「第一歩」「武相の若草創刊号」に見る加藤武雄の出発。

 十五の春、小学校を卒業した。その前の年の暮、失火の為め母屋が焼かれてしまった。蚕室を住居としたわびしい暮らしだった。蚕室の入口のところに大きな柚の樹があった。六月になると白い花が咲き、その花のかほりが、夕闇の軒先に漂うた。明日は家を出ようとする前の晩、私は、その柚の花のかほりの中に、希望と不安と、若干(いくら)かの悲哀とに胸を○ざされながら、立ちつくしたことを思い出す。
 学校を出ると、すぐに、鎌倉の師範学校で行はれる小学教育検定試験を受けて、尋常小学准教員の資格を得た。横浜の方に口があるから出て来いと云って、私を呼んで下すったのは、私にその試験を受けるやうにすすめて下すった千代延(ちよのぶ)先生であった。私は喜んで横浜に出かける事にした。明治三十五年、未だ横浜八王子間の鉄道の出来ない頃である。私は、父に伴われ、横浜水道に沿うた道を徒歩で横浜に出かけた。夏草の繁った道には、時々、黒い揚羽の蝶が懶(ものう)いカアヴを描いて飛んでゐた。日の暮れ横浜の町にはいったが、行きちがふ人や車の目まぐるしさに、眼がちらちらとして物のかたちをはっきりと見とどける事が出来なくなったことを思い出す。
 千代延先生は、本町小学校に教鞭を執って居られたが、私を、その頃横浜市の学務課長をして居られた林観悟氏に紹介して下さった。林氏は、私の為に戸部尋常小学校の補助教員といふ一つの位置を見つけて呉れ、又、私をその家に寄食せしめて呉れた。
 十五歳の私は、勿論教壇に立つことは出来なかった。絶えず机の間を見廻りながら、個別的に生徒の成績を検べたりするのが補助教員としての私の役目だったが、ややもすれば、その役目を忘れて窓に倚りかかりながらぼんやりと物思ひに耽ってゐた。私の空虚(うつろ)の眼の前には、祖母の顔が浮び、母の顔が浮び、城山と相模川とが浮んだ。私は、猛烈な郷愁に捕へられたのである。
 林氏の家では半(なか)ばは書生だった。玄関の先の三畳にゐて、来客の応対をしたり庭を掃いたり、主人の書斎の掃除をしたりした。夕方豆腐屋の觸れ聲が妙に悲しく私の里ごころをそそった。私は意気地もなく、涙を流す事があった。そのくせ私は、亜米利加に行きたいなどと考へてゐた。私の机上には、日本○史が置かれ、中学世界が置かれ十五少年が置かれ、そして「渡米案内」が置かれてあってあった。
 やがて、林氏の家を出て私は、伊勢町の或る宿に移った。ぼんやりとした、気の利かない、そのくせいやに神経的(ナアプス)で腹立ちっぽい少年は、先ず第一に、夫人の気に入らなかったのだらうと思ふ。私は、書生としては見事に落第したのである。

 宿は二三回変わったが、兎に角、十七の春まで私は横浜にゐた。十七の春になると横浜市では准教員といふものを一切使はないといふ事になったので、否(いや)でも応でも、私は横浜を去らなければならなかった。私は何の得(う)るところもなく、再び故郷に戻らねばならなかった。
 明日故郷にかへるといふ前の晩、千代延先生をお尋ねしたら、先生は、いろいろ慰めて呉れられたが、私は、折角望みを抱いて来たのにーーーと思ふと、何となく悲しくなって、口惜(くや)しくなって、とうとう泣き出してしまった。先生は、さも困ったといふ顔でだまった私の顔を見て居られた。
 先生は宿まで俥(くるま)をやとって下すった。私が、先生に別れを告げて、俥に乗るべく、玄関から降りようとすると、先生は「おい! おい!」と呼ばれた。「帯が、帯が解けてゐるよ。」
 気がついて見ると、私は解けかけた帯をずるずると引き摺ってゐるのだった。帯をずるずると引き摺りながら、泣き顔をして郷里にかへってゆく少年の姿ーー先生は、どんなになさけないものにそれを見られたのであらう。先生のその時の顔を、私は今でもはっきりと思ひ出す。
 ここまで書いて来て、私は、先生の温容の髣髴(ほうふつ)として眼に浮ぶを見る。ああ、千代延咸三郎先生! 先生は五六年前亡くなれたさうであるが、十幾年來打絶えたまま、私はその時もくやみの手紙一つさしあげなかったのである。先生の奥様にも種々お世話になったものだ。私を、世の中に引き出して下すったのは、実に千代延先生である。私は先生の霊に対し答ふるところを知らないのである。

  資料 「武相の若草」 創刊号 神奈川県青年団聯合会 発行 大正13年9月1日


         加藤武雄と一瀬豊・農民文学の扉
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