一瀬豊の故郷        作成2008・9・16
                                撮影2008・3・12

 一瀬豊さんのメモ
 上野小学校卒業名簿として大正7年3月27日卒業(六ヵ年)
 34名中に名前がある。 三珠町誌

 昭和14年12月6日に結核で他界  享年34歳    

   
 生家からの景観(南面) 市川三郷町上野川浦地区    一瀬豊の生家

   
  一瀬豊が闘病生活を送った離家の跡         菩提寺 不動院
   (庭の石組みが僅かに残っています。)

     
 一瀬豊が眠る墓碑  山梨県指定天然記念物 一瀬桑の親木
 戒名 寂如院唯学豊潤居士 昭和14年12月6日 豊 34才

 

 県指定 天然記念物
        一 瀬 ク ワ
                昭和五十一年二月二十三日指定
                所在地 山梨県西八代郡三珠町上野三三
                管理者 市川三郷町
 明治31年ごろ西八代郡市川三郷町旧上野村)に住むの一瀬益吉氏が、中巨摩郡田富村(旧忍村)の桑苗業者から購入した桑苗(品種「鼠返」)のうちから、本来の鼠返とは異なる性状良好なる固体を発見し、これを原苗とした代出苗を繁殖母体として、自己の桑園を造成するとともに村内と近村にも配布した。大正5年に行われた、西八代郡農会主催の「桑園品評会」に出品した一瀬氏の桑園が桑の収量、葉質ともに抜群であることが認められ、さらに同年の大日本蚕糸会山梨支会主催「第三回蚕糸品評会」においても、優等賞が授与され斯界の注目を浴びるに至った。
 一瀬氏によって選出されたこの桑苗には性状がいくぶん異なる二つの種類があった。一つは条(枝)の伸長梢々長く、古条(秋季落葉後の枝)は青灰色を帯び、一つは条長が短かい反面、葉の着生が密で、古条の色は赤味を帯びている。このことから前者を白鼠、後者を赤鼠と呼んでいたが、のちに「一瀬クワ」と命名されてからは、白鼠を「一瀬」の青木、赤鼠を赤木と呼び変えられることになった。
 「一瀬」の命名は選出者の一瀬の姓をそのまま冠したものであり、全国的に普及されるに至って、農林省は全国の共通名を「一ノ瀬」とすることに統一したが、本県では前記の蚕糸品評会のさい「一瀬クワ」として出品されたことから現在においても「一瀬クワ」と呼ばれている。
                    山梨県教育委員会
                    市川三郷町教育委員会

山梨県
に於ける貞明皇后による蚕糸・絹業関係御視察   昭和23年9月14日
 
貞明皇后一瀬桑後視察記念樹碑

 ○富士シルク工業株式会社山梨工場(加納岩町)
 ○若杉好平、小池 清
(日下部町)養蚕家
 ○東山梨郡日川村大字中村の桑園密集地帯
  
(紅葉山御養蚕所飼育主任・有泉善三の郷里)
 ○橘田俊雄方の桑園
(浅間村大字千米寺)多収穫桑園
 ○駒澤文蔵
(浅間村大字千米寺)養蚕家
 ○山梨県蚕業試験場
(西山梨郡甲運村)
 昭和23年9月15日
 ○小林 茂
(西八代郡上野村川浦)養蚕家
 
○一瀬 等(西八代郡上野村川浦)「一瀬桑」発見者益吉の子
 ○丸山秀樹
(東八代郡豊富村)養蚕家
 ○旭興業株式会社
(甲府市外住吉村)回転蔟製造業
 ○石川慶作
(甲府市伊勢町)座繰生糸工場
 ○保証責任生糸販売組合連合会模範社
(国鉄中央線龍王駅前)
 ○北巨摩郡塩崎村
、桑園密集地帯
 ○古屋傳市、輿石善平
(北巨摩郡塩崎村)、養蚕家
                   参考 hp‘silk new wave‘より引用
 一瀬豊の追憶
 加藤武雄に今更ながら驚いている。隣町から城山町に引っ越して20年は過ぎた。隣町では八木重吉の詩を読んだ。加藤武雄とは遠い親戚と云う。加藤武雄の文学碑も見に行った。「大きな文学碑だ」と見るたびに思っていた。
 だがまてよ、彼の本はどこにあるのだろう。それが私の最初の疑問であった。大衆小説家、通俗小説家、時には編集者とも言われていた。地元では農民文学者ともいっている。「でも本当にそうなのか」私は最近まで、「どこが農民文学者だろう」と疑問ばかりが浮んでいた。
 農民学者では神奈川では和田伝か、確かに農業の話をしている。秋田の伊藤永之介だって農民や漁民の話が出てくる。それなのに加藤武雄の作品にはそれがない。それでも農民文学者といえるのかと悩んだ。
 和田傳は随筆「加藤武雄との出逢い」の中で「・・・いま大衆小説の作家として忙しい明け暮れだがいつまでもこういう生活をつづけてゆくつもりはない。再び私の本領にたちかえり、郷土芸術家としての更に新たなる歩みを踏み出そうと思うと言っておられた。それは控え目ながらつよい宣言であると私は受け取り、ホッとしたことだ。」と、・・・・また、HPの中でも取り上げた「木食上人」の一文にも、やがては農民小説を書きたいと漏らしていた。
 周囲の人々も、そのことを信じていたがとうとう果たせなくこの世を去った。。
 だが、本当にそうだろうかと私は自分自身に疑問を投げかけるようになった。命にはかぎりがあることだ。意思を繋ぐ・・継承する・・・人には意思を伝え合う言葉や文字があることだ。
 山梨にも加藤武雄から教えられたと思う人々がいた。一瀬豊、石原文雄、相田隆太郎の3人は確かだ。中でも一瀬豊は34歳の若さでこの世を去ったが、加藤武雄の考え方を「農民」という機関雑誌の中で繰り返し訴えた。それは農民運動の大同団結であった。「農民」第2巻第3号「戦線の拡大的大同団結」と第2巻第4号「農村進出の急務」に書き記されている。だが「農民」と云う機関雑誌は遇えなく主義主張の違いから加藤武雄や若かりし一瀬豊、石原文雄、相田隆太郎等を排除、突然に終刊して第2次「農民」へと移行していく。
 一瀬豊の作品は未だどこかに眠っているのかも知れない、私は将来に可能性を秘めた若かりし日の一瀬豊の作品にもっともっと出会って見たいと思う。
 そして今、農業が苦しみ喘いだ時代を乗り越え、消費者の立場から安心で安全な食を求め合う新しい時代が来たことを。生産者と消費者が本当の意味で直結する時代が来たことを思うのである。それにはお互いのコミニケーション(意思)を伝え合う新たな文学とも云える「言葉のつながり」も必要であろう、それを新たな農民文学と呼ぶのであろうか。私は一瀬豊さんを通じそんな風に新たな文学の誕生を予感している。    

       参考 和田傳 生涯と文学   発行 昭和63年7月 厚木市立図書館叢書1
                         
           加藤武雄と一瀬豊・農民文学の扉
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