教科書に載った小説家加藤武雄
              追加 2012・6・23 「資料相模が丘中学校、校歌の作詞について」を追加
                            加藤武雄の年譜
        大正15年中学国文教科書 巻3 

              目次    
1 この春          北原白秋
2 峠の茶屋         夏目漱石
3 潮の岬        杉村廣太郎
4 若き希望 
5 鍬と小判        加藤武雄
6 鼠            吉村冬彦 
7 水車  尾上柴舟
8 決別           広瀬武夫
9 閉塞隊
10 札幌農園        菊池幽芳
11
12 千家元磨
13 貢進生 大月桂月
14 杉浦重剛君を弔す 穂積陳重
15 東宮御成婚奉祝会 永田秀次郎
16 夏の小曲         三木羅風
17 巴里より        島崎藤村
18 平和は成れり      近衛文麿
19 九十九里浜       徳富健次郎
20 正覚坊 北原白秋
21 本能寺の夜嵐
22 豊臣太閤        三上参次
23 歌話           中邨秋香
24 君が御蔭
25 利根の上流を 菊池 寛
26 錦帯橋 五十嵐力
27 日本一          新村 力
28 厨子王          森 林太郎

      5 鍬と小判 
 二人の子供がおりました。その二人の子供の前に神様が出て来て、一人の子供には小判をくれました。
一人の子供には鍬をあたえました。鍬をもらった子供は、小判をもらた子供をうらやんで、神様の片手落ちを怨(うら)みました。すると神様が云いました。
 私はこんな風のお伽噺を書こうとした事がある。神様はいやいやお前は鍬の価値を知らねばならぬ、鍬は小判のようにすぐお前の役に立たないが、力をふるってその鍬を土に打ち込め、そうして大地を耕せ。お前は多くのものをそこに穫り入れるであろう。そう神様がさとすのだ。まあそんな風のお伽噺なのだ。

 この二人の子供のうちで、私などは明らかに鍬をもらった方、鍬党なのだ。芸術家としても、また単に人間としても、すぐ役に立つ小判のような天分は恵まれていないのだ。もらったものは鍬なのだ。だから努力して土を掘りかえさなければ、どうにもならないのだ。
 もう十年も前に、ある文学雑誌で、文壇の諸家に芸術製作に必要な条件という問いを発したことがある。その答えにはいろいろあったが中で、たしか木下杢太郎であったと記憶する、贅沢(ぜいたく)、怠惰(たいだ)の二つをあげていた。

 贅沢と怠惰とを縁として生まれる芸術。その頃猛烈な唯美(ゆいび)主義者だった杢太郎氏の芸術観から云えば、芸術とはなるほどそういうものかも知れない。ほんとうの傑作(けっさく)というものは苦心から生まれるものではない、ゴツゴツとした努力から生み出されるものではない、すらりと自然に出来上がるものである。
 私はまたこういう意味のことを、訪問記者をしている時分に、岡田三郎助画伯から聞いたことがある。その時、あの顎(あご)の先にしょぼしょぼと鬚(ひげ)を生やした、前歯の抜けた、血色のよくない、しかし、いかにも芸術家らしい高貴な感じのする温乎(おんこ)しとて玉の如しとでもいうような画伯の風ぼうに見入りながら、私は、なるほどそういうものかも知れないと思った。そして、一個の芸術苦学生であった自分自身を省(かえり)みて、聊(いささ)か心の寒きを覚えたことがある。

 外の事はとにかく、芸術だけは、畢竟(きっきょう)天分の問題だ。天分がめぐまれていない以上、逆立ちをしたって、とんぼがえりをして見たって、どうにもなるものではない。私はそう思うといつもひどく憂鬱(ゆううつ)になった。
 だが、私は、近頃では、負惜しみかも知れないが、おれにだって天分はあるんだ、ただ、その天分が小判でないだけだという一つの信念に到達するようになった。生まれながらに具(そな)わったすぐに使える何ものかは自分にはない。神様から小判はもらって来てはいない。けれども、鍬はもらってきているわけだ。一生懸命に汗みづくでこの鍬を打ち込んだら、何か収穫ができるに違いないーそう、今の私は考えているのだ。

 そして、すこし蟲(むし)のいい考えかも知れないが、たとえばゾラのような鍬党の大家が文学史上に決してすくなくはない。いや、トルストイだって、ユーゴーだって、小判より鍬の方だ。彼らの芸術は、決して贅沢(ぜいたく)と怠惰(たいだ)の中から生まれたものじゃあない。すらりと出来たものじゃあない。みな、苦心と努力との賜(たまもの)なのだ。そんな風に考えることによって、私は大いに勇気づけられるのである。

 私のこの考えが、どんなに愚(おろ)かなものであるにせよ、どんなに辻褄(つじつま)の合わぬものであるにせよ、請(こ)う君よ笑うことなかれ。私には、是非こう考えなければならぬ必要があるのだから。
 これは或人々から見れば、まったく一つの「お伽噺」であるかも知れないが、おお、何と人間にはお伽噺が必要であることか。


       而して(しこうして→そうして)      穫る(とりいれる)
       贅沢(ぜいたく) @身分に過ぎたおごりA必要以上に金をかけること。
       怠惰(たいだ)  なまけおこたること
       唯美(ゆいび)主義 人生の最高価値は美にあるものとし、その境地を楽しみながら
                    精神の内容を豊富にしようとする、芸術至上主義の考え方。
       温乎(おんこ) おだやかな様子   畢竟(きっきょう) つまり
       天分(てんぶん) 天からうけた職分・素質・才能

       木下杢太郎   本名は太田正雄、医学者、文学者、医学博士、明治18年静岡県伊東生
       岡田三郎助   洋画家東京美術学校教授 明治2年佐賀県生
       ゾラ        フランスの小説家(1840−1902)
       トルストイ    ロシアの小説家思想家(1823−1910)
       ユーゴー     フランスの詩人小説家(1820−1885)
       或人々から見れば 原本では「これは宇野浩二氏の言葉で云えば」となっています。
 

           
   加藤武雄氏の家庭     教科書のモデルとなった 「鍬と小判」が掲載された
   「新潮」大正8年11月号より  「わが小画板」   「中学 国文教科書」
                大正13年10月発行    大正15年2月発行
                               日本近代文学館所蔵

    相模丘中学校校歌     作詞 加藤武雄  作曲 佐々木章

      1.独り立つ宝が峰の         2.相模川遠く流れて
       ゆるぎなき姿尊し           うるほすや地をも人をも
       ただ恃め 己の力           町びとの命の水は
       この意気に               にごりなき
       この意気に国も興らむ       濁りなきわれらのまこと

      3.これの野を狭しと言うな      4.春林 相模が丘は
       心こめ深く耕せ             花も咲き 鳥も歌えり
       黄金の麦 白銀の繭         よき郷を作るとわれら
       無尽の富                ここにして
       無尽の富 土にぞこもる       ここにして楽しく学ぶ

資料 相模が丘中学校、校歌の作詞について
 
            昭和26年11月21日 制定   作詞 加藤武雄

 

             
  作詞者のことば   加藤武雄
 講和の成立によって、日本は独立した。六年を越える被占領時代の憂鬱から、ここにようやく説し得たことは何と云っても喜ばしい。天は自ら助くる者を助く。佐藤校長が、私に校歌の制作を依
頼された時、説くに何よりも先ず、自助の精神を強調すべき事を以ってせられた。勿論、私も同感だった。朝夕我等の眼に親しい宝ヶ峯の、ひとり立つ姿に私はこの精神の象徴を見、先ず之を歌った。他(ひと)を恃(たの)まず唯己の力を恃む、この意気でやってゆけば、身も立ち、家も興(おこ)り、国も従って興るであらう。
 ただここに注意すべきは独立は孤立ではないということだ。独立は協調をこばまない事は、独立国の日本が同時に国際連合の一員である事でもわかる。頑
(かたく)なに己に執し、好んで他にもそむくのは田舎風の一国者のなすところ、単なるひねくれ者、いこじ者のする事である。宝ヶ峯の裾を洗う相模川は、遠く流れて相模の平野をうるおす。相模川の灌漑がなければ相模の平野は無い。相模川は地をうるおすと共に直接に人をもうるおすーというのは、横浜市、川崎市などの住民に飲料水を供給するのは、相模川だからである。相模川の水は、水道に引かれて町びと(市民)たちの命の水となるのだが、この(いのちの水)という言葉に、私は精神的意義を加えたつもりだ。その濁りなき水は我等の濁り無き心のまことであるあるというところに、御注意ありたい。我等の村の土地は狭いが、八千萬の人々に四つの島、これは日本全体の事だから、どうにも仕方がない。その狭い土地を狭しとせず心をこめて深く耕し、収的農法、精細農法によって、百パーセントに地力を生かす外に方法は無い。
 天地
(あめつち)の恵み積み置く無盡蔵ーとは、相模が生んだ野賢二宮尊徳翁の言葉だ。尊徳先生の教訓をあたまにおいて、「無盡の富」という言葉を使った。「春林」というのは学校所在の地鮎の字(あざ)の名だ。こんなに美しい字名は無いので相模丘のまくらにつかったのである。(原文)

          
       城山・津久井城址  ↑宝ヶ峯      相模川小倉橋周辺


 ホームページ掲載の経緯
 上記短文は、加藤武雄「わが小画板」の中の「私のお伽噺」を「鍬と小判」と改題し、大正15年2月に「中学 国文教科書 巻三」として教科書に掲載されました。
 平成8年10月20日、加藤武雄出版目録作りの中で偶然この「教科書」を発見、その後も「加藤武雄」についての書籍がないか、調査してまいりましたがなかなか見つかりませんでした。平成10年5月に入り、加藤武雄の幼友達、故金子茂一様の家より貴重な明治・大正・昭和期の蔵書を寄贈して戴きました。その中には勿論、加藤武雄の本も含まれています。現在「金子文庫」として城山町教育委員会が大切に保管されております。
 平成16年大阪府千里万博公園内にある、国際児童文学館が日本財団の助成を受け戦前「日本の子供の本100選」を制定、その中に加藤武雄の名作「君よ知るや南の国」が選ばれました。
 現在、加藤武雄に関する本は残念ながら書店で再販されておりません。手ごろな新書本のような本があればと思いますが現実はないのです。せめて「教科書」に載った「鍬と小判」だけでも多くの皆様に知って戴きたくHPに掲載させて戴きました。そして地元、中学生が歌う相模丘中学校の校歌、「三番」に寄せた作者の深い意味をご理解して戴けたらと思います。 (保坂記)
        
      資料 相模丘中学校校歌 −昭和26年11月21日 制定−
        編集兼発行者 佐藤勇  発行所 相模丘中学校 発行日 昭和27年2月1日


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