昭和20年8月10日 ポツダム宣言受諾を世界に発信した多摩送信所 追加2012・11・19 大戸の河内さんよりお伺いした話 子どもや孫に伝えたいはなし ー昭和・激動の中の相原ー 2005・8.7(刊行) 相原保善会発行の記念誌 ーみんなの原風景ー ー昭和・激動の中の相原ー 境川をはさんで、となりの町田市相原町は町田市の一番西に位置しています。そこには全国的にも稀な、活動をされている「相原保善会」があります。様々な活動の中から平成8年には「明治・大正の頃の相原 −みんなの原風景−」を平成11年には「子どもや孫に伝えたいはなしー昭和・激動の中の相原ー」を出版されました。私はその相原に約10年間の青春時代を過ごしました。日本電信電話公社相原合宿舎です。通称は「相原寮」と呼び、旧相原中継所の建物に住んでいました。夏には盆踊りやビヤパーテイ、秋はバス旅行などみんなで楽しく過ごしました。こうした縁もあり2冊の本を宝物のようにして拝読しています。今年は終戦60年の節目の年にあたります。本の中には空襲のこと、引き上げのこと、肉親を亡くした悲しい話などが綴られています。 私は子供の頃、おじさんたちの集まる寄り合い等で戦争中の事をよく聞かされました。あーだった、こうだったと、また田んぼの脇には赤錆びた「焼夷弾」の破片も落ちていました。 「防空送信所回想録」はP59からP61に記載された貴重な記述です。また「世界初、3000kの無装荷ケーブル」は「さがみ野」昭和58年1月号に記載したものをそのまま掲載しました。通信にかけた人々の思いを感じて戴けましたら幸いです。 防空送信所回想録 元技術職員 八王子 橋本文雄 太平洋戦争末期、本土空襲に備えて軍部、情報局、逓信省等から、国際電気通信株式会社(現、KDD)に対し、必要最小限度の送信機を確保するよう要請がありました。 それに応え50KW電話送信機1基・20KW電話送信機1基・20KW電信送信機6基程度の設備で、海外放送・電信放送及び電信連絡を最後まで保持することになりました。 最も安全な場所であり尚且つ必要な電力の供給、送信所までの有線のケーブルが容易に確保できなければならないし、真空管の冷却用の水も考慮しなければならないのです。 土地の選定は陸軍省築城本部に委託して、防空上の見地・その他、図面の上。実地路査等の結果、耐弾式送信所として、足柄送信所が、隠蔽式送信所として、多摩送信所の土地が適していると選定され建てられたのです。 足柄送信所は、旧東海道線で複線であったのですが、当事は既に御殿場線として単線で、神奈川県の山北駅と静岡県の駿河小山駅の中間の廃止になっている、第5号トンネルが選ばれました。酒匂川の辺で、峰発電所が間近にあり、電力の供給は容易でした。 トンネルの長さは275m幅は3.5m岩盤の厚さが30m以上あるので爆弾のも耐えられるが、湿度も高く挾隘のため工事も困難を極め、機械を据え付けるとその前後は一人が辛うじて通れる程度でした。 20kw電話送信機1基と、20kw電信送信機3基を備え、アンテナは、トンネルの上の高台に60mの組立木柱を建て、新京・上海・欧州・南米・北米中部・ボンベイ・シンガポール等の方向に向けられました。 困難を克服して昭和19年6月に起工し、11月には電波を発射し、戦争末期の通信を確保したのです。私事ですが、八俣送信所に赴任しており、技術課長の津村さん(初代所長)に誘われ、足柄送信所に勤めたのです。
局舎は全て木造桧皮葺きで、外装も桧の皮を張り迷彩色を施し、局舎に付属して電力舎・ポンプ舎・倉庫・事務所等が設けられ、社宅については付近の民家を借り上げなどの方法がとられ、独身者の寮も建てられました。職員の数は最高時に50名、内訳は技術者35名事務職員15名でした。 アンテナは7万4千坪の樹林の間に隠蔽配置され、友好国のドイツ専用として指向性アンテナ2基(ドイツが連合軍に降伏のため使用せず。)・陸海軍の戦略として無指向性アンテナ2基海外宣伝用として円形型回転式指向性アンテナ2基でした。支柱は木製の組立式で、基礎のコンクリートの上に8本の防腐処理をした木の素材をちぐはぐに束ねた、高さ60mの木柱で、十数本立ち宛も蜘蛛の巣のように張りめぐらされ、八王子市の富士森を越えると南の方向に見えました。 連絡線は、同社の相原中継所(有線)を経て、放送用2・同打合せ用1・電信用5・同打合せ用1・相原中継所との打合せ用1の、ケーブルが埋設されました。 電力の供給は、津久井発電所から専用架空線で受電されましたが、この架空線はアルミ線を使用しましたが、わが国最初の試みであったとされています。 八俣送信所からの50kw送信機の移設工事も4月に完了し、5月5日に本放送が開始されたのですが、真空管等資材の不足のため、実際の出力は20kw程度のようでした。 防空送信所の指名は僅か3ヶ月で、昭和20年8月15日の終戦と同時に一切の海外放送は終わりました。 僅かな期間ではありましたが、大きな指名を果たしてきたのではないかと思っています。 中でも、歴史に残る「ポツダム宣言受諾」の放送は全世界に向けて、多摩送信所から発信されたのです。 時は昭和20年8月10日でした。 終戦時は一時停止され、9月より東亜放送に約1年使用され、昭和21年(1946年)10月25日、この日を最後に多摩送信所からの電波は停止しました。 その後50kw送信機は八俣送信所へ、20kw送信機は3基は小山送信所へ、それぞれ返還され、土地物件などは精算会社の手で売却され、現在は法政大学のキャンバスとして大きく変貌しました。大学の御好意で、校地内に記念碑が建てられ永く後世に残ることでしょう。 さて、私事ですが、足柄送信所から兵役で約3が月間参謀本部直轄の、1kw1基の少規模な電信送信所に配属され、間もなく終戦となり、会社に復帰、多摩送信所に転勤して、懐かしい八俣送信所から来た(R2)「50kw送信機」と再会したのです。感無量のものがありました。 約1年間の思い出の多い多摩送信所をあとに、20kw送信機と共に、小山送信所に転勤をしました。 激動の半世紀の青春時代を無線の最前線に勤められた事が今更ながら走馬灯のように懐かしく思い出されます。 多摩送信所最後の記念写真 多摩送信所の円筒型送信塔 法政大学提供 資料 法政 通巻534号 P34 「世界平和への扉ーポツダム宣言受諾発信の地」より (前略)昭和20年7〜8月の時期、多摩送信所には緊張が走っていた。「大阪河内送信所の最強の真空管を多摩に移せ」「送信機のパワーアップに全力を尽くせ」という指示である。関係者は走った。汗を流した。しかし、技術の限りを尽くしても、10キロワット止まりが限度だったという。このような指示は、恐らく緊張時の送信の可能性が前提にしてのことに違いない。 そして多摩送信所が最重要任務を果たす時が来た。長崎に原爆が投下された翌日の8月10日、それはポツダム宣言受諾発信である。「宣言に挙げられたる条件中には天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることを了解の下に」という条件を付したものではあった。とにもかくにも、日本の降伏宣言は土ヶ谷上空からも世界を駆け巡った。次いで連合軍の攻撃は休止した。「タイムズ」(ロンドン)8月11日号には、平和到来の歓喜が街頭にあふれる記事が出た。しかし、日本国民はなお呻吟し続けていた。ようやく8月15日正午、「国体ヲ護持シ得テ」と拘っていたが、いわゆる「玉音」放送によって降伏を知らされたのであった。 (法政大学大学史資料委員会特別調査委員 大野健一郎)
![]() ![]() 記念碑プレートとアンテナ台石 ![]() ![]() 記念碑裏手の池
ポツダム宣言受諾への道
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