   
    レールの断面 単位/mm
柵になったトロッコのレール
 横浜水道は城山ダムから相模川沿いに南下し、古清水から内陸部の方向へ向きを変えて横浜へ続いているよ。
崖沿いなので、道が途中でなくなったりしているから注意してね。
 レールが見られるところは上大島にある諏訪神社の西側だよ。
 電車のレールより、ひとまわり小さいよ。レールの頭はおじさんの頭のように少し丸いかな。
 散歩しながら確かめてみるのも楽しいと思うな。

   今に残る横浜水道跡       平成17年4月24日撮影
    

     


    
                        小倉水管橋跡(口径36インチ鋼管)


    
  小倉橋下                  向原揚水ポンプ場跡付近

   
   横浜水道道

 明治20年9月全工事が完成しました。そして、9月21日に三井用水取水所の運転を開始し、順次導水路線に通水して慎重に検査を行いながら、ようやく10月4日になって野毛山に相模川の水が到達しました。
 当時の人々は、10里以上も離れた所の水が、本当に野毛山まで届くのかを疑い、これをめぐって賭けまで行われたといいます。
 こうして明治20年10月17日から横浜市内への給水が開始され、水栓からほとばしる水に市民は驚嘆しました。この水道の完成はまた消防組織も大きく変え、近代消防への第1歩を印しました。この記念すべき10月17日を近代水道創設の記念日として永くその功績を讃えています。
 この近代水道の建設は本来の目的である衛生環境の改善にも効果を発揮しました。これまでは疫病の流行は激しく特に明治19年のコレラの流行は横浜を発生地として猛威をふるい3107人が感染しました。そのことが、全国の水道建設促進の契機ともなりました。そして20年以降、人々を苦しめた伝染病は下降をたどりその効果の大きさを知らしめました。

   1) 三井用水取水所の施設概要
     所在地       神奈川県津久井郡三井村字川井
     取入口小湾口  大きさ 30坪
        河水最低  標高 353.7フィート
                水深 5フィート以上  
     誘水管       口径  18インチ(460mm)  鋳鉄管2条
     抽水井       内径 10フィート
                深さ 機械室床板から26フィート
      機械装置     ボイラー 3台
                横型複式蒸気機関  2台
                双行ピストンポンプ  2台
     煙突        基礎から高さ60フィート(18.3m) 
     沈澄池 長方形 長さ 211フィート  (64.3m)
                幅  8.5フィート  (2.6m)
                水通過時間   100分    
  三井用水取入所のボイラーに必要な石炭は主として購入炭をはるばる相模川を舟でこの地まで運搬したため、燃料確保には非常な労力と経費がかかったといわれています。この取入所で時報として汽笛を鳴らしたものが、地元では「三井のピー」が鳴ったといって重宝がったといい、また事務所にある電話でいながらにして遠い横浜と話が出来るということも奇跡として語られたといいます。
  燃料の石炭は山梨県上野原町八ツ沢から採掘
 第1回拡張工事によって早期解決を迫られていた問題のひとつに、用水取入所のボイラー用石炭に問題がありました。ポンプ動力用の石炭については、当初の計画では横浜から納入することになっていましたが運搬の煩雑さと経費の問題から県は種々の検討を重ね、その結果として山梨県都留郡八ツ沢村にある炭鉱を買収する案が持ち上がりました。これは、明治初年頃、紀伊国屋と名乗るものが経営していた炭鉱で、京浜方面に出荷していたが、炭価の低迷と災害などのため資金に不足をきたし廃坑になったところで、県は工部省に調査を依頼しました。報告の内容@石炭採掘可能量は1万tと推量される。A1万tの採掘費は、約2万円と見積もられるので採算は可能であるBただし、炭層は薄く、その傾斜は急であり、炭層を挟む盤石が堅固でないので、試掘を要し、軽率に業を起こすべきでない。県はこの報告を元に更に検討を重ね採掘することを決定、明治20年5月25日、農商務省から炭山採掘の許可を得、同年7月10日直営で開業しました。
        三井用水取入所石炭使用量と割合   (単位:t)    
明治年度 使用量 八ツ沢炭鉱使用量 割合(%) 唐津炭使用量 割合(%)
24 1153 1011 88 142 12
25 1201  1191 99 10 1
   26 1307 1291 99 16 1
   27 1090 315 29 775 71
 28 1035 104 10 931 90
   計  5786 3912 68 1874 32
  注)27年は幌内炭を含み28年は幌内炭と夕張炭のみ 「横浜水道誌」より
 幾多の困難を経て採掘は続きましたが、明治28年7月中旬、明治初年の廃坑に突き当たり、おびただしい噴水となりました。このため排水溝も用をなさず坑道も崩壊、ついに全くの復旧の見込みがたたないまま廃坑となりました。
    2)導水施設
      第1区 三井〜大島     11.64km
内訳 24の随道 1.88km 鉄管の布設5箇所 19箇所は水路随道 木橋 24箇所
地形 相模川左岸の断崖絶壁の中腹に路線を築造、工事は最も困難をきわめ、工事完成後も路線に事故の予想される危険区間。
      第2区 大島〜上川井    17.926km
      第3区 上川井〜野毛山  14.344km
                 総延長  43.910km

   三井から青山へ
 当初、横浜水道の計画給水人口を7万人として設計されていましたが、急激な人口増加により取水口の予備ポンプを運転しても配水量が不足し、節水や断水が多くなりました。揚水ポンプを増設する計画もあったといわれていましたが、石炭などの燃料問題や機械故障の心配もあり揚水方式から自然流下方式に変えることとなりました。明治28年8月、水源を道志川に変更する工事に着手、明治30年10月、青山から取水を開始しました。
 三井用水は僅か10年で廃止となりました。昭和12年、水道創設五十周年を記念して「本邦近代水道創設之処」の石碑が建てられました。昭和40年には城山ダムが完成、この記念すべき遺構のほとんどは水没しましたが、取入口と石碑は今も湖岸に残り、昭和60年「近代水道百選」に選ばれました。

             
             向原揚水ポンプ場(明治45年)国井秀夫所蔵



     
      向原揚水ポンプ場機械室 明治45年

  暴風雨による再度の大被害
 明治43年8月11日、暴風雨のため津久井郡三沢村地内の山腹で地すべりが発生しました。このため水道路線が崩壊し、22インチと18インチの両管10余本が崖下に墜落してしまいました。水道常設委員以下が直ちにかけつけ夜を徹して応急工事に従事した結果、翌日には22インチ管の復旧を見ましたが、翌13日更に豪雨があり、再度同所に大崩壊が起こってしまいました。そのため市内の断水は続きましたが、関係者の献身的な努力により前回の事故(明治40年8月 21日間による断水)より早く復旧することが出来市会でもその努力を評価して表彰決議を行いました。 
   向原揚水ポンプ場仮設工事
 このポンプ場は第2回拡張工事によって導水路線の変更が完成するまでの間の対策として計画されたもので、上流に事故が発生した際には直ちに相模川からポンプ揚水を行って導水管に注入送水することを目的にしており、更に施工中の第2回拡張工事の導水管の下流部分が完成すればこれと連結し、上流導水管および水源工事が未完成でも、市内給水の増量を行えるという一石二鳥の計画です。
 この工事は明治43年8月24日市会の議決を経て、同年9月6日に主務省に工事の申請を行いました。翌明治44年4月2日認可を得て4月25日直ちに着手、45年3月末には全工事を完了するという早さでした。
 この設備は、国産ポンプとしては大型で、ポンプの権威者井口博士の設計によるものででした。また、このポンプ場に初めて鉄筋コンクリート構造を採用するなど注目すべきものがありました。
         揚水ポンプ   180馬力  2台
         うず巻ポンプ    5馬力  2台
         蒸気機関    260馬力  2台

        日本最初の水道管老朽化で取り換え 拡大
    第2次臨時揚水設備工事で完成した大島臨時揚水ポンプ場  日本最初の水道管老朽化で
                            取り換え 平成14年8月22日付 読売新聞

      参考資料 横浜水道百年の歩み 昭和62年10月 横浜市水道局
          津久井町の歴史今昔 平成12年3月  津久井町教育委員会
          横浜もののはじめ    昭和54年1月  横浜市教育委員会

 横浜水道の初期の頃を中心に、上記資料を引用して掲載しました。津久井地域は相模原市との合併で揺れています。津久井は水源の町として都市部に安全な水を送り続けています。おそらく、これからも変わることはないでしょう。豊かな自然、恵まれた環境こうした中で津久井の人々は生きてきました。人口の過疎化、高齢化、少子化など津久井は今、様々な問題をかかえています。
 昭和15年、河水統制事業開始により相模ダムの建設が始まりました。そして下流の沼本ダムから城山町にある谷ヶ原浄水場へ向け随道を作りました。三井〜中沢の区間は軟弱な地層のため工事は難航、尊い方々の命が奪われました。朝鮮人の方々も日本人に混じって随道を掘りました。今は語り継ぐ人も少なくなりましたが、こんな話が残っています。
 排土口から構内に入った。カンテラをかけダイナマイトの箱を肩に担いで下って行った。途中で爆発した。助け出されたが体半分に小石が刺さった状態であった。その頃、城山には医者がいなかったので、付き添ってはいたが手の施しようがなかった。やがて死んだ。地元の年寄り達が気の毒に思い念仏を唱えた。
 夜、飯場から遠い故郷を思ってか時折「アリラン」や「トラジ」の歌が聞こえてきた。

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