麻溝開墾記念碑
                                       作成 2016・11・5
はじめに
 開墾とか開田についての記念碑は、市内にも数多く建立されていますが、その建立の時期は戦後の復興期を乗り越えた記念碑的なものが多く残されています。しかし、その多くは道路や宅地開発によって、建立の場所を変えたり、目立たなくなっているのが現状のようです。
 「麻溝開墾記念碑」は、昭和13年3月に建立されました。その特徴は、相模原が「軍都」として発展したその陰で、土地を追われた住民たちが生き残るために「耕地整理組合」を設立し畑地を作ったことの記念碑です。
 記念碑建立から凡そ80年、周辺の環境は変わりましたが、こうした記念碑を訪ね、先人の労苦を偲ぶことは決して無駄なことではないと思います。ちょっと訪ねて見ては如何でしょう、どなたかが、碑文の汚れを落とされ、たいへん読みやすくなっていました。

JA麻溝前にある「開墾記念碑」
 昭和十三年三月建之 (裏面)



篆額揮毫 神奈川縣經濟部長正五位勲六等 渡邊 廣
昭和十一年十月陸軍士官学校相武臺移轉ニ伴ヒ同校東京郊外練兵場
亦相模原ニ設置セラレ本麻溝村大字下溝芝野ニ亘リ畑地百七十町歩
ノ廣大ナル土地ヲ右敷地シテ譲渡シタル為耕地ノ全部或ハ大半ヲ
失ヒ農作不能ニ陥リシモノ多数ヲ生ジタルヲ以テ村當局ハ之ガ対策
ヲ講ズルヲ※1焦眉シ急ナリトシ村會ノ議決ヲ経テ失業対策委員会ヲ設
ケ対策ヲ企畫セリ就中(なかんずく)最モ通切ナル根本※2匡救(きょうきゅう)ヲ目的トスル芝野耕
地整理組合ノ設立ヲ図リ昭和十一年十二月右設立ノ認可ヲ得同地ニ
開墾助成法ニ依リ農林大臣ノ指令ヲモ得テ工費一萬三千二百餘圓ヲ
以テ二十八町六反九畝歩ノ開畑工事ヲ起シ翌年三月工ヲ竣ヘル然ル
ニ前記事業ニ依リ開畑セラルタルモノハ失地々積ノ約六分ノ一ニ過
ギズ未ダ耕地ハ甚シク不足セルノ實情ニ鑑ミ隣接地二十八町七反九
畝ヲ第二次開墾工事トシテ施行センガ為芝原耕地整理組合ノ設立ヲ
見昭和十二年十二月知事ノ認可ヲ得タリ翌年七月開墾助成法ニ依リ
農林大臣ノ指令ヲ仰ギタルモノニシテ此ノ工事一萬三千百餘圓ヲ要
シ昭和十四年三月工事完成ス斯クラ既ニ開畑地ハ着々ト成功ヲ収メ
而モ七戸ノ移住家屋ヲ造リ克ク※3期ノ成果ヲ擧ゲツツアルハ之偏(ひとえ)
ニ官民一致ノ賜ニシテ殊ニ麻溝村當局ノ指導盡力に俟(ま)ツモノ頗
ル多シ開墾ノ業完成ヲ告ゲルニ當リ郷土子弟ニ對シ永(ことし)ヘニ農耕ノ志(こころざし)
今ヲ傳ヘ常ニ発奮ノ資トナサンコトヲ憶ヒ滋ニ皇紀二千六百年ノ嘉
年ニ當リ開墾記念碑ヲ建テ※4後昆(こうこん)ニ示スコト爾(しか)
  
神奈川縣耕地課長淵田秋廣撰文 光明学園教諭小林重良書
                   ※1焦眉(しょうび)/まゆげを焦(こ)がすばかりに火が迫るように、危難が迫ること<
                   ※2匡救(きょうきゅう)/悪を正し,危難から救うこと。
                   ※3所期(しょき)/期待すること。また、期待するところ
                   ※4後昆(こうこん)/のちの子孫。

注 相模原の軍都計画につきましては、この項に追加するかたちで記述する予定でおります。
 尚、軍都計画が実行に移ることにつきましては概略ですが 「歌人、小林與次右ヱ門の生涯 ー戦後初の公選制による相模原町町長ー」の、昭和11年の項を参照願います。

               歌人、小林與次右ヱ門の生涯 ー戦後初の公選制による相模原町町長ー
               相模原の農業 
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