歌人、小林次右ヱ門の生涯
        ー戦後初の公選制による相模原町町長ー
                  
(小林與次右衛門 小林与次右ヱ門 年譜 生涯 市長)
2016・9・16 作成
2018・4・7 「相模原開発計画ニ関スル協議会」の出席者名を追加する
 かつて農政の神様≠ニいわれた石黒忠篤は、自らの農政思想の形成について「その頃、農政は柳田国男さんに、技術のことは安藤広太郎さんに教えを受けた」と戦後回顧しているように、柳田の農政思想は農商務省の重鎮、石黒に深く影響を与え、長く受け継がれてきた。しかし、明治末期のこの国の社会経済情勢の下では、柳田の徹底した自由主義、近代的経済合理主義から醸しだされた思想は、半封建的な地主本位の全体主義的な農本思想の蔓延するなかでは影の薄い存在であった。柳田自身もこの国の農政の有り方に減滅を感じてか、或いは「国家の論理」を見極めてか、新しい学究の道をえらび、民俗学という不撓(ふとう)の学問分野を開拓していった。
                                
「小林與次右ヱ門」 P306.307より
はじめに
 上記文章は、私家本「小林與次右ヱ門」の中の一説です。この農に於ける系譜は小林與次右ヱ門によって受け継がれました。大正七年の夏、日本で最初に行われたフィールドワーク(民俗学の合同調査)は旧津久井郡内郷村で行われました。この時、参加したのが柳田国男、石黒忠篤等でした。彼らは村の状況をつぶさに見て歩きました。当時の論文はそう多く残されていませんが、内郷村での経験は、後年その影響力を増大させて行きました。調査の場所を内郷村と決めたのは新渡戸稲造宅で開かれていた「郷土会」の席上からでした。稲造の祖父、父は青森県三本木原の開拓者で、小林與次右ヱ門が教えを受けた溝口三郎は所縁の深い三本木原開墾国営事務所長」をしていました。小林與次右ヱ門は、その地を訪ね溝口三郎と酒を酌み交わし開拓の地の見聞をひろめるとともに親交を深めました。
 私が、
小林與次右ヱ門を最初に知ったのは、お世話になっているNさんから見せて戴いた歌集「相模ひろはら」の中に収められた約八百首もの手打ちされた歌の綴りでした。特にその中の終りの方に詠まれていた「その昔詩人ハイネの生まれたる家なりといふ菓子賣れる店」と云う歌には驚かされました。詩人ハイネによる「ローレライ」の歌詞は余りにも有名ですが、ハイネの詩を日本語に訳した生田春月もまた、当時を賑わした詩人でした。加藤武雄と共に新潮社で働き、彼の瀬戸内海での投身自殺は当時の人々を震撼させました。
 小林與次右ヱ門はストックホルムで行われた「軍縮と国際協力のための世界大会」の日本代表副団長としての重責を終えた、ドイツでの帰り道、このハイネの生家を訪ねたのです。ハイネの生家を当初からご存じであったか、それは分かりませんが、あの小林與次右ヱ門の気骨さからすれば、どこか計り知れない心のヒダのようなものを感じたのでした。
  今年で、小林與次右ヱ門生誕百三十年を祝し彼の顕彰の意味を込めこの項を興しました。
  
    在りし日の小林與次右ヱ門
父を語る 小林正子
このたび皆様の御厚情によりまして父の追悼号を出して戴きますことは、まことに感謝に堪えない次第でございます。
父が御誌に入会させていただきましたのは昭和二十五年六月でございましたが、依頼十二年の長い間「小林与」のペンネームで親しんでいただきました。逝きましてから、はや九ヶ月余りが経ち、静かな秋の彼岸の今日このごろでございますが、在りし日の父の想い出を少し記してみたいと思います。年齢的に多くの歌友の皆様とは大分はなれておりました父は、お若い方々お会いしていろいろお話し合いをする事が最も楽しいことであったようでございます。歌会が開かれる日曜日など、市長当時はなかなか出席することが出来なかったようでございますが、これから出席しようとする時や「今日はこの集まりに行って来た」と私共に話します時、いつも「私のような年よりは少ないが、若い人達の中に加わるのはよいものだ」などと洩らしておりました。そんな時、父はいかにも無邪気そうな微笑をたたえていたことでございます。亡父について私がお話出来ますの
は、六十歳を過ぎてからのことごとでどざいます。/私は末子に生まれましたので家中のものから大事にされ、とりわけ父から可愛いがられて育ちましたことをつよく記憶しております。父は短歌を二十歳頃から始めていたそうでございますが、もとより、農家の長男に生まれましたので、夢多き青年時代より畑仕事、養蚕などに専念し、その土に親しむ生活の中で作歌をつづけて来たわけでございます。この父は五十年の間は、社会的にも多くの方々の御支援御指導を得まして種々つとめさせていただきましたが、まことに風雪と波乱の多かった生涯であったと存じます。/父の歌はそのような波乱の年月の、その時々の自分の気持ちや、感情を日記のごとく歌にとどめるという風でございました。父が六十歳の春、只一人の男子でありました兄が、戦死いたしました。その公報の入りました秋の父の悲歓は語ん言語に尽せぬものがあったと思います。この頃の父の心の奥底は今もたくさん短歌に残されております。しかし、父はその悲歓の中から奮起いたしたのでございます。その時から、家庭的にも、社会的にも精神的肉体的にも、亡くなった子供の分まで自分はやるのだという強い気持ちで力のかぎり頑張り通してまいりました。父は読書が非常に好きで暇さえあれば本をひろげておりました。只一つ父の変わった点は日常生活の衛生には大変潔癖で周囲のものがいつも気をつかう位でございましたが、「古本屋に寄って古書の棚を見る事だけは汚いと思わない」とよく自分で言っておりました。それ程本にかけては終始あたまから離れない有さまでしたから、どこにいきましても少しでも時間があると、先ず本屋に入っておりました。よく母が話しておりましたが、若い頃どんなに寒い夜でもきちんと机の前に坐り当時はランプを灯し、おそくまで読書に耽っているので家族の者は炬燵に入っていても気が気でなかったそうでございます。気の強い性格で家庭内はもちろんのこと社会的にもあまりにもきびしい面が多すぎた人であったと思うのでございます。父のこのきびしい面ではあるいは皆様に大変ご迷惑をおかけしたこともあったのではないかと思われます。このような父も二十八年一月私に長女が生まれまして、初孫を抱いた嬉しさは殊のほかだったようで、年老いて心の和らぎと共に、「子より孫の方が可愛い」という諺のように初孫に対する愛情は大変なものでございました。二人三人と賑やかになると共に世間並みの優しい良いお祖父ちゃまに、いつかなってしまったことでございます。三十二年スェーデンにおかれて開かれた「軍縮と国際協力のための世界大会」に出席出来まして、ついでに欧州各国を視察出来ましたことは父の生涯の最もしあわせな出来ごとでした。三十四年晩秋より家にこもる生活となりまして、ゆっくり読書を楽しんだり、また趣味でやっておりました郷土の歴史をしらべて歩くことなどあれこれ考えておりました。今まで健康の点では本当に心配なく過して参ったのでございますが、思いがけなく昨年春入院、手術後診療に九ヶ月余り、父は「もう一度丈夫になれる」と強い気構えで闘病の日々を送ったのでございます。しかしその甲斐もなく昭和三十七年一月十九日遂に永眠致したのでございました。
                      
 「醍醐・昭和三十七年十一月小林与追悼号より転写」 「小林與次右ヱ門」 P260〜262より
小林與次右ヱ門の生涯(年譜)     
西暦 和年号 年齢 事柄
1886 明治19 10月4日、高座郡上溝村、父小林民次郎、母エイの長男に生まれる。
1887 明治20 1 2月、大日本帝国憲法発布。
4月、町村制施行で溝村になる。
1888 明治21 2 8月、日清戦争(明治28年4月まで)
1889 明治22 3
1890 明治23 4
1891 明治24 5
1892 明治25 6
1893 明治26 7 4月、溝村尋常小学校入学。
1894 明治27 8
1895 明治28 9
1896 明治29 10 3月、溝村尋常小学校卒業。
4月、上溝小学校高等科入学
1897 明治30 11
1898 明治31 12
1899 明治32 13 3月、上溝小学校高等科卒業。  注 時期不明瞭なため再調査要 2016・7・27 保坂
1900 明治33 14 〇、産業組合法が施行される。
1901 明治34 15 2月、津久井郡葉山島村東林教校塾修業。
11月、高座郡農会乙種農事講習会を受講する。
1902 明治35 16 3月、津久井郡葉山島村東林教校塾修了。
12月、柳田国男が「最新産業組合通解」を刊行する。
1903 明治36 17
1904 明治37 18 2月、日露戦争始まる。(38年9月まで)
1905 明治38 19 6月、大沢産業組合が設立される。(大正6年までに田名、溝、橋本、麻溝ほか各地に設立される。)
    参考 「物資購買販売生産組合」 市史3巻年譜での表記
〇この年、上野英三郎が「耕地整理学講義」を刊行する。
〇この年、柳田国男が「時代ト農政」を刊行する。
1906 明治39 20 4月、溝村実習補習学校入学。
〇この年、河上肇が「日本農政論」を刊行する。
1907 明治40 21 1月、柳田国男が「法学新報十七巻第二号」に「農業用水ニ就テ」を発表する。
その論文は、(與次右ヱ門が購読していた「法律新報」の中に記述されている。)、短い文章であるが、石黒が指摘するように明治末期に書かれていながら、先の先を見透して利水の権利が、最初に取り組んだ者に「優先権」が与えられるという不合理性を追求し、水は、万人共有の財産として契約原理に基づく普遍性のある制度に切り替えるべきものであることを訴えている。全く與次右ヱ門の悩みを、一気に解きほどく内容であった。   小林與次右ヱ門」 P319・320より
緒言 町村ト用水 私設給水機関
用水ノ種類 公流ニ対スル引水権 結論
用水ノ将来 個人ノ用水権ヲ発達セシムヘキコト
3月、溝村実習補習学校甲科卒業。
3月、高座郡農会肥料鑑定講習会を受講する。
〇、此のころ俳句、短歌を学ぶ
研究資料@時期不明だが
(略)貴重な珍本ともいわれる江戸時代の代表的な農書の一つ「会津農書」を農民により理解させるため、その内容を一七〇〇首の和歌であらわした「歌農書」の写がある。この「歌農書」は農業の手解きだけでなく、その後の歌人としての與次右ヱ門の和歌への手解き、入門書の役割を果たしたものと思われる。   「小林與次右ヱ門」 P307より
1908 明治41 22 9月、横浜鉄道開通
〇、此のころ鳩川農学校設置運動で奔走
      (県南の平塚に農学校が開校されたことから 溝村長老77歳の佐藤市郎左衛門と若手小林と佐藤昌寿が先頭に立ち奔走する。)
1909 明治42 23 2月18日、祖母喜代72歳で死亡。
3月、相馬ツヤと結婚
〇この年、『耕地整理法』が大改正される。
参考@ 新『耕地整理法』(法律30号)は、開墾・開田の事業に加え灌漑排水設備工事をも実施が可能となり、相模野の開田事業に欠かすことのできない取水施設の造成という突破口が与えられることとなった。そして、従来、利水をめぐって潜在していた内務省と農商務省の権限問題の角逐が、内務省は『水利組合法』(法律五〇号)の定める河川の維持管理農商務相は耕地整理組合による利水を中心とする土地改良事業団体として、一応、両者の分野調整が図られることになったのである。農商務省は、法改正を契機として、東北地方の凶作(一九〇五年、明治三八年)、米不足、外米輸入の不円滑状態等を克服するため、未利用地の開墾による「農耕地拡張見込調査」を全国の道府県に指令した。→大正2年5月の参考Aへ 
                         「小林與次右ヱ門」 P314より
1910 明治43 24 3月、高座郡農会甲種農事講習会を受講する
   参考 高座郡農会甲種農事講習会の修業科目
病虫害論
養蚕論
肥料論
蔬菜論
植物整理営養論
土壌論
神奈川県農事試験場技手
神奈川県技手
神奈川県農事試験場技手
"
"
神奈川県前農会技手
西川豊次郎
露木清司
富樫常治
"
"
飯田吉英
作物論
土地改良論
畜産論
果樹論
農業経営論

神奈川県農事試験場技手
神奈川県農会技手
神奈川県技手

前神奈川県農事試験場所長
郡立中郡農業学校長
草柳正治
藍沢誠一
加藤房次郎
高橋久四郎
成田軍平
4月、「神奈川県農業技手」と「県農事通信員」を嘱託される。
1911 明治44 25 3月、神奈川県農会農事統計講習会を受講する。
5月10日、鳩川農学校開校、同校農事係 (溝、大沢、田名の三ヵ村組合立の農学校で上溝常宿寺を仮校舎として開校する。)
7月、鳩川農学校の教諭に嘱託され教壇に立つ。
8月1日、早稲田大学法律科講義録修了、これよりまえ同大学中等科、文学科講義録も修了。
8月11日、祖父與助79歳で死去。
〇この年、斉藤萬吉が「農家経済ノ状況及コレガ変遷」を刊行する。
〇この年、西村栄十郎が「全国農事会史」を刊行する。
1912 明治45
(7月改元)
26 8月、神奈川県教育会歴史農事講習会を受講する
11月、検定に合格して、小学校農業専科の教員免許を取得する。
1913 大正2 27 4月、鳩川農学校、助教授に昇進する。
5月、県が「相模原開田計画発表」実地調査を開始する。(大正4年まで)
   主な調査内容:水量調査・水路工事方法の実験・工事費用の積算等 
    調査の指導:有働良夫主任技師(のちの全販連会長)、小林は県農業技手の立場からこの調査に深く
    関与したため、教員間に批判の声もあがった。
 小林與次ヱ門」 P23より
  
   農業土木の先駆者
     有働良夫

参考A 明治42年の参考@より→
その一環として広大な未利用地資源をもつ相模野が開田開発のための調査地区となったの
である。與次右ヱ門はこの調査の指導のために出向し、鳩川農学校を訪ねてきた農商務省農政課主任技師、有働良夫とめぐり合うこととなった。農場を案内した與次右ヱ門に、
「小林先生、田圃の値打ちはどうやって計りますか」
「私は表土の深さできまると思います。金尺で計って良し悪しを生徒に教えています」

「なるほど、表土の厚さですね、なるほど」
実習農場の水田で、実際に計測してみせた。有働は、余程感心したらしく
與次右ヱ門の精悍な顔をまじまじと見据えて、
「小林先生、私は、相模野では一万町歩(一万ヘクタール)の開田ができるものと、今度の調査で確信を得ました。相模川の水は、今なら余裕がありますよ。早く開田計画を作り耕作にしないと、東京の電灯会社に水を取られてしまいますからね」
「一万町歩開田ですか」 
 この一言は、余り物事に動じない與次右ヱ門を驚嘆させるものであ
った。そして開田のための手立てとして、相互扶助を目的とする産業組合の設立の必要性を教えた。    小林與次右ヱ門」 P315」より 
    注 調査の開始時期 再調査要 相模原市史4では大正3年4月〜大正5年3月とあり 2016・9・6 保坂
参考/有吉知事時代の大正三年から二年間にわたって一万二七〇〇円余の調査費をもって「相模原開田調査」が行われたことはすでに述べた(本巻一二二頁)。これによると津久井郡千木良村または三沢村から取水して、取水量八八〇個・開田面積四四〇〇町歩・総工費七〇六万円でとうてい採算がとれないという結論であった。その後関東大震災が起こったりして、県としては採算のとれない事業を考える余裕もなく、そのまま忘れ去られた形であったが、地元民の要望は依然として強かった。   相模原市史4 P381
            注 市史7 年譜では相模原開発実地踏査に着手は8月18日とあり 検討要
8月、神奈川県農事試験場種芸特種講習会を受講する
10月、鳩川農学校井上寅之助校長と共著で『新撰甘藷全書』刊行する
    内容:甘藷の来歴・先駆者・研究者の略歴・品種・栽培総論・詳論・種苗育成論・土壌論・病虫害論
         料理法の各章に分かれる。  刊行:大日本農業奨励会

項目 各章の最終に記された俳句
第一章 甘藷先生の略歴
本邦農業上甘藷之位置
甘藷の来歴/甘藷の原産地・欧州大陸に於ける発達の大要
本邦に於ける甘藷栽培の現況
甘藷の効用/常食品として栄養分大なり・風味好く世人の咾好に適す・生育期短かし・収量大なり・生産費少なし・栽培容易なり・食用上加工を要すること少なし・久しく貯蔵に耐ゆ・救荒作物に適す・茎葉は用途広し
甘藷の植物学的名称及性状/名称・性状
品種 耕(たがやし)や昔左京の土の艶(つや)   太祗
栽培総論/気候・土壌・選種・肥料 日にさらし 風にふかせてアンモニアとられぬやうにかこへ肥壺(こえつぼ)
夏分は飛び散りやすきアンモンニア不揮發性となして止めよ 川村農学士
栽培詳論/苗の養成・苗床・挿苗前に於ける苗の処理法・整地及原肥・移植・補肥及中耕・中耕後の管理・収穫・貯蔵前の注意・貯蔵法 立てる農夫は坐(ざ)せる紳士よりも高し フランクリン
田畑(でんばた)の肥料(こやし)は持主(もちぬし)の眼に如(し)かず
國のため尽す心に二つなし 弓矢とる身も鍬を持つ身も 二宮尊徳翁
第十章 種蒔養成法
十一 連作及輪作
十二 病蟲害/病害・畸態・害蟲
十三 害獣 いも引くやあとに鼠の穴一とつ   緑
十四 苗養成につきて
十五 甘藷促進栽培法
十六 栽培余論/製造・料理附菓子 村中(むらじゅう)の新蕎麦打つや棒遣(ぼうづか)ひ  旨原
十七 甘藷の市価 縄引いて干菜(ほしな)かけたり冬の家   叟柳
十八 甘藷茎葉利用法
       焼藷やかまどの神の愛で給ふ 緑   注 1月刊行説もあり確認要 2016・8・26 保坂
12月、茅原華山が提唱する『第三帝国 12月号』に一文を寄せる。
 地方農民の生活は、納税と肥料屋への奉公に夜を日についで年がら年中、汗水たらして働いているにすぎない。これを打開するためには減税低利資金の融通がぜひとも必要である。農民ひとりの努力では限界があって、政治を農業経営改善、農村振興の方向ですすめなければならない。
1914 大正3 28 8月、第一次世界大戦(大正7年まで)
〇このころ溝村産業組合設立に活動する。
〇この年、耕地整理法の改正により,湖沼海面の埋め立て,干拓も耕地整理法の適用を受けることとなった。ここに,土地改良,開拓の全般に亘る制度が一応確立されたことになる。(参考例:巨椋池の干拓)
1915 大正4 29 6月、松本新平や清水桂策らと共に溝村産業組合を設立する。
8月、日本園芸会園芸講習会を受講する。
1916 大正5 30 3月、県の作物栽培調査への参画を決意、鳩川農学校を依願退職する。
 沃田に恵まれないことが、この郷土の大地に(水を)引くことができれば、人々を貧困から解放できる。少年の日の法如師の教えの「経世済民」の実践を心に誓ったのであった。だがこのときの県の栽培調査は、県参事会において相模川下流水田地帯の水利権の問題と、資金難を理由に否決されてしまった。  「小林與次右衛門」 P23より
4月、鎌倉郡農事講習所別科講師、鎌倉郡瀬谷村農業技手(同年12月まで)、県穀庫害虫除去員
10月、竹林改良講習会を受講する。
12月、農業技手を辞職、溝村久保浅間神社の隣の桑園に井戸を掘ってポンプで用水を行い桑樹の生育等自力で栽培調査を始めながら自家の農業に励む。
〇このころ、自家で新興野菜を手がけ数々の賞を受ける。
〇この年、大正2年から4年にかけて行われた「相模原開田調査(神奈川県内務部)」の結果が県議会に報告される。
  「相模原開田引入路隧道予定線附近地質構造調査図表」を添付する。 所蔵 神奈川県公文書館
  調査総面積 1万8千有余町歩、調査費12726円
用水の取水口


灌漑面積と工事費


第一取水口  山梨県北都留郡島田村紅梅神社下淵
第二取水口  神奈川県津久井郡千木良村亀ノ甲淵
第三取水口  神奈川県津久井郡三沢村水神ヶ淵
第一計画  3600町歩 614万6577円
第二計画  4400町歩 522万7400円
第三計画  3000町歩 377万7607円
1917 大正6 31 8月16日、県参事会に提出した「相模原開田計画」を下流水田地帯との水利権の調整と資金不足を理由に否決する。
1918 大正7 32 4月、農商務省が、国の直轄事業として「相模原高原地質調査」開始する。小林與次右衛門は原金司とともに同調査の畑地灌漑事務係(大正9年3月まで)に任命される。
 実験田用地は当初、大和村上草柳に計画されたが、有働耕地整理課長が「小林のいる上溝にすべき」と発言したことにより、溝村上溝の鳩川流域に変更されたもので、規模は約一町歩、主任は県の野呂常之助耕地整理係技師であった。    「小林與次右衛門」 P24より 
                       注 市史7 年譜では3月から着手とあり  調査要
8月、全国米騒動
11月、糸価好況
1919 大正8 33 4月、県穀物検査員
8月、上溝市場50周年式典挙行  注 市史7 年譜では10月23日(秋葉神社境内)とあり 日時の確認要
〇、溝村産業組合の副組合長となる。
〇、この年、開墾助成法が公布される。
開墾助成法が制定され開墾資金に利子補給が行われるようになった。排水条件の改良が重視され,暗渠排水が盛んに行われるようになった。
1920 大正9 34 3月、実験田の調査(相模原高原地質調査)が終了、小林も解職自家の農業に戻る。
〇、県、農商務省、二つの調査の結論は、採算面で問題があるということで取りやめになってしまった。だが、小林や地元はあきらめきれず、各町村間の意見の調整、合意づくりなど地道な活動を続け、何度となく関係機関に働きかけをはじめる。
        
注 この開始時期不明なため調査要 2016・8・16 保坂  「小林與次右衛門」 P59より
5月、アメリカ金融引締めにより糸価暴落。生糸商倒産相次ぐ、この年養蚕農作物不作で農家経営逼迫。
7月、斉藤法如和尚円寂(63歳)
〇このころ横浜貿易新報嘱託通信記者(のちに正社員記者、東京朝日新聞通信記者を兼ねる。昭和3年1月の県会議員選の出馬まで)
1921 大正10 35 12月22・23日付、神奈川(朝日)新聞に「村の辻から」と題した記事が掲載される。
                       以後の連載の記録有るか調査要 2016・8・1 保坂
〇、相模蚕種会社設立、役員に就任(昭和20年まで)
〇この年、横井時敬が「経済側の耕地整理」を刊行する。
1922 大正11 36
1923 大正12 37 3月、高座郡品評会の大麦部門で優等賞を受賞する。
明治三十八年三月
明治四十年三月

大正 九年十一月

大正十年 三月
大正十二年三月

溝村品評会
溝村品評会
溝村品評会
高北七ヵ村品評会

溝村品評会
高座郡品評会

小麦
小麦


生糸
大麦
大麦
小麦
三等賞
一等賞
三等賞
四等賞
四等賞
一等賞
優等賞
一等賞
四等賞
〇、溝村産業組合が経営する製糸工場が百釜を有する模範工場となる。
 溝村産業組合は、農家の大衆的な金融機関、主要産物の蚕糸の共同加工工場経営、必要資料、肥料の共同購入などを主な事業とし製糸工場は大正十二年には百釜を持ち、地域の基幹工場となり、組合員賃貸住宅の建設、託児所の開設、農業倉庫の建設など、積極的な経営で現市域の模範組合であった。
                     「小林與次右ヱ門」 P25より
〇、この年、「用排水改良事業補助要項」が定められ,受益面積500 町歩以上の用排水幹線,又は用排水設備の都道府県営改良事業に対して50%以内の国庫補助が行われた。このことは土地改良事業の事業費そのものにはじめて国家の財政資金が本格的に,かつ大規模に投入されることであり,土地改良事業史上,画期をなす出来事になった。
 こうした、時代の流れの中で、與次右ヱ門がはぐくんできた相模野一万町歩開田の夢は、この制度で一応の資金的なめどをつけることができ大きく希望が膨んでいった。/ただ一つ、水の確保、水利権の問題が残されることとなった。何回となく東京の農商務省に足を運び、その都度有働課長を訪ね、対策を協議した。そんな或る日、有働は、傍らを通りかかった人物を掴えて、
「石黒君、この人はいま、相模原の耕地拡張計画で大変骨を追ってもらっている。一つ、君のフレッシュな頭脳でいい知恵を授けてもらえませんか、頼むよ」
と紹介された。その人は家族の出身で、アメリカ留学から帰り、副業課長で農村工業化問題に取り組み、さらに三五歳の若さで農務局筆頭の農政課長となっていた石黒忠篤であった。石黒は
與次右ヱ門の話に耳を傾けたあと、
「小林さん、養蚕農家が開田に賛成しないのは良くわかりますが、生糸に替わるものとしてイギリスの科学者によるビスコース・レーヨンとかアセテート・レーヨンという人絹が作られはじめました。人造絹糸という化学繊維ですがこの人絹は生糸の競争相手として、将来恐るべきものになりますよ。養蚕農家には現金収入があるから、米は買って食えばよいという気持ちがあるでしょう。政府は養蚕農家を大切にすることには変わりありませんが、近い将来、養蚕は副業となりますよ。米が折角作れるのに、反対ばかりはしておれなくなりますよ。小林さんの開田開発を啓蒙してゆくことが大事ですね。水利権の問題は、柳田さんがいいことを云っていますよ。」 
       
注 ※いいこととは『農業用水ニ就イテ』の中の意     「小林與次右ヱ門」 P318・319より
           石黒忠篤との対談日についてはやや時期が不明なため再調査要 2016・8・28 保坂

 初対面の與次右ヱ門に対し、懇切に自分の意見を語り、わが国農業の日本柱の米と繭の一つである養蚕業の将来を副業と位置づける大胆さ、率直さというか、その慧眼には驚きのほかなかった。そして柳田国男の用水論に言及するエリート官僚に、ただ見惚れるばかりであった。/(略・斉藤法如・柳田国男の用水論)これならば、横浜市が人口や産業の膨張に対応して、相模川に上水道施設をつくって取水しているのも、電灯会社が桂川に井堰を造って下流式発電事業を起こしているのも、水の使用料を支払うことで水利権が得られている事実から、食料増産のため開田する水も、必要な使用量を支払えば水利権が与えられて然るべきであろう。水は天からのもらい物的な観念を捨ててかかれば、祖父與助の言った、余った水を一滴も残さず貯蔵して、下流に影響を与えなければ、門題は一気に解決するのではなかろうか、石黒が与えた示唆も、この事を指摘している。長く與次右ヱ門の心の奥底に蟠っていたものが、一気呵成に払拭される思いがした。                     「小林與次右ヱ門」 P319〜321より
1924 大正13 38 9月、相模野をめぐる高座北部各村で麻布三連隊誘致運動が起きる。
1925 大正14 39 〇この秋、溝村産業組合創立十周年記念総会が開かれる。
 来賓に農林省農務局耕地課から溝口三郎技師が招かれ相模野の農耕地開発をめざす「土地利用計画」を訴える。
                       注 市史7 年譜では4月15日とあり 検討要
1926 大正15
(改元12月)
40 1月、上溝町制施行。
〇大正14・15年の両年に亘り、農商務省の溝口三郎技師(のちの参議院議員)が開田調査を行う。
(略)農商務省はその(小林)熱意に動かされ、大正十四、十五年の両年、溝口三郎技師を派遣、再び実施調査を試みたが、溝口も投資資本の割りに作物の増収が期待できない結論を出したので、前進しなかった。
     
注 1925・4より 農商務省→農林省・商工省に分省 「小林與次右ヱ門」 P59より
1927 昭和2 41 〇上溝町消防組頭
3月金融恐慌はじまる。
6月9日、日本庭園協會代表本多静六が内務・農林・逓信大臣に十和田湖保存の建議を提出する。
           出典: 「史蹟名勝天然記念物 第二集第七號  雑報」より 発行 昭和2年7月
1928 昭和3 42 1月、淵野辺伊賀守忠臣説を発表する。(横浜貿易新報1月15日〜2月にかけ 3回連載)
    『淵野辺の竜像寺と伊賀守の事、逆臣か忠臣かこの二つの伝説』
2月、第一回普通選挙
資料 神奈川三区の民政党は山宮が引退、後継者に岡崎久次郎(当選)を決めた。小林は岡崎の選挙に専念するため新聞社を辞めた。      「小林與次右ヱ門」 P34・345より         
6月、神奈川県会議員選挙に、民政党公認で出馬するも落選する。



岩本信行
磯崎貞序
高下才助
上郎新二
3079
3032
3013
2839
政友新
民政新
政友再
政友新



小林與次右ヱ門
広瀬善治
葉山繁蔵
2174
1780
937
民政新
民政再
中立新
1929 昭和4 43 1月18日、相模野関係七ヵ村が「相模川左岸用排水改良事業」案を、農林省に陳情する。
   相模野関係七ヵ村が共同歩調をとり「相模川左岸用排水改良事業」案を、県の指導のもとに策定し、農林省に陳情した。農林省では有働耕作課長が快く迎え、松村農務局長に直接陳情することができた。この席には蚕糸不況対策のため新設された蚕糸局の石黒局長も参加し、地元の要望を石黒が説明するという異常なまでの好意的な陳情風景であった。農林省は全面的な賛意を示し、急いで着工のための準備を行うよう関係方面に支持することを約束した。かつて與次右ヱ門が念願してきた相模野一万町歩開田の夢は、この陳情によって達せられ、不毛の台地相模原に水を運び込む具体的な萌芽となった。
                           
小林與次右ヱ門」 P331より  
相模原市史に見る陳情理由     市史4 P376
予算の収入案(100万円) 予算の支出案(100万円)
国庫支出 50万円 昭和四年度 12万円
県支出 25万円 昭和五年度 20万円
地元負担 25万円 昭和六年度 25万円
昭和七年度 23万円
昭和八年度 20万円

 昭和3年12月の県会に提出された事業予算は総額100万円ということで可決された。ところが折からの不況により国庫予算50万円が計上されず見送られてしまった。そのため関係六ヶ村の村長が県庁に勢ぞろいして上京、農林省に陳情した。地元でも海老名町長望月珪治が組合長となって水利組合を組織し、期成運動を行っていた。それらの甲斐があったためか、8月になって、政府から本年度実施の内示があり、一件の書の提出を求めてきた。
国庫補助の見通しはついたが、地元負担金問題などのため、実現までには相当の日数がかかり、県では毎年のように県会へ「勧業費(相模川左岸用排水改良費)継続年期及支出方法変更」を提出し、年限の延長と予算額の繰延を議決している。 
9月、小笠原松太郎が「史蹟名勝天然記念物 第四集第九号」に「開墾事業の犠牲に併せられんとする十和田湖風致問題に就いて 」を発表する。 出典:史蹟名勝天然記念物 第4巻 第9號 昭和4年9月
〇世界恐慌始まる。
1930 昭和5 44 3月、経済不況のため各町村に自力更生計画を樹立。
12月、6日付、二回目の淵辺伊賀守忠臣説を発表する。(横浜貿易新報12月6日から5回連載)
   
 『逆臣か忠臣か 淵野辺に由緒ある (1) 淵辺伊賀守と護良親王の御陵墓』
12月、7日付、二回目の淵辺伊賀守忠臣説を発表する。
   
 『逆臣か忠臣か 淵野辺に由緒ある (2) 淵辺伊賀守と護良親王の御陵墓』
12月、8日付、二回目の淵辺伊賀守忠臣説を発表する。
    『逆臣か忠臣か 淵野辺に由緒ある  (3) 淵辺伊賀守と護良親王の御陵墓』
2月、9日付、二回目の淵辺伊賀守忠臣説を発表する。

   
 『逆臣か忠臣か 淵野辺に由緒ある  (4) 淵辺伊賀守と護良親王の御陵墓』
12月、10日付、二回目の淵辺伊賀守忠臣説を発表する。
    『逆臣か忠臣か 淵野辺に由緒ある  (終) 淵辺伊賀守と護良親王の御陵墓』
  また、同日号に守屋潔による相模原市旧大野村中和田地区板碑の調査報告も記載する。
      
   中和田惣吉稲荷の板碑(双碑)
「私たちの相模原  平成元年/9版改訂」より
    市指定有形文化財(歴史資料)
       (平成13年4月1日指定)

 
(見出し)町田鶴間方面
  
美術史の研究に重要なる参考稲荷社境内の二基の板碑
(本文)大野村中和田惣吉稲荷社の境内にある二基の板碑は考古学者より見れば相當研究資料たるものであるとて此程東京府青山師範専攻科守屋潔氏が調査したる處(ところ)阿弥陀三尊來迎の碑とも云ふべきもので上部に畫像にて弥陀三尊下部の中央に延文四年十月と左右に梵字光明真言と刻した高さ四尺巾一尺のものである同氏の談によれば元来板碑建立は死者の供養或は戦死者の追福目的で今日の卒塔婆と同意義であるが時代に依って多少の差異あるも此の碑の如く逆修とて生存者が自己未来の佛衆を祈るため供養にも行はれたのであると板碑は鎌倉時代から吉野時代及び足利時代の末天正の頃まで凡そ三百五十年間に亘って造立され石材は関東は秩父の緑泥片岩を使用してゐる(略)
 参考 守屋潔は昭和7年6月 日本考古学会編 考古学雑誌22(6)に
     「相模國に見たる陽刻阿弥陀三尊の來迎像板碑に就いて」を発表しています。

12月16日付、鎌倉宮の禰宜、田島仲康が第1回目の反論を行う。
                 
横浜貿易新報12月16日から4回連載)
   
 『淵野辺伊賀守義博と護良親王の御陵墓(一) ・・・・に就いての私の考査』
12月17日付、鎌倉宮の禰宜、田島仲康が2回目の反論を行う。
    『淵野辺伊賀守義博と護良親王の御陵墓(二) ・・・・に就いての私の考査』

12月18日付、鎌倉宮の禰宜、田島仲康が3回目の反論を行う。
    『淵野辺伊賀守義博と護良親王の御陵墓(三) ・・・・に就いての私の考査』
12月19日付、鎌倉宮の禰宜、田島仲康が4回目の反論を行う。
    『淵野辺伊賀守義博と護良親王の御陵墓 (四) ・・・・に就いての私の考査』
1931 昭和6 45 〇上溝農会長(「小林與次右ヱ門」 P25より  相ひ※昭和5年 検討要)
2月21日付、鎌倉宮の禰宜、田島仲康説に対する反論を行う。(横浜貿易新報2月22日から3回連載)
     『再び淵辺伊賀守と護良親王の御事ども  上』

2月23日付、鎌倉宮の禰宜、田島仲康説に対する反論を行う。
     『再び淵辺伊賀守と護良親王の御事ども  下』
  注)(横浜貿易新報2月22日から3回連載)とあったっが実際は2回の連載 他になかったので検討要 2017・2・26 保坂記
7年両年の天候不順で凶作、農家困窮の極に呻吟。
4月、相模鉄道(厚木〜橋本)開通
6月14日付、「横浜貿易新報」に農家副業として甘藷植え付けを奨励する。
(見出し)上溝橋本方面農家の副業甘藷植付け奨励他の副業より割がよい
(全文)「
高北方面の農家は養蚕を唯一の収入として生活して居た関係上昨今の様な繭絲安(けんしやす)は政府の補償生活が滞貸して居るため之れが消化せぬ内に増産するのでこヽ数年中には先頃の○○賑やかであった〇〇〇歌時代の出現はむづかしいとく目をましいいづれも桑園をり返して穀物畑に改〇して(判読困難・略)副業を研究中最近米国から南洋方面へ金魚や鯉の輸出が盛んになり大分利益があると聞き養魚池を新設する者が各所に見受けられるが相當資金が要るし小作人階級には不向きなので相原村役場では〇〇〇代が主体となり廣大な相模原を利用して甘藷の大栽培を奨励する事となった甘藷の副業なれば如何なる小作人でも耕作地を持つ者なら植え付けられ他の穀物の如く多額な肥料も要らず天候のため被害も受けないので一斉に植付けに着手したから自家生産の甘藷苗が不足を生じ昨日の上溝市場など甘藷苗は午前中売切れの盛況であった。」 所蔵:神奈川県立図書館所蔵 全体が不鮮明で判読が困難の箇所が多い 保坂記
研究資料;明治39年、札幌農学校宮部金吾、三宅勉、宮城鐡夫たちによって日本で最初の樺太植物調査が行われました。調査に参加した宮城鐡夫は、その後郷里の沖縄に帰り、農業振興に努めました。サトウキビの新品種の導入、
サツマイモの畝立植栽培法の研究等を行いました。與次右ヱ門も既に井上寅之助校長と共著で『新撰甘藷全集』を刊行しており、その栽培法についても研究を進めていたと思います。残念ながら未だ『新撰甘藷全集』の存在を確認していないのが残念です。(少々お待ちください)  宮城鐡夫の名は「樺太植物調査概報」の中で偶然見つけることができました。  2016・9・27 保坂
8月21・22・24・25日、養蚕視察訪問旅行を岡崎衆議院議員らと共に随行する。
9月18日、満州事変
11月、相模野社結成、短歌機関紙「相模野」刊行する。
1932 昭和7 46 2月、第一八回総選挙の最中、民政党の選挙参謀であり前蔵相の井上準之助が右翼によって射殺される。
3月、満州国建国宣言
4月、三井合名理事長で財界の大立者、団琢磨が暗殺される。

            (経済四団体が共催した「国際連盟満州調査団」(団長リットン卿)来日歓迎宴の翌日。)

5月、5・15事件(犬養毅が官邸で射殺される)
6月、神奈川県議会選挙で当選(同15年6月まで二期))


磯崎貞序
金子小一郎
岩本信行
3535
3352
2981
民政再
政友新
政友再


小林與次右ヱ門
久保田淳順作
葉山繁蔵
2620
2614
889
民政新
政友新
民政新
    参考 この選挙での演説草稿の一部が現存の模様 調査要  「小林與次右ヱ門」 P346〜348より
7月8日、県に大沢村漸進社救済のための嘆願書を提出する。
   漸進社は日本で初めての農民の手による組合生糸会社で、明治十九年創立され正式には「有限責任信用販売組合連合会漸進社と称し、大正二年の最盛時には所属揚返し所一四二ヶ所(一府三県)、加入生糸業者一万二千人、生産額は五万一七五〇貫に達し、座繰製糸としては全国四大社に数えられていた。「小林與次右衛門」 P50より 
 嘆願書の提出者 小林與次右ヱ門、岩本信行、三樹保治(津久井郡選出)
 漸進社・社長理事:笹野三吉・副社長理事:山口福太郎・理事:佐藤昌寿、八木茂柄、加藤清十郎、田所種吉
      幹事:清水桂策、小山幸次郎、大谷仁三郎、村田斉治郎、関根長作 
                 市史7 年譜では9月8日 陳情書提出とあり 日時再検討要
8月、政府は「救農臨時議会」を開催。 「給~(救農)土木事業」と「農村漁村経済更生計画」の樹立を目指す呼びかけ。
9月5日、内務省が国民更生運動を開始する。

10月、相原当麻田水田改修工事開始(翌8年5月完成)
〇この頃か、恐慌下の農家の現状と再建策を「横浜貿易新報」に発表する。 掲載時期不明 調査要
  
相模野鳩川沿いで一町五反を耕すある農家の記録、年収が50%以上も落ち込んだその原因は何かを論じた。
調査年 農業所得 農業外所得 農家の余剰
昭和4年(1929) 912円 279円 182円
昭和6年(1931) 412円 138円 2円
1933 昭和8 47 2月16日、鳩川放水路・(三段の滝)が竣工する。
3月、国際連盟より脱退。
4月、現職の県議会議員であったが上溝町会議員選挙にも立候補当選する。
鈴木秀彦・菅沼山三郎・佐藤信芳・小林與次右ヱ門・柏木源之助・佐藤源一・小俣常吉・小泉太市・小山栄太郎・片野三郎・金子斉一郎・飯谷重治(得票数不明)
〇この頃(春蚕の最中)、内務省土木局勅任技師北村徳太郎が来訪する。
蚕棚の隅に招き入れると、挨拶もそこそこにして、「相模川のオーバー・オール・プランニングを担当することになった。小林さんの知恵を貸してもらいたい。三、四日休暇を取ってきた。」と、いきなり本論をぶっつけてきた。(略)相模川の水は計算上では一日約一〇〇〇〇個(一個は一立方尺の水の量を示す)の余裕がある。この一〇〇〇個を三等分して横浜、川崎、相模野で活用すれば三方丸く納まる。しかし、内務省では灌漑用水の実際の使い方がよくわからないから教えてくれ」と言うのである。「では、三三〇個の水利権を農業灌漑用水に呉れると言うのか」と問い返すと、「日本では未知数の方式だが、小林さんが説明したという相模川多目的開発方式は、既にアメリカでは広範囲に実施されて、成果をあげている」と語りこの年ルーズベルト大統領が合唱国議会に送った一九三三年頭教書で、いわゆるニューデール政策の一環として大きく取り上げた「テネシー河谷開発計画」(TVA開発公社)に関係する、天然資源の開発と維持、保全について、ボソボソと具体的な事例を時間をかけて説明した。   小林與次右ヱ門」 P334より
5月、小林の再三にわたる運動により、県は四千四百町歩に及ぶ「相模原開田計画」を樹立する。
6月、有働良夫が「農村更生叢書 12 耕地整理と土地改良」を「日本評論社」から刊行する。
  
   有働良夫著
   耕地整理と土地改良
 現下農村の情勢は異常なる不況に際会し、之が救済は最も急務とする所である。農村の不況を緩和し、進んで農業の発達を図るの方策は固より種々あるが、耕地整理と土地改良の如きは刻下応急の施設として、その最も適切なるものの一つである。即ち本事業の施行に依って窮乏せる農村に対して労銀を与へ、其の急を救ふと共に、直に農業生産の利益の増加を図り、以て農家の経済を改善し得るのである。之当面の農村応急策たると同時に、亦恒久的利益を齎す極めて有益なる事業であると謂はねばならぬ。然らば耕地整理と土地改良とは、如何なる事業であるかと云ふに、其の内容は頗る広汎に亘り、且事業の施行に当りては特種なる農業土木の技術的知識を要し、又煩雑なる事務上の知識を要する。之等専門的部分に付ての詳細は、小冊子の悉くす能はざる所、又夫々相当な著書あるを以て、敢てここに詳述はせざれ共、本書は耕地整理と土地改良事業の関係を関係事項の全般に亘り其の概略を示さんとするものである。即ち農林省に於
ける諸資料を基礎とし、之に経験と所見とを加へて、ここに本事業の全貌を描写せんとする。之に依りて地方農村の指導者、或は本事業に携る人々の為に幾分にても貢献する所あれば幸甚とする所である。昭和八年六月 有働良夫

   参考 
農村更生叢書の一覧と執筆者
農村更生の原理 本位田祥男 農業団体の統制 東浦庄治 農村更生史 黒正厳
農新社会事業 賀川豊彦 農産物価格統制 東畑精一 農業経済成功せる農業経営の実例 橋本傳左衛門
農村金融と農家負債整理 小平権一 農村更生と青年教育 田澤義輔 品種改良 宗正雄
農村人口問題と移植民 永田稠 耕地整理と土地改良 有働良夫 土壌と肥料 麻生慶次郎
産業組合の諸問題 千石興太郎 農村更生の諸問題 那須皓 農産製造の原理と実際 高橋偵造
農村の衛生と医療 南埼雄七 農村更生計画の原理と実際 岡田温 有畜農業 岩住良治
蚕絲業経済 永井治良 農林行政 石黒忠篤 造林・林産物 渡邊全
農村社会教育 関屋龍吉 農村法律問題 末弘厳太郎 園芸・蔬菜 関愼之介
6月10日付、「横浜貿易新報」が相模原開田問題を下記のように伝える。
一望美田に、相模原開田計画、試験田の保水成功、県北に福音は近し
本県は多年の懸案たる県北相模ヶ原開墾計画を実現すべく、高座郡大野・麻溝・新磯・座間・大和の各村約四千町歩に及ぶ相模川利用の大開田計画を樹立、農林省に実行区域調査班の派遣を申請したが、一方県耕地課末松技師を主任として調査を開始し、時局匡救事業費として相原村の相原耕地整理組合と協力して、三町九反歩の小開墾計画を実行し、相模川より引水したところ、保水充分にして近く植付を開始することになり、開田の可能性を確めたので、一層気を得た県当局は、この機会に相模ヶ原を開田と化すべく、主務省に期成運動を始めることになった。 
7月11日、県庁から芝地耕地課長(農林省から転任)が出張、上溝高等女学校で関係町村長と開田計画を協議する。
7月20日から5日間、県が本格的調査のため、農林省から溝口三郎らが再び相模原を訪れ、取水口や幹線水路など相模原開田の予備調査(実地測量)を行う。

8月15日、小林は地元各町村長とともに県庁に出向いて「開田計画の実施と相模川の水利用(水利計画)については、地元たる相模原の各町村を優先すべき」と陳情する。
参考 県の考え方/(略)当時の横浜貿易新報に『相模川の水ぶん取り合戦』と書かれるような事態になりそうであったが、県が水利については横浜水道、京浜工業用水、相模原開田に三等分すると発表したので、小林らは了解したのである。        「小林與次右ヱ門」 P60より
11月22日、相模原開田用水量調査の第一回実地踏査を行う。
1934 昭和9 48 3月27日、田名・大沢村の代表が横浜水道局を訪れ横浜水道拡張工事推進の陳情を行う。
4月、相模原開田開発期成同盟会結成、同会顧問となる。
      
「相模川開発期成同盟会」も 「小林與次右ヱ門」 P354より 「相模原開田開発期成同盟会」 市史4 P382
    顧問:小林與次右ヱ門、胎中楠右衛門代議士、岩本信行(県会議員)
    会長:高下才助県議(大和村選出) 副会長:練間政吉(上溝町長)、加藤光蔵(大野村長)
     理事:各町村長 評議員:地元有力者三十七名  会員総計五百十名

5月18日、大沢・田名両村の村長・助役・村会議員らの有力者は、岩本・小林両県議会議員と共に再度横浜市水道局を訪ね陳情を行う。大西市長、横山知事をも歴訪、陳情を行なう。 相模原市史4 379p
同年5月18日にも大沢・田名両村の村長・助役・村会議員らの有力者は、岩本・小林両県議会議員と共に横浜市水道局に堀江局長を訪問し「横浜市の水道拡張工事は地方農民救済のため最も適切なもので、一日も早い着工と完成を熱望する。現在我々農村の経済は繭糸暴落により生活の安定を破壊され惨たんたるものである。しかも給~土木事業は本年度で打切られ、農村は失業者で溢れようとしている。聞くところによると、河川の引用が風致・運輸・魚族に悪影響があると宣伝されているが、これはまったく誤解である。一刻も早く同工事を実現され、農村に潤いをもたらされるよう希望する」という意味の陳情をし、大西市長、横山知事をも歴訪し陳情した。
5月30日、横浜水道拡張工事について串川村の代表が小林県会議員らと促進陳情し、横浜市水道局長も「二百余万円の工事の大半が地元に落ちるはずであるから、地元にも好影響と思う」と答える。」
7月16日、相模原開田開発期成同盟会が県庁を訪れ陳情を行う。
陳情の趣旨/相模川水利上津久井郡千木良村字赤馬地内相模川に大ダムを設け、大野貯水池を築造して、県営相模原開田および上水道敷設、横浜第三期水道拡張計画の水源とし、その落差を利用して津久井郡川尻村久保沢、向原地内に県営水力発電所を設置することは最も肝要につき、これが促進のため速やかに相模川水利統制調査費を計上し、徹底的水利調査を行われたい    「小林與次右ヱ門」 P62より
 相模原開田開発期成同盟会の会長以下二〇余名が県庁に知事・内務・土木了部長を歴訪し、速やかに相模川水利統制調査費を計上し、徹底的に水利調査を行うべきことを陳情する。
    市史7 年譜の内容を記載する。 参考 陳情書写 相模原市史 P383・384に掲載されています。
月、上溝に「相模原開田調査事務所」が開設、県職員が常駐する。
  
主任:尾上準造技師、浦野・猪瀬・二宮・府川等の技術陣が駐在、上草柳に試験地を設ける。
   この調査をまとめたものが昭和10年6月に発表された「神奈川県高座郡相模原土地利用計画書」である。
    注@ 前年大正8年7月の調査内容の比較検討が必要 再検討要 2016・9・7 保坂
    注A 昭和12年5月に「相模原開発事務所」の設置があり、名称変更だけか 調査要
7月、溝口農林技師らが八月にかけて相模川取水口や幹線水路の実地調査を行う。 市史7 年譜に記載あり 
9月、糸価下落昭和期で最低
11月16日、調査費(3000円)決定が余りにも少ないことに相模原開田開発期成同盟会の20余名が県庁を訪れる。
調査費決定が余りにも少額ないことを聞いた地元の相模原開田開発期成同盟会では、県会直前の一一月一六日に二〇余名が県庁を訪れ、まず芝地耕地課長・氏家土木技師らと会い、積極的に調査が進められるように調査費増額を要求し、水利統制の実現が困難ならば、善後処置を講じて開田計画の実現策を計ることを協議し、相伴って横山知事を訪問し懇請した。知事は「現在の相模川水利統制計画は相模原開田計画を含み約一千百万円に上る大計画で、県財政に及ぼす影響も甚大であるから慎重に考慮する必要があると考え、まず基礎調査費として三〇〇〇円を計上したのである。財政上や計画不安のためではない。調査の結果実行の確信を得たならば、二〜三万円調査費を追加要求して積極的に実地測量を行い、実現に邁進する方針である」と語ったので、一同は「県は水利統制を実施する準備を始めるつもりなのだ」との認識を深め喜んで帰村した。   相模原市史4 P385より
11月、「通常県会議案原稿/(歳出臨時部) 内務部庶務課」より  所蔵 県立公文書館
   「相模原開田調査費歳出予算説明」資料によると受水口は千木良村地先 高さ55mの堰堤
    昭和十年度 17730圓  
     昭和十一年度 8683圓    13圓
  注 金額に差異があり 再検討要 2016・9・23 保坂
12月、県議会が相模川水利開発調査費(五万余円→三千円)を上程する。
  小林は、さらに確たるものとするため「府県制規制」に基づいて、意見書を起草、同僚議員に岩本信行、
   三樹保治とともに発議、満場一致で賛成を得る。(相模川水利開発調査費の増額支出を知事に要請)

  注 また県会では、水問題の調整を取扱う都市計画委員となって、農業と他産業との利水をめぐる調整に
   人知れぬ苦労を重ねていた。
「小林與次右ヱ門」 P355より
参考 「相模川水利開発調査費」、それでも反対意見があった。
一方愛波与平議員は「知事の説明によると相模原開田を主にしているようだが、一反一五〇円の土地に二〇〇円の工費をかけても、水田の平均価格は三〇〇円であるから、五〇円の赤字になるわけである。赤字を見込んで計画を作っているのではないか。三〇〇〇円の調査費は不必要である」と反対意見を述べたが、知事は「開田・治水・水利を総合しての計画である。開田についても赤字にはならない見込みである」と答弁した。県会では調査費があまりにも少なすぎるとの岩本信行ほか二名の意見を採用して、最終日の一二月一〇日、相模川水利開発調査費増額の意見書を、県会議長名で、横山知事に建議した。 
   相模原市史4 P386より
1935 昭和10 49 6月、県が農林省の溝口三郎技師らの調査の結果をまとめた「相模原土地利用計画」を発表する。
計画は開田、発電(相模湖ダム建設)、水道を総合して相模川水利統制に重点がおかれた。これはわが国初の総合河水計画で、日本のTVA(テネシー川河川総合開発機構)ともいうべきものであった。開田面積は二千一百五十町歩とへらされたが、それでも大野、相原、田名、大沢、上溝、麻溝、綾瀬、海老名、大和の広域に及んでいた。       「小林與次右ヱ門」 P63より
 大正4年4400町歩→昭和10年 2150町歩   (単位=町歩)
町村名 開田面積 町村名 開田面積 町村名 開田面積
相原村 210 大野村 521 大和村 242
大沢村 55 田名村 194 渋谷村 111
上溝町 175 麻溝村 156 綾瀬村 224
新磯村 73 座間村 166 海老名村 23
注)開田面積が減少した理由(県の説明)
「もし、相模川の取水量全量を相模原開田にりようするならば、約二万町歩が開ける見込みだが、この計画では水利統制上水力発電後の水を水道と開田に充当するため、開田は2150町歩に限られる。さきの大正四年調査では4400町歩の開田を可能としたが、現在相模川の流量は著しく減少し、また発電所の水量調整で周期的な変動があるため、開田用水としては1045立方米秒を充当し得るので、二一五〇町歩という数字になった」
 しかし、その後相模原は軍都計画等もあり水田計画は消滅、戦後の畑地灌漑事業に委ねられました。 相模原市史4 P388より
10月、恩師斉藤法如和尚十七回忌の記念像除幕式に塾卒業生を代表して、御礼のことばを述べる。
11月12日、期成同盟会が県庁に石田知事、大津経済部長を訪ね「相模川水利開発調査費」の促進を陳情する。
11月15日、相模野社は創立五周年を記念し、田名久所で短歌作品展覧会開催。
12月、県会に相模川水利開発調査費(六万円→二万円)が上程可決される。
1936 昭和11 50 2月、2・26事件
6月、神奈川県会議員再選



岩本信行
磯崎貞序
金子小一郎
小林與次右ヱ門
4247
2664
2083
2009
政友再
民政再
政友再
民政再



久保田順作
鈴木政治
添田良信
新田信
1743
1486
1430
1325
政友新
中立新
政友新
中立新
 この選挙で小林は買収の違反に問われ、選挙後約二ヶ月間拘置された。取り調べは小林の反体制的思想を改めさせようとする意図があったため、極めて厳しく行われた。現職の県議を二ヶ月間も拘置するのは異例であった。この間、座間村、新磯村にまたがる陸軍士官学校の移転が決定し、ただちに強制的に移転が決定し、ただちに、強制的に農地が買収され、小林が保釈されたときには、ほとんど手続きは終了という手早さであった。二ヶ月間もの拘留の理由は、士官学校移転問題と関係があったかもしれない。
                       「小林與次右ヱ門」 P66より
資料ー@ 陸軍士官学校/1936(昭和11)年6月、陸軍からの電話で、座間・新磯・大野・麻溝村の村長たちは座間村役場に集められました。話の内容は東京にある陸軍士官学校の移転用地として、使用したいとのことでした。/新磯村・麻溝村両村は、この移転用地の中に多くの耕作地があったので大騒ぎとなりました。しかし、軍国主義の時代ですから強く反対することもできず、用地の一部を除いてもらうことで承知しました。軍に土地を接収されることになり新磯村の地主が自殺するような事件もありました。(略)
              「中学校社会科副読本 私たちの相模原 平成元年度版 P210」より
6月9日、政府、電力国家管理案を発表する。
6月27日、座間・新磯・大野・麻溝四ヶ村の村長が第一師団経理部から座間村役場へ招集され、陸軍士官学校・練兵場用地買収を申込まれる。
6月30日、陸軍士官学校・練兵場用地買収交渉、第二回会合。座間村役場へ各村々長・地主代表集合。
7月2日、麻溝小学校で陸軍士官学校・練兵場用地関係同村地主協議会開催。
7月8日、「横浜貿易新報」に「相模ヶ原開田よりも相模川の水利統制、国家的見地に立脚して県政府と実現に邁進」と、五段抜きの記事が掲載される。 相模原市史 第4巻  390P
7月9日、陸軍士官学校・練兵場用地交渉、第三回目会合。
7月14日、麻溝村々長・村会議員・地主代表が県庁出頭、軍用地買収問題につき関係部課へ陳情。次いで第一師団経理部へ回り、区域変更範囲縮小を懇請する。
7月15日、経理部主計が麻溝村へ来村、下溝天応院で地主と会見、地主ついに買収に応ず。
7月17日、新磯小学校で軍用地買収問題につき、同村村民大会開催、紛糾する。
7月20日、新磯村長・役員四名が第一師団経理部訪問、用地買収了承を報告する。
7月24日、座間村役場で軍用地関係地主代表と軍部会見、買収価格協議。
7月28日、陸軍士官学校・練兵場用地測量開始される。
8月3日、座間村役場で軍用地関係小委員会、買収土地価格比較率査定。
8月13日、座間村役場で軍用地買収価格小委員会。価格決定。各村は直ちに地主会を開き、承諾書の作成にかかる。          市史7 年譜より記述
      これ以後現相模原市域に軍施設の建設が相つぐ。
12月、県会で開田計画の調査費に35370円が上程される。
  この頃、懸案であった沿岸漁業補償問題、下流水田地帯の合意が得られようやく本格的な段階を迎えたに思えたが・・・。
   「小林與次右ヱ門」 P63より
 注 上記調査費とは、「相模川水利開発調査費」のこと 神奈川県企業庁史・相模原市史4 P390
〇この年、京浜工業地帯の埋立計画を進めることとなり、工業用水計画の樹立が急がれはじめる。
1937 昭和12 51 1月、県が相模川開発に於ける第一原案を発表する。
総工費は1330万円、津久井郡与瀬町字山王下地内に282町歩に上る大ダムを設け、内郷村字奥畑地内に第一発電所を作り、千木良村字赤馬地内に調整ダムを作り、川尻村字久保沢地内に導水して、各方面に分水を行う。さらに大島地内に導水して第二発電所を作り、横浜市上水道へ二〇〇個、川崎工業用水へ二三〇個を分水、その他を相模原開田・発電用水・下流灌漑用水に充当するというものであった。相模原開田には三〇〇個以上の水を要すると見られていたが、陸軍士官学校移転に伴い、農業用水よりも住宅地の飲料用水の方が問題になると考えられた。   市史4 P391
2月、漸新社解散。
5月 県の尾上農林技師ほか四名が上溝に「相模原開発事務所」を置き調査を開始する
    注 昭和9年7月にも 「上溝に「相模原開田調査事務所」が開設、県職員が常駐する。」とあり再調査要 名称変更のみか
5月、上溝町会議員再選。
(省略) 小林與次右ヱ門 69 (省略)
7月、盧溝橋事件(日中戦争開始)
8月20日、大幅に縮小された開田計画案が県会に提出される。
(略)相模川水利開発事業は京浜地区給水の軍事目的が第一義となり開田計画はさらに縮小された。(略)最も必要とされた相原、上溝、大野の三町村が除かれ、横浜水道に沿った引水の容易な田名、麻溝の一部と大和村に限定されていた。半井清知事はこうした開田縮小の水利開発事業の変更は、すでに天皇に奏上したと報告し承認を求めたが、小林は喰い下がった  小林與次右ヱ門」 P63〜64より
9月、一ヶ月余りにわたり朝鮮南部地方を視察。
12月、県議会が、相模川河水統制事業を県営事業として実施することを可決する。
  また、県会は「意見書」を議決、青木巽県会議長から、馬場^一内務、有馬頼寧農林両大臣と半井清県知事
   に提出し実施への道を確実なものとした。
  意見書の内容 市史四 P393・394に掲載済
〇この年、元耕地課長有働良夫の紹介状を持って青森県「三本木原国営開墾事務所」の溝口三郎を訪ねる。
 與次右ヱ門は、三本木原に溝口を訪ね、意気投合して、一夕、溝口の談論風発を聞きながら大酒を酌み交わした。溝口が終生、唱いつづけた、自作自演の「三本木音頭」ハアー水はゆくゆく 紅葉の渓(たに)に 十和田女神の お化粧の流れ 主のみやげに 五万キロ ソレ五万キロ≠披露し、酔うほどに両手を広げ、或は肩を組みあって、裸踊りとなった。既存の官僚の概念とは、およそ対照的なこの男の人柄にますます魅せられた、與次右ヱ門も「(略)不如何処是他郷」と、李白の「客中行」を詠じて応えた。以来、溝口と與次右ヱ門の間では、「三本木音頭」と「客中行」が、二人だけ知るエールの交換となった。この頃の與次右ヱ門は、結構、酒を飲んでいたようである。/「溝口さん、あと一押ですね、夢のような相模川大改造計画です。ダムを造ってしまえば、もう遣り直しはききません。私達農民にとっては、いま、ようやく地獄の池に溺れている亡者に、やっと御釈迦様が極楽の蓮池の端から、遥か下の地獄の底へ、蜘蛛の糸を垂らしてくれたようなもの。絹のような美しい糸を。その折角確保できた水が冷たく、稲の根っ子が白くなるのでは、遣り切れない話です。人類文化の発祥の地、メソポタミヤ平原も、灌漑用水の失敗から放棄されて砂漠となったということです。溝口さんの頑張りで、内務省の土木やさんや電気やさんを説得して下さいよ。水の生きた使い方は、誰よりも耕地課の皆さんが先達ですよ」/「そう言って励まして呉れるのは、小林さんだけだ、県の方も内務省側の人が力を持っていましてね、県の耕作課の連中を励ましてやって下さい。何しろ『オーバー・オール・プランニング』という奴は、初めての仕事で、あっちもこっちも大変なんです。私が冷水問題を取り上げると、反対のための反対の理屈を探し出すことに吸々とする連中が、ごまんといますよ。この難しいときに、二五〇個の水利権が農業に取れたんですから、有終の美を飾るまで頑張りましょうよ」   「小林與次右ヱ門」 P343・344より
 この冷水問題は、溝口の努力が実り、津久井の調整池(沼本ダム)で二日間以上滞留させて水温を上げ、この水を久保沢の分水地へ送り、そして、久保沢でも同じく二日間以上水温を上げるために滞留させることとなった。(以下省略)
〇この年、県は中野土木事務所内に「相模川水利開発事務所」が設ける。相模原市史 第4巻391P
       注 昭和13年に「県相模川河水統制計画事務所を与瀬町に開設する」 関連あるか開設時期の検討を要 
1938 昭和13 52 1月15日、開田計画の縮小案に反発し緊急大会を上溝小学校で開催、会員300名が集まる。
1月20日田名村々民一同が「鮎漁・遊船・料理・旅館および水車事業などの営業不能あるいは耕地用水の取入不能飲料用水の取入不能・飲料井水の枯渇など、村民生活を脅かし、村の存亡にかかわるものであるから本工事に絶対に反対する」との陳情書を提出する。
1月20日、県会で「相模川河水統制事業」を審議する。相模川水利開発事業→相模川河水統制事業に名称変更
(1月15日、上溝小学校で)気勢をあげて陳情に及んだが、県はすでに期成同盟の要求を聞く耳を持ち合わせていなかった。/昭和十三年一月の県会は相模川河水統制計画を審議、ダムの湖底に沈む水没者の補償問題が中心で、大もめにもめた。岩本議員は「開田についての地元負担金は発電収益で充当するように」と述べ、小林は相模川水利開発事業を相模川河水統制事業と名称を変更した理由をただしたのち、「縮小された開田計画を再検討すべきだ。相模湖ダムの水没者の立ちのき先を相模原にしたらどうか」と再び迫った。/しかし、小林の必死の抵抗もヒタヒタ押し寄せる軍国の巨大な圧力の前には、もはや無力であった。「小林與次右ヱ門」 P64・65より
1月、「神奈川縣」が「相模川河水統制事業計画概要」(1枚紙)を発行する。
1月25日、電力国家統制法案が帝国議会に提出される。
1月27日、県会で「相模川河水統制事業」が可決される。
〇この頃の水利権の行方    実施された時期未調査のため調査要 2016・9・3 保坂 
相模川河水統制計画が決定された直後、相模原は軍都計画の一部として、「相模原区画整理事業」を実施することとなり、同時に、上溝、相原、大野、大沢、川尻を給水区域とする県営の「相模原上水道計画」が立案された。その水源と水利権をめぐって、横浜、川崎、の上水道から取るか、開田用水分から譲渡するか、或いは新しく取水場所をみつけだすか、議論は百出した。しかし、水利権にかかることであり、容易に水源を生みだすことは困難であった、與次右ヱ門は陸軍士官学校の移転により相模野の土地利用が虫食状になる現実を恐れ、将来の秩序ある都市計画を求めて、県会議会として県の都市計画委員となって相模原の区画整理事業を推進した立場から、農業灌漑用水取得のためにたたかった地元の農民を説得し、同じ相模野の住民の飲み水として、大乗的な見地から開田用水の譲渡をすすめた。開田用水として取得した毎秒二五〇個の中から、五〇個の水を水道用水に廻すこととなった。相模川本流の水の最初の恩恵にあずかったのは、かつて、砂漠に木を植えるようなものと、農民達の運動を傍観してきた町方の人々であった。            「小林與次右ヱ門」 P339・340」より
2月 県相模川河水統制計画事務所を与瀬町に開設する。
       注 昭和12年に「相模川水利開発事務所」を中野に設置しているが 開設時期の検討を要  
4月、国家総動員法・電力国家管理法が公布される。
5月、「相模原開田期成同盟」→軍都計画の地元推進団体「相模原開発期成同盟」に変更される。
開田計画は(終戦まで)全く着手されず、統制事業は京浜地区への給水一辺倒になった。(略)それにしても開田に注ぐ小林の信念、情熱は激越なものであった。  「小林與次右ヱ門」 P65より
〇暮れ迫る、寒い日、農林省耕地課に溝口三郎主任技師を訪ねる。
  
三本木原開墾国営事務所長時代の
       溝口三郎
(ダム計画と低水温の関係・略)
小林:「
北村さんの話では、アメリカでは高いダムで水を貯え、農村電化、灌漑用水はもとより、工業用水に使うので、工場もどんどん進出していると聞いていますがね
溝口:「いや、アメリカには水田は余りありませんからね、畑作、牧草主体ですから、とくにテネシーあたりには水稲はありませんよ。私は、十和田湖で調査したのです。一般河川の渓流部の河水温は、一般的に見て二二・三度です。十和田湖の表面水温は、これよりも四度も高いのですよ。しかし、表面水から水深五米も下がると河水面より二・八度も低く、一九・五度です。一〇米下では九・六度も低い一二・七度となります。貯水池の表層水温は、河川水温より高いのが普通ですが、湖水面から五米から一〇米深くなると、水温が急激に降下する層が形成
されています。『躍層』と呼んでいますが、冷たい、低水温の層ができているんです」
その躍層は、水圧の関係ですかね。米の収穫に大きく影響しますね。溝口さん
溝口:「(略)こんど、与瀬に造るダムサイトは、高さ五六米の堰堤を築きあげ、大貯水池を造るわけですから、表面水はよいが、躍層以下の水が問題となるのです。(略・稲作の最適水温)問題は、これなんです。頭の切り替えの問題にもつながりますよ。小林さん達の協力で実現した事業です。与瀬から三分の一の水が農業に取れたのです。折角獲得した水が、冷水温では稲が泣きますよ。温かい水にして灌漑しましょうよ。内務省の土木・電気のシビル・エンジニアの諸君の説得に力を貸して下さいよ。小林さん」/これは、一九三八年、昭和一三年、の暮迫る、寒い日であった。神奈川県が、国の指導を得て「相模川河水統制事業」を県営で実施することになり、内務省と農林省はそおの実施設計をめぐって、連日協議を重ねていた頃であった。(略)   
「小林與次右ヱ門」 P341・342より
1939 昭和14 53 2月2日付、都新聞に「淵辺伊賀守冤罪説運動捲起る」の記事が掲載される

山地悠一郎著「御良親王の伝説」 発行昭和61年7月」P34より
4〜5月、北支中支戦線を約40日間かけ慰問する。 神奈川県代表皇軍慰問団(県議6名)
5月12日、東京日日新聞社主催「軍都建設座談會」が淵野辺駅前「守屋旅館」で開かれる。
         注 小林與次右衛門は慰問中か 座談会出席名簿には記載がありませんでした。  検討要 2018・4・7 保坂

6月、県本会議場に於いて淵辺伊賀守、忠臣顕彰の対象すべきを提唱する。
6月26日、大村知事の招請により、「神奈川縣相模ヶ原開発計画協議會」が県庁第一会議室で開かれる。
横浜税関長 花田政春 有識者 山田博愛 土木部長 横山 喬
横浜土木出張所長 三輪周蔵 小林政一 警察部長 辻山治平
横須賀鎮守府参謀 小暮軍治 田尻常雄 學務部長 清水虎雄
東京鐡道局 土井源三良 丹羽鼎三 庶務課長 高橋一郎
逓信局 樫部保 上溝町長 清水桂策 經理課長 田邊信一
士官學校 七田一郎 大野村長 石井傳蔵 道路課長 大林勇治
防衛司令部 宮下健一郎 相原村長 井上喜市 河港課長 廣長良一
縣會議員 岩本信行 大澤村長 島 正夫 保安課長 小林正基
小林與次右衛門 上溝警察署長 堀越信次 警防課長 奥田信雄
竹内定吉 横浜憲兵隊憲兵大尉 野崎辰夫 耕地課長 淵田秋廣
金刺不二太郎 相模兵器製造所長 渡邊中佐 地方課長 石原虎好
笹口晃 知事 大村精一 社會課長 堤金次郎
江水源蔵 総務部長 安岡正光 建築課長 福田四郎
有識者 ※1有吉忠一 經濟部長 渡邊 廣 都市計畫課長 ※2野坂相如
※1有吉忠一:元神奈川県知事・宮崎県知事時代に西都原古墳の発掘調査を行う
※2野坂相如:小説家・野坂昭如の父親 
〇小林懸會議員/私ハ斯ウ思フノデスガ、斯う云フ事業ヲヤルニハ行政的ニ四ヶ町村ヲ一ツニ併合シテヤルコトガ必要ヂャナイカ、是レガ執行スル上ニ最モ良イ道デハナイダラウカ、今縣ガ指導的ニヤレバ地元デ直チニ出来ル情勢ニアルノヂャナイデセウカ。
        「神奈川縣相模ケ原開発計畫協議會議事録」より      
7月28日、県は都市計画案をまとめるため、相原村旭小学校に地元民を集め、説明会を開く。   (県土木部長・都市計画課長ほか関係課長技師出席)
参考  相模原都市建設区画整理事業図
7月、第二次世界大戦始まる
8月31日、神奈川縣土木部都市計画課より「相模原都市建設事業参考資料」が刊行される。
     資料書の中に「神奈川縣相模ヶ原開発計画協議會議事録」を所収する。
月8日、臨時神奈川県議会が開かれ、「相模原都市建設区画整理事業に関する」議案が上程される。
12月19日、県会へ相模原都市建設上水道布設のため追加予算案提出。
12月22日、県会で相模原上水道案可決。
1940 昭和15 54 〇、神奈川県蚕種組合長
〇、神奈川県蚕種冷蔵購買販売利用組合長
〇、全国蚕種業組合議員。
桑の芽はつばくろ口にひろがりてかひこ掃く日の近づきにけり
大根の双葉につよく日は照りて銃後の秋を桑摘み急ぐ
燈火管制のくらがりに桑を食む蠶さながら大雨の降るごとくして
3月、相模原開田計画についての調査が完了する。 県の調査期間 昭和11年5月〜昭和15年3月まで
    調査完了後「神奈川県高座郡相模原開田計画説明書」として調査結果を発表する。
昭和12年調査相模原開田計画
昭和10年 2150町歩→
昭和12年 1000町歩 (単位=町歩)
町村名 地名 開田面積 町村名 地名 開田面積
田名村 田名 220 麻溝村 下溝 110
上溝町 上溝 110 大和村 下鶴間 85
大野村 淵野辺 160 深見 95
大沼 60 草柳 100
上鶴間 60
注)開田面積が減少した理由(県の説明)
 大正4年、昭和10年の農林省調査に比べ大変化がある。前回の調査では10・45立方メートル秒の水量を充当して、2150町歩を潤す計画であったのが、今回の調査では5・6立方メートル秒に減少し、しかも人口10万都市の出現を予想して上水道用水にも充当するため、開田は1000町歩と半減したためである。そのため前回調査の12ヶ町村から5ヶ村となった。   市史4 P396より
3月28日、相模原上水道布設が厚生・内務両相より許可され、直ちに工事着手。
3月31日、頭首工・用水路幹線・鳩川放水路などの工事がすみ、相模川左岸土地改良事業完成。(着工昭和5年5月)
6月、神奈川県会議員落選(2期8年の県会議員任期中、県参事会員、地方森林会委員、県農地委員、
    
神奈川地方都市計画会委員、社会方面委員ほか県社会事業協会理事等を務める)


岩本信行
添田良信
金子小一郎
4503
4328
3029
政友再
政友新
政友再



出口肇
小林與次右ヱ門

2803
2707

民政新
民政再

(県議時代) 門司亮
「小林君は、民政党に属し、保守派の議員と見ていたが、物事をよく勉強しており、本当に実のある弁論で鳴らした。長講派というが、理路整然としており、私にとって問題点を解明する先生の話しを聞くようで勉強になった。特に、農業・農民問題は彼の独談場で、答弁に立つ官僚が屡々立ち往生し答弁が翌日廻しになることもあった。農家負債整理問題、耕作権を前提とする自作農創設の問題、養蚕問題、蚕糸問題、蚕種事業から、産業組合問題、園芸問題、農業試験地新設問題等、彼の右に出るものはいなかった。議員としては、まさにピカ一の存在であった。そして根本のところは、常に下層農民の立場を堅持するヒューマンな人柄が滲み出ていた。また、教育問題に非常に熱心で、教育の地域差是正、俸給格差をとりあげ、労働時間や賃金問題について、私たち労働者側が採り上げる主張と、全く同質同根の発言をされた、驚くばかりの精進であった。そして、何よりも特記すべきことは、保守政治家に持ち合わせの無い先見性≠持つ稀有な存在であったことだ」
  「小林與次右ヱ門」 P359より
8月13日、韓国出身協和会支部で上溝石橋の荒地を開墾して報国農園とする(横浜貿易新報)
8月16日、県庁で町村合併協議会。
9月17日夜、藤沢バスと接触事故、重傷を負う。
9月17日付、神奈川新聞に『紀元二千六百年事業、郷土史編纂に就いて縣當局に希む』を寄稿する。 確認済
10月、県営「相模川河水統制事業」の起工式が与瀬村で行われる。 11月25日か再検討要
10月21日、磯部頭首工が完成、竣工式が行われる。
11月10日、紀元二千六百年記念式典が皇居前で行われる。
11月25日、相模川河水統制事業の起工式が津久井郡与瀬町地内相模川のほとりで行われる。
12月11日、造兵廠で軍都建設連絡委員会(県地方課長招集)市制施行問題の経過報告と今後の対策を協議。
12月20日、相模川漁業組合補償問題にいつき、県庁で関係三漁業組合員との間に補償協議調印が行われ、同二九日補償料受領解決する。

12月23日、区画整理事務所前広場で相模原都市建設区画整理事業起工式挙行。
〇この年、「相模野社」は創立10周年と紀元二千六百年を祝し、記念大会雑誌特輯・記念歌集刊行を行う。
1941 昭和16 55 1月、上溝町会議長に就任する。
2月、清水桂策町長が町村合併の最後の詰めに小林を助役に登用する
2月1日〜5日、上溝・座間・相原・大野・大沢・田名・麻溝・新磯・大和の各町村で九ヶ町村合併の意見書提出を審議する町村議会開催。大和村を除く各町村可決、平沼内相・松村知事に提出する。
2月21日、県庁参事会室で軍都建設連絡委員会開催、大和村を除く八ヶ町村の合併が決定。
3月1日、県蚕糸課主催で養蚕実行組合長会議を座間小学校に開き、養蚕新体制、桑園整理転作などの協議指導を行う。
3月6日、八ヶ町村は合併区域から大和村を除く旨の上申書を知事に提出。
3月10日、座間町役場で八ヶ町村事務打合せ会開催。     
参考 座間町役場内で行われた打合せ会の内容
三月一〇日には座間町役場で打合会が開かれ、淵野辺の区画整理事務所におかれる新役場と出張所との連絡、新町役場駐在吏員を各町村から一名ずつ選出すること、大字の設定(今までの町村を大字とする)。書類は表紙のみ相模原町〇〇出張所と訂正してそのまま使用することなど、具体的な協議が行われた。    
市史4 第三章 軍都計画時代の相模原 P645・646より 
3月19日、松村知事より八ヶ町村議会に対し、合併して相模原町をおくことについて意見を諮問する。全両村同意。ただし町名について多少の異見があった。
3月25日、戸籍と寄留の事務は各出張所で取扱える、この許可申請を八ヶ町村長より横浜区裁判所監督判事に提出する。
4月23日、上溝町役場落成式。
4月29日、上溝、座間町の2町と相原・大野・大沢・田名・麻溝・新磯の6村が合併
    して、わが国最大の町相模原町が誕生する。
4月29日、窪田晧初代町長職務管掌就任(昭和16年8月22日まで)
5月13日、相模原町町制祝賀式を淵野辺の新役場前広場で挙行。
       注) 「淵野辺の新役場前広場」とはどこか 昭和23・3の項もあり 検討要
5月30日、第一回相模原町会議員選挙出馬、当選する。
   初代町長は町議会議員の中から最長老の篠崎太一が選ばれる。(同年8月22日より)
石井孝
小林與次右ヱ門
江成昌治
井上喜市
松本君之助
相沢茂治
原清茂
井上和正
志村又吉
264
257
236
216
215
210
209
202
199
斉藤弘雄
鈴木崇成
倚水文能
長谷川藤吉
山口茂治
笹野郷盛
草柳忠兵衛
佐藤昌寿
篠崎太一
189
183
175
174
173
171
168
168
166
大谷仁三郎
星野浜次
飯谷重治
小川康明
中里源之丞
草柳宗治
井上延吉
小泉茂作
西山新三郎
164
159
157
155
152
152
148
147
147
飯島要之助
石井碪一
沢田和吉
稲垣許四郎
沢田和作
金子斉一郎
山口乙次郎
田所武之助
中里義隆
145
144
139
138
134
134
122
122
118
6月21日、上溝横山で県営住宅起工式。
8月11日、第二回町会で町役場の位置を上溝に移転する建議が出て可決される。
(実際の移転は同年九月一日)
8月22日、町会で初代町長選挙、篠崎太一議員当選(22年1月まで)
11月20日〜2週間、茨城県内原訓練所農業報国推進隊が橋本荏原工場敷地三〇町歩を開墾する。
    
参考事項 満蒙開拓青少年義勇軍 内原訓練所
12月8日、対米英宣戦布告(太平洋戦争開始)、上溝町市場は物資統制強化で廃止となる。
田草取る若きをみなら一齊に汗の瞳を汽車に向けたり
山雨いま到らむとして段畑に村のをとめ子桑摘みいそぐ
鐡路より目路ゆくかぎりみのり近き田畑のものの水に浸れる
梅雨ばれをホップの蔓ののびのびと繁れるが見ゆ北甲斐の村
葡萄園遠くつづける甲斐盆地この酒折り宮をめぐりて
いただきて握り飯食す停車場のあわただしき群に我もまじれる
たか山に狭霧かかれる麓の村みんみん蝉に明けゆく
桑畑掘りおこしたる跡ならむ下つ毛野の野に麻は茂れる

かひこ飼へばラジオの前に母者人あすの天気を案じたまへり
いそしみて妻が飼ひたる晩秋の蠶はすこやかに繭としなりぬ
秋繭の荷出しをはりて検定の知らせまつなり宵を涼しく
ほろほろと萩散るあした山寺の観音経のしづかに澄める
小石もて柩の蓋にうつ釘のひびきは胸にいたくししむも
曼珠沙華の葉は青々と冬枯れし土手の斜面に茂りたる見ゆ
工廠のサイレン鳴れば鍬置きて土にまみれし汗拭いける
子らはみな軍の工場にはたらきて麥踏む老のかげ寒げなる
炭焼きてくらしをたつる山びとの米の入手になやめるを聞く
蒟蒻を切り干す家の軒近く風に音して木の葉散りくる
汽車の窓旗ふりてゆく兵たちの一人だにも死なしたくなし
1942 昭和17 56 1月、肥料・農機具配給制となり、自給肥料の堆肥増産運動が行われる。
3月19日、青年学校教員生徒を対象とした甘藷増収指導者講習会が相原農蚕学校で開かれる。
6月1日、相模原食品市場開業。(事務所、上溝本町相模原農会内、社長岩本信行))
9月23日、荒木陸軍大将一行が与瀬・沼本・久保沢・上溝・渕野邊方面を視察する。
 
  9月23日、荒木大将視察日程表  所蔵 市立相模原博物館

建設事務所前での記念撮影
(中央:荒木貞夫陸軍大将・前列向って左から三人目が岩本信行県議会議長・同四人目が氏家文彌土木技師・六人目が金野賢彌建設事務局長・後列向って右端が伊東剛事務所土木課長)






10月、食糧管理法によって主食の国家管理が行われる。
10月、司法保護委員(保護司)としての職務を遂行する。
立ち枯れしままに久しき小山田に氷は厚く張りつめにけり
年長く茂れる森の大けやきけふし斫られぬ船つくるとて
春いまだなほ霜白き裏畑にうから皆出てじゃがいもを植う
1943 昭和18 57 4月、清水桂策のあとを継いで三代目の上溝産業組合長(昭和19年3月まで)に就任する。
12月、津久井ダム・津久井隧道・津久井分水池完成。
   征きし馬
征きし馬の消息はなく馬小屋の軒ばの梅の闇にかをれる
ひと足ひと足こころをこめて踏む麦のこの一粒も國につながる
つくろひし靴下をはき新春の霜どけ道を胸はりてゆく
ひとり男増産のことに追われつつ野良着のままに兵を送れり
木の根噛み草の葉を食し潮を飲みガダルカナルに闘ひしか友は
丸の内ビルの土壌に萌えいでし薺
(なずな)おほばこに春の陽が射す
   夏蠶飼ふ妻
いっしんに夏蠶に桑やる老妻はもの書くわれにかかはりもたず
蝮さげて町に出できし山男ましろき百合を手に持ちそへて
1944 昭和19 58 1月3日、津久井発電所一号機送電開始。
※3月、上溝農業会々長(昭和23年8月まで)
 
政府の戦時下の方針で、帝国農会、産業組合、全国養蚕連、中央畜産会などの統合が行われ、上溝産業組合は発展的に解消、新たに上溝農業会が発足した。初代会長には清水桂策が就任、戦後、二十一年から二代目会長は小林が二十三年八月の農業協同組合への改組までつとめた。 「小林與次右ヱ門」 P73より
  ※ 「小林與次右ヱ門」 年譜では昭和19年3月とあったが21年からではないか 検討要 2016・8・7 保坂
12月、相模原町は都市疎開者受入れのため町内一万戸の畳数を調査する。
1945 昭和20 59 2月6日、県内務・経済第一両部長名で農学校長・青年学校長宛てに甘藷特設育苗園設置の通(達)が発せられる。
2月、相模発電所一号機発電開始。
3月、相模原上水道完成。
4月16日、長男茂雄・神風特別攻撃隊第七銀河隊長として喜界島付近において戦死。
一人子の茂雄中尉が戦死せる短き知らせ妻と読みたり
たたかひに命おとししひとり子に香焚きて語る在りし日のこと

髪と爪筥(はこ)に秘めつつ出で征きし吾子はもつひに還えらざりけり
夢もまたたぬしと思ふこともあり寝覚めて偲ぶ亡き吾子の顔
この家棟承けて継ぐべかりしわが茂雄 君の御盾と笑みて死にしかて

5月1日、上溝防衛隊編成される。(隊長井上隆雄)
5月10日、上溝防衛隊防衛招集。
5月26日、相模原町国民義勇隊の中隊長、小隊長辞令が義勇隊長名(町長篠崎太一)により発令される。
      以下、市史7 年譜に7月6日、8月5日、8月12日、8月13日、行動記録ありましたが省略しました
6月、軍需省より相模川河水統制事業の工事中止命令が出る。
8月15日、終戦の詔勅下る。市域は概ね平静で町役場では兵事関係書類一切を焼却する。
8月18日、戦後初の相模原町会、議員定数36名中18名出席。町長選挙が行われ、篠崎太一当選。
8月23日、早朝陸軍士官学校全隊は相武台を出発する。
9月2日、市域旧軍事施設へ米軍進駐接収する。
参考 旧軍施設の転用状況
旧軍施設名 開設年月 所在地 転用先 返還
陸軍士官学校 S12・9 座間町・新磯村 米軍キャンプ座間
陸軍士官学校練兵場 12・9 座間町・新磯村・麻溝村 小銃射撃場・農地
臨時東京第三陸軍病院 13・3 大野村・新磯村 国立相模原病院
相模陸軍造兵廠 13・8 相原村・大野村 米軍相模原補給廠
陸軍兵器学校 13・10 大野村 防衛庁四研・学校・工場・住宅
電信第一連隊 14・1 大野村 米軍相模原住宅地区
陸軍通信学校 14・5 大野村 学校・住宅
相模原陸軍病院 15・3 大野村 米軍医療本部
陸軍機甲整備学校 18 大野村・上溝村 米軍キャンプ淵野辺・農地・住宅
                 相模原市史 第7巻 P510 より
1946 昭和21 60 1月、相模原町議会議長21年10月より町長も兼ねる)に選ばれる。
4月、帝国女子専門学校(相模女子大)誘致。
4月、衆議院議員選挙立候補、落選
  参考 日本改進党公認で立候補  神奈川全県一区制(一位:片山哲、四位:河野一郎、九位:岩本信行)
5月、現青梅市立成木小学校々庭に「希望の碑」が建立される。
希望の碑(碑文)
多摩の成木の里は青垣山四方を周りて成木川その間を流れ、或は瀧津瀬を飛ばし或は銀蛇をくねらしてあまねく国土を肥やし麦生藷生を始めとしてさわの田那つ物青物四季を通じて緑の美観を絶さず。民族純撲にして生業に勤しみ公事に尽くし私事に譲り殊に子女を愛しみて望を其の将来に懸く。名刹安楽寺に杉銀杏 欅の三巨木あり。いづれも千年の老樹にして或は針葉常磐の壮観により或は濶葉黄緑の美観によりて雲を凌ぎつつ郷人の志気を鼓舞す。実に老樹は国の宝なり。而して灌木蔬菜花卉の類うら若き色彩をその間に點綴し新陳交替せしめて人の世の理想の両端を暗示す。若き農村成木の長へに伸び長りて成木する将来や実に頼もしというべし。こたび我が成木国民学校増築その功を竣ふるに当り特に高遠の希望を掲げて村の将来を頌ふ。後に来る者よく奮闘努力せよ。
 
  丈高き遠き行く手を望みつつ日々をいそしむ我が成木かも
  山めぐり川うるほして成木野の麦生藷生は緑次ぎ継ぐ

 昭和二十一年新緑もゆる五月つひたち/多摩の成木に疎開せる折/文学博士  五十嵐 力 撰書
               碑文未確認 民族を民俗と読みとった論文あり 2016・9・23 保坂
7月、相模川河水統制事業再開(昭和24年7月まで)
8月、県は開田の見通しがたったことから毛呂英雄を相模原開田畑地灌漑事務所長に任命、計画区域内の各地で説明会を開く。(食糧難の解消のため開田面積は当初の三培に近い2700町歩なる)
 緊急開拓の名目で農民の生産意欲も大きかったから、開田希望地区は当初計画より拡大して相模原、大和に加えて座間、綾瀬、海老名、藤沢、渋谷と大きな区域になった。各市町村が加入を希望したのは、県の指導にもよるが、小林の熱心な呼びかけと農政家としての着眼点が信頼された結果でもあった。/広域になったので水量的に従来の水田計画では実施不可能となり、県は急遽、農林省の桜井志郎建設部長(のちに参議院議員)の提案を受け入れ、工費も安く、しかも開田面積の三倍近い二千七百町歩にかん水できる畑地かんがい計画に全面的に変更した。この変更に対して水田を取扱った経験しかなかった県や関係市町村間では、危惧する向きも強かったが、大正七〜九年の小林の実験田資料が唯一の参考資料となって、二十三年十一月「相模原開発畑地かんがい事業計画」が立てられ発表されたのである。/二千七百町歩は、国内では初めての大規模畑地かんがい事業であった。
                     「小林與次右ヱ門」 P94・95より
10月、篠崎町長が公職追放で辞任したため統一地方選挙まで暫定的に議長の小林が町長も兼務する。
12月23日、町議会で座間地区分町問題につき再び発言あり、「町分離問題処理委員会」を設けることを決定。
〇 この年、農地改革が行われる。
1947 昭和22 61 1月23日、相模原町長就任(26年4月2日まで相模原町長)(相ひ※ 相模原町議会議長  検討要)
    町長選挙には久保田順作・矢島静夫・山本安一が立候補し1万票余りを得て当選した。
2月、各地区に遺族会が組織され、「相模原町連合遺族会初代会長」が結成される。
3月、教育基本法・学校教育法(6・3制実施)公布。
4月1日、新制教育始まる。新磯・麻溝・田名・上溝・大沢・旭・大野第一・大野第二・大野第三の九国民学校がそれぞれ小学校と改称して発足。
4月2日、相模原町長辞職、
4月8日相模原町長選挙で公選制による初当選
(26年4月2日まで相模原町長)
4月30日。戦後第一回目の町議会議員選挙。(昭和一六年五月三〇日合併直後の町議会議員選挙以来初の改選)
4月2日、父民次郎91歳で死去。
月、舘盛静光(32才)が大沢出張所長に就任する。
  
  大嶋坂 憲法記念碑
  





参考 碑文
大嶋坂 憲法記念
金森徳次郎書 裏面 昭和二十二年六月一日 竣功 大嶋部落一同
5月1日、六・三制実施により、上溝・田名・大沢・旭・大野北・大野南・新磯・麻溝の八中学校設置。
大野北中学校は旧陸軍兵器学校兵舎を、大野南中学校は旧陸軍通信学校兵舎を借用した独立校舎、他の六校は小学校校地内の校舎を使用。
5月、新憲法施行
6月、遺族会が会員対象のバザーを開く。
6月、相模湖完工
未だ青き琵琶にあこがれ集まれる兒らの瞳はわだかまりなし (町長室にて)
馬鈴薯の供出すみし氣安さをうからと語るラジオ聴きつつ 
     うから:家族、親族
9月、遺族会主催の戦没者慰霊祭が初めて各地区ごとに開かれる。
9月15日、相模川洪水で磯部頭首工堰堤部大破、取水不能となる。
11月15日、大山郁夫帰国歓迎国民大会が開かれる。
11月19日、農業協同組合法施行。任意の帰農組合が法人格となる開拓農業協同組合へ改組。
      参考  昭和32年 旧相模原市内開拓農業協同組合状況

開拓農業協同組合名 所在地 人数 戸数 設立年月日 解散年月日 備考
北相開拓農業協同組合 橋本24の2 38 11 25・8・3 44・3・2 一号井(深さ110尺)
二号井(深さ110尺)
相原開拓農業協同組合 小山2610 18 23・5・7 37・4・6
新生開拓農業協同組合 清兵衛新田439 28 23・9・20 37・4・6
神奈川(県)開拓農業協同組合 淵野辺3008 139 30 23・11・10 39・4・11 組合名称検討要
豊田開拓農業協同組合 上鶴間5340 45 23・6・23 44・4・7
双葉開拓農業協同組合 上鶴間480 136 28 所在地検討要
上鶴間開拓農業協同組合 上鶴間4690 25 24・4・7 37・4・6
青葉開拓農業協同組合 上溝6117 75 17 23・5・6 48・3・8
相模原開拓農業協同組合 上溝5600 62 10 25・4・4 44・3・2
相武台下開拓農業協同組合
星が丘東開拓農業協同組合 星が丘5252 89 16 23・5・14 46・2・16
星が丘末広開拓農業協同組合 星が丘5252 67 12 23・6・17 46・2・16
星が丘双葉開拓農業協同組合 星が丘5252 132 25 23・5・28 46・2・16
上溝台開拓農業協同組合 星が丘5252 33 23・8・7 44・7・7
豊原開拓農業協同組合 麻溝台2596 112 19 23・10・24 49・7・23
振興青年開拓農業協同組合 下溝5100 26 23・5・14 44・4・16
麻溝台開拓農業協同組合 下溝5100 235 50 23・5・31 S55年開拓碑を建立
一青会開拓農業協同組合 下溝2330 38 11 23・5・31 44・7・7
溝上開拓農業協同組合 下溝5100 122 25 23・4・10 37・9・10
新淵野辺開拓農業協同組合 淵野辺 23・11・10 37・4・6
双葉開拓農業協同組合 磯部 23・5・11 48・12・6 所在地検討要
大栄開拓農業協同組合 淵野辺 23・4・22 37・4・6
淵野辺開拓農業協同組合 淵野辺 25・4・8 34・10・14
                    注 双葉→所在地・農協法の施行12月からか確認要
            昭和33年開拓入植営農施設関係綴・神奈川県開拓農業協同組合一覧表」より
            金井利平著 「戦後相模原の開発」・内田佳奈子著「拡がる相模原」論文より作成
12月22日、町議会議員全員協議会で「市制施行促進委員会設置要領案」を審議する。
            市史7 年譜に記載あり  市制施行促進委員会設置要領案」の審議の時期 再確認要
1948 昭和23 62 1月31日、全国市町村会代表の一人として宮中にて天皇陛下より拝謁の栄誉に浴す。
       天皇はソフトを御手にねんごろに我らの前に禮(いや)をたまひぬ 
3月18日、淵野辺駅裏の県有財産相模原都市計画事務所(木造平家、建坪301坪)を町役場支所用に払い下げ申請をする。(現在大野北出張所)
4月1日、町役場出張所(橋本・大野・大沢・田名・上溝・麻溝・新磯・座間の八出張所)が支所と名称変更し、大野出張所は大野中支所となり、大野北・大野南支所が新設される。
4月1日、旭小学校第二分教場が独立し、旭第二小学校となる(二六年一二月向陽小学校と改称)。
4月、県立相原農蚕学校・上溝高等女学校が新制の、相原高等学校・上溝女子高等学校となる。
6月8日、臨時町会開催、三六名中三三名出席、座間地区の分離独立を、賛成一九名で可決。
6月、磯部頭首工復旧工事竣工。内山岩太郎知事揮毫の記念碑が建つ。
8月6日、座間地区分離に関する件が町議会において、出席議員三二名全会一致で可決。
9月1日、座間町が相模原町から分離独立する。
9月、溝口三郎が「開拓論」を「雄鶏社」から刊行する。
 
 溝口三郎著 開拓論
詩人大月桂月をして「萬里秋肥えて千里の長風に嘶(いなな)く、奥州の風致雄にして大なるか」と八甲田大岳の山巓にって長嘆せしめたる三本木平の一帯は、安政年間、新渡戸傳父子が、その開拓を企画してからはや九十年になる。開拓の当初、国道筋に沿える三本木の一小部落が、南に延び、東に開け、今では一萬数千の繁華な街となり、そのうちには都市計画も布かれるという。敗戦日本は今、食料増産と人口収容力の安定的増大を図るため、一生懸命、大規模の開拓をすゝめている。三本木平の国営開墾も、遠からずその完成を見る事であろう。太素塚の杜に眠る三本木の開祖新渡戸傳父子の霊夢、今いずこをめぐるであろう。三本木町の大字元村はこの町の発祥の地である。そこに櫻田さんという七十近い老農が、過去五十年間、殆んど毎日襲い来る凶作と闘いながら、毅然として農業を守りつゞけている。
/以下、櫻田さんの手記になれるもの。/元村の開祖は作助という百姓である。新渡戸なまと一緒に盛岡在から移住して、こゝへ土着された方であろう。私の村の氏神さまにその百姓を祀ってある。私は十四のときから、家業の手助けに百姓をするようになった。(以下略)     冒頭の部分より
10月3日、星が丘・弥栄荘地区の学童数増加に処して、星が丘に上溝小学校分校が竣工。
10月23日、海外引揚者開拓団子弟のために、元練兵場用地に麻溝小学校麻溝台分校を設置することが町議会で可決(24年9月15日開校。)される
11月、麻布獣医科大学(麻布大学)誘致   注 「小林與次右ヱ門」 P84では22年  検討要 
11月、県「相模原開発畑地かんがい事業計画」樹立。
 幹水路工事の概略(計画)
工事の区域名 工事の時期 工事の区域 其の他
 第一期 昭和23年〜27年 上溝虹吹分水池より小田急線以北
 第二期   27年〜30年 虹吹分水池より小田急線以南
 第三期   31年〜35年 久保沢分水池より虹吹にいたる地域 当初、北幹線区域は県の計画から外れていたが、小林が県当局に働きかけくわえたものである。 「小林與次右ヱ門」P95より
 二千七百町歩は、国内では初めての大規模畑地かんがい事業であった。/二十三年の国会で予算がつき、大規模畑地かんがい事業(地元負担二十五%)と、旧軍使用地の代行開墾建設事業(国庫補助金百%)の二者による、国家助成金によって施工し、極力農家負担の軽減に配慮がなされた。 
〇、(相ひ※ 相模原開発畑地灌漑組合長  時期の検討要)
〇、(相ひ※ 相模原開発土地改良区理事長  時期の検討要)
〇、(相ひ※ 神奈川県農業改良委員会委員  時期の検討要)
〇、(相ひ※ 神奈川県蚕業調査会委員  検時期の討要)
〇、(相ひ※ 相模原連合遺族会長  時期の検討要)
〇、(相ひ※ 全国新市振興特別委員会委員長  時期の検討要)
1949 昭和24 63 2月、関係市町村を役員に「相模原畑地かんがい期成同盟」が発足、会長に就任する。
    事務所:上鶴間谷口十字路ロ脇、正木酒蔵宅の一室  初代事務局長:小山右京
3月、相模原開発畑地かんがい事業着工   
相模原河水統制計画で確保された水利権が、相模野の農民の手に入るようになったのは、一九四九年、昭和二四年春、「神奈川県営相模原畑地灌漑事業」と装を改め、国の助成を受けて実施されてからである。水田開発のための水利権が、畑地灌漑事業に変更を余儀なくされたのは、水の絶対量が少なく、水田開発よりも畑地灌漑の方が対象面積も広く、新しい農業に適合すると判断されたからであった。しかし、畑地灌漑の技術は全く未知数の事業であって世紀の大事業≠ニ呼ばれ、全農民の注目の的となり、この経験が、後に愛知用水計画や砂丘地開発、一般畑作灌漑振興事業の範となった。
                           
「小林與次右ヱ門 」 P290より 
3月、西門の雑木林を切り開いて「高北食品企業組合」を設立する。役員に就任昭和36年2月まで)
3月31日、淵野辺地区に大火。建物損焼3300坪、罹災世帯138世帯、罹災人員458名。
4月1日、上溝小学校分校が独立し、星が丘小学校となる。
4月15日、相模原市立図書館が上溝4700番地(相模線上溝駅下)に開設、神奈川軍政部のあっせんにより、米軍かまぼこ兵舎の提供をうけ、アメリカ文化センター相模原分館を兼ねる。
6月15日、「広報相模原」の前身「町政時報」(第一号)が出る。
7月、相模川河水統制事業全工事完成。
7月、期成同盟を、法令の規定に基づき「相模原開発整理組合」に変更、組合長に就任する。
7月、相模女子大の旧軍兵舎の大講堂で開発整理組合の設立総会が開かれる。
総会での様子(地元は賛成7割、反対3割)/反対者、共産党員はむしろ旗をたてて会場に押し入り、罵声怒号を盛んに飛ばして、議事進行を妨害した。予想された事態だったので、県耕地課は総動員、警察も出動して厳重警戒のなかで行われたが、小林と(県の)毛呂英雄事務所長 が、負担金問題などで槍玉にあがり吊し上げられる一幕もあった。小林は持ち前の負けん気で真向うから対決して乗り切ったのであった。中島良信(のちに第三代かんがい事務局長)は「あのときの小林さんの気迫は大へんなもので、鬼神を思わせるほどだった」と追憶している。
        「小林與次右ヱ門 」 P97より    注 設立総会月4月の表示もあり  確認要  P374 
        吾の言葉に棘と皮肉が多しとてけふも買いたり人の怒りを 
8月30日、相模原開発耕地整理組合設立認可。組合長に就任する。
        市史7 年譜 では相模原開発耕地整理組合 相模原開発整理組合 名称の再確認要
10月12日、公民館設置条例施行。上溝・大沢に公民館が設置される。
1950 昭和25 64 1月、上溝の火事、10世帯五四人が罹災。
3月、県による「相模原都市建設区画整理事業」が完了する。
4月1日、大野第三小学校第二教場が独立して大野第四小学校となる。
     (三〇年一月谷口台小学校と改称)。
4月1日、旭小学校第一分教場が独立して旭第三小学校となる。
        (二六年一二月相原小学校と改称)。

4月、旭中学校を現在地に新築移転。
5月、県立上溝幼稚園設置。
6月、朝鮮戦争始まる(昭和28年12月まで)
8月、「上溝通信 第20号」に「未亡人の問題の核心にふれよ」を寄稿する。
9月1日、田名中学校現在地に新築移転。
9月15日、「広報相模原」に「相模原畑地灌漑について」が掲載される。
10月、「市制促進委員会」を設置する。
  委員長:小林與次右ヱ門  副委員長:小川康明町会議長
   委員:小峰信長・加藤常吉・岡本定一・倚水文能・山下千代松・大瀧介三・金井庄作・関守男・井上松重
      座間博・芳沢重次の各議員    事務局長:中里正義助役 次長:原田三郎総務課長 

12月、連合軍ハウス要員(ハウスメイド)養成所を、町が主体となって、麻布獣医大の一部を借りて開設。
〇この年、戦後初の県営住宅が富士見六丁目に建設される。
〇この年、中学校卒業生の進学希望激増により、市内高等学校の収容力拡充と職業課程高校独立設置要望の運動が始まる。
1951 昭和26 65 1月、「上溝通信 第25号」に「新年所感」を寄稿する。
(略)熱い湯の冷却するように人々は戦争の犠牲者を忘れるともなしに忘れる傾向がありはせぬか、社会苦のドン底に苦しんで居る幾多の戦死者の遺族達数十万に上る未帰還者達と其家族達、等々は正月気分に浸り得ない人々である。この国の正月もまたけっして地上の楽園ではない。
4月、相模原町長選挙で落選(1期4年の任期中、全国町村会理事・同政調会委員・全国新都市特別委員会委員長・神奈川県町村会長・高座郡町村会長・県蚕業調査会委員・県農業委員・県遺族会理事・県養蚕連合会理事・相模原連合遺族会長)
    当選   清水 睦       18602票
     
落選  小林與次右ヱ門  14281票
 任期満了の昭和二十六年四月の町長選挙にひきつづき立候補した。小林と同じ地盤の上溝から、戦前、上溝町長をつとめた清水桂策の長男で、上溝農協組合長の清水睦が農協青年部に推されて急拠出馬、同一地盤を喰い合う乱戦になった。多年の実績にたのむところがあったが、小林陣営は力戦空しく敗退した。町役場を上溝から、上の段の現在地に移転すると発表したことによって、地元の反感を買ってしまったのも敗因の一つであった。(略)          「小林與次右ヱ門」 P89より
4月、麻布獣医科大学(麻布大学)理事に就任、三期九年間を行う。
5月、新磯中学校・麻溝中学校が統合して相陽中学校となる。 
参考資料 昭和26年秋麻溝中学と新磯中学の合同運動会が開かれる 原文のまま
 
保坂健次さんのHP、小林与次右ヱ門の項に、次のような表記がありました。「昭和26年5月、新磯中学校・麻溝中学校が統合して相陽中学校となる。 昭和27年6月、相陽中学校現在地に新築移転。」私は相陽中学の第9回卒業生としてこのことが気にかかるので、記録と事実を調べてみました。前のページに麻溝中学のことを私は次のように書きました。「*昭和26年まで麻溝小学校に併設、麻溝中学校がありました。しかし、27年3月に相陽中学の第1回卒業生となりました。したがって第1回卒業生は、一度も相陽中学校へ通学していません。」このことは事実で、私の兄が第1回卒業生の当事者で、しばしば話していました。兄はごぼう音頭を踊ったいとこの春山松江さんと同級生でした。松江さんは昭和26年の秋に麻溝中学校生として、踊っています。保坂さんの書く「昭和26年5月、新磯中学校・麻溝中学校が統合して相陽中学校となる。」は、書類上の決定で、実際は27年3月まで両校が分かれていました。しかし、整地できた校庭でただ一度、26年秋に両校合同の運動会をしました。いとこの松江さんが放送係で、じょうずなアナウンスをしました。/翌年の「昭和27年6月、相陽中学校現在地に新築移転は事実で、金子和利さんはその時から相陽中の1年生となりました、と述べます。
開校がずれ込む
相陽中学の建設は、朝鮮戦争の影響か資材の値上がりなどで建設会社が放り投げてしまい、2年ほど遅れたでしょう(金子和利さん)私は昭和27年の一学期は、麻溝小学校の講堂を間仕切り教室で過ごしました。一学期の6月に中学生が相陽中に引っ越したので、空き家が出来て今思うと、普通の教室に戻れたと思います。          「當麻通信 111号 編集 中島聰」より
5月、大沢中学校現在地に新築移転。
9月、「相模原開発整理組合」を「相模原畑地かんがい土地改良区」に改組し理事長となる。
9月、講和条約調印
10月、「相模原畑地かんがい土地改良区」の理事長職を綾瀬町選出の県会議員笠間久一にバトンタッチする。
11月、第一回相模原市民文化祭開催。
〇この年、建設省が発行した「国土総合開発」に安芸皎一、村上竜太郎、北村徳太郎の座談会記事が掲載される。
全文を掲載予定(調整中) 2016・9・11 保坂

                                  
 注 国土交通省図書館総覧によると 昭和43年から50年代分まであるが 昭和26年分はなし 確認要 2016・9・1 保坂  
〇23年〜26年にかけての畑地灌漑に関する書類が綴られる。
 
 
  相模原畑地灌漑事業関係書類


   神奈川県高座郡相模原町役場    
  
参考 綴りの内訳
 1 相模原開田
畑地灌漑事業について
 2 相模原開発事業会議
 3 相模原開発畑地灌漑事業促進に関すること
 4 相模原畑地灌漑打合セ会
 5 相模原畑地灌漑事業期成同盟会々則案
 6 相模原開発畑地灌漑事業促進に関して
 7 相模原畑地灌漑事業期成同盟会委員
推薦方について
 8 相模原開発畑地灌漑計画概要書
 9 相模原畑地灌漑事業期成同盟会々則案
10 相模原畑地灌漑事業の実現を期
し期成同盟会の件について
11 相模原畑地灌漑事業の促進についてノ件
12 土地立入周知方法について

       書類作成時期内容等 未確認 2016・9・24 保坂
            所蔵  相模市立博物館
1952 昭和27 66 3月、五女正子に宮代亮を迎える。
阿夫利嶺と丹沢かけて残る雪ふりあふぎつつ牛蒡蒔くなり
日のめぐみ土にしみ入りじゃがいもははや芽立つらしかそけき地割れ

4月10日、「広報相模原」に「相模原開発畑地灌漑事業について」が掲載される。
一、県営相模原・開発畑地灌漑事業が実施されるに至るまで
二、事業の目的と特異性について
三、相模原開田計画が畑地灌漑を目的とする事業に変わって実施されるに至った主なる目的
1(省略)
2(省略)
3開田事業は多額の工事費と労力を要する。 
4(省略)
四、計画の大綱について
五、工事の実施と事業費について
六、試験研究に関する事項
七、本事業の(受益)負担区域
八、賦課徴収による組合費の調達について
九、結言
6月、相陽中学校現在地に新築移転。
9月、組織された高座保護区(保護司)の会長として会の運営に当たる。
猫の仔の額ほどの農地にこだはれる訴願を裁く寒き机
(よ)ばれきて証人席に物思ふ何ものもなし外は雪降る
〇、この年、淵辺義博の伝承をたどり、はるばる石巻まで旅を行う。
白萩
塩釜の宮の白萩露たわわのりとの声にほろほろこぼれつ
水際に竝みて草喰む駒の群きょとんと立ちて汽車を見てをり
(のこぎり)負いひて峠路のぼる女らに触るる萩の花は露こぼしたり
みちのくの山また山の痩畑秋暑き日を薄荷刈るなり
あたあかとりんご色づく山畑稗ひょろ長く穂を抽き
つづれ着たる若き女に立ちまじりてん草を干す男たくまし
1953 昭和28 67 5月、中央小学校開校。
7月、第一回相模原市民富士登山が行われる。
9月、相模原保健所開設。とりあえず旧陸軍兵器学校医務室におかれる。
10月、「(財)国土計画協会・国土」に、神奈川県企画審議課が「神奈川県相模原における畑地灌漑の概況」を報告する。  参考 灌漑地区内の営農状況については古山地区が選定され報告がなされていました。
〇この年、大和町の高下家から「相模原開田趣意書」が発見される。
   参考 趣意書の提出年は明治16年相模原水路開墾起業者:榎本武揚・上野景範・奈良繁・野村靖・安藤助九郎・大久保昶和
〇この年、町村合併促進法が公布される。
〇この年、「創立八十周年記念 上溝小学校誌」に「八十年を回顧して」を寄稿、和歌二十首を添える。
〇27年から28年にかけ「相模原町」から「畑地かんがい早わかり」(1枚もの)が刊行される。
  畑地かんがい早わかり          相模原町

        
畑地灌漑計画図  相模原町
ねむれる穀倉相模原!!
 「米のめしを腹一杯喰いたい」百姓がこんなことを言ったらおかしい話だが、これが相模原一帯の農家の叫びではないでしょうか?
 大京浜都市に近く充分恵まれてゐ乍ら割合有利に金に換えられる野菜や果物も蒔、植付けられない。これらのことは、結局水利の便が悪いためです。水利施設が完備しなければこの相模原の農業はこれ以上いくら頭をひねくっても発展しないでしよう。

瀬にダム完成!!
 恵まれた条件を持ちながら恵まれない相模原に
とって一番必要な水の源が出来ました。 それは瀬の「ダム」です。さあ!もう これで相模原は一つだけ欠けてゐる水が瀬に待ってゐるのだ。あとは水の通る道を造ってやればよい もうその道も県営工事で初められてゐる さあ!皆さん 早く畑へ水がひける様にして陸稲も、甘藷も、野菜も、果樹も、人間が毎日お茶を飲む様に充分ほしいときに慾しいだけ飲ませて沢山のみのりを挙げましょう。 
畑地灌漑事業のあらまし(省略)
畑作物に水をやれば収量が増す!
(省略)
今更こんなことを云うと笑はれるでしょう。 参考までに試験成績を挙げます。
区分/項目 多量灌漑 無灌漑 少量灌漑
多肥 少肥 多肥 少肥 多肥 少肥
玄米・反当・収量 2.557石 2.256石 1.370石 1.153石 2.239石 2.139石
       昭和26年陸稲試験結果(渋谷試験場)
神奈川県農事試験場、相模原試験地ができました(省略)
負担金について
反当千四百円〜千六百円この中で町でも援助をしますから、もっと少なくなります。若し負担が重いような場合には皆で話し合って共同で國から廉い利子で金を借り十五ヶ年賦拂の方法で増収した中の一部を毎年農協へ持寄り現金化して拂込んでもよいでせう。畑地灌漑をして増収が得られるなら求めても無い土地が増反したとも考へられ新しい畑を買ったとも考へられるでせう。
水路で潰れる農地について
(省略)
肥料は流れません(省略)
手間が今迄より澤山かゝるか?(省略)
人間は水のあるところへ自然に集まって暮らして来た
水利の便悪い相模原へ水を導くことはこの原に生きる私達の生活がより豊かになることです。今迄より一歩も二歩も飛躍的に発展する基です。陸稲はヨレ上り甘藷も粟もぐったりとした夏の日は誰もが雨降り山をながめてため息ばかり、こんな年は毎年ではないけれども、こんな年があるからこそ毎年陸稲は安心して作付も出来ないし、堆肥も金肥も遠慮して思うような収穫を希めないのが今の姿でわないでしょうか、一日も早く畑地灌漑を実施して、安心した作付計画をたて積極的に科学的な栽培を行って日本一の穀倉相模原を築きましょう。皆さんの子孫のためにも、國のためにも・・・・・・・・・・・。
                 注 紙面の構成は原図と違いますので注意して下さい。
1954 昭和29 68 3月1日、アメリカによるビキニ環礁での水爆実験が行われる。
4月29日、町役場本庁舎を上溝から現在地(当時清兵衛新田225番地)に木造二階建の町役場新庁舎が落成。上溝から移転。町議会にも市制研究会が発足する。
       庁舎より富士のいただきすこし見ゆ相模の原は春浅くして
6月5日、淵野辺公民館に大山郁夫夫妻を招き、世界平和についての懇談会が開かれる。
       大山郁夫とかたき握手をかはしたりそのあたたかき大きてのひら
参考 この懇談(歓迎)会の模様を撮影したアルバムが早稲田大学現代政治経済研究所に所蔵されています。
    (大山郁夫関係資料R32−1577)「神奈川県相模原町における大山郁夫歓迎会の模様(『歓迎会記念』と題する写真帳)」
    沖川伸夫著 年報首都圏史研究2013 戦後相模原における平和運動の萌芽 ー小林與次右ヱ門ー より
6月20日、大山郁夫歓迎会の発起人が中心となって「相模原平和懇談会」が設立される。
7月、「原水爆禁止の署名と大講演会」を呼びかける。
  提唱者小林與次右ヱ門(元町長)・佐藤平仁(日本社会党相模原市議)
     熊澤良一(日本社会党相模原市議)・佐藤喜作(?)・内田茂吉(全駐労相模支部長)
     須田勝正(国労原町田分会)・瀬田治平
(?)・福山泰夫(?)
(略)福竜丸の人達の中には、頭がい骨に十圓銅貨の三倍もある様な穴があいたり、背骨がグズグズに崩れ出して、頭を枕から一寸も上げることが出来なくなってしまっている人があると云います。私達の生活の上にも魚から野菜、飲料水にいたる迄、放射能は切り離せない問題になり、池の金魚が死んでも放射能の為ではないかとおびえ、髪を引っぱり合って『まだ大丈夫ね』と話し合ふ小学生など、平和な家庭、あどけない童心をもおびやかしています。(略)私達は今こそ思想、宗教のちがいを越えて、日本民族と全人類の破滅をすくうために大同団結し、平和の事業の最も大事な目標として、原水爆禁止の先頭に立たなければならないと思います。/この様な見地から、相模原に於いても一人残らず、原水爆禁止の署名に参加してもらうため、原水ばく禁止の署名と大演説会≠行いたいと思ふ次第です。
                  
 「原水爆禁止の署名と大演説会の開催についてお願い」より
9月11日、世界銀行調査団が相模原地区の畑地灌漑施設を視察する。
      神奈川県史 資料編19 第2章 敗戦直後・復興期の農林漁業 P187〜192
       
注 引用 (「相模原畑地灌漑重要書類綴」)とあり 未確認 2016・9・26 保坂 
11月20日、清水町長のもとで市制が施行され、相模原市が誕生する。(10月1日の人口:80374人)
12月19日、上溝中学校(伊従博校長)で郷土懇話会が開催され、同会の顧問に就任する。
歌人として市長として 伊従博
(略)小林さんは政務が忙しかったにもかかわらず、歌の会合も郷土懇話会の会合も欠かしたことはありませんでした。どんなに忙しくてもやりくりして出てきて、熱っぽく長時間講説したものでした。忙しいときは途中で退席しましたが、そんなときでもちゃんとことわって退席される律儀な人でした。(略)  「小林與次右ヱ門 」 P176より 
1955 昭和30 69 2月、東京七区より木崎茂男が衆議院議員に当選する。〜1958・5迄)
4月、清新小学校開校。
4月20日付、神奈川新聞 “市長候補見参記”より
清水候補/「現実をきちんと処理して、理想に向かって行くのが行政である。私は田園都市構想を進めて来た。現在工業都市の条件は整っていない。無責任な公約で市民を惑わすことは許されない」と激しい。一方、小林も同紙上で
小林候補/「清水市政は消極的すぎた。予算を決議しても予算いっぱいつかわない。あれがあの人の主義だろうが、ただボロを出さないたたかれたくないというそればかりだ。工場をつぎつぎと誘致して活気ある市にして、税収を上げなければ、都市基盤の整備も市民福利の向上も計れないではないか」と応酬している。
                               
「小林與次右ヱ門 」 P101より  
4月30日、市長選挙で当選する。
    (※ 神奈川県農業会議々員・保護司・司法委員・麻布獣医科大学理事・相模女子大学評議委員
         相模原市原水爆禁止運動実行委員会々長  相模原市文化財保護委員  検討要)

(略)小林の工業化策については、当時の農民は日本全体がこの方面にあったから理解できなくはなかったが、農地の工場用地転換という現実に直面したときは、感情としてはそう簡単なものではなかった。/京浜の工場地帯から近い距離にあり、工場地帯としては将来有力なこと、市民生活向上のための財源確保が必要なこと、従来の生産性の乏しい農業から都市近郊農業への脱皮のためにも、さらに農家の二、三男の就職対策のためにも、工場誘致は必要であった。当時の相模原で最も深刻な問題は、朝鮮動乱終結で仕事がなくなった相模工業株式会社、YED(よこはまエンジニア・デポー)のいわゆる特需産業の2万1千人の従業員の失業対策問題であった。工場内外には首切り反対の赤旗が林立し、連日のように激しい闘争が繰り返された。
   秋雨のゲートをまかり通るストとロックアウトをやわらぐるべく 「小林與次右ヱ門 」 P104より  
6月、相模原保護区(保護司)が誕生する。又同月、神奈川少年院が現在地に開設される。
 保護司について  四方田 英三
(略)小林先生は現職保護司の儘、顧問として助言指導に当たられることになり、三十一年五月、再び市長にご就任の後も、多忙な公務のかたわら、保護司会の運営はもとより、保護司研修等にも格別の便宜を図られ、会運営のための助成金の捻出にもお骨折りを頂き、積極的に更生保護の充実に尽されたのでありました。/先生の、極めて厳格な人柄の中にも尋常味豊かな性格は、政治家として、卓越した手腕を発揮されたに止まらず、保護司としては、犯罪予防、更生保護に尽されること二十余年。(略)
 
 少年院について  四方田 英三
神奈川少年院(現、神奈川医療少年院)が矯正教育施設として、現在地(旧敷地)に開設されたのは、昭和三十年六月であった。これより先、数年前、当時は、松や雑木の生い茂る山林地帯であったが、少年院の建設について、点在する付近住民は「犯罪者の収容施設」としての認識から、青少年に悪影響を与え安住を脅かされる、との理由で、猛烈な反対運動が起きた。当時、保護司会長であった小林先生は、保護司会を挙げて、この問題の解決に努められ、法務当局と地主の間に立って説得に当たられたのである。一方、保護司全員の署名を集めて、時の参議院議員、宮城タカヨ女史を煩わし、法務当局へ強力な促進運動を展開されたのである。幸に事故も起さず少年院の開設をみることができたが、当時の保護司はもちろん、小林先生のご苦労は大変なものであった。(略)  
                         
「小林與次右ヱ門 」 P207・208より 
 
6月、相模原市農業機械化協会発足。
7月2日、市議会定例会において、「原水爆禁止世界大会に市議会代表を派遣する」動議を提出し可決される。
7月11日、工場誘致条例制定
7月28日、上溝地区の一部で、人口水田が竣工する。
 
  人口水田竣工を祝う写真 JA相模原 「potato No621号」より
「JA相模原市 POTATO 2019・Jun No621号」から
 畑地灌漑計画と農家の人々
          相模原郷土懇話会 田口孝平

(略)写真では、「人口水田竣工記念撮影(昭和30年7月28日)」と書かれた標柱が目を引きます。右端には水が通る管が見えています。その奥の小屋が附近の姥川からポンプで水を汲み上げて、パイプを通して畑に水を入れます。また、この写真が保存されていたアルバムには、灌漑設備に協力したと思われる県の技術担当者2人の名前も出ていました。(略)
8月6日、第1回原水爆禁止世界大会が広島で開かれ小林市長と市議会議員4名が参加する
   久保田忠雄(市議会代表)・福山泰夫(平和懇談会)・天野孝男(勤労者協会)
    伊藤次郎(全駐労相模原支部)の4名
以下、34年まで毎年市長やその他の市代表が出席する。
                           市史7 年譜より
8月24日、上溝小学校で、第一回相模原市農業夏季講座が開催される。
8月25日、全国市長会で駐留軍基地問題について、関東地区の11市が協議会を開く。
8月、「相模原開発土地改良区」が「大規模県営 相模原開発畑地灌漑事業概要」を発行する。
9月3日、相模原市原水爆禁止運動実行委員会設立準備会が開かれ会長に就任する。
     会長:小林與次右ヱ門、副会長:山口茂治・佐藤喜作・篠崎太一
9月、「県立工業高等学校設立実行委員会」を設置する。
10月、相模原市原水爆禁止運動実行委員会が発足する。
 この運動は一部特定の人達で行われるべきものでなく、あらゆる立場の人達が互いに信頼し、手を結んで行わなければ成功しえないものであります。八万市民の総力で真剣に原水爆の禁止を政府や世界の人達に訴えるならば、私達の声は必ずや人々の良心を動かし、原水爆禁止運動の目的を達成しうるであろうことを信じます。  広報 相模原65号 より
10月23日、母エイ92歳で死去
孫とひこあまたもちつつよく語りよく働きし母なりしなり
ものがたき父に添ひきて七十年よくはたらきし母なりしかな
声をかぎりに泣きし母なりき孫茂雄の戦死のしらせうけしそのとき
九十あまり生きたるぢぢばばと二十五にて戦死せる子のおくつきぞこれ
10月、北海道千歳市において全国市長会が開かれる。 基地問題等
     市長・山下千代松・長島貞利・松本九十九議員・加藤栄三郎教育委員・小川通幸税務課長

                          「小林與次右ヱ門」 P108
定山渓橋の袂(たもと)につながれし仔熊はけふも山を恋ふらし
黄と赤の南瓜ころがる白老の畑ひろびろと秋の雨降る
苫小牧いか舟ならぶ新磯の波打際に玉蜀黍
(とうもろこし)干せり
11月5日〜、相模原市原水爆禁止運動実行委員会が初めての事業として「講演と映画の会」を開催する。
     開催場所:大野北公民館・橋本公民館・新磯公民館・上溝公民館
11月26日、「広報相模原」に「11月28日は土地改良区選挙 畑地かんがい完遂のため こぞって投票を/着々あがるかんがい効果 陸稲で反収二石は望める」の見出しで掲載される。



1月30日、大山郁夫(73歳)死去。
12月、「工業勧奨委員会」を設置、工場誘致を積極的に働きかける。相模女子大評議員
1956 昭和31 70 2月14日、淵野辺で大火。四六世帯、一四〇人が罹災。
  (ワラブキ屋根のために大火となったため、農家の屋根をトタン葺にするよう奨励して補助金制度を作る。)
2月19日、またも淵野辺で出火。 二四世帯、八九人が罹災
3月25日、「大山郁夫記念事業会」の発起人(161名)に加わる。
  同年発行の「大山郁夫記念事業会編」『大山先生の想い出(大山郁夫伝附録)』に「大山先生の想い出」を寄稿する
温かき大いなる掌 「小林與次右ヱ門」より 
(略)
大山先生御夫妻をお招きして、先生から、世界平和についてのお話を聞き深く感銘致したのであります。そこに集まった人たちは平和懇談会の人々でしたが、私は戦争に子を死なせた親の一人として、戦争反対、平和を念願することを叫びつづけている関係から、先生をお迎えする代表の一人として先生から温かいお言葉をいただきました。今ではそれが思い出となってしまいました。その後引きつづき同志とともに原水爆禁止の署名運動をおこして市民諸君から多大の共鳴を得ています。(略)
4月、首都圏整備法(国法)が制定される。
 首都圏整備委員会 委員長(国務大臣):馬場元治
                    員の木崎茂男代議士の任期について不明なため調査要 2016・8・10 保坂
5月、市行政組織改正。部制実施
6月、淵野辺小学校(当時、大野第二小学校)で、初めて学校給食が開始される。
6月、市内農家五二〇〇戸のうち、春蚕飼育戸数は約二〇〇〇戸、出荷量四万二八〇〇貫で県下第一位。全県の三分の一を占めると発表される。
8月、朝鮮戦争終わり、駐留軍関係の離職者相次ぎ「相模原地区失業対策協議会」が設置される。
8月9日〜11日、長崎で開かれた「第2回原水爆禁止世界大会・長崎」に出席する。
 小林與次右ヱ門(市長)・福山泰夫(相模原市議会)・石井義雄(地区労)・小山右京(遺族会)・西せい(婦人会)
  小川四郎
(青年団)の6名が参加する。
胸をうつ平和への祈り原爆三たび許すまじと熱涙ほとばしれり長崎
長涙して原爆乙女の訴ふるをまともに見つつ見るに得堪へず
このいのちかけて叫ばむ原爆の災の根を永久に断つべく
11月、工場誘致第1号としてカルピス食品工業の進出が決定。
11月23日、ユネスコ本部が計画した日本とインド青年交歓のため、インド青年代表六名が来市、農業視察。
11月、教育月間に際し郷土資料展が開かれる。 
12月、「原水爆禁止神奈川県協議会準備会」が発足、24人いる準備会の代表世話人の一人として名を連ねる。
1957 昭和32 71 2月11日、国の重要施策、「新農山漁村建設総合対策」により、上溝・田名・大沢が予備指定地域となり「相模原市西部地域農村振興協議会」を設立。
3月、イギリスのクリスマス島での水爆実験の計画に対し、相模原市議会が「水爆実験反対要請の決議案」を全会一致で可決する。
4月5日、「原水爆禁止神奈川県協議会」の結成大会が神奈川県立音楽堂で開かれる。
4月、「相模原地区失業対策協議会」を「相模原市駐留軍関係離職者等対策協議会」と改称する。
4月、「神奈川県相模原開発土地改良区」が「定款・規約並諸規定・諸細目」をガリ版刷りで刊行する。
5月9日、妻ツヤ72歳で死去。
7月1日付、「神奈川県相模原開発土地改良区」が「畑灌情報 第一号」を発行、岩本信行理事長が「畑灌の事業経過と将来性」について所信を述べる。
一、畑灌事業成立までのあらすじ
二、二百個の水利権確保と畑灌予算の成立
三、難関の頂点 注 (紫字は処置、処理の状況の内容です)
イ、昭和二十六年以来の負担金滞納総額金一千三百九十一余円の処分の未処理昭和二十六年度・二十七年度未納者に付ては差押えを
   断行殆ど完納、二十八年度以降の分は今夏より継続整理の予定

ロ、高利時借金一千七十万円の未償還並に利子其他二百四十九万余円の未払県当局の格別な尽力を煩し県信連より七年賦償還低利債
   借替に成功し、管内農協、銀行等へ時借を返済し、又未払金は滞納整理等の収入により支払完済

ハ、専用隧道と北幹線の未着手明陳情功を奏し本年度県予算四百五十万円計上せられ、専用隧道の根本的調査が行われることとなった
   ので北幹線問題をも含めて近き将来進捗が予測せらるる。

ニ、負担金のプール計算問題の未処置負担金のプール計算問題は農林省、県、当改良区三者間に於て折衝中であったが、協議の結果解決した。
ホ、排斥地の未処置
排斥地問題は(リ)とも関連あり第三者を交えた公平な調査会を作り慎重調査を遂げ役員会、総会に上程適正な決定を
   見るため近日調査会を発足する予定

ヘ、区域内農地の転換処置県及び地区農業委員会と連繁農地転換対策を講じつつある。
ト、経理節約の為の機構改革
退職者の補充を見合せ(既に二名退職)経費の節約を図ると共に、職務分掌を明かにし能率増進を期しつつある。
チ、負担金納入推進方策権負担金納入推進に付いては各地区別に座談会を開き、其結果、各地区とも概ね納付組合を結成することとなり、
 又各市町役場が協力せられ、交付金百分の四を奨励金の形式で納付組合に交付せらるる模様である

リ、集団反対地帯の処置
(ホ)に関連し小山常務等が接衝の結果概ね了解済みとなった
ヌ、数十地区に亘る団体営経理の統一
団体営の特別会計一本化に付いては、県営移管等を希望するも未だ成案を見ず検討中である
四、畑灌の将来は明るい   神奈川県史 資料編19 第2章 敗戦直後・復興期の農林漁業 P194〜195より
8月12日〜4日間、「第3回原水爆禁止世界大会・東京」に相模原から8名が参加する。
  小林與次右ヱ門(市長)・山口茂治(相模原市議会)・大沢源之助(相模原市議会)
  渋谷登代(婦人会)・小川四郎(青年団)・森崎広吉(広報連絡協議会)
  久野松治(PTA連絡協議会)・吉川一春(労働組合)が参加する。
   
尚、小林市長は神奈川県代表団180人を率いる団長としても出席されています。
原水爆反対世界大会に平凡なるメッセージ読めり首相は
8月30日、畑地かんがい事業につき赤城農林大臣・官房長ら来市、県副知事から説明をして国の助成を要請する。
9月30日、市議会で核爆発実験禁止と軍縮に関する要望決議案を上程、議決される。。
10月1日、相模原市文化財保護条例公布。
10月、広島県呉市において全国市長会が開かれる。 基地問題等
    市長・山口茂治市会議長・小川通幸財務課長・金子泰郎議会事務局長・岩堀広椙秘書役
                        「小林與次右ヱ門」 P108
11月、市立体育館落成。
12月12日、相模原都市計画用途地域面積2095・69haの指定をうける。  
相模原都市計画用途地域指定の変遷        単位=ha
年月日 住宅地域 商業地域 準工業地域 工業地域 合 計
S32・12・12 1368・83 123・55 0・00 603・31 2095・69
S34・12・15 2191・98 156・98 73・20 793・51 3215・67
S38・01・28 2772・98 156・98 334・40 936・21 4200・57
S45・06・23 4233・10 360・30 507・70 1080・50 6181・60
                    相模原市史7 戦後の統計(都市建設) P494より
〇、この年より二年間、相模女子大学の評議員を務める。
〇この年、「相模原市役所新磯分室」で「勧業書類(相模原開発土地改良区関係)」を綴る。所蔵 相模原市立博物館
1958 昭和33 72 〇この年に入って、政府が、首都圏整備法制定の動きを見せる。首都圏整備法の制定は1956年4月なので再調査要
この法律の定める市街化開発地域の指定をとれるかどうかが、首都近郊都市としても将来の発展につながるとして多くの市が指定の名乗りを上げた。神奈川県だけでも六市が立候補、それぞれ中央政界に働きかける活発な指定合戦を展開した。小林市長は何としてでもこの指定を受けようと、市役所首脳陣の陣頭に立った。/相模原市は頼みとする岩本代議士が落選中、しかも下水、道路などの都市整備が遅れていたため最も不利な条件にあった。神奈川県では、実力大臣河野一郎を擁する平塚が最有力の下馬評であった。小林は、東京七区選出で首都圏整備委員の木崎茂男代議士に働いてもらった。木崎と連日、当時の実力者佐藤栄作、川島正二郎、河野一郎らを訪問し、工場誘致条例制定の実績を披露、また特需産業従業員の大量失業問題を抱えていることをも率直に述べ、首都圏整備法の指定を熱求、請願した。佐藤、川島は、相模原市の立場に理解を見せたが、河野は地元平塚との関係があって、難色を示した。
顧みて他を言ふおとどをあわれみぬ離職失業どこを吹く風
飛ぶ鳥を落すてふおとどを前にしてわれは殊なりに我が道を説く

       おとど:貴人や、大臣(だいじん)・公卿(くぎょう)などの敬称。 この歌では 河野一郎のことか? 
                               「小林與次右ヱ門 」 P106より  
1月15日、市歌制定 相模原市民の歌  作詞:植村栄輔 補作:勝 承夫 作曲:平井康三郎
  思い出すまゝにA  田所長義
 もう一つは、「メタセコイア」の植樹を中心とした小林市長さんの緑化にかける情熱のお話であります。/たしか、昭和三十二年十月のことだったと思いますが、教育委員会で市民の歌の歌詞を募集いたしました。これに小林市長さんもすすんで応募されました。一等一編、佳作三編が選ばれましたが、市長さんはみごとに佳作に入選されたのです。賞金として金弐千円がいただけることになったわけですが、小林市長さんはそのお金を学校緑化の一助に使いたいというご意向を示され、当時清新小学校のPTAの役員であった内山昌亮さんにご相談をされたようであります。/内山さんは当時清新地区に広い苗園を経営され、清新小学校のPTAの方々にも育苗を指導されるなど緑化運動に大変熱心な方でありました。市長さんの相談を受けた内山さんは、直ちに「メタセコイア」を推奨されたのです。/この木は化石の樹木といわれ、二十万年以前に途絶えたといわれていたものでしたが、第二次世界大戦の折、中国の奥地でアメリカの学者によって生育が確認されたのです。終戦後、米軍から宮中に贈られ、民間にも増殖されたといういわれの深い樹木で、生育が早い上に挿木で活着が良いという特徴をもっておりました。/市長さんは大変喜ばれ、早速小学校十五校、中学校七校に三本ずつ、計六十六本の「メタセコイア」を植えられたのであります。当然賞金の弐千円では不足が生じ、その十数倍のポケット・マネーをお出しになられたようであります。/現在、市役所前をはじめ、市内各地に隆々たる樹勢を誇る「メタセコイア」の木々を見るとき、小林市長さんの残されたもののたしかさの象徴を感ずるのであります。(略) 
              
「小林與次右ヱ門   思い出すまゝに」 P195より
   
  麻溝小学校@        麻溝小学校A    大沢小学校      相原高校
    学校の児らよたゆみなく伸ばしめと賜ひて二十年の落葉松これ  伊従博 
                         「小林與次右ヱ門   P84より
上溝中学校 相陽中学校 相原小学校 小学校
田名中学校 (座間小学校) 上溝小学校 不明 小学校
大沢中学校 麻溝小学校 小学校 小学校
旭中学校 相原小学校 小学校 小学校
大野北中学校 旭小学校 小学校 二本松小学校 1
大野南中学校 大沢小学校 小学校 相原高校
3月、「社会科副読本 私たちの郷土さがみはら」が刊行される。
思い出すまゝに@  田所長義
 その一は、昭和三十三年三月に刊行された「私たちの郷土さがみはら」と、その発展としての映画の製作のことであります。小学校三年生の社会科副読本をつくるについて郷土史の造詣が深く、研究家でもいらっしゃった小林市長さんは、深いご理解と関心をお寄せくださいました。教育委員会の当事者をしのぐほどに積極的な取組みの姿勢を示され、終始適切なご助言をいただくなどして、当時としては画期的な内容、体裁をもつ副読本が出版できたのです。/さらに小林市長さんは、時代の趨勢を先取りされて視聴覚教育推進の一環として同書の映画化を提唱されました。当時、一億円に満たない教育費の中から、映画フィルムの製作など思いもよらないことでありましたが、市長さんの熱心な推進によって全編カラーの郷土相模原の映画の完成をみたのです。/このことは、小林さんの郷土への熱い想いと、時代の方向を見きわめる深い洞察とを示すものであり、今日の視聴覚ライブラリーの礎は、実はこの時に築かれたものであります。      「小林與次右ヱ門   思い出すまゝに」 P195より  
4月、首都圏市街地開発区域整備法が制定される。
4月14日、相模原市首都圏整備対策協議会設置承認。
4月22日、小田急電鉄が鶴川駅〜淵野辺〜上溝〜田名〜津久井郡城山町へ乗入れる新線免許を運輸省に申請する。新路線沿線の町田・相模原・城山の市町長・議長等で小田急電鉄新路線建設推進協議会発足。
5月11日付、「週刊朝日」に「選挙へのレポート相模原、 ある町から見た日本の政治」の見出しで報じられる。
開放感
さびしさと気安さとあるひとり身よ解放感といふはこのこと
反抗と非難きびしく受くるとも悔は残さ
じとつよくいひきる
牛売りてメリーテーラーもとめたる隣の息子に嫁のきまれる

抱き合ひ性の歓喜の極まりて雄喰ひつくすかまきりあはれ
お遍路はこのところよりはじまると石碑いしぶみ古りぬ鳴門の小みち
砲座跡に草茂るなり披露山尾崎萼堂の家ちかくして (逗子)
 
「アサヒグラフ 1954・10・20号 湘南逗子に住む咢堂」より
 少し風が吹いても庭に出たがる 草とりと掃除がしたいのだ 足元が危ないなどと 注意しようものなら おこられる

いかめしく星条旗立つ市ヶ谷の丘のなごりのたんぽぽんの花
れんげ田に横転したるバスぬちに血しほ吹きたりわれのもろ手は (伊豆松崎にて)
幼な孫二人と登る御殿山学生地蔵に涙たりつ
      撮影2016・10・23 霜降

御殿峠文化の鐘   屋上に安置されている「学生地蔵」
     
地下百尺より掘り出されし雲母化石幾千萬年古りしものてふ (市内神澤)
ながながと涎
(よだれ)たらして田掻牛畔をゆくなり細きまなだし
小さき靴に雨後の日ざしのやはらかく幼稚園児が嬉々としてゆく
5月、木崎茂男が衆議院議員選挙で落選する。〜1958・5・22迄)
6月、日本住宅公団による大山工業団地の造成が始まる。
6月、視聴覚ライブラリーの設置を行なう。
7月、第一次首都圏基本計画が策定される。
(1) 既成市街地の周辺に幅10qのグリーンベルトを設定し、既成市街地の膨張を抑制する。
(2) 周辺の地域に多数の市街地開発区域(衛星都市)を指定、工業都市として開発し、人口及び産業の増大をここで吸収して定着を図ることとした。また、諸機能の配置について
首都圏市街地開発区域整備法
  
(1958年4月制定)
(3) 東京都区部において工場、大学等の新増設を制限し、分散困難な産業及び人口に限り増加を考慮するものとした。
首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律(工業等制限法)
  (1959年3月制定)
                       出典:ウィキペディア(Wikipedia)
7月16日、「軍縮と国際協力のための世界大会」がストックホルム開かれる。
 日本代表団副団長として出席、引き続いて1ヶ月余りデンマーク、ドイツ、フランス、スイス、イタリア等各地を視察。
 8月20日、香港経由で帰国。
 日本代表団は64名で、77ヶ国から1267人が集まった。   
  団長:平野義太郎(日本平和委員会理事長):副団長:小林與次右ヱ門
ストックホルムの市役所の前に日本のうば玉に似し草のいく株
黄色の腕章巻きし盲人を犬は導く西ドイツのまち
(負傷兵)
フルシチョフアオゼンハワーのかけひきの事など聞きてボンのホテルに
銃眼もまだそのままにベルリンのこの盛り場のビルの幾部屋
夏休み凧揚げ遊ぶ子たらをりドイツの村の麥黄ばむとき
森多きドイツの國よ一本の木を折れば二本植ゑたりといふ
その昔詩人ハイネの生まれたる家なりといふ菓子賣れる店
我が乗れる汽車はそのまま舟に入りデンマークの海に浮び出でたり
8月1日、首都圏整備法による市街地開発区域(衛星都市)第1号の指定を受ける。
8月、相模原音頭が発表される。
参考 相模原音頭の誕生まで
 昭和33年2月2日の日曜日、相原公民館(省略)では、「相原郷土史料展示会」を開いて地区内より民具など約500点を集めて展示するとともに「相原音頭」の発表会を盛大に開催いたしました。
 この「相原音頭」は、「お盆やお祭りに佐渡おけさや東京音頭など土地と全く関係のない歌をうたって過してきた人達が、それではあまり意味がない、ぜひ郷土色豊かな歌を作って部落をあげて楽しもう≠ニ相談の結果、5ヵ月がかりで作詞、作曲、それに踊りの振付けまで全部土地の人達で仕上げ、来月2日に発表会をするという話題の部落が相模原市にある」
 ー産経新聞(昭和33年1月27日)などと他の3紙にも紹介記事が載っていますが、作詩は相原公民館文化部長だった井上正二(後に相原小学校)で、作曲は田辺忠雄(大野南中教諭)、振付は関根照子(花柳流)が担当し、レコード吹込みは、男声3名、女声14名、伴奏は北島チエ(相原小教諭)、指揮は守屋四郎(同左)とすべて地元の人々で行われ、町田市原町田の鈴木楽器店で作られたのでした。(敬称略)

 そして、当日臨席された小林与次衛門市長は、これに痛く感動されて「ぜひ相模原音頭を作りたい」といわれ、早速同月8日付で自らも加わった9名の「音頭制定委員」を委嘱し、全国からの100近い応募歌詩を選考、補作して、相原音頭の発表からわずか6カ月後の8月8日には「相模原音頭」の発表会を開催されております。(略) 「相原の大麻田 相原の歴史をさぐる会 H11・3」より
8月30日、小田原市尊徳記念館で開かれた「第8回相模原市青年団指導者講習会」で軍縮会議の結果と西欧各国の特色を青年たちに向け講演する。
9月4日、NHK第2放送の「朝の訪問」に出演、外遊の感想や相模原市建設の抱負を語る。
(略)軍都とでもいうべき基地の相模原市長がストックホルムの平和会議に出席したのは反米思想のためではない。自分は学徒出陣で愛児を失った。戦争はもうこりごりである。老いの身を生まれて初めて飛行機に託して北欧に飛んだのは世の親たちに自分のような悲しみを経験させたくない悲願からだ、とまず気炎をあげた(略)
9月、相模原市立体育館に於いて「軍縮と国際協力のための世界大会・第四回原水爆禁止世界大会」報告会が開かれる。
9月13日、上溝公民館に於いて、、ストックホルムからの帰朝報告会を開く。
 この帰朝報告会は、9月22日、9月30日にも行われ、あらためて戦争反対・原水爆禁止を市民に訴えた。
 10月20日、「御嶽神社獅子舞・諏訪神社獅子舞・御嶽神社杉・無量光寺一遍上人像・無量光寺境内及び
 オイシャリの遺跡」が市の文化財に指定される。

11月、歌集「相模ひろはら」刊行。  表紙絵 武者小路実篤
  
   相模ひろはら 小林与
詩や歌を、よんだり、理解したり、愛する人はどことなく奥ゆかしいところがある。個人でもそうであるが、世間一般が詩歌をよむようになって、はじめて文化は高まるものである。伊藤左千夫の明治三十三年頃の歌と思うが、私の今でも記憶しているのに、「牛飼が歌よむときに世の中の新しき歌おほいに興る」というのがある。これは明かに文化の昴揚を歌っているのである。詩歌を理解する人は何となく奥ゆかしい、これは昔も今もかわりのないことだ。どこの國でも同じように感じられる歴史的事實である。私は素人ながら白楽天の詩を愛するのは、白楽天が、自然にさもなつかしげに、さも人に呼びかけているように、いな戀人や、愛する子供に呼びかけているように、話をしかけているが為である。(略 漢詩と説明の部分)小林与次右ヱ門君、まさに歌を
よみつづけて来たことが、新興の気分を大いにあげる先覚者であったことになる。私はそれに心より敬服する。縣議や市長の激務のさなかにも今度のあわただしい世界旅行のさいにも、詩興、詩趣つきずして、ここにその数百首をまとめて、小林与歌集を出版されたことは、同君の為に慶賀にたえないと共に、世間の為に大いに有益な事業をしてくれたとこと感謝する。相模原市を首都圏に入れたことや、どぶを清潔にしたことや、道路もよくなったことは市長の功績として大いに、称さんするところであるが、それは近代的感覚をもつ市長ならば、だれでもやれることだ。又周囲の事情や、世の進運がそうさせるようになってきている。しかしながら歌集の発行は、そうだれでもやれるものではない。他のひとの為し得ざることをやったのであるから、歌人市長の名は相模原市史の上に永久に残されることであろう。これは勿論、小林与君の名誉の為に、喜ぶだけでない。歌人市長を迎えている相模原市の文化向上の為にさらに喜ぶ。私の願うところは、街をきれいにするだけでない、進んで樹木を植え、花盛りに、市の内に公園ありというのではない、公園の中に街ありというようにして貰いたい。更に希望するところは国家を福祉国家とする為に、まず君の市を文化の香り高き福祉の市にして貰いたいことだ。
         昭和三十三年八月      片山哲
11月、反市長派が湯河原に集まり拡大会議(湯河原会談)を行う。
〇この年秋、九州製缶土地問題とりざたされる。
〇この年、相模原市文化財保護委員会が設置される。
           委員に小林市長、元大審院検事小泉輝三郎 他不明なため調査要 2016・8・17 

〇この年の、全国市長会で「基地周辺は国が面倒みるべき」と口火を切る。
                   「小林與次右ヱ門」 P108
起伏なき相模ひろはら秋たけて騒音の基地舗装つづける
1959 昭和34 73 2月5日、臨時市議会が開かれる。
2月6日、AとBが土地売買差額金四千五百万余円の詐欺と横領の容疑で逮捕される。

2月12日、九州製缶事件、市議会で市長不信任案可決、逮捕される。

         不信任案に賛成  24名     不信任案に反対  3名
2月14日付、神奈川新聞より
河津勝助役、舘盛静光教育長は自らの辞表をフトコロに入れて(拘置されている)加賀町暑を訪ねて、小林市長に市長を辞職して議会解散はせぬようと、とくとく説得したが、小林市長は「責任は感じているが、自分は正しいんだから初志を貫きとおす」とくり返したという。/と、載っている。/「私たちも辞めるから、市長も辞めて事態の収拾をはかりましょう」と進言した河津、舘盛の悲壮な気持ちも、自らの潔白を信じる小林の決意のまえには通じなかったのである。/同日、小川通幸総務部長、磯部隼人民生部長、峰岸政部長、高橋保福祉事務所長、根岸家光消防長ら五人の幹部も署名の書状で、解散せず辞職すべきとすすめてきたが、小林の議会解散の方針は変わらなかった。 「小林與次右ヱ門 」 P132より
 
2月15日、地方自治法第178条により市議会を解散する。
2月21日、解散市議会選挙の投票が行われる。  「小林與次右ヱ門 」 P132より 日時再確認要
2月23日、Cが多額の礼金を受け取った容疑で逮捕される。
2月28日、A、Bが起訴される。
2月29日、解散後の初議会に於いて再度の市長不信任案が上程され否決される。 
   
日時再確認要 無記名投票の結果は十五対十五の可否同数) 「小林與次右ヱ門 」 P133より 
3月1日、神奈川県農業試験場(海野佐一・飯塚俊介・野中富士夫・湯山博方)が「日本作物学会 27巻3号」に「畑地灌漑における水稲の栽培技術的研究」を発表する。
第1報
第2報
 畑地灌漑における水稲品種の適応性について
 栽培条件による水陸稲の生育相及び生理的特性の差異
3月6日、Cと小林が起訴される。小林は否認のままの起訴であった。
3月9日、横浜の拘置所を五十万円の保釈金を支払い出所する。
3月10日付、朝日新聞より
この日横浜刑務所拘置所前は、午後四時半ごろから相模原市差回しの市長専用車はじめ報道陣の車がつめかけ、時ならぬ物々しさ、午後六時五分静かに開かれた門から、小柄な小林市長が姿を現した。こげ茶色のオーバーにすっぽりと身を包んだ小林氏は軽く右手を上げ、河津助役、小川総務部長、中里秘書課長、女婿の県農事試験場の技師小林さんら、出迎えの人に軽く会釈したが、無精ヒゲも痛々しく見え、表情には苦悩の色が濃く、河津助役に「ヒゲをそらなかったものだから」とポツンと一言。やがて予定された休息所での記者会見にのぞんだ。  「小林與次右ヱ門 」 P133より
3月21日、相模原市議会議員選挙(投票率84・32%)が行われる
   議長山口茂治  市長 小林與次ヱ衛門 ※「相模原市民史」より 注 市史7年譜では3月22日と記載あり
 土地買収にからむ汚職事件で逮捕された 現職市長が、留置場から解散した全国ではじめてのケースであり、市政刷新への強い関心が向けられていただけに、選挙運動員や市民が早朝から開票所に押しかけ開票を見守っていたが、同日憂国三十人の新議員が決まるや、悲喜こごもの表情だった。新しい議員の色分けは前十一、元二、新十七で、二十二人出馬した前議員は半分が落ち、新人の選出が目ざましく、相模原地区労事務局長伊倉氏が前回の雪じょくをとげ最高点で当選した。  朝日新聞 昭和34年3月23日付  「伊倉二郎の相模原市民史」より
3月31日、市会にふたたび市長不信任案が上程、今度は否決となる。
4月23日付、選挙期間中、神奈川新聞の記者に激しく答える。
「橋本の工場地は、すでに二十数社殺到していて工場誘致は大成功だ。財源のない相模原の生きる道は、工業開発あるのみ。だが、けっして農業を軽視しているわけではない。農協に営農指導員を配置した。ワラブキ屋根の解消も、わたしが提唱したものだ」   「小林與次右ヱ門」 P138より
4月30日、市長選挙(投票率72・47%)で落選 (1期4年間の市長任期中、県農業会議議員、市文化財保護委員、原水爆禁止運動実行委員会会長)。
日本の津々浦々まで広がりしかかる汚名をはらむとする
 山口茂治  13502票  
 小林與次右ヱ門  13078票
 金子泰郎  10031票
5月1日、相模台小学校が開校。
11月、東海大学嘱託委託を受ける。
1960 昭和35 74 1月28日、相模原開発畑地かんがい事業の、久保沢から虹吹までの共用導水路工事の起工式。
4月16日、鹿児島県出水の「特攻隊の碑」除幕式に遺族代表で献花。(碑文:阿川弘之 書:高木秀吉) 
4月、「警友 四月号」に「柴胡の花か糸か」を寄稿、指導を受けた諸先輩の名をあげる。
                ※「小林與次右ヱ門」 P14に 寒蓼庵魯石他、記載あり
5月、大山工業団地給水を主目的とする相模原市工業用水道が上溝四ツ谷地内、鳩川沿いの湧水を水源として着工。
6月、日米安保条約成立。相模原市人口10万人突破
10月、『郷土さがみはら 第八集』に、「伊賀守忠臣論 まま」を発表する。
                標題未確認の為 確認要 2016・8・2 保坂 「小林與次右ヱ門」 P92 より 
 また、同号表紙に「相模原畑地かんがい」の写真を掲載、表紙の説明文を教育研究所の篠崎敬が記述する。
12月、市議会第50定例会で大山工業団地売買契約を可決。
1961 昭和36 75 1月1日、市営工業用水道完成。大山工業団地給水開始。総工費3900万円、日量5000t。
1月26日、第一回市史刊行委員会が開催される。
3月1日、工場誘致条例を廃止する。
9月、相模原開発耕地整理組合が、相模原開発土地改良区に組織変更認可。
9月11日、「神奈川新聞」に「二倍の増収は確実 陸地栽培した水稲」と題した記事が掲載される。
10月30日、市議会で核実験即時停止要望決議を行う。
1962 昭和37 76 1月19日、胃癌手術後の経過思わしくなく死去。享年77歳。最初の相模原市自治功労章が贈られる。
       かれんなる小鳥が水を呑むごとくさやかに吾ものどをうるほす
4月、県立相模台工業高等学校開校。
5月、高校進学希望者の激増にあたり、普通科高校誘致運動がおこり、「相模原市高校対策促進協議会」が結成される。
6月14日、財団法人相模原市開発公社設立。住宅団地・工業団地造成・道路・公園・学校用地の取得などを事業内容とする。 市史7年譜 P553
7月1日、上溝分室二階に市史編纂室をおく。
8月31日、「畑灌情報 第14号」に「都市化と都市近郊の畑かん事業/神奈川県知事 内山岩太郎・畑地かんがい北幹線地域除斥に伴う説明会」等の見出の付いた記事が掲載される。
 また同号、一面の下段に、「多収穫を目前にする尾花沢六号」と記された遠景写真も掲載される。
11月、誘致した工場が122社となる。
12月17日、皇太子殿下、富士製鉄中央研究所ご視察。
〇この年、城山ダム建設に伴い、荒川・三井・中沢・沼本各地区より一二二戸が相原二本松団地に移住。
1963 昭和38
1964 昭和39 3月12日、市役所庁舎、狭溢と老朽のため、新庁舎建設の議おこる。市議会第七五定例会で競輪事業収入を主とする庁舎建設基金条例を設定。
3月、「相模原畑地灌漑事業」の全域が完成する。
相模原畑地かんがい事業地域及び受益面積
市町村別 面積 ha 備 考
相模原市 900 大島・田名・上溝・麻溝・大野・上鶴間
座間町 70
旧渋谷町 240 藤沢市・大和市に合併
大和市 300
海老名町 40
綾瀬町 180
旧御所見村 38 藤沢市に合併
藤沢市 60
元陸軍士官学校演習場 727 相模原市新磯・麻溝
元海軍高座工廠 58 座間町
元海軍電測学校 87 藤沢市・旧御所見村
     計 2700
         (神奈川県企業庁史より)
執念 相模原畑地かんがい事業(末尾の項より)
 (26年)理事長をおりてからも小林は工事の進捗が気になり、工事現場を見まわって、よく現場の人たちを励ました。/二十八年、ようやく東及び西幹線が完成。これに伴い幹線よりも先の支線、末線水路網工事は地区毎に団体営土地改良組合が組織され、組合員の労働奉仕で行われた。これに対する反発ものちに起きたが、同年、秋ごろ一部団体営の末線工事が完成し、待望の相模川の水が相模野に流れはじめたのであった。/このころ各地で県の指導で作物栽培について畑地かんがい講習会も開かれた。小林は畑地かんがい組合の顧問として、よく講習会には出席して農業専門家としての意見を述べた。/地元負担金への邦の助成など、国との折衝も多くなったので理事長は三十一年一月より岩本代議士が就任。三十四年にいたって団体営工事もおおむね完成。これを機に県農業改良普及所の協力もえて、各地に営農指導員がおかれたが、これは当時、相模原市長になっていた小林の働きかけによるものであった。この指導で農家の灌水栽培の意欲は大いに高ま

り、各地で可成りの増収となり、その効果を上げていった。/小林はこのころ、青波流揺一千里の田園をのぞんで      はるばると引き来し水に勢ひて陸稲青みぬ相模ひろはら
とその感慨を一首に結晶させている。/そしてこの事業は、小林の没した翌々年の昭和三十九年三月、全域完成をみたのであった。/大正の畑地かんがい係から、県会時代の開田推進、そして戦後の畑地かんがいと、実に半世紀にわたって、小林はこの事業に取り組んだ。戦後だけでも延々十九年に及んだのである。/計画の通り、相模原から藤沢にいたる二千七百町歩、昭和三十二年時で全組合員数六千四百二十七人、投下された公費は十億円余に達し、県の出先事務所、地元組合事務局の職員数は、最も多い時で百名に達した。わが国初の、大規模畑地かんがい事業であった。/だが、その後、この畑地かんがい事業は、首都近郊の急激な工業化の波に押されて昭和四十五年五月、組合は解散して終結をみるにいたった。が、一時期は世界銀行や中共(中国)の王震農墾部長(農林大臣にあたる)一行が視察に来たり、年間三千五百人前後の見学者があった。こうした視察団によって、その後これをモデルに愛知用水、北海道畑地かんがいをはじめ、全国各地に畑地かんがいがつくられたのであった。/小林が執念を燃やした相模原畑地かんがい事業は、相模原ではすでに過去のものになったが、現在でも全国各地でその意思は継がれているのである。
                         
「小林與次右ヱ門」 P98・99より
4月、県立相模原高校開校。
1965 昭和40 〇この年、「神奈川県農政部耕地課」が「神奈川県相模原開発畑地かんがい事業史」・「神奈川県相模原開発畑地かんがい技術史」を刊行する。
1966 昭和41
1967 昭和42 4月、相模原市公共下水道事業始まる。
〇この年、畑地灌漑碑が建立される。
1968 昭和43 2月9日、市庁舎起工式。
6月15日、新都市計画法公布。
6月26日、相模原市総合計画策定。昭和50年人口33万、60年50万と推定、50年までの計画と45年までの実施計画を策定する。
6月30日、没後七年、小林宅の門庭に歌碑が建立される。
       はるばると引き来し水に勢ひて陸稲青みぬ相模ひろはら 
   
    小林与 歌碑

小林与氏顕彰の記
小林氏本名与次右衛門明治十九年生少壮より苦学力行し農業教
員同技術員農会役員新聞記者等を歴任し素養を積む
昭和七年より県議会議員二期 昭和十六年町議会議長初代公選町長
同三十年四月公選初代市長に当選 市農政の改革 首都圏都市計画民生

教育文化の向上に貢献し市勢発展の基礎を確立した
氏は資性穎悟志操堅くして経世の識見に秀でまた寸暇を惜しみ仕
事に励み農業論 郷土史考 短歌創作よ克くした
作歌は歌誌「相模野」 「醍醐」に属し歌集「相模ひろはら」の著あり
昭和三十七年一月没

 昭和四十三年五月  小林与歌碑建設委員会 建之
               歌碑裏の碑文より
1969 昭和44 3月5日、市庁舎上棟式。
8月31日、市役所本庁舎が完成。
1970 昭和45 7月30日、「相模原畑地かんがい土地改良区(清算人代表小泉修三郎)」から「神奈川県知事 津田文吾」宛てに「清算決了届」が提出される。
7月31日、県央農林商工事務所長から県農政部長宛てに、「相模原畑地かんがい土地改良区(清算人代表小泉修三郎)」の「清算決了届」が提出され、畑地かんがい事業を解散する。
1971 昭和46
1972 昭和47
1973 昭和48
1974 昭和49
1975 昭和50
1976 昭和51
1977 昭和52
1978 昭和53
1979 昭和54
1980 昭和55 3月、相模原市立図書館が「古文書室紀要 第3号」を刊行、「相模川関係資料展目録および解説」欄に「九 相模原開田」のことが記述される。
参考 相模川関係資料展に出展され関係資料







大正 5(1916)
大正10(1921)
昭和12(1937)
昭和27(1952)
昭和40(1965)
昭和40(1965)
大正4〜昭和15
 相模原開田調査書(神奈川県内務部)
 神奈川県高座郡相模原土地利用計画書(神奈川県経済部)
 神奈川県高座郡相模原開田計画(神奈川県経済部)
 神奈川県河水統制事業
 神奈川県相模原開発畑地かんがい事業史
 神奈川県相模原開発畑地かんがい技術史
 相模川増減水調査ニ関スル書類

               (1から6まで刊本またはコピー。 7は新磯出張所旧蔵)
1981 昭和56 3月、相模原市立図書館が「古文書室紀要 第4号」を刊行する、金井利平が「相模原の民俗 −故老座談会の記録−」を編集、「四 生業」の項で、畑地かんがい、養蚕、陸稲、さつまいも等を記述する。
1982 昭和57 3月28日、鳩川に、「与次右ヱ門橋」の名で橋が架けられる。  橋名筆:舘盛市長
      
たたかひに 息子を死なせ ぢぢむさを 翁となりて 苗植ゑてゐる
やうやくに 春きたるらし 谷戸川に 異人芹摘む 童らの見ゆ
花うつぎ 野いばらの香と にほひあふ 夕べ小川に 鍬洗ひおり
わが家に  そひて流るる 鳩川の 水ぬるみたり ささにごりして
昭和二十六年
昭和二十七年
昭和二十七年
昭和二十九年
1983 昭和58
1984 昭和59
1985 昭和60 3月、金井利平が「相模原市図書館「古文書室紀要」第8号」に 「畑地かんがい−相模野の開拓・相模原水田開発計画・相模原開発畑地かんがい−」を寄稿する。
4月、「小林與次右ヱ門編纂委員会」から「小林與次右ヱ門」が刊行される。
発刊にあたって            小林與次右ヱ門編纂委員会
史伝・小林與次右ヱ衛門     松田征士
希望 生い立ち 東林教校塾
使命 鳩川農学校教員 新興野菜の元祖  横浜貿易新報記者
活動 大干渉選挙 逆転初当選  言論  相模原開田計画
哀惜 茂雄中尉特攻隊で散華       教育町長
執念 相模原畑地かんがい事業
展望 工業立市計画  九州製缶事件
絶唱 『かれんなる小鳥が・・・・・・・・』
座談会「小林翁をしのんで」     舘森 静光・ 加藤 長治・小川 通幸 
思い出の記
今も励ましに 甘利 正 いろはカルタの試験 中村 真次
歌人として市長として 伊従 博 古武士の風格 門司 亮
六・三制と小林さん 小川 忠良 小林さんの面影ャゲ 山口 勝代
相模原市の恩人 河津 勝 小林先生の思い出 四方田 栄三
最後まで農学校の先生 鈴木 修一 小林君と短歌 片山 哲
今も耳に残る“水は高きより” 田中 仁 六十年来の友 小林さんを想う 斉藤 篤太郎
思い出すまゝに 田所長義 小林大人の憶い出 中里 正義
小林市長を偲んで 中里 通夫 心影は永久に生きている 松岡貞總
座談会「身内が語る小林の素顔」
  
小林徳太郎・小野正英・後藤一郎・小林重吉・小林春子・桐生久子・小林亮・小林正子 
「よじえもんはし」 小林亮 現在の小林家のこと 福澤 陞
父を語る 小林正子
遺稿
承和会文芸部発会に際して 時局委員会に希む
甘藷談義 未亡人問題の核心にふれよ
與次ヱ衛門物語  柴胡の原の花と木    福澤 陞
関東ローム層と柴胡の原 水と知恵はただではない
防人の国と相模川の洪水 ダム計画と赤い根っ子の稲
水車の力と東林塾の殖産教育 昭和動乱期の農民議員         
苦読と柳田農政思想 暗い谷間と反骨の県会議員
一万町歩開田と水利権問題 畑地灌漑と柴胡の花
水道計画反対と農業用水確保 碩学・清廉な人 ーあとがきにかえてー
年譜
あとがき
1986 昭和61 3月、「相模原市教育委員会」が「相模原の畑作調査報告書」を刊行する。
3月、金井利平が「相模原市図書館「古文書室紀要」第9号」に「戦後相模原の開発 −相模の入植10年における各開拓団の実践記録−」を寄稿する。
7月、山地悠一郎が、「護良親王の伝説」を「近藤出版社」から刊行する。
1987 昭和62 3月、金井利平が「相模原市図書館「古文書室紀要」第10号」に「戦後相模原の変貌 −相模野における開拓事業の展開と推移数う−」を寄稿する。
1988 昭和63
1989 昭和64
(改元 月)
1月、金井利平が「相模原市農協」から「相模原開拓の歴史」を刊行する。
3月、金井利平が「相模原市図書館「古文書室紀要」第12号」に「農地改革 −終戦直後に於ける土地制度の変革と相模原農村−」を寄稿する。
1990 平成2
1991 平成3
1992 平成4
1993 平成5 10月、「相模原市農業協同組合」が「写真集 さがみ野の流れ」を刊行する。
1994 平成6
1995 平成7
1996 平成8
1997 平成9
1998 平成10
1999 平成11
2000 平成12
2001 平成13
2002 平成14
2003 平成15 4月、相模原畑地灌漑用水跡が「市登録有形文化財(建造物)」に指定される。
12月、「相武台歴史同好会(代表市川三郎)」が「畑地かんがい用水の今 相模野農民の夢のあとさき」を刊行する。
2004 平成16 10月、相模原市と相模原市立博物館が、相模原市制50周年記念展 相模原 −その開発と変貌−」を刊行する。 
2005 平成17
2006 平成18
2007 平成19
2008 平成20
2009 平成21
2010 平成22
2011 平成23
2012 平成24
2013 平成25
2014 平成26 3月、沖川伸夫が「年報 首都圏史研究 2013」に「戦後相模原における平和運動の萌芽 −小林與次右ヱ門と大山郁夫の出会い−」を発表する。
2015 平成27
2016 平成28 9月23日〜12月17日、相模原市公文書館(旧城山町役場)で「水なき台地と呼ばれた相模原台地の変貌」展を開催中
2017 平成29
2018 平成30
2019 平成31
2020 平成32
2021 平成33
    この年譜の九州製缶事件関連に際し名前の公表を伏せ、最後の最後まで、真実を貫き通した小林與次右ヱ門のみ、小林と名を表しました。 2016・8・10 保坂 
    尚、年譜では敬称を略させて戴きました。御容赦のほど宜しくお願い申し上げます。 保坂     「相ひ※」とは、小林与著 「相模ひろはら」の略
恐れ多いまとめ
 小林與次右ヱ門を語るには、どうしても「九州製缶事件」を取り上げなければならないと思っていました。でも、私はこの事件をあえて伏せることにしました。事件の真実は、彼の生涯を辿ることで十分に理解されると思ったからです。彼の生涯を年譜にして印刷をしますと、A3判縦で29頁となりましたが自分としましてはまだまだです。また、研究の中で、不明なところは赤字で調査要と書き込んでおきました。これから先、私も頑張って見ますが次の研究者の方々にもバトンタッチできるようにして、取りあえず現段階を発表させて戴くことに致しました。
 今、日本の周辺のある国で核実験が、何かをあざ笑うかのように平然と行われてしまいました。とても悲しい出来事です。もし、この世に小林與次右ヱ門が生きておられるとしましたら、如何でしょう。「即時核実験禁止の決議」を真っ先に提出されていたと思います。これは平和の尊さを誰よりも深く理解し、また感じておられたと思うからです。この想いは、農業問題、教育問題、工場誘致問題など、また私的にあっては、歌人としても、郷土史家としても同じではないかと思います。
 私は小林與次右ヱ門が成し遂げようと、奮闘努力したその想いを年譜に託し、ひとりでも多くの皆様にお伝えしたいと思いながら取り組んでまいりました。まだまだ未完成な部分もありますが、ひとりでも多くの皆様に知って戴きたいと思うのです。そうして、彼の悲願としてきたその深い想いを多くの皆様にひろめて戴きたいと思うのです。
          
     主な資料の確認を要する検討事項(研究課題)
大正2年 10月、鳩川農学校井上寅之助校長と共著で『新撰甘藷全書』刊行する
大正5年 
この年、大正2年から4年にかけて行われた「相模原開田調査(神奈川県内務部)」の結果が県議会に報告される。
      
「相模原開田引入路隧道予定線附近地質構造調査図表」を添付する。 所蔵 神奈川県公文書館
大正7年 4月、農商務省が、国の直轄事業として「相模原高原地質調査」開始する。
大正9年 
〇このころ横浜貿易新報嘱託通信記者(のちに正社員記者、東京朝日新聞通信記者を兼ねる。昭和3年1月の県会議員選の出馬まで)
大正10年 12月22・23日付、神奈川(朝日)新聞に「村の辻から」と題した記事が掲載される。
昭和3年 1月、淵野辺伊賀守忠臣説を発表する。
(横浜貿易新報1月15日〜2月にかけ 3回連載)
      
『淵野辺の竜像寺と伊賀守の事、逆臣か忠臣かこの二つの伝説』
昭和5年 12月、6日付、二回目の淵辺伊賀守忠臣説を発表する。
(横浜貿易新報12月6日から5回連載)
    
 『逆臣か忠臣か 淵野辺に由緒ある淵辺伊賀守と護良親王の御陵墓』
    12月16日付、
鎌倉宮の禰宜、田島仲康が4回に亘り反論を行う。(横浜貿易新報12月16日から4回連載)
   
  『淵野辺伊賀守義博と護良親王の御陵墓 ・・・・に就いての私の考査』
昭和6年  2月22日付、鎌倉宮の禰宜、田島仲康説に対する反論を行う。
(横浜貿易新報2月22日から3回連載)
    
 『再び淵辺伊賀守と護良親王の御事ども』
昭和6年 6月14日付、「横浜貿易新報」に農家副業として甘藷植え付けを奨励する。
       
甘藷の植付けについては、樺太の植物調査に加わった宮城鐡夫も行っているので「畝立植」についての有無 確認
昭和26年
 〇この年、建設省が発行した「国土総合開発」に安芸皎一、村上竜太郎、北村徳太郎の座談会記事が掲載される。
       国土庁図書館・国会図書館で確認したが該当記事見つからない 2016・10・3
昭和30年 11月26日、「広報相模原」に「11月28日は土地改良区選挙 畑地かんがい完遂のため こぞって投票を/

1月、「承和」に「雪寃心境  秋晴れりあした東を伏し拝む」を詠む。 再検討要 2019・6・18 保坂
       選挙違反が無罪と決まったときの句であろう。 「小林與次右ヱ門」 P15より

参考資料
定本 柳田國男集 第三十一巻 柳田國男 筑摩書房 発行 昭和50年8月(第7刷)
小林與次右ヱ門編纂委員会 小林與次右ヱ門  発行 昭和60年 4月 
小林与  相模ひろはら  編者 歌集「相模ひろはら」刊行委員会  発行 昭和33年11月
座間美都治 相模原農村とその人々 発行 昭和55年11月
伊倉二郎 相模原市民史 九州製缶事件物語  P340〜P348 発行 1997年6月 
相模原市史 第4巻  相模原市役所 相模原市長 河津勝  発行 昭和46年3月
相模原市史 第7巻  相模原市役所 相模原市長 河津勝  発行 昭和47年3月
相模原市史 現代資料編  相模原市(市史編さん室) 発行 平成20年3月
私たちの相模原 相模原市教育委員会 発行 平成元年3月(第9版改訂)
相模原市制50周年記念展 相模原 −その開発と変貌− 相模原市・相模原市立博物館 発行 平成16年10月
相模川辞典 平塚市博物館 発行 1994
年報 首都圏史研究 2013 沖川伸夫著 戦後相模原における平和運動の萌芽 −小林與次右ヱ門と大山郁夫の出会い−
相模原市立公文書館第7回企画展 「水なき台地と呼ばれた相模原台地の変貌」
  (相模原開田計画と相模原畑地灌漑事業) 展示目録 平成28年9月発行 相模原市立公文書館
山地悠一郎 護良親王の伝説 近藤出版社 発行 昭和61年7月
アサヒグラフ 発行 1954・10・20 「卆翁かくの如く」
           原宿と原宿用水 
           緑区おたく大賞応募 幻の相模野用水 
           横浜水道はじめて物語 
           中沢の飯場跡
           日本民俗学の古里・旧内郷村水田地帯を行く
           宮崎からの手紙・旧城山町にもあった畑地かんがい   
           津久井郷土資料室の早期再開を求める陳情書を相模原市議会議長に提出(否決)しました。
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