加藤武雄の文学碑

      わが日は暗し わが夢は はるか也   加藤武雄
                       作成 2009・1・18
                       追記 2010・10・28 リヤカーが通る旧道写真
 
 加藤武雄文学碑
       

     ↑黄点が文学碑の場所
「城山町広報 第15号」より  昭和40年8月18日
 神奈川県相模原市城山町の山中(さんちゅう)に加藤武雄の文学碑があります・文学碑の正面には津久井の城山が聳え、裏手には昭和40年に完成した城山湖が見えます。
 眺望は素晴らしく湖の延長上には高尾の山なみがみえます。また湖があることで渡り鳥にとっては休息の場になっています。そうしたことから野鳥の種類も多く「かながわの探鳥地50選」にも選ばれてもいます。この文学碑建立の地は、加藤武雄が晩年、幼馴染とリヤカーに乗って訪れた記念すべきところです。
 文学碑は湖を囲む周遊路からほんの少し外れていますが、テーブルなども用意され休息もできますので是非お立ち寄り下さい。
文学碑の言葉

   わが日は暗し 
      わが夢は はるか也  


              加藤 武雄
    撮影2010・10・12
    
       文学碑に通じる旧道
 裏面 撰文は加藤武雄の親友である木村毅によって記されています。その撰文の内容をめぐり依頼者と町との間で紛糾事態が生じ序幕式までに相当な時間を費やしたことがありました。今ではそうした当時の状況を知る人もだんだん少なくなってきましたが、加藤武雄の実弟で「はぐさ会」を主宰していた加藤哲雄は当時の様子を「はぐさ 十一月号第149号」に記載しました。
 撰文の内容を後日HPに掲載しようかと思っておりすが、内容が一部分かりにくく読み取れない部分もありますので後日拓本などを取り収集して行こうと考えております。


文学碑建立までの経緯
資料@  はぐさ会 昭和40年11月発行
文学碑が遅れる  加藤哲雄
 兄加藤武雄の文学碑については、莠会員の特別な活躍を頂き、何とも御礼の申しあげようもない。恐らく形の上でも実質的にもこの会員の様な理想的な協力を頂いた方は他にあるまい。十一月二十日前后除幕式予定が、色々の理由から遅れて、現在の処では来春になる模様だ。碑石も表面の「わが日はくらし わが道は はるか也」は己に刻みまって石屋にあるのだが、裏面の文章について色々の支障が起こり、統一に日時を費した。撰文は 木村毅氏に依頼して成文を得たのだが、地元から小中学校々歌の作詞の事を追加する追加する要求があったり撰文中「氏が学歴、師伝共になく」や「ナロードニキ(人民主義)的傾向著しく」「新潟県木崎村の農民小学校建設に尽力し」などの個所を削除せよ、という委員と、あくまで木村氏の原文を尊ぶという委員に別れて結論が出ず、未だに石屋へ本文がこない為である。
 私は思う。要は撰文を依頼したらあくまでその人に任せる。それが事実と甚だしく違っている場合は別だが、弟として兄の生前をみていて その通りと思う。故に削除する要なく 起草した人の創作を尊ぶことこそ必要だ。「学歴、師伝共になく」て 一家をなした事こそ 後世にほこるべきであり、貧しさから起こってこそ、「ナロードニキ的傾向をもつ」ことは極めて自然ではないか。
 原文 訂正の要なく 速やかに撰文を決定されることを祈っている。
(十一月二十日 記)

資料A 城山町広報  第18号  昭和41年5月21日発行
  郷土の生んだ大文学者 
      加藤武雄先生記念   文学碑立つ 眺望絶桂 本沢の地
 私達の敬愛する故加藤武雄先生が昭和三十一年九月一日に亡くなられまして、その葬儀に先生の出身地である城山町としては町長であった私と町議会から実弟加藤哲雄氏が議長であった為町代表の人名には加えないで副議長上原佳一氏始め各常任委員長等が式に参列、霊前に花輪香料等を供えて永遠のご冥福をお祈り致しました。其日私達代表は本町の生んだ加藤先生の偉業を偲ぶ為に加藤文庫を作って後世に伝え以て次の時代の青少年指導養成の亀鑑と致し度き希望を述べたのであります。が種々の経緯もあって実現せず残念に思ったのであります。
 然し何等かの形に於いて私は所信の貫徹を希って各方面の視察或いは研修会等の都度文学者達の記念碑に留意し、ある時は写真にとって資料の蒐集に努めてきました。隅々昨年秋古賀残星先生の来訪を受け、城山町の観光地としての脚光輝く現状に鑑み、故加藤武雄先生文学記念碑建設も絶好の機会であることの意見の一致して、私は本町を始め東京都以外の各方面有志の賛同を求め、一方古賀先生は専ら新潮社社長さんを始め東京都内関係者の道志を糾合の結果、加藤武雄先生文学碑建設委員会を結成実行に移った。その発起人は下蘭掲載の通りであります。
 斯くして、建設費百五十何円として、城山町本沢の丘に建設に努力して、去る四十一年四月九日関係各位崇拝者多数の参列の下に、盛大に除幕式を挙行した。
 茲に待望久しかった事業の念願も成就したので、一同歓喜の雰囲気に陶酔の体であった。
 私は此の事業の趣旨、目的を後世に伝え広く現場に於いて一首を棒呈したのであります。
     城山の国見の丘に  君が詞を 
          彫りし碑を建て 永久にたたえむ
 註 城山町の中で加藤先生の親しんで居られた城山を始め根小屋・中野・相模原・厚木・町田・八王子・更に相模・武蔵・甲斐の諸国等何処も此処も一番よく見える場所に先生の「 わが日は暗し わが夢は はるか也」の詞を彫った碑を建てて、永久に、尊敬していきたい私の信念を表したものであります。(本文中「私」は町長小磯武二氏


 
城山町広報  第18号  昭和41年5月21日    撮影2009・1・18  設計 丹下健三
 41年4月9日 除幕式

     裏面の撰文


文学碑建立の賛同者
藤武雄文学碑建設委員会(五十音順)
発起人代表 木村毅・小磯武二・古賀残星・佐藤義夫
        中村白葉
発起人(○印実行委員) 有馬頼義・浅原六朗・安西勝・石川達三・伊福部降彦・石原文雄・岩田専太郎・今村源三郎・伊藤整・生田花世・五十公野清一・○打田村治・江戸川乱歩・○江成利有・大仏次郎・大木惇夫・大宅壮一・小原国芳・尾張真之介・木下宇陀児・川口松太郎・勝承夫・菅原宏一・城戸四郎・○木村毅・北町一郎・○小磯武二・○古賀残星・小暮実千代・○小室五平・○佐藤義夫・佐々木みね子・佐々木茂索・斉藤佐次郎・○斉藤篤太郎・佐多芳郎・白井喬二・白鳥省吾・須賀田正雄・住井すゑ・鈴木松雄・相賀徹夫・○相田隆太郎・添田知道・立野信之・○武野藤介・○田野倉盛介・丹下健三・角田喜久雄・坪田譲治・戸川貞雄・富永謙太郎・○中村白葉・中河与一・中河幹子・樽崎勤・中村星湖・中山義秀・丹羽文雄・野間省一・林唯一・原久一郎・橋本球・広津和郎・人見東明・○福原麟太郎・○舟橋聖一・藤森成吉・○福田清人・星野哲次・○細田民樹・細田源吉・○丸山義二・三上秀吉・森田たま・○杢代武・望月百合子・○鑓田研一・山崎斌・山本和夫・○八木伊佐雄・○八木安太郎・湯浅克衛・吉屋信子・横溝正史・米川正雄・○和田傳・和田芳恵・和田日出吉・渡辺光平
     城山町広報 昭和41年5月号より
         加藤武雄と一瀬豊・農民文学の扉
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